「You me」と一致するもの

CV & JAB - ele-king

 2010年代の電子音楽において「シンセサイザーの復権」は大きな要素ではなかったか。例えばエメラルズ(そして解散後のメンバーのソロも含めて)、あるいは初期のワンオートリックス・ポイント・ネヴァー、もしくはインターネット上のヴェイパーウェイヴ、シンセウェイヴ(ある者は有名になり、ある者はいつしか消えていった/またどこかで別の名前で再生しているはずだ)。
 それらシンセサイザー音楽は、もう一方の流行であったドローンやフィールドレコーディング、ミュジーク・コンクレート風のサウンドフォームとミックスされることで、いわゆる「00年代的な電子音響」とは違った「10年代的な電子音楽」を形成し提示していったように思える。

 それらの音楽を単に「シンセ音楽のリバイバル」と片づけるにしては、2010年代の同時代的なムードが強かった。シンセ音楽はあくまでフォームとしてのみあった。大切なのは共通する時代のムードである。
 なかでも〈スペクトラム・スプールズ〉からアルバムをリリースしたことで知られる3人組フォーマ(Forma)は、「エメラルズ以降」ともいえる10年代的なシンセティックな音楽を展開するバンドで記憶に残る存在だ。彼らのサウンドは80年代音楽をベースにしてはいるが、同時代的な音の明晰さがあった。彼らは2年前の2016年にも老舗〈クランキー〉からサード・アルバム『Physicalist』をリリースしている。

 その〈クランキー〉から、シンフォニックなサウンドとドローンを交錯させるアルバムをリリースしてきた作曲家がクリスティーナ・ヴァントゥである。電子音楽家とオーセンティックな作曲家の両方の才能を持つ彼女もまた00年代末期~10年代的なロマンティックなアンビエント/ドローンを展開した重要な存在といえよう。クリスティーナ・ヴァントゥがリリースした『No. 1』『No. 2』『No. 3』はティム・ヘッカーの近作と並び、現代的ロマンティック・ドローン音楽を考えていくうえで重要なアルバムである。

 そして今回、〈シェルター・プレス〉からフォーマのシンセストであるジョン・オルソー・ベネット(John Also Bennett)とクリスティーナ・ヴァントゥのコラボレーション・アルバムがリリースされた(「CV & JAB」名義)。これは2010年代後半のムードを決定付けるアルバムではないかと思う。シンセ音楽とドローンとミュジーク・コンクレートとニューエイジな環境音楽の交錯がここにあるからだ。
 本作の録音過程はいささか特殊である。シンプルな描線と点による極めてミニマムでポップな絵画作品と、マテリアルな即物性を表象するオブジェ作品などで知られるカナダ人アーティスト、ジン・テイラー(現在はフランスを拠点に活動。1978年生まれ。https://www.zintaylor.com/)の90メートルに及ぶパノラマ壁画的アート作品の前で披露されたライヴ・パフォーマンスを録音しているアルバムなのだ。もともと2パフォーマンスの演奏だったようだが、アルバムでは10トラック(曲)にミックスされている。

 ちなみに演奏はシンセサイザーとヴィジュアル・インストゥルメンツ(!)をクリスティーナ・ヴァントゥ、シンセサイザー、ピアノ、フルートなどをジョン・オルソー・ベネットが担当している。録音は2017年5月6日で、ドイツ・ミュンスター「Westfälischer Kunstverein」のミュージアムで行われたという。ミックスはジョン・オルソー・ベネット、マスタリングはラシャド・ベッカー(D+M)だ。演奏の模様は、ジョン・オルソー・ベネットのサイトに写真が掲載されている。

 “Cactus With Vent”、“Hot Tub”、“Large Suess Plant”へと展開される音のつらなり、“Brick With Modern Form (B. Hepworth)”に突如現れるピアノの清流のような響きなど、どの曲もシルキーな電子音と柔らかい環境音やノイズが折り重なる極上のサウンドスケープを展開している。
 聴いていると時間が浮遊していくような感覚になる。どこか連続と非連続が交錯するように訪れる音響感覚には、日本的な「無」の感覚で、不意に雅楽を思い出しもした。それはオリエンタリズムというよりも、現在の西欧において、このような空虚/無に近いアンビエンスを求めているからではないかと想像してしまう。時間意識が変容しているのだろうか。
 特に微かな電子音が波長のように、ミニマムに、生成する“Nub With Three Wraps Of Fabric”から、ラストの曲“Fingers Of Thought”の光の粒子のように舞い散るピアノの音響に本作特有のミニマルな空虚感が象徴されているように思えた。

 このようなアンビエンスは、むろんジン・テイラーのミニマルな絵画作品への共振という側面もあるだろうが、2017年に〈シェルター・プレス〉からリリースされたレーベル主宰者の一人フェリシア・アトキンソンのアルバム『Hand In Hand』にも(音楽性はいっけん違えども)近い美意識/感覚に思えた。
 つまり西欧の教会的なアンビエンスと、どこか「日本的」(むろんカッコに括った上でだが)な「無/空虚」感覚こそ、昨年以降の〈シェルター・プレス〉、ひいてはアンビエント音楽のモードではないか、と。

 いずれにせよこのユニットがそれぞれの活動とは別の個性を確立していることには間違いない。それは2017年にブルックリンの教会で開催されたイベント「Ambient Church」での演奏動画を観ても感じられた。ちなみにこのイベントにはフェリシア・アトキンソンやスティーヴ・ハウスチャイルト、ジョン・エリットなども参加している。

 現在の電子音楽が希求する「無」の感覚。それが「10年代的なものから20年代的なもの」への変化の兆しともいるのかどうかは分からない。
 が、『ZIN TAYLOR ‘Thoughts Of A Dot As It Travels A Surfac』を聴いていると、アンビエント的な反復・持続「だけ」ではないにも関わらず、とても落ち着いた気分にもなる。この「変化するがスタティックな感覚」が、現在のアンビエント/アンビエンス感覚ということもまたひとつの事実に思えてならないのだ。

interview with yahyel - ele-king


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 マウント・キンビーとの出会いが大きかったようだ。
  海外と日本とのあいだにある音楽的な乖離、それに対する苛立ち。そのギャップは何よりもまず音そのものによって乗り越えていくしかない、だからあくまでサウンドで勝負をかけること、そのために匿名的であること――1年前までのヤイエルを簡潔に言い表すなら、そうなるだろう。海外からは奇異なものと見なされ、逆にここ日本ではその音楽性ゆえに浮いてしまう。ヤイエルはその名のとおり宇宙人だった。そのような疎外感は本作でも1曲目冒頭の「I'm a stranger」という言い回しに表れている。しかし今回は少しばかり様子が違う。なんと言ってもタイトルが『Human』だ。宇宙人はいま、人間になろうとしているのだろうか。
  彼らのセカンド・アルバムを再生すると、まずはサウンド面での変化が耳に飛び込んでくる。もたつくように揺らぐリズム、ぶんぶんと唸りを上げるベース、研ぎ澄まされた音色/音響――それら鋭さを増した音の数々に耳を傾ければ、彼らが前回以上に貪欲にさまざまな種類の音楽を吸収してきたことがわかる。
  にもかかわらず、本作の核を成しているのはむしろ言葉のほうだ。実験的なサウンドのうえに乗る池貝峻のヴォーカルは、さまざまな葛藤や迷いを偽ることなく丁寧に歌い上げる。「私はよそ者」というフレーズで幕を開けたはずのこのアルバムは、そして、「愛する者たれ」というメッセージを放って幕を閉じる。自らが理解されない、あるいは周囲と異なっているという感覚それ自体はそれこそロマン主義の頃から脈々と続くものではあるけれど、彼らはそれを「愛」のレヴェルにまで運んでいく。
  最終曲“Lover”は、そのグランジのようなイントロからしてすでに他の曲と異なる趣を醸し出しているが、リリックはアルバム全体の流れを、とりわけ直前の“Pale”を踏まえた内容になっており、主人公は逡巡のループからの脱出を試みる。前へ進むためには選ばなければならない。選ぶためには捨てなければならない。だからこそ、そこで捨てずに選びとったもの、すなわち「生き残ったもの」を自信をもって愛さなければならない――それがヤイエルの呈示する「Human」の姿だ。
  この着想は、昨秋共演したマウント・キンビーとの交流のなかで芽生えたものだという。そういう意味でこのアルバムは、マウント・キンビー『Love What Survives』に対する最初の大きなリアクションと呼ぶこともできる。かつての宇宙人は「愛」を知り、いま人間になろうともがいている――逡巡に折り合いをつけたヤイエル第2章、その幕開けに盛大なる拍手を。


匿名性がうんぬんとか、音の部分でも海外の誰それに似てる/似てないとか、良い/悪いとか、ほんとうにどうでもいい部分だけが取り上げられちゃって、それがすごく苦しかったんですよ。

池貝さんはいわゆるふつうの仕事と並行して音楽活動をされていますが、音楽のほうは仕事ではないべつのものとしてやっている感覚でしょうか? あるいは、同じ仕事だけど質の違うものでしょうか?

池貝峻(以下、池貝):そこはそんなに考えたことはないかもしれないですね。逆に言えば僕はふつうの仕事も、そういうふうに(べつのものと)思ってやるのが嫌なんですよ。ただ、決定的に違うのは音楽は表現活動ですし、僕はそれがちゃんと支持を得て人に届くこと自体がすごく大事なことだと思っていて。仕事だとすごく客観的になりますよね。だから、社会のなかで個人が声を上げてそれを最大化させてもいいんだってこと自体がすごく意味があることなんじゃないかなと思いますし、むしろそれがなかったら意味がないし、それこそがやりたいことですね。結果的に仕事であるかないかは、二の次ではありますよね。

ふつうの仕事でも、クリエイティヴに頭を使わなければいけない場面はありますよね。

池貝:もちろんアイデアをひねることはあるんですけど、それは客商売なので。僕にとって音楽は客商売じゃないんです。というか客商売になったらつまらないなと思いますね。

聴いてくれる人たちのことを想定することはあまりない?

池貝:ないですね。僕は届く人を想定して書きたくないんです。そうやって客商売にしちゃうと、受け取り側の聴き方をこっちで定義しちゃうような気がして。それは僕らがやる仕事じゃないというか。でも、(聴いている人が)生きやすくなったらいいなと思って書くことはあります。僕は人間関係が希薄な状態がつらいんで。誰も本音で喋らなかったり、人が何かの都合で簡単に変わっていってしまったりとか、そういうことが嫌な人間なんですよね。だから自分の意思がちゃんと出せて、人間らしい生活を送れる世の中になったら良いなという思いはありますけど、でもべつに音楽でそれを変えてやろうとかは思ってないですね。

その話はまさに『Human』に繋がりますね。前回取材させていただいたときに強調していたのは、海外と日本との音楽的なギャップについてでした。だから『Flesh and Blood』ではあえて顔を伏せて音で勝負する、という形だったと思うのですが、今回の新作を作るうえでのいちばんの動機はなんだったのでしょう?

池貝:初作のときのフラストレイションはある意味では客観的だったかなとも思っていて。コンプレックスがある/ないって当たり前のことじゃないですか。まずそういう事実としてあることを客観的に提示することで、それを語らざるをえない状況にしたいと思っていたんですよ。たぶん「なんで誰もそれを話さないの?」みたいな視点でしたね。でも、僕らの顔を出すということはそれ自体がエゴだなと思っていたので、そういうことをせずにその問題だけを語るという状況になれば、その事実が変わるんじゃないかと思ったんですね。だからある種の怒りもあったと思います。
  ただ、アルバムを出したら逆に匿名性がうんぬんとか、音の部分でも海外の誰それに似てる/似てないとか、良い/悪いとか、ほんとうにどうでもいい部分だけが取り上げられちゃって、それがすごく苦しかったんですよ。自分とはまったく違うことが語られているような感じで。言いたいことは最初から何も変わっていなくて、僕の主観だったり僕が人間的な感覚を持っていることそれ自体がすごくユニヴァーサルな話だと思うんですよ。人種のステレオタイプとかコンプレックスとかそういうものを一回置いておいて、ふつうに人間的な感覚の部分に関して言えばどこの国だろうとそんなに変わらないと思うんですね。初作ではそういうユニヴァーサルな部分を出したかったし、それと同時に東京に生まれていまこの時代を生きている人の感覚はこうなんだよというところにフォーカスしたかったんです。
  でもそこまで行かなかった。それは僕らの実力不足ですね。単純に音が良くないから、そこまで訴えかけるものがないんだろうなと。僕らの音楽がほんとうに良いもので新しいもので「これしかない」と思ってもらえているんだったら、そもそもそういう話なんて出てこないですよね。だからその実力不足についての自責の念みたいなものがこの1年ずっとあって、そういう評価を受けるたびにちょっと傷ついていったというか。なので今回それにどうやって向き合うかとなったときに最初から決めていたのは、個人のことを話そうということでした。とにかく自分のことを突き詰められれば良いなと。そこに責任を持てて言い訳のないものを作ろうと思ったんですよね。だから『Human』には、ファーストを出して以降苦しかった時間のなかで、僕らがどういうふうにその人生と折り合いをつけてきたのかということが出ていますね。表現者としての立場を与えられて認知もされてきた自分たちの、当事者的なドキュメントみたいな側面が今回のアルバムにはすごくあるのかなと思っています。

孤独じゃないって状態はないと思うんですよ。だって最終的には自分しか自分の考えていることはわからないですし、他人と100%わかりあえるということはないですよね。連帯感みたいなものだって結局は自分の主観ですし。

リリックを1曲目の“Hypnosis”から順に追っていくと、物語のようになっていますよね。それがそのドキュメント性ということでしょうか?

池貝:そうだと思いますよ。そのときそのときの感情が出ているし、曲が進むごとにちょっとずつ選択していると思うんですよ。これを得たらこれを捨てないといけない、じゃあ何を選ぶのか、みたいな。そのなかで、「自分は一度こうやって逃げなきゃいけなかった」というような弱い部分も出ていると思うんですよね。前回のアルバムではつねにひとつの視点から怒っていたんですけど、今回は自分も含めて人間ってそもそも弱いものだし、結局この人の選択というのは自分の選択と表裏一体なんじゃないかという疑問も含めて、行ったり来たりしていると思います。その過程で何を見つけていくのかというのがちょっとずつ解き明かされていくというか、ようするにこの1年間の思考の流れがよく出ているなと思いますね。

1曲目“Hypnosis”は「I'm a stranger」から始まりますし、3曲め“Rude”の「あなたは正義で、私は愚かである」や、7曲目“Body”の「Who defies」などのフレーズから、このアルバムの主人公はすごく孤独に思えたんですが、池貝さんご自身は孤独ですか?

池貝:僕が孤独というより、結局みんな孤独なんですけど、そのなかでどう折り合いをつけるかなんじゃないですかね。孤独じゃないって状態はないと思うんですよ。だって最終的には自分しか自分の考えていることはわからないですし、他人と100%わかりあえるということはないですよね。連帯感みたいなものだって結局は自分の主観ですし。だから今回のアルバムは主語を「I」にしようと思って。前回のアルバムはけっこう「we」が多かったんです。というのも、そのときはすごく自信があったんですよね。さっきも言ったように、自分の感覚自体がファクトだと思っていて。

前提として他の人も感じているものだと思っていた?

池貝:はい。「みんな、わかってるでしょ?」みたいな感覚があったので、主語が「we」になっていた。でも初作を出してどうしようもない感覚を得た結果、そもそもみんながそう思っていることなんてありえないんだなと。事実があってもそれをごまかして生きていかないといけない人もいるし、それはそれで弱いと思う。結局みんなそれぞれの思想に従属するしかない。そこで「we」とか言っていてもしょうがないなと(笑)。ちゃんと「I」で語らないとなと思ったんですよ。

なるほど。僕は最初の「stranger」からカミュの『異邦人』を思い浮かべたんですよ。主人公は母親が死んでもなんとも思わなくて、最後は死刑になるんですが、周りから理解されないことを彼はとくに気にしていない。そういうじめじめした感じじゃない「理解されない私」みたいなニュアンスが、このアルバムにもあるのかなと。

池貝:それはあると思います。僕はけっこう人への期待値が高いんですけど、自分の感情は「どうでもよくね?」となっちゃうタイプの人で……いや、難しいのでわからないですね(笑)。

人への期待値が高いというのは、「これくらいはやってくれるだろう」とか「わかってくれるだろう」ということ?

池貝:なんですかね。みんなそれぞれ感覚があって、それに沿って生きていて、わかりあうことはできないけど、「あなたはあなたで意見があるでしょ?」という期待値がすごく高くて。「俺のことを理解できるわけがない」と思いつつ、「俺がどう思っているかが大事なわけじゃなくて、でも俺はこう思っている」というようなコミュニケイションを期待しがちなんですよね。みんな持っていると思っているんで(笑)。だからじめじめはしていないかもしれない。

篠田ミル(以下、篠田):前作と比べて池貝は、ポジティヴな意味で人への期待値を下げたと思うんですよ。さっきの「we」の話もそうなんですけど、自分の感覚が普遍的にみんなの感覚だと思っていたことに対して折り合いがついたというのは、つまり人への期待値の部分にも折り合いがついたということだと。傍から見ていて、池貝は自分の考えが相対的なひとつの考え方でしかないということに気づいたんだなと思ったんですよね。そのなかで「自分がどう思っているかも自分は自分で書くからいいよ」というスタンスになったんだなと思いますね。

前回は匿名性があったのに対し、今回はひとりの人間の思いに焦点が当てられていて、ある意味でポストモダンからモダンに回帰したという印象を抱いたんですが、どう思われますか?

篠田:逆だと思いますけどね。モダンって絶対的なイデオロギーだったり、何かしら「大きな物語」があったりして、それにみんなが誘導されているというものだから、それはガイ(池貝)の言う普遍的な価値観だったり「we」みたいなものがあるということだと思います。だとすると、セカンドのほうがみんなそれぞれに相対的な解があるという話になっているので、完全にポストモダンで、逆ですね。


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捨てたからには選んだものを自分の意志で愛さないと、残ったものを愛していかないと前には進めないんだなとそのときに思ったんですよね。


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サウンドに関して、今回は“Rude”や“Pale”、“Battles”の後半部分のようにリズムがもたつく曲が増えたと思うのですが、それはリリックの変化ともリンクしているのでしょうか?

池貝:どちらかと言うと今回は表現にフォーカスしていこうと思ったんですね。前回のときは、日本のすごくドメスティックな状況に、ふつうに海外のオンタイムな音楽を持ってこられるかどうかということ自体がある種のメッセージみたいになっていて、「やれないわけないじゃん」という思いがあったんですけど、今回はとにかく自分たちが言いたいこと、自分たちの正解を探そうというプロセスで音を選んでいますね。もちろん、あとから分析したら「あのときはあれを聴いていたな」とかいくらでも理由はつけられると思うんですけど、基本的に今回の制作では言いたいことにフォーカスしています。

今回はベースがぶんぶん鳴る曲も増えたように思います。“Polytheism”や“Body”、“Iron”とか。

池貝:そうですね。去年1年間はたしかにしんどかったんですけど、ヤイエルとしてはかなり濃密な時間を過ごしていたし、われわれが5人でやるとどうなるのか、やりたいことはなんなのか、われわれの色味はなんなのか、みたいなところをひとつひとつ5人で共有してきたので、映像も含めてそれがすごく強固になった、その過程でそういう音選びがされたということだと思います。

篠田:ベースとか音選びに関して言えば、やっぱりライヴから還元された部分がすごく大きくて。以前からライヴではわりと暴力性みたいなものが5人の共通認識としてあったにもかかわらず、『Flesh and Blood』にはそこがあまり落とし込められていなかった。そのとき聴いていたものの影響だとは思うんですけど、僕たちのなかでもインディR&B的なサウンドとベース・ミュージックとのあいだで揺らぎがあったと思うんです。自分たちがどこにいるのかわかっていなかったというか。それがライヴからの還元が入ることによって、R&B的なメロウやスムースみたいなものから離れていって、自分たちのアイデンティティがわかってきたということもあって。そういうライヴでやってきたような暴力性をいかに閉じ込めるかというところでの選択として、ベースがああいう音になったというのはありますね。

“Iron”は曲のなかで壊れていく感じがあって、もしかしたらこのアルバムのなかでいちばんの肝なんじゃないかと思いました。

篠田:それはほんとうにおっしゃる通りで、“Iron”は制作の初期段階でできた曲なんですよ。あの曲がわりと指標になっていて。


去年の夏にシングルとして出した曲ですよね。10月にマウント・キンビーとやったときにはもうアルバムはでき上がっていたんですか?

篠田:ほぼほぼでき上がっていました。

池貝:でもまだぜんぶはでき上がってなかったですね。最後の曲(“Lover”)はマウント・キンビーとのライヴのあとに書きましたよ。その曲にはマウント・キンビーのメンバーと話していたことがすごく反映されていますね。

最後の曲(“Lover”)はグランジっぽい感じで始まって他とは雰囲気も違いますし、9曲目の“Pale”と「ループ」という言葉で繋がっていて、9曲目では「戻れない」「諦めろ」だったのが、10曲目ではそこから脱出しようとしています。アルバムの最後にこの曲を持ってきたのには特別な意図があったのですか?

池貝:いや、“Pale”までやった時点で「そういうことか」と気づいたところがあって、結局逃れられないのって捨てていないからだと思ったんですよ。“Pale”はそういう曲なんです。取捨選択をしない状態ではループからは逃れられないというか。それで、先に進むためにはどうするのかという曲が“Lover”なんです。べつに愛情がどうこうみたいな話じゃないんですよ。単純に、残ったものを愛するしかない。マウント・キンビーの前回のアルバムは『Love What Survives』でしたよね。それとまさに同じことで、捨てたからには選んだものを自分の意志で愛さないと、残ったものを愛していかないと前には進めないんだなとそのときに思ったんですよね。
  マウント・キンビーとライヴをして、最後にメンバーと話したんです。「東京ってこういう街で」とか、ヨーロッパに対するコンプレックスとか、そもそも誰も本音を話したがらないからブレイクスルーがないとか、いまの「海外から来たものはなんでもいい」みたいな状況とか、日本人の海外の人たちへの丁寧な感じというのは見栄でもあり「ストレンジャー」としてのおもてなしみたいなものなんだ、というような話をして。「俺は、そういうこと自体がコミュニケイションを遮断しているから嫌で嫌でしょうがなくて、そこが制作の肝になっている」という話をしたら、カイ(・カンポス)が「それは俺らもわかっているけど、そもそも俺らは何もできないじゃん。でも俺らも同じような表現者としての壁があるし、イギリスから来たイギリスの音楽みたいなものへのステレオタイプもあるし。みんな出自みたいなものは持っていて、それを変えられないということは同じだし、折り合いをつけなきゃいけないときが来ると思うよ」と言って。僕はそれですごく納得したんですよね。
  この1年間オーディエンスに対するアティテュードの部分ですごく混乱していて、われわれに居場所を与えてくれている人たちのことがすごくありがたかった反面、彼らは俺らのことを話していないという感覚もあったので、どうしたらいいかわかんなくなっていたんです。だから、ステージに立つ側にいる人が同じような感覚を持って表現していたこと自体が僕にとってすごく救いだった。僕らはマウント・キンビーのことが好きで聴いていましたし、最初のアルバムの制作時には影響を受けていたと思うんですけど、じっさいに会ってみて、音だけで勝負できる媚びないアーティストってそういう部分をちゃんと掘っているんだなと思いましたし、自分のアウトプットに自信があるのはそれがちゃんとリンクしているからなのかなと。それで、自分たちも当事者としての責任と覚悟を持たないといけない、それはある意味では自分がいちばん大事にしているものを捨てなきゃいけないということだし、そのことにちゃんと自覚的になったうえで最期は自分の選択を信じないといけない、と思ったんですよね。だから最後の曲が“Lover”になったんだと思います。


しょせん音楽なので、それが表現としてあるということ自体がたいせつなことであって、音楽で影響を与えられるみたいなことっていまとなってはすごくくだらないと思うんですよね。

ではそこで捨てたものとはなんでしょう?

池貝:ちょっとまだわかんないんですけど、もしかしたら人を変えられるということ自体を諦めたのかもしれないですね。しょせん音楽なので、それが表現としてあるということ自体がたいせつなことであって、音楽で影響を与えられるみたいなことっていまとなってはすごくくだらないと思うんですよね。ちゃんと自分のことを言うことのほうが大事だと思いますし、コンプレックスみたいなものに対していつまでも怒っていてもしょうがないし、自分たちがちゃんとストイックになって良いものを作って、その先で開かれる扉みたいなものを見たいと思うんですよね。

アルバムを締めくくる「Be a lover」という言葉は、自分自身に対して言っているところもある?

池貝:自分自身に向けてでしかないと思います。自分ですよ(笑)。でもこれはちゃんとして行動の選択だと思っていて。

訳詞だと「愛せ」と動詞になっていますが、直訳すると「愛する者であれ」という感じですよね。愛する「人」であれ、というところがおもしろいと思いました。

池貝:ほんとうにそうだと思います。選択と行動をとる人間でありたいと思うので。

じつは編集長からひとつ質問を預かってきているんですよ。いまの時代ほど「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」(早川義夫)と思いませんか?

池貝:ははは。そうなんですよね。ほんとうにそうだと思います。ますます正直な人が損をする世の中ですよね。

それはたしかに感じますね。

池貝:このアルバムで人間って首尾一貫していないし、何かを選択しないといけないという結論を出しておいてなんなんですけど、僕は首尾一貫している人のほうがぜんぜん好きなんですよ。移ろっていく人って僕はなんかつらくなっちゃうんですね。だから苦しいわけで、そういう一貫したかっこいい人がいる時代もあったような気がするんですけど、僕らはもうそういう感覚のなかに生きられない。情報量が多すぎるし、個人的には言い訳が多すぎると思う。だからまさにおっしゃる通りで、結局かっこいいことがかっこ悪くなっちゃうんですよね。ファクトを言っちゃうとかっこ悪いみたいな(笑)。

篠田:難しいね。

ダサく見えちゃうということ?

池貝:言い訳がなくなるのが怖いんじゃないんですかね。でもそれも含めて「自分はそう思う」ということを選択していかなきゃ僕は無理だったんで、自己肯定も必要だとは思うんですよね。それがいかに宗教らしくなろうとも、自分が考え抜いて出した結論を愛するということしかできないんじゃないかなと。かっこ悪くなっちゃうというのもわかりますけど、それを捨てるというのもひとつの結論なんじゃないかと思います。でもすごくわかります(笑)。

首尾一貫している人のほうが好きというのはおもしろいですね。たぶん一般的には「不完全でダメだよね、だから人間って素敵だよね」みたいなことを言う人のほうが多いと思うんです。

池貝:僕はその弊害もあると思っているんですよ。「不完全であることが良いこと」みたいにフォーマットになってきちゃっているけど、それってあらかじめ定義されていることになりますよね。人間の自然な姿の結果があって、それが不完全だから魅力だよねという話ならわかりますけど、そこを目指すということの弊害はあると思いますね。

篠田:そうだね。不完全だから魅力的なんじゃなくて、完全にしようと目指しているんだけど結果的に不完全になってしまう、だからこそようやく魅力的になるんだという気がします。池貝も横で見ていてそういう感じがあるというか、俺は一貫しているんだよねって振りをしているんですけど、そんなことないし、『Human』にはそれが表れてしまっているところがおもしろいと思うんですよね。

Oneohtrix Point Never - ele-king

 昨年は映画『Good Time』の劇伴坂本龍一のリミックスを手がけ、最近ではデヴィッド・バーンの新作に参加したことでも話題となったOPNが、5月にNYで開催されるライヴのトレイラー映像を公開しました。これ、新曲ですよね。しかもチェンバロ? 曲調もバロック風です。この急転回はいったい何を意味するのでしょう。そういう趣向のライヴなのか、それとも……。

ONEOHTRIX POINT NEVER
5月にニューヨークで行われる大規模コンサートの
トレーラー映像を新曲と共に公開!

昨年、映画『グッド・タイム』でカンヌ映画祭最優秀サウンドトラック賞を受賞したことも記憶に新しいワンオートリックス・ポイント・ネヴァーが、【Red Bull Music Festival New York】の一環として5月22日と24日にニューヨークで行われる最新ライブ「MYRIAD」のトレーラー映像を公開した。ダニエル・ロパティン(ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー)自らディレクションを行い、その唯一無二の世界観が垣間見られる2分間の映像には、ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー名義の新曲も使用されている。

Oneohtrix Point Never - MYRIAD
https://opn.lnk.to/MyriadNYC

Video by Daniel Swan and David Rudnick
Directed by Oneohtrix Point Never
Animation by Daniel Swan
Produced by Eliza Ryan
Videography by Jay Sansone
Additional Animation by Nate Boyce
Thrash Rat™ and KINGRAT™ characters by Nate Boyce and Oneohtrix Point Never
Engravings by Francois Desprez, from Les Songes Drolatiques de Pantagruel (1565)
Additional Typography by David Rudnick

本公演が開催されるパークアベニュー・アーモリー(Park Avenue Armory)は、以前は米軍の軍事施設だった場所で、ライブが行われるウェイド・トンプソン・ドリル・ホール(Wade Thompson Drill Hall)は航空機の格納庫のような巨大なスペースである。当日にはスペシャルゲストやコラボレーターも登場し、ここでしか体験することのできない特別なライブ・パフォーマンスが披露されるという。

ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー|Oneohtrix Point Never

前衛的な実験音楽から現代音楽、アート、映画の世界にもその名を轟かせ、2017年にはカンヌ映画祭にて最優秀サウンドトラック賞を受賞した現代を代表する革新的音楽家の一人。『Replica』(2011)、『R Plus Seven』(2013)、『Garden of Delete』(2015)と立て続けにその年を代表する作品を世に送り出してきただけでなく、ブライアン・イーノも参加したデヴィッド・バーン最新作『American Utopia』にプロデューサーの一人として名を連ね、FKAツイッグスやギー・ポップ、アノーニらともコラボレート。その他ナイン・インチ・ネイルズや坂本龍一のリミックスも手がけている。さらにソフィア・コッポラ監督映画『ブリングリング』やジョシュ&ベニー・サフディ監督映画『グッド・タイム』で音楽を手がけ、『グッド・タイム』ではカンヌ・サウンドトラック賞を受賞した。


label: Warp Records / Beat Records
artist: Oneohtrix Point Never
title: Good Time Original Motion Picture Soundtrack

cat no.: BRC-558
release date: 2017/08/11 FRI ON SALE
国内盤CD:ボーナストラック追加収録/解説書封入
定価:¥2,200+税

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beatink: https://www.beatink.com/products/detail.php?product_id=4002
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iTunes Store: https://apple.co/2rMT8JI


label: Warp Records / Beat Records
artist: Oneohtrix Point Never
title: Good Time... Raw

cat no.: BRC-561
release date: 2017/11/03 FRI ON SALE
国内限定盤CD:ジョシュ・サフディによるライナーノーツ
ワンオートリックス・ポイント・ネヴァーとジョシュ・サフディによるスペシャル対談封入
定価:¥2,000+税

【ご購入はこちら】
beatink: https://www.beatink.com/products/detail.php?product_id=9186
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tower records: https://tower.jp/item/4619899/Good-Time----Raw
hmv: https://www.hmv.co.jp/artist_Oneohtrix-Point-Never_000000000424647/item_Good-Time-Raw_8282459

Shuttle358 - ele-king

 エレクトロニカ/電子音響以降のアンビエント・ミュージックに「物語」は希薄だ。いや、「コンセプト」すらない。音の生成があるのみだ。むろん変化はある。生成/変化だ。しかしその変化はミニマルでなければならないし、音響のトーンはスタティックでなければならない。意味ではなく、音。その空白と音響のバランスの追求。空虚という存在ほど、人間社会への強い問いかけもないだろう。その意味でエレクトロニカ以降のアンビエントは反転した存在論的なサイケデリック音楽といえなくもない。

 テイラー・デュプリーが主宰する〈12k〉がリリースするアンビエント作品を聴いていると、ふと「写真」のようだと思うときがある。むろん彼が優れたフォトグラファーで、その作品がアートワークに使われているからそう感じるのかもしれない。しかしそれは具体的なイメージというより記憶に一瞬だけ残っている光景/感覚に近い。記憶の音楽としてのアンビエントとでもいうべきか。物語性は希薄だが人間の繊細な感覚は封じ込めている。記憶。瞬間。反復。生成。
 シャトル358の新作『Field』を聴いたときも、そのような感覚を持ったものだ(ああ、〈12k〉の音だと思った。それも00年代初頭の頃の……)。しかし人の記憶に「棘」があるように、その音もまた単に優しいだけではない。彼の音に美しい「棘」がある。これが重要だ。新しい彼の音は意外なほどに「硬い」。

 シャトル358は、本名をダン・エイブラムスという。 彼は90年代末期から活動を始めたエレクトロニカ・アーティストだ。1999年に〈12k〉から『Optimal.lp』、00年に『Frame』、02年に『Understanding Wildlife』、04年に『Chessa』を継続的にリリースし、そのクリック&グリッチ・アンビエントな作風から初期〈12k〉を代表するアーティストと目されてもいた。また、ダン・エイブラムス名義では01年に〈ミル・プラトー〉から『Stream』という優れたグリッチ・ミニマルな作品をリリースしている。これもなかなかの名盤だ。
 だが、04年の『Chessa』をリリース後、アルバム・リリースは2015年の復活作『Can You Prove I Was Born』まで9年間ほど途絶えることになる(14年に50部限定のシングル「CYPIWB.12"Lmtd」を〈12k〉からひっそりと出してはいるが)。この04年から15年までのあいだ、クリック&グリッチなエレクトロニカはアンビエント/ドローンへとその潮流を変えていった。グリッチがアンビエント化したのだ。それは時代の変化でもあったし、どこか寂しくもあった。まだまだ00年代初頭のエレクトロニカのミニマリズムには可能性があると思っていたから。
 それゆえ『Can You Prove I Was Born』における「復活」は自分にとって、とても大きかった。ゼロ年代エレクトロニカの失われたピースが埋まったような気がした。じじつ『Can You Prove I Was Born』はオーガニックな響きのグリッチ・エレクトロニカ/アンビエントであり、多いに満足したのである。

 と、ここまで書いてきて前言を翻すようだがシャトル358の音楽のルーツはアンビエント・ミュージックではなく、ミニマル・テクノであろう。そう、先に書いたようにドローン・ミュージックでは「ない」点が重要なのだ。
 彼の音楽にアンビエント的なアンビエンスを感じられるのは、ミニマル・テクノを基礎としつつも、さまざまな音響(グリッチや環境音など)によって、その基礎となっている「テクノ」が多層的に存在する感覚があるからではないかと思う。とはいえ〈12k〉主宰のテイラー・デュプリーもミニマル・テクノ出身であることを考慮すると90年代/グリッチ以降のエレクトロニカ・アンビエントは、そもそも、ミニマル・テクノの一変形だったといえないか(そう考えみると今のテイラー・デュプリーのドローン音楽にも別の光が当てられるはず)。

 シャトル358の新作『Field』もそうだ。ドローン・タイプのアンビエントではなく、さまざまなサウンド・エレメントがミックスされることでアンビエンスな音楽/音響を獲得するクリック&グリッチなアンビエント/エレクトロニカであったのだ。
 アルバム冒頭の“Star”ではテクノの微かな名残のようなキックのような音が分断されるように鳴り、そこに何かを擦るような音、微かなノイズなどがレイヤーされる。加えて変調されたようなシンセのパッドや環境音も鳴る。その音のトーンとざわめきに耳が奪われる。
 続く“Caudex”ではミニマルなベースに、柔らかいシンセとミニマムなノイズや環境音が折り重なり、覚醒と陶酔と睡眠を同時に引き起こす。以降、アルバムはシンセの透明な音とオーガニックな響きのサウンド、デジタルなサウンドと環境音のレイヤーが交錯しつつ、一定のスタティックなトーンで展開していく。
 中でも特筆すべきはタイトル・トラックの“Field”だろう。ミニマルな電子音のループに、オーガニックな音の粒がレイヤーされ、光の反射のような電子音が鳴る。比較的短いトラックだがグリッチ・アンビエントの最高峰ともいえる出来栄えだった。
 また、アンビエント/ドローン的な音響からクリッキーで微細なノイズや環境音が精密にレイヤーされ、オーガニックなムードで音響空間を拡張していく“Sea”、“Dilate”、“Waves”、“Divide”というアルバム後半の流れを決定付ける曲でもあった。

 本作『Field』を聴くと00年代初頭のミニマルで、クリッキーで、グリッチなエレクトロニカ/電子音響の継承を強く感じた。まるで00年代頭の〈ミル・プラトー〉のアルバムのようである。これはむろん懐古ではない。あの時代のエレクトロニカ/電子音響(の方法論)は、決して古びることのない質感と情報量を持っていることの証明ではないか。ここにあるのは、大袈裟な「物語性」ではなく、サウンドの質量/質感を追及するソフト・ノイズな音楽である。何より大切なのは「音」そのものだ。それは空白のミニマル・サイケデリックともいえる音かもしれない。
 そんなシャトル358の新作『Field』は、増殖する「意味」の中で、ある種の電子音楽が再び飽和しつつある今の時代だからこそ聴かれるべき音ではないかと思う。こういった空白のような音楽が、耳には必要なのだ。

interview with Chris Carter - ele-king

 未来なんてわからないものだ。当人たちも驚いているように、昨年のTG再発における反響は、1979年の時点では到底考えられないことだった。しかしながらTGサウンドは、40年という歳月を生き抜いたばかりか、さらにまた評価を高め、新しいリスナーを増やしている。制度的なアートやお決まりのロックンロールを冒涜した彼らがわりと真面目に尊敬されているという近年の傾向には、もちろん少々アイロニカルな気持ちも付きものではあるが。

TGはどこかに帰属することの観念から得られるいかなる快適さを感じさせるような音楽ではなかった。
──ドリュー・ダニエル


Chris Carter
Chemistry Lessons Volume One

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 そう、快適な場所などまやかしだといわんばかりだ。そして、ことに311以降の、政治的に、そして経済的に、あるいは環境的にと、あらゆる場面に「死」が偏在する現代を生きるぼくたちにとって、TGはもはや故郷である。その伝説のプロジェクトにおけるエンジン技師がクリス・カーターだった。彼の手作りの機材/音響装置によってTGは自分たちのサウンドをモノにしているのだから。

広く知られているように、TG解散後、クリス・カーターは元TGの同僚であり妻でもあるコージー・ファニ・トゥッティとのプロジェクト、クリス&コージーとして長きにわたって活動した。近年は、カーター・トゥッティと名義を変えて作品を出している。このようにクリス・カーターは長年活動しながら、しかし滅多にソロ作品を出しておらず、この度〈ミュート〉からリリースされる『ケミストリー・レッスン・ヴォリューム・ワン』がソロとしては5枚目となる。

  念入りに作り込んでしまったがゆえの退屈さ、そして未完成であるがゆえの面白さ、というのはたしかにある。『ケミストリー・レッスン・ヴォリューム・ワン』に収録された25曲には、素っ気ない不完全さがある。画集にたとえるなら、書きかけの絵ばかりが並んでいるようだ。しかし描きかけの絵の面白さというのは確実にある。

あるいはこれはアイデアのスケッチ集なのだろう。通訳(および質問者)の坂本麻里子氏によれば、「科学者とか研究者、大学講師と話しているような気分」だったそうで、クリス・カーターのような冷静な人がいたからこそTGという倒錯が成立したのだ。実際、彼はぼくたちの先生であり、アルバムはさながら研究所の実験レポートである。

それは先週末にも誰かと話していたことなんだけどね、「TGの音楽はかなりの長寿ぶりを誇るものだ」、という。で、初期TGのマテリアルの多くには、ある種のタイムレスなサウンドが備わっているんだよね。それがなんなのかは、僕にもわからない。TGのメンバーの間ですら、そのサウンドがなにか? を突き止められなかったからね。あれは相当に「ある瞬間を捉えた」という類いのものだったのに、でもどういうわけか歳月の経過に耐えてきた。

あなたがソロ・アルバムを発表するのはものすごく久しぶりなことですよね。そしてあなたはこれだけ長いキャリアのなかでソロ作品というものをわずか4枚しか出していないですよね? 

CC:うん、そうだね。

最後のソロ・アルバムが1999年の『Small Moon』になるんですか?

CC:ああ。

ではこのソロ新作は18、19年ぶりという。

CC:(苦笑)そうなるね。(独り言をつぶやくように)長くかかったものだ……

とにかく、ここまでソロ作品が数少ないのはなぜでしょうか? それはあなたの気質なのでしょうか? あるいは、ひとりで作るよりも共同作業が好きだからでしょうか? それともコージー・ファニ・トゥッティとの共同作業があなたにとっては表現活動の基盤になっているからでしょうか?

CC:ただ単に、僕は実に多くの(ソロ以外の)プロジェクトに関わっている、ということなんだけれども。

(笑)なるほど。

CC:いや、本当にそうなんだよ! だから、前作ソロが出た17、18年くらい前を思い返せば、あれはTGが二度目に顔を合わせて再結成する前の話だったわけだよね? 僕たちはあの時点ではまだカーター/トゥッティとして活動していたし、でもそこからTGが再び結集することになって……本当に長い間、僕の人生は再び稼働したTGに乗っ取られてしまったんだ。で、そのTGとしての活動が終わったところで、続いて今度はクリス&コージーが、なんというかまた動き出したし、それに伴い僕たちもクリス&コージーとしてツアーをやりはじめることになってね。
そんなわけで僕としては、あれら様々な他のプロジェクトの合間に自分自身のソロ・レコード制作をはめ込もうとしていたんだ。それに、クリス&コージーの後にはカーター/トゥッティ/ヴォイドが続いたし、また僕たちはリミックスや映画向けの音楽も制作していたからね。
というわけで、うん、基本的にはそれらすべてをこなすのが僕の日常的な「仕事」になっていた、と。だから、(苦笑)自分個人のソロ作品をやるための時間が残らなかったんだね。要するに、しょっちゅう脇に置かれて後回しにされるサムシングというのか、よくある「時間がなくていまはやれない、後で」という、そういう物事のひとつになっていたんだよ。(苦笑)まあ……僕はゆっくりとしたペースでこれらのトラックすべてを構築し、楽曲のアイデアを掴みはじめていった、と。だからソロ・アルバム向けのマテリアルに関しては、他の色々なプロジェクトの合間の息抜きとしてやるもの、そういう風に僕は取り組んでいたんだね。

各種プロジェクトにソロと、あなたは常になにかしらの作品に取り組んでいるみたいですね。

CC:(自嘲気味な口調で苦笑まじりに)そうなんだよねぇ……自分にはいささか仕事中毒な面があると思う。

「ソロ作をやろう」と思い立って一定の期間に一気に作ったものではなく、長い間かかって集積してきた音源を集めたもの、一歩一歩進めながら作った作品ということですね。

CC:ああ、そうだったね。アルバムに収録したトラックの一部は、かなり以前に作ったものも含まれているし……本当に古いんだ。そうは言ったって、さすがにいまから17、18年前というほど古くはないんだけれども。その時点ではまだこの作品に取りかかってはいなかったし。だから、それらは6、7年前にやった音源なんだけど、それでもかなり古いよね。

ソロ新作がこうしてやっと完成したわけですが、正直、いまの気分はいかがですか。

CC:エキサイトしているよ! 本当に興奮しているんだ。というのも、実に長い間、これらの音源は誰の耳にも触れないままだったわけだからね。もちろんコージーは別で、彼女は聴いたことがあったけれども。僕たちふたりは自宅に、居間とキッチンの隣にスタジオ空間を設けているからね。で、ちょっと一息入れたいなというときには、僕はスタジオに入ってモジュラー・システム作りに取り組んでいた。だからコージーは僕がどんなことをやっていたのか耳にしていたし、この作品をちょっとでも聴いたことがあるのは自分以外には彼女だけ、そういう状態のままだったんだ。とても長い間、何年もの間ね。そんなわけで、この音源を〈ミュート〉に送るまで、僕はちょっとしたバブルのなかに包まれていたんだよ。で、それは……そうだな、奇妙な気分だった。というのも、ある面では自分としても、あれらの音源を手放したくない、と感じていたから。

(笑)そうなんですか。

CC:だから、自分はそれだけ楽曲に愛着を感じていた、ということだね。あれはおかしな感覚だった。で、〈ミュート〉の方はなんと言うか……送った当初は、彼らからそれほど大きな反応は返ってこなかったんだよ。まあ、実際僕としても、それほど期待していたわけではなかったし。だから、「試しに音源を送って、彼らが聴いてどう思うか意見を教えてもらおう」程度のものだったんだ。そうしないと、この作品を聴いたことがあるのはやっぱり自分だけ、ということになってしまうし、その状態がずっと長く続いてきたわけだからね。で、いまのこの時点ですら……だから、ジャーナリストたちもようやく試聴音源を聴けるようになったところで、作品に対する彼らからのフィードバックを受け取っているんだよ。この作品についての第三者の意見は、本当に長いこともらっていなかったことになるなぁ……ただ、うん、いまはかなりエキサイトさせられているんだ。本当にそうだ。

長い間ひとりで大事にしまっておいた何かを遂に解放した、と。

CC:ああ。「遂に」ね(苦笑)。

ピーター・クリストファーソンがおよそ7年前(2010年)に亡くなりましたが、そのことと今作にはどのような繋がりがありますか?

CC:そうだね、なんと言うか、このアルバムのレコーディングには彼が亡くなる以前から着手していた、みたいな。僕はすでにいくつかのアイデアに取り組んでいたところだったし、スリージー(ピーター・クリストファーソンのあだ名)ともこのヴォーカルのアイデア、人工的なヴォーカルを使うという思いつきについて話し合っていたんだよ。ところが、そうこうするうちに彼が亡くなってしまった、と。それでなにもかもいったんストップすることになったし、彼の死から1年近くそのままの状態になっていたんだ。それくらいショックが大きかったということだし、少なくとも1年の間は、どうしても僕にはこの作品に再び戻っていくことができなかった。けれども、これらの音源に取り組んでいた間も、かなりしょっちゅう自分の頭の隅に彼の存在を感じていたね。だから、「スリージーだったらどう思うだろう?」、「スリージーだったらどうするだろう?」という思いはよく浮かんだ。
ただまあ……しばらく作業を続けていくうちに、やがてこの作品もこれ独自のものになっていった、と。でも、そうだね、彼の突然の死によるショックで、この作品をかなり長い間中断することになった。それは間違いないよ。

坂本:あなたとコージーはまた、ピーター・クリストファーソンが世を去る前から構想していた『Desertshore/The Final Report』(2012)を彼の死後に完成させましたよね。非常にコンセプチュアルな作品でしたが、様々なヴォーカリスト=異なる声を使っているという意味で、本作となんらかの繫がり、あるいは交配はあったでしょうか?

CC:いいや、それはなかったね。『Desertshore/TFR』は完全に独立した世界を持つアルバムだったし、あの作品向けのマテリアルの多くにしても、亡くなる直前まで彼が取り組んでいたものだったわけで。彼はかなりの間あの作品の作業を続けていたし、僕たちがパートを付け足したり作業できるようにと音源ファイルをこちらに送ってきてくれてもいたんだ。で、あれ、あのプロジェクトに関しては──僕たちとしても、あれ以外の他のもろもろとはまったくの別物に留めておこうと努めたね。というのも、彼には『Desertshore/TFR』に対するヴィジョンのようなものがちゃんとあったし、あの作品向けに彼の求める独特なサウンドというものも存在したから。で、彼が亡くなったとき、彼の遺産管理人が彼の使っていたハード・ドライヴ群や機材の一部を僕たちに送ってきてくれてね。そうすることで、僕たちにあのプロジェクトを完成させることができるように、と。

なるほど。

CC:そんなわけで、あのアルバムというのはちょっとしたひとつの完結した作品というか、それ自体ですっかりまとまっているプロジェクトだったし、それを具現化するためにはやはり僕たちの側も、あの作品特有の手法を用いらなければならなかったんだよ。そうは言っても、あのプロジェクトに取り組んでいた間も僕は自分のアルバムの作業を少々続けてはいたんだ。そこそこな程度にね。というのも、あの『Desertshore/TFR』プロジェクトの作業には僕たちもかなりの時間を費やすことになったし、あの作品に取り組むこと、それ自体がかなりエモーショナルな経験だったから。

父から小型のテープレコーダーをもらったのは、僕がまだ10歳か11歳くらいの頃だったんじゃないかな? で、そのうちに僕はテープレコーダー2台を繋げる方法を見つけ出したし、小型のマイクロフォンも持っていたから、それらを使っておかしなノイズをいろいろと作っていくことができたんだ。

今回のアルバムの背後には、あなた自身のルーツが大きな要因としてあると聴いています。そして、制作中には60年代の電子音楽とトラッド・フォークをよく聴いていたそうですね?

CC:ああ。

で、トラディショナルなイギリス民謡というのは……(笑)あなたのイメージに合わなくて意外でもあったんですけれども、どうしてよく聴いていたんでしょうか? どこに惹かれるんでしょうか。

CC:(笑)いやぁ……まあ、僕はとにかく「良い曲」が好きなんだよ。だから良い曲は良い曲なのであって、(苦笑)別に誰が作った曲でも構わないじゃないか、と。その曲を歌っているのは誰か、あるいは演奏しているのは誰かというこだわりを越えたところで、純粋に曲の旋律に耳を傾けるのもたまには必要だよ。だからなんだよね、僕はアバの音楽ほぼすべて大好きだし、本当に……ポピュラー音楽が好きなんだ。本当にそう。けれども、60年代の電子音楽、たとえばレディオフォニック・ワークショップ(※英BBCが設立した電子音楽研究所。テレビとラジオ向けに効果音他の様々なエレクトロニック・サウンド/コンポジションを制作した)に関して奇妙だったのは……あのワークショップにはかなりの数の人間が関わっていたから(※50〜60年代にかけての期間だけでも9名ほどが参加)、ときにはこう、とてもへんてこなサウンド・デザインや実験的な音楽、サウンド・エフェクツ作品を作ることだってあれば、その一方でまた、実にメロディックで、ある意味……やたら楽しげな、風変わりな歌だのテレビ番組のテーマ音楽をやることもあった、という。

(笑)ええ。

CC:だから、彼らの振れ幅は驚くほど広かったということだし、そのレンジは完全に実験的なものから感傷的な音楽、子供番組向けの感傷的でメロディックな歌もの曲まで実に多岐にわたっていたんだ。で、僕が気に入っているのもその点だし……そうだね、実際のところ、彼らが僕のアルバムになにかしら影響を及ぼしているとしたら、きっとそこなんだろうね。というのも、僕は奇妙なサウンドに目が無いタイプだし、もしも素敵なメロディを備えたトラックが手元にあったとしたら、なんと言うかな、そこに奇妙なサウンドを盛り込むことで、そのトラックをちょっとばかり歪曲させるのが好きなんだ。で、思うに自分のそういう面はレディオフォニック・ワークショップに影響されたんじゃないか? と。

あなたが最初に夢中になったアーティスト/曲はなんだったでしょう? そして、あなたが最初に聴いた電子音楽はなんだったのでしょう?

CC:ああ、最初に夢中になった対象……うーん、それはまあ、どの時期にまで遡るか、にもよるよね? というのも、僕は『Dr.Who』(※1963年から放映が始まり現在も続くBBCの長寿人気SFドラマ。オリジナルのテーマ音楽はレディオフォニック・ワークショップのディーリア・ダービシャーが演奏した)を観て育ったクチだし──

(笑)ああ、なるほど。

CC:それはまさに、いま話に出たレディオフォニック・ワークショップだったわけだよね? だから、ここで話しているのは60年代初期ということであって……かなりメロディ度の高い、『Dr.Who』のテーマ音楽みたいなものもあったし、それと同時にあの番組のなかでは様々な奇妙なノイズも使われていた。それに、BBCが制作した子供向けの番組を聴いていても、そこで使用されていた音楽がレディオフォニック・ワークショップによるものだった、というケースは結構多かったしね。でもその一方で、夜になると今度は自分のトランジスタ・ラジオでトップ・テン番組、いわゆるヒット・チャート曲を聴いていたんだよ。やがて僕の好みはプログレッシヴ・ロックやクラウトロックにも発展していったわけで、うん、自分の好みはかなり多様なんじゃないかと思う。

坂本:あなたの世代はたいてい最初はロックやブルースから入っていると思いますが、あなたの場合はどうだったんですか? たとえばビートルズ、あるいはストーンズの影響の大きさは、あの頃育った英国ミュージシャンが必ずと言っていいほど口にしますよね。

CC:というか、僕は実のところビートルズよりもむしろビーチ・ボーイズの方に入れ込んでいたんだ。ビーチ・ボーイズが本当に大好きだったし、なんと言うか、そこからビートルズを発見していった、みたいな。ああ、それにザ・キンクスの大ファンでもあったね。だから、ちょっと妙な趣味なのかもしれない(苦笑)。

たしかに面白いですね。多くの場合はビートルズから入り、そこからビーチ・ボーイズの『ペット・サウンズ』を発見していく……という流れだと思いますが、あなたはその逆だった、と。

CC:そう、僕にとっては順路があべこべだったんだ。

どうしてあなたは電子音楽にのめり込んでいったのですか? 奇妙な、未来的なサウンドのどこに惹かれたのだと思いますか。

CC:んー……その面についての影響源としては、自分の父親も含めないといけないだろうね。というのも、彼はオーディオ・マニアだったし、ハイファイ機材を蒐集していて、とても高価なステレオ・システムをいろいろと持っていてね。すごく上等なスピーカーだとか。でも、そのなかにはテープ・レコーダーも2、3台混じっていて、父はかなり大型なテープ・レコーダーを所有していてね。それだけではなく小型のテープ・レコーダーも持っていたから、やがて父は小さい方の録音機を僕にくれることになったんだ。小さなリールが取り付けられた電池稼働式のテレコ、程度のものだったけれども。
父からあれをもらったのは、僕がまだ10歳か11歳くらいの頃だったんじゃないかな? で、そのうちに僕はテープ・レコーダー2台を繋げる方法を見つけ出したし、小型のマイクロフォンも持っていたから、それらを使っておかしなノイズをいろいろと作っていくことができたんだ。
だから、すべてはあの時期から来ているんだろうね。ティーンエイジャーの一歩手前の段階にいた自分が、父親の持っていた音響機材をあれこれ繋げていたあの時期──まあ、父が仕事に出て行った後にこっそりやっていたんだろうけども。というのも、(苦笑)あれらの機材を僕がいじったり繋げるのを父が許可してくれたとは思えないし……。

(笑)。

CC:(笑)ただまあ、そうだね、ほんと、すべてはあの経験から来ているんだと思う。子供時代の自分には音響/録音機材に触れる手段があった、という。それはあの当時としてはかなり変わっていたんじゃないかな。

お話を聞いていると、あなたは早いうちからただ音楽を聴いて楽しむだけではなく、音楽を作ることやサウンド・メイキングの可能性を自分なりに探ることに興味があったようですね?

CC:ああ、そうだったね。だから、僕はラジオを通じて番組や既成の音楽を録音するというのはほとんどやらなかったし、文字通り、「自分のサウンド」を作り出していたんだよ。もっとも、それらは真の意味での「音」に過ぎなかったけれども。音楽的なコンテンツはまったく含まれていない、サウンドによる純粋な実験だったんだ。それに、いまだに……たぶん僕は、音楽的にはディスレクシア(読字障害)の気があるんじゃないかと思っていて。だからいまだに、キーボード他に文字を書いて目印をつけないといけないんだよ。「これはこの音符に対応する」、みたいな。
僕はなにもかも耳で聴くのを頼りにやっているんだ。完全にそうだね。というわけで、(譜面を読める等の正統的な意味での)音楽に関してはかなり役立たずな人間なんだ。それでも、リズム面はかなり得意だけれども。で……そうは言っても、なにかを耳にしたり音楽が演奏されているのを聴くと、それが良い曲かどうか、さらには調子が合っているかどうかまで、耳で聴き分けられるね。だからほんと、僕はなにもかも耳で聴いてやるタイプなんだ。

アカデミックな訓練を受けた「音楽家」ではない、と。

CC:うん、まったくそういうものではないね、自分は。これといったレッスンを受けたことはなかった。だから、僕とコージーについて言えば、彼女は子供の頃にピアノのレッスンを受けたことがあったから、たぶんキーボード奏者としての腕前は彼女の方が上だろうね(苦笑)。

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僕は奇妙なサウンドに目が無いタイプだし、もしも素敵なメロディを備えたトラックが手元にあったとしたら、なんと言うかな、そこに奇妙なサウンドを盛り込むことで、そのトラックをちょっとばかり歪曲させるのが好きなんだ。


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『Mondo Beat』と今作は、ビートがある楽曲においては似ていると思いますか?

CC:ああ、うんうん。その意見には賛成だね。ただまあ、やっぱり自然にそうなるものなんじゃないのかな? なんと言うか、僕の音楽的な遺産みたいなもの、それはあの作品からはじまっているようなものだしね。だから自分の初期作品にあった要素、それは間違いなく現在の僕がやっている音楽作品にも含まれていると思う。

さて、今回のアルバムについての質問ですが、ビッグなアルバムですよね。しかも2枚組という。

CC:(苦笑)たしかに。

これはある意味、先ほどの質問で答えてくださっているとも思うのですが、収録曲が25曲にまでになった理由はナンでしょう? 純粋に、長い間取り組んできた自然に蓄積してきた音楽をまとめた結果がこれだ、ということでしょうか。

CC:その通りだね。というか、今回リリースするものだけではなく、実はもっと他にもたくさんあるんだよ。

(笑)そうなんですね!

CC:ただ、そのなかでもベストなものを集めたのが今回のアルバムだ、と。だからなんだよ、この作品を『〜ヴォリューム・ワン』と名付けたのは。というのも、自分の手元にはまだかなりの数のトラックが残っているし、それらを今回とは別のセカンド・ヴォリューム、『第二巻』として出せるだろうな、と。それに……このソロ作に取り組んでいた頃、僕はかなりの部分をモジュラー・システムを使って作っていたんだよね。あれを使ってやっていると、自分でも気づかないうちにえんえんと際限なく作業にはまってしまいがちなんだ。いつの間にかスタジオにこもって同じトラックを相手に1時間も費やしていた、みたいな(苦笑)。そんなわけで、この作品をレコーディングしていた10年かそこらの間のどこかの時点で、もっと短く切り詰めるべく、違う作業の流れを開発していったんだ。もう少し自制を心がけた、というね。だからなんだ、収録トラックの多くは尺がとても短いものになったのは。

たしかにそうですよね。

CC:というのも、自分のやっていることに対して聴き手に退屈感を与えたくなかったし、人びとは僕がやろうとしていることの本質を2、3分くらいのトラックで掴んでくれるだろう、たぶんそれで充分じゃないか、そう考えたんだ。でも、そうやって短めな曲をレコーディングするようにしたことで、歳月の経つうちにかなりの量のトラックが集まることになった、と。気がつけば25トラック入りのアルバムができていたわけだよ。

なるほど。その点は次の質問にも絡んでくるのですが、いろんなタイプの曲がありますよね。インダストリアルなテイストのものからシンセポップ調のもの、“Moon Two”のようなメロディアスな曲もあります。それらは曲というよりも断片的というか、アルバムは断片集ともいえるような2〜3分の曲ばかりですね。どうしてこうなったのでしょう? やはり、いまおっしゃっていた自制の作用、制作過程をコントロールしようという思いの結果だった?

CC:それはあったよね。それに、いくつかのトラックに関しては、ほとんどもう他のトラックの「イントロ部」に近い、というものだってあるし(苦笑)……だから、以前にも僕たちはTGやクリス&コージーの楽曲で3分、2分程度のイントロはやったことがあったんだよ。で、今回の作品の一部のトラックもそれらに近いものだ、と。そうは言っても、なにかを味見程度だけに留めておく、その自制の姿勢は自分でもかなり気に入っていてね。この作品を作っている間、それは僕にとって魅力的な行為に映ったんだ。だからなんだよ、アルバムのトーンがかなりガラッと変化するのも。スリージーが亡くなった後、僕は何曲かもっとメランコリックなものを作ったし、けれども時間が経過するにつれてムードも変わっていって、もっとアップリフティングな曲も生まれた。そんなわけで、楽曲の並べ方を決めるのは少々難題になったね。どの順番で並べるか、それを見極めるのにはちょっと時間がかかった。

坂本:なるほど。「克明になにもかも表現した」とまではいかないにしても、ある面で、この作品はここ数年のあなたの人生に起きたていこと、そのダイアリーでもあるのかもしれませんね。

CC:ああ、それは良い形容だね。そうなんだと思う。

もちろん1曲1曲にストーリーがあるというわけではありませんが──

CC:それはない。

あなたの潜っていたムードの変化が聴いてとれる作品、という。

CC:うん。良い解釈だと思う。

僕はラジオを通じて番組や既成の音楽を録音するというのはほとんどやらなかったし、文字通り、「自分のサウンド」を作り出していたんだよ。それらは真の意味での「音」に過ぎなかったけれども。音楽的なコンテンツはまったく含まれていない、サウンドによる純粋な実験だったんだ。

『Chemistry Lessons Volume One』というアルバム・タイトルは、実験報告書のような印象を受けますが、これは現時点でのレポートで、ここから発展していく、しばらく続いていくものなのでしょうか?

CC:うん、だと思う。当初の『Chemistry Lessons』の全体的なコンセプトというのは、非常にエクスペリメンタルな内容になるだろう、そういうものだったんだ。10年くらい前に、その最初期のコンセプトに基づいて作ったトラックを何曲か、オンラインにアップロードしたこともあったんだ。というのも、その時点での『Chemistry〜』のコンセプトはアルバム作りですらなく、ただのプロジェクトだったからね。僕がスタジオで様々な実験をおこない、その結果のいくつかをオンラインで発表し、もしかしたら一部を音源作品として発表するかもしれない、程度のプロジェクトだった。
ところがそれが進化していったわけで、自分の手元にどんどん音源が蓄積していくにつれて、「オンライン云々を通じてではなく、これで1枚のアルバムにできるかもしれない」と自分でも考えたんだ。ただ、次のヴォリュームは今回とはやや違うものになるだろうし、3作目もまた同じく、ちょっと毛色の違うものになると思う。そこはちょっと似ているなと思うんだけど、かつてBBCが70年代にリリースしていた『サウンド・エフェクツ』のレコード(※効果音を集めたライブラリー音源シリーズ)、あれからは今回インスピレーションをもらっていてね。あれはテーマごとに編集された効果音のレコードで、『第一巻』のテーマはこれ、『第二巻』ではまた別のテーマで音源を集める、といった具合だった。
というわけで、ちゃんと準備してあるんだよ。今作には含めずにおいた未発表トラック群、あれらがあれば、『Chemistry〜』のセカンド・ヴォリュームはまたかなり違った響きの作品になるだろうな、と。おそらくもっと長めの楽曲が集まるだろうし、1作目とは異なるトーンを持つものになると思う。

坂本:この『Volume One』のテーマを要約するとしたら、なにになると思いますか?

CC:そうだね、これはシリーズ全体の「見本」みたいなものなんだ(笑)。

(笑)「これからこういうものがいろいろ出てきますよ」と。

CC:(笑)うん。だからこれはある意味、あらゆる側面を少しずつ見せたもの、紹介する内容だね。したがって曲ごとの作風もかなり違う、という。

人工的な歌声を使った曲がいくつかありますよね? “Cernubicua”とか“Pillars of Wah”とかでしょうか? 

CC:うんうん。

あれらの声は、機械で合成したものですか? それとも実際の人間の声を加工したものでしょうか?

CC:その両方が混ざっているね。一部ではヴォコーダーを使っているし、それに……スリージーが『Desertshore』向けに購入した機材も僕たちの手元にいくつかあって、なかにはそれらの機材を使用してヴォイスを加工した例もあった。だから、実際にヴォーカルが歌っていることもあれば、ソフトウェアを使って加工したこともある、と。そうやって異なるテクニックを組み合わせていったものだよ。アルバム制作が進行していくにつれて、どうやってそれを実現させればいいか、そのための作業の流れを発展させていったんだ。だから手法も変化していったし、アルバム作りのはじまりの段階で使ったもののもう自分の手元にはない機材もあったし、その際は改めて別のやり方を見つけ出していったり。だからヴォーカルに関しては、似たような響きに聞こえるものがあったとしても、それらは違うテクニックを用いて作ったものだったりするんだ。リアルな人間の声であるケースもあれば、完全に合成されたものもあるよ。

なるほど。

CC:で、本物の声と人工の声をと聞き分けられないひとがたまにいる、その点は自分としてもかなり気に入っているんだ。

(笑)。あなたのこうした人工的な歌声へのアプローチは、なにを目的としているのでしょうか? どんな狙いがあったのか教えて下さい。

CC:まあ、一部のヴォイスは僕自身の声なんだ。過去に自分の初期のソロ・アルバムでも、自分の声を使ったことは何度もあったしね……。でまあ、一部は自分の声だし、ただ「それ」とは分からないくらいとことん加工されている、と。だから、僕はとにかく……自らになにか課題を与える厳しさというか、難題に取り組むのが好きなんだね。で、クリス&コージーみたいに聞こえる作品にしたくはなかった。というのも、僕たちふたりで作る作品でコージーが歌いはじめた途端、それがどんなトラックであれ、「クリス&コージー」になってしまう、というのは自分でも承知しているからね。まあ、それは当たり前の話だよね、僕たちふたりで作っているんだからさ。ただ、今回の作品に関しては、僕は完全に「ソロ」なプロジェクトにしておきたかった。そう言いつつ、用いた一部のアイデアやテクニックについては生前のスリージーと「どうやればいいか」と話し合いはしたんだけれど、それを除いては、このアルバムではとにかく僕が自分ひとりでやっている、と。だからとにかくすべてを自分内に留めておきたかったし、これは文字通りの「ソロ・アルバム」というわけで、僕以外には誰も関わっていないんだよ。

いくつかのトラックではかなり高音の女性ヴォーカルらしきものが聞こえますが、あれもあなた自身の声を加工したものですか?

CC:うん、それも含まれるだろうし、他のヴォイスも手元にあったね。スリージー所有のハード・ドライヴから発見したもので、彼がアイデアとして使っていたヴォイスがいくつかあったし、それにオンラインで見つけてきたものも混じっている。ただ、それらを非常に高い声域で鳴らすことで、「女性」っぽく聞こえるようになる、と。一方でまた、とても低い音域で楽曲の下方で鳴らしたこともあったし、女性/男性の区別がつけられないんじゃないかな。

なるほど。キメラというか、もしくは両性具有というか──

CC:ああ、うん。

どちらの「性」にもなり得る、と。そうした人工的な声の持つ可能性、無限のポテンシャルがあなたには非常に魅力的なんでしょうか?

CC:まあ、このアルバムに関してはそうだった、ということだね。だから、もしかしたら次のアルバムはインスト作になるのかもしれないし。そうやって、自分にもうおなじみの世界に留まって(苦笑)、シンセサイザーやモジュラーなんかを使った、自分にはかなり楽にやれる音楽をやるのかもしれない。というのも、ああいうヴォーカルを用いると、作業にかなり長くかかってしまうんだ。毎回うまくいくとは限らないし、悲惨な結果になることだってあるしね。

(苦笑)そうなんですね。

CC:(苦笑)ああ。だからまあ、このルートには一通り足を踏み入れたということで、しばらくはこれで充分かもしれない。

初音ミクって知ってますか?

CC:ああ、うん。あの、ヴォーカロイドというのは、以前に自分も使ったことがあったんじゃないかな? (独り言のようにつぶやく)いや、というか、今回のアルバムの1曲でも、もしかしたらヴォーカロイドは一部で使っているかも……? んー……? まあとにかく、うん、僕個人としてはあんまり結びつきを感じられなかったね。あれは純粋にソフトウェアだし、僕はハードウェアを多く使用する方がずっと好きな人間だから。類似したことをやれるプログラムではなくて、むしろ実際のハードウェア機材でやってみるのが好きなんだ。たまに「かなり自分好みのサウンドだな」と思うものもあるとはいえ、あれは聴くのがきつい、というときもある音だよね。

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このソロ作に取り組んでいた頃、僕はかなりの部分をモジュラー・システムを使って作っていたんだよね。あれを使ってやっていると、自分でも気づかないうちにえんえんと際限なく作業にはまってしまいがちなんだ。いつの間にかスタジオにこもって同じトラックを相手に1時間も費やしていた、みたいな(苦笑)。


Chris Carter
Chemistry Lessons Volume One

Mute/トラフィック

ElectronicExperimental

Amazon Tower disk union

最初に作った自作の機材はどんなものだったのでしょう?

CC:60年代に『Practical Electronics』という雑誌を読んでいたことがあったんだけど、回路基板が付録で付いてきたんだよね。毎月、自分の手でなんらかの電子機材を組み立てることができて、パーツも購入できて。

メール・オーダー式の雑誌?

CC:そう。いろんな部品を注文し、自分で組み立てるという。だから僕が初めて作ったシンセサイザーは、あの雑誌で見かけた設計図にすべて基づいていたよ。そこからどんどんもっと大型のシンセを組み立てていくようになったし、他にももっといろんなもの、たとえばエフェクト・ペダル等も作っていって。TGに加入してからは、「グリッサライザー」(Gristleizer:エフェクト・ユニットのモジュール。TGの作品やライヴで多く使用された)というものを作ったね。あれは他の人間の考案したデザインに基づいていたけれども、自分でそれを改めてデザインし直したものだった。というわけで長年にわたって、僕はあらゆる類いの機材を自作してきたわけだね。
ところが歳をとるにつれて既製品を買ってしまう方が楽になってきたし、そうやって買って来たものにたまに改良を加えたり。でもまあ、近頃はあまり機材の自作はやらないね。オリジナルの『Chemistry Lessons』プロジェクトを開始した頃はまだ機材を作っていて、たくさんこしらえていたけれども。たとえばコージーのために「トゥッティ・ボックス」という名の小さなシンセサイザーを作ってあげたりした。で、そこから僕はモジュラーものにハマっていくようになって、自分用にモジュールをいくつか作ったこともあったね。ただ、いまの僕は主に市販のモジュールを購入してやっているよ。というのもモジュラーであれば、独自なものを作るように設定を組むのが可能だからね。モジュールをまとめてどうパッチしセッティングしていくか、そのやり方はひとそれぞれに違うわけで。だからおそらく、僕は自分で回路板を作る作業を、モジュールの購入で代用しているんだろうね。

それらをご自分の好みに合うように改良している、という。

CC:ああ、そうだね。それは自分はよくやるよ。

大学生のときに初めてのソロ・ライヴをやっているんですよね? それはどんなライヴ演奏だったのですか?

CC:(「大学でソロのライヴ・ショウをやったことがあるそうですが」と質問を聞き違えて)ああ、先週やったライヴのことかな? あれは週末におこなわれたムーグ・シンポジウム(※サリー大学が主宰する「Moog Soundlab Symposium」のこと。2018年版は2月3日開催)に参加したときのことで、小規模なライヴ向けのセットアップでやったものだったね。完全に実験的な内容で、キーボード等は一切使わず、モジュール群と箱があるだけ。それらを相手にちょっとしたライヴ演奏をやったんだ、40分くらいの短いものだったけれどね。別にムーグを使ってパフォーマンスしたわけではなくて、僕は単にあのイヴェントの一環だったんだよ。でも、あれは興味深かったな。というのも、僕はあまりライヴはやらないし、とくにソロ・ショウの場合は珍しいからね。ここ2、3年はカーター/トゥッティ/ヴォイドやクリス&コージーで僕たちもたくさんショウをやったけれども、ソロではあまりやってこなかった。だからあれは面白かったよ。

緊張しましたか?

CC:いや、そんなにあがるタチじゃないんだよね。うん、それはないな……自分がなにをすべきか分かってさえいれば、緊張することはまずない。だって、結局は自分が表に出て行って、そこでは人びとが待ち構えている、というだけのことだしね。で、音源を入れてなんらかのノイズを作り出して、それを気に入ってくれる者もいるだろうし、もしも気に入らないひとがいたら、残念でした! ということで。

(笑)。

CC:ハハッ。でも、自分は楽しんだよ。それに、観客たちも気に入ってくれたし、うん、あれはグレイトだった! 会場も良かったし、様々なヴィンテージのムーグ機材が置かれた横で演奏させてもらって、環境としてもばっちりだった。会場は素晴らしい空間だったし、音響設備も良くてね。それには大いに助けられたよ。

なるほど……と言いつつ、そもそもの質問は、あなたが大学生だった頃にやった初のソロ・ライヴはどんなものだったのか?ということでして。こちらの訊き方が明確ではなくて伝わらなかったかもしれません、すみません。

CC:ああ! というか、僕は大学には進学しなかったんだけどね。ただ、若い頃、70年代にたくさんの大学でライヴをやったのはたしかだね。イギリス各地の大学を回るツアーをやって、ソロでショウをやったこともあったし、ときには2、3人の友人たちと一緒に回ることもあって、彼らはライト・ショウを担当してくれてね。で、ライト・ショウをお伴に、僕は自家製のシンセサイザーでライヴをやった、という。あれは一種のコンセプチュアルなショウみたいなものだったし、うん、僕たちはイギリス各地の様々な大学を訪れてショウをやったものだったよ。

完全なインスト音楽とライト・ショウによるパフォーマンスだったんでしょうか?

CC:ああ、そうだった。だからまあ、いくつかのシークエンスを伴うアンビエント音楽、みたいなものだったね。

……観客の反応はどんな風だったんでしょう? いまならともかく、その当時としては、こう、かなり風変わりなパフォーマンスだったんじゃないかと想像しますが。

CC:(笑)。

それこそ、「なんだこれは?」と当惑するひともいたんじゃないですか?

CC:(苦笑)ああ……でも、音楽はかなりアンビエントなものだったし。それに、立体音響式でやったんだよね。その点は僕たちしては非常に興味深かったし、当時は立体音響にハマっていたから。ただまあ、お客の多くは「ロックンロール・バンドの類い」を期待して集まってくれたんだろうし、考え込んでしまうひとや困惑するひとたちは多かったね。それでも、おおむね観客の受けは良かったよ。

いろんな部品を注文し、自分で組み立てるという。だから僕が初めて作ったシンセサイザーは、あの雑誌で見かけた設計図にすべて基づいていたよ。そこからどんどんもっと大型のシンセを組み立てていくようになったし、他にももっといろんなもの、たとえばエフェクト・ペダル等も作っていって。

ところで、コージーの『Art Sex Music』を読んだ感想は? じつはいま日本版を訳しているんですよ。

CC:あー、そうだな……

かなり長い本ですけれども。

CC:そうだね。でも僕は、執筆が続いている間に、様々な推敲段階のヴァージョンを読んできたからね。あの本は元々はもっと長くて、それをフェイバー社側が編集してページ数を減らしていったんだ。というわけで僕はあの本のいろんなヴァージョンはすべて読んだことになるね……最終的にまとまった編集版の一部に「カットされて惜しいな」と思った箇所は少しだけあるけれども、でもまあ仕方ないよね、千ページの大著を出版するわけにはいかないんだし、ある程度は編集で減らさないと。
ただ……あれを読むとかなりエモーショナルになってしまうんだ。最後にあの本を読んでからかれこれ1年くらいになるけれども、いくつかの箇所は、読むのがかなりきついからね。そうは言っても、あの本は本当に好きなんだよ。すごく良いなと思ったし、ファンタスティックな本だ。とにかく、コージーのことを本当に誇らしく感じる、それだけだね。というのも、あれらをすべてページに記していく、その勇気が彼女にはあったわけだから、

彼女とのパートナーシップはいまも続いているわけですが、あなたが彼女から受けた影響はなんでしょう?

CC:あー……参ったな(苦笑)! それは大きな質問だよ。

(笑)ですよね、すみません。

CC:いやあ……答え切れるかどうか、それすら自分には分からない(笑)。

分かりました。じゃあ、これは次に取材する機会があるときまでとっておきますね。

CC:(笑)うんうん、次回ね。僕の次のアルバムが出るときに。

最後の質問です。いまだにTGの音楽がひとを惹きつけているのは何故だと思いますか?

CC:自分でも見当がつかないんだ。というか、それは先週末にも誰かと話していたことなんだけどね、「TGの音楽はかなりの長寿ぶりを誇るものだ」、という。で、初期TGのマテリアルの多くには、ある種のタイムレスなサウンドが備わっているんだよね。それがなんなのかは、僕にも分からない。TGのメンバーの間ですら、そのサウンドがなにか? を突き止められなかったからね。あれは相当に「ある瞬間を捉えた」という類いのものだったのに、でもどういうわけか歳月の経過に耐えてきた。一方で、多くの音楽は……ときに古い音楽は、20年くらい経ったらうまく伝わらなくなっている、ということもあるわけだよね? 「いま聴くと最悪だな!」みたいな。でもTG作品の多くには、なにかしら時間を越えた資質めいたものがあるんだよ。
思うに、その資質なんじゃないのかな、古くならないのは。だから、いまTGを聴いている人びと、いまTGを発見しているひとたちがいるのは僕も知っているし、彼らは聴いてかなりぶっ飛ばされているんだよね。で、それはグレイトだと思うし、素晴らしいことだと思っていてね。けれども、どうしてTGの音楽が聴き手にそういう効果をもたらすのか、それは自分でもいまひとつはっきりしないんだ。だから、TGのメンバーたち自身にも見極められないなにか、ということだし、他にもいろいろとあるよく分からないもの、そういうもののひとつだ、ということじゃないのかな?

なるほど。それに、そもそも長寿を意図して作ったものではなかったわけですしね。

CC:それはまったくなかったね。

坂本:2ヶ月ほど前にコージーに取材させてもらう機会があったんですが、そこで彼女も「40年以上経って人びとがまだTGを聴いてくれているなんて思いもしなかった。だからとても嬉しい」と話していましたから。でも、どうなんでしょうね、とても始原的な音楽だからかな? とも感じますが。

CC:ああ、そうだね! それはあるかもしれない。

もちろん、プリミティヴとは言っても電子音楽の形でやっているわけですが。

CC:うん、でも、彼女が言った通り、人びとが僕たちの音楽をその後も聴き続けるだろうなんて、僕たち自身考えてもいなかったからね。40年どころか、10年もしたら忘れられているだろう、そう思っていた。とにかくああして作品/活動をやっていっただけだし、それが終わったらおしまい。次にはまたなにか他のことをやっていこう、と。そうは言ったって、もちろん当時の僕たちはかなりいろいろと考えてTGの活動をやってはいたんだよ。ただ、だからと言って自分たちに「大局的な図」が見えていたわけではなかった、という。もしかしたら、だからだったのかもしれないよね、あんなにうまくいったのは。

4人のまったく異なる個人がTGというグループにおいてみごとにひとつに合わさったこと、それもあったかもしれません。

CC:ああ、そうだね。パーツを組み合わせた結果が単なる総和よりも大きなものになる、そういうことはたまに起きるからね。

わかりました。今日はお時間をいただいて、本当にありがとうございました。

CC:こちらこそ、話ができて楽しかったよ。

新作がうまくいくのを祈ってます。

CC:僕もだよ。聴いた人びとに気に入ってもらえたら良いなと思ってる。

大丈夫だと思います。

CC:そうかな、ありがとう。

ではお元気で。さようなら。

CC:バーイ!

(了)

コーネリアス - ele-king

 マタドール・レコードからアメリカで『Fantasma』がリリースされた1998年以来、小山田圭吾は、そのときどきのアルバムのリリースを記念して、ニューヨークの街にコーネリアスの素晴らしいライヴを届けつづけてきた。この街でコーネリアスは愛されている。圭吾もこの場所に多くのつながりをもっているし、いまでは友人も数多くいることだろう。バンドが最後にここでライヴをしてから10年以上が経っているにもかかわらず、3月9日にアーヴィング・プラザに集まった観客のなかの多くのファンたちは、確実に過去何年にもわたって、何回もコーネリアスのライヴを観ていた。だから観客の生みだす空気は、ちょうど仲のいい友だちが集まったような感じだった。コーネリアスの音楽は、たくさんの異なった影響を、思いがけないようでいて、しかしまったく自然な新しい結びつきのなかでひとつにする。それはライヴにやってくる観客についてもいえることだ。3月の寒さのなかから会場にやってきたのは、なにより年齢を問わない生粋のニューヨーカーたちであり、そこに国外に暮らす日本人たち、西海岸のいたるところからやってきた者たち、そしてその音楽に長くインスピレーションを受けてきた有名なミュージシャンたちが混ざりあう。初々しい大学生のキッズたちもいる。誰もがみな、彼の素晴らしいニュー・アルバム『Mellow Waves』を支持し、コーネリアスの10年ぶりのライヴを観るためにひとつになっていた。

 アーヴィング・プラザの階段を上っていくと、オープニング・アクトのアヴァ・ルナがすでにステージ上にいた。ユニオン・スクエアの近くにある1000人規模のその箱は、初期パンク/ポスト・パンクや、ニュー・ウェイヴの頃がとくにだが、長年にわたってニューヨークでの数多くの伝説的なライヴを主催してきた場所だ。──階段を上りながら友人が、シド・ヴィシャスが同じこの階段を顔から落ちていくのを見たときの、胸の痛くなるような話を聞かせてくれる。数ブロック北西に行ったところにあるチェルシー・ホテルで、彼のなにもかもが崩れ落ちてしまうのは、それから数週間後のことだったらしい。ともあれ、アヴァ・ルナの起用は、この日のライヴにぴったりとはまっていた。というのも、演奏こそまったくコーネリアスのようではないが(だけどいったい他の誰にそんなことができるというのか?)、ジャンルを捻じまげるような、とても一言ではいいがたいこのブルックリン出身の5人組は、ソウルフルなグルーヴと、唸りをあげるポスト・パンクのサウンド、さらにドリーミーなポップさを、新鮮でオリジナルなひとつの音のなかに組みあわせ、満杯のフロアを見事に揺せたのだ。メイン・アクトの前に、少しでもいい場所に陣取ろうと誰もが移動するなかで、キーボード奏者でありサポート・シンガーのベッカ・カウフマンは、観客にむけてシーア風の銀髪のカツラを最後にもう一度派手にふりみだしてみせ、ステージを後にしながらも彼らは、大きな歓声を浴びていた。

 コーネリアスのライヴはつねに、五感のすべてを刺激するマルチなメディア体験でありつづけている。そもそもこのバンドは、私たちの大半がいまだ家庭用ヴィデオ・レコーダーの便利さに驚いていたときでさえ、念入りに構築された映像が生の演奏と完全に同期する、厳密に演出されたライヴをやりつづけていたのだ。この20年間で、衝撃的で新しい映像と、ひとを魅了するステージングが組みあわさった、これほどまでのパフォーマンスを披露することのできるライヴ・バンドは、世界中のどこを探してもいまだに存在していない。

 ライヴは、ステージを覆う、黒く穴の穿たれた、日食したような太陽の律動とともにはじまった。時間が経つにつれ、その縁の部分の光は揺らぎ、あちこちに動きだしていく。観客がざわつきだすなかで、幕が落ちるまでずっと、スネア・ドラムの規則的な鋭い音が、欠けていく太陽に振動を伝えているように見えた。そしてバンドはいつのまにか、物憂げなグルーヴとともに『Mellow Waves』収録の“Sometime/Someplace”を演奏しだした。ステージには、まばゆいばかりのレトロフューチャリスティックな光を背景にして、キーボード、ドラム、そして組みあわされた電子機器が並べられていた。メンバーは、完全な白でその身を包んでいた。そして彼らが──音楽だけではなくそのスタイルにおいても──クラフトワークを効果的にコピーしつつ、観客にむけてクールに演奏しはじめると、アニメ化された『バック・ロジャース』のSFファンタジーが、完璧に音に組みあわさった映像の動きによって、リフやリズムのひとつひとを神秘的なまでに受けとりながら、背後にあるスクリーンに揺らめいた。

 演奏にあわせてカーブやターンをくりかえす公道の上の車が映しだされるなかで、2002年の素晴らしいアルバム『Point』からの曲、“Point of Point of View”が続いた。そこから彼らは、1980年代のテレビ・ゲームのような点滅する映像をバックに、“Helix/Spiral”によって新譜へと戻っていった。見事にスクリーンに動く映像と完全に組みあわさったまま、しかし音が硬くなったり、音に無理強いするようなことはなく、バンドはごく自然に、観衆を魅了しつづけた。これは、多くのバンドがむしろ照明を組織するために演奏し、音楽をぎくしゃくさせていたのとは似ても似つかないことだ。長くコーネリアスのドラマーを務めるあらきゆうこと、ベースとムーグ・シンセサイザーを担当するバッファロー・ドーターの大野由美子からなるリズム・セクションも、きっと彼女たちの耳のなかで鳴っていただろうメトロノームの音を感じさせることなく、リラックスしていて自然だった。

 やはり『Point』からの曲である“Drop”の演奏中、視点がズーム・インとズーム・アウトを繰りかえし、本当に幻覚を見ているような効果を生みだす、ボコボコと沸きたつ泡の映像を背景にして、圭吾が突然テルミンのソロをはじめると、驚きのあまり私は、大声をだして笑ってしまった。 それはまるで、スクリーンの上で泡を躍らせ、ほとんどそれに歌わせているように見えた。堀江博久は、ひとつのビートも逃すことなくファズ・ペダルを踏みつづけ、1970年代のカンフー映画の映像と、テレビの警察もののセピア調のモンタージュが、突然スクリーンに映しだされた。そしてバンドは「Fantasma」の“Count Five Six”を演奏しだし、“I Hate Hate”の激しく重いギターが続いた。2006年のアルバム『Sensuous』からの洗練されたファンク“Wataridori”は、急に飛びたつ鳥たちと、揺れうごく木々によって映像化され、複数のギターによる渦を巻くようなアルペジオは、マニエル・ゲッチングの『E2-E4』を思わせた。最近になって、いつまでも頭から離れないような、大きな手のひらの上でスキップをする小さな少女のすがたを映すMVが公開された、ニュー・アルバムからの最新のシングル、“The Spell of a Vanishing Loveliness”が続き、ゲスト・ヴォーカルの大野由美子との完璧な組みあわせのなかで演奏された。

 セットリストは、新譜からの曲である“Dear Future Person(未来の人へ)”のような曲から、ファンたちのオール・タイム・フェイヴァリットである“Star Fruits Surf Rider”まで、コーネリアスのヒット曲をそのキャリア全体にわたって要約するようにして続いていった。そして前者では、都市のなかをいそがしそうに歩きまわり、宙に浮かびあがっていく猫の、その白と黒のシルエットからなる映像がスクリーンいっぱいに映しだされ、後者では、もう10年単位で定番となっている、もやのかかったような銀河旅行の映像が、きらきらと輝く照明と、観客の頭上で回転する、いろんな色のミラーボールの光によってアップデートされていた。彼らは、『Mellow Waves』のオープニングナンバー“If You’re Here(あなたがいなければ)”でセットリストを終えた。それは最後まで観客を驚かせるものだった。圭吾の不規則なギターソロが、スクリーンの上で揺れうごく光の演出によって、完璧に模倣されていたのだ。

 バンドは雷のような拍手を残してステージを去り、アルバム『Sensuous』からの曲、やはりファンに人気の“Breezin”とともに戻ってきた。そのあと、誰もがもうこれで終演だと思ったところで、しかしバンドはふたたび動きだし、映像の厳密な構造から解放された、その夜唯一の曲を演奏しだした。聞こえてきたのは、“Chapter 8 - Seashore and Horizon”のリラックスしていながら堂々としたヴァージョンだ。その夜のどれもが、スリリングで感動的なパフォーマンスだった。それは素晴らしい演奏、最高の映像、それにかつてない選曲がそろった、真に革新的なアーティストが、その最高潮にいる瞬間だった。

 彼らのような素晴らしいミュージシャンが、 20年にわたって作りあげられてきた最先端な映像と完全に組みあわさったかたちで、一瞬たりとも休むことなく1時間のセットリストを演奏する、そのときの集中力や焦点化の度合いたるや、想像することさえも難しいものだが、ミュージシャンとしての彼らの仕事は、それで終わりではなかった。観客が会場から出ていくと、白い衣装を着たままのクールで冷静なすがたで、圭吾、ゆうこ、博久、そして由美子の全員が、物販のテーブルの後ろにあらわれた。すると何百というファンたちが、レコードにサインをもとたり、バンドと写真をとったり、あるいは圭吾と彼の最高のバンドに、彼らがその日までの月日をいったいどんな気持ちで待ちつづけていたかを伝えるために、列を作っていったのだ。だけどお願いだコーネリアス、ニューヨークに戻ってくるのに、また10年も待たせたりしないでくれよ!

 「ボーカロイド音楽」という言葉を目にしていまあなたは何を思い浮かべましたか? 高音が耳に残るアイドル・ソングでしょうか。テンポの速いロック・サウンドでしょうか。もちろん、それらも間違いではありません。が、ヒップホップやレゲエ、フューチャーベース、ブレイクコアやジュークなど、ボーカロイドあるいは他の音声合成ソフトを用いて作られた音楽は現在、想像以上にその幅を広げています。日に日に深化を遂げているこの音楽の最新の状況を知っていただきたく、『ボーカロイド音楽の世界 2017』をお届けします。

 2017年、ボカロ・シーンは初音ミク10周年という大きな節目を迎えましたが、それ以外にも同じく10周年を迎えた鏡音リン・レン、初音ミク中国語版の発売、「王の帰還」現象と新世代の擡頭、『♯コンパス』コラボ曲の席巻など、多くのトピックが目白押しでした。本書では「The World of Vocaloid Music 2017」と題しそれらの動きを俯瞰しています。
 巻頭インタヴューはEHAMIC。Google ChromeのCMにも出演していた彼は、ボカロを用いて曲を作るのみならず、それをLPやカセットテープといったアナログ・メディアでも展開している興味深いアーティストです。そのこだわりについて存分に語っていただきました。
 もうひとつの目玉は、「The 50 Essential Songs of 2017」と「The 20 Essential Albums of 2017」。2017年に発表された楽曲とアルバムからそれぞれ50曲/20枚を精選し、一挙にレヴューしています。再生回数にはいっさいとらわれず、何よりもまず「グッド・ミュージック」という観点からさまざまな楽曲/アルバムを紹介しています。
 また「Various Aspects of Vocaloid Music」ではさまざまな執筆者に協力を仰ぎ、「ジャズ」「アンダーグラウンド」「中国」「ニコニ広告」というテーマで近年の動向をフォロウ。とくに、ビリビリ動画を震源地として大きな盛り上がりを見せている中国ボカロ・シーンの紹介は、これまで気にはなっていたもののどこから手をつければいいのかわからなかった方にとって、格好のガイドとなるでしょう。

 また、本書の発売と同じ3月14日に、『合成音声ONGAKUの世界』というコンピレイションCDもリリースされます。1998年に竹村延和のレーベル〈Childisc〉からデビューしたスッパマイクロパンチョップ監修による充実の15曲を収録。こちらもぜひ手にとってみてください。きっと新たな発見があるはずです。

[書籍]
ボーカロイド音楽の世界 2017
2018年3月14日 発売
ISBN: 978-4-907276-93-5
Amazon

[contents]

VOCALOIDはボサノヴァ――an interview with EHAMIC (しま+小林拓音)

The World of Vocaloid Music 2017
ボーカロイドに関する2017年の重要トピック (しま)
初音ミク10周年のトピック (しま)
鏡音リン・レン10周年のトピック (アンメルツP)
まえがき ~みんながよく話す「ボカロ」という言葉~ (ヒッキーP)
2017年は新陳代謝の年 ~初音ミク10周年を祝った旧世代と無視した新世代~ (ヒッキーP)
ぼからんで見る「2017年」という時代 (あるか)

The 50 Essential Songs of 2017 (キュウ+しま)
The 20 Essential Albums of 2017 (キュウ+しま)

Various Aspects of Vocaloid Music
ボカロとジャズ (Man_boo)
ボーカロイド・アンダーグラウンド (ヒッキーP)
中国ボーカロイド・シーンの発展と現状 (Fe+しま)
VOCALOIDタグ動画におけるニコニ広告の拡大とそのランキングへの影響 (myrmecoleon)


[CD]
合成音声ONGAKUの世界
2018年3月14日 発売
PCD-20389
Amazon

[tracklist]

01. 春野 「nuit」
02. Treow 「Blindness」
03. piptotao 「春 etc.」
04. 羽生まゐご 「阿吽のビーツ」
05. 拓巳 「Kaleidoscope」
06. cat nap 「ぺシュテ」
07. 鈴鳴家 「フリーはフリーダム」
08. 松傘, mayrock, sagishi, 緊急ゆるポート, trampdog 「人間たち」
09. でんの子P 「World is NOT beautiful」
10. のうん 「箒星」
11. ぐらんびあ 「孤独、すべて欲しい」
12. キャプテンミライ 「イリュージョン」
13. Dixie Flatline 「シュガーバイン」
14. yeahyoutoo 「lean on you」
15. Noko 「只今」

Belle and Sebastian - ele-king

 長いことベル・アンド・セバスチャンのファンでいたつもりなのに、実はごく最近までライヴを観る機会がなかった。まあ初期のベルセバはライヴはおろかメディアにもあまり出てこないバンドだったし、リスナーだって"Nobody's Empire"(フロントマンのスチュアート・マードックの過去の苦悩を歌った名曲)の歌詞のように人生いろいろなわけだからそこは気にしないでおく。
 それは2015年のフジロック・フェスティヴァルのことだった。およそ90分のあいだ、ギターのスティーヴィーやヴァイオリンのサラなどをはじめとしたバンド・メンバーの演奏に合わせて、スチュアートは皮肉な歌詞とは裏腹に滑稽なくらい愉快に踊り、客席の帽子を借りて次々と被ってみては誰かにマスカラをそっと塗ってもらったり、"The Boy With The Arab Strap"では数十人の観客をステージにあげて自由に楽しませる傍らで、ただひたすら幸せそうに終始笑顔でピアノを弾いていた。
 もちろんわかってはいたものの、デビュー当時の寡黙で陰のあるベルセバのイメージをまだ少しばかり引きずっていた自分はあまりの無邪気さに戸惑い、同時にそれまでの長い月日の流れの上で作り続けられた豊かな楽曲と、世の中の移り変わりやバンドの躍進を思い返して胸が熱くなった。目の前にはバギーの上ですやすやと眠る子供を連れた夫婦が、後ろの方にはまだ大学生くらいの若い男の子がステージを眺めていたのもなんだかグッときた。都会の喧騒から遠く離れ、そこだけが何故か静かで、小さな世界のゆっくりとした穏やかな時間に守られているような心地よさだけは、ずっと昔にひとりきりの部屋で『If You're Feeling Sinister』を聴いていた時のあの感覚とまったく変わっていなくて、安心した。

 最新作『How To Solve Our Human Problems』は昨年12月から3か月連続でリリースされたEPをひとつにまとめたアルバムで、これだけで済んでしまう手軽さも、1枚ずつ順番に揃えていけるマニア向けの遊び心もあって楽しい。計4枚のジャケットと歌詞カードにはインターネットで呼びかけて撮影されたファンの写真を使用していて、先述のライヴでの光景や、昨年10月の来日公演時に駅で出会ったファンを撮影した映像をライヴ中に流したというエピソードもある、ファンとのコミュニティを大事にしたベルセバらしい素敵な試み。そして年齢、性別、国籍の違う様々な表情を集めた写真は、ヴァラエティに富んだ楽曲を集めたこのアルバムの顔にとてもふさわしい。
 あらためて通して聴いてみると、前作『Girl in Peacetime Want to Dance』から引き続くシンセを効かせたダンス・ポップのあいだに初期の頃を思い出すようなアコースティックで優しい曲をちりばめ、前半に置いたダウンテンポのロマンチックなインスト曲に歌を乗せて後半に再び登場させるなど、EPの寄せ集めではない聴きやすさを作り上げているのはお見事。基本的にはセルフ・プロデュースで作られたようだが、ブライアン・イーノの作品にも関わっていたレオ・エイブラハムが3曲、ザ・クークスの4枚目のアルバム『Listen』を手掛けた若手ヒップポップ・クリエイターのインフローが2曲のプロデューサーとして共に参加、さらに"Best Friend"ではグラスゴーの4人組ガールズ・バンドTeenCanteenのカーラ・J・イーストンがリード・ヴォーカルを取っていて、そんな新たな交流もアルバムに隠された多彩な魅力を表している。
 なかでもブライアン・マクニールがプロデュースした"We Were Beautiful"はとくに素晴らしい。ドラムンベースのリズムにベルセバ節炸裂の哀愁のあるメロディとドラマチックなトランペットの音色が絡み合い、叙情的で繊細で。べ、ベルセバにドラムンベース⁉︎ と思ってしまうほどサウンド面で大胆な挑戦をみせた曲の邦題に「あの頃、僕らは美しかった」と付けられているのも印象的(是非はともかくベルセバにいまもまだ邦題が付けられているのは嬉しい)。

 大事な曲なので少し歌詞を引用したい。

 「僕らは最先端のシーンにいた
 そこではコーヒー豆を挽き
 女性たちは斜に構え
 男の子たちは薄っぺらで
 顎鬚を生やしてる
 僕らは外からそこを覗き込んでる」

 ここでサビの「We Were BeautiFul〜」に繋がればただのノスタルジックで詩的な曲にすぎないのだけれど、この後に

 「いまという時代を突き抜けて
 賑わう雑踏を高く越えて
 ありのままの君を見よう
 君の姿を見るんだ、星よ」

 と、いまの彼らは続ける。「あの頃」の面影を残しつつも、新しい美しさを身につけて。不思議なことに、曲調は違うけれど似たようにメンバー構成が変わりながらも20年もの間、コンスタントにずっと活動を続けてきたくるりの新曲「その線は水平線」を聴いた後にも同じような力強さと静かな感動があった。


 How Two Solve Our Human Problems。我々人間の問題を解決する方法。そんなものがあるのかはわからないけれど、いまのベルセバの楽曲やライヴでの姿に少しだけヒントが隠されているような気がする。そういえば日本盤のボーナス・トラック"Sometimes"の最後で繰り返し歌われているのは「自分の人生に関わる人びとを愛するんだ」という言葉だった。年齢を重ねていけばいくほど、不安定でナイーヴだった時を反対側から眺めることができるようになり、それはそれで複雑な感情が生まれて動けなくなったりすることもあるけれど、変化を恐れず知性とアイディアを持って音楽を続ける彼らの勇姿とあの笑顔を讃えながら、何度も聴いて、考えてみようと思う。もういなくなってしまった人たちのことを時々思い出しながら。

Various Artists - ele-king

 南アフリカからのGqomに続き、今度は東アフリカのタンザニアからとてもかっこいい新しい音楽がやって来ました。今回ご紹介するのはその新しい音楽Singeliの最新形態楽曲をウガンダのレーベル〈Nyege Nyege Tapes〉が編纂したコンピレーション・アルバムです。
 Boomkatのスタッフは「これは2017年に聴いた物の中でも、疑いなく最もトチ狂ったエキサイティングな新しい音楽だ」と、興奮気味にコメントしています。

 僕が知らないだけかもしれませんが、日本ではおそらくSingeliという音楽がほぼ認知されていないと思いますので、少しその背景を調べてみました。過去15年間に渡って東アフリカの中ではタンザニアの大都市ダルエスサラームが、最もエキサイティングなアンダーグラウンド・エレクトリック・ミュージック・シーンを形成してきたそうです。Mchiriku、Sebene、Segere(全て音楽形態の名称と思われる)などの星座のように点在する小さなシーンはやがて数年間のアンダーグラウンドでの潜伏期間を経て、最新の音楽形態Singeliとして爆発的に広まり、タンザニアの若者たちの間で人気だったBongo Flavaというジャンルに取って代わりメインストリームへ躍り出たという事です。

 ここでおそらく多くの人が疑問に思うのはBongo Flavaって何? という事だと思うのですが、これを調べてみるとちゃんと日本語のウィキペディア・ページがあり、YouTubeで検索すると「New Bongo flava songs 2017」「同2018」というプレイリストが出てきますが、レコード店でこの名称を用いて取り扱っているのはCompuma氏もお勤めのEL SUR RECORDSくらいのようですので、やはり日本での認知度は低そうです。

 Bongo Flavaは東アフリカにおける共通語であるスワヒリ語のLyricが特徴で、欧米のHIP HOPの大きな影響を受けていると同時にローカルな音楽(Taarab、Filmi、リンガラ音楽など)の要素がMIXされ、タンザニアンHIP HOPと呼ばれることもあるそうですが、Singeliを聴いた後では結構普通に聴こえてしまいます。ではSingeliとはどんな音楽なのかと言うと、日本語のウィキペディア・ページはまだありませんが、YouTubeで検索するとそれらしき物が出てきます。

 これなんかを見ますと日本との文化の違いを痛烈に感じます。経てきた歴史も土地の位置・風土も全く違うわけで当たり前なのですが、ウィキペディアで歴史を少し辿るだけで植民地、クーデター、エボラウィルスなどの単語が出てくるわけで、この音楽に漲(みなぎ)っているエネルギーはそうした歴史の中にあっても満ち溢れる生命力を示しているかのようです。

 タイトルにある「Sisso」というのはシーンの要となっているSISSO STUDIOというスタジオの名称のようです。それではそろそろ本題に入りたいと思います。

 とにかく全14曲すべてが高速で、BPMは遅いものでも170以上、200を超えるものも珍しくなく、ラスト・トラックのSuma“TMK”などは240近く、ということはBPM 120のものとMIXできる事になります。言語はおそらくBongo Flavaと同じくスワヒリ語でしょう。何を言っているのかは全く分かりませんが、歌唱法としてはRAPと言っていいと思います。RAPも乗せるトラックが高速なので勢いがあり、50centのようなDOPEさは出ないものの、ある種の催眠性のようなものがミニマル・ミュージックのごとく醸し出され、曲によっては呪術的なムードを湛(たた)えたものもあります。Lyricの内容は警官の汚職から別れた恋人とのいざこざまで、という感じらしく、彼らの日常を反映したもののようです。

 Dogo Suma Lupozi“Kazi Ya Mungu Haina Makosa26”(A2)はBPM 175くらいでミニマルに繰り返されるレイヴィなシンセコードに乗ってMCがひたすら休みなく声を出し続けます。時折スクリュード・ヴォイスがユニゾンで付き添う。シンセコードが小節頭のように感じるので、キックはBPM 175四分音符裏打ちで入っている(ように僕は感じる。速過ぎて混乱します笑)から、MIXするとちょっとややこしい事になりそうです。このミニマルに繰り返されるシンセコードが癖になります。スワヒリ語の語感や言い回しも独特な感触があり、こちらも面白い。TRAP風の引きずるようなベースラインも出てきます。以降もアルバム全体を通してスクリュード・ヴォイスは度々登場しますが、この音楽そのものがスクリューされたもののようでもあります。

 昨年リリースされたBullion“Blue Pedro”(名曲)〈TTT058〉のギター・フレーズを高速化したような旋律の上をMCが煽るように何か言い、スクリュード・ヴォイスが少年合唱団のごとく歌いあげて始まるDogo Niga“Polisi”(A3)。ベースラインも高速化されてバカテク・ベーシストの演奏のようになっていて、特にスライドを多用している部分なんかは面白い。陽気なメロディーが高速でミニマルに繰り返されていて、ベースラインに耳を傾けると少し笑ってしまいますが、聴いていると催眠的に幸福感が湧いてくるような曲です。しかし調べてみると「polisi」はスワヒリ語で「police」を意味するようなので、Lyricの内容は幸福感と真逆なものなのかもしれません。わざと対比させて皮肉っているのかも? もしそうなのだとすれば風刺的な1曲という事になります。

 MCのリフレインが癖になりそうな、少しダークでどこかGRIMEっぽい雰囲気が漂うMzee Wa Bwax“Mshamba Wa Kideo”(B2)に続き、物凄い勢いで迫りくるMCとレイヴィ・シンセ・フレーズが一丸となって繰り返されるDogo Niga“Kimbau Mbau”(B3)に圧倒されます。出だしは勢い余って、という感じでベースキックの音がブーストして歪んだりします。とにかくシンセ・フレーズが最高で、然(しか)るべきトラックに少しずつこの曲をMIXしていけば相当かっこいいのではと想像できます。時間も6分30秒あり、たっぷり。

 C sideが特に最高でお気に入りなのですが、Ganzi Mdudu“Chafu Pozi”(C1)は畳み掛けるようなRAPがかっこよく、タイトルだから聞き取れる「Chafu Pozi」というサビのフレーズの野太い声もかっこいい。重いキックの音にも痺れます。途中で速回しのような軽い音も入ってきたりしてメリハリも付いているし、デカい音で聴くと最高な予感。続くDogo Niga“Nikwite Nan”(C2)はダンスホールっぽくて、バックの音は細かく割られてはいますが、BPMは176でも88の感じでも聴けます。繰り返される三味線のような音のフレーズはアフリカの民族楽器なのでしょう。音のユニークな組み合わせを感じます。威勢の良いMCが最高にかっこいいMzee Wa Bwax“Mshamba Video Mster”(C3)はバックトラックも最高で、やっぱりレイヴィなんですよね。チープな感じの音のシンセ・フレーズに上がります。こういう曲たちがどんな風に聴かれているのかを想像してみるのも楽しい。

 煽るようなMCは声を出し続け、ひたすらタイトルを連呼する声はサンプリングされたものだろう、リズムトラックのごとく機能し細かく刻まれるリズムと同調、楔(くさび)のように裏に入りシンコペーションさせる音が相まって、全体的にダークなムードを醸し出しながら物凄い勢いで駆け抜けるDogo Niga aka Bobani“Tenanatena Rmx Cisso”。そして最後を締めるのは前述のSuma“TMK”。始まりは少し陽気なラテン・フレーバーも感じますが、すぐに何かに追われるかのような焦燥感が暗い感触を生み、MCは6分間言葉を発し続けます。この曲を実際に現場でMIXするのが楽しみです。

 このアルバムを評す際によく引き合いに出されているのはガバやブレイクコア、スピードコアなどのジャンルですが、僕はそれらのジャンルについてほぼ何も知りません。アフリカのローカルな音楽についても同様です(個人的には大石始さんのこのアルバムのレヴューがあれば読んでみたい)。そんな僕でもこの音楽のかっこよさはビンビン感じるし、レヴューを書くために何度も聴いていると無性にNozinjaが聴きたくなり、久しぶりに〈WARP〉のアルバムがターンテーブルに乗り、また新たな魅力を感じたりする事になるなど、音楽って本当に素晴らしいですね、と改めて、というか何度も何度も再確認している事を、また確認できました。多謝。

 このレヴューを書くに当たって、bandcampのテキストを参照しました。そのbandcampで全曲フル試聴ができます。元は限定版のテープで出ていたもので、ヴァイナル化に当たりMatt Coltonによるリマスタリングが施されています。Boomkatでは限定カラーヴァイナルも発売中。

Joe Armon-Jones - ele-king

 どんどん燃え上がるサウス・ロンドンのジャズ・シーン。2月に〈Brownswood〉からリリースされたコンピ『We Out Here』はその熱気を切り取った格好のドキュメントであり、今年最初の重要作でありますが、そこに参加していたジョー・アーモン・ジョーンズが初のソロ・アルバムをリリースします。エズラ・コレクティヴの一員としても活躍する彼は、クラブ・ミュージック~エレクトロニック・ミュージックの文脈とも密接にリンクしていて(昨秋サン・ラのカヴァーで話題になった彼らのEP「Juan Pablo」のミックスはフローティング・ポインツが担当)、つまりジャズ好きのあなたにとってはもちろんのこと、「ジャズはあまり得意じゃないんだよなあ」というそこのあなたにとっても注目すべき重要なアーティストなのです。一部ではポスト・フライング・ロータスとも表現されており……ほら、気になってきたでしょ? 発売日は4月27日。

いまもっとも熱い注目を集める南ロンドン・ジャズ・シーンの真打
ジョー・アーモン・ジョーンズ、待望のデビュー・アルバム『Starting Today』
日本先行リリース決定!
ロンドンのストリート・サウンドを示す新世代ジャズの新たな潮流

エレクトロニック・ミュージックの世界からロック~パンクに至るさまざまな分野で、現在もっとも注目を集めるサウス・ロンドン。シンガー・ソングライターでもキング・クルールやトム・ミッシュなど若い才能が続々と登場しているが、そうした南ロンドンでもひときわ熱いのがジャズ・シーンである。特にロバート・グラスパーの登場以降、アメリカでは、ケンドリック・ラマーやフライング・ロータスが自身の作品に積極的にジャズを取り入れ、カマシ・ワシントンやサンダーキャットといったニュー・ヒーローが生まれる一方、ロンドンでもシャバカ・ハッチングス、モーゼス・ボイド、ヌビア・ガルシア、ユセフ・カマールなどの台頭で湧き、そうした熱い息吹はジャイルス・ピーターソンのコンピ『We Out Here』でも伝えられるが、ここにシーンの最重要キーボード奏者及びコンポーザー兼プロデューサーであるジョー・アーモン・ジョーンズのデビュー・アルバム『Starting Today』が登場した。今回の発表に合わせてアルバムのオープニングを飾るタイトルトラックが公開された。

Joe Armon-Jones - Starting Today
https://youtu.be/mdz9jHg-mWM

アフリカンやカリビアン系黒人の多い南ロンドン・ジャズ・シーンにあって、ジョー・アーモン・ジョーンズは異色とも言える白人ミュージシャン。しかし、黒人さながらのグルーヴとフィーリングを有し、アフロ・ジャズ・ファンク・バンドのエズラ・コレクティヴの一員として活躍。ファロア・モンチやアタ・カクのツアー・サポートも務めている。2017年はエズラ・コレクティヴでサン・ラーの“Space Is The Place”のカヴァーを含むEP「Juan Pablo: The Philosopher」をリリースする一方、DJ/トラックメイカーにしてベースも操るマックスウェル・オーウィンと組んでEP「Idiom」をリリース。アコースティックとエレクトロニックを自在に行き来するジャズとディープ・ハウスの中間的な作品集で、Boiler Roomでのライヴも好評を博する。「Idiom」には女性版カマシ・ワシントンとも言うべきサックス奏者のヌビア・ガルシア、ギル・スコット・ヘロンとキング・クルールが出会ったようなギタリスト兼シンガー・ソングライターのオスカー・ジェロームも参加しており、ジャズ・ミュージシャンでありながらクラブ・サウンドやエレクトロニック・ミュージックにも通じるジョー・アーモン・ジョーンズの姿を映し出す作品集となった。

前述の『We Out Here』にも、自身の作品やエズラ・コレクティヴで参加したジョー・アーモン・ジョーンズが、満を持して発表する『Starting Today』には、現在の南ロンドン・ジャズ・シーンの最高のメンバーが集結する。「Idiom」に続いてヌビア・ガルシア、オスカー・ジェローム、マックスウェル・オーウィン、エズラ・コレクティヴのトランペット奏者のディラン・ジョーンズに加え、ザラ・マクファーレンのプロデューサーとしても活躍する天才ドラマーのモーゼス・ボイド、オスカーと共にアフロビート・バンドのココロコで演奏するベーシストのムタレ・チャシらも参加。女性シンガー・ソングライターのエゴ・エラ・メイ、ラスタファリ系ポエトリー・シンガーのラス・アシェバーらもフィーチャーされる。

『Starting Today』にはジャズ、アフロ、レゲエ、ダブ、ソウル、ファンク、ハウス、テクノ、ヒップホップ、ブロークンビーツなど、ジョー・アーモン・ジョーンズが吸収した様々な音楽のエッセンスが詰まっていると共に、それは折衷的で雑食的なロンドンのストリート・サウンドを示している。インナーゾーン・オーケストラのテクノ・ジャズとロニー・リストン・スミスのアフロ・スピリチュアル・ジャズ・ファンクを繋ぐような高揚感溢れる表題曲に始まり、メロウなAOR~アーバン・ソウルの“Almost Went Too Far”はサンダーキャットにも対抗するようなサウンド。スペイシーなエフェクトが効いたダブ・ミーツ・ジャズの“Mollison Dub”、サン・ラー風のコズミック・ジャズをバックにオスカー・ジェロームがファンクとレゲエ・フィーリングをミックスさせて歌う“London's Face”は、ジャマイカンやアフリカ移民の多いUKらしさを象徴する作品。“Ragify”はJディラを咀嚼したようなヒップホップ調のビートを持ち、ロバート・グラスパーやクリス・デイヴらUS勢に対するUKからのアンサーと言えるナンバーだ。

南ロンドン・ジャズ・シーン最重要アーティスト、ジョー・アーモン・ジョーンズのデビュー・アルバム『Starting Today』は、日本先行で4月27日(金)にリリース! 国内盤CDには、ボーナストラックとして、ジャイルス・ピーターソンが手がけたコンピレーション『We Out Here』に提供された“Go See”を追加収録。iTunesでアルバムを予約すると、公開されたタイトルトラックがいち早くダウンロードできる。

label: Beat Records / Brownswood Recordings
artist: JOE ARMON-JONES
title: Starting Today

BRC-572 (国内盤CD) ¥2,200+tax
ボーナストラック追加収録

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