「You me」と一致するもの

Noah - ele-king

 Noah 『Thirty』は、いくつもの色彩が反射するダイアモンドのようなエレクトロニカ・ポップであり、ひとりの音楽の感性の中に瞬いた「光と旅と都市を巡る音楽」でもある。

 Noah は日本の電子音楽家だ。2009年より音楽活動を本格化させ、ピアノやクラシック音楽をベースにしつつ、繊細で緻密なエレクトロニカ/ポップな作品をリリースしてきた才人である。代表作をひとつ挙げるとするならば東京の音響レーベルの老舗〈Flau〉から2015年にリリースされ、英国『ガーディアン』誌で絶賛されたという『Sivutie』だろうか。

 「白昼夢」の世界を描いたという『Sivutie』から4年を経て発表された作品が、新作『Thirty』である。本作品において Noah は「自分が自分でないような」感覚をカラフルな現実として表現していく。「東京」という都市が現実と虚構の狭間で色彩豊かに生成するような感覚とでもいうべきか。じじつこの4年のあいだに Noah は故郷の北海道を離れて東京を活動拠点とするようになったという。『Thirty』には未知の都市に対する繊細な感性が横溢している。

 そう、エレクトロニカにおいて私たちはいつもひとりの音楽家の感性と感覚と認識と感情を知ることになる。エレクトロニカはとてもパーソナルな音楽なのだ。Noah の音楽も都市が放つ粒子の只中で、自身の「声」を生成する。「声」とはいわゆる人の声だけではない。音楽の、音響の、和声、旋律の中に息づいている音楽家の「声」だ。
 私たちはすぐれた音楽を聴くと、たとえインストの楽曲であっても作曲した音楽家の「声」を感じることがある。例えば坂本龍一のピアノ曲。彼のハーモニーは、その音楽の「声」だ。近年ではフローティング・ポインツのトラックに彼の「声」を聴き取ることができた。Noah の楽曲も同様である。彼女の音楽には、彼女にしかない響きがあった。たとえばそのハーモニーに、そのメロディに、そのノイズに。

 本作『Thirty』は Noah の新しい代表作に思えた。『Thirty』は前作『Sivutie』以上にポップなトラックを収録している。電子音響のカーテンのように幕開けを告げる“intro”、ダンサブルなエレクトロニカ・ディスコ“像自己”、ピアノと電子音とヴォイスが交錯するオリエンタルな“夢幻泡影”、エキゾチック・エレクトロニカ・ミニマル・ミュージックとでも形容したい“18カラット”、80年代香港ポップをエレクトロニカ経由で粒子化したような“メルティン・ブルー”、硬質なムードに満ちたラグジュアリーでインダストリアルな“愛天使占”、シンプルなメロディとミニマルな電子の交錯が心地よい“シンキロウ”、エレピの響きとハイハットの刻みの中心に空間的な静寂のなか中華的なメロディと微かな電子音が交錯する“風在吹”、アップテンポの4つ打ちビートとディスコ的なベースラインと麗しい音響処理による“像自己 alternative ver.”。

 全曲 Noah という音楽家の作曲家としての力量とサウンドメイカーとしての繊細さと緻密さが交錯しており、現時点での彼女の最高傑作といっても過言ではないだろう。2018年にリリースされた Teams と Noah と Repeat Pattern による『KWAIDAN』での制作が、『Thirty』にも大きな影響を与えているのでないかと想像してしまった。

 『Thirty』を聴くこと。それは見知らぬ都市を訪れたときに感じる未知の「光」を感じる経験に似ている。都市の放つ光に目が眩む感覚。この作品には、どこかそのような旅行者の意識を感じた。その場のすべてを吸収するように移動を重ね、意識と感覚を飛躍させる未知なる都市の旅人たちと同じように、本作の楽曲たちは、どこか「次」へと向かおうとする意志を放っていたのである。
 ここではないどこかへ。仮想と現実の彼方へ。エレクトロニカ、ポップ、オリエンタル、クラシック、ヴェイパーウェイヴ、アジアン・ポップなど軽やかにステップしつつ、まるでダイアモンドのように華麗な光を放つ本作を聴きながら、私はすでに Noah の次回作がいまから楽しみになっている。

Squarepusher - ele-king

 先日の〈Warp〉30周年記念公演《WXAXRXP DJS》において、実質ライヴのような強烈なDJをかましてくれたスクエアプッシャーだけれど、なんと年明けにニュー・アルバムがリリースされる。タイトルは『Be Up A Hello』で、1月31日発売。最近はオルガン奏者ジェイムズ・マクヴィニーの作品に関わるなど、ずっと活動を続けていたトム・ジェンキンソンではあるが、スクエアプッシャーとしてはじつに5年ぶりのフル・アルバムとなる。年内12月6日に発売される先行12インチから“Vortrack”とそのセルフ・リミックス“Vortrack (Fracture Remix)”の2曲が公開されているが……これはかなり90年代っぽい? 原点回帰? アルバムへの期待が昂まるぜ。

[12月9日追記]
 更新情報です。先週末発売となった先行シングル「Vortrack」を購入すると、ボーナストラック“Vicsynth1.3 Test Track 1”がダウンロードできるそうです。さらに、1月31日発売のアルバム『Be Up A Hello』のTシャツ付きセット盤にも、それとは異なるボーナストラックが追加されるとのこと。これは嬉しいね!

5年ぶりの待望の最新アルバム『BE UP A HELLO』収録曲先行12インチ・シングル「Vortrack」に隠れボーナストラック!
アルバムのTシャツ付セットにも別のボーナストラックが追加!

〈Warp Records〉30周年記念イベント『WXAXRXP DJS』では、狂気じみたパフォーマンスで話題を集め、その後5年ぶりとなる最新作『Be Up A Hello』(2020年1月31日発売)のリリースも発表し、ファンを喜ばせたスクエアプッシャー。アルバムに先駆けて先週リリースされた12インチ・シングル「Vortrack」に封入されたダウンロード・カードから、表題曲“Vortrack”と自らリミックスした“Vortrack (Fracture Remix)”の他に、ボーナストラック“Vicsynth1.3 Test Track 1”が入手できることが明らかとなった。

さらに、アルバムと同時発売されるオリジナルTシャツ付セットにも別のダウンロード・ボーナストラックが追加されることが決定。90年代のアナログ機材が多用されたという最新アルバム『Be Up A Hello』の制作中、様々なアイデアを試み、様々な形でファンに届けようとするトム・ジェンキンソンの積極的な姿勢が垣間見られる。

スクエアプッシャー、5年ぶりの待望の最新アルバム
『BE UP A HELLO』を1月31日にリリース決定!
先行シングルと自身が手がけたリミックスを同時解禁!

常に新しい響きと新たな試みを求め、リスナーに驚きと衝撃を与え続けている唯一無二のアーティスト、スクエアプッシャーが5年ぶりとなる最新作『Be Up A Hello』(2020年1月31日発売)のリリースを発表! 先行シングル“Vortrack”、そして自らがリミックスした“Vortrack (Fracture Remix)”が同時解禁された。この2曲を収録した12インチは、アルバムに先駆け12月6日(金)にリリースされる。

Vortrack (Original Mix)
https://youtu.be/s3kWYsLYuHc

Vortrack (Fracture Remix)
https://youtu.be/59ke5hp-p3E

〈Warp Records〉が30周年を迎えた2019年、レーベルメイトのワンオートリックス・ポイント・ネヴァー、ビビオとともに3都市を巡った30周年記念イベント『WXAXRXP DJS』では、自身の楽曲群を用いて「もはやライヴでは?」と思わせるほどアッパーな高速ドリルンベース・セットを披露し、満員のオーディエンスを熱狂させたことも記憶に新しいスクエアプッシャー。そのセットにも組み込まれていた未発表の新曲も本作『Be Up A Hello』に収録となる。狂気じみたそのパフォーマンスには、直感と初期衝動に従って一気に完成させたというこの最新作の存在があり、本作を特徴付けた大きな要因に、90年代のアナログ機材を多用したという事実がある。エレクトロニック・ミュージックに目覚めた当時の思いや記憶を綴った日記のようでもあり、いつになくメロディアスで聞きやすい曲もあるのは確かだ。しかし、やはりその内容はスクエアプッシャーの音楽以外のなにものでもない。強烈で、スピーディで、目まぐるしくて、刺激的で、先の予測のつかないスクエアプッシャーの音楽だ。そして映像クリエイターのザック・ノーマンとトム自身がデザインしたアルバム・ジャケットには、『Do You Know Squarepusher』以来初めて、スクエアプッシャーのアイコニックなロゴも登場する。

自分がエレクトロニック・ミュージックを書き始めた頃、つまり90年代に自分が使っていた、そういう機材を使って新作を作りたいと思った。とにかくやりたかったのは、何かに取り組み、仕上げ、そして次に進む、ということ。今回のアルバムは直球で、インパクトに満ちた響きにしたかったんだ。 ──SQUAREPUSHER

最新アルバム『Be Up A Hello』は、2020年1月31日(金)発売。国内盤にはボーナストラックが追加収録され、解説書が封入させる。また数量限定でオリジナルTシャツセットも発売決定!

label: Warp Records / Beat Records
artist: Squarepusher
title: Be Up A Hello
release date: 2020.01.31 FRI ON SALE

国内盤CD BRC-624 ¥2,200+税
国内盤CD+Tシャツ BRC-624T ¥5,500+税

国内盤特典:ボーナストラック追加収録/解説書封入

label: Warp Records
artist: Squarepusher
title: Vortrack
release date: 2019.12.6 FRI ON SALE

輸入盤12inch WAP439

beatink:
https://www.beatink.com/products/detail.php?product_id=10683

消費税廃止は本当に可能なのか? (4) - ele-king

財政のために人々がいるのではなく、人々のために財政がある。

 本シリーズの第三回目では、政府や銀行はその支出に際し財源は必要ない、ただ金額を記帳するだけでお金が生まれるとする概念「スペンディング・ファースト(最初に支出ありき)」や「万年筆マネー(Key Stroke Money)」のことをお伝えした。

 このことは政府や中銀、市中銀行の会計を調査することによって明かになった経緯がある。関西学院大学の朴勝俊教授がランダル・レイ教授の著作「Modern Money Theory」の会計的側面に関する要点( https://rosemark.jp/2019/05/07/01mmt/ )をまとめてくれている。バランスシートを解読することはなかなか難しいかもしれないが、それによると資産と負債が常にイコールになっていることや、政府がただ支出することによって民間に預金が生まれていることがわかる。

出典:MMTとは何か —— L. Randall WrayのModern Money Theoryの要点:関西学院教授・朴勝俊

 「誰かの負債は誰かの資産」だ。例えば上図からは民間銀行の資産「⑩中央銀行券」は中央銀行の負債「⑩中央銀行券」に対応していて、そこからは私たちが普段使っている日本銀行券(通貨)は、もともとは日銀の負債だったこともわかる。

 信じられないかもしれないが、これは事実だ。主流経済学は「貨幣がどこでどうやって作られるか」に注目してこなかった貨幣ヴェール論のままにマクロ経済を論じてきた。ノーベル経済学賞を受賞したポール・クルーグマン教授はMMTにも好意を示しているが、ランダル・レイ教授が以下のように批判している。高名な経済学者でさえ理解していなかったのだから、多くの人が知らなくても無理はない。

「彼は『お金が無から生まれるだって?』『政府の資金は尽きないのか?』といった問いを止められない。彼は”お金”が貸方と借方へのキーストロークの記録であることを全く理解していない。いまだに銀行が預金を取り込み、それらを政府に貸していると考えているんだ」
出典:New Economic Perspectives

 さて、財務省のプロパガンダを信じておられる方は「それでも政府債務である国債が1100兆円にも膨れ上がっているのだから、早く返さなければいけないのだ!」とツッコミを入れるかもしれないが、その点もとくに心配はいらない。

 MMTの視点では、政府支出後に発行された国債は金融市場を介して中銀の発行する準備預金と両替されるだけであり、また「政府の赤字は民間の黒字」「政府の債務は民間の資産」だと認識しているため、国債発行残高(累積債務)はただ単に貨幣発行額を記したものに過ぎないとされる。逆に国債を償還するということは世の中にある通貨を消滅させるということになるので、とくに減らす必要もない。

 その他のポストケインジアンらの視点では、中銀に買い取られた既発国債は借換を繰り返し消化され、またその中銀保有国債に満期が到来した時は、日本の場合は特別会計の国債整理基金とのやりとりを介して公債金という名の現金として財源化、国庫に納付されるだけとなる。国債償還費の殆どは日本政府の子会社である日銀が払っているし、本来は税金で償還する必要さえないのだ。
(参考:政府債務の償還と財源の通貨発行権(借換債と交付債)について -富山大学名誉教授・桂木健次


出典:政府債務の償還と財源の通貨発行権(借換債と交付債)について ポストマルクス研究会報告 -富山大学名誉教授・桂木健次

 桂木教授本人は「私は覗き見ポストケインジアンのポストマルクス派」と自称されているが、経済学も時代と共に進化するので、一つの学派に限らずいろんな研究成果を取り入れるということだろう。財務省の皆さんにも、ぜひ時代遅れとなった新古典派から脱却し、情報をアップデートしてほしいものだ。

 上記のような国債会計処理の事実があることを知ってか知らずか、--知っていてやってるとしたら悪質極まりない背信行為であるが-- 政府がどケチで、その債務ヒエラルキー下部に属する民間銀行や民間企業もどケチなため、実体市場に貸し借りが生まれない。貸し借りが生まれないということは、債務証書たる通貨も創造されえないということだ。

 通貨がこの世に生まれないから、人々は通貨を手に入れる機会を失い、消費もしなければ投資もしない。繰り返しとなるが「誰かの消費は誰かの所得」だ。誰かが消費しなければ他の誰かの所得が増えるはずもなく、経済は縮小していくのみとなる。

 政府が通貨を創造し、実体市場に供給しなければ、民間はただただ限られたパイ(通貨)を奪い合う弱肉強食の資本主義ゲームに没頭せざるを得なくなるという寸法だ。更には、この実体市場に通貨が足りない状況に加えて、市場から通貨を引き上げる消費増税まで幾度も強行されてきた。

 このような狂ったことを20年間やり続けたことによって、この国の需要は損なわれ、あらゆる産業は衰退した。その結果、台風被害に対する治水などの防災体制や、復旧のための供給能力は毀損された。停電が長引いたことによる二次災害となる熱中症で亡くなる人まで出す有り様になってしまったのだ。被害にあわれた方たちのことを思うと強い憤りを感じずにはいられない。

 そう、まさに「Austerity is Murder(緊縮財政は人を殺す)」だ。

 筆者の目には、この状況は「欲しがりません、勝つまでは」と言いながら、兵站を削りインパールに向かった大日本帝国軍の行軍そのものに見える。

 ケルトン教授は来日時に、「大企業や富裕層らの既得権益を代表する一部の共和党議員は、ほかの国会議員にMMTのロジックが知られてはまずいと思っているからこそ、MMTを危険だとする非難決議を国会に提出した。MMTを理解した政治家によって大多数の国民が助かる政策にお金が使われてしまうことを恐れたからだ。これは逆に、彼らが、政府の赤字支出が誰かの黒字になることを知っている証拠ともなる」ということを語っていた( https://www.youtube.com/watch?v=6NeYsOQWLZk )が、MMTや反緊縮のロジックが知られるとよほど都合の悪い勢力がいるということだ。

 エスタブリッシュメントは、自身らの草刈り場である金融市場にお金を流すことで利益を得ようとしているため、財政政策を介して実体市場にお金が供給されることで、金融市場における自らの利益が減ることを防ごうとしているのだろう。実際にはそんなトレードオフが起こるとも限らないのだが。


 先月、日経新聞が「消費増税に節約で勝つ 日常生活品にこそ削る余地あり」と題した記事で、”買わないチャレンジ”として、「何カ月かすると、それまでは当然のように思っていた物欲が、ほとんど強迫観念のようなものだったことに気がつきました」「日常生活費を削減するため、まずは買わない生活を」といったことを書いていた。

 日経新聞も、本シリーズ冒頭で触れた経団連や経済同友会などと同様に「家計簿脳」まる出しである。このような記事を重ねることで国民の消費活動を抑制させれば、日本経済を破滅に導くことになりかねない。日経新聞が訴えるべきは政府にもっと各所に財政支出をしろ、減税しろということではないか。筆者には何かしらの意図があるように思えてならない。

 日本国内ではこのように気の滅入る論説ばかりが目につくが、海の向こうでは一つの兆しも生まれた。先日、欧州中央銀行のドラギ総裁が、「ECBと各国政府は、金融政策ではなく財政政策に力を入れるべきで、MMTやヘリマネのようなアイデアにもオープンになるべきだ」と発したのだ。

 ドラギ氏は、加えて「ECBが国債を直受け(財政ファイナンス)し、消費者に直接届ける」という向きでも発している。この一連の発言が、どこまで具体性を帯びた政策を想定しているのかはわからないが、各国政府に財政出動を勧めたうえで、ECBは最後の貸し手(Lender of Last Resort「LLR」)役以上の役も担うということなのかもしれない。富を吸い尽くすドラギラ伯爵とも揶揄された彼の、任期満了直前の置き土産といったところか。

 この手の「金融緩和は役割を終えた。財政出動が有効だ」とする論はドラギ氏だけではなく、ポール・クルーグマンをはじめ、IMFチーフエコノミストでMIT名誉教授のオリビエ・ブランシャールや、元ハーバード大学学長で元世界銀行チーフエコノミストのローレンス・サマーズらも同様の発言を重ねているほか、実際にドイツ政府は、景気後退への対応策として国民経済の需要を押し上げるために巨額の財政出動を準備していると伝えられている。

 また、先日開かれたG20では、主要国からは「金融政策頼み」をやめ、財政政策にシフトすべきだとの声も上がっている。IMFのゲオルギエワ専務理事は「金融政策だけでは役に立たない」とも主張していた。

 MMTer達は、この「役割を終えた説」よりもっとラディカルな「金融緩和無効論」を早くから論じてきている。ランダル・レイ教授は「中央銀行家は財政政策をどうすることもできない。彼らは、配られた唯一の手札、つまり金融政策でしかプレイできないが、その手札はバランスシート不況においては無力(インポ)である。回しているそのハンドルは経済に繋がっていなかった」と「MMT 現代貨幣理論入門(p473)」に綴っている。

 MMTが注目される背景には「金融緩和策は資産価格を上昇させ、富裕層だけに恩恵を与えた」という不信感もあるのだが、いずれにしても、上述したように、MMTerと同じような発言が、欧米の超大物エコノミスト達からも発せられているのだから、エスタブリッシュメントの庇護者である自民党や財務省、経団連も無視できないのではないだろうか。


 日本では、山本太郎氏の影響もあってか、共産党のみならず国民民主の小沢一郎議員原口一博議員、立憲の川内博史議員ら野党大物議員からも消費税減税ないし積極財政の声が聞こえつつある。加えて、山本太郎氏や松尾匡教授らとマレーシア視察に行った立憲若手の中谷一馬議員は、「MMT(現代貨幣理論)に関する質問主意書」と題した見事な質問書を衆議院に提出している。

出典:衆議院・第200回国会 中谷一馬議員 質問主意書

この質問書と、対する政府答弁に関しては、11月4日と5日に来日講演を予定しているMMT創始者の一人のビル・ミッチェル教授(ニューキャッスル大学)も呼応している。我々一般国民は、野党の議員たちにも声を届けつつ、議論の輪を拡大し、大いに期待して待てば未来は明るいと感じさせてくれる。

 消費税廃止は可能だ。わが国の財政にも心配はない。無意味な心配をし、出し惜しみをすることで余計に状況が悪化することを、わが国は20年かけて証明してきたじゃないか。

 「財政のために人々がいるのではなく、人々のために財政がある」とは、松尾匡・立命館大学教授の言だ。政府財政を均衡させることに意味はない。むしろ財政黒字化のために、徴税で人々のポケットからお金を奪うことは国力の衰退につながる。政府は人々にもっとお金を支出し、経済活動を活発化させることで、生産力を維持し、人々を幸せにしなければならないのだ。

 本稿のような情報に初めて触れられた方もおられるだろう。経済学初学者でミュージシャンである筆者の下手くそな理論解説にもどかしい思いをされたであろうことをお詫びしたい。

 と同時に、たとえば以下のような発言をみたとき、少なからず違和感を覚えていただけたら幸いである。こういう発言こそが、経済学でいう「合成の誤謬」と呼ばれるひとつの勘違いであり、この国を衰退させる考えだからだ。

 ユニクロ・柳井正氏「このままでは日本は滅びる。まずは国の歳出を半分にして、公務員などの人員数も半分にする。それを2年間で実行するぐらいの荒療治をしないと。今の延長線上では、この国は滅びます

Rian Treanor - ele-king

 数年前に〈The Death Of Rave〉からの12インチでデビューを飾り、昨年は復活した〈Arcola〉からの「Contraposition」(別エレ〈Warp〉号94頁参照)や、行松陽介がよくかけていたというホワイト盤エディット集「RAVEDIT」(紙エレ23号38頁参照)で注目を集め、今年は〈Planet Mu〉より強烈なファースト・アルバム『Ataxia』を送り出した新世代プロデューサーのライアン・トレナーが、なんと、早くも初来日を果たす! 迎え撃つのは、日本初のゴム・パーティ・クルーたる TYO GQOM の5人。いやいや、これは行くしかないっしょ。

Local X8 World Rian Treanor VS TYO GQOM

大陸を超える未来のハイパーIDM、Autechre や Mark Fell を継承するUKの新星 Rian Treanor 初来日!

ゴム、シンゲリ、ハウス、テクノ等を交え現行のアフリカン・ミュージックを東京にて追随するクルー〈TYO GQOM〉を迎えた、ウガンダの新興フェス〈Nyege Nyege〉とも共振する新感覚のアフロ・エレクトロニック/レイヴ・ナイト。

Local X8 World Rian Treanor VS TYO GQOM
2019/12/06 fri at WWWβ
OPEN / START 24:30
ADV ¥1,800@RA | DOOR ¥2,500 | U23 ¥1,500

Rian Treanor - LIVE [Planet Mu / UK]

[TYO GQOM]
- KΣITO
- mitokon
- Hiro "BINGO" N'waternbee
- DJ MORO
- K8

詳細: https://www-shibuya.jp/schedule/011898.php
前売: https://jp.residentadvisor.net/events/1348973

※ You must be 20 or over with Photo ID to enter.

■ Rian Treanor [Planet Mu / UK]

Rian Treanor は、クラブ・カルチャー、実験芸術、コンピューター・ミュージックの交差点を再考し、解体された要素と連動する要素の洞察に満ちた新しい音楽の世界を提示する。2015年にファースト12”「Rational Tangle」と〈The Death of Rave〉のセカンドEP「Pattern Damage」で鮮やかなデビューを果たし、〈WARP〉のサブ・レーベル〈Arcola〉は2018年に彼のシングル「Contraposition」でリニューアルしました。〈Planet Mu〉のデビュー・アルバム『ATAXIA』はハイパー・クロマチックなUKガレージと点描のフットワークを再配線し、UKアンダーグラウンド・クラブ・ミュージックの破壊的で不可欠な新しいサウンドとして確立される。2019年は故郷のシェフィールドの No Bounds Festival のレジデント、最近のライブでは Nyege Nyege Festival (UG)、GES-2 (RU)、Serralves (PT)、Irish Museum of Modern Art (IRL)、Berghain (DE)、OHM (DE)、Cafe Oto (UK)、グラスゴー現代美術センター(UK)、Empty Gallery (HK)、Summerhall (UK)に出演。香港の yU + co [lab] やインドでの Counterflows 2016-2017 のアーティスト・レジデンスへ参加。

英国で最も刺激的な新しいプロデューサーの1人 ──FACT

シェフィールドの音楽史を参照しながら、まったく新しい方向性を提示した ──WIRE

音楽の好奇心に火をつけると同時に体も持って行かれてしまう。ダンス・ミュージックはこれ以上面白くなることはないであろう ──MixMag

https://soundcloud.com/rian-treanor

■ TYO GQOM [Tokyo]

南アフリカ・ダーバンで生まれたダンス・ミュージック「GQOM(ゴム)」を軸に現行のアフリカン・ミュージックをプレイする日本初の GQOM パーティー・クルー。GQOM が注目され始めた初期から自身のプレイや楽曲に取り入れてきたメンバーやアフリカの現行音楽に特化したメンバーを KΣITO が招集し、KΣITO、K8、mitokon、Hiro "BINGO" N'waternbee、DJ MORO の5人のDJにより発足。GQOM に留まらず、タンザニアの高速ダンス・ミュージック「シンゲリ」やアフロハウス、テクノなどを交えた5人それぞれの個性溢れるプレイと踊らずにはいられないグルーヴ、熱気を帯びた新感覚のパーティーは各地で話題を呼び、ホームである幡ヶ谷 forestlimit で定期的に開催される本編の他、様々なパーティーにも招かれるなど今熱い視線を集めているクルーである。

https://twitter.com/tyogqom

Nérija - ele-king

 現在のロンドンのジャズ・シーンの特徴のひとつに、女性ミュージシャンが数多く活躍していることが挙げられる。女性ということで切り分けることは、ときに批判を招く恐れもあるのだが、ただほかの国や地域と比べて女性ミュージシャンが圧倒的に多いことは事実で、特に女性が多いシンガーというジャンルだけでなく、さまざまな器楽演奏家に及んでいる。こうした土壌を生んだ要因のひとつに、トゥモローズ・ウォリアーズの存在が挙げられる。トゥモローズ・ウォリアーズはギャリー・クロスビーと、そのパートナーのジャニー・アイロンズによって設立されたミュージシャンの育成・支援機関であるが、ジャニーは慈善事業など社会活動家でもあり、そんな彼女がトゥモローズ・ウォリアーズを興したきっかけのひとつに、男性に比べて活動の場が制限されることの多い女性ミュージシャンの進出に貢献できればということがあった。そうしてトゥモローズ・ウォリアーズには多くの女性ミュージシャンの卵が集まり、巣立っていった。ザラ・マクファーレン、カミラ・ジョージ、サラ・タンディなど、現在の南ロンドンを中心に活動するミュージシャンがそうで、女性ミュージシャンが集まったヴィーナス・ウォリアーズというプロジェクトが組まれたことがある。このヴィーナス・ウォリアーズには、ワーキング・ウィークなどでも活躍したベテランのジュリエット・ロバーツほか(彼女はトゥモローズ・ウォリアーズ出身ではないが、コートニー・パインやギャリー・クロスビーらジャズ・ウォリアーズの面々と親交が深く、別働バンドのジャズ・ジャマイカにも参加していた)、ヌビア・ガルシア、シャーリー・テテ、ロージー・タートン、ルース・ゴラーなどが参加していたが、ヌビア、シャーリー、ロージーはトゥモローズ・ウォリアーズ内でほかにネリヤというグループも組んでいた。

 ネリヤは女性7人組グループとしてスタートし、初代メンバーはヌビア・ガルシア(テナー・サックス、フルート)、キャシー・キノシ(アルト・サックス)、シーラ・モーリス・グレイ(トランペット)、ロージー・タートン(トロンボーン)、シャーリー・テテ(ギター)、インガ・アイクラー(ベース)、リジー・エクセル(ドラムス)だった。ヌビアとシャーリーはマイシャでも活動し、またシード・アンサンブルにはキャシー、シーラ、シャーリーが参加し、シーラがリーダーを務めるココロコにもキャシーが参加するといった具合に、彼女たちのサークルは南ロンドンのジャズ・シーンの中核を担っていると言える。2016年に自主制作でデビュー作の「ネリヤEP」を発表するが、これが〈ドミノ〉のスタッフの目に留まり、今年改めて〈ドミノ〉から再リリースされると共に、ファースト・アルバムの『ブルーム』が発表された。〈ドミノ〉はどちらかと言えばインディー・ロック、オルタナ・ロックのイメージが強く、かつてはポスト・ロック期のフォー・テットはじめ、ジム・オルーク、マウス・オン・マーズなどを紹介していたことで知られるが、今年はシネマティック・オーケストラからブラッド・オレンジまで、ますます幅広いアーティストの作品をリリースしている。ネリヤのどのあたりに〈ドミノ〉が惹かれたのかはわからないが、恐らくオーソドックスなジャズ・バンドとしてではなく、ジャズの枠を超えた何かオルタナティヴなものを感じたからではないだろうか。ジャンルや音楽性は全く違うが、かつてのザ・スリッツやESG、ザ・レインコーツといったオルタナティヴなガールズ・グループ的なモノを感じたのかもしれない。

 さて『ブルーム』の録音では、ベースのインガ・アイクラーがリオ・カイへと替わっている。リオは男性なので、ネリヤは女性バンドではなくなっているのだが、音楽性そのものは「ネリヤEP」の頃を継承・発展させたものとなっている。なお「ネリヤEP」ではリミックスとジャケットのアートワークをクウェスが手掛けていたのだが、今回の『ブルーム』では全面的にプロデュースとミックスを行い、“EU(エモーショナリー・アンナベイラブル)”という曲ではシンセ・ベースなども演奏している。とは言ってもクウェス的な音に加工されているわけではなく、あくまでネリヤの音楽をストレートに表現するためにサポートに徹している。
 ネリヤの武器は、何と言ってもその芳醇で力強いブラス・アンサンブルだ。ライヴなどで4官がフロント・ラインに立って押しの強い演奏を繰り広げる光景は圧巻だが、本作では先行シングルとなった“リヴァーフェスト”にブラス・セクションの迫力が表われている。ニューオーリンズ的なクレオール・ジャズで、マルディ・グラのブラス・バンドに通じるようなアンサンブルを聴かせる。ゴツゴツと角の尖ったドラムは現代的であるが、ブラスやビートの強さの一方で、シャーリーのギターによるメロウで哀愁漂うメロディも印象的。大々的にソロを聴かせる“イクァニマス”など、彼女のギターもネリヤの中で大きなアクセントとなっている。アフロやファンクを取り入れた“ラスト・ストロー”はいかにも南ロンドンらしい曲で、やはりファンク・ビートを導入した“EU(エモーショナリー・アンナベイラブル)”、アフロ・ビート系の“スウィフト”ではダブやレゲエの要素も感じられる。とは言っても、南ロンドン・ジャズに多いクラブ・サウンドやダンス・ビートと結びついたものではなく、ヒップホップやグライム、R&Bなどの要素はほとんど見られない。アメリカのテリー・リン・キャリントンのモザイク・プロジェクトも女性のみのグループだが、こちらはそもそも歌などが入らない完全なインスト・アルバムで、有名曲や人気曲のカヴァーもなく、極めてストレートで硬派なジャズ・アルバムとなっている。ある意味で世の中に媚びていないアルバムであり、強さや包容力が込められた音楽ではないだろうか。

LORO 欲望のイタリア - ele-king

 デビッド・ボウイが亡くなったことに敬意を表したのか、それとも単にクイーンやエルトン・ジョンといった70年代のロック・スターを描いた映画が話題だからか、この春のメット・ガラは「キャンプ」がテーマだった(昨年のテーマは「カトリック」でマドンナが「Like A Prayer」を仰々しく歌い、来年は「時間の流れ」というテーマが予定されている)。メット・ガラはセレブたちがファッション・センスを競う大掛かりなファッション・イヴェントとして知られ、ここぞとばかりに栄耀栄華を見せつける現代の「虚栄の市」なのに、今年は誰も「キャンプ」を正しく理解できず、「ファン」や「キッチュ」に陥っているだけだという厳しい評が飛び交う事態となった。カーラ・デルヴィーニュもジェンナー姉妹もまとめてボロクソに言われるなんて、そうそうあることではないし、確かにエル・ファニングもジジ・ハディッドも泣きたくなるほどダサく、主宰のアナ・ウィンターや果ては審査員まで「まったくわかってない」とダメ出しの嵐であった(キム・カーダシアンは存在自体がキャンプという評は笑った)。70年代というのは、そんなにも遠い時代になってしまったのか。あまりにもノームコアやミニマルが長く続き、もはやミレニアム世代にはデヴィッド・ボウイやスーザン・ソンタグがファッションの文脈で起こした革命は「ジンバブエでムガベ大統領の妻がアイスクリーム屋を始めた」というニュースぐらい遠い出来事になってしまったのだろうか。それともエコとグラマラスはもう相容れない時代に突入し、「キャンプ」を理解できない方が正常だという認識に僕の頭も改めた方がいいのだろうか。デヴィッド・ボウイのことはもう忘れろと。教えてクロエ・スウォーブリック! 

 6つのTV局を所有し、首相としてイタリアの政界に計9年間も君臨した不動産王シルヴィオ・ベルルスコーニを描く『LORO 欲望のイタリア』(以下、『ローロ』)は政治家の映画なのに、『ペンタゴン・ペイパーズ』や『新聞記者』のように正義がどうしたといったパターンではなく、歌とダンス、乱交パーティにドラッグが飛び交い、ケン・ラッセルもかくやと思うほど華美と悪徳に彩られた映画である。いまの日本も政府に都合の悪いニュースはどのTV局もほとんど流さず、玉川徹がいなければ『1984』と大差ない政治状況だし、安倍政権が報道の独立性を脅かし続ければ、こんなにも簡単に国民をコントロールできるのかというイタリアの「前例」に習うばかりなのだろう(無神経な失言が多く、脱税や汚職の数々を裁かれることから逃れた手腕もモリカケ問題を思わせる)。『ローロ』が描くのは中道右派のベルルスコーニが2008年に第4次内閣として動き出すまでの「復権期」。政治を描くのに、こんな方法があるのかと驚かされる斬新さと、人々の欲望やバカさ加減をとりつくろうことなく厚塗りに厚塗りを重ねてテンペラ画のように盛りあげ、イタリア人以外の人類はちょっと真面目すぎるんじゃないのかと思わせるほど生きる歓びと裏表で表現されている。この作品には「事実を示す意図はない」と最初に但し書きが添えられていた通り、虚実もめちゃくちゃだし、どこでどうやって1本の作品となっていたのか、観終わって少し経ってしまうとまるで思い出せない(ので、もう1回観たけど、やっぱりストーリーを順序立てて思い出すことは不可能だった)。全体にわざとらしい音楽の使い方も猥雑さを煽るという意味ではこれ以上ないというほど効果を上げていて、とりわけベルルスコーニがナポリ民謡を歌うシーンは「キャンプ」=「不自然で、誇張されたものを愛好する美学」に肉薄しているとも。ちなみにパオロ・ソレンティーノ監督がベルルスコーニを題材にして映画を撮ろうと思ったきっかけはスーザン・ソンタグの言葉に触発されたからだという。

 実にシュールなオープニングは目を閉じた羊のアップから。この羊が何を思ったか、変な声で鳴いてから大邸宅に入り込み、しばらくTVを観ていると急にバタンと倒れて死んでしまう(ここまでが早くも無上に面白い)。ベルルスコーニが牛耳っているTV局はそれぐらいつまらないものしか流していないという意味にも取れるし、こうしたTV番組の断片がことあるごとにさしはさまれるので、イメージの乱舞は数かぎりなく、そして、とりとめもなく話の整合性をかき乱していく(9月から公開されているルカ・ミニエーロ監督『帰ってきたムッソリーニ』で現代にワープしてきたムッソリーニがイタリアのTV番組を見て「どのチャンネルも料理番組ばかりじゃないか! 政治を語れ!」と激昂するシーンを思い出す)。続いてヨットで娼婦に地方議員の接待をさせるセルジョ・モッラ(リッカルド・スカマルチョ)の物語。娼婦の尻にはベルルスコーニのタトゥーが入れられ、バックで娼婦を犯しながらそのタトゥーを見たセルジョ・モッラは地方を出てローマに向かう決意をする。実力のないセルジョ・モッラは政界へのとっかかりがなかなか掴めず、アルバニア出身のお高くとまったキーラ(カシア・スムトゥニアク)と出会い、ようやく作戦を立て始める。2人が美女たちを集めて夜のローマを歩いていると、ネズミをよけ損ねたゴミ収集車が橋から落ちて爆発し、ファッション・モデルたちの頭に綺羅星のごとくゴミが降り注ぐ。ゴミ収集車が撒き散らしたゴミはベルルスコーニ時代にゴミの回収が行われず、ナポリがゴミの街と化してしまったことをオーヴァーラップさせていることは明らかだけれど、このシーンがまた無上に素晴らしい。そして、夜空はサルディーニャの青空に一変し、ゴミは空一面から降り注ぐMDMAにかたちを変えると200人規模の乱交パーティへと場面は変わる。ベルルスコーニの大邸宅が見下ろせる場所にあるプールで大騒ぎをすればベルルスコーニの気を引けると2人は考えたのである。

 MDMAにはどんな効き目があるかを説明し、その効果を医師が「ビロード」に喩えてからスタートする乱交パーティはかつてパゾリーニやフェリーニなどイタリアの映画界が描いてきた性の過剰さを継承しつつ、現代的な表現に更新を試みる。参加者全員で夕陽に見惚れるシーンはかなり壮観で、MDMAによって高められた共感能力が退廃を通り越して崇高に達してしまったかのような錯覚まで覚えてしまう。そして、ようやく話はベルルスコーニ(トニ・セルヴィッロ)の登場となる。パーティ会場の隣の敷地で女装したベルルスコーニが(冒頭に登場した羊と同じコースをたどって)庭から家の中に入り、ベルルスコーニの淫行報道がきっかけで機嫌を損ねた妻ヴェロニカ・ラリオ(エレナ・ソフィア・リッチ)に花束を渡すも「笑えない」と一蹴され、孫との会話では「真実は口調で決まる」と教えたり、サッカー選手のミシェル・マルティネスにACミランへの移籍を持ちかけたり。ベルルスコーニは首相の座を「たった6議席」の差で失い、この時は「年金暮らしの老人みたいな存在」だったのである。ここにかつて会社を興した旧友、エンニオ(トニ・セルヴィッロが二役を演じた)が訪ねて来て「利他主義は利己主義の最善策」だとハッパをかけられ、政界への復帰を画策し始めることに。やる気になったベルルスコーニは偽名を使って、まずの一介の主婦にセールスの電話をかけてみる──。とにかくセリフがいちいちウィットに富んでいて、「心臓と前立腺に鞭打って」とか「キリスト教と共産主義の共通点は貧しさを説き、それを実現すること」だとか、深く言葉の意味を考えていたら女性の裸に見とれている暇もない。それどころか、これだけ女性の裸を洪水のように垂れ流しながら、(以下、ネタばれ)そうした女性たちのひとりであるステッラ(アリス・パガーニ)には「ここに来たわたしも哀れ」と、若者にしか言えないカウンターのひと言をいわせ、クライマックスでは離婚を切り出した妻との口論で一気に#MeTooへと舵が切られていく。

 ここまででまだ半分。後半、ベルルスコーニが首相に返り咲き、その途端、ラクイラ地方で大地震が起きる。まるでイタリアがベルルスコーニの復活を悲しんで国土が崩れ去ったかのような展開。被災地を見舞ったベルルスコーニが入れ歯を無くした老婆を気遣うシーンはステッラに哀れみをかけられたベルルスコーニが唯一、弱者とのつながりを覚えるものが「入れ歯」だと受け取れる場面で、妙な余韻がこの場面には漂う。全体にベルルスコーニを極悪人として描くわけではなく、専門家によればベルルスコーニの悪行はほとんど描かれていないにもかかわらず、ソレンティーノ監督が「彼の親しみやすさは、ミステリーでもあり、痛みでもありました」と回想する通り、ベルルスコーニが国民にとっての必要悪としてうまく造形された作品なのだろう。こうしたアンビバレンスは安倍晋三と日本国民の関係にも当てはまるのかもしれなくて、「道徳観念がないのが当たり前になっていく国で、抜け道を探しスモールビジネスばかりで変化も乏しい時代、つまりベルルスコーニが登場する前の時代に戻ってしまう恐怖」というものを同じように日本人も感じているのかもしれない(安倍晋三を選び続ける文学性が日本人にも存在するのではないかということで、それは自己憐憫や無常観がミックスされた中世の感覚と似ているのではないかと。『ローロ』では自己嫌悪を感じたステッラだけが、いわばイタリア国民とベルルスコーニとの共犯関係から抜け出すことができたわけだけれど、安倍以外の誰かに日本の舵取りを任せてみようとは考えない狭量さや自分とは違うものには一切、可能性を信じない感覚は一体何に由来するのだろうか)。物語はエンディングで、そうした選択をし続けた国民に断罪の雰囲気を帯びて閉じられていく。『キャッチ22』(70)や『M★A★S★H』(70)といった反戦映画がそうであったように、最後の瞬間にそれまでの狂騒状態がすべて否定されるかのように画調が切り替わり、イタリアのネオ・リアリスモを思わせるくらい風景のなか、瓦礫に埋もれたイエス・キリストの銅像がクレーンでゆっくりと引き上げられていく。ベルルスコーニ時代にイタリアが何を失っていたのか。ラスト・シーンは少しでもこの映画を楽しく観ていたイタリア人に思いっきり冷や水を浴びせたことだろう。

 アメリカには政治家に対して両義的な作品が多いけれど、イギリスが近年、サッチャーやチャーチルを持ち上げる映画をつくったことを知っているだけに、ここまで長期政権の座にいた政治家を叩きのめすかと、そのことにまず感心したい。イタリアは現在、極右政党を連立から追い落として中道左派の与党と最大野党が組んでいるため、右派を批判できる土壌があるということなのか、いずれにしろ、これぞイタリア映画と言いたくなるような作品の登場であり、崩壊しかけていたイタリア映画をベルルスコーニという在在が救ったように見えるのもまた皮肉な話である。登場人物のほとんどが「下心」だけで動いている世界がこんなにも愛すべきものに感じられたのは、それこそフェリーニや今村昌平以来だし、世俗というものの迫力と重みに圧倒させられるのはイタリア映画の醍醐味である。当然のことながらR-15です。

『LORO 欲望のイタリア』予告編

 

Yves Tumor - ele-king

 どこまで続くんだー! 盛り上がりまくりの〈Warp〉30周年、プラッドナイトメアズ・オン・ワックスの次はイヴ・トゥモアだって! 昨年、アルバム『Safe In The Hands Of Love』発表後のじつに適切なタイミングで初来日を果たしたイヴだけれど、今回は東京のDJ、speedy lee genesis が主催する《Neoplasia3》にジョイントするかたち。こりゃほんとうに年末まで気が抜けませんな(ちなみに今日は『WXAXRXP Sessions』の発売日ですよ~)。

YVES TUMOR
30周年を迎えた〈Warp〉新世代のカリスマ、イヴ・トゥモアの来日が決定!
12/14(土)、渋谷WWW にて一夜限りのライヴ・パフォーマンスを披露。

フライング・ロータス、!!!(チック・チック・チック)、バトルスの単独公演/ツアー、さらにスクエアプッシャー、ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー、ビビオが集結したスペシャル・パーティー『WXAXRXP DJS (ワープサーティーディージェイズ)』の開催など、『WXAXRXP (ワープサーティー)』をキーワードに、様々なイベントを行なっている〈WARP〉より、新世代のカリスマ、イヴ・トゥモアの来日が決定! 2018年の『Pitchfork』最高得点を獲得したアルバム『Safe In The Hands of Love』をひっさげての初来日公演はソールドアウト。衝撃のパフォーマンスが話題となった。それ以来1年ぶりとなる今回は、渋谷WWW にて熱狂を生んできた謎のパーティー「Neoplasia3」にジョイントし、一夜限りのライヴ・パフォーマンスを披露する。

12月14日(土)
WWW, WWWβ: Neoplasia3 - Yves Tumor -

Line up:
Yves Tumor [WARP]
and more...

OPEN / START 24:00
Early Bird@RA ¥2,000+1D
ADV ¥2,800+1D | DOOR ¥3,500+1D | U25 ¥2,500+1D
Ticket Outlet: e+ / Resident Advisor

イヴ・トゥモアは2010年頃より Teams、Bekelé Berhanu など、様々な形態の活動を行なってきたショーン・ボウイという人物の物語である。2016年9月、Bill Kouligas が運営する〈PAN〉より幻惑的でノイジーなサイバーR&Bアルバム『Serpent Music』を発表。イヴ・トゥモアというショーン・ボウイの現在のメイン・プロジェクト人格が広く知られることとなった。さらに翌2017年9月には『Experiencing The Deposit Of Faith』というコンピレーション・アルバムをセルフリリースするなど、インディペンデントな活動を行いつつ、今年30周年を迎えたエレクトロニック・ミュージックにおける最もグローバルなレーベルのひとつ〈Warp Records〉へサインした。そして2018年9月にリリースした『Safe In The Hands of Love』は、その年の『Pitchfork』最高得点9.1を獲得した。

『Safe in the Hands of Love』は、抑圧された監禁状態を知覚し、自由への衝動を暴走させる音楽 ──Pitchfork

ここには、Frank Ocean と James Blake が探ってきたものの手がかりが確かに存在するが、何よりも Yves Tumor は黒人の Radiohead という装いが、自分に合うかどうかってことを試して遊んでいるのかもしれない ──The Wire

『Safe in the Hands of Love』を聴くと、大量のロービット音を積み重ねまくった、救済の祈りで塗りたくられたような、Yves Tumor の深くムーディーな循環型の愛を受け取ることが可能だ ──Tiny Mix Tapes

祈りを思わせる霊性とグロテスクで凶暴な獣性。二重性のらせんをポップへと昇華する音楽が大爆発し、2010年代を代表する傑作との評価を得た『Safe In The Hands of Love』。ジェネラルな集合意識を弄ぶかのような、反人間的、非ルーツ的なニュー・ヴィジュアルは混乱と共感を産み出した。

2019年のイヴ・トゥモアは、クラシックなロック・ミュージックのフォーマット、とりわけグラム・ロック的なアプローチを前進させた。9月にリリースされた新曲“Applaud”において、さらにその様相は強まっている。ニューオーリンズ出身で HBA のモデルとしても知られたミステリアス・ロックンローラーで、近年のライヴのコラボレーターでもある Hirakish とLAの才人 Napolian を召喚し、ラフでハードな側面がアップデートされた。

Yves Tumor - Applaud ft. Hirakish & Napolian (Official Video)
https://youtu.be/eeQZ93f2qNw

“Applaud”のミュージック・ビデオはフランシス・F・コッポラの孫、ジア・コッポラによってディレクションされている。円環、渦をモチーフに展開される、パーティーの混乱を収めたこのビデオは、ポスター・ヴィジュアルとともに Yves Tumor 流の古典へのルネサンス的感覚を映し出した。

母体となるのは、東京地下で暗躍するDJ、speedy lee genesis が主催する Neoplasia3。また、通算20回目を迎える WWW のレジデント・シリーズ〈Local World〉がイベント・プロモーションを務める。過去に前述の Hirakish を招聘したパーティーを敢行するなど、Yves Tumor との共感覚、親和性も見逃せない。同イベントは「Prelude 2020 Version」と題した特別編として WWW と WWWβ 両フロアを解放し深夜開催される。Yves Tumor に拮抗する注目の国内アクトの発表は後日。

label: WARP RECORDS
artist: Yves Tumor
title: Safe In The Hands Of Love
release date: NOW ON SALE

国内盤CD BRC-584 ¥2,400
国内盤特典:ボーナストラック追加収録/解説・歌詞対訳冊子

TRACKLISTING
01. Faith In Nothing Except In Salvation
02. Economy of Freedom
03. Honesty
04. Noid
05. Licking an Orchid ft James K
06. Lifetime
07. Hope in Suffering (Escaping Oblivion & Overcoming Powerlessness) ft. Oxhy, Puce Mary
08. Recognizing the Enemy
09. All The Love We Have Now
10. Let The Lioness In You Flow Freely
11. Applaud (Bonus Track for Japan)

〈WARP〉30周年 WXAXRXP 特設サイトにて WXAXRXP DJS で即完したロゴTシャツ&パーカーの期間限定受注販売開始!
受付は11月30日まで。商品の発送は注文後約2週間後を予定している。また会場で販売されたアーティスト・グッズのオンライン販売 も同時スタート! 数量が限られているため、この機会をお見逃しなく。
https://www.beatink.com/wxaxrxp/

Lana Del Rey - ele-king

「希望はわたしみたいな女が持つには危険なもの」──メランコリックなピアノ・バラッドで歌うラナ・デル・レイの声はかすかに震えている。「わたしみたいな女」とはどんな女だろうか。かつて、デヴィッド・リンチの映画のキャラクターを思わせる生気のない顔で「死ぬために生まれた」と歌っていた女だろうか。かつて、「ポップ・ミュージック史上最悪の女性蔑視ソング」をわざわざ引用して男に殴られる様を甘美に歌い、批判された女だろうか。ラナ・デル・レイはずっと、弱く虐げられる女をある種偽悪的に演じてきた。いまに至るまで……結果として、女性のエンパワーメントと連帯が掲げられる現代アメリカのポップ・シーンにおいて、彼女は強烈に異端だ。今年になって発表された、“Don't Call Me Angel (Charlie's Angels)”のミュージック・ヴィデオのなかでアリアナ・グランデとマイリー・サイラスと並んで肩を組む彼女が居心地悪そうに見えたのは、自分だけではないのではないだろうか。
 が、冒頭に引用した歌詞の曲、“Hope Is a Dangerous Thing for a Woman Like Me to Have – but I Have It”で彼女は詩人シルヴィア・プラスを引っ張り出している……プラスはフェミニズム詩人の先駆的な存在と現在では評価されているが、同時に苦難に満ちた人生を送った女性として知られている。従来的なラナ・デル・レイのイメージは後者と紐づけられるのだろうが、しかし、おそらく彼女はいまプラスがフェミニズムと結びついていることも考えているだろう。そして歌う──「希望はわたしみたいな女が持つには危険なもの──だけどわたしは持っている」。

 変化は前作『Lust for Life』から始まっていた。そこで彼女は60年代末の「愛と平和」を思い切り回顧しつつ、しかし自身のセルフ・イメージと重ねることで退廃としてのノスタルジーを浮かび上がらせたのだった。古き良きアメリカ……コンサートで星条旗を掲げていた彼女は、トランプ以降それをやめたという。代わりに、(すでに喪われたはずの)西海岸のラヴ&ピースの精神にレトロ・サウンドとともにどっぷり身を浸した。
 はっきりとトラップ以降のビート感覚とプロダクションをミックスしていた前作と比べ、『Norman Fucking Rockwell!』にはもっと茫洋としたレイドバックが漂っている。オーケストラが控えめに彩るタイトル・トラックから始まり、9分半以上もある“Venice Bitch”では儚げなサイケデリック・ポップがノイズの波にさらわれていく。溶けゆくリズム。ニール・ヤングやイーグルスのようなクラシック・ロックを引用しているのは明らかだが、それらは映像の明度を下げるように不明瞭な音響に包まれる。サブライムをカヴァーした“Doin' Time”のような比較的リズムがはっきりしたトラックもあるが、ほとんどはメランコリックなバラッドばかり。売れっ子プロデューサーのジャック・アントノフの共同作業が肝だったというが、どの程度彼の貢献があったのか自分には正直わからない。それ以上に、彼女が彼女の陶酔の純度を高めていることに感嘆する。『NFR!』においてそれは、そして、20世紀のアメリカ文化の亡霊たちと戯れることである。
 アメリカン・ドリーム、ないしはアメリカの幸福のイメージを描き続けたノーマン・ロックウェルを引用しているのも、彼が具現化してきたイメージが現在喪われていることを明らかに意識しているだろう。ブルース・スプリングスティーンの最新作は西部劇を引用して敗れ去ったアメリカの夢を描き出していたが、ラナ・デル・レイのそれはもっと広範に及んでいる。アルバムで彼女がもっとも感情の昂ぶりを見せるのが“The Greatest”だ。ジョニ・ミッチェルとデヴィッド・ボウイのバラッドを合わせたようなその曲で、ビーチ・ボーイズを懐かしみ、クールだった頃のニューヨークの音楽シーンを恋しがり、と同時に、「カニエ・ウェストは金髪にして行ってしまった」と──ラップ界の異才がおかしくなってしまったと──呟いてみせる。「LAは燃えている、だんだん熱くなっている」とは2018年に起きた山火事のことを指しているが、同時に温暖化のことでもあるだろう。そして、「わたしはもっとも大きな喪失に直面している」、「結局、わたしは大声で歌うだけ」と、言葉とは裏腹にあまり大きくない声で歌うのである。

 暴力的な男をシリアル・キラーに喩え、彼との恋愛に泣いてばかりいる(“Happiness is a butterfly”)ラナ・デル・レイは相変わらず儚い女であり続けている。闘う女でもない。それでもアメリカでの本作の異様な評価の高さを見ていると、彼女の悲嘆が現在のアメリカと見事にシンクロしてしまったとしか思えない。だがそれは、(かつてのような)たんなる装いとしての悲しみではなくなっている。
 このアルバムと同時期に発表したシングル“Looking for America”は銃乱射事件に応えて作られた歌だ。「わたしはまだ自分のヴァージョンのアメリカを探している/銃がなく、旗が自由にたなびくアメリカを/空には爆弾などない/あなたとわたしがぶつかるときの花火だけ/それはわたしの心のなかにある、ただの夢」。それはいわば、サイモン&ガーファンクルの“America”の現代版だ。ノーマン・ロックウェルが公民権運動の高まりとともに幸福のイメージを捨てて人種問題を絵にしたように、ラナ・デル・レイも過ぎ去った美しいアメリカにまどろみながら、しかし社会の混乱のなかで目覚めようとしているのではないか。この催眠的なメランコリーとノスタルジーは、夢と現実との間でさまよいながら、それでも希望を捨てられない人間の弱さに捧げられている。

Yatta - ele-king

 やっぱり画期だったんだろう。こういうのは少し時間が経過してみないとわからないものだけど、ムーア・マザークラインといったアーティストの登場は、10年後に振り返ってみたときに、エレクトロニック・ミュージックの大いなる転換点として如実に浮かび上がってくるにちがいない。あるいはそこにアースイーターの名を加えてもいい。それぞれサウンドは異なっているが、彼女たちはみなおなじ暗い時代の空気を吸いながら、おのおのに実験を突きつめ、既存のスタイルとは異なる道筋を示そうと果敢に闘いを続けている。みずからを「digipoet(デジタル詩人)」と規定するヤッタも、その戦線に加わる者のひとりだ。
 ヤッタ・ゾーカー(Yatta Zoker)はヒューストン出身で、現在はブルックリンを拠点に活動する、シエラレオネ系のアーティストである。ムーア・マザーとおなじく2016年にファースト・アルバム『Spirit Said Yes!』を自主で発表しており、翌2017年には彼女といっしょにNYのアート・ギャラリーのイヴェントに出演。2018年にはブルックリンのバンド、アヴァ・ルナのリーダーたるカルロス・ヘルナンデスのソロ作でヴォーカルを披露する一方、やはりムーア・マザーがキュレイターを務めるケンブリッジのフェスティヴァル《ワイジング・ポリフォニック》にも参加している。どうやらふたりは深い絆で結ばれているようで、ムーア・マザーは今年8月のNTSラジオのライヴでも、アリサ・フランクリンアート・アンサンブル・オブ・シカゴ、バーリントン・リーヴィやラス・Gといったビッグ・ネームたちとともに、ヤッタの楽曲をピックアップしている。
 かくして届けられたのがこのセカンド・アルバム『Wahala』ということになるわけだが、本作ではとにかく、ひたすら、えんえん、声の実験が続いていく。 まずはポエトリーや合成音声、チベットの聲明などがせわしなく駆け抜ける冒頭“A Lie”を聴いていただきたいが、アルバム全体をとおしてじつにさまざまな音声が狂宴を繰り広げている。背後でコラージュされる種々の電子音や生楽器、具体音も聴きどころで、アースイーターの参加する“Rollin”や聖俗入り乱れる“Shine”など、すばらしい音響を聞かせてくれる。

 タイトルの「Wahala」は、シエラレオネのクリオ語で「困難」や「問題」を意味する。このアルバムの制作はまず、躁や鬱について詩を書くことからはじめられたそうで、そんなふうにメンタル・イルネスが主題のひとつになっているところなんかは、きわめて今日的である。たとえば“Blues”では「わたしはブルーズをうまく歌う/そうする必要があるから/ここは地獄だから」と歌われているが、忘れてはならないのはそれが性や人種の問題と結びついている点だ。レーベルのインフォに掲げられている「ブラックであること、トランスであること、そして異邦の地でアフリカンであること」というヤッタのことばは、個人のメンタル・イルネスが社会的、歴史的、政治的なファクターに起因するものであることをほのめかしている。日本では精神疾患や鬱が個人の問題として処理されてしまうきらいがあるけれども、じっさいのところ「地獄」はむしろ、当人の外部からこそもたらされるのだ。
 もっとも注目すべきは、シングル化された“Cowboys”だろう。例によってさまざまな音声がコラージュされていくなかで、ヤッタはずばり、「カウボーイはブラックだ」と歌っている。ようするに同郷のソランジュや、あるいは今年尋常じゃないバズり方をみせている“Old Town Road”のリル・ナズ・X同様、ブラックがカウボーイの姿に扮する「イーハー・アジェンダ(Yeehaw Agenda)」のムーヴメントに乗っかっているわけだけど、それ以上に重要なのは後続のフレーズで、ヤッタは抑制を効かせながら「テクノもそう、テクノも、テクノも」と声をしぼり出していく。ここでデトロイトが念頭に置かれているのはほぼ間違いない。じっさい後半の“Galaxies”や、ムーア・マザーがラジオでとりあげた“Underwater, Now”といった曲のタイトルは、いやでも G2G やドレクシアを想起させる。
 鬱やカウボーイといったポップ・ミュージックのトレンドに反応しつつも、ヤッタは、けっして資本のど真ん中を狙ったり、ネットでウケるためにあれこれ画策したりしない。むしろ、徹底的にアンダーグラウンドを志向している。それはやはり根底に、「黒いテクノ」にたいするリスペクトが横たわっているからではないだろうか。

 ところで『The Wire』のインタヴューによれば、ヤッタは本作に着手したのとおなじころ、カントリー歌手シャナイア・トゥエインのヒット・ソング(彼氏の浮気に悶々とする内容で、MVには白人のカウボーイが多数登場)を聴き返したことで、みずからのマスキュリニティを無視できなくなってしまい、そこで自分がノンバイナリであることを理解したらしい。「ヤッタ」と繰り返すことでなんとかここまで回避してきたけれど、単数形の「they」って日本語でどう表現したらいいんだろう?

FKA Twigs - ele-king

 2010年にデビューし、ブライアン・イーノパティ・スミス以来の逸材と絶賛されたアンナ・カルヴィは、4年後、「EP2」に収録されていたFKAトゥイッグスの“Papi Pacify”(https://www.youtube.com/watch?v=OydK91JjFOw)をカヴァーしている。カルヴィはなるほどパティ・スミスを思わせる堂々とした歌いっぷりで、カントリー色が強く、“Papi Pacify”もスケール感を持たせた仕上がりとなっている(https://www.youtube.com/watch?v=ljI6eLcGyzw)。トゥイッグスとカルヴィの“Papi Pacify”を聴き比べてみると、その違いは歴然で、密室的な響きを重視するトゥイッグスにはヨーロッパ的な美と官能が横溢し、カルヴィのそれは対照的にドライでパワフル、それこそアメリカ的な解放感そのものである。そこは見事に変換されている(トゥイッグスをアメリカ的な空間概念に放り込んだスパイク・ジョーンズのCM「ホームパッド」はまるでわかってねーなー)。「Pacify」には「宥める」という意味があり、トゥイッグスが触感でそれを達成しようとするのに対し、カルヴィにはまったく色気がなく、風に吹かれるなど自然の摂理として同じ効果を期待させているといえばいいだろうか(“Papi Pacify”のカヴァーが収録されたEP「Strange Weather」にはデヴィッド・ボウイとのデュエットやカヴァーも)。

 FKAトゥイッグスの美と官能は何に由来するのか。ひとつには彼女の音楽的バックボーンがインダストリアル・ミュージックと近しいことにあるだろう。これまで僕がトゥイッグスについて書いたことを簡単にまとめると、それは「スクリュードされた賛美歌」だということで、何度も書いてきたことだけれど、ショスターコヴィッチがインダストリアル・ミュージックの元祖だと思っている僕にとってインダストリアル・ミュージックもモダン・クラシカルもポピュラー・ミュージックの場面では大差なく(ポスト・クラシカルと呼ぶのは日本だけ)、大きくいえば拘束の美学に貫かれ、とくにインダストリアル・ミュージックは機械文明のなかで疎外された肉体を誇張して表現してきた歴史があり、官能性はまさにその中心をなす理念といえる。トゥイッグスのヴィデオから音を消してデムダイク・ステアエンプティセットを流してもまったく違和感がなく、トゥイッグスのヴィジュアル表現がインダストリアル・ミュージックそのものだということはすぐに理解できるだろう。インダストリアル・ミュージックが前衛や回顧も含めて2017年にピークに達したということはスロッビン・グリッスルの再発評でも書いた通りで、明らかに2010年代の音楽的な屋台骨をなし、様々に分岐していった一本の小枝がトゥイッグスだったのである(なんて)。とくにアルカとの関係は興味深く、アルカのサウンドを覆う表面的なインダストリアル・テイストではなく、その根底にあるアーサー・ラッセルのスタティックな音楽性はトゥイッグスとアルカをこれ以上ないというほど強く結びつけた感がある。『MAGDALENE』ではアルカはブルガリアン・ヴォイスをサンプリングした“Holy Terrain”のヴォーカルをいじり、プログラムを手掛けた以上の関係ではないけれど、『LP1』(14)で構築されたモードから大きく逸脱することはないという意味で、やはりアルカが与えた指標には大きなものがあるだろう。『MAGDALENE』をつくっていた時期にトゥイッグスがアーサー・ラッセルばかり聴いていたというのもアルカの向こう側にあるものに興味を持ったからではないかと僕は邪推する。“Holy Terrain”はまた、プロデュースでスクリレックスが関わっていることにも驚かされる。

 とはいえ、『MAGDALENE』を生み出す大きな立役者となったのはニコラス・ジャーだという。全体をコントロールしているのはトゥイッグスだけれど、彼女のなかにあったものを引っ張り出してくれたのはジャーの手腕によるところが大きいとトゥイッグスはオフィシャル・インタヴューで強調している。ジャーが関わっていないのは前出の“Holy Terrain”とダニエル・ロパティン(OPN)&モーション・グラフィックスとの“Daybed”だけで、プロデュースに参加していない曲でもジャーはドラムやパーカッションを叩くなど、なんらかのかたちでほとんどの曲に関わっている。ジャーによる2016年のサード・アルバム『Sirens』にはどことなく賛美歌めいた曲もあり、官能性からはほど遠いものの、「Pacify」という感覚を敷衍するという意味でモダン・クラシカルの文脈を共有することができたということなのだろう。ジャーにしても『MAGDALENE』は大きな飛躍を意味したに違いない。それはモダン・クラシカルが主に再生産している18世紀のロマン主義における両義性というものだったのでははないだろうか──彼の新作を聴いてみなければわからないけれど(“Papi Pacify”のカヴァーを含むアンナ・カルヴィのEP「Strange Weather」にはスーサイド“Ghost Rider”のカヴァーが収録され、『Sirens』にもこれに通じるような“Three Sides of Nazaret”だったり、なぜかロックンロールの痕跡が散りばめられている)。

 オフィシャル・インタヴューでトゥイッグスは気になることを語っている。18世紀のドレスとストリート・ファッションのミックスに興味があるというのである(これを聞いてのけぞらないパンク世代はいないだろう。パンク以降、ヴィヴィアン・ウエストウッドとマルカム・マクラーレンはバック・トゥー・ヴィクトリアに向かった前者とBボーイ・ファッションに入れ込んだ後者に分かれて敵対し、ウエストウッドは「Bボーイ・ファッションは低脳」とまで罵っていたのだから)。18世紀のドレスとモダン・クラシカルが掘り起こす18世紀のロマン主義。それらをヨーロッパにおける伝統回帰の範疇として捉え直すと、2010年代のもう一方のトレンドであるワールド・ミュージックの掘り起こしとは、ある意味、同じことを並行してやっているという印象を持ってしまう。ヨーロッパの伝統とアフリカの伝統。どちらにもアイデンティティが契機としてあり、悪くすれば移民排斥の原動力にもなりかねない(南アフリカでは周辺国からの移民が殺される事件が相次ぎ、移民が引き揚げていく現象が起きている)。それぞれの回帰作業を横断してしまうこと。これがトゥイッグスの音楽を特別なものにしているのではないだろうか。「スクリュードされた賛美歌」というのはそういう意味である。ボディ・ミュージックをファンクでねじ伏せたジェフ・ミルズと大枠でやっていることは同じというか。

 ロマン主義とはまた、神の不在が意識された時代でもある。タイトルの由来となった「マグダラのマリア」についてトゥイッグスは、これまで「罪深い女」だとされてきたマグダラのマリアの評価が変わってきたことをあげている。マグダラのマリアには子どもの頃から興味があり、とくに「罪深い女」であり「聖女」でもあるという二面性に惹かれてきたと彼女は続けている。これと同じことをマーティン・スコセッシが1988年に映画化した『最後の誘惑』の原作者ニコス・カザンザキスもイエス・キリストについて述べている。「極めて人間的なものと超人間的なものの両面性を持っていた。キリストのこの二元性は私にとって以前から尽きぬ謎であった」(映画字幕より)。『最後の誘惑』はそして、キリストが磔にならず、マグダラのマリアと結婚して幸せな家庭を営みかけるというアナザー・ストーリーを構築する。そうでなくともキリストを当時、イスラエルにはごろごろいた革命家のひとりとして荒くれ者のように描いた同作は、キリスト教右翼が勢力を伸ばしていたアメリカ各地でボイコットに会い、上映禁止に追い込まれてしまうものの、『聖書』にはマリアとイエスが「結婚していない」という記述は見つからず、少なからずの支持者を得た考え方となり、キリストとその信者の結びつきを考える上ではユニークなアプローチをなしていることは否めない。マグダラのマリアが同じように評価を変えているとしたら、例えば僕にはコージー・ファニ・トゥッティがストリップをやっていたことについて自伝で肯定的に語っていることや、チッチョリーナやサーシャ・グレイといったストリッパーたちが広い意味で文化的に、あるいは政治的にも活躍してきた時代背景との関連を考えずにはいられない。コージー・ファニ・トゥッティもそうだし、マドンナが『ワンダーラスト』(08)でポール・ダンスに寄せていた思いはとても複雑なものに感じられ、“Cellophane”のヴィデオ(https://www.youtube.com/watch?v=YkLjqFpBh84)でトゥイッグスがポール・ダンスを題材に選んだことは(彼女にはマドンナやムツミ・カナモリが性を売って乗り越えなければならなかったハードルはなかったはずだけれど)、そうした歴史の延長上にある表現だったといえるだろう。ジミー・ファロンの「レイト・ナイト・ショー」でトゥイッグスが踊るポール・ダンス(https://www.youtube.com/watch?v=yRyrvdB_3lQ)はまさに息を呑むような美しさであった(それにしても相当な腕の力ですよね、これは)。

 インダストリアル・ミュージックがダンスホールと結びつき、トゥイッグスの横断性に習ったのが2016年。あれから3年が経ち、イキノックスと結びついたロウ・ジャックがヴァチカン・シャドウにもダブをやらせてしまった(https://www.youtube.com/watch?v=BqiRpPZU7V4)。これをファッション・トレンドと呼ばずして何を?

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