「You me」と一致するもの

サファリ - ele-king

 「午前中、ある村から帰るとき、大きな狒狒が、車のわずか十メートルくらい前の道路を横切った。リュタンはよだれを流す、文字通り。しかし僕は、いかなる狩猟本能の爆発も感じないので、ただ、猿の青い尻に目をとめただだけだ。思ったより鋼鉄色を帯びた青だ」(ミシェル・レリス/岡谷公二・田中淳一・高橋達明訳/平凡社)

 ミシェル・レリスは1931年5月19日から33年2月16日までの1年9ヶ月にわたったダカール=ジブチ、アフリカ横断調査団の公的な日誌の体裁をかりた日記文学『幻のアフリカ』の31年7月31日づけの記録に上記の文章を書きつけている。彼らはこのとき仏領スーダン、いまのマリ共和国西部のキタに滞在していた、午前いっぱいをあたりの調査についやした帰り道、同じ車に乗り合わせた調査団の同僚リュタンは車上から猿をみてよだれをながさんばかり。というより文字通りよだれをながしたのだった。興奮したのだろうね。それは狩猟本能の爆発だとレリスは書く。しかし彼の指摘は日本人の読者にぴんとこないかもしれない。食料をえるためにではなく、動物を狩る、仕留める、殺すことはこの社会一般に広く浸透しているようにはみえない。すくなくとも私にはそう思われた。むろん封建時代の王侯貴族や、日本では大名や将軍にとって狩りは彼らの特権を確認する余暇であり、近代以降はブルジョワがとってかわり、たとえば、この映画の資料も言及するヘミングウェイがアフリカへの狩猟の旅をもとにしたためた『アフリカの緑の丘』などにも脈々とうけつがれている。ヘミングウェイのアフリカにいったのは1933年なので時期的にはちょうどレリスがフィールドワークしてまわったころとかさなる。広大なアフリカ大陸でふたりは交錯する、私はそこに偶然ときってすてられない符牒めいたものをおぼえもする。大戦間の欧米には非西欧への憧憬がまだ生きていた。近代におこったそのような機運は20世紀にはいってから、音楽でいえばサティやドビュッシーを刺激し、ブルトンの通底器となり――かつてシュルレアリストだったレリスはブルトンと袂を分かってアフリカに出てきた――フロイトの無意識にも働きかけたかもしれないが、産業革命以後、狭くなった人間の世界認識が求める他者と外部は同時に帝国の海外侵出の契機ともなった。国家にとってのエキゾチシズムとは侵略である。日本が東アジアに乗り出したように欧州はアフリカや東南アジアに植民地をもうけた。とはいえポスト・コロニアルの論点整理は本稿の任ではないのでこのあたりできりあげたいが、レリスのアフリカ行もほとんどがフランスの植民地をめぐるものであり、それらの地名のいちぶはたとえばパリ=ダカール・ラリーなどの名称にのこっているのはおぼえておいてソンはない。

 ウルリヒ・ザイドルのドキュメンタリー『サファリ』の舞台はナミビア、テーマはトロフィーハンティングである。またしても聞きなれないことばだが、獲物の毛皮や頭めあてに金を払い狩猟する、おもにヨーロッパの観光客をあてこんだ、現在のアフリカ諸国の一大観光資源ともいわれるレジャー産業であり、耳ざとい読者におかれては、数年前獲物となったライオンの前で誇らしげな写真をSNSに載せたアメリカ人歯科医師の投稿が炎上したのをご記憶かもしれない。ことほどさようにトロフィーハンターたちは写真を撮る。せっせとそうする。『サファリ』に登場するハンターたちも例外ではない。殺しのあとに彼らがとりかかるのは写真を撮ることだ。
 中年のハンターは死んだヌーの鼻面をぽんぽんと叩きこういう。頑張ったな、友よ、と。ヌーの肩口の致命傷となった銃創に血がにじんでいる。猟犬のルビーがそれを舐める。簡単ではなかった。銃弾を放つまで、ハンターたちは息をつめる。十分な距離まで接近するまで動物にけどられてはならない。ガイドはハンターに耳打ちする。ゆっくり時間をかけて自分のタイミングで。かすれた囁き声は性交のときの睦言に似ている。それとも悪魔の囁きだろうか。さあしっかり狙いをさだめて、いつものように――ガイドはそんなことはひとこともいっていないがそんなふうに聞こえそうになる。息をつめる。間。世界が真空になった。ハンターはひきがねをひく、発射する。だいたいが数百メートルの距離なので命中したかはすぐにはわからない。獲物にちかづいていく彼らの背中にことを終え一息ついたあとに戻ってくる社会性がおいすがる。息絶えた動物を前に安堵するハンターはパートナーやガイドとかたく抱き合う。よくやった、と。一家4人でトロフィーハンティングにやってきた母親は娘にこういう。あなたに自信をつけさせたいの。そこで訪れる解放感と達成感と癒やしと、そのために生命を奪う愚劣さとを私はどう天秤にかけていいのかわからなくなる。すぐれて倫理的だが一般道徳ではたやすく片づけられない。

 ウルリヒ・ザイドルはそのようなものをつねに追い求めてきた。ドキュメンタリストとしてキャリアをスタートし、5作目の『予測された喪失』(1992年)は翌年の山形国際ドキュメンタリー映画祭のコンペティション部門で優秀賞を獲得した。2001年の初の長編フィクション『ドッグ・デイズ』でもヴェネチアで賞をもらっている。「愛」「神」「希望」と題した『パラダイス三部作』(2012年)の記憶はいまだあたらしい読者もすくなくないだろう。私もそうです。リゾート地の黒人男性の買う欧州の中年女性、宗教と世俗をめぐる聖と性、欲望における自我と愛――そのような人間の芯の部分にある、たぶんに生きることにかかわるなにものかをザイドルはみつめつづけてきた。したがって私は編集を担当した『別冊ele-king』のジム・オルークの特集号のインタヴューでジムさんが三部作の「希望」を激賞し「私はザイドルのスーパーファン」というのを聞いてミミズ腫れするほど膝を叩いたのは、透徹ということばではなまやさしい対象の物自体にむかう視線に彼らの共通項をみた気がしたからだ。

 映画はもちろんあらゆる表現形式をみわたしてもそういうひとはそう多くはない。
 ザイドルはパゾリーニ、ヘルツォーク、ブニュエル、ユスターシュやタルコフスキーやカサヴェテスらが映画の道に足を踏み入れたときのアイドルだったという。ヘルツォークが「私はザイドルほどには地獄の部分を直視していない」とコメントしたのは『ドッグ・デイズ』のときだっただろうか。そのザイドルもいまやハネケとならぶオーストリアを代表する巨匠である。だからといってザイドルの筆致が鈍るわけではない。『サファリ』にも下腹に響くシーンが頻出する。ことに後半銃弾に斃れたキリンがこときれるまえ、長い首をもたげ、傾げて絶命する場面。死んだキリンは現地の男たちが解体する、その場面もザイドルはきっちりフィルムにおさめている。キリンの皮があれほど厚いとは上野動物園にいっても志村動物園をみても絶対にわからない。あふれでる内蔵のいろとりどりのグラデーション、皮を剥がれた動物たちの真皮の白さ、目をそむけたくなる作業を、しかし現地の男たちは生活の糧をえるためおこなっている。たんたんとした、滑稽なほど即物的な作業風景には映画史における狂気にとりつかれた殺人者たちの姿がオーバーラップするがこれが彼らの日常の場面なのだ。そしてそこにはドキュメンタリーならではの出来事、現実の死が表現の形式にとりこまれるさいの虚構とのせめぎあいがおこる。逆のパターンは、ネオレアリズモからもヌーヴェルヴァーグからも何十年も経ったいま、なかなかにむずかしい。たとえば河瀬直美監督の『2つ目の窓』(2014年)のじっさいにヤギをしめる場面が虚構に嵌入した現実そのものではなく、たんにロマン主義的なメッセージを代弁してしまっていたこと。すくなくとも、シマでヤギをしめるときはあんなふうではなかった。私は十六で本土の学校にあがるときのお祝いはヤギ汁だったが、ヤギをしめたひとたちはむしろ『サファリ』の解体するひとたちにちかった。

 とはいえ『サファリ』でも、ことに後半にいたって、富裕な白人と貧しい現地のひとたちという図式的な描き方になっていたのはいぶかしかった。ザイドルの本領は告発にとどまらないはずだからである。ザイドルは作中でハンターにインタヴューを試みる一方、作業に従事する黒人たちはことばを発さない。資料によれば、その必要性を認めなかったとのことだが、ザイドル特有のファインダーに正対した人物たちの記念撮影を思わせる不動のショットは白人と黒人とを問わず、人間たちをひとしなみに無時間性のなかに置き去りにする。あたかも装飾品として流通する動物たちの頭部のように。

 やがて『サファリ』はレヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』の最後の一文と同工異曲の発言で幕をおろした。私はつまるところザイドルも古典に答えを求めたのか、と明るくなった試写室でしばし思案したが、よくよく考えると、そのことばの主こそ動物を殺す当事者なのだと気づいたとき、思考があざやかにひっくりかえるような感じをおぼえた。これがあるからザイドルは見逃せない。(了)

Charli XCX - ele-king

 チャーリーXCXは、時代と手を取りあうことができるクレバーなアーティストだ。たとえば、2000年代のNYロック・シーンについて書かれたリジー・グッドマン『Meet Me In The Bathroom』が話題を集めるなど、いま2000年代を再評価する流れが起こりつつあるが、この動きにチャーリーは上手くコミットしている。2000年代を象徴するムーヴメントであるフレンチ・エレクトロの代表的存在、ミスター・オワゾのアルバム『All Wet』に参加したことをはじめ、去年3月に発表した自らのミックス・テープ『Number 1 Angel』には、そのフレンチ・エレクトロが輩出した歌姫アフィーをゲストに迎えている。
 とはいえ、これは時代を意識しただけではなく、チャーリーの音楽的背景も深く関係しているだろう。もともとチャーリーは、2008年にマイスペースで発表した曲をキッカケに知名度を高めたアーティスト。おまけにフレンチ・エレクトロからの影響を公言していることでも知られており、いわばチャーリー自身が2000年代のポップ・カルチャーから生まれたアーティストと言える。このことを意識しているからこそ、2010年代を象徴する音楽コレクティヴのひとつ、〈PC Music〉周辺のアーティストたちに『Number 1 Angel』のプロデュースを託し、そのうえでアフィーを招いたのだ。そこには、2000年代から2010年代に至るまでの流れを地続きとしてとらえる、明確なキュレーション感覚を見いだせる。

 そんなチャーリーのクレバーさは、去年7月に公開された“Boys”のMVでも際立っている。自ら監督を務めたこのMVは、ディプロやウィル・アイ・アムなど多くの男性セレブに、女性がよくおこなうとされている仕草や行動をやらせるというもの。そこに、〈金曜日は楽しませてくれる悪い男の子が必要 日曜日に私を起こしてくれる優男が必要 月曜日の夜には仕事場の男の子が来てくれる 全員欲しい〉というチャーリーの歌が乗ることで、女性をあれこれ品評する愚かな男性たちへ向けた皮肉が現出する。いわば男性目線を反転させることで、“男らしい/女らしい”とされる旧態依然としたジェンダー観を揺さぶっているのだ。
 ジェンダーに関する問題意識は、これまでも幾度か見られた側面だ。BBC3で放送された男女平等に関するドキュメンタリー『The F Word And Me』の制作を指揮し、そのなかでフェミニズムの影響下にあることも述べている。このようにチャーリーは、さまざまな形で旧来の価値観に疑問を呈し、多様性の尊さを訴えてきた。

 この信念は、去年12月に発表されたミックス・テープ『Pop 2』でさらに推し進められている。『Number 1 Angel』以来の作品となる本作は、『Madonna』期のマドンナやハイエナジーなど1980年代の要素が色濃かった前作とは打って変わり、何かしらの時代を意識させないサウンドが際立つ。キラキラとしたメタリックな電子音を強調しているのは前作同様だが、これまで以上に過剰なヴォーカル・エフェクトを施し、人によってはクセが強いと感じる音も多い。“Lucky”におけるオート・チューンの使い方などはその典型例だ。徐々に元の歌声が変調し、ラストに機械仕掛けの絶叫が響きわたるこの曲は、エモーションとテクノロジーを結合させ新たな表現を生みだすという意味で、テクノのアティチュードが宿ったサウンドと言えよう。
 最終曲“Track 10”も特筆したい。『R Plus Seven』期のOPNに通じる艶やかなサウンドをバックに、トランス風味のシンセ・フレーズとトラップのビートが入れ乱れる複雑な展開にも関わらず、とてもキャッチーなポップ・ソングとして成り立っているという奇跡的な曲だ。OPNが『Garden Of Delete』でやりたかったことをたった1曲で完遂してしまったといえば、すごさが伝わるだろうか?

 多彩な参加アーティスト陣も忘れてはいけない。A.G.クックやソフィーといった〈PC Music〉の主要人物をはじめ、カーリー・レイ・ジェプセン、ジェイ・パーク、パブロ・ヴィタールなど、多くの人たちが助力している。国や人種にくわえ、性的指向も実にさまざまだ。
 こうした人選には、文字通り時代が反映されている。たとえば現在のファッション界では、ヒジャブを着用したハリマ・アデンがランウェイを颯爽と歩き、サフィー・カリーナを筆頭に多くのプラスサイズモデルが活躍するなど、民族、体型、セクシュアリティーといった“違い”を寿く流れがある。この流れは、排他的傾向が目立つ世界情勢に対するオルタナティヴなのは言をまたないが、これと同じことが本作にも当てはまる。先述したように、チャーリーは多様性を尊ぶアーティストだ。そんなチャーリーにとって、オルタナティヴ側に立った表現をするのは極めて自然なことだろう。だからこそ、参加アーティスト陣は多彩さを極めている。それがサウンドを彩るためなのはもちろんのこと、多彩なこと自体に意味があるのも、本作を理解するうえで見逃してはいけないポイントだ。

 本作は、2010年代のポップ・カルチャーそのものと言っても差しつかえない。膨大な量の情報が行きかう現代を表象するかのように多くの要素を散りばめ、その過程でジャンルの枠にも挑み、壊すことに成功している。“特定のジャンルに収まらない”的な言いまわしも至るところで見かけるテンプレになってしまったが、それをあえて使うことでしか、本作を形容することはできない。本作は、特定のジャンルに収まらない。

ジュピターズ・ムーン - ele-king

 これといってカーチェイス・シーンのファンでもないし、この映画の主題でもないけれど、後半で展開されたカーチェイスはとても印象的だった。『ミニミニ大作戦』でも『新しき世界』でもカーチェイスというのはたいてい無茶な運転が醍醐味というもので、迷惑の限りを尽くすことが制作者にとっては努力目標だったはずである。それがコーネル・ムンドルッツォ監督はカメラの位置を下げただけなのである。「だけ」ではないかもしれないけれど、カメラの位置を下げ、視点を道路に近づけただけで、カーチェイスというものがこんなに恐ろしいものになってしまうとは思わなかった。道路が近いので激突の恐怖が増し、視界が狭いことも恐怖なら、対向車がいきなり視界に入ってくることも相当な恐怖だった。そして、この「視点を下げる」ということは、人々が「空を見上げる」ことを忘れ、下界=現実ばかりに拘泥しているという主題とも関わりがある撮り方だったのである。なんという方法論だろうか!

 セルビアからハンガリーに流れ込むシリア難民たち。父とはぐれたアリアン(ゾンボル・ヤェーゲル)は国境警備隊のラズロ(ギェルギ・ツセルハルミ)に銃撃される。撃たれたアリアンはなぜか空中に舞い上がる。ここまでの描写がまずは息を飲む。ハンガリー国境を越えるということはシリア難民がヨーロッパに辿り着けたことにほかならない。それはバルカン・ルートと呼ばれるコースで、難民たちにとってはいわば最後の壁なのである(ハンガリー政府は2015年に緊急事態宣言を発してフェンスを設置、欧州委員会にも難民の受け入れを拒否している)。一方で捕まえた難民を隔離・収容したキャンプで働くシュテルン医師(メラーブ・ニニッゼ)はワイロを受け取り、難民たちをハンガリー国内に送り込んでいる。前夜の騒ぎを受けて、その日の難民キャンプは人で溢れかえっていた。そして、シュテルン医師の診察室にはアリアンが運び込まれてくる。アリアンはシュテルンの前でまたしても空中浮遊を始める。シュテルンは驚いてその様子をスマホで撮影する。シュテルンには大金が必要だった。その理由は映画の後半で次第に明らかにされる。ちょっとした経緯を経てシュテルンは、国境ではぐれた父を探しているというアリアンに空中浮遊で金を稼ぐことを提案、その金があれば父を探し出せると説得し、ふたりは次々と富裕層めぐりを始める。富裕層たちはアリアンの空中浮遊を見て驚愕する。

 この映画、難民尽くしであり、後半でも難民問題が思わぬ展開を呼び込むにもかかわらず、社会派という印象はまったく与えない。物語をドライヴさせていくポイントはシュテルン医師が神を信じていないということで、奇跡を行うものが目の前に現れても金儲けしか頭に浮かんでこない現代人がまずは焦点化されている。ほかにも様々な要素が編み込まれ、途中までどこに向かってもおかしくない話だと思わせるにもかかわらず、「人々が神を信じられた時代は良かった」という価値観を中心に据えたまま、メイン・ストーリーはシュテルン医師の行動をどのように追っていくかで決まっていく。撃たれたことで空中浮遊が可能になったアリアンはいわば救世主のようでありながら、その力はほとんど役に立っていない(同じくイエス・キリストが村にやってきたという設定の『哭声/コクソン』とはまったく逆のことが起きたとも言える)。予想外のクライマックスを経て、ラスト・シーンで彼は人々に「空を見上げ」させる。その時のカメラの位置も非常に低く、なかなか不思議なアングルからこの光景を体験させてくれる。このシーンを言葉に置き換えることはなかなかに難しい。『ジュピターズ・ムーン』とは生命体が存在するかもしれない星が木星の衛星にはあり、その星は「エウロパ」と名付けられていることに由来する。空を見上げた人たちが未来のヨーロッパになると監督は思いたかったのだろう。

 シリア難民を早い段階で受け入れると表明したカナダは人道的というよりも金持ちや才能のある人を選んで先に引き取ってしまい、自国の活性化に役立てたというのが本当のところらしい。それこそ企業誘致と似たような発想で移民を捉えたわけで、6人しか受け入れなかった日本とは反対に国際的にも感謝されたことを思うと実にスマートな政治判断だったというしかない。ナチスに見習ったらどうかねと麻生太郎はいうけれど、それをいうならトルドーに見習ったらどうなんだろうと(日本も少子化対策として孤児だけを引き受けるとか、考えようはあっただろうに)。難民の受け入れはあとになればなるほど残り物になってしまい、それこそ人道的でなければできない行為になってしまう。ハンガリーやポーランドが突きつけられたのはそこだった。地中海の無人島をひとつ買い取り、その島にシリア難民の町を建設した大金持ちもいたけれど、さすがに550万人ともなると人道で解決できる範囲は軽く超えている。地理的にいって最も数を受け入れざるを得なかったのはその半数を受け入れたトルコで、現実にはヨーロッパに辿り着けたシリア難民は昨年あたりからトルコに逆流する動きを見せつつある。原因は「ヨーロッパのヘイト意識」にめげてしまったからである。トルコのエルドアンも相当ヒドい指導者だと思うけれど、アサド政権やヨーロッパよりマシと判断されたのである。ヨーロッパよりマシと。

 難民キャンプを訪れたムンドルッツォ監督が、その時の体験をSF映画として構想したものがこの作品で、しかし、実際には製作中に現実に追いつかれてしまい、もはやSF映画には見えなくなってしまったと監督本人は述懐している。「できるだけ現在を描くことを避けてきた」とも語るムンドルッツォ監督は『ホワイト・ゴッド 少女と犬の狂詩曲』(犬好きは観ない方がいいかも)で日本でも一部の注目を集めたハンガリーの映画監督、その奇抜な発想はある意味、ハンガリー映画の王道とも言える。『ハックル』や『タクシデルミア ある剥製師の遺言』のパールフィ・ジョルジ、『リザとキツネと恋する死者たち』のウッイ・メーサーロシュ・カーロイ、『ニーチェの馬』のタル・ベーラや『サウルの息子』のネメシュ・ラースローなどハンガリー映画は南米のマジック・リアリズムに匹敵する奇妙な作品の宝庫である。『ジュピターズ・ムーン』はそうした系譜にあって、ハンガリー映画に新たな時代をもたらす傑作ではないかと思う。


Lemzly Dale - ele-king

 UKでは怒濤の勢いで成長を遂げているグライム。そのムーヴメントの一端を担うブリストルの〈Bandulu〉から、幅広い音楽性でシーンを支えるレムズリー・デイルが来日、東京と福岡を回るツアーを開催する。グライムを中心にUKの音楽にスポットライトを当てたイベント《Mo'fire》の一環として催される東京公演では、〈SVBKVLT〉からの新作も好評の Prettybwoy をはじめ、Double Clapperz や UNSQ、1-drink らが出演。Double Clapperz と UNSQ は福岡公演にもゲスト出演するとのこと。UKアンダーグラウンドの息吹に触れる格好の機会をお見逃しなく。

■東京
2/17 (土) 23:00 -
Mo'fire pres. Lemzly Dale
@CIRCUS TOKYO

ADV: 2,000yen
DOOR: 2,500yen

Lemzly Dale
Prettybwoy
1-drink
Double Clapperz
UNSQ
+ More

イギリスの若者に影響を与え続けているグライムを中心にUKミュージックに焦点をあてるクラブ・ナイト《Mo'fire》。
3回目となる今回は、イギリスはブリストルを拠点にグライム、ダブステップなど様々なムーヴメントを起こしてきた〈Bandulu Records〉より、Lemzly Dale を招いて開催される。
ハードなインストゥルメンタルから、R&B やヒップホップをサンプリングしたメロディックな音まで、作風の幅を見せながらも一貫した音作りでシーンの支持を得てきた。
また、〈Sector7〉や〈Pearly Whites〉といったグライム・レベールを運営するなど様々な角度から音楽シーンに貢献している Lemzly Dale 初の海外ツアー。
プロデューサー、レーベル・オーナーと様々な一面を持つ Lemzly Dale を迎えるゲストは、上海のレーベル〈SVBKVLT〉からのリリースも好評のUKガラージ・アーティスト Prettybwoy、ジャンルを自在に横断する DJ 1-drink ら。
UKグライムの進化と深化を体感する一晩。

CIRCUS Tokyo
3-26-16, Shibuya, Shibuya-ku, Tokyo 150-0002 Japan
+81-(0)3-6419-7520
info@circus-tokyo.jp

■福岡
2/16 (金) Start 21:00
BLOCK PARTY SP
~Lemzly Dale Fukuoka Tour~
@The Dark Room

Charge: 2,000yen

SP Guest DJ
Lemzly Dale (Pearly Whites / Sector 7 Sounds)
from Bristol UK

Guest DJ
Double Clapperz from Tokyo
UNSQ from Tokyo

DJ
IGB (GLOCAL COMBO)
CRANK (BLOCK PARTY)
Nishiura (DSA DUB)
Lo-P (AVALANCHE MUSIC)
svv (AVALANCHE MUSIC)
Gonorrhea (AVALANCHE MUSIC)

Guest MC
ONJUICY from Tokyo

MC
NINETY-U
BOOTY
脳発火
NAB

Live Paint
MSY

SNAP
KURA1985
Nanako


yahyel - ele-king

 あれ? 彼らってたしか、宇宙人じゃなかったっけ?
 2015年に結成、2016年にファースト・アルバム『Flesh and Blood』を発表、昨年はシングルのリリースやマウント・キンビー、アルト・ジェイらの来日公演のサポートなど、デビューから短期間でどどどんと鮮烈な印象を残し続けている新世代5人組バンド、ヤイエル。そんな彼らのセカンド・アルバムが3月7日にリリースされる。タイトルは『Human』。
 デビュー時は自分たちのことを「宇宙人」、すなわち外部の者、フォーリナーとして規定していた彼らだけれど(紙版『ele-king vol.19』掲載のインタヴュー参照)、ここへ来て「人間」というタイトルを掲げることになったのだから、きっと大きな変化があったに違いない。いったい彼らに何が起こったのか? 続報を待て。

ヤイエル、待望のセカンド・アルバム『Human』を3月7日(水)リリース!
初のリリース・ツアー開催も決定! プレイガイド最速先行予約は1月20日から!

2016年11月にリリースされ、コアな音楽愛好家達を超えて同世代のリスナーへと鮮烈なインパクトを与え、一気にそのプロップスを引き上げたデビュー・アルバム『Flesh and Blood』。2010年代以降のR&Bと電子音楽のリアリティ――すなわちジェイムス・ブレイクやフランク・オーシャン以降のオルタナティヴR&Bと、フライング・ロータスやアルカ、ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー以降のエレクトロニック・ミュージックに対するリアルな共鳴を、今この世界で生きる自分達自身が抱く違和感/思想をもってユニークな音楽表現へと昇華する存在として、たった一作で評価と信頼を勝ち得たのがyahyelだった。そんな彼らが自身のアイデンティティを突き詰め、よりクリアで強固なものとして具現化することに挑んだのが、今回リリースされるセカンド・アルバム『Human』だ。

以前の匿名性の強いアーティスト写真にも表れていた通り、結成~『Flesh and Blood』期の yahyel は、人種・国籍・性別といった、エスニシティをはじめ様々な個にまとわりつく付帯情報を削ぎ落とすこと=雑音を削除することによって、逆説的に、“出自による差異と先入観に縛られた社会”から純粋なる“個の存在”、“個の感情”を浮かび上がらせようという意識をもって音楽活動を行っていた。対して今回は、『Flesh and Blood』から『Human』へというアルバムタイトルの変化にも表れている通り、そんな彼らの本来の目的にして本質と言っていい“個が有する生々しい感情とメッセージの発露”をダイレクトに際立たせる方向へと舵を切っている。

具体的には、それを実現するため、本作に関しては「ヴォーカリストである池貝峻の感情表現に寄り添うように突き詰める」、「池貝という人間の感情と生き方をどれだけ際立たせることができるのか? に重きを置く」ことを明確に制作の軸としたという。さらにはその過程で5人――池貝峻、篠田ミル、杉本亘、大井一彌、山田健人の互いの感覚の擦り合わせと音に対する思想/イメージの落とし込みをストイックに行っていった。世界のミュージック・シーンの文脈やトレンドと照らし合わせた相対的な解ではなく、5人の中における絶対的な解をひたすらに探す作業。結果、「自分達の予測を超えた、ある種、自分達自身の制御も超えた地点へと到達するアルバムとなった」と彼らが話す通り、歌はもちろん、音色にしてもリズムにしても前作以上にエグみも深みもある、美しく豊かな感情表現が息づく作品となった。格段に重層的に作り込まれ、織り込まれたひとつひとつの音のテクスチャー、アブストラクトなビートも多分に含んだリズムトラックの深化といったもの自体から、彼ら5 人にしか生み出し得ない確かなオリジナリティを感じることができる。

本作『Human』には、昨年ミュージック・ビデオと共に発表したシングル「Iron」と「Rude」、韓国の気鋭のラッパー・Kim Ximya(キム・シムヤ)をフィーチャリング・ゲストに迎えた「Polytheism」など全10曲を収録し、3月7日(水)リリース。また初回限定盤CDは、ボーナス・ディスク付の2枚組となり、アナログ盤にはDLカードが封入される。iTunesでアルバムを予約すると「Iron」と「Rude」の2曲がいちはやくダウンロードできる。

Iron (MV)
https://youtu.be/VrwXQ-JvLis

Rude (MV)
https://youtu.be/R4H7k2apm-Q

今回の最新アルバム『Human』の発表に先駆け、先々週には1年3ヶ月ぶりとなる2度目のワンマンライヴ(東京公演)を発表。想定を大幅に上回るアクセスによって、主催者先行チケットの販売が中止となったことも話題を集める中、初となるレコ発ツアーの開催も決定! さっそく1月20日から最速先行が開始!


yahyel
- Human Tour -

3/29 (THU) 東京~3/31 (SAT) 京都~4/5 (Thu) 札幌~4/6 (FRI) 名古屋~4/7 (SAT) 大阪~4/8 (SUN) 高知

2016年11月にデビュー・アルバム『Flesh and Blood』をリリースし、翌12月に渋谷WWWにて行われたワンマンは、アルバム発売日を前に完売。その後も、FUJI ROCK、VIVA LA ROCK、TAICOCLUBなどの音楽フェスへの出演も果たした他、ウォーペイント (Warpaint)、マウント・キンビー(Mount Kimbie)、アルト・ジェイ(alt-J)ら海外アーティストの来日ツアーでサポート・アクトにも抜擢されるなど、活況を迎えるシーンの中で、独特の輝きを放ち続けた yahyel(ヤイエル)が、1年3ヶ月の時を経て、2度目のワンマンライヴそしてレコ発ツアーが決定!
宇宙人を名乗る yahyel があえて「Human」と冠した今回のレコ発ツアー、果たして観る者にどんな体験を与えてくれるのか?
映像作家としても活躍する山田健人によるミュージック・ビデオと共に発表したシングル「Iron」と「Rude」を経て、なお成長スピードを加速させる彼ら。特異な楽曲とアレンジ、高い演奏力そして独創的な映像が一体となった圧巻のライヴは、更なる進化を続けている。ネクスト・レベルへ達した yahyel の最新パフォーマンスは必見! チケットの確保はお早めに!

3/29 (THU) 東京 LIQUIDROOM
OPEN 19:00 / START 19:30前売¥3,500(税込/1ドリンク別途)
INFO: BEATINK 03-5768-1277 www.beatink.com
★イープラス・プレイガイド最速先行受付(抽選):1/20(土)12:00~1/25(木)23:59

3/31 (SAT) 京都 METRO
OPEN 18:00 / START 18:30 前売¥3,500(税込/1ドリンク別途)
INFO: 京都 METRO 075-752-4765 https://www.metro.ne.jp
★イープラス・プレイガイド最速先行受付(抽選):1/20(土)12:00~1/25(木)23:59

4/5 (Thu) 札幌 DUCE
OPEN 19:00 / START 19:30 前売¥3,500(税込/1ドリンク別途)
INFO: WESS 011-614-9999 https://www.wess.jp
★イープラス・プレイガイド最速先行受付(抽選):1/20(土)12:00~1/25(木)23:59

4/6 (FRI) 名古屋 RAD HALL
OPEN 19:00 / START 19:30 前売¥3,500(税込/1ドリンク別途)
INFO: JAILHOUSE 052-936-6041 www.jailhouse.jp
★イープラス・プレイガイド最速先行受付(抽選):1/20(土)12:00~1/25(木)23:59

4/7 (SAT) 大阪 (詳細後日発表)
★TBC

4/8 (SUN) 高知 CARAVAN SARY
OPEN 18:30 / START 19:00前売¥3,000(税込/1ドリンク別途)
INFO: 088-873-1533 www.caravansary.jp/sary/topsary.htm
★2/5(月)~CARAVAN SARY店頭、ぴあ、LAWSON、DUKE TICKET

label: Beat Records
artist: yahyel
title: Human

release date: 2018.03.07 wed ON SALE
初回限定盤2CD BRC-567LTD ¥2,800+税
国内盤CD BRC-567 ¥2,300+税
国内盤LP+DL BRLP567 ¥3,000+税

【ご予約はこちら】
beatink: https://www.beatink.com/products/detail.php?product_id=9264
amazon
BRC567LTD: https://amzn.asia/hypOdKG
BRC567: https://amzn.asia/1P9YGdB

[TRACKLISTING]
DISC 1
01. Hypnosis
02. Nomi
03. Rude
04. Battles
05. Polytheism (feat. Kim Ximya)
06. Acedia (Interlude)
07. Body
08. Iron
09. Pale
10. Lover

DISC 2 (BRC-567LTD)
*Bonus Disc

ルイの9番目の人生 - ele-king

 1970年代にニューエイジはオカルト化した。精神世界が善への一辺倒からだんだんと両義的なものになり、媒体と化した人間がそれまでとは異なるものを自らの内側に呼び込むようになる。紙エレキング最新号でも取り上げた『哭声/コクソン』が韓国版『エクソシスト』のような様相を示していたのに加え、このところ立て続けに観た3本の新作もその過程にあることを示している……かのようだった。これはそのうちの1本。オカルト映画はホラー映画とはちょっと違う(と思う)。
 9歳になるルイ・ドラックス(エイダン・ロングワース)は毎年、もう一歩で死にかけるような事故に遭っていた。シャンデリアがベビーベッドに落下し、コンセントにフォークを刺して感電死しかけ、毒グモかと思えば食中毒と、生死の間を何度も彷徨ってきた。そして、ついに9年目に家族でピクニック中に崖から落ちて昏睡状態に陥る。小児神経科で昏睡が専門というアラン・パスカル(ジェイミー・ドーナン)が担当となり、治療の過程で母親のナタリー・ドラックス(サラ・ガドン)に興味を持つ一方、ルイが崖から落ちた日から消息のわからない父親・ピーター・ドラックス(アーロン・ポール)の行方をダルトン刑事(モリー・パーカー)は捜索し始める。物語は過去と現在を往復し、だんだんとルイがどのような少年であったかがわかってくる。どこか悟りきったようなところがあるルイは学校で友だちができないためにペレーズ先生(オリヴァー・プラット)のセラピーを受けていたこともあり、どこか悪魔的な表情を印象付ける。大人を小バカにしたようなことを言うのは日常茶飯事で、「ペットは平均寿命よりも長生きしたら殺してもいい」などと言い、自分が飼っていたハムスターを『ハリー・ポッター』の本で潰して殺したり(あるいはそうしたかのように思わせたり)。

 俳優のマックス・ミンゲラが父・アンソニー・ミンゲラが生前に撮ろうとして叶わなかった作品の脚本と制作を推し進めたもので、いわゆる文芸肌だった父親よりもこれをズバッとエンターテインメントに仕上げている(監督は現在、寺沢武一『コブラ』の映画化を進めているらしきアレクサンドル・アジャに依頼)。そこはある種の週刊誌的な興味が入口となって見始めた作品で、そうなると『イングリッシュ・ペイシェント』や『リプリー』など重厚長大な作風で知られるアンソニー・ミンゲラが撮っていればこうはならなかったろうという面も含めてトラップだらけのつくりには驚かされる。伏線というよりは誤解させる要素を可能な限り詰め込み、テーマをはぐらかし続けるというか。実際、最後に真実が明かされ、真相がわかってみると、あれもこれも引っ掛けだったことが判明し、自分でも騙され過ぎだとは思うけれど(以下、ネタばれです)それらをすべて納得させてしまう代理ミュンヒハウゼン症候群という病気(実在する)にはかなりたじろいでしまった。代理がつかないミュンヒハウゼン症候群は周囲の関心を引くための自傷行為、代理ミュンヒハウゼン症候群だと自分ではない人間を代わりに傷つけることで自分に注目を集めようとする病気だという。これに子どもの側から母親の望むことを汲み取るというファクターを付け加えたのがこの作品のオリジナルで、子どもの賢さが裏目に出ていたことがわかった瞬間は実にやるせない瞬間でもあった。『シックス・センス』や『ハサミを持って突っ走る』など母親よりも子どもの方が大人びていて、周囲からは異常に見える少年がトリックスターを演じるという設定はひとつのスタイルとして定着してきたとはいえ、ルイによる「昏睡状態が気に入っている」というセリフにはこれまでにない諦観が滲み出ていた。子どもからしてみれば、このままの状態でいれば、これ以上、死にかけることはなくなり、それと引き換えにするほどこの世界には興味が持てなかったという意味にもなる。とはいえ、それがジ・エンドではない。価値観の転倒はまだその先にもある。

 ルイが昏睡状態で意思の疎通が不可能になっていることから、いわゆるオカルト的な解決策がこの作品には導入される。催眠術と憑依である。「昏睡状態が気に入ってい」なければ、昏睡状態からは目覚めてルイが真実を語り出すという展開でもよかったんだろうけれど、昏睡状態に陥るきっかけとなった母子関係ではなく、義父との関係もミステリーとして閉ざしているために、このような手段に訴えるしかなくなったのだろうか。言ってみれば虐待を受けている児童に本当のことを話させるのは、それぐらい困難なことであり、『エクソシスト』で少女とのコミュニケーションが不可能に近かった頃と何かが変わっているわけではないとも言える。ニューエイジというのは、もともと人類は無意識で全員が結ばれているという考え方であり、『Her 世界でひとつだけの彼女』では人工知能がそのようなものの具現だといえるし、『インターステラー』や『メッセージ』もその変形に思えるけれど、そのような意識状態に対して、ここへ来て「悪魔が来たりて個人に分断する」という流れが生まれているとしか思えない。この映画では「海にいる全部の魚より愛している」というセリフが繰り返され、全体が無意識で結ばれている状態を「魚」に喩えた上で、それ「より」もひとりの人間がひとりの人間を「愛する」ことに価値があると言いたいのではないだろうか(デル・トロの新作『シェイプ・オブ・ウォーター』も海を比喩として使い、『ルイの9番目~』とは結論が正反対だった)。海以外の景色がすべて冴えない色調で撮られているのもわざとなのか。いわゆる「目に焼き付けたくなるシーン」が一箇所もない作品というのも、なんというか珍しく、「昏睡状態が気に入っている」というセリフには、そういう意味でも説得力があった。病室のセットは逆にエキセントリックで不思議な感じが醸し出されていたり。

「9番目の人生」というと普通はネコのことである(エジプト起源の考え方らしい)。9回殺されかけても生き延びたルイはまさにネコであり、ハムスターを殺してもいいというのはそこから来た発想だったのかもしれない。ハムスターにはラスプーチン3世という名前がつけられていて、だとすると博学なルイはハムスターにラスプーチンの特徴としてよく知られる性豪という意味を与えていたということだろう。母親が代理ミュンヒハウゼン症候群になった理由は作中では明かされず、彼女が妊娠している姿で映画が終わるということは淫乱であることは明らかだし、一方で、ルイはレイプされてできた子どものように思えるセリフもあり、途中まで僕はそれが児童虐待を引き起こす原因だろうと推理しながら観ていた。ミュンヒハウゼンというのはホラ吹き男爵の本名に由来する病名なので、最終的には嘘だったと取るべきなんだろうけれど、やっぱりこれは紛らわしい。レイプという問題をそのようにギミックであるかのようにして扱うのはちょっとどうかなと。


Moritz von Oswald & Ordo Sakhna - ele-king

 「テクノ/ミュージック」はどこに向かうのか。これまでの世界を規定していた西欧中心主義の枠組みが壊れ、固有の領域における自律性が保てなくなり、末期資本主義の限界(現在の世界はもはや単に金融至上主義である。また加速度的なグローバル資本主義が一種のファンタジーのように希求されるようになったことも資本主義の終焉を意味しているといえよう)が明確になり、「欧米中心の世界地図」というファンタジーが成立しなくなった以上、「テクノ」という音楽ジャンルもまた不可避的に変容を迫られている。
 だが、むろん、この問いは「テクノ」が誕生(だが、それはいつのことか? そもそも「テクノ」は誕生などせず、ただミュータントのように派生・増殖したものではないか? という当然の疑問はあるだろう)して以降、常に発せられ続けてきたものでもある。そもそも「テクノ」は非中心的/週辺的な音楽ではなかったか。

 ドイツのモーリッツ・フォン・オズワルドはその問いに対して、サウンドの領域を拡大してみせることで新しいフォームを生み出してきたアーティストである。あのベーシック・チャンネルやリズム&サウンドは、ミニマル・テクノとダブ・サウンドを融合させ、ミニマルであることとサウンドの「深み」を相反することなく同居させ、「テクノ」における新しい快楽と刺激を生み出した。それがミニマル・ダブという潮流を生み出したことは言うまでもない。彼は機能性のもたらす快楽を拡張してみせたのだ。
 近年も、カール・グレイクと行ったクラシック音楽(カラヤン指揮のベルリン・フィルによるラベル「ボレロ」「スペイン狂詩曲」、ムソルグスキー「展覧会の絵」)のリコンストラクション『リコンポーズド』(2008)や、〈ECM〉からのリリースでも知られるジャズ・トランペッターのニルス・ペッター・モルヴェルとのコラボレーション・アルバム『1/1』(2013)、デトロイト・テクノのオリジネーターのひとりホアン・アトキンスとのコラボレーション・アルバム『ボーダーランド』(2013)、『トランスポート』(2016)、さらにはモーリッツ・フォン・オズワルド・トリオにおけるトニー・アレンとの共演など、常に「テクノ」の領域を刷新するような活動を行ってきた。そんなモーリッツ・フォン・オズワルドの最新の活動成果が、中央アジアにあるキルギス共和国の音楽集団オルド・サフナ(ORDO SAKHNA)とのコラボレーションである。オルド・サフナのライヴ演奏はこちら。

 この『Moritz Von Oswald & Ordo Sakhna』のリリース元は〈オネスト・ジョンズ〉で、フィジカルは10インチ盤の2枚組仕様となっている。収録曲はアカペラ、マウスハープ、キルギスの伝統的な楽器によるオルド・サフナの演奏/曲のベルリンでのスタジオ録音、キルギスの首都ビシュケクでのライヴ音源、そしてモーリッツ・フォン・オズワルドによるダブ・ミックスが収録されており、まるで「新しい音楽地図」を描き出すように、ヨーロッパ/中央アジアの音楽を交錯させていく。じっさいキルギス共和国は、中国、ロシア、そしてイスラムのあいだに位置する中央アジアの多民族国家である。本作では、そんな複雑な文脈を持った国家の伝統的な音楽とミニマル・ダブという、まったく異なる音楽性の差異を尊重しつつ、音楽と音楽、響きと響きが溶け合う瞬間があるのだ。
 アルバムとしてみればコンピレーションと共作の中間にあるようにも思えるし、今後、さらに本格的な共作へと行き着く可能性も感じるが、しかしこれは「テクノ」を進化/深化させるための貴重な仕事であることに違いはない。そのうえ安易なオリエンタリズムにも軽率なクロスオーヴァーにも陥っていないのだ。世界が断絶しつつある今、モーリッツ・フォン・オズワルドは世界のさまざまな音楽と協働を行おうとしているかのようである。

 オルド・サフナによる演奏の曲もどれも素晴らしい(特にC2のアカペラ“Talasym”と、C3の歌唱とギターによる“Kolkhoz Kechteri”は心の奥底の泉に落ちるような演奏である)が、C4 “Bishkek, May 2016”以降、D1 “Draught”、D2 “Draught Dub”で展開されるモーリッツ的なミニマル・ダブとオルド・サフナの音楽とが見事に交錯するトラックも貴重な試みであろう。
 なかでも音楽の境界線の融解という意味で、B面すべて(つまりアルバムの中心に位置する場所にある)を占める長尺トラック“Facets”も忘れがたい出来栄えである。15分におよぶこのトラックにおいては、ビートもダブもノイズもドローンもオルド・サフナによる音楽もそのすべてが溶け合っている。ここまでエクスペリメンタル/ノイズなモーリッツのトラックも珍しい。そして、その響きのむこうにうっすらと聴こえるオルド・サフナによるキルギス共和国の伝統音楽……。ダブ、ノイズ、そして伝統的な民族音楽が融解する音響空間には、本作の「理想」と「思想」が見事に体現されているように思えてならないのだ。

嘘八百 - ele-king

 邦画をバカにしていた頃、とくにエンターテインメントだと、観終わってから「ハリウッド・リメイクあり」か「なし」を判定して遊ぶということをやっていた。「日本人にしかわからないからいい」という場合もあるのでややこしいけれど、まあ、たいていは面白くて外国の人にも通じる普遍性があれば「あり」というような判断だった。その習慣にならっていえば『嘘八百』は「リメイクあり」。ハリウッドというよりイタリアかフランスには楽しんでくれる人がいそうだなと。最近のフランス映画でいえばクザビエ・ボーヴォワ監督『チャップリンからの贈りもの』ともよく似ていて「駆け引き」で見せるところも通じている。『チャップリンからの~』はチャップリンの遺体が墓から盗まれ、遺族に身代金が要求されたという史実を元にしたコメディ。企画を持ちかけられたチャップリンの遺族は思い出したくもない過去をほじくり返され、最後は……ノリノリで出演までしているという制作話がまたよかった。これにストーリーもテーマも被るものがあり、「チャップリン」の位置にくるのは『嘘八百』では「千利休」ということになる。『百円の恋』の監督と脚本家が再タッグを組んだということだけで興味を持った僕は何も知らずに見始めたので、まさかコメディで、しかも「利休の茶碗」をめぐるスウィンドル・ムーヴィーだとは思ってもみなかった。外国の人に伝わらないとしたら、この「利休の茶碗」というモチーフになるのでしょうか(「風流」というのはクール・ジャパンなんだろうかどうだろうか?)。

 骨董品を扱う小池則夫(中井貴一)が娘を連れて民家を訪ねてまわり、蔵などから掘り出し物を探すところから話は始まる。企画の発端は堺市に焦点を当てることだったそうで、最初から堺市の町並みを強調していたのかもしれないけれど、僕は行ったことがないので、映像にそのような醍醐味があるのかないのかもわからなかった。貧富の差に関わらず全編を通して堺市の町並みには閉塞感だけが感じられた(道を歩いていても誰かに会う気がしないという)。小池が最初に尋ねた家には野田佐輔がいて、気安く蔵の中を見せてくれる(野田役を演じる佐々木蔵之介はちなみに『夫婦フーフー日記』で「”I’M FISH”」のTシャツを2回も着ていた人気の京男)。そして、骨董品屋に売りつけられたという茶碗を見せられた小池はそれは偽物ですねといって安く買い取り、その茶碗を売った骨董品屋に詐欺の証拠品として突きつけてみるも店主には軽くいなされてしまう。あぶく銭をせしめられず腐っている小池に今度は野田の方から電話が入り、小池はある書状を手掛かりに「利休の形見」を発見する。しかし、案の定(以下、ネタばれ)それは偽物で、しかも野田はその家の住人でもなければ蔵の持ち主でもないことが判明。野田の足取りを追って小池が発見したのは居酒屋を拠点とする贋作グループの存在であった(そのひとりとして『0.5ミリ』でも抜群の演技を見せた坂田利夫が登場~)。

『ウルフ・オブ・ストリート』はディカプリオ演じるジョーダン・ベルフォートとジョナ・ヒル演じるダニー・アゾフが投資会社を始めるところから話は滑りだす。同じくジョナ・ヒルとマイルズ・テラーが手を組んだ『ウォー・ドッグス』もふたりが兵器の輸入会社を興すところから話は大きくなっていく。統計を取ったわけではないけれど、邦画には『トラック野郎』や『まほろ駅前多田便利軒』のように似た者同士がタッグを組むということはあっても、ひとりが独特な才能を持ち、もうひとりがマネージメント能力でこれと結びつくという関係が軸になる作品がすぐには頭に浮かんでこない。ひとりで孤独な戦いに挑むか3人以上の集団で何かを成し遂げるという話はいくらでもあるのに、そもそも「ふたり」という単位が少ないというか、映画的な主人公はひとりであっても、その動きが「ふたり」を起点としているという発想になかなか出会うことがない。『昭和残俠伝』はパートタイム的だし、『下妻物語』も戦う場所は別々。うまく言えないけれど、師弟コンビのように上下のある関係ではなく、ある種の才能とそれを管理する才能があくまでも対等に位置しながら世界に対していくという設定が不勉強のゆえかどうしても思いつかない。強いて言えば夫婦で結婚詐欺を繰り返す『夢売るふたり』がそうかなと。『嘘八百』も詐欺を仕掛けるのはグループといえばグループなんだけれど、集団性がそのダイナミズムを生み出したり、大きな波が個人を飲み込んでいくようなものにはなっていかない。「小池と野田が手を組んでから」はあくまでも個人と個人が力を引き出し合っていく。

 日本の雇用は流動性が低いとされる。非正規雇用の増大には流動性を高めるという目的もあったと記憶しているけれど、それは小池と野田が手を組むように、ケース・バイ・ケースで個人と個人が能力を引き出しあう機会を増やし、特定の関係や組み合わせを固定しない社会を生み出したかったということではなかったかと記憶している。しかし、実際に非正規雇用が増えると、そのマイナス面ばかりが目立ったということは、非正規は労働の組み合わせを変える要因ではなく、タテ社会そのものはまったく変更が加えられていないので、単にその下部組織にしかならなかったという結論が出ているのではないかと。日本の労働はやはり家父長制的で、部下の能力を正確に評価するよりも忠実な奴隷と化した者に権力を譲渡するというパターンが大半なのだろう。こうした組織のあり方に馴染めなかった人たちが結果的に非正規として締め出されただけだとすると、個人の能力が生かされる場面などはこれからもとうてい望めないだろうし、日本企業が活性化せず、異次元緩和で延命しているだけという現状はやはり危機感を抱かざるを得ない(いまから思えば日テレもよく『ハケンの品格』などというドラマをつくっていたなーというか)。『嘘八百』で組む「ふたり」がすでに中年だというのはとても象徴的で、従来の組織で生かされなかった「ふたり」の才能が出会い、詐欺とはいえ経済を動かすということは、まるでかつて非正規が夢見せられた働き方を異次元で成立させているかのようなファンタジーにも見えてくる。「非正規よりも正社員に」という流れの中にこの作品を置いてみると、なんというか、これが最後の「抵抗」にさえ思えてくる。

 また、小池と野田が能力を発揮する場面が上等な部類に入るものだとしても、やはり詐欺行為にカウントされるということはある種の示唆に富んでいる。就職氷河期と呼ばれ、いわゆる正規職につけなかった世代の始まりと共に増大したのがオレオレ詐欺で、そもそもそれは政策の失敗から導かれた犯罪ではなかったかと思ったりもするからである。相関関係を証明した人はいないかもしれないけれど、正規雇用の門が閉ざされればそのようなスピン・オフが起きることは経済の専門家さんたちに予想されてもよかったのではないかと。
『嘘八百』にはまた、並行してラヴ・ストーリーも描かれている。その収め方というか、メイン・ストーリーとの絡め方も意表をついていて楽しかった。惜しむらくは「嘘八百」の「八百」は江戸八百八町に由来しているので、堺市なりのタイトルをひねり出して欲しかったということくらい。

Mining - ele-king

 ジム・オルーク × 石橋英子 × 日高理樹という強力かつ斬新な組み合わせによるライヴ・プロジェクト、「Mining」の続編が東京・山梨でも開催される。ジムはギターにシンセサイザー、石橋英子はフルートとエレクトロニクス、日高理樹はギター。ライヴは3部に別れており、1部は日高理樹ソロ、2部はジム・オルークと石橋英子によるライヴ、そして3部では3人による即興演奏が予定されている。君も目撃者になれ!

2月5日 (月)
@東京 渋谷7th FLOOR

OPEN:19:00
START:20:00
料金:前売¥4.000 / 当日¥4.500 (+1drink order)
出演:ジム・オルーク × 石橋英子 × 日高理樹
チケット取り扱い:e+ / 渋谷7th FLOOR店頭 (03-3462-4466)
メール予約:info@stereo-records.com
チケット発売:1月5日 11:00~ (7thFLOOR店頭 16:00~)

2月7日 (水)
@山梨 桜座
OPEN:18:30
START:19:30
料金:前売¥4.000 / 当日¥4.500 (+1drink order)
出演:ジム・オルーク × 石橋英子 × 日高理樹
チケット取り扱い:桜座店頭 (055-233-2031)
メール予約:info@stereo-records.com
:kofu@sakuraza.jp
チケット発売:1月5日 11:00~



●ジム・オルーク
1969年シカゴ生まれ。Derek Baileyの音楽と出会い、13才のジム少年はロンドンにBaileyを訪ねる。ギターの即興演奏に開眼し実験的要素の強い作品を発表、John Faheyの作品をプロデュースする一方でGastr Del SolやLoose Furなど地元シカゴのバンドやプロジェクトに参加。一方で、小杉武久と共に Merce Cunningham舞踏団の音楽を担当、Tony Conrad、Arnold Dreyblatt、Christian Wolffなどの作曲家との仕事で現代音楽とポストロックの橋渡しをする。1998年超現代的アメリカーナの系譜から『Bad Timing』、1999年、フォークやミニマル音楽などをミックスしたソロ・アルバム『Eureka』を発表、大きく注目される。1999年から2005年にかけてSonicYouthのメンバー、音楽監督として活動し、広範な支持を得る。2004年には、Wilcoの『A Ghost Is Born』のプロデューサーとしてグラミー賞を受賞、現代アメリカ音楽シーンを代表するクリエーターとして高く評価され、ヨーロッパでも数々のアーティストをプロデュースする。また、日本文化への造詣が深く、近年は東京に活動拠点を置く。日本でのプロデュース・ワークとしては、くるり、カヒミ・カリィ、石橋英子など多数。坂田明、大友良英、山本精一、ボアダムスなどとの共同作業や、武満徹作品『コロナ東京リアリゼーション』(2006)など現代音楽に至る多彩な作品をリリースしている。映像作家とのコラボレーションも多くWerner Herzog、Olivier Assayas、青山真治、若松考二などの監督作品のサウンドトラックを担当。


●石橋英子
茂原市出身の音楽家。いくつかのバンドで活動後、映画音楽の制作をきっかけとして数年前よりソロとしての作品を作り始める。その後、6枚のソロアルバムをリリース。各アルバムが音楽雑誌の年間ベストに選ばれるなど高い評価を受ける。ピアノをメインとしながらドラム、フルート、ヴィブラフォン等も演奏するマルチ・プレイヤー。シンガー・ソングライターであり、セッション・プレイヤー、プロデューサーと、石橋英子の肩書きでジャンルやフィールドを越え、漂いながら活動中。最近では七尾旅人、前野健太、星野源、OGRE YOU ASSHOLEなどの作品やライブに参加。映画音楽も手掛けている。またソロライブと共に、バンド「石橋英子withもう死んだ人たち(ジム・オルーク、須藤俊明、山本達久、波多野敦子)」としても活発にライブを行う。4thアルバム「imitation of life」、そして2014年リリースの最新作「car and freezer」は米・名門インディレーベル「Drag City」から全世界発売。ら2016年春にMerzbowとのDUO作品を電子音楽レーベルEditions Megoからリリースした。

石橋英子HP
https://www.eikoishibashi.net/


●日高理樹 / Riki Eric Hidaka
91年生まれ。ギター奏者。
日高理樹 / Riki Eric Hidaka HP
https://rikihidaka.tumblr.com/


TOTAL INFO

STEREO RECORDS
https://label.stereo-records.com/

Chris Carter - ele-king

 時代の流れとはあるもので、昨年末のTG再発の盛り上がりも、しかるべきタイミングのリリースだったからだと思う。TG再発は今年も続くが(なにせ彼らの最高傑作『D.o.A.』も人気盤の『Heathen Earth』もまだリイシューされていない)、その前にクリス・カーターのソロ・アルバムのリリースの情報が入ってきた。3月30日に発売される、『ケミストリー・レッスンズ Vol.1』と題されたその17年ぶりのソロ作は、ノイズ/インダストリアルの祖とされることから逃れるように、彼が時折見せていたポップな側面も見えつつ、しかしそのいっぽうで彼一流の不快な音響もある。作品では60年代の電子音楽も参照され、ピーター・”スリージー“・クリストファーソンと一緒に作ったという人工音声も使われている。なにはともあれ、このアルバムは期待しても良いだろう。65歳になったクリス・カーターの新たな挑戦である。


クリス・カーター(Chris Carter)
ケミストリー・レッスンズ Vol.1 (Chemistry Lessons Volume One)
3月30日 (金) 発売予定

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