「You me」と一致するもの

OGRE YOU ASSHOLE - ele-king

静かな、しかしけっして止むことのない怒りの音楽竹内正太郎

 これは悪い夢なのだろうか、と思うことがある。数年前にはとても考えられなかったようなことが、いま、この国で実際に進行している。しかし、ある人にとってそれがどれほど悪夢のような世界に思えても、同時にそれは、他の誰かが夢にまで見た理想の世界でもあり得る、ということ。そして、その強烈なアイロニーを受け入れながら、同時に、徹底的な俯瞰でその全貌を描いてしまうこと。もし、そんなことをやってのけるロック・バンドがいまの日本にあるとすれば、それがオウガ・ユー・アスホールというバンドだろう。新作『ペーパークラフト』の一曲め“他人の夢”において、出戸学は「あー/ここは他人の夢の中」と歌っている。前作『100年後』で築いたあのムーディーなサイケデリアの照り返しの中で、ゆったりと、とても大らかに、まるでラヴ・ソングでも歌うような柔らかさで、彼は歌っている。

 さらに、この“他人の夢”という曲は、ここ数年のライヴや、セルフ・リメイク・アルバム『confidential』の中で極まりつつあったノイズ・エクスペリメンタルな傾向からはひとまず切り離された、『ペーパークラフト』が新たに提示するある意味ではニュートラルな、それでいてポップスの常道からは逸脱したような(それこそ、詞の中で「ここにあるすべてが少しづつ変だ」と表現されているような)世界を象徴する曲でもある。とくに、1分を超える間奏パートに敷き詰められたコズミック・ギターのカーテンは、技術のひけらかしではなく、むしろ無言のままに、その雄弁な沈黙でもって聴き手の耳を圧倒するだろう。「希望や夢が一人一人を狂わせているよう」という言葉すらものみ込んで。

 もし、オウガ・ユー・アスホールというバンドに不幸な点があったとすれば、転機となった意欲作『homely』のリリース・タイミングが、ゆらゆら帝国の退場とあまりにも綺麗に連動してしまったことだろう。正直に言えば、筆者もあのときに素直ではない反応を示してしまったリスナーの一人である。しかし、緩やかな韻律と、大さじの皮肉がなみなみと注がれる2曲めの“見えないルール”には、このバンドの覚悟を見い出さずにはいられない。もちろん、彼らの音楽を本当の意味で鍛え抜いたものが、仮に、3.11以降のこの国で起こったあれこれであったとすれば、僕はそれを喜んでいいのかわからない。ひとつ、確実に言えることがあるとすれば、『100年後』の一部楽曲を除いて、オウガ・ユー・アスホールの音楽でこのようなジレンマに陥ることはなかった、ということである。
 その意味で言えば、この『ペーパークラフト』というアルバムの卓越した練度と問題意識は、ゆらゆら帝国の『空洞です』の完成をもって一度は放棄されてしまった日本語ロックのその後の可能性と(2010年の解散声明に「結局、『空洞です』の先にあるものを見つけられなかったということに尽きると思います。ゆらゆら帝国は完全に出来上がってしまったと感じました」と記されたショックを僕はいまでも忘れられない)、ceroの『My Lost City』という作品、とくに“わたしのすがた”に刻印された震災後の日本への真摯な問題意識を堂々と引き受けるものと言えるだろう。どう聴いても流行りの音楽ではない。優しい言葉のひとつもない。が、孤独は慰め合うものではないということを、この音楽は教えてくれる。

 もちろん、『ペーパークラフト』は単なる生真面目さに縛られた作品というのでもない。“いつかの旅行”に見られるインディ・プログレ(?)とでも言うべき、まるでレトロなSF映画のSEをサンプリングしたようなプロダクションには豊かな遊び心が、また、いわゆるロックのイディオムからは遠く離れた、“ムダがないって素晴らしい”で乱舞するパーカッシヴなリズム・プロダクションには、忍耐強いリズムの探究がある。レコーディングのクレジット欄には、それを実現可能にしたアナログのヴィンテージ機材の数々が、記載しきれないほど列挙されている(“誰もいない”に吹き込まれるサックスの、あの叙情的な響きときたら!)。たとえば、とりあえず音圧上げて4つ打ち、というふうに、「敷居を下げることがポップである」と誤解されつづけているこの国で、彼らの試みがより多くの驚きを集めることを願う。
 言葉の面で言えば、タイトル・トラックである“ペーパークラフト”が決定的だろう。もちろん、前提として断っておけば、彼らのメタフォリカルな言葉はいまでも一定の抽象性を守っているし、本稿に記されているのはあくまでひとつの解釈に過ぎない。だが、それでも、本作での言葉がこれまでにない強度を備えているのは気のせいではないと思う。あの震災を受けて、「これで日本もよい方向に変わっていくかもしれない」という一時的な希望を持ってしまった私たちの、皮肉めいたその後を描いたのが“他人の夢”だとすれば、他方では、ハリボテの街での生活もそう簡単にはやめられない、その意味では誰しもがある意味では共犯者なんだ、というパラドキシカルな意識がこの曲、ひいては『ペーパークラフト』全体に通底しているようにも思える。しかも、そのような複雑さを伴う作業を、彼らは極限までシェイプされた言葉でやってのけるのだから!

 とはいえ、なにも僕は、「ロックとは何か/どうあるべきか」というウンザリするような定義戦争を仕掛けたいわけではない。が、この作品は、そんな徒労にもう一度だけ首を突っ込んでみたくなるような誘惑に満ちている。たしかに、僕たちは世界を変えることができないかもしれないし、世界も僕たちを変えることができないかもしれない。だが、あなたが好むと好まざるとに関わらず、世界を変えようとしてしまう人たちがどんなときにも存在する、ということは思い出すべきだろう。気づけば他人の夢の中で踊らされてる、なんてことになる前に。

 少し大きな話になってしまうが、イマココの現実を相対化するために、「あり得たはずのもう一つの現実」を生み出すフィクションの力を、この国においてもサイケデリック・ロックが担ってきたのだとすれば、人々が暮らす街をひとつの霊廟として、しかも紙作りの霊廟として見てしまう『ペーパークラフト』の超然とした想像力は、トリップしながらも覚めている。それも凶暴なまでに。それは単なる厭世ではないだろう。そう、これは静かな、しかしけっして止むことのない怒りの音楽である。ある種の文学と、ロックという表現の可能性をいまでも信じる人に、どうか届いてほしいと思う。

竹内正太郎

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積極的にどっちつかずでいること三田格

 物憂げでトゲトゲしい。しかもどこか青臭くて、迷ってもいる。トゲトゲしいといっても、それは歌詞=ヴォーカルだけで、サウンドは真綿のように優しく、いつしか……いや、いつのまにか息苦しさを増していく。上がりもせず下がりもしない。一定のテンションを保っているほうが残酷だということもある。「そういったもののなかにしばらくいたい」と思ってしまう自分はどういう神経をしているのだろうか。誰かとケンカでもした後で、その感情を反芻して泣いたりするのがおもしろいとか、そういうのともちがう。イギリス人がザ・スミスを聴くと、こういう気持ちになるのだろうか。でも、あれほどネガティヴに振り切れた歌詞ではないかもな。相変わらず積極的にどっちつかずで、あまりにも引き裂かれ、ロック的な皮肉からは少しかけ離れている。孤独を盾に取ったようなところがないからだろうか。

 耳が歌詞に行きすぎるので、言葉がわからないようにヴォリウムを下げてサウンドだけを聴いてみた(そうすると低音の太さがより一層際立った)。デヴィッド・ボウイ“レッツ・ダンス”風にはじまる“見えないルール”でコールド・ファンクかと思えば、ヤング・マーブル・ジャイアンツが(編成を変えずに)ボサ・ノヴァをやっているような“いつかの旅行”、そして、マガジンが昭和の歌謡曲をカヴァーしているようにも聴こえなくはない“ちょっとの後悔”などポスト・パンク期のサウンドが目白押しのように感じられた。一時期、彼らの特徴だと言われていたクラウトロックの陰は薄く、ペレス・プラドーの浮かないマンボをカンが演奏すればこうなるかなという“ムダがないって素晴らしい”に残像が焼きついているという感じだろうか。それでも、どの曲もOYAに聴こえるのだから、何をどうやったところで彼らは一定のトーンを編み出しているということなのだろう。「他者」というのは、よく知っていると思っていた人が別人のような顔を見せた時に立ち上がるものだという定義があるけれど、ここには少なからずの他者性があり、いわゆるツボには収まってくれない快楽性がある。控えめなパーカッションが効いている〈クレプスキュール〉調の“他人の夢”から ブライアン・イーノとローリー・アンダースンがコラボレイトしたようなタイトル曲まで、これだけの振り幅を1枚にまとめたのはけっこう大したもの。ガラっと変わるのはエンディングだけで、その“誰もいない”はオープニングの“他人の夢”と対をなしている曲なのだろう。「自分の夢」ではなく“誰もいない”である。ようやく孤独が見えてきた。

 ラテン・アレンジが目立つわりに全体にじとーッとしていて、最後だけカラッとさせるのはテクニックというものだろう。最後の最後にトゲを残さないのも一種のスタイルとはいえる。おそらく、それほどトゲは強くなく、対象のなかに食い込んではいなかったに違いない。悪く言えばOYAはこれまであまりにもヴィジョンのなかったバンドで、他人の描いた夢に乗っていたことを『ホームリー』で自覚しただけに過ぎず、初めて孤独を手に入れた瞬間を「誰もいない」と歌うことができたと考えられる。「他人の夢」を見ていた時期を右肩上がりの日本社会に喩えたり、社会の絶望を個人の希望に読み替える歌詞だと解釈したり、“いつかの旅行”を動物化に対する葛藤ととっても悪くはないかもしれないけれど、基本的にOYAは自分の位置しか歌にしてこなかったと思うと(紙『ele-king vol.4』)、過去を思い出して「バカらしい」と同時に「愛らしい」と感じたり、そのように言葉にできるということはシンプルに成長だと思うし(“ちょっとの後悔”)、忌野清志郎による主観性の強い歌詞が好まれた80年代に戻っているような印象を残しながらも、決めつけるような言葉は周到に退けつつどこか探るような言葉で歌詞を構築していくあたりは自我が周囲に散乱しているのが当たり前、いわゆるSNSや承認論が跋扈する現代のモードに忠実だともいえる。言葉を換えて言えば、ミー・ディケイド(トム・ウルフ)に対する反動から「ひとりよがりのポスト・モダン」(ザ・KLF)を取り除こうとした90年代を経て他人が介在する余地を残さざるを得なくなっているのが現在の「縛り」となってしまい、孤独になるのはかつてなく難しい課題になっているとも(忌野清志郎のために少し言葉を足しておくと「一番かわいいのは自分なのよ」と彼が歌った背景には全共闘による滅私の考えにノーを言おうとしたからだというのがある。松任谷由実の責任転嫁を肯定する歌詞はそれを異次元緩和したようなもので)。

 忌野清志郎がかつて持っていたような過剰なほどの被害者意識がここにはまったくといっていいほど存在していないので、返す刀のような考え方=トゲが他人に対してだけ向けられるものにはなりにくく、自分とは異なる価値観の上に成り立つものも「意外と丈夫にできている」(“ペーパークラフト”)と、妙な譲歩にも説得力がある。忌野が初心ともいえる“宝くじは買わない”(1970)と同じテーマを歌った“彼女の笑顔”(1992)で、「何でもかんでも金で買えると/思ってる馬鹿な奴らに」と切って捨てるような立場をOYAは確立し損なったわけである。OYAがこの先、それを再構築するために「自分の夢」を描く方向に行くのか、それとも「積極的にどっちつかず」でありつづけようとするのか。もちろん、後者のほうがおもしろいですよね……(忌野清志郎のために少し言葉を足しておくと、80年代には「金は腐るほどあるぜ 俺の贅沢は治らねえ」(“自由”)と、彼は物事の二面性を歌うのがホントに巧みだった)。

 言葉がわかるようにヴォリウムを上げて、もう一度、聴き直す。歌詞の意味よりも声だけに耳が行く。出戸学の歌詞はまだ出戸学の声に追いついてないと思った。

三田格

セーラーかんな子 - ele-king

10/18 シブカル祭@渋谷PARCO
10/26 @高円寺AMPcafe
10/31 @渋谷OTO, @Le Baron de Paris
11/1 田中面舞踏会@恵比寿リキッドルーム
11/15 CITY HUNTER@BAR SAZANAMI

interview with 16FLIP - ele-king

直感的な感性を持つアーティストのひとつの特徴として、彼らは曲というものを自分とはべつに存在するひとつの生き物と見なし、その存在の証人となることができる、ということが挙げられる。究極的には音楽作りという行為自体の外側に立ち、音楽が生まれるプロセスの神秘に魅入られ、そしてそのプロセスの中に吸い込まれていくことができるのである。
──ジョー・ヘンリー
(ミシェル・ンデゲオチェロ『ウェザー』ライナーノーツより)

 僕はいま、16FLIPの直感力とヒップホップへの一途な情熱と求道的な姿勢が無性に気になっている。直感力に関していえば、この、東京のヒップホップ・シーンを代表するひとりであるビートメイカーのリズム、グルーヴ、サンプリング・センスにたいして使われる“黒い”という形容詞以上の“何か”をそこにあるのではないかと感じている。

 長年ヒップホップを徹底的に掘り下げてきた音楽家が、だからこそ何かを突き破りつつある、その過程をいま聴いているのかもしれない。けれども、直感はその人間の経験と知識から生み出されるもので、他人がそれを完璧に理解し、共有するなど無理な話だ。自分の耳だけを信じて、彼の音楽を聴いていればいいとも思うが、どうしても気になる。だから、話を訊いてみることにした。

 きっかけのひとつは1年ほど前の出来事だ。2013年10月某日、とある渋谷のクラブでDJした16FLIPは、ドクター・ドレとスヌープの“ナッシン・バット・ア・G・サング”とギャングスターの“ロイヤリティ”を何気なくスピンした。これまで何十回、もしかしたら百回以上は聴いたであろうこの2曲のクラシックが、まったく別の輝きを放って耳に飛び込んできたことに僕は震えた。
 90年代のUSヒップホップの音響やリズムが、2013年の耳を通して新鮮な感覚を呼び起こしただけではなかった。この感覚は何だろうか? そのときたしかに、「16FLIPにしか聴こえていない音とグルーヴ」を感じて、その後あらためて16FLIPのビートに関心を抱くようになった。


06-13
16FLIP

DOGEAR RECORDS

Hip Hop

Tower HMV Amazon

 ISSUGIや5LACKやMONJUをはじめ、BES、KID FRESINO、JUSWANNA、SICK TEAMといった数多くのラッパーやグループへのトラック提供で知られるこのビートメイカーは今年、2006年から2013年までに制作したトラックを収めたセカンド『06-13』と3枚のミックスCD(『OL'TIME KILLIN' vol.1』『OL'TIME KILLIN' vol.2』『SKARFACE MIX』)を発表している。すべてのトラックを手がけたISSUGIのサード・アルバム『EARR』のインストのアナログ盤『EARR : FLIPSTRUMENTAL-2LP-』のリリースも予定されている。
 まったくもって派手な宣伝や露出はないものの、16FLIPの音楽と存在は街にじわじわと浸透しつづけている。ファンの彼に対するまなざしは本当に熱い。すごいことだ。

 取材は今年の5月後半におこなった。ここでの僕の望みはふたつ。16FLIPのファンはより深く彼のことを知る手がかりにしてもらえればうれしい。そして、16FLIPを知らない人はこのインタヴューをきっかけに彼の音楽に耳を傾けてくれたならばありがたい。


リー・ペリーとかマックス・ロメオとか、レゲエの人たちが、わけのわからない年代で区切って作品を出したりするじゃないですか。“86-92”みたいな感じで。

最初にトラックを作ったのはいつで、きっかけはなんだったかという話から訊かせてもらえますか。

16FLIP:友だちのDJの家にMPCがあったんですよね。中3か高1ぐらいですね。で、そいつがいないときとかに遊びで作っていて、MPCを自分もほしいなって。それがきっかけだと思いますね。たぶん、自分で作るのがいちばん新鮮に感じてたと思うんすよね。そういう経験がなかったから。だから、やりだしたのかもしれない。でも、作らない時期もかなりありましたね。ちょこちょこ作ってたんですけど、あんまり上手く行かねぇなって。で、MONJUの作品を出すかってなったときに、またちゃんとやりだした感じだと思います。オレのトラックで、MONJUで1曲録ったら、わりとしっくりくるっていうことになって(笑)。それが、『103LAB.EP』(2006年)の“THINK”っていう曲なんです。その曲のトラック違いのやつがあって、それを最初に作ったんです。そこから、『103LAB.EP』を作る流れになったような気がします。

16FLIP名義で最初に世に出たトラックは、JUSWANNAのEP『湾岸SEAWEED』(2006年)に入ってる“東京Discovery”と“ブストゲスノエズ”なんですよね。

16FLIP:そうなんすよ。仙人掌の家に遊びに行ったときにメシア(THE フライ)も遊びに来たりしてて、そのときにトラックを作ったような気がしますね。レコーディング・スタジオに連れていってもらってミックスしてもらって、スタジオで爆音で聴いてたのを思いだすっす。いま思うと参加するチャンスをくれたことに本当に感謝してます。

『06-13』は、2006年から2013年までの作品を集めたアルバムですよね。2007年からにすることもできたわけだし、ベスト的な作品にすることもできたわけですよね。どうしてこの期間に絞ったんですか?

16FLIP:ベスト的なことを書いてくれている人も多いんですけど、自分はベストを出してるっていう気持ちはなくて。リー・ペリーとかマックス・ロメオとか、レゲエの人たちが、わけのわからない年代で区切って作品を出したりするじゃないですか。“86-92”みたいな感じで。そういう気分で出したつもりなんです。アルバムの題名を付けるのも好きなんですけど、題名は最終的にあってもなくてもいいかなって思ってる自分もいるんですよ。2006年に作ったトラックは一曲ぐらいしかないと思うんですけど。

それはどれですか?

16FLIP:たぶん、“Oitachi”だけですね。

選曲の基準みたいなものはあったんですか?

16FLIP:基準はいつも直感なんですよね。「いまはこの曲だな」みたいな感じですね。だから、1ヶ月とか2ヶ月経ったら違う曲を選ぶと思うし、1年かけて十何曲選びましたとかじゃなくて、「出すか」って決めて、パッパッパッパッパッみたいな感じで選びましたね。

ほとんどが2分以内、長くても3分ぐらいのトラックばかりですよね。サンプリング一発で、いい意味で遊びの感覚にあふれた作品集だなって感じました。ダブ的というか、ノリだけじゃないけど、ノリを大事にしてる感じがすごく伝わってくるというか。

16FLIP:そうっすね。最近、前よりもDJとして呼んでもらえる機会が増えて、それが作るときにいろいろ活かされてるなって自分では思うんですよね。DJ的感覚で一枚のものをまとめたいっていう気持ちがすごいありましたね。だから、自分の曲でDJやってる感じっすね。

“NEWDAY”も入ってますよね。仙人掌くんにインタヴューさせてもらったときに、「自分が客演した曲のなかで印象に残っている曲は?」って訊いたら、真っ先に挙げてきたのがこの曲だったんですよ。

ISSUGI feat.仙人掌“NEWDAY”

16FLIP:それはあがるっすね。(仙人掌と)こないだ話したんすけど、まじでいままで何曲フィーチャリングしたかすぐには把握できないくらいあるよねって言ってたんですよね。基本的になにをサンプリングしてトラックを作ったとか、あんまり憶えていないんですけど、“NEWDAY”に関してはまじでわかんなくて。そういう系のトラックなんですよね。いまはもう作れないだろうし、オレはトラックに関しても2度と作れないものが好きなんですよね。

まさに直感というか、瞬間の閃きの人なんですね。

16FLIP:しかも、その直感がそのときで消えちゃったらそれでべつにいいと思ってますね。

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いけるときは、たぶん10分ぐらいでいけますね。時間かけてもいいものができるっていうのは、オレのトラックにはないんですよ。

YouTubeにトラックを作っているときの映像がアップされてるじゃないですか。いつもああやってひとりで作ってるんですか?

16FLIP:だいたいそうっすね。あとは友だちの家とか大阪とか行ったりしたときもたまにトラック作ったりしてるんですよね。DJやりに行ったときとかに。

Making beat with 16FLIP/ "Smokytown callin" comingsoon

へぇぇ。それは、MPCを持ってくんですか?

16FLIP:いや、大阪に〈Fedup〉っていう、いつも行ったときお世話になってるお店があって自分たちのCDとかも置いてもらったりしていて。その横が〈Fedup〉のスタジオになっていてMPCとかもあって、遊びに行ったら使わせてくれるんすよね。C-L-CとかDJ K FLASHとかが「いいネタあったで」みたいな感じで教えてくれるから、「おお、ヤベェ! じゃあ、作ろう」って、作ったりしてますね。『II BARRET』にも大阪で作ったトラックが入ってますね。“No more ballad”のトラックです。

他にも〈Fedup〉で作ったトラックはたくさんある?

16FLIP:ありますね。大阪で10曲以上は作ってるんで、それをまとめてCDを出そうと思ってます。MPCがあればどこでも作れますね。ニューヨークに行ったときも、スクラッチ・ナイスの家で一週間に10曲ぐらい作って楽しかったっすね。

早くて1曲何分とかで作れちゃいますか?

16FLIP:いけるときは、たぶん10分ぐらいでいけますね。時間かけてもいいものができるっていうのは、オレのトラックにはないんですよ。そういう作り方は自分に合ってないですね。だから、できたトラックに手も加えないっすね。

ほんと潔いですよね。そういえば、遅ればせながら、16FLIP VS SEEDA『ROOTS & BUDS』(SEEDA『花と雨』を16FLIPが全曲リミックスした作品。2007年発表)を聴きました。評判だけはまわりの友だちから聞いてて。でも、あの作品は手に入りにくいし、中古でも高値じゃないですか。いや、とにかく、あのクラシックを完璧に16FLIPの世界に塗り替えているのに驚いたし、すごくかっこよかったです。あの作品はどういう経緯で作ったんですか?

16FLIP:当時、ナインス・ワンダーがナズの『ゴッズ・サン』(2002年)をリミックスしたアルバム(『ゴッズ・ステップサン』(2003年))を聴いて、それがかっこいいと思ったんですよね。トラックメイカーがラッパーのアカペラを使ってリミックス・アルバムを作って名を上げるハシリ的な感じだったと思うんですよ。それ以前もそういうのはあったかもしれないけど、ナインス・ワンダーはそこらへんのやり方がなんかかっこよくて。その後PUGが面白いこと考えてきたんです。『花と雨』が出たときに〈HARVEST SHOP〉で買うと特典でアカペラのCDRがついてきたんですけど、ちょうどMONJUの『BLACK DE.EP』(2008年)を出すのが決まってた時期で、「その前に一発カマしたほうがいい」みたいなことを言ってて。それで、もちろんSEEDAくんにも許可をもらって作ったんですよね。16FLIPを知らない人もSEEDAくんのリミックス盤だからってことで聴いてくれた人もたくさんいたと思うし、SEEDAくんには感謝してますね。

いまだに聴けていない人が多いのももったいないし、いま再発しても大きな反響があるんじゃないかと思ったぐらいです、ほんとに。

16FLIP:まじっすか!? それはありがたいです。

はい。さっきも話に出ましたけど、最近はDJもよくやってますよね。手前味噌ですけど、僕が16FLIPくんにミックスCD(『OL'TIME KILLIN' vol.1』『OL'TIME KILLIN' vol.2』。〈ディスクユニオン〉限定販売)の制作を依頼したのも、こうやってインタヴューさせてもらってるのも、そもそもは去年の10月に16FLIPくんのDJに打ちのめされたのがきっかけだったんです。あのとき、ドクター・ドレとスヌープの“ナッシン・バット・ア・G・サング”と、ギャングスターの“ロイヤリティ”をかけたじゃないですか。

16FLIP:はい、かけましたね。

Dr.Dre feat. Snoop Doggy Dogg“Nuthin But a 'G' Thang”

Gang Starr feat. K-CI & JOJO“Royalty”

自分はあの2曲をこれまでさんざん聴いてきたんですけど、あんなふうに聴こえたことがなかったというか、まだ上手く言葉にできないんですけど、「16FLIPだけに聴こえてる音とグルーヴがあるんだな」って実感したんですよ。

16FLIP:それ、すげぇうれしいっす。かける人によって、同じ曲でも違って聴かせられるのがDJのおもしろいところだし、ライヴDJが同じインストかけるにしても、かける人によって感じ方とか威力がそれぞれ違うんですよね。そいつの醸すものがそのまんま出るんですよね。だから、ライヴも関係性が高いほうがいいと思いますね。

関係性というのは、ライヴの出演者同士の?

16FLIP:出演者同士のではなくて、MCとライヴDJの場合っすね。人間の関係性もグルーヴだと思うんですよ。

ああ、なるほど。そのDJのあとに話したときに、16FLIPくんが、「ヒップホップだけで、ヒップホップをあまり聴かない音楽好きの人をヤバイと言わせたい」みたいなことを言ってて、それが16FLIPの音楽をまさに言い表していると感じたんですよね。

16FLIP:やっぱり自分は、ヒップホップがいちばんカッコいいと思ってるから。まあもちろん……

比べることじゃないけど……


自分の音楽がヤバイっていうよりも、自分の音楽を通したときに、「ヒップホップってヤバイな」ってならないとダメだとオレは思っていて。

16FLIP:そう、比べるものじゃないですけど、たとえばレゲエだったらレゲエがいちばんヤバイと思ってる人の音楽が聴きたいってことですね。自分にとってヒップホップは他には代えられないものだから。自分の音楽がヤバイっていうよりも、自分の音楽を通したときに、「ヒップホップってヤバイな」ってならないとダメだとオレは思っていて。自分がいろんな人のヒップホップを通して、ヒップホップの良さを知ったんで。そういう感じですね。

16FLIPの音楽、ビート、トラックは、たとえばいまアメリカで売れている主流のヒップホップの派手さや煌びやかさとは真逆にあるわけじゃないですか。もちろん、アメリカにもそういうヒップホップはたくさんあって、ロック・マルシアーノやエヴィデンスのような人は主流や流行と関係ないところでずっと音楽を続けてきたと思うんですね。16FLIPもまさにそうだと思うんです。自分たちが主流や流行とは違う音楽をやっていることに迷いや不安を感じたことはなかったですか?

16FLIP:それはまじにないっすね(キッパリ)。

ははははは。

16FLIP:そういうことを自分で考えたこともなかったですね。派手だとか、アンダーグラウンドだとか、そういうことを考えてないからっていうのもあると思います。流行のヒップホップのなかにもヤバイものはあるし、逆に、自分たちと同じスタイルというか、近いテイストでもダメなものは絶対あるから。どういうのが良くて、どういうのがダメかっていう基準が自分のなかにあるんです。たぶんそうなんすよね。だから、変わんないのかもしれないですね。

その話で思い出したんですけど、2年前ぐらいの〈WENOD〉のウェブ・サイトのインタヴューで印象に残ってる発言があるんですよ。DJプレミアについて、「ブレる事を知らない人の音からでるパワーってすごくて」(https://blog.wenod.com/?eid=206126)って語ってるじゃないですか。いままさに16FLIPの音も円熟……というのは早い気がしますけど、そういう段階に入りつつあるのかなって感じるんです。

16FLIP:ピート・ロックでも、J・ディラでも、ティンバランドでもいいんですけど、ずっと続けているヤツの重みがオレは好きなんですよね。

僕が16FLIPくんに清々しさを感じるのは、サンプリング・ネタの曲やミュージシャンやレコードに頓着しないところなんですよね。

16FLIP:そうっすね。オレ、ぜんぜんそういうの気にしないっすね。

トラックメイカーやビートメイカーやDJのなかには、マニア気質の人たちもいるじゃないですか。16FLIPくんはまったく正反対でしょ。

16FLIP:同じネタでトラックを作っても、違う人間がやったら、絶対に違うものになるし、同じものは作れないじゃないですか。だから、誰々の曲を使ってるとか、オレはまったくどうでもいいんですよ。そういうとこには興味がないんですよね。

だから、『06-13』でも他の人は避けそうなソウルやファンクの大ネタをためらいなくドッカ~ンと使ってるじゃないですか?(笑)

16FLIP:はい、ドッカ~ンっすね。だからオレ、レアかどうかとかって、すごく嫌いなんですよ。そんなの音楽の価値に関係ないんですよね。自分の良いか悪いかしか判断基準にならないんです。たとえば、5万円のレコードがあっても、オレが良いと思わなかったらDJでかけないし、逆に2円で買ったレコードでもヤバかったらかけますね。どんなネタを使っても、オレが作ったらオレの作り方になるし、DJでも、オレがかけたらオレのかけ方になるっていうのがわかってるんですよね。

それを僕は去年の10月の16FLIPのDJに感じたんでしょうね。

16FLIP:そう感じてもらえたことがすげぇうれしいんですよね。それは自分にとって重要なことです。オレも人のDJのそういうところを感じてるし、それこそ“ロイヤリティ”を聴いて、「ああ、懐かしいね」で終わっちゃう人もいるかもしれないけど、オレにとっては永遠にヤバイ曲なんですよ。いつ聴いても良いんですよ。だから、その曲が有名だろうが、初めて聴く曲だろうが、関係ない。きっとそういうことなんですよね。

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ワンループにこだわってるわけではないんですけど、最初はMPCのパッドが16個だったから、16FLIPにしたんですよ。

ところで、16FLIPっていう名前は何に由来しているんですか? 16は16小節からきているのかなと思ったんですけど。そうだとしたら、16FLIPのワンループの美学へのこだわりを考えると、的を射ているなって。

16FLIP:ああ、たしかに。ワンループにこだわってるわけではないんですけど、最初はMPCのパッドが16個だったから、16FLIPにしたんですよ。自分にいちばん合ってるのは、そういうシンプルな名前だなと思って。いまとなってはなんでもいいかなって思いますね。けっきょく名前とかって、やってるヤツ次第でかっこよくも感じられるし、ダサくも感じられるから。あとはスケボーをやってたから、単純にFLIPっていう言葉が好きだったと思うんですよね。で、ヒップホップのトラックの作り方のなかにも、FLIPっていう言葉があったから、そのふたつを掛けたのかもしれないですね。ひっくり返すっていう意味もあるし。

ISSUGIのファースト『THURSDAY』(2009年)に提供した“GOOD EVENING”ってインタルードはスケボーの音で作られてますよね。ほんとに美しくて瑞々しいインタルードですよね、あれは。

16FLIP:(スケボーの音を)入れてましたね。

あのころから5年経ったわけじゃないですか。年齢とともに遊び方も変わったり、生活の変化もあったり、環境も少なからず変わったと思うんですけど、そういう変化は音に反映されたりしてますか?

16FLIP:う~ん……、環境はどんどん変わっていってると思いますけど、トラックを作ることに対しては、とくに変わってない感じなんすよね。もちろん聴いてる音楽もその時々で違いますし、生活の変化も音楽に影響してるとは思うんですけど。ただ、音楽に対して、昔より柔軟になったっていうか、理屈っぽさがさらになくなってきてるかもしれない。

へええ、16FLIPくんが自分のことをそう考えていたとはちょっと驚きです。音楽に関して理屈っぽく考えていたとこもあったんですか?

16FLIP:いや、なんて言えばいいんすかね、そういう理屈とか関係ない自分でさえ、ちょっと理屈っぽかったのかなって思っちゃうときはあったかもしれないっすね。

自分に理屈っぽさを感じたのはどういうところに? ヒップホップに対してストイック過ぎるとか?

16FLIP:いや、そういう部分じゃないんです。なんていうんだろう、昔はいまよりも硬かったっすね、グルーヴが。いまのほうがよりスムースになっていってると思うんですよ。そういう感じですかね。なんか、オレ、動物的になっていくのがすげぇいいと勝手に思ってて。

ああ、なるほど。16FLIPくんが言うその言葉には説得力がありますよね。ただ一方で、こんなこと訊くのも無粋ですけど、一般的には、年齢を重ねると、たとえば家族のことだったり、お金のことだったり、若いころとは違った不安や焦りも生まれたりするだろうし、頭が固くなってしまうというのも一面ではあると思うんですよ。そういうことは感じたりしませんか?

16FLIP:でも、そういうことがあったとしても、音楽には及ばないというか、音楽には影響しないですね。生活の変化は音楽に影響はしてるんですけど、ヘンな音楽を作って、自分が空しい思いをするとしたら作んないほうがいいって思ってますね。余計な考えとかはいらないっすね。うまく説明できないんですけど、そうっすね、自分は自分の音楽がどんどん変化していくのがおもしろいし、それを楽しんでるんですよね。音楽は自分のやりたいことを100%出すのがいいと思いますね。それが前提ですね。

16FLIPくんの音楽に対するストイックな姿勢に接すると背筋が伸びる思いがしますよ。

16FLIP:ほんとっすか?

いや、ほんとに正直な気持ちです。オレとかやっぱだらしない人間だから(笑)。

16FLIP:そうすか?

ははは。

16FLIP:いやー。

やっぱり人間、いろんな欲もあるじゃないですか。

16FLIP:そうっすね。たしかに。

16FLIPくんほどの人気があれば、一獲千金……じゃないですけど、もっとギラギラしてても不思議じゃないと思うんですよ。

16FLIP:一獲千金(笑)。ヘンなことしてヒップホップで一獲千金できると思ってないですからね。

はははは。

16FLIP:もしもですけど、一獲千金する方法があるとすれば、たぶん自分のやり方を貫くことだと思ってますね。自分を貫かなかったら、一獲千金どころか、泥の舟に乗ってるようなものだと思うんですよ。音楽を長く続けるコツは、自分のスタイルを持って続けることだと思うんで。絶対。なんかヘンなことをやったら、自分の寿命を縮めるだけだと思うし、実際そうだと思うんすよね。だって、それでうまく行く人とかあまり見たことないし(笑)。そういう気持ちって人に伝わるじゃないですか。

そうですね。音から伝わりますね。

16FLIP:わかるっすもんね。「あ、こいつ変わったな」みたいになっちゃうと思うんすよ。


俺のなかではラッパーやDJが“B-BOY”じゃなくなったときに、がっかりするっていうか、悲しくなりますね。「ヒップホップを捨てたなあ」みたいなときが。

リスナーもそこは厳しく見てますよね。僕は、ファンやリスナーは薄情な一面もあると思っていて、自分が好きなミュージシャンやラッパーやDJのスタイルが変化したら、見捨てるときはあっさり見捨てたりもするじゃないですか。

16FLIP:俺のなかではラッパーやDJが“B-BOY”じゃなくなったときに、がっかりするっていうか、悲しくなりますね。「ヒップホップを捨てたなあ」みたいなときが。そうなっちゃったときに、自分のなかでは完全に終わると思ってます。

たとえば、メソッドマンにしろ、ナズにしろ、あれだけポップなフィールドでも活躍して、ポップな曲も作って、カネも得ているけれど、いつまでもヒップホップしていて、カッコいいですよね。

16FLIP:カッコいい人はいますね。オレ、スヌープやっぱり好きですね。あと自分は、誰々の“この1曲”が好きっていうよりは、“その人”の作るものが好きだっていう感じなんですよ。だから、ミックスを聴いてくれる人とかも入ってる曲をそうやって聴いてもらえたら、うれしいっすね。

“人間を聴いてる”という感じですかね。

16FLIP:そうっすね。あと、他の人が聴かなくなっても、自分が好きだったら聴いていればいいし、そういうもんだと思うんですよ、音楽って。

16FLIPにとって、ヒップホップって何でしょう?

16FLIP:最終的には、曲を作ることが、自分のヒップホップを表現する行為と同じことだと思ってますね。DJにしても、ラッパーにしても、そうなんですよね。「自分のヒップホップはこういうもんだ」と思ってるものが出ちゃう、ただそれだけだと思ってます。

実は今日、16FLIPくんに会う前にECDさんにインタヴューしてきたんですよ。本人はどう考えているかはわからないけれど、ECDは相変わらず、いまの16FLIPくんの言う意味での“B-BOY”なんだなってすごく感じて。

16FLIP:そうっすね。それはすげぇ思います。

1960年生まれだから、今年で54歳ですよね。

16FLIP:まじでリスペクトですね。

16FLIPくんは自分の音楽家としての未来を考えたりしますか?

16FLIP:自分もそれぐらいの歳までバリバリ音楽を続けて、54になってもニュー・アルバム出したいっすね。自分が54になったときは、いまよりヤバイと思ってますね。長く続ける存在が日本にたくさんいたほうがいいと思うんですよね。年取ってやらなくなっちゃうってことは、ヒップホップが根付いていないってことじゃないですか。その歳になっても音楽をやってるほうが自然だと思うし。若いヤツの音楽ももちろん好きだけど、50代とかオッサンしか出せないヤバさは絶対ありますからね。アレサ・フランクリンとかアンジー・ストーンの音楽にしてもやっぱ演奏とかまじでヤバイし、渋いじゃないですか。そういう人たちしか出せないもんがあると思うんですよ。
 だから、オレが38ぐらいになって、アルバム出したとするじゃないですか。そのときに、はじめて『EARR』とかを聴くヤツがいてもいいと思うし、いつだって何を聴くヤツがいてもいいと思う。自分だって、いまはもう死んでいるヤツの昔の音楽をガンガン聴いてるわけじゃないですか。だからみんな、もっと好き勝手やればいいのにっていっつも思ってますね。もっと好き勝手やったほうがかっこいいものができるし。いまヤバくて、10年後もヤバイのが絶対いいっすね。そういう耳で自分は音楽を聴いてますね。自分がヤバイって思うものは、いまだけヤバイものじゃなくて、永遠にヤバイんです。

BEEF / MOSDEF (16FLIP REMIX)


OGRE YOU ASSHOLE、新作MV - ele-king

 この音、この言葉、なんて説明すればいいのだろう。10月15日に発売されるオウガ・ユー・アスホールの新作『ペーパークラフト』は傑作である。来週、ele-kingでもレヴュー2本載せるぞ。お楽しみに。
 思えば、僕は、この1年、このバンドのライヴを4本見ている。そのすべてにおいて、バンドは堂々としていた。僕は“見えないルール”を歌いながらロードバイクを飛ばす。30キロ・アヴェレージを目標に(あくまでも目標)、およそ3時間ほど、朝の清々しい空気のなかを走る。すれ違う女性がみんな美人に見える。そして朗報が……。
 『ペーパークラフト』の収録曲“ムダがないって素晴らしい”のMVが完成。出戸学が自ら監督・制作・撮影したクレイ・アニメ作品である。

本MVは、OGRE YOU ASSHOLEのオフィシャルwebトップ、〈Pヴァイン〉のYouTubeチャンネル、同日同時放送でバンドが運営するUstream番組「Record You Asshole」内にて公開される。

今回のミュージック・ヴィデオは、ヴォーカル/ギター担当でOGRE YOU ASSHOLEの中心人物である出戸学が自ら監督・制作・撮影・編集全てを手がけた、究極のセルフ・メイドとなっています。

今夏のレコーディング終了後に急遽発案され、約90日をかけて試行錯誤が繰り返された結果、ジュール・ヴェルヌやドイツ表現主義などのレトロSFムービーを彷彿させる、キッチュで不可思議な映像作品が完成しました。
遠い未来の異国のような、あるいは夢で見た風景のようなモノトーンのアナザー・ワールドで起こる様々に無益な事象が、ラテン・パーカッションとドラムスが産み出す反復ビートと重なって、ミニマルで謎めいた陶酔感を生み出しており、つい何度も再生したくなります。

アルバムのジャケットやアーティスト・フォトの細部に至るまで、全てバンドメンバー自らが企画・制作した「ペーパークラフト」からの初MVに相応しく、これまで何度かOGRE YOU ASSHOLEのMVを監督・指揮してきた出戸が、初めて自ら全てを手がけた意欲作です。

前々作「homely」、前作「100年後」から通底するテーマであった「居心地が良いが悲惨な場所」を、手作業の暖かみとミニチュアが持つ硬質感が融合したレトロ・フューチャーな映像で表現した、OGRE YOU ASSHOLEの最新MV「ムダがないって素晴らしい」を、ぜひともご覧ください。
(レーベル情報より)

PヴァインYoutubeチャンネル:
https://www.youtube.com/user/bluesinteractionsinc

Record You Asshole by OGRE YOU ASSHOLE:
https://ototoy.jp/feature/index.php/2012083000

official web:https://www.ogreyouasshole.com/
twitter:https://twitter.com/OYA_band
FB:https://www.facebook.com/ogreyouassholemusic

■OGRE YOU ASSHOLE 『ペーパークラフト』
発売日:2014/10/15
発売元:P-VINE RECORDS

収録曲:
1.他人の夢
2.見えないルール
3.いつかの旅行
4.ムダがないって素晴らしい
5.ちょっとの後悔
6.ペーパークラフト
7 誰もいない

<初回限定盤>
・完全初回限定生産
・特別ボックス仕様
・CD+エクスクルーシブ・セッションを収録したカセット・テープ付属(シリアル・ナンバー入りダウンロード・コード付き)
品番:PCD-18775
値段:¥3,330+税

<通常盤>
・1CD仕様
品番:PCD-18776
値段:¥2,550+税


■OGRE YOU ASSHOLE
ニューアルバム・リリースツアー “ペーパークラフト”

2014.12.13(土)  大阪  CLUB QUATTRO
2014.12.20(土)  山梨  CONVICTION
2014.12.21(日)  長野  ネオンホール
2014.12.27(土)  東京  LIQUIDROOM

2015.01.10(土)  札幌   KRAPS HALL
2015.01.16(金)  名古屋 CLUB QUATTRO
2015.01.17(土)  広島   4.14
2015.01.24(土)  新潟   CLUB RIVERST
2015.01.31(土)  鹿児島 SRホール
2015.02.01(日)  福岡   Drum Sun
2015.02.07(土)  仙台   HOOK
2015.02.08(日)  松本   ALECX (※ツアーファイナル)


ele-king vol.14 - ele-king

 けっこう大変だったんです。AFXが新作を出すことは口外できない、作品がどんな内容だったのかも言ってはならない、そういう裏事情がありまして、本格的に原稿発注したり、作りをはじめたのが9月の半ば過ぎですから。それはもう……言い訳を並べたらキリがないです。お陰様でとても面白いインタヴューが取れました。リチャード・D・ジェイムスがよく喋ってくれました。家族からアリまで、ガンツから革命についてまで、非情に幅広い彼の回答が楽しめると思います。
 UKテクノの現在も特集です。『サイロ』とは、決して、天才が好き勝手に作った作品ではないと思います。時代のなかで生まれた作品です。
 アンディ・ストット、ダムダイク・ステア、アコード、インガ・コープランドのインタヴュー記事も掲載。ドローン/アンビエントからIDM/エレクトロニカの流れでも注目されるローン・イングリッシュには畠山地平が質問攻めです。「D.J.Furutono & D.J.April のシカゴ体験記」も見逃せませんね。貴重な現地レポート、写真も満載です。久しぶりにがっつりとポリティカルな小特集もやらせていただきました。こちらも是非注目して下さいね。

Contents

002 セーラーかんな子 写真=当山礼子
006 第1特集=エイフェックス・ツイン
008 RICHARD D. JAMES interview

032 忘却と神話 文=野田努
034 Selected DISCOGRAPHEX 1991―2007
040 Syro 2014 マンガ=西島大介
042 機材でぶっ飛ばせ 文=佐々木渉
044 AFX VS OPN 徹底比較!
046 COLD ── UKテクノの現在
048 ANDY STOTT&DEMDIKE STARE interview
055 コールド── 進化し続ける英国のハードコア連続体 文=飯島直樹
058 DISC GUIDE INTO COLD PART 1
063 AKKORD interview
068 DISC GUIDE INTO COLD PART 2
074 ACTRESS interview
078 COPELAND interview
084 タイトル未 写真=塩田正幸
092 LAWRENCE ENGLISH interview
096 MORE AMBIENT DRONE ALBUMS
097 第2特集=政治 NO POLITCS THANK YOU!
098 今、日本が向かっているところ 対談=ブレイディみか子×水越真紀
110 グローバル化に反転攻勢をかける力 文=五野井郁夫
113 スラム街はコンフリクト・ジャングル 対談=木津毅×三田格
119 すべてはひとつのレイヴの下に 文=マイク・スンダ
124 HYPER! ファッション アニメイション コミック 家電 TVドラマ
130 SK8TNGの原宿逍遥 PART 1
135 D.J.Furutono & D.J.April のシカゴ体験記
146 Regulars ブレイディみか子 水越真紀 山田蓉子 磯部涼
156 編集課二係 ジョン刑事


A.r.t. Wilson - ele-king

 現代音楽やドローンが結果的にアンビエントに(も)聴こえる作品としてリリースされた場合、そこにはやはり本来の目的は違うところにあるという逃げ道が用意されているような感覚を抱きながら接するものにはなりやすい。どうしたってそれは共犯関係の上に成り立つものだし、本来の目的を理解する気はさらさらないというリスナーの主体性がすでに仮構のものであるからである。

 しかし、これがポップ・ミュージックであった場合、むしろアンビエント・ミュージックは本格的なものにならざるを得ない。退路はどこにもなく、ストレートに真価や有用性を問われるものになる。80年代の人たちはまだ無自覚だったと思うので、『アンビエント・ディフィニティヴ』で取り上げたエイフェックス・ツインやサン・エレクトリック、ケアテイカーやテイラー・デュプリーはそういった意味で揺ぎない時代性を内包した作品だったと僕は思っている。最近ではディープ・マジックやセヴェレンス(Severence)などがそういったものに近づいているとも。

 活気づくメルボルンからアンドラス・フォックス(Andras Fox)の名義でシンセ・ポップを送り出してきたアンドリュー・ウイルソンが〈メキシカン・サマー〉と契約を結んだ一方、新たな名義でリリースした『オーヴァーワールド』は多少のリズム・トラックを含むものの、ポップ・ミュージックがアンビエント・ミュージックに取り組んだ最新の結果を生み出したと僕には感じられる。90年代のようにクラブ・ミュージックとの並走でもなく、ゼロ年代のようにミュージック・コンクレートの方法論を応用したものでもない。なんというか、じつになんでもない。新しいと思える手法は何も用いられていない。非常に簡素で、含みや重層性はなく、最後まで淡々と音が鳴っているとしか言えない。何もないところからは何も生まれないというようなアイロニーもなく、物静かな音楽というような素朴な認識だけがあるというか。これが、しかし、何度聴いても飽きないし、どこか驚きに満ちている。何に驚いているのか自分でもよくわからない。繰り返し部屋のなかに垂れ流すだけ。

 しかし、実際にはこれらの音楽はコンテンポラリー・ダンスのためにつくられたものだという。レベッカ・ジェンセンとサラ・エイトキンが「上流階級(=オーヴァーワールド)」をテーマにしたダンス・レパートリーだそうで、ということは、ここにある優雅さは上流階級の身のこなしを表しているということなのだろうか。「言葉では表せないことを身体は物語る」という文句がジャケットには記され、身体性の裏づけがある音楽だということは印象づけられる。あるいは、階級をテーマにしたものだときいてもとくに皮肉げなニュアンスに意識がいくようなものでもなく、なんとなく思い出すのは〈クレプスキュール〉の諸作や細野晴臣といったポップ・ミュージックである。それにしても欧米はダンスと音楽の結びつきが本当に濃い。スージー&ザ・バンシーズのスティーヴン・セヴェリンからクリスチャン・ヴォーゲルまで、どんなジャンルの人でもバレエ音楽を手掛けているからなー。

映像はちょっとヒドいけど、“ジェインズ・テーマ(Janine's Theme)”。

 『オーヴァーワールド』を聴いていて、ちょっとだけ思い出すのはエール(フレンチ・バンド)である。いままでアンビエント・アルバムはつくったことがなかったダンケル&ゴダンが、そして、あろうことか、1000枚限定で美術館のためにアンビエント・アルバムをアナログだけでリリース(そのうちCD化されるだろうけど……)。美術館に飾られているさまざまな絵のイメージなのか、ピアノとハミングによるクラシカルなオープニングからどんよりと沈んだムード、あるいは軽く躍動感を感じさせるものまで、意外と表情豊かな曲の数々を聴かせてくれる(“ドリーム・オブ・イー(The Dream Of Yi)”だけは『ラヴ2』(2009)からの採録)。実際にナポレオンの指示で建てられたリール美術館から依頼を受けて製作したものだそうで、ということはフランスまで行けば館内で聴くこともできるということか? これは山田蓉子の感想を待ちたい(紙エレキングで「ハテナ・フランセ」という新連載をはじめてもらいました!)。

 2014年もすでに40枚以上の記憶に残るアンビエント・アルバムと10枚近くの奇跡的な再発盤に出会うことができた。機会があればいずれまとめて紹介したいような。

■いま、早期アクセスが熱い

 みなさんこんにちは、NaBaBaです。今回はいままでと趣旨を少し変えて、最近インディーズ・ゲーム界で流行っている「早期アクセス」という販売形態についての雑感と、それに関連した作品をいくつかご紹介したいと思います。

 この連載で幾度となく言及してきたインディーズ・ゲームですが、その規模は年々大きくなるとともにいろいろな問題が起きてきています。その最たる、かつ普遍的なもののひとつがお金でしょう。デジタル販売が普及し独立系の開発スタジオが自力で販売できる時代になったとはいえ、開発のための予算を確保しペイするのは依然困難なものです。むしろインディーズの裾野が広がっているからこそ、販売形態にも多様性が求められています。

 こうした中で今年に入って急進してきた新たな販売形態が、冒頭で挙げた早期アクセスです。これは開発途中のゲームを先行販売し、そこで得た資金を元手にして開発を継続していくスタイル。
 開発側からすると、はじめから十分な資金を持っていなくても販売と開発の継続ができるチャンスがあり、また開発途中の物を多数のユーザーに触ってもらうことで、実質的なテストができることが主なメリットとなります。

 当然開発途中なので必要な機能が実装されていなかったり、バグが含まれていたりということもあり得ますが、ユーザーもその点を承諾し、一方で完成版よりも割安で購入できたり、バグの報告や新機能の要望等といった形で開発に間接的に関われるというのが購入する側のメリットだと言えるでしょう。

現在Steamでは約270ものタイトルが早期アクセスとして販売されている。
現在Steamでは約270ものタイトルが早期アクセスとして販売されている。

 この早期アクセスが急進してきた背景としては、上記のメリットの他に、クラウドファウンディングの衰退の影響も大きいと言えます。Kickstarterをはじめとしたクラウドファウンディングは、昨年まではインディーズ・ゲーム開発のフロンティアとされてきました。しかしこの方法による資金調達の成功率は非常に低く、有名な開発者が参加していたり、すでに有名な企画だったりという知名度が物を言い、純粋な企画力だけではなかなか成功に繋がらないのが現状。また度重なるプロジェクトの中止等、支援者側からの信頼も低下してきています。

 事実、2014年上半期のゲーム・カテゴリの資金調達額が、昨年の半分以下となったという調査報告が出てきており、クラウドファウンディングのバブルは弾けたというか、多くのスタジオにとってはもはやチャンスを掴める場所ではなくなってきているんですね。

 
ICO Partnersの報告によると、今年上半期のKickstarterのゲーム・カテゴリにおける資金調達額は13,511,740ドルと、下半期を同額と想定しても昨年通期の57,934,417ドルの半分以下にまで下回った。

■早期アクセスとMOD文化の類似点

 早期アクセスが普及したもう一つの主因として、スター的作品の存在にも言及せずにはいられません。インディーズ勃興期にも、またはクラウドファウンディングが登場したときにも、その普及を牽引するスター的作品が存在しました。早期アクセスの場合は『Minecraft』と『Day Z』の2タイトルを挙げることができるでしょう。

 『Minecraft』は言わずと知れたクラフトゲームの始祖であり、今日のインディーズ・ゲーム文化そのものを代表する名作ですが、本作がリリース初期にとっていた、開発途中のものを割安で販売し以後無償でアップデートを繰り返していくというスタイルは、早期アクセスの販売方法のモデルの一つとなっています。

 もう一方の『Day Z』は、もともとは『ARMA II』というゲームのMODとして展開されてきたゾンビ・サヴァイヴァル・ゲームですが、昨年末スタンドアローン版が早期アクセスでリリースされて大ヒットを飛ばし、実質的な早期アクセス・ブームの火付け役となりました。

『Day Z』より。本作と『Minecraft』はゲームデザインから販売形態まで後続のインディーズ・ゲームに多大な影響を与えつづけている。
『Day Z』より。本作と『Minecraft』はゲームデザインから販売形態まで後続のインディーズ・ゲームに多大な影響を与えつづけている。

 さて、以上のように早期アクセスは概念的には『Minecraft』、より実際的な販売形態としてのブームを作ったのは『Day Z』にあると述べましたが、より深い部分にある考え方というか文化的な性質というのは、ずっと前の時代の「MOD」文化から引き継がれているものだと個人的に感じています。

 MODというのは、既存のゲームを「Modification」する、つまり改造し、そのデータをネットで無償で広く公開・共有することを指します。さかのぼるとFPS黎明期である『DOOM』や『Quake』の時代から存在しており、かつてPCゲームを語る上で欠かすことのできない重要な文化でした。

当時のMODの一例。『Shadow Warrior』改め『Sylia Warrior』。98年の作。テクスチャが無秩序に『バブルガムクライシス』のイラストに差し替えられる暴挙。こんな光景当時は日常茶飯事だった。
当時のMODの一例。『Shadow Warrior』改め『Sylia Warrior』。98年の作。テクスチャが無秩序に『バブルガムクライシス』のイラストに差し替えられる暴挙。こんな光景当時は日常茶飯事だった。

 一見して著作権等々の法的問題に触れそうなこのMODですが、改造元のゲームの販売を促進させるということでメーカーも容認する姿勢が一般的で、MOD文化全盛期にはむしろ改造のためのエディターをメーカーが直々にゲームに同梱するのも珍しいことではなかったのです。

 そのMODの内容は多岐にわたり、元のゲームにちょっとした機能を追加するものから、キャラクター・モデルやテクスチャの差し替え、ほぼ完全な別の作品に作り変えてしまう物までじつにさまざま。ほぼ完全な作り変えは「Total Conversion」と呼ぶこともあり、その代表的な作品が『Half-Life』のMODである『Counter-Strike』でしょう。

 ただし『Counter-Strike』という商品化された例があるとは言え、それは特殊なこと。MODは基本的に素人のユーザーが作ったものですからクオリティは玉石混淆、メーカーの保障も受けられない、完全に自己責任で楽しむものでした。Total Conversionについてはいきなり完成版がリリースされることは稀で、大抵少しずつアップデートされていくのを見守るのも楽しみの一つだったのです。

『Counter-Strike』も完成形である『1.6』に至るまで度重なるアップデートを重ねてきた。画像は後年のリメイク作の一つである『Counter-Strike: Source』。
『Counter-Strike』も完成形である『1.6』に至るまで度重なるアップデートを重ねてきた。画像は後年のリメイク作の一つである『Counter-Strike: Source』。

 現代のMOD事情はというと、ゲーム開発がきわめて高度かつ大規模なものになってきたにつれ、素人が手出しできるものではなくなり、かつての勢いはすっかり失われてしまったのが実情です。『The Elder Scroll: Skyrim』等の一部のMODフレンドリーな作品を除くと、現在発売されるゲームでMOD前提とした姿勢は見られなくなって久しいですし、Total Conversionのような大規模なものが話題に上がることも滅多にありません。

 しかしMODにとって代わって興隆してきたのがインディーズ・ゲームです。かつてのゲームに同梱されていたエディターの役目はUnityやUnreal Development Kit等の安価で安定したサポートが得られるゲームエンジンに変わり、既存のゲームを改造するのではなく、1からオリジナルのゲームを作っていくことに軸足が移ってきたのです。

 こうして振り返ってみると、インディーズ文化の先端にある早期アクセスも、単に目新しいだけでなく、かつてのMODやTotal Conversionという文化の土壌があるからこそ生まれてきた、しっかり文脈を踏まえたものだと感じられるのです。またそう考えるとMODからはじまった『Day Z』は、MODとインディーズ、Total Conversionと早期アクセスといった古今を繋ぐ象徴的な作品であるとも捉えられますね。

■お金を取るという事の難しさと責任の重大さ

 しかしながらMODとインディーズには金銭的やり取りの有無に決定的なちがいがあり、これが現在のインディーズ業界にまつわる諸々の問題を引き起こしています。たとえば早期アクセスの場合、開発側とユーザーの認識のギャップが問題になっています。簡単に言えば開発側が公約していた内容、あるいはユーザーが求めている内容と、実際のゲームの内容がちがうということが往々にして起こり得るんですね。

 MODにもそういったことはよくありましたが、MODは商品化でもされないかぎり基本的に無償であり、どこまでいっても所詮は趣味の産物、当然ユーザー側も何が起きようが自己責任だという大前提を暗黙の内に共有していました。

 しかしインディーズは逆に、どんな糞味噌な内容であってもお金を取っている以上は開発側に相応の責任が発生するし、ユーザーもそれを追及する権利を有するという考え方になります。すると開発中であるという前提をすっ飛ばしてユーザー・コミュニティが炎上、ゲームはブランド・イメージを不当に損なうという問題が起きてしまう。

 また開発中止のリスクがつねに伴っているという問題もあり、ひどい場合だと返金処理どころかまともな説明もなくスタジオがばっくれてしまうことも。実際Steamで早期アクセスとして販売されていた『The Stomping Land』の例では、開発半ばでスタジオからの連絡が途絶えそのまま販売停止に至るという事件にまで発展しています。

『The Stomping Land』より。5月30日のアップデートを最後にスタジオは音信不通になっている。
『The Stomping Land』より。5月30日のアップデートを最後にスタジオは音信不通になっている。

 こうした問題を受けて現在Steamでは早期アクセス・ゲームのストアページやFAQで、早期アクセスゲームが開発途中のものであり、最悪の場合は開発中止もあり得るという点を明記するようになりました。しかしながらこれは開発側とユーザーとの信頼の問題でもあり、いくらリスクを明記しても問題が多発するようであれば、ユーザーは関わりを避けるようになるし、健全な開発スタジオにとってもメリットがなくなってしまいます。

 それこそKickstarterにおいてこの数年でさまざまな問題が発生し、クラウドファウンディングの可能性と限界が周知された結果としてそのバブルが弾けたように、早期アクセスも未知数ゆえの評価待ちの状態であり、数年後も安定した販売方法として定着しているかどうかは怪しいところです。

 個人的な見解を述べれば、早期アクセスが数年後もいまの形態のまま存続している可能性は低いと見ています。なぜなぜならゲーム開発とは予定通りいかないものであり、予算も期間も足が出ることは現代の大手のゲーム開発においてでさえ当たり前のことなのです。しかし早期アクセスは将来の完成の可能性を担保に資金を募っている面があるわけですから、これはじつに危ない橋を渡っているものだと感じています。

 しかもベータ版等、ゲームとして必要な機能がすべて実装されている状態ならまだしも、アルファ版やそれ未満の状態で販売しているゲームも多い。ということはそれだけ今後の開発で未知数な部分や問題が起きる危険性が高いのです。しかも開発中のゲームをそういう状態で販売しなければいけないということは、それだけスタジオに余裕がないということの表れでもある。

 早期アクセスが流行りはじめてまだ一年も経っていないので問題も顕在化されていませんが、これから先、募った資金が足りなくなったとか、公約していた機能を実装できない等の問題が間違いなく頻発することが懸念されます。最悪クラウドファウンディングと同じ道をたどり、最終的に信頼も知名度も資金も余裕のあるスタジオにしかうま味がない、何も元手が無い弱小デベロッパーの救いにはならない販売形態になってしまうのではないか、という点を大変危惧しています。

■早期アクセスのその先は?

 より多くの開発者にチャンスを与える。これがインディーズ・ゲーム業界でつねに問われている課題であり、それに応えつづけてきたからこそ、現代の興隆があると思っています。クラウドファウンディングや早期アクセスもそうした試みの一部であり、成功した面もあれば失敗した面もあります。では早期アクセスの次には何が来るのか? その点についても少しご紹介したいと思います。

 インディーズのスタジオにとって資金と同じく問題になるのがプロモーションです。せっかくよい物を作っても十分な宣伝がなされなければ売れるものも売れない。早期アクセスが流行った要因の一つには、じつのところ、とりあえず発売すればSteamのトップページに掲載されるというプロモーション面での理由もありました。こうしたことからもわかる通り、近年ますますたくさんのゲームが発売されひしめき合う中で、いかに目立つかというのは大変重要な課題になっているのです。

 こうした問題に一石を投じる形で最近Steamに登場したのが、「Steam Discovery」および「Steam Curators」という新機能です。この両者はともに多数のゲーム・ラインナップの中からユーザーに適切な商品を紹介することを目的としています。

 Steam Discoveryは個々のユーザーが購入し遊んだゲームをもとに自動生成される商品紹介ページで、これまでの画一的な商品紹介ページでは取りこぼしていた作品の情報をユーザーに届けられるようになることが期待されています。

 もう一方の Steam Curatorsは逆に有人による商品の紹介機能で、キュレーターである個人、あるいは組織が商品を推薦することで、購入の一助にしようというものです。贔屓にしたいキュレーターを登録すれば、先程のSteam Discoveryで生成された商品紹介ページに、キュレーター推薦の商品も掲載されます。

ちなみに僕は『Rock, Paper, Shotgun』を特別贔屓にしている。本来はゲーム専門ニュースサイト(https://www.rockpapershotgun.com/)で、マイナーながら良質なゲームの発掘に定評がある。
ちなみに僕は『Rock, Paper, Shotgun』を特別贔屓にしている。本来はゲーム専門ニュースサイト(https://www.rockpapershotgun.com/)で、マイナーながら良質なゲームの発掘に定評がある。

 これらの新機能はいずれも実装されたばかりなので効果的かどうかの判断はできませんが、こうした試み自体は評価できますし、また引きつづき行われなければいけません。インディーズ・ゲーム業界が今日の形を成しているのは、作っていくため、売っていくための試行錯誤が続けられたからであり、その結果としてマネタイズとクリエイティヴィティを両立しながら市場を拡大してきたことは財産であると誇ってもいいものです。

 そして早期アクセスとMODの繋がりが示すように、今日の試行錯誤や新しい試みの中にも、文化的な土台としての過去をしっかり引き継いでいることに、根底の部分での力強さを感じています。今後もさまざまな問題が起きるでしょうが、それらを乗り越えインディーズ・ゲーム業界をさらに発展させていってほしいと思っています。

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 ここから先は早期アクセスの作品を具体的にいくつか紹介していきたいと思います。ただしどれも開発中のものですから、ここでの評価は最終的なものではないことを念頭に入れてください。

Broforce

 

 開発はFree Lives、パブリッシャーは一癖も二癖もあるゲームの販売でお馴染みのDevolver Digitalによる作品。往年のアクション映画のヒーローたちを堂々とパロディしたキャラクターが大暴れする、肉密度1000%、木曜洋画劇場的なアクション・ゲームです。

 パッと見、『魂斗羅』や『メタルスラッグ』等の純粋な戦場アクションかと思いきや、地形を崩して回り込んだり敵の足場を無くしたりといったパズル的側面もあります。プレイヤーが操作する兄貴たちはどれも強力な火力を持っていますが、敵の攻撃一撃で倒れてしまうため、強力な攻撃をぶっ放しつつ、それによって削れていく地形をも利用し、いかに敵の射線に入らないかを考える、アクションと戦略性をあわせ持ったゲームと言えます。

 とは言えそこまでタイトではなく、そればかりか実際はかなり大雑把なゲーム・バランス。地形は半ば制御不能なくらい削れていくこともあるし、操作する兄貴たちは毎回ランダムで決まる上に性能差が激しくて、使えない兄貴ではクリアはままならない。ただどうせすぐ死ぬし、そしたらまた別の兄貴を操作することになるからいずれクリアできるっしょ? みたいなノリ。同じDevolver Digital販売で、タイトなアクションと戦略性が高いレベルで融合していた『Hotline Miami』とは比べるべくもないアバウトさです。

 しかしながら、本作はそれがいいのではないかとも思います。現在Beta版でゲームとしての根幹部分は大分でき上がっていると思います。一方でいまなお新しい兄貴たちを次々と実装しようとしているところからもわかるように、本作は磨き上げられたゲーム・バランスを味わうものではなく、次々と登場する新たな兄貴にワクワクしながらその場その場の爆発を楽しむ、ファストフード的な楽しみ方のゲームなんだと思います。

 ちなみに法的に大丈夫なのかと心配になるくらいあけすけなパロディをしている本作ですが、なんと本家本元の筋肉映画『Expendables 3』との公式コラボが決定、その名も『Expendabros』という兄弟作をリリースするに至っています。世の中どう転ぶかわからないですね。


『Expendabros』より。ヘタにプロモーション用ゲームを委託開発するより、よっぽどできがいいし話題性もある。

■Dream

 

 Hyperslothが開発、Mastertronicが販売の、題名通り夢を題材にした作品。古くは『Myst』等に代表される、雰囲気系、探索パズル系のゲームですね。開発は順調そうで、月1からそれ以上のペースでアップデートされているので、その点についての心配はなさそうです。

 僕はこの手のゲームが好きなのでそれなりに遊び込んできたつもりですが、しかし本作は残念ながらピンときませんでした。まず第一にヴィジュアルのセンスがない。雰囲気系のゲームはその世界に引き込むヴィジュアルのインパクトが必要ですが、美しさと超現実性、どちらにおいても突出したものを感じない。変化も乏しく、長時間変わり映えのしない空間を歩きつづけさせられることが多く苦痛です。

 またパズル性についても一定のエリアを何度も行き来して解くタイプのものが多く、難易度も高いため個人的にはとてもテンポが悪く感じる。これに変わり映えのしない見た目が加わると、退屈で面倒くさくて、とてもじゃありませんが夢の中を彷徨っているような幻想的な感覚は味わえません。

 夢の中を彷徨っているような体験ということであれば、他に『Kairo』や『NaissanceE』、『Mind: Path to Thalamus』等の作品があり、どれも『Dream』より出来がいいのでそれらを僕はお薦めします。とくに『Kairo』と『NaissanceE』はシンプルなジオメトリで構成された空間が抽象的かつ幻想的で、夢の捉えどころのない感じが具現化されているようで好きですね。

『NaissanceE』より。グレー1色の世界だが巨大構造物の数々はSF的でもあり、こちらのほうがはるかに夢っぽい。
『NaissanceE』より。グレー1色の世界だが巨大構造物の数々はSF的でもあり、こちらのほうがはるかに夢っぽい。

■The Forest

 

 Endnight Gamesが開発・販売を手掛けるオープンワールド・サヴァイヴァル・ゲームで、早期アクセスの中でも人気の高い作品です。ベースは『Minecraft』が発明したクラフト&サヴァイヴァルのシステムを踏襲しつつ、敵の襲撃を想定した拠点や罠の作成、体調管理等といったサヴァイヴァルの側面がより強化されています。

 昼夜を問わず敵である原住民が襲ってくるため難易度は高い。最初の頃、僕はスタート地点である飛行機墜落現場付近に拠点を作っていたものの、すぐ敵に見つかっては殺されるを繰り返してまったく楽しめませんでした。

 しかし敵にも巡回ルートがあるようで、海岸沿いの崖下の僅かな平地に拠点を作成。さらに敵に見つかっても逃げ込めるように各地に臨時避難所を用意することで、ゲームを軌道に乗せることができました。

 以上のように説明不足で大変とっつき難い面があるものの、ゲームの法則を試行錯誤で学習していくおもしろさがあり、一度軌道に乗れば『Minecraft』譲りのエンドレスなクラフト&サヴァイヴァルの世界が開けています。

 現状、ヴァージョンはまだ0.07のアルファ段階で、未実装の要素もあれば挙動も安定していません。ただ基本的な部分のおもしろさは十分実感できるし、グラフィックスもインディーズにしてはよくできているほうなので、今後の開発でしっかり肉付けしていけば、よい作品になる予感がします。

 ただ僕は個人的にはエンドレスなゲームって好みではないし、その方向性であれば『Minecraft』が最強なので、本作には何らかの大局的な目標を用意してほしいところ。ゲームのオープニングで主人公の息子が原住民にさらわれる場面があり、その後とくに説明がないのですが、そのへんの背景設定をゲームの大局的な目標に組み込んでくれることを期待したいです。

■Invisible, Inc.

 

 Klei Entertainmentが開発・販売のステルスゲーム。ここのスタジオはゲームのできに定評がある上、前作の『Dont't Starve』も早期アクセスで販売し完成させた実績があるので、信頼度は申し分ありません。

 本作の最大の特徴はターン性のステルスゲームということで、いままでありそうでなかったタイプです。ターンごとにアクション・ポイントの範囲内で行動をとる、という点を除けば基本的なルールはステルスゲームを踏襲しています。つまり敵に見つからず、監視網を掻い潜ってアイテムを収集し、速やかに離脱する。

 しかしながら非常に難易度が高く、自キャラは敵に見つかったらほぼ死亡確定で、対抗手段もほとんどないのでゴリ押しはまったく利きません。しかも一定ターンごとに警戒レベルが上がり敵勢力が強化されていくため、無駄のない行動と、ときには引き際をわきまえないと、あっという間に包囲網ができ上がり詰んでしまいます。さらにステージはランダム生成なので決まりきった攻略法もない。

 そういうわけでターン性を活かして個々のターン内ではじっくり戦略を練られるものの、大局的には時間制限を意識して行動しなければいけない点が、従来のリアルタイムのステルスゲームの、瞬間的なアクションは問われるものの大局的には牛歩戦術が利く性質とは真逆なのがおもしろいですね。

 しかしそれにしても難しい。自キャラが複数いる内は各ステージはツーマンセルで挑むことになりますが、いまだに2人とも生還してクリアできたことがない。アイテムの購入やレベルアップで自キャラも強化させていけますが、そうした軌道に乗せるためにまずはゲームオーバーになりまくってコツを掴まなければいけません。そのあたりを良しとできるかどうかが好みの分かれどころでしょう。

 現状ランダム生成とはいえステージのヴァリエーションは少ないし、アイテムやレベルアップ時のアンロック要素も十分ではありません。ただ基本部分は大変しっかりしているので、あとは要素を増やしていけばいいという点では、今後の開発も安心して見守れる気がします。

■The Long Dark

 

 Hinterland Studioが開発と販売を手掛けるオープンワールド・サヴァイヴァル・ゲーム。『Minecraft』や『Day Z』のサヴァイヴァル要素のみを抽出・深化させたような作品ですが、ゾンビとか原住民だとかいったフィクション要素はいっさい出てきません。かわりにプレイヤーが立ち向かうのはカナダの豪雪地帯という、厳しい自然環境そのものです。

 サヴァイヴァルに特化しているだけあって、管理しなければいけない自キャラのパラメータは疲労、冷え、飢え、渇き等にわたり、さらに怪我だ病気だといった状態異常にも気をつけなければいけません。

 これらを満たすためにつねに探索しつづけ、食料や衣服、燃料を集めつづけなければいけませんが、これまたとても難易度が高い。極寒の地での活動はそれだけで体力を奪いますが、何もしなくてもパラメータは低下していく。かといって探索したところで物資が見つかる保証も、いざ吹雪いてきたときに非難する場所がすぐそばにある保証もない。

 そんな状況だから、体調が万全なのはゲームを開始したときだけで、以降はつねに何らかの体調不良に悩まされることになります。この問題を抱えたままプレイしつづける感覚は、初代『Half-Life』の、HPがつねに半分前後になりがちなゲーム・バランスに通じるものがあります。

 ただ本作は半分どころか油断していればすぐ詰んでしまいます。といっても即死するわけではなく、何も打つ手がなくなってしまったが後2日くらいは生きられる体力が残っているので、その間ゆっくり衰弱していく、っていう流れになるのがじつに生々しい。

 現状アルファ版でストーリーモードはまだ実装されておらず、純粋なサヴァイヴァルに挑むサンドボックスモードのみを遊んだ上での感想ですが、それでも本作のエッセンスは十分に感じ取ることができました。基本的な操作感は大変しっかりしているし、難易度は高いものの徹底してリアルなサヴァイヴァル・シミュレーターに徹したゲーム・デザインも渋くて好みです。グラフィックスもシンプルだけど自然の険しさと美しさの両面を感じさせてくれます。

 要望としては、現状ではインベントリが文字だけなので、画像を交えて直感的な仕様にしてもらいたい。ただ不満点はそれくらいで、これから先肉付けしていけばかなりいい作品になりそう。今回ご紹介したゲームの中では、個人的には本作がいちばん期待値が高いです。後々実装されるというストーリーモードにも大いに期待したいと思います。

■World of Diving

 

 Vertigo Gamesが開発と販売を行うダイビング・シミュレーターです。海に潜って数々の魚の写真を撮ったり、埋蔵物を収集したりといったことが主な遊びになります。

 最初は海中の美しさにワクワクさせられますが、所詮は作り物。景観のヴァリエーションがなく、もしくは海中なので出しようがないのかもしれませんが、とにかくすぐ飽きてきてしまい、何か遊びはないかと考えるのですが、上記の2種類しかやることがないのでたまりません。

 埋蔵物の収集でゲーム内通貨を貯め、ダイバースーツ等の装備を買い揃えることもできますが、それがゲーム自体のおもしろさに繋がるわけでもなし。いちおうダイビングの諸要素を再現はしているのかもしれませんが、ゲームとしてはただただ退屈なものでしかありません。

 類似した作品はどうなんだろうということで、『Depth Hunter 2』という作品も遊んでみました。開発中のものと完成品を比較するのもフェアではないのですが、『Depth Hunter 2』のほうがグラフィックスは若干綺麗だし、泳いでいる魚の種類も多い。また写真撮影や埋蔵物収集の他にも、スピアガンを使っての魚のシューティング要素もあります。

『Depth Hunter 2』より。見た目が似ていますが別作品です。
『Depth Hunter 2』より。見た目が似ていますが別作品です。

 ただこちらも五十歩百歩という感じで、ゲームとしておもしろいかどうかというと大いに疑問。どちらも実際のダイビングの再現に気を取られていて、ゲームとしてのおもしろさが蔑ろにされている気がします。

 では、ゲーム性優先の海中ゲームはあるのだろうかと探して見つけたのが『Far Sky』という作品。こちらは言うなれば海底版『Minecraft』で、有限の酸素や水圧による活動限界という海中ならではの要素が要所に組み込まれていますが、基本的には『Minecraft』を踏襲したクラフトゲームです。

 前述の2作よりは圧倒的にゲームとして遊べますが、それでも『Minecraft』の縮小再生産の感は否めず、海中ゲームとしてのオリジナリティを実感するには至りませんでした。

『Far Sky』より。こちらも見た目が似ていますが、やっぱり別作品です。
『Far Sky』より。こちらも見た目が似ていますが、やっぱり別作品です。

 今回『World of Diving』を通じていろいろ探し回って感じましたが、海中を舞台にしたゲームは少ないです。それはここで取り上げた3作を遊んでも感じたように、海中という舞台自体が景観の変化に乏しく、飽きがくるのが早いというのも理由の一つかもしれません。

 『World of Diving』のダイビング・シミュレーターとしての再現性については、僕は実際のダイビングをしたことがないので量りかねますが、ゲームとして捉えたらおもしろくないのはたしかです。ただ本作がシミュレーターと銘打っている以上、ゲームとしてのフィクション性を取り入れる気はあまりないようなので、今後のアップデートについても個人的には期待できません。

 それにしても海中を舞台にしたゲームで、これはという作品はないのでしょうか。探しているのでご存知の方は教えてください。ちなみに『BioShock』シリーズは抜きでお願いします。

物語る私たち - ele-king

 and I told you to be PATIENT,
 and I told you to be FINE,
 and I told you to be BALANCED,
 and I told you to be KIND…

 ボン・イヴェールによる“スキニー・ラヴ”が映画の冒頭で流れれば、僕ははじめて『フォー・エマ、フォーエヴァー・アゴー』を聴いたときのことを思い出す。その小さなフォーク・アルバムのなかで、敗れた恋とつまずいた人生に傷ついた男が自分自身に向けて「我慢強く、しっかりと、バランスを保って、心やさしく」あれと懸命に言い聞かせていたその曲のように……『物語る私たち』は、とても個人的な1本だ。

 幼い頃から子役として活動してきたサラ・ポーリーにとって監督3作めとなる本作で、彼女はこれまでの作品群……『アウェイ・フロム・ハー/君を想う』(06)、『テイク・ディス・ワルツ』(11)と同様に夫婦間に横たわる問題と複雑な愛について描き出している。ただし本作でポーリーが取りあげる夫婦は自分の両親であり、そして実話だ。しかしながらこれは「ノンフィクション」や「ドキュメンタリー」と言うより、あくまで「ストーリー」なのだと何度も強調される。
 その「ストーリー」の筋書きはこうだ。舞台女優でもあった母ダイアン・ポーリーはサラが11歳のときにガンで他界した。独立した兄や姉たちとは違って、末っ子のサラは父マイケルと暮らし、父娘の絆は育まれていく。しかしサラが成長してからというもの、家族間で「サラだけパパに似てないよね」という意味深なジョークが時折出るようになり、そしてそれがどうやら冗談でもない可能性が浮かび上がってくる。「サラが生まれる少し前、家を離れてモントリオールの舞台に立ったママは、どうやら恋人がいたらしい」……。そしてサラ・ポーリーは、自らの出生を、奔放だった母の秘密を探るために当時の舞台俳優仲間たちを訪ねることにする。
 たしかにこれはある家族の、ともすれば下世話な興味を引きかねないごくごく内輪の話である。だが、『羅生門』スタイルで、夫、子どもたち、友人、俳優仲間たちがそれぞれ証言することによって唯一不在かつ最大の当事者である母の像を浮かび上がらせていくというポーリーがここで取った手法は非常に効率的で滑らか、そして巧みだ。何度となくノスタルジックに差し込まれる8ミリのホームビデオ。まるで萩尾望都のマンガに出てくるような、率直で賑やかで、少々落ち着きのない母がそこで笑っている。誰もが魅了され、誰もが愛したダイアン。母でもあり、妻でもあり、恋人でもあり女優でもあったその女のある秘密が、じつに鮮やかに暴かれていく。

 ここから以下の文章ではその真相を明らかにしていることをご了承の上、お読みいただきたい。

 あろうことか……というか、大方の予想通り、母には恋人が本当にいて、父マイケルはサラの「本当のパパではなかった」。ただ、中盤であっさりと明かされるこの事実は映画の核心ではない。ここで明らかになるのは、本作が多くの優れたロマンス映画のように「ふたりの男とひとりの女」を題材にしていることなのである。それはふたりの男の間で揺れた母/女ダイアンだけではない。ふたりの父を持つことになった娘サラの物語でもあるのだ。そしてその両者の間にある愛は、形は違えどどちらも真実であり、だからこそ……そのことを知る家族はお互いを許し、母の人生を認め、そしてサラや父マイケルをはじめとして、彼女らが巻き込まれた厄介な事情をそれぞれが受け入れていく。
 興味深いのは、父マイケルもあるいは母の恋人でありサラの実父であった「その男」も、ダイアンとの間に起きたことや自分の人生を語りたがろうとしていることである。一個人の身に起きたことが、何か人生の普遍を……人間の真実を示しているのだと、その行為によって男たちは信じようとする。あるいは、そこに本当に愛があったのだと……。いっぽうでサラ・ポーリーはあくまで監督であり編集者として、一人称を「私」とせず、「私たち」にすることによって父親たちよりも客観的な視点を獲得しており、ひとりの女に大いに振り回された男たちの姿を浮かび上がらせていておかしい。

 だが、『物語る私たち』はシニカルな視点に貫かれているわけではなく、家族の事情を重く捉えないユーモアとお互いへの信頼が映像を満たしているからだろうか、とても温かな感触がある。母が死んだときのことを語らせる娘に向かって父マイケルは涙ながらに言葉を詰まらせ、「お前はなんてサディスティックな監督なんだ」とつぶやく。そしてふっと笑う。「この間もわけのわからない演出しやがって」。その笑顔はつまり、どんな人生にも必ず生まれる深い悲しみや困難に「語る」という行為を通して立ち向かっていくことを示しているように、僕には思えてならなかった。ちょうど、ボン・イヴェールが自らのごく個人的な悲しみと愛を、人称をぼかしながら「物語る」ことによって多くのひとの心を掴んだように。
 邦題が巧みな稀有な例でもある。原題は「Stories We Tell」、すなわち「私たちが語る物語たち」。語られる物語と、それを語る私たち。その円環のどこかに、私たちが愛と呼ぶものが立ち上がっているのだと、この映画はそっと差し出している。

予告編

FEBB - ele-king

 少し前の話だ。テレビでも人気のある元陸上選手のツイートが日本のヒップホップ・ファンのあいだで物議を醸した。彼はツイッター上で激しい批判に晒された。いまさらその話題を蒸し返して、彼を貶めるのが目的ではないから名前は出さない。
 彼の意見を要約すると、つまり、「日本にヒップホップは根づかない/根づいていない」というものだった。耳にタコができるぐらい何度も聞いてきた凡庸な意見である。ある側面においては、この国の輸入文化の受容に対する根強い一般論であり、ありがちな本場志向や本質主義とも言える。だから、彼は突飛なことを言っているわけではなく、率直に保守的な意見を述べたに過ぎない。
 音楽史を振り返れば、日本のロックやジャズやソウル・ミュージックに対してまったく同じことを主張する人間はいたし、彼にしてみれば、「日本で生まれ育った人がフラメンコをやるとどこか違和感がある」というツイートでもよかったわけだ。その元陸上選手がひとつだけ下手を打ったとすれば、熱狂的なヘッズやファンの存在を知らずにヒップホップを引き合いに出してしまったことぐらいだろう。

 Fla$hBackSのFEBBが今年1月に発表したファースト・ソロ・アルバム『THE SEASON』は圧倒的にかっこいい。東京のインディ・レーベル〈WD Sounds〉と〈Pヴァイン〉のダブル・ネームでリリースされたこの作品は2014年の最重要作の一枚あり、僕の今年の愛聴盤でもある。
 前述した件があってから、あらためてFEBBを聴き込んでいる。『THE SEASON』の有無を言わさぬかっこ良さはなんなのだろうかと考えながら、何度も聴いている。そしてあることを思う。東京出身の弱冠二十歳のラッパー/ビートメイカー/プロデューサーは、この国でヒップホップをやることに微塵のコンプレックスも感じていないんだろうなと。

 日本のヒップホップはそのはじまりから、多かれ少なかれ、本場=アメリカに対するある種のコンプレックスを糧にして成長、進化してきた側面がある。この手の話は散々語られてきたことではあるが、コンプレックスそのものは必然的なことだったし、だから、ここで言うコンプレックスは必ずしもネガティヴな意味ではない。
 ラップで英語を多用し、英語訛りを積極的に取り入れてきたZEEBRAやSEEDAも、逆に、英語や英語訛りを意識的に避けてきたRHYMESTERやILL-BOSSTINOも、それぞれのコンプレックスに徹底的に向き合うことで独自のスタイルを生み出してきたという点では共通している。
 また他方で、強烈な名古屋弁でラップすることで、東京のラップともUSラップとも異なる地方独自の個性で人気を博したTOKONA-Xのようなラッパーもいた(ちなみに、方言の訛りを活かしてリズミカルにラップすることにおいていま最も独創的なラッパーのひとりは岡山県津山市出身の紅桜( https://www.youtube.com/watch?v=KGhWqZ6Y-GI )ではないか。stillichimiyaの甲州弁ラップもじつにおもしろい)。
 いずれにせよ、原点にあるコンプレックスとアメリカとの距離感が、彼らの音楽の芯の強さとユニークさを作り上げてきたのである。

 そのようなコンプレックスから解放されているとまでは言わないまでも、早い段階で攻略法を見つけ、ぐんぐん進化していく、いまの「日本のラップ」のおもしろさと醍醐味を体現するラッパーはたくさんいる。たとえば、AKLOとMOMENTというふたりのラッパーを挙げることができる。
 先月リリースされたセカンド・フィジカル・アルバム『THE ARRIVAL』で、メキシコ人と日本人のハーフであるAKLO( https://www.youtube.com/watch?v=DGTddE4UV5U )は、意味や叙情性をほぼ排し、超絶した技巧力でグルーヴする(本人はこのカテゴライズを嫌うが)日本語と英語のバイリンガル・ラップにさらに磨きをかけている。橋本治のある歌謡曲論に倣って言えば、これぞ、人生の悲哀や人間の真実、美しい愛の歌でもない、素晴らしいノリだけでできた、2014年のラップ・スターのシュールな世界である。
 また、韓国語、英語、日本語を使い分け、ときにミックスし自由自在にフロウする大阪在住の韓国人であるMOMENTも魅力的だ。MOMENTはいま、自愛と自虐の葛藤のなかで次の舞台を模索しているようにみえるが(それこそいろんなコンプレックスに懊悩しているようだ)、彼ならきっと困難を乗り越えることができるだろう。

 FEBBの唯一無二のかっこ良さは、彼が息を吸って、吐くようにヒップホップしているところにあると思う。迷いがなく、理屈もない。ダ・ビートマイナーズやヒートメイカーズ、スキー・ビーツといったビートメイカーたちをフェイヴァリットに挙げるFEBBの音楽にとって90年代、00年代のNYヒップホップは重要な構成要素であるものの、彼のラップやビートを聴いても、模倣や解釈ということばは頭に浮かんでこない。
 14曲中4曲はみずからビートを作り、それ以外のトラックを国内外のビートメイカーに託している(スキー・ビーツも一曲提供し、ミキシング/マスタリング・エンジニアを、カレンシー『PILOT TALK 2』(2010年)のマスタリン・エンジニア、Brian Cidが担当)。
 そこには、呼吸するように英語と日本語を混ぜたハードボイルドかつ鋭いラップをスピットし、鼓動を刻むようにドープなビートを作り出す生身のFEBBとその仲間たちがいるだけだ。
 アルバムの冒頭曲、SOUL SCREAMの“君だけの天使”と同じネタがサンプリングされたジャジーでスムースな“NO.MUSIC”で、FEBBは印象的なことばを吐いている。「俺は獣」、そして「言葉はノイズ」だと。じつにFEBBらしいパンチラインだ。
 
 かつてZEEBRAが、「東京生まれ/ヒップホップ育ち」(「Grateful Days」)と歌ったのが、1999年だったから、それから15年が経った。そのころ4歳だったFEBBはさながら「ヒップホップ生まれ」という感じである。それは、Fla$hBackSのメンバーでソロ・アルバムの完成が待たれるjjj( https://www.youtube.com/watch?v=h_dXj_jhFis )にも、先日素晴らしい無料ミックステープ『Shadin'』を発表したFEBBの盟友、KID FRESINOにも共通するものだ。
 
 最後に。『THE SEASON』は、サイケデリックで、ソウルフルで、ジャジーで、ファンキーな、素晴らしいハードコア・ヒップホップだ。まだ聴いていない人はぜひ聴いてほしい。

Aphex Twin - ele-king

五野井郁夫/Ikuo J. Gonoï
1979年、東京都生まれ。国際政治学者・政治哲学者。著書に『「デモ」とは何か――変貌する直接民主主義』(NHK出版)など。世界中のフェスや美術展、流行の研究と批評も行っている。去年は新語・流行語大賞を受賞。

若山忠毅/Tadataka Wakayama
1980年生まれ。写真家。
主な展示 第10回写真「1_WALL」展 / 銀座 ガーディアンガーデン(2014)。テクノ・ハウス全般に造詣が深い。
https://twitter.com/t_waka1980
https://www.facebook.com/waqayama.tadataqa
https://rcc.recruit.co.jp/gg/exhibition/gg_wall_ph_201403/gg_wall_ph_201403.html

Aphex Twinにいつ、どのようにして出会ったか

五野井:Aphex Twinといえば、われわれの世代からすると、挑むにせよ、模倣するにせよ、ひとつの準拠点なわけですが、まだネットがなかった頃の電子音楽、そしてAFX体験っていつでしたね? 思春期の頃には、お互いすでに聴いていたのだけど。

若山:はじめて知ったのはレコード屋ではなく、まず雑誌ですね。クラブミュージックを取り扱ったほとんどの雑誌の情報はなんでも仕入れていました。あとは海外の雑誌をたまに。高校ぐらいからは『ele-king』が創刊されて読むようになった世代ですね。そんな情報の中でアンビエントってジャンルがあるんだと知りました。いろいろ聴いていると変なのが引っかかった。それがAphex Twinです。音としては、最初に〈Warp Records〉が発表した『Artificial Intelligence』(1992)。あとはソニーの〈Warp〉のコンピに入っていた、Polygon Window名義の“Quoth”(1993)って曲ですね。90年代は何々テクノやらハウスやらがいろいろあって、それを必死で追いかけていました。

五野井:そうですね。『Artificial Intelligence』にはThe Diceman名義の“Polygon Window”(1992)が入っていたんですよね。ネットが普及していないので、まず、音を紙で聴いて、情報を仕入れてCDを買いに行くっていう感じでしたね。身体性を気にしない澄んだ音だったから、90年代の帰宅部カルチャーだったわれわれにとっては、すぐれて心地よくもあったわけで。1992年にアルファ・レコードから『HI-TECH / NO CRIME』と1993年の『Hi-Tech / U.S. Crime』(YMOのリミックスCD)が相次いで発売されて、これが未来なんだって当時感じましたね。徹底的にテクノの「洗礼」を受けた時期かな。雑誌といえば『i-D』や『Face』、あと季刊の『Vouge Hommes』で、音楽はもちろんモードや写真にも入っていきましたね。2000年にターナー賞受賞したウォルフガング・ティルマンスなんかが、90年代当時のUKクラブシーンを撮っていたし。

若山:ぼくはティルマンスが写真撮っていたことは、当時まったく気づかなかった。あの頃は写真に興味がなかったから(笑)。でも彼がAphex Twinの写真を撮っていたんですよね。当時のAphex Twinへの入り方は、お互い歳がそんなに離れていないから、ここは2人の共有できる点ですね。そのCDから誰がリミックスしているとかから、アーティスト名を調べていた時期です。彼らのオリジナルやその周辺のアーティストを漁りはじめたころ。最初のころは曲名の意味や発音が分からなかったですから。Aphex Twinの場合だと『Selected ambient Works 85-92』(1992)の“Xtal”や“Tha”とか、そもそも辞書に載っていないじゃないですか。現に存在する言葉をいじる、もしくは作ってしまえという発想は新鮮でした。それは今回もやっていますね。

五野井:しかもAphex Twinはもちろん、ほかのアーティストも別名義を幾つか持っていたりするから、ああいう文化も衝撃的だったなあ。いずれにせよ、ベンチマークになりましたよね。多重人格ではなくして、分割可能な人格って、政治哲学者のウィリアム・コノリーとかが現在でも唱えているプルーラリズム(pluralism:多元主義)そのものですから。

若山:あのころ分割可能なアーティストって多かったですね。リチャード・D・ジェイムスの旧友のTom Middletonなんかもいろいろ使い分けていたなぁ。本人も様々な名義を使い分けてトラックをリリースしていましたね。でも、だからこそ抽象的な次元から飛び出てくる多様な音や言葉(=意味不明な曲名)を視聴することで、音楽の自由さみたいなのを知ることができたといっても過言ではないです。パンクの人がNeu!を聴いた衝撃に近いかも。「あ、こんなのでいいんだ!」って。あとは中二的ですけど、無機質人間っぽさのない状況に入り込んでみたかったっていうのは、郊外における日々の生活の退屈さゆえにありましたね。
※「neu!」https://www.youtube.com/watch?v=vQCTTvUqhOQ/
「neu!2」https://www.youtube.com/watch?v=tOfhR6uybNo

五野井:そういえばYMOやクラフトワークへと続く古典的な黎明期テクノのロボティックで機械的な音だとされているなかで、Aphex Twinの位置づけって、電子音楽というよりはむしろ牧歌的で、とくに第二期以降は露悪的だとする評価がありますけど、どうです?

若山:たしかにAphex Twinをそう位置取りする方が多いのかもしれませんね。いくつかの仕事を取り上げれば、牧歌的で露悪的というのは賛同できます。でも当時テクノの細分化のなかで、もっと露悪で牧歌的なのってあったと思うんです。だから彼だけにそうした意識を強く感じることはなかったです。

五野井:70年代後半以降生まれの世代からすると、シェーンベルクからメシアンという純粋音楽の延長線上にブーレーズ、シュトックハウゼンら、「管理された偶然性」としてジョン・ケージから貶された系譜だとも云える。とくにYMOの『増殖』と2枚のHi-Techが所与だったせいか、社会風刺としての露悪や諧謔もテクノの一部だと思っていました。  とりわけ、90年代前半に中学生って、Blurの“Park life”(1994)を日本で実体験していた世代だから、あの露悪は自然な流れというか、妙なリアル感があるんですよね。あとはクリスチャン・マークレーみたいに音の外のアイデアで戦うのはなく、あくまで諧謔は補足的なものでしかなく、何だかんだいって純粋に音の中で勝負するっていう姿勢には感銘を受けました。

若山:パークライフ的な冴えない生活環境だからこそ、純粋な音楽で別次元に行きたいっていうのはありましたね。まだ郊外に住んでいるから、それはいまでも変わらないかな。

五野井:むかしだと、寺山修司が演劇『レミング 世界の涯まで連れてって』(1979)のなかで「室内亡命」という提案をしていますね。いまだとネットに逃げそうだけど、当時は普及してなかったからできなかった。「室内亡命手段」の1つは、書を捨てて街に出るのだけど、行き着く先はクラブ。そういえばそのダンスフロアからも、苦手な音の時は室内亡命をするっていうのは、建築雑誌の『10+1』に以前書いたなあ。まあ、でもフロアも疲れるときってありますよね。

若山:でも、なぜAphex Twinなのかといえば、爆音のフロアで聴かなくても、チルアウトスペースでも、さらには自宅の畳の部屋でも電気を暗くすれば、同じ効果が得られるっていうところですよね。「畳とテクノ」って(笑)。まぁ、ベッドルームテクノの本質ですね。

五野井:家で聴けるって、お金もかからないし、中高生の懐にも優しい音楽でしたよね。

若山:当時のクラブ・ミュージック、とりわけ・は退屈な曲が多くなっていっていましたよね。それよりもAphex Twinは、普通の音でも、爆音で聴いてもいい。そんな特徴があったのだと思います。“Didgeridoo”(1991)や“Polynomial-C”(1992)なんかは、面白いですよね。ダンス・ミュージックの名曲って箱でも家でもどちらでも聴いても楽しむことが可能なのが多いですね。

五野井:“Didgeridoo”は当時のワールド・ミュージックに対する嫌がらせであるとともに、引きずられた感じの両方があるのではないかと。第二期へのとっかかりとも取れるわけですけど、あれって、ジャングルとかトリップ・ホップの前で、目の前の不安感をそのまま出した感じがするんですよ。ウィトゲンシュタインの「言語のザラザラした大地」を音で垣間見たというか。

若山:バカにしているのか、本気なのか、どっちだったのでしょう。「流行りの音なんて、もううんざりだー!」って風潮はあったのかもしれない。失礼かもしれませんが、AFXってあまりクラブとか行かなそうだし。仮に家で地道にやってたいらなおさらなわけです。

五野井:本人に聞いたら絶対にはぐらかされるだろうけど、90年代のいくつかの雑誌インタヴューで本人は代表曲としていたから、本気でしょうね。当時のアーティストがみんな語り口からして真面目だったのに対して、Aphex Twinって基本姿勢は諧謔キャラだけど、でも音はもちろんとして、インタビューでも真面目な部分がちらりと見えます。誰に似ているかというと、デミアン・ハーストの、シニシズムでキャラをつくりながらも「俺の作品は残酷だって言うくせに、一番スキャンダルなのは新聞の紙面で、戦場で兵士の頭が吹っ飛んだって書いてあるのに平気な奴らだ」っていうアレかな。

若山:ぼくらがみてきたイギリス人特有のふざけた感覚ですね。ストレートな面白さと真面目さではない、ねじれた面白さと真面目さですね。多感な時期に斜に構えたスタンスを植え付けられたというか。今考えるともっと普通に青春時代を過ごしていればよかったなぁって、感慨深いです(笑)。

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新作『Syro』について

五野井:で、『Syro』なわけですが。あの純粋な音、何か懐かしい感じがしませんか。

若山:トラックごとに聴いてみると、初期の別名義の作品に似ていたりするのかなと。そして格別に新機軸ってわけでもないんですよね。AFX名義で「Analord」(2005)シリーズを発展させた感じで聴いてくださいっていうAFXの新しい楽しみ方をみつけました。

五野井:たしかにそれは新しい提案だと思う。さて、しっかりと分析していきますか。

若山:まず、“minipops 67 [source field mix]”ですね。これはGAK(AFX変名)に似ているのかな。基本に帰るっていうかアマチュアっぽいのがなんとも、どうでしょう?

五野井:GAK 1”(1994)はビートがいわゆる「完全に一致」ってやつで懐かしくもあります。Aphex Twinをこれから聴いてみようっていう人には、入門としてよい1曲目ですね。でも一般的な商業テクノの市場はこれを求めているのだろうか。

若山:たぶん、この人は一般的な市場とかどうでもいいんじゃないでしょうか。市場でのエレクトロニカ系は知的な音楽っていう嫌いがある。話がずれますが、岡崎京子の『東京ガールズブラボー』(1990-1992)でも、ニューウェーブ好きの男の子ってそういう設定で描かれていますよね。

五野井:『東京ガールズブラボー』の犬山のび太くんは、かなりナードですよね。その設定を商業的なマーケットからは求められているけど、あえて今回『Syro』では肩透かししたった、と。

若山:おそらく。先ほどから言っている予期せぬ作用があるわけです。“XMAS_EVET10 [thanaton3 mix]”はそこまでキャッチーじゃないけど、Metro Areaの“Caught Up”(2001)を思い出してしまいました。メローだからかな。

五野井:2000年代初頭の音に還っていってますね。にしてもマッシュアップ感、パねえなあ……(笑)

若山:03. produk 29、前半の緩めのビートの部分はやはり2000年代前後のダブディスコを想起してしまいます。Chicken Lipsとか……その辺かと (笑)

五野井:このあたりはさほどAphex Twinの得意分野でもないのかもしれませんね。とまれ、「神は細部に宿る」とは云ったもので、Aphex Twinが他のミュージシャンが保ち続けることの出来なかったベテランとしてのクオリティを保っていることは分かるわけで。そういう意味では、この辺りはフォロワーに対して「過去のグラマーお前らに教えてやんよ」、なのですかね?

若山:一応ベテランなわけですしね。04.4 bit 9d api+e+6はピッチを曲げるデトロイトっぽいシンセがいいですね。似ているというわけではないのですが、このトラックのシンセやベースの懐かしさがわかるといえば、Rhythm is Rhythmの“Nude Photo”(1987) とMr. Fingersの“Washing Machine”(1986)あたりとかを聴くと「おぉ!」ってなるんじゃないかな。

五野井:たしかに。この前『短夜明かし』(河出書房新社)を出した作家の佐々木中さんが講義で学生にRhythm is Rhythm聴かせたら、学生が感動したらしいですからね。われわれの世代が聴くと今回の『Syro』は2000年代初頭にくわえて、80年代〜90年代のいくつかの牧歌的な音にも戻ってきている気がするのですよ。踊らせてやるぜっていう感じとこれがテクノのクロノロジー(年代記)だよっていうメッセージも感じます。

若山:“180db_”は4つ打ちになりますね、これに関してはフロアチューンと言わないまでも、そっちの方向ですよね。でもすごいだるーいですね。ハードコア・テクノみたいだけど、音がスカスカ。Human Resourceの“Dominator[Joey Beltram remix]」”(1991)、全然違うかもしれないけど、思い出してしまいました。

五野井:刻みのよいビートなので素材としても使えるしフロア的ですね。他方、“CIRCLONT6A [syrobonkus mix]”は擬似的な感じですね。速さがあり、クラシックで、やはりベーシック。いじくり回して打ち込んでいる感じがたまらない。これがうまくいくというのは往年の技を見た気がします。とくにリズムの刻みが激しくなり巻き返すところは極めてオーソドックス。必ずどこかで聴いているような気がするっていうのはすごいことですよ。

若山:すでに聴いたことがある、どうでもいい音を再度取り上げるスタンスは大切だと思います。“CIRCLONT6A [syrobonkus mix]”も2000年くらいのBreaksってこんな感じでしたね。Plump DJsの“Soul Vibrates”(2004)はたしかこういうビートでした。でも、やはりAphex Twinらしさは十分にありますね。あと中盤のところがPsycheの“Crack Down”(1990)の後半みたいな疾走感がありますね。

五野井:たしかにPsycheのときのカール・クレイグっぽいかも。他方“fz pseudotimestretch+e+3”は転調しますね。“CIRCLONT14 [shrymoming mix]”のアンビエントな入りだけど、這うような音が入り、スピードが上がる。不安さから心地よい速さへすすむ。Aphex Twinが歳をとったのか、我々がこの音のもとで育ったからなのか、追いかけてくるような音もずしんと来る音も、オーソドックスで安心しますね。Roland TR-808と909ですよね。

若山:はい、ぼくらはこの音にやられていた。大好きな808と909です。やっぱり加工していない生の音に安心する。“CIRCLONT14 [shrymoming mix]”は極端なシャッフルが面白くて聴き入ってしまいます。クセになりますね。DJがターンテーブルで遊んでいる感じですね。リズムボックスで遊んだことがある人だったらこの機能は試したことあるんじゃないかな。おそらく機材をそのままの使っているかのようで。

五野井:生の音、というか安心できる素の音ですよね。。電子音楽における「生」っていうのは、明らかに語義矛盾なのだけど、これはたしかに生の音だなあ。TR-808、TR-909あたりで、音圧で潰さない感じがそういって差し支えないかと。

若山:いまはソフトシンセでトラックを作る時代。過去の機材もソフト上でその音を再現してくれます。最近はこうしたビンテージ機材を見直す動きみたいなのがあるのでしょうかね。

五野井:“syro u473t8+e [piezoluminescence mix]”のシンセのベタなメロディが引っ張って、後半の高音4音が純粋に気持ちいいし、そのあとのテンポの下げ方もよい。まるで他のエレクトロニカを嘲うかのように、他ジャンルをAphex Twinの音に仕上げているけど、これやる人あんまりいないですよね。

若山:こうやってコミカルにやるのはコーンウォール一派の人たちですかね。みんないいやつです(笑)。

五野井:先生と生徒(mentor and disciple)の関係ですね。そういえばスクエアプッシャーがジーマのCMに曲提供していたけど、そういう時代になったんですね。ええと、“PAPAT4 [pineal mix]”ですが、テクノポップみたいなシンセの入り方でお得意のスネアのうねりがあって、聴覚だけではなく、他の五感や身体性が拡張される感じがします。メトロノームの刻みのような音はウィリアム・ケントリッジの『The Refusal of Time』(2012)なんかにも影響を与えている、安定のAphex Twinサウンドですね。

若山:もっともAphex Twinっぽいですよね、聴きやすい。10の雰囲気はAFX名義の“Hangable Auto Bulb”(1995)みたい。

五野井:かわいた感じがたまらないですね。近頃、世界はウェットなもので溢れているから。

若山:ええ、あらゆる事象がウェットすぎですね(笑)。まま、ドリルンベースで刻むところとかいいですね。こういう音を昔のサンプラーで編集するとかなり時間がかかるんですよね、それに比べるとだいぶ楽ですよ、いまは。

五野井:“PAPAT4 [155][pineal mix]”と“s950tx16wasr10 [earth portal mix]”まで聴いていると、ひさびさにホアン・アトキンス先生のModel 500“Night Drive”(1985)が聴きたくなります。今回の『Syro』はback to the basicだと感じるのはこういう昔からの音をもう一度聴きたい気にさせる曲調が多いからでしょうか。“s950tx16wasr10 [earth portal mix]”はドリルンベースとはかくあるべしと言う曲ですね。鉄線を擦るような、ウォルター・デ・マリアの“Apollo's Ecstasy” (1990)のように、ジリジリとした感じがたまらない。曲の作りはグラマーのお手本だなあと。でも、最後の“aisatsana”は、評価が分かれますね。

若山:11曲目のタイトルにある「S950」ってサンプラーの名前かな? 最後はどうなんでしょうかね。ここまで打ち込みだったから、最後まで同じノリでやるのかなと予想していたのですが、意外な展開ですね。『Drukqs』の“jynweythek”的なのを思い出してしまって、少し驚きました。

五野井:11はAKAIのあれですかね。12曲目はたしかにウェブ上にアップされている“jynweythek”をピアノで弾いたのを聴いてみると、曲調がかなり似ている気がします。欧州圏のミックスCDのお手本のような無理のない終わり方ですね。

『Syro』を聴いてから、もう一度Aphex Twinの意義を考える

若山:今回『Syro』を聴いてみて気づいたのは、やはりルーツを調べることや戻ることの大切さということですかね。音だけで勝負するのってわれわれの世代にはすごく影響を与えていますよ。例えばテクノとハウス最初に聴いていた頃は、白人が作っているって先入観がありましたから。それこそ初めて聴いたときはDJピエールって字面であの音聴いたらみたらね。そしたら違った(笑)。テクノとハウスの歴史を紐解いてみると必ずしもそうではない。世界では音と実力で勝負出来るのだと理解できて、価値観が変わったのを今でも覚えています。それ以降、通り一遍で物事を考えず、多方面から物事をみるのがデフォルトになりましたね。

五野井:とくにAphex Twinは実際どの方向から攻め込んできてもおかしくないですからね。今回の『Syro』がそうだったけど、聴く側の隙あらばやられてしまう(笑)

若山:その隙があればやられてしまうのって、たしかに聴く側もそうですが、ポップスにとっても最大級の脅威だと思うのですよ。宅録してさじ加減ひとつでああいうものができちゃうから、お金儲けという意味での音楽関係者にとっては恐ろしいでしょうね。

五野井:いつの時代もテクノって人生の闘い方を教えてくれるよね。

若山:そうですね、そんなポップスからも奪えますからね、さらにそれで攻撃が出来るっていう、サンプリングとかでいろんな手段を使って取り込んで、ショッピングモールとそこでたれ流される音楽とか、すでにある生産物から自分に都合のよいものを、都合のよいやり方で利用することができますし。

五野井:ポップスに代表される社会の「戦略」は、どうでもいい曲を大量生産し、碁盤の目のようにレコード屋やダンスフロアを区切り、流行を押しつけてくる権力です。対してテクノの「戦術」は、この流行の権力を逆手にとって利用し、巧みにあやつり、サンプリングによってアプロプリエーションしていくわけですよね。社会が押しつけてくる「戦略」の隙をついて、押しつけてくる「戦略」の武器をそのまま逆機能にして、オセロをひっくり返すのがテクノの「戦術」。ポップスは資本の「戦略」側に「踊らされる音楽」。対してテクノとは、踊れる音楽だけど「踊らされない音楽」かな。そこではポップスの曲調はYMOがテクノポップとしてやってみせたように、すべて「戦術」へと転用可能だけど、ポップスはテクノを取り込むことはできない。ポップスでそれをやるとただの剽窃になるし、なによりも商業的な採算も合わないから。身を委ねない音楽としてのテクノと、他の身を委ねていい音楽の違いはこういったところでしょうね。

若山:Aphex Twinに話を戻すと、テクニカルな面白さと全体的な面白さもある。電子音楽の基本とは違うし、クソみたいなポップスの詰め込みました、っていうのとも違いますよね。AFXは醜悪な映像は持ってきても、たとえば適当なアイドルとかグッズとか二次元キャラとか、音楽以外の付加価値で騙すってことをしないから。利潤追求じゃなくて、たぶん面白いとか適当にやっていた。その程度の事なんじゃないでしょうか。その結果として、たまたま評価されて大変なことになったみたいな状況なんじゃないでしょうか。

五野井:Aphex Twinの場合、第二期以降とくにそうですけど、騙すときは、商業的な理由とは別のどうでもいい理由で騙しますよね(笑)。しかも、皿や電子音というフラットなかたちで。アプロプリエーションの極地ですね。でも主戦場はあくまで音という。ジョン・オズワルドの「プランダー・フォニックス(plunder phonics:略奪音)」の電子音楽版というか。

若山:こうしてAphex Twinについて話をしていると、突き抜けそうで、突き抜けてない(笑)。奇才とか言われているけど、意外とコツコツ真面目な人だと思いますよ、彼は。

五野井:音だけを追求するっていう突き抜け感だけでは、シカゴやデトロイトの先行するアーティストのほうが振り切っていますね。でも、Aphex Twinの自分が他人からどう見られているのかを気にする「まなざしの地獄」(見田宗介)は、現代人の多くが抱えている悩みでしょう。そのシャイさがAphex Twinに身体性からは自由なはずなのに、人間味や憎めなさを与えている。なぜ我々はAphex Twinにわくわくするのかといえば、Aphex Twinは洒脱で諧謔なフリして、実際にはそれなりに本気で作り込んでいるところですね。

若山:おそらく、過去の遺産を食いつぶし、切り貼りをする貼り合わせがどのように文化産業のなかで行われているのが現代じゃないですか。Aphex Twinは音楽も映像も、すべてどこかで聴いた音(過去のAphex Twinの音も含む、あのback to the basic感など)、どこかで見たもの、拾って彼の音に再構成してくるというスタイルはダンスミュージックの基本に忠実な人ですね。

五野井:どこかで聴いたかなっていう断片を虚焦点にして、そこから新しい音を作っている点が今回の聴きどころかなあと。自分の過去の作品も含むコピー(コピーのコピーの……)からオリジナルを作る技というのは、つねに今の自分をも越えようとする試みです。この完成度をもって今回世に出た『Syro』というアルバムは、過去の遺産の切り貼りになっている現在の「n周目の世界」におけるひとつの到達点なのかもしれないですね。

※10月7日(火)
21:00-23:30 DOMMUNE「ele-king TV エイフェックス・ツイン特集」
https://www.dommune.com/
https://www.3331.jp/access/
出演者:
野田努(ele-king)、佐々木渉(クリプトン・フューチャー・メディア)、五野井郁夫(政治学者)、三田格(音楽ライター)
DJ:DJまほうつかい(西島大介)

※10月15日
ele-king vol.14「エイフェックス・ツイン特集号」発売
リチャード・D・ジェイムス、独占2万字インタヴュー掲載!

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