「You me」と一致するもの

The Specials - ele-king

 偶然だったとしても素晴らしい。2017年、バーミンガムにおけるイギリスの極右団体への抗議の現場を報じたガーディアンのひとコマには、あるイスラム系の女性の姿が写っていた。当時20才だったサフィヤ・カーンの着ていたデニムジャケットの下には、「THE SPECIALS」と描かれたのTシャツが覗いている。さっそくザ・スペシャルズは彼女をライヴに招待した。そして、およそ40年振りのアルバムのなかの1曲でMCをまかせることにした。大役である。なぜなら、彼女が任せられたのはプリンス・バスターのいにしえのヒット曲、“10 Commandmentsl”をリライトすることだった。バスターは、ルードボーイ音楽の王様にして2トーンにとっての英雄、ザ・スペシャルズにとっての巨大な影響だ。が、しかし、“10 Commandmentsl”には露骨な性差別が歌われていた。ザ・スペシャルズは、若き勇敢なフェミニストを起用して、名曲の言葉を書きかえるという大胆なアイデアに挑んだのだった(プリンス・バスターはイスラム教徒でもあるので、イスラム系の若い女性がそれを改稿するというのは、二重の反転がある)。
 ザ・スペシャルズ、さすがである。

 いまさらぼくと同世代のリスナーにザ・スペシャルズの偉大さを説くのは釈迦に説法なので、ここではリアルタイムでは知らない世代に向けて書こう。
 そもそもUKのパンクおよびポストパンクの多くがいまもなお参照点である理由は、彼ら/彼女らがサッチャリズム(新自由主義)に対する若者たちの最初の抵抗だったからだ。それゆえメッセージの多くは現在でも有効だし、音楽性に関していえば、そのメッセージを裏付けるように、彼ら/彼女らのほとんどは妥協なきオルタナティヴだった。
 ザ・スペシャルズは、70年代末〜80年代初頭のポストパンク期におけるスカ・リヴァイヴァルを代表するバンドだった。スキンズが好んだジャマイカのスカを音楽のモチーフにした彼らは、自らも、そしてオーディエンスも人種を混合させ、スキンズとパンクとモッズをいっしょに踊らせた。分断されたサブカルチャーを混ぜ合わせたこと、これがザ・スペシャルズの功績のひとつだ。もうひとつの功績は、新自由主義時代における若者文化の虚無感を実直に綴ったことだった。
 それは1980年のセカンド・アルバム『モア・スペシャルズ』であらわになる。スタジオでの多重録音を駆使したそのアルバムは、ご機嫌なスカを求めていたファンの期待を裏切るかのように、日々の生活における暗い心情が表現されている。それが1981年の傑作12インチ「ゴーストタウン」へと発展して、解散後はまったく楽しくない楽しい男の子3人(ファン・ボーイ・スリー=FB3)へと続いた。

 スカはアッパーでのりのりの音楽だと思われていたし、多くの若者にポークパイハットを被らせたザ・スペシャルズはファッション・リーダー的な存在でもあった。が、ザ・スペシャルズにはのちのマッシヴ・アタックと連なるようなメランコリーがあったし、自己矛盾かもしれないがファッション文化を空虚なものだと見なしていた。『モア・スペシャルズ』の“Do Nothing”(なんもやらない)という曲は、ファッションばかりに金を投じる若者の空しさをこれでもかと表現している。個人的にもっとも好きな曲のひとつ、“I Can't Stand It”(がまんできない)では、私生活から職場にいたる生活のすべてにうんざりしている若者の気持ちが描かれているし、「誰もが着飾ったチンパンジー」と歌う“International Jet Set”はエリート層への嫌悪が歌われている。
 いまの若い人には信じられない話かもしれないが、お洒落というのはある時期までは、お金のない抵抗者たちほど拘っていたものだった。パンクが服を重視したのもそういう事情があったからだ。服は、社会が強制するアイデンティティとは別の、個人が主張するアイデンティティを表現することも可能だからだ(家や車は買えなくても服は買えるからね、と昨年ドン・レッツは言っていた)。それゆえに、パンク〜ポストパンクはなるべくオルタナティヴな服装を選んだ。が、1980年のザ・スペシャルズによれば、ファッションはすでにエリート文化の一部になっていた。そう、このバンドは、オーウェン・ジョーンズの“エスタブリッシュメント”というあらたな上層階級の出現を40年も前に察知し、簡潔な言葉で皮肉っていたことになる。
 「ゴーストタウン」に関していえば、セックス・ピストルズの「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」に次いで重要なシングルだという声もある。全英1位になったそのヒット曲は、この社会が生き地獄であることを歌っているのだから──。

 新作のタイトルは『アンコール』で、これは本作が『モア・スペシャルズ』からの続きだということを意味している。メンバーは、リンヴァル・ゴールディング(g)、テリー・ホール(vo)、ホーレス・パンター(b)というオリジナルのフロントマンが揃っている。
 『アンコール』は、ジ・イコールズのカヴァーからはじまる。
 ジ・イコールズは60年代に結成されたUKのロック・バンドで、当時としては珍しい白黒混合のバンドだった。のちにレゲエ・アーティストとして有名になるエディ・グラントが在籍していたことで知られているし、ザ・クラッシュは『サンディニスタ!』において彼らの“ポリス・オン・マイ・バックをカヴァーしているわけだが、ザ・スペシャルズが選んだのは、1970年のヒット曲“Black Skin Blue Eyed Boys”だ。この曲に続く2曲目は、今作のためのオリジナル曲で“B.L.M.”……これはもうブラック・ライヴズ・マターということで間違いないだろうし、この2曲の並びをみても本作でのザ・スペシャルズのメッセージのひとつは見えてくる。

 しかしながら、ぼくのような古いファンはノスタルジーを禁じ得ないだろう。3曲目の“Vote For Me”の曲調およびピアノのフレーズは、“ゴーストタウン”を思い出さないわけにいかない。FB3のカヴァー曲もある。ラテン調の“The Lunatics”(狂人たち)は、もともとは“The Lunatics Have Taken Over The Asylum”(狂人たちが弱者の場さえ支配した)という長い曲名で、FB3のファースト・アルバムに収録されていた。FB3には、“Our Lips Are Sealed”(ぼくらの口は封じられている)という最高のキラーチューンがあるのだけれど、本作で演っているのはへヴィーな曲である。
 気怠いラテンのリズムは、今作のためのオリジナル曲のひとつ、インターネット社会の憂鬱を歌詞にしているという“Breaking Point”でも展開されているが、その曲が終わるとルードボーイ・クラシックのザ・ヴァレンタインズ“Blam Blam Fever”(別名“ガンズ・フィーヴァー”)のカヴァーが待っている。そして、銃について風刺したその曲が終わると、冒頭で紹介した“10 Commandmentsl”がはじまる。このあたりは『アンコール』におけるクライマックスだ。

 8曲目は、“Embarrassed By You”(あんたのおかげで困窮している)という、いかにもザ・スペシャルズらしい曲名のレゲエ・ナンバー。難解な言葉や文学的な言い回しはしない、シンプルで直球な言葉遣いは彼らの魅力のひとつで、それは本作でも変わっていない。そして、座ってでしか音楽を聴いていない連中を嘲るかのように、踊れない曲はつまらない(労働者階級ほど踊る音楽好きである)というアプローチも一貫している。しかしながら、踊れる曲であっても楽しげである必要はないということを実践したのもザ・スペシャルズだった。“The Life And Times (Of A Man Called Depression)”(うつ病と呼ばれた男の人生と時代)は、曲名が言うように物憂げな曲で、UKガラージのリズムが取り込まれている。『アンコール』の最後は、“We Sell Hope”(我々は希望を売る)というアイロニカルな題名の曲で締められる。このなんとも後味の悪い終わり方がいい(笑)。
 そもそもパンクたるもの、アンコールなんてものには応じないのが流儀だった。だからこの『アンコール』には、バンド内でもやや自嘲的な思いがあったのかもしれない。それでもザ・スペシャルズは、その21世紀版としてよくやったと思う。40年前にはできなかったことをやってのけたのだから。ちなみにもう1枚のCDには、ファン・サーヴィスというか、お約束というか、この手のベテラン再結成にありがちなライヴ演奏(2014年、2016年)が収められている。これは、ま、ご愛敬ということで。


追記:ぼくは知らなかったんだけれど、ザ・スペシャルズはテリー・ホール抜きの(もちろんジェリー・ダマーズ抜きの)メンバーで、1996年から2001年のあいだに4枚のアルバムを出している。この時期のオリジナルのメンバーは、リンヴァル・ゴールディングとネヴィル・ステイプルズのふたり(ともに元FB3)。で、これが意外と良かったりするから困る。ザ・クラッシュの“誰かが殺された”や“プレッシャー・ドロップ”のカヴァーなんてかなり良い。主役抜きのバンドが名前だけで続ける──よくある話だが、ザ・スペシャルズのおそろしいところは、それさえも素晴らしいという点だ。テリー・ホールの陰鬱やジェリー・ダマーズの作り込みはない。しかし、ゴールディング&ステイプルズはバンドの魂を保持していたと。ちゃんと聴いておけばよかったな。

Bibio - ele-king

 2017年の暮れに美しいアンビエント・アルバムを送り出し、昨年はその続編となるEPを届けてくれたビビオが、突如新曲を発表しました。再生ボタンを押すと……あのギターリフです。ビビオです。と思いきやヴァイオリン。なんでも昨年弾きはじめたんだとか。アルバムごとにいろんなスタイルにチャレンジする彼のことだから、また何か考えていることがあるのかもしれませんね。そして前作とは関係のない新曲が公開されたってことは、ニュー・アルバムがリリースされる日も近い? 続報を待ちましょう。

Bibio

聴く者の記憶や、心に浮かぶ情景に寄り添う心温まるサウンドで支持を集めるビビオが新曲“Curls”をリリース!

『A Mineral Love』(2016年)ではグラミー賞アーティストのゴティエと共演をし、サカナクションの山口一郎やボーズ・オブ・カナダなどを筆頭に、国内外のアーティストから賞賛を集めるビビオ。聴く者の記憶や、心に浮かぶ情景に寄り添う心温まるサウンドで、幅広い音楽ファンから支持を集める彼が、新曲“Curls”を突如リリース!

https://www.youtube.com/watch?v=Vx9_FIIH-UM

僕の多くの歌やインストゥルメンタルの楽曲と同様に、この曲はギターのリフから始まる。そこから、去年始めたマンダリンとヴァイオリンで演奏した主旋律に繋がる。歌詞については、一見すると関係なく見えるけど、実は結びついている人生の小さな物事──異なる記憶の断片やこの目で観測したこと、そして空想──がインスピレーションになっている。ここ数年のことを振り返ってみると、自分にとって大切なもののいくつかは、日常の小さな観察や体験だと気づいた。木に染み付いた雨の匂いだったり、外から部屋に入ってきた人の髪の毛が持ち込んでくる新鮮な空気だったり。そういう瞬間は喜びに満ちているし、とても意義深いものだったりもする。人生がどんなものかってことや、生きることの意味、もしくは意味すら超えた何かだってことに気づかせてくれる。それはまた、歌詞を乗せた曲よりも、言葉を持たない曲の方が多くを語りかけてくれることに気づかせてくれる。そういう日々の瞬間が、生まれ持った資質や、野心的に物事を達成することよりも重要だったり、記憶に残ることもある。それは太古まで遡っても存在することだし、個人の心の中の世界を超えたものなんだ。こういった意識っていうのは恐らく何千年も昔から体験されてきたことなんだろうと思う。新鮮な空気以外にも世の中には素晴らしいものがたくさんあって、そういった存在を目の当たりにしたとき、人は幸せを感じることができる。だからこそ、日々の小さな物事が自分の心に響くし、それらを曲の中で歌うことは意味のあることなんだ。 ──スティーヴン・ウィルキンソン(Bibio)

新曲“Curls”は各種サービスにて配信中!

label: WARP RECORDS
artist: Bibio
title: Curls

iTunes: https://apple.co/2SvA9mS
Apple Music: https://apple.co/2DY6AlR
Spotify: https://spoti.fi/2WSHUTo

女王陛下のお気に入り - ele-king

 日本でも評判を呼んだTVドラマ『宮廷の諍い女』など中国では宮廷劇があまりに流行り過ぎて、人民に華美なライフスタイルを流行らせるため宮廷劇の製作が今後は禁止されたという。中国では富裕層がペットにお金をかけ過ぎることも度々批判の対象になり、その類のニュースに目を通していると毛沢東時代の質素な暮らしをよしとする考え方も根強く残っていることが伺える(GDPが日本の倍になったとはいえ人口比で考えると日本人ひとりに対して中国人5人の「生産性」が同じぐらいということだし、富裕層を除いた残りの平均所得は月に2万5千円ぐらいだそうで、景気の減速に伴って都市部では7万5千円の家賃を払えなくなっている人も出てきたとか)。イギリスも話題がブレクシット一色ということはなく、貴族の暮らしぶりを描いたTVドラマ『ダウントン・アビー』は9年目にしてついに映画化されることになり、ビクトリア女王やエリザベス女王を題材にした映画も次から次へと出てくるし、昨年はミーガン・マークルの皇室入りで現実の世界でも宮廷劇は最高潮に達している。スコットランド独立運動と共にメアリー・スチュワートの人気も上がりっぱなしで、もはや作品名を覚えられる量ではなく、映画の中でウインストン・チャーチルやトニー・ブレアがいちいちバッキンガム宮殿に足を運ぶので、もはやどこにどの部屋があるのか配置図が書けてしまいそうである。
 そうしたところにアン女王を中心とした『女王陛下のお気に入り』ときた。18世紀初頭、スチュアート朝最後の君主で、彼女の死後、イギリスは最盛期を迎えるハノーヴァー朝へ移行していく。これがまた凄まじい宮廷劇であった。実話だそうである。

 貴族から召使いへと転落したアビゲイル・ヒルが働き口を求めてアン女王の城に向かう場面から物語は始まる。ヒルを演じるのはこのところ『ラ・ラ・ランド』や『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』で「努力の人」というイメージが板についていたエマ・ストーン(安倍晋三がエマ・ワトソンと間違えた女優)。最初は掃除や炊事など下働きしかさせてもらえなかったヒルが痛風に苦しむアン女王に薬草を煎じ、その痛みを和らげたことから女王の「お気に入り」に加えられる。アン女王を演じるのは、現在、ネットフリックス『ザ・クラウン』でエリザベス2世を演じているオリヴィア・コールマン。巨体を揺らして、いわゆるバカ殿を演じ、君主制というものがいかにベラボーで、民主主義というものがどれだけありがたいものかを全編を持って逆説的に訴えかけてくる。そして、アン女王の参謀を務めているのがレイチェル・ワイズ演じるモールバラ公爵夫人レディ・サラ。ウインストン・チャーチルやダイアナ妃の先祖であり、彼女が残していた日記がこの映画の基底をなしている(アン女王が無能に近く描かれているのはそのせいらしい)。この時、イギリスはフランスと戦争中で、戦争の継続と増税を望むホイッグ党と戦争終結を訴えるトーリー党が対立し、アン女王は両者のバランスを見ながら諸事に決断を下していく。専制君主とはいえ、強権的に権力を振りかざす時代ではなくなっていたそうで、難しい選択を迫られたアン女王が現実から逃避し、レディ・サラやアビゲイル・ヒルから慰めを得ることがこの作品で描かれていることのほとんどといってよい(そして美術に衣装。それこそ『ゲーム・オブ・スローンズ』がTVドラマに求める女性の好みを結集させてつくられたマーケティングの集大成だったとしたら、女性の指導者やソープ・ドラマ的展開、あるいは権力者の栄枯盛衰など『女王陛下のお気に入り』にもその要素はあらかた出揃っている)。

 といったような背景がわかってはきたものの、何を描こうとしている映画なのかということが一向に見えてこない。こうかなと思っているとあっちにいってしまうし、そっちかと思うとぜんぜん違うし、ストーリーというものが指の間からポロポロとこぼれ落ちていくような体験が続く。(以下、限りなくネタバレに近いブルー)後半に入って一気に押し寄せてくるのは「政治」である。政治には「目的」と「方法」がある。議案にもよるだろうけれど、往々にして何が何でも自分の主張を通そうとする人は嫌な感じがするものだし、そのために権力にすり寄っていく人はさらに醜く見えやすい。『女王陛下のお気に入り』ではそうした「目的」と「方法」が見事に絡まり合っていて、宮廷劇の十八番である権謀術数を観客にも隠しつつ話が進行していく。ストーリーが手に取るようにわからないのはそのためであって、何が起きていたのかがわかった時にはほとんどのことは終わっている。そして、その時に初めてオープニングに続いて(ここからは本当にネタバレ)レディ・サラが目隠しをされていたシーンの意味がわかってくる。このシーンは異様なほど恐怖を掻き立てる。どう考えても怯えすぎである。しかもアン女王はレディ・サラを喜ばせようとして目隠しをさせたというのに。あれ以上のシーンはこの映画にはなかった。いってみればクライマックスは最初にあったのである。

 ヨルゴス・ランティモス監督は『籠の中の乙女』でも『ロブスター』でも、そして『聖なる鹿殺し』でも人間が自由を奪われるとどうなっていくかということを描いていた。ある意味それは人間を近代から少しはみ出した地点においてみるという実験であり、物語が終わった時点で主人公たちが近代に戻ってきたかどうかはどの作品でも観た人が考えるというつくりになっている。独裁者というのは近代にもちょくちょく現れるもので、自分の国の指導者がそのようなパーソナリティに近づいていった時に人はどう動くかという実験を『女王陛下のお気に入り』では見せられたようなもので、戦争を遂行するか回避するかなどということに関してはそれほど大きく変わっていないとさえ思える面も多々あった。それどころか、現代の政治は18世紀初頭ぐらいならばすぐにも戻れてしまうほど基盤の弱いもので、シリアやヴェネズエラのようにあっという間に国家という体裁をなさないこともあるし、ドナルド・トランプが大統領になっても司法やマスコミが機能していることを世界に知らしめたアメリカはやはり近代国家として優れているということも思わずにはいられなかった。「お気に入り」という表現を安倍政権の「オトモダチ」やちょっと前のマレーシア政権みたいに「身内びいき」と言い換えてもいいかもしれない。国会議員ではなく諮問委員会の方が立法に近い位置にいるという現状など、考えれば考えるほどこの世界はモダンから遠ざかっていく。あー。

 コメディアンのケヴィン・ハートが過去に行ったヘイト・ツイートによって司会を辞退し、MC不在という異例の事態のままアカデミー賞の発表まで1ヶ月を切った。下馬評では『トゥモロー・ワールド』や『ゼロ・グラヴィティ』のアルフォンソ・キュアロンによる『ローマ』と『女王陛下のお気に入り』の一騎打ちだということが言われている。なんとも高級な対決になったものだけれど、イニャリトゥとデル・トロに続いてキュアロンが受賞すればメキシコの映画運動、ヌエーヴォ・シネ・メヒカーノから出てきたビッグ3が全員アカデミー賞を獲得したことになるし、『ロブスター』からたったの3年でランティモスが受賞するという絵もなかなかに美しい。ノミネート作をすべて観ているわけではないので、大きなことは何も言えないけれど、いつにも増して発表が待ち遠しいことは確か。ちなみに外国語部門ではカンヌでも因縁の対決となったイ・チャンドン『バーニング』と是枝裕和『万引き家族』もノミネートされているそうで。


(予告映像)
『女王陛下のお気に入り』日本版予告編

 2017年の8月にリリースした“Look What You Made Me Do”のブリッジで、テイラー・スウィフトは「申し訳ございません、『古いテイラー』は電話に出られません/なぜって? 彼女は死んだから」と言っている。カニエ・ウェストとのトラブルから生まれたとされるこの曲は、どこか不穏な復讐の歌であると同時に再生の歌でもある。「ギリギリのところで私はスマートに、強くなった/死から立ち上がったの、だっていつもそうしているから」。テイラーの「古い私は死んだ」というショッキングだが力強いステートメントは、2018年を通して僕の耳にこびりついて離れなかった。

 一方、勇気づけられるというよりは打ちのめされたのがカーディ・Bの言葉で、彼女はヒット・シングル“Bodak Yellow”で「私がボス、あんたはただの労働者」とラップしていた。また、YouTube Musicの広告で100回は耳にしただろうラテン・トラップの“I Like It”ではこうだ。「バッド・ビッチは男をナーヴァスにする」。カーディは怒張した男根をへし折る女として2018年のポップ・シーンに君臨していたように思う。

 テイラーやカーディに惹かれる一方で、2018年の僕にとって最も重要だったのはアリアナ・グランデの存在だ。彼女の「神は女性だ」という、あまりにもコントラヴァーシャルな宣言は、一つの楔として僕の心に打ち込まれた。ゆったりとしたテンポのトラップ・ポップに乗せて彼女は歌う。「あなたが『なれない』と言ったすべてのものに私はなることができる/私と一緒にいれば、あなたは宇宙を見ることができる/それはすべて私の中にある」(“God is a woman”)。“God is a woman”は典型的な女性優位を主張する歌だ(この曲はセックス賛歌でもある)。時計の針を50年分巻き戻してみて、ポップ・ミュージックの歴史をさかのぼってみれば、この曲がアレサ・フランクリンの“リスペクト”の系譜に連なる一曲であることがわかるはずだろう。オーティス・レディングから「盗んだ」その曲をほんの少し書き変えることで、アレサは男性優位主義を見事にひっくり返していた。


Sweetener
ユニバーサル・ミュージック

 “God is A Woman”が収録されたアリアナ・グランデのアルバム『Sweetener』は、2017年5月にマンチェスターのコンサート会場が自爆テロ犯によって襲撃された事件を経て制作され、翌年8月にリリースされた。モノクロームだった前3作のカヴァー・アートに反して、『Sweetener』はカラー。これについて彼女は、「これは新章。私の人生は初めて色彩の中にある」と語っている。アルバムに先立ってまずリリースされたのが“no tears left to cry”で、このシングルのカヴァー・アートは暗闇の中にいるグランデの顔に虹色の光が差している様が写し取られている。シリアスなムードのイントロでグランデは「流す涙はもう残っていない」と決意を表明する。その後の彼女は軽快に、そして自然体で、まるで何事もなかったかのようなトーンで歌っていく。「私は尽き果てた、でもね、もういいの/どんな方法で、何が、どこで、誰がそれをやったのだとしても/私たちは今、ここで楽しんでいる」。

 『Sweetener』を聴くたびに僕はこう思う。自身のコンサート会場で23人もの命が失われるという、あまりにも痛ましい悲劇を経てもなお、グランデはどうして歌うことができるのだろう? そのすべてをポジティヴな、そして女性的な表現へと見事に昇華してみせるグランデの力強さは、いったいどこから来るのだろう? なぜ彼女の人生は今、色彩の中にあるのだろう?

 「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」と言ったのはテオドール・アドルノだが、グランデは「それでもなお」と歌っているかのように感じられる(もちろん、アドルノの言葉は単なるニヒリズムなどではないし、そもそも彼はポップ音楽なんて歯牙にも掛けないだろうけれど)。ポップ・ミュージックが聴き手をアップリフトし、鼓舞する。ポップ・ミュージックが聴き手とコミュニケートし、心の中に居場所を持ち、何かを肯定する──そういった、ものすごく平凡な言い方をすれば「音楽の力」をグランデは信じているとしか、僕には思えない。だからこそ、彼女はこの「人工甘味料」という皮肉めいたタイトルの感動的なポップ・アルバムをものにすることができたのだろう。

 例えば、イーグルス・オブ・デス・メタルはパリのコンサート会場がテロリストたちの襲撃に遭い、グランデと近い経験をしている。けれども、メンバーのジェス・ヒューズは事件の後、インタヴューでヘイトすれすれの発言を繰り返した。銃規制に反対するデモを「感傷的で悪趣味」だと批判し、ライヴ会場のスタッフがテロの共謀者だったのではないかと彼は言い放ったのだ。疑心暗鬼と憎悪――それは、グランデのあり方とはあまりにも対照性だ。月並みな表現をすれば、ヘイトとラブという二極。音楽の力を信じているのは、果たしてどちらだろう?

 『Sweetener』の後に発表し、記録的なヒット・ソングとなった“thank u, next”にしても、グランデの力強く肯定的なアティテュードは一貫している。この曲で彼女は、ビッグ・ショーンや亡くなったマック・ミラーといった“ex(元カレ)”たちを数え上げている。「ある人は私に愛を教えてくれた/ある人は忍耐を/ある人は痛みを教えてくれた」。なかには壊れて、ぐずぐずに崩れ、けっして元には戻らない関係性もあったはずだ。あるいは深く傷つき、消えない傷跡が残り、簡単なきっかけでそこから血が噴き出してしまうような関係性も、おそらくあったはずだ。それは僕の人生にも、そしてきっとあなたの人生にもあるもの。それでも、ノスタルジックなヒップホップ・ビートに乗せてアリは滑らかに歌う。「元カレたちにはファッキン感謝してる/ありがとう、次に進むよ」。優しく、包み込むように。


Thank U, Next
Republic Records

 “ex”とは「前の、元の」という意味の接頭辞だが、僕にはどうもグランデが単なる「元カレ」という意味で歌っているようには聴くことができない。あらゆる過去、過ぎ去っていった人や物、時の狭間に消えていった何か、以前はこの世界に存在していた人たち――そういったものすべてを“ex”という言葉に象徴させているようにしか思えないのだ。かつてはあったけれど、今、ここにはもうない何か、あるいは誰か。けれども、“thank u, next”で彼女が歌う“ex”は人生に憑りつく厄介なノスタルジーを喚起するものではない。グランデはその歌で、ノスタルジーを喚起する過去を糖衣でくるんでくれる。僕たちはその甘い過去を少しずつ、少しずつ飲み下して、一瞬一瞬到来し続ける未来をなんとかサーフするための推進力にすることができる。


7 Rings
Republic Records

 “thank u, next”をリリースしたのち、グランデは昨年12月に“imagine”を、そして今年1月に“7 rings”を発表した。ワルツにトラップ・ビートを取り込んだ静謐な前者は「そんな世界を想像しよう」と呼びかける、明確に未来へと意志を投げかける歌だ。一方、“私のお気に入り”のメロディを引きながらラップ・ミュージックを大胆に参照した後者は、それゆえにプリンセス・ノキアやソウルジャ・ボーイらから「フロウを盗んだ」と批判を受けている。リリックの内容も自身の財力を誇示する今時のラップをステレオタイプに模倣してはいるものの、そこには見逃せない言葉もある。セカンド・ヴァースでグランデは、「指輪をつけてはいるけれど、『ミセス』って意味じゃない/6人の私のビッチたちにふさわしいダイアモンドを買っただけ」と歌う。この一節は、既存の婚姻制度や決まりきった約束事としてのルール(「左手の薬指に指をはめていれば既婚者である」など)に一瞥をくれながら、経済的な自由を手に入れた女性たちによるシスターフッドを挑発的に称揚しているかのように聞こえる。

 マンチェスターの事件の5日後にグランデは、美しい長文の声明をツイッターに投稿した。そこにはこんな風に書いてある。「私たちは恐怖の中で立ち止まったり、行動したりはしない。私たちはあの事件によって分断されたりはしない。私たちは憎悪が打ち勝つことを許しはしない」。祈りのようでいて軽快な『Sweetener』の曲たちは、見事にそれを音楽で示している。それに、過去の悲惨さにうなだれるのでもなく、懐かしむのでもなく、それらを慈しんで乗り越えていく“thank u, next”のポジティヴィティは、何にも増して力強いものだった。街中で、コンサート会場で、ソーシャル・ネットワークのそこここで伝搬され、充満している憎悪という毒。アリアナ・グランデの歌はそれらを両手で掬い上げて優しく包み込み、甘く中和する。

vol.110 史上最悪のスーパーボウル騒動 - ele-king

 アイスランドから帰ってきてすぐにスーパーボウル。日本では節分の2/3が今年のスーパーボウルだった。
 私がスーパーボールを意識するようになったのは、2016年のビヨンセからだ。彼女の新曲“Formation”がハーフタイム・ショーで予告もなしで演奏されたあのときがあったから、2018年は、私はビヨンセのコンサートを見に行くにまで至った。2017年のレディ・ガガ、そして18年のジャスティン・ティンバーレイクは、ビヨンセほどの強烈なインパクトを感じなかったけれど、以来私のなかでスーパーボウルはアメリカでもっとも重要なショーのひとつになった。アーティストたちの気合も感じられる。私にとってスーパーボウルのハーフタイムショーは、アメリカについていろいろ考えさせられる日でもあるのだ。

 今年2019年は53回目を迎え、アトランタの、メルセデス・ベンツ・スタジアムで、ニューイングランドのペイトリオッツとLAラムズが対戦した。私はゲームについてはいまだに理解できないけれど、とりあえず結果は13-3でペイトリオッツが勝ったことはわかるし、ペイトリオッツのエースのトム・ブラディは、共和党でトランプ支持者だと言われていて(彼とは友だちらしい)、彼の完璧さが嫌い、という人が私の周り(インディ系)の大多数で、みんなラムズを応援していたので、スポーツ界でのトランプな出来事=退屈なゲームとブーイングを浴びた(もっともスコアも低かった)。

 さて、今年のハーフタイムショーだが、マルーン5が出演。ゲストは、トラビス・スコットとアウトキャストのビッグ・ボイ。気の毒なことにマルーン5は、ただそこにいただけと、かなりの酷評を受けている
 とはいえ、ビッグ・ボイがキャデラックに乗って登場したときは、私も少し上がった。が、ショー全体には気合が感じられなかった。それでも15分のあいだでコート姿から上半身裸になるアダム・ラヴィーンの変わり身には、ほーっと思った。

 そもそも何故このホワイトすぎるバンドがハーフタイムショーなのだろうかという疑問。調べると、カーディB、リアーナ、ピンク、ジェイZなどの大物アーティストが出演をボイコットしていたらしい。
 ことは2016年、警官の黒人差別による不当な暴力に抗議して、国歌斉唱で跪いたコリン・キャパニック選手がいまだ試合に出演できないでいるため、彼を支援するアーティストたちはハーフタイム出演をボイコットしているという。
 ハーフタイムショーは、アーティストにとってのハイライトなので、断るのはかなりの決断だと思う。が、カーディBは、マイノリティのために戦ったコリン・キャパニックを支持しないわけにはいかない、とは言っても、カーディはスーパーボウルのペプシのコマーシャルや関連イベントには出演しているんだけど。
 カーディは、キャパニックを支持することで世界に良い変化が生まれればというが、近い将来に来るとは思えない、という。何故なら、自分たちの大統領は傲慢で、人種差別がまた生まれたからだと。いま力を持ってるのはオバマがいた8年間が早く終わって欲しいと思っていた人たちで、とても嫉妬していた連中だ。彼らが彼らの選択で、人種差別がどのようにこの国に影響しているのかを見たときが、ことが変わりはじめようとするときだが、いま、彼らはその決定が国に影響したことを認めたくないという。その通りだろう。

 マルーン5のハーフタイム出演は非難を浴びたが、アダム・ラヴィーンも、それは予想通りというか、耐えられないなら、このギグはするべきではないと言っている。マルーン5とトラヴィス・スコットは、$500,000 (約5千万円)ずつを、ビッグブラザーズ・ビッグシスターズ・オブ・アメリカ、ドリームコープスという公共機関に寄付した。

 アダム・ラヴィーンが乳首を出したことで、何故アダムは良くて、(2004年の)ジャネット(・ジャクソン)はダメなのかという議論が出たり(どうでも良いんじゃないかと思うが)、2016年からのアメリカは、こんな風に変わり、人種差別は無くなっていないし、逆に悪くなっている。2016年からのアメリカはこんな風に変わり、人種差別は無くなっていないし、逆に悪くなっている。今回のスーパーボウルはCNNをはじめいくつかのメディアから「史上最悪」なんていわれているが、私個人が感覚では、 「まったく退屈な」ぐらいの表現のほうが2019年のアメリカに合うのではないかと。

Yoko Sawai
2/4/2019

Jamison Isaak - ele-king

 この『Cycle Of The Seasons』は、その名のとおり、めぐる季節を感じさせてくれるアンビエント・ミュージックである。あるいは観葉植物のようなオブジェのようにそこにある環境音楽でもある。まさに瀟洒なインテリア・ミュージック。もしくはモダン・クラシカルな音楽集。
 いずれにせよ流していると空間に良い空気やムードが生れるタイプの音楽だ。たとえるならブライアン・イーノのアンビエント音楽の21世紀版か、それともペンギン・カフェ・ オーケストラの室内楽のエレクトロニック版か、もしくは尾島由郎の環境音楽の系譜にあるアンビエント音楽か、それともニルス・フラームなどモダン・クラシカル音楽の流れにある同時代的な音楽家か。要するに、そういったインテリアな音響音楽の系譜の作品なのである。

 本作は カナダのブリティッシュ・コロンビアを活動拠点とするティーン・デイズのジャミソン・イサークによる本人名義のアルバムである。ティーン・デイズについてもはや説明不要かもしれない。2010年代のチルウェイヴ・ムーヴメントによってその頭角を表し、すでに多くのリスナーを獲得している音楽家だ。
 2012年にリリースしたファースト・フル・アルバム『All Of Us, Together』(2012)が話題を呼び、2015年にはバンド編成による『Morning World』(2015)もリリースするなど、彼の才能と活動はムーヴメントに留まるものではない。
 2017年には自身のレーベル〈Flora〉から美しいアンビエント・ポップ・アルバム『Themes For Dying Earth』と、そのアウトテイク集的なアンビエント・アルバム『Themes For A New Earth』という連作を発表し、コンポーザーのみならずサウンド・デザイナーとしても類まれな才能の持ち主であることを改めて示した。
 2018年は『Themes For A New Earth』からの流れを継ぐように、〈Flora〉からジャミソン・イサーク名義でアンビエント・クラシカルな「EP1」と「EP2」をデジタル・リリースした。くわえてミニマルな『Spring Patterns』もカセット・リリースする。二作とも電子音や楽器が密やかな会話のように音楽を織り上げ、小さな環境音やの微かなノイズがレイヤーされるミニマルかつアンビエントなヴォーカルレスの音楽だ。モダン・クラシカルな音楽とも共振する「EP1」と「EP2」(エンジニアのジョナサン・アンダーソンのペダル・スティールが良いムードを醸し出している)、スティーヴ・ライヒのミニマル・ミュージックを思わせる『Spring Patterns』という作風の違いも興味深い。

 本作『Cycle Of The Seasons』は、「EP1」「EP2」「Spring Patterns」を1枚のCDにまとめたアルバムでもある。とはいえお手軽な企画盤ではない。リリースジャミソン・イサークが主宰する〈Flora〉からのリリースでもあり(日本側のリリース・レーベルは〈PLANCHA〉)、彼の美意識がアートワークにまで反映された素晴らしいアルバム作品に仕上がっているのだ。収録はリリース順、全16曲を収録している。1曲めから8曲めまでが「EP1」「EP2」の収録曲で、9曲めから16曲めまでが『Spring Patterns』収録曲となっている。
 通して聴くと、イサークの音楽日記/随想を聴いている気分にもなる。ジャミソン・イサークによる2018年の音/音楽の記憶と記録といってもよいだろう。いやそもそも〈Flora〉じたい、レーベル名、アートワーク、アルバムやタイトルからも分かるように季節や地球の円環を意識しているものが多いのだ。つまりジャミソン・イサークが生きるカナダという地における季節のサイクル、花や木の円環、彼の人生、その変化が、その音楽に込められているとはいえないか。
 中でも本人名義のEPシリーズは、イサークのパーソナルな思いや感覚の結晶したライフ・ミュージックのように思えた。折々の思いを綴った日記のようなアンビエント音楽とでもいうべきか。特にピアノと電子音が密やかなタペストリーを紡ぎ出す“Wind”や“Animals”という曲は、ゆったりとした時の流れに、間接照明のやわらかい光を当てるようなサウンドとなっていて本作を代表する曲に思えた。まるで日々の記憶を溶かしていくようなトラックなのだ。

 本作を再生すると、まるで音と空間が新たに関係を結び直し、その場の空気が不意に変わっていくような感覚を覚えた。小さなアート作品を部屋に飾るように、環境と共にある音楽とでもいうべきか。つまりは「環境音楽」の現在形である。あたりまえの生活の中に、繊細な色彩のアンビエンスを添えてくれる、そんな音楽集/アルバムである。

interview with Phony Ppl - ele-king


Phony Ppl
mō'zā-ik.

300 Entertainment / Pヴァイン

SoulFunkHip Hop

Amazon Tower HMV iTunes

 現代の“What's Going On”──そう称されたのは2018年の優れたアルバムのひとつ、ジ・インターネットの『Hive Mind』で冒頭を飾る“Come Together”だった。かのLAのバンドは同曲で、われわれに衝突を強いてくるものについて歌っている。深刻な人種差別が続く合衆国の惨状は、いまなおアーティストたちを突き動かし続けているようだ。
 西海岸だけではない。東にもまたおなじ問題意識を共有するグループがいる。ブルックリンの新世代5人組ソウル・バンド、フォニー・ピープル。ジョーイ・バッドアスらの属するプロ・エラとともにビースト・コースト・ムーヴメントを盛り上げてきた彼らは、ジ・インターネットと同様、ことさらにポリティカルなバンドというわけではないけれど、彼らの新作『mō'zā-ik.』の最終曲“on everythinG iii love.”でもやはり、警察の暴力によって命を落としたアフリカ系たちのことが歌われている。
 おもしろいことにフォニー・ピープルの音楽は、言葉だけでなくそれを輝かせるサウンドのほうもまたマーヴィン・ゲイを想起させるところがある。ミーゴスの所属する〈300 Entertainment〉から発表された『mō'zā-ik.』にはマーヴィンやスティーヴィー・ワンダーといった70年代黄金期のソウル・ミュージックの真髄が見事に受け継がれているが、この殺伐とした現代、トラップのような音楽が猛威をふるういま、彼らはあえてかつての“古き良き”サウンドを信頼することで、改めてソウル・ミュージックのなんたるかを示そうとしているのかもしれない。
 では彼らにとってソウルとはいったいなんなのか? じっさいのところ彼らはどのような思いで『mō'zā-ik.』を作り上げたのか? ヴォーカルのエルビー、ギターのイライジャ、ベースのバリ、ドラムのマフュー、キイボードのエイシャ──大きな盛り上がりを見せた渋谷 WWW X での公演前日、バンド・メンバー全員が取材に応じてくれた。

人間が人生を歩むなかで経験するたとえばトラウマとか喪失感とか心の痛みとか失恋とか、あらゆる痛みを音楽として表現する。それがソウルだよ。

今回日本で『mō'zā-ik.』がCDリリースされますが、タイトルの綴りが特徴的ですよね。

エルビー(Elbee Thrie、ヴォーカル):音声記号(IPA)のとおりに書くとこうなるんだ。

そうしたのには何か特別な理由が?

エルビー:音声記号で書くとひとつひとつの文字にフォーカスできて、1文字ごとの意味が深くなると思ったんだよね。あと、ヴィジュアル面でもこっちのほうがきれいなんじゃないかなと。「モザイク(mosaic)」って本来は「c」で終わるんだけど、「k」にしている。発音記号だと子音が「k」の音だから、こういうスペルにしたんだ。グループ名の「Phony」も音声学(phonetics)と関連しているんだよね。サウンドを意味する「-phone」ともつうじるし。

曲名にはすべてピリオドがついていますよね。

エルビー:ピリオドは「この曲はここで終わっている」ということを示すために打っているんだ。それにも意味があるんだよ。

イニシャルでないところが大文字になっていたり。

イライジャ(Elijah Rawk、ギター):「G」はいつも大文字なんだ。

エルビー:子どものころ、ジュヴィナイルの“Ha”って曲がすごく大好きだったんだ。そのなかに、「ビッグ・Gならブロック・オン・ファイア(Big G, you got your block on fire)」という歌詞があってね。「ビッグ・G」だから、「G」は大文字。

では一人称の「I」が「iii」と三つになっているのは?

エルビー:ひとつの「I」のときと三つの「iii」のときがあるんだけど、ひとつの「I」はふつうの、「私はトイレに行きます」や「私はご飯を食べます」みたいな一人称なんだ。肉体的なものとしての自分を指すときはひとつの「I」。でも三つの「iii」は肉体的なものから離れて、もっとスピリチュアルな、精神的なものを表すときに使う。前世とか来世とかね。そういう自分の体を越えたものは三つにする。そこには肉体的なものも含まれてるんだけど、それを越えた自分まで含めて、ということだね。

先祖とか、そういうことではないんですよね。

エルビー:ノー。先祖ではなくて、自分が生まれるまえの前世とか、死んだあとの来世とか。それから、なぜいまここに自分がいるのかとか、そういう意味のときも三つ繋げてる。

そういったことを考えるようになったきっかけは?

エルビー:いまここにこうしてみんなが集まっているのは、ここに肉体があるということだけど……この考えは一日でできたものじゃなくて、人生を重ねるうちに認識していったアイディアなんだ。まだ自分のなかでもいろいろ問いかけている最中で……たとえば肉体はここにあるけど、魂みたいなものはもしかしたらべつのところにあるかもしれない。そういうことを人生を重ねていくなかで考えるようになったんだ。だからそういったことをテーマに歌詞を書いたりもしているよ。

サウンド面では、前作の『Yesterday's Tomorrow』の時点ですでに洗練されていましたけれど、新作の『mō'zā-ik.』はさらに洗練されているように感じました。

イライジャ:そういってもらえて嬉しいよ。

今回、音作りの面でもっとも意識したことはなんでしょう?

イライジャ:ファースト・アルバムを褒めてもらえてすごく嬉しいけど、じつはあれにはいろんなドラマがあって、さまざまなストレスや不安を抱えながら作ったアルバムだったんだ。あれは、それまでにあったものをぜんぶひとまとめにして出したものだから、その過程で辞めるメンバーもいたりして、「未来はどうなるんだろう」「自分たちはこれでいいのか」って、ものすごい不安を抱えながらリリースしたものだった。だから今回の『mō'zā-ik.』のほうがもっときちんとしていると思う。インフラも整っていたし、ツアーの回数も増えて、経験も積んで、メンバーも再調整されてね。あと、〈300 Entertainment〉と契約したこともすごく大きかった。システム化してもらえたからね。たとえば、あちこちでレコーディングするんじゃなくて、同じミキサーやエンジニアにやってもらえたりとかさ。1曲目の“Way Too Far”以外はどれも1年ぐらいかけて作った曲だから、すごく一貫性のあるアルバムなんだ。だから、今回のほうがより洗練されているっていうのはありえる話だね。

“somethinG about your love.”や“Move Her Mind.”といった曲にはロックからの影響が表れています。

イライジャ:子どもの頃からクラシック・ロックとかコンテンポラリー・ロックとか、ポップ・パンクを聴いて育ったからね。俺がこのバンドに貢献している部分があるとしたら、それはやっぱりロック的な要素だと思う。泥くさい音とか、汚い感じの音とか、「これ、ここには入らいないよね」みたいな音だから、メンバーのみんなはおもしろく思ってないかもしれないけど。だろ? エイシャ。

エイシャ(Aja Grant、キイボード):いや、俺もヤバい音は好きだよ!

イライジャ:そういうコントラストが生まれるからこそおもしろいと思っている。このバンドはすごく極端なものを持ってきてくれるんだ。3曲目の“somethinG about your love.”は最近書いた曲じゃなくて、前回のアルバムよりもまえに書いた曲なんだけど、時間をかけてどんどん前進していって、いまのような曲になった。8曲目の“Move Her Mind.”のほうはすごくアグレッシヴな、直球でパンチを食らうような曲で、スタートからいきなり迫力がある。“Move Her Mind.”は70年代のロックから影響を受けた曲なんだ。当時のロックはすごく多岐にわたる音楽性を持っていたと思う。R&Bやソウル出身のキイボーディストとかギタリストがいておもしろかったよね。そういうところから影響を受けて書いた曲なんだよ。で、スタジオで一気に録音した。エルビーの自宅の地下で、メンバーそれぞれが楽器を持って、一発録りしたんだ。

70年代のロックという話が出ましたが、アルバム全体としてはマーヴィン・ゲイやスティーヴィー・ワンダーのような、70年代のソウルの遺産が良いかたちで受け継がれていると感じました。トラップ全盛のいま、このようなスタイルのソウルをやろうと思ったのはなぜですか?

バリ(Bari Bass、ベース):もちろん、いまどういうものが流行っているかとか、トラップのような方向性は知っている。それはアルバムのレコーディング中も把握してた。でも、いま世の中で起きていることとは違うエネルギーをあえて持ってくることで、新しいこと、違うことに挑戦して、より多岐にわたる音楽を作ったほうがリスナーにチャレンジできるんじゃないかと思ったんだ。ただじつは、トラップから影響を受けて書いた曲も今回のアルバムには入っているんだよ。だから、トラップの領域も知っているけど、もっと違うものを作りたかったし、結果としてそれをうまく表現できたと思ってる。

エルビー:えーっと、バリが言ったこととは違う話になってしまうけど……バリはリスナーにチャレンジしたかったって言ったけど、必ずしもそういうわけじゃなくて、僕らがそれぞれ楽器を持つと、リスナーのことは意識しないで自然に、やりたいように演奏するから、すごくオーガニックになったんだ。

バリ:俺が言っていることと違ってくるからまずいって!

エイシャ:まあ、そういった細かいところまでは話さなかったよな。『mō'zā-ik.』に収録されている曲は何年もライヴで演奏してきたんだ。とくにニューヨークのブルーノートでね。レジデンシーをもらえたのはすごくラッキーだった。そこで演奏することによってレスポンスが得られたからね。「ここはもうちょっと変えよう」とか「これは引き算しよう」とか、ライヴで得られるものが大きかった。曲ってその時代のスナップショットみたいなものだから、俺たちの代表曲“Why iii Love The Moon”も、いま演奏しているものは、かつて演奏していたものとまた変わってくるよね。

ちょっと水を買いに近くの店まで行ってそのまま戻ってこられなかったりとか、家族が仕事へ行って「帰ってこないな」と思ったら突然殺されていて、今日が最後だったなんてこともありえる時代になってきている。

去年はXXXテンタシオンの殺害が大きな話題になりましたけれど、いまのヒップホップにはある種の過剰さ、「いっちゃうところまでいっちゃう」みたいな状況があるように思います。いまのヒップホップに問題があるとすれば、それはなんだと思いますか?

イライジャ:エゴじゃないかな。

マフュー(Matt "Maffyuu" Byas、ドラム):ドラッグも大きな問題じゃないかな。ドラッグを神格化するというか、そういうことをかっこいいことみたいに持ち上げるのは良くないと思う。

エイシャ:個人的にドクター・ドレーは好きなんだけど、でも、まるで水を飲むようにドラッグを自分たちの音楽と関連づけているヒップホップ・アーティストを見ていると、ヒップホップっていま若い世代にもっとも影響力があるから、すごく汚染しているな、ダメにしているな、って残念に思うね。

エルビー:いまのヒップホップが抱えている問題は、ずっとヒップホップのスターの座にいる人たち、スター級のアーティストたちが、それが永遠に続くと思って、ほかのアーティストにたいして失礼だったり「何を言ってもいい」みたいな、そういう風潮があることだね。ある日突然環境がガラッと変わることだってあるんだから、それはどうなのかなって。態度が失礼っていうのも問題のひとつだと思う。

今回のアルバムの最終曲“on everythinG iii love.”では、警察の暴力で命を落とした黒人のことが歌われていますね*。

エルビー: 最近は減るどころかずっと増えている。

マフュー:ここでは三つの「iii」を使っている。肉体から離れた、魂の話をしているからね。

エルビー:僕は基本的にテレビを観ないんだけど、たまにテレビをつけると毎回と言っていいほど、黒人が警察に射殺されただとか、少年が警察官に間違えて殺されただとか、そんなニュースばっかりでうんざりする。それはもちろん僕らの知らない人たちだけれど、でももしかしたら自分たちもちょっと水を買いに近くの店まで行ってそのまま戻ってこられなかったりとか、家族が仕事へ行って「帰ってこないな」と思ったら突然殺されていて、今日が最後だったなんてこともありえる時代になってきている。人種差別をするのはほんっとうにばかげたことだと思う。だから、自分たちでも何かを訴えたいと思ってこの曲を書いたんだ。自分たちはみずから選んでこういう肌で生まれてきたわけではないし、いや、もちろん黒人として生まれてきたことはものすごく誇りに思っているし、それは嬉しいことなんだけど、でもなんで肌の色でこうやって罰せられなくちゃいけないのか、って。

マフュー:撃った側の警察官は刑務所に入ることもなく、ちゃんと給料も支払われる。本来であれば僕たちを守るべき仕事に就いている人なのに、黒人の少年を殺したことで給料をもらえて、裁判があったら必ず勝ってしまう。ありえないなと思う。

* 取材後にエルビーが語ってくれた説明によれば、黒人の主人公が殺された事件の裁判に、本人の魂が現れる。その魂は天井から裁判を見守るが、その主人公を射殺した白人は結局無罪になる。判決にがっかりした主人公が「あぁ、俺は弔いの言葉さえかけてもらえなかった。それなら自分で自分を“安らかに眠れ(Rest In Peace)”と弔おう」とする内容(湯山)。

おばあちゃんの家へ行ったら、そこでおばあちゃんがソウルフードを作ってくれる、その音楽版みたいな感じかな。それがソウル・ミュージック。

あなたたちはジョーイ・バッドアスのプロ・エラと一緒にビースト・コースト・ムーヴメントを牽引していましたよね。ニューヨークのヒップホップだけが持つ特性はなんだと思いますか?

イライジャ:ニューヨークの音楽ってすごく変わってるんだ。一時期は見失っていた時期もあるけどね。いまはエイ・ブギー(A Boogie)とかシックスナイン(6ix9ine)とか、新しいアーティストがでてきた。ニューヨークのプロデューサーが集まるようなスタジオもできた。ニューヨークではいまプロ・エラは大きな存在だよね。お互い助け合って、ニューヨークの音楽を全体的に盛り上げることに貢献している。ヒップホップだけじゃなくて、もっと大きな意味でもね。ニューヨークはすごく幅が広くて多岐にわたる音楽を扱っているから、そこが魅力なんじゃないかな。ありえないぐらい表現力豊か、それがニューヨークの魅力だと思う。

同じくビースト・コースト運動をやっていたジ・アンダーアチーヴァーズはLAの〈Brainfeeder〉からもリリースしています。LAのシーンについてどう見ていますか?

イライジャ:フライング・ロータス!

マフュー:LAのヒップホップって、ケンドリック・ラマーとかブルーフェイスとかジ・インターネットとかがいるけど、ニューヨークと違って天気が良いから、太陽を浴びてすごく自由な感じだよね。もちろんダーティでヴァイオレントなものもあるけど、ダンス的な要素があったり楽しい音楽がある。タイラー・ザ・クリエイターとか。あとはすごく結束力があるよね。

「西のジ・インターネット、東のフォニー・ピープル」と言われることについてはどう思います?

イライジャ:会った瞬間から気の合う人たちだったよ。すごく良いエネルギーを感じるし、お互い助け合っている。応援し合っているよ。東西を行き来して自宅へ遊びに行ったりとか、すごく仲が良いんだ。あと黒人バンドということで、そういう意味でも応援しあっている。

バンドであることの良い点と悪い点はなんでしょう。

イライジャ:唯一悪い点があるとすれば、パーソナルな、プライヴェイトな計画がうまく立てられないことだね。ライヴがあるから、一週間前とかにならないと先のことがわからないし。たとえば最近母親の結婚式があったんだけど、ライヴの予定が入っちゃって。逆にバンドの良いところは、音楽的な面でお互い助け合えることだな。友人というよりは兄弟って感じ。たとえば曲を書いていてライターズ・ブロックにぶつかって、この先どうしようなんて思ったときも、誰かに相談すると会話から何か新しいものが生まれてくる。ひとりじゃないということが大きいね。

バリ:難しいのは、すごく民主的なバンドでみんなの意見を反映させているから、判断するプロセスが非常に難しいんだけど、ひとつ決まるとびしっと協力しあって、結束力が固いところは良い点かな。

メインストリームで成功することについてどう考えていますか? それを目標にすることもある?

イライジャ:そうだね、もちろんメインストリームを目指したいんだけど、バランスが重要だよね。そもそも自分はなぜ音楽をやっているのかっていうのを考えると、全員に気に入ってもらえるポップ・ソングを作るためにやっているわけではないから。

あなたたちにとって「ソウル」とはなんでしょう?

エルビー:ソウル・ミュージックというのは、歌詞の内容がわからなくても、たとえばポルトガル語だとか日本語だとか、英語だとわからなくても、言語がわからなくても、心ですごく感じるものなんだよね。

バリ:そもそも自分たちはフォニー・ピープルをブルックリンで、DIYスタイルで作ってきたわけだ。手作り感があったんだ。「ここブルックリンでソウルを作ろうぜ」っていう形からできあがってきた純粋なエネルギー、自分たちのなかにあるものをぜんぶ出しきったもの、それがソウルなんだ。リスナーにはそれを感じてほしい。

イライジャ:ソウル・ミュージックは、人間が人生を歩むなかで経験するたとえばトラウマとか喪失感とか心の痛みとか失恋とか、あらゆる痛みを音楽として表現する。それがソウルだよ。

マフュー:言葉にするのはとても難しいんだけど、子どものころからソウルを聴きながら育ってきたから、フィーリングがすごく伝わってくる。ソウルを聴くと身体が温かくなる。それがソウル・ミュージックだね。

エイシャ:みんながいろいろ言っちゃったからもう出つくしちゃったけど(笑)、ひとつ言えるのは、黒人の音楽であるということ。おばあちゃんの家へ行ったら、そこでおばあちゃんがソウルフードを作ってくれる、その音楽版みたいな感じかな。すごくノスタルジアを感じるもので、たとえばみんながソウルを聴きながら踊りだしたりね。それがソウル・ミュージック。自分の魂から何かを表現するときの音楽。まあ魂から表現するということは他のジャンルにも言えるけど、特に黒人音楽のソウル・ミュージックにかんしてはそれがすごくあると思うね。


「あんなに楽しいフェスは経験したことがなかった。だからフェスが嫌いなひとのために、自分でもやってみようと思ったんだ」

 ポルトガルのマデイラ島で開催されている、マデイラディグ実験音楽フェスティヴァルのオーガナイズ・リーダーであるマイケル・ローゼンは、大西洋を見晴らす崖に面したホテルのバーのバルコニーに座っている。雨と汗と泥にまみれた、よくあるフェスの体験からは数百マイルも隔たった雰囲気がそこにはある。というかその雰囲気は、ほかのどんな場所にも似ていないものだ。
 フェスの来場者の大半が滞在する小さな町ポンタ・ド・ソルは、高く深い谷の上に位置している。フェスの運営を取り仕切るメインとなる中継地点であるホテル、エスタラージェン・ダ・ポンタ・ド・ソルはとくに素晴らしく、まるで崖沿いを切りだしたようにして作られていて、海に沿った通りからはただ、崖の岩肌を上に向かってホテルへと至る、すっきりとした作りのコンクリート製のエレヴェーターだけが見えている。

 エスタラージェンでのアフター・パーティーや毎晩行われるライヴはあるが、フェスのメインとなるプログラムは、ホテルから車ですこし移動したところにあるアート・センターで行われる、午後の二つのショーのみである。

 ローゼンは次のように述べている。「毎日たくさんのパフォーマンスが行われるフェスが好きじゃないんだ。テントを張って、雨が降って、人混みに囲まれてっていうやつがね。僕らが借りている会場のキャパは200人くらいで、それがちょうどホテルが受けいれられる上限でもあるから、そのくらいが集客の上限なんだよ」

 フェスは金曜の夜、ポルトガルのサウンド・アーティスト、ルイ・P・アンドラーデ&アイレス[Rui P. Andrade & Aires]によるアンビエント・セットとともに開幕し、アナーキーで混沌としたフィンランドのデュオ、アムネジア・スキャナー[Amnesia Scanner]によるデス・ディスコがそれに続く。マデイラディグのプログラムはみな、多くの人が実験音楽と理解しているものの元にゆるやかに収まる音楽ばかりなわけだが、主催者側がはっきりと意図して普通とは異なったアプローチを見せているこの組みあわせ方によって、2組のアーティストのあいだにある違いが強調されることになっている。


アナ・ダ・シルヴァとフュー

 日曜日の夜は、不気味さや打楽器のような調子や、美しさや激しさのあいだで移り変わっていく自らの演奏から生みだされるループによって音楽を構築する、ポーランドのチェリスト、レジーナ[Resina]の演奏とともに始まる。彼女の演奏は、つねに変化するアニメーションによるコラージュや、戦争の映像、自然や文明や、コミュニケーションやテクノロジーといったものの相互の関係を映しだすヴィデオの上映を背景して行われる。コミュニケーションというテーマは、より遊び心に満ちたものとして、ただ一つのテーブル・ランプに照らしだされた多くの電子機材を前に演奏される、アナ・ダ・シルヴァ[Ana da Silva]とフュー[Phew]による、めまぐるしい展開によって方向感覚を狂わせるようなライヴのなかでも取りあげられている。参加したアーティストのなかで、フェスの開催日に到着したフューはもっとも遠くからやってきている人物だが、その一方でダ・シルヴァは、生まれ育った島に戻ってくるかたちとなっている。2人のアーティストのあいだにあるこのコントラストは、それぞれの言語を使い、ひとつひとつの言葉にたいし、ユニークかつときに不協和音的な解釈を与えている彼女たちのパフォーマンスそのもののなかにも、はっきりとその姿を見せているものだ。演奏のある地点で彼女たちは、曲間のおしゃべりの一部分を取りあげてループさせ、それをパフォーマンスのなかに組みこむことで、ライヴのもつ遊び心に満ちた親密な性格を強調している。

 ローゼンは、そうした彼女たちのライヴを生む根底にある自身の哲学を次のように説明している。「普通では一緒に見ることのないような二組のアーティストに同じ舞台に上がってもらうんだ。まったく異なっているように見えながら、だけど質の部分で繋がっているアーティストにね」

 こうしたアプローチは、ドイツのクラブ「キエツザロン」[Kiezsalon]で彼がオーガナイズしているイヴェントにも見られるもので、マデイラディグについて理解するためには、多少ベルリンのことについて触れておく必要がある。というのも、ローゼン以外のオーガナイザーだけではなく、オーディエンスの大半もその街からやってきているからだ。

 ローゼンはベルリンのシーンを退屈でバラバラなままの状態だと述べている。いわくそこには、すでに存在しているオーディエンスに媚びたありきたりなイヴェントばかりがあり、結果として、シーンやジャンルを分断する区別を強化することになっているのだという。オーストリアを拠点にしたスロバニアのミュージシャンであるマヤ・オソイニク[Maja Osojnik]もやはりこの点を繰りかえし、彼女が暮らしているウィーンも同じように、まれに土着的な「ヴィーナーリート」[Wienerlied]という民謡の一種がジャンルを横断した影響を見せているくらいで、パンクがあり実験的な音楽があるというかたちで、内部での音楽シーンの分断という状況にあると述べている。東京のインディーでアンダーグラウンドなシーンのなかに深くかかわっている人たちもきっと、すぐに同じような状況に思いあたることだろう。


マヤ・オソイニク

 マヤ・オソイニクは、パリを拠点としたカナダのミュージシャンであるエリック・シュノー[Eric Chenaux]による、キャプテン・ビーフハートの経由したニック・ドレイクといった雰囲気のジャズ・フォークの後に続いて、金曜日の夜の最後に出演した。シュノーの演奏が、いったん心地よく美しく伝統的な音楽的発想を取りあげ、それをさまざまなかたちで逸脱させていくことによって特徴づけられるものであるのにたいし、オソイニクの音楽は、不協和音の生みだすことを恐れることなくさまざまな要素を重ねていき、そのすべてが、彼女がときに「ディストピア的な日記」と呼ぶ、音によるひとつの物語をかたちづくるものにしている。全体の雰囲気や演奏に通底する低音やパルス音は、催眠的でインダストリアルな高まりを見せ、オソイニクのヴォーカルは、豊かな抑揚をもった中世の歌曲からポストパンクの熱を帯びた怒りまで、自在に変化していくものとなっている。


エリック・シュノー

 後に彼女と話したさいオソイニクは、同時代の音楽からの影響ももちろんあるが、古典的な音楽教育を受けてきのだという事実を明かしてくれた。一三〇〇年代にフランスのアヴィニオンに捕囚されていた教皇たちのためだけに作曲された、あまり知られていない音楽に興味があるのだと、興奮気味に彼女はいう。自身が受けてきた折衷的で渦を巻くような影響にかんして彼女は、次のように述べている。「いろんな音楽をアカデミックに学んでみた結果、そこには多くの並行性があることに気づいたんです。たしかに規則は違うし、アプローチも違う、根底にある美学も違っていますが、同じ鼓動が感じられるときがあるんです」

 シュノーとオソイニクが共有しているのは、二組のライヴがともにどこかで、人間は複雑で、つねに仲良く議論しているわけではないのだという事実を感じさせるものだという点にある。したがってオーディエンスにたいするメッセージは、オソイニクがいうとおり、「目を覚ますこと。受けとるだけでいるのをやめて、探すことをはじめること」にあるのだといえる。

 マデイラディグは、多くの点で伝統的な音楽フェスと異なるものとなっているわけだが、一方でそれは、参加する者たちのなかに普通とは異なる現実を創造するというその一点において、真の意味で伝統的なフェスティヴァルといえるものとなっている。フェスの初日の時点では、どこか気後れしたような初参加者と毎年参加しているヴェテランのあいだに目に見えるはっきりとした違いがあったが、フェスのオーガナイズの仕方によって、そこにはすぐに、その場にいる人間たちによる共同体の感覚が育まれることとなっていた。イベントの後の食事やエスタラージェン・ダ・ポンタ・ド・ソルでのアフター・パーティーは、交流の機会となり、毎回あるメイン会場への車での移動が、参加者をひとつにすることを促している。日中に辺りの自然のなかや最寄りの大きな町であるファンシャルへ旅することは二重の意味をもっていて、参加者がひとつのグループとして絆を深める機会となっていると同時に、イヴェントの会場でもあるホテルの盛りあがりからの息抜きとしても機能している。

 またマデイラ島は並外れて美しい島であると同時に、不思議なことにどこかで日本に似たところもある場所だといえる。通りに沿ってその島を旅していると、山がちな景色が必然的にトンネルのなかを多く通ることを強いてくるわけだが、気がつけばやがて古い通りに出て、島がその本当の姿を見せてくる。そこには雲を突きぬけ緑で覆われた、ぐっと力強く迫りだしている火山の多い地形があり、谷に沿って並ぶ家々や急な勾配に沿った畑があり、浅くコンクリートで舗装されれ、海まで続く川が見られる。海を見張らしながら、古い時代の商人たちが登った道のひとつを登っていたとき、ポルトガルの現地スタッフのひとりが、「この景色を見るためには、ここまで登ってこなきゃいけないんですよ」と述べていた。

 美しさを見いだすためには努力が必要だというこの発想は、風景についてだけではなく、音楽についても当てはまるものだろう。フェスの最終日は、カナダのアーティストであるジェシカ・モス[Jessica Moss]による繊細で複雑なヴァイオリンの演奏とともに始まる。彼女はマデイラディグに参加する多くのアーティスト同様、ループによってレイヤーを生みだし、自らの音楽のなかにテクスチャーとパターン(そしてパターン内部におけるパターン)を作りだしている。その後に続くのは、デンマークのデュオであるダミアン・ドゥブロヴニク[Damien Dubrovnik]によるハーシュ・ノイズの荒々しい音である。彼らはまるでモルモン教徒の制服のモデルのような出で立ちでステージに上がり、会場を音による恐怖で連打していく。


ダミアン・ドゥブロヴニク

 マデイラディグは間違いなく、オーディエンスにたいし、このフェスがステージ上で生みだそうとする美のために協力するように求めているのだといえるが、一般的にいって実験音楽にかんするイヴェントや、とくに遠方からの参加を前提とした特殊なフェスには、参加を阻む誤った種類の障害を設けてしまうという危険性が存在しているものである。すぐに思い当たることだが、日本で行われる同様のイベントは、全員ではないにしろ、多くの熱心なファンには厳しい金額が参加費として設定されているし、結果としてそのことが、音楽シーンの断片化を助長し、多くの地方都市における文化の空洞化に繋がることとなってしまっている。
 マデイラディグの参加費は目をみはるほど安い(チケットの料金は4日間で8000円ほどであり、ホテルの価格も納得のいく範囲に維持されている)。だがいずれにしてもそれは、もっぱら市場の情けによって生き残っているだけであるヨーロッパのアートを手助けしている、ファウンディング・モデルなしには機能しなかったものだといえるだろう。ローゼンはこうした状況を自覚したうえで、それでもやはり、難解で聞きなれないような音楽を集めるイヴェントは、可能なかぎりアクセスしやすいものではくてはならないという点にこだわる。

 「音楽にかかわりのないような人にも届いてほしいと思っているんだ」。「ホテルの予約間違い」でフェスを知り、結果として、いまでは毎年参加しているベルギーのカップルの話をしながら、ローゼンはそんなふうにいう。

 「文化を近づきやすいものにしたい。これは音楽だけじゃなく、文学でも哲学でも何でもそうであるべきだと思う。誰もが参加できるファンドによるフェス、政府から資金を引きだすフェスというかたちで、僕はそれを立証しているんだよ」

https://digitalinberlin.eu/program2018/

Madeiradig experimental music festival
November 30 (Fri) to December 3 (Mon)

by Ian F. Martin

“I've never been a fan of festivals, so I wanted to make one for people who don't like festivals.”

Michael Rosen, the lead organiser of the Madeiradig experimental music festival on the Portuguese island of Madeira, is sitting on the balcony of a hotel bar, situated on a cliffside overlooking the Atlantic Ocean. It feels a million miles from a typical festival experience, drenched in a cocktail of rain, sweat and mud. It feels a million miles from anywhere.

The village of Ponta do Sol, where most of the festival guests stay, nestles in the mouth of a tall, deep valley. The main organisational hub of the festival's activities, the hotel Estalagem da Ponta do Sol, is a particularly striking, looking almost as if it has been carved out of the cliffsides, visible from the road only by the thin, concrete elevator shaft that rises skywards out of the rock towards the hotel proper.

The main festival programme is limited to two shows an evening, held at an arts centre a short coach ride away, while the Estalagem hosts after-parties with DJs and live acts into the morning every night.

“I don't like festivals where there are lots of performances every day – all the tents, rain, crowds,” explains Rosen, “The capacity of the auditorium we use is about 200 people, which is also all the hotels in Ponta do Sol can accommodate, so that’s the audience limit.”

The opening Friday night of the festival opens with a spacious, ambient set by Portuguese sound artists Rui P. Andrade & Aires, which is followed by the anarchic, chaotic death disco of Finnish duo Amnesia Scanner. While Madeiradig’s programme all falls loosely under what most people would understand as experimental music, it’s clear through the choices of pairings that the organisers are keen to see different approaches rub up against each other.

Saturday night opens with Polish cellist Resina, whose music builds around loops that draw from her instrument sounds variously eerie, percussive, beautiful and harsh. Set against this are video projections featuring an ever-shifting collage of animations and images exploring subjects such as war and the relationship between nature, civilisation, communication and technology. The theme of communication recurs more playfully in the lively and disorientating set by Ana da Silva and Phew, performing behind masses of electronic equipment and lit intimately by a single table lamp. Of all the artists at the festival, Phew has travelled by far the furthest to be there, having arrived from Japan on the first day, while da Silva is revisiting the island where she was born. This contrast between the two performers informs the performance, with each member delivering their vocals in the other’s language, adding their own unique and sometimes dissonant takes on the words. At one point, they pick up and loop what seem to be snatches of inter-song backchat and integrate that into the performance, reiterating the playful and intimate nature of the set.

Rosen explains his philosophy as being based on, “Placing two artists on the same stage who you wouldn’t normally see together. Artists who are connected in terms of quality, but nonetheless quite different.”

It's an approach that he follows with the “Kiezsalon” events he organises in Berlin as well, and in understanding Madeiradig, we really need to talk a bit about Berlin, since that's where not only othe organisers but the vast majority of the audience come from.

Rosen describes the scene in Berlin as boring and fragmented, with events typically pandering to existing audiences, in the process reinforcing the divisions that separate scenes and genres. Austrian-based Slovenian musician Maja Osojnik echoes the point, saying that her adopted hometown of Vienna suffers from similar internal divisions in the music scene, with punk, experimental and the unique local “Wienerlied” folk style rarely interacting. Anyone who has spent much time immersed in the Tokyo indie and underground music scene will find their complaints immediately familiar.

Maya Osojnik closed Sunday night after the rhythmically dislocated Nick Drake-via-Captain Beefheart jazz-folk of Paris-based Canadian musician Eric Chenaux. While Chenaux’ set was characterised by the way he would take conventionally pretty or beautiful musical ideas and then investigate multiply ways of knocking them off centre, Osojni's music layers element over element, not shying away from dissonance, but bringing them all together in the service of a single sonic narrative – what she sometimes calles a “dystopic diary”. Tones, drones and pulses build up to a hypnotic, industrial crescendo, Osojnik’s vocals ranging from richly intoned, almost medieval sounding singing to haranguing postpunk rage.

Speaking to her later, she reveals that, despite her more contemporary influences, she was classically trained and she talks excitedly about her interest in obscure music composed only for the exiled popes of the French town of Avignon in the 1300s. She explains her music's eclectic swirl of influences, saying, “Studying all this music academically made me realise that there were many parallels. There are different rules, different approaches, different aesthetics, but you can find the same heartbeat.”

Where Chenaux and Osojnik are perhaps similar is that their sets both feel in some way like people having complex and not always friendly discussions with themselves. The challenge to the audience is, as Osojnik puts it, “To wake up. To stop receiving and start seeking.”

Despite the many ways Madeiradig diverges from a traditional music festival, one way it is a traditional festival in a very real sense is in the way it creates a kind of alternate reality around its attendees. On the first day, there is a visible division between the rather intimidated-looking first-timers and the veterans who return every year, but the way the festival is organised very quickly fosters a sense of community among those present. Post-event food and after-party entertainment at the Estalagem da Ponta do Sol give us opportunities to interact, while the ritual of the coach trip to the main venue regularly hustles everyone together. During the daytime, trips into the countryside and the main town of Funchal served the dual purpose of giving us chance to bond as a group and at the same time breaking us out of the hotel-venue bubble.

And it has to be said that Madeira is an extraordinarily beautiful island, but also one in some ways strangely reminiscent of Japan. Travelling around it by road, the mountainous landscape means that you spend a lot of your time in tunnels, but finally finding our way out onto the old roads, the island’s real form revealed itself, the volcanic topography thrusting aggressively skyward, piercing the clouds, swaddled in thick vegetation, houses clinging to valleysides and farmland carved out of steep slopes, shallow, concrete-lined rivers racing seaward. Hiking along one of the crumbling ancient merchants’ roads, overlooking the ocean, one of the local Portuguese staff remarked that, “To get this beauty, you have to work for it.”

The idea that to find beauty requires effort feels just as appropriate to music as it does to a landscape. The closing night of the festival opens with the fragile, fractal violin of Canadian artist Jessica Moss, who, like many artists at Madeiradig uses loops to build layers, textures and patterns (and patterns within patterns) in her music. She is followed by a raw blast of harsh noise, delivered by Danish duo Damien Dubrovnik, who stalk the stage like models from a Mormon menswear catalogue, pummeling the theatre with sonic terror.

While Madeiradig undoubtedly wants its audience to work for the beauty it gives a stage to, there is always a danger with experimental music events in general, and exotic “destination festivals” in particular, that they put up the wrong kinds of barriers to participation. It's easy to imagine a similar event in Japan being priced far out of the ability of any but the most dedicated fans to access, and that in turn feeds the fragmentation of the music scene and contributes to the cultural hollowing-out of much of rural Japan.

Madeiradig is remarkably cheap (a festival ticket costs about ¥8,000 for four days, and the hotels are also kept very reasonable) and I don't think it's unfair to say that it would never be able to function without the arts funding model that ensures European arts aren't left solely at the mercy of the market. Rosen is aware of this situation, and adamant that an event offering difficult or unusual music needs to be as accessible as possible.

“I want to reach people who have nothing to do with music,” he explains, recounting the story of a couple from Belgium who discovered the festival because of “a booking mistake” and ended up returning every year.

“I want to make culture accessible, and this should be true not just for music but also literature, philosophy, anything,” he continues, “I make a point that at a funded festival – one that’s getting money from the government – anyone should be able to go.”

Bendik Giske - ele-king

 サックスはもっとも人の声に近い楽器である。そんな話をどこかで聞いたことがある。著名なジャズ・ミュージシャンの発言だったか、身近な知り合いとの雑談だったかは忘れてしまったけれど、その後もちょくちょく耳に入ってくる話だったから、きっと一般的にもそう言われることが多いんだろう。ただ個人的にはこれまで、サックスの奏でるサウンドが人声のように聞こえたことは一度もなかった。あるいは聞こえたとしても、あくまで他の楽器にも置き換えられる、比喩のレヴェルにおいてだったというか。
 コリン・ステットソン以降というべきか、ラヴ・テーマことアレックス・チャン・ハンタイ以降というべきか、近年どうにもサックスとミニマリズム、サックスとアンビエントという組み合わせに惹きつけられてしかたがない。もし仮にサックスがほんとうに人の声に近い楽器なのだとすれば、ミニマル~アンビエントの文脈に落とし込まれたそれが、いま強くこちらの耳を刺戟してくるのはなぜなんだろう。

 昨秋リリースされたシングル「Adjust」(リミキサーにはトータル・フリーダムロティック、デスプロッド、レゼットの4組を起用)で注目を集めたオスロ出身ベルリン在住のサックス奏者、ベンディク・ギスケのファースト・アルバムがおもしろい。自らを「クイア・パフォーマンス・アーティスト」と規定する彼は、ゲイ・カルチャーに関連した「surrender(すべてを与える=身を委ねる)」という行為をテーマに今回のアルバムを練り上げている。いわく、その行為は世界といかに関わるかについて、それまでとは異なる見方を提供してくれるものなのだという。
 このアルバムの制作にあたりギスケとプロデューサーのアマンド・ウルヴェスタは、マイクの設置のしかたをあれこれ工夫し、音符と音符のあいだに侵入する吐息の録音方法を新たに考え出したそうだ。その技術が他の音にたいしても応用されているのか、サックスのキイを叩く指の音だったり、中盤の“Stall”や“Hole”におけるノイズのように、微細な具体音の数々がさまざまなかたちでこのアルバムを彩っていて、ミュジーク・コンクレートとしてもじゅうぶん聴き応えのある仕上がりなのだけど、まさにそれらのノイズに寄り添いながらサックスと人声とが絡み合っていく点にこそ本作の肝がある。件のシングル曲“Adjust”やそれに続く“Up”、あるいは終盤の“Through”や“High”ではサックスが惜しみなくミニマルなフレーズを吐き出す一方、背後では意味を剥奪された人声がひっそりと唸りをあげているが、それらが絶妙に重なり合っていく様に耳を傾けていると、なるほど、サックスが人の声に近いという所感は、両者をともにノイズとして捉え返したときにこそはじめて浮かび上がってくる、オルタナティヴな聴取の可能性なのだということに思い至る。

 アンビエントの文脈におけるサックスと声の活用という点にかんしていえば、ギスケの「Adjust」とおなじ頃にリリースされたジョセフ・シャバソンのアルバム『Anne』にもところどころ惹きつけられる箇所があったのだけれど(たとえばサックスと人の声と鳥の声とその他のノイズが必死にせめぎ合う“Fred And Lil”など)、サックスがふつうに叙情的な旋律を奏でているせいか、はたまた「パーキンソン病を患った母」というテーマのためか、全体としてはセンチメンタルな要素が強く出すぎている感があった。ひるがえってギスケのアルバムには余計なものがいっさい含まれていない。シンプルに音の尖鋭化を突き詰めているという点でも出色の出来だと思う(もしかしたらそれが音に「サレンダー」するということなのかも)。
 では、なぜいまそのような試みが新鮮に響くのか? それはたぶんギスケの音楽が時代にたいする無意識的な応答になっているからだろう。たとえばオートチューンに代表される変声技術の流行は、地声とはまたべつの角度から声なるものを特権化しているとも考えられるわけで、となればギスケのこのアルバムはそれにたいするすぐれた批評としてとらえることもできる……とまあそんなふうに、耳だけでなく思考まで刺戟してくれるところもまた本作の魅力のひとつなのである。

King Midas Sound - ele-king

 2019年はダブに脚光があたりそうだ。昨年はミス・レッドのアルバムをサポートしたザ・バグとMCのロジャー・ロビソンによるキング・ミダス・サウンドが2月14日に新作を出す。フェネスとのコラボ作品『エディション1』以来の4年ぶりのアルバムだ。
 サウンドクラウドにはアルバムの冒頭の曲“You Disappear'”がすでにアップされている。「おまえは消える、おまえは消える、おまえは消える、おまえは……」、ほんとうに消えてしまいそうな、ウェイトレス・ダブ? などと思わず口走ってしまうわけだが、ウェイトレス・グライムの流れともリンクする濃厚なダブ・サウンドである。

 アルバムのタイトルは『Solitude(孤独でいること)』。
 かなり期待できる内容になりそうだ。


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