「You me」と一致するもの

interview with Francesco Tristano - ele-king

バッハは生涯一度もドイツから出たことがなくてね。110パーセント、ドイツ人ってひとで。ところが彼は世界じゅうの音楽を知っていた。イタリア音楽にも、イギリス音楽にも非常に興味を抱いていた。あの頃からもう、音楽は国境を越えていた、ということ。

 デリック・メイカール・クレイグとのコラボで知られるピアニスト、フランチェスコ・トリスターノ。2017年にはグレン・グールド生誕85周年を祝うコンサートに坂本龍一アルヴァ・ノトフェネスらとともに出演(翌年ライヴ盤としてリリース)、エレクトロニック・ミュージックとの接点を有する稀有なクラシック音楽家だ。その大きな特徴は感情を揺さぶるメロディと、クラブ・ミュージックのような躍動感あふれる鍵盤叩き・指使いにある。
 新作のテーマは古楽。ざっくり言えばバロック以前、中世やルネサンスの西洋音楽を指す用語だ。しかし解釈は一様ではなく、バロックを含めるケースもあるらしい。今回トリスターノがとりあげているのはピーター・フィリップス(1560頃~1628)、ジョン・ブル(1562頃~1628)、オーランド・ギボンズ(1583~1625)、ジローラモ・フレスコバルディ(1583~1643)といった、ちょうどルネサンスからバロックへの移行期(16世紀終わり頃から17世紀初頭)に活躍した作曲家たちである。フレスコバルディ以外はブリテン島の出身だが、当時の西洋ハイ・カルチャーの中心のひとつはフランドル(現在のオランダ、ベルギー、フランスにまたがる地域)だったため、ギボンズ以外はみな当地と深い縁を持っている(イギリス版チェンバロにあたるヴァージナルの音楽を手がけている点も共通)。
 まあなんにせよ、一般的な西洋クラシック音楽のイメージを特徴づけている狭義の調性(ハ長調とかニ短調とか)がはじまったのはバロックからなので、いわばその黎明期に活躍したひとたちと言えよう。その後クラシック音楽は長い調性の時代を経て無調へと至り、さらにはテープの切り貼りや極小単位の反復(調性の復活)、偶然性の導入など数々の前衛的試み・実験を繰り広げてきた。それら20世紀後半の「前進」を経て、いま古楽に向き合うことはなにを意味するのか?
 情感豊かな自身のオリジナル曲のあいまに、古楽や古楽を独自にアレンジした曲を織り交ぜつつ、他方でエフェクトも多用した『On Early Music』は、もしかしたらその答えのひとつなのかもしれない。今日的な引用精神? 失われた過去の復権? いやいや、パンデミックで移動が困難になった現代、鍵はどうやら「越境」にあったようだ。

原曲はヴィヴァルディだけれども、バッハはそうだとすら言わなかった。過去の時代がコピーレフトだったとしたら、現在の我々はコピーライトの時代を生きている。何もかも守られているし、ぼくたちはさらなる境界線を引いているわけ──知的財産権、ソフトウェアの知的所有権等々、いまやなんだってそうだ。で、ぼくはそれには反対でね。

お住まいはいまもバルセロナですか?

フランチェスコ・トリスターノ(以下FT):バルセロナとルクセンブルクを往復する状態だね。だから正直、いまの自分がどこに暮らしているのか、我ながらよくわからなくなってる(苦笑)。それに、ぼくは頭のなかでは常にどこか他のところにいるしね……。というわけで、いま取材を受けているのはルクセンブルクからとはいえ、ご覧の通り(と、ZOOM画面の背景に使われていた世界地図を振り返って)全世界が背後に広がっているわけで、ぼくはいたるところにいるし、と同時にどこにもいないんだ(笑)。

ルクセンブルク、あるいはスペインのコロナはどのような状況なのでしょうか? 人びとは自由に動け、買い物などは普通にできるのか、音楽イベントは開催されているのか、ロックダウンはあるのか、など教えてください。

FT:ああ、現時点で移動/外出規制はないね。バルセロナ、ルクセンブルク両国で規制はないけれども、唯一、いまも起きるのは──ぼくの子どもたちはまだ学童でね──学校で感染者が出たら、生徒は一定期間自主隔離することになる。感染例の数次第だけれども、2週間前に我が家も10日間、自宅で過ごした。学校で感染者が出たからね。でもまあ、ぼくたちもこの状況に慣れつつある──というか(苦笑)、世界のいまの働き方/動き方、そこにもうすっかり慣れっこになっているし。ただ、今回は欧州内での移動はそれほど規制が厳しくないから、そこはいい点だね、自由に動ける。

坂本(以下、□):音楽イベント、コンサート/リサイタルの開催状況はいかがでしょう? お客を入れて演奏はできるんですか?

FT:ああ、その土地次第で可能だよ。国ごとに状況は異なるわけだし、というかおなじ国でも、各地方によってちがう。たとえばドイツで言えば、エッセンといったドイツ北部は問題なしでも、バヴァリア(=バイエルン)地方のドイツ南部はたしか25パーセントしか観客を入れないといった具合だし、本当にどこにいるかに依る。スペインとルクセンブルクのカルチャーへの対応はこれまで非常によかったね、というのもスペインは、クラシック音楽とエレクトロニック音楽、そのどちらの会場も最初に再開許可した国のひとつだったから。たしか現時点では、エレクトロニック・ミュージックのイベントに関してはまだ規制があって、クラブやフェスの運営はむずかしいけれども、そちらもじきにノーマルな状態に戻るだろう、そう思っている。

今回の新作のきっかけになったのは日の出の時間帯の独特の「エネルギー」とのことですが、早朝ランニングはいまも続けているのでしょうか?

FT:(笑)ああ、もちろん! 日の出の「マジック・アワー」はランニングに最適な時間帯だ。たとえば今日は──いまはルクセンブルクにいるから、いつもと気候がちがってね。かなり冷えるし、雨も多い。でも、今朝は朝5時に家を出たから、あたりはまだ真っ暗な頃合いで、小さなフラッシュライトを携帯して林の中を走った。で、非常にエキサイティングな瞬間に出くわしてね──というのもたまに野生動物を見かけるんだ、シカだの、コウモリだの……。

(笑)いいですね!

FT:でも、今朝出くわしたもっとも美しいアート、それは鳥たちのさえずりを耳にしたことだった。いまは日の出の時刻も少し早まったとはいえ、少し前まで、本当にまだ朝が暗くてね、というのもルクセンブルクはかなり北、北緯49度に位置するから(訳註:北海道よりやや緯度が高い)。っていうか、きみ(通訳)はロンドンにいるから、それ以上に北だよね……。ともあれ、こちらは冬は朝8時頃まで明るくならないんだ、最近は8時より少し前に明るくなるようになったけれども。というわけで、いまの時期に早朝ランニングに出かけると、完全に真っ暗なんだ。日の出を目指して普段ぼくが走っているバルセロナに較べると、はるかに暗い。ところが今朝は、鳥たちのさえずりが聞こえたし、あれは素晴らしかった。ファンタスティックだった。

ロンドンでも、「夜明けのさえずり(dawn chorus)」は聞こえます。黒ツグミ、スズメ等々、きれいな歌ですよね。私も大好きです。

FT:うんうん。

ネオ・クラシカルは単純に間違い、用語として誤りだから。ネオ・クラシカルは20世紀の非常に明確な一時期を指すものであって、ストラヴィンスキー、プーランク、プロコフィエフといった作曲家たちが、クラシック期、すなわちハイドンやモーツァルトの時代にインスパイアされて音楽を書いた時期を意味する。

素人から見ると、クラシック音楽といえばイタリアか、バッハ以降はドイツ/オーストリアが中心に見えます。今回取り上げられているのは、ジローラモ・フレスコバルディを除けばみなイギリスの作曲家です。当時の「辺境」とまで言うと語弊があるかもしれませんが、16世紀頃のあまり知られていないイギリスの古楽にフォーカスした理由は?

FT:なるほど。まあ、ご指摘の通りだよ。クラシック音楽について語るとき、我々には大抵、イギリスの作曲家たちのレパートリーは思い浮かばない。けれども、イギリスのレパートリー/イギリス人コンポーザーというのは、非常に重要な存在なんだ。あの、後期ルネサンスの時代には、音楽世界の中心はイギリス、そしてベルギーとオランダにあったし、あれらのエリアから実に多くのクリエイティヴィティが発信されていた。あの当時、マスターに修行入りし学ぶべく、たくさんの人びとが目指した地もあそこだった。で、ときが流れ、現在ぼくたちはああした音楽とはあまり繫がっていない。というのも、さっききみが言ったように、クラシック音楽界にはドイツ、そしてイタリアに、フランスのものも多いと思うけれど、こうしたイギリスや欧州の北部──いわゆる Low Lands(訳註:低地。Low Countries とも呼ばれるネーデルラント地域の意。現在のベネルクス三国に当たるエリア)、オランダやベルギー産のものはあまり多くない。ああ、たぶん、そこにフランス北部も足していいかもしれない。ところが、これらの音楽は今回の作品に本当に大きな存在であり、ぼくがフォーカスをすべて当てた対象だったし、だからもちろんアルバムにフィーチャーされることになるだろう、と。ただ、ぼくにとってイタリア音楽は避けて通ることができなくてね。もちろんぼくはイタリア系だし、子どもの頃はイタリア人の祖母と暮らしていたし。ああ、それに、イギリス人作曲家の何人かも、イタリア名を名乗ったことがあったんだよ。イタリア人であることは当時それだけめちゃクールだったし、あるいは少なくとも「イタリア風の名前」であるのはかっこいいとされた。

(笑)

FT:いや、だからなんだよ! 本当の話で、たとえばピーター・フィリップスは、「ペトロ・フィリッピ(Petro Philippi)」を自称したしね。実際、ぼくが彼のスコアに出くわしたときも、「へえ、ペトロ・フィリッピっていうのか。イタリア人らしいな、どんな音楽だろう?」と思って少しリサーチしてみたところ、「このひと、イギリス人じゃないか!」と。

(笑)

FT:本名はピーター・フィリップスだった、と(笑)。そんなわけで、その点を指摘するのは本当に興味ぶかいことだと思う──ということは、当時の音楽的なクリエイティヴィティの中心地で生まれ、これらの素晴らしい音楽(いわゆるヴァージナル音楽)を書いていた彼らですら、「イタリアはイケてる。いちばんかっこいい」と考えていた、ということだからね。だからなんだ、このアルバムの文脈にイギリス人作曲家だけではなく、イタリア音楽も少し含めるのは面白いだろう、と思ったのは。いつも思うからね、ある意味ぼくたちはみんなイタリア人というか、イタリア系はみんなの中にちょっと混じっている、と(笑)。たとえばアルゼンチンに行くと、イタリア系が多いから(訳註:人種のるつぼであるアルゼンチンの人口は植民地時代の名残りでスペイン/イタリア系が多く、その6割近くに何らかの形でイタリア系が混じっているとされる)。

オーランド・ギボンズの曲は、『Glenn Gould Gathering』(2018)でも演奏していましたね。今回もそのときとおなじ曲を演奏しています。グールドもギボンズを好んでいたようですが、あなたがギボンズに惹かれる理由は?

FT:これらのピース、古楽は本当に、音楽全般に関して言って、自分にとっての初恋の相手のひとつだったからね。出会いは小さかった子ども時代にまでさかのぼるし、古楽(early music)・早朝の日の出(early sunrise)・幼少期(early childhood)と、実際、しっかり繫がっているんだ。で、これらのオーランド・ギボンズの作品をぼくはずーっと演奏してきたし、文字通り、ニューヨークに移った1998年頃、当時16歳だったけれども、あの頃からもうプレイしてきたくらいだった。いま言われた通り、たしかに坂本龍一の「Glenn Gould Gathering」(訳註:坂本龍一キュレーションによるグレン・グールド生誕85周年記念イベント)でも演奏して、あのコンサートはライヴ・アルバムとして発表されることになった。けれども、ぼくはずっと、自分自身のスタジオ・ヴァージョンを録音したい、そう思ってきたんだ。というのも、あれは本当に、非常に長い間ぼくのそばに付き添ってきた作品だし、ただ、これまできちんとしたスタジオ録音をする機会がなかった。ライヴで演奏したことはあるし、その実況録音は発表されているけれども、スタジオ録音ではない。プロダクションという意味で、今回はまったく別物なんだ。

私は未聴なのですが、あなたはフレスコバルディも2007年のアルバムで取り上げていたようですね。バッハは彼の「音楽の華(Fiori musicali / Musical Flowers)」で対位法を学んだそうですが、フレスコバルディの成し遂げたこととはなんだったのでしょうか?

FT:それはとても興味ぶかい質問だね。というのも、フレスコバルディは──フレスコバルディは何よりまず、ぼくの最愛のコンポーザーのひとりである、と。彼のことは本当に、もっとも驚かされる、もっとも素晴らしい作曲家だと思っているし、作品の今日性と興味深さを維持するための、実に驚異的なトリックをいくつも知っていたひとだった。で、そこには連続性があるんだ。というのも──そういえば、バッハは、生涯一度もドイツから出たことがなくてね。それくらい骨の髄までドイツ人、と。

(笑)

FT:(笑)。110パーセント、ドイツ人ってひとで、生涯ドイツで暮らした。ところが、彼は世界じゅうの音楽を知っていた。イタリア音楽にも、イギリス音楽にも非常に興味を抱いていたし、だから彼は “イタリア協奏曲” やジーグ(を含む “イギリス組曲” など)といった、ドイツ原産ではないさまざまな舞曲を作ったわけ。で、バッハはとりわけフローベルガー(ヨハン・ヤーコプ・フローベルガー/Johann Jakob Froberger)の音楽に興味があってね。フローベルガーは作曲家で、ぼくの知る限り音楽的な神童で、フレスコバルディの門下生だった。だからこの、鍵盤楽器向けにどう作曲すればいいか、というスタイル面での連続性が存在するんだ。そのスタイルはときにスティルス・ファンタスティクス(訳註:stylus fantasticus。初期バロック音楽のスタイルのひとつ)とも形容されるけれども、実にクレイジーで装飾的なキーボード奏法というかな。鍵盤楽器は鍵盤を押しさえすればすごい速弾きができるし、達人奏法をやれる、と。あれは間違いなく、ぼくがフレスコバルディ経由でフローベルガーからヒントを得たところだったし、それより後の世代で言えばJ・S・バッハからもヒントを得た。こうしたことは本当に重要なんだ、音楽に国境はないと気づかせてくれるから。生涯母国から出たことのなかったバッハにも国境はなかったんだ、彼はイタリア風のスタイルで作曲していたんだしね。だからあの頃からもう、音楽は国境を越えていた、ということ。これは興味ぶかいことで──というのも、言うまでもなく日本には現在入国規制があって(訳註:取材時の2月上旬)、アーティスト本人は行くことができない。けれども、アートは渡っていけるし、音楽も自由に旅ができる。音楽は日本のひとたちにもシェアしてもらえるわけだし、この点はワンダフルだ。ぼく自身はいま、日本に行くことは許されない。けれども、ぼくの音楽が、願わくは日本の人びとのソウルに触れてくれればいいな、と。音楽はボーダーという概念を持たないし、ぼくたちにも国境/境界線はない。音楽は常に、国と国の間にまたがる境界線、それを越えて広がっていくものだから。

おっしゃる通りです。それは、音楽のジャンルにしてもおなじことかと思います。クラシック音楽、モダンなポップやロック音楽、ヒップホップにジャズ……いろいろとありますが、どれも要は、大きなひとつの「音楽」と呼ばれるものなわけで。

FT:その通り! うんうん。だからたぶん、国境であれなんであれ、固定したボーダーはない、ということ。ぼくのように、非常にコンテンポラリーな響きの古楽のレコードだって作れるわけだし──だから、関係ないっていうこと。

(笑)ですね。そんなあなたはある意味、密輸業者のいい例かもしれません。

FT:ハハハッ!

(笑)色んな音楽を密輸入/出するひと、というか。

FT:(笑)なるほど、密輸品ね。うん、それはいい。

[[SplitPage]]

古楽はしばしば、本当に古めかしい、非常に難解で奇妙な、一種のオタク音楽として扱われる。ぼくにとって課題はその逆なんだ。いかにして古楽を若い人びとにとってセクシーなものにできるだろう? ということ。

ジョン・ブルもオーランド・ギボンズもおもに、パイプオルガンを用いる教会音楽か、あるいはイギリス版チェンバロであるヴァージナルを用いた世俗的な音楽(ヴァージナル音楽)の作曲家でした。今回、当時は存在しなかったピアノで演奏しており、またエレクトロニックな処理も為されています。もし、時代考証に基づいて当時の演奏形態を再現することを重視する古楽演奏家からクレームが来たら、なんと答えますか?

FT:ああ、もちろん。そうした「純粋主義者」がいることも、ある意味大切だとぼくは思っている。彼らは伝統を守っているからだし……まあ、それが音楽のピュアさを維持しているかどうか、そこは自分にはわからないけれども……。

「ピュアさ」がそもそも存在しないわけですしね。

FT:だから、そもそもあの当時の録音音源は残っていないんだし。時代考証を重視する純粋主義者たちがレコーディングした作品にしたって、果たしてそれがどこまで「当時」のままなのか、忠実なのかは、知りようがないわけで……。ほんと、ぼくたちにはわからないからね。ここで話しているのはいまから何百年も前の音楽のことだし、音源も動画も残っちゃいないから。でも、そうした批評に自分がどう答えるか? と言えば──ぼくは反応しない。クレームや批評には応対しない。ぼくは誰かに対して「思い知らせてやる」って思いや、あるいは自分の正当性を求めて音楽をやっているわけじゃないから。というか、向こうに興味があるならお互いのアイディアを論じ合うことだってできるし、そうやってどの要素が彼らを動揺させるのか、突き止めることだってできる。自分がレパートリーを不当に扱っているとは思わないし、というかその逆で、自分はレパートリーに奉仕していると思う。だから、バッハにしても──彼は他のコンポーザーの音楽を元に、それらの彼自身のヴァージョンをやったことがあった。たとえば彼のピアノ協奏曲のいくつかは、原曲はヴィヴァルディだけれども、それを異なる楽器向けに編曲したものだしね(訳註:ヴァイオリンとチェロのコンチェルトをピアノ/オルガン向けにアレンジ)。けれどもバッハはそうだとすら言わなかったし、「ヴィヴァルディから借りてきた主題」とすら明かさずに、単に “協奏曲第2番/作:ヨハン・セバスチャン・バッハ” としか書かなかった。いまや、ぼくたちはこうしたことからずいぶん隔たった地点にいるし、過去の時代がコピーレフトだったとしたら、現在の我々はコピーライトの時代を生きている(訳註:コピーレフトは、著作権は守りつつ、その二次利用や改作等を制限しないという考え方。コンピュータ・プログラムのソースコードから派生した発想)。何もかも守られているし、ぼくたちはさらなる境界線を引いているわけ──知的財産権、ソフトウェアの知的所有権等々、いまやなんだってそうだ。で、ぼくはそれには反対でね。さっきも話したように、音楽は境界線知らずだと思うし……もちろん、存命中のアーティストの音楽をサンプリング音源として無断使用する、それは問題だ。そこは明解にすべきだと思う。事実、ぼく自身、その点は非常にクリアにしているし──たとえぼくの利用する、あるいは借りてくる音楽の作家、彼らはとっくの昔に、何世紀も前に亡くなっていても。そうであっても、ぼくは “フランチェスコ・トリスターノのガリヤルド” ではなく、“ジョン・ブルのニ調のガリヤルドによって” と呼ぶ。ぼくはたしかにその音楽を用いているけれども、と同時にぼくはそこに揚力を与え、アップデートしてもいる。そうやって、古いものに文脈を作り出しているんだ。それはとても大事なことだと思う……これはレパートリーの別の活用法だ、ということであって、ぼくにはすぐに物事を「ダメだ」と決めつけるような批判的なところは一切ない。だから人びとに対しても、了見が狭いノリで批判しないことを期待する。それは、ぼくが音楽に対して自由に接しているからだし、もちろん、音楽は自由。音楽は、いったん楽譜に残されてしまえば、「どういう響きになるか?」なんて気にしないからね。というか、これらの作曲家たちは、自分の書いた作品が500年後も演奏されているなんて、考えすらしなかっただろうな。そんなわけで、うん、ぼくは今回取り上げた音楽で非常に自由にやらせてもらったし──もちろん、人びとにぼくの考え方に同意してもらうよう、彼らに強制するのは無理な話だし、中にはこの作品に多くの批判点を見出すひともいくらか出てくるのかもしれないよ? だけど、それはオーケイ、構わないんだ。自分の音楽の作り方は正しい、と証明する必要はぼくにはないと思っているし、そうした批判にわざわざ答えなくていいと思う。

新作のテーマはタイトルどおり古楽ですが、ご自身作曲の5曲は、現代的な情緒を表現しているように感じ、古楽的ではないように聞こえました(とくに8曲め “リトルネッロ” と14曲め “第2チャッコーナ”)。むしろ、ご自身の曲のあいまに、思い出のように古楽が挟まれている、という印象です。このような構成にしたのはなぜ?

FT:なるほど。今回のアルバムの取り組みで、ぼくは三つの異なる音楽制作の手順を踏んだ。ひとつは、古楽を相手に、書かれたままの100パーセントの形で演奏し、何も足さず何も引かず、忠実に演奏する、というもの。ふたつめは、古楽作品を用いて、そこから別の何かをリクリエイトする──ただし、原材料におなじものを使って。それに当たるのが “クリストバル・デ・モラレスの「死の悲しみが私を取り囲み」によって” や、“ジョン・ブルのニ調のガリヤルドによって”、“ジローラモ・フレスコバルディの4つのクーラントによって” になるし、これらの楽曲では異なるスタジオ技術を使い、様々な要素も足し引きし、もっとこう、「リミックスした」というのに近いと思う。三つめは、ぼく自身のコンポジション。そのすべてで古楽からインスピレーションを受けているし、中には非常に明確な「これ」という場合もある──ごく短い、ちょっとした要素だけれどね、ベース・ラインや、とある和音面のカデンス、あるいはリズムということだってある。たとえばチャッコーナは、音楽を回転させていくリズムのことだ。というわけで、これら三つの手順が『On Early Music』のトラック・リストを構成しているわけだけれども、聴いたひとの何人かからこんなことを言われたんだ──「何がすごいって、どれがきみの曲で、どれが古楽で、どれが新しい響きを持つものの昔の音楽なのか、わからなくなるところだ」ってね。すべて混じり合っていて、混乱してしまう、と。で、ぼくは言ったんだ、「それこそまさに重要なところ。このアルバムのポイントがそれなんだ」と。境界ははっきりしていない、というのかな? だって、境界線は存在しないから。これは一部に新しい音楽、ぼくの音楽も含まれる、古楽のアルバムだ。けれども本当のところ、これはぼくの音楽であって、ぼくの音楽の作り方。だから今回の音楽では、古楽を演奏するのであれ、古い音楽にインスパイアされた音楽を自分で新たに書くのであれ、古楽をベースにそれをリミックスする/自己流のコンテンポラリーなヴァージョンを作るのであれ、非常に自由にやったね。

ご自身のピアノにエレクトロニクスを合わせるとき、もっとも注意を払っていること、または苦労していることはなんですか?

FT:そうだなぁ……そんなにむずかしくはないんだよ。だから、ぼくにとってはそれらもすべて原材料みたいなものだし、その意味では料理をするのに近い。

(笑)

FT:たとえばぼくがキッチンに立つと、色んな食材を使って料理する。オリーヴ・オイルも使うし、ニンニク、塩……とさまざまな材料を用いて、実に多彩な結果が生まれてくる。音楽を作るときもそれとおなじなんだ、ぼくの手元には材料──もちろんニンニクやオイルじゃないけれども──リズム、メロディ、サウンドの音色、ハーモニー等があるし、それらの材料をちがうやり方で混ぜることで色々な成果が生じる、と。音楽の美しさがそれだね。で、その質問に関して言えば、たとえばこのアルバムではすべてのサウンドが、ひとつ残らずピアノでクリエイトされている。シンセサイザーもドラム・マシンも使っていないし、ほかの楽器は一切使わずピアノのみ。けれどもいったんピアノのサウンドを録ったところで、ぼくがスタジオを用いて何をするかと言えば、それらのサウンドに手を加え、別の形に変えることができるようになる。これもまた、ぼくたちは境界をぼやかしているということ、アコースティック・ピアノとは何か? エレクトロニックなスタジオ技術とは? というふたつの境目を曖昧にしているってことなんだ。ぼくの好きなのがそれなんだ、そうやって自分のサウンドをクリエイトするのが大好きだし、過去10年以上にわたりやってきたこともそれだ。だから、それらのテクニックを行き来しながら作業をしているとき、何かがここで終わり、そして別の何かがはじまる……という境目はあまり明瞭ではないんだ。

クラシック音楽とエレクトロニック・ミュージックを融合した音楽を指すときに、しばしば「モダン・クラシカル」ということばが用いられます。この語がはらむ矛盾について、どう思いますか?

FT:まあ……いいんじゃない(苦笑)? 素晴らしい形容ではないけれども、ただ、「ネオ・クラシカル」と呼ばれるよりはいいと思う。というのも、ネオ・クラシカルは単純に間違い、用語として誤りだから。ネオ・クラシカルは20世紀の非常に明確な一時期を指すものであって、ストラヴィンスキー、プーランク、プロコフィエフといった作曲家たちが、クラシック期、すなわちハイドンやモーツァルトの時代にインスパイアされて音楽を書いた時期を意味する。とはいえ、彼らは和音やオーケストレーションを過去から変え、それがネオ・クラシカル=新古典主義になった。本来の意味はそれだし、だからあのタームだけだな、ぼくが「それはちがう」と感じるのは。それに、「クロスオーヴァー」もあんまり好きではない。というのも、あれもまたはっきりした意味のある用語だし、あれはたしか60年代後期~70年代初期にかけて……いや、50年代後期からだったかな? ともかく、ジャズ・ミュージシャンの名声が高まり、彼らが初めてクラシック音楽のコンサート・ホールで演奏するのを許されたときのことを意味する。多くはアフリカン・アメリカンのミュージシャンだった彼らが、装いも変え、白人聴衆を相手にクラシック音楽の会場で演奏するようになり、カーネギー・ホールでジャズが演奏されるようになったのもここからだった。クロスオーヴァー(横断)が指すのは、そのことだ。だから、その本来の意味とは較べようがないと思うね、そこにはもともと、非常に異なる社会的なニュアンス・文脈がふくまれていたわけで。で、モダン・クラシカルという言葉は、たしかに矛盾している。けれども、この世の中に矛盾することはいくらだってあるわけだし。ぼくたちも日々、数限りない矛盾と関わっているんだし、そう考えれば、モダン・クラシカルはぼくとしても許せる矛盾だし、と。それに「ニュー・クラシカル」もありだし、「コンテンポラリー・クラシカル」だって大丈夫。っていうか、たぶんコンテンポラリー・クラシカルがぼくのいちばん好きなタームだろうな、というのもあれは、コンテンポラリーな音楽でありつつ、アコースティックなサウンドを思い起こさせる何かの備わった音楽、という意味になるから。だけど、ほんと──ごく正直なところを言わせてもらうと、ぼくはこれらの言葉を、まったく気にしちゃいないんだ。

(笑)

FT:これらのいろんなレッテルはね。さっきも話したように、音楽は自由を意味するし、だからぼくたちにレッテルは不要。ミュージシャンとしてのぼくたちには、必要ない。まあ、もしかしたら、レコード・レーベル、あるいは音楽雑誌にとっては、受け手の注意を何かに向けて喚起するためにレッテルを貼る必要があるのかもしれないよね? ただ、我々コンポーザー、パフォーマー、音楽家にしてみれば、レッテルは要らないんだ。

ぼくたちは音楽的に何もかもが起きた後の、汎エヴリシング的な時代に生きている──ストリーミングのアプリを持っていれば900年ぶん近いレパートリーを聴くことができるし、しかもワン・クリックで済む。それはグレイトな点だけれども、同時に危険な点でもある。というのも、ぼくたちはフォーカスを失ってしまうから。

クラシック音楽の歴史は前進の歴史でした。20世紀後半にはテープを用いた音楽、偶然性の音楽など、さまざまな「前衛」と「実験」がありました。それらを経た後の現代において、古楽に取り組むことはどのような意味を持ちますか?

FT:たぶん、その理由のひとつは、古楽はしばしば、本当に古めかしい、非常に難解で奇妙な、一種のオタク音楽として扱われるからじゃないかと。要するに、マニアックな古楽ファンのために演奏されるマニアックな音楽、というか。けれどもぼくにとっては、課題はその逆なんだ。いかにして古楽を若い人びとにとってセクシーなものにできるだろう? どうやったらアクセスしやすく、かつ、彼らにとって魅力的な音楽にできるだろう? ということであって。そうすることで、彼らにも「わぁ、知ってすらいなかった、こんな音楽の世界がまるごとひとつあるとは!」と気づいてもらいたい。きみの言うように、ぼくたちは音楽的に何もかもが起きた後の、汎エヴリシング的な時代に生きているよね──ストリーミングのアプリを持っていれば600年ぶんのレパートリー、いや、グレゴリオ聖歌からはじまる900年ぶん近いレパートリーを聴くことができるし、しかもワン・クリックで済むわけだから。しかも、きみが携帯電話のアプリでスピーカーから音楽を流している一方で、兄弟、あるいは母親も家の中でおなじことをやっていて、でも、彼らは別の時代の別の音楽を聴いている。そうやってふたつの音楽が混ざり合うわけで、いまはミックス・エヴリシングな、何もかもが一斉に起きている時代だ、と。で、それは今日(こんにち)のグレイトな点だけれども、と同時に、ある意味危険な点でもある。というのも、ぼくたちはフォーカスを失ってしまうから。なんだってワン・クリックで聴くことができるとなれば、ぼくたちのアテンション・スパンだって15秒とか、30秒に縮まってしまうだろう。で、今回やったレコーディング作業でぼくが気に入っている点のひとつは、それがかなり特定されていたところでね。ぼくのとてもオープンな、あるいはフリーで不特定な、と呼んでもらってもいいけれども、そういう音楽の作り方においては、あれはかなり厳密だった。というのも、本当に自分の注意力・関心のすべてをあれらのレパートリー群、500年も前に生まれたものに対して注いだわけだから……。けれども、あの音楽を作ったのは2021年であって、こうして2022年に発表することになったわけで、うん、そこにはきっとコンテンポラリーな魅力があるはずだよ。

2年ほど前のインタヴューで「ふだんテクノやエレクトロニック・ミュージックを聴いているひとにおすすめの、最近のクラシカルの音楽家を教えてください」と質問したところ、ブルース・ブルベイカー(Bruce Brubaker)を推薦してくださいました。今日もまたおなじ質問をしたとしたら、答えもおなじになりますか?

FT:(笑)音楽を作っている友人はたくさんおすすめできるよ! 音楽における自由に関するぼくの視点を共有している友人たち、特にクラシック音楽界の人びとを──まあ、他にいい形容がないからそう呼ぶけどね、「クラシック音楽界」って、なんのことやら(苦笑)。そうだな、ちょっと考えさせてくれる? ここ最近、自分がよく聴いている音源のひとつと言えば……待って、携帯をチェックしてみるよ(と、端末を引っ張り出し画面をスクロールする)……ストリーミングのアプリを起動しようとしてるんだけど、少々時間がかかっていて……。

テクノやエレクトロニック・ミュージック好きなひとにおすすめのクラシック作曲家、ではどうでしょう?

FT:(携帯画面を眺めながら)オーケイ! そうだね、最近ぼくが聴いているのは……あ、ちなみにひとつだけ指摘すると、ブルース・ブルベイカーはコンポーザーではなく、彼はピアニストだよ。

失礼しました。

FT:彼は他のアーティストの音楽を演奏するミュージシャンで、たとえばフィリップ・グラス、先日85歳になったばかりのはずだけど、彼の作品なんかを取り上げている。さてと……いま、ぼくはガーション・キングスレイの音楽に非常に興味があるんだ。

そうなんですか! それは意外な……。

FT:キングスレイは世界的にとても有名な、ほとんど誰でも知っている音楽を書いたけれども、それが彼の作品だとは誰も知らない、という。とても興味ぶかいよ、この “ポップコーン” という曲は本当に有名だし、何度も繰り返し、色んな形で使われてきた。80年代にセガのヴィデオ・ゲームで使われ、テレビ番組の主題歌になったり。で、基本的に彼は世界初のシンセサイザー・オーケストラを作り出したひとなんだ、最初のシンセ・バンドをね。だから、書いたのはクラシック音楽だったのに、それをシンセサイザーで演奏したからクラシックに聞こえなかった。で、“ポップコーン” の原曲音源、1968年にレコーディングされたと思うけど、あれはまるでつい昨日作られたもののように響く。本当にタイムレスな音楽だし、「音楽は時間を超越する」の実に素晴らしい例じゃないかと思うよ、いちいち「これはクラシック音楽」、「非クラシック音楽」、「新たなクラシック音楽」云々のレッテルを貼る必要がない、というか。音楽にはこの、「時間の枠組み/国境/スタイル面での境界線を守らない」資質が備わっているということだし、うん、ここ最近のぼくはカーション・キングスレイの音楽にかなりハマっているね。それに、彼もクラシック音楽の主題を使っていろいろやったことがあってね。ベートーヴェンの “エリーゼのために” のヴァージョンや、いくつかバッハも取り上げたり。すごくファンキィなものがあるから、ガーション・キングスレイの音楽はおすすめだ。

質問は以上です、今日は本当にありがとうございました。

FT:こちらこそ。

あながたコンサートのために日本に行ける日が、なるべく早く来るのを祈っていますので。

FT:うん、ぼくもだよ、そうなればいいね!

Alabaster DePlume - ele-king

 ロンドンには、トータル・リフレッシュメント・センターという、多くのジャズの才能たちを育ててきたライヴハウスがある。サンズ・オブ・ケメットザ・コメット・イズ・カミングがスタジオとして用いてきた場所でもある。
 サックス奏者アラバスター・デプルームも、そこに育てられたひとりだ。味わい深いサックスの音とポエトリー・リーディングを組みあわせる独自の表現は、聴く者にさまざまな情感を呼び起こさせる。そんな彼の新作『ゴールド』では、まさにサンズ・オブ・ケメットのトム・スキナーやザ・コメット・イズ・カミング作品の参加経験者が力を貸している。チェックしておきたい1枚。

エキゾチックかつ、魔法のようにノスタルジックで個性的なサウンドに注目が集まる、ロンドンを拠点に活動するコンポーザー、サックス奏者 Alabaster DePlume(アラバスター・デプルーム)。聴く者の背中を押す、愛と創造性あふれる NEW ALBUM『GOLD』を、ボーナストラックを加えて日本限定盤ハイレゾMQA対応仕様のCDでリリース!!

主な参加ミュージシャン:
Falle Nioke (西アフリカ出身のシンガー/パーカッショニスト) – voice, percussion
Sarathy Korwar (インド系ジャズ・ドラマー/パーカッショニスト) – drums, tabla
Tom Herbert (Polar Bear、Toshio Matsuura Group) – double bass
Tom Skinner (Sons of Kemet、トム・ヨークの The Smile にも参加) – drums
Danalogue (The Comet Is Coming) – voice and synths
Rozi Plain (ロンドン拠点のシンガーソングライター) – guitar
Matthew Bourne (エイヴベリー出身のジャズ・ピアニスト/作曲家) – piano

アラバスター・デプルームは、サックスを吹くパフォーマーであり詩人だ。この美しいアルバムは、人々が集い、音を出すという創造性と自発性を称揚する。UKジャズの中心地で、デプルームを育てたコミュニティでもあるトータル・リフレッシュメント・センターで2週間に渡って毎日異なるミュージシャンを招いて録音された。その穏やかなヴァイブ、“響きの良いメロディ” とトーンが聴き手を包み込む。(原 雅明 rings プロデューサー)

アルバムからの先行曲 “Don't Forget You're Precious (Official Video)” のMVが公開されました!
https://www.youtube.com/watch?v=rXE2WceZCsQ

MOJOmagazine にて、NEW ALBUM『GOLD』がピックアップされました!! 星4つのレビューを獲得!!

アーティスト:Alabaster DePlume (アラバスター・デプルーム)
タイトル:GOLD (ゴールド)
発売日:2022/4/20
価格:2,600円+税
レーベル:rings / International Anthem
品番:RINC85
フォーマット:CD(MQA-CD/ボーナストラック収録)

* MQA-CDとは?
通常のCDプレーヤーで再生できるCDでありながら、MQAフォーマット対応機器で再生することにより、元となっているマスター・クオリティの音源により近い音をお楽しみいただけるCDです。

Official HP : https://www.ringstokyo.com/alabasterdeplumegold

 Madegg名義で作品を発表していた小松千倫による、Kazumichi Komatsu名義のアルバム『Emboss Star』のリミックス盤が先週リリースされた。リミックス担当は、堀池ゆめぁ、Takao、荒井優作、土井樹といった若手注目の面々。アナログ盤と配信のリリースとなる。

Kazumichi Komatsu
Emboss Star Remixes
FLAU
https://smarturl.it/EmbossStarRemixes
https://flau.bandcamp.com/album/emboss-star-remixes

tracklist:
1. Umi Ga Kikoeru (feat. Dove & Le Makeup) (Extremely Raw Version)
2. Lipsynch (堀池ゆめぁ Remix)
3. Followers (feat. Cristel Bere) (Takao Remix)
4. Umi Ga Kikoeru (feat. Dove & Le Makeup) (荒井優作 Remix)
5. Emory (土井樹 Remix)

 なお、『Emboss Star』のアナログ盤も絶賛発売中。
こちらは収録曲“Followers feat. Cristel Bere“のMV(shot by Maho Nakanishi)。

以下、レーベル資料から。

Madeggとして活動を行なっていた小松千倫がKazumichi Komatsu名義で昨年リリース、Visible Cloaksがミックステープに楽曲をフィーチャー、柴田聡子が昨年のベストアルバムの1枚に選ぶなど、多方面で注目を浴びたアルバム「Emboss Star」が1年越しにLP化。本作は、過去4年の間に作業されたEP、インスタレーション作品、映像作品、ファッションショー、パーティー、レイヴ等の実験の中から、将棋の棋譜を読み返すようにして見つけ出されたものを基礎としている。全体で30分にも満たない本作は、再生とともに現象してしまう音源のファンダメンタルな側面を強調しつつ、情報やイメージのヴェイピングに対する様々な反応を、身体において再構成することが意図されている。ハウスやアンビエントが誘き寄せる半意識的な状態への契機とともに、抵抗が意図されており、インプットへのある種の免疫を作り出そうとする。コミュニケーションの戯図のなかで、フィクションはハッシュタグやジャーゴンといった冗長に圧縮されていく。それらはフォークロアの話素にもなる。ルドンダンスを組み合わせたフォークソング集。シングル「海がきこえる」にはアルバム「微熱」が注目を集めるDove & Le Makeup、「Followers」ではPure VoyageからCristel Bereをフィーチャー。マスタリングは注目のレーベルRecitalを主宰するSean McCannが担当。

Kazumichi Komatsu

小松千倫は1992年生まれ、トラックメイカー Madeggとしても知られる。これまでにFLAU、Angoisseなど様々な国のレーベルよりアルバム、 EPをリリースするが、その表現領域は音楽、映像、インスタレーションと多岐にわたる。原初的な経験的感覚やイメージを基点としながら、ジャンルによる規定性を迂回するように街や自然、メディアや記憶の内外にある微細な現象や変化を重ね合わせることで、抽象的なイメージが固有のシーケンスへと転化していくかのような作品制作を行っている。

FEBB - ele-king

 4年前に急逝した Fla$hBackS のラッパー/プロデューサー、FEBB。生前手がけていたという幻のサード・アルバム『SUPREME SEASON』がなんと陽の目を見ることになった。残されたPCから発見された全16曲を収録、アナログ2枚組とCDのフィジカル限定で、デジタルでのリリースは予定されていない。これは要チェックです。

FEBBが生前に最後まで手がけていた幻の3rdアルバム『SUPREME SEASON』が完全限定プレスの2枚組アナログ盤、CDのフィジカル限定でリリース。

2018年2月15日に急逝したFEBBが生前に最後まで手がけていた幻の3rdアルバム『SUPREME SEASON』がリリース。デジタルでリリース済みの“SKINNY”や“THE TEST”の7インチにカップリングされた"FOR YOU”など一部既出の楽曲やGRADIS NICEとの『SUPREME SEASON 1.5』でリミックス・ヴァージョンが収録されたりしているものの、これが本人が纏めていたオリジナル音源での3rdアルバム。
 FEBB自身のパソコンから発見された全16曲のオリジナルデータにマスタリングを施し、ご家族と協議の上リリースすることとなりました。客演としてMUD(KANDYTOWN)が唯一参加となっています。(本来は全17曲ですが"DROUGHT"はMANTLE as MANDRILLのアルバムに収録されたため本作には未収録)
 アートワークは名盤『THE SEASON』と同じくGUESS(CHANCE LORD)、マスタリングはNAOYA TOKUNOUが担当。
 本作はアルバムとしてのデジタル・リリースは予定しておらずフィジカル限定となり、アナログ盤は帯付き見開きジャケット/完全限定プレスで一般販売。同じく完全限定プレスのCDやTシャツ等のマーチャンダイズはP-VINE
SHOP限定での販売となり、詳細は追ってアナウンスになります。
(Photo: Shunsuke Shiga)

[商品情報]
アーティスト: FEBB
タイトル:  SUPREME SEASON
レーベル: WDsounds / P-VINE, Inc.
発売日: 2022年5月25日(水)
仕様: 2枚組LP(帯付き見開きジャケット仕様/完全限定生産)
品番: PLP-7778/9
定価: 4.950円(税抜4.500円)

[TRACKLIST]
A-1 SUPREME INTRO
A-2 DRUG CARTEL
A-3 THUNDER
A-4 FOR YOU
B-1 CITY
B-2 DANCE
B-3 RUSH OUT
B-4 $AVAGE
C-1 F TURBO
C-2 FOR REAL THO
C-3 ELOTIC
C-4 NUMB feat. MUD
D-1 REALNESS
D-2 LIFE 4 THE MOMENT ( SKIT )
D-3 MOTHAFUCK
D-4 SKINNY

 現代の日本のダークサイドを風刺しているともっぱら評判の遊佐春菜のアルバム『Another Story Of Dystopia Romance』、1曲目の“everything, everything, everything”が配信を開始した。彼女の〝ディストピア・ロマン〟をぜひ聴いてみてください。
 
Apple Music | Spotify

 アルバムはCD2枚組で、1枚はオリジナル・ミックス盤、もう1枚はリミックス盤になる。リミキサー陣は、DJ善福寺、SUGIURUMN、Yoshi Horino、Eccyといった〈kilikilivilla〉レーベルでお馴染みのベテラン勢が担当。アルバムは4月20日に発売予定。


 

遊佐春菜 / Another Story Of Dystopia Romance
KKV-120
4月20日発売予定
CD2枚組
税込3,300円
https://store.kilikilivilla.com/product/receivesitem/KKV-120

Disc 1 : Another Story Of Dystopia Romance
1. everything, everything, everything
2. ミッドナイトタイムライン
3. Faust
4. Night Rainbow
5. Escape
6. 巨大なパーティー
7. everything, everything, everything (beat reprise)

Disc 2 : Another Story Of Dystopia Romance Remixes
1. everything, everything, everything (beat reprise)(SUGIURUMN Remix)
2. 巨大なパーティー(DJ善福寺from井の頭レンジャーズ Remix)
3. Escape(ReminiscenceForest Remix)
4. Night Rainbow(House Violence & Yoshi Horino remix )
5. Faust(Satoshi Fumi Remix)
6. ミッドナイトタイムライン(XTAL Remix)
7. everything, everything, everything(Eccy Remix)

以下、レーベル資料から。

Remixerについて by 与田太郎

このアルバムが伝えようとする物語はクラブやパーティーが重要な舞台となっている。野外レイヴやパーティーで踊ることはこの行き詰まる日常からの解放だ、そして様々な場所からそこに集まる人々とのオープン・マインドなコミュニケーションは人生に大きな出会いをもたらしてくれる。

Have a Nice Day!のライブでフロアがモッシュピットだったことは偶然ではなく、そこに集まった人々による1時間にも満たない熱狂は彼らにとって日々を生きる糧だったはずだ。2020年以降消えてしまったパーティーやフロアの熱気がようやく今年取り戻せるかもしれない。

今作のプロデューサーである僕は90年代からパーティー・オーガナイザーとして、またDJとしてその熱気を求め続けてきた。Another Story Of Dystopia Romanceが90年代以降のダンス・カルチャーが生み出したサウンドから作られているのはそういう理由による。ならばそれぞれの楽曲のフロア向けのリミックスを作る必要があるだろう、というアイデアはすぐに実行された。

everything, everything, everything (beat reprise)(Sugiurumn Remix)
数々のパーティーを20年以上共に駆け抜けてきた盟友であり、変化の激しいシーンを生き抜いたベテランらしくないベテランSUGIURUMNは静かな熱気をきらめくようなエレクトロ・ビートの結晶に封じ込めた。

巨大なパーティー(DJ善福寺from井の頭レンジャーズ Remix)
90年代のワイルド・ライフを共に過ごした高木壮太は普段なら引き受けないリミックス、ダブの制作を2021年8月に亡くなったリー・ペリーの追悼ということで特別に引き受けてくれた。そのDJ善福寺from井の頭レンジャーズ名義のダブ・リミックスからは彼がいかに深く音楽に精通しているかを物語る。

Night Rainbow(House Violence & Yoshi Horino remix )
東京のハウス・シーンのライジング・スターHouse Violenceとワールド・ワイドなレーベルUNKNOWN SEASONをオーガナイズするYoshi Horinoがタッグを組んだリミックス、パーティーの現場に即した構成とシカゴ・テイストなビートとニューヨーク・マナーな展開は彼らが日々のパーティーで培ってきたダンス・ミュージックそのもの。

FAUST(Satoshi Fumi Remix)
90年代からプログレッシヴ・ハウスを追いかけてた僕にとってジョン・ディグウィードにフックアップされたSatoshi Fumiは特別な存在と言っていい。2022年現在、リアルタイムでワールド・クラスのプロデューサーが織りなす展開は見事としか言いようがない。彼の最新アルバムはディグウィードのBEDROCKからリリースされた。

ミッドナイトタイムライン(XTAL Remix)
Traks Boysとしても活躍するXTAL、近年の作品同様に流れで聴かせるのではなく瞬間を切り取るようなスタイルは歪み成分がまるで音の粒子のように広がるって聞こえてくる。バレアリックかつシューゲイズなタッチは彼ならではの作品となった。

everything, everything, everything(Eccy Remix)
かつてSLYE RECORDSを共に率いたトラック・メイカーは今またコンスタントに作品を発表している。オリジナル・アルバムのオープニング・ナンバーは現代の日本を見つめるインターネットの視点から歌われているがEccyのビートはそのディストピアのダークサイドを見つめている。

WDsounds発、2021年いろんなベスト - ele-king

 どの年もどの日も特別な時間であると思う。コロナ禍が続くなかでもそれが変わらないことを私たちは知っている。2021年を振り返りそのTHE BESTを自らの言葉で綴ることはその時間を少しだけ自分のものにしてくれると思う。そんな「THE BEST 2021」。

・RIVERSIDE READING CLUB

* 保坂和志『残響』
 去年いちばん繰り返し読んだ一冊。これは世界を小説にしか出来ないやり方で描いた作品だ。という考えに2回目の途中くらいでたどり着いたのだけど、その後に読んだ作者の“創作ノート”には全然そんなことは書かれていなくて、ぶちあがると同時に、別の文脈で書かれていた「だって、世界ってそういうものだからだ」という一文に完全に納得した。そこまで含めて、Best読書2021。 ( ikm )

* CHIYORI × YAMAAN “MYSTIC HIGH”
 2021年。前年に続きとにかく大変な1年だったけれど、どんな状況下でも『パーティー』はそこにあり続けた。決して楽な環境ではなかった中で「それを今やる意味」。その意味は各々で消化され、細胞となり、それはどんなウィルスにも侵食することはできない精神の強力な抗体となった。
 そして、個人的にはそれを象徴するかのような曲が「Mystic High」収録の「I'm So High」。第五波で緊急事態宣言真っ只中の夏、BUSHBASHで行った自主企画でCHIYORIが「新曲です!」と言ってYAMAANとの共作を披露したときからすでにアンセムだった。透明感のあるボーカル、柔らかな上音に浮かび上がるハットの軽快さ、さまざまな音の重なりがゆらゆらと波が起こし体全体を包んでいくような感覚。あぁ、ここはもうすでに水の中なのかもしれない。母のお腹で眠る赤ちゃんはこんなあたたかくてきもちいいのだろうか。重力から解放されてふわふわと永遠に踊っていられるような、そんな感じだった。
そして、パーティー明けに惨劇の森から大絶賛され、瞬速でBushmindはremixを製作。心地よいゆるやかな波はremixによって化け物のような大波に進化した。どちらも良さがありまくる。それからremixがパーティーで流れようになると、どこの場所でもその日一番の盛り上がりとなり、キラキラと魔法がかかったように輝き出した。フロアは一瞬で波に飲み込まれ、引き込まれていく感覚にゾワゾワと鳥肌が立つ。このような感覚は今まで味わったことがなく、やはりこの曲こそ2021年の私が体験したダンスフロアの象徴に他ならなかった。
※一曲についてしか書けませんでしたが「Mystic High」は全編を通して衝撃的に素晴らしいアルバムです ( Mau Sniggler )

* rowbai “Dukkha”
 HYDRO BRAIN MC’s加入以降、ほんの幾つかのバースとほんの数回のライブで一躍チームのエース格に躍り出た我らがKuroyagiによる客演が圧倒的に素晴らしい。
 取り分け事態を本邦だけに限定するとたかだかスキルの話にしても、ほとんどのラッパーが彼のちょっとしたおふざけにすら足元にも及ばない状況の中、本作で繰り広げられるゴン攻めに至り、俺も含めてここに展開されたラップアートを正確に理解できている人が果たしてどれだけいるのか? 取り分け2曲目の「Gōma」に於ける今更初期のLil Yachty的バブルガム感を引用しつつ、その背後に1977年のSuicideの幻影さえもがチラつく白昼の落雷のようなすっとぼけた覚醒感で"ぶっ殺死!!"(© 冨樫義博先生)をパフォームする、このコロナ禍のディストピアにこそ相応しい破格のエンターテイメントにとりあえず一回全員蹴散らされたらいい。また、本作のオーナーrowbaiが自身で手がける、透過性と不透過性とその裂け目を縫うようにして這い進むヒビ割れた磨りガラスのようなbeatとあくまで静謐なボキャブラリーの中に"激痛"("激情"ではなく)を宿したwordは、"ポスト〇〇"的なタームでは解析しきれない明らかなる切断面を開陳し、現在、SSWという言葉が置かれた位置座標を立体的に浮かび上がらせている。同二人のコンビネーションによる前作、rowbai & Kuroyagi / "nothing"と併せて普通に必聴。
 まるで逆境を跳ね返すかのように友人たちが傑作を量産した2021年の中でもBESTの一つ。この作品の所為で暫く他のが聴けなくなって超迷惑でした! ( Phonehead )

・.daydreamnation.( iiirecordings )

1. SPECTRE “THE LAST SHALL BE FIRST (CD)”
 SPECTREをBGMに自分が好きなことをする。有限の時間の中で聴く音楽、最高のものをききたい。2021年この音楽に乗りながら色々なことをやりました。ヒップホップでありながら完全にそれを超えていて、説明不可能な領域まで振り切ったビートにしびれました。WORDSOUNDはミュータント。ミックスがSCOTTY HARDさん、マスタリングはTURTLE TONE STUDIO NYC.で音最高。ぜひCDで。 DJKATAWAからの贈物。ZOZNT PROBLEMDUBBERS CLASSIC. ありがとうございます。

2. NECESSARY (Necessary Intergalactic Cooperation) “VOLDSLOKKA (CD)”
 夜に何か作業をする時に聴いていました。NICはバンドサウンドの枠をこえたリズム・演奏・ダブすべてがかっこよくてミックスもキレキレです。SWANS/PRONG/teledubgnosisのTed Parsonsさんのドラムビートがくらいます。大好きなグルーブ感。ミックスはGodflesh/JesuのJustin K. Broadricさん、マスタリングがTURTLE TONE STUDIO NYC.で音質最高です。ぜひCDで。

3. 吉村弘 “PIER & LOFT (VINYL)”
 再生して終わるまでの間に、今までの自分ぜんぶを包み込んで許されたような気持ちになりました。やわらかくて、やさしくて。聴く度にたいせつなことを思い出しています。シンセサイザーのやさしい音と演奏。この作品に出会えてうれしいです。レコードのマスタリングをしたSinkichi君(KOZA BC STREET STUDIO)からの贈物。ありがとうございます。

・HANKYOVAIN

1. J.COLUMBUS feat.ERA “BEST COAT”
本作の最後でPHONEHEADが登場した事は私にとって2021年最大の衝撃であり、目白と守口が確実に繋がっていると実感した特別な出来事となった。
楽曲の素晴らしさについては、リリース時に添えられたikm君の愛を感じる解説文を読んでみてほしい。

2. SATO “トワノアス”
本作の7インチ・レコード化計画に携われたことは私にとって2021年の貴重な経験となった。京都で音楽活動を続けるSATOが「高瀬川」と「永遠の二人」について歌う本作は、瑞々しく輝く普遍性と、それと相反するような愛の儚さや危うさを感じさせる名曲である。

3. HIRANO TAICHI “BLINDING LIGHTS”
今1番アルバムの発表を待ち焦がれているシンガーソングライターの名曲。
この曲を初めて聴いた時、演奏が始まって歌声が入ってきた瞬間に「この人本物や」と感動してすっかり心を打ち抜かれてしまった。

・BUSHBASH

柿沼実(BUSHBASH)

*  MEJIRO ST. BOYZ “BLOWING BUBBLE FOREVER”
 J.COLUMBUS,Phonehead,HANKYOVAINで構成される"MEJIRO ST. BOYZ"が11月にリリースしたBLOWING BUBBLE FOREVER。
この曲によってBUSHBASHの行ってきた事を新しいフェーズに移動させる事ができたと思う。悩みや存在し続ける問題や壁のようなもの、それらがなんでありどう向かっていくかという事。希望や一時的な逃避ではない確実な揺るぎない"現実"が歌われる事で足元を再確認し、抽象的でない"未来"を生み出す一端になる広がり続ける大気の様な、そして果てしない強靭さを兼ね備える音楽。
時代が変わり続けても何処かに射し続ける光みたいに在り続けるCLASSIC。一音目からの音、聴こえるリリック、そして結成の経緯と皆の佇まいや会話、存在。全てがMSBでとてつもなくEMPOWERしてもらってます。LIFETIME BEST。シャボン玉を吹き続けよう。

* RAMZA ”Pure Daaag” AIWABEATZ ”pearl light - Rain”
 BUSHBASHのレーベルからリリースさせて頂いたRAMZA君のMIX CDとAIWABEATZ君の7inch。リリースという行為の中にある一つひとつのやりとり、多くの人の協力などが積み重なってできた素晴らしい作品。
2020年3月からの出来事や交差していく人や物事の中で自然/必然というような流れでスタートできたBUSHBASH LABELは狭くなっていた視野を壊してくれるものでした。その中でもこの2作品はなるべくしてなったというか極自然な流れで形作られていったものであり、どちらもこの時代性を反映しつつも左右されない芯が通った内容で、BUSHBASHとして考える大切な物事を忘れず、地に足をつけるという意志を紡いでくれているような気がしています。
この2作品から生みでたイメージが繋がって今後もリリースしていく予定の最高の作品がありますので楽しみにしていてください。
喉元を過ぎて熱さを忘れた後は熱さを感じる喉元すらなくなると思います。

* 惨劇の森 "緊急事態新年会 + 歳末大感謝無礼講大祭"
 2021年の始まりと暮れに執り行って頂いた2大祭。期せずしてこちらもずっと考え続けた場所としての在り方や考えを体現してもらえた夜。どらちも悪化の一途を辿る世の中の状況の中で行われましたがプリミティブであり美しい、笑顔が絶えない時間で、"音楽"ってものを考えた時に最初に受けた衝撃からこれから朽ち果てるまでの間に何がしたい/できるか、という疑問の答えに身をもって提示してくれたような惨劇の森(DJ Abraxas / Bushmind / Ko Umehara / Phonehead)とACID EXILE、そして集まって頂いた皆さんに敬意を表します。
物凄くシンプルに音楽の最高さ/カッコよさを感じさせてくれて新しい楽しみ方やワクワクする事が増えて行くと共に、惨劇の森による大祭で挟み込まれた2021年という年に感じた希望や手応えは身体に刻み込まれて突き動かしていく。
 2022年も多くの人が集まりそれぞれの尊厳を奪われず、自由な楽しみ方で過ごせる場所と時間を創っていきたいと思います。
 新たな変化と少しずつ明けていく夜の確信として此処に記します。

・DISCIPLINE

* Scowl “How Flowers Grow”(SHV(KLONNS))
* Team Rockit “Bahamut Zero”(LSTNGT )
* Ellen Arkbro ”Sounds while waiting”(Keigo Kurematsu)
* Sozorie “Paper Ruins”(1797071 (Ms.Machine))
* OPERANT “Traumkörper”(Golpe Mortal)
* セーラーかんな子 “Kanna-chan/Hachi-chan”(CVLTSL4VE (#SKI7))
* Sega Bodega “Romeo”(Ray Uninog (#SKI7))
* George Crumb - Music For a Summer Evening :The Advent(TIDEPOOL (IN THE SUN))
* Telematic Visions 2 “watch?v=7QklmysU_o4Ku”(富烈)

 こういう機会を頂いて改めて振り返ってみると、2021年もコロナ禍によって生活の色々を縛られ続けた1年だったけど、そんな中でも各地で新しい物語が絶え間なく紡がれていたと思う。バラバラに散らばっていた点と点が邂逅を果たし、そして同時に永遠に捨て去るべきものが何なのかも分かった。
 Disciplineは根底にHARDCORE PUNKの精神を持ちつつも特定のジャンルや言説に依拠しない(或いは出来ない)個人の集合体。それぞれがそれぞれの視座を持ちつつも、同じMOODと怒りを共有していると思う。メンバーのみんながそれぞれ選んだ曲たちはジャンルも世代も国籍も異なるけど、それぞれの「2021年」を映し出す鏡。大きな潮流としての「時代」ではなく、引き裂かれながらも「今」という切断面まで持続させてきた個人史。全部通して聴いてみると、世界がどんなに酷くなってもまだ少し明日を楽しみに出来る、ような気がする。( tSHV )

・CHIYORI × YAMAAN

YAMAAN

* Hegira Moya audio visual set at Curiosity Shop “Hidden Meadow” 29th May 2021
 5月の明け方5時くらいにライヴ配信されていたHegira Moyaさんの映像作品。
Hegiraさんが旅先や日常の中で撮りためた映像と音を夜明け前の時間帯に配信で見るのは、不思議で印象的な体験でした。

* CHAMO TEU VULGO MALVADÃO “MC Jhenny (Love Funk) feat MC GW, DJ KOSTA22”
 偶然聴いたこの曲をきっかけに現行のバイレファンキにはまりました。
「ンチャチャ」の基本的なリズムを変わった音で置き換えていたり、音数が極限まで少なかったり、斬新な音遊びをしている曲が多くて面白いです。
この曲はどことなくDJ FUNKなどに通ずる感じもします

* Mio Fou ”Mio Fou”
 ムーンライダーズの鈴木博文さんと美尾洋乃さんのアンビエント感あるポップスのユニット。
84年の盤なのですが、昨年の夏頃にとてもはまって繰り返し聴いていました。素晴らしい作品です。

CHIYORI

 2021年は旦那との初アルバム、CHIYORI × YAMAAN「Mystic High」のリリースができました。多くの時間を制作に費やしましたが、その間に起きた熱い思い出やハマったものを選りすぐりました。きっと間接的に制作にも活かされていたと思います。

* ポータブルスピーカーレイヴ
 コロナ禍による時短営業で行くあてが無くなった時用に、ポータブルスピーカーをいつでも持ち歩いておいて、広場、川辺や海岸などでスピーカーを鳴らして友達と踊りまくったり、曲について語り合う、という遊び方にハマりました。スピーカーがボロかったので友人が誕生日に新しいのをプレゼントしてくれたのも嬉しかったな。また暖かくなったら始めよう。

* ドキュメンタリー映画「寛解の連続」ツアー
 スタッフとして東京や関西3館の映画館上映を光永惇監督や主人公の小林勝行、他スタッフや配給さんたちと回りました。皆んな快楽主義な所があるのでノリが合うし、その反面、社会福祉への高い意識や強い想いに、とても影響を受けました。人間味溢れるこの映画と、幅広い文脈でのトークショーや様々な出会いによって、随分心が自由になれたし視野が広がったと思います。その小林勝行の3rdアルバムも2021年マストな衝撃作でした。

* OGGYWEST
 2021年1番ハマったラップグループは、西荻を拠点とし2016年結成後コンスタントに作品を発表し続けているOGGYWEST。
オギーの魅力に気付いてしまった日から、全作品隈なく聴き込みました。クオリティの高い心地良いトラップな上、よく歌詞を聴くと生活感や妄想癖に溢れた絶妙なユーモアセンスがツボ過ぎて中毒になりました。ファンが高じてリリパでDJさせもらえたのはとても光栄でした。粗悪ビーツさんとの新作「永遠」も最高!

・MASS-HOLE

2021年よく聞いたアルバム。

* Benny The Butcher×Harry Fraud “The Plugs I Met 2”

 すごく聞きました。佐井さんのクリアランス話を聞いて、地球が丸いことを知りました。salute WDsounds、P-VINE!!


* All Hail YT×Cedar Law$  “Player Made”
 let me rideのカヴァーから気になってて、cedar君とつながってんだーってびっくりした。
albumはなんていうかラグジュアリーな感じが最高に気持ち良い。誰か全曲翻訳頼みます。dj shoe曰く、次はVICASSOがクルらしい。

* Issugi×Dj shoe “Both Banks”
 82s屈指のhardest mcとgroove mixing masterのalbum。
近くにこういう音楽があるってことは幸せなことだ。これからも曲を作って遊んで行きたい。

2022年はまずbeat tapeを。そして、自分のepを仕込んでます。dirtrainとしてはbomb walker,mac ass tigerの作品とrandy young savageというコンピalbumを出します。あと、松本に店開きます。

・今里 ( STRUGGLE FOR PRIDE / 不死身亭一門 / LPS )

敷居を高くしていないとご飯が食べられない人達のお茶碗を、夜な夜な割っていく作業に従事しています。

1. NAKATANI “HUNGRY&ANGRY ”
どのような状況下でも、人は学べるという事を教わった。

2. LRF “THE ANTI-VAX PUNK SONGS E.P “
LRFは常に、「説得力」という言葉の意味と強さを体現してくれている。

3. “IT LOOKS TO A LIFE FORWRD 12/4 “
修正ペン界の巨匠による名言と、悪意に満ちたセレクトの出演者の紹介写真を用いたフライヤーで知られる、毎年末に行われる好企画。a.k.a. 大阪大忘年会。
みんなが口を揃えて「RIGIDが素晴らしかった」と言っていた。定期的に開催されている “ JUICYちゃん “ と併せて、機会があったら是非、足を運んでみるべきだと思う。

 2021年が始まって間も無く、金山さんに呼んで頂いてSOCORE FACTORY でレコードをかけた。たくさんの英雄達にお会いして、多くの逸話とずっと知りたかった問い(大洞さんWORKSについてや、当時どうやってSTA-PRESTを入試していたのかetc. ) の答えを手に入れて、様々な最高級の音楽を耳にして完璧な時間を過ごした。だから2021はとても良い年。昨年お世話になった皆様、本当にどうもありがとうございました。2022も毎日レゲイの話しようぜ!!

interview with Big Thief (James Krivchenia) - ele-king

 ミュージックのなかにはマジックがある──以下のインタヴューで、そうまっすぐに話す人物がプロデュースを務めていることは、間違いなくこのアルバムの美点であるだろう。異なるパーソナリティを持つ人間たちが集まって、それぞれの音を重ねていくことの喜びや興奮を「魔法」と呼んでいること自体が、ビッグ・シーフというバンドの魅力をよく表している。
もはや現在のUSインディ・ロックを代表するバンドと言っていいだろう、ビッグ・シーフの5作目となる『Dragon New Warm Mountain I Believe in You』は、もともとエンジニアでもあったドラムのジェイムズ・クリヴチェニアが全編のプロデュースを務めた2枚組全20曲のアルバムだ。ニューヨーク州北部、コロラドのロッキー山脈、カリフォルニアのトパンガ・キャニオン、アリゾナ州ツーソンとレコーディング場所を4か所に分けて録音されたが、2019年の『U.F.O.F.』『Two Hands』のように音楽性を分けてリリースすることはなく、それこそビートルズのホワイト・アルバムのように雑多な音楽性が一堂に集められた作品になっている。ベースはフォーク・ロックにあるとは思うが、アメリカの田舎の風景が目に浮かぶような長閑なカントリー・ソングから、空間的な音響を効かせた静謐なアンビエント・フォーク、シンセとノイズを合わせたアブストラクトなトラック、パーカッションが耳に残るクラウトロック風の反復、そしてギターが荒々しく鳴るロック・チューンまで……曲のヴァリエーションそれ自体が面白く、なるほどビッグ・シーフというバンドのポテンシャルを十全に発揮したダブル・アルバムとまずは位置づけられるだろう。
 だが特筆すべきは録音である。まるで4人が間近で演奏しているかのような生々しいタッチがふんだんに残されており、呼吸の震えを伴うエイドリアン・レンカーの歌唱もあって、アンサンブルがまるで生き物のような温度や振動を携えているのである。アコースティック・ギターの弦の細やかな震えが見えるような “Change”、ノイジーなギターが奔放に咆哮し歌う “Little Things”、ドラムのリズムの揺れが不思議な心地よさに変換される “Simulation Swarm”……オーガニックという言葉では形容しきれない、揺らぎが生み出す迫力がここには存在する。
 そしてそれは、ビッグ・シーフがタイトな関係性によって成り立っているバンドだから実現できたものだと……、どうしたって感じずにはいられない。そもそもエイドリアン・レンカーとバック・ミークという優れたソングライター/ギタリストを擁するバンドであり、実際、ふたりは見事なソロ作品をいくつも発表している。けれども、サウンド・プロダクションにおいて重要な最後の1ピースであったジェイムズ・クリヴチェニア(彼もアンビエント/ノイズ寄りのソロ・アルバムを発表している)がいたことで、ビッグ・シーフはソロではないバンドが生み出しうる「マジック」を明確に目指すことになったのだ。このインタヴューでクリヴチェニアは技術的なこと以上に感覚的な説明を多くしているが、そうした抽象的なものを追求することがこのバンドにとって重要なことなのだろう。

 エイドリアン・レンカーが描く歌詞世界はどこか空想がちで、だから社会からは少し離れた場所で4人のアンサンブルは成立している。そこで見えるのはアメリカの自然の風景だけではない。動物たちが生き生きと動き回れば、想像のなかでドラゴンだって現れる。そして彼女は生や死、愛について考えて、仲間たちとそっと分かち合う。
 だからきっと、重要なのは魔法が存在するか/しないかではない。ビッグ・シーフは、魔法がこの世界にたしかに存在すると感じる人間の心の動きを音にしているのだ。

僕たちは全員リズムが大好きだし、リズムにグルーヴして欲しいと思ってる。それくらい、リズムには敏感なんだ。

『Dragon New Warm Mountain I Believe in You』を聴きました。バンドにとっても現在のシーンにおいても今後クラシックとなるであろう、本当に素晴らしいアルバムだと思います。

ジェイムズ・クリヴチェニア(以下JK):(笑)わあ、素敵だな。ありがとう! 感謝!

(笑)。まずは制作のバックグラウンドについてお聞きしたいです。日本でのライヴを本当に楽しみにしていたのでパンデミックによってキャンセルされたのは残念だったのですが──

JK:うん。

坂本(以下、□):まあ、仕方ないことではあります……。

JK:(苦笑)

ただ、ツアーがなくなったことで制作に集中できた側面もあったのでしょうか?

JK:そうだね、僕たちからすればあれは本当に……自分たちだけじゃなく多くのミュージシャンにとっても、あの状況には「不幸中の幸い」なところがあったな、と。あれで誰もが一時停止せざるをえなくなったし、でもおかげで自分たちが過去5年ほどの間やってきたことを振り返ることができた。で、「うわあ……」と驚いたというのかな。じつに多くツアーをやってきたし、すごい数の音楽をプレイしてきたわけで、要するに、いったん立ち止まってじっくり考える余裕があまりなかった(笑)。それが今回、少し落ち着いて理解することができたっていうね、だから、「……ワオ、僕たちもいまやバンドなんだ。れっきとした『プロのミュージシャン』じゃん!」みたいな(照れ笑い)? とんでもない話だよ。それもあったし、あの時期の後で──だから、この状況はそう簡単には終わらない、長く続きそうだぞ、と僕たちがいったん悟ったところで、「みんなで集まろう。この間にいっしょに何か作ろうよ」ってことになったというかな。完全に外と接触を断ち、各自のウサギの穴にこもったままじっと待つのではなくてね。この時期が過ぎるまでただ待機していたくはなかったし、とにかく自分たちにやれることを利用しよう、少なくとも僕たちはバンドとして集まれるんだし、みんなで顔を合わせて音楽を作ろうよ、と。携帯画面をスクロールして、破滅的なニュースを眺めながら「ああ、なんてこった……」と滅入っているよりもね。というのも、パンデミックとそれにまつわるすべてに関しては、僕たち自身にコントロールできることにも限界があるわけだし、だったら音楽を作ろうじゃないか、と。

この2年には、エイドリアン・レンカーさんの『songs / instrumentals』とバック・ミークさんの『Two Saviors』と、メンバーの素晴らしいソロ・アルバムがリリースされています。『Dragon New Warm Mountain I Believe in You』の制作に影響を与えることはあったのでしょうか。

JK:うん、絶対にそうだろうと僕は思う。とは言っても、それは必ずしも直結した影響であったり、言葉で簡単に言い表せる類の因果関係ですらないのかもしれないよ。ただ、バンド以外のところで誰もがそのひと自身の何かをやれるスペースを持っているということ、そしてバンド側にも彼らに対する信頼、そして自由を容認する余裕がじゅうぶんにあることは……そうだな、たとえばエイドリアンがソロ作を作りたいと思うのなら、イエス、彼女はやるべきだろう、僕もぜひ聴きたい、と。要するに、(パニクった口調で)「えっ、そんなぁ! 彼女がビッグ・シーフのアルバムを作りたくないって言い出したらどうしよう??」ではなくてね。僕もビッグ・シーフというバンドが好きでケアしてくれる人と同じで、レコードでとある楽曲を発表して、「これを彼女がソロ作でやっていたとしたら?」なんて考えるわけだけど──でも、そこでハタと気づくっていうのかな、それでも構わないじゃないか、と(苦笑)。これらの、僕たちがそれぞれにバンド以外の場で個人として重ねる経験は、じつのところバンドにとって非常にいい肥やしになっている、みたいな。おかげで、このバンドのスペシャルなところにも気づかされるし、かつ、たぶんバンドではやれなさそうなことを実践する柔軟性ももたらされるんだろうね。(苦笑)それでもOKなんだよ、だって、僕たちがお互いの音楽人生におけるあらゆる役割を果たすのはどだい無理な話だから。その点を受け入れるってことだし……うん、僕たちはいっしょにバンドをやっているけれども、と同時に個人でもある。それはいいことだ。

『Dragon New Warm Mountain I Believe in You』はまず、ジェイムスさんが全体のプロデュースを務めたことが大きなトピックかと思います。前作までと今回で、あなたの役割や行動で大きく変わった点は何でしょう?

JK:そうだな……今回僕がこうプロデュースしたいと思った、「たぶん僕たちはこんな風にやれるんじゃないか?」というアイデアを抱いた、その理由の多くは、こう……自分たちの前作レコーディングでの経験を理解・吸収していってね。そうやって、「このやり方は自分たちには効果的みたいだ」、「こうすれば自分たちは気持ちよく作業できる」、「これくらい時間をかければいいらしい」といった具合に状況を眺めていたし、そうした自分のリアクションの数々はクリエイティヴ面で実りあるもののように思えた。で、そんないわば「舞台裏」の知識、僕自身がバンドの一員として現場で目にしたあれこれがあったおかげで、「あ、たぶん自分には、僕たち全員がいい気分でやれる場をセットアップできるぞ」って手応えを感じた。かつ、フレッシュで新しくも感じられる状況をね。というのも、誰もがちょっと脇道に逸れていろいろと探りたがっているのは僕も承知していたし、でも、これまで時間の余裕がなかった。それだとか、やりたい曲があっても「いや、それはちょっと……」とダメ出しが出たりね。他と比べて異色だからとか、カントリー過ぎるとか、ヘヴィ過ぎるなどなどの理由で。だから、ヘヴィな曲はここ、カントリーな曲はあそこ、という風にそれらの分のスペースをとっておくのはどうかな? と考えた。とにかく場所を作り、エイドリアンのいつもとは違う曲の書き方だったり、僕たちがいっしょに演るときの様々なプレイの仕方、それらのもっと幅広いレンジを捉えてみよう、と。と同時に、ちょっと失敗しても大丈夫なくらいの余裕も残そうとしたよ(苦笑)。及第点に達さなくても気にしない、とね。

レコーディング・セッションを4か所に分けたのは、実験的だと思いますし、エンジニアとウマが合わない危険性だってありましたよね?

JK:(苦笑)ああ、うん。

でも、この制作スタイルをとったのは、録音する土地から何か影響を与えられるからでしょうか?

JK:うん、間違いなく……そこだろうね。実験的な側面がたしかにあった。とは言っても、何も「奇妙な音楽を作ってみよう」って意味での「実験」ではないけどね!

(笑)ええ、もちろん。

JK:ただこう、これは実験だし、うまくいかないかもしれないって感覚はあった。どうなるか試してみたい、と僕たちは好奇心に駆られていたんだと思う。録る場所、そして各エンジニアの作る異なるサウンドには、こちらとしても非常に反応させられるものだから。で、そこで起きるリアクションのなかに実際、バンドとしての僕たちの強みのひとつ、自分たちのやっていることにちゃんと耳を傾けられるって面があるんじゃないかと僕は思ってる。僕たちは自分たちの音楽が好きだし、だから何が共鳴するのか分かるっていうのかな、内的な反応が生じる。「おっ! このひとがレコーディングすると、僕たちの音はこんな風になるんだ。面白い!」とか、「興味深いな、たぶんもっとこれを掘り下げられるんじゃない?」と。で、それを4人の人間がそれぞれにやれるのは、バンドとして様々なリアクションがある、ということでね。たとえば、メンバーの誰かは「フム、これは生々しい(raw)、うん、エキサイティング!」って感じるし、一方で別のひとはもっとこう、そこで音響面で違和感を覚えて「ここはもっと探っていかないと……」と感じる、みたいな。とにかくそうやって、僕は異なるリアクションを引き出そうとしていった。というのも、僕たちは各自が好き勝手にやっていて、「あー、他の連中も何かやってるな」と看過するんじゃなく、お互いにとても反応するバンドだからね。しっかり耳を傾けている。だから、いい箇所があると「そこ、気に入った! いいね!」ってことになるし、逆に「この曲はうまい具合に進んでない。何か他のものが必要じゃないか」ってときもあって。

楽曲をぶつかり合わせ、コントラストを生むことである種の深みを作りたい、と。古典的な、「アルバム」に必要とされるひとつの一貫したソニック体験というか──「完璧で破綻のない35分くらいの経験」みたいなもの、それにさよならする、という。

カリフォルニア、ニューヨークなど、多彩なロケーション/環境で制作されましたが、どのような影響をレコーディングした土地から受けましたか?

JK:大きく影響されたと思う。でも、たぶん……「ここではこれを」といった具合に、それぞれの土地環境に特定の狙いを定めてはいなかったんじゃないかな? 僕たちにとってはそれよりも、各地に違いがある、それ自体がいちばん重要だった。だから、実際に違うわけだよね──砂漠に囲まれた暖かな土地で、いままでと違う相手とレコーディングしたこともあったし、一方で、たとえば(コロラドの)山岳地帯に行ったのは冬で、おかげでものすごく外部から隔離されていた。だから、各地におのずと備わった違いの方が、「これはここで録らなくちゃいけない。あれはあそこじゃないとダメだ」的な考えよりも大事だったんじゃないかと。ある意味、僕たちに新鮮と感じられる場である限り、どこでやってもよかったっていうかな? というのも、レコーディング作業に取り組んでいる間だけじゃなく、僕たちはその場に溶けこんで暮らしていたわけだし──たとえばニューヨーク上州で録っていた間は、朝起きると散歩に出かけ、その日の空模様に反応したり。だから、確実に場所/環境には強く影響されたと思うけど、それは具体的に「ここにこう作用した」と指摘しにくい何かだ、みたいな?

はい。

JK:と言っても、僕たちが求めていたのもそこだったんだけどね。だから、寒いし、表も暗いっていうレコーディング環境と、対してすごく暑くて、全員シャツを脱ぎ捨てて汗だくでプレイする、そうした対照的な状況下では、自分たちのプレイだって確実に変化するだろう、と(笑)。

(笑)暑いと、もっとリラックスできるでしょうしね。

JK:(笑)うんうん。

本作のコンセプトを提案したのはジェイムスさんだそうですが、なぜ今回のアルバムでは多様な音楽性をひとつのアルバムに集約することが重要だったのでしょうか? たとえば『U.F.O.F.』と『Two Hands』のように、音楽性で分けることは選択肢になかったのでしょうか。

JK:ああ、なるほど(笑)。そうだな……僕は個人的にぜひ、自分たちの音楽に備わった異なるスタイル、それらがすべて等しく共存したものをひとつの作品として聴いてみたいと思っていた。だから、僕たちはバンドであり、かつエイドリアンはこれらのいろんなムードを備えたソングライターでもある、その点をもっと受け入れようってことだね、何かひとつのことに集中したり、「これ」というひとつの姿を追求するのではなく。それよりも、それらを丸ごと捉えることの方にもっと興味があったし、そうやって楽曲をぶつかり合わせ、コントラストを生むことである種の深みを作りたい、と。それによってある意味……んー、いわゆる古典的な、「アルバム」に必要とされるひとつの一貫したソニック体験というか──「完璧で破綻のない35分くらいの経験」みたいなもの、それにさよならする、という。それよりもっとこう、とにかくごっそり曲を録ってみようよ、と。結果、もしかしたら3枚組になるかもしれないし、1枚きりのアルバムになるのかもしれない。ただ、作っている間はどんな形態になるかを考えずに、僕たちはやっていった。それよりもとにかく、たくさんプレイし、たくさんレコーディングしようじゃないか、その心意気だった。その上で、あとで編集すればいいさ、と。4ヶ月の間、あれだけ努力すれば、そりゃきっと何かが起きるに違いない(苦笑)、そう願っていたし、その正体が何かはあまりくよくよ気にせずとにかく進めていった。何であれ、自分たちがベストだと思う組み合わせを信じよう、そこには僕たちを代弁するものが生まれるはずだから、と。

本作はロウ(raw)な音の迫力が圧倒的なアルバムですよね。たとえば先行曲 “Little Things” の野性的なギター・サウンドが象徴的かと思いますが、このアルバムにおいて、ある種の音の生々しさや激しさはどのようなアプローチで追求されたのでしょうか?

JK:思うに、ああしたロウさ、そして自然な伸びやかさの多くはほんと、練習のたまものだというか、長年にわたり培ってきたものなんじゃないかな。自分たちがこつこつ積み重ねてきたものだっていう感覚があるし、じょじょに気づいていったというか……だから、アルバムを作るたびに「うおっ、これだよ、最高じゃん!」みたいに思うんだ(苦笑)。要するに、過去に作ってきたアルバムのなかでも自分たちのいちばん好きなものっていうのは、少々……何もかもがこぎれいにまとまった、オーヴァーダブを重ねて完璧に仕上げた、そういうものじゃなくて、少々ワイルドな響きのものが好きでね。“Little Things” だと、あの曲でのバックのギターの鳴りはクレイジーだし、どうしてかと言えば──実際、ある意味クレイジーな話だったんだよ。というのもあのとき、彼はまだあの曲をちゃんと知らなかったから。エイドリアンが書いたばかりのほやほやの曲だったし、彼はそれこそ、曲を覚えながら弾いていたようなもので、そのサウンドがあれなんだ! だからエキサイティングな、違った響きになったし、いつもなら彼はちゃんと腰を据えて(落ち着いた口調で)「オーケイ、わかった、こういうことをやるのね、フムフム」って感じだけど、あのときはもっと(慌てた口調で)「えっ、何? この曲をいまやるの?」みたいなノリだったし(笑)、僕が惹かれたのもそういうところだったっていうか。ずさんさやミスも残っているけど、と同時に自由さが備わっている、という。

なるほど。その話を聞いていて、ニール・ヤングのレコーディングのアプローチが浮かびました。たしか彼もよく、きっちりアレンジを決め込まずに録音したことがあったそうで。ある意味、最終型がわからないまま、レコーディングしながらその場で曲を探っていくっていう。

JK:(苦笑)ああ、うんうん!

ただ、その探っていく過程/旅路が音源にも残っていて、そこが私は好きです。

JK:うん、すごくこう、「(他の音に)耳を傾けながら出している」サウンドだよね。その曲をまだちゃんと知らなくて、しかも他の連中がどんな演奏をするかもよくわからない、そういう状態だと──やっぱり、自動操縦に頼るわけにはいかないよ(笑)。次にどうなるかつねに気をつけなくちゃいけないし、お互いに「次のコースが近づいてる?」、「だと思うけど?」、「あっ、そうじゃない、違った!」みたいに(苦笑)確認し合うっていう。

自分の音楽的な反射神経・筋肉を使って反応する、という感じですね。

JK:うん、そう。

そうやって他のメンバーの音をしっかり聞きながら、いろんなヴァイブをクリエイトしていく、と。

JK:イエス、そうだね。

[[SplitPage]]

想像力を働かせることで、物事は何もかもディストピアンなわけじゃないんだ、と思うことは大事なことじゃないかと思う。この世の終わりだとしても、そこでイマジンできるようにならなくちゃ。

資料によると、はじめ制作が難航するなか “12000 Lines” が突破口になったとのことですが、その曲のどのような点が、あなたたちにインスピレーションを与えたのでしょうか?

JK:ああ。思うに……まあ、あの曲自体が実に、とても美しいものだしねえ……。ただ、僕が思うのは、今回のアルバム向けにおこなった複数のレコーディング・セッション全体のなかで、はじめて何かが起こったのがあの曲だった──というのも、あの曲を録ったのは最初にやったセッションでのことだったし──からじゃないかと。僕たち全員があの曲を高めている、そんな手応えがあった。だから、録り終えた音源を聴き返すまでもなく、プレイしたあの場で即座に、自分たちには……「いまの、すごかったよね? 絶対なんか起きたよ、かなりやばくない?」とわかっていたっていう(笑)。だから、僕たちはあのときやっと、フィジカルな面での正しい状態──各人がどこにポジションを占め、同じ空間でどんな風にお互いの音を聴けばいいのか、そこを発見したっていうかな。だから、あの曲はある意味突破口になったんだね、あれをプレイバックしてみたとき、みんなが(驚いたような表情を浮かべつつ)「……うん、素晴らしい響きじゃん! これ、すごくいい!」と思った(笑)。

(笑)。

JK:(笑)いや、でもさ、最初の段階だと、そういう風に自信を与えてくれる要素って必要なんだよ、はじめのうちはいろいろと試すものだから。ドラムの位置をあれこれ変えたり、エイドリアンの立ち位置を取っ替え引っ替えしたり……そういう技術面での、エンジニア系の作業のすべてを経てみるし、ところが、いざ出た音を聴いてみると──「まだ『音楽』に聞こえないなぁ……」(苦笑)みたいな気がしたり。

(笑)。

JK:(笑)要するに、まだレコードになっていないし、いずれなんとか形になってくれますように、と願いつつやっていく。だから、あれ(“12000 Lines”)は、はじめて「うん、これはグレイトな響きだ」と思えた1曲だったっていうか。

“Time Escaping” や “Wake Me Up To Drive” のように、ユニークなリズムを持った曲が目立つのも本作の面白さだと思います。このようなリズムの工夫は、どのように生まれたのでしょうか?

JK:その多くは、たぶん……このバンドのメンバーは誰もが、音楽的な影響という意味で、いろんなヴェン図を描いているからじゃないかな? もちろん、4人全員が好き、というものもちゃんとあるんだよ。だけど、全員の好みが重なる領域は狭いし、だからある意味、この4者がピタッと一致した中央のエリア、そこにビッグ・シーフが存在する、みたいな(笑)?

ああ、なるほど。

JK:(笑)それが主要部であって、そこでは全員が「ビッグ・シーフが好き!」ってことになる。でも、全員がそれぞれに、個人的に好きなものもたくさん含まれている。そこには被っているものもあるよ。だけど、たとえばバック、彼の背景は……ジプシー・ジャズにあるんだよ、ジャンゴ・ラインハルト系っていうかな。だから、バックは彼なりにとてもリズミックな音楽家だし、非常に独特なスウィングを備えている。一方でマックス(・オレアルチック/ベース)は、とんでもないリズム・キープをやってくれるひとで、彼もジャズ・ベース奏法をルーツに持っている。だからあのふたりはどちらも、テンポの維持っていう意味では、僕よりもはるかに腕がいいっていうのかな(苦笑)、ビートにジャストに乗っていくって面では、あのふたりはドラマーだよ。

(苦笑)。

JK:その一方で、エイドリアンについて言えば、彼女のタイミングの感覚は彼女の運指のパターンに、フィンガー・ピッキングに多くを依っていて。だから、この4人はそれぞれが異なるリズム感覚を備えているってことだし、僕が思うに今回のアルバムでは、僕たちはそれらをごく自然に溶け合わせた、そういうことじゃないかと。だから、たとえば「これこれ、こういうことをやってみない?」って場面もあるわけ。言い換えれば、自分にもおなじみのフィーリングを追求するっていうか、過去の作品を参照することがある。「これはニール・ヤングっぽくやった方がいいんじゃない?」とか、「リーヴォン・ヘルム(※ザ・バンドのドラマー)っぽくやったらどう?」って具合にね。でも、今回のアルバムでは、僕はそれよりも「ここは、『僕たちならでは』でやってみるべきじゃないかな?」と示唆したっていう。うん……僕たちは全員リズムが大好きだし、リズムにグルーヴして欲しいと思ってる。それくらい、リズムには敏感なんだ。

「これは自分には不自然だ」と思うことって、おのずとわかるものだ、というか。で、それはオリジナリティがあるか否かではなく、自分が本当にやろうとしていることは何なのか、ということなんだよね。

ビッグ・シーフの音楽の魅力は、そのアンサンブルの濃密さによって4人の関係の緊密さ、ミュージシャン/友人同志としてのタイトさが音から強く伝わってくるところだと思います。何か、特別なことがここで起こっているぞ? みたいな。

JK:うん。

ただ、あなたたち自身はそのことを意識しているのでしょうか?──もちろん、そうは言っても、いわゆるニューエイジ的な「神がかった」スペシャルさ、という意味ではないんですけどね。

JK:(苦笑)うんうん、わかる。

意図的にやっているものではないにせよ、自然に生まれるこのケミストリーを、あなたたち自身は自覚しているのかな? と。

JK:確実にあるね、うん。だから……僕たちも、そういうことが起きているのは感じてる。そうは言っても、必ずしも四六時中いっしょにプレイしている、ってわけじゃないけれども。ただ、それでもつねに感じてきたというのかな。バンドの初期の頃ですら、自分たちはある意味気づいていたんだと僕は思うよ……「このバンドには何かが宿っているぞ」と。だから、僕たちが演奏していて互いにガチッと噛み合ったと感じるときには、何かクールなことが起きている、みたいな? 要するに、「ジェイムスはいいドラマーだし、マックスも優秀なベース奏者。エイドリアンはグレイトなソングライターであるだけじゃなくギターも達者だし、バックも上手い」的な、単純に各人の才能を足した総計、「ビッグ・シーフは全員優秀だよね!」という以上に大きい何かがある。いやいや、それだけじゃなくて、ビッグ・シーフにはちょっとした、特別なケミストリーが働いているんですよ、と。だから、いっしょにプレイすればするほど、僕たちはそのケミストリーをもっと感じることができる。そのぶんそこにアクセスしやすくなるし、化学反応が起きている/逆にそれが起きていないかも、すぐわかる。それは、録音音源からも聴き取れると思う。だから、たとえその曲にダラッとしたところやミスが残っていても、聴き手は「おーっ、ちょっと待った、これは……!?」と気づくんじゃないかな。それらのミスは、たとえば歌詞が間違っていたら直すし、ヘンなドラムのフィルもすぐに修正できるって類のものだよ。けれども、この演奏には他の楽曲以上に「僕たちならではの何か」がしっかり宿っているってこと、そこは聴き手にもわかるだろうし……(苦笑)第六感みたいなものだよね。だから、もちろん、それは言葉では表現しにくいわけで──

(苦笑)ですよね。

JK:要するに、これは一種の、「サムシング」だからね(苦笑)、僕たちの間に走っている、何らかのエネルギーなんだし。だけど、間違いなくリアルなものでもあるんだよ、ってのも、そのエネルギーが発生していないと、それも僕たちにはわかるから。たとえば、とある音源を聴き返してみたら、誰もがお互いに対してイライラして怒っているように聞こえるんだけど、どうしてだろう……? と思ったり(苦笑)。

(笑)。

JK:で、「そうか、たぶん自分たちには休憩が必要だな!」と悟るっていう(笑)。

エイドリアンさんの書く歌詞は感覚的なものも多いですし、パーソナルな感情や体験を出発点にしているように思えます。バンドのなかで、彼女の書く歌詞の感情や主題はどのようなアプローチでシェアされるのでしょうか?

JK:うん……主題がデリケートになることもあるよね。そこに対する僕たち全員のメインのアプローチの仕方というのは、言葉と歌とをサポートしようとする、かつ、それを通じて人間としてのエイドリアンをサポートすることじゃないかと思う。これは特別だというフィーリング、あるいは傷つきやすい何かだというフィーリングが存在するし、それによってこちらも歌に対して一定の敬意を払わなくてはいけないな、という気持ちになる。なぜかと言えば、このひとはそれだけ覚悟して自分自身をさらけ出してくれているんだってことがわかるし、本当に、そのパフォーマンスを、そのひとが何を言わんとしているのかをしっかり感じ取ろうとするようになる。だから、その面をサポートしたい、それに向けてプレイしたいと思う、というか。それもあるし、そうすることで自分自身に対しても少しオープンになるってところもあるだろうね。僕たちはとにかくあれらの歌に惚れこんでいるわけだけど、いくつかの歌に至ってはもう、僕たちそれぞれが「うっわあ……この曲は『宝石』だ!」と感じるっていうのかな、だから、その曲の歌詞が僕個人にとってすごく特別な意味を持って迫ってくる、という。そんなわけで、うん、(歌詞/主題等)はデリケートなこともあるけれども、それもまた、歳月のなかで僕たちが育んできたリスペクトみたいなものの一部なんだと思う。エイドリアンは、僕たちは彼女の歌と歌詞とに心から気を遣っている、そう信頼してくれているし……だから、僕たちが歌を真剣に捉えずにふざけていたりして、そのせいで彼女が孤島にひとりっきりで疎外された気分にさせるつもりは僕たちにはない、というか? リードしているのは彼女だし、彼女の強烈さだったり、目指す方向性、僕たちはそこについていこうとしているから。

お話を聞いていると、あなたたちの関係は「トラスト・ゲーム」みたいなものですね。みんなが受け止めてくれるのを信じて、後ろ向きに倒れる、という。

JK:(笑)ああ、うんうん、トラスト・フォールね!

はい。それをやれるだけ、エイドリアンもあなたたちを信じているし、あなたたちもそれを受け止める、それだけ絆が強いバンドなんだなと思います。

JK:うん、その通り。

(カントリー/フォーク・ミュージシャンの)ジョン・プラインが亡くなったとき、バンドが追悼を捧げていたのが印象的でした。

JK:ああ、うん。

実際、あなたたちの音楽を聴くと、様々な時代の様々なアーティストの影響が豊かに入っていると感じられます。少し大きな質問になってしまうのですが、ビッグ・シーフはアメリカの音楽の歴史の一部であるという意識はありますか? ある意味、未来に向けてその松明を運んでいる、というか……。

JK:うん、言わんとしていることはわかる。そうだな、僕の見方としては……その「対話」の一部として参加している、という感じかな。僕たちの受けてきた影響ということで言えば、ジョン・プラインは本当に大きな存在だし……だから、ジョン・プラインはすでに世を去ったわけだけど、いまもなお、僕たちの音楽は彼の音楽と対話を続けているし、それに強く影響されている、みたいな? そうあってほしい。でも、と同時にそれは、彼の音楽に対する反応でもある、っていうのかな。たとえば、「ああ、あなたのその表現の仕方、好きだなあ!」とか。自分も同じことを言いたいと思ってるけど、あなたが表現するとこうなるんですね! みたいなノリで、一種の、クラフト(技術)とアイデアの交換が起きているっていう。で……うん、いろんなレコードとの間で、ある種の対話が起きているなと僕は感じているし──じつに多彩な人びとが、様々なやり方でいろんなことをまとめ、音楽的な合成をおこなっているわけだし、いまやクレイジーで手に負えないっていうか(苦笑)、とんでもない量だからいちいちフォローすることすら無理、みたいな。けれども、一種のスレッドみたいなものは存在するよね……様々な影響を取り入れるというか、自分の気に入ったもの、あるいは霊感を与えてくれる何かを取りこんで、そこから何かを作り出そうとする、というスレッドが。僕たちはそれをやるのがとても気持ちいいし、っていうか、自分たちがオリジナリティ云々に強くこだわったことって、これまでなかったんじゃないかと思うよ(笑)? 要するに、自分が「これだ、こう言うのが正しい」と感じる、あるいは逆に「これは自分には不自然だ」と思うことって、おのずとわかるものだ、というか。で、それはオリジナリティがあるか否かではなく、自分が本当にやろうとしていることは何なのか、ということなんだよね。

ビッグ・シーフはリアルな感情や人間関係を描きながら、同時に、本作でも宇宙やドラゴン、自然や動物、魔法といったファンタジックなモチーフが登場するのが面白いと思います。

JK:(笑)たしかに。

なぜこの世界にファンタジーが必要なのか問われたら、ビッグ・シーフはどのように答えるとあなたは考えますか?

JK:なるほど。思うに、このアルバムのタイトルに僕たち全員がとても強く惹きつけられた、その大きな要因は──はじめから、僕たちがこのレコードを作る前から、あのタイトルは存在していたんだ。だから、あのタイトルがレコードに影響を与えたっていうのかな、「これは、『Dragon New Warm Mountain I Believe in You』って感じがする音楽だろうか?」みたいな……あれはいろんなものを意味するフレーズだろうけれども、思うに、こう……あれはとにかく、世界にはこの「マジック」が存在するってこと、音楽(ミュージック)のなかにはマジックがあるんだ、そこを認めようとすること、というのかな。ほんとに……ロジックだの、物事の基本の仕組みが通用しない何かであって、それよりもずっと、ずっと大きなものだ、と。だから、たんに「ドラム、ベース、ギターがあって、そこで誰かが歌ってる」程度のものじゃないし──いや、たしかにそうなんだけれども、たんにそれらを足しただけじゃなくて、それとはまた別の何かが起こっているんですよ、みたいな(笑)。だから、僕たちのプレイの仕方、そして音楽への耳の傾け方のなかでは、何かが起きている、と。で、うん……この世界において、そういった抽象的というのか、空想的/突飛のないコンセプトなんかを想像力を通じて鍛える、それによって試されるのって、大事なことじゃないかと思う。そうやって想像力を働かせることで、物事は何もかもディストピアンなわけじゃないんだ、と思うことはね(苦笑)。この世の終わりだとしても、そこでイマジンできるようにならなくちゃ、みたいな。いまの世のなかはリアルじゃないし、そこに向かっていくのではなく、むしろ想像力を働かせていこう、と。というわけで、うん、とにかくそうしたマジカルな要素を持つのって、大事だと思う。というのも、僕たちだってみんな、音楽のなかにマジックが宿っているのは知っていると思うし──ただし、それって「これ」と名指しするのが難しいものであって。でも、僕たちとしては、「いや、たしかに何かが存在しているし、それはスペシャルなものなんです」ってところで。でも、たぶん……「それは何ですか?」と問われても、はっきり形容しがたい、というね、うん。

質問は以上です。今日は、お時間いただき本当にありがとうございます。

JK:こちらこそ、質問の数々、ありがとう。

近いうちに、あなたたちがまたツアーに出られることを祈っていますので。

JK:僕たちもそう思ってるよ、ありがとう!

■ビリー・ホリデイ、死の真相

 2020年5月、アメリカ・ミネソタ州ミネアポリスで白人警官に殺害された黒人男性ジョージ・フロイドの死によって、1939年に録音されたビリー・ホリデイの名曲“奇妙な果実”が脚光を浴びている。「南部の木には奇妙な果実がなる。血が葉を濡らし、根にしたたる。黒い体が揺れている、南部のそよ風に」。リンチで殺害され木に吊るされた黒人の死体を描写したこのプロテスト・ソングは、ブラック・ライヴズ・マター(BLM)運動の時代に新たな重要性を発揮し、2020年上半期には200万回以上ストリーミング再生されている。
 この曲は1965年にジャズ歌手で公民権運動の活動家でもあったニーナ・シモンがカヴァーした。シモンは「私がこれまでに聞いた中で最も醜い曲だ。白人がこの国の同胞にしてきた暴力的仕打ちとそこから生まれた涙という意味で、醜い」と語った。厳粛なピアノの音色に乗って深い悲しみを表現したシモンの曲は2013年にカニエ・ウエストが、2019年にはラプソディがサンプリングしている。ラプソディは「80年も経っているのに、あの曲は今の時代を物語っている」と振り返っているが、黒人がリンチで殺害されることが当たり前だった時代にビリーが歌った“奇妙な果実”は21世紀の人種問題や社会問題とも共鳴し続けているようだ。
 歴史学者の研究によると、1883年から1941年までの間にアメリカでは3000人以上の黒人がリンチを受け殺されているという。ボブ・ディランの“廃墟の町”は「やつらは吊るされた死体の絵葉書を売っている」という歌詞で始まるが、南部で普通に見られた〝奇妙な果実〟は当時、絵葉書として出回っていたというのだ。
 こんな時代に“奇妙な果実”を定番曲として歌ったビリーが一体どのような仕打ちを受けたのかはあまり知られていない。リー・ダニエルズ監督の最新作『ザ・ユナイテッド・ステイツVS.ビリー・ホリデイ』は、米連邦麻薬局が仕掛けた巧妙な罠によって死に追いやられたビリーの死の真相を描きだしている。
 映画の原作はヨハン・ハリの『麻薬と人間 100年の物語』(作品社)。ハリは、『ル・モンド・ディプロマティーク』紙や『ニューヨーク・タイムズ』紙などで健筆をふるう英国出身のジャーナリストだ。アムネスティ・インターナショナルの「ジャーナリズム・オブ・ザ・イヤー」に2度選ばれている。同書は、1930年に連邦麻薬局の初代局長に任命され、フーバーからケネディまで5代の大統領の下で32年間「麻薬局の帝王」として君臨したハリー・アンスリンガーに着目し、彼が書き残した記録などを基に、彼が麻薬と黒人ジャズ・ミュージシャンへの怒りをビリーに集中していった経緯を見事に暴いている。

■奴らを牢屋にぶち込め!

 禁酒法時代の取締官だったアンスリンガーはカリブやアフリカの響きが入り混じったジャズを「黒人にひそむ生来の衝動」と考え、「真夜中のジャングル」と評した。「ジャズの演奏家の多くはマリファナを吸っているおかげで素晴らしい演奏をしていると思い込んでいる」という部下の報告もあった。マリファナは時間感覚を損ねるので「(即興演奏の)ジャズが気まぐれな音楽に聞こえるのはそのせいだ」とも語っている。いずれにせよ、ハリによるとアンスリンガーは「チャーリー・パーカー、ルイ・アームストロング、セロニアス・モンクといった男たち全員を牢屋にぶち込みたくて仕方がなかった」というのだ。
 というのも、「(薬物依存症の)増加はほぼ100%、黒人によるもの」と考えたからだ。アンスリンガーが薬物戦争を遂行できたのはアメリカ人が感じていた恐怖に負うところが大きい。『ニューヨーク・タイムズ』紙は「黒人コカイン中毒者、南部の新しい脅威に」と書いた。「これまでおとなしかった黒人がコカイン中毒で暴れている。……署長は拳銃を抜いて銃口を黒人の心臓に向け、引き金を引いた。……射殺するつもりだったが、銃弾を受けても男はびくともしなかった」。コカインは黒人を超人的な存在に変えてしまい、銃弾を浴びても平気なのだと噂されていた。そのため南部の警察で使われる銃は口径が大きくなった。ある医療関係者は「コカイン依存症のニガーを殺すのは大変だよ」と語っている。
 「黒人が怒るのは白い粉が原因だ。白い粉を一掃すれば黒人はおとなしくなり、再び服従する」と考えたアンスリンガーは、部下を使ってミュージシャンを尾行させ、「ジャズをやるやつら」を一網打尽にしようとした。だが、ジャズメンには堅い団結があった。密告者をひとりとして見つけることができなかった。仲間がひとりでも逮捕されると彼らは資金を募って保釈させた。米財務省はアンスリンガーの連邦麻薬局が時間の無駄遣いをしていると批判しはじめた。やむなく、彼は当時、ニューヨーク・ダウンタウンの人種差別のないカフェ・ソサエティで“奇妙な果実”を歌い、人気上昇中だったジャズ・シンガーのビリーに狙いを定めることにした。
 アンスリンガーはビリーがヘロインを使っているという噂を聞きつけ、ジミー・フレッチャーという職員を「覆面警官」としてビリーの元に送り込み、監視させた。ジミーは薬物を売る許可を持っており、自分が警官ではないことを証明するために客と一緒にヘロインを打つことも認められていた。ビリーを逮捕するために送り込まれた捜査官を信用したビリーは、彼を部屋に招き入れ、麻薬所持で逮捕された。その時、身体検査した女性警官とジミーの目の前で、ビリーは真っ裸になり「見てごらん」と放尿した。

■パパを殺したものすべてが歌い出されている

 “奇妙な果実”はそのカフェ・ソサエティで生まれた。作詞作曲は共産党員の教師エイベル・ミーアポール(ペンネームはルイス・アレン)だが、ビリーは自伝(油井正一・大橋巨泉訳『奇妙な果実 ビリー・ホリデイ自伝』晶文社)の中で「彼(ミーアポール)は、私の伴奏者だったソニー・ホワイトと私に、曲をつけることをすすめ、三人は、ほぼ三週間を費やしてそれをつくりあげた」と書いている。これに対してミーアポールは沈黙を守った。「レイシストたちにビリーを攻撃する材料を与えたくなかった」というのがその理由だ。
 ビリーはこの歌詞に「パパを殺したものがすべて歌い出されているような気がした」と語っているが、ギタリストだった父クラレンスは巡業先のテキサス州で肺炎に罹り、黒人であるがゆえに病院をたらい回しにされた挙げ句、39歳で「白人専用病院」で亡くなった。ビリーは「テキサス州のダラスが父を殺した」と叫んだ。差別の激しい南部でリンチを受け、木に吊るされた黒人の姿を、自分の父親の死に重ね合わせたのだ。
 ビリーは自伝の中で、カフェ・ソサエティで初めてこの曲を歌った晩をこう書いている。「私は客がこの歌を嫌うのではないかと心配した。最初に私が歌った時、ああやっぱり歌ったのは間違いだった、心配していた通りのことが起った、と思った。歌い終わっても、一つの拍手さえ起らなかった。そのうち一人の人が気の狂ったような拍手をはじめた。次に、全部の人が手を叩いた」
 それからは毎晩、ステージの最後の曲として歌った。感情をすべて出し切って歌ったので、歌い終わると立つのがやっとになった。ビリーが歌い出す瞬間、ウェイターは仕事を中断し、クラブの照明は全て落とされた。こうして黒人へのリンチに対するプロテスト・ソングはビリーの十八番になった。この曲のレコーディングは大手の〈コロンビア〉には断られたが、インディー・レーベルの〈コモドア・レコード〉によって実現し、ビリー最大のベスト・セラーになった。
 ビリーが歌う“奇妙な果実”は多くの黒人の心を奮い立たせると同時に、レイシズムを嫌う白人の間にも感動の輪を広げた。黒人解放運動はカフェ・ソサエティの晩に始まったと数年後に言われるようになった。連邦麻薬局が「その歌を歌うな」と禁じたにも関わらず、ビリーが勇気を奮って歌い続けたからだ。

■あいつらはあたしを殺す気なのよ

 当時、連邦麻薬局は財務省の奥の薄暗い場所に置かれていた。かつては酒類取締局だったが、1933年に禁酒法が廃止されたため、即刻取りつぶしになっても仕方のないような弱小組織だった。それをアンスリンガーは「地上からすべての薬物を一掃する」ことを誓い、一大組織に育て上げた。アンスリンガーが残した記録によると、彼はジャズ界で唯一ビリーにこだわり、手を緩めなかった。
 薬物所持で逮捕され、女性刑務所で8ヶ月の服役を終えた後も、ビリーを執拗に追い回した。ビリーのヒモを脅して彼女のポケットにヘロインを忍ばせ、麻薬所持で現行犯逮捕したこともあった。ビリーを破滅に追い込むため、アンスリンガーはありとあらゆる罠を仕掛けた。
 最初に薬物所持でビリーを逮捕したジミーは「アンスリンガーに話をつけてやる」とビリーに約束し、その後もビリーに接近し続けた。母親から「あんな素晴らしい歌手はいない」と諭されてこともあった。それから、捜査官と麻薬依存者がクラブで一緒に踊る姿が見られるようになった。そのうち愛し合う関係になった。ビリーが薬物所持で再逮捕された時には裁判所でビリーに有利になる証言をしてアンスリンガーの怒りを買った。だが、アンスリンガーはビリーの情報を得るため捜査官としてジミーを使うことを厭わなかった。
 裁判が終わった後もビリーは“奇妙な果実”を歌い続けた。周囲の誰もが当局から睨まれるのを恐れて「歌わないように」とビリーを説得したが、「これは私の歌だ」と誰の忠告にも従わなかった。ビリーの友人は「彼女はどこまでも強い人だった。誰にも頭を下げなかった」と語っているが、その強さは黒人と麻薬を憎むアンスリンガーには通じなかった。
 その後もビリーは薬物とアルコールに溺れる生活を続け、1947年に解毒治療を受けるが失敗している。その数週間後にまたもや麻薬所持で逮捕され、懲役一年の刑に処せられた。度重なるスキャンダルのせいでニューヨークでの労働許可を取り消され、地方巡業に出るようになったビリーは経済的にも追い詰められ、麻薬とアルコールをやめることができなくなった。この間、カーネギーホールでのコンサートや欧州ツアーを一応は成功させたが、疲労や体重の減少による心身の衰えは隠しようがなかった。パリ公演を観たフランソワーズ・サガンは「(ビリーは)痩せほそり、年老い、腕は注射針の痕で覆われていた」「目を伏せて歌い、歌詞を飛ばした」と書いている。
 1959年、44歳になったビリーは、自宅で倒れ、病院に入院したが、既にヘロイン離脱症状と重度の肝硬変を患っており、心臓と呼吸器系にも問題があった。「長くは生きられない」と医者に言われた。それでもまだアンスリンガーはビリーを許そうとはしなかった。ビリーの方も友人に「見てなよ。あいつらは病室までやってきて、あたしを逮捕しようとするから」と吐き捨てるように言った。その言葉通り麻薬局の捜査官がやって来てアルミ箔に包まれたヘロインを見つけたと言って寝たきりのビリーを訴追した。ヘロインの包みはビリーの手の届かない病室の壁に貼ってあった。これも罠だった。
 警官2人が病室の入り口で警備に当たり、ビリーはベッドに手錠で拘束された。ビリーの友人らが「重病患者を逮捕するのは違法だ」と主張すると、警官はビリーの名前を重病人名簿から削除した。こうしてメタドン投与が打ち切られ、ビリーの体調は日に日に悪化した。ようやく面会を許された友人に向かってビリーは「あいつらはあたしを殺すつもりなのよ」と叫んだという。
 ビリーが病院のベッドで亡くなった時、警察は病室の入り口を封鎖し、彼女の死が公表されないようにした。手錠をかけられたビリーの足には50ドル札が15枚くくりつけてあった。ビリーを世話してくれた看護師たちにお礼として渡すはずだった。これが彼女の全財産だった。葬式の時に参列者が暴動を起こすことを恐れた警察はパトカーを数台出動させた。ビリーの親友は周囲の人たちに「ビリーは、彼女をめちゃくちゃにしてやろうという陰謀に殺された。麻薬局が組織をあげてそう画策したんだ」と怒りをぶつけた。

■ビリーは真のヒーローだ

 この映画で歌も雰囲気もビリー・ホリデイになりきったアンドラ・デイはスティーヴィー・ワンダーに見出された黒人ジャズ・シンガーだ。BLM運動のデモ行進でも歌われた“ライズ・アップ”の曲でグラミー賞にノミネートされたことがあるが、演技の経験はなかった。心配したリー・ダニエルズ監督が彼女に演技指導をつけたところ、その変身ぶりに驚いたという。監督は「彼女は演じているのではなく、ビリーそのものだった。神の声を聞いたような気がした」と語っている。
 当初、監督はビリーの曲に合わせてデイに口パクで演じさせる意向だった。だが、予定を変更しデイにはライヴで歌わせることにした。映画の中で“奇妙な果実”をフル・ヴァージョンで歌うシーンは圧巻だ。ビリーの深い悲しみと怒りが臨場感を持って伝わってくる。聞く者の心の琴線を強く揺さぶるシーンだ。まるでビリーがデイに憑依しているようで鳥肌が立った。
 このシーンについてデイはこう語っている。「ビリーとして、そして私自身として“奇妙な果実”を生で歌うことは、痛みのある体験だった。同時に不思議なことだけれど、カタルシスでもあった」
 ダニエルズ監督は1980年代後半のニューヨーク・ハーレムを舞台にした映画『プレシャス』で、母親から虐待を受けた黒人の少女がフリースクールの女性教師との出会いで「学ぶことの喜び」を知り、成長していく姿を描いた。1919年にヴァージニア州の農場で生まれた黒人の人生を描いた『大統領の執事の涙』(2013年)では、公民権運動やブラックパンサーの活動などを通して黒人から見た歴史を見せてくれた。
 今回の映画について監督はこう語っている。「政府がビリーを止めるただ一つの方法は、彼女を死の床に追い込むことだけだった。だから、ビリーは真のヒーローだ」。ヨハン・ハリによると、同じ麻薬中毒者でも白人歌手のジュディー・ガーランドや、「赤狩り」で知られる共和党上院議員ジョセフ・マッカーシーはアンスリンガーから良質な麻薬を渡され、逮捕されることもなく擁護されていたという。黒人はもちろん、共産党員や密売ルートとして中国やタイを槍玉に上げたアンスリンガーのグローバルな「麻薬戦争」は、自らが麻薬の “売人” になるという汚い戦争でもあった。
 結局のところ、彼の政策は麻薬密売シンジケートのギャングと取締当局をお互いに持ちつ持たれつの関係にしただけだったともいえる。アンスリンガーは終生、黒人差別と「地上から麻薬を一掃する」というパラノイア(偏執狂)に取り憑かれていた。ビリーはその犠牲者だが、“奇妙な果実”の歌声はデイによって模倣(ミメーシス)され、社会変革を求める「神の声」として現代に蘇った。

予告編

talking about Hyperdub - ele-king

 2021年のエレクトロニック・ミュージックにおいて、こと複数のメディアで総合的に評価の高かった2枚に、アヤの『im hole』とロレイン・ジェイムスの『Reflection』があり、ほかにもティルザの『Colourgrade』とか、えー、ほかにもスペース・アフリカの『Honest Labour』もいろんなところで評価されていましたよね。まあ、とにかくいろいろあるなかで、やはりアヤとロレイン・ジェイムスのアルバムは突出していたと思います。この2枚は、ベース・ミュージックの新たな展開において、10年代のアルカそしてソフィーといった先駆者の流れを引き寄せながら発展させたものとしての関心を高めているし、そしてまた、〈ハイパーダブ〉という21世紀のUKエレクトロニック・ミュージックにおける最重要レーベルの新顔としての注目度の高さもあります。ロンドン在住の現役クラバー、高橋勇人と東京在住の元クラバー、野田努がzoomを介して喋りました。

■アヤとは何者?

E王
Aya
im hole

Hyperdub/ビート

高橋:先週はコード9に会いましたよ。

野田:なんで?

高橋:イースト・ロンドンのダルストンにある〈Café Oto〉というヴェニュー。大友(良英)さんや灰野(敬二)さんがよくやってる。

野田:うん、わかる、日本でも有名。Phewさんの作品も出してるよね。

高橋:そこでアヤがインガ・コープランドの新名義ロリーナと対バンしたんですよ。

野田:くっそー、その組み合わせ、最高だな。

高橋:インガ・コープランド、とくにハイプ・ウィリアムスって、ある種、ダンス・ミュージック以外にも注目しはじめた第二期〈ハイパーダブ〉を象徴するアーティストですよね。

野田:そう、いまハイプ・ウィリアムスの話からはじめようと思ってた。高橋くんって、(マーク・)ロスコの原画って見たことある?

高橋:テート(・モダン)で見たことあります。

野田:あの抽象表現絵画って絵葉書とかになってたりするけど、原画はものすごく巨大で。

高橋:ウォール・ペインティングですもんね。

野田:あの原画の前に立ち尽くすと、圧倒的なものを感じるんだよね。俺はドイツの、たしかデュッセルドルフで原画を見たんだけど、しばらくその前から動けなかったぐらい圧倒された。ハイプ・ウィリアムスのライヴは、自分が21世紀で観てきたなかでいまだベストなんだけど、そのときのハイプ・ウィリアムスのライヴは、言うなればジャングルやベース・ミュージックの抽象絵画だったんだよ。

高橋:なるほど。

野田:抽象化されたベース・ミュージック。そのときのライヴは、壮絶な電子ドローンからはじまったの。サブベースありきのね。もし、“ドローン・ダブ” なんて言葉があるとしたら、あれこそまさにそんな感じだった。それで最初にアヤを聴いたとき、ハイプ・ウィリアムスの続きがここにあると思ったんだよ。ほら、冒頭の電子ドローン、あれを大音量でちゃんとしたシステムで聴いたら、近いモノがあると思うし、電子的に変調された声もそう。

高橋:ははは、そうなんですね。僕にとってハイプ・ウィリアムスとは〈ハイパーダブ〉からの『Black Is Beautiful』ですよ。あのイメージが僕には強い。だから、サンプリングを重視したすごく変なポップ・ミュージックって印象です。

野田:そうだよね。コンセプチュアルでメタなエレクトロニカだよね。とくにその後のディーン・ブラントは音楽そのものを偽装する奇妙でメタなポップ路線に走るけど、あのときのライヴは、言葉が通じない日本人に対してサウンドで勝負したんだよな。そこへいくと、アヤは詩人であり、言葉の人でもある。しかしそのサウンドがあまりにも斬新なんだ。ちなみにさ、アヤってどこから来た人なの?

高橋:経歴を説明すると、出身は北イングランドのヨークシャー。いまって若手のアンダーグラウンドのミュージシャンでも、大学で音楽を勉強している人がすごく多いじゃないですか、ロレイン・ジェイムスとレーベルの〈Timedance〉を主宰しているブリストルのバトゥと彼のレーベルメイトなんかもそうだし。アヤもそうで、音楽大学でミュージック・プロダクションを勉強して、そこで出会ったティム・ランドというランドスライド(Landslide)名義でドラムンベースを作っていた先生に出会うんですよ。その人からアヤはアルカやホーリー・ハードンなどについて学んでいる。

野田:えー、大学でアルカを学ぶって。日本じゃ考えられない(笑)。

高橋:(笑)それがウェールズの大学で、アヤはそこからマンチェスターにいった。そこでベースやUKガラージのシーンへと入って、〈NTS〉マンチェスターとかその周辺の人たちとやっていた。で、『FACT Magazine』のトム・レア元編集長がはじめた、ロンドンの〈Local Action〉レーベルがあって、現行のベース系だけど、ダブステップよりもUKガラージとかから派生している、フロアで機能するようなレーベルです。そういったコミュニティにいたのがアヤ。そこではまだ、ロフト名義でやってた。

野田:ロフト名義のころから注目されてたの?

高橋:詩のパフォーマンスもやってはいたけど、リリースでは音がメインでしたね。ちなみに、トム・レアやその周辺のベース・ミュージックと日本でつながってるのはdouble clapperzのSintaくんとかじゃないかな。

野田:Sinta、素晴らしいな。

高橋:トム・レアってすごく敏腕ディレクターで、新しいことをいろいろやってる。いわゆるEDM的なものではない、カッティング・エッジなベース・ミュージックをロンドンから発信していた。そのなかのひとつとして、ロフトも注目されていた感じです。ロフトはブリストルの〈Wisdom Teeth〉からもリリースしていて、アンダーグラウンドのベース・ミュージック新世代のひとりとして認知されていましたよ。

野田:話が飛んじゃうけど、いまブライアン・イーノの別冊を作っているのね。60年代から70年代って、イギリスはアートスクールがすごかった。アートスクールという教育機関が、70年代のUKロックに影響を与えていたことは事実なんだけど、きっと、いまはそれが大学なんだね。

高橋:まあ、アートスクールが大学ですからね。ブレア政権時代に、いわゆる昔の職業専門学校みたいなのが大学になったりしている。その大学改編の一環で、それまでのアートスクールが大学になっているんじゃないかな。いわゆる美大みたいな感じに。

野田:なるほど。それでアルカについて教えたり、Abletonの使い方を教えたりしてるんだ。そりゃあ面白いエレクトロニック・ミュージックが出てくるわけだな(笑)。ブライアン・イーノがアートスクール時代の恩師からジョン・ケージや『Silence』、VUなんかを教えてもらったようなものだね。

高橋:似ているかもしれない。それこそ僕の在籍しているゴールドスミス大学はジェイムス・ブレイクの出身校ですからね。


Photo by Suleika Müller

野田:話を戻すと、アヤの『im hole』は2021年出たエレクトロニック・ミュージックではいちばん尖った作品だったよね。

高橋:尖ってましたね。

野田:しかもあれって、ベース・ミュージックだけじゃなく、ドローンやアシッド・ハウスとか、いろんなものがどんどん混ざっている。ハイブリットっていうのはまさにUKらしさだし、まあいつものことなんだけど、アヤのそれは抽象化されているんだけど、巧妙で、リズムの躍動感が抜群にかっこいいんだよ。

高橋:僕の好きな曲は4曲目の“dis yacky”です。

野田:あー、わかる、あのベースが唸るやつね(笑)。アルバムを聴いていって、あの曲あたりから踊ってしまうんだよ。部屋のなかで。

高橋:基盤にグライム、ダブステップとジャングルが入ってる。曲の作り方がほかの人とぜんぜん違います。ちなみに、アヤはもともとドラマーでリズム感がめちゃくちゃいいんです。あれって普通に聴くとダブステップと同じようなスピードなんですよ。でも、うしろで鳴ってるのが五連付のドラムロールで、その音だけ、だいたいBPMが170でジャングルと同じなんです。で、アヤはそのBPM170をエイブルトンで設定して作っているんだけど、普通に音楽を聴くときはダブステップやグライムで主流のBPM140で聴こえる。つまりポリリズムですよね。普通はそうやって凝り過ぎるとIDMっぽくなるというか、フロアではシラケちゃったりする。けれどアヤはそこのバランスがうまい、ぜんぜんサウンドオタクっぽく聴こえない。

野田:なるほど、たしかに。

高橋:僕はそこにある種の、ポリリズムとある種のクィアなアイデンティティの相関関係みたいなものがあるんじゃないかと思った。クィア・サウンドとはこれまでにない音を作り出す、それまでのサウンドの境界線をプッシュするというか。そこでポリリズムもリズムの多重性と考えられないかなと。ちなみにアヤ自身はトランスウーマンで、自分のジェンダー自認は女性って公表しているので、その自認がクィア、つまり男性でも女性でもない、というわけではないんですけどね。ただ彼女の生き方には、そういったクィア性はみてとれる。そういった表現をサウンド・テクスチャ―から感じるプロデューサーはいるけど、リズムでやってる人はそこまでいないような気がする。

野田:クィア・サウンド……、なるほどね、それっていま初めて聞いた言葉だけど、面白いね。だって、ハウスはゲイ・カルチャーから来ていて、やっぱりあのサウンドにはその文化固有のエートスが注がれているわけで、最近のエレクトロニック・ダンス・ミュージックでおもろいのは、気がつくとクィアだったりするんだけど、同じようにその独特なノリやその文脈から来ているテクスチュアがあるんだろうね。

高橋:10年代でいえば、〈Night Slugs〉なんかがクィア・シーンではすごい人気ですけどね。

■ソフィーの影響はでかかった


Photo by Suleika Müller

野田:アヤは〈ハイパーダブ〉がフックアップしたの? 

高橋:これはスティーヴ・グッドマン(コード9)がロフトのライヴに感銘を受けて、〈ハイパーダブ〉から出したとインスタグラムで言ってました。まずポエトリー・リーディング、詩のパフォーマンスがすごいとも言ってた。そしてあのサウンドテクスチャー。

野田:〈ハイパーダブ〉の資料によると、アヤはクィア文化に対しても批評的なことを言ってるよね。それも俺、興味深く思っててさ、自分がクィアでありながらクィア文化に対しても批評的であるということは、それが「LGBTQであるから評価するのは間違っている」ということだよね?

高橋:そうです。つまり、クィア文化そのものを批判しているんじゃなくて、そこに向けられる言葉に懐疑的なんです。「LGBTのサウンドはこうでしょ、LGBTのアーティストに求められるものはこうでしょ」、といったものを完全に拒否した音楽です。

野田:逆に言うと、それはジェンダーの認識がすごく成熟に向かってるということでもあるのかね。

高橋:そういう見方もできるかもしれません。だからこそかもしれないけど、リリックのなかでクィアなアイデンティティを全面にだすより、単純に自分が感じている日常的なこと、たとえば自分はヨーク出身で、マンチェスターを経由していま音楽をやっているとか、そういうことをうまい言葉遊びで表現してる。だから必ずしも、クィアやLGBTを取り巻く言説に対する批判だけにとどまらないアティチュードが面白いんですよ。

野田:言い方を変えれば、ジェンダーを超えたところで評価してほしいってことだよね。

高橋:もちろん。アヤはソフィーからの影響が強いアーティストなので。

野田:あらためて思うけど、ソフィーはホント、でかいなぁ。

高橋:ソフィーなんてでてきた当初、誰がやっているかさえわからなかったじゃないですか。でも、ブリアルとぜんぜん違うのはメディアとかにもでていて、ソフィーが顔をだすまえ、つまりアルバム『Oil Of Every Pearl's Un-Insides』を出す前、インタヴューを受けても顔を隠して声も変えたりしてた。

野田:まさにそれはアヤもやってることだよね。

高橋:そう。〈NTS〉のラジオでもずっとやってた。ソフィーの影響だと思う。このアルバムにはソフィーが死んだ数日後に作ったという“the only solution i have found is to simply jump higher”という曲が入ってます。僕が買った『im hole』の本の謝辞にも「ソフィへ、すべての永遠の満月を(To SOPHIE for every full moon forever)」って書いてある。ポスト・ソフィーっていい区切りになりますよ。サウンド・ミュータントを追求するアルカやフロアで革新性を求めた〈Night Slugs〉もすごく影響力があるけど、ソフィーがやったハイパーポップがもっと重要みたいです。アヤとロレイン・ジェイムスはふたりともソフィーの影響下にありますからね。

野田:ああそうだね、ロレインも。


Photo by Suleika Müller

高橋:去年、僕が感動したDJは、ロレイン・ジェイムスが〈NTS〉でやったソフィーへのトリビュート・セット。あれは素晴らしい。ソフィーの楽曲だけじゃなくて、そのカバーもミックスしていて、みんなのソフィー像が浮かび上がってくるみたいなんです。 LGBTコミュニティに属するアーティストの紹介と言う意味でも、〈ハイパーダブ〉も頑張っていますね。クィア・アーティストとか、マージナルなアイデンティティの人をよくだすようになった。サウス・アフリカのエンジェル・ホ(Angel-Ho)とか。

野田:ところでアヤのライヴってどうだった?

高橋:2回観てますけど、去年のライヴ・ハウスみたいなとこでやったのは、黒いパーカーを着てステージにあらわれて、体を使ったボディ・パフォーマンスがすごかった。本人はスケボーもやっていて運動神経がすごくいいんです。

野田:あれで運動神経がいいなんて、ちょっと反則だ(笑)。

高橋:なんて言えばいいのかな……、ソフィーやアルカも、ライヴをやってるときってけっこうシリアスな感じになるんですね。でもアヤはそういう感じではない。どんなにシリアスになったときでも、アヤはお客さんとジョークを交えたコミュニケーションを取ることを忘れない。

野田:北部の人たちは、昔からロンドンのお高くとまったところに対抗意識を持ってるんだよ。

高橋:ありますね(笑)。うまく言えないんだけど、すごくイギリス人っぽいユーモアを持ったひとです。だからアルバムからは想像できないけど、すごくフレンドリーです。じょじょに曲が進むとパーカーを脱いで、すごくかっこいい衣装になってダンスしまくる、みたいな。その日はちょうど、アルバムにも参加してるマンチェスターのアイスボーイ・ヴァイオレットもMCでステージに現れました。アイスボーイのジェンダープロナウンは「They/Them」で、男性と女性でもないことを自認していますね。

野田:はぁ……(深くため息)、いまコロナじゃなきゃ、日本でもきっと見れたんだろうなぁ。君がうらやましいよ。じゃ、ロレイン・ジェイムスのことを話そう。彼女は〈ハイパーダブ〉が見つけたんじゃなく、ロレインが海賊ラジオに出演したとき、これは〈ハイパーダブ〉が契約しなきゃだめだろってリスナーが騒いで、で、〈ハイパーダブ〉が契約したっていう話を読んだんだけど。

高橋:たしかに。ロレインは同じ世代からの信頼がすごく厚いプロデューサーなんです。オブジェクト・ブルーというロンドンのプロデューサーや、ロレイン・ジェイムスのフラット・メイトで、〈Nervous Horizon〉を運営するTSVIと彼女は仲がいい。みんな非常にスキルフルで影響力のある作り手たちです。そういったロンドンのコミュニティがあるのは面白いですよね。

野田:面白い話だね。そういうのは日本からはぜんぜんわからないよね。

高橋:オブジェクト・ブルーさんは日本語が母国語のひとつだし、『ele-king』で日本語圏に向けて取り上げるべき人ですよ。最近ではジェットセットでもレヴューを書いてたな。彼女はレズビアンであることを公言していて、昔Twitterには自分のことをテクノ・フェミニストと呼んでいてかっこいいなと思いました。

野田:へー、それも興味深い。

高橋:そういうコミュニティからロレイン・ジェイムスがでてきてるっていうのは、ひとつありますね。いわゆる団体というよりも、友だちって感じですけど。

野田:ロンドンって再開発して物価が上がってボヘミアン的なアーティストが住めないって聞くから、もう新しいものは生まれないって思ってた。そういうわけじゃないんだね。

高橋:そんなわけでもないですよ。たしかにブレグジットの影響でボーダーは前ほど自由ではないけど、音楽シーンにインターナショナルな感じはあるかな。TSVIはイタリア人なので。ヨーロッパから人がたくさん集まってる。ベルリンみたいな雰囲気もあります。

[[SplitPage]]

■ロレイン・ジェイムスの内省

E王
Loraine James
Reflection

Hyperdub/ビート

野田:そのロレイン・ジェイムスなんだけど、彼女の『Reflection』、俺はアヤ同様に、昨年ものすごく気に入ってしまってよく聴いたんだよね。ドリーミーで、内省的なところにすごく惹かれたよ。ロンドンに住んでる人とは、日本はだいぶ状況が違うから聴き方も違っているのかもしれないけど、いまロンドンはプランBでもって、すべてのクラブは解禁されて、マスクなしでみんな騒いでるわけでしょ? でも日本はまったく違うのよ。年末年始に久々にリキッドルームやコンタクトに行ったけど、当然マスク着用で、基本、みんな静かに踊ってる感じ。日本はさ、なんか陰湿な社会になっていて、相互監視がすごくて、その場で注意されるんじゃなく、ネットで批判されたりするんだよ。で、まあ、久しぶりにクラブやライヴハウスに行くとやっぱ楽しいんだけど、でも、いつまでこうやって、マスク着用で静かに踊ってなきゃならないんだろうかって思うと、途方に暮れるんだよね。だから相変わらずひとりでいる時間も増えたりで、内省的にならざるをえないというか、むき出しのエネルギーみたいなものより、内省的なものにリアリティを感じちゃう。俺の場合はロレイン・ジェイムスはそこにすごくハマった。それにアヤとは違ってロレインのほうがメロディックじゃない?

高橋:まあ、そうですね。

野田:メロディがはっきりしていて、そういう意味ではポップともいえる。

高橋:アヤはどっちかというと、リズムの実験。

野田:そうだね、あとテクスチュア重視。ロレインもリズムはこだわってるけど、メロディのところでは対照的かもね。あとさ、ロレインって、紙エレキングでインタヴューさせてもらったんだけど、ほかのインタヴューを読んでも、すごく誠実そうな人柄が伝わってくるじゃん? IDMは大好きだけど、ベタなポップスもけっこう好きってことも言うし。俺はレコードで買ったけど、レコードには歌詞カードがちゃんと入っている。彼女はファーストがすごく騒がれて、で、がんばりすぎて鬱になってしまって、だから決してドリーミーな言葉ではないんだろうけど、でもサウンドはドリーミーなんだよね。悲しみから生まれた音楽かもしれないけど、悲しい音楽ではない。

高橋:パワフルでエネルギッシュな音楽ですよね。

野田:あるイギリスのライターが書いたレヴューで共感したのが、「この音楽は絶望から生まれたかもしれないけど、もっとも絶望から遠ざかってもいる」みたいなね。

高橋:そういう意味で〈ハイパーダブ〉にいままでなかった音楽ですよね。ロレイン・ジェイムスは顔が見えるというか。そういうパーソナルな部分がでている。〈ハイパーダブ〉は「ハイパーなダブ」ですからね。音の実験みたいなところ。ロレインそういう意味で〈ハイパーダブ〉の新しい章のはじまりかもしれない。僕はファースト『For You and I』に漂っている、あの自分の生まれ育ったノースロンドンをサウンドで振り返る感じがすごく好きです。

野田:ブリアルを輩出したレーベルだから、やはり匿名性にはこだわってきたんだろうし。

高橋:〈ハイパーダブ〉は2004年にはじまったわけだから、もうすぐ20年近くになりますね。

野田:最初はカタカナで「ハイパーダブ」って書いてあったんだよね。サイバーパンク好きだから。

高橋:そうですよね。クオルタ330とか、いまも食品まつりとか日本人のも出し続けてますね。

野田:食品さんが〈ハイパーダブ〉から出したのはいちファンとして嬉しかったな。


Photo by Suleika Müller

■〈ハイパーダブ〉とレイヴ・カルチャー

野田:〈ハイパーダブ〉には、レイヴ・カルチャーをリアルタイムで体験できなかった人たちがレイヴ・カルチャーを再評価するっていうところがあるじゃない?

高橋:そうかな?

野田:そうじゃないの?

高橋:たしかにコード9の後輩とも言えるゾンビーやブリアルは、本人たちも言っているようにレイヴを直接経験していないですよね。でもコード9、スティーヴ・グッドマンは1973年生まれのレイヴ世代ですよ。それこそグラスゴー出身で、レイヴに行ってた。そしてエジンバラ大学で哲学を勉強して、それからウォーリック大学に移って、そこでニック・ランドとセイディー・プラントが教鞭を取っていて、マーク・フィッシャーなんかもいた。いま頑張って訳してるマーク・フィッシャーの『K-PUNK』にも書いてあるんですけど、CCRUのなかでひとつ共有されていたのは、ジャングルは哲学化する必要なんかなくて、最初から概念的だったということだと、そうマーク・フィッシャーは言ってます。

野田:〈ハイパーダブ〉って、ブリアルとコード9がそうだったように、すごくメランコリックだったでしょ。それってやっぱり、1992年はもう終わったという認識があったからだと思うんだよね。

高橋:たしかに。

野田:ノスタルジーとメランコリックは違っていて、ノスタルジーは過去に囚われている状態だけど、メランコリックは過去は終わってしまったという認識からくるものでしょ。彼らのメランコリーって、そういう意味で過去を過去と認め明日を見ていたというか。それをこの20年くらいのあいだ実践してきたのがすごいなと。

高橋:面白いのは、コード9は自分のことをジャングリストっていうけれど、彼はいちどもストレートなジャングルを作ったことはないですよね。しかも、やっぱり最初にコード9が注目されたのはダブステップのシーンであったわけで。かといって、ダブステップの曲ばかり作っていたかといえばそうではなくて、UKファンキーを作ったりとか、そういうこともやってた。いま彼のプロダクションは、フットワークの影響が強い楽曲がメインですね。

野田:そのときどきの変異体に柔軟に対応しているよね。でもずっと通底しているのはジャングルから発展したベース・ミュージックだよね。

高橋:それはあります。彼がいうように、〈ハイパーダブ〉はサウンドの伝染していくウイルスで、形が変わってもジャングルの要素は残っているんでしょうね。DJではコード9はいまも直球のジャングルをかけてます。

野田:ま、UKアンダーグラウンドのブルースであり、ソウルみたいなものだしな。ちなみにUKのレイヴおよびジャングルをリアルタイムで経験してる音楽ライターって、日本では俺とクボケン(久保憲司)だけだと思うよ。これ自慢だけど。

高橋:〈ハイパーダブ〉のレーベル・カラーとしてスティーヴ・グッドマンが最初から明言してる重要なことなんですけど、自分たちはIDMみたいな音楽は出さないと言ってます。彼はもっとシンプルなダンス・ミュージックのフォーマットに惹かれているのであって、いわゆるIDMとされる音楽の表現形態とは離れてると。

野田:レイヴ・カルチャーってのはラディカルだったけど、大衆文化のなかにあったからね。業界のエリートが集まってやってたものではないから。

高橋:たぶんスティーヴ・グッドマンが考えているのは、いわゆるIDMみたいに複雑なことをやらなくても、常にそのなかに、あえていうなら哲学的でコンセプチュアルな可能性は秘められているというか。そこの価値転換みたいなことを〈ハイパーダブ〉は実践としてやっているのではないかと。コード9と同世代のリー・ギャンブルが数年前に〈ハイパーダブ〉に移籍したときはびっくりしたけど、彼のレーベル〈UIQ〉にもそれを感じるかな。リー・ギャンブルの〈ハイパーダブ〉の作品はすごく複雑でコンセプチュアルで、僕にはIDMに聴こえるんですが(笑)。

野田:ブリアルが新しい作品をだして話題になってるけど、タイトルが「Antidawn」だよね。

高橋:造語ですね。

野田:そう、「反夜明け」って造語。それって明るいものに対する反対みたいな、否定的なニュアンスで受け取られてるよね。でもね、レイヴ・カルチャーってことを思ったとき、レイヴの真っ只中では誰もが「夜明けなんて来るな」と思ってるんだよ。だから、必ずしも「Antidawn」は否定的な言葉ではないとも思ったんだよね。

高橋:なるほど。アンダーグラウンドの世界が終わらない、というか。野田さんって『remix』で、日本で唯一ブリアルにインタヴューしている人ですよね。

野田:まあ、電話だけどね。

高橋:あれすごく面白くて。彼が音楽の比喩として使っているのが、公園とかにある石を裏返すと虫が元気にうごめいてると。クラブ・ミュージックはそういうものだと、太陽が当たらないほうが元気だろ、と。こういうことをしゃべる人なんだって(笑)。

野田:そうそう(笑)。彼はほんとうにアンダーグラウンド主義者だよね。

[[SplitPage]]

■〈WARP〉や〈Ninja Tune〉との違い

E王
Burial
Antidawn

Hyperdub/ビート

高橋:「Antidawn」をどういうふうに聴きました?

野田:あれって日本にいるほうがリアリティを感じるよね。クラブに行きたくても昔のようには行けないじゃない。リズムがないってことはそういう状況の暗喩なわけで。

高橋:あれはロックダウン中に作られた音楽ですよね。個人的なことを話すとロックダウン中に、僕は散歩をたくさんしていた。クラブに行けない状況で、ヘッドホンをしながらパーソナルに聴く状況が増えた。その雰囲気にかなりぴったりですよね。レヴューでも書いたけど、僕はこの続きを聴きたいなって思わせる音楽だと思いました。

野田:スタイルとしてはサウンド・コラージュだよね。風景を描いている音楽。

高橋:野田さんは〈ハイパーダブ〉をずっと紹介してきたけど、いままでのUKレーベルの〈Ninja Tune〉や〈WARP〉との違いって何だと思いますか?

野田:そのふたつのレーベルはセカンド・サマー・オブ・ラヴの時代に生まれたってことが〈ハイパーダブ〉との大きな違いだよね。ただし、リアルタイムでレイヴやジャングルを経験するってことはそのダークサイドも知るってことで、あとからジャングルを形而上学的に分析することはできるだろうけど、あの激ヤバな熱狂のなかにいたらなかなかね……。

高橋:そういえば、野田さんは〈fabric〉から出たコード9とブリアルのミックスのことを形而上学的だって書いてましたね。

野田:で、ジャングルと併走して白人ばかりでドラッギーなトランスのシーンもあったし、だからあの時代(1992年)に〈WARP〉が“AIシリーズ”をはじめたことは、当時はものすごく説得力があったんだよね。IDMに関しては、その言葉はオウテカやリチャード・ジェムスもみんな嫌いで、だから90年代は“エレクトロニカ”って呼んでいたんだよ。そして、ではなぜ〈Ninja Tune〉や〈WARP〉がジャングルに手を出さなかったかと言うと、ひとつは、すでにレーベルがいくつもあった。〈Moving Shadow〉であるとか、4ヒーローの〈Reinforced〉であるとかゴールディーの〈Metal Heads〉であるとか、そういうオリジネイターに対してのリスペクトもあったし、でも、その革命的な音楽性に関してはドリルンベースなどと呼ばれたようなカタチで取り入れているよね。あと、ジャングル前夜のベース・ミュージックって、それこそブリープの元祖、リーズのユニーク3だったりするんだけど、そこと〈WARP〉は繋がってるじゃん。もともとシェフィールドのレコ屋からはじまってるわけで。そこに来てシカゴやデトロイトのレコードを買っていた連中が音楽を作るようになっていって、レーベルがはじまった。

高橋:それに対して、〈ハイパーダブ〉はウェブ・マガジンとしてはじまってるんですよね。その読者がブリアルであって、そこからいろいろつながった。そういう意味で、ゼロ年代のある種のインターネット音楽のパイオニアみたいなところもあったんじゃないかな。

野田:たしかにね。レコ屋世代からネット世代へってことか。

高橋:そういえば、スティーヴ・グッドマンは現実の政治性を全面にだす感じではなく、むしろ冷ややかに離れて見ていた印象があったんです。自分のイベントでは「ファック、テレザ・メイ」とMCで言っているのを見たりしましたけど(笑)。でも最近、ブラック・ライヴズ・マター以降の彼の言動をみると、〈ハイパーダブ〉がいまのブラック・ミュージックを世界に出すうえでのハブというか、ブラック・ミュージックを意識的に紹介していくことをひとつの重要な点として考えているってことをソーシャルメディアで公言しているんです。フットワークもそう。〈ハイパーダブ〉の00年代後半の功績のひとつとして、イギリスにフットワークを広く紹介した。

野田:それは〈Planet Mu〉でしょ。

高橋:〈ハイパーダブ〉と〈Planet Mu〉のふたつですね。〈ハイパーダブ〉はDJラシャドをだしてますから。また、〈ハイパーダブ〉から紹介されて以降、ラシャドはジャングルに興味を持つようにもなる。そういう相互関係も生まれてくる。コード9はいまもフットワーク・プロデューサーをどんどん紹介している。あと最近ではさっきのエンジェル・ホを出したり、南アフリカのゴム(Gquom)やアマピアノを紹介したり。西洋中心主義に陥いることなく、そういう音楽を意識的に紹介している。そういう意味で食品まつりを出したのも面白いですよね。

野田:〈ハイパーダブ〉はイギリスではどんなポジションなの? 

高橋:先日用があってブライトンに行ってレコ屋を覗いたんですが、「Antidawn」のポスターがメジャーなアーティストと並んでました。

野田:やっぱブリアルは別格だよね。でも、当然あの作品に対する批判はあるでしょ? あれだけ極端で、思い切ったことやっているわけだから。

高橋:ダンス・ミュージックじゃない点で、少し物足りなさを感じる人はいますね。あとはやってることがまえとそんなに変わってないから、もっと違うことをやればいいんじゃないかとか。そのまえにいくつか12インチをだして、そちらはダンサブルでいままでにないアプローチもあったから、そっちの続きが見たいって人も多いですね。

野田:そりゃまあ、そう思う人が多いことはわかる。

高橋:僕はロックダウン中、ダンス・ミュージックと同じくらいアンビエントもフォローするようになっていて。いわゆるアンビエント・サウンドのなかでも、すごくパーソナルな方向というか、そういうひとたちが増えたと思うんですよね。デンシノオトさんもレヴューを書いてますが、アメリカのクレア・ロウセイってひとはアンビエント音楽のうえで、すごくパーソナルなエッセイを朗読したり、すごく作り手の顔が見える音楽をやっている。

野田:ああ、なるほど。たしかにパンデミック以降、アンビエントの需要が拡大したのは事実で、「Antidawn」はブリアルにとってのアンビエント作品という位置づけもできるよね。

高橋:ロンドンの視点で言うと、コロナで休止しちゃったけど、エレファント・アンド・キャッスルの高架下にある〈Corsica Studio〉ってライヴ・ハウス/クラブで〈ハイパーダブ〉は「Ø(ゼロ)」というイベントを月イチでやってました。最初の回がコード9のオールナイト・セットで、さっき言ったインガ・コープランド、ファンキンイーブンやジャム・シティも出ていた回もありました。〈ハイパーダブ〉からリリースはしていないけど、ロンドンで活動しているプロデューサーをコード9がフックアップしていたんです。そういうブッキングは、彼ひとりでやるのではなく、たとえばシャンネンSPという黒人の女性のキューレーターと一緒にやっていたりする。ロンドンのダンス・シーンにはいろんな人種がいるわけだけど、その文化を意識的に紹介することも面白いと思いました。

野田:ポスト・パンク時代の〈ON-U〉みたいなものだね。俺さ、昔のレイヴ・カルチャーを思い出すとき、自分の記憶で出てくるのが、女の子の穴の空いた靴下なんだよね。これは91年にロンドンのクラブに行ったときの話で、当時のクラブはコミュニティ意識が強かったから、ひとりで踊っているとよく話しかけられたんだよ。「どっから来たの?」とか「何が好きなの?」とか。で、なぜかそんときある青年と仲良くなって、明け方「いまから家に来ない?」ってことになって、昼過ぎまで数人で車座になって紅茶を飲んで音楽を聴いたんだけど、そこにいたひとりの女の子が穴の空いた靴下を履いていたんだよね。それが俺にとってのあの時代のロンドンのクラブ・カルチャーであり、レイヴの時代の象徴というか、良き思い出だね。要するに、気取ってないし、牧歌的だったんだよ。

高橋:いまは牧歌的な感じではないかな……。日本とは比較できないオープンな感じはもちろんあるけど。

野田:じゃあ27歳くらいの俺がふらっと来て、そのまま誰かの家に行ったりすることっていまでもあるのかな?

高橋:それは僕もたまにありますよ。それこそ、ele-kingでレヴューを書いた2016年の〈DeepMedi〉の周年パーティのあと、ダブステップ好きの人と知り合って、その人の家で二次会しました(笑)。ブリアルかけたり、アンビエントかけたり。

野田:ああ、よかった。それ重要だよね。

高橋:でも、〈ハイパーダブ〉は牧歌的ではないですよね。もっと音楽そのものが持ってる凶暴な感じというか、サウンド・テクスチャ―であったりポエトリーの表現がつながるんだとか、いかに音そのものでサイエンス・フィクションのような、いわゆるウィリアムギブスンやJ・G・バラードを読んでるときの感じが蘇ってくるんじゃないかとか、そういうことですからね。

野田:そこが〈WARP〉や〈Ninja Tune〉との違いなんじゃない? そのふたつは幸福な時代に生まれたレーベルであって、〈ハイパーダブ〉はロンドンが再開発されていて、そのあと911もあって、荒野の時代に生まれたレーベルってことだよね。

HYPERDUB CAMPAIGN 2022
https://www.beatink.com/products/list.php?category_id=3

今回のコラボレーションによって世界への扉が開かれたという感じかな。一緒にやるのが夢っていうアーティストがまだたくさんいる。そういう扉が開かれた気がするね(アンドリス)〔*オフィシャル・インタヴューより。以下同〕

 ムーンチャイルドの5作目となるアルバム『Starfruit』がリリースされる。
 バンド結成10年目という節目に制作された今作は、〈新たな扉〉を開ける作品 であり、彼らの〈コミュニティ〉が生んだメモリアル・アルバムでもある。

 南カリフォルニア大学ソーントン音楽学校のジャズ科に通っていたアンバー・ナヴラン、アンドリス・マットソン、マックス・ブリックの3人は、ホーン・セクションに属するツアーで時間を共にすることが多く、意気投合し楽曲制作をおこなうようになった。2011年にムーンチャイルドとして活動を開始し、ファースト・アルバム『Be Free』(2012年)を発表したのちに、〈Tru Thoughts〉から3枚のアルバム(『Rewind』(2015年)、『Voyager』(2017年)、『Little Ghost』(2019年))をリリース。国際的なツアーをおこないながら知名度を上げ、前作のUSツアーでは、演奏した各都市で地元のチャリティを推進する活動も展開し、バンドとしての影響力も増していたところだ。

 ドラムとベース不在のこのバンドは、3人が管楽器をメインとしたマルチプレイヤーでソングライターであるのが特徴だ。各自が持ち寄ったビートを基盤に、ベースパートはシンセベースで担当し、キーボードとホーンによるハーモニーやヴォイシングは、大学のビッグバンドの授業で培ったテクニックをもとに複雑に練り込まれている。そこから感じられるのはひたすら心地良いフィーリングで、その音楽性が彼らの圧倒的な個性となっている。今作でも、曲作りのプロセスは変わっていない。

まずはそれぞれが個別に作るところから始めるから、ビートは常に選び放題の状態なのよ。各自1日1ビート、あるいは1日1曲というのを1ヶ月くらい続けて、そこから多くのアイデアが生まれた。でもその制作過程っていつもと変わらなくて、全員のアイデアを集めて、そのなかからやってみたいと思ったことをやるっていうのが私たちのやり方なの(アンバー)

 前作では、アコースティック・ギターや、カリンバなどオーガニックな楽器も積極的に取り入れながら音色の領域を広げ、ミックス、プロデュースを含め、全工程を3人で完結できるまでにそれぞれがレベルアップしていた。思えばムーンチャイルドは、デビュー作を出してからは、フィーチャリングを一切おこなわないアルバム作りを続けていた。その結果ブレない3人の世界が形成されてきたわけだが、今作では一転、堰をきったように、豪華面々をゲストとして迎え入れている。

 多数グラミー受賞経歴を持つベテラン、レイラ・ハサウェイや、現代のジャズ・シーンの面々と共演するアトランタ出身のヴォーカリスト、シャンテ・カン、ブッチャー・ブラウンの2021作でも大きくフィーチャーされていたシンガー、アレックス・アイズレー(アイズレー・ブラザーズのギタリスト、アーニー・アイズレーの娘)、そして、ラッパー陣も名うての面々が集う。LAの実力者、イル・カミーユ、BET(Black Entertainment Television)ヒップホップ・アワードで2020年のトップ・リリシストにも選ばれたラプソディー、さらに2020年にグラミー最優秀新人賞にノミネートされたニューオーリンズ・ベースのソウル/ヒップホップ・バンド、タンク・アンド・ザ・バンガスのヴォーカル、タリオナ “タンク” ボールや、マルチオクターヴの声域を持つボルチモア出身のラッパー/シンガー、ムームー・フレッシュといった多彩なキーウーマンが集結している。

 近年フィメール・ラッパーを取り上げるメディアの動きがあり、女性の在り方を彼女たちの立場から紐解く視点がこれまでにないほど広がってきたが、その流れにも呼応するかのような圧巻の顔ぶれだ。これらのゲストを迎えた曲では、アンバーのパートと、ゲストによるリリックのパートがあり、〈もう一人の違う私〉が見えてくるようで興味深い。また言葉の中に、愛を綴りながらも確固とした自身のアイデンティティが見え隠れしていて、夢を持っている女性の心境、音楽への強い志、これまでに植えつけられた女性観など、各所に現代女性のリアルを感じさせる部分がある。

いつも私の夢を応援してくれてた 裏方みたいに でも呑まれそうになるのは慣れてる
──“Love I Need feat. Rapsody”
良い彼女になろうとはしたんだ でも知っての通り 私が愛してるのはこのマイクだけ それが人生で大事なこと
──“Don't Hurry Home feat. Mumu Fresh”
母には祈りを捧げて耐えろと言われた 女の心は神聖不可侵であり続けるべきだから
──“Need That feat. Ill Camille”

彼女たちがやっていることを聴いて、さらに自分も曲に取り組んで、この曲ではどうしようとかどう歌おうかと考えているのと同時に、他のシンガーが自分では絶対に思いつかないような、本当に素晴らしいことをするのを目の当たりにするっていう、その過程はすごく楽しかったし、自分の創造する上でのマインドが開かれたと思う(アンバー)

 ゲストたちがテーブルに乗せていく多彩な表現がムーンチャイルドの新たな扉を開け、彼女たちに誘発されるように音楽的にもチャレンジングなプロセスが増えていった。

曲を各ゲストに送って、送り返してもらって、その人が曲をどういう方向に持っていったかによってさらに新たな要素やサウンドを加えたりという感じだった(アンバー)
“Get By” でタンクとアルバートがホーンのパートを歌ってるところなんかまさにそうだったよね。(中略)どの曲にも鳥肌が立つような瞬間があって、たとえば “I’ll Be Here” のブリッジのところでアンバーがやってることも好きだし、“Need That” のイル・カミーユも素晴らしくて、彼女がラップしている部分は元々の形から変化していて。変化した部分の作業はみんなが同じ空間に集まってやったもので、アルバム制作期間のなかでもレアな瞬間だった(アンドリス)

 今作のコラボレーションの源となるのは、10年の間に築かれたムーンチャイルドのコミュニティだ。そしてそのベースとなったのが、DJジャジー・ジェフである。彼は音楽コミュニティ向上のために毎年100人近くのアーティストを自宅に呼ぶなど、コラボレーション促進のための活動に力を入れている。ジャジー・ジェフは、ツイッターを通じて彼らの音楽を発見し、その後ジェームス・ポイザーと共にリミックス(“Be Free”(2013年)、“The Truth”(2017年))を買って出るほど、活動初期から3人の支持者だった。

ジャジー・ジェフはコラボレーションについてすごく力強いメッセージをくれて、それは、音楽は関わる人が多ければ多いほどよくなるってこと。その言葉がすごく印象深かった。一般的に言えば、自分だけの力でやり遂げなきゃいけないプレッシャーってあると思うの。自分だけでもアルバムを作れることを証明しなきゃいけないとか、自分の芸術性を証明しなきゃいけないとか。でも実際歴史的に見ると最高の音楽は複数人で作ったものが多いっていう。それで私も、より多くのアイデアを取り入れたいと思うようになった(アンバー)

 アンバーが語る通り、コラボレーションの話題は目白押しだ。現在進行中のアンバーのプロジェクトでは、〈Stones Throw〉レーベルの人気ビートメイカー/ピアニストのキーファーや、そのキーファーの公演で2019年に共に来日していたキーボード奏者、ジェイコブ・マンともアルバムを制作中のようだ。さらに今作でフィーチャーされているアルト奏者のジョシュ・ジョンソンは、ジェフ・パーカーの『Suite for Max Brown』やマカヤ・マクレイヴンの『Universal Beings』でも印象的な音色を与えるLAシーンの名脇役で、今後も彼らのコラボレーションは広がっていきそうだ。

 そしてもうひとり、ムーンチャイルドの畑を耕したキーバーンが、スティーヴィー・ワンダーだ。デビュー時期に彼らの音楽を知ったスティーヴィーは、毎年恒例となっている自身のチャリティ・コンサート「House Full of Toys」のオープニング・ステージに彼らを抜擢した。2012年12月のこのステージで彼らが演奏した、エリカ・バドゥの “Time's a Wastin” は、LAシーンとR&Bシーンの両方にムーンチャイルドの音楽を発展させるための決定打となった。

コンサートの短い時間で彼が言ったことがすごく印象に残っていて、彼の言葉を要約すると、自分は音楽を色で捉えないんだと。僕らが白人のミュージシャンで黒人の音楽をやっていることについても、今やっていることをやり続けなさいって言ってすごく励ましてくれたんだよ(マックス)

 このときに刻まれた志を胸に彼らはスキルアップを重ね、10年後のいま、ソウルやR&Bをルーツに持つ現代のメッセンジャーたちと共に、これからの扉を開く作品を生み出した。彼らはこの作品を、まさにコロナ禍で得た『Starfruit』と表現している。

この10年ムーンチャイルドを続けてきて、その間にバンドの周りに小さなコミュニティが築かれて、それはすごく嬉しいことだなと思っていて。それは長くバンドを続けてきてよかったと思う部分だね(マックス)

 彼らが築き上げた境地を、“I'll Be Here” の歌詞から感じてみよう。その言葉は、聴く私たちの扉を開け、背中を押すものでもあるはずだから。

代わりにノックしてくれたり歩いてくれる人は誰もいない 代わりに傷ついたり働いたりしてくれる人は誰もいない 代わりに感じてくれたり癒されたりする人は誰もいない きっと自力で見つけることになる だけど私はここにいるから これまで何度も聞いてきたでしょ ここまで来たなら扉を開かなくちゃ
──“I'll Be Here”
  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 80 81 82 83 84 85 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 100 101 102 103 104 105 106 107 108 109 110 111 112 113 114 115 116 117 118 119 120 121 122 123 124 125 126 127 128 129 130 131 132 133 134 135 136 137 138 139 140 141 142 143 144 145 146 147 148 149 150 151 152 153 154 155 156 157 158 159 160 161 162 163 164 165 166 167 168 169 170 171 172 173 174 175 176 177 178 179 180 181 182 183 184 185 186 187 188 189 190 191 192 193 194 195 196 197 198 199 200 201 202 203 204 205 206 207 208 209 210 211 212 213 214 215 216 217 218 219 220 221 222 223 224 225 226 227 228 229 230 231 232 233 234 235 236 237 238 239 240 241 242 243 244 245 246 247 248 249 250 251 252 253 254 255 256 257 258 259 260 261 262 263 264 265 266 267 268 269 270 271 272 273 274 275 276 277 278 279 280 281 282 283 284 285 286 287 288 289 290 291 292 293 294 295 296 297 298 299 300 301 302 303 304 305 306 307 308 309 310 311 312 313 314 315 316