「Ord」と一致するもの

Пошлая Молли (Poshlaya Molly) - ele-king

 いちばん好きなバンドは? と聞かれるのがずっと苦手だった。世代に沿ったド定番のバンドはある程度聴いてきたし、流行りの曲や新譜のチェックもできるだけ欠かさないようにしてきた。だが、いまだにフェスの季節が来るたび新しいバンドの存在を知らされたり、お気に入りのアルバムがセカンドかサードかも曖昧になったり、素朴な質問にすら悩んでしまったりする。そう、自分はどのバンドのファンにもなったことがなかったのだ。ところが最近、ついに胸を張ってファンと名乗れるバンドができた。そのバンドこそが、ウクライナのポップ・パンク・バンド、ПОШЛАЯ МОЛЛИ (Poshlaya Molly:ポシュラヤ・モリー)だ。

 ロシア・ウクライナ語で「モリ―(MDMA)を贈る」という意味の名を冠し、甘やかされて育ったティーンエイジャーをコンセプトに活動する ПОШЛАЯ МОЛЛИ。日本ではまだ知名度が低いどころかほとんど知られていないが、彼らの活動拠点であるロシア・ウクライナでは人気急上昇中のバンドだ。グランジ、オルタナティヴ・ロックを軸に、エレクトロニック・サウンドをミックスしたキャッチーな楽曲と、現代のユース・カルチャーを映し出した特徴的な世界観で若者たちを魅了した。また、デビュー当時の2017年前後に流行したマンブル・ラップを、ポップなパンク・ロック・サウンドに落とし込み、よりユースの心情の解像度を高めたマンブル・ロックのシーンを構築した。その後も数々のライヴを重ね、2018年には〈Warner Music Russia〉に所属するなど、さらなる人気を集めている。

 彼らを知ったのは2017年の秋、ちょうどデビュー・アルバム『8 способов как бросить …』が出されてすぐの頃。収録曲 “Любимая песня твоей сестры” のMVを YouTube で偶然見つけたのがきっかけだった。このMVは計1,000万回もの再生数を記録し、現地のSNSサイト Vk.com を中心に話題となった。最初は耳慣れている、聴きやすいオルタナティヴ・ロック・バンドくらいの印象でしかなかったが、初めて触れるウクライナのシーンは退廃的ながらもどこか新鮮だった。

 その後もなんとなくチェックするようになり、気づけばデビューからいまこうして筆を執るまで彼らを追い続けている。現在のサウンドに近づきはじめたEP「Грустная девчонка с глазами как у собаки」、「ОЧЕНЬ СТРАШНАЯ МОЛЛИ 3」もすべてリリース当日に聴きこんだ。サブスクがある時代に生まれて本当に良かったと思う。楽曲ももちろんのこと、ユース・カルチャーをリスペクトしてるのか、はたまた皮肉ったかのようなMVも何度再生しただろうか。

 ここまで愛を語るとどれだけすごいバンドなのかと期待を持たせてしまうかもしれないが、彼らは特にこれと言って画期的なサウンドを奏でたり、新しいシーンを構築してるわけでもない。人によっては割と普通のポップ・パンクといった印象を受けるであろう。それでも彼らに惹かれてしまう理由が、最新作EP「PAYCHECK」でやっと解き明かされた。

 前作同様、お腹いっぱいになるほどポップ・パンクな楽曲が全6曲収録された本作。1曲目 “Самый лучший эмо панк” ではバンド名をコーラスさせたり、2曲目 “Беспечный рыцарь тьмы” の間奏ではいわゆるお決まりのようなブレイクダウンが挟まっていたりと、とにかくド定番な演出が詰まっている。ありきたりな演出と捉えられるかもしれないが、欲しい音を欲しいところでぶつけてくるところが彼らの魅力でもある。

 本作のリリースに先駆け、シングルとしてもリリースされた5曲目の “Мишка” は、ロシアのモデル・シンガーの KATERINA をフィーチャリングに起用。併せて公開された同作のMVでは、キャスケットにフレンチネイル、細身のスキニーとテーラードジャケットといった懐かしのファッションに身を包んだふたりの男女、レッドカーペットに集うパパラッチにアワードのトロフィー……と2000年代のセレブ、ゴシップ・ブームを彷彿させる世界観を、かつてのヒットチャート風の楽曲と共に披露した。

 ПОШЛАЯ МОЛЛИ のコンセプト「甘やかされて育ったティーンエイジャー」とは、まさに彼らが演じるキャラクターであり、それらを見て育った彼ら自身そのものだ。これまで影響を受けたロック・バンドやポップ・カルチャーをリスペクトし、過去の産物になってしまったスタイルを否定せず当時の憧れをサウンドにアップデートすることで、ПОШЛАЯ МОЛЛИ はいつまでもティーンエイジャーであり続けている。そんな彼らと同じ憧れを自分も持っていたからこそ、あの聴きやすいサウンドや新鮮ながらもどこか共感してしまう世界観に惹かれ、お決まりの展開ですら心地良く感じていたのだと、本作で気付かされてしまった。そして、かつての憧れに対して真剣に向き合う彼らの姿勢に、いま自分は憧れている。

 こうして愛を語れるようになったのも、実は彼らのおかげである。ライターとして活動をはじめたのも、自身の note にロシア・ウクライナのアーティストについて記したのがきっかけだった。新卒で出版社を受けたものの全滅した自分を、ライターというかたちで憧れの姿に近付かせてくれた彼らには頭が上がらない。もうすっかり彼らの虜になってしまったいまなら、いちばん好きなバンドを問われたとしても躊躇なく答えられる、ПОШЛАЯ МОЛЛИ であると。

pararainy - ele-king

 いまもっとも勢いに乗るラッパーのひとり、釈迦坊主の主宰する《TOKIO SHAMAN》にも出演を果たすなど、じょじょに知名度を高めつつある仙台のラッパー/シンガー pararainy が、本日5月13日に初めてのミニ・アルバムをリリースする。すでに20万回以上の再生数をたたき出している “rainy HANABI” をはじめ、先週ドロップされたばかりの新曲 “約束” も収録。叙情的な旋律とギターを武器に、現行ヒップホップ・シーンに新たな風を吹き込むか? 注目です。


 緊急事態宣言が出された日の夜の月は、とても大きく眩しかった。(ピンクムーンと言うらしい。色は全然ピンクじゃなかったけど。)どうしても家にいたくない気分だった僕は、ガールフレンドと共に夜のドライブに出かけた。いつもより大きな月が影響しているのか、僕たちは無性に高揚する気持ちを抱えながら夜行性の動物のようにひたすら南へと向かった。閉鎖された立体駐車場。人の気配が消え失せたメインストリート。幼さが残るヤンキーたちが交差点のど真ん中に車を止めて記念撮影をしている。カーステレオから聞こえてくる Nocturnal Emissions の “Imaginary Time” をBGMにその全てが後方に過ぎ去って行く。

 普段なら観光客や観光客相手の露天商でごった返す歓楽街も、今は灰色のシャッターで全て閉ざされ、人間は自分たち以外にはコンビニの店員ぐらいしかいない状態だった。街灯脇につけられた小型スピーカーからは絶えず微かな音楽が流れ続け、街が賑わっていた頃の興奮と混沌が、街に対する未練を捨てきれずに亡霊となって彷徨っているかのようだった。この現状に対する冷めた諦めの気持ちと、これから何かが起こりそうだ(起こすんだ)という無謀な熱の両方を身体に感じ、圧倒的な現実を前にしつつもどこか少し現実離れした気分になった不思議な夜だった。

 「自粛」という言葉はあてたくないが、いつの間にか僕の生活の中心は13.3インチの長方形のフレームの中に収まるようになってしまっていた。そこには過去の失われた世界から、リアルタイムで供給されるエンターテインメントの数々までが隙間なくストックされていて、数回クリックすればそんなに悪くないものに出会える。SNSでは優しいアーティストたちがソフトで摂取しやすいトランキライザを大量生産し、人々は恍惚とした表情で化学調味料漬けのノスタルジーをシェアし合っている。僕自身、80~90年代のイリーガル・レイヴの映像を一日中流したり、当時のスナップ写真を見たり、在りし日の人類の姿を記録した資料に浸っている日もあった。僕はノスタルジーに溺れて死にたくない。僕はこれまでに受けたインタヴューの多くでも大量生産される癒しと安楽死的世界への嫌悪感を語ってきた。今このパンデミック下でその需要も供給も爆発的に増加している。癒しは良いもの。健康は良いこと。自粛が良いことなら外出は悪いこと? 「癒し」「健康」「自粛」と、「良いこと」を選んでいけば天国へ行けて、それができなければ地獄行きだとでも言わんばかりの空気が、いつの間にかしっかりとできあがっている。地獄行きの者達を探して懲らしめる聖戦士たちによる「監視と処罰」。ハーモニーと虐殺器官の世界が同時にやってきた。収束後もあらゆるストレスに対してそれを麻痺させる癒しは量産され続けそうだ。JRの駅に設置された可愛らしい動物の写真や青色LEDの電飾が街を侵食しはじめる日もそう遠くないだろう。年中クリスマスみたいになったら結構キツいな。なんて、ぼーっと考えてしまっている。まあ当面の間は癒しもオンラインに投入され続けるだろう。隔離/自粛/Stay Home でオンラインに浸れるものだけが救済の対象だからだ。

 そんな癒しを嫌悪する僕を救ってくれたのは、やはりダンス・ミュージックだった。そして、自分で意外だったのは、そのダンス・ミュージックがIDM(この名称は好きじゃないけど)系のアーティストの曲たちだったことだ。この隔離された世界になる以前は、Aphex TwinSquarepusher の曲はマトリックス・ワールドへのゲートとして機能していたような感覚があったが、このゲートは一方通行のものではないらしい。思いきりフロア仕様のテクノを聞いてもなんとなく非現実的に思えて虚しい気持ちになっていた中で、正直彼らの曲がマトリックス・ワールドからの生還に役立つとは思ってもいなかった。(よく考えれば当たり前な気もする)

 不可抗力的ではあるが、良くも悪くもあらゆるものがオンラインへ移行した。それは抗議活動も例外ではない。別にネオになろうってわけじゃないけど、マトリックス・ワールドでの戦い方も体得しなきゃと思って、Protest Rave の舞台も路上からオンラインに移した。友人に「社会運動とは可視化だ」と言われ、オンラインでの「可視化」の方法を探った結果、路上の代わりに官邸の意見フォームや、首相のSNSのコメント欄を使うというものになった。自分たちのエコーチェンバーを突き破り、存在を見せつけたい相手のエコーチェンバーの中へと入って行かなければいけない。これがどれほど効果的なのかは正直まだまだ分からないが、やらないよりはマシだろう。少しづつマシを積み上げていくしかない。少なくとも為政者が支持者のコメントに囲まれてハイになれる場所のいくつかは消えたと思う。

 Protest Rave をオンラインでやったときもそうだし、Contact からの配信番組を見てくれた人からも「早く現場に行きたい!」と言う声が届いたのは嬉しかった。オンラインにはオンラインのやり方や楽しみがあるけど、それは現場の代わりにはならない。だからオンラインではオンラインに特化したこと、オンラインだからこそできることをやって、現場向けのとっておきは現場のためにとっておくんだ。この隔離期間はキックとキックの間の長い長いブレイクだと思ってもいいかもしれない。早くキックが欲しいけど、このブレイクの間も僕は自分の踊り方で踊り続けようと思う。この肉体を持て余してる余裕はない。

 とにかく今月は How to fight, How to survive in the Matrix world. って感じで、そしていつかは Escapin' out the Matrix world.

 おっと! 政府が発表した科学技術のムーンショット目標、マトリックス・ワールドの話じゃないか! 次回もまたこの話……?
 続く!

Laurine Frost - ele-king

 エディプス・コンプレックスとは男の子が母親との仲を裂かれまいとして無意識に父を敵視することで、フロイトはこれを誰にでもある普遍的な概念として定義した(女の子と父親の場合はエレクトラ・コンプレックス)。しかし、子どもが(年齢とは関係なく)そうした感情を自覚できないうちに父が病気になったり、死んだりすると、父が倒れたのは自分自身の敵意が原因だという罪悪感を持ってしまったり、悪くすれば「対象喪失」という感覚に陥るなど場合によっては生きる意欲を失ってしまう可能性もある。自分を「完璧な子ども」に育てようとした「父」を題材に、初めて本人名義のアルバム制作に乗り出したローリン・フロストはその途中で実際に父を失うこととなった。「半分まで完成したところで父が自殺した。このプロジェクトのことは知らずに」。死後ではなく、その前から制作を進めていたことで、彼は「対象喪失」に陥ることはなく、むしろ完成度の高いアルバムに仕上げられたのだろう。ヒーローだった父親が日に日に信念や尊厳を失っていく──その姿を描こうとしたのだから。

 ペトレ・インスピレスクがルーマニアン・ミニマルの「表の顔」ならローリン・フロストは「裏の顔」だろう。ルーマニアで〈オール・イン・レコーズ〉を立ち上げ(後にハンガリーに移動)、ロシアや東欧のプロデューサーを広くフック・アップし、〈オール・イン〉を逆から読んだサブ・レーベル、〈Nilla〉でもフランスのアフリクァ(Afriqua)や最近ではスウェーデンのアルカホ(Arkajo)など素晴らしいリリースを続けている。フロスト自身は13年にコールドフィッシュ名義でリリースしたアルバム『The Orphans』がブレイク作となり、同じ年に本人名義のシングル「Metafora Of The Wolves」や、とりわけ「Swings Of Liberty」では作風もミニマルにジャズを取り入れるなど『Lena』への大いなる助走は早くから始まっていた(『The Orphans』は孤児という意味で、やはりチャウセスク政権下で軍事訓練を受けていた子どもたちのことなのかしらと思いながら、いまだにどうなのかわからない。険しい表情で何かを睨みつけている少年の表情が印象的なジャケット・デザイン)。

 父を題材にするといいながら『Lena』のコンセプトはかなり複雑である。ベースとなっているのはドストエフスキーの短編「おかしな人間の夢」で、自殺しようとしている男を彼の父に置き換えたという。男は夢を見る。そして、「真理を発見」して自殺はやめにするというストーリーで、実際には起きなかったことがシュールリアリスティックに展開されている。これを音楽に移し替えたとフロストは解説している。現実には父は自殺しているわけだから「起きなかったこと」とは、父が夢を見て啓示を得ることである。そのようにして父に生きていて欲しかったということかもしれないし、あくまでも弱さを認めなかった父の存在を否定しているとも考えられる。どちらの解釈であれエディプス・コンプレックスの克服を通り越して作者が「成熟」に至ったことは確かである。テクノに美学が持ち込まれることは頻繁にあったかもしれないけれど、ここまで文学趣味を作品に押し被せた作品は珍しい。うがった見方をすれば、父はソ連(現ロシア)で、連邦体制が崩れなかった場合の東欧がフロストたちルーマニアン・ミニマルとして投影されていると見なすことも可能だろう。ルーマニアン・ミニマルの異常なまでの暗さは「対象喪失」に由来し、それは計画経済が破綻したという「歴史」を受け入れるプロセスだというか(いつのまにか話がユング的になってしまった)。

 ここまで書いたことは忘れて虚心坦懐に『Lena』を聴いてみよう。ドラムン・ベースを簡素化したようなジャズ・ドラムとヴィラロボス流ミニマルの衝突。ハットとベースが絡みつき、ドラムでアクセントをつけた退屈ギリギリの2コード・ミニマルと獰猛なベース・ライン。不協和音を響かせるピアノのループと緊張感のあるホーンに無機質なダブと、フロストが醸し出す雰囲気にはいつも「余地」が確保され、それこそ息がつまるような交響曲の暗闇へと引きずりこむペトレ・インスピレスクとは対照的である。「このアルバムはクリシェに逆らい、単なる過去の再生産に抗っている」「最も大事なことは過去に学び、未来へ繋げていくこと」とフロストは力強く書き記し、ポップ・カルチャーにおける歴史意識を強調する。そう、できることなら彼にザ・ポップ・グループ『Y』のリミックス・アルバムをつくらせてみたい。

interview with Kensuke Ide - ele-king

 シンガーソングライターの井手健介率いる不定形バンド「井手健介と母船」による5年ぶり2枚めのアルバムがリリースされた。前作『井手健介と母船』が発表されたのは2015年。それまで吉祥寺の映画館・バウスシアターでスタッフを務め、「爆音映画祭」の運営にも携わっていた井手は、2014年6月の同映画館の閉館をひとつのきっかけとしてファースト・アルバムの制作をスタートさせたという。繊細に揺蕩う音響の襞が重なり合い、あくまでも「歌もの」の体裁を保ちながらも、聴き手にミクロなサウンド世界を顕微鏡で覗いているかのような感覚にさえ陥らせる作品内容は、石橋英子や山本達久、須藤俊明らジム・オルークのバンドでも活躍する当時の参加メンバーの音楽性とも決して無縁ではないだろう──なかでも際立つ8曲め “ふたりの海” で聴かれるミニマルなインプロヴィゼーションからは、カフカ鼾やザ・ネックスの即興性を想起することもできるはずだ。

 『Contact From Exne Kedy And The Poltergeists (エクスネ・ケディと騒がしい幽霊からのコンタクト)』と題したセカンド・アルバムは参加メンバーも音楽性もガラリと様相を変え、まったく新鮮な音楽として結実することとなった。とりわけ注目すべきはサウンド・プロデューサーとして参加している石原洋の存在だろう。石原はこれまでゆらゆら帝国をはじめ BORIS や OGRE YOU ASSHOLE などのプロデュースを手がけてきた一方で、自らもホワイト・ヘヴンやスターズといったバンドで音楽活動をおこない、サイケデリックなロック・ミュージックを発信し続けてきた。今年2月にはソロ・アルバム『formula』を発表し、本誌『ele-king』ウェブ版のインタヴュー記事で自身のロック哲学を披瀝したことも記憶に新しい。このたびリリースされた井手健介と母船によるアルバムも、テーマは他でもなくロックだという。

 だが取材を通じて筆者は井手健介の背景にロックというよりも映画の世界の広がりを強く感じた。もちろん彼にとってロックの文脈は欠かせないものであるに違いない。しかしながら同時に、ロックをアルバム・コンセプトとして取り上げるにしても、映画の構造なくしては生まれ得ないようなかたちを取っているのである。前作が映画における音響体験と関連性がある作品だとしたら、今作は映画における物語のありようと強く関わりを持っている。すなわち音楽としてアウトプットされる形態が音響的アプローチになろうとも物語的アプローチになろうとも、ものごとを映画的に捉え表現していくという思考と感性の枠組みがある点において前作と今作は一貫しており、そしてそれこそが井手健介というミュージシャンの特異な作家性であるとも言えるのではないだろうか。彼は映画の世界を構造的に把握することによって新たな音楽の世界を生み出していく。

 架空の人物エクスネ・ケディを井手が演じた今作では、歌詞やサウンドの節々に幽霊との接触の機会が訪れる。幽霊と接触することは、わたしたちの日常空間が一変してしまうような非日常的な体験だと言い換えることもできる。こうした体験の強度はおそらく、現実それ自体が非日常的な空間で覆われていたとしても変わらない。むしろ自由な移動が制限され、集会することもできず、多くの人々にとって〈いま・ここ〉に留まることを余儀なくされる状況であればこそ、別の時間と別の場所に対する想像力を秘めた作品に立ち会うことによって、〈いま・ここ〉から離れる経験を耳に焼きつけておく必要があるとも言える。インターネット上のビデオ通話を介して井手健介が語る言葉は、そのような想像力の在り処を指し示しているようにも思えたのだった。

オーガニックとか自然体な要素をなるべく排除した、人工的でギラッとしたロックをやろうという話になりました。そして出てきたのが「グラム・ロック」というキーワードでした。

ファースト・アルバム『井手健介と母船』(2015)は、井手さんが運営に携わっていた映画館・吉祥寺バウスシアターの閉館が制作の大きなきっかけになっていましたよね。今回のセカンド・アルバム『Contact From Exne Kedy And The Poltergeists』はどのような経緯で制作がはじまったのでしょうか?

井手:実はファーストを出したあと、すぐにセカンドを作りたいという思いはあったんです。でも気づいたら5年くらい経ってしまいましたね。今回のアルバム制作に取りかかりはじめたいちばん大きなきっかけは、プロデュースをお願いした石原洋さんの存在でした。僕はもともと石原さんがプロデュースしてきたバンドが好きでしたし、石原さん自身の音楽活動も好きで、レコードを聴いたりライヴを観に行ったりしていたんです。そんなある日、石原さんがDJをしているイベントに行ったらお話しする機会があって。それからちょくちょく交流するようになりました。で、いよいよセカンド・アルバムを録ろうと動き出したとき、思い切って石原さんにプロデュースを依頼してみようと考えたんです。

それはいつ頃のことでしたか?

井手:アルバムのプロデュースを最初に依頼したのはたしか2018年です。その少し前、とある人から「養命酒のCM音楽を作ってほしい」って言われていたんですよ。面白そうだなと思って、たまたま石原さんと会ったときに「こんど養命酒のCM音楽を作るので、プロデュースしていただけませんか?」って言ったら、「いいよ」って引き受けていただけたんです。「これはめちゃくちゃサイケな曲が養命酒のCMで流れるぞ……」と思っていたんですが、あっさりその仕事が流れてしまって。でもいちどプロデュースのお願いをしてますし、せっかくの機会なのでアルバムのプロデュースをしていただこうと話を切り出したら「やりますよ」と言ってもらえた。早速デモ音源を送ろうとしたんですけど、なかなか曲ができなくて、本格的に始動したのは2019年の6月ごろでした。

今回のセカンド・アルバムでは、ファースト・アルバムの頃とはバンド・メンバーがガラリと変わっていますよね。どのように新メンバーを集めたのでしょうか?

井手:山本達久くんや石橋英子さん、須藤俊明さんたちと一緒にやったのはファーストのレコ発が最後でした。あの素晴らしいメンバーがいたからこそあのファースト・アルバムを制作することができたので、セカンド・アルバムへの道のりが険しくなるのは想像できました。ただ、時間がかかってもいいので、ファーストとは違う新しいアルバムが作れたらと考えていました。先程と矛盾するようですが、もともと僕は矢継ぎ早に作品を出していくタイプでもないので、納得がいくかたちを探してみようと。そこから、ライヴの現場ですごいなと思った人に直接声をかけて新しいメンバーを集めていきました。

ドラマーの北山ゆう子さんに声をかけたとき、どういったところに魅力を感じていましたか?

井手:ゆう子さんも生の演奏を観て「この人の音がいい!」と思って声をかけたんです。ゆう子さんのライヴは以前から観たことがあったんですが、2016年に神保町試聴室で見汐麻衣さんと一緒に「埋火の楽曲だけでライヴする」という企画をやったんですね。そのときに僕がギターで、ゆう子さんがドラムで、初めて一緒に演奏したんですよ。一打一打の音が、単純な音量的な意味だけではなく「デカい!」と感じて、驚いたのを覚えています。達久くんもそうなのですが、僕はロック・バンドの中でドラムがいちばんかっこいいと思っていて、ドラマーの音に触発されるようにバンドの勢いが上がっていく快感がゆう子さんの音にもあったんですね。

ファーストを出した直後からセカンドを作ろうと考えていたとのことですが、新しいメンバーを集める際にすでにセカンド・アルバムのビジョンはあったのでしょうか?

井手:いや、ビジョンはまったくなかったですね。曲すらできていない状態でした。

セカンド・アルバムはファースト・アルバムとは音楽性が大きく変化しましたよね。今回の作品はどのようなコンセプトで制作されたのでしょうか?

井手:サウンドのコンセプトとしてはロックです。最初に石原さんと話をしたときにT・レックスやルー・リード、デヴィッド・ボウイが好きだという話題で盛り上がったんですよね。ファーストのときはサイケデリックやアシッドフォークをやりたいという気持ちがあったんですが、セカンドは石原さんと会話を重ねていくうちに、オーガニックとか自然体な要素をなるべく排除した、人工的でギラッとしたロックをやろうという話になりました。そして出てきたのが「グラム・ロック」というキーワードでした。制作を経てもっと広がって、70年代の黄金期のブリティッシュ・ロックを意識するようになりました。

デヴィッド・ボウイのように、ジギー・スターダストという架空の人物の物語をアルバム全体を通じて構成していくというのは、非常に映画的なものでもありますよね。自分にとってのそれがエクスネ・ケディだったということです。

先日『ele-king』に掲載されたインタヴューでも、石原さんは「僕はどうしてもロックの属性からは逃れられない」とおっしゃっていましたけど、井手さんにもそうした側面はあるのでしょうか?

井手:そうですね。ファーストも、あくまでロックの文脈で作ったつもりです。

井手さんは以前吉祥寺バウスシアターの運営に携わっていましたが、映画についてもロックとの関わりから考えていらっしゃるのでしょうか? たとえば爆音映画祭という、ライヴハウス並みの音響設備で映画を観るという試みもありました。

井手:いや、映画はそこまでロックとの関わりを考えている訳ではないですね。「ロックとは何か」という話にもなるので表現が難しいですが、爆音映画祭に関して言うと、実は「繊細さ」にフォーカスした上映の仕方だと思っています。音量を大きくするのは、単純に音量を上げるというよりも、音の繊細な部分を持ち上げるためなんですよね。通常の映画館では聴こえてこないような小さな音がはっきりと聴こえてくることによって、映画そのものの見え方まで変わってしまうという、本来ありえない体験。なので爆音映画祭はロックというよりも、もっと繊細なものとして考えています。もちろん、元々大きな音がさらに爆音になり、こちらを圧倒するような音の壁が現れてくる瞬間も、ロックに触れたときのような快感があることも確かです。

なるほど、つまり爆音映画祭はむしろファースト・アルバムにおける「小さな音の繊細な重なり合い」というところに通じるんですね。

井手:そうですね。「音の繊細さ、その重なりから大きなうねりへ流れ込んでいく快感に面白さを見出す」という意味では、爆音映画祭で自分が培った感覚はファースト・アルバムと繋がりがあるかもしれません。

それは映画での経験が音楽に活かされているということのようにも思います。セカンド・アルバムに関して、映画の経験からフィードバックしたものはありますか?

井手:実はセカンドの方が映画との繋がりがあると思っています。今回のアルバムは一本の映画のような作品にしたいなと思って制作したんです。映像のない映画と言ってもいいかもしれないです。たとえばビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』やデヴィッド・ボウイの『ジギー・スターダスト』みたいに、架空のバンドがアルバムの中に登場するような、コンセプチュアルな作品にしようと考えていました。デヴィッド・ボウイのように、ジギー・スターダストという架空の人物の物語をアルバム全体を通じて構成していくというのは、非常に映画的なものでもありますよね。自分にとってのそれがエクスネ・ケディだったということです。

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「脚本・主演は井手くんで、監督は僕ね」って石原さんに言われたんですよね。僕としてはとても納得がいって、アルバムが完成するまでその考え方がずっと軸になっていました。

つまり一枚のアルバムを通して物語を提示しようと考えたということでしょうか?

井手:ある意味ではそうですね。ただ、アルバムではそんなにはっきりとストーリーを提示してはいないんです。映画でもそうなんですけど、ストーリーを伝えることがメインになりすぎてはいけない。それよりも作品内時間のそれぞれの瞬間に快楽があるものにしたいと思っていて。とはいえ、実は裏にはちゃんと物語があるので、曲順もすべて意味があるんですよね。物語の内容はバンド・メンバーにも共有しています。

映画的であり、演劇的でもありますよね。演劇って、役者がそこにはいないはずの人物を演じて、あたかもいるかのように観客に思わせるというパフォーマンスじゃないですか。井手さんの作品には、これまで「幽霊の集会」や「ポルターガイスト」など幽霊的なものがテーマとして出てくることがありましたが、幽霊というのも「本当はいないはずのものを、あたかもいるかのように感じる」という意味で演劇と似たところがあります。井手さんはなぜ、幽霊的なものに対して興味を抱いているのでしょうか?

井手:映画でも音楽でも、サイケデリックな感覚、つまり「今・ここにいる場所からどこかに飛んで、今・ここではない場所に行ける」という快楽を求めて観たり聴いたりしているんですよ。なのでそうした体験をもたらす要素を自分の作品にも取り入れたいとは思っています。幽霊という存在においては「目には見えないけれど、いる」という存在の仕方が成立しますが、そういう現実の成り立ちが揺らぐような感覚を音楽に取り入れられたらと思っています。

幽霊的なものを感じるという意味で影響を受けたミュージシャンや作品はありますか?

井手:色々あります。このアルバムを作るうえで影響を受けた音楽はたくさんあるんですが、映画も結構あるんです。「この曲ってあの映画みたいだな」とか、「この曲順はあの映画のエンディングだよな」とか、そういうふうに、つねに頭の中で映画と結びつけると、僕にとっては制作が進めやすいところがあるんです。このことは石原さんとも話してて、セカンドを作りはじめた最初のころに「脚本・主演は井手くんで、監督は僕ね」って石原さんに言われたんですよね。僕としてはとても納得がいって、アルバムが完成するまでその考え方がずっと軸になっていました。また、ロバート・ゼメキスという映画監督がとても好きなんですが、セカンドを制作しているときは彼の作品がなんども頭のなかに浮かんでいましたね。なかでもいちばん結びつきが大きいのは『コンタクト』(1997年)というSF映画でした。あの作品からはものすごく影響を受けたと思います。

どういう点で影響を受けたのでしょうか?

井手:『コンタクト』は地球外生命体と人類の接触をテーマにした物語なんですが、これから観る人の楽しみを損なわないように簡単に説明すると、最終的にジョディ・フォスター演じるエリー・アロウェイが宇宙に行ってものすごいトリップ体験をするんですよ。そこで、会うことがありえない存在に会う訳ですね。でも、同時に、見る人から見たら宇宙には行っていないとも言えるような、とにかくそんなトリップなんです。僕はこの映画がとても好きで、そこから着想を得たのがセカンド・アルバムの2曲めの “妖精たち” っていう曲なんです。他にも4曲めの “ポルターガイスト” や9曲めの “ぼくの灯台” もそうなんですが、「もうここにいない存在に会う」というのがアルバムの節々でテーマになっていきました。なので『コンタクト』からはものすごく影響を受けていて、アルバム・タイトルにも「コンタクト」という言葉を入れているんです。

たしかにタイトル(『Contact From Exne Kedy And The Poltergeists』)にも「コンタクト」というワードが入っていますよね。ちなみにタイトルにあるエクスネ・ケディという名前も映画と関係があるんでしょうか?

井手:内緒です(笑)。これは石原さんと話している間に偶然生まれました。ロックをテーマにアルバムを制作するにあたって、僕が僕のままではダメで、僕以外の誰かになる必要があると思ったんです。自然体ではなく、自分に何らかの圧を加えて歌ったり、グラム化した楽曲が求める歌手を演じたいと思ったときに、別人格を作る必要があったんですね。自然な流れでそう考えたので、「あ、おそらくジギー・スターダストもマーク・ボランもこうだったんじゃないか」と思ったりしました。とにかくエクスネ・ケディという別人格が生まれて、そして曲のアレンジもまるで別人格を持ったように生まれ変わっていきました。不思議だったのは、どんなにアレンジを変えて、いろんなものがそぎ落とされていっても、曲が持つ純粋な部分だけは残ったんです。むしろ、たとえば寂しい曲を明るく歌うことで、逆にその寂しさが浮かび上がってきた。「架空の自分を通して本当の自分を見つける」という体験ができたことは非常に新鮮でした。

高尚そうなアート寄りのものではなく、昔のパルプ・マガジンとかタブロイド新聞に載ってる小説みたいな、いわばキッチュさ・安っぽさが必要だと。道端で風に吹かれて舞っている捨てられた新聞の芸能欄、のような。

セカンド・アルバムでは楽曲ごとに異なる歌い方に挑戦されてますよね。それも「演じる」という意味で意識的に取り組んでいるのでしょうか?

井手:そうですね。石原さん、レコーディング・エンジニアの中村宗一郎さんとみんなで模索しながらやった結果、ああいうかたちになりました。歌い方を曲ごとに変えるというのは初めての試みでした。

楽曲ごとにモチーフとなるような歌手はいたのでしょうか?

井手:基本的にはいませんでした。とにかくロック的なるものとはなんだろうということを考えていて。それは自然体ではなく人工的なものだろうと思っていました。歌について石原さんが言っていたことでなるほどなと思ったのは、一見どんなに優しげな声で歌っていても、その中にある種の怒気や苛立ち、歪みを内包しているべきだ、と。

いろんな歌い方をされたなかで、井手さんにとっていちばんしっくりくるものはありましたか?

井手:1曲めの “イエデン” のファルセット・ヴォイスは、なかなか気持ち悪いんですけど(笑)、その気持ち悪さが気持ち良いなとは思いました。逆に4曲めの “ポルターガイスト” は、気持ち悪さがそのまま気持ち悪さとして出てるというか(笑)。あと今回は曲によって、自分が歌わなくてもいいと思ったものもあるんですよね。それは自分よりも作品に奉仕しようと思っているからです。僕よりも mmm (ミーマイモー)やメイちゃん(mei ehara)が歌った方が良い作品になると思ったら、僕はあくまでも後ろでかすかに歌うだけにしたり。そういうふうに、曲によって何がいちばんふさわしいかを考えていましたね。

ファーストのときも井手さんの個性を前面に押し出すというよりは、当時のメンバーと協働作業をおこなうなかで初めて生まれてくるような作品だったと思います。その意味では、自己表現よりも作品を重視するというセカンドのあり方と共通しているのではないでしょうか。

井手:そうですね。それは基本的には変わってないと思います。とはいえ一方で今回は架空の自分を演じるというところがあったので、自己表現でもありましたが。架空の自己表現。“イエデン” で僕はファルセットで白痴のように歌ってますけど、バンド・メンバーはそれを無視するように淡々と演奏しているんですよ。そういう、ロック・バンドとして面白いかたちはなんだろうと探しながら制作しましたね。

プロデュースを務めた石原洋さんの存在が今回のアルバムでは非常に大きいと思うんですが、サウンド面で石原さんの味が出ているなと井手さんが思うポイントはどういったところになりますか?

井手:やっぱり石原さんのプロデュースでアレンジが大きく変わりましたね。石原さんがあっと驚くようなイメージを伝え、それを中村さんが捉えて具現化する、僕やメンバーは演じる。マジカルな瞬間がたくさんありました。それまでの自分の曲が、より都会的に、退廃的に、流麗に、人工的になりました。なんて言ったらいいんでしょう、いい意味でサウンドに「軽さ」が出るっていうか……。僕の曲にまとわりついていた余計な重みが全て石原さんによって剥がされましたね。そしてキッチュな服を着て、夜の都会に出ていきました。あとは、石原さんは常にアルバム全体の流れ、起承転結を考えていらっしゃいましたね。先にできてきた曲を見ながら隣接する曲のアレンジを変えていく感じです。「僕はコンセプト・アルバムしか作れない」とおっしゃってました。

楽曲制作のときに石原さんと交わした言葉で特に印象に残っているものはありますか?

井手:それはいろいろありますよ。まさしく自分の財産になるようなものです。石原さんが今回よくおっしゃっていたのは「ギラギラした感じ」という言葉と、あと「安っぽさ」「野卑なムード」ということでした。それは非常に新鮮でしたね。作曲者である僕は、どうしてもアート作品としてかっこよく見える方を選んでしまうんですが、石原さんは、高尚そうなアート寄りのものではなく、昔のパルプ・マガジンとかタブロイド新聞に載ってる小説みたいな、いわばキッチュさ・安っぽさが必要だと。道端で風に吹かれて舞っている捨てられた新聞の芸能欄、のような。

石原さんと井手さんで意見が衝突することもあったのでしょうか?

井手:もちろん意見が異なることはありましたけど、今回は「脚本と主演が僕で、監督は石原さん」ということがその都度拠り所になりました。石原さんがアレンジをいろいろと提案してくださって、自分の提案と組み合わせながらやっていったんですが、やっぱりメロディと歌詞は脚本なのです。アレンジがどれだけ変わっても残る、曲の本質の強さみたいなものがあるんだなと思いました。あと僕はもともとコーラスワークが好きで、よくメロディにハモりをつけるんですけど、今回はとにかく徹底的にハモリが排除されましたね(笑)。何曲かに残っているだけです。ほっとくと僕はすべての曲にほぼ無意識にハモりを入れてしまうので、その度に石原さんに却下されました。でもいまアルバムを聴いてみるとやめて正解だったと思います。

最後にひとつお訊きしたいことがあります。アルバムの話から外れてしまうんですが、現在、音楽業界をはじめ社会全体が大変深刻な状況に直面しています。スペースの運営に携わった経験があり、音楽家でもある井手さんにとって、いまの事態はどのように見えていますか?

井手:うーん……今回のことは本当にどうしたらいいかわからないですよね。芸術が生命維持に必要不可欠である、と自国の政府は言ってはくれませんが、僕は必要不可欠であると思います。本当に信じ難い政府だなと思いますね。ただ、自分はレベル・ミュージックをやることはないでしょう。しかしそれでもなお、この嘘みたいな現実の中に、こういった壮大な狂った冗談のようなフィクションが、存在してもいいのではないか。難しいですけど。

急に難しい質問を投げかけてしまい、失礼いたしました。本日はどうもありがとうございました。

井手:ありがとうございました。初めてテレビ電話で取材を受けたんですけど、なかなか慣れないですね(笑)。やっぱり喋るときは同じ空間にいた方がやりやすいです。話を盛り上げていくうえで、ちょっとしたタイムラグがコミュニケーションにおいて結構大きな壁になるような気がします。

vol.126 NYシャットダウン#4 - ele-king

 5月になった。3月中旬から始まったコロナヴァイラス隔離生活も1ヶ月半になリ、朝起きなくて良い、何もしない生活がデフォルトになった。

 天気が良くなってきたので、人は外に出ているし、マスクをしているだけで、あまり普段と変わりがなくなってきた。バーのカクテル、ビールなどのテイクアウトも流行っていて、週中、週末関係なく昼から列ができている。買っても店内で飲めないので、結局外で飲むのだが、警察に止められることはないらしい。この状況なので、警察も見て見ぬ振りなのか、ニューヨークもニューオリンズみたいになってきた。

 バスは無料になり、地下鉄は15ヶ月かかると言われていたLトレインのトンネル工事が12ヶ月で終わり、夜中1時から5時にサニタイズをする為に、24時間営業が一時停止になっている。
 学校からは月曜日から金曜日まで食事が支給され、$1200のチェックが送られ、失業保険にはプラス$600が毎週支給されている。アンチボディ(抗体)テストも無料でできるようになった。お金を使う所がない。

 というわけで、ニューヨーカーたちはグローサリーショッピングに精を出し、料理の腕を上げ、パンやケーキなど、ベイキングする人が増えた結果、小麦粉が品切れ状態。私はたこ焼きの小麦粉を買いに行こうとしたら、どこのスーパーも売り切れていて、はてと思ったのであるが、私も最近パン作りにはまり、毎日のように酒粕ミルクパンを焼いている。知人が、ブッシュウィックに酒ブリュワリーをオープンし、よく酒粕を分けてもらっているが、オープンしたとたんにこの状況。が、最近デリバリーを始めたところ結構オーダーが入っているらしい。近くのファンシーなペイストリー屋さんは普段より忙しい、と言っていた。買いに行ったら、そこだけ行列ができていたし、自分のためというより、お土産や人に送るものが売れているらしい。公園に行くとお花見しているグループもいたし、そろそろ自炊に飽きてきた人が外に出始め、ちょっとファンシーな食べ物やカクテルに、お金を使うようになってきたようだ。

 音楽ライヴは今年はお預けという噂が流れるなか、ミュージシャンはライヴストリームをしたりインスタをあげたりしてはいるが、それがオンラインの売り上げにつながれば良し。毎日のように新作はリリースされているが、ライヴ活動はできないので、オンラインだけでの売り上げとなる。バンドキャンプは3月20日に手数料を無料にする日を設けた。ここでは430万ドルを集め、プラットフォームの歴史上最大の販売日となった。 音楽、商品からの収益は、24時間でバンドキャンプの通常の15倍になり、1秒間で11アイテムが販売された。これを受けて、5、6、7月の第一金曜日も、手数料を無料にする日を設けた。このように音楽プラットフォームも少しずつ動き始めている。
https://techcrunch.com/2020/05/01/bandcamp-is-waiving-fees-today-in-support-of-artists/

 普段に近づいているようだが、人に会えないのが辛い。アパートの前で6フィート離れて話したり、窓越しに話したりはするが、一緒にジャムしたり、遊びに行くのはまだ遠い。外に出る時は、マスクやフェイスカバーをつけ手袋をしている。マスクも無料で配られている。

 5/2現在でのコロナウイルス統計:ニューヨークでの流行の追跡

 ニューヨーク市では17万人が感染して2万人弱が死亡している。私の周りにはかかっている人はあまりいないが、病院には霊柩車がいつも止まっているし、先日ユダヤ人の大規模なお葬式がウィリアムスバーグであり、ソーシャルディスタンスが守られていない。ということで、デブラシオ市長が怒っていた。
https://gothamist.com/news/crowded-hasidic-funeral-williamsburg-coordinated-approved-nypd

 またニューヨーク図書館が「失われたニューヨークの音」というサウンドトラックをリリースした。
 アンダーグラウンド・ショーを見に行く音、ラッシュアワーの音、公園の音、夜のバーの音、タクシーを呼ぶ時の音、近所の音、図書館の中の音などなど。普通な音が懐かしいと思うのもこういう時だからこそ。
https://gothamist.com/arts-entertainment/nypl-has-released-album-nyc-sounds

Purity Ring - ele-king

 だいぶギスギスしてきた。「あつまれ どうぶつの森」もいいけれど、こういう時は音楽なら「声」に着目したい。各国の感染症対策を見ると、メルケル(ドイツ)、アーダーン(ニュージーランド)、ツァイ(台湾)と女性リーダーの国が比較的うまくいっているという報道が多い。北欧もスウェーデン以外は女性がトップで(ゲイが首相を務めるアイルランドとともに)やはり評価が高い。ウイルスから身を守る時に「女性の声」で自粛を要請された方が国民も受け入れやすいという分析があり、ということは男性の声で「打ち克つ」とか「戦争だ」と勇ましいトーンで呼びかける国はあまり穏やかな気分にならず、実際、リーダーに対する評価も低い。うぐいす嬢が駆り出されて「選挙戦に勝とうとする」構図が繰り返されていると考えればいいだろう。「声」には「顔」や「思想」に匹敵する情報が含まれ、その効果は侮れない。ヴァリエーションもDNAの数だけ存在する。

 とはいえ、自分の「好きな歌声」を正確に把握することはは意外と難しい。言い方は悪いかもしれないけれど、「いい音楽」というファクターに騙されやすいのである。サウンドもある程度はいいものでないと音楽を聴いている意味がなくなってしまうので、そこは自分なりに線引きをすべきだろうけれど、「声」が前景化しているという意味ではラップがいい検討材料となる。去年、湯山玲子とヒップホップについてダラダラと話をしていた時に、サウンドに対して興味がなくても「好きな声」ならいつまででも聴けるという、身もふたもない結論に達してしまった。このサイトに掲載されたリトル・シムズの記事を読んでドハまりしたという湯山さんは『Grey Area』ばっかり聴くようになってしまったそうで、それだったら自分はなんだろうと考えた時に、自分の頭に浮かんだのはエミネムやスラッグ(アトモスフィア)といったハリのある声や、ちょっと変わった声、とくに鼻声ではないかと思い当たった。

 思想家の内田樹はかつてアメリカのポップスには「鼻声」が許容されていた時期があり、それは1977年でピタリとなくなったと書いていた。大国としての自信を失ってしまったアメリカはニール・ヤングやジェームス・テイラーの「鼻声」を受け入れる強さを失い、歌声は怒りや無機的な声に取って代わられたと氏は論じていた。「強い人間だけが、平気で泣くことができ」たし、そういう時代は終わってしまったのだと。世代が違うので、こうした考察を実感として受け入れるのは少しハードルが高いけれど、いわゆる「昔の曲はいい」という意見を聞く時に「昔の曲には現代に特有の感情が歌われていない」とはよく思うことだし、喜怒哀楽が他人事のようにしか感じられないとも思うので、僕がニール・ヤングやジェームス・テイラーの声に物足りなさを感じるのであれば、表現される「弱さ」の質も変化しているということが考えられるから、「怒りや無機的な声」の後で「鼻声」はどう変わったかを追ってみれば、内田樹の理屈にのることも可能になるだろう。そして、実際、僕が1977年以降、最もインパクトを感じた「鼻声」は戸川純とギャビン・フライデー(ヴァージン・プルーンズ)だった。彼らの声は明らかに「怒りや無機質を含んだ鼻声」であり、その延長線上にはビヨークがいたのでる。それこそ音楽はそれほど好きでなくても、僕にとっては「ついつい耳がいってしまう声」の持ち主がビヨークであり、その影響も世界規模に及ぶものだった。さらにいえば、先週、ブレイディ『Exeter』のレビューで、偶然にも書いたように僕が好きなラップはサイプレス・ヒルとTTCだった。声のことなど何も考えていなかったけれど、彼らも見事なほど鼻声である。僕は無意識に「鼻声」ばかり追いかけていたらしい。

 ピュリティ・リングのシンガー、ミーガン・ジェームズも最初から僕の耳を捉えて離さなかった。彼女の場合は「怒りや無機質を含んだ鼻声」ではなく、またしても時代が変わったのか、「甘えを含んだ鼻声」である。去年、繰り返し聴いたベイビーゴスもまったく同じくで、ウィズ・カリファをフィーチャーした“Sugar”は舌ったらずで甘えの要素をさらに強調するような鼻声である。ここまで来ると歌声を聴くためにしか聴いていないことは確かで、「鼻声」に興味がない人は……とっくに読んでいないだろう。ミーガン・ジェームズの歌声はかけらもアホっぽくなくなったというか、多少の無邪気さは失ったかもしれないけれど、軽く詰まったような鼻声はまったく変わっていない。コリン・ロディックによるグリッチを通過したシンセ~ポップ・サウンドも、以前の曲でいえば“Cartographist”を受け継ぐように重々しさを加え(ベースが太くなり、アウトロがしつこくなったかな)、暗くて巨大なものに押しつぶされながら小さなものが光っているという切ない存在感を以前よりも際立たせ、物悲しさやむせび泣くような哀愁をみっちりと伝えてくる。簡単にいえば、たくましくなっている。そして映画『シャイニング』を思わせると評された歌詞は、それこそ戸川純「赤い戦車」や「肉屋のように」とイメージがダブルほど生理的かつ内臓的で、アルバム・タイトルもずばり『子宮』となった。そう、ブレンダ・リー“The End of The World”やジュリー・ロンドン”Cry Me A River”にはない現代的な感情がここにはしっかりと刻み込まれている。

 同じ曲が人によっては違う効果を与えるということもあるだろう。新型コロナウイルスはDNAによって症状が変わるという仮説も浮上しているし、歌声に対する好みが千差万別であることは疑いがない以上、自分が好きな「歌声」は(サウンドとは分けて)自分でしっかりと探した方がいい。ソーシャル・ディスタンシングが叫ばれるなか、セクシャリティを有効に保つためにも(つーか、アベノマクスがまだ来ない〜)。

R.I.P. Tony Allen - ele-king

文:増村和彦

 誰よりもオリジナリティを湛えたドラミングで僕たちを踊らせて、何よりも僕たちを解放に導いてくれたトニー・アレンがいなくなってしまった。

 「一部のドラマーは、ソフトに演奏するという意味を知らない、彼らの辞書にないんだ」彼は2016年にそう言った。「私のドラムは派手に盛り上げることだってできる。が、しかしもっと繊細に叩くことだってできる。その音は、まるで川がながれるように聞こえるだろう」

 あらためてソフトに演奏するということに思いを馳せる。
 
 “アフロビート”の向こう側に見える“アフロなビート“の醍醐味のひとつは、ひとりひとりが叩き出すリズムはシンプルながら、それらが絡み合ったとき形成される大きなうねり。ダイナミック且つロジカルで、究極の共同分担作業。もうひとつは、うねり続けることによって得られる高揚感。いつの間にか思考が薄れ、渦のなかにただいるかのような感覚。繰り返しに気持ちよさを感じる経験は演奏しなくても誰しもきっとあると思う。そして、そのビートは多くの場合ダンスと密接な関係を持つ。
 トニーは、ドラムという楽器でこれをひとりでやってしまった。右手、左手、右足、左足にそれぞれドラマーを湛え、それらは絡み合ってタイトにうねる。そして、そのビートは踊らすこと以外のためにはないと語る。トニーが抜けたあとのアフリカ70に、複数のドラマーが必要だったという伝説も頷ける。
 “アフロビート”には大いに“アフロなビート“の影響があると思いたい。その上で“アフロビート”たらしめたのは、もう散々伝えられている通りジャズの影響だった。トニーは、バップ・ドラミングとりわけアート・ブレイキーのドラミングを聴いて、ひとりではなく、まるで複数人で叩いているように聞こえたそうだ。あなたのドラムを初めて聴いた時、全く同じことを思ったよ!
 たしかに、フレーズがバップまんまなところがあるというのはわからないでもないが、そんなことではなくて、キック・スネアもフレージングの一部にしていくバップのアイデアと、“アフロなビート“感覚の融合が、“アフロビート”を生み出す原動力になったのではないか。トニーのドラムは、いつも同じ匂いがしながらも、よく聴くとフレーズの多様さに溢れている。トニーが叩いていると一聴しただけでわかるのに、全く同じフレーズというものがない。覚えたフレーズを使うのではなくて、自在に四肢でフレージングさせていく。しかも、踊らせることを忘れることなく、複雑なことをやっているようで、その実はシンプルだ。これは本当にすごいことだ。あなたのドラムを初めて聴いた時、頭にスネアがバシッとくるだけで面食らったよ!
 もっともジャズに近いけど絶妙に所謂スイングはしないニクいハット、変幻自在で流れるようなスネアワーク、タイトなベードラ、嵐のようなフィルとそのあとのスネア頭一発、どれもしびれ上がるけど、どうやらそれらを操っている部分があることに段々気づいてきた。おでことおへそが、みぞおちの辺りで繋がっている感じ、第三のチャクラとかスポットとかいろいろな呼び方があるのだろうが、そういえば、ブレイキーも、ケニー・クラークも、バップドラムをさらに進化させたエルヴィン・ジョーンズもそこで叩いているような気がしませんか。常にリラックスしながら、たとえ音が小さくても太鼓がとても気持ちよく響き、フィルの瞬間風速は凄まじく、いつまでも止まらないかのようなビートで踊らせてくれる。

 ソフトに演奏するって、こんなことらなんじゃないかなって思いながら書いていたけど、きっとそれだけじゃないですよね。「川のように流れていく(flowing like a river)」ドラム、わかる気もするけど、まだわかっていないことのほうが多い。でも、これからも多くの気づきを与えてくれそうな感じがするのも楽しみで、ずっと聴き続けたくなります。
 60年代フェラ・クティと出会った頃すでに“アフロビート”ドラミングのスタイルを確立していたみたいだけど、フェラ・アンド・アフリカ70の映像を見ると結構ガシガシやっているのも見受けました。“アフロビート”は集団戦。強烈なクティの個性だけを聴く音楽ではなくて、数え切れないほどステージにいるもの全員が合わさって“アフロビート”だ。そしてそれをひとつにまとめあげたのが、トニー・アレンの発信と説得力の塊のようなドラミング。フェラ・クティとトニー・アレンが“アフロビート”を創り出した。
 トニーズベストに挙げる人も多いだろう、トニー・アレン・ウィズ・アフリカ70は、勢いとリラックスが同居して、まさに油の乗った様がかっこいい。"Jealousy"の鍵盤は何度聴いても気持ちよいです。その直後のトニー・アレン・アンド・ザ・アフロ・メッセンジャーズは、めちゃくちゃ渋い。『No Discrimination』というタイトルからしてもっとも勇気を与えてくれる作品のひとつだ。
 円熟味は増し続け、ジャンルを越えた様々なコラボレーションは、僕たちを解放へ向かわせてくれる。オネスト・ジョンズが熱心に再評価し続けたこともあり、南ロンドン勢の生きた影響を感じられる作品たちも興味深い。「でもさ、実はみんな同じものじゃない? ハウスにジャズ云々、いろいろとジャンルはあるものの、要は同じ。誰もがあらゆるものを分け隔てなく聴いている、と。ほんと、ソウルフルな音楽か、リズミックな音楽かどうかってことがすべてなんだしさ」カマール・ウィリアムスのこの言葉は、そのままトニーの軌跡にも当てはまるだろう。
 最近のジャズに還ってきたかのような作品群では信じられないほど四肢の動きが小さいまま、踊らせるのも見受けました。文字通り「to play soft」の極意が最高まで達したかのようなドラミング。

 「ベストであること。それは他の誰かと同じことすることではない。ベストであることとはつまり、他の誰かがそこから学べる、それまでなかった何かを創造し、残すことである」

 たしかに、あなたはいままでもこれからもあまりに大切なものを生み出して、変遷を辿れば辿るほどに、ボクたちに多くの気づきを与えてくれている。
 
 “I wanted to be one of the best — that was my wish,“
 たしかに、あなたは間違いなく最高中の最高だ!

文:小川充

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文:小川充

 ワン・アンド・オンリーという言葉がこれほどふさわしいミュージシャンもいないだろう。アフロ・ビートの創始者であるドラマーのトニー・アレンが4月30日にパリのポンピドゥー病院で亡くなった。先日亡くなったカメルーン出身のマヌ・ディバンゴもそうだが、多くのアフリカ系ミュージシャンにとってパリは活動しやすい町のひとつで、ナイジェリア生まれのトニー・アレンも1980年代半ば以降はパリに居住していた。マヌ・ディバンゴの死因はCOVID-19によるもので、トニー・アレンの死因は今のところ公表されていないので何とも言えないが、現在の状況下ではその可能性も否定できない。
 1940年8月12日生まれのトニーは享年79歳だったが、つい先日もヒュー・マセケラとの共演アルバム『リジョイス』が発表されたばかりで(録音自体は2010年に行われたセッションが基となる)、現役で活躍していた印象が強いだけにこの死はあまりにも唐突である。

 今でこそトニー・アレンはフェラ・クティの盟友で、フェラと一緒にアフロ・ビートを生み出したパイオニアとして語られるが、その評価が定まってきたのは比較的近年のことだ。
 1970年代はフェラ・クティ率いるアフリカ70の一員として、『シャカラ』(1972年)、『エクスペンシヴ・シット』(1975年)、『ゾンビ』(1977年)などフェラの全てのアルバムに参加していたが、当時の欧米や日本ではフェラ・クティ自体がマイナーな存在で、トニー・アレンにまで認識が及んでいなかったというのが実情だ。これまでフェラ・クティはいろいろなタイミングで再評価されてきたが、ちょうど彼が死去した1997年前後のことを振り返ると、当時はジョー・クラウゼルやマスターズ・アット・ワークなどによるアフロ・ハウスが盛況で、そのルーツであるフェラの音楽にもクラブ・ミュージック方面からスポットが当てられていた。彼の息子のフェミ・クティの作品もそうした流れでDJプレイされたり、リミックスされるなどしていたが、同時にフェラ・クティのレコードもいろいろと再発され、さらにトニー・アレンの初リーダー作である『ジェラシー』(1975年)を筆頭に、『プログレス』(1977年)、『ノー・アコモデイション・フォー・ラゴス』(1979年)、ジ・アフロ・メッセンジャースを率いての『ノー・ディスクリミネーション』(1979年)が立て続けにリイシューされた。1999年のことだが、これらは世界で初めてのリイシューで(全てアナログ盤でリイシュー)、企画元であるPヴァイン(ブルース・インターアクションズ)には感謝しかない。それまでナイジェリア盤でしか聴くことができなかった音源なので、私を含めたほとんどの人にとってトニー・アレンの存在を知った瞬間ではないだろうか。『ノー・ディスクリミネーション』を除く3作は全てアフリカ70と録音したもので、フェラ・クティもエレピやサックスで参加していたのだが、フェラ・クティというカリスマがフロントに立たなくてもアフロ・ビートは成立していて、すなわちアフロ・ビートの核はトニーであることを証明していたわけだ。
 フェラ・クティは1980年代に入ると新しいバンドのエジプト80を結成するが、トニー・アレンはそこには参加せず、ソロ・ミュージシャンとして新たなステップを踏み出していく。ナイジェリアを離れてロンドン、パリと移り住み、より広い世界を視野に入れて活動をするようになる。

 これらリイシューが出た頃のトニー・アレンは60歳くらいだったが、そこから一気に再評価の波が広がり、当時はフランスの〈コメット〉というクラブ系レーベルから『ブラック・ヴォイシズ』(1999年)という久々の新作も出した。
 このアルバムはドクトール・Lというプロデューサーと組み、ブロークンビーツやニュー・ジャズとトニーのドラムを交えたものとなっているが、この手のクラブ系サウンドの中においてもトニーの存在感は抜群だった。
 さらに『ブラック・ヴォイシズ』を発展させる形でドクトール・Lらフランスの若手アーティストたちと組んだサイコ・オン・ダ・バスは、アフロ・ビートにフューチャー・ジャズ、ブロークンビーツやエクスペリメンタルなトリップ・ホップなどを融合したようなプロジェクトで、60歳ものトニーがよくこんな新しく実験的なことをやるなという印象を持ったものだ。
 フェラ・クティの息子のフェミ・クティやシェウン・クティは父の遺志を継ぐ正統的なアフロ・ビートをやっているが、彼らよりずっと年長のトニー・アレンのほうが音楽的には柔軟で、アフロ・ビートのオリジネイターという根っこはありながらも、今の新しい音楽や異ジャンルのミュージシャンとも積極的に交信していた。
 ジ・アレンコ・ブラザーフッド・アンサンブルというリミックス・プロジェクト的な企画では、トニー・アレンの生ドラムを介してザ・シネマティク・オーケストラ、カーク・ディジョージオ、ヨアキムなどの作品をリワークしていて、ミュージシャンでありながらリミキサーでもあるという現在の音楽シーンに見事に対応する姿も見せる。
 2002年の『ホーム・クッキング』ではブラーのデーモン・アルバーンやラッパーのタイたちと共演し、そこからデーモンとの交流が深まっていく。そしてデーモンのほかザ・クラッシュのポール・シムノン、サイモン・トングと組んだザ・グッド・ザ・バッド・アンド・ザ・クイーン、デーモンやレッチリのフリーと組んだロケット・ジュース・アンド・ザ・ムーンも始まった。ロケット・ジュース・アンド・ザ・ムーンの同名アルバム(2012年)にはサンダーキャットやエリカ・バドゥも参加して、オルタナ・ロックにアフロ・ビート、ヒップホップやエクスペリメンタルなファンクが混然一体となったまさにミクスチャーな音楽をやっている。
 2014年のソロ・アルバム『フィルム・オブ・ライフ』にはデーモンのほかにマヌ・ディバンゴも参加していて、こちらは比較的オーソドックスなアフロ・ビートをやりつつも、ダブやファンクの要素も混ぜたり、マリの音楽、グナワなどモロッコ音楽やエチオピアン・ジャズなどさらに広範なアフリカ音楽〜ワールド・ミュージックに取り組んでいた。

 意外なところではベーシック・チャンネルのモーリッツ・フォン・オズワルド率いるトリオにも参加し、『サウンディング・ラインズ』(2015年)でダブ・テクノやミニマルにも対応した演奏を行っている。トニーが〈オネスト・ジョンズ〉からリリースした2005年のアルバム『ラゴス・ノー・シェイキング』のミックス及びマスタリングをモーリッツが手掛け、その後もトニーの作品をリミックスするなどした縁から繋がった共演なのだが、当時は「どれだけ間口が広いんだ」と驚かされた。しかし、そうしたところでもアフロ・ビートの痕跡はしっかりと残していて、まさにワン・アンド・オンリーなミュージシャンである。
 ほかにもジンジャー・ベイカー、ジミー・テナー、セオ・パリッシュ、ジェフ・ミルズ、リカルド・ヴィラロボス、セローン、トム・アンド・ジョイ、アワ・バンド、ニュー・クール・コレクティヴ、ニコル・ウィリス、メタ・メタ、ニュー・ギニアなど様々なアーティストと共演やコラボを行ってきたトニー・アレンだが、自身のソロ活動としてはバック・トゥ・ルーツな方向性が近年は目立っていた。
 もともとアート・ブレイキーやマックス・ローチなどアメリカのジャズ・ドラマーに影響を受けてドラムを始め、その後フェラ・クティと出会ってクーラ・ロビトスを結成。最初はジャズやアフリカのハイ・ライフが混ざり合った演奏をしていたが、アメリカにツアーをした際にジェイムズ・ブラウンやスライのファンクの洗礼を受け、それからナイジェリアのラゴスに戻ったふたりはアフリカ70を結成し、アフリカン・リズムにファンク・ビートを融合したアフロ・ビートが生まれた、というのがトニー・アレンの初期のキャリアである。
 そうしたドラムを始めたきっかけとなったジャズのビ・バップやハード・バップ、アフロ・キューバン・ジャズや大らかなハイ・ライフの世界に戻ったアルバムが2017年の『ザ・ソース』で、これはフランスの〈ブルー・ノート〉から出ている。
 同じく〈ブルー・ノート〉からはアート・ブレイキー・アンド・ザ・ジャズ・メッセンジャーズのカヴァーEPも出していて、“チュニジアの夜”や“モーニン”といった往年の名曲を演奏していた。その一方で、昨年リリースされたヌビアン・ツイストの『ジャングル・ラン』にも客演するなど、まだまだ現役バリバリで活躍していた。そしてモーゼス・ボイドやエズラ・コレクティヴなど、トニーの影響を受けた新しいミュージシャンやバンドの活躍が注目を集め、さらなる再評価の波が訪れていた矢先だけに、彼の死は本当に残念でならない。

文:小川充

Sun Araw - ele-king

 逃げ場所はどこにもない。パンデミックによってスウェーデンを除く世界中の国々でSTAY HOMEの日々が続くなか、初夏のように晴れた日の昼から穀物の発酵で生成された揮発性の液体を飲んでサン・アロウを聴く。おつである。
 『ロック経典』という新作だが、彼の出世作『On Patrol』から早10年。ぼさぼさの髪に髭、キャップにギターにTシャツにデニムといういかにもインディな出で立ちの、ロサンジェルスのサン・アロウことキャメロン・ストローンズ、この男がこれまでやってきている音楽は、じつは本来であれば松村正人氏が評価すべきエクスペリメンタル・ミュージックである。
 ところが、おお、なんということだろうか、氏は気に止めていないようなのだ……が、ele-kingではサン・アロウ関連の諸作をこれまで何回もreviewしてきている。キャメロン・ストローンズは、10年前のロスのインディ・シーンにおけるドローンやらダブやらの、どさくさのなかから出現した(ように日本からは見えた)。〈サイケデリック〉というのが彼の作品を語るさいの世界共通キーワードではあるが、その趣向はラヴよりもリー・ペリーに近く、ライヒよりもテリー・ライリーに、ドアーズよりもビーフハートに、ラリーズよりもボアダムスに近い──のだった。
 サン・アロウはどうしてもユーモアを隠せない人だ。レゲエの伝説コンゴスとのコラボ、ニューエイジの伝説ララージとのコラボでも型にはまらずヘンなところに着地する。CANみたいだ。
 新作は本当にCANみたいになっているので驚いた。CANの掲げた「民俗学的偽造シリーズ」ほどの豊富なヴァリエーションはないかもしれないけれど、ユーモアとワールド・ミュージックと実験という観点で言えば両者には近しい感覚がある。試しにCANの名盤とさえ言える未発表曲集『Unlimited Edition』とサン・アロウの『ロック経典』を交互に聴いているのだが、1974年と2020年の作品は時空を越えて繋がっていることが確認できる。聴いている人間が酩酊しているだけのことかもしれないが……

 先日は偉大という言葉さえも白々しいほど偉大なドラマー、トニー・アレンが永眠したが、『ロック経典』もまたアフロビートの恩恵を受けている。また、パーカッショニスト(Jon Leland)とシンセサイザー奏者(Marc Riordan)を有する生演奏(ライヴ)が、『ロック経典』がサン・アロウのカタログのなかの特筆すべき1枚である理由になっていることは疑いようがない。
 『ロック経典』には10分ほどの曲が4曲収録されている。1曲目の“Roomboe”はリズムの間合いが素晴らしいスペース・ファンク・ロックで、親指ピアノに導かれてはじまる2曲目“78 Sutra”では絶妙なポリリズムを展開しながら……顔はシラフだがその内側は宇宙大のトリップをしていますと言わんばかりのオーガニックなグルーヴを創出する。
 3曲目“Catalina”も出だしのリズムが格好いいんだよなぁ。キャメロン・ストローンズのギターの特徴がよく出ているというか、とてもレゲエとは呼べないが、もっともレゲエからの影響を感じさせる曲がこれである。そして今作で最高の曲が4曲目の Arrambe”。じつを言うとぼくは最初にこの曲が好きになったのだった。本作中、はっきりとした反復するメロディがある曲なのだが、これはもう、近年の数多あるクラウトロック解釈のなかでも最高の出来に挙げられよう。後半おとずれる恍惚感はすさまじしく、顔はシラフだがその内側はもはや時空を越えてしまっているようである。
 『ロック経典』はアンビエントではない。リズミックな作品で、ちょっと可笑しいヘンな音が好きでこのGW中に家でヒマしているようだったら、ぜひ聴いてみてください。で、タイトルの意味? わからんです。

 毎年恒例のバースデイ・ライヴを自粛のため延期にした戸川純が「なにかしなくては!」と動画配信を始めました。しかも内容は得意の人生相談と本職の歌! 早くも第1回配信がゴールデンウィークから開始されています。ツイッターで募集した深刻な悩みに次から次へと意味不明の解決法を持ち出していきます。


戸川純の人生相談 令和弐年 第一回 前半


戸川純の人生相談 令和弐年 第一回 後半

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