「Ord」と一致するもの

Mike - ele-king

 クラインに対するブルックリンからのアンサー……といってしまおうか。19歳でニューヨークの新たな前衛とされているDJブラックパワーことマイケル・ジョーダン・ボニーマは昨年5月に『Black Soap』がリリースされた時はどうしてこんなに騒がれるのかと不思議だったのだけれど、基本的にはリリックに対する評価が大きかったようで音楽だけで判断できるものではなかった。マイクはクラウド・ラップとは「別種のインターネット・スター」とまで持て囃されていたものの、僕は1〜2回聴いて、それきりだった。しかし、その後に〈レックス〉からリリースされた『Renaissance Man』と年末に放たれた『War in My Pen』というミックステープで、今度は音楽的に耳が止まり、しばらくして、ああ、『Black Soap』の人かと気づいた次第である。改めて『Black Soap』のレビューを探してみると、彼の親はナイジェリア移民で、彼自身はニュージャージーで生まれ育ち、母親に連れられて5歳でロンドンに渡り、それまで聴いていたラップにはなんの興味もなかったものがロンドンでグライムと出会ったことから始めてラップに興味を持ったのだという。その時の「自分探し」の過程をそのままアルバムのテーマとしたものが『Black Soap』で、これがどうやら大きな共感を得たということらしい。ニール・ゲイマンの『アメリカン・ゴッズ』にアメリカ人は自分探しをせず、「わかったフリをしているだけ」というセリフがあったけれど、彼はむしろそれを大々的にやったということになる。そして彼の思いはナイジェリアヘと飛び、歌詞も一部はヨルバ語で歌われ、西アフリカで普通に見かける石鹸=ブラック・ソープのパッケージをジャケット・デザインに流用したことも「自分探し」のヴィジュアル展開だと。『Black Soap』に続く『Renaissance Man』ではあからさまに「Why I’m Here」「Rebirth」と言った曲名が並び、そして、後半で畳み掛けるように続くのがクラインを思わせるドローンじみたトラックの連打。これはどう考えてもロンドン滞在中に同じナイジェリア系のクラインと接触があったか、少なくとも音源に感化される機会があったとしか思えない。NHK「たぶんそうだったんじゃないか劇場」なら、そう結論づけるだろう。

 そして『Renaissance Man』ではまだ借り物という感じでしかなかったサウンド・プロダクションが『War in My Pen』では確実に自分のものとなっているプロセスを確認することができる。あからさまにクラインの影響がそのまま出ているトラックは姿を消し、冒頭の「Choco」や「Nothin’ to Me」ではドローンがループされ、シンプルに仕上げられているにもかかわらず、どこにも隙間のない濃密な音の洪水が耳に注ぎ込まれる。「なんでトリップしてるんだい 自分の楽しみを見つけなよ 賢いニガーはガキの言うことなんか聞かない」と歌い出しながら、「grabba」、「October Baby」とサイプレス・ヒルよりもむせ返えるスモーカーズ・トラックで攻め立て、「オレは肺がつぶれるほど吸ってる」とか「害を及ぼすことと吸うことは別なこと」などと続けていく。ずばり「smoke」と題された曲では「Listening to smoke」と感覚的な歌詞を繰り返し、ラップにありがちな虚勢よりも自分がどこにいるかと言うことを繰り返し言葉にしているのだろう。規模は小さいけれどノーネームに近い心象風景を題材にしているのかなと思ったり(そこまで英語やスラングのニュアンスは僕にはわからない。「We was」とかどう訳すねん?)。「NeverKnocked」や「Rottweiler」で使われている強烈なグリッチ・サウンドはおそらく2年前にグリッチ・シャンソンのネヴェー・ゲット・ユースド・トゥ・ピープルの影響で流行ったティック・トックのグリッチ・チャレンジをヒップホップ的に展開したものなのだろう。これらはあまりにもサイケデリック。そして、クラインよりもどこか陽気な感じがとてもいい。

 ロンドンでグライムに感化されたマイクは、アメリカに戻ってからスラム(sLUms)というポッシを結成している。ゼロ年代のヒップホップはグループが成り立たず、50セントやエミネムと行ったソロMCの時代だと言われていたけれど、この10年はそういったソロMCがゆるくつながっていたという印象があり、ロサンゼルスのオッド・フューチャー、ニューヨークのエイサップ・モブ、そして、エイサップ・モブとは抗争の相手と化してしまうフロリダのレイダー・クラン(スペースゴーストパープ)が個性的な若手を続々と送り出してきた。ヒップホップに興味を持ったマイクも10歳を過ぎた頃にはオッド・フューチャー(のとくにアール・スウェットシャツ)に強く影響を受けたと語っており、シックスプレスやキング・カーター、メイソン、ジャズ・ジョーディといった6人の迷子が一緒にいることで死が身近にある環境でも音楽によって自由をつくりだすことができるのだという。彼らは政治的な見解が一致し、初期には社会的な不安を、最近では希望をラップし始めている。そう、「Like My Mama」はドン、ドンというドラムの音だけで別世界に連れて行かれる。これに変調された声が蚊のようにクルクルと宙を舞い、「PRAYERS」ではスクリュードされたゴスペルのコーラス、「UCR」はまさにクラインへのアンサーとしか思えないドレムレスの展開に突入し、「Red Sox;babylon」に橋渡しされる流れは鳥肌もの。リル・Bとはかなり仲がいいという噂もなるほどという感じでしょうか。リー・ペリーやマッド・プロフェッサーのファンもこれは唸るんじゃないかな。峠を越えて後半4曲は少し落ち着いた展開に戻り、歌詞も真実だとか歴史といった社会派のニュアンスを醸し出すものに。最後にそして、人生に対して妙に弱気な「For You」ですべては閉じられていく。嫌な終わり方というほどではないけれど、それこそ煙がどこかにかき消えてしまうような感触が残り、夢でも見ていたような気分に。

Mark Stewart - ele-king

 1982年にリリースされたマーク・スチュワート&ザ・マフィアの最初の12インチがどれほどの衝撃だったことか──ひとつにはダブの音響実験がある。プロデューサーのエイドリアン・シャーウッドは、ジャマイカ生まれのダブの技法をこの作品において極限まで拡大して、カット・アップによるサウンド・コーラジュとの境界線を消失させている。演奏しているのはレゲエ・バンドのクリエイション・レベルのメンバーであったり、やがてアフリカン・ヘッド・チャージとして活動するメンバーだったりするのだが、ザ・マフィアの演奏は、シャーウッドのダブ処理において伝統的なレゲエとは切り離され、都市の寒々しい灰色の風景に地響きを与えるものとなった。泣きわめいているマーク・スチュワートの声が、その破壊的なサウンドと一体化したとき、虚飾に満ちた都市の化けの皮は剥がされて、力強いダンス・ミュージックが現出する。これがふたつ目の襲撃だった。
 続いて1983年にリリースされたのが、マーク・スチュワート&ザ・マフィアのデビュー・アルバム『ラーニング・トゥ・コープ・ウィズ・カワディス』だった。ザ・マフィア名義で録音された唯一のアルバム。12インチにも収録された“リヴァティ・シティ”は、2019年の現在聴いても名曲であり続ける。それは不吉な未来に向かっている東京にお似合いの、滅びゆく都市の鎮魂歌のようだ。

 『ラーニング・トゥ・コープ・ウィズ・カワディス』は新たに発掘された10曲(!)の未発表曲集を加えた2枚組として2019年1月25日に発売される。未発表曲もあなどれない。なにしろこの黄金のメンバーで録音された音源であり、マーク・スチュワートもエイドリアン・シャーウッドももっとも過激な実験に取り組んでいた時代の記録なのだから。

 マーク・スチュワート&ザ・マフィアの三つ目の衝撃をいうならそのアートワークである。当時の彼らがCRASSなどのアナルコ・パンクとリンクしていたという事実がうかがえるだろう。日本盤はトラフィック・レーベルから。お楽しみに。

Binkbeats - ele-king

 これは興味深い。まずはこのエイフェックス“Windowlicker”のカヴァー動画を視聴してみてほしい。あの楽曲を人力で、しかもたったひとりで再構築してしまうこの人物、ビンクビーツ(Binkbeats)というオランダのプロデューサーである。他にもフライング・ロータスラパラックスアモン・トビンなどのエレクトロニック・ミュージックをがしがしひとりでカヴァーしているからすごい。アンダーグラウンドの最尖端に敏感なDJクラッシュの最新作『Cosmic Yard』にもフィーチャーされていたので、それで気になっていた方も少なくないだろう。そんなアナタに朗報です。ちょうど本日1月9日、彼がこれまで発表してきた2枚の12インチを独自にまとめたCDがリリースされます。昨年ソニックマニアで来日した〈Brainfeeder〉のジェイムスズーも参加しているとのことで、おもしろい音楽を探している方は要チェックですぞ。

BINKBEATS

〈Brainfeeder〉総帥 Flying Lotus、Thom Yorke (Radiohead) 率いる Atoms For Peace、そして Aphex Twin や、さらには J. Dilla まで数々のアンセムを人力且つたった一人で再現したライヴ映像で世界中に衝撃を与えたオランダのビート・サイエンティスト BINKBEATS ついに日本デビュー!

LAビート・シーンを牽引する〈Brainfeeder〉総帥 Flying Lotus “Getting There”、Thom Yorke (Radiohead) 率いる Atoms For Peace “Default”、そして Aphex Twin “Windowlicker”といった数々のアンセムやさらには J. Dilla の“Mixtape”を人力且つたった一人で再現したライヴ映像で世界に衝撃を与えたオランダのマルチ・インストゥルメンタリスト BINKBEATS。ROCK、POSTROCK、ELECTRONICA、HIPHOP、JAZZ など幅広い音楽要素を融合し多種多様な楽器/機材を駆使しながら構築する先鋭的なビートや美しくもエモーショナルなメロディ、それらを独創的なサウンド・スタイルで展開した本作は各500枚限定でプレスされた連作EP「Private Matter Previously Unavailable」 PART1 と PART2 の全曲を収録したオリジナル楽曲としては初のCD化!

既に YOUTUBE で公開されているライヴ映像が100万再生を超えているM1 “Little Nerves”は Daedelus や Jameszoo の作品にも参加しLAビート・シーンの重要レーベル〈Alpha Pup〉からも自身の名義でリリースしている注目の若手鍵盤奏者 Niels Broos をフィーチャー、そしてM3 “In Dust / In Us”には〈Brainfeeder〉から発表された 1st『Fool』が高い評価を受けた Jameszoo もプロデュースに加わるなど次世代の注目アーティストが多数参加! 現在ワールドワイドにツアーを行っており、また DJ KRUSH の最新アルバム『Cosmic yard』(2018年3月)にも参加するなど日本国内でも徐々に活動の幅を広げるなど、その唯一無二なパフォーマンスで世界各地に衝撃を与えている今後の活躍が期待されているアーティストである。

タイトル:Private Matter Previously Unavailable / プライヴェート・マター・プリヴィアスリィ・アンアヴェイラブル
アーティスト:BINKBEATS / ビンクビーツ
発売日:2019.1.9
定価:¥2,400+税
PCD-24796 / 4995879-24796-9
日本語解説:原雅明
p-vine.jp/music/pcd-24796

Additional Synths On All Tracks By Niels Broos
Additional Production On In Dust / In Us By Jameszoo
Additional Vocals On Heartbreaks From The Black Of The Abyss By Luwten, The Humming / The Ghost By Maxime Barlag

ZULI - ele-king

 エジプト・カイロを拠点に置くアーティスト、Zuli のデビュー・アルバム『Terminal』が、Lee Gamble が主宰するレーベル〈UIQ〉よりリリースされた。これまで3枚のEPを〈UIQ〉と〈Haunter Records〉からリリースしてきた。その内容はインストゥルメンタルで、グリッチやノイズ、グライムっぽいうねるようなベース音も顔を見せる変則的なダンス・ミュージック。2017年にはベルリンのCTMフェスティヴァルでは地元であるカイロをテーマとした360度ヴィデオのインスタレーションを発表。活躍の舞台を着実に広げ、特に〈UIQ〉からのリリースはレコード店で売り切れるほどの人気ぶりだ。

 Zuli、本名は Ahmed El Ghazoly という。10歳まではイギリスで暮らし、グランジやブリット・ポップ、ケミカル・ブラザーズやプロディジーを聞き、両親の都合でエジプトに戻ってきたという*。所謂エジプトの伝統音楽やポップスに関心が向かず、UKの音楽に影響を受けて制作をしてきたという。また、同志のアーティストと Kairo Is Koming というコレクティヴを作り、ふたつの拠点でラッパーやアーティストとコラボレーションしながら活動をしているという。

 そうした集団での制作も方向性に反映されているのだろうか。今作『Terminal』は、これまでのインストゥルメンタル、変則テクノ的な音楽性から、トラップ、ジューク、ラップとの混交、またラッパー、シンガーとのコラボレーションが際立つ。1曲目から 6. “Stacks & Arrays”までは808ベース、残響音のようなベースとノイズが不規則に鳴らされ、不穏なサウンドスケープが展開される。7曲目の“Kollu I - Joloud feat. MSYLMA”で歌唱が、8. “Akhtuboot feat. Abyusif”でラップが初めて耳に入る。しかしどちらも3~4分の商業的なレコードのフォーマットではなく、断片的に流れていく。9. “Mazen”でも Abyusif のラップが使われているが、切り刻まれ、引き伸ばされ、あるいはピッチを変えられて、声そのものが変態していく。ラップは、11. “Ana Ghayeb feat. Mado $am, Abanob, Abyusif”でようやく聞き取れるレヴェルのラップが一瞬姿を見せる。フリースタイルする(ような)彼らのラップは素晴らしく、ソロ作品を聴きたくなる。

 『Terminal』というアルバム・タイトルから思い起こされるのは空港である。〈NON〉の Chino Amobi が一見無国籍でクリーンな空港という空間に、人種・政治的な関係を見出したのと同じように、このアルバムの不穏さもローカルな状況につなげて考えることができる。Zuli の活動の中心であるエジプトは「アラブの春」に端を発する政治・経済的な混乱が続いていて、混乱の前後でカイロの貧困率は2倍近くに増加したというデータもある。

 切り刻まれ、グリッチされた歌詞の内容は理解不能であるが、音が生み出す不規則・不穏な空気感とカイロの社会的・政治的な状況が重なる。グリッチやノイズは予期せぬ第三者からの干渉の結果に聞こえる。なにかを告発するはずだった通信・録音が遮断され、干渉され、散り散りになったデータとなって再生されているような、または、デジタル情報の残骸のような質感。12. “In Your Head”のビートレスのアンビエント、冷たいピアノの一音がさらにアルバムの緊張感を持続させる。その曲での後ろで響くのは、男の会話ともヒソヒソ声とも取れる音。密告のようにも、心の中の「勘ぐり」にも聴こえてくる。緊張や不安はアルバムの全編を通じて漂い続けている。

 このアルバムを聴くことは、生成されたデジタル情報が捻じ曲げられたり、隠されたりする痕跡を辿っていく行為かもしれない。しかしもう一方では、そうしたデジタル情報が不完全に捻じ曲げられたり、隠されきれなかったりする。そうした人間味を感じさせるサウンドでもある。音が不規則でありながら緊張感が持続する、エレクトロニックながらどこか「生っぽく」感じられる。そういった多面性を持ったアルバムだ。

 * TIGHT Magazine のインタヴューより。

Drone, Bengal Sound, Rocks FOE - ele-king

 ロンドンに「Keep Hush」という YouTube のライヴ配信チャンネルがある。UKガラージやグライムからハウス、テクノ、ディスコまで幅広いDJ、トラックメイカーがプレイする不定期番組で、Boiler Room や Dommune といった番組を思い浮かべてもらえればいいと思う。そういったライヴ配信チャンネルと異なるのは、彼らが「ロンドンの若手アーティスト」に焦点を当てている点と、毎回開催場所を変えて、秘密のロケーションでおこなわれる点だ。場所は開催直前に登録制のメールマガジンに配信される仕組みで、小さめの会場でおこなわれることもあいまってアットホームな空気が伝わってくる。また、配信時のザラついた質感は90年代のレイヴを意識しているのでは、と邪推したりした。

 そんな Keep Hush にて、〈Coyote Records〉が主催する夜には新鮮さと勢いを感じた。下の動画でプレイしているのは気鋭の若手アーティスト Drone だ。

Drone DJ Set | Keep Hush London: Coyote Records Presents

 Drone は自主作品のUSBに続き、2018年は〈Sector 7 Records〉から「Sapphire」をリリース、続いて〈Coyote Records〉から「Light Speed」をリリースした。

Drone - Light Speed
https://bit.ly/2P6ZlKx

 Keep Hush のプレイでもリワインドされた Drone の“East Coast”はサンプリングの声ネタ・金物が印象的で、組み合わせられるUKドリルを感じさせる、うねるようなキック・ベースにハイブリッドなセンスを感じる。

 さらに紹介したいのは、上にあげた Drone が何曲かプレイしている Bengal Sound。2018年にコンセプト作品『Culture Clash』をカセットでリリースしている。

Bengal Sound - Culture Clash

 全ての曲でボリウッド映画のサウンドトラックからサンプリングしており、ハイエナジーなベースラインにサンプリングされたローファイなホーンやパーカッションがとても自然にマッチしている。手法に関して言えば、Mala が『Mala in Cuba』でキューバ音楽を用いたのと比べることもできるが、こちらはよりローファイなカットアップ、ループ感はインストのヒップホップを思わせる。

 サンプリングという観点で最後に紹介したいのは、ラッパーでありトラックメイカーである Rocks FOE。ラッパーとしてもアルバムをリリースする傍ら、日本でも人気を集めるレーベル〈Black Acre〉から 140 bpm のインストゥルメンタル作品もリリースする。多くの作品でサンプリングを用いており(寡聞にしてそれぞれのサンプリング・ネタがわからないのだが……)、ホーンやディストーションされたシンバル、そして低く震えるラップは独自の怪しげな世界観を築いている。

2018年6月にリリースされた Rocks FOE のアルバム『Legion Lacuna』
https://rocksfoe.bandcamp.com/album/legion-lacuna

 こうしたザラザラとしたサンプリングをおこなったダブステップについては、2016年の Kahn, Gantz, Commodo による名盤『Vol.1』が思い起こされるが、その後のシーンについてはどうだろうか。〈Sector 7 Records〉を主催する Boofy はインタヴューでこのように述べている。「ダブステップには、(シーンを語る上で)欠かせない歴史もあるけど、いまお気に入りのアーティストはもうそういう「レイヴ・バンガーの公式」の教科書は気にしないでやりたいようにやっているよ」(Mixmag, Jan, 2019)

 近年のダブステップはサンプリングのセンス、音の組み合わせ方が新鮮さに満ちていて、常にインスピレーションを与えてくれる。

Sho Madjozi - ele-king

 南アフリカから2グループ。ゴム・ミニマルやゴム・ゴスペルなど南アのダンス・アンダーグラウンドはこの1年でどんどん細分化し、ゴムとトラップを掛け合わせたマヤ・ウェジェリフ(Maya Wegerif)も昨年デビューしたばかりだというのに早くもアルバムを完成、時にシャンガーン・エレクトロを交えつつ、不敵で闊達なフローがあげみざわ(と、思わず女子高生言葉)。アフリカのヒップ・ホップというとアメリカのそれに同化してしまう例がほとんどなので、アメリカのプロダクション・スタイルも消化した上で、こうしたフュージョンに挑むのはそれだけでも心が躍る。昨年、ゴム直球の”Huku”が注目されるまでは主にファッション・デザイナーとして活動してきたらしく、なるほど奇抜な衣装でパフォーマンスする姿がユーチューブなどで散見できる。アルバム・タイトルは南アの北端に位置するリンポポ州をレペゼンしたもので、ツォンガの文化をメインストリームに流し込むのが彼女の目的だという。ラップはツォンガ語とスワヒリ語、そして英語を交えたもので、「フク、フク、ナンビア、ナンビア、フク、ナンビア」とか、基本的には何を歌っているのかぜんぜんわからない。きっと「指図するな」とか「本気だよ」とか、断片的に聞こえる歌詞から察するに、若い女性ならではのプライドに満ちた歌詞をぶちまけているのだろう。楽しい雰囲気の中にも負けん気のようなものが伝わってくるし、いにしえのマルカム・マクラーレンを思わせる柔らかなシャンガーンの響きがとてもいいアクセントになっている。

 南アでも広がりを見せるヘイト・クライムは殺人事件に発展する例も少なからずだそうで、なぜか白人やアジア人は襲われず、南ア周辺から流れ込む他の国の黒人たちが暴力の対象になっているという。リンポポ州は南アの最北端に位置し、ジンバブエと国境を接している。先ごろ、軍事クーデターが起きるまでハイパーインフレで苦しむジンバブエの国民たちはかなりの数がリンポポ州に流れ込んでいた。ムガベ独裁が倒れたとはいえ、ジンバブエの状況がすぐに好転したとは思えず、人種的な緊張状態がまだ残っている可能性があるなか、アルバムのエンディングで「ワカンダ・フォーエヴァー」とラップするマヤ・ウェジェリフの気持ちにはそれこそ切実なものが感じられる。「ワカンダ」とは映画『ブラック・パンサー』で描かれた架空の国で、白人たちには知られなかった黒人たちによる文明国家のこと。あの映画のメッセージがアフリカの黒人たちを勇気づけている好例といえるだろう。全体にゴムの要素が強く出ている曲が僕は好きだけれど、とりわけ”ワカンダ・フォーエヴァー”は気に入っている。ちなみにムガベを国賓として迎えていたのは安倍晋三、軍事クーデターを裏で動かしたのは中国政府である。詳細は省くけれど、現在、ドナルド・トランプのヘイト・ツイートが南アの政治を再び混乱させたりもしている。

 モザンビークやナミビアといったヘイトの対象となっている黒人たちをサポート・メンバーに加えたバトゥックもセカンド・アルバムをリリース。ゴム以前のクワイトをダブステップと結びつけたスポエク・マサンボがプロデュースするヨハネスブルグのハウス・ユニットで、2年前のデビュー・アルバム『Música Da Terra』がアフリカ全体の音楽性を視野に入れていたのに対し、2作目は南アフリカのタウンシップ・サウンドに絞ったことで、起伏を抑えたUKガラージのような響きを帯びるものとなった(アルバム・タイトルの「カジ」はタウンシップの意で、音楽的な豊かさを意味する)。そして、哀愁と控えめな歓びが導き出され、おそらくはゴムを支持する層よりも中産階級にアピールするものとなっているのだろう。それこそ荒々しさを残したマヤ・ウェジェリフのような音楽的冒険には乏しいものの、このところ疲れているせいか、レイドバックした優しい音楽性が僕の心を優しく宥めてくれる。“Love at First Sight”は明らかに”Sueno Latino”を意識していて、コーラスが「お前の母ちゃん、お前の母ちゃん」に聞こえてしょうがない“Niks Maphal”だけがヒップホップというかエレクトロ調。ちなみにスポエク・マサンボが昨年リリースしたソロ・アルバム『Mzansi Beat Code』はもっとアグレッシヴな内容で、彼が今年の初めに参加したマリのワッスルーと呼ばれる民族音楽の歌手、ウム・サンガレ(Oumou Sangare)の『Mogoya Remixed』というリミックス・アルバムもとてもいい。サン・ジェルマンやアウンティ・フローなどアフロハウスの手練れが集結し、モダンなアフロ解釈を様々に聞かせてくれる。

 あんまり関係ないけど、南アでW杯が行われた際に流行ったブブゼラは中国製だったそうで、あっという間に人気がなくなってしまい、いまや南アでは在庫の山と化しているらしい。

interview with Laraaji - ele-king

 去る9月、ヴィジブル・クロークス以降のニューエイジ・リヴァイヴァルともリンクするかたちで、すなわちある意味ではベストとも言えるタイミングで単独初来日を果たしたアンビエント~ニューエイジの巨星、ララージ。そのこれまでの歩みについてはこちらの記事を参照していただきたいが、往年のファンから若者までをまえに、いっさいブレることなく独特の静謐なサウンドを披露してくれたララージ本人は、現在いくつかの位相が交錯しそのもともとの意味がよくわからなくなっている「ニューエイジ」という言葉について、どのように考えているのだろうか。興味深いことに彼は取材中、何度もそれが「実験」であることを強調している。つまり? 鮮やかなオレンジの衣装を身にまとって現れた生ける伝説、彼自身の言葉をお届けしよう。

ニューエイジは、ナウエイジという言い方もできる。「now」というのは「new」な状態がずっと続いているということだ。いまというこの瞬間が続いている状態が「new」なんだ。古くならないということだね。

いつもオレンジの衣装を身につけていますが、その色にはどのような意味があるのですか?

ララージ(Laraaji、以下L):私は太陽の色と呼んでいる。80年代の頭ころ、実験的にというか無意識にこういう色を着ることが多くなっていったんだ。私のスピリチュアル系の先生が言ってくれたことがあって、70年代くらいからこのサンカラーは、自分の内面を表出させる「イニシエイション」の色なんだそうだ。そもそもこの色には「炎」とか「自分を変える(トランスフォーメイション)」という意味合いもある。太陽が沈むことによって古い自分が滅し、太陽が昇るときに新しい自分が生まれる――そういう生まれ変わり、更新みたいなことを意味する。太陽の色にはそういう効果があるんだよ。それともうひとつ、自分が務めるサーヴィス、仕える自分としてのユニフォームでもある。真の自分、もしくはその周りの他の人たちのほんとうの姿に仕える自分だね。

そういったことを考えるようになったのはやはり、70年代に東洋の神秘主義に出会ったことが大きいのでしょうか?

L:東洋哲学に出会ったことで、それをどういうふうに実現していけばいいか、よりフォーカスを絞れた側面はあると思う。そもそも私はバプテスト教会育ちで、「ジーザスとは?」というような環境で育っている。ジーザスこそが理想だから、「ああいうふうになりたい、ああいう良き存在になりたい」と思って育ってきた。「良き存在」とはどういう存在かというと、周りの人のスピリットを昂揚させて昇華させてあげられるような、飛翔させてあげられるような、そういう存在になりたいということだけれども、それは人を笑わせることでもできる。それでコメディとか、役者の道を考えたりもしたんだが、70年代に具体的にメディテイションとか東洋哲学とかメタフィジックス(形而上学)みたいなものに出会い、それを知ることによって、もっと大きなスケールで何かを実現したり、人の魂を軽くするようなことができるんじゃないかと思うようになった。思考科学(サイエンス・オブ・マインド)とか、ポジティヴなものの考え方(ポジティヴ・シンキング)とか、そういうものをより追求するようになって、「これは音楽でもできるんじゃないか」と思うようになった。それでそのふたつの考え方にもとづいて音楽をやっていたらイーノとの出会いがあって、どんどん世界が広がって、繋がっていくことになるんだ。さきほど「他の人たちへのサーヴィス」という言葉を使ったけれど、「音楽で何か人の役に立つことができるんじゃないか」と思って活動していくなかで、ヘルプを求めている人が向こうから寄ってくるようになってきたんだ。それが私の音楽活動の流れだね。

現在の技術をもってすれば、たとえば車のなかでも大聖堂で聴いているような響きで音を楽しむことができる。ニューエイジとは、そういう新たなリスニング経験ができる時代という意味だ。

これはもう何度も訊かれていることだとは思いますが、あらためてイーノとの出会いについて教えてください。

L:私は当時プロデューサーを探していた。自分の音楽を導いてくれる人が欲しくてね。じつは当時はイーノの名前も知らなかったんだ。1978年、ニューヨーク・シティのワシントン・スクエア・パークで私は、目をつぶって、蓮座に脚を組んで、エレクトリック・チターを弾きながら、その音をパナソニックの小さなアンプから出して、演奏をしていた。演奏が終わると、チターのケースに入っているお金を数えた。一枚だけ、お金ではなくてメモが入っていた。読んでみると、それがイーノからの誘いの手紙だったんだ。いま自分は近くのヴィレッジに住んでいて音楽を作っているから訪ねてこい、と書いてあった。「一緒にやりたい」という趣旨のことが書かれていた。それでじっさいに行ってみた。1、2時間そこで話をしたんだけれど、アンビエント云々という話になったときに、私はそれがなんなのかまったくわからなかった。しかし一緒にやったらおもしろそうだとは思ったので、スタジオに入って、実験的にやってみることには合意した。その結果として生まれたのが、『Day Of Radiance』だった。

あなたの音楽もアンビエントと呼ばれることがありますが、それについてはどう思います?

L:それを拒絶するつもりはないよ。それでマーケティングがうまくいくなら、レコード会社が「それが良い」というなら、「どうぞ」と思う。私が音楽をプレイするときは、自分が置かれている環境に浸りきる。一緒に音楽を聴いてくれているリスナーが、音の鳴っている環境に自分を没入させるとでもいうのかな。そういうことができる音楽だという意味では、アンビエントという定義に合致するのかなとは思う。たぶん私がやる音楽は、聴こうと思って聴かなくてもその場に身を置くだけで何かが感じられるタイプの音楽だと思う。夢を見ているような感覚になるかもしれないし、もしかしたら聴きながらクリエイティヴな思想を巡らす人もいるかもしれないし、あるいは何も考えない無の状態になる人もいるかもしれない。そういうふうに、音の鳴っている環境がその人になんらかの影響を与えるというのがアンビエント・ミュージックであるならば、そういう意味においてアンビエントと呼ばれることはたしかにそうだと思う。けれども、もし自分で呼ぶのであれば、「美しいインプロヴァイゼイション音楽」、もしくは「実験的で神秘的な音楽」、そういった呼び方になるね。

他方でニューエイジと括られることもありますよね。その言葉についてはどうですか?

L:ニューエイジについては、「新しいリスニング体験ができる時代」という意味で捉えている。いまのテクノロジー、技術的な進歩によって可能になった、自分たちの耳で捉えることのできるサウンドのテクスチャーとか新たな聴き方があると思う。たとえば、みんな車のなかで聴いたり家で聴いたりすると思うけれど、より良い音でより良いテクスチャーでその音を体験できる時代がいまはある。それがニューエイジだと、私は思っているよ。その意味においてならニューエイジは(私の音楽に)あてはまる。それはいまは、もしかしたら耳だけではなくて身体で感じる音楽になっているのかもしれないし、トランスを感じさせてくれるようなものという意味なのかもしれない。たとえば現在の技術をもってすれば、車のなかで聴いていても、カテドラル(大聖堂)で聴いているような響きで音を楽しむことも可能だろう。そういう新たなリスニング経験ができる時代という意味だね。
 他方でニューエイジは、「ナウエイジ」という言い方もできるかもしれない。ようするに「いま」という時間がどこまでも持続するようなリスニング体験ということで、それを可能にしてくれる音楽に使われるのがドローンだったり、空間を活かした音作りであったり、いわゆるアンビエントと呼ばれる音楽だったりするわけだ。この音楽を聴いていると「いま」という時間が永遠に続くような感覚を味わわせてくれる。ナウエイジ・ミュージックというのも私の音楽にあてはまる言葉なのかもしれないね。

その永遠に続くかのような「いま」というのは、鳴っている音を聴いている(瞬間的な)「いま」ということでしょうか? それとも、もうちょっと広い意味での「いま」ということでしょうか?

L:「new=now」というか、いまというこの瞬間が続いている状態が「new」なんだと思う。古くならないということ。その状態を可能にしてくれるメディテイションとかトランスというものがあって、その間に味わっている「いま」というこの瞬間のことだ。それが永遠にずっと続いていくような感覚。でもじつを言うと、「new」も「now」も人間が作ったものではなくて、自然界のなかにすでに存在している、内蔵されている音の周波数みたいなものなんだ。精神性だよね。「now」というのは「new」な状態がずっと続いていること。そういう意味において、私の言うニューエイジ、ニューエイジ音楽というのはコマーシャルなニューエイジ音楽とは別物だね。私の言っているニューエイジは、それがロックだろうがジャズだろうが、あるいはまったく異文化の音楽でもよいんだけれども、たとえば西洋の人がはじめてガムランを聴いて体験したときに、まったく新しいと思うその感覚、それこそがおそらく私の言いたいニューエイジなのだと思う。
 たとえば、ある音楽でぜんぜん知らない意外な昂揚感を味わったとする。自分の身体から魂が離脱するような感覚を味わったり、それまで知らなかったヒーリングの感覚を味わったり、思いも寄らないイメージが自分のなかに沸いてきたり。そういうことをはじめて味わわせてくれる音楽があるとすると、その「はじめて」「新しい」という感覚がずーっと持続することこそが私の目指すニューエイジ音楽なんだ。他方ではコマーシャルなニューエイジ音楽というのもあって、それはそのときだけ新しければいいから、来月は違うものが、来年はまた違うものがニューエイジになっていく。ひるがえって私の音楽には、その新しい「いま」という感覚が永遠に続くトランス感やドローン感みたいなものがある。そういう意味でのニューエイジだ。ヒーリング体験にもいろいろあると思うが、既存のありがちなヒーリング体験でも、伝統的なヒーリング体験でもない、新しい癒しの体験を与えてくれる音楽だ。

レコード店がラベリングするようなコマーシャルなニューエイジにはある種の現実逃避というか、つらい現実から逃げる手助けをしてくれるようなニュアンスが負わされていることもあると思いますが、あなたのニューエイジにそういう側面はない?

L:そういった逃避的なものを提供するニューエイジ音楽は背骨のない音楽だね。ようするにオルタナティヴなクラシック音楽とか、あるいは実験的なクラシック音楽とか、いろいろな呼ばれ方をするクラシック系の音楽もそういう棚に並んでいると思うけれど、そこで作り手のミュージシャンに「ぜひこれをみんなに伝えたい」という強い思いがあれば、それはそれなりの音楽として表れるだろう。たとえば「ニューエイジ」という名前にカテゴライズされていなくても、ジャズ系の人で本当にヒーリングの力のあるコンテンポラリーな音楽を作っている人はいる。ただそういう人たちがやっていることは、「ニューエイジ」というオブラートに包んだような、安全な感じのする響きでみんなが安心して聴けるような、そういう音楽としてはみんなが認めていないのだろうね。「ニューエイジ」からは、「けっして洗練された耳を持たなくても、誰でも安心して楽しめる音楽ですよ」というようなニュアンスを私は感じる。私の言うニューエイジとは、ほんとうにチャクラからみなぎるエネルギーだったり感情だったり、そういったものに真に根差した音楽で、聴き手がアラスカの人だろうが台北の人だろうが理屈ではなく訴えかけてくるものを理解できる、そういう音楽のことだから、「ニューエイジ」の棚に行っても見つからないかもしれない。「ニューエイジ」の棚で見つかるのはまたべつの種類のものなんじゃないかな。

あなたの音楽にはそのときそのときの時代や社会の状況が映し出されていると思いますか?

L:答えはイエスだね。ただ、そうだな……時代そのものというよりも、時代にたいして自分がどうレスポンスしたいかという気持ちが表れているんだと思う。だから、ものすごく過激な時代であれば、私は逆に、自分の音楽でみんなをもっとリラックスするほうへと導いてあげたいと思う。そのような表れ方だね。

ということはやはり、あなたが活動してきた40年間は過激な時代だったということでしょうか?

L:たぶんそういうことだと思う。過激というのにもいろいろあると思うが、私が最近とくに思うのは、とにかく情報過多ということだ。みんなが歩きながらつねにiPhoneを見ているような状況がある。そうするとインフォメイションが一気にガーッと頭のなかへと流れ込んでくる。そういう時代だからこそ、音楽を聴いているときくらいは軽やかに、余裕のあるシンプルな気持ちになってもらいたい。音楽を作るときの私の目的は、そういった日常や世界の慌しさからシフトさせてあげられるような、そういうものを提供したいんだ。

みんなが歩きながらつねにiPhoneを見ている。情報が一気に頭のなかへと流れ込んでくる。そういう時代だからこそ、音楽を聴いているときくらいは軽やかに、余裕のあるシンプルな気持ちになってもらいたい。

これまでいろんな相手とコラボしてきましたが、2010年代に入ってからはとくに若い世代とのコラボが活発になった印象があります。また、10年代にはあなたの作品が数多くリイシューされるようにもなりました。なぜいまそのようにあなたの音楽が求められているのだと思いますか?

L:そういう話を振られるまで自分では考えたこともなかったな。おそらく私の初期の作品はイノセントで、いろいろと無邪気に探訪していた時代の作品だから、それがいまの若者の気分に合致するんじゃないかな。その罪のなさだったり遊び心だったり、あるいは当時はまったく洗練された機械を使っていなかったから、その垢抜けない感じだったり……言うなればトイ・ミュージック、楽しいおもちゃのような音楽だったからね、それがいまの20代や30代頭くらいの、いろんなことを疑問に思ったり問いかけたりしている世代の人たちにとって安心感があるというか、そういう人たちの気持ちに訴えたということなのかもしれない。私が「自分は何者なのか?」ということを探りあぐねていたころの音楽、それがぴったりくるというのはわかるような気がするね。あの頃の私は既成概念にとらわれず、「こういう音であるべきだ、こういうテクニックを使うべきだ」と言ってくるような権威にたいして、やんわりと反発しながら音楽を作っていて、箱からはみだしたいという思いがあった。その結果としての実験性だった。

いまでも音楽を作るうえで何かに反抗することはありますか?

L:そう言われてみると、いまは外に対して反逆・反抗するというより、自分のなかにガイダンスを求めるという状況になっているから、それが若い人たちに伝わっているのかもしれないね。私はつねに音楽をとおしてより高い導きを与えるということをやっているつもりだから、何を信じてよいかわからなかったり次の段階に進むにはどうしたらいいのか迷っていたりする人たちに、それが伝わるのかもしれない。私の求める高次のガイダンスのようなものが、音楽をつうじて彼らに伝わっている、それが若い人たちに喜ばれる理由かもしれないと、いま思ったよ。私自身は現在、何かに対して反抗するということは考えていない。むしろ自分のなかで、「より革新的でありたい」とか「実験的でありたい」とか、あるいはそのためにリスクを負うとか、そういうことを追求しながら音楽を作っている。洞察というべきかな。そういういま私のなかで起こっていることが、音楽をとおして若い人たちに訴えかけているということなのかもしれないね。

マシューデヴィッドの〈Leaving〉から音源がリイシューされたり、カルロス・ニーニョやラス・Gと仕事をしたりと、最近はLAシーンとの接点が目立つ印象があります。

L:LAというより、カリフォルニアかな。それらはどれも、私がライヴでカリフォルニアへ行って、そこで出会った人たちとの話のなかからはじまったプロジェクトなんだ。フレンドリーで、ほんとうに居心地のいい仲間たちだよ。気づいたらそうなっていたという感じだね。私から頼んだことはない。コンサートを見た人たちからEメールが来るようになって、という感じだな。

近年の作品ではサン・アロウとの共作がけっこう好きなのですが、それも自然ななりゆきではじまったものだったのでしょうか?

L:あれはツアー中のライヴ録りなんだよ。キュー・ジャンクション(Qu Junktions)が組んだツアーだったんだけれど、サン・アロウと一緒にまわっている最中に録った音源から良いところをとって作ったアルバムだ。

昨年はブラジルのサンバ歌手、エルザ・ソアーレスをリミックスしていましたね。

L:BBCで一緒にやったやつだな。スタジオの手配だった。実験プロジェクトのなかで一緒にやったものだ。インターネット配信で……ちょっと番組の名前が思い出せないが、BBCがアーカイヴしている。

最近注目しているアーティストや作品はありますか?

L:エリック・アーロン(Eric Aron)という人の作品。それとスティーヴ・ローチ(Steve Roach)、ジョン・セリー(Jonn Serrie)。エリックとジョンは、シンセサイザーの使い方が、自分がそのなかに身を置いていると気持ちが良くて、それにすごく冒険心がある。先見の明があるような気がするんだ。

長いあいだ音楽を続けてきて、機材だったり考え方だったりいろいろ変化した部分もあると思いますが、40年間あなたの音楽に一貫しているものはなんでしょう?

L:冒険だね。求める、探求する旅。本来の自分の姿をより深く知りたい、その思いで音楽を作っている、その旅、クエスト、これはずっと変わっていないと思う。そのために、静かな部分とか、いまを持続させるとか、そういうことを意識しながらやっていて、それはむかしから変わらないと思う。

 ちょっと感動的なセリフがあった。博物館の学芸員がヴィヴィアン・ウエストウッドのコレクションを差して「この服には歓びがあふれている」と解説したシーンである。パンク・ロックをそのような視点で見たことはなかった。厳密にいうと学芸員が指差したのはパイレーツ・ファッションで、パンク・ファッションではなかったけれど、ヴィヴィアン・ウエストウッドがデザインを手がけた時期としては近い時期のものであり、このドキュメンタリーでも初期のものはひとまとめにされ、とくに区別されているようにも思えなかった。これまで僕はパンク・ロックから「怒り」や「悲しみ」を感じ取ることはあっても「歓び」というキーワードを絞り出すことはなかった。でも、考えてみればそうなんだよな。ボディマップやパム・ホッグといったニュー・ウェイヴのファッション・デザイナーたちは明らかにヴィヴィアン・ウエストウッドから「歓び」を受け継いでいる。パンク・ファッション=コンフロンテイション・ドレッシングから「怒り」や「悲しみ」を引き継いだファッション・デザイナーもいたのかもしれないけれど、どちらかというと僕の目はレイ・ペトリのバッファロー・スタイリングやスローン・レンジャーとして語られるダイアナ妃に向いていた。ボディコンやカラスよりもロンドンのファッション界に多大なインパクトを残して33歳で夭逝したリー・バウリーの方が派手で面白そうだったし、それこそ僕が「歓び」に反応していた証拠だったということになる。ウエストウッド自身が、そして、「バック・トゥ・ヴィクトリア」という伝統回帰へ反転してしまった経緯はここでは語られない。それはファッションのみならずイギリスの文化史にとって大きな転換点をなすものだったと思うのだけれど、ヴィクトリア回帰は誰もが当然のことといった調子でドキュメンタリーは進められていく。それどころか、「セックス・ピストルズについて語るのは辛い」といってウエストウッドは、しばし、口を噤んでしまうのである。え、もしかしてパンクについてはウエストウッドは語らないのかと、僕はちょっと焦ってしまった。

 話を戻そう。パンフレットによると、ヴィヴィアン・ウエストウッドというのが「人の名前だとは知らなかった」という若い人もいるらしいし。
 ローナ・タッカーによるドキュメンタリー・フィルムは労働階級出身のヴィヴィアン・イザベル・スウェアが平凡な結婚生活に「知的な欲求が満たされない」といって別れを告げるところから始まる。部屋の中央に座らされたウエストウッドは最初の結婚相手だったウエストウッド姓をそのまま名乗り続けることになるものの、あらゆる回想についてどこか面倒臭げであり、著名人にありがちな「前しか見ていない」というクリシェで覆い尽くされている。それこそ聞き飽きた台詞である。しかし、そうは言いながらウエストウッドはしっかりと過去を回想し始める。ここは監督の粘り勝ちなのだろう。パンク・ロックについても結局はウエストウッドは細かいことも語り尽くす。雇った人やどのようにしてブティックを運営していたかという側面から語られる「レット・イット・ロック」や「セディショナリーズ」の話はリアリティがあって、これまで「伝説の」という浮ついた接頭辞がお決まりになっていた世界から固定観念をあっさりと解放してくれる。そして、それはある意味、現在のワールドワイドになったウエストウッド・ブランドまで地続きの話にもなっている。自分の目の届かない範囲まで店の規模を大きくしたくないというウエストウッドはなぜか日本とはライセンス契約を結び、中国への出店は計画段階で自分で潰してしまう。ヴィヴィアン・ウエストウッドが大企業の傘下に入らず、インディペンデントを貫いているからできるのかもしれないけれど、このドキュメンタリーでは金の流れも明快に説明されていく。パンク・ファッションで注目された後、1985年には子どもを育てる金がなくて生活保護を受けなければならなかったという説明ともそれは対応し、なんというか、最後まで観ると、お金がなさすぎることもありすぎることもこの才能を潰せなかったんだなという感慨が僕には残るしかなかった。同じくイギリスの靴職人であるマノロ・ブラニクのように産業とはかけ離れた次元で靴を作っていられれば楽しいというスタンスともぜんぜん違う。ウエストウッドは、だから、芸術家というのともちょっと違うのではないか。


 しかし、このドキュメンタリーでもっと驚いたのは夫であるアンドレアス・クロンターラーとの関係や、ケイト・モスが最後にほのめかすLGBT的な世界観だろう。この辺りは観る人の楽しみにしてもらいたいので、ここでは省略。あまりにも内容が多岐に渡るので、なるほどパンク・ロックのことを省略しても話は成り立つのだなと思うけれど、後半部分では、さらにウエストウッドの政治活動に焦点が当てられていく。アクティヴィストのウエストウッドが大きな関心を払っているのが環境問題で、グリーンピースと共に南極の氷を視察に行き、ロンドンのパラリンピックで保護を訴える垂れ幕を掲げ、シェールガスの掘削に抗議してキャメロン首相の別荘に戦車を乗り付ける(パンフレットには首相官邸とあるけれど、これは誤り。シェールガスの掘削に関してはハッピー・マンデーズのベスもこれを阻止しようとして議員に立候補したことがあった)。そして、なにげないシーンだったけれど、70代後半という年齢にもかかわらずウエストウッドは自動車を使わず、自分の店から自転車で帰っていく。カメラが回っている間はずっと不機嫌で威張りちらしているイヤなババアだけれど、自転車で走っていくシーンにはさすがに参りましたというしかなかった。この作品、原題は「パンク、アイコン、アクティヴィスト」なんだけれど、できれば「戦車と自転車」にして欲しかったなーという感じ。
 ちなみに『戸川純全歌詞解説集 疾風怒濤ときどき晴れ』を編集している時に「初期パン」という単語は読者に分かりづらいので「初期パンク」に直していいですかと戸川純さんに訊いたところ、「初期パン」だけは譲れないと言われてそのままにしました。「初期パン」、すなわちヴィヴィアン・ウエストウッドである。

『ヴィヴィアン・ウエストウッド 最強のエレガンス』予告

vol.108:インディの行方 - ele-king

 12月も半ばになると、どこもホリディ・パーティ真っ盛りで、毎日のようにパーティがある。先週末アーティスト友だちのロフトスタジオのパーティに行ったら、40人ぐらい来ていて、バンドも3組出るという豪華なパーティだった。来ていた人は、ほとんどミュージシャン、アーティストで、隣で見ていた人が次々とステージヘ。ミュージシャンは機材を全て持ち込んでセットアップして、それが終わればまたそれを持ち出す。ドラムセットもスピーカーもだ。彼らは大変なのである。こう考えると、エンターテイメントをありがとう、とチップも弾みたくなる。
 私が好きだったのはアイルランドのコークに住む女の子、M.Sea。アルドス・ハーディングを思い起こす、力強く、表情豊かで、そして切なく美しい音楽。自分の祖母、ウィスキー、ガチョウなど身の回りの事を歌う彼女に、あっと言う間に引き込まれた。来月にはアイルランドに帰ってしまう彼女を見れたのは偶然。グリーンポイントのバーのオーナーがパーティに来ていて、早速3日後に、彼女のギグを組んでいた。NYマジック。
https://www.mseamusic.com

 週明けの月曜日には、〈カナイン(Kanine)〉のホリディ・パーティがあった。〈カナイン〉は2002年にスタートしたブルックリンを代表するインディ・レーベルで、『NY: Next wave』(2003)というコンピレーションで、NYのローカルバンドを紹介し、グリズリーベア、チェアリフト、サーファー・ブラッド、ビヴァリー、エターナル・サマーズ、ザ・ブロウ、グルームスなどをリリースしている。〈カナイン〉のバンドは、90年代のギターポップを引き継ぎ、この日のハニー・カフ、タリーズもハッピーでお行儀の良いギター・ポップ。エターナル・サマーズのニコルのソロは、ガイデッド・バイ・ヴォイシーズのメンバーがギターを弾いていたり、元ESのマネージャーがサックスを吹くなど豪華。ザ・ペインズ・オブ・ビーイング・ピュア・アット・ハートのキップの新しいバンドThe Natvralは、ジージャン、ジーンズという服装が90年代ギターポップを象徴していて、音楽も懐メロに聞こえた。
https://kaninerecords.com


Brooklyn vegan DJ (7 inch)


〈カナイン〉のパーティで踊るオーディエンス

 ライヴ・ショーは、レコードとは違う楽しみ方ができる。バンドやまわりからのエナジーを感じたり、何が起こるかわからない、ライヴ感がワクワクさせてくれる。いまどきレアなCDJを使ってギターポップで踊るという15年前にタイムスリップした気分にさせてくれる〈カナイン〉は、世間がどうであれ、自分の好きな音楽に徹底している。だからコアなファンがいるのだろう。


Honey cutt


Nicole Yan (eternal summers)


Tallies

 ライヴといえば、最近Mitskiをブルックリン・スティールという大会場で見た。2018年度のベスト・アルバムで多くのメディアの上位に入っている彼女は、DIYアーティストからメジャーに飛躍した、2018年旬のアーティストといえる。じっさいソールドアウトの会場は、シンガロング、声援をおくるファンで埋め尽くされていた。そしてMitskiは穏やかに「私の作品を評価してくれてありがとう」とファンに答える。


Mitski @brooklyn steel

 ライヴを見るとたいてい気分が高揚するものだが、Mitskiのショーでは心にポッカリ穴が空いたような気分になった。ショーは悪くなかったどころか完璧だった。メディアのバズ(ピッチフォークは2018年のベスト・アルバムに選んでいた)や、まわりの圧倒的な声援、DIYアーティストだと思っていた彼女の変化に自分がついていけなかっただけなのかもしれない。2018年の傾向として女性が強いという動き(me tooムーヴメントなど)があったが、Mitskiはバッチリハマった。ひとりのかわいいアジア人女性が「be the cowboy」という男性的なタイトルのアルバムを出し、孤独感やダークサイドを歌い(この時代ハッピー・ソングなんて誰も求めていない)、共感を得るのは納得できる。みんな不安で何かにすがりたいし、彼女を自分たちのロールモデル的に見ているのだろう。彼女を支持して自分も楽になりたい……たしかに一般ウケしそうなキャラではあるけれど、これってアメリカの選挙に似てませんか、と。少数派は都会で、大多数は田舎にいる。田舎の方が人口が多いから、それがアメリカ代表になる。


 2018年はメディアによって、ベスト・アルバムがバラバラだった。普通なら同じようなアーティストが上位になるのに、あるメディアで上位に入っているものが、別のメディアでは50位にも入っていなかったりする。それだけ情報は豊富で、選択の多い時代なのだろう。

The 10 Best Singles/EPs of 2018 - ele-king

 このサウンド・パトロールというコーナーは僕にとって非常に思い入れが深いコーナーである。よく読んでいたのは、かれこれ7年ほど前のこと。レコ屋へ行っても「何聴いていいかわかんねーよ」と大量のシングル盤を前にして怯えていた当時、野田努が主に書いていたこのコーナーは、いま人生を傾けるべき音を教えてくれるマイル・ストーンだった(その形式を踏襲し、持っている盤の写真は自分で撮った。ジャケではなくラベルを優先している)。
 2018年。データやサブスク形式が主流になってもエレクトロニック/ダンス・ミュージックはシングルやEP(1ー3曲入りの音のカタマリ)をいまだに必要としている。産業構造を俯瞰してみてれば、いまさらいうまでもなく、技術革新などによって、制作、それに付随する労働パターン、さらには「消費」スタイルが現在確実に変わりつつある。けれどもシングルやEPはヴァイナル以外の購入/再生の選択肢が増えただけで、「12インチに収録できるくらい少ない収録曲」というコンセプトは30年前とさほど変わってはいない。なぜか。シングルは最初から「高速」で動いてきたからである。シングルやEPはプロデューサーに浮かんだアイディアを比較的ハイスピードで形にすることを可能にさせる。ゆえにシングルは時代のモードを即座に反映することができる。ゆえに発売されたばかりのシングルは新しい。ゆえに、シングルはいつまでも素晴らしくてカッコいい。ゆえに、シングルには耳を傾けなければならない。
 今回のサウンド・パトロールでは、今年リリースされたシングル/EP(リイシュー含む)を10枚ピックアップしてみた。民主的なプロセスを経て選んだわけではないが、行く先々のクラブで吸収した人々の躍動(ヴァイブス)は、それ相応に反映されているだろう。住んでいるロンドン、訪れる場所になった東京、マンチェスター、ユトレヒト、モスクワ、浜松のクラブでインスピレーションを与えてくれた人々に感謝する。
 可能な限り盤で聴いたものを選んだが、データで聴いたものもある。並びは順不同である。それぞれが別の方向を向いているので、ランキング付けは不可能だった。そのどれもが見逃すことができなかった秀作たちだ。感覚を大いに奮い起たせる10枚といってもいい。レアなものを選んだつもりはない。このすべては、あらゆるひとびとに開かれている音楽だ。

Object Blue - Do you plan to end a siege? - Tobago Tracks

 ロンドンの物質世界でオブジェクト・ブルーの存在が確認されるようになったのは3年ほど前のことで、2018年はその大きな飛躍の年となった。2017年にブリストルで行われたこの「青い物体」によるライヴの1時間のオーディファイルは、その特異性を捉えるモーション・キャプチャーとして機能している。そこでは無光状態で合生するオウテカのライヴでサウンドが全感覚器官をハックしていくのと同種の凶暴性や、UKベース・ミュージックの低域60ヘルツ付近に設置された身体を捕獲するマジックが確認された。今年ロンドンの〈Tobago Tracks〉からは、そのデビュー作が到着。EPの各所で女性の音声マテリアルが分裂と融合を繰り返し、それがグラニュラー・シンセで視覚的にコンピュータライズされた周波数テクスチュアと絡まり、ダイナミックな律動性を形成する。この美学は他者を大きく圧倒している。オブジェクト・ブルーは自身をテクノフェミニストと呼ぶ。哲学者ダナ・ハラウェイは機械と人間の混合が進む現代を考察しサイボーグフェミニズムを起動させた。それをサウンド面から更新するように、このデータ・リリースの三曲は、テクノ化された、つまり技術によりラディカルな空気振動へとトランスコーディングされた無形の「身体」を経由して、フロアの女性たちに変革をもたらさんとする。あるいは、彼女たちこそがその変革の主体であり、サウンドはその周囲のすべてを取り込んでいく。ウジェヌ・グリーンの映画『ポルトガルの尼僧』から引用されたというタイトル「包囲戦を終わらせるつもり?(Do you plan to end a siege?)とは、ジャンヌ・ダルクが突破したオルレアンの包囲を指している。

Pavel Milyakov aka Buttechno - Eastern Strike - RASSVET records

 2018年、ロンドンのカルヴァータ22というアートスペースで『Post Soviet Vision』というソ連解体以降の旧ソ連圏の若者文化を追った美術展に、『オレフォヴォ』と題された作品が展示されていた。ブリューゲルの絵画『雪中の狩人』にロシアのモスクワ郊外のオレフォヴォ地区に立ち並ぶブロック(集合マンション)をコラージュしたそのビュジュアル作品を作ったのは、デザイナーのパベル・ミリヤコフ。彼の音楽プロデューサーとしての名をバッテクノと呼ぶ。「郊外」はソ連解体以降の都市文化においても重要なタームであることを端的に示した作品だ。ミリヤコフはファッション・デザイナーのゴーシャ・ラブチンスキーのショー音楽を手がけていることでも知られており、今作はその2018年AWコレクションのために制作された。A面はトランシーなノンビートのシンセループあるいはインプロ集。ロシアのレイヴの遺産の探求がテーマにあるというが、その手法はダンス・ミュージックのブレイク部分をつなぎ合わせたロレンツォ・セニの影響か。 B面はダブステップ以降のUKベース若手世代が思わず唸るビートである。ミリヤコフはとても研究熱心な作り手だ。テレンス・ディクソンやエイフェックス・ツインを丁寧に聴き、クラウトロックにも関心を向け、2017年に〈TTT〉から出たEP「Super Sizy King」にはその成果が溢れている。普段からハード機材をよく使っているようだが、本人に問い合わせたところ、今作はラップトップでピュアデータをメインにすえて制作されたとのこと。スタイルを横断する。ここに重要な学びの精神がある。A面冒頭曲が『i-D』が制作したゴーシャのドキュメンタリーで流れた時の、新しい時代の幕開け感が凄まじかった。「Rassvet」とはロシア語で「夜明け」の意味である。彼をよく知るモスクワの友人は「それは言い過ぎ」というけれど、東の郊外からはじまるサウンド革命に、ついついブリアルを重ね合わせてしまう。

Nkisi - The Dark Orchestra - Arcola

 チーノ・アモービによれば、〈NON Worldwide〉の当初のコンセプトはンキシによるものだという。アフロフューチャリズムの文脈で分析されることもある同レーベルだが、彼女の関心は未来というよりも、そのアフロの起源、あるいはアフリカの民族に伝わるコスモロジー(宇宙論)に向いている。今年リリースされた〈Non〉のコンピレーションに収録の“Afro Primitive”は、過去としての起源に向かうというよりも、その起源で生まれた原始的なレンズを通して、現代を覗き見るようなトライバルテクノ・トラックだった。 今年の3月に〈Warp〉のサブレーベルである〈Arcola〉からリリースされたこのEP「The Dark Orchestra」の表題曲は、プリミティヴなミニマル・ループであるというよりも、ダイナミックなヘヴィ・トラックである。ブラックではなく、光が差し込まないダークという概念をンキシはチョイスする。冒頭の数分のシンセの重層から突如場面が切り替わり、宇宙の暗黒面から大量の隕石が落下するかの如く連打されるリズムは圧巻である。曲名からサン・ラーを思い浮かべる人も多いのではないだろうか。ダンス・トラックのルールを度外視した暴力的速度の祭典“Violent Tendencies”、強力なサイケデリアが襲撃する“G.E.O”、ハーフステップ的ガバの突然変異“Dark Noise”。安易に聴かれることを拒否する、新たなテクノの地平である。2018年の1月には、リー・ギャンブル主宰の〈UIQ〉から彼女はデビュー・アルバム『7 Directions』をリリースする。このアルバムが参照し、彼女が本人名義メリカ・ンゴンベ・コロンゴのインスタレーション活動で調査をしたバントゥ-コンゴのコスモロジーによれば「聞くことは見ること、見ることとは反応すること/感じること」である。ここにはX-102にもドレクシアにもなかったアフロへの、あるいは音へのアプローチがある。ンキシが切り開くダーク・テクノは、明日のシーンの方向をどう変えるのだろうか。

Raime - We Can’t Be That Far from The Beginning -RR

 ダンス・ミュージックにおけるサウンドの共進化である。レイムがついに始動させた自身のレーベル〈RR〉からの一発目。タイトルを少し意訳せば「俺たちがハナっからそんな行き過ぎるわけがない」となる。数年前、ワイリーによるドラムをトラックから抜き去る手法、通称デビルズ・ミックスの発展系とされるスタイル、無重力グライムが脚光を浴びた。レイムのこの12インチもその延長線上で捉えることができるかもしれないが、これは重力の塊のように聴こえる。“In Medias Res”は冒頭でリズム的展開を見せるかと思えば、「とても怖い」、「私は疲れた」とピッチを変調されたループとともに、ビートは引き裂かれる。そこに放たれるサウンドは何か引っ張られるように視界から消えてゆく。ベースと言葉が落下を続ける。低音とエフェクトを通された金属音、「ちょっと度が過ぎたかも」というセリフの抜粋ではじまる“Do I Stutter?”では、裁断された声が遠近法やリヴァーブといったエフェクトを通される。静寂と進行性キックで何かを語ろうとするも、聞き手にそれがなめらかに届くことはない。このアプローチを継承した形で“See Through Me, I Dare You”では、空間そのものが鋭利な刃物に思えるほど際立つ。前半は緊張を煽り、中間でメタリックな旋律が一瞬の希望を見せ、アブストラクトな形状のビートが追従し、最後はそれがストリングスの濃霧に消える。『RA』の今作のレビューでも触れられているが、マーク・フィッシャーは生前、レイムにインタヴューを行っている。パーソナル、カルチュラル、ポリティカルさの不可分性を踏まえた上で、そのすべてに働く無意識を描き出そうとするレイムの姿勢がそこでは語られている。重力、あるいは現実に無意識が引き寄せられていく段階、つまり言葉が言葉になる容態を覗き込むことができたら、きっとこんな音が鳴っている。

Docile - Docile - The Trilogy Tapes

 ダークにも、B級にも、ロウにも、ドレクシア学派にも自由に変形する今日のテクノ・アンダーグラウンドにおいて、ひときわ神秘的かつソリッドなビートを生み出しているプロデューサーがジョン・T・ガストである。個人的な2017年のベスト・シングルは、彼が〈Blackest Ever Black〉から出した「wygdn」で、アンビエントとダンスホール的メランコリアで構成された10インチは、一瞬にしてレコード店から姿を消しクラブへ投下されていったのを記憶している。ガストは今年、ンキシとのプロジェクトであるコールド・ウォーを始動させているが、ここで取り上げるのはトライブ・オブ・コリンとのユニット、ドーサイルである。ライダー・シャフィークのスポークン・ワードのようにリズムは魔術的にとぐろを巻く。デジタリティを醸し出すドラムキックは、おそらくはトライブ・オブ・コリンが操るMC505で生成されたものだろう(彼のライヴ機材群はMC505を主軸に組み立てられ、テクノでMCが飛び入りでラップをする! 同機はMIAのファーストに使われたことでも有名)。ノンビートで静かに奈落へと降下し、突如キックが重力を発生させ、スネア、タム、クラップがシンプルにグルーヴを生み、シンセが耳元で息を吹きかけるA面の“Docile 7”。裏面で行き場を失った怒りが、躍動するベースライン、金属の鳴き声、メランコリックなメロディとともに押し寄せる“Empty Fury”。最後の“Jonah Reprise”は間延びしたサイレンがベースとともに響く漆黒のアンビエントだ。ラベル上で彼らの顔はカットされている。見えないこと、ダークであること、パワフルであること。彼らはじつに素直(docile)に、それらを並列させクラブに黒い炎を生み出してしまった。

Mars89 - End of the Dearth - Bokeh Versions

 マーズ89の存在を僕は5年ほど前から知っている。コード9×ブリアル・ミックスがネオ・トーキョー感を放っているという文章を読んだが、そっちよりも僕は彼のプレイにそれを感じる。マーズ89は会った時からすでにまだ到来していないネオ・トーキョーの住人だった。トラップがかかるメインフロア上空のサブルームで、アンダーグラウンドなR&Bや初期シンゴツーをプレイする姿は、荒廃するキャピタル・シティを自由に走り去るライダーのように見えたものである。近年、ザ・チョップスティック・キラーズ(現:グッド・プロフェッツ)などでの活動を通し、そのモード感覚はトライバルやUKベースを軽やかに吸収。加えて、ユーモラスで危険な遊び方を練磨し、その成果がNOODSラジオにおける縦横無尽な選曲のトランスミッションから聴こえてくる。2018年にブリストルの〈Bokeh Versions〉からリリースされた3枚目が本作EP「End of the Death」である。アートワークのカプセルは快楽用ではなく、この異世界ソニック・フィクション的音像へアクセスするための装置だろう。BPM110のネオ・ダブビーツが思考の速度を奪う表題曲は、ミイラ化したリズムマシンを召喚し、続く “Run To Mall”ではそのドラム・ロールが銃声に倒れるまでループされる。その渇きを潤すかのように、“Visitor from the Ocean”では水面化のマイクが拾っているかのようなシンセとベースがあなたに休息を許す。“Random Coherence”においては不可視的サブベースがDJピンチのいう「ブラック・スポット」を刺激。終曲“Throbbing Pain”は和太鼓と幽霊の声が共生し、左右に揺れるハットが火花を散らす。このサイファイホラー・ダブは誰にも似ていない。死の終わりの向こうに浮かぶ火星から届いた傑作である。

Loidis - A Parade, In The Place I Sit, The Floating World (& All Its Pleasures) - anno

 頭から視聴して驚き、すぐに購入した。調べてみたら、ホエコ・Sの別名義だということでさらに驚いた。フォー・テットはあまりの良さに二枚買ったといっている。最初のマジックはまず一曲目 “A Parade”の冒頭部分だろう。スローにループされるサウンド・マテリアルから、このレコードが33回転なのか45回転なのか判別できる人間はまずいないだろう。そこにキックが入り、一定のタイム・モードが世界の進行を決定づけ、最小限かるインプロバイズされたシンセが複合かつ単発的に動く。全員で一点を目指して各マテリアルが鳴るというよりも、そのそれぞれがバラバラにかつグルーヴィに同時進行(パレード)していく絶妙な統一感のなさが自由を感じさせる。裏面の“The Place I Sit”においては、この盤におけるヒプノティックなムードの強度が最高潮に達する。低音域で穏やかになるパーカッションと、意思を持っているかのようにうねる高音域のループが、艶やかにファンクする。同面終曲の“The Floating World (&All Its Pleasure)”では、アンビエントで展開されるベースとハイハットの会話にキックが合流し、FMシンセ的な金属音のにわか雨が降る。この12インチのヘイジーなアンビエンスは、アクトレスのそれとは異なり視界を遮ることがなくクリアであり、クラブのサウンドシステムの開放的美学とベッドルームの閉所的快楽の間に浮世を創出している。

Joy O - 81b EP - Hinge Finger

 ジョイ・オービソンが自身のレーベル〈Hinge Finger〉から出した2018年唯一の12インチである。今年はマルチ楽器奏者にベン・ビンスとの共作「Transition 2」が〈Hessle Audio〉から出ているが、サウンド・デザインの面では僕はこちらの「81b EP」 に惹きつけられた。一曲目の“Seed”はジョン・T・ガストの墓場のメランコリアや、ンキシのダーク・テクノにも通じる。上部でこだまする粒子的ブリップ音は次曲の“Coyp”にも引き継がれ、ダンスホール的ベース・キックの悦楽が足元を揺らしている。ギターのミュート・プレイのようなシンセが特徴のアンビエント“Tennov6teen”は、以前のオービソンのスタイルにはなかった砂漠に置き去りにされたような焦燥感を生む。“Belly”はリチャード・D・ジェイムスのアンビエント・テクノを想起させるような、透明度の高いグルーヴを創出。“Sin Palta”はジョイ・オーが得意とするヴォイス・サンプルのループが、全曲のアンビエンスをストレートなリズム・ストリームで流れる。最後の“81b”はスローなテンポでベースが上下に跳ね回り、上記の曲の渇いた透明なアンビエンスそれを支え、ブレイクで崩壊するシンセが耳を奪い続ける。オービソンは無法レイヴと都市世界者のテクノをつなげる重要プレイヤーであり、ロンドンのトップDJである。だがこの12インチには、かつての姿ははっきりとは出現しておらず、異なるモードへ向かっていることが示唆されている。ここで彼はさらなる進化を遂げようとしている。その姿勢はエスタブリッシュすることなく、暗闇のコウモリのようにテクノのワイルド・サイドを飛んでいるようだ。

Terre Thaemlitz, DJ Sprinkles - Deproduction EP 2 - comatonse recordings

  米国出身川崎在住のミュージシャン/ジェンダー理論家のテーリ・テムリッツがアルバム『Deproduction』を自身の〈comatonse recordings〉からリリースしたのは2017年の12月である。43分の2曲と、そこから抜粋されたピアノ・ソロ、そして彼自身のDJスプリンクルズ名義による3曲のリミックスが収録された一枚のSDHCカードと、10枚のインサートで発表された。
 まず同作のコンセプトを説明する。フェミニストとクイアによる核家族の批判的拒絶の現状に今作は焦点を当てている。現在、欧米を中心に核家族という西洋の伝統的価値観がLGBTの家族観に積極的に取り込まれはじめている。元来、クイア側は、その核家族観に抵抗する形で、意図的に親になること、あるいは家族を持つことの放棄を行っていた。「Deproduction」、不産主義。それは多様性をラディカルに捉え直す実践でもある。だが現在のLGBTにおける核家族化の普及の流れにおいて、不産主義はただのエゴセントリックなものとしてみなされてしまう。テムリッツはそこに注目し、音源、ビデオ、それからテキストによって、西洋的ヒューマニスト観の闇を不産主義の側から描いている。(レーベルのHPに詳しい説明がある: https://www.comatonse.com/releases/c027.html)。
 2018年、このアルバムから二枚のEPがカットされた。リリースはヴァイナル・オンリー。ここで取り上げるEP2には各約14分の“Admit It’s Killing You (And Leave)”のピアノ・ソロとスプリンクルズによるハウス・バージョンが収録されている。ハウス・バージョンに針を落とすと、湖面に落ちる雨粒のように澄み渡るハイハットの幻覚と、そこに反射するピアノが流れてくる。それに加え、静寂のなかで跳ねるベースを基調に、異なるシンバル、パーカッション、ストリングがリズムを彩る。ときとして落ちる、優しく深いリバーブに覆われたリムショット。完璧なトラックである。裏面のソロピアノも非常に美しい。(俗な例だと言われるかもしれないが)キース・ジャレットの『ケルン・コーサート』の陽気な部分をそぎ落とした、かといって隠が増幅されているわけでもない旋律。どこにも着地しようとしない、不安定なグライダー飛行のアンビエンス。これほど議論と癒しを聴き手にもたらした12インチを僕は知らない。このシングルを手にしたとき、炎上していたのは杉田水脈衆議院議員の「LGBTには生産性がない」発言である。勘違い野郎はことの本質を常に取り逃がすことしかできない。テムリッツの批判的美学はその現状において輝きを増しているのは間違いない。ここでは長くなってしまうのであまり踏み込まないが(実は僕もまだアルバムを聴けていないとうこともあり)、リリースから一年経ってしまっているものの、この作品は木津毅を切り込み隊長に据え、しっかりと論じられなければならない。
 最後に、リミックスでループされるコメディ風の英語のスポークン・ワードに触れる:「彼らは従来的な家族で、ただその周囲にいるだけのゲイのひとびとから非難を浴びていた。というのも、彼らの考えが家族観を腐敗させると思っていたからだ。その家族は「他に別の考え方があるって?」という感じだ。それで、彼らはバラバラになった」。前後の文脈がなければなかなか理解するのが難しいセンテンスだが、ラベルの和訳タイトルが参考になる。伝統的な家族は、その「苦しみ」、つまり自分たちが直面する問題点がその家族の構造にあるかもしれない現実を認めようとしない。彼らが恐れる不産主義的なバラバラになる生き方(立ち去ること)が、その解決になることだってありえる。ここでは、そんな風にして、伝統的な家族が絶対的であるとする西洋の核家族観が揺さぶりをかけられているのだろう

Womack&Womack - MPB (Missin’ Persons Bureau) - Melodies International

 2018年ベスト・リイシューはコレ。僕が初めて聞いたのは5月のこと。この頃、ベンUFOがオールド・ストリートにあるクラブのXOYOで13週連続のレジデンシーDJを務めていた。あの日はブラワンとパライアからなるユニット、カレンが出演した回だった。つまり、ハードなテクノの激流が午前2時を破壊した日である。その後3時くらいにデックに戻ってきたベンがもう2時間ほど回して、その夜最後のシメにこれをかけた。開始数秒のディレイがかかったギター・ストロークが鳴った時点で時間の流れが直線から凹凸になる。もう数秒経過、甲高い声と囁き、ファンキーなギターが入る。ダブ、空間がねじれる。ビートはない。残像とともに美しいコーラスが始まり、明らかに他のパートとは異なる強度のベースが重力を変える。そして、爽快なドラムが4月中旬の風のようにすっと入ってくる。あとはこの繰り返し。数分後には夜が終わって欲しくないと強く思っていた。フランキー・ナックルズ(1955-2014 RIP)がウーマック&ウーマックの88年作 “MPB(Missin’ Persons Bureau)”のリミックス盤を〈Island〉から出したのは1989年、 “Your Love”の2年後、 “The Whistle Song”の2年前のことである。オリジナル盤が高騰しまくる約30年後の5月にこの名作をリイシューしたのはフローティング・ポインツ主宰の〈Melodies International〉で、オリジナル盤のマスター・テープから二曲ピックアップし「A Side: Paradise Ballroom Mix/ B Side: Folk Version」として12インチ45回転にまとめられた。ベンUFOが流したのはB面のフォーク・ヴァージョンだ。シルキーで、低音がぶっ飛んでいて、ダブ・サイエンティストから全盛期のカンまでもが想起される音響マジックは時間/空間の非現実性をフロアで増大させる。そして何よりも大事なことは、これは偉大なる失恋歌であり、ハウスのゴッド・ファザーはそこだけは非現実化しなかったということだ。ヴォーカルは今日も朝飛び起きると行方不明者捜索局に電話をかけ、愛する人がいなくなっちゃいました、と問い合わせ続けている。

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