Untold Black Light Spiral Hemlock Recordings / Beat Records |
目にしたのはもう何年も前なのだが、スガシカオが起用された転職サービスの広告がなぜかいまも記憶に残っている。彼はもともとサラリーマンで、上司に職場に残るように強く望まれたらしいが、ミュージシャンの道を選んだ。同じようにサラリーマンからダブステッパーへと転職したアントールドの話を聴いているとき、どういうわけかこの広告のことが頭に浮かんだ。
アントールドことジャック・ダニングは2009年に〈ヘッスル・オーディオ〉発表された衝撃的なトラック“アナコンダ”で知られようになる。ベースの上でキックが連打され、鳥の鳴き声のようなウワモノが宙を舞う。彼の楽曲とレーベル〈へムロック〉は、当時のダブステップ・シーンのなかではまさに「奇想天外」な存在で、その後のポスト・ダブステップの到来を予感させた。
そもそもダニングは〈ブルー・ノート〉での〈メタルヘッズ〉のパーティに郊外から通っていたドラムンベースのヘッズ少年だった。ラッキーなことに、今回の取材時に彼といっしょに東京のレコード屋さんを巡る機会を得たのだが、昔買い逃した〈ジャングル・ウォーフェア〉のコンピを見つけてとても喜んでいたのが印象的だった。
今年、デビューからじつに7年越しで発表されたデビュー・アルバム『ブラック・ライト・スパイラル』を聴いて面をくらったリスナーは多いのかもしれない。なぜならノイジーでクレイジーなテクノ・アルバムだったからだ。冒頭“5・ウィールズ”のサイレン音に度肝を抜かれ、陰鬱なリフレインがビートを形成していく“シング・ア・ラヴ・ソング”が終わるころには、レコードのあちら側にいるアントールドがこれからどこへ向かうのか想像できなくなる。
いったい彼はどんな思いでミュージシャンになり、時間をかけてこの作品までたどり着いたのだろうか。またジェイムズ・ブレイクの発掘でも大きな評価を得たレーベル・オーナーとして何を考えてきたのか。アントールドは時間をかけて詳細に答えてくれた。
■Untold / アントールド
レーベル〈へムロック・レコーディングス〉を主宰し、〈ヘッスル・オーディオ〉や〈ホット・フラッシュ〉といった先鋭的なレーベルからも作品をリリースするプロデューサー。実験的なダブステップやテクノの楽曲で、リスナーと制作者の両方から圧倒的な支持を得る。2014年には〈へムロック〉より自身初のアルバム『ブラック・ライト・スパイラル』と『エコー・イン・ザ・ヴァリー』を立てつづけにリリースした。
ロンドンに出てきた最初のころもドラムンベースが好きだったんだけど、ちょうどそのときに〈dmz〉のパーティに行って、マーラのダブステップ・サウンドにジャングルとドラムンベースの哲学を発見したんだ。
■アジア・ツアーの真っ最中で、おととい上海から到着してそのまま〈リキッドルーム〉でプレイしたばかりですが調子はどうですか?
アントールド(Untold 以下、U):1日休みを取ったからだいぶ元気だよ。
■今回の来日は3年ぶりですが、日本の印象は変わりましたか?
U:じつは違いがわからないんだ。というのも、2011年に来日したときは48時間くらいしか滞在できなくてね。だから今回は初来日みたいなものだ(笑)。今回はとても日本を楽しんでいるよ!
■今回のあなたのセットを見たんですが、ちなみに前回はどのようなDJを披露しましたか?
U:現在僕がプレイしているようなテクノやハウスと、ダブステップの中間に位置するようなセットを当時はプレイしていた。2011年にはダブステップは多くの地域に派生して、音楽的にも文化的にも大きな広がりを見せていたよね。だから、僕自身の音楽もちょうど次へ移行している時期だったんだ。その頃に比べたら、現在の僕のセットはもっとストーリー的で一貫性があるかな。
■あなたのキャリアのスタートでもあったダブステップに関して質問したいと思います。ダブステップが脚光を浴びはじめたのは2000年代中期で、あなたが〈へムロック〉をはじめてリリースを開始したのは2008年です。現在あなたは37歳ですが、どのようにしてダブステップのシーンと関わっていくようになったんですか?
U:いちばん最初に音楽をはじめたのは14歳のときだね。そのころは自分の曲をリリースしたりはしていなかったけれど、曲を書いて友だちとのバンドで演奏していたよ。それが90年代初期くらいだったんだけど、ちょうどそのときにハードコア・ジャングルやドラムンベースのムーヴメントが起きて、ものすごくハマった。僕のレコード・コレクションのほとんどがその時代のものなんだ。かなり偏狭的な音楽の聴き方だった。
それからロンドンへ引っ越して、仕事三昧の日々を送っていたからあまりクラブに行けなくなるんだよね。大学では電子音楽を専攻していたんだけど、学校がはじまったのが1997年でインターネットが爆発的に普及していくときだった。だから自分の関心も自然とそっちへ向かっていった。だから自分の学位を取得するときまでには進路は決定していたよ。「よし、自分はロンドンでウェブ・デザイナーになる!」ってね(笑)。当時はまだ熟練したデザイナーがいなかったから、自分でもできるって思っていた。最初のリリース前の2007年までその仕事を続けていたな。ウェブ・デザインもやったし、広告代理店でも仕事をやっていたよ。
ウェブ・デザインもやったし、
広告代理店でも仕事をやっていたよ。
ロンドンに出てきた最初のころもドラムンベースが好きだったんだけど、ちょうどそのときに〈dmz〉のパーティに行って、マーラのダブステップ・サウンドにジャングルとドラムンベースの哲学を発見したんだ。感情的にもサウンド的にも音楽に対する情熱が呼び覚まされたな。それでダブステップへと方向転換したんだ(笑)。
■あなたの音楽を初期のものから聴いていると、もちろんジャングルからの影響も感じられるんですが、昔はテクノばっかりを聴いていたのかなという印象があります。
U:それはうれしいな。でもじつはクラシックとされているものを別として、僕はテクノについてほとんど知らないんだ。ジャングルのレコードを聴きながら初期のエイフェックス・ツインとかを聴いていたけど、それもテクノというよりはIDMと呼ばれるものだしね。デトロイトやシカゴのものも少しは知っていたけどのめり込むことはなかったな。2007年くらいからユーチューブが流行りだしたけど、その頃からネットでいろいろ勉強するようになったよ(笑)。
■〈dmz〉や〈FWD〉周辺のオリジネーターたちの活躍以降、ダブステップには2回大きな転換があったと思います。1回めは2006年に〈ハイパーダブ〉からリリースされたブリアルのファースト・アルバム。そして2回めは〈ヘッスル・オーディオ〉からリリースされたあなたのシングル“アナコンダ”です。あの曲は本当に衝撃でした。それまでのダブステップで使われていたハーフ・ステップもなければ、ガラージに影響を受けたリズム・パターンからも解き放たれて、キックの数も増えていきました。でもそれでいて、シリアスになり過ぎるわけではなく少しチャラい感じがするのもおもしろかったです。なぜあなたはこの曲を作ろうと思ったんですか?
U:さっきの回答にも通じると思うんだけど、僕のドラムンベースに対する情熱が薄れてしまったのは、曲の自由度や創造性といったものが形式化されてしまったからなんだ。僕が耳にした初期のダブステップも特定の形式ができる前で、ガラージの影響が強い曲だって多くあった。他のジャンルが交ざり合っていたからね。これはダブステップに限ったことではないけど、ダンス・ミュージックの魅力って多くの要素が混在していることだと思う。アーティストをひとり選んで、その曲の要素を紙に書き出してみると影響源の多彩さに驚くはずだよ。
“アナコンダ”はジャンルのテンプレート化に対する僕なりのプロテスト・ソングだね。
“アナコンダ”はジャンルのテンプレート化に対する僕なりのプロテスト・ソングだね。僕はハーフ・ステップやウォブル・ベースが使われるいわゆるダブステップの曲も作っていたけれど、シーンの持つクリエイティヴさを失わせたくなかった。多くのひとがひとつのシーンに注目すると、いい意味でも悪い意味でもシーンはピークを迎えて、そこで流れる音楽形式化されて世界的に広まる。
そのシーンに関わっていたひとりとして、僕は何かひと言もの申したかったね。“アナコンダ”が出る2年前に僕は仕事を辞めて、いきなりDJになった。当時はベン・UFOやピアソン・サウンドとUK全体をツアーしていて、毎週末新しい出会いがあった。ヨーロッパも回ったりしていて、東欧のポーランドやリトアニアにも行ったんだけど、あそこはドラムンベースがしっかりと根づいていたんだ。この時期に多くのジャンルに触れられたことも大きかったね。“アナコンダ”の設計図には確実にこの時期の経験が反映されている。
年齢は僕にとって大きな問題じゃなかったな。重要なのは音楽に対して常に貪欲で情熱を傾けられることだよ。
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■ちなみに〈ヘッスル・オーディオ〉のクルーとはどうやって知り合ったんですか? 最初のシングルはこのレーベルから出た“キングダム”ですよね?
U:ロンドンのクラブ〈プラスティック・ピープル〉でのウィークリー・イヴェント〈FWD〉でだね。踊りにくるひとももちろん多かったけど、プロデューサーや音を聴きにくるひとたちも同じくらいその場にはいた。〈ブルー・ノート〉で開かれていた〈メタルヘッズ〉のパーティもまったく同じだったね。ラッキーなことに僕はドラムンベースに間に合ったんだ(笑)。ジャングル・ハードコアのシーンで僕はいちばん若かったな。さっきも話したけれど、ダブステップが出てきたときに僕は仕事に熱中していてあまり音楽を聴いていなかった。グライムを聴き逃したくらいだからね(笑)。
〈FWD〉は本当にみんなフレンドリーだった。僕はベン・UFOのDJセットをサブFMなどで聴いていてかなり好きだったから、クラブで見かけたらよく話しかけていたんだ。出会ってからしばらくしてデモを2曲渡した。それは“キングダム”ではなかったんだけど、彼はそれをラジオで流してくれたね。たぶんラジオのアーカイヴに残っていると思う。それはまだTRGの“プット・ユー・ダウン”のリリースによって〈ヘッスル・オーディオ〉が本格的に始動する前の段階だったけれど、僕のリリースついてもベンとは話し合っていたよ。
■どういった経緯で自身のレーベル〈へムロック〉をはじめたんでしょうか? 〈ヘッスル〉では満足できなかったんですか?
U:そんなことないよ(笑)。初めてレコードを出したとき、僕は29歳だったけど、〈ヘッスル〉のみんなは20歳前後だった。彼らからしたら僕は確実にオジサンだよね(笑)。でも歳の差なんか関係なくて、とてもインスパイアされた。
単純にレーベルもやってみたかったんだ。〈へムロック〉をはじめたときから2011までアンディ・スペンサーという相方がいたんだけど、彼は重要人物だよ。現在、直接レーベルに関わっているわけではないけどね。広告代理店関係の仕事をしているときにアンディとは出会った。彼はロンドンの交通機関のデザインなんかの仕事をしている。アンディは音楽をやらないんだけど、レーベルのヴィジュアルや方向性は彼と話し合って決めたよ。だから彼の存在は大きいよ。最初のころは、僕とアンディのふたりがOKを出さない曲のリリースはしないってきめていたくらいだからね。
■29歳で本格的に活動を開始したことを遅いと思って不安を感じたりすることはなかったんですか?
U:年齢は僕にとって大きな問題じゃなかったな。〈FWD〉に行っていたときに自分が30歳手前って言うと驚くひともいたけれど、クラブには40歳のおっさんも遊びにきていたしね。これはよく言われることだけど、70歳だろうが80歳だろうがダンスするうえで関係ない。それにいまは年齢が比較的高いアーティストに変な偏見もないしね。たとえば、マーク・プリッチャードは20年以上プロデューサーとして活動しているけどいまだに表現に対して貪欲だ。彼が体現しているように、歳をとるほど表現する音が保守的になっていくというのは偏見なんじゃないかな? 彼のようなミュージシャンの現在と過去には大きな差はない。なぜなら、彼らの姿勢は若いときと何ら変わっていないんだからね。それにカリブーみたいなミュージシャンだっている。彼は一般的なクラバーよりも年上で、しかも数学者だ。重要なのは音楽に対して常に貪欲で情熱を傾けられることだよ。
あのパターンはトイレの壁紙のデザインなんだ(笑)。
■ちょうどいま座っているソファーの柄が〈へムロック〉のデザインに似ていると話していました。
U:たしかにそうだね。じつはあのパターンはトイレの壁紙のデザインなんだ(笑)。
■19世紀のゴシックなイメージのアンダーグラウンドなデザインだと思っていました(笑)。
U:最初のリリースのときにディストリビューターはいたんだけど、マニュファクチャラーがいなかったから、出来上がってきたスリーヴ、シール、そしてレコードをキッチンのテーブルの上で自分たちでパッキングした。当時、3歳だった僕の娘に邪魔されながら作業を進めたよ(笑)。最初と現在でスリーヴ・デザインも少しちがうんだよ。〈へムロック〉の1番から4番までのスリーヴはちょっと暗めのデザインになっている。なぜなら、灰色の台紙の上にパターンをプリントして、さらにその上に黒を被せているから。乾くのにかなり時間がかかったけど、クオリティはかなりよかった。
■〈へムロック〉のレコードは、開けるときにシールを切らないといけないから苦戦するんですよね(笑)。
U:よくそうやって言われたな。レター・オープナーを使えば綺麗に開けられるよ(笑)。でも作品を楽しむために、まず最初に破壊があるというコンセプトっていいと思わない(笑)? 2枚買って、1枚を保存用にするひとだっていたんだよ(笑)。
■そもそも、なぜ「アントールド」という名前にしたんですか?
U:これにはちょっとしたストーリーがある。代理店関係の仕事もしていて、そこで自分のフィアンセにも出会った(笑)。彼女はブランド代理店のネーミング部門で働いていた。僕はその近くでロゴ・デザインみたいなことをしていたから、デザイン関係をやりつつも、ネーミングの仕事もやっているようなものだった。彼女が持っている名前思いつくスキルってすごいんだよ。
さっきも言ったように、僕のバックグラウンドはドラムンベースで、プロデューサーはアーティスト・ネームを持っていなくちゃいけない。それで僕が自分のためを考えようと思ったときに、シンプルで覚えやすいものがいいと思った。それでフィアンセの力を借りて、この名前を選んだ。とくに深い意味はないけれど、抽象的なニュアンスを含んでいるのが好きだね。
ある雑誌に掲載するジェイムズ(・ブレイク)の写真が翌日までに必要だったことがあったんだけど、彼はプレス用の写真すら持ってなくてさ(笑)。
■ジェイムズ・ブレイクの2009年のデビュー・シングル「エアー&ラック・ゼアオブ」は〈へムロック〉からリリースされました。どのような経緯で彼をリリースすることになったんですか? また、現在の彼をどう思っていますか?
U:ジェイムズは〈へムロック〉からアプローチをした最初期のアーティストだね。コンタクトを取るまで僕は彼の素性すらも知らなかった。DJディスタンスが“エアー&ラック・ゼアオブ”をリンスFMでプレイしたのを聴いたのが、彼を知ったきっかけだね。それはディスタンスがデモ音源を流すコーナーだった。彼は「この曲を作ったプロデューサーに関してはぜんぜん知らないんだけど、名前はジェイムズ・ブレイクっていうらしい」とコメントしていてね。その放送を聴いたのはレーベルをいっしょに運営していた相方のアンディのほうだったんだけど、この謎のプロデューサーをいますぐ見つけるべきだという結論に至った。たしかマイスペース経由でジェイムズに連絡を取ってみたら、彼はアンディの家の近くに住んでいることがわかったんだよ。それで、当時ジェイムズが通っていたコールドスミス・カレッジまで彼のショーをアンディとふたりで観に行った。当日はマウント・キンビーも出ていたな。彼らもジェイムズと事前にマイスペースで連絡を取っていたらしい。
ジェイムズと話してわかったんだけど、彼は僕が経験したドラムンベースのシーンをほとんど知らなかったんだよ。そのかわりにスティーヴィー・ワンダーとかエド・ルシェみたいなアーティストに詳しかった(笑)。だから「キミはすごいユニークだから、いまハマっていることを続けたほうがいい」って伝えたよ。そんな流れであのシングルをリリースすることになって、2~300枚は売れたし、多くのDJがプレイしてくれたんだ。さらに『ミックス・マグ』の月間ベスト・シングルに選ばれたんだよ。ジェイムズのシングルは〈へムロック〉の4番めのリリースで、レーベルはスタートしたばかりだったから僕たちにとってはかなりよい結果になったね。よく覚えているのが、ある雑誌に掲載するジェイムズの写真が翌日までに必要だったことがあったんだけど、彼はプレス用の写真すら持ってなくてさ(笑)。だからタクシーに飛び乗って、大急ぎで彼の写真をとったんだよ。当時、彼は『ミックス・マグ』さえも知らなかった。ある意味すごいよね。
「キミはすごいユニークだから、いまハマっていることを続けたほうがいい」って伝えたよ。
その出来事のすぐあとに、ジェイムズは彼のファースト・アルバムの曲“リミット・トゥ・ユア・ラヴ”を僕に送ってくれた。僕はオリジナルのファイストの曲を知らなかったから、「この曲はすごくいいけど、リリースするにはヴォーカルのサンプリングが長過ぎるよ」って言ったんだ(笑)。そしたら「それ僕が歌っているんだよ!」って彼が答えるから驚いた。そのときに、自分は大きな決断をしなきゃいけないなって気づいたよ。僕のレーベルはまだはじまったばかりだったけど、メジャー・レーベルと手を組んだりはしたくなかった。全部のリリースを自分でコントロールできる範囲でやりたかったからね。ジェイムズの音楽と可能性は、〈へムロック〉でマネージメントできる領域よりもあきらかに大きかった。だから、いまもジェイムズといっしょに働いているマネージャーを彼に紹介してあげた。それで彼は〈R&S〉とも契約したけど、最終的には〈ユニヴァーサル〉が彼に大きな投資をしているわけだよね。
たまにジェイムズを〈へムロック〉だけのアーティストにしておかなかったことに後悔はあるかって訊かれるんだけど、僕の答えは「ノー」だね。
たまにジェイムズを〈へムロック〉だけのアーティストにしておかなかったことに後悔はあるかって訊かれるんだけど、僕の答えは「ノー」だね。もしそうしていたとしても、彼は現在のような成功はきっと得られなかった。彼は本当に素晴らしい才能の持ち主だし、デビューする時期もあのときでよかったと思う。最後に僕がジェイムズに会ったのは去年の〈ソナー・フェスティヴァル〉だったんだけど、唯一の後悔といえば彼は現在スタジアムを回るようなツアーをやっているからなかなか会えないことだね。
幸い彼は現在のレコード会社との契約で、他のレーベルからのリリースを、制限はあるけれども許可されている。これはかなりレアなケースなんだけど、そのおかげで〈へムロック〉の9番めのリリースとしてジェイムズのシングル“オーダー/パン”を発表できた。オフィシャルにリリースする上での手続きがかなり大変だったな(笑)。ジェイムズ・はまだ〈へムロック〉のアーティストだと思っているし、音楽の歴史に名を残すであろうアーティストのキャリアの一歩を手伝えたことを誇りに感じるよ。
過去の作品よりもっとピュアな作品になるといいな。僕のバックグラウンドを知らないリスナーに、「“アナコンダ”を作ったやつがこれを作ったのか!」って思われたい。
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■あなたが表れたとき、すごくミステリアスな人物だと思いましたし、同時に強いアティチュードも感じました。“アナコンダ”についての回答でも触れていましたが、当時のシーンがつまらないとか何かを変えたいとか思っていましたか?
U:そうすることへの責任感を感じるときもあるし、そうでないときもある。アーティストとコラボレーションするとき、僕はかなり自由に相手に物事をまかせるんだけど、同時にもっとクリエイティヴに相手を前に押すこともあって、それが一種のゲームだと感じている。2007年から現在に至るまで、僕は多くのサウンドに挑戦してきた。でもこれからは、過去に自分がしてきたことを振り返って掘り下げようと思うんだ。こうすることによって、次の10年間で自分はもっと前進できると思う。過去の作品よりもっとピュアな作品になるといいな。僕のバックグラウンドを知らないリスナーに、「“アナコンダ”を作ったやつがこれを作ったのか!」って思われたい。
いままで出してきた僕のシングルはその時々での自分の挑戦が反映されているから、リリースごとに違ったスタイルの曲も多い。だけど、いまはひとつのスタイルと向き合ったもっと長いアルバムのリリースしたいんだ。『エコー・イン・ザ・ヴァリー』のようにUSBのデジタル形式で、時間制限がないものを考えているよ。去年の段階で僕はサウンドの探索に見切りをつけた。いままで作った曲のキーポイントを見直して、それらを新しい方法で鳴らしていくつもりだ。
■先ほどコラボレーションについても触れていましたが、あなたは2010年代の最初、リミックスをたくさんしていました。クラブ・ミュージックだけではなく、ジ・XXやレディオヘッドのようなバンドの曲まで手がけていました。そこにはどのような意図が音楽があったのでしょうか? エイフェックス・ツインは「クソみたいな曲を一曲でも減らしたいからリミックスをする」と言っていましたが。
U:エイフェックス・ツインより素晴らしい回答は思いつかないな(笑)。レディオヘッドのリミックスはいろいろあってリリースはしなかったんだけどね。2012年の4月にやったのが最後のリミックスだったんだけど、何だったかな。レディオヘッドのリミックスをやっていたときに、僕は同時に4つのリミックスを手がけていた。メジャーの仕事もいくつかやっていて、ケシャの“ティック・トック”のリミックスもやったね。それが僕のベスト・リミックスだね。僕の友人のトム・ネヴィルはテック・ハウスのプロデューサーだけど、彼とは大学で知り合った。彼はケシャのアルバムを出掛けていて、彼にリミックスをしないかと誘われたんだ。僕はまだまだアンダーグラウンドな存在だと思うけど、そんなメジャーなアーティストのリミックスをやるなんてね。だけど思う存分、自分のサウンドを入れまくったよ。
ケシャの“ティック・トック”のリミックスもやったね。それが僕のベスト・リミックス。
小さなレーベルはそうでもないんだけど、メジャーなレーベルからのリミックスに関するリクエストにはうんざりすることもある。自分風のサウンドを少し押さえろとか、ヴォーカルの量を増やせとか、もっとわかりやすくしろとか……。ビートポートみたいなデジタル領域が盛り上がってきたときに、オリジナルの曲だけでは儲からないからレコード会社はリミックスにも手を出すようになったと思う。そのころから発表されるリミックスがとてもチープに感じるようになったな。ジェイムズが言っていたんだけど、スティーヴィー・ワンダーの曲はリミックスする必要がないらしい。リミックスをするときって、もともと曲の象徴的な部分を残すものだけど、スティーヴィー・ワンダーの曲でそれをやってもオリジナルの完成度が高いからうまくいかないらしい。この例が示すように、僕はオリジナルの精度を上げていきたかったから、リミックスにはそれほど魅かれなくなった。ジェイムズ・ブレイクやパンジェアが手がけた僕のリミックスは素晴らしいと思うけどね。
■もっと早くアルバムを作ってほしかったというのが本音なんですが、リリースまでに時間がかかったのは、情報化社会で音楽の変化が激しく、多くの曲が消費されていくような現在と間合いを取ろうとした意図もあったんですか?
U:どんなアーティストもそのことからプレッシャーを受けていると思う。アルバムを出すまでに時間がかかったけど、その間に僕はヴォーカリストといっしょにレコードを作って、さまざまなミュージシャンとコラボした。媚を売ることなく、自由に制作して音楽的に優れたアルバム目指したんだけど、それが逆に重荷になったりもした。『ブラック・ライト・スパラル』の収録曲を2、3曲作るまではそんな感じだったな。そんなある日、奇妙的なことが起きたんだ。その数曲のデモをクラブで流したら、会場のサウンド・システムが壊れてしまってね。サブ・ベースが低過ぎたらしい。エンジニアはDJミキサーのインジケーターが真っ赤に振り切れていたと思ったらしい。だけどそんなことはなくて、僕はいつも通りに曲を流しているだけだった。サブ・ベースが低すぎると、サウンドが跳ね上がって、クラウドのひとたちはエネルギーを感じると思うんだけど、そのときはただただ会場がパニックになっていた。これは自分にとっては新しい発見だった。
そのとき、会場には〈メタルヘッズ〉のパーティを思い出させるようなダイナミズムがあった。プレッシャやフォーテックが新しいダブプレートをかけるとき、聴いたこともない音で会場はパニックになっていた。
そのとき、会場には〈メタルヘッズ〉のパーティを思い出させるようなダイナミズムがあった。プレッシャやフォーテックが新しいダブプレートをかけるとき、聴いたこともない音で会場はパニックになっていた。
そこで感じたエネルギーこそが『ブラック・ライト・スパイラル』には必要だと確信したね。その出来事を境にプロダクションはとても早く進んでいったよ。最長でも1曲に2週間しかかからなかったからね。2年はこのデビュー・アルバムに関して悩んでいた。でもやっと自分を奮い立たせるような作品ができたよ。待たせてしまってごめん(笑)。
■クレイジーで素晴らしいアルバムだと思います。
U:ありがとう。ただ、曲はもうちゃんと調整してあるから、安心してクラブでかけられると思うよ(笑)。
■ジャケットの豚は何かのメタファーなんですか?
U:リー・モードスリーが写真家だね。広告デザイン業界で働いているひとだよ。このカヴァーは“アナコンダ”のようなトラックと同じようなユーモアを持っている。この豚をよく見てほしい。豚は破壊されている真っ最中なんだけど、これはただの豚の貯金箱としては目には映らないと思う。だって、壊されているのにも関わらず、豚自身は笑っているんだからね。この写真からは破壊を楽しむようなイメージが伝わってくると思わない?
■なるほど。いまおっしゃったようにあなたの曲でユーモアはとても大事な役割を果たしていると思います。今作に収録された“シング・ア・ラヴ・ソング”はタイトルとは裏腹に、かなりカオティックに曲が進行していきますもんね。
U:たしかにユーモアは重要な要素だ。かなり危険な綱渡りでもあるけれどね。ユーモアがあってもコメディとして見られるのはまずい。IDMが出てきたときから、世間をからかっているような作品がリリースされるようになった。今回はそのようなテイストを出したくはなかったんだ。だけどマジメ過ぎることも避けたかった。ユーモアがあってシリアスなサウンドのバランスを取ることに注意を払ったね。サウンド的に今回はあまりユーモアがないかもしれないけれど、ジャケットにはしっかりと表れている。もし豚が笑っていなかったら、カヴァーの見られ方は大きく文脈を変えてしまうだろうね。
サウンド的に今回はあまりユーモアがないかもしれないけれど、ジャケットにはしっかりと表れている。もし豚が笑っていなかったら、カヴァーの見られ方は大きく文脈を変えてしまうだろうね。
■歌詞の音楽に興味があるとしたら、好きなリリシストを教えてください。
U:もちろんあるよ! ボブ・ディランとトム・ウェイツだね。
■UKでは?
U:うーん、レディオヘッドとニック・ドレイクかなぁ。
■なんでモリッシーじゃないんですか?
U:40歳になったらモリッシーを開拓すると思う(笑)。まだちょっと早いかな。いろんな音楽を何年かにわけて開拓しているんだけど、このぶんだとジャズにとどりつくのは70代に入ってからだね(笑)。
■UKには多くのリリシストがいると思うんですが。
U:そうだよね。僕もヴォーカル・アルバムを出せたらいいなと思うこともある。歌詞を書こうとしたこともあるんだけど、トラックをつくることに力を入れたほうがうまくいくからね(笑)。
■『ブラック・ライト・スパイラル』のあとに、あなたはUSBフォーマットで『エコー・イン・ザ・ヴァリー』というアンビエント作品をリリースしました。どのような意図があったのでしょうか? 前作の続編のようなものなんですか?
U:『ブラック・ライト・スパイラル』を作っていたら、作品に二重性みたいなものが見えてきた。“シング・ア・ラヴ・ソング”や“ウェット・ウール”のような曲のノイズには発展の余地があると思って作業を進めたんだよ。そしたらアイディアがけっこう形になって、マネージャーもリリースに前向きになっていた。ちょうどそのときにモジュラー・シンセを購入したことも影響しているね。『ブラック・ライト・スパイラル』はコンピュータで作った作品だけど、『エコー・イン・ザ・ヴァリー』は新しい引越先の田舎でシンセサイザーを実験しながら完成させた。『ブラック・ライト・スパイラル』のインスピレーションからあとふたつはアルバムが作れるだろうな。それがつまらないものにならないといいけどね。
数に100個の限りがあったのは作品がハンドメイドで作るのに一か月近くかかったから。このアナログ感が好きだからまたやると思うよ。この作業は一種の瞑想みたいな感じもするんだ。
ここ数年はデジタルの力が強いけれども、それに対抗するようにレコードのような非デジタルの勢いもある。僕自身もデジタルだけで楽曲制作をしたくないと思っているよ。DJをするときにUSBも使うけれど、自分の曲は全部ヴァイナルで持っているしね。デジタルがどんなに発達してもアナログとの関係は捨てたくはないね。『エコー・イン・ザ・ヴァリー』でも自分の手で作ったものをリリースで使いたかったから、USBメモリーのケースは自分で作った。材料の木や石やスタンプは全部自分でオーダーしたんだよ。インターネットで作り方を勉強しながら家族で作ったね(笑)。ネット上で注文を募る段階も全部僕がやったから、かなりの達成感を感じたよ。数に100個の限りがあったのは作品がハンドメイドで作るのに一か月近くかかったから。このアナログ感が好きだからまたやると思うよ。この作業は一種の瞑想みたいな感じもするんだ。
■OPNの一連の作品から、ハウス・レーベルの〈ミスター・サタデー・ナイト〉まで、現在多くのシーンでアンビエント作品が作られています。あなたがアンビエント作品を出したことはそういった時代性と同調している部分があると思いますか?
U:音楽にはサイクルのようなものがあって、ちょうど20年前にエイフェックス・ツインは『アンビエント・ワークス・ヴォリューム・2』をリリースした。もし現在ロンドンにアンビエントだけを流すクラブがあればぜひとも行ってみたいね。
いま挙げたようなアーティストたちのように、興味深いことはいつも多くのシーンで起こっている。だけど世界のシーンを見ていて思うのが、それがあまりにもローカルで短期的なスパンで起こっているということ。ゴミみたいな音楽が溢れているからこそ、いい音楽同士がもっともっと繋がっていくべきだと思うな。
■最後の質問です。僕のまわりには仕事をしながらもDJをして曲を作りつづけているひとが多くいます。彼らにとっては、仕事をしながらもミュージシャンの道を選んだあなたの言葉はためになると思うんですが、何かアドバイスはありますか?
U:仕事を辞めて夢を追え。
仕事を辞めて夢を追え。
■(笑)。それだけですか!?
U:冗談だよ(笑)。僕はデザインの仕事をしていたときフォット・ショットを使ったり、ジョブスクリプトを書いたりしていた。東京と同じように、一日の労働時間がかなり長かった。朝8時に働きはじめて、ラッキーならば夜の8時に上がれる。僕はいつも締切に追われていた。もうウンザリだったよ。家に帰ってデザインの続きや音楽を作るためにはかなり無理をして起きていなければいけなかった。でもそこまでしないといいものはできなかったんだよ。具体的なアドヴァイスがあるよ。多くのひとはレーベルに自分のデモを送るのが早すぎるんだよ。アマチュアな曲を送ってもなんの意味もない。たしかジェフ・ミルズは、くだらない99曲じゃなくて本気の500曲のデモを送ってこいって言っていたな(笑)。これは僕が言いたいこととまったく同じだよ。まず時間を確保して、お金を貯める。そして自分の曲やスキルがこれで充分だと思えるときがきたら、自信を持ってジャンプすればいい。