「Ord」と一致するもの

Moan - ele-king

 音の遠近法や認識のしかたを、少しずつ、ズラし、溶かしていくサウンド。じっと聴き込んでいくと、音が、時間が、空間が、ノイズが、声が、エレクトリック・ギターの音が、リズムが、音楽が、ゆったりとコーヒーの中のミルクのように溶け出していく。つまりはサイケデリック。カラフルにしてモノクロームに揺れる音楽の生成変化。2017年の日本において、このようなサイケデリックな音楽が生まれ、そして聴くことができるとは。まさに僥倖。

 それもそのはずだ。このモアンは、ただのバンドではない。あの轟音ロック・バンドDMBQのギター/ヴォーカル、そしてボアダムスのギタリストとしても知られる増子真二と、大阪の5人組ガールズ・ノイズ・ポップ・バンドwater fai(2015年に解散)のベーシストで現DMBQのベーシストでもあるマキによるユニットなのである。つまりは音に込められた念/気が違うのだ。
 彼らのファースト・アルバムは、アクロン/ファミリーのセス・オリンスキーが主宰する新レーベル〈ライトニング・レコード(Lightning Records)〉の第1弾アーティストとしてリリースされた『シンク・アバウト・フォーゴットン・デイズ』である。『ピッチフォーク』などの海外メディアからも取り上げられ話題を呼んだ。彼らは同年にも〈データ・ガーデン(Data Garden)〉から『ブックシェルフ・サンクチュアリ』もデータ配信でリリースした。

 本作『シェイプレス・シェイプス』は、モアン、数年ぶりの新作アルバムである。リリースは、アンビエント・アーティス/マスタリング・エンジニア畠山地平主宰の〈ホワイト・パディ・マウンテン〉から。本作もまたドローン、ノイズ、アンビエント、ミニマル・ミュージック、ロック、電子音楽など多様な音楽的エレメントを用いつつ、サイケデリックな音響空間を生成している。しかも、より洗練され、過激になり、そして熟成している。

 アルバムは連作“ザ・ステーツ・オブ・ウォーター(The States Of Water)”から幕を開ける(全5トラック)。1曲め“ドロップ(Drop)”と2曲め“サーフェイス(Surface)”では、電子音の粒のようなランダムな音が滴り落ちる。それらの音は溶け合い、やがてドローン・サウンドを生成する。3曲め“サージ(Surges)”は、加工されたマキの澄んだヴォイスもレイヤーされ、音楽と音響の領域を溶かす、透明カーテンのように美しいサウンドを展開する。4曲め“マス(Mass)”ではエレクトリック・ギターによる暴風のようなサウンドが、聴覚に圧倒的な刺激を与えることになるだろう。このノイズとアンビエントの快楽は筆舌に尽くしがたい。これぞ恍惚。
 5曲め“ストリーム(Stream)”で静かに幕を閉じた“ザ・ステーツ・オブ・ウォーター”に続く6曲め“ヴォイス・イズ・マイ・フェイヴァリット(Voice Is My Favorite)”はマキのヴォーカル/ヴォイスを全面的にフィーチャーしたトライバル/リズミックなトラック。7曲め“カム・イントゥ・ザ・ウォーム(Come Into The Warm)”は増子真二の静謐なギターが鳴り響く美しい曲である。一転して、8曲め“フォレスト、サーキット・ボード(Forest, Circuit Board)”はアルバム冒頭に戻るような粒のような電子音が動きまわるトラック。その“フォレスト、サーキット・ボード”に続くカタチで展開するラスト曲“ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・フィードバックス(While My Guitar Gently Feedbacks)”は、マキのヴォイスを細やかにエディットしたサウンドから、次第に壮大なドローンを生成する。まさにアルバム・ラストを飾るに相応しいサイケデリック・アンビエントである。

 全9曲、どのトラックも、美しく、そして快楽的なサイケデリック・エレクトロニック・アンビエントを展開している。タイプはまったく異なるが、山本精一の傑作『クラウン・オブ・ファジー・グルーヴ』に連なる壊れたミニマル/アブストラクトな音とでもいうべきか。もしくはマニュエル・ゲッチングの系譜にある2017年最新型サイケデリック・アンビエントとでもいうべきか。刺激的な音/音楽を求めているのなら、ぜひ本作を聴いてほしい。時間が溶け出すような刺激/快楽的な音響体験がここにある。

すばらしか - ele-king

 はあ。ため息が出るぜ。冒頭から最高じゃないか。「君が本当にいい人ならば その胸の奥に/隠している言葉で 僕を殴ってくれ」(“大雨のメロディ”)。そんなキラーなフレーズから始まるEP「灰になろう」を送り出すのは、独特のセンスでブルージィなロックをかき鳴らす3ピース・バンド、すばらしかである。かれらはまだ2015年末に結成されたばかりの若手だが、すでにキングブラザーズが絶賛しているというのだから間違いない。2月に限定リリースされた自主制作盤は、たちまちコアな音楽ファンやレコード店のあいだで話題となり、すぐに売り切れてしまったそうだ。来る7月19日、その入手困難となっていた自主制作盤がリマスタリングされ、新たな音源を追加してリリースされる。その磨き抜かれた言葉で、どうか僕を殴ってくれ。

「ばりヤバい奴おる...」
キンブラ大絶賛のバンド、すばらしか。
萩原健一“お元気ですか”カヴァーも収録したEP、
「灰になろう」発売!!

2015年末に結成された3ピース・バンド、すばらしかの初全国流通盤「灰になろう」が、7月19日に発売される。彼らと親交のあるアーティストから、お祝いのコメントが公開された。
今年の2月に、5曲入り同タイトルの自主盤が、ライヴ会場や各地レコード店で発売されたとたん、軒並み話題を呼び、入手不可の状態が続いていた。このたび発売される作品は、自主盤をリマスタリングし、“灰になろう (Live ver.)”、新曲“傘をさしたままの心 (Live ver.)”、萩原健一“お元気ですか”のカヴァーを加えた、計8曲入りのEPとなる。今後も続々とライヴが決定しているので、彼らの動向はTwitterを要チェック!

【音源およびライヴ映像】

「嘘と言え」(ライヴ映像)

「灰になろう」(音源)

【コメント】

ドキドキする瞬間。ってのが、探知機が弱ってるのか、
なんだか少なくなってきてるなー
ってのは、ただの思い過ごしだったみたいだ。
そう何回も思い直させてくれる友達が、自分にはいる。
これは幸せなことだし、誇れることだ。
もちろんその中に『すばらしか』もいる。
ただただ飽き飽きするような時間から、
彼らはハイな気分へと連れさってくれるのだ。
あのままじゃあ腐っちまいそうだったところから、
飛び出させてくれてありがとう。
すばらしか。
 - 川田晋也(Car10、suueat.)

ある朝、私は布団の中で初めて「灰になろう」を聴きました。
そして聴いた瞬間に泣いてました。寝ぼけたままで聴くそれは、悲しくなるほど輝いてた。差し込む朝の光よりも。本当です。本当に好きな曲です。
 - Sachiko(SaToA)

再生ボタンを押したら知らない土地へ連れて行かれた。
どこかはわからないけど、とても素晴らしい場所でした。
音楽への最大限のリスペクトを感じる素晴らしいバンド!
これからも、知らない土地へ連れて行ってくれるような音楽を
世界中に響かせてください!
すばらしか最高!
 - 松島皓(never young beach)

彼らとの出会いは栃木の小さなライブハウスだった。
静岡のTHE WEMMERから紹介された最高のバンド、
足利のCar10のイベントに彼らも出演していたのだ。
ヤバいリズム&ブルースを鳴らし、
ただ事ではないグルーヴを発する彼らがそこに居た。
「ばりヤバい奴おる...」俺はすぐさまに彼らに興味を持ち、
その年のワンマンツアーのオープニングアクトに誘った。
そんな彼らの音源が、いよいよ発売されるという。
タイトルを見れば、彼らがそこらのロックバンドとは訳が違う事がわかるだろう。
ブルースからはじまるロックとソウルの精神を受け継いだバンド、
すばらしかは、俺が今一番オススメする最高のバンドです。
 - キングブラザーズ代表 ケイゾウ

【プロフィール】
2015年末に、福田(Vo/Gt)、加藤(Ba)、中島(Dr)で結成。現在はサポートとして、林(Key)を迎えた4人で演奏している。
すばらしかTwitter:@subarashika

【アーティスト写真撮影】
阿部裕介
URL:https://www.yusukeabephoto.com/

【リリース情報】
すばらしか/灰になろう
SUBARASHIKA/High Ni Na Low
2017/7/19 PCD-4551 定価:¥1,500+税

【トラックリスト】
大雨のメロディ / 灰になろう / 紗のかかった白黒 / 嘘と言え / 地獄が待っている / 傘をさしたままの心 (Live ver.) / 灰になろう (Live ver.) /お元気ですか (萩原健一のカヴァー)

Burial - ele-king

 昨年11月末、リリース前のシングル「Young Death / Nightmarket」が予定よりも早く発売されてしまうというアクシデントに見舞われたブリアル。先月のレコード・ストア・デイではゴールディの限定シングルにリミックスで参加するなど、ジャングル・リヴァイヴァルとも同調する動きを見せていた彼が、また唐突に新たなトラックを発表した。5月19日にBandcampにて先行リリースされた「Subtemple」は、タイトル曲“Subtemple”と“Beachfires”の2曲入りで、10インチ・ヴァージョンが5月26日に発売される。レーベルは〈ハイパーダブ〉。どちらのトラックもビートレスで、ブリアル流ダーク・アンビエントが展開されている。ううむ、はたして彼はいま何を考えているのだろうか……



https://burial.bandcamp.com/album/subtemple

Oneohtrix Point Never × Iggy Pop - ele-king

 先日デヴィッド・バーンとコラボしていることが明らかになったばかりのOPNが、新曲(の一部)を公開しました。今度のお相手はなんとイギー・ポップです。次々と意外な相手と組んでいくOPNもすごいですが、アルヴァ・ノトやソンゴイ・ブルースなど、他ジャンルの精鋭たちと積極的にコラボしていく現在のイギー・ポップにもシビれます。詳細は下記をチェック。

ONEOHTRIX POINT NEVER
ワンオートリックス・ポイント・ネヴァーが音楽製作を手がける
映画『Good Time』のトレーラー映像が公開!
イギー・ポップ参加の新曲の一部が解禁!

各国の映画祭で賛否両論の嵐を巻き起こし、2014年の東京国際映画祭にてグランプリと最優秀監督賞の2冠に輝いた映画『神様なんかくそくらえ』を手がけたジョシュア&ベニー・サフディ監督の新作で、『トワイライト』シリーズで知られるロバート・パティンソン主演の新作映画『Good Time』のトレーラー映像が公開され、ワンオートリックス・ポイント・ネヴァーことダニエル・ロパティンとイギー・ポップがコラボレートした新曲“The Pure And The Damned”の一部が解禁されるとともに、同映画の音楽製作をワンオートリックス・ポイント・ネヴァーが手がけていることが明らかとなった。また同映画は、第70回を迎えるカンヌ国際映画祭2017のコンペティション部門での上映が決定しており、英BBC は、パルムドール有力候補のひとつにも挙げている。

Good Time | Official Trailer HD | A24
https://youtu.be/AVyGCxHZ_Ko

公式HP: https://goodtime.movie/
DIRECTOR: Ben Safdie, Joshua Safdie
CAST: Robert Pattinson, Jennifer Jason Leigh, Barkhad Abdi
ORIGINAL SCORE: Oneohtrix Point Never
MUSIC: "Hospital Escape" by Oneohtrix Point Never, "The Pure And The Damned" by Oneohtrix Point Never ft. Iggy Pop. https://pointnever.com

Mount Eerie - ele-king

  死は現実
  誰かがそこにいて それからいなくなってしまう
  それは 歌うためにあるんじゃない
  アートにするためにあるんじゃない
  現実の死が家に入ってくれば あらゆる詩は沈黙する

 このアルバムはそんな風にして、現実の死に対して歌とアートと詩の否定から始まる。だが、“リアル・デス”と題されたこの「歌」は──そう、歌でありアートであり詩である。『ア・クロウ・ルックト・アット・ミー』はその矛盾に絡み取られた、音楽の姿をした生々しい問いだ。現実の残酷さを前にして、弱々しくうずくまるしかないわたしたちがどうやって生きていくか、についての。

 この胸をえぐられるフォーク・ソング集は、90年代のローファイを引き継いだザ・マイクロフォンズからマウント・イアリへと改名し、その誠実で地道な活動が静かに評価され続けてきたフィル・エルヴラムの新作にして、昨年癌で夭折したアーティストの妻ジュヌヴィエーヴ・カストレイの死そのものをテーマとした作品だ。自ら所有するスタジオではなく、妻を看取った自宅に機材と楽器を運んで録音されたという。マウント・イアリを特徴づけてきたローファイながらも厚みのあるサウンド構築はなく、シンプルなギターのアルペジオと幾分重々しいピアノの和音、それに不安定なエルヴラムの歌ばかりがあり、そしてその部屋の妻の生前の気配までもを残そうとするかのような生々しい録音が施されている。インナースリーヴには妻ジュヌヴィエーヴが描いた絵が印刷されていて、裏ジャケットには幼い娘を抱きしめるエルヴラムの姿が見える。近年の音楽作品においてもっとも近いのは母の死について歌ったスフィアン・スティーヴンスのフォーク・アルバム『キャリー&ローウェル』だろうが、それよりももっとももっと弱々しく、痛ましい。音楽の雰囲気としてはボニー“プリンス”ビリーの『アイ・シー・ア・ダークネス』辺りに近いと言えるかもしれない。
 (1週間後)の副題がついた“リアル・デス”はそして、なお妻の死の渦中に留まる「僕」の呟きを綴っていく。すると死んだ妻の名前で小包が届く。なかには1歳半になるふたりの娘のための秘密の贈り物が入っている――娘が成長して、学校に通うときのためのバックパックが。「僕」は玄関で泣き崩れる。「僕はこのことから何も学びたくない/僕は 君を愛している」。飾らないギターの演奏と、頼りない歌が聞こえる。

 身近な人間の死に際して、何かアートを生み出す例は珍しいことではない。だが、これほど率直なものがどれほどあっただろうか? 昨年は息子の死を描いたニック・ケイヴや母の死を思い返した宇多田ヒカルもあったが、自分に連想されるのは、むしろ音楽作品よりもアメリカで話題になったインディペンデント・ゲーム『That Dragon, Cancer』だ。これはゲーム・クリエイターの父親が幼くして癌で亡くなった息子の記憶をゲームにしたもので、プレイヤーは無邪気な赤ん坊と遊んだり、父親と母親になって息子の病気の告知を受けたり、家族の記憶のなかを漂ったり、泣き叫ぶ息子を看病したり、あるいは赤ん坊になって癌の化身であるドラゴンと闘ったりする(ドラゴンを倒すことはできない)。プレイヤーは死から逃れることはできず(つまり通常のゲームとまったく逆のことが起こっている)、しかし死んでいった息子の記憶がそれでも生き続けることを体験する。
 『ア・クロウ・ルックト・アット・ミー』でも似たことが起こっていて、アルバムは(2週間後)(1ヶ月後)(1ヶ月半後)と妻の死後から時間を進めながら「僕」(=エルヴラム)の身の周りで起こることや考えたことを赤裸々に描写していく。夕陽を前に「君」の遺灰を撒き、「悲しみに浸るために」幼い娘を連れて森に行く。アルバムを通して、自分に言い聞かせるように「死は現実だ」という言葉が繰り返される。(2ヶ月後)の副題がついた“スウィムス”では、「今日娘が訊いてきたんだ お母さんは泳いだりするのかなと/僕は答えた 「うん泳ぐよ、いまはそれしかしていないんじゃないかな」と/かつて君だったものがいま 波を越えて運ばれていく/蒸発し消えていく」と歌われ、柔らかいピアノの調べとともに悲痛な会話が詩的な瞬間へと変容していく。詩の沈黙を知りながら、それでも詩を求めてしまうその矛盾、その業――が、このアルバムを特別なものにしている。マウント・イアリはひとりのシンガーとして、死をドラマティックなものとする代わりに、現実としての死の前に立ち止まり、それでもか弱い呼吸で詩をどうにか吐き出そうとしている。わたしたち、すなわちこの歌の聴き手はこの世を去っていった妻の気配を「僕」とともに感じることができる。そこではなにか、悲しみを超えた感情がたしかに息づいている。
 (7週間前)と生前にまで記憶を遡った“ソリア・マリア”を挟んで、(4ヶ月後)との副題がついた終曲“クロウ”(“カラス”)は、娘とともに過ごす時間に捧げられた穏やかな1曲だ。眠る娘との会話を描写し、そしてアルバムは「そこに彼女はいた」という言葉で終わる。「不在が在る」ということ──その深い悲しみとともに生きていくこと、ひとが喪失を乗り越えられないことを、そっと抱擁するかのようにこの歌たちは響いている。

[5/24追記:固有名詞に誤りがあったため訂正いたしました(編集部)]

Pigs Pigs Pigs Pigs Pigs Pigs Pigs - ele-king

 わかる、わかる。こうでもしてなきゃやっちゃいられない。そもそも君が音楽を選んだ理由は、それが大衆的だからという理由ではない。それが少数派の意見を代弁しているからであり、そういう意味では、ブラック・サバスのメタル・サウンドとホークウィンドのスペース・ロック、セックス・ピストルズのうねるようなグルーヴ、あるいは初期のアモン・デュールやアシュ・ラ・テンペルのサイケデリック……らを彷彿させるニューキャッスルのバンド、豚・豚・豚・豚・豚・豚・豚(Pigs Pigs Pigs Pigs Pigs Pigs Pigs)の『ネズミに餌をやれ』は無視しようにも無視できない作品なのである。おおー、これはじつに激しく、おそろしく酷く、そしてぶっ壊れている。遙かかなたの闇夜より、地響きを上げながら、さあ、いかれた連中のお出ましだ。
 ピグス×7の豚は、なにゆえの豚なのだろう。ジョージ・オーウェルの描いた豚は、みんなのために一緒にがんばってると思われていた1匹が法律を書きかえ、ふと気が付けば権力的な暴君になっていく豚だった。日本で豚のメタファーといえば、愚鈍さとか、下劣さとか……動物愛護者からクレームが来てもおかしくはないものばかりだが、少なくとも狡猾な権力者というイメージはない。
 いや、ここで『動物農場』を持ち出してしまうぼくは間違ってる。音楽は社会学的註釈だけに収束されるものではない。音楽は、たとえば逃げ場を塞がれた欲望が噴出するところでもある。トリップする場所、脱落する場所、だ。音の洪水にまみれて、本気で喚き散らす場所。かつてマシュー・ハーバートは、屠殺場で殺されていく豚の一生を描いた。
 ちょうどジャングルが流行はじめの1993年に脚光を浴びたコズミック・テンタクルスを思い出さくなくもない。なにせ今年はジャングル・リヴァイヴァル&サマー・オブ・ラヴから50年。しかしピグス×7は、愛の夏ではなく、反感の夏、嫌悪のサウンドトラックだ。気になると言うのなら、2曲目の“Sweet Relief”を聴いてみよう。これでも気持ちが上がらないかい?

 UKの労働者階級が生んだロック・バンドは、ザ・ビートルズやセックス・ピストルズ、ザ・スミスやオアシスだけではない。バーミンガムの工場を背景に持つブラック・サバスもそうで、このバンドはしかもビートルズにはできなかったことのすべてをやったと評されている(大袈裟ではあるが、的外れではない)。ピグス×7はその子孫である。ある意味ベリアルとも、ヤング・エコーとも、決して遠くはない。

 いつの頃からかは忘れたけれど、年間50本は邦画を観ようと決めていた。ネトウヨでもないのに日本に肩入れをしてみようと。そして、それがだんだんキツくなっていった。作品の選び方が適当すぎたのかもしれない。仕事で観ているわけではないので話題作に手が伸びやすかったせいもあるだろう。そのうち新作の数は減らして古典を足して50本にしたり、新作はその年のワースト1を決めるつもりで観るようになったりもした。「あれが面白かった」とか「これがよかった」と話してもほとんど反応はないのに「あれはヒドかった」とか「あれはない」と言うと、「じゃあ観てみよう」という人はけっこういたので、邦画というのはヒドさを確認するために観るものだという感覚は僕だけのものではなかったように思う。『NANA』だとか『ジャッジ!』だとか、よくぞここまでダメな映画がつくれるものだと感心するしかないというか、自虐史観という言葉はこれらの作品を語るために生まれてきた言葉なんじゃないかと思ってしまったほどである(ウソ)。東北で大地震が起きた時は少しはピリッとしたと思ったけれど、どうも気のせいだったようで、年間に観る邦画の数はだんだん30本ぐらいに減り始めた。『リアル~完全なる首長竜の日~』を観た時のことはいまでもよく覚えている。誰が監督かも確かめず、「なんだよ、これ、ヒドいな、黒沢清のマネをして失敗してるだけじゃないか」などと言い合いながら観ていたら最後に「監督・黒沢清」の文字が浮かんだのである。邦画を観始めたきっかけのひとつに黒沢清の『CURE』を挙げる人は少なからずいるのではないかと思うけれど、その黒沢清がこれかよ……と、その時はがっかりしたなんてもんじゃなかった。邦画を観ようと思う動機がひとつ音を立てて消えた気さえした。

 邦画でとくにヒドいと思うのは人の気持ちがぜんぜんわからないことである。例えば昨年話題になった『永い言い訳』。妻に関心がなかった主人公は友人の子どもたちの世話を見なければならなくなったことで自分本位な性格が変わることを予感させる。そして、ラストで妻が働いていた仕事場を訪れ(この行動には序盤で布石も打ってある)、そこで生前の妻のことをあれこれと話し合うのかと思いきや、そんな場面はなく、次の場面では妻の死を乗り越えて自分の仕事が次のステップに進んだことを多くの人に祝ってもらう会が開かれている。これでは自分のことしか関心がなかった時期と何も変わっていないような印象が残ってしまう。主人公が、他人にも関心を持つ人間に変化したということがテーマだったのなら、妻の話を聞くシーンはほんの数秒でも差し挟むべきだったのではないだろうか。また、『永い言い訳』でもそうだったけれど、邦画には人と人の心が通じ合う場面でギターの音がポロンと鳴る作品が多過ぎる(洋画では観ない?)。これは表現としてあまりにも怠惰で、人と人とが通じ合ったことをどうやって伝えるか、それを考えるのが監督の仕事なのではないだろうか。どんな作品を観ていてもギターがポロンと鳴ると「また省略かー」と思わず笑ってしまう。これは本当になんとかして欲しい。『進撃の巨人』のように全編が歌舞伎みたいなセリフ回しだとか、PTSDという言葉を使えばそれですべてを説明した気になっているものなど、下を見ればキリがないにしても。

 とはいえ、「作品の選び方が適当すぎた」ことは確か。リアル・タイムで見ておくべき作品はもっとあった。金をかけたエンターテインメントが総じてヒドいのはいまもそんなに変わらないかもしれないけれど、ここ何年かは邦画に大きな外れがなくなり、昨年は観た本数が多分50本どころではなかった。『葛城事件』を観て赤堀雅秋の過去作を探ったり、全部観てるつもりだった冨永昌敬に『目を閉じてギラギラ』という作品が残っていることを発見したり。タイトルのつけ方が悪いよ~と言いたいものは多いし、『るろうに剣心』と『プラチナデータ』が同じ監督だとは思えないほど出来に差があったりと、わかりにくいことは夥しいものの、昨年であれば、前半から導き出される展開が予想外の方向に転がりだす『ヒメアノ~ル』や、無意識のうちに犯人探しを始めてしまう観客の態度そのものを悲劇の構成要素として組み入れた『怒り』など演出力が高い映画は確実に増えている。キャリアの長い監督が力をつけている例もあるし、デビューまもなくでいきなりこれかというような新人もいる。理由はともかく、邦画は数年前に底を打ち、上昇に転じたことは間違いない。それにはやはり大阪芸術大学芸術学部が立て続けに輩出した監督たち(熊切和嘉、山下敦弘、石井裕也、呉美保、柴田剛ほか)が大きな役割を果たし、TV出身の監督が幅を利かせていたゼロ年代とは違う流れを定着させたことは否定できないだろう。『踊る大捜査線』や『下妻物語』も僕は充分に楽しんだけれど、大阪芸術大学出身の監督たちが描写するのはもっと現実的で地味な人間関係であり、場合によっては誰と誰が一緒に居たいかをはっきりさせるだけだったりする。彼らのほとんどが社会的弱者を描くことでキャリアをスタートさせていることも興味深い。

(邦画のことはだいたいわかってるよという方はここからどうぞ)
 で、石井裕也の新作である。これは最果タヒの詩集『夜空はいつでも最高密度の青色だ』を強引にストーリー展開させたもので、確かに詩の断片が作中のあちこちに散見される。これに関しては省略する。日雇いで働いている青年と看護師が出会い、会話を交わすようになるまで。それだけとは言わないけれど、煮詰めていけばやはり骨子はそれだけだろう。日雇いの青年には互いの健康を気遣う程度には親しい仕事仲間がいる。看護師には同僚がいるものの、それ以上の人間関係は描かれていない。いずれにしろ仕事が楽しいと感じる環境にはいないと見られるふたりが前景化されている。「渋谷は嫌いだ」という感覚がこのふたりを結びつける。「渋谷は嫌いだ」とは言うものの、だからといって池袋や秋葉原に対する言及はなく、関心があるのはやはり渋谷だけである。誰も耳を貸さない歌を歌い続けるストリート・ミュージシャンが時折、映し出されることで「渋谷は嫌いだ」と言いつつも注意を向けてもらいたいのもやはり渋谷だと言うことはくどいほど暗示される。なぜ、そこまで嫌わなくてはいけないのか。90年代末からゼロ年代初頭にかけて『ラブ&ポップ』や『凶気の桜』は若者たちと渋谷の「戦争状態」を描いてきた。そこには援交少女や右翼少年たちが渋谷という街で傷つけられながらも結局はその一部をなしているというトポス性が担保されていた。援交少女のメンタルはまるで鉄人のように扱われ、大人がそう思いたいだけとも思えなくはなかったけれど、センター街に座り込んだ女子高生たちが商店会の見回りや渋谷署の警察官に追い立てられる場面を何度も目撃してきた僕としては、ある程度のタフさは表現されてもいいのかなとは思う。追い出されても追い出されても渋谷にいるんだという意志をネズミのコンポジションに投影したというチン↑ポムの「スーパーラット」にもその感覚は持続している。それはサウンドデモなどということをやった筆者にも通底している感覚である。

「渋谷が嫌い」とは、では、どういうことだろうか。疎外感を覚えるということだろうか。そうだとすると、主人公が飲み屋で文庫本を読んでいる場面はあまり納得がいかない。普通に考えれば渋谷で誰かと混ざり合いたいからそこにいるとしか思えない。そして、同じように「渋谷が嫌いだ」という看護師と出会うのだから、このふたりにある共通点は「渋谷が嫌いだ」と言いながら渋谷にいることであり、非常にアクロバティックなプロセスを経てトポス性を回復しようとしたということになるだろう。どうしてこのような複雑な手続きを踏まなければならないのか。新宿や秋葉原にいて「渋谷は嫌いだからね」という出会いではどうしてダメだったのだろうか。このような疎外感は、しかし、この10年、邦画ではかなりな頻度で繰り返し描かれてきたメイン・モチーフでもあった。その舞台はほとんどが地方で、『ラブ&ポップ』や『凶気の桜』が舞台とした渋谷はゼロ年代もなかばになると減り始め、記憶に残るような映画のロケーションは下妻や松ヶ根、あるいはサイタマや博多へと移動していく。まほろ駅前などはかなり東京に近い例で、『海炭市叙景』に始まる函館三部作や関西を舞台とした作品に名作が多かったことは忘れがたい。執拗に炙りだされる地方の閉塞感もさることながら、そのようにして地方を舞台とする作品にはやがて都会から地方に戻った主人公が快く受け入れてもらえないという側面を強く滲ませるようになる。近いところでは『ローリング』、『ディアーディアー』、『オーバーフェンス』とその風圧はどんどんキツくなり、適当に騒いで結局は土地の人たちに受け入れられる『モヒカン、故郷に帰る』がまるで昔の映画のように感じられたほどである。そして、極め付けが約1年前に公開された『ディストラクション・ベイビーズ』だった。

 真利子哲也のデビュー作『ディストラクション・ベイビーズ』で僕が最も驚いたのは祭りの描写である。「祭り」がこの作品ではとても遠くに感じられ、なにひとつ高揚感をともわない異様な風習のようにして映し出されていた。このような描写に僕は出会ったことがなかった。見知らぬ母と自分を結びつけるものとして『麦子さんと』でも「祭り」は一定の役割を与えられていたし、『味園ユニバース』でも祝祭性の有効性は保証されていた(『共食い』は微妙)。人っ子ひとりいない荒野やシャッター商店街でも映し出せば地方の崩壊をイメージさせることは簡単だろう。しかし、共同体の具現とも言える「祭り」がそのまま共同体の紐帯を表すものにならないという表現は、地縁や血縁にもとづく個人と共同体の関係を再編成して提示し、かつてほど柔軟性のある場所としては機能しなくなっている宣告だと考えていい。3年前に議論を呼んだ『東京難民』でも、一度、地方に戻った主人公がクラスメートの誰にも助けを求めず、もう一度、東京に出てきて勝手に苦しんでるだけじゃないかと思ったりもしたけれど、もはや地縁というのは場所によっては機能しないのが常態なのかもしれない。そして、『ディストラクション・ベイビーズ』における愛媛の「祭り」を、1年を通してすべてを祝祭として機能させている「渋谷」に置き換えてみることで、『ディストラクション・ベイビーズ』の主人公たちも『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』の主人公たちもどこか自然と重なって見えてくる。渋谷も一地方に過ぎないと考えれば、疎外感は等しく個人を追い立てるファクターとなり、地方でそれだけのことが起きているのであれば東京では「渋谷が嫌いだ」ぐらいで済んでいるとも。「渋谷は嫌いだ」は「愛媛は嫌いだ」であり、「下関は嫌いだ」もやはり「渋谷は嫌いだ」なのだろう。

 石井裕也はデビュー作の『むき出しにっぽん』でも『ばけもの模様』でも、さらには出世作となった『河の底からこんにちわ』でもトポス性には強くこだわっていた。前作『バンクーバーの朝日』では野球を通じてカナダで生きる日本人移民のメンタリティに焦点を当て、どの作品からも自分がいる場所で踏ん張ることに価値を見出していた。編集者を主役とした『舟を編む』でも辞書を最後まで作り上げる意志の強さに人々は持って行かれたはずである。『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』で描かれていることはそのようにして自分の居場所にこだわることに疑問を抱いているかのようにも受け取れる。日雇いで働く外国人労働者は日本に残る価値を認めず、主人公たちの「渋谷は嫌いだ」という思いを裏付けるように祖国へと帰っていく。しかし、これには正反対の力も働いていて、あまり良く練られたエピソードとは思えなかったけれど、誰にも耳を傾けてもらえなかったストリート・ミュージシャンがメジャー・デビューを果たし、踏みとどまることの価値もちらつかせる。周囲の人たちの身の振り方や判断を知った主人公たちがその後どうなるかは完全に観客の感じ方に委ねられている。こういうつくりは珍しい。あるいは表面上の変化がないことを意志の強さとして表したということなのかもしれない。「渋谷は嫌いだ」という気持ちを持続させることでしかいまの渋谷はトポス性を回復できない。この世界を嫌い続けることはそんなに容易なことではないし、たいていの人は醜くなるだけでロクな結論には至らないという気がしなくもないけれど、しかし、ある種の人たちはこの世界を嫌うことでしかこの世界と関係できなくなっていることも確かなのだろうと。

予告編

Cornelius - ele-king

 振り返ってみよう。あまりにも「ローディッド」ゆえに(再発不可能なほどサンプルデリックな)フリッパーズでの『ヘッド博士の世界塔』を経て、片足をアシッド・ジャズに突っ込んでいたコーネリアスとしてのデビュー・アルバム『The First Question Award』(1994)、ヒップホップからの影響とメタル趣味の悪ふざけの(再発不可能なほどサンプルデリックな)『69/96』(1996)、過去(サンプリング)を再構築することで明日に響く『Fantasma』(1997)、クラフトワークのアコースティック・ギター・ヴァージョンとも呼べそうなミニマルの美学『Point』(2001)、その延長線上で展開されるエクスペリメンタル・ポップ集『Sensuous』(2006)──そして2017年6月28日、通算6枚目のオリジナル・アルバム『Mellow Waves』がリリースされる。『Fantasma』でも『Point』でもない、コーネリアスの新境地が待っている。タイトルは『Mellow Waves』。ファーストEPにしてアルバム1曲目の“あなたがいるなら”(作詞:坂本慎太郎)は、PV公開(監督:辻川幸一郎)。配信も開始。

 セカンドEP「いつか / どこか」(いまのうちに断言しておこう。これは“Star Fruit~”に匹敵する名曲!)は5月24日発売。2017年前半のクライマックスは6月28日に聴ける。


『Mellow Waves』
発売日:2017年06月28日
価格:¥2,800(本体)+税
規格番号:WPCL-12660
1. あなたがいるなら
2. いつか / どこか
3. 未来の人へ
4. Surfing on Mind Wave pt 2
5. 夢の中で 
6. Helix/Spiral  
7. Mellow Yellow Feel  
8. The Spell of a Vanishing Loveliness
9. The Rain Song  
10. Crépuscule


コーネリアス特設サイト
https://sp.wmg.jp/cornelius/

RIKI HIDAKA - ele-king

 巷では天才か、奇人か、魔人か、などと噂され、ここ1~2年で着実に関心を高めている期待のアシッド・ローファイ・フォーク・ロッカー、リキヒダカ情報です。
 6月上旬、広島と愛媛でジム・オルーク × 石橋英子との共演あります。これは見たい、聴きたい。行ける人羨ましいです。
 もうひとつ、Giorgio Givvnのレーベルから、2014年に制作された幻のアルバムの発売となりました。2枚組の透明紫色のヴァイナル。ジャケも音もヤヴァイです。

日時:6月6日 (火)
会場:広島クラブクアトロ
OPEN:18:00
START:19:00
料金:前売¥4.000 / 当日¥4.500 (+1drink order)
出演:ジム・オルーク × 石橋英子 × 日高理樹
*取り扱い:ローソンチケット、チケットぴあ、e+(イープラス)、エディオン広島本店プレイガイド、タワーレコード広島店、STEREO RECORDS

日時:6月8日 (木)
会場:愛媛どうごや
OPEN:18:00
START:19:00
料金:前売¥4.000 / 当日¥4.500 (+1drink order)
出演:ジム・オルーク × 石橋英子 × 日高理樹
*取り扱い:どうごや 089-934-0661、more music 089-932-3344、まるいレコード 089-945-0132、RICO SWEETS & SUPLLY CO.089-947-0125、ふるぎやきっかけや”肉”

★問い合わせ

STEREO RECORDS
info@stereo-records.com


Riki Hidaka
Lucky Purple Mystery Circle
QQQQQQQQQ
9QLP-0001
2LP (PURPLE VINYL)
2017年5月17日(水)発売

【組曲ゲノム】
https://www.youtube.com/watch?v=wrqhrv0C41k

【夜の街】
https://www.youtube.com/watch?v=Ey6J7eBRfE0

【私の頭の中のロックンロール音楽】
https://www.youtube.com/watch?v=G3e6Cm8JG08

NEO TOKAI ON THE LINE - ele-king

 YUKSTA-ILLというMCはいつも驚きと感動をくれる。YUKSTA-ILLを知る15年以上も前に、先輩がL.L.COOL Jが、「OLD SCHOOLっていうのは敬意を込めて人が言う事なんだ。HIP HOPは常にNEW SCHOOLであり続ける事なんだ」ってインタビューで言っていた。そう教えてくれた。この発言は何に載ってたかも分からないし、確認もできてないから、本当にそんな事言ってるのか分かんないんだけど、凄く感銘を受けた。進化していくものがHIP HOPだと思う。もうOLD SCHOOLとかNEW SCHOOLなんて言葉もあまり使わないし。YUKSTA-ILLが敬愛するPAPOOSEの“ALPHABETICAL SLAUGHTER”は1より2の方が圧倒的に凄まじい。ALPHABETの頭文字でA to Zで順番にライムする1と2があるその曲は、YUKSTA-ILLの作るHIP HOPを理解するのに重要だと思う。是非聴いて欲しい。2が出た時、ちょうどYUKSTA-ILLと一緒にいたことはYUKSTA-ILLの作るHIP HOPに自分をよりのめり込ませてくれたものだ。


YUKSTA-ILL
NEO TOKAI ON THE LINE

Pヴァイン

Hip Hop

Amazon Tower HMV iTunes

 コアなヘッズと変わることなく、YUKSTA-ILLという名前を聞いたのはUMBに出ている頃だった。今作品でも重要なSKITとして収録されているFACECARZという三重のHARD CORE BANDを介してその名前を聞いたと記憶してる。決勝でバトルに出ている数回のタイミングはいつも予定があって見に行けてないのだけれど。映像になっている、ERONEとのUMB決勝大会でのバトルはお互いのラップが進化していく瞬間と歴史が収められている。勝ち負け以上の側面を当事者以外が感じることができる数少ない貴重な資料だと言い切れる。バトルへの肯定も否定も超えたものがそこに存在してる。2ndアルバムになる『NEO TOKAI ON THE LINE』に収録されているMCバトルに関して言及した、“GIFT & CURSE”では今のバトル・ブームへの辛辣な意見をラップしている。それは一般的に軽くなった「DIS」って言葉への「DIS」。美学のない消費をHIP HOPは否定する。KRS-ONEの『SCIENCE OF RAP』にある「朝起きたら鏡を見て俺はラッパーだって言う」。ラッパー十ヶ条のようなものを信じること。飲み会でのバトルの真似事を同列にする事は違うと、改めて公言する。その意味を『NEO TOKAI ON THE LINE』は教えてくれる。

 また、自分が敬愛するラッパーの言葉を引用させてもらう。RAKIMは「自分の友達の話を、有名でもない自分の友達の話をRAPをして曲を作れば、まるで近くにある話のように聴いてる人が思うことができる。それがHIP HOPだ」というようなことを言っていた。これは、出典は忘れたけど、自分が2016年に読んだRAKIMのインタビューか何かで言っていた事だ。凄く分かりやすく言えば、有名なラッパーだけれど、BIG Lを誰もが知ったのはGANG STARRの“FULL CLIP”だ。名もなき黒人の声を今もラッパーは歌っている。#BLACKLIVESMATTER という問題をHIP HOPを通して聞く。TOKAIの話を、HIRAGENというラッパーの事をYUKSTA-ILLを通して知る。パーソナルなストーリーに落とし込めば“RIPJOB”というこのアルバムに入ってる曲でYUKSTA-ILLがどんな仕事をしていて、どんな事をして、今、何をして何を考えてるかを知れる。自分はその話を前から知っていたんだけど、この曲の方が、情報量は多い。

 最初に名前を挙げた三重、鈴鹿のHARD CORE BAND 「FACECARZ」。アルバムの中の地元のことを歌った“STILL T”、“HOOD BOND”。その間にFACECARZのライヴ中のMCを収録したSKITが入る。自分は、東京や名古屋や彼らの地元である鈴鹿でもなく、関東の郊外にあるライヴハウスでFACECARZのライヴを見たことがある。その話をする前に言うけど、FACECRAZは日本を代表するHARD CORE BANDで地元の三重県鈴鹿でも、東海地方の中心地である名古屋でも、日本の首都である東京でも、日本でも、NYでも世界を相手にしてもトップのHARD CORE BANDだ。そのFACECARZが関東郊外の国道沿いのライヴハウスでMCで鈴鹿の事を、誇ってライヴ中に話していた。それは地元とHARD COREそのもので、それが繋がる話。このアルバムのその部分や、全体に流れるYUKSTA-ILLのラップは、その土地にいないものに対して、その土地への興味と強さを感じさせてくれる。DETROITにCOLD AS LIFEってHARD CORE BANDがいるんだけど、その1stアルバムのTHANKS LISTが頭に浮かぶ。まだかっこよかった頃のURのMAD MIKE、そして、J DILLAやSLUM VILLAGEが載っていたTHANKS LIST。

 音楽は音楽そのもの。HIP HOPはHIP HOPそのもの。それだけの強さと魅力が全て。それは勿論だと思う。でも、それ以上のものを感じられたら、それを否定するより肯定した方が最高だって言った方が楽しめるし、いい事あるに決まってる。このアルバムの“LET'S GET DIRTY”はPUNPEEのトラックに、featで参加するSOCKSの炸裂するパンチラインは「KEITH MURRAYみたいにセットアップジャージ」だって。最高にHIP HOPで楽しんだもん勝ちだと思う。今まで書いてきたこの文章放棄できそうだもん。でも、YUKSTA-ILLのラップなYUKSTA-ILLは何も変わってない。

 DIVERSITYって2016年からよく聞く。実際、多様性なんて無かったりするものがあふれてる。ただ肯定しても、ただ否定しても単一性も多様性のどちらも感じられない。ラッパーとしてステージに立つ生活、仕事や家庭の生活。ラージとスモール。派手と堅実。矛盾してるものが普通に存在するのが現実。それをYUKSTA-ILLは、YUKSTA-ILLとして、本名のONE OF THEMではなく、このアルバムでRAPする。『NEO TOKAI ON THE LINE』というタイトルの2枚目のアルバムは、だからこそ独立することができる。YUKSTA-ILLというラッパーがここで語るストーリーは、過去、未来、現在を鈴鹿という場所を純然たるファクトとして存在させる。

 「最初にYUKSTA-ILLは感動と驚きをくれる」と書いた。YUKSTA-ILLが作ってきた音楽、地元のグループであるB-ZIK、TOKAIを席巻したTYRANT、ソロとしてのファースト・アルバム、『QUESTIONABLE THOUGHT』、その中で産まれた「TOKYO ILL METHOD」、多くのフィーチャリング・ワークス、2016年末にリリースされた『NEO TOKAI ON THE LINE』。それらはどれもが繋がっていて、どの方向にも辿ることができる、「点が線になる」を綺麗に感じることができると思う。でも、そう思った瞬間に、YUKSTA-ILLの新たな側面があらわれる。このアルバムの最後に唐突に始まる“CLOSED DEAL”のように。掻き乱される。

 NETFLIXで、MARVERLの『LUKE CAGE』でMETHOD MANがラップしてる事って街の事で、それって世論とは相反するし、細かい事は矛盾してるけど、強くて最強で感動したんだけど。そこに出てくる看護婦がいて。RZAが監修してる『IRON FIST』に看護婦として出てきて、「この人、看護婦役で流行ってるのかな?」って思ったら、話が繋がってるっぽくて。そういう、そこまで細かくないけど、説明ないのがエンターテイメントでいいなって、うなづくような納得が最高だなって思った。WU-TANGとMARVERLとNETFLIXが繋がってる事には感動しないし、いまだにKUNG FUUとHIP HOPの関連性とか分かりたいとも思わないんだけど。特に『IRON FIST』で、唐突にHIP HOPかけながら修行してるのとか、理解を超えてるって思うけど。「うわっ」って思いながらも、手を引けないような。受け取る側の許容量を超えた感動って確実に存在すると思う。その許容量を超えたっていう時の一線って意識してない一線だから、定義しようとしたらできないものだけど、確実にある存在を感じることのできる一線だと根拠なく言えるものだって、俺は人に言える。

 YUKSTA-ILLの『NEO TOKAI ON THE LINE』は、そういう一線を超えた作品。最初に、何曲かを聴いた時に、漠然とした感動と、凄まじい衝動を覚えた。けれどもすごく普遍的で。でも、その普遍的な一線はどこにあるのか分からないとも思う。だから、聴くたびに、新たな何かを感じるんだけど、アルバムが幕を閉じた時に、それをいつまでたってもつかめない。聴いてる時はすごくその輪郭を感じられる。このアルバムを作るトラックもゲストも自由にその色を描いてるんだけれど、合わせることも打ち消すこともなくYUKSTA-ILLが存在している現実的だけれど、何か違う世界なのか、次元なのか?気になるんだけど、自然すぎて、再生されている時にその場所にいる。聴き終わって帰ってきた時に、頭に何かが残る。

 今日出たアルバムを、確信して「クラッシック」と言い切る。3本マイクだったアルバムが「クラッシック」として今、存在している。中古盤の棚に¥100で売ってる「クラッシック」がある。買うことのできないクラッシックがある。誰かだけのプライベートな「クラッシック」の存在を知ってる。YUKSTA-ILLの『NEO TOKAI ON THE LINE』は今出ているものが廃盤になっても、REMASTERING盤や廉価版が出る「クラッシック」になるだろう。新たな価値が発見される日が来る日をYUKSTA-ILLは何度迎えるだろうか? YUKSTA-ILLはその日が来る事を知っている。

  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 80 81 82 83 84 85 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 100 101 102 103 104 105 106 107 108 109 110 111 112 113 114 115 116 117 118 119 120 121 122 123 124 125 126 127 128 129 130 131 132 133 134 135 136 137 138 139 140 141 142 143 144 145 146 147 148 149 150 151 152 153 154 155 156 157 158 159 160 161 162 163 164 165 166 167 168 169 170 171 172 173 174 175 176 177 178 179 180 181 182 183 184 185 186 187 188 189 190 191 192 193 194 195 196 197 198 199 200 201 202 203 204 205 206 207 208 209 210 211 212 213 214 215 216 217 218 219 220 221 222 223 224 225 226 227 228 229 230 231 232 233 234 235 236 237 238 239 240 241 242 243 244 245 246 247 248 249 250 251 252 253 254 255 256 257 258 259 260 261 262 263 264 265 266 267 268 269 270 271 272 273 274 275 276 277 278 279 280 281 282 283 284 285 286 287 288 289 290 291 292 293 294 295 296 297 298 299 300 301 302 303 304 305 306 307 308 309 310 311 312 313 314 315 316 317 318 319 320 321 322 323 324 325 326 327 328 329 330 331 332 333 334 335 336 337 338 339 340 341 342 343 344 345 346 347 348 349 350 351 352 353 354 355 356 357 358 359 360 361 362 363 364 365 366 367 368 369 370 371 372 373 374 375 376 377 378 379 380 381 382 383 384 385 386 387 388 389 390 391 392 393 394 395 396 397 398 399 400 401 402 403 404 405 406 407 408 409 410 411 412 413 414 415 416 417 418 419 420 421 422 423 424 425 426 427 428 429 430 431