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山本アキヲの思い出 - ele-king

山本アキヲとシークレット・ゴールドフィッシュ
文:三浦イズル


「ほな、行ってきますわ」

 アキヲと最後に電話をした数日後に、アキヲの突然の訃報が届いた。シークレット・ゴールドフィッシュの旧友、近藤進太郎からのメールだった。
 2021年秋頃からアキヲは治療に専念していた。その治療スケジュールに沿っての入退院だった。その間もマスタリングの仕事をしていたし、機材やブラック・フライデー・セールで購入するプラグインの情報交換なども、電話でしていた。
 スタジオ然とした病室の写真も送って来た。Logic Proの入ったMacbookProや、小型MIDIキーボード、購入したてのAirPodsProも持ち込んでいた。Apple Musicで始まった空間オーディオという技術のミックスに凄く興味を持っていて、「これでベッドでも(空間オーディオの)勉強ができるわ〜」と嬉しそうだった。

「夏までに体力をゆっくり戻して、復活やわ」

 明日からの入院は10日間で、これで長かった治療スケジュールもいよいよ終了だと言っていた。

「ほな、行ってきますわ。じゃ10日後にまた!」

 近所にふらっと買い物にでも行く感じで電話を切った。その日は他の友人にも連絡しなくてはいけないということで、2時間という短い会話だった。
 アキヲと俺はお互い本当に電話が好きで、普通に何時間も話す。あいつが電話の向こうでプシュッと缶を開けたら「今日は朝までコースだな」と俺も覚悟した。明日の仕事のことは忘れ、まるで高校生のように会話を楽しんだ。話題が尽きなかった。
 電話を切った後、アキヲが送ってきた写真をしばらく眺めていた。
 それは先日一気に購入したという、2本のリッケンバッカーのギターとフェンダーUSAのテレキャスターを自慢げに並べたものだった。

「リッケン2本買うなんて気狂いやろ!」
 中学時代父親にギターをへし折られて以来、ギターは弾いていなかったらしい。

「最近無心でギターずっとジャカジャカ弾いてんねん。気持ちええな」
「今さらやけどビートルズってほんますごいわ」
「ほんまいい音やで。今度ギターの音録音して送るわ」

 アキヲの声がいまだにこだまする。
 赤と黒のリッケンバッカーたちが眩しかった。


俺はそいつを知っていた——アキヲとの出会い

 シークレット・ゴールドフィッシュは1990年に大阪で結成された。英4ADの人気バンド、Lushの前座をするためだ。その辺りのエピソードに関しては以前、デボネアの「Lost & Found」発売の際に寄稿したので、そちらをご覧になっていただきたい。
 1990年、Lushの前座が終わり、ベースを担当していたオリジナルメンバーのフミが抜けることになった。フミも経営に携わっていたという、当時はまだ珍しいDJバーの仕事に専念するためだ(その店ではデビュー前の竹村延和が専属DJをしていた)。
 そんななか、近藤が「同級生にめっちゃ凄い奴がおるで」と言って、ベーシストを紹介してくれることになった。
「学生時代番長や」近藤は得意のハッタリで俺をビビらせた。当時勢いのあった大阪のバンド、ニューエスト・モデルのベース・オーディションにも顔を出したことがあったという(*)。「むっちゃ怖いで〜、顔が新幹線みたいで、まさにゴリラや」そして俺の部屋にアキヲを連れてきた。たぶん、宮城も一緒だったと思う。
 現れたのは近藤の大袈裟な話とは違い、体と顔はたしかにゴツイが、気さくで物腰の柔らかい男だった。しかも俺はそいつを知っていた! 忘れることもできないほど、俺の脳裏に焼きついていた人物だったからだ。
(*)現ソウル・フラワー・ユニオンの奥野真哉氏の回想によれば、「ええやん、やろや!」となったそうだがその後アキヲとは連絡取れず、この話は途絶えてしまったそうだ)

 1989年か1990年に、(たぶんNHKで放送していたと記憶しているが)「インディーズ・バンド特集」的な番組を観ていた。新宿ロフトで演奏する大阪から来たというパンク・バンドの映像が流れた。彼らはインタビューで語気を強めて答えた。
「わしらぁ武道館を一杯にするなんてクソみたいなこと考えてないからやぁ」
 そう語る男の強面な顔と威切った言動が強く印象に残った。
 しばらくして、バイト帰りに梅田の書店で無意識に「バンドでプロになる方法」らしきタイトルの本を立ち読みした。その本の序文の一説に、先日NHKで見た「武道館クソ発言」とそのバンドについて書いてあった。それは否定的な内容で、そういう考えのもとでは一生プロにはなれない、と著者は断じていた。
「あいつや……」
 忘れようとしても忘れられない、あの大阪のバンドの奴の顔が浮かんだ。
 そう、近藤が連れてきた番長の同級生、目の前の男こそが「あいつ」だった。山本アキヲ。物腰の柔らかさと記憶とのギャップに驚いた。

 俺も最近知ったのだが、シークレットのメンバーは大阪市内の中学の同級生が半分を占めていたらしい。近藤進太郎、山本アキヲ、朝比奈学、近所の中学校の宮城タケヒト。皆、俺と中畑謙(g. 大学の同級生)とも同い年だった。彼らは「コンフォート・ミックス」というツイン・ヴォーカルのミクスチャー・バンドをやっていて、自主制作レコードもその時持参してくれた。同じ日に宮城も加入した。
「コンフォート・ミックス」のLPは在庫がかなりあったらしく、シークレットがCDデビューする前の東京でのライヴで便乗販売していた。当時の購入者は驚いただろうが、今となっては超貴重盤である。

  こうしてアキヲがしばらく、シークレットのベースを担当することになった。俺にとっては運命的な出会いだった。その友情はその後30年以上も続くのだから。


1991-アキヲと宮城が゙加入した頃-京都にて

 アキヲはシークレットのベースとして多くライヴに参加したが、仕事の都合で渡米したりするので、アキヲの他にも朝比奈、ラフィアンズのマコちゃん(後にコンクリート・オクトパス)など、ライヴの際は柔軟に対応していた。
 2nd EP「Love is understanding」では、アキヲが2曲ベースでレコーディングに参加している。東京のレコーディング・スタジオまで飛行機で来て、弾き終えると大阪へとんぼ帰りだった。今思えば仕事との両立も大変だったろうに、本当にありがたい。アキヲが他のメンバーよりも大人びていると感じたのは、そういう姿も見ていたからかも知れない。


LOVE IS UNDERSTANDING / SECRET GOLDFISH 1992

 シークレットは多くの来日アーティストのオープニング・アクト(前座)を務めていた。その中でも英シェイメン(Shamen)のオープニング・アクトは特に印象に残っている。
 俺たちのライヴには「幕の内弁当」というセットリストがあった。「もっと見たいくらいがええねん」と、踊れる7曲を毎回同じアレンジ、ノンストップで30分ほど演奏していた。
 せっかくシェイメンと一緒のステージだし、いつもの演奏曲も宮城のエレクトロ(サンプラー)を前面に出したアレンジに変えた。練習も久しぶりに熱が入った。アキヲはそのスタイルに合わせ、ベースラインを大きく変えて演奏した。

「ええやん、そのベース(ライン)」
「せやろ!」

 そのライヴでの「Movin’」のダンスアレンジは今でもかっこいいと思う。その時のアレンジが先述のEP「Love is〜」や「Movin’」のリミックス・ヴァージョンに、宮城タケヒト主導で反映された。


MOVIN' / SECRET GOLDFISH (Front act for SHAMEN,1992)


1991年の大阪にて

 シークレットの最初期こそ京都を中心にライヴをしていたが、活動場所は地元の大阪へと移っていく。心斎橋クアトロをはじめ、十三ファンダンゴ、難波ベアーズ、心斎橋サンホール、大阪モーダホールなどでライヴをした。
 ちなみに91年難波ベアーズでのライヴの対バンは、京都のスネーク・ヘッドメンだった。「アタリ・ティーンエイジ・ライオット」を彷彿させるパンク・バンドだった。アキヲとTanzmuzikのオッキーことOKIHIDEとの出会いはその時だったのかもしれない。
 心斎橋サンホールでは「スラッシャー・ナイト」にも参加した。出演はS.O.BとRFDとシークレット。そのイベントに向けてのリハーサルは演奏より、メンチ(睨むの大阪弁)を切られても逸らさない練習をした記憶がある。なんせ近藤と宮城が真顔でこういうからだ。「ハードコアのライヴは観客がステージに上がって、ヴォーカルの顔面1cmまで顔近づけてメンチ切るんや。イズルが少しでも目逸らしたら、しばかれるでぇ」
 アキヲは笑ってたと思う。俺も負けじとドスの効いたダミ声で「Don't let me down」と歌うつもりで練習した。当日、S.O.BのTOTTSUANがシークレットのTシャツを着て登場し、「次のバンドはわしが今一番気に入ってるバンドや!」とMCで言ってくれたおかげでライヴは超盛り上がった。予期せぬ事態にメンバー一同胸を撫で下ろした。

 10月にはデビュー・アルバムも発売され、そこそこヒットした。あまり実感はなかったが、心斎橋あたりを歩いていると、その辺の店から自分の下手な歌が聞こえてくる。と、同時に多くの「ライヴを潰す」とか「殺す」などの噂も耳に入った。それはかなり深刻で、セキュリティ強化をお願いしたこともあったほどだ。


1992-心斎橋クアトロ-4人でのステージ

 そんな状況下でアキヲとの関係が深まる出来事が起こる。英スワーヴ・ドライヴァーの前座、クラブチッタ川崎でオールナイト・イベントがあり、その夜にはそのまま心斎橋クアトロでワンマンという日だった。諸事情で近藤と宮城はそれらに参加できなくなった。ステージを盛り上げる二人の不参加に俺は不安になった。

「ガタガタ抜かしてもしゃあない、わしも暴れるし思い切りやろうや!」

 その言葉通りアキヲは堂々と4人だけのステージで、近藤のコーラス・パートも歌いながらリッケンバッカーのベースを弾いた。その姿とキレのある動きはまさにザ・ジャムのベーシスト、ブルース・フォクストン! しかもチッタでは泥酔&興奮してステージに上がろうとする外国人客を蹴り落としたり、演奏中に勢い余って転んで一回転しながらも演奏を続けたりしてめっちゃパンク! 派手なステージングに俺のテンションも上がった。

 大阪行きの新幹線で初めてアキヲと向き合って話した。距離が少し縮まった気がした。


Taxman - Secret Goldfish 1992 @ CLUB CITTA'


祭りの後

 心斎橋のワンマンも無事に終え、シークレットはさらに勢いづいた。が、元来気性の荒い個性的な集団だっただけに、ぶつかり合いも多々あった。若さだけのせいにはしたくないが、未熟でアホやった。俺も独善的だった。
 祭りはいつかは終わるものだが、神輿の上に乗ったまま、知らない間にそれは終わっていた。バンドもメンバー・チェンジをしながら、音楽の新しいトレンドが毎月現れる、激流のようなシーンのなかで抗った。次第にメンバー同士が会う機会も減った。
 正式に解散したわけでもなくフェード・アウトしていく。それは単に、皆がそれぞれ違う音楽や表現手法に興味が向かっただけだった。無責任ではあるが、ごく自然なポジティヴな流れで、決して感傷的ではない。もともと皆新しもの好きだったのだから。


アメ村で見たフードラム

 暫くアキヲをはじめとするメンバーとは連絡を取り合っていなかったが、96年頃大阪に行った時、アメ村の三角公園前にある、アキヲが働いていた古着屋に立ち寄った。
 Hoodrumのメジャー・デビュー直後で、レコードショップでは専用コーナーも作られていた頃だ。アキヲがどんどん有名になっていくのは俺も嬉しかったし、誇らしかった。
 その店に立ち寄ったのも、単に一緒にいた仲間にアキヲの店だよ、と自慢したかっただけだが、レジのカウンター越しで怠そうに座っていたのはアキヲ本人だった。メジャー・デビューであれだけメディアに露出してるのに、普通に店番もしているなんて、まさにシークレット時代のアキヲのままだ。かっこ良すぎる。
 まだ携帯もメールもない時代。アキヲは当時と変わらず接してくれた。考えてみるとアキヲとは、過去から今に至るまで一度も衝突したことがない。それだけ大人だったんだな、とふと思う。
それ以来、時々また連絡を取り合うようになった。

 ミックス作業が上手くいかなくなった時などアキヲに聞くと、
「ミックスっちゅうんは一杯のコップと考えればいいんよ。その中で音をEQなどで削って、上手に配置するんやで」
 今ではAIでもやってくれるマスキングという作業についてだ。
 当時その情報は目から鱗だった。今でもミキシングの真髄だと思っている。


2000年の夏、河口湖にて。居候・山本アキヲ

 2000年の夏、アキヲが河口湖の俺の仕事場兼自宅に、2ヶ月ほど滞在(と言えばかっこいいが居候だな)することになった。その経緯は割愛するが、アキヲはちょっといろいろと精神的に疲弊していたんだと思う。俺も同じ経験をしているので、それは思い違いではないだろう。

「富士山をみると背筋が伸びんねん。叱られてる気分やわ」


2000-西湖にて富士山をバックにするアキヲ

 富士北口浅間神社では「今まで訪れた神社で一番空気が凛としてるわ」など気分転換になったと思う。慣れてくると自転車に乗って一人で河口湖を一周したり、俺の実家の父親の仕事を手伝ったりして汗も流していた。
 夜になると必ず一緒に音楽を爆音で聴きながら酒を呑んだ。湖畔の古民家だったので、夜中の大音量に関しては問題ない。まだSpotifyなどの配信は当然ない時代。俺のレコードやCDライブラリを聞いた。時には湖畔で夜の湖を眺めながら。
 日課のように聴いていたのは、B-52'sやThe Clash、JAPANやコステロなどのニューウェイヴ、他にもグレイトフル・デッド、ティム・バックリィ等々。音楽なら何でも。クラシックから民謡までも聴いたりした。Cafe Del Marを「品質がええコンピ」と紹介してくれたのもこの時期だった。

 酒が深くなると職業柄のせいか、制作側の視点へと熱を帯びながら話題も変化していく。例えばこんな感じに。

「The Clashの『London Calling』 (LP)のミックスは研究したけど、あれは再現不可能や。誰にも真似できひん」

「(Tanzmuzikの2ndのつんのめるようなリズムについて)あれはな、脳内ダンスなんや。頭の中で踊るんやで」

「(大量に持参した89年辺りの当時一番聴かないようなDJ用レコードについて)今は陽の目を見ないこれらの音楽を切り刻み、そのDNAを生かして再構築して再生させるんや」──その手法で作られたSILVAのリミックスには本当に驚いたのを覚えている。

「リヴァーブは使わんとディレイだけで音像を処理するんよ」

 アキヲには音のみならず、何事に対しても独特の哲学とインテリジェンスがあった。感心するほどの勉強家で、読書家でもあった。何冊かアキヲの忘れていった本があるが、どれも難しい評論や硬派な文学だった(吉本隆明著『言語ににとって美とはなにか』など)。
 例えば不動産の仕事に就けば、一年掛かりで宅建資格を取得して驚かせる。他の仕事に就いた時も常にそうだ。そして、楽しそうにその仕事のことを話す。とことん深く掘り下げる。高杉晋作の句に置き換えると「おもしろき こともなき世を おもしろく」を体現していた。

 俺たちはギターの渡部さん(渡部和聡)とアキヲと3人で、シークレット・ゴールドフィッシュとして4曲レコーディングした。2000年の夏の河口湖の記録として。


2000-河口湖のScretGoldfishスタジオにてくつろぐアキヲ


あの最高の感覚

 いつだったかアキヲがまた大阪から河口湖に来た際、旧メンバー数人でスタジオに入った。
 まず「All Night Rave」を合わせたのだが、その刹那、全身が痺れた。これだよ。この感覚。タツル(Dr)のドラムとアキヲの太くうねるベース。全員の息の合った演奏とグルーヴ。一瞬で時が巻き戻された。そう感じたのは俺だけではないはず。皆の表情からも伝わってきた。

 バンドは結婚と似ているというが、俺は今でもそう思う。シークレット以来パーマネントのバンドは組んでない。ごくたまにベースで手伝うことはあったが、まあ正直興奮はしない。だけど、このセッションではアドレナリンが溢れた。この快感が忘れられないからだったんだな。


山本アキヲとシークレット・ゴールドフィッシュ

 今回のアキヲの訃報で多く人の哀悼の言葉を読んだ。アキヲの音楽と人柄が愛されていることを知り、本当に嬉しかった。と同時にモニター越しに「厳然たる事実」を突きつけられ、不思議な感覚に陥った。3月から気持ちの整理を徐々にしているつもりだったのに。
 俺の知らないアキヲの側面を知っている仲間もたくさんいるし、各々がアキヲとの大切な思い出や関係性を持っている。近藤や宮城たちは謂わば幼なじみだ。その心中は俺には計り知れない。
 ただ、今こうしてシークレット・ゴールドフィッシュのメンバーと気兼ねなく電話やメールもでき、本当に幸せだと感じる。アキヲの訃報を直接口で伝え、アキヲとの馬鹿な思い出話を笑いながらできたことは良かった。ネットニュースで聞いたという形にはしたくなかった。
  バンドとしての在籍期間や活動期間は短かかったが、20歳そこそこの多感な時期、一緒に経験したあの密度の濃い瞬間は永遠だ。
 アキヲのマスタリングで過去のアルバムをサブスク(配信)に入れる話もしてたが、今後どうするかはまだ決めていない。

 アキヲは昨年から、河口湖にマンションを買って引っ越すつもりで調べていた。冗談なのか本気だったのかは、今となってはわからない。俺も地元の仲間も、その話には大歓迎だった。これからも酒を飲みながら音楽の話をしたり、一緒に制作したりする将来を楽しみにしていた。そういえば河口湖は第二の故郷だといっていたなあ。

 アキヲとの話はここでは語りきれないし、語らない。ただ、全部を胸に秘めておくだけでもいけない、ともう一人の自分が言う。アキヲという人間の一面を知ってもらうためだ。
 アキヲの音楽がそれを一番多く語ってくれている。そう、俺たちは音楽家だ。

「イズルも俺もミュージシャンやないねん。抵抗あるやろ? アーティストとか」
「音楽家や。今でも俺らはこうして音楽に携わっている。感謝せなあかんくらい、これってむっちゃ幸せなことやで」
 酒をごくりと飲む音と一緒にあいつの叱咤する声が聞こえた。

 最後にアキヲが言った一番嬉しく、一番心強かった言葉を記して終わることにする。
「イズルがシークレットやるって言うんなら、わしゃあいつでもやるで!」

 アキヲ、ありがとう。

2022年6月30日

三浦イズル(Secret Goldfish)


"All Night Rave" Secret Goldfish (12/07/15)


https://secretgoldfish.jp/
Secret Goldfish in 1991 ;
Drums:Tatsuru Miura
Bass: Akio Yamamoto
Guitar:Ken Nakahata
Vocal & Guitar:Izuru Miura
Dance & Shout: Shintaro Kondo
Synth & Sampler: Takehio Miyagi

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アキヲさんとの思い出のいま思い出すままの断片
文:Okihide

■出会った頃

 たぶん91年かそこらの、なんかやろうよって出会った頃にアキヲさんが作ってくれた「こんなん好きやねん曲コンパイルテープ」。当時みんなよくやった、その第一弾のテープには、そのちょっと前にくれたアキヲデモのテクノな感じではなく、フランス・ギャル(お姉さんからの影響だと、とても愛情を込めて言っていた)やセルジュ・ゲンズブールの曲が入っていた。僕がシトロエンに乗っていたのでフレンチで入り口をつくったのか、そこからのトッド・ラングレンの“ハロー・イッツ・ミー”や“アイ・シー・ザ・ライト”、その全体のコンセプトが「なんか、この乾いた質感が好きやねん」って、くれたその場のアキヲの部屋で聴かせてくれた。その彼は当時タイトに痩せながらもガタイが良く、いつものピチピチのデニム、風貌からもなんとなくアキヲさんは乾いたフィーリングを持っていて、で、その好きな音への愛情や気持ち良さをエフェクトのキメや旋律に合わせて手振り身振り、パシっとデニム叩きながら、手で指揮しながら語ったくれた。
 その部屋には大きな38センチのユニットのスピーカーがあって、周りを気にせずでかい音で鳴らしてたのは僕と同じ環境で、その音の浴び方もよく似ていたが、昭和な土壁の鳴りは乾きまくってて、そんなリスニングのセッティングもアキヲさんの一部だった。
 そのテープの最後に入っていたYMOは、彼が少年期に過ごしたLA時代に日本の音として聴いたときの衝撃について話してくれた。初期のTanzmuzikに、僕がよく知らなかった中期のYMOへのオマージュ的な音色がときどき出てくるのも、こうした出来事があったから。
 そんなことがあって、アキヲさんには、その体格を真似できないのと同じように、真似できない音楽的感性の何かがあって、そこにはお互いに共鳴するものがあると気づいて、リスペクトする関係になった、そんな初めの頃のエピソードを思い出す。

 〈Rising high〉 のファーストが出て、やっとお互いいちばん安いそれぞれ違うメイカーのコンソール買って、少しは音の分離とステレオデザインがマシになったけど、それまではほんとにチープなミキサーと機材でやっていた。そのチープ機材時代の印象的な曲として、“A Land of Tairin”という曲がある。アキヲさんがシーケンスやコード、ベースなど全ての骨格の作曲を作って、こんなん……って聴かせてくれたものに僕がエフェクトやアレンジを乗せた曲。このノイズ・コードをゲート刻みクレシェンドでステレオ別で展開させたいねん!って、アキヲさんに指と目で合図しながら、2人並んで1uのチープなゲートエフェクタのつまみをいじって、当時のシーケンス走らせっぱなしで一発録りしたのを思い出します。
 あの曲のそんなSEや後半〜ラストに入れたピアノは僕がTanzmuzikでできたことのもっとも印象的なことのひとつで、アキヲさんだからこそさせてくれたキャッチボールの感謝の賜のひとつです。


■最後の頃。

 こんなして思い出すとキリがないので、最後の頃。アキヲさんが亡くなる前の数ヶ月ほどは不思議とよく会いました。僕が古い機材をとにかく売って身軽になってからやりたいなぁ、って機材を売りにいくって言うと、着いてきてくれてね、帰りに大阪らしいもの食べよって 天満の寿司屋に連れてってくれて、そしたら「久々こんなに食べれたわ!」って8カンくらい食べたてかな、ありがたいわって。その前のバカナルのサラダも。
 帰りに2人で商店街歩いてたら、民放の何とかケンミンショーのインタヴュー頼まれて、断ったけど「危ないわ、こんなタンズて」って笑ってて。

 たぶん最後に会ったときなのかな、気に入って買ったけどサイズ合わへんし、もしよかったら着てくれへん?ってお気に入りのイギリスのブランドの僕の好きなチェックのネルシャツを色違いで2枚。おまけに僕の両親に十三のきんつばも。
 で、最後のメールは、僕におすすめのコンバータのリンクだったと思います。
 彼はもちろん平常心、良くなるはずでしたから、マスタリングの仕事からそろそろ自作をと、ギターやベースも買ったばかりで意気込んでたし、なかなか音に触れない僕にも常に機材や音の紹介をしてくれていました。
 そんなことともに、僕のなかのアキヲ臭さっていうのは、クセのある人でパンクで短気であると同時に、20代の頃から僕と違ったのは、ことあるごとに、〇〇があってありがたい、〇〇さんには感謝やねん、って僕によく言っていたことで、アキヲさんは僕の感謝の育ての親でもあると今さら思うのです。 
 彼が面白がって興味を持った作曲のきっかけになったモチーフには、彼なりの独自な愛情が注がれてます。ターヘル名義のハクション大魔王やタンツムジークのパトラッシュ(たまたま思い出せるのがアニメ寄り)……、色々あるけど、アキヲさんの曲を聴いてる人のなかで産まれるおもしろさや気分を覗いてみたい気分にもなってきました(笑)。音楽は不思議です。アキヲさんと、アキヲさんの音楽に感謝。


■トラック5選


Dolice/Tanzmuzik
アルバム『Sinsekai』のあと、追って〈Rising high〉から出た5曲入りEPのなかのB1の曲。アキヲさんのセンチメンタルサイドの隠れ傑作と思ってます。〝最終楽章” のたまらん曲!です。実はデモはもっとすごくて、なにこれ!って絶賛するも再現なく、「あれ、プロフェットのベンダーがズレてたわ……」



Countach/Akio Milan Paak
着信音にしたい、この1小節。



Mothership/SILVA..Akio Milan Paak Remix
Silvaのリミックス、強いキックの隙間にノイズの呼吸するエロティックなアキヲ・ファンクの特異点。これもデモテイクは下のねちっこいコードから始まって上がってそのまま終わってしまうという、もっと色気のある展開だったのに……


Classic 2/Hoodrum
Fumiyaのフィルターを通してアキヲさんが純化されたカタチの傑作と思う。PVによく表現されたベースラインもアキヲさんらしくたまらないし、他に絡む抑えの乾いた707(?)のスネアは707のなかでいちばんカッコいいスネア。あの当時の2人の僕のなかの印象を象徴する。
 ほかにも、“HowJazz It”のサックスとオルガンの〝お話”合いのような裏打ち絡みも好きだし、“Classic 1”は青春期の鼻歌アキヲ節全開な面あって、シークレットのイズルやトロンのシンタロー……アキヲの好きな旧友の顔が不思議と浮かんでくる。
 あと1曲挙げようと思ったけれど、いっぱい出てくるのでここまでにします。
 サブスクにもあまり出てこないマニアックな曲も多いけど、是非機会があれば聴いてみてください! Radio okihide が出来ればかけたい曲やテイクが山ほどあります。

 アキヲさん、ありがとうございます。

文:Okihide

Ginevra Nervi - ele-king

 中国の動画サイトに投稿されたグラム・ロックの映像にはたいてい「精神汚染」というタグが付けられている。中国メディア全体が華美なことに敏感なのである。パンデミック前には視聴者がファッションを真似するという理由で複数の宮廷ドラマが放送中止となり、コロナ禍で最高視聴率をマークした「乘風破浪的姐姐」というオーディション番組も槍玉に上がった。30歳を過ぎた女性アイドルが生き残りを賭けて競い合う同番組は「アメリカズ・ゴット・タレント」を少しばかりヒネった企画だけれど、確かに本家よりもセットは豪華だった。そのトバッチリというのか、バラエティ番組も放送禁止の対象になったというので「快楽大本営」という番組を探して観てみたところ、なんのことはない「王様のブランチ」に歌って踊るコーナーがくっついたものを公開収録でやっている程度のものだった。これぐらいでもダメなのか……と。しかし、僕が違和感を持ったのは華美ということよりも「乘風破浪的姐姐」や「快楽大本営」でステージに上がる芸能人たちがあまりにもスタイル抜群の美男美女だらけだったこと。たまに客席が映ると日本の70年代を思わせる冴えない相貌の男女が客席を埋めていて、そのギャップは歴然だし、芸能人になる条件としてあからさまにルッキズムが肯定されているのだなあと。韓国でも「日本の女優はあまり美人ではない」という論評が盛んだったところに「だけど、個性的な顔の方が作品は記憶に残る」という意見が出てきて、あまりに同じような顔の女優が韓国には多過ぎるという方向に話が逆流するなどルッキズムが対象化されつつある感じを覚えたりもしたのだけれど、中国はまだとてもそんな感じではないのだろう。

 イタリアからネットフリックスやアマゾン・プライムの音楽を手掛けてきたジネーヴラ・ネルヴィによるデビュー・アルバムは、台の上に立って、さも10頭身であるかのように見せかけた本人がジャケット・デザインを飾っている。ハリウッド俳優がちょっとばかり体重を増減させただけで「肉体改造」と称するのが最近は普通になり、そういったギミックも含めてルッキズムをバカにした表現なのは明白で、アルバム・タイトルも「外見障害」と訳せばいいのか、「見た目がめちゃくちゃ」とでも訳すのか。彼女の場合は身長が低いことで人生に面白くないことが多かったとか、見た目で判断されてきたことに異議があるということなのだろうか。具体的にはもちろんよくわからない。いずれにしろ誤読も含めてデザインで多くを語ることには成功している。少なくとも僕はこのジャケット・デザインの「見た目」が気になって聴いてみようと思ったし。予備知識がないということは先入観もゼロで中身に接することができる。短いスキャットとドローンのミックスでアルバムは幕を開け、ミニマルと優しいインダストリアル・ノイズを組み合わせた“Variable Objects”へと橋渡される。クラシカルの素養は感じられるものの、アルカやOPN以降のポップな音処理が前景化し、彼らのグロテスクな要素が苦手だった人には爽やかな変奏に感じられる内容といったところだろうか。3曲目は“Twelve”、4曲目は“Seven”、5曲目は“Nine”とヒネくれたタイトル・センスが小気味好く、10年代に実験的と感じられた傾向をどれもスタイリッシュなポップ・ソングへとリモデルし、先行時代の作品をメタで楽しく作り変えたという風情。そして、じょじょに自分の持ち味に慣れさせていく。

 実験音楽なのに、とても軽やかでポップな印象さえ残すという意味ではローリー・アンダーソンのデビュー・アルバムが脳裏をかすめる。何度か聴いてみると重い部分もあり、とくに後半は実験的な色合いを剥き出しにしていくものの、構成の妙でそこはリスナーをさらりと深みまで導いてしまう。以前はビヨークそっくりの曲などもやっていたようだけれど、このアルバムにその片鱗はなく、そういう意味では完全に独自のサウンドを掴んだ瞬間がパッケージされている。やかましいを通り越したジャングルのフィールド録音にまったく踊れないパーカッションを組みわせた“Twenty”や複数のミニマル・ミュージックを混ぜ合わせてポリリズム化した“Zero, Two, One”や同じく“Eleven”も新鮮。異なる2つの要素をミックスする時に「こんな発想はなかった」と思うわけではないのに「こんな曲はなかった」と思わせてしまうのはやはりセンスがいいからだろう。エディット能力が優れていたとされるナース・ウイズ・ウーンドとは同じ能力を持ちながら逆方向の美意識を発揮しているということかもしれない。ストリングスを何重にもレイヤーさせた“Anmous”、アルバム・タイトルと呼応しているのかなと思わせる“An Interior of Strange Beauty”にはブレイクで意表をつかれ、2曲目の““Variable Objects””を重くアレンジした“Stasiv V”を経て♪多元宇宙で私は解き放たれる~と歌うヴォーカル・メインのエンディングへ。すべてを壊して再構築に再構築、再生に再生するという夢の歌。とにかく発想が豊かで、曲がヴァラエティに富んでいるにもかかわらず、アルバム全体に統一感があり、なかなか感動の1枚である。

『The Disorder of Appearances』を聴いて僕は久々にアヴァン・ポップという言葉を思い出した。森田芳光やタランティーノが最初に現れた時の「あっ」という、あの感じ。瞬間風速だけが人生だぜ、みたいな。わざとなんだろうけれど、サウンドにはあまり奥行きがなくて、本音をいえば異なったミックスでも聴いてはみたいところ。そのせいなのか、オーディオを変えてみると異様につまらなく聞こえる曲もあり、僕と同じ再生環境にない人にはどう聞こえるのかはちょっと未知数。できればイコライザー満載のミキサーを通して聴いてみたい。

interview with T-GROOVE & GEORGE KANO EXPERIENCE - ele-king

 片や、世界を股にかけて活躍するディスコ・サウンド・クリエイターで、泣く子も黙る生粋のディスコ・レコード・コレクター、再発プロジェクトやコンピレーション監修にも積極的に取り組む T-GROOVE。片や、i-dep や Jazztronik、sotte bosse のメンバーとして活動し、ストリートでもジャズをプレイしている豪腕のジャズ・ファンク・ドラマー:George Kano。そんな微妙に畑が違う両人が、ダンス・グルーヴというマスター・キーで互いにクロスオーヴァーし、熱量高くもスタイリッシュなアルバム『Lady Champagne』を完成させた。
 これまでの T-GROOVE は、一般的にリミックス・プロデューサーのイメージが強く、海外アーティストとはファイル交換でコラボレイトを展開してきた。ソロ・アルバムに加え、これまで手掛けてきたフランス・マルセイユ在住のユニット:TWO JAZZ PROJECT とのコラボレーション・アルバム『NU SOUL NATION』や、名門バークリー音楽大学助教授として後進を育成しながら自身の活動を続ける金坂征広(monolog / Yuki Kanesaka)と組んだ Golden Bridge の作品も、例外ではなかった。しかし今回パートナーとなった George Kano は、膝を突き合わせて意見を交換しながら音楽をクリエイトできる距離にいた。その濃密な関係性が、エモくパッショネイトであると同時に洒脱感さえ内包した、この生音アルバムの原点にデーンと鎮座している気がする。TWO JAZZ PROJECT のメンバーや新進ギタリスト:YUMA HARA など、従来の T-GROOVE ブレーンに加え、FLYING KIDS のキーボード奏者でサウンド・クリエイターとして活躍する SWING-O らキャリア組、それに bwp & funky headlights の黒﨑 “Mitchel” 洋之、大林亮三や Sho Asano といった若き有望ミュージシャンを多く起用したのも、今回のプロジェクトならでは。そして世界に通用する将来性豊かな実力派シンガー DAISUKÉ、J-Pop のイメージが強い Shohei Uemura(THREE1989)、ポエトリー・リーディングの FOUR LEAF SOUND (Tomoko Murabayashi)といったキャストにも、自分を踏み台にドンドン活躍の場を広げてほしいという彼のプロデューサー目線が効いている。そんな T-GROOVE、George Kano 双方にとって新しいステージを開拓した感のある『Lady Champagne』について、まずは彼らのその熱き胸の内を訊いてみた。


T-GROOVE

いま日本のジャズ・フュージョンとか、ジャズ畑の人のトラックを聴くと、リズムが小難しい割には軽く感じちゃうんです。そこに対抗したかった。(T-GROOVE)

海外アクトのリミックス・シングルを含めると凄まじいリリース数になりますが、T-GROOVE としては何枚目のアルバムに当たりますか?

T-GROOVE:ソロ名義だと最初に『Move Your Body』、次に『Get On The Floor』、それにTWO JAZZ PROJECT の『New Soul Nation』、金坂征広(monolog)とのユニット: Golden Bridge のアルバム『Golden Bridge』があるので、オリジナル・アルバムとしては合計5枚目ですね。Golden Bridge は2019年に出したので、今回は3年のブランクがあります。でもその間にも、リミックスを集めたコンピ『Diamonds : T-Groove Works Vol.1』『Double Platinum: T-Groove Works Vol.2』と、自分のアルバムから編集した『Cosmic Crush -T-Groove Alternate Mixes Vol. 1』が出ていますけど。

やっぱりスゴイ数だ!

T-GROOVE:海外モノなんかいつの間にか発売されてて、自分でも「これ何だっけ」というのもあったりします(笑)

GEORGE KANO

ジャンルに関係なく、ドラムが好きなんです。面白いドラムを叩いてれば、その人が好きになって研究して。〔……〕自分はカメレオン・ドラマーなので、何でも叩くんです。好きになると、自分のモノにしないと気が済まなくなる(笑)。(GEORGE)

そもそも GEORGE さんと組んだキッカケは?

T-GROOVE:実は知り合ったのは結構古いんですよ。2013年くらいに Dinky-Di というグループが「Ride On Fire」のアナログ盤をリリースして、GEORGE さんがそのドラムを叩いていたんです。僕は Dinky-Di のプロデューサー:Waq Takahashi さんと知り合いで、「Dinky-Di の新曲を作るから遊びに来ない?」と誘われて、レコーディング・スタジオで GEORGE さんを紹介されました。そこで、「いつか一緒にやれたらイイですね」という話をしました。

GEORGE KANO:それから間が空きましたね。

T-GROOVE:なかなか一緒に仕事する機会もないままだったんです。それが、GEORGE さんから「ソロ・アルバムを出したいんだけど、リリース先が見つからない」と相談を受けて、それなら自分がリミックスか何かで関与すれば、レコード会社が振り向いてくれるんじゃないかと思って。

GEORGE:それで音源を送ったら、もう次の日ぐらいに返ってきた(笑)

T-GROOVE はいつも仕事が早い(笑)

T-GROOVE:でも本格的にやりはじめたら、これはもはやリミックスを越えている、という感じになってきて。だったらベースやギターを録り直して、新曲にした方がいいんじゃないかと。それで i-dep のメンバーや YUMA HARA にダビングしてもらってでき上がったのが “Cityside Walk” で、これがこのユニットのデビュー曲になりました。元々はリミックス・プロジェクトとしてはじめたものが、意外に相性が良かったので、結果的にオリジナルで組んじゃいましょう、となったんです。そのタイミングで、立ち上がったばかりのレーベル〈URBAN DISCOS〉が、リリースできるものを探していたので、聴いてもらったら、イイネと。そこでカップリングが必要になって、何かのカヴァーがいいんじゃないかという話で。GEORGE さんは普段から路上ライヴをやっているので、ジャストな曲はないかな? と。

GEORGE:そこで “Cantaloupe Island” はよくストリートでやってます、と言ったんです。

T-GROOVE:それじゃあそのディスコ・ヴァージョンを作ろう、という流れになりました。

マーク・マーフィーのヴァージョンは何処から出てきたんですか?

T-GROOVE:シングルの両面がインストだと面白くないな、と思ったんです。だから片面に有名曲のカヴァーを入れたらいいんじゃないか、という単純なノリでした。それで探していたら、マーク・マーフィーの75年のアルバム『SINGS』に入っているのを見つけて。そしたら〈URBAN DISCOS〉の担当がたまたまマーク・マーフィーが大好きで、それならマーク・マーフィー版 “Cantaloupe Island” のディスコ・ヴァージョンを作ろうと。それで “Cityside Walk” とのカップリングでシングルを出しました。曲を見つけた後は、サクサクできましたよね?

GEORGE:そうですね。すぐにできました。

T-GROOVE:ヴォーカルは TWO JAZZ PROJECT のユニットのマリー(メニー)さんが歌ってくれたんですけど、元々スタンダードとか歌っている人だから、すごくいい感じに仕上げてくれました。

シンセのエリック・ハッサンとかギターのクリスチャン・カフィエロというあたりは、みんな TWO JAZZ PROJECT の人ですよね?

T-GROOVE:そうです。でも別に頼んだワケではなくて、マリーさんに歌ってほしいと言ったら、向こうで勝手にオーヴァーダビングしてきた(笑)。

頼みもしないのに(笑)。

T-GROOVE:彼らはいつもそうなんです。どんどんアイディアが膨らんできて、勝手にいろんなことをやっちゃうの。

他にもアチコチ参加していますね。

T-GROOVE:そうなんです。シンセサイザーとかエフェクトとかパーカッションとか得意な人たちだから、飛び道具みたいなのが欲しいときに、いろいろ入れてもらったりしました。首謀者のエリック・ハッサンは元々物書きで、小説家なんです。それで音楽もやってる、ちょっと変わった人ですね。TWO JAZZ PROJECT はみんな幼馴染みの4人組で、カップルがいたりして仲が良いんです。

その “Cityside Walk” と “Cantaloupe Island” のカップリング7インチと配信からプロジェクトがはじまったと。

T-GROOVE:そうです。でもコロナ禍もあってチョッとバッド・タイミングで、結構セールスは苦労しました。評判はすごく良かったので、1枚で終わらせるのはもったいない、と思っていたんです。そこで心機一転、アルバムはレーベルを移して。

GEORGE:そこからは怒濤でした。

T-GROOVE:勢いがついて、ミュージシャンを派手にしよう、とか。若手からヴェテランまで交友関係全員に声を掛けて。そしたら全部で18人(笑)。

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いままでディスコ・リミキサーのイメージが強すぎたので、そろそろそれを払拭したいと思っていたんです。〔……〕早くも想定外のことが起こっていて、Spotify のプレイリストで僕がジャズ・アーティストとして扱われているんです(笑)。(T-GROOVE)

すごいですよね。話を戻すと、最初に GEORGE さんがソロ・プロジェクトをやろうとしたとき、T-GROOVE を巻き込んだのはどういう発想だったんですか?

GEORGE:最初はただ自分のやりたいことをやっただけで、自分が気持ち良ければイイと思って作っていました。でも音を聴いてもらったら、「リミックスとかやってみたい」と言ってくれて。だからこんなに話が広がるとは、初めはまったく思っていなかったんです。でも上がってきたモノがすごく面白くて、T-GROOVE さんが関わってくれたら可能性が広がるかも、と期待が膨らみました。

ストリートではどんなジャズをやっていたんですか?

GEORGE:スタンダード・ジャズですけど、激しい感じで。普通に想像されるオシャレなジャズとは全然違います。

T-GROOVE:アヴァンギャルドな感じですよね?

GEORGE:パンク・ロックに近いジャズというか。

T-GROOVE:GEORGE さん自身、プログレとかロック好きですしね。

GEORGE:仕事的にはファンクとかラテン系のジャズなのですが、聴くのはロックが好きでした。

T-GROOVE:YouTube に様々なドラマーの代表的ドラム・パターンの動画を上げているんですけど、本当に幅広いジャンルをやっていますよ。

GEORGE:ジャンルに関係なく、ドラムが好きなんです。面白いドラムを叩いてれば、その人が好きになって研究して。そうしたら膨大な数になっちゃって(笑)。

T-GROOVE:バーナード・パーディのとか、再生回数ヤバイですよね。

GEORGE:自分はカメレオン・ドラマーなので、何でも叩くんです。好きになると、自分のモノにしないと気が済まなくなる(笑)。

T-GROOVE:生粋のドラム好きですよね。ドラムを叩くのが好き。

おふたりのプロジェクトなので、ドラムのミックスがデカイのは当然なんですけど、出自が見えにくいドラミングのスタイルですよね。スタンダード・ジャズみたいに上品な感じではないので、ロックが入っているとお聞きして腑に落ちました。それに T-GROOVE のディスコ・スタイルになると、四つ打ちのシンプルなドラムになるじゃないですか? そこはプレイヤーとしてどうなんでしょうか?

GEORGE:それなりの制約があるなかで、自分の色を出していくのが面白いんです。いくらでもガシャガシャできるけど、あえて抑えるのが面白い。ディスコ・ビートのなかに、少し自分のノリを出そう、という感じですね。

T-GROOVE もいつものディスコ・スタイルとは違いますね。最近はジャズ・ファンクにハマっていると聞いていますが。

T-GROOVE:せっかくいいドラマーを捕まえたんだから、こんなことやりたいなぁ、というのがあって。いつもの打ち込みの音でやると、“Lady Champagne” みたいなドラム・パターンはショボくなっちゃう。だから打ち込みじゃできないことをやりたくて。4つ打ちの曲は “Cantaloupe Island” と “Haven”、“Do It Baby” くらいかな。それに連れて曲の作り方も変わって、ドラムから叩いてもらったりしました。

GEORGE:こんなパターンがあるけど、どうですか、とか。

トラックメイカー的な作り方ですね。

T-GROOVE:それをループさせて肉付けしていって、粗方できたらまたフルでドラムを録り直して、またミュージシャンたちに好きなように録音してもらって、それを再びまとめる感じ。なかなか変わったやり方ですね。

それなりの制約があるなかで、自分の色を出していくのが面白いんです。いくらでもガシャガシャできるけど、あえて抑えるのが面白い。(GEORGE)

このアルバムは、T-GROOVE の従来作に比べて、良い意味でブッ飛んでるところがあると思う。そのパワーの源はドラムだと思うんです。いわゆる4つ打ちからハミ出して、ジャズ・ファンクらしい自由さがある。しかも相手はストリート・ドラマーでもある GEORGE さん。スピリットが違いますよね。

T-GROOVE:いま日本のジャズ・フュージョンとか、ジャズ畑の人のトラックを聴くと、リズムが小難しい割には軽く感じちゃうんです。そこに対抗したかった。バス・ドラムとかスネアの音作り、その辺を重いサウンドにするにはどうしたらいいのか。そこは徹底的にディスカッションしました。

GEORGE:こんなピッチの低いスネアの調整、したことないです(笑)。

T-GROOVE:すごく緩めてミュートをつけているんです。ある意味70年代的な。お手本として渡したのはシルヴァー・コンヴェンション。キース・フォーシーみたいなドラムの音にしてほしいって。それと MFSB のアール・ヤングだったり、ちょっとシックのトニー・トンプソン感もあったりで。

パワー全開でタム回すみたいな?

T-GROOVE:それでもかなり重いサウンドになりますけど、さらにコンプレッサーの掛け方とか、エフェクト関係を研究したんです。ミキシングにもメチャクチャ時間を掛けました。

GEORGE:叩いて渡した音が返って来たとき、音がスゴくて。どうやったらこうなるんだ? と。

T-GROOVE:GEORGE さんがメンバーとして在籍している i-dep のリーダーが褒めてくれたんですよね?

GEORGE:うちのバンド・リーダーが東京オリンピックの音楽監督アシスタントをやってたんです。彼が、「このドラム、どうやってこの音になるの?」とビックリして、「もう一回勉強し直そう」って。

ある意味、真っ当なエンジニアさんだと出てこない発想ですね。荒っぽく聞こえるけど、すごく凝って作り込んでいるという。そこがわかる人はすごく面白がるんでしょう。

T-GROOVE:そこは企業秘密ですけどね(笑)。松尾潔さんに、「音楽としても音響としてもハイクオリティですばらしい」とお褒めいただきました。ミキシングだったり、音響面のこだわりを評価してくださる方が多いのは嬉しいです。

今回は作曲を手掛けた曲が多いし、T-GROOVE にとって転機というか、ステップ・アップ作になりますね?

T-GROOVE:ステップ・アップというより、イメージ・チェンジですね。いままでディスコ・リミキサーのイメージが強すぎたので、そろそろそれを払拭したいと思っていたんです。自分は作曲するし、アレンジもやるし、オリジナルのアルバムだって出しているのに、それがリミックスの仕事に隠されてしまって、フラストレーションを抱えていました。そのときにコロナが来たので、実は半年から1年弱ほどクリエイティヴ・ワークを休んでいたんです。表ではそれ以前の制作物が発売されたり、リイシューのライナー・ノーツの仕事をしていたので、誰もお休みしているとは思っていなかったでしょうけど。でもそうやって一度リセットして、「さぁ、これからどうしようか」というところで GEORGE さんから話があって。もう全編ナマ音でやらないとダメかな、と思っていたので、これなら面白いコトができるかもと。現に早くも想定外のことが起こっていて、Spotify のプレイリストで僕がジャズ・アーティストとして扱われているんです(笑)。GEORGE さんと作ったのも、基本的にはディスコ・アルバムのつもりで作っていましたが、意外とジャズ・フュージョン畑の人が飛びついたみたい。GEORGE さんがそっち方面にプロモーション掛けたワケじゃないですもんね?

GEORGE:イヤイヤ、してないです(笑)。

T-GROOVE:結構ジャズ系プレイリストに入れられて、自分がジャズ・アーティストになっているという、予想外のクロスオーヴァーぶりなんです。

最近、和ジャズのアナログ再発が進んでいるじゃないですか。60年代から70年代初めの。あの頃の和ジャズの熱量、パワー感やミックス感と共通してますよね。いまそれをやってる人はほとんどいないから、その飢餓感を埋めてる面があると思います。特に苦労した曲はあったんですか?

GEORGE:“Timeless Groove” のゆっくりした感じは、結構苦労しましたね。キープするのが難しかった。ジャズでもこういうゆったりしたのはやってないので、挑戦でした。でもその苦労が面白いんですけど。

T-GROOVE:意外にもスロウなドラムを叩いたことがなかったんですって。もちろん上がりは完璧なんですが。

ストイックなトラックですもんね。

T-GROOVE:これだけは結構前にデモができていたんです。でも世に出す機会がなくて、リリースできていなかった。それが、この企画の趣旨に合いそうだからと蔵出しして、GEORGE さんにドラム叩いてもらって……。

GEORGE:めちゃくちゃイイ曲なので、「叩きます」と。でも叩いてみたらすごく難しかった。ただその他は、あまり苦労した印象はないですね。アッという間に曲が溜まっちゃって。

T-GROOVE:僕は “Shallow Naked Love” のダビングに手間が掛かりました。ブラス・セクションとかヴォーカルのアイディア、オルガンとか、どんどん音を重ねて、トライ&エラーを重ねて仕上げました。ミックスもかなりやり直しました。みんなのアイディアの賜物ですね。

せっかくなので、ライヴとかはできないのですか? 普通の T-GROOVE 作品だと、ライヴなんてあり得ないけど、これならできるのではないですか?

T-GROOVE:ミキシングまで含めてこのアルバムなので、自分のなかではここで完結しちゃっているんです。だからコレと同じサウンドをライヴで再現するのは、現実的ではないかな。

GEORGE:セッションみたいな感じなら、何とかなるかもしれません。

T-GROOVE:パーティーみたいな感じなら面白いかも。でも僕、ちょっと表に出るのが恥ずかしいので(笑)。でもライヴという固いモノじゃなくて、オープン・セッションみたいに気楽な形なら楽しそうですね。

いずれにしろ、他にはない面白いアルバムができたと思うので、これだけで終わらせるには惜しいと思います。

T-GROOVE:そうですね。T-GROOVE & GEORGE KANO EXPERIENCE をベースに、DAISUKÉ みたいな外部のシンガーを呼んで歌モノ・シングルを作るとか、バリバリのロックやフレンチ・レゲエをやってみるとか。実は今レゲエにハマっているんです。

GEORGE:制限されたなかでのグルーヴにすごく楽しみを感じて作りましたし、レゲエみたいにまだやってないジャンルが残っているので、これからも続けていけると思います。自分でも楽しみです。

T-GROOVE:ディスコ・ミュージックっていろいろなジャンルとミックスできるし、世界共通のビートでもある。だから GEORGE さんが持っているテクニックやセンスをフルに使って、続けていけたらいいなと思っています。

Hudson Mohawke - ele-king

 ひさしぶりだ。00年代後半に華々しく登場し、エレクトロニック~ヒップホップ~ベース・ミュージックの境界を書き換えたハドソン・モホーク。なんとこの夏、7年ぶりのオリジナル・アルバムがリリースされることになった。あいだにゲーム『Watch Dogs 2』のサントラトゥナイトなどを挟んでいるとはいえ、2015年の2枚目『Lantern』以来の新作なわけだから、これは期待せずにはいられない。発売は8月12日。
 現在、新曲 “Bicstan” とアルバムのさまざまな要素をひとつにまとめたティーザー音源 “Cry Sugar (Megamix)” をカップリングした先行シングル「Cry Sugar (Megamix)」がデジタルにてリリースされている(試聴・購入はこちらから)。この夏はハドモーで爆発しよう。

Hudson Mohawke
ハドソン・モホーク帰還!!!

待望の最新作『CRY SUGAR』を8月12日リリース決定!
アルバムのメガミックス音源 “CRY SUGAR (MEGAMIX)” と
新曲 “BICSTAN” を解禁!

ハドソン・モホークが8月12日 (金) に〈Warp Records〉より待望の最新アルバム『Cry Sugar』をリリースすることを発表! 合わせて新曲 “Bicstan” と映像作家 kingcon2k11 が監督した強烈な映像と共にアルバムのメガミックス音源 “Cry Sugar (Megamix)” が解禁!

Hudson Mohawke - Cry Sugar (Megamix)
https://youtu.be/l19Fxfk-QxU

Hudson Mohawke - Cry Sugar Megamix / Bicstan
https://hudmo.ffm.to/cry-sugar-megamix

アルバム全体の様々なパーツを一つにまとめ上げた “Cry Sugar (Megamix)” を聴くことで、本プロジェクトが持つサウンドやキャラクターを味わえることができると同時に、先行シングル “Bicstan” は、Roland TB-303 のアシッドなサウンドと躍動感あるガバ・スタイルのトラックに、浮遊感のあるボーカル、ケリー・チャンドラー風のクラシックなハウスのコード進行を組み合わせた、聴いた瞬間から体を動かさずにはいられない、ハドモ・サウンド全開のトラックとなっている。

2015年の『Lantern』以来の3rdアルバムとなる本作『Cry Sugar』は、パンデミックを経てついにクラブやライブイベントに戻ってくるすべての音楽ファンのモチベーションを高める音楽として、ハドソン・モホーク特有のアンセミックなサウンドがアルバム全体に余すところなく展開している。ハイカルチャーとローカルチャーを融合させることにおいては、もはや右に出るものがいないハドソン・モホークだが、彼こそが、2010年代を席巻したトラップミュージックの設計者で、世界中のパーティーからTVコマーシャルまで、今もなおあらゆる場面でその影響を感じることができる。

本作の背景にはアメリカの退廃があるという。アルバムのアートワーク (グラフィティシーンからキャリアをスタートさせた画家で映像作家としても活躍するウェイン・ホースことウィレハッド・アイラースによる) に描かれているように、我々はゴーストバスターズのマシュマロ・マンと腕を組んで、ジャックダニエルの瓶を片手に帰宅するところで、灰色の暴風雨という大惨事が近づきつつあるのを、ただじっと見つめている。そんな現実を目にし、ハドソン・モホークは、DJブースを指揮台に、放蕩と黙示録の間の緊迫したドラマを描き出している。ハドソン・モホークにとって本作は、故ヴァンゲリスの後期作品から90年代のジョン・ウィリアムスによるベタなメジャーコードのサウンドトラックまで、黙示録的な映画やそれらの音楽に深く影響を受けた最初の作品でもある。本作はいわば、文化的メルトダウンの黄昏を記録した映画の狂ったサウンドトラックである。

ハドソン・モホーク最新作『Cry Sugar』は、CD、LP、デジタル/ストリーミング配信で8月12日(金)に世界同時リリース! 国内盤CDにはボーナストラックが追加収録され、解説書が封入される。LPフォーマットは、ブラック・ヴァイナル仕様の通常盤とブルー・ヴァイナル仕様の限定盤で発売される。

label: Warp / Beat Records
artist: HUDSON MOHAWKE
title: Cry Sugar
release: 2022.08.12 FRI ON SALE

国内盤CD BRC711 ¥2,200+税
解説封入/ボーナストラック追加収録
輸入盤1CD WARPCD347
輸入盤2LP+DL(ブラック・ヴァイナル) WARPLP347
限定輸入盤2LP+DL(ブルー・ヴァイナル) WARPLP347I

BEATINK.COM:
https://www.beatink.com/products/detail.php?product_id=12883

TRACKLISTING
01. Ingle Nook
02. Intentions
03. Expo
04. Behold
05. Bicstan
06. Stump
07. Dance Forever
08. Bow
09. Is It Supposed
10. Lonely Days
11. Redeem
12. Rain Shadow
13. KPIPE
14. 3 Sheets To The Wind
15. Some Buzz
16. Tincture
17. Nork 69
18. Come A Little Closer
19. Ingle Nook Slumber

Bonus Track for Japan

FEBB AS YOUNG MASON - ele-king

 2018年に急逝したラッパー/プロデューサーのFEBB。先月幻のサード・アルバムがリリースされているが、このたび2014年のファースト・アルバム『THE SEASON』のカセットテープが発売されることになった。新たにリマスタリングを施し、同時期の “BRAIN” をボーナストラックとして追加。
 また、これを機に「THE SEASON 994」のロゴをあしらったジップアップ・パーカーとTシャツも期間限定の完全受注生産にて発売される。なくなる前に要チェックです。

FEBB AS YOUNG MASONが2014年1月にリリースしたファースト・アルバム『THE SEASON』のカセットテープが完全限定プレスの受注生産で発売決定! 同時にジップアップ・パーカーとTシャツも期間限定の完全受注生産で発売となり予約受付が開始!

2018年2月15日に24歳の若さで亡くなったラッパー/プロデューサー、FEBB AS YOUNG MASONが2014年1月にリリースした恐るべきファースト・アルバム『THE SEASON』のカセットテープが完全限定プレスで発売(税抜販売価格:¥2,300)。期間限定の完全受注生産であり、得能直也氏がカセット用に新たにリマスタリング。『THE SEASON - Deluxe』の収録曲に加え、同時期に制作された名曲 “BRAIN” をボーナストラックとして収録。
また「THE SEASON 994」のロゴを用いたジップアップ・パーカー(税抜販売価格:¥8,800)とTシャツ(税抜販売価格:¥3,500)も同時に期間限定の完全受注生産で発売。印象的な「THE SEASON 994」ロゴを左胸に入れ、パーカーは『THE SEASON』のジャケットもバック・プリントとして入れております。パーカーはボディがUnited Athleの10.0ozスウェット、カラーはブラック、ネイビー、グレーの3パターンでS~XXLサイズ。TシャツはボディがCOMFORT COLORSの 6.1oz ガーメントダイTシャツ、カラーはホワイトのみでS~XLサイズになります。

6/21(火)からP-VINE OFFICIAL SHOPのみの完全限定生産での予約受付となり、受注期間は6/30(木)正午まで、発送は8月上~中旬頃を予定しております。またカセットテープにはFEBBステッカーが封入され、パーカーとTシャツには「THE SEASON 994」透明ステッカー(100x70mm)が特典としてつきますのでお買い逃しなく!

*FEBB 『THE SEASON』 ジップアップ・パーカー / 994ロゴTシャツ / カセット販売サイト
https://anywherestore.p-vine.jp/pages/febb-the-season-preorder-fully-limited

*FEBB 『THE SEASON』 カセット / トラックリスト

1. No.Musik Track by Dopey
2. Time 2 Fuck Up Track by E.Blaze
3. Walk On Fire ft. KNZZ Track by Febb
4. Time Is Money Track by QRON-P
5. Hustla / Rapper Track by jjj
6. On U Track by Rhythm Jones
7. This Town Track by Golbysound
8. Deadly Primo


1. The Test Track by Serious Beats
2. PeeP Track by Ski Beatz
3. Season A.K.A Super Villain Track by Febb
4. Another One Track by Febb
5. Step Track by Kid Fresino
6. Navy Bars Track by Dopey
- Bonus Track -
7. Gone * Track by Febb
8. Hard White * Track by Kid Fresino
9. BRAIN*

※収益はFEBBのご遺族に分配しております。
※新型コロナウィルスによる状況によっては、発送期間が大幅に遅れる可能性がございます。あらかじめご了承ください。
※オーダー後のキャンセル・変更は不可となります。
※商品発送は8月上~中旬頃を予定しております。
※配送の日付指定・時間指定は出来ません。

R.I.P.山本アキヲ - ele-king

 すでにニュースになっているように、山本アキヲが亡くなった。3月15日だから3ヶ月ほど前のことではあるが、ご親族の事情があったのだろう、発表されたのは昨日(6月20日)だったようだ。アキヲにとって最後のプロジェクトになったAUTORAのメンバー、高山純がSNSに投稿したことで彼の訃報がいま拡散している。
 ぼくが彼の死を知ったのは、数週間前だ。6月の上旬、いま京都で開かれているイーノの展覧会のために、久しぶりに関西に行くのだから、京都のオヒキデの蕎麦屋に顔を出して、それから大阪まで足を延ばして山本アキヲに会おうと、連絡を取るために動いて、その過程において知ってしまった。
 アキヲに最後に会ったのはかれこれ10年以上前の話で、宮城健人の案内で、ぼくが大阪は十三にある彼の実家を訪ねたときだった。アキヲの自家製スタジオのなかで、当時好きだった音楽の話しで盛り上がったものだ。変んねぇなーこいつ、と思った。だいたいこの歳になると、音楽関係の知り合いというのは、久しぶりに会ってもつっこんだ音楽の話なんかはしない。近況や身の上話であったり、人の噂話であったり、そんなものだったりする。だからあの男がいまどんな音楽をやっているのか、どんな音楽が面白いと思っているのか久しぶりに話したい、そう思っていた矢先のことだった。
 まあそんなわけで、しかし、ぼくには時間があったので、いまはもうだいぶ気持ちの整理はついている。それでもこうしてあらためて彼のことを思うと、やはり悲しくてたまらない。聞いた話では、昨年食道癌を患ってしまい、とはいえ病状は決して重たくなく、治療を続けながら本人は変わらず音楽に向き合っていたという。それが今年に入って急に悪化して、帰らぬ人になってしまった。
  
 山本アキヲは、1990年代初頭からつい最近まで、複数のプロジェクトやバンドで活動をしていた大阪の音楽家だが、彼のキャリアのなかでもっとも広く知られているのは、90年代の日本のテクノにおいて先走っていたプロジェクトのひとつ、タンツムジークとしての作品だろう。いまとなってはクラシックなアルバムとして名高い、1994年にロンドンの〈ライジング・ハイ〉からリリースされた『Sinsekai』(翌年ソニーからも収録曲の変更があって発売されている)だが、しかしリリース当初の日本では、ほとんど理解されなかった1枚だった。タンツムジークにとってテクノとは、ダンスフロアの4つ打ちに限定されるものではなかったし、彼らこそのちにエレクトロニカないしはIDMと呼ばれることになる自由形式のエレクトロニック・ミュージックの日本における先駆者だったといまなら言えるだろう。
 この先鋭的なプロジェクトは、大阪のインディ・ロック・バンド、シークレット・ゴールドフィッシュでベースを弾いていた山本アキヲと、京都のスネークヘッド・メンなどでエレクトロニクスを担当していた佐脇オキヒデとの出会いによって生まれている。かたやパンク上がりのミュージシャン、かたやクラウス・シュルツやリエゾン・ダンジュールに感化された電子機材マニア、このふたりのコンビネーションが初めてシーンにお目見えしたのは、1993年のことだった。
 もしこの先、日本の90年代を語りたいという若者が現れたら、1993年は日本のテクノ元年だったと記述するといいだろう。この年、日本のテクノ・シーンで重要な働きをすることになる人たちは、ほとんどが20代前半から半ばで(ぼくは20代後半だったけれど)、アンダーグラウンドにおいてなんだかんだで始動し、お互い出会ってもいる。たとえば、福岡では稲岡健がいちはやく〈Syzygy Records〉をスタートさせ、大阪では田中フミヤの〈とれま〉レーベルもはじまった。東京では、下北沢の小さなライヴハウスにおける永田一直のイベントでケンイシイが初めてライヴを披露し、たしかムードマンもテクノ・セットのDJをやったと記憶している。でまあ、ここには書き切れないくらい、ほかにもいろんな人たちのいろんなことがあったのだ、あの年には。個人的には卓球といっしょに『テクノボン』を出したり。

 以下、京都にて佐脇オキヒデと会ってきたので、彼の言葉も交えながら山本アキヲについて書いてみることにする。
 「初めて会ったのは、91年、いや、1992年だったのかな……、ぼくが大阪でライヴをやったとき、アキヲさんが『こういうの作ってるねん』ってテープをくれたんですよね。帰りの車のなかで聴いたら、打ち込み一年生みたいな荒い録音だったんですけど、コード進行が独特で、好きになったというか、なんか光るモノを感じたんですよ。で、『なんか一緒にやろう』ってすぐに電話したんです」
 「そっからお互い連絡取り合って、アキヲさんの家にも行きました。機材はまだ簡素なものだったけど、大きなモニタースピーカーがあって、あ、ぼくと同じだって。ヘッドフォンで作ってないというね。で、あるときアキヲさんが、『若いDJで、勢いがある鋭いやつがおるんねん』『その子がテクノのイベントをやるからライヴで出て欲しいって』、それが(田中)フミヤのイベントだった。そのライヴの話があったので、じゃあ“タンツムジーク”という名前でいこうということになって、そのライヴのために作った楽曲がやがて〈ライジング・ハイ〉から出る『Sinsekai』になるんです」
 「ある日突然ロンドンの〈ライジング・ハイ〉から(当時はメールなどないから)電話がかかってきて契約したいと。電話の後ろではタンツムジークの曲ががんがんにかかっていて、で、英語は喋れないからファックスにしてと言ったら、ファックスで20枚ぐらいの契約書が送られてきた」
 「内容的にはいまでも納得していないです。カセットでサンプル的に送ったつもりの音源まで収録されてしまったり。でも、作品を出せたことで、吹っ切れたところはありましたね。とくにアキヲさんは、すごく前向きな気持ちになっていました」

在りし日のタンツムジークのふたり。左にアキヲ。右にオキヒデ。アトム・ハートが好きだったから〈ライジング・ハイ〉に決めたという、その頃のアーティスト写真。

 そんなわけでタンツムジークは、デビュー・シングル「Muzikanova」こそ〈とれま〉からのリリースだったが、それから数ヶ月後には、当時もっとも影響力のあったレーベルのひとつと言っていいだろう、〈ライジング・ハイ〉から「Tan Tangue EP」が出ている。で、続いてくだんの『Sinsekai』も発売された。ちなみに、同アルバムの最後に収録されている“A Land Of Tairin”は彼らの代表曲のひとつで、作曲はアキヲ、彼の大胆な構成力とオヒキデのコズミックな電子音響とが絶妙なバランスで融合し、独特の美しさを携えているトラックだ。永田一直が「日本のテクノの名曲のひとつ」として、いまでもDJでかけているという話を、今回京都で同席してくれた稲岡健が教えてくれた。
 「アルバムに収録されている曲は、それぞれが作った曲もあるんですけど、アキヲ君が作った曲にぼくが手を加えた曲やふたりでアレンジした曲が多かったですね。アキヲさんはね、作りはじめのスケッチの段階からぼくに聴かせてくれるんですよ、『こんなシーケンスできたんやんか』って。だからアレンジもやりやすくて、お互い話しながら、それこそ機材の前にふたり並んで、楽しく作れた。“A Land Of Tairin”なんかは、そうやってできた曲です」
 「“踊れない音楽”というコンセプトやねん」、これがアキヲがタンツムジークというプロジェクト名に込めた意味だったと、オキヒデは言う。当時はまだ、踊れない音楽はテクノにあらずというほどダンス至上主義が幅をきかせていた時代だったから、これはずいぶんと皮肉の効いたネーミングだった。稲岡健がそこにこう付け加える。「アキヲは、自分で言うときにはタンツムジークとは言わず、大阪のアクセントで“タンズ”って言うんですよ。『あのさ、タンズのことやけど〜』みたいに。それが“ひとつの音”としてずっと印象に残っていて」

 1994年だったと思う。稲岡健が福岡で主催した(閉店したキャバレーをスクワット状態で使っていたクラブ〈θ(シータ)〉での)テクノのパーティで、タンツムジークのライヴと、お恥ずかしい限りではあるがぼくのDJというのがあった。大阪から福岡の会場まで、車を載せた機材といっしょにフェリーに乗ってやってきたふたりは、その当時の日本のテクノ・シーンの基準で言えばかなり実験的な(つまり当時の基準で言えば踊りやすいとは言いがたい)サウンドを容赦なく演奏し続けていたのだけれど、大方の予想に反して福岡のオーディエンスは狂ったように踊った。「俺らの音楽で人があんなに踊ってるの、初めて見たわ」と、ライヴが終わった後にアキヲが嬉しそうに話していたことをぼくはよく覚えている。

フェリーに乗って大阪から福岡に向かうふたり。「オッキー、今度せっかく九州行くから、フェリーのらへん? 楽しいやん」

 しかし、日本全体が福岡ではなかったし、海外レーベルからデビューした日本人としては、ケンイシイ、横田進、サワサキヨシヒロに続く4番手だったタンツムジークの音楽は、ごく一部のファンを除いて、広く理解されたことなどいちどもなかった。山本アキヲはそれから数年間は〈とれま〉を拠点に、Akio Milan Paak名義でダンスフロアで機能するダンス・トラックを、それからオキヒデが「その構成力に驚いた」というTarheel名義でもソロ活動を走らせ、さらに田中フミヤとはHoodrumを結成したが、これは途中で脱退している。タンツムジークとしては1998年にセカンド・アルバム『Version Citie Hi-Lights』をリリースしたり、シーンにいたほかの当事者たちもそうだったが、90年代は突っ走っていたと思う。そんななかで、うまくいっても、うまくいかなくても、アキヲは会うといつも変わらず優しい男だった。
 「アキヲさんは本当に優しい。独特の礼節があって、死ぬ直前まで、ぼくの家に来るときは『これ、おっちゃんとおばちゃんに』って、十三の名店のお菓子を手土産に持ってくるんですよ。『アキヲさんは本当に優しい顔をしているね』って、ぼくのオヤジとお袋も言うんですよ」とオキヒデが話すと、ことあるごとにアキヲと会っていた稲岡もまた「アキヲ君は本当に優しい奴だったな」と同意する。おそらく、1990年代以降、アキヲと出会ったほとんどの人たちは同じような感想を持っているだろう。

 彼には、自分の音楽が評価されていようといなかろうと、そんなことはかまわないというようなところがあったし、注目されていようといなかろうと、彼は彼の音楽を続けていた。2000年代に入ってからの山本アキヲは、高山純とのAUTORAで作品を出しつつ、マスタリングエンジニアとしても忙しくしていたという。レイハラカミの再発盤はすべてアキヲによるマスタリングで、オキヒデが言うには、ずいぶん悩みながらがんばっていたそうだ。「病気になったのは去年の秋だったけど、死ぬ直前まで機材のことで話しに来たり、アキヲさんとはずっと会っていました。今年こそ自分の作品を作るって言ってたんですけどね……」
 山本アキヲがずっと好きだったという、リッケンバッカーのギターとベースも購入したばかりでもあった。「こんなカッコいいやろ」とオキヒデに写真を送って、「このギターな、初めて買ったときオヤジにへし折られたんやで」、そう言って大笑いしていたと、なんだか彼らしいエピソードだなとぼくは思った。
 
 オキヒデは、Silvaの「ヌード」(1999年)に収録された“Mothership”という曲のAkio Milan Paak名義によるリミックス(Spaceship in the Gottham City)が推し曲のひとつだと言う。たしかにこれは、2000年代初頭のオウテカにも通じる異次元ファンク・サウンドだ。この12インチ・シングルをいま見つけるのは困難かもしれないが、時代のなかで、タンツムジークの諸作は立派に再評価されている。残された3枚のアルバムはどれもが必聴盤だが、ぼくがとくにずっと好きなのは『Scratches』だったりする。アキヲ/オキヒデ名義でリリースされた遊び心あるこの朗らかなアンビエント・タッチのアルバムは、いつ聴いてもぼくを良い気分にしてくれるのだ。アートワークが表しているように、ここにはタンツムジークの明るい側面、ロマンティックな一面が記録されている。稲岡健は、このアルバムのなかの1曲に共作者(インスパイア元)としてクレジットされているが、それを言うと、「このアルバムは自分にとってふたりとの友情の証のような大切な宝物なんです」と語ってくれた。
 
 90年代の日本のテクノ・シーンには、それはそれは、ものすごいエネルギーがあったことを、ぼくはいまここであらためて言いたい。基本インディ・レーベル主体でDIYだったし、自分たちの居場所は自分たちで作るしかなかった。あの頃は、自分の売り込みではなく、自分のまわりで面白い音楽を作っている人の作品を一生懸命プロモートする人たちが何人もいた。90年代のテクノ・シーンを盛り上げたのは、ほかでもない、そういう人たちだった。ビジネスにしようなんて考えていたのはほんの僅か。大いなるアマチュアリズムの時代、それを美化するつもりはない。悪く言えばウブで、よく言えばイノセント、ただ好きだからやっているという基本にとにかく忠実だったというか、それでしかなかった。
 山本アキヲはまさにそういうシーンのなかにいた、大切なアーティストのひとりだった。彼はただ、それが好きだからやっていたし、それ以上でもそれ以下でもなかった。芸術的な野心はあったにせよ、音楽でメシを食うにはあまりにも優し過ぎる男だったと言えるのかもしれない。
 あの時代、ぼくは彼とプライヴェートでもけっこう話しているので、アキヲがどんな思考を持っていたかはだいたいの見当が付いている。山本アキヲはパンク的なものを愛していたし、社会的弱者の味方であろうとしていたし、本物の平等主義者だった。そして、ひょっとしたらじつはものすごくセンチメンタルな内面を持っていたのではないのだろうかと思うことがあったが、その感傷性を絶対に表に出さないことが彼の流儀でもあったように思っている。

 それにしても早すぎたぞ。君がいなくなって、君と出会ったみんなが悲しんで、寂しがっていることをわかっているのかな。それから言っておくけど、君の音楽は永遠だ。若い世代からも、君へのリスペクトはこんなにもたくさんある。山本アキヲと出会えて本当に良かったよ。ありがとう。そしてお疲れ様でした。(敬称略)

2019年ぐらいのふたり。

GemValleyMusiQ - ele-king

 「アマピアノの第2章」という惹句が目に飛び込んできた。ジェムヴァレーミュージック(以下、JVMQ)のファースト・アルバムについて書かれた資料の1行目。正確には「JVMQのファースト・アルバムはラフ・アマピアノの第2章だ」という書き出し。資料を読む前にアルバムを聴き終えていた僕は「え、アマピアノだった?」と戸惑った。「催眠的なヴォーカル、不気味なキーボード、コミュニティ感覚と自由、未来からストレートにやってきたFLスタジオのリズム」と資料は続ける。FLスタジオというのは音楽制作ソフトの名称。調べてみるとJVMQは確かに南アフリカはプレトリアのダンス・ユニットで、プレトリアがここ何年か発信し続けているのは確かにアマピアノである。プレトリアの音楽ならいまはほとんどがアマピアノ。それは間違いない。アマピアノというのは、しかし、基本的にはディープ・ハウスである。JVMQはどう聴いてもディープ・ハウスではない。彼らのデビュー・アルバム『Abu Wronq Wronq』はむしろ僕にはバカルディに聞こえた。そう、公式資料も「ラフ・アマピアノ」と表現し、「極端にパーカッシヴで、ベースを中心とし、その辺のアマピアノよりも実験的だ」と強調している。

 以前、紙エレキングに書いたことだけど、もう一度繰り返そう(もう読んだという人はこの段落はトバして下さい)。南アフリカのハウスはクワイトと呼ばれ、早いものだと80年代からつくられてきた(V.A.『Urban Africa (Jive Hits Of The Townships)』など)。クワイトが独自の色合いを持ち始めるのは90年代中盤からで、ヨハネスブルグやダーバンのタウンシップが中心となる(V.A.『Ayobaness! - The Sound Of South African House』など)。タウンシップというのは簡単にいえばゲットーのことで、2008年にプレトリアからDJムジャヴァがミリタリー・ドラムを駆使した“Township Funk”をローカル・ヒットさせ、これを〈Warp〉がライセンスしてヨーロッパ中に広め、プレトリアにはバカルディというムーヴメントが起きることに。ところが、プレトリア以外の南アでは“Township Funk”はまったく知られていなかったといい、それが本当なのかどうなのか、ほどなくしてバカルディがフェイド・アウトしていったのに対し、やはりミリタリー・ドラムをサウンドの核としたゴムがダーバンから巻き起こるとイギリスのDJ、ナン・コーレが〈Gqom Oh!〉を設立して、これを世界規模に拡張させる。この流れが“Township Funk”のプロダクション・チームは面白くなかったようで(知名度の落差が原因でDJムジャヴァはすでに精神病院に入っていた)、プレトリアではダーバンをこき下ろす発言も目立ち、その時期からプレトリアはクワイトのベースラインにジャズ・ピアノを太くフィーチャーするアマピアノへと流れを変える。バカルディもアマピアノもいってみればディープ・ハウスのヴァリエーションであるのに対し、ゴムのインパクトは明らかにテクノのそれで、プレトリアとダーバンの差はビートの強弱など、もっと違うところにあるような気もするし、南アを代表するディープ・ハウスのDJ、ブラックコーフィーがダーバン出身で同地に肩入れするなど、音楽性よりも地域差による対立が目立つ結果となった。ドミノヴェ『Umthakathi』(2017)の頃に比べると昨年のキッド・フォンク『Connected』などダーバンもかなりプレトリアの影響は受け始めていると思うし、ダーバンのポテンシャルにもプレトリアのそれにも目を見張るものがあったことは確かで、遠目に見ればデトロイト・テクノとシカゴ・ハウスが互いを補完をしてきた関係と似ていると思うのだけれど。ちなみにイーロン・マスクはプレトリア大学卒。

 何度か聴き直してみたけれど、やはり『Abu Wronq Wronq』はアマピアノというよりバカルディに戻ったと考えた方がいい。それこそ“Township Funk”の続きを聴いている感じで、腰にまとわりついて離れないベースラインの力強さは往時の何倍も強力になっている。アフリカにベース・サウンドがしっかりと定着したのだ思う。勝手にゴムのピークだと思っているDJティアーズ・PLKやオワミ・ウムシンド(Owami Umsindo)と同じく、リニアな動きは一切なく、同じ場所でじわじわとリズムを循環させる感じはレゲエと同じ。一度、腰を回し始めてしまうと、絶対に抜け出せない。この粘り強さは上半身をあまり動かさずに踊る人には最高のグルーヴで、パラパラや盆踊りのように腰から下を動かさずに踊る人には一生わからないだろう。ポップ・グループ“She Is Beyond Good And Evil”が79年に公開した最初のヴィデオはレゲエ・クラブで踊る人たちの姿を捉えたもので、僕はそれを観て上半身をほとんど動かさない踊り方というものがあるのだと初めて知ったのだけれど、実際に自分がそのように踊ってみるようになったのはレイヴ・カルチャーと出会ってからだった。『Abu Wronq Wronq』を聴いていると、どうしても”She Is Beyond Good And Evil”の映像が蘇ってしまう。体の中でグルーヴがぐるぐると渦巻いているのに外見的にはほとんど動いていないというのが踊っている本人には意外と面白い。ヒップホップで踊るのが好きな人も同じだったりするのではないだろうか。このミニマルな運動感。そして、それはヤキ・リーベツァイトのドラムにも通じるものがあり、カンがレゲエと出会ってつくったのが『Flow Motion』(76)なら、彼らがもしもまだ現役で、ゴムと出会っていたらつくっていたかもしれないと思うのが“Spice Ko Spicing”である。



 JVMQが名乗る「ジェム」というのは「宝石」のことで、マイケル・ベアードがコンパイルした『African Gems』(14)や〈Mukatsuku Records〉の諸作など、この10年ほどヨーロッパがアフリカの音楽を指して呼ぶ表現を自分たちから名乗ってしまおうというしたたかさが感じられる。宝石の谷の音楽。これを発見し、世界に解き放ったのがフランスのレーベルだというのもまた興味深い。南アやウガンダはいままでイギリスとオランダの資本が投入され、フランスはマリやコンゴといった北アフリカがテリトリーだったからである。フランスは〈Good Morning Tapes〉や〈Human Disease Network〉といった面白いダンス・レーベルが増えているので、ロウ・ジャックの〈Les Disques De La Bretagne〉以降、勢いがついていることは確か。『Abu Wronq Wronq』は後半に入るとアマピアノ色も強くなってくる。リズムがしっかりしていると、その上でリード楽器がソロを取ると思った以上に気持ちがいいし、そういう意味ではなるほどアマピアノである。そして、まさにアコースティック・ピアノが炸裂する“Dance A Lot”で僕は一気にセカンド・サマー・オブ・ラヴまで連れ去られてしまった。このゴージャス極まりない高揚感。今年の2月にデムダイク・ステアが『The Call』というピアノ・ハウスのミックス・カセットをリリースしていて、彼らのことだからさすがにバカっぽくはなかったものの「なんで?」という気持ちになっていたところ、“Dance A Lot”はそれともつながってしまう曲で、もしかして、今年の夏はコロナ禍の鬱憤をすべて晴らすかのような、とんでもないダンス・カルチャーの大爆発が起きたりして……とか思ったり。

Jockstrap - ele-king


 電子音楽を学んだテイラー・スカイと、ブラック・カントリー、ニュー・ロードのヴァイオリニスト、ジョージア・エラリーから成る2人組、ジョックストラップ。期待の新人デュオとして、2年前にエレキングでも紹介しているが(簡単な略歴についてはそちらをご参照あれ)、昨秋〈Warp〉から〈Rough Trade〉へと籍を移した彼らのファースト・アルバムが、ついにリリースされることになった。9月9日、世界同時発売。現在、先行シングル “Glasgow” が公開中。アルバムが楽しみです。

BC,NRのメンバーによるオルタナティブ・ポップ・デュオ、
ジョックストラップ待望のデビュー・アルバムが発売決定!!

ロンドンを拠点とする新生オルタナティブ・ポップ・デュオ、ジョックストラップが、待望のデビュー・アルバム『I Love You Jennifer B』を〈Rough Trade〉から9月9日にリリースすると発表した。今回合わせて最新シングル「Glasgow」の公式ビデオも公開されている。

Jockstrap - 'Glasgow' (Official Video)
https://youtu.be/_dLOFMxAYuE

ジョックストラップは、ブラック・カントリー・ニュー・ロードのメンバーでもあるジョージア・エラリーとテイラー・スカイで構成される。名門ギルドホール音楽演劇学校で出会ったという2人は、それぞれジャズと電子作曲を学ぶ中で2017年にジョックストラップを結成。クラシック音楽を聴いて育ち、音楽学校でジャズに目覚めたというジョージアとテイラーは、共に〈PC Music〉やミカチューことミカ・リーヴァイ、それぞれジェイムス・ブレイクやポール・サイモンに影響を受けている。現在ジョージアが作曲、作詞、歌唱を担当し、テイラーがプロデュースするという分担だが、その役割の境界はあいまいになりつつあるという。既存のスタイルを解体し、それを巧妙に組み直して全く新たなジャンルを生み出すような時間的そして空間的に激しく混乱した形のポップ・ミュージックを作り出すのが彼らの独特の手法で、ジョージアはロック以前のラウンジ・ミュージックの歌を歌い、テイラーはそれとポスト・ダブステップをミックスさせるなど以前から話題を呼んでいた。

デュオは今回の発表に先駆けて、最新シングル「50/50」と「Concrete Over Water」をリリース。ジェイミー・エックス・エックスやイギー・ポップ、ワンオートリックス・ポイント・ネヴァーなどから高く評価されているほか、「50/50」はシャネルの2020/21年秋冬オートクチュール・コレクションのキャンペーン・ビデオのサウンドトラックとして使用されたり、ステラ・マッカートニーの2022年冬のパリ・ファッションウィーク・ショーのサウンドトラックに使用されるなど音楽の領域を超えて注目を集めている。

『I Love You Jennifer B』は、テイラー・スカイが自らプロデュースとミキシングを手掛け、レッド・ツェッペリンやデュア・リパ、ラナ・デル・レイ、FKAツイッグスなど大物アーティストを手掛けたジョン・デイヴィスがマスタリングを担当した。今回のアルバムリリースについて、ジョージアとテイラーは次のようにコメントしている。

“『I Love You Jennifer B』は、ジョックストラップが3年間かけて制作してきた楽曲集。収録されている曲は全てかなり特異なサウンドだから、みんなのためのトラックがあって、『これは名曲だ』って語りかけてくれるようなものがあればいいなと思っているんだ。”

2022年のカオス、喜び、不確実性、陰謀、痛み、ロマンスを他にはない形で表現しているジョックストラップの待望のデビュー・アルバム『I Love You Jennifer B』は2022年9月9日に世界同時発売。本作の日本盤CDには解説および歌詞対訳のDLコードが封入され、ボーナス・トラックを追加収録する。輸入盤は通常LPに加え、数量限定グリーン・ヴァイナルが同時発売される。本日より各店にて随時予約がスタートする。

label: Rough Trade / Beat Records
artist: Jockstrap
title: I Love You Jennifer B
release: 2022.09.09 FRI ON SALE

国内盤CD RT0329CDJP ¥2,200+税
解説+歌詞対訳DLコード付 / ボーナストラック追加収録
輸入盤CD RT0329CD ¥1,850+税
輸入盤1LP RT0329LP ¥2,850+税
輸入盤1LP(限定グリーン) RT0329LPE ¥3,850+税
BEATINK.COM:
https://www.beatink.com/products/detail.php?product_id=12868

TRACKLISTING
01. Neon
02. Jennifer B
03. Greatest Hits
04. What’s It All About?
05. Concrete Over Water
06. Angst
07. Debra
08. Glasgow
09. Lancaster Court
10. 50/50 (Extended)
11. Jockstrap 1 & 2 *Bonus Track for Japan


通常盤LP(ブラック)


限定盤LP(グリーン)

Nouveau Monica - ele-king

 昨年、ブラワンのEPを繰り返し聴いたという人は少なくないのではないだろうか。自ら主宰する〈Ternesc〉からの「Soft Waahls EP」と、年末に〈XL〉からリリースされた「Woke Up Right Handed EP」。2015年にベルリンに移り、〈Ternesc〉を設立してからのジェイミー・ロバーツはダブステップからテクノにシフトしたことで面白みが薄れてしまい、ムーディマンの声をサンプリングした“What You Do With What You Have”(11)のような遊び心からは遠ざかったような印象があったものの、一昨年の「Make A Goose EP」や「Immulsion EP」あたりからUKガラージの要素が復活し、とくに「Woke Up Right Handed EP」ではどうしちゃったのかと思うほど多彩なリズムを楽しませてくれた。“Gosk”や“Close The Cycle”がコミカルなブリープ・エレクトロかと思えば、“No Rabbit No Life”はマイク・インクとエイフェックス・ツインが出会ったようなドリルン・ベース(?)、さらに2拍子からブレイクでノイズ・ドローンに変わる“Under Belly”にも意表をつかれた。また、EPのタイトルに用いられている「Woke」(意識が高い)はラップのコンシャスと同じ趣旨で使われるブラック・ライヴス・マターのスローガンで、エリカ・バドゥ“Master Teacher”の歌詞が起源とされ、とくにフライング・ロータスがジョージ・クリントンをゲストに迎えたWoke名義「The Lavishments Of Light Looking」(15)以降、曲のタイトルなどに頻出するようになった。ここでは「右利きの人」を対象にするというヒネった使い方がされ、右利きの人に意識を高く持てという意味なのか、それとも暗に右翼に呼びかけているのか(?)。ブラワンはデビュー・アルバムのタイトルも『湿ったものは必ず乾く(Wet Will Always Dry)』(18)とか、どう取ればいいのかわからないタイトルが多く、楽しく悩ませてくれる存在である。

 この勢いでブラワンがセカンド・アルバムをリリースした……のではなく、フランスからヌーヴォー・モニカのデビュー・アルバムがこの波をかっさらっていった。UKガラージに主軸を置き、エレクトロとの境界線を面白いように舐め回す『BBB』はブラワンを若返らせ、2000年代前半のヴァイブスで染めたような温故知新を感じさせる。なんといってもまずは疾走感。UKガラージに特有のつんのめるビートが全体を貫き、抑制されたブリープのヴァリエーションが編み出される。過剰にリヴァーブをかけたスネアだけでワクワクしてしまうけれど、テンポは必ずしも早くなく、オフ・ビートをたっぷりと組み込むことでスピード感を醸し出していく。シャキシャキとしたスネアにトランペット・ドローンのような持続音を絡める“Be Quiet”からリズムとメロディの対比がエイフェックス・マナーの“Bluntin”へ。フランジャーをかけたハットが駆け回る“Bobby’s Bump”がとにかく最高で、ブレイク後に転調するところはかなりヤバい。シカゴ・アシッドの要素も裏地にピタリと縫い込まれ、“BS Unit”ではスネア、“Bounce Break”ではバスドラムがしっかりとリクルートされている。どの曲もほとんどビートの組み合わせだけでできているところが、そして、なによりも素晴らしい。『BBB』というのは曲のタイトルがすべて“B”から始まるからのようで、秋里和国『THE B.B.B.(ばっくれバークレーボーイ)』を思い出したり。



 『BBB』を聴いてそこはかとなく思い出すのがMIA『Kala』をプロデュースしたスウィッチのサウンド・メイキングで、彼のヒット曲“A Bit Patchy”やその後にフィジェット・ハウスと呼ばれるようになる彼のスタイルがアルバム全体にエコーしていると僕には思えてしまう。さらに言えばフィジェット・ハウスをダンスホールに応用したテリー・リン『Kingston Logic 2.0』やスウィッチ自らがダンスホールに取り組んだミズ・シング『Miss Jamaica』など、UKガラージがエスニック色を強めたUKファンキーに様変わりしていく前段階がこのあたりで力を溜め込んでいたことを『BBB』は再現し、アップデートさせていると考えるのは無理があるだろうか。アップデートというより当時の楽観的なムードをそぎ落とし、現代的な閉塞感で全体をコーティングし、最後のところは引き締めていくという感じ。その辺りがブラワンの試行錯誤とも共通のセンスに感じられるところだろう。ちなみにバイクの上でヘンな男が寝ているというジャケット・デザインは、ちょうど10年前にリリースされたジャム・シティが同じくバイクを横転さ得ることでJ・G・バラードのヴィジョンを想起させたのとは異なり、それでも人は生きているというフランス的な感触にも導かれる。

BRIAN ENO AMBIENT KYOTO - ele-king

 初日から大盛況の展覧会「BRIAN ENO AMBIENT KYOTO」。好評を受け、土日祝の開館時間の拡大が発表された。あわせて、同展のオフィシャル・ヴィデオと展示写真が公開されている。

 「BRIAN ENO AMBIENT KYOTO」は、世界初公開の『Face to Face』、日本初公開の『The Ship』、ヴィジュアル・アーティストとしてのイーノの代表作『77 Million Paintngs』および『Light Boxes』の最新作、計4作を一挙に体験できる絶好のチャンス。

 6月25日からおなじ京都で開幕するデヴィッド・ボウイ写真展との相互割引も実施中とのことなので、この機会にぜひ足を運んでみよう。


77 Million Paintings


Light Boxes


Face to Face

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