ネットワークそれ自体が文化だということを
河村祐介
DISC SHOP ZEROで扱われたレコードの多くは、突き詰めて言うと “つながり” というものがひとつの美学として貫かれていたと思う。“つながり” とは良く知られたブリストルやその他の地域のアーティストやレーベルとの直接の連絡網、現場でプレイされ人と人の隙間を埋める “つながり” もあり、もっとちいさな単位でいえば、違ったジャンルの前後の曲をDJがブリッジするための楽曲のレコメンド、もっと個人のリスニング体験においても、あるアーティストとアーティストの良き隙間を見つけて、そこにはまるなにかとなにかをつなぐ楽曲たち。単体の楽曲としての存在ではなく、楽曲と楽曲、もしくはその他のさまざまな事象とつなげることで生まれうる刺激を絶えず紹介していた感覚がある。もちろん、それはDJカルチャーに大きな価値の源泉をみていたというのもあるとは思うが、もっと大きな視座がそこにはあったように思える。
隙間というと、重箱の隅をつつくようなマイナーな存在を想起してしまうが、ちょうど良い隙間にはジェームス・ブレイクやスミス&マイティといった大きな存在がスポッとそこに入ってしまう場合もある。その多くは、トレンド(もちろんDJカルチャーなのでそれも導入しつつ)と、少々離れた場所でならされる音楽だが、確実にどこかで鳴らされるために生まれた音楽たちで、ひょんなことからサブスクのヴァイラル・チャートにのることはあっても、それを目的にした音楽ではない。各地に数十人だとしても確実にそれを欲しいと思うひとたちのいる音楽。
飯島さんはさまざまな音楽をバイヤーという立場からつなぎとめていった。そんな音楽のつながりにはひとつのモデルとして、ブリストルという都市があったということだろう。各アーティスト個々へのリスペクトはもちろんだが、そのネットワーク自体を尊敬していたんだろうと思う。そしてこのネットワークこそが、レコードと音楽が紡ぎ出すカルチャーだということを教えてくれたのが飯島さんであり、DISC SHOP ZEROというレコード店だったと思う。音楽に繋がるのは、なにも音楽だけではない。そこに繋がるのはエッジーな新譜、過去の知られざる楽曲、サウンドシステム・カルチャー、アートやカルチャー全般、さらには歴史、ときには政治的意識だったかもしれない。そして、さまざまな人々たちだった。
このネットワークをDISC SHOP ZEROの周りでも作ろうとしていたのが飯島さんだったと思う。もちろん作ろうというのは彼の言葉とは違うだろう、おそらく彼ならこういうだろう、希望を込めた笑顔とともに「レコードは紹介するから、勝手にできてくれたらそれが一番いい」。先人たるブリストルのネットワークと接続・参照しながら、良き隙間を見極めることで “DISC SHOP ZERO” 独自の視点で「サウンド」そのものを媒介にむすび付けることを絶えずやっていた。
トレンドではなく、このネットワークをひとつの価値観創出の場所として捉えレコードをそろえる。そのネットワークに絡め取られたお客さんもある種の価値観の源といった感覚もある。それゆえに独自の審美眼で選ばれた独自のレコードたちが列んでいた。そのネットワークの大事なハブを失ってしまったいま、その価値観を共有していたDJたちは、今後プレイスタイルが変わってしまうかもしれない。それほど大きな存在だったのではないかと思う。しかし、彼が残してくれたのは個々の音楽への紹介もあれば、上記のような、こうした見えないカルチャーの土台となるネットワークでもある。そこに絡め取られた人々が、そのカルチャーを捨てない限り、それは存続し続けるだろう。
本当に大きな存在でした、ありがとうございました。
安らかに。
音楽を続けていく理由がまたひとつ増えた
UKD(Double Clapperz)
朝起きてInstagramを開きJoshua Huges-Games(DoubleClapperzのEPのジャケット、マーチャンダイズのデザインを手掛けてくれいるブリストルのイラストレーター 彼もまた飯島さんが繋いでくれたブリストルの友人の1人でもある)の投稿に書かれたRIP Naokiの文字に目を疑った。何かの冗談だと思い、すぐに他のSNSを確認したり友人に連絡を取り事実なんだと知る。
人づてに足が良くないとは聞いていたが詳しい事は知らず、突然の訃報を受け入れられず混乱したまま仕事に向かった。その日は1日中ずっと上の空で何も手につかなかった。
飯島さんとの出会いは5年前だったと記憶している。僕らが放送していたインターネットラジオNOUS FMにBANDULU GANGのHi5Ghostをゲストに迎えた回をZEROのBlogに紹介してくれた。全く面識はなかったが僕は取り上げてくれたことが嬉しくてすぐお店に向かった。当時はそれほどレコードに興味がなかったが僕はそこで人生で初めてレコードを購入し、多い時は毎週のようにZEROに通うようになる。
「買い物がない日にもDouble Clapperzは良く店に来るね」と飯島さんに言われたことがあるが、次こんな事をやろう思ってるんですよとか、ブリストルのアーティストから面白いダブが届いたとか、そんな雑談から生まれる僕らのアイデアを一歩先に進めてくる人でもあり、僕らのような若造がやろうとしていることに手を差し伸べてくれる良き理解者の1人でもあった。
僕らがレコードでのリリースを始めたのも、元はと言えばZEROで取り扱って欲しかったからだし、まずは全部自分たちでやってみるというDIY精神は飯島さんから影響を受けたものである。
2年前初めてブリストルを訪れた際カーニバルが開催されていたこともあり、BS0で来日していたアーティストや飯島さんがきっかけで繋がった沢山の同世代アーティストがブリストルの道端で僕に「Welcome to Bristol」と声をかけてくれた。
飯島さんが育んできたブリストルと東京の交流は、しっかり僕らの世代にも受け継がれていると再認識した。
もちろんブリストルとの交流は東京だけではない。
僕ら2人は飯島さんの告別式には九州ツアーの真っ只中のため参加できなかったが、僕らの福岡公演の場は奇しくもBS0関連のアーティストが多く訪れるThe Dark Room。
アルコールでふらふらになった数人が残った朝5時過ぎのフロアにBim OneとDubkasmによるEaston HornsとSmith & MightyのB Line Fi Blowが鳴り響いた。
飯島さん、BS0が撒いた種は全国各地に根を張っている。
最後になりますが、飯島さんの死に直面にし音楽を続けていく理由がまたひとつ増えました。どうぞ安らかに静かにお眠り下さい。
僕のスタート地点(ゼロ)をたくさん作ってくれた
Sinta(Double Clapperz)
Disc Shop Zeroの飯島さまには生前とてもお世話になりました。ご逝去をお聞きし、とてもショックで仕事に手がつかない状況でしたが、飯島さんにとてもお世話になったことを思い出しました。この感謝の気持ちを伝えたいという気持ちで、お手紙のつもりでこの文を書いています。
下北沢のお店では他愛もない話から、具体的なご相談まで、さまざまな場面で助言とサポートをいただきました。イギリスに行ったときはかならず飯島さんに報告に行って、飯島さんは優しく僕の話を聞いてくれました。そんな温かな目線にはいつも元気付けられてきました。飯島さんのお声がけがあって、世界中の気の合うアーティストや憧れのプロデューサーを紹介頂きました。その繋がりからはじまったことがたくさんあります。
レーベルをはじめたのは、Disc Shop Zeroにレコードを置いて欲しいと思ったのが大きな理由でした。でも僕らだけでは右も左もわかりませんでした。アートワークを担当しているJoshua Hughes-Gamesや、マスタリングをお願いしているWax Alchemyさん、ディストリビューターさんもご紹介いただき、納得のいくレコードをリリースできるようになりました。
dBridgeさんを繋げてくれてNew Formsの音源制作やパーティをやったこと。Nomineさんに僕らのことを紹介してくれて、彼のサウンドレクチャーを開催し、その通訳をさせていただいたこと。BS0にお誘いいただき、DJや翻訳、アテンドなど様々な機会をいただきました。飯島さんは常に僕の初めてのことに対して背中を押してくれて、一歩を踏み出す勇気とチャンスをいただきました。そういった仕事は今では僕のライフワークになりました。Disc Shop Zeroという名前の通り、僕のスタート地点(ゼロ)をたくさん作ってくれました。
常に周りのアーティストやファンを第一に考えられて、休みなく働かれていらっしゃいました。
今はゆっくりお休みになられてください。僕はここで、飯島さんみたいに周りの人のゼロを作れる人間になれるように、もっと頑張ります。
飯島さんが教えてくれたこと
髙橋勇人
2013年の4月のこと。行ったこともないのに登録していたお店のメルマガで、〈Deep Medi Musik〉から出たスウィンドルの「Do the Jazz」がリプレスされたことを知り、下北沢へすぐに買いに走った。(ごちゃごちゃした)店頭のダブステップのコーナーを探してもそのレコードの影も形もなかった。「もう売り切れちゃいましたか?」とカウンターの向こう側にいた店員さんに尋ねると、「いや、まだ忙しくてそっちに出せてないんですよ……」と、真っ赤なスリーヴの12インチをお店の奥の方から、よっこらしょと出してくれた。それが僕の飯島直樹さんとの出会いだ。
僕がゼロに通うようになった当時を振り返ってみると、2013年は、英誌『The Wire』がブリストル新世代を巻頭で特集したのが象徴的だったように、そのシーンへの関心が再燃し出した時期だ。彼の地のプロデューサー集団、ヤング・エコーがファースト・アルバム『Nexus』を出たのも、テクノのダークサイドへと接近したDJピンチが〈Cold Recordings〉を開始し、バツなどの若手を紹介しだしたのもこの年である。いまはなき名門ダブステップ・レーベル〈Black Box〉も健在で、トルコのガンツなど、世界の音がブリストルから連発していた。ゼロには当然のごとく、そのすべてが入ってきていた。同年にヤング・エコーのカーンが、MCフロウダンとのキラーチューン “Badman City”が入ったEPをリリースしたとき、店頭でそれを聴いて、あまりのかっこよさに全身が震えたのを昨日のことのように覚えている。
周知の通り、飯島さんは江古田にお店を構えているときからブリストルにおもむいて、その文化を日本に紹介し続けてきた。飯島さんが語るイングランド南西部の反骨精神旺盛な港町は、アーティストたちの人物関係や、それを繋ぐ現地のレコード店やクラブの話に収まるものではなく、背景にある文化政治的なアティチュードと常にセットだった(例えば、街で大手スーパーであるテスコのボイコット運動が巻き起こった話など)。それは海外礼賛の輸入話などでは決してなく、自分たちがいる東京という場所を問い直すような、刺激に満ちていた。飯島さん自身も、自分は日本のローカルのためにブリストルから着想を得続けている、といっていた。
だから僕がゼロに頻繁に通いはじめたのは、単純にレコードのためだけではない。音楽、政治から人間関係にいたるまで、とにかくいろんな話をした。お店に行ってもレコードを買わない日だってあったくらいだ(すいません)。
飯島さんはひとを繋げるのも上手だった。当時、クラブにいく友人がまったくいなかった僕にとって、ゼロから生まれた交友関係にはとても助けられた。あの小さな空間には、インターネットのコミュニティにも、地元のコミュニティにも、なんとなく合わない若者が流れ着いていたように思う。
飯島さんの音楽パースペクティヴはアーティスト中心主義ではなく、音楽が内包している可能性をサウンドとは別の形で実現できる存在にもしっかりとスポットライトが当てられていた。サウンドシステムとそれが鳴る場所の作り手、そこに魂を吹き揉むパーティ・チーム、都市と音楽のネットワークを可視化するジン、ライター、写真家、そしてリスナーたち。その文化のエコロジーがあるからこそ、音楽は音楽であり続けることができる。
飯島さんはそのことに誰よりも自覚的であり、その実践者であり、必要があればそれを阻害する者たちに向かってストリートに出て声をあげ、選挙割なども積極的に行っていた。2015年にゼロや東京の音楽クルー、ソイやビムワン・プロダクションのメンバーが中心になって始まったブリストルのスピリットを紹介するプロジェクトBS0は、その理念がパーティとして形になったものだ。そこに呼ばれるアーティストを誰よりも愛していたのは飯島さんだったが、その関係に上下などなく、二人三脚でシーンを、いや世界を変えてやる、という気概で満ち溢れていた。
晩年、飯島さんはひとりでお店を切り盛りしていたけれど、音楽の世界における彼の一人称にはつねに複数形の僕たちの存在が含まれていた。何かの、ひいては誰かのために行動し続けることについて、飯島さんがその人生で示した意義は計り知れない。そこに敬意と感謝の意を示したい。
────2014年、僕は大学の勉強でも就活でも行き詰っていた。そのとき、ツイッターで『ele-king』のバイト募集を見つけたものの、応募するかどうかを決めかねていて、飯島さんに相談しにいったことがある。そうしたら、「あの募集、僕も見たよ。ハヤトくんが応募してみたらいいじゃないかなと思ったんだよね」と背中を押され、こうして音楽について書くようになった。最初は右も左もわからない状態だったので、ライターとして書き方のアドバイスもよくもらっていた。飯島さんは僕の尊敬する先生だ。カウンターの向こうから響いてくるあの声は、これからも僕のテキストから消えることは決してないだろう。
優しく聡明なRebelの人
Mars89
ele-king編集部から執筆の依頼がきた時、僕は仕事も何もほとんど手に付かない状態だった。しかし、これを書くことが今この僕が飯島さんのためできることの全てだったし、心から書くことを望んだ。
ele-kingとの付き合いも、Disc Shop Zeroに立ち寄った野田さんにまだまだ無名の僕の作品を飯島さんがお勧めしてくれたことがきっかけだった。そして今ではインタヴューやチャートなどいくつもの形で繋がっている。僕の作品が出るときにいち早く予約や入荷をしてくれてたのもZeroだったし、会うたび「次の作品は?」と、いつも気にかけてくれていた。そして野田さんのように面白いものを探してZeroを訪れる人たちにお勧めしてくれていたに違いない。僕のように彼や彼の店がきっかけとなって新たな道が開けた人は数多くいるだろう。それはこの追悼文が掲載されるele-kingに寄せられた他の人の追悼文を見ればわかるはずだ。
僕がブリストルを訪れたときには何人もの人に「東京から来たのか! Naokiによろしく!」と声をかけられ、それがきっかけで打ち解けたりもした。彼が東京とブリストルで撒いてきた種は地面の下でしっかりと太い根を張っている。
彼が撒いてきた種は “音楽だけ” ではない。常にそこに広がるカルチャーとセットだった。ブリストルというのはカウンターカルチャーの街であり、オルタナティヴなスタイルを追求してきた街だと思っている。Zeroでは選挙割を導入して政治への参加を呼びかけていたし、彼は僕が抗議活動の現場で顔を合わせる数少ない音楽関係者の一人でもあった。Contactで隔月開催している BS0xtra では抵抗のカルチャーにまつわる書籍や資料を持ってきて、横でコーヒーを出し、「場」を作っていた。渋谷プロテストレイヴのアフター会場にもそれを出して音楽と抵抗のカルチャーの関係性を強固にすることに協力してくれた。優しく聡明なRebelの人だった。
彼は1月に更新したブログでZeroを「レコードの販売だけでなく、面白いことをしていける場にしたい」と書いていた。彼が不在のこの世界で、彼が遺した「場」をどうしていくのかは残された私たちにかかっているが、この点については僕は楽観視している。彼が育てた草の根は太く強い。それは僕が思っている以上だろう。
彼は常に地道で着実な方法で道を拓き、種を撒き、草の根を育て続けて来たように思う。そして彼が撒いてきた種はあらゆる場所で芽吹き、実り、花を咲かせている。そしてその花がまた新たな種を撒くのだろう。
この追悼文を書き上げるまでの時間を想定していたわけではないが、思ったより時間がかかってしまった。色々なことを思い出して手が動かなくなり、同時になぜか、黒いスーツはあるけどシャツとタイが無いなとか、この服装飯島さん気に入ってくれるかなとか、最後の挨拶なんて言おうかとか考え出して止まらなくなってしまった。ここまでに大きめのマグ2杯分のコーヒーを消費し、今3杯目に手を出しながら追悼文の締めくくりを考えている。
数時間後の式では次のような事を最後に伝えようと思う。
飯島さん、今までいろいろとありがとうございました。僕がそっちに行くのはもう少し先になりそうです(そうなる事を祈る)。つぎ会う頃にはそこはサウンドシステムでブリストル・サウンドが鳴り響き、抵抗のカルチャーが根付いている場所になっている事でしょう。また一緒にパーティーやったり抗議活動やったりしましょう。
Massive thanks and respect.
まだ信じられないけど
三田格
人当たりがとても優しく、マッチョなところがまったくない方でした。いつ会ってもゆったり構えていて、乱暴なことはいっさい言わない。ZERO自体がアット・ホームな場所だったけれど、音楽の話だけでなく、娘が熱を出したとか家族のことを話す時も実に楽しそうだった。小学生の娘が夏休みに店を手伝うと聞いた時は「労基法違反じゃないの?」と思わず言ってしまったけれど、「学校の課題でそれはありなんだよ」と、なんか得意げだったな。そんな家族が死によって引き裂かれてしまうのはとてもいたたまれない気持ちです。「レコード屋の親父」である前に、飯島さんには家族があり、政治の話をしていても、考え方のベースにはいつも家族があるという感じがしていたので。
江古田に店があった頃は行ったことがなく、下北沢に移転してから毎週のように行くようになりました(家から歩いて30分だった)。よく話すようになったのはワールド・ミュージックのことを訊いてからで、飯島さん自身はピーター・バラカンさんの本を読んでワールド・ミュージックに興味を持ったと言っていた(ので、バラカンさんにもZEROの存在を伝えて)。バンクシーの作品が無造作に置いてあるのはいつも気になってしょうがなかったけれど、僕の都合で定休日を変えてくれたことは誠に痛み入りました。おかしかったのはレコードストア・デイになるとアナログ盤はほかの店でよく売れるので、ZEROの店内は飲み会になってしまうこと。ビールやスナック菓子が飛び交い、この日は落ち着いてレコードを探すことができない。いつもジェントルな飯島さんがこの日だけは「てやんでい」みたいになっちゃって。
めちゃくちゃな店内だったけれど、「Township Funk」がヒットしたDJムジャヴァのアルバム(南アフリカ盤)まで売っていたのは驚いたな。〈ナーヴァス・ホライズン〉というレーベルを教えてくれたのも飯島さんだったし、ZEROで買ったモデュール・エイト『Legacy LP』は近年の宝物になっている。教えてもらうだけでなく、DJニガ・フォックス「O Meu Estilo」がすごくいいよと教えてあげたらすぐに気に入っちゃって、あちこちのディストリビューターに連絡を取りまくったあげく「入荷できなかった」とかなり悔しがっていた。スクウィーのブームが去って、どこにもダニエル・サヴィオの新作が入荷しなくなってしまった時は飯島さんに頼んで探してもらったら、本人だったかレーベル・オーナーだったかが「在庫切れだけどベッドの下に1枚だけあった」といって送ってくれたことも。飯島さんはブリストルだけじゃなく北欧にも顔が利くんですよ。エレキング本誌でブリストルのミニ特集を組んだ時も楽しかったな。飯島さんの撮ってきた写真がわかりにくくて、どんどん小さな扱いになって(笑)。せっかくまたブリストルがざわつき始めた時に、なにもそんな時に逝かなくても……。
イギリスの音楽には様々な側面がある。とはいえ、戦後の労働力不足を補うためにジャマイカから来た移民たちが音楽を通じてイギリスに与えた影響はとても大きく、ビートルズやクラッシュがレゲエを取り入れ、デヴィッド・ボウイやビョークがドラムン・ベースに手を伸ばしたことにもそれは表れている。昨年、アイドル・グループのリトル・ミックスが全米でヒットさせた「Bounce Back」もソウル II ソウルの「Back To Life」を再構築したものだし、ブリストルの音楽に通じているということはそのすべてとは言わないけれど、そのようにして変化・生成してきたイギリスの音楽でもかなり重要な部分を理解させてくれ、飯島直樹が日本に接続した「文脈」はその流れをほぼ同時に追える楽しみだったといえる。2ヶ月も迷い続けてようやくイキノックス『Bird Sound Power』を買った時、飯島さんは「それ、1枚も売れなかったんだよ」とニンマリ笑った。R.I.P.(安らかにお眠りください)
なぜ下北ZEROが偉大なのか
野田努
あれはたしか1998年のこと、なぜわざわざ江古田まで行ったのかはいまでもよく憶えている。当時、DJクラッシュがプレイするときの極めつけの1曲(北欧のトリップホップ)があって、それはどうやら江古田のZEROに売っているらしいと。その時代、渋谷は世界でもっともレコード店の密集している街であり、渋谷で手に入らないモノはなかった。だが、それだけは渋谷では手に入らず、情報筋によれば江古田にはあるとのこと。ZEROに行かねばならなかった。
当時のZEROは、下北時代のこの5年と違いじつに綺麗な店内で、まだブリストル臭もそれほどなく、ポストロックやトリップホップなんかが揃っていた。下北の店舗でいうと、入口を入って右側のすぐ奧が江古田時代の名残である。
90年代は、レコード店というのがひとつの事業として夢が見れた時代だ。当時は多くの店が誕生し、元からあった店は店舗を拡張し、とにかくレコード店は賑わっていた。ZEROもそんな時代に生まれたわけだが、当時の多くのレコード店が90年代初頭のハウスやテクノもしくはヒップホップを契機としていたのに対して、ZEROは後発組で、大衆音楽史で言えばポスト・レイヴ期に生まれている。細分化の時代であり、音楽がひとかたまりの力として成立しなくなった時代だ。ムーン・フラワーズという、UKではほとんど知られていないブリストルのバンドをきっかけにブリストルとの交流がはじまったZEROが、いわゆるマニアの集う専門店と化していったとしても当時の状況を思えば不自然ではない。
しかし何故かZEROは細分化された同好会のひとつに収束しなかった。飯島直樹にとってレコード店とは、客が入って好みのレコードをレジまで持っていって完結するという商業施設以上の意味を持っていたのだろう。そこは情報を発信してはシェアし、音楽シーンを面白くするのにどうしたらいいのか意見を交換し、そしてシーンに活気を取り戻すための拠点だった。店が下北沢に移ってから、ZEROはそれ自体がメディアであり、ムーヴメントを目論むための場だった。そして、それこそぼくが90年代初頭のレイヴの時代にロンドンで経験したレコード店文化の姿だった。
ぼくはよく飯島さんに冗談めかして「ここだけ日本じゃない」と言っていた。誰かに紹介するときも「ここは日本じゃないから」と説明した。その理由はもうひとつある。下北ZEROは、UKにはよくあるタイプのカウンター越しに会話しなければ良いレコードが買えないお店で、良いレコードをゲットするには飯島さんと対話しなければならない。これはコミュニケーションが下手な日本人相手には向いていない商売方法だろうし、アマゾンやコンビニがあれば良いと思っている人間には鬱陶しいだろう。いまや希少化しつつある商店街の八百屋みたいなもので、これが苦手でZEROから離れた人だっているはずである。まあ、綺麗ごとではないいろんな諸事情もあったのだろうが、結果としてZEROはそのやり方を通した。レコード店が事業としてたやすくなくなったとくにこの10年、逆境をバネにむしろどんどん磨きがかかっていった。とくにブリストルのシーンとは固い絆で結ばれていた飯島さんだが、彼が輸入したのはレコードという商品を売るだけではなく、その国の音楽文化のあり方まで表現していた。通っていた人は知っての通り、そこに政治性が含まれることもあった。UKに近づいたほうが日本の音楽シーンは絶対に面白くなるというのが彼の信念だったし、ぼくはそれに共感していた。UKの音楽シーンには、それが音楽に生気を与える場として絶えずアンダーグラウンドへのリスペクトがあり、またその根底には批判精神を決して忘れないパンク的なパッションがある。
オルタナティヴな共同体が複数生まれることが真の意味での多様性なるものだろう。飯島さんが移民文化との衝突によって磨かれたUKのダンス・カルチャーと接続したことと下北ZEROのあり方は完璧に合致している。こうした彼の精神は、ZEROやBS0に集まったDJたちにも確実に受け継がれているので、ぼくは決して悲観していない。今朝の静岡新聞の文化欄に飯島さんを讃える記事が載っていたけれど、飯島さん、あなたはそのくらいのことをやっていた。ありがとうとしか言いようがない。
思い出はたくさんあるが、最後にひとつだけ。おそらく2004年だったと思う。いつものようにふらり寄ったら飯島さんがいきなり爆音で音楽をかけた。「これ、むちゃくちゃ格好いい! 買います、なんていうアーティストなんですか」と訊いたら、差し出してきたレコードがワイリーだった。あれがぼくにとってその後の10年がはじまる合図だった。
生活世界ZERO
小林拓音
飯島さんにはこれまで何度も原稿やチャートをお願いしたり、話を伺ったりしてきた。それが ele-king というメディアにとってどれほど大きなことだったか、読者の方ならわかってくださると思う。
去年の4月もそうだった。ひとつまえの紙エレでは日本の音楽にフォーカスした特集を組んでいるのだけれど、この国の最先端の動向を把握するために、やはり飯島さんにも話を聞きにいった。そのとき、個人的な日本の音楽のオールタイム・ベストワンについてもお尋ねした。答えは G.RINA だったが、同時に宇多田ヒカルの『Fantôme』を挙げていたことも印象にのこっている。飯島さんのイメージとはかけ離れていたから。母が亡くなったときに聴いて、ものすごくヒビいたのだという。いま思えば、そのころから変化が起こっていたのかもしれない。
以降も何度かZEROを訪れているが、なぜか閉まっている日にあたることが多かった。なんやかんやで半年。ZEROに行ってきたという編集長が、オシアのカセットテープのことを教えてくれた。これはなくなるまえに買いにいかねばと、翌日ぼくもZEROに走った。ちょうど消費税の引き上げが実施されたタイミングで、同時にキャッシュレス決済の還元もはじまっていた。「うちもやることにしてね。クレジットカードのほうがおトクだよ」と飯島さんは苦笑いしていた。手続きを終えるとピロンと電子音が鳴り、スマホに領収メールが届いた。なんだかZEROに馴染まないなと思った。
さらにその一週間後。紙エレ最新号でダブ特集を組むことになっていたので、河村さんと一緒に飯島さんと打ち合わせをした。まさに飯島さんなくしては成立しえない特集だった。それが10月の下旬。そのときもまだ、大きな違和感のようなものはなかった。以後何度もメールのやりとりを重ねた。だから、年が明けてすぐこんなことになるなんて、思いも寄らなかった。
ダブやベース・ミュージックはもちろん、いわゆるグローバル・ビーツも扱っているのがZEROのいいところだった。これは三田さんが書いていることと完全にかぶってしまうけれど、極私的に大きな出来事だったのでどうしても書き記しておきたい。たしか初めてZEROを訪れた日のことだったと思う。DJムジャヴァの『Sgubhu Sa Pitori』と『Sgubhu Sa Pitori 3』が立てかけられているのを発見し、ぼくは目を丸くした。金欠であったにもかかわらず、迷わずカウンターに持っていった。南アフリカから直に仕入れたんだよと飯島さんは教えてくれた。けっこう苦労したのだという。日本でこの2枚を扱っていたのはZEROだけだろう。というか、ググればわかるように、海外のサイトにも見当たらない。そういう盤をいっぱい揃えているのがZEROだった。
そして、野田さんが書いているようにZEROは、たんにディープなレコード店であるだけでなく、地域商店のようなコミュニティ生成の場でもあった。階段をのぼるとたいてい先客がいて、飯島さんと語りあっている。そこで紹介されて知り合ったひともいる。ヴェーバー=宮台のことばを借りていえば、アマゾンやアップルのような「システム」ではなく、「生活世界」である。そのあり方は、利便性とひきかえにさまざまな個人情報を提供せざるをえないにもかかわらず、消費者の側がなにに奉仕させられているのかについては巧妙に隠蔽される「システム」的なもの、ハイテクな監視社会にたいするささやかな抵抗だったのかもしれない。「システム」すべてをひっくり返すことはできない。すでに「生活世界」だってそのなかに組み込まれている。でも、だからこそあえて、意識的に「生活世界」を構築していかなきゃいけない──そういうことを肌でわかっているひとだったんだと思う。ゆえに飯島さんは、クレジットカード決済を勧めるときに苦笑いを浮かべていたのだ。選挙があるたびに、投票に行ったひと限定で割引セールを実施していたのもZEROだった。アマゾンやアップルにはぜったいに真似できないことだ。アンダーグラウンドは、そういう代替不可能な、かけがえのないひとの手と志によって支えられている。
ピロンと電子音の鳴った日は、たまたま誕生日だった。なくなるまえに入手できたこと、飯島さんが丁寧に説明してくれたこと(サックスのオリー・ムーアはピッグバッグのあと、レッド・スナッパーの作品でも吹いていたひとだ)、それに還元の件もあってすこしトクした気分になっていたぼくは、それをじぶんへのプレゼントにすることにした。ふだんレコードを買うときよりも、なんだかうれしかった。ポイントは還元できても、そういう類のうれしさを「システム」は供給できない。今後オシアを聴くたびにぼくは、飯島さんとZEROのことを思い出すだろう。