「Ord」と一致するもの

DJ Doppelgenger - ele-king

 先日マーラは、ペルーを訪れ、現地のミュージシャンとの出会いをまとめたアルバムを発表したが、埼玉を拠点に活動するDJドッペルゲンガー氏も旅するダブステッパーで、彼の音楽には彼が旅で経験したアジアが散見される。2012年にアルバム『paradigm shift』でデビューして以来、インドやタイをまわり、また日本の地方のいたるところをDJで訪ねている。ドッペルゲンガー氏は、この度、ドラマーの武田充貴とTHEUSなる新プロジェクトによるアルバム『 Just to of THEUS』を自身のレーベル〈GURUZ〉よりリリースする。これがなかなかの作品で、強力なドラミングとハイブリッドなセンスが、ベース・ミュージックを別次元のところに押し上げている。
 またリリースにともなって、全国20箇所のツアーをおこなう。近くの方は注目して欲しいっす。

THEUS [ Just to of THEUS ] Release tour 2016

7/9 clubasia 東京-Tokyo
7/10 戦国大統領 大阪-Osaka
7/30 triangle 大阪-Osaka
8/11 ヒソミネ 埼玉-Saitama
8/12 NALU 茨城-Ibaragi
8/13 FREAKY SHOW 静岡-Shizuoka
8/14 OCTBASS 筑波-Tsukuba
8/27 蔵王龍岩祭 山形-Yamagata
9/2 Venue 長野-Nagano
9/3 Django 金沢-Kanazawa
9/9 DOPE 岩見沢-Iwamizawa
9/10 DUCE 札幌-Sapporo
9/21 LOVEBALL 沖縄-Okinawa
9/24 ビッグハート 出雲-Izumo
9/25 印度洋 山口-Yamaguchi
9/30 FLAVA 町田-Machida
10/1 SPICE DOG 伊豆-Izu
10/14 graf 福岡-Fukuoka
10/21 Club No.9 岡山-Okayama
10/29 OPPA-LA 神奈川-Kanagawa

7.9 SAT
ASYLUM「THEUS 1ST ALBUM-Just to of THEUS-Release Party」
@clubasia
Door:3000yen W/F:3000yen/1D ADV:2500yen/1D(clubberia)

◎MAIN FLOOR
THEUS
NOGEJIRO(NOGERA&KOJIRO)feat ブラボー小松
O.N.O a.k.a MACHINE LIVE (struct,TBHR)
KILLER BONG DJ SET (Black Smoker Records)
刑⚡︎鉄(ロベルト吉野&高橋'JUDI' 渓太)
Dr.WAXMAN
RAW a.k.a ACID BROTHERS

DECO:〼(meL-hen)
VJ mitchel

◎SUB FLOOR
THE 天国畑JAPON
The↑↓←→
ソリドリズム(DJ 識+武田充貴)
AKI PALLADIUM
TERUBI
FASHION HEALTH

VJ GENOME
TV DECO:Okabe Yuki+TeT(FRASCO)
LIVE PAINT:HISA

◎B1F
Tamotsu Suwanai (Wax Alchemy)
Reina×massive
mig×HI≒RO
PRETTY PRINCE×SECRET-T
kilin
yuitty

THEUS ART EXHIBITION:JAMY VAN ZYL,RURICO TAKASHIMA
占い:霹靂火龍角
出店:神眼芸術
KARMA SUTRA

 


THEUS - Just to of THEUS
GURUZ
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KiliKiliVilla - ele-king

 最近ele-kingは90年/91年生まれあたりの人たちに注目しているんですよね、というか、ふと気がつけば、この世代に才能が集中しているんじゃないかと。バブル期に生まれ、日本経済の衰退とともに思春期を迎え、3.11を20歳あたりで経験した、現在20代半ばの人たち、KOHHとか、トーフビーツとか、キャンディタウンとか……。PCやネットをツールとして使えている世代でもあり、それ以前とは、音楽の吸収のスピード/幅広さに違いを感じる。ワイキキ・ビート/デイグローはこのちょっとこの下だが、やはり彼らには、昔とは違った感覚で、世界を身近に感じているフシがある。まあ、世代で括るのも善し悪しだけど、でもなんか、90年/91年生まれは面白いんですよね。
 NOT WONKはさらにまた若い。つまりそれだけ可能性の塊ってことです。NOT WONKは90年/91年世代と比較すると、圧倒的にエモーショナルなギター・サウンドに特徴がある。北海道という土地柄も関係しているのだろうか、その感情的な高まりが同世代の共感を生んでいるのだろうか、とにかく盛り上がっています。
 好調〈キリキリヴィラ〉レーベルから早くも2作目が出ました。『This Ordinary』というタイトル。若者はチェックね。そう、若者は30歳以上の話なんか信じるなよ。

 もうひとつ情報です。同レーベルのもひとつの看板バンド、LEARNERS(強力な女性ヴォーカリストを擁するロックンロールなどのカヴァーをしているバンドで、全国のライヴハウスで熱狂的に迎えられている)。彼らの写真集も刊行されました。

NOT WONK - THIS ORDINARY
KILIKILIVILLA

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Absolute Learners

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DUBKASM - ele-king

 ダブカズムのストライダとディジステップは、ブリストルを拠点に90年代からダブ/レゲエのシーンで活動してきた。世代的にはスミス&マイティの後輩、ピンチやペヴァラリストの先輩である。ストライダはセレクターとしてクラブやラジオで活躍。相棒のディジステップは楽曲のプロダクションを行うだけではなく、音楽学校で教鞭も握っているという。
 グッド・バランスなコンビネーションは、ダブステップ世代のプロデューサーたちにも影響を与え、その交流からも数々の名曲が生まれた。ストライダの海賊ラジオを聴いてルーツについて学んだブリストルの若手チーム、ゴーゴン・サウンドのEPを、ダブカズムがまるまる再構築した『ザ・ヴァージョンズ』や、ふたりが生み出したアンセム“ヴィクトリー!”のマーラによるリミックスは、シーンにおける近年の名作だ。
 ブリストルが素晴らしい音楽が生み続けるのは、もちろんそのユニークな環境も理由のひとつだろうけど、彼らのような、世代やスタイルを超えていけるセンスと姿勢を持ったミュージシャンたちによるところも大きい。今回お届けするインタヴューは、ブリストルにおけるダブ/レゲエやダブステップ黎明期の貴重な証言であるだけではなく、音楽と人との関わり方を再考させる言葉で溢れている。
 2016年の2月、ダブカズムのふたりは初の日本ツアーを行い、“ヴィクトリー!”は合唱を巻き起こした。以下の取材は、ツアーも終盤に差し掛かった相模原公演でのリハーサルをぬって行われた。

Dubkasm /ダブカズム
DJ StrydaとDigistepによるイギリス、ブリストルを拠点に活動するレゲエ/ダブのユニット。15才の頃に地元ブリストルで体験したJah Shakaのセッションで人生を変えられ、サウンドシステム文化に没入していく。以降、20年以上に渡りトラック制作/ライヴ&DJ/ラジオ番組などでシーンに関わり続けている。そのトラックはJah Shaka、Aba Shanti-Iらのセッションでも常連で、昨年リリースの「Victory」はここ日本でもアンセムと化している。09年に発表したアルバム『Tranform I』は高い評価を受け、全編を地元の盟友ダブステッパーたちがリミックスしたアルバムも大きな話題となった。最近ではMalaやPinch、Gorgon Soundらとの交流も盛んで、ダブをキーとした幅広いシーンから厚い信頼を獲得している。2016年2月、待望の初来日を果たした。


Photo Credit: Naoki E-jima

1993年に事件が起こる。レコード屋へ行ったら、壁にジャー・シャカのイベント告知のポスターが貼ってあって、そりゃ行くしかないと思って会場に直行した。あれが人生初のサウンドシステム体験で、いま自分たちがやっていることの素地となっているのは間違いない。

■:初来日、おめでとうございます。まずは簡単に自己紹介をお願いします。

ディジステップ(Digistep以下、D):僕はディジステップで、隣のストラライダと一緒にダブカズムというユニットをやっている。人生のほとんどを音楽のプロデュースに捧げてきた。それが今回の来日に繋がったんだから、すごく誇りに思うよ。

ストライダ(Stryda以下、S):俺はストライダって名前で、ダブカズムのふたりのうちひとりを担当。もうひとりはベン(ディジステップ)。いままで訪れたことがない国の知らない街で、自分の音楽をやれて、とてもエキサイティングだ。

■:現在、ふたりともイングランドのブリストルを拠点に活動されています。どんなきっかけで音楽を作るようになったんですか? 以前のインタヴューで、ジャー・シャカのギグから大きな影響を受けたとおしゃっていました。

S:たしかにあの夜は自分たちのインスピレーションになったのは間違いない。OK、時系列をもっとさかのぼってみよう。俺とベンの出会いはお互いが生まれる前だ。妊婦のママさんクラブみたいなのがあったんだけど、そこで俺たちの母親が妊娠中に出会っているんだよ。それでお互いが生まれてから数日で顔を合わせていたらしい(笑)。だから文字通り、俺たちは生まれたときから友だちなんだよね。それで後ほど、偶然にも同じ音楽を好きになって、90年代には一緒に地元ブリストルのレコード屋巡りをしていた。ベンは特にダブのLPを集めるのに夢中になっていて、俺はどっちかっていうと、ダブの7インチと12インチにハマってた。で、1993年に事件が起こる。レコード屋へ行ったら、壁にジャー・シャカのイベント告知のポスターが貼ってあって、そりゃ行くしかないと思って会場に直行した。あれが人生初のサウンドシステム体験で、いま自分たちがやっていることの素地となっているのは間違いない。

■:93年というと、ジャングルやドラムンベースも当時のイングランドで大きなムーヴメントになっていたと思います。ダブやレゲエと並行して、それらのシーンにも興味はありましたか?

S:もちろん。あの時代をブリストルで過ごせたっていうのはラッキーだったね。街の規模が大きいわけじゃないから、周りには異なる音楽のスペシャリストたちがたくさんいて、いろいろ学べた。それに91年にマッシブ・アタックが『ブルー・ラインズ』を出して大きな存在になったときに、地元からあんな音楽が出てきてすごく興奮していたんだ。
 ジャングルに出会ったときもよく覚えてるよ。ブリストルにも海賊ラジオがあって、特定の時間、特定の場所で電波をチューニングすれば、スピーカーから聴いたこともないアンダーグラウンド・ミュージックが流れてきていた。俺のお気に入りはルーツ系の番組だったけど、ラガの番組やジャングル、レイヴ系のものまであったからチェックしていた。もちろん、全部の番組がブリストルのDJによるものだ。ベン、やっぱあの環境は良かったよな?

D:間違いない。僕の場合はジャングルも聴いていたけど、もっと折衷的な音楽の聴き方をしていたね。もちろんダブはいつも自分のパッションの源だけど、幼いころから親父の故郷のブラジルの音楽にも慣れ親しんできた。ボサノヴァ、サンバ、ショリーニョ、ムジカ・ポプラール・ブラジレイラとかね。それと同時に音楽の技術的な側面にも興味があった。8歳ときに両親がヤマハのシンセサイザーDX11を買ってくれて、独学でプログラミングを勉強したよ。マニュアルには日本語も書いてあったのが印象的だったね(笑)。

■:当時、シンセサイザーを弾くことは一般的だったんですか?

D:必ずしもそうじゃなくて、ハイテクなものだって見なされていた。だから、自分をクリエイティヴな方向に導いてくれた両親には感謝しきれないね。ダブカズムの初期の曲にはDX11で作られたものもある。シンセをやっていたせいもあって、実験的な電子音楽も当時から聴いていて、エイフェックス・ツインももちろん通ったし、ザ・フューチャー・サウンド・オブ・ロンドンやオーブが大好きだった。そこで得た経験は、いまもプロダクションに欠かせないね。当時からテープレコーダーをタンスの上に乗せて録音してたよ(笑)。昔からダブも制作していて、作った曲をストライダに聴かせてフィードバックを貰うことも、そのときからの習慣だね。

■:お互いずっとご近所に住んでいたんですか?

S:いや、そんなわけでもないよ。学校もいつも同じだったわけじゃないし、お互い違った友人付き合いもあったけど、週末はほぼ一緒に音楽をやっていたって感じだ。

D:一緒に休日を過ごしたりね(笑)。

S:そうそう(笑)。ベンが言ったように、彼はかなり初期の頃からベーシックなダブ・トラックを作っていたんだけど、僕はそれを聴かせてもらっていた。まだ当時は曲を聴かせ合うフォーマットはカセットで、ウォークマンで歩きながらよく聴いていたな(笑)。もちろん会ったときに口頭で感想を伝えたりもしたけど、たまに手紙で意見を言ったりもした。「このベースがヤバい!」とかそんなことだったけどね(笑)。

D:スネイル・メール(注:ハガキなどの時間がかかる伝達手段)でそんなことを言っていた時代もあったね(笑)。

■:僕は若手のミュージシャンにインタヴューをすることが多いのですが、彼らの多くはスマホを使って、曲のやりとりは大体ネットを経由して行っています。少なくとも手紙を使って音楽のやり取りしたことがある人には会ったことがありません(笑)。当時はいまほどコンピュータも普及していたわけではなかったと思いますが、そのような環境を振り返ってみてどう思いますか?

S:まぁ、オールド・スタイルだったよね(笑)。90年代はコンピュータを取り入れたりはしていなかったから、プロダクションにそれなりの時間を要したけど、その分感じられる成果も大きかった。いまはテクノロジーが進歩して、プロダクションそのものだけではなくて、いま言ったように、それを取り巻く環境も大きく変わったのは事実だ。でも当時俺たちがやっていたことには、「効率の良さ」の一点には収まりきらないものがあると思うんだ。カセットに曲を焼いて、ラベルを貼って、誰かに送ること。それからサウンドシステムのイベントで、素晴らしいシンガーに実際に会って、デモテープを交換して、次のセッションに繋げること。時間はかかるけど、そうやって音楽だけじゃなくて、友だちのサークルもできていったわけだ。予想外の出会いも多かった気がするし、そうしてできた繋がりって長続きするもんなんだよ。

D: 90年代のエディット作業っていまとは比べものにならないくらい面倒なものだった。いまは音源がソフトになっているけど、前はひとつひとつのハード音源の使い方を覚えるところからはじめきゃいかなかったからね。一個一個の機材をつなげて、それに対応するMIDIのコントロール・ナンバーとパラメーターを割り振って……。それからいまみたいに、機材の動作を完璧にコントロールすることができなかったから、良い意味では偶然性が生まれたし、生のダブ・ミックスの醍醐味も大きかった。まぁ、逆に言えば機材の動作を記録するのが難しいってことなんだけどね。でもいまは、オートメーション機能を使えば、エフェクトのノブの細かい動きでさえも完璧に再現できて、操作がかなり簡略化されている。というか、昔の経験があったから簡単に見えるんだろうね。90年代にハードに慣れ親しんだことによって、いまみたいなデジタル機材が多い環境でも、機材の動きを把握できていることは間違いないし、コンピュータを併用しつつ、いかに偶発的なことをするかという姿勢も身に付いたのは間違いない。いまでもハードを使ってライヴ・ミックスができる環境は整えてあるからね。

■:さきほどおっしゃったブリストル・シーンの良い意味での狭さは、現在にも引き継がれていて、カーン&ニークといった若い世代のプロデューサーたちとも交流する機会が多いと思います。「デジタル・ネイティヴ」とも呼ばれる世代と話していてギャップを感じることはありませんか?

D:テクノロジーの面で言えば、ギャップを感じることは多々あるよ。僕はシーケンサーにアタリのSTeを使っているんだけど、これには文字通りシーケンサー機能しかついていないから、外部の音源と繋げる必要がある。でもいまって、シーケンサーとソフト・シンセが一緒になっているのが当たり前でしょ? だからそれについて説明すると驚かれたりするね(笑)。

S:でも次世代と繋がるのはかなり面白いよ。俺たちだって、ルーツのシーンでは若手だったけど、成長して先輩格のプレイヤーたちと交流や、彼らのリミックスの作業を通して、知識を増やしていったわけだ。そういう立場にいまの自分たちがいればいいんだけど(笑)。

D:真のミュージシャンやプロデューサーになるためには、常に新しいことに心を開いていなきゃいけない。それまでの経験の有無に限らずにね。じゃなきゃ、音楽的にも人間的にもフレッシュでいることなんてできないよね。だから若い世代にも謙虚に接するべきだと思う。

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大量のダブプレートを用いたマーラのプレイや、ポークスのMCを見ていて、完全にピンときたよ。「これは自分たちが携わってきたサウンドシステム・カルチャーの一部だ」ってね。

■:僕がダブカズムを知ったきっかけは、ダブステップのプロデューサーたちも参加していたリミックス・シリーズ、『Transform I – Remixed』でした。2000年代初期にダブステップが出てきたとき、あなたたちはどのように反応したのでしょうか?

S:たしか2004年から2009年の間、ベンはまだブラジルに住んでいたんだよな。俺はブリストルにいたから、ダブステップが現れた瞬間をしっかり目撃することができた。もともとプロデューサーのピンチとは友だちだったんだけど、彼に誘われてイベントによく行っていたよ。あれは彼のイベント、サブローデッドだったかな。とにかく小さいハコだったんだけど、マーラとサージェント・ポークスも出ていて、禁煙法が施工される前だったからクサを吸っているやつも多かった。そんなダークな空間で、大量のダブプレートを用いたマーラのプレイや、ポークスのMCを見ていて、完全にピンときたよ。「これは自分たちが携わってきたサウンドシステム・カルチャーの一部だ」ってね。ダブステップのサウンドは多様だから、レゲエと音楽的にまったく同じだとは言わないけど、文化的な意味ではレゲエ、そしてジャングルやドラムンベースの延長線上にあるのは間違いない。DJがいてMCがいて……、このスタイルはジャマイカに端を発するものだからね。それに、新しい音楽が生まれて、そこに若いやつらが踊りに来るのは、とても健全なことに思えた。
 2007年にはピンチといっしょにティーチングス・イン・ダブというイベントを同じハコでやるようにもなった。あれはブリストルのシーンにとってかなり重要なことだったと思う。あの当時はダブステップ目当てにクラブへ行く人が多かったんだけど、俺たちのイベントは2階構造になっていて、上の階はダブステップのフロアで、下ではレゲエのルーツサウンドが流れていた。多分あの試みは初めてだったんじゃないかな。サウンドシステム・カルチャーという括りのなかで、ダブステップのルーツを提示したわけだ。その現場に来ていたのが、カーンとニークだったりしたんだよね。


ティーチズ・イン・ダブのフライヤー。同クラブの別フロアではピンチ主催のイベント、サブローデッドが行われていた。

よく若い世代から、「ダブのBPMって何ですか?」って訊かれるんだけど、そんなものないよ(笑)。

D:音楽的には、低音を強調する点においてはレゲエやルーツに共通するよね。あえて違う部分を言えば、ダブステップのプロデューサーはテンポに縛られ過ぎているように思える。よく若い世代から、「ダブのBPMって何ですか?」って聞かれるんだけど、そんなものないよ(笑)。僕はブリストルにあるdBsミュージックという学校で音楽テクノロジーを教えていて、学生の多くはダブステップ的なアプローチをしてくるんだけど、彼らはジャンルのルーツであるダブに強い関心を示すんだ。僕はデジタル技術だけには収まらない方法、例えばミックスに外部の機材を使ったりするダブの手法を教えると、パソコンに慣れ親しんでいる学生たちでも、それを貪欲に吸収しようとする。ライヴだけではなくて、制作の現場でも次世代との繋がりできるのは嬉しいね。なかには「ダブプレートってどこでどうやったら切れるんですか?」って質問をしにくる学生もいて、デジタル時代のなかでもダブの手法は残ることは可能だって実感した。

S:90年代のブリストルにおけるジャングル・シーンについて補足すれば、ジャングルにダブやレゲエの影響を見ることはできたけど、その逆はほとんどなかったと思う。さっき言ったようなティーチングス・イン・ダブみたいなイベントもなかったからね。当時は各シーンがいまよりも分離していて、その状況を変えようという意味でも、俺たちはそれとは逆のベクトルへ進んで積極的に異なるものをミックスしようとしたわけだ。

■:いまよりもシーンに隔たりがあったのは驚きでした。では、ダブステップが現れる前は、おふたりはレゲエやダブのイベントにだけ出演していたんですか?

S:最初の頃はベンといっしょにプレイすることはあんまりなかったんだよね。ベンは勉強のためにロンドンに住んでいたし、そのあとにはブラジルにしばらく引っ越していたからさ。だからふたりで頻繁にツアーをするようになったのは、2009年以降なんだ。だから2000年代の最初の頃は、俺はストライダ名義でダブのセッションに出ることが多かったよ。それから当時はブレイクビーツのシーンもあったりして、そういうイベントでプレイしていた。

■:最初にふたりでやったライヴを覚えていますか?

D:初めてのショーは、僕の通っていた大学でのライヴだったよね? 98年頃のことだ。ストライダはその頃、僕に会いにロンドンによく来ていてね。会場は大学の学生バーだった。誰もダブのセッションがはじまるなんて予想していなかったな(笑)。シンセやサイレン装置をバーのテーブルの上に設置して、サムはテープを準備していた。

S:そうそう(笑)。それでロンドンから帰ってきてから、俺はそのライヴの録音をブリストルの海賊ラジオで流したんだ(笑)。それを聴いたヤツからは「お前はロンドンを完全に自分たちのモノにしてるな!」って言われたくらい、その録音はヴァイブスを捉えていた。たぶん、あれが学生バーでのライヴだったってことは気づかれなかったんじゃないかな(笑)。

■:そのときはいまと全く同じスタイルでライヴをやっていたんですか?

S:俺は曲を流してベンがサックスを吹いていたから、いまとあんまり変わらないよ。

D:その時もさっき話したヤマハのDXを使っていたね。


大学で行われたライヴのフライヤー。当時はダブチャズム名義で活動していた。本人たちのフェイスブック・ページより。

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(海賊ラジオは)イリーガルな行為だから、アンテナやレコードを常に隠していなきゃいけないし、おまけに放送場所も変えなきゃいけない。でもそこまでして、アンダーグラウンドな音楽が流れるプラットフォームを作る価値はあったね。

■:DJに合わせてサックスを吹くというアイディアはどう生まれたのでしょうか?

S:俺はもともとストライダとして、レゲエのセレクターをやっていたから、マイクを使うことには慣れていた。厳密なミックスをするわけではないから自分のことはDJとは呼べないかな(笑)。このスタイルでライヴをするのは、かなり自然な成り行きだった。
ベンはサックスだけじゃなくて、ギターを入れたり、エフェクトを使ったり、当時からいろいろやっていたよ。でもライヴでそのスタイルになったのは、かなり自然なものだった。それから俺たちの名前がダブカズムなように、ダブ、つまり7インチで言うならB面のヴォーカルが入っていない曲にフォーカスをしているから、ベンがメロディを作る余地があることも大きいかもしれないな。

■:ディジステップさんは自身のプレイにおいて、即興性をどのように表現していますか?

D:メインのメロディを別にすれば、すべて即興だね。僕は昔から耳コピを通して音楽を習得してきた。幼い頃はお母さんが弾くピアノを聴いて、メロディを作る練習をしていてね。だから流れている曲のキーに対して、自分で要素を付け足すのは早いうちから習慣化されているんだ。いまでもその延長線上でサムとセッションをしている。

S:90年代にロンドンの伝説的なダブ・セッション、ブリクストン・レックに出たことがあってね。そのオペレーターであるアバ・シャンティアイ(Aba Shanti-I)のセットにベンはサックスで参加していた。ものすごく凶暴なサウンドシステムであるにも関わらず、ベンはちゃんとキーを拾ってプレイできていたんだよ(笑)。ハードなダブに合わせてスウィートに吹けるのが、彼の素晴らしいところだと思う。

D:シャンティアイのバンドでもプレイすることがあったんだけど、ものすごい体験だったよ。正しいフィーリングで吹くにはどうするのか、どう即興するのか、プレイ中何を聴くべきなのか、とても勉強になった。レゲエのプレイではかなり具体的なイントネーションが求められるからね。

■:ストライダさんは地元のブリストルをベースにしたラジオ番組『サファラーズ・チョイス・ショー』でも活躍されています。

S:『サファラーズ・チョイス・ショー』は1996年に、ラガFMっていうところから放送を開始して、それからパッションFM、サブFMに移動して、いまはオンラインで聴ける。ブリストルという街でラジオを長く続けるにはどうすればいいのかって考えながら続けているよ。

■:海賊ラジオもやっていたということは、放送に必要なアンテナなども持っていたんですか?

S:もちろん! あれはエキサイティングな体験だったよ(笑)。イリーガルな行為だから、アンテナやレコードを常に隠していなきゃいけないからさ。おまけに放送場所も変えなきゃいけない。でもそこまでして、アンダーグラウンドな音楽が流れるプラットフォームを作る価値はあったね。そのリスナーがカーンだったりして、彼はダブやレゲエについて勉強になったと言っていた。次の世代に音楽を伝える役割も果たしていたわけだ。いまでは世界規模で配信ができるわけだけど、ローカルにおいても海賊ラジオの存在は重要だと思う。でも『サファラーズ・チョイス・ショー』がオンラインで聴けるようになって、俺のリスナーが増えたことは間違いないし、それはすごいことだ。ブリストルと世界が繋がったってことでもあるからね。

■:2013年にリリースされた“ヴィクトリー!”は、今回の来日公演でもオーディエンスの合唱が起きていたように、大きなヒットとなりました。2015年にはマーラによるリミックスも話題になりましたが、どのような経緯で彼のリミックスを出すことになったんですか?

S:ベルギーでショーをしたときに、マーラと偶然出くわしたことがあってね。同じユーロ・スターに乗っていた。俺たちダブカズムはベルギーへ向かっていて、彼は自宅のあるブリュッセルに帰る途中だった(笑)。その前にもクラブで話したことがあったんだけど、そのときは音が大きかったらちゃんと話すことができなかったから、初めて真剣にいろいろ話すことができたんだ。それですごく共感してね。俺もマーラも子供がいるから、音楽の話もしたけど、主に子育てについて語り合っていたよ(笑)。そういう友人関係からスタートして、いっしょにセッションをするようになった。“ヴィクトリー!”のリミックスを誰かに依頼しようと考えていたんだけど、マーラは理想的な人物だった。レゲエのバックグラウンドもあるし、俺は個人的に彼をダブステステップのジャー・シャカだと思っている。それでリミックスを依頼した。マーラがリミックスするのはすごくレアだから、上手くいかないかもって思ったりもしたんだけど、依頼していたら1年後に曲がフルで送られてきて、嬉しかったね。マーラに限らず、リミックスで再解釈されるっていうのは面白い体験なんだけどさ。彼のレーベル〈ディープ・メディ〉のファミリーたちともパーティで知り合えて、とてもエキサイティングな関係だよ。

Victory - Dubkasm (Mala Remix)

■:それでは最後に、日本のオーディエンスにコメントをお願いします。

D:日本の文化や出会ったものにすごく愛着を感じている。訪れた場所と、そこで活動するミュージシャンたちも素晴らしくて尊敬しているよ。これなでいろんな場所を回ってきたけれど、日本はそのなかでもかなりユニークだね。自分たちのツアーに関わってくれた人々、とくにBS0のクルーに感謝したい。こんなマジカル・キングダムに呼んでくれてありがとう(笑)。

S:好きな音楽を追っている人々の姿は、いつも俺にインスピレーションを与えてくれる。俺たちはブリストルで育ったから、あの街で起きていることはいたって自然なことなんだけど、日本に来てみたら、俺たちの活動やブリストルのシーンはすごく固有なんだって気づかされた。自分たちのやってきたことを、こういう形で共有することができて大変嬉しいね。『おでんくん』から日本の家族まで、体験した文化すべてが素晴らしかった(笑)。これから先、何年もこの体験を思い出すことになると思う。ありがとう!

取材協力:BS0

KANDYTOWN - ele-king

 1,2,3,4、5,6……、いったい何人いやがるんだ!? 世田谷の喜多見を拠点に結成されたヒップホップ・クルー、キャンディタウン。16名の大所帯。ラッパー、DJ、ビートメイカー、フィルムディレクターいろいろ担当が分かれている。今年に入ってアルバム『Soul Long』を発表したIO(https://www.ele-king.net/interviews/004976/)もメンバーのひとり。
 キャンディタウンは、20年ぶりのブーム(?)と言われるヒップホップ・シーンに登場した、最高にクールな注目株。彼らはついにメジャーのワーナーと契約した。
 キャンディタウンの良さは、まずはスタイリッシュであること。内面を掘り下げるのでもなければ、格差社会を背景にもしていない。とにかく、音楽で格好付けてるヤツら。それがゆえに反発もあるだろうし、しかしそれがゆえに共感もあるのだ。さて、いったいどんなアルバムになのだろうか……(リリース日などの情報は、彼らのホームページで発表されることになっている)
 紙エレキングのVOL.18では、アルバムにも関わり、クルーとは保育園/小学校からの仲であるオカモトレイジ(OKAMOTO'S)と気鋭のライター、泉智によるキャンディタウンをめぐる対談があるので、そちらもどうぞお楽しみに!


【LIVE/EVENT INFORMATION】
イベント名:新宿LOFT 40TH ANNIVERSARY FES「東京STREET 2016」
日程:2016年7月29日(金)
時間:OPEN 18:00 / START 19:00 / CLOSE 5:00
会場:東京都 新宿LOFT
出演者:ATOM ON SPHERE / BAD HOP / Creepy Nuts(R-指定&DJ松永)/ FINAL FRASH / KANDYTOWN /
smorgas / THE冠 / 電波少女 / 餓鬼レンジャー / ラッパ我リヤ / and more

https://kandytownlife.com/

【KANDYTOWN プロフィール】
東京の街を生きる幼馴染たち、総勢16名のヒップホップ・クルー。
2014年 free mixtape「KOLD TAPE」
2015年 street album「BLAKK MOTEL」「Kruise」
2016年 ワーナーミュージック・ジャパンより1stアルバムをリリース予定。


追悼・蜷川幸雄(後編) - ele-king

 前半では、おもに、蜷川幸雄さんと歌手としてのわたしについて書いた。後編では、女優として、蜷川さんの現場に立ったときの、思い出と感じたことを書こうと思う。そしてその後のことも。

  蜷川さんが、チェーホフの「三人姉妹」の、三女イリーナの役を、とオファーをしてくれたときは、天にも昇る気持ちであった。まさか、というか。メインキャ ストだったし、わたしにも、京子やアイドルの方のような華があるのかと、恐る恐るだが思えたし。そのときは、まだ緊張というものはなかった。劇場は今はなきセゾン劇場で、小劇場で演劇をやっていたわたしには、大きく感じた。それくらいのキャパの劇場は、歌手としてなら、幾らもあったが、マイクを使わない、 というのは全く違う。そして、ふと思った。
 蜷川さんは、大きな賭けをなさったんだ、と。わたしを大きな舞台で使う、という(経験でいうと、子役のときに新橋演舞場で出たことがあっただけであった)。しっかり応えなければ、と心で深く思った。
 だが、結論から言えば、うまくできなかったのだ。リアリティーを追求すれば、後ろまで、きっちり通るでかい声が出ない。でかい声を出せば、リアリティーに欠ける。よくある葛藤である。
 しかし、蜷川さんは、決してわたしに
「もっと大きな声で」と注意はしなかった。それどころか、当時、蜷川さんが『鳩よ!』で連載していた対談の連載に、わたしを呼んでくれて、そこでわたしの演技を
「本来の演劇の文法からははずれているけど、僕はあなたの演技を、全面的に肯定しているよ」
とまで言ってくださった。本当に嬉しかった。
 と、いうのも、やはり、現場に入ると緊張感が半端なかったからだ。リアリティーを優先してしまって、大きな声が出ないことも、自覚していたし。

  蜷川さんに、わたしは、一度も怒鳴られることはなかった。わたしが信頼している舞台演出家のうちの別のおひとかたも、怖いとか怒鳴るとかで有名だが、おふたかたとも、怒らないでくれたのは、わたしが無駄に緊張して萎縮し、のびのび演技ができなくなってしまうから、という理由もあるのでは、と思っている。必ずしも、愛され、かわれてる役者ほど、怒鳴られるとは、限らないと思う。
 ちなみに、信じている演出家を具体的に誰、というのではなく、こうしてぼかすことも、人間としての蜷川さんから影響を受けたことなのだ。「インタビュアーに、また一緒に仕事をしたいと思う役者をあげてください、といわれても 僕は答えないことにしている。そこに入ってない役者さんは嫌な想いをするだろうから」とおっしゃっていたのが印象的で、そういう細やかな配慮を、わたしもしなくちゃな、と人間として尊敬し、学んだからだ。

 舞台稽古の初日のことである。わたしは、ベテランの役者さんたちと顔を合わせたことだけで、プレッシャーを感じ、顔合わせが終わってから何気なくリハーサルのすみで壁に向かって、しゃがんでいた(わたしは、気をぬくと、よくしゃがむ癖があった)。蜷川さんは、わたしのところにきてくれて、寝釈迦のように横になった。そして、個人的に話をしてくれた。お芝居の稽古に入ると、それまでと違い、わたしに対して敬語じゃなくなって、それも、よそよそしくなくて、嬉しかった。そして、
「僕はね、戸川さんに、緊張して怖がっちゃうのでなく、逆に、このリハーサルスタジオに来るのが楽しみになってもらいたいんだよね」笑顔の寝釈迦の状態で、そう言ってくれて、わたしはすごく、リラックスできた気がした。

 しかし稽古が始まると、勿論、そういう訳にはいかなかった。なにしろ蜷川幸雄の現場である。

 蜷川さんは、セットの模型を触りながら、
「こうして こうして」
 と、カーテンだらけのセットのカーテンがどれもフワーッと内側に向かって風に揺らいでいる説明をキャストとスタッフにした。まるで、少年のように、わくわくしながら、という感じであった。本当に、本当に、お芝居を作るのが楽しくてしかたない、という風に。アイディアを語っているときの蜷川さんは、目がキラキラしていた。それから、一番後ろの暖炉のセットの上のほうに、誰かはよくわからないくらいのあまり目立たない程度の大きさの、三人の姉妹の亡くなったお父さまのモノクロ写真を立派な額に入れて飾っておくのだが、それが新劇の父、スタニスラフスキーの肖像写真なんだ、過去の人だからね! といたずらそうにニコニコと嬉しそうに言った。
 そして、よりいっそう目を輝かせて、蜷川さんは言った。
「セゾン劇場には、舞台と客席の間に、防火シャッターがあるんだ。」
 長女役の有馬稲子さんの、この劇の、最後のセリフ
「100年後、きっとこういうことで苦しむ人はいない世界になっているはず、そう信じましょう!」といったふうなセリフのあと、いや、100年経っても現代の世の中はこのお芝居と変わっていやしない、この話は古典ではなく現代にも通じる、この三人姉妹が抱いた100年後への希望は打ち砕かれるのだ、という現実の残酷さを表現する為に、すごい音を立てる防火シャッターを降ろしてピシャン! と閉めたいんだ、と、いう。
「だけど、今のところ、目的が防火以外には使えない、というんだよ、頑固だよなー、俺はそこをなんとかするつもりなんだよ!」と続けた。そんな情熱的な蜷川さんを見るのは、皆、好きだったと思う。

 お芝居は、全部で四幕あった。最初のシーンは、わたしが演じる三女イリーナの、今の日本でいう誕生日のような日に、次々と人がお祝いにやってくる、という設定になっていて、それが登場人物紹介、にもなっていたのだと、わたしでなくても解釈できたことだろう。
 ひとしきり登場人物の紹介シーンが終わると、わたしは 、わたしの叔父のような、椅子に座っているひとの、膝にもたれてセリフを言った。およそ100年くらい前の、貴族の娘が、労働に対して、夢を抱くセリフだ。このセリフは、学校以外、ほとんど家から出ることの許されなかった若い頃の自分にそっくり重ねることができる、大好きなセリフだった。叔父さんのひざにもたれて、うっとりと夢を語るわたしに、蜷川さんは、それならいっそ、ステージぎりぎり前まで、叔父さんの手をとって、走って連れてきて座らせてイリーナも座って、セリフ言って! と、蜷川さんが言うのでそうしたら、うっとりと語ったそのセリフが、すごく強調される形になった。セリフが、より立ったのだった。それはかなり度胸のいることだったが、その経験から、その後わたしは、すごく勇気が鍛えられて、「三人姉妹」内でも、他の演劇でも、大胆に演技ができるようになった。
 ところで、わたしの演技だが、わたしにはプランがあった。どんどん、いろいろな経験をして、四幕には大人に成長するイリーナを、演技の質を変えることで、それを表現したい、と思ったのだ。だから、一幕での演技は、大根というか、学芸会のそれ、のような感じに、あえて演った。通る声はしっかり出ていたはずだが、明るいだけの世間知らずの役に、一幕は徹したから、だからますます地もそんな薄っぺらいのではと、ベテランの共演者の方々は、不安に思われたことだろう。

 しかし、蜷川さんは、じっくり見てくれていた。我慢強く見てくれていた。二幕、三幕、四幕、と演技の種類を大人にしていくのを、見ていてくれた。その証拠に、日にちが経ち、四幕まで一通りリハーサルをやったわたしたちに、じゃ、一幕をもう一度、と言って演らせたとき、わたしの演技がケロヨン芝居(子供用の演技を、わたしはこう呼んでいる。ただし、ケロヨン芝居をさせてもらったのは、この一幕のときと、自分で演出して見せてくれと言われた一人芝居の一部だけだと思う)に急に戻ってしまったから、誰かが、やりにくいというようなことを言った。そのとき、蜷川さんは、
「戸川さんは、幕ごとに、演技の質を変えてるからね、許してね」
 と、その人に言ってくれた。
 わかってくれてるんだ! と感激したのを、はっきり憶えている。
 他にもある。三幕で、近所で火事があって、なにしろ貴族の屋敷だから、一階を、家を焼かれた人たちの、避難場所のようにする、という設定の、二階のわたしたちのシーンで、初めてそこを演ったとき、
「もうだめ、もうだめよ!」
 と、わたしの、イリーナの、おさえていたものが、噴出して、崩れていくところで、少し下を向いてカッと見開いたわたしの目から、ぼたぼたーっと涙が、椅子に座っている膝に落ちた。わたしは本来、 涙が出にくい体質なのだ。幼い頃、泣くことを嫌う厳しい父に、泣くと泣きやむまでひっぱたかれた、という教育のせいもあった。だが、そのシーンになると、気持ちが入ってぼとぼと涙がとまらず、さらに、頭がおかしくなってしまった風になって、それまでは「モスクワに行きたい」と言っていたのに、実際はそこのセリフが「モスクワになんて行けないわ!」で、わたしは、そのセリフをゲラゲラ笑いながら吐き捨てるように言った。そのときは、激しい絶望感に襲われ、夢なんか見ていた自らを嘲笑したくなるほど興奮を抑えられない、という意識だったのを憶えている。

 わたしは、しかし、慣れが怖かったから、このシーンはあまり、稽古をしたくないのだけども、と、実はこっそり思いもした。すると、蜷川さんは、皆の前で
「僕はね、このシーンはあまり稽古したくないんだ。慣れて欲しくないから」と、言った。

 思ってることが、まるで同じ、と思うことが、このことを含め、恐れ多いが、沢山あったから、ある意味充実した稽古だったが、わたしの神経は、かなりボロボロだった。
 精神がおかしくなってしまう演技だったのだから。
 新劇のエリートであった次女役の、佐藤オリエさんが、まるで違うタイプのわたしに、実のお姉さんのように、やさしく
「私、あなたのお芝居本当に大好きなんだけど、今のままじゃ、身体を壊してしまうわ、気をつけて。自分を大事にしてあげてね」
 と、涙を浮かべてまで、言ってくれた。有馬さんもそうだった。
 わたしは実生活では二人姉妹の長女だったが、そのときは
「ありがとう、お姉さん!!」
 と、二人もやさしい姉に恵まれた妹になった実感がわいてしまい、胸と目頭が熱く熱くなった。

 話が、わたしの役者として、になってしまっているが、お許しいただきたい。追悼文に相応しくもっと蜷川さんの話を、と思われる方が多いかもしれないが、蜷川さんの現場は、そういう、自分との戦いであったということを記しておきたいのだ。蜷川さんに怒鳴られない、というのは、それほど熾烈に自分を追い込まなければならないことだったのではと今、思い返すからだ。

 さらに、最後のほう、わたしの婚約者が決闘で撃たれて死んだ、ときかされたシーンで、わたしは役に入り過ぎ、本当に一瞬、失神してしまったのだ。有馬さんとオリエさんに抱きかかえられて、床には倒れないで済んだけれど、気がついたとき、「わたしは誰。ここはどこ」の状態だった。蜷川さんは、演劇だから、なにもそこまで、と、どっかいっちゃっても、必ず帰ってきて、と言った。でも、本当に笑顔だった。
 そのシーンは、かなり最後のほうで、有馬さん、オリエさん、わたし、で前へ出て、有馬さんの、100年後に希望を託すセリフで劇は終わるのだが、ある日、セゾン劇場の親会社の巨大企業、×武の、株主の方の奥様方だったと思うが、五人ほどが見学に来ていて、×武社員さんの方もその奥様方を前のほうに椅子を並べて、奥様方と一緒に観ていた。
 蜷川さんは、有馬さんの最後のセリフが終わると、すごいことを言った。ほぼ、奥様方と×武の社員さんの方に向かって、
「×武に良心があるなら、ここで防火シャッターが降りる!」と、大きな声で言ったのだ。
 残念ながら、本番ではとうとう防火シャッターを降ろすことは叶わなかったが。
 しかしわたしは、あのときの蜷川さんは、結構な年齢でも、反逆児だったんだと思った。自分の演出の為なら、大企業に牙をむく反逆児なのだ、と。
 あの、ナイフの青年に、伝えたい。蜷川さんは、アングラの魂の火を消したわけではなかったのだ、と。

 わたし自身、いまアングラ(とは、70年代の言葉のような気がする)、というより、まあほとんど同じ意味なのだけど、略さずアンダーグラウンド、に身を置いているのだろうなと思うが、アンダーグラウンドに身を置いているという重みや誇りみたいなものは、蜷川さんのようには、これといって別にない。世代の違いかもしれないが。蜷川さんは、オーバーグラウンド、メジャーの世界に身を置いて、しかし重いアングラの魂も本当は持ち続けていたのではと思う。そして、ときおりその魂から、その決して消えない火をゴーッと吐いていた気がする。と、いうより蜷川さん自身が、ひとつの大きな炎ではなかったか、という想いだ。
 わたしのことを、よく他の共演者の方々に
「こういう人は、日本じゃあまり見ないけど、外国にはいるの! けっこういるんですよ?メジャーとマイナーの両方で活動してる人は」
 と弁護してくれていた。
 蜷川さんが、わたしに、ちょっと違った良いあたりをしてくれたのは、わたしは半分アングラ、と思ってくれたからではなかったのでは、と思うのだ。

 しかし、あるとき、わたしはあの涙をぼたぼたーっと流していたシーンを、あれは特には涙を流す、とか、頭がおかしくなったように、などとはト書きにあったわけではなかったし、一度だけ新劇のように演じてみようと思い、やってみた。声は気持ち良いほど大きく出た。涙は流れなかった。演劇然、としたものだった と思う。これで良いなら、精神的にまだラクだし、それに声は張れるし、どうなのだろう、蜷川さんの意見がききたい、と思った。わたしがその芝居を始めるや否や、蜷川さんは、ストップをかけて、バーッと説得をしてくれたけど、つまりは元に戻してくれ、という内容だった。
 帰り、わたしが着替えたあと、蜷川さんはわたしのところに来てくれて、戸川さんのあの演技が好きだから、どうかやめないで欲しい、と言ってくれてから、小声で、
「実はね、僕は、お客さんには悪いけど、客席の半分かそれ以上、客席に戸川さんの声が届かなくても、もういい、と思ってるんだ。それくらい、あの芝居を演って欲しいんだ」
 と言ってくれた。
 役者を怒鳴るときは、大抵、
「お前は、志しが低いんだよ!!」
 が口癖だった演出家が、半分かそれ以上、客席に声が届かなくてもいい、と言ってくれたのだ。狭い劇場のアングラなら、問題なかったろう。蜷川さんは、わたしに最終的にそれをやらせることにすれば、他の共演者の方々の演技の質とは食い違い、統制がとれなくなることも承知だったはずだ。わたしに関してだけは、 アングラの魂で接してくれたのかもしれない。

 ただ、わたしが蜷川さんの現場に呼ばれることは、もうないんだな、と思うこともあった。
 対談のとき、わたしの演技を褒めてくれた蜷川さんだったが、紙面上には載らなかったことで、インタビュアーの方が、蜷川さんに
「戸川さんとお仕事なさって、じゃあ、安心なさったんですね?」
 ときいたときだ。蜷川さんは、
「安心じゃないよー! こんな危ない人使うのは怖いよー。ショックで失神しちゃうんだぜ?!」
 と答えた。すごく笑いながらではあったけど、わたしが蜷川さんの立場だったら、確かに不安だったと思う。こりごりだったろう。しかも、声は通らないし、という問題もあったと思う。
 だから、わたしは、そのときこの「三人姉妹」を、蜷川さんとご一緒できる最初で最後の機会、と思い(失神しない程度に)誠心誠意頑張ろう、と思った。

 だけど、「三人姉妹」は、批評家の間で、失敗作のように書かれた、と蜷川さんのところの若い出演者の人からきいた。わたしに関しては、やはり、声が小さい、と書かれていたという。まあ、わたしのことは、むべなるかな、という感じであったが、蜷川さんには、やはり、申し訳なかった、と思った。その若い出演者の方は
「王女メディアのときは、ゲテモノ、って書かれたんだよ?! 批評家なんて、だから気にすることはないよ!」
 と言っていたが、「王女メディア」は、写真しか見たことがなかったが、化粧や衣装が前衛的だったわけだし、今回とは違う、と思った。出演者の声が小さい、というのは、演劇の基本中の基本のダメ出しだから、なんだか責任を感じたりもしたのだ。
 他に、尺が長い、という批判もあったそうだ。それに関しては、何も感じてはいない。
「ペールギュント」のとき、全体の尺が長くなり、途中休憩も挟むことになって、全体で4時間以上になったとき、蜷川さんも悩んだ、という。これは京子からきいたのだが、ジャニーズの、出演者の方々が、
「気にすることなんて何もないじゃないですか! 帰りたいやつは帰らせたらいいんですよ!!」と言ったという。
 だから、わたしも、尺に関しては、普通に、帰りたい人は帰ればよいのでは、とも思ったのだ。

  こうして、「三人姉妹」は千秋楽を終え、打ち上げでは、蜷川さんのおかげで、有馬さんやオリエさんだけでなく、ベテランの出演者の方々から、若い人たちまで、みなさん、わたしにすごく暖かかった。最高齢の90歳を超えてらしたとても厳しい雰囲気の浜村純さんまでが、やさしい言葉をかけてくださった。わたしにとって、忘れられない経験になった。

 その後、しばらくして、わたしは、アンダーグラウンドの世界で生きることになってから、小劇場の形で、シェークスピアの「真夏の夜の夢」のブロークン版を、蜷川さんが演出して、京子も出演したとき、これも京子からきいた話だが、ヘレナという、可憐な、かわいそうな乙女の役に、わたしを起用したい、と最初は思ったそうだ。
 京子は気の強い、ヘレナとは対照的な役であった。それを姉妹でやったら、おもしろいのでは、と思ったという。
 しかしやはり、現実の姉妹でバチバチさせるのは気がひける、と途中でやっぱりやめたんだってー、と京子が言ってくれた。
 ここにも蜷川さんの、繊細さを見てとることができると思う。わたしが思うに、あそこまで超がつくほど大胆な人が、ここまで繊細な意識を持つ、ということは、それはそれは大変なエネルギーが必要だったはずなのだ。普通、どちらかでも大変で、精神的にまいってしまうものだと思うのに。世界のニナガワと呼ばれた、グローバルな視野を持ちいろいろな国で認められている演出家が、ほんの、たった二人の姉妹の間のことに思慮深く慎重にあたる、それほど振り幅の大きな、感性とエネルギー。蜷川さんの偉大さは、そういうところにも裏打ちされていたのでは、と思うのだ。

 そして、小劇場の規模なら、わたしの演技の、リアリティー重視による声の小ささでも、成立する、と思ってくれたのかな、とわたしは、その話だけでも嬉しかった。
 そのお芝居にも、他のお芝居にも、蜷川さんは、お客として招待してくれた。行くと、いつも変わらず、気さくに、やさしく接してくれた。

 それから、蜷川さんが文化勲章を授与された記念のパーティに、わたしはまた招待していただいた。そのときは、現在のように怪我のあとで、後遺症で腰を痛め、3分もシルバーカーなしでは立っていられない身体に、わたしはなっていて、運動ができないので太ってしまっていたから、蜷川さんに会うのが恥ずかしかったけど、寿ぎの席だから、会場に向かった。当然、本当に沢山の有名な役者さんが来ていた。身体を悪くして、役者なんて、途方もないリハビリをもっとして治さなければできない状態のわたしのところにきてくれて、蜷川さんは、やっぱり、やさしい声をかけてくださった。有名な、テレビや映画でも、かなり見るメジャーな世界で現役バリバリの人たちの中で、わたしは何者か自分でもわからなくなってしまうほど浮いていたはずなのに、とまた感動した。何故、こんなに、と不思議ですらあった。

 そして、あの「サワコの朝」を見た。
「諦念プシガンガ」の話ではなかった。蜷川さんは「パンク蛹化の女」も、気に入ってくださっていて、僕も戸川さんみたいにパンク精神で、なんて語る70代の方は、蜷川さんをおいて他にいないだろう。

 曲が番組で紹介されたとき、CDが、娘さんの蜷川実花さんの、
『蛹化の女~蜷川実花セレクション』
のジャケットだったから、蜷川実花さんからの流れで、知っていただいたのかもしれない。だから、あらためて、蜷川実花さんにも、心からお礼を言いたい。

 それから、一昨年の
「冬眠する熊に、添い寝してごらん」
というお芝居でも、蜷川さんはわたしの曲を使ってくれた。

 だから、油断していたのだ。

 そして、突然訃報を受けた。
 大きな大きな喪失感であった。大きな大きな人が逝ったというだけでなく、わたしの中で、これからはひとりで歩いていかなきゃいけないんだぞ、という、大きな大きな意識が、いきなり生じた。それほどの支えが、蜷川さんによって与えられていたんだ、と初めて知った気がした。

 ご葬儀に、わたしにも勿論、参列したいという気持ちはすごくあった。が、わたしのような者は、マスコミの前に出ると必ず、あの人は今、という扱いで、テレビには出ないところで、ゴシップをとりあげる雑誌とかに、そういう内容でマイクとカメラを向けられるのだ。決して自意識過剰というわけでなく、今のある程度の年齢の方以下の歳の人は、それ誰? 知らない、と言うと思うのだが、事務所にそういう取材のオファーが実際今でもあるので、わたしはマスコミの方々のいるところには出れない。ましてや、怪我の後遺症でシルバーカーでとか、太ってしまってとか、なんだか不幸そうな見た目をしていると、ますます、そういう人たちをひきつけてしまう。
 だから、わたしはそれを避けたくて、ご葬儀の朝、マネージャーに頼んで青山葬儀場に弔電を打ってもらい、喪服を着て、薄化粧をして、ふくさに入れた香典袋と数珠を持参し、お昼ちょうどに始まるご葬儀に合わせ、タクシーで葬儀場の近くまで行き、降りて遠くからでも、一瞬だけでも、手を合わせることだけはしたいと思ったが、ガードマンの方々が厳しくどこにも止められなかったのでタクシーの中から、ご葬儀が行われてるほうに向かって手を合わせた。それから、郵便局に寄り、薄墨で弔問文を書いた手紙を添えて、蜷川さんの事務所に喪主の、蜷川さんの奥様宛に香典袋を現金書留で出した。そして帰ってきて、家のたたきで、用意しておいた粗塩を頭からパラバラとかけた。
 それで、参列したこととかえさせていただいた。
 だけど、実際に参列したわけではないので当然のごとく、蜷川さんが亡くなったという実感が、まだはっきりしなかった。
 後日、蜷川さんの事務所の方から、丁寧なお返事をいただいた。わたしの知り合いが、わたしが葬儀場の近くで手を合わせたことを伝えてくれていた。言っていただけたら、マスコミの目に触れないご用意をしましたのに、とのことだった。蜷川家の方々にも感謝の念がたえない。この場をお借りして、蜷川さんの関係者の皆さま方にお礼を申し上げたい。

 それから、参列した知人から、ご葬儀で純ちゃんの「蛹化の女」が流れていたよ、と知らせてもらった。わたしは、それをきいて、やっと自分も参列できたような気持ちになれた。蜷川さんは亡くなったんだ、という実感もやっとわいた。
 そして、蜷川さんは最期の最期まで、わたしの歌を使ってくれたんだ、という想いが、ぐうーっと込み上げて来て、今にも泣きそうになった。

 蜷川幸雄という、ひとつの大きな炎は、めらめらとときには太陽のように燃えて、いろいろな役者を照らし、輝かせた。同時に、その炎に焼かれそうになり、役者も燃え尽きないほどに燃え戦い、結果、多くの役者が成長した。
 だから、蜷川さんの、巨星らしさとは、太陽のそれだったのだと思う。
 そして、演出家・蜷川幸雄の生き方は、それ自体が長く、しかしそれでも凝縮された濃さの、ひとつのドラマティックなドラマ、演劇のようであった、とわたしは思うのだ。
 蜷川さんの激しさは、太陽のそれ、わたしはしばらく、太陽を失った闇の中から出られないだろう。それでも、蜷川さんに、今、役者ができない身体なら、歌ってください! と言われてる気がして、精一杯、今は歌を続けなければ! それがたとえ闇の中であっても、蜷川さんに分けていただいた炎をわたしもめらめらと燃やして、それが一番のわたしなりの供養なのでは、と思う。
 蜷川幸雄という巨星と出逢えたことで、わたしの人生は幸運でした。ありがとうございます!
合掌。

(文中一部敬称略)


戸川純 ライヴ情報

7/8 新宿ロフト(ワンマン)

Danny Brown - ele-king

 デトロイトといえば何よりも先ずテクノだが、もちろんそれだけではない。かの地はエミネムやJ・ディラを筆頭に、多くのヒップホップのタレントを送り出してきた土地でもある。ミックステープとして発表された2011年の『XXX』や2013年の『Old』が各方面から高く評価されたダニー・ブラウンもまた、デトロイト出身のMCである。
 風変わりなルックスと個性的なラップが特徴的なこの異端児(何しろデヴィッド・バーンを「レジェンド」と呼ぶ男である)は、これまでエル・Pやバスドライヴァー、バッドバッドノットグッドのアルバムに参加したり、つい最近ではアヴァランチーズの16年ぶりの新曲 "Frankie Sinatra" にMFドゥームとともに客演したりするなど、様々なコラボレーションをおこなってきた。
昨日、そのダニー・ブラウンがUKの名門レーベル〈Warp〉とサインを交わしたことが発表された。同時に、配信でリリースされたニュー・シングルのMVも公開されている。



 2012~13年頃から台頭してきたチャンス・ザ・ラッパーやミッキー・ブランコ、リーフといった新世代MCの存在や、近年勢いを増しているインターネット上のミックステープ文化は、いまのUSインディ・ヒップホップの盛り上がりを象徴しているが、今回の契約はそのようなシーンの充実に対する〈Warp〉なりの目配りと言っていいだろう。いつも少し遅いが、ポイントは外さない。それが〈Warp〉のやり方である。
 因みに、ダニー・ブラウンの2013年作『Old』にはラスティが参加しており、またラスティの2014年作『Green Language』にはダニー・ブラウンが参加していたので、今回の契約はおそらくラスティの仲介によるものなのではないかと思われる。
続報に注目である。

Skepta - ele-king

もうジャージを脱ぐ必要はない

 『コンニチワ』は、ロンドンから生まれたグライムというやり方で世界にチャレンジしたアルバムだ。
 メリディアン・クルー、ロール・ディープを経て、2006年に自身のクルー/レーベルである〈ボーイ・ベター・ノウ〉を創設し、これまでに同レーベルから『グレイテスト・ヒッツ』、『マイクロフォン・チャンピオン』そしてメジャー・レーベルから『ドゥーイン’イット・アゲイン』と、3枚のフル・アルバムをリリースしてきたスケプタ。しかし、近年彼の名前と「グライム」自体を世界的に知らしめたのは、2014年にリリースされたシングル「ザッツ・ノット・ミー」だ。 また、2015年にはモボ・アウォーズでカニエ・ウェストと共演、2016年の初めにはニューヨーク現代美術館モーマ PS1でのパフォーマンス、ドレイクが〈ボーイ・ベター・ノウ〉と契約するなど、海を超えアメリカ、そしてアートやファッション界からも注目を集めた。そんななか、2016年5月、1年の発売延期を経てようやくリリースされたのが、フル・アルバム『コンニチワ』だ。

 このアルバムには、ロンドンの不良らしく、反抗的で暴力的、そしてユーモアと力強いストリートのグライムがある。しかし、グライムをメインストリームでリリースするという一見に単純に見える行為は、それほど難しいことだったのだろうか?
 これまで、アンダーグラウンドのグライムをメインストリームに持ち込むことは、MCにとってひとつのチャレンジだった。ディジー・ラスカル やワイリーはメジャー・レーベルと契約しメインストリームに挑戦してきたが、キャリア的に成功したとは言い難い。その後、彼らは「パーティ・チューン」を出してヒットを狙い、ストリートの物語を捨てて「アメリカのセレブのように」気取らなければならなかった。ポップ・カルチャーにおける「グライムらしさ」はナイフ、ギャング、喧嘩のイメージを内包しており、それらは大衆向けには「脱臭」すべきものだったからだ。スケプタの『ドゥーイン’イット・アゲイン』も、いま聴き返せばダブステップの流行りに乗ったポップスのようである。

 しかし、今作ではスケプタはインディペンデントでの制作を貫き、いい意味で仲間とやりたいようにやっている。スポーツ量販店のJD スポーツで売られているような、ロンドン郊外の不良たちが着るジャージのセットアップ。それに身を包むスケプタは象徴的だ。

 Yeah, I used to wear Gucci
 I put it all in the bin cause that's not me
 確かに俺は昔はグッチ着てたけど
 それは俺らしくないからもうゴミ箱に捨てちゃったよ (Sekepta - That’s Not Me)

 リリックは粗さや怒りに満ちている。“クライム・リディム”では、警察やストリートのいざこざのストーリーをラップし、「It Ain’t Safe = 安全じゃない」というラインはスケプタの地元トッテナムのイメージと重なる。2011年に起こったイギリスの暴動がトッテナムからはじまったように、そこは「警察にとってすら安全じゃない」場所だ、と。

 リリックの外側にも注目すべきだ。リードトラックの“マン”のMVは、グライム黎明期から発売されているドキュメンタリーを手掛けてきた、リスキー・ローズ(Risky Roadz)が撮影。その荒削りな映像は2000年代のグライム・ビデオのスタイルを継承し、これまでのMCが「脱臭」してしまった要素を全て飲み込み、音は粗く、ギャングの「遊び」はヴィデオの隅々に浮かび上がっている。


Skepta - Man

 ミュージック・ヴィデオの内容も、彼の警察への反抗的な態度の表明である。“シャットダウン”のMVが撮影されたのは、スケプタの弟JMEの出演が警察によって中止されたイベントが開催される予定だったバービカン・センターであり、ショーディッチの駐車場では無許可でレイブを行った。このようなリリックの外側における、よりローカルな文脈でのアクションが、スケプタのアティチュードのリアルさを裏付けている。


Skepta - Shutdown

 『コンニチワ』が「ストリートらしさ」を失わなかったことには、彼ら自身のホーム〈ボーイ・ベター・ノウ〉からのリリースである点も関係しているだろう。メジャー・レーベルと契約せずともインディペンデントで莫大なセールスをあげる、それ自体が凄いことだ。それを支えるのは、同じくインディペンデントな海賊ラジオ、YouTubeチャンネル、グライムをプッシュしてきた無数の音楽メディアたちであり、そこでローカル・スターは日夜生まれていて、ノヴェリストやチップといった次世代のMCたちが今作の客演陣にはクレジットされている。

 サウンド面では、“ザッツ・ノット・ミー”ほど、クラシックなグライムのエッセンスを感じられなかった。USを意識した“ナンバー feat. ファレル・ウィリアムズ”にはリリックにもサウンドにもそれがない。また一貫したストーリーがアルバムになかったためか、どこかシングルの寄せ集めのような印象を抱いた。しかし、いくつかの曲にはシングル・カットにふさわしいパンチラインがある。
 彼はジャージを脱がずに、ジャージをクールに魅せた。初週全英チャート2位という功績によって、「自分たちのやり方でやればいい」と世界に証明したのだ。

interview with Shuntaro Okino - ele-king

   沖野俊太郎は、ヴィーナス・ペーターという、その真価を未だ十分に認められたとはいえないセカンド・サマー・オブ・ラヴ直系のインディ・ダンス・サイケデリック・バンドフロントマン/ヴォーカリストとして知られている。彼は90年代初頭に世に出た新しい世代のなかでも、その才能とポテンシャルに比べ過小すぎる評価を受けたアーティストの筆頭格といっても過言ではないヴィーナス・ペーターの初期からの支持者として、ぼくもまたそんな現状に歯がゆさと苛立ち、ぼく自身の力不足をも感じてきた。

   しかし、沖野昨年リリースした、ソロとしては15ぶりのアルバム『F-A-R』は、そんな不当な評価をくつがえすに足る素晴らしい内容の復帰作として、ヴィーナス・ペーター以来の根強いファンのみならず、2000年代に国境を越え反響を呼んだ『LAST EXILE』や『GUN×SWORD』などのTVアニメの主題歌・挿入歌で彼を知った新しいファン驚喜させ、ひいてはヴィーナス・ペーターのさらなる再評価を促す最高傑作となった。

 

「全てあきらめてしまったわけじゃない/すこし疲れただけなんだ/心配なんかいらないんだよ」(“声はパワー”)

「オレは光/オレは光/闇夜/引き裂く/Im the light,everlast」(“The Light”)

「この夜にさよなら/この夜にさよなら/その後はあてもない/だけどこの夜にさよなら」(“この夜にさよなら”)

 

   アルバムの冒頭の3曲を聴いただけで、漲るような生命力と充溢を感じるF-A-R』は、インストのインタールードを除くすべての楽曲に自作の日本語詞が付いている。メジャー、インディーを問わず当たり前のように英語詞のバンドが受け入れられている現在からは考えられないほど、英語詞というだけで賛否を呼んだ(日本語詞で歌わないというだけで否定的な反応が多かった)過去の葛藤が嘘のように、飾らない言葉とあまくとろけるメロディ、これまでの音楽遍歴を血肉化した変幻自在のサウンドにのって、聴き手の体を揺らし、心を躍らせてくれる。

   93年、ヴィーナス・ペーターの〈トラットリア〉からのラスト・アルバムとなった『Big Sad Table』のなかで、「ほしいものは何もなくて/待つ者も誰もいなくて/のろのろ歩くしかなくて/見えてるものも見えなくなる」(“The Tripmaster Monkey”)と酩酊していた若き日の姿は、そこにはない。彼自身の人生観の変化と人間的成熟を感じポジティヴなトリップマスター、それが最新型の沖野俊太郎だ。

(あくまで私見だが、“宅録マスター”としての沖野の資質には、ぼくここ数年来、密かに耽溺しているマック・デマルコ、マイルド・ハイ・クラブ(アレックス・ブレッティン)、アリエル・ピンクといった、2010年代のデイドリーミングなローファイ・サイケ・ポップの精鋭たちと共振する先駆的センスを感じる)

 

   そして、この度リリースされた『F-A-R』と対になるリミックス・アルバム『Too Far』には、十代の頃、velludo(ビロードというバンドを共に組んでいた盟友・小山田圭吾(コーネリアス)をはじめ、サロン・ミュージック、シュガー・プラント、元シークレット・ゴールドフィッシュの三浦イズルと山本アキヲ、元スーパーカーのナカコー、GREAT3の片寄明人ら、90年代に同じフィールドを共有していた同世代、もしくは近い世代のアーティストから、リン・モリのように沖野とはこれまで接点のない若い世代のアーティストまで多彩なリミキサーが参加し、「遠くへ!」という沖野の呼びかけに対して「遠すぎるよ!」と賛辞を贈る最高にフレッシュなトラックを提供している。

 すべての創造行為は、どんなものであれ、作者自身のリアル・ライフと夢想との間に横たわる気の遠くなるような距離を、イマジネーションの力で超越する冒険だ。サイケデリアは逃避のための夢想ではなく、どれだけ遠くまで行けるかという人間の限界への挑戦なのだ。ロックは、何時でも現実と対決し乗り越えるための天啓となりえる。

 

「物語は自分次第でそう/変わっていくんだ/We are stories(“We Are Stories”)


 2016513日、ヴィーナス・ペーターの再結成時を除けば、95年のソロデビュー・アルバム『HOLD STILL-KEEP GOING』のリリース以来、21年ぶりの再会となった沖野とのインタヴューには、やはり同世代の盟友であり、当時ヴィーナス・ペーター、シークレット・ゴールドフィッシュ、デボネア、ビヨンズらが所属していたインディ・レーベル〈Wonder Releaseの創設者、現在は元銀杏Boyzの我孫子真哉らと共に注目の新レーベル〈Kilikilivillaを運営するDJ/ライター/オーガナイザーの与田太郎も同席、対話に加わってくれた。


■沖野俊太郎 / SHUNTARO OKINO
  (ex. Venus Peter / aka. Indian Rope / Ocean)
1967年3月23日、東京生まれ。1988年、小山田圭吾とvelludoというバンドでインディーズ・デビューするも沖野本人のニューヨーク行きにより活動停止。1990年、ニューヨーク+ロンドンから帰国後、Venus Peterに加入。〈UKプロジェクト〉及び〈ポリスター(trattoria)〉よりアルバム3枚を発表。1994年のバンド解散後、ソロ・アルバムを2枚リリース。小泉今日子他、アーティストへの楽曲提供を行うかたわら、2000年にはソロ・ユニットであるIndian Rope名義にてEP3枚、アルバム2枚を発表。テレビアニメ『LAST EXILE』(2003年)や『GUN x SWORD』(2005年)のテーマ曲や挿入歌の作曲でも知られる。2005年には1年のみの期間限定でVenus Peterを再結成。2006年には13年振りのアルバム『Crystalized』をリリース、ツアーも行う。2008年、Venus Peterのギタリスト石田真人とのニュー・プロジェクトOCEANのミニ・アルバム発表後、ソロ活動を続けながら昨年2014年にはVenus Peterの8年振りとなる新作『Nowhere EP』をリリース。2015年、ソロとしては15年振りのフル・アルバム『〈F-A-R〉』が完成。同年秋、サブ・プロデューサーであるタカタタイスケ(PLECTRUM)を含むバンド、The F-A-Rsを率いてライブ活動を再開。ニュー・アルバム 『〈F-A-R〉』を11月11日にリリース。2016年、アルバム『〈F-A-R〉』を総勢12組のアーティストによって再解釈したリミックス・アルバム 〈Too Far [F-A-R Remixes〉を発表する。

復活、うーん。どちらかと言うと「整理した」というか。


SHUNTARO OKINO
Too Far [F-A-R Remixes]

Indian Summer

Rock

Tower Amazon


SHUNTARO OKINO
F-A-R

Indian Summer

Rock

Tower Amazon

ぼくは『Too Far』、すごく好きです。いいトラックがいっぱいあるし、なによりも沖野くんのパワーが、参加したリミキサーの人たちにしっかり届いてる。みんなが沖野くんのセンスに共鳴していて、「沖野くんのこういうところがカッコいいんだよ」って、いろんな角度からプレゼンテーションされてる気がしました。その結果、それぞれのトラックを通してリミキサー自身の資質も見えてくる。そういう意味で、愛のある理想的なリミックス・アルバムだなと。リミックスって、オリジナル曲のトラックの中から「俺はここが好き」という部分を拡張して、さらにカッコよくするというのがひとつの理想だと思うのですが、ぼくの個人的な好みで選ばせてもらうと、断トツに好きなのがシュガー・プラントのリミックス(“When Tomorrow Ends(speakeasy mix)”)。これは超クール! 7インチ・ヴァイナルで欲しいなと思いました。

沖野俊太郎(以下沖野):レーベルの社長もあれがいちばん好きなんですよ。

構造的にはシンプルだけど、トラックを構成してる要素の一個一個が素晴らしい。ダンサブルなベースライン、クールなエレピ、そしてドラム・ブレイク。その上で沖野くんのヴォーカルが際立つという。余計なものが一個もなくて、本当に理想的だなと。ダンス・トラックとしても、リスニング・トラックとしてもいけるし、これぞロックだという感じ。2016年にそういう新作を聴けることがどれほどうれしいことか。
いまや“ロック”という言葉や概念そのものが完全に形骸化して、とっくに終わっているようにみえるけど、ぼくは、ロックは死ぬ、しかし何度でも蘇ると思ってるんです。誰か一人でもロックに価値を見出せたら、ロックは生きてると。そういう意味では、沖野くんがロッカーとして、いまの日本に存在しているという事実が、すごくうれしい。この曲(“When Tomorrow Ends(speakeasy mix)”)聴いてると、気分が上がる。オープニングの三浦イズルくん(The Lakemusic)の“I’m Alright,Are You Okay?(lady elenoa mix) ”も最高にいい。この2つのトラックに挟まれた他のトラックも、みんなそれぞれの佳さがあって、とても楽しめました。
沖野くんは「感覚だけでいままで生きてきたし、音楽を言葉で説明するのが好きじゃない」と言う。その気持ちもわかる。だけどカルチャーって、作り手に対する受け手の「俺は、私はこう受け取った」という解釈があって、つまり双方向のコミュニケーションがあってこそ成り立つものじゃないかな。良質なジャーナリズムがロックのカルチャーに貢献することがぼくの理想で、そういう意味でライティングにも力を入れて世代間を繋ごうとしている、与田(太郎)さん(kilikilivilla)の最近の活動にもすごく共感しています。『Too Far』というこのリミックス・アルバムは、オリジナルの『FAR』が企画されたときから両方出そうと考えていたのですか?

沖野:いや、ぜんぜん考えてなくて。コーネリアスにリミックスを頼んだのも、正直、宣伝に使わせてもらおうというようなところもあった。

でも、単なる宣伝なわけないでしょう? 小山田くんとの対談を読んでグッときたしね。

沖野:(照笑)『F-A-R』のアウトテイクが数曲あるんですよ。それをEPで出そうか? みたいな話になったときに、誰かのリミックスも入れたいね、じゃあコーネリアスがいいね! ということになったんだけど、流れで他にもいろんな人に頼むことができて。だったらもうアルバムにしちゃえ! っていうふうに、なんとなく決まりました。

これは作ってくれて本当によかった。オリジナルとリミックスの両方があって初めて見えてくるものもあると思うし。リミキサーのセレクションは沖野くんが全部考えたの?

沖野:そうですね。この人がやったのを聴いてみたいという基準で頼みました。

それは曲ごとの指名?

沖野:いや、それぞれのアーティストに選んでもらいました。選ばれなかった曲はしょうがないから俺がやるという感じ(笑)。

I'm Alright,Are You Okay? (lady elenoa mix)

全体を通して聴いてみて、とてもおもしろかった。普段はリミックスとかあまりやっていない人もいて、自分の音楽ではなかなか出せない部分を出していたり、そういうところも興味深くて。それでは1曲目から順に訊いていきたいと思います。まずイズルくん(The Lakemusic)の“I'm Alright,Are You Okay? (lady elenoa mix) ”から。

沖野:イズルくんは「やらせて」と言われた(笑)。彼はそんなに自分の作品を作ってる感じでもなかったけど、映像制作の関係で付き合いはあって。仲はずっと良かったんだよね。

彼がこういうメンバーの中にいてくれないと寂しいというのもあるけど、一曲目だからね。いきなりヴォーカルとストリングスだけで始まって、そのまま最後まで引っ張る大胆なプロダクションに驚きました。

沖野彼は河口湖の地元でミュージカルのオーケストラの作曲とかもやってて、オーケストレーションを僕の作品に活かしてみたいから「自分にも参加させてくれない?」って。

アルバムのオープニングにふさわしいし、沖野くんの声を強調することで、マジックを生み出してると思った。あと、“I'm Alright, Are You Okay?”というタイトルの曲を選んだことにもメッセージを感じます。「ぼくは大丈夫、きみは大丈夫?」――それはイズルくんからのアンサーでもあると同時に、リスナーへのメッセージも含まれてる気がする。昨年リリースした『F-A-R』を聴いて、「沖野くん、久しぶりに復活したな」という印象を持った人も多かったと思いますが、そういう意気込みで新作を作ったのですか?

沖野:いやあ……復活、うーん。どちらかと言うと「整理した」というか。中途半端で終わっちゃったような曲がものすごくストックしてあって、とりあえず1枚出さないと次に進めないという状態が10年くらい続いちゃってて。そういうときの気分で選んだんですよね。

何かしらの基準はあったの?

沖野:うーん……どうだったけな(笑)。そのときアルバムにするなら、という感じで選んだかな。コンセプトはなかったんで。

「自分はこれをやるんだ!」という吹っ切れた感じがすごく伝わってきて、楽曲も粒が揃ってたし、沖野くんの最高傑作だと思いました。オリジナルの『F-A-R』の中で、ぼくがいちばん好きな曲は“Welcome To My World”なんです。これはまさに沖野くんの世界を構成している要素が、サウンドにもリリックにもいろいろ入っているなと。ウェルカム・トゥ・マイ・ワールド――それは、言ってみればアーティストの基本姿勢というか、それに尽きると思うんです。だから、もう一回自己紹介する、というニュアンスもあるのかな? 昔の友達やリスナーへの「久しぶり!」という挨拶、もちろん新しいファンに向けている部分もあったと思うし。

沖野:詞を書いたきっかけは、基本的にはもっと個人的なことなんですけどね。

たとえば何かエピソードはありますか?

沖野:いやあ……ぶっちゃけると、再婚して子どもができて。妊娠してお腹の大きい嫁を見て生命というか、そこからなにか感じたものを歌詞にしていった感じだったかと。時期的にはそうですね。

そうなんだ……これはぼくの勝手な解釈なんだけど、ある意味、引きこもりアンセムみたいだなって(笑)。それは肯定的な意味で言ってるんだけど。ぼく自身、引きこもり的な感覚をいまの自分の中に感じざるを得ないところもあるし(笑)、もはや引きこもりをポジティヴに捉えられないと、現代をサヴァイヴできないという認識もある。

沖野:2012年くらいから曲は書いてあったから、その頃は引きこもってるつもりはないですけど、潜ってましたからね。間違ってないです(笑)。

ぼくの解釈を押し付けるつもりはないので、念の為(笑)。この心地よい浮遊感を音楽に還元できるというのは、沖野くんの素敵な才能だと思っていて。自分の世界の中で自由に遊び、感覚を解き放つのは素晴らしいこと。

沖野:でもいろいろとやる気を出してきた頃ですよ。

「あぁ こころはもう雲の上まで/上昇したまま/宇宙まであと少し」って歌ってるしね。このリリックが好きなんです。「光を纏い/命の深い闇の中/泳ぐ幸せ/君に似合うよ/Welcome to my world」。こういう詞を書けるようになったんだな、と思って。この曲は大好き。トリッピーな曲が多いのは相変わらずだけど、本人はそんなにドラッギーな感じではないなと。

沖野:もう、だって……更生したというか。

(笑)。もうひとつ訊きたかったのは、『F-A-R』のラスト・ナンバーで最後に赤ちゃんとの会話が入ってる“Mood Two”というインストのリミックスが『Too Far』には入ってないけど、あれは誰にも渡さずにおこうという感じだったの?

沖野:べつに誰にも選ばれなかったという……。

これは手をつけちゃいけないとみんな思ったんじゃないかな。沖野くんがまたどういうふうに作るのかなあ、と思ってリミックスを聴いたら、あれだけは入ってなかったから、やっぱり手を付けなかったんだと思って、それはそれで感動しました。では、とくに意味はなかった?

沖野:意味はないですね。

「オーケストラのみ×歌」って、やりたいと思いつつ自分でやったことなかった。それをやってくれたのでうれしかったですね。

了解(笑)。ではあらためて、イズルくんのリミックスをもらったとき、どういう感想を持ちましたか?

沖野:すごいグッと来ましたねえ。昔からちょっと“エリナ・リグビー”とかを意識してて。

なるほど! ふたりともビートルズ大好きだもんね。

沖野:「オーケストラのみ×歌」って、やりたいと思いつつ自分でやったことなかった。それをやってくれたのでうれしかったですね。メロディがこういうふうに響くんだなあって、自分でも思った。正直、期待してなかったんですよ(笑)。

(一同笑)

沖野:最近は彼、あんまり真面目に音楽やってる感じじゃなかったから。「良かったら使うよ」みたいな依頼で(笑)。そういうところは気さくに話せる。

イズルくんは映像制作の仕事が多いけど、〈fantasy records〉という自らのレーベルを立ち上げて、音楽活動もマイペースで続けてるよね。

沖野:そしたらすごい良かったなあ。嬉しかった。

これは1曲目に置きたいなと思った?

沖野:それは、その時には思わなかった。曲順は本当に悩んで。曲順を決めるために聴き飽きちゃったくらい。

誰かに相談して、という感じじゃなくて、やっぱり自分で決めたかった?

沖野:いや、相談もしました。リミキサーを決めるにあたって、一応自分の中で、90年代からいまもリミックスなりトラックなりを作ってる人、現役でやってる人がいいというこだわりがあったんで。初めは頼みたいと思っていても、最近やってない人には、結局頼まなかった。だから複雑な気持ちの人もいると思う。

The Love Sick(Akio Yamamoto mix)

2曲目の“The Love Sick(Akio Yamamoto mix)”は、オリジナル・ヴァージョンもヴィーナス・ペーターを想わせるファンキーなロックで大好きだけど、アキヲくんにはどういう頼み方をしたの?

沖野:アキヲくんは『FAR』のマスタリングもやってもらってるし、彼のトラック・メイキングの仕事をずっと知ってて。アキヲくんとイズルくんって元Secret Goldfishだし、いまだに仲良くて。で、ちょうど電話がかかってきて「あ、アキヲくんがいたよ!」と思って、本当にそんな感じで決まりました。いろいろ彼の作品を聴いたりして、音に対する鋭さというか、感性がすごいから、どういうトラック作るんだろうと思って。

沖野くんの志向性として、浮遊感だけじゃなくてエッジーな尖った部分というのもあって、そういう表現を別名義のOceanとかIndian Ropeでやってるし、きっとそういうものが欲しかったんだろうな、って。

沖野:とにかく徹底的に自分の音楽を追求している人だよね。

アキヲくんは本誌の古くからの読者にはお馴染みのHOODRUM(田中フミヤとのユニット)とか、『Too Far』に“The Light(I’m the 2016 light years home mix)”を提供してる高山純(Speedometer)さんと組んだAUTORAとか、他にもAkio Milan Paak、Tanzmuzikなど複数の名義を使い分けて多彩な活動を続けてるアーティスト。曽我部(恵一)くんのベスト・アルバム『spring collection』のマスタリングも彼が手がけてて驚きました。「The Love Sick」のリミックスはテクノ寄りのマッドチェスターという感じで、沖野くんにぴったりハマってる。3曲目の「The Light (bluewater mix)」のbluewater(Hideki Uchida)さんは、ぼくは不勉強で知らなかったけど、すごくカッコいいトラックを作る人だなと。

Shuntaro Okino&The F-A-R’sによるライヴの模様。曲は“The Light”

沖野:彼は与田さんが出たりしてる〈SUNSET〉っていうイヴェントでレギュラーDJをやっていて、立候補してくれたんです。リミックス・アルバムを出す話が出る前だね。彼はストーン・ローゼスの“エレファント・ストーン ”かなんかのマッシュアップをやってたんだよね。それがすごい良くて。

“The Light”のオリジナルって、マッドチェスターのフィーリングがあるサイケデリック・ロックでしょう? リミックスは4つ打ちなんだけど、「オレは光」っていう歌詞のキー・フレーズに着目して、言葉のパワーをさらに増幅するような解釈が新鮮で、こう来るか!と。

沖野:彼もマッドチェスターとか全部通ってて。

このリミックスを聴いた感想は?

沖野:この曲はアシッド・ハウスっぽくて、すごく気に入りましたね。あれなんだろう、アシッド・ハウスっぽいよねえ。

与田:しかもフロアで聴いたときにすごくダンサブルだった。実際にクラブで掛けたんですけど。踊るオーディエンスの気持ちがよくわかってる。

Summer Rain(Shunter Okino mix)

4曲目の“Summer Rain(Shunter Okino mix)”、これを自分でやったというのは何かあるの?

沖野:意味はないです(笑)。これは余ってたので、自分でやりましたね。

これもサイケデリックなヴィーナス・ペーター以来の王道というか、このラインは沖野くんの専売特許で、いつやってもいい十八番。それを自分でリミックスしようとなると、どういうふうにやろうと思ったの?

沖野:もう何も考えないでやりましたね。

同じ曲でもいろんなヴァージョンがあったりするのかな?

沖野:最近ハードディスクを整理して出てきたんだけど、この曲はあと2つくらいヴァージョンがありましたね。そっちを出してもおもしろかったなあ。

Welcome To My World(YODA TARO welcome home remix)

そして5曲目は与田さんの“Welcome To My World(YODA TARO welcome home remix)”、これは素敵です。愛を感じますね。

与田:『F-A-R』の中でいちばん好きな曲なので選びました。

沖野:与田さんは俺のことを本当にわかってるんで。与田さんが好きな世界もわかってるし、ああ与田さんだ、みたいな(笑)。

「ウェルカム・ホーム・リミックス」っていうネーミングもいいなあ。

沖野:ちょうど欲しかったタッチの曲になってくれた。

やっぱり2人とも音に対して繊細なところがあるので、とても丁寧に音を構築しているところが好きですね。ネオアコ的な清涼感もあって、すごくいいアクセントになってる。

与田:僕はミュージシャンじゃないんで、むしろ元ネタありきで、この沖野くんの声にこの曲のビートとこの世界観を合わせてみたらどうなるんだろう、というやり方なんです。サンプリングで作っているような感覚なんですけど。この曲はインディ・ダンスにしたかった。テンポ遅めのインディ・ダンスにしようと。

自分のパーティーで掛けたい曲?

与田:そうですね。

Swayed(Linn Mori Remix)

これとその次の“Swayed(Linn Mori Remix)”が隣り合わせているのは、必然性があるというか、よく馴染んでいていいなあと思いました。リン・モリさんはどういう方ですか?

沖野:リン・モリくんはサウンドクラウドで適当にたどっていたら、ぶち当たって。彼の作ってるトラックが全部良くて。まだ25才かな。自分でいろいろ調べましたね。ずっと印象に残ってたんですよ。それで今回リミックス・アルバムをつくろうということになったとき、直接お願いしました。

オリジナルは初期のデヴィッド・ボウイを想わせるアコースティックなバラードだけど、上がってきたリミックスは、ほぼピアノとシンセのインストゥルメンタル。

沖野:全部再構築してくれて。でも基本的にはこういう感じのアルバムを考えてたんですよね。アキヲくんとかもトラックメイカーだから、歌とか使わないでもっと切り刻んでものすごい尖ったものを作ってくるかと思ったんですけど、ちゃんと歌ものにしてきたので意外でしたね。俺のことを知ってると、どこかでやっぱり歌を使いたいと思うのかも。

そう思うし、尊重しようという気持ちがあるのかも。

沖野:たぶん尊重してくれる部分もあると思うんですよ。リンくんは原曲を活かすというよりは、俺のことを知らない分、自分でぜんぜん違う世界を作ってきたという感じだよね。リンくんとは世代も違うし、思い切りがいいし。それがすごいよかった。

原曲はデリケートなラヴ・ソングだし、いっそのこと詞はなしで、みたいな方向なのかな(笑)。これも好きですね。

The Light (Indian Rope Remix)

次の7曲目、“The Light”のIndian Rope名義でのリミックスは、ヘヴィかつドープなサイケでじわじわ上がっていく感じがよくて。煙っぽいサックス・ソロも効いてるし、最後は残像をのこしてドローンと消えていくところも洒落てますね。沖野くんの持ってるコアな部分が出てると思うんだけど。

沖野:これはIndian Ropeを意識しました。Indian Ropeだったらどういうふうにやるのか思い出しながら、最近やってなかったようなベタなIndian Ropeをやった感じですね。

Indian Rope名義では久しぶり?

沖野:15年ぶりくらいかな。

〈トラットリア〉以降はこの名義は使ってなかったの?

沖野:使ってないですね。

Indian Ropeだったらどういうふうにやるのか思い出しながら、最近やってなかったようなベタなIndian Ropeをやった感じですね。

インディアン・ロープを始めたときってどういう感じだった? ソロといっても、もっとトラック・メイキングに特化してやりたかったのかな。

沖野:そうですね。当時はいまと違ってまだパワーマックとかの時代だったんですけど、いちおう自分ひとりでできるという時代になってはきていて。昔からデモは作りこんでいたんですけど、他人に頼んでボツにしちゃったりしてたんで……やっぱ全部自分でやろうと思って。

そう、沖野くんの曲はデモの時点でほとんど完成しちゃう。

沖野:凝ってましたよね。

ヴィーナス・ペーターの初期の名曲“Painted Ocean”もデモの段階でほぼできていた?

沖野:そうですね。そんなに変わってないですね。

ぼくは本当にシンプルに、あの曲が好きなんですよ。あれ一発で惚れた。しかもいちばんいいと思えるような曲を惜しげもなく『BLOW-UP』(※〈Crue-L Records〉のファースト・リリースとなった91年発売のコンピレーション・アルバム。参加アーティストはブリッジ、カヒミ・カリィ&ザ・クルーエル・グランド・オーケストラ、マーブル・ハンモック、フェイヴァリット・マリン、ルーフ、ヴィーナス・ペーターの6組)に入れたところがカッコいいと思った。自分たちのファースト(『Love Marine』)に取っておかない気前の良さに(笑)。

Moon River(Salon Music Remix)

次の8曲目、Salon Musicの“Moon River(Salon Music Remix)”は絵画的というか、音で絵を描いてる感じが素敵だなと。沖野くんの中に意識せずしてあるものが形になって提示されていると思うんだけど。音でこういうことができるのが、音楽の素敵なところだと思います。

沖野:あと2人でやってくれてるというのがすごく大きいですね。仁見さん(竹中仁見)の声とかファズ・ギターが入っていたり、うれしさがありますよね。サロンを選んで、自分ながらこれはよく思いついたなあと(笑)。

サロン・ミュージックは〈トラットリア〉のレーベル・メイトだし、吉田仁さんはヴィナペの2014年作『Nowhere EP』もプロデュースしてるし、ずっと近くでやってたじゃないですか(笑)。

沖野:近くにいるんですけど、意外とあんまりリミックスは聴かないですよね。

たしかに、リミックスはそんなにやってないかもしれない。

沖野:ライヴにもしょっちゅう来てくれてるんですけど、あんまりつながらなかったですね。

あの人のセンスを100パーセント信用できるというか。俺はYMOやはっぴいえんどをぜんぜん通ってないんで。

でも沖野くんって、雰囲気がちょっと仁(吉田仁)さんと似ているところもあるし、シンパシーみたいなものがあったんじゃない? あとサロン・ミュージックは英語詞だけでやる先駆者でしょう? 今回の『F-A-R』は日本語詞がメインのアルバムだから、直接そこは関係ないけど、ヴィーナス・ペーターが登場したときとか、その前にフリッパーズ・ギターがデビューしたときとか、仁さんとの出会いはとても大きかったと思うんだけど。

沖野:そうですね。唯一付き合いのある先輩なんで(笑)。あんまりねえ、ミュージシャンとの付き合いがダメなんですよ。苦手なんで。仁さんだけはライヴにも来てくれて、話が合うんですよねえ。

それは音楽性が共通しているというだけではなくて?

沖野:あの人のセンスを100パーセント信用できるというか。俺はYMOやはっぴいえんどをぜんぜん通ってないんで。

YMOを通ってないというのは、世代を考えると意外なところはあるよね。小山田くんだって、別にリアルタイムでは通ってないと言ってたけど。いまはほぼバンド・メンバーだけどね(笑)。

沖野:もちろんあの時代の人たちを尊敬はしてますけど、影響されてないというか。サロンは、昔からやってることが本当かっこよくて。そういう意味ではいちばんセンスを信用している先輩が、あのおふたりですね。

洋楽志向というより、最初から洋楽だった先輩という感じだよね。ぼくだって80年代初頭に“Hunting on Paris”の12インチを聴いて、「完璧に洋楽だよ!」ってびっくりした。YMOはそれぞれ一角のキャリアのある人たちが組んだスーパー・グループだけど、サロンは突然現れてロンドンから逆輸入という感じだったから。

この夜にさよなら(Cornelius Remix)

インディアン・ロープ~サロン・ミュージック~コーネリアスという並びは、個人的には「トラットリア・ストライクス・バック!」という感じで盛り上がりますね。“この夜にさよなら(Cornelius Remix)”は、意外といえば意外だった。沖野くんのオリジナルは『F-A-R』のリード・トラック的な曲だし、この爽やかな感じはこれまでなかったから、パッと聴いていいなと素直に思ったけど、小山田くんの解釈がいわゆるコーネリアス調じゃないのがおもしろかった。小山田くんのリミックスって、たいていの場合は原曲のタッチをほとんど残さずコーネリアス調に作り変える作業だけど、これはそうじゃないと思って。非常にレアなケースじゃないかな。

沖野:この曲は、聴いているうちにあー、やっぱコーネリアスだなあ、って思うようになりましたね。

うん、まさしくそういう感じ。だから、いつもの感じでやらなかった、ということ自体にスペシャル・トリビュート感があるなと。音数は少なくて、隙間を活かしたすごくシンプルなアプローチというところは小山田くんらしいけど。

沖野:コード感とかが小山田くんの中にあるものと合ってて、たぶんこれだという直観で選んだ部分があると思う。彼も忙しいし、これがいちばん料理しやすいと思った、って気がするけどね。

さらっと仕上げているようで、飽きずに長く聴ける感じ。沖野くんに対するリスペクトを感じますね。原曲の歌詞は、最初に聴いたとき、亡くなった人へのレクイエムのように聴こえたんだけど、そういうことってあったりしますか?

沖野:うーん、そこははっきりと明言するのは避けたいです。ただ実は自分史上、最高に悲しい曲ではありますね。

切ない曲だよね。友達なのか家族なのかわからないけど、いまはこの世にいない大切な人に捧げた特別な曲、という気がしました。

沖野:うーん、やっぱりそこもノーコメントで。ただこの一行は彼、とかこのくだりは彼女、とかそういうのはあります。基本的には大きい括りなんですけど。

沖野:(いま世の中で聞こえてくるものが)みんな「悲しいことを乗り越えよう」っていう歌ばかりだったんで。そうではなくて、俺は本当の痛みや悲しみってのは大切に墓場までいっしょに持っていくもんなんだ、という考え方だから。そういう意味で書いたんだよね。

すごく秘められたドラマを感じる曲だったので……。

沖野:そこに気付いてもらえたのはすごくうれしいです。単に爽やかな曲というふうに言う人も多いんですよ。

でも、爽やかな曲調でこの詞だから、よけいにグッとくるところがあって。さっきいちばん好きな曲は“Welcome To My World”と言いましたが、リリックは“この夜にさよなら”がいちばん印象的でした。沖野くんの個人的な世界というよりは、誰かにこの思いを伝えたいという気持ちが溢れている感じがしました。

沖野:そういうことは思ってるんですよね。

「この夜にさよなら」というリフレインも、「その後はあてもない/だけどこの夜にさよなら」という最初のヴァースからしてハッとさせられるというか、この曲は違うぞ、とまず最初に思って。でもその後に「その胸の暗やみ/この胸の苦しみ/いつまでも一緒さ/だからこの夜にさよなら」と続いて、いろんな人と出会う中で傷ついたこととか、つらい思い出みたいなものを、捨て去るのではなくて、それを持ったままいっしょにさよならする、というところにものすごくグッと来る。

沖野:(いま世の中で聞こえてくるものが)みんな「悲しいことを乗り越えよう」っていう歌ばかりだったんで。そうではなくて、俺は本当の痛みや悲しみってのは大切に墓場までいっしょに持っていくもんなんだ、という考え方だから。そういう意味で書いたんだよね。

それは強い決意だなあ。実際、痛みも傷も闇も、なかなか消えないじゃない? 本音を言えば、そんな簡単に消えるわけないだろ、という。ちょっとの間は忘れていられても、不意にフラッシュバックしちゃう。ぼくもそこは一緒で、だけどそれをこういうふうにさらっと歌えるというのが、いまの沖野くんの大きな成長だと思う。

沖野:少ない言葉でそれを表現したかったというか。

この曲のリリックは最高。すごい名曲だと思う。最後のヴァースがまたグッと来るんだよな。「悪い夢で構わない/いつか/夜の彼方で彷徨う君を見つけよう/また会おう」。「さよなら」と言ってるんだけど、最後に「また会おう」と言って終わるというのが……ニクいね(笑)。日本語詞でこれだけのものを書けるんだから素晴らしい。それを小山田くんが選んでるというのがまた……。

沖野:その話はしてないですけど、そこはうれしかったですね。

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Dream Of You(Akito Bros. remix)

次の10曲目、Akito Bros(アキト・ブラザーズ)の“Dream Of You(Akito Bros. remix)”。メロディメーカーとしての沖野くん史上屈指の名曲にさらに磨きをかけた感じ。繊細な音作りが素晴らしくて、これもすごく好き。片寄(明人)くんに頼もうと思ったのは?

沖野:いま、沖野俊太郎 & The F-A-Rsでギターを弾いてくれてるタカタタイスケくんのバンド、プレクトラムがGREAT3と対バンしたのを観に行ったのがきっかけ。GREAT3ってじつはちゃんと観たことなくて、音源もほとんど聴いてなかった。たぶんGREAT3が活躍している頃(90年代後半)は、わりとテクノとかばっかり聴いてたから。でも、そのライヴがすごい良くて。

ぼくは、GREAT3がいまいちばんカッコいいロック・バンドだとマジで思ってるよ。片寄くんのことは昔から知ってるし、デビューのときからGREAT3は大好きだったんだけど、どの時代のGREAT3よりもいまがいちばんいいと思えるくらいカッコいい。

沖野:じゃあちょうどいいときに見たんだ(笑)。ずっと3人でやってるんですか?

オリジナル・ベーシストの(高桑)圭くんは脱退したけど、若い新メンバーのjanくんが加入して、オリジナル・ドラマーのケンちゃん(白根賢一)は変わらずに3人でやってる。ライヴはギターとキーボードにサポートが入るときと、サポートなしでトリオ編成でやるときがあって、いろいろだね。

GREAT3のライヴがすごい良くて。

沖野:片寄くんがリミックスやってるの聴いたことないな。あれだけすごい知識を持ってるし、プロデューサーもやってるのに。でも、わりとそういう発想があったんですよ。この人がリミックスやったらどうなるんだろうという。

それはヒットだね。じゃあ、これまで交流はそんなになかった?

沖野:ぜんぜんなかった。それからライヴとか呼んでくれて。

そうなんだ。片寄くんもめちゃめちゃサイケな人だし。いまは菜食主義者だけど(笑)。沖野くんとの相性は絶対いいはずだと思ったけど、案の定、片寄くんらしいメロディアスな風味のリミックスで、仕上がりもバッチリだった。

沖野:今回やってくれた人たちの中ではいちばん、元の素材をそのまま使って組み立てなおしたという感じですよ。他の人は歌だけ使うという感じなんだけど、片寄くんと5ive(COS/MES)くんは唯一、俺のトラックを全部使ってくれましたね。彼らはリミックスするというよりも……。

リ・コンストラクションした感じ?

沖野:そうそう。

元の曲のトリップ・ソングらしさを活かしつつ、メロディの良さをさらに際立たせようという意図は十分伝わってきたよ。

The Light(I'm the 2016 light years home mix)

次の11曲目、Speedometer(スピードメーター)の“The Light(I'm the 2016 light years home mix)”。リミックスのタイトルはモロにローリング・ストーンズ「2000光年のかなたに」(2000 Light Years From Home)から採ってるなと。高山純さん(Jun Takayama a.k.a Speedometer)はイルリメともSPDILLというユニットをやってるし、SLOMOSという名義でソロ音源を発表したり、多彩な人ですね。

沖野:俺、高山さんのことがいちばん知らなくて。アキヲくんが彼とバンド(AUTORA)をやってて、レーベルの社長がSpeedometerの大ファンというのもあって、アキヲくんに紹介していただけないか、という感じになったんだけど。Speedometerの音源も聴いたけどすごいカッコよくて。高山さんは絶対に歌を使わないだろうと思ってたら使ってて、アンドリュー・ウェザオールみたいな印象で、すごく良かったですね。どこかしらにあの頃の匂いを入れてくれてるというのがね。

これも原曲はマッドチェスターっぽいサイケデリック・ロックだし、たとえばストーンズでも、時代が移るごとに惹かれる部分が変わるじゃない? マッドチェスター華やかなりし90年代初頭は、やっぱり『サタニック・マジェスティーズ』とか『ベガーズ・バンケット』に目が行く時代だったと思うんだけど。トリッピーな世界観みたいなものを沖野くんと共有してるのかな?

沖野:ああ、そういうことはぜんぜんお話してないんですよ(笑)。高山さんは大阪在住なので。いろいろ聞きたいんですけどね。大阪に行ったときにはぜひお会いしたいですね。

We Are Stories(The F-A-Rs Remix)

次は12曲目、“We Are Stories(The F-A-Rs Remix)”のリミックスは、バンド・サウンドからそんなに大きく変えたりしてない?

沖野:この曲は、ライヴではバンドでアレンジしてやっていて、それをリミックス的に録ってみようかと言って録ったのが、あまりに普通だったので、思いきり編集したという感じですね。ぜんぜん違う感じに。バンドっぽく聴こえるんですけど。

元はわりとデジタル・ロックな感じだよね?

沖野:そうですね。

これは自分でも気に入っている?

沖野:そうですね。まあこういうのもおもしろいというか、自分らしいとは思ってますけど。

「自分たちの物語は自分次第で変わっていくんだ」という歌詞の一節にもあるように、“We Are Stories”というタイトルにもポジティヴなメッセージが込められてる。トリッピーだけど、全体的にポジティヴな感じもこのアルバムの特徴かな。引きこもりアンセムも入ってるけど(笑)、基本的には開けてるよね。

沖野:新しく歌詞を書いた曲に関しては、だんだん明るくなってる(笑)。

声はパワー(Koji Nakamura Remix)

そういうストーリーもあるんですね(笑)。そして13曲目、ナカコーくん(Koji Nakamura)が手がけた“声はパワー”のリミックスは、ほとんどピアノの残響音だけで歌声と歌詞を聴かせる思いきったアプローチで、意表をつかれたけど、すごくいいなと思いました。

沖野:そうですね。これはナカコーくんらしいというか。まさかピアノ・メインで来るとは思わなかったんですけど。もっとエレクトロな感じかと思ったら、現代音楽じゃないけど、かなりそういう要素があったので、衝撃でしたね。まずこの曲選ぶ人がいなかったんですよ。逆にいちばん難しいじゃないですか。ナカコーくんがこれを選んでくれたのがすごくうれしくて。それでこういうアプローチだったんで、びっくりしたけど素晴らしいと思いましたね。

原曲は女性コーラスがフィーチュアされてて、ナカコーくんはそれも活かしてデュエット・ソングに変えてる。そこもおもしろいなと思ったけど、「声はパワー」と言ってるのに──ヴィーナス・ペーターの初期曲“Doo Be Free”では、プライマル・スクリームが“ドント・ファイト・イット、フィール・イット”でデニス・ジョンソンのソウルフルなヴォーカルをフィーチュアするような発想で、真城(めぐみ)さんをフィーチュアしたと思うんだけど――今回はいわゆるパワフルなヴォーカルじゃなくて、ガーリーな感じの女性ヴォーカリストを起用してるのが意外だった。

沖野:歌ってるのはadvantage Lucy(アドバンテージ・ルーシー)のヴォーカルのアイコちゃんなんだけど、彼女はすごく強いものを内に秘めていて。かわいらしい女性っていうイメージが強いんだけどね、ルーシーの曲とか聴いてると……。

ごめん、決して彼女のヴォーカルが弱いと言ってるわけじゃないんだ。ただちょっと意外な組み合わせだなと思って。

沖野:うん、意外なのはわかります。そういえば彼女を推薦してくれたのもタカタタイスケくんなんです。俺も直感でこの曲はアイコちゃんだなって思ったんですよね。なにか感じるものがあった。

こういうアプローチだったんで、びっくりしたけど素晴らしいと思いましたね。

原曲のイントロでヴェルヴェット・アンダーグラウンドの「サンデー・モーニング」みたいなグロッケンが鳴ってるし、元々チャーミングな曲でしょう? サックス・ソロとかピアノ・リフが効果的に散りばめられてて、曲調もゆるやかに飛翔していく感覚があって、『F-A-R』の中でもいちばんカラフルな印象がある。そういうアレンジを全部取り払って、沖野くんとアイコさんの声とピアノだけで世界全体を作りかえた。このトラックも『Too Far』の白眉だと思います。

沖野:俺とアイコちゃんのヴォーカルの混ぜ方が上手いなと思って。SUPERCAR(スーパーカー)も男女ツイン・ヴォーカルだったから、そこもどこかで勉強してたんじゃないかと思うんですよね。ナカコーくんにそういうコントラストの感覚があったのかなとは思いましたね。

たしかに、沖野くんとアイコさんの組み合わせには、SUPERCARみたいなチャームを感じます。ナカコーくんに頼もうというのは、どういうところから来た発想?

沖野:やっぱり独自の作品を追及してるからですかね。そんなに近くはないんですけど、スーパーカーも好きだったし。

スーパーカー以降の、自分の世界をストイックに追求する感じも共通している気がします。

沖野:彼は昔からIndian Ropeを好きだと言ってくれてて、それも覚えてたので、やってくれるかなあと思ってお願いしました(笑)。ツイッターでヴィーナス・ペーターのこと書いたりしてくれてたんで、頼みやすかったです。

世代的にはちょっと下くらいだけど、やっぱり通ってたんだね、フリッパーズ・ギターやヴィーナス・ペーターを中高生のときに聴いて……。

沖野:(日本のバンドでは)唯一、聴いてたみたいで。

ジャンルを超えて、いろんな名義を使い分けながら活動してるところも沖野くんと似てるよね。

When Tomorrow Ends (speakeasy mix)

そして最後にSugar Plantの“When Tomorrow Ends (speakeasy mix)”。これは選曲もハマってるよね。

沖野:これはね、この曲でお願いしたんですよ。

これをSugar Plantで聴いてみたかったの?

沖野:じつはこれしかなかったというのがきっかけなんだけど。この曲は、はじめぜんぜん合わないと思っていて。あんまり想像できないじゃない? それをあえて頼んでみたんですよね。

このアレンジはショウヤマさん(ショウヤマチナツ)とオガワさん(オガワシンイチ)がふたりで……?

沖野:いや、これはオガワくんひとりでやったみたいです。

壮太くん(高木壮太)とかは参加してない?

与田:壮太くんは参加してない。

めちゃくちゃカッコよくてびっくりした。オルガンは入ってないけど、ドアーズみたいにヒップな、ヒリヒリくる感じがすごくあって、これは本当にすごいよ。

沖野:彼らの話を聞くと、元のヴォーカルだけ抜いて、ヴォーカルに導かれて……ドアーズとか共通して好きなんだよ。はじめはスピリチュアライズドの線を狙ってたらしいんだけど、でも結局ドアーズになったらしいですね。

ドアーズとか共通して好きなんだよ。はじめはスピリチュアライズドの線を狙ってたらしいんだけど、でも結局ドアーズになったらしいですね。

やっぱりそうなんだ。このトラックは最近の新譜と比べても飛び抜けてカッコいいと思った。こういうマジックが起きるからリミックス・アルバムって作っておくもんだね、というくらいカッコいい。

沖野:本当に何回鳥肌が立ったか……『Too Far』は、自分がいちばん元の曲のことを知ってるんで、「ええっ! こうなるんだ!?」という変わりようがおもしろかったですね。

自分がいちばん楽しい?

沖野:気楽だしね(笑)。

今回はリスナーとして純粋に楽しんじゃいましたね。

オリジナル・アルバムとリミックス・アルバムの両方が揃ってみて、何かあらためて自分で発見したことはありますか? もしくは再確認したこととか。

沖野:何かあったかなあ(笑)。今回はリスナーとして純粋に楽しんじゃいましたね。いまは次のことやりたくてしょうがない。

「次はこういうことをやりたい」という具体的なアイデアはある?

沖野:それもまだ見つかってないんですよね。

モヤモヤと自分の中で渦巻いてる感じ?

沖野:渦巻いてはいるんですけど、いまはよくわからないですね……。

それを手探りしていく作業なのかな? でも、みんな次の仕事にとりかかる前はそんな感じかもしれないね。与田さんは今回の2枚のアルバム聴いてどんな感想を持ちました?

与田:今回はまず『FAR』の方で、いままでの沖野くんと明らかに違うということに驚きましたね。『F-A-R』の宣伝を手伝いつつ、僕も沖野くんにインタヴューしながら、その理由がわかってきた。The F-A-Rsと一緒にやったバンド編成のライヴを3、4回観て、僕はヴィーナス・ペーター以外のバンド形態をあまり見たことがなかったのですが、それがすごくよかったんです。で、バンドと沖野くんにだんだん焦点が合ってきて、定期的な活動ができるようになったのがいいなあと思って。あとは、『Too Far』に参加したリミキサーのラインナップは、僕もほとんどが知り合いみたいな感じなので、同世代感はありますね。みんな90年代を通して活動してた人が多いじゃないですか。しかも90年代って、ダンス・カルチャーがロックにものすごく侵食していった時代でもあるので、それをリアルタイムで体験してる人たちの作品が集まってくると、不思議なもので共通の感覚があるなあと思いましたね。

なるほど、まさにそういう人たちが集まった感がありますね。

与田:そうですね。ダンスフロアとロックがクロスしたのをリアルタイムで体験して、実際に踊っちゃってた方なんで。いまは逆にそういうリアリティを伝えづらいのかなあ。だからこういうタイミングでこういうアルバムが出てくると、自分としては、世代感覚的にもすごくうれしいですよね。とにかく楽しかったので。

あらためて(いまの日本の音楽シーンにおける)自分の立ち位置の違和感みたいなものに気づいて、今後どうしようかな……とも思う。アルバムを出したことで状況がよくなったわけでもないし、でもべつに悔しがったりしているわけでもなくて。いろいろ考えてる。

沖野:でもね、2枚続けてアルバムを出して、改めて(いまの日本の音楽シーンにおける)自分の立ち位置の違和感みたいなものに気づいて、今後どうしようかな……とも思う。いまの日本の若者の中で流行っているものとかぜんぜん好きじゃないし。アルバムを出したことで状況がよくなったわけでもないし、でもべつに悔しがったりしているわけでもなくて。いろいろ考えてる。結局、やるしかないんだけど(笑)。いまはSNSとかあるから、何が流行っているかわかっちゃうじゃないですか。本当の現場はどうかわかんないけど、でも俺はそういうところとはズレてる、というのを認めざるを得ないかなあ。もちろん後ろ向きではなくて。もっとどうやって(自分の音楽や状況を)良くしていくかということを考えつつ、でも生活に追われてることもあるし、難しいというのはひしひしと感じてますね。

日本のメジャー・シーンだろうとインディ・シーンだろうと、そこに対する違和感のみが、沖野くんにはあったと思うんですよ。ヴィーナス・ペーターだって、いまでも早すぎる解散だったと思うけど、沖野くんが自棄になった理由というのは、「これで変わらなかったら、何をやったらいいの」という歯がゆさだったんじゃない?

沖野:ありましたね。どうしたらいいんだろう、というのがいまだに続いているけど。

最近の若いバンドとか聴く機会もあるでしょう?

沖野:一応聴かなきゃという感じで聴いてますけど。

〈kilikilivilla〉のサイトで沖野くんとCAR10(カーテン)の川田晋也くんの対談を読んで、すごくおもしろかった。川田くんは91年生まれで、〈kilikilivilla〉の先輩たちを通じてヴィーナス・ペーターの存在を知って、まさにその年にリリースされた『LOVE MARINE』をブックオフで発見するんですよね。

与田:僕から見ると、CAR10とか、いま地方で活動してる若い子たちが洋楽ロックが好きでやってる感じが、90年代前半に僕らがやってた感じと似通ってるなと思ったんですよ。だからヴィーナス・ペーターとか聴かせると、みんなものすごく反応してくれて。

それは現行のJポップへの違和感から?

与田:完全にそうだと思いますね。

沖野:普通だったら違和感を抱かないわけないよね。「なんでこんなに分かれてるの? なんかおかしくない?」という感じ。

与田:中間がないですよね。

沖野:ここまで離れちゃうと埋めようがないくらい(笑)。

やっぱりバンドが好きですねえ。

与田:でも、90年代もそうだったんじゃないですかね。もちろんRC(・サクセション)とかブルーハーツとかいましたけど、イカ天とかホコ天あたりのイヤーな感じのバンドがわんさか出てきて。だからフリッパーズのファーストは、音楽好きにとって衝撃だったんじゃないかなあ。その感じと、いまの20代前半のバンドの、自分の好きな音を見つけてきてそれをやってる感じは、よく似てると思いましたね。ただ、いまの子たちはみんなしっかりしてるんですよ。僕らは自分たちの思いだけで突っ込んじゃって、後先考えずに突っ走った部分はあるんですけど、いまの若者はみんなきっちり仕事持ちながらやってますよね。いいことだと思いますけどね。

いまはロック・ドリームを抱きようがないというか、それはロックに限らないと思うけど、自分たちの将来に巨きな夢を持ちにくいんじゃないかな。

与田:夢、見ないですよねえ。まだ〈kilikilivilla〉の若者たちは自分の世界を作ろうとしますけど。一般的には夢とか見れない、って言われるとしょうがないですけどね……。

もちろん地に足がついてるのはいいことだけど、バンドに巨きな夢を持ちにくいというのは世知辛いよね。いつの時代の若者にとってもドリーミーなカルチャーのはずなのに。でも、理想と現実の相克というテーマは永遠のものだから、きっとまたすごいバンドが現れると信じてるけど。
そういえば、沖野くんって曲作りは自己完結してるのに、つねにバンドがあったほうがいいというジレンマがある気がして。バンドのフロントに立って歌ってる姿がいちばんサマになるし、仮に曲作りは自分ひとりで完結できるとしても、パフォーマーとしてソロでやるという感じではないよね。弾き語りの人じゃない。

沖野:ダメということはないけど、やっぱりバンドが好きですねえ。

つまりポップス・シンガーじゃないということ。沖野くんはあくまでロッカーなんだよね。そういう意味では、ボビー・ギレスピーみたいな人って日本にいない。たとえばスカイ・フェレイラとデュエットしたら、日本だとどうしても芸能界っぽい世界になりがちじゃない。ボビーは、あくまでロック・アイコンとしてポップ・アイコンと絡んでる感じがカッコいいよね。沖野くんはそういう冒険もできる人だと思うから、ロック道を突き進んでもらいたいですね。

沖野:そうですね、がんばります。

Gobby - ele-king

 粗悪なエイフェックス・ツイン・フォロワーといったところだろうか、いや、そんなことを言ったらエイフェックス・ツイン・フォロワーに怒られるかもな。2年前、わりとインターネット・アンダーグラウンド界隈で騒がれた『Wakng Thrst For Seeping Banhee』を聴いたときにそう思った。アルカやミッキ・ブランコなど実に強力なリリースで知られる配信レーベル、UNOからの音源である。
 ジャングル? ローファイ? えー、まじかよ、こりゃひでーや、聴けたもんじゃねーな……しかし、こうしたある種のバッド・テイストがここ数年のUSアンダーグラウンドの支流として確実にある。私見では、OPNの昨年の展開もこの流れに共鳴しているもので、つまり、これはその少し前のチルウェイヴがひっくり返った感性の表出だと言えるだろう。例を挙げればキリがないが、卑近なところを言えば、これとかさ、直感的に言えば、悪戯心満載のTOYOMUがいきなりUSで受けたり、あるいは食品まつりがUSで高評価なのもこの機運に準じているのだろう。
 つまり、ドリーミーからバッド・ドリーミーへの反転である。そして音楽ライターのひとりであるぼくもこの悪い夢に付き合っていると、そういうわけだ。
 そして、これは、最初に(なかば敬意を込めて)粗悪なエイフェックス・ツイン・フォロワーと喩えたように、ゴシック/インダストリアルのディストピックな重々しさ、かったるさとは別物である。驚くほど、シメっぽくない。容赦なく悪い詩。なかばヒステリックだがギャグが混ぜられ、下らない。そういう意味では、AFXの『ORPHANED DEEJAY SELEK』もこの時流に乗っているわけだが……。

J9tZiBwtoxE

 ヴェイパーウェイヴを経て、そして終わって終わってどうしようもなく終わってゴミクズしか残っていない現在へのあらたなる門出なのかどうかはわからないが、もうひとつぼくがここにかぎ取るのは、アンチ・ダンスの意志だ。これはEDMの母国たるUSならではの反応なんだろうけれど、とにかくグルーヴというものがここまで無いのもすごいというか、まあわからなくもないな、ユーロ2016開幕式のデヴィッド・ゲッタの動きなんかを子供心に見ていたら、DJなんかになるものかと誓っただろうし。
 ゴッビーが〈DFA〉からリリースというのは、おや、ここまで来たのか、という感じである。そして、この〈DFA〉レーベルの根底にパンク的なものがもしまだあるのなら(40周年だしね)、これまた理解できる。時代は動き、音楽も動いている、間違いない。ベッドルームは汚れ、そしてポスト・エレクトロニックポップの時代はすでにはじまっている。

interview with Gold Panda - ele-king

 ゴールド・パンダの音楽は“ゴリゴリ”じゃないからこそ共感され、愛されてきた。クラブとも、エレクトロニカやIDMとも、ましてワールドともいえない……彼の中で東洋のイメージが大らかに混ざり合っているように、彼の音楽的キャラクターもゆるやかだ。

 しかしそこにゆたかに感情が流れ込んでくる。過去2作のジャケットが抽象的なペインティングによってその音を象徴していたように、具体的な名のつくテーマではなく、さっと翳ったり日が差したりするようなアンビエンスによって、ゴールド・パンダの音楽はたしかにそれを伝えてくれる。ちょうど仏像の表情のように、おだやかさのなかに多彩な変化のニュアンスが秘められている。


Gold Panda
Good Luck And Do Your Best

City Slang / Tugboat

ElectronicTechnoAbstruct

Tower HMV Amazon

 “イン・マイ・カー”が強烈に“ユー”(デビューを印象づけた代表トラック)を思い出させるように、新作『グッド・ラック・アンド・ドゥ・ユア・ベスト』でも基本的に印象は変わらない。しかしくすむこともなく、いまもってその音は柔和な微笑みを浮かべている。変化といえばジャケットに使われている写真の具象性だろうか。後に自身のガール・フレンドとなる写真家とともに取材した「なにげないもの」が、この作品にインスピレーションを与えているということだが、もちろんそれはそこに映されている日本の風土風景ばかりでなく、ふたり分の視線やダイアローグを通して見えてきた世界からの影響を暗示しているだろう。ビートや音の色彩もどことなく具象性を帯びているように感じられる。

 彼の音楽には、そんなふうに、音楽リスナーとしてよりも、互いにライフを持った個人として共感するところが大きい。言葉はなくとも。しかし以下の発言からもうかがわれるように、ゴールド・パンダ自身はその魅力を「幼稚な音楽」と称して、知識や文脈、シリアスなテーマを前提とした諸音楽に比較し、韜晦をにじませる。もしそうした言葉でゴールド・パンダを否定する人がいるのなら残念なことだ。そのように狭量な感性をリテラシーと呼ぶとするならば、いっそ私たちは何の知識も学ぶ必要はない。アルカイックな彼の音の前で、同じように微笑むだけだ。

 グッド・ラックそしてドゥ・ユア・ベスト、この言葉は彼自身のその守るべき「幼稚さ」に向けて、聴くものが念じ返す言葉でもある。


■Gold Panda / ゴールド・パンダ
ロンドンを拠点に活動するプロデューサー。ブロック・パーティやリトル・ブーツのリミックスを手掛け、2009年には〈ゴーストリー・インターナショナル〉などから「ユー」をはじめとして数枚のシングルを、つづけて2010年にファースト・フルとなる『ラッキー・シャイナー』をリリース。「BBCサウンド・オブ2010」や「ピッチフォーク」のリーダーズ・ポールなど、各国で同年期待の新人に選出。また、英「ガーディアン」ではその年デビューのアーティストへ送られる新人賞『ガーディアン・ファースト・アルバム・アワード』を獲得。2013年にセカンドとなる『ハーフ・オブ・ホエア・ユー・リヴ』を、本年は3年ぶりとなるサード・アルバム『グッド・ラック・アンド・ドゥ・ユア・ベスト』を発表した。日本でも「朝霧JAM'10」や「街でタイコクラブ(2014)」にも出演するなど活躍の場を広げている。

マダ、ジシンガナイ。

ゴールド・パンダ:(『ele-king vol.17』表紙のOPNを眺めながら)彼とは飛行機で隣になったんだよ。

ええ! 偶然ですか? 最近?

GP:2年くらい前。僕はよく乗るから、ブリティッシュ・エアウェイズのゴールド・カードを持っていて、機内でシャンパンをもらえたんだ。でもそんなに飲みたくなかったから彼にあげようとしたんだけど、スタッフの人から「あげちゃダメ」って怒られちゃった(笑)。

ははは。音楽の話はしなかったんですか?

GP:ぜんぜん。音楽のことはわからないから、話したくない(笑)。

ええー。

GP:ブライアン・イーノが言ってたよ。ミュージシャンは音楽を聴く時間がないって……グラフィックデザイナーだけがそれをもっているんだって。

あはは。でも、以前からおっしゃってますよね、「クラブ・ミュージックに自信がない」っていうようなことを。

GP:マダ、ジシンガナイ。

いやいや(笑)。とはいえ、今作だっていくつかハウスに寄った曲もあったり、全体の傾向ではないかもしれないですけど、クラブ・トラックというものをすごく意識しておられるような気がしました。これはやっぱり、あなたがずっと“自信のない”クラブ・ミュージックに向い合いつづけているってことですよね。

GP:でも、いまだにつくれないんです。前作(『ハーフ・オブ・ホエア・ユー・リヴ』)でもやろうと思った。でも、失敗して。だから今回はむしろ、「つくろう」としなかったんだ。それがよかったのかもしれない。でも、「クラブ・ミュージック」っていうのは、いまは存在していないともいえるんじゃないかな。ただの「ミュージック」になっているというか……いろんな人が、とても幅広いものをつくっているよね。

Gold Panda - Time Eater (Official Video)


あなたもまさにその一人ですね。

GP:はは。ベン・UFOとか、とても知識があって、いつもいい音楽を探し求めているDJたちがたくさんいる。インターネットのおかげで選択肢も増えて、より自由に活動できるようになっているし、それはすごくいいことだよね。

そうですね。そしてあなたは、そのインターネット環境を前提にしていろんな音楽性が溶けあっている時代を象徴しつつも、自分だけの音のキャラクターを持っていると思います。『ラッキー・シャイナー』(2010年)から現在までの5、6年の間だけでも、その環境にはめまぐるしい変化がありましたけれども、むしろあなたにとってやりづらくなったというような部分はありますか?

GP:今回のアルバムに関しては、「ゴールド・パンダっぽいもの」をつくるのをやめていて。もっと曲っぽい構成になっていて、この作品ができたことで、ゴールド・パンダの3部作が完結すると思う(※)。1枚め、2枚めでやりたかったけどできなかったことが、今回の3枚めではできていると思うんだ。1枚ずつというよりは、今回3枚めが出てやっとひとつの作品を送り出せたという気がする。だから、ゴールド・パンダとしてはじめた音を何も変えずに、ここまでくることができているかもしれないです。いまはそのサウンドに自信が持てているから、それを変える自信もついている。次はちがうものをつくっていきたいなって感じていて。

※ゴールド・パンダのフル・アルバムは今回の作品をふくめてこれまでに3作リリースされている(『ラッキー・シャイナー』2010、『ハーフ・オブ・ホエア・ユー・リヴ』2013、本年作)

自分はポップ・ソングをつくっているつもりでやっていて。

前の2作は、たとえばインドっていうテーマがあったりだとか、メディアが説明しやすい性格があったと思うんですけど、今回はそういうくっきりした特徴はなさそうですよね。そのかわり本当にヴァリエーションがあって、いろんな曲が入っています。

GP:うん。

ぐっときたのは、“ソング・フォー・ア・デッド・フレンド”とか、曲名に「ソング」という言葉がついてたりするところです。これは歌はないけど「歌」なんだっていうことですよね。

GP:ああ、そうそう、どっちだと思いました? 自分はポップ・ソングをつくっているつもりでやっていて。ポップ・シーンがあるとしたら、自分はその端っこでつくっているという感覚があるし、自分の音楽にはソングとか曲としての構成があると思っているんだ。どうですか?

私は、これを「歌」だって言われてすごく納得できました。ただメロディアスだっていうことじゃなくて、何か思いみたいなものがあるというか……。では、音が「歌」になるのに必要な条件って何だと思います?

GP:そうだな……、人それぞれの感じ方があるから、それを歌だって感じれば歌だと思うんだけど……。

音楽的なことじゃなくてもいいんです。きっと、この曲に「ソング」ってつけたかった気持ちがあると思うんですね。それについてきいてみたくて。

GP:野田(努)さんに言ったことがあるんだけど、僕にはもう亡くなってしまったフィルという友人がいて。この曲はそのフィルに向けたものでもあるんだ。彼は、僕にずっと音楽をつくれって言ってくれてた人なんだけど、僕はそれをずっと無視してたんだよね。そして、彼が亡くなったときに、初めて音楽をやってみることにした。そしたらうまくいって……。音楽をつくるってことに対して、彼がいかにポジティヴだったのかってことをいまにして思うんだ。
僕が思うに、曲にタイトルをつけると、人はその曲につながりを持ちやすくなると思う。そういうことが、ある音楽を「ソング」にしていくんじゃないかな。タイトルを操作すると、人の気持ちを操ることができる。

なるほど。音楽の感じ方を広げてもくれると思いますよ。

GP:だから、次のアルバムはタイトルなしにしようかな! もっと長かったりとか。

ははは。あなたの曲は、タイトルの言葉もおもしろかったりするから、それは大事にしていただきたくもありますけどね。

GP:いや、実際タイトルをつけるのは楽しいんです。制作の中でいちばん好きなことかも。

音楽は楽しいしハッピーになれるはずのものなのに、どこかマジメにとらえられがちで、ダークでシリアスなものが凝ったものだ、頭のいい音楽だ、って考えている人もけっこういると思うんだよね。

へえ! じゃあこのタイトルはどうです? “アイ・アム・リアル・パンク”。実際はまあ、ぜんぜんエレクトロ・アコースティックじゃないですか(笑)。「パンク」というのは?

GP:これは〈ボーダー・コミュニティ〉の人がミックスしているんだけど──彼はノーリッジの実家にスタジオを持っているんだ!──で、彼が僕の音楽のことをパンク・ミュージックだっていうんだよね。彼が自分の楽曲をつくれないからかもしれないけど。何かをつねに気にしながら凝った音楽をつくるっていうんじゃなくて、楽しく作っているから、そういうことを指して言っているのかもしれない。これは2004年につくった曲なんだけど、ルークに「アイ・アム・リアル・パンクって曲があるんだよ」って言って聴かせたんだ。そしたら彼がその上に即興でシンセサイザーをのせて、それをリバースして……。初めはジョークのつもりでつくってたんだけど、このアルバムに馴染むなって思って、入れたんだ。
音楽は楽しいしハッピーになれるはずのものなのに、どこかマジメにとらえられがちで、ダークでシリアスなものが凝ったものだ、頭のいい音楽だ、って考えている人もけっこういると思うんだよね。エクスペリメンタルな音楽にもおかしなものはあると思うんだけど、ついつい評価しなければならない、そういう強迫観念があるように思う。好きじゃない、嫌いって言うこと、それから理解してないって思われることを恐れている人が多いんじゃないかな……。だけど、僕のこの作品は、ハッピーでポジティヴなポップ・レコードなんだ。だからもし気に入ってもらえなかったら、僕はみんなにハッピーになってもらうことに失敗しているということになる。
逆に言えば、これは嫌いになってもらえるレコードかもしれない。……もし“エクスペリメンタルな”音楽を嫌いだと言ったら、きっと「きみは理解してないんだよ」って言われちゃうよね。でも、このポップなアルバムを嫌いだと言う人がいても、僕は「理解していない」とは言わない。

ふふふ、では、これはきっと頭の悪い人を試すレコードになりますね。

GP:いや、これはバカなレコードなんだ。

(笑)

GP:メロディを持っているとからかわれるかもしれないけど、メロディを持っていたっていいじゃないか、って思ってる。パンクっていうものを「怒れるもの」だって思っている人をからかっているレコードなんだ。

パンクっていうものを「怒れるもの」だって思っている人をからかっているレコードなんだ。

いや、でも日本のリスナーはそんなにバカじゃないので、これがいい音楽なんだってことはみんなわかると思いますよ。

GP:そうだね! ゴメン、そういう意味じゃなかったんだ。

ええ(笑)そして、ポップ・ミュージックの素晴らしさもよくわかります。では、これはあなたにとってのひとつの反抗の精神ではあるわけですよね。

GP:うん。そして、やりたいからやっているんだ。べつに大きなコンセプトがあるわけじゃないし、ただ音楽をつくっているだけなのに、それを人が喜んでくれるっていうのは本当にラッキーなことだとは思うよ。アートってそもそもそういうものだと思うんだ。90%くらいは、とにかくつくってみたというだけのもので、あとの10%くらいに手を加えただけなんだよ。よく自分も音楽をつくってみたいって言う人がいるけど、つくればいいのにって思う。ピアノを習うんじゃなくて、いま弾いてみればいいじゃない?

なるほど。いまの時代、自由さとか楽観性みたいなものは、表現をする人間にとって難しいものなのかもしれないと思います。あなたがそれを貫いているのは素晴らしいですよ。

GP:そうだね。自分はついているんじゃないかな。よく、忙しくて時間がないって言っている人がいるよね、でもじつは料理をしていたりとか、それが好きだったりとかして、趣味といえるものをやれているのに、それに気づいていないっていうことがある。何かを修理したりとか子どもに服をつくったりとか。……僕は、そういうこともクリエイティヴだしアートなんだって思う。それを突き詰めてみたっていいよね。自由なものはまわりにいっぱいあるはずなんだよ。

僕が日本語を学んだ学校があるんだけど、そこで近く北京語を勉強したいと思ってるんだ。

ところで、これまでは〈ゴーストリー・インターナショナル〉からのリリースだったわけですが、今回は〈シティ・スラング〉からですね。私はそれがおもしろいなって思って……だって、キャレキシコとかヨ・ラ・テンゴとか、ビルト・トゥ・スピルとか、本当にロックだったりエモだったりをフォローする、USインディなレーベルじゃないですか。これはどんなふうに?

GP:〈ゴーストリー〉とは揉めたりしたわけじゃなくて、契約が終わったから出たというだけなんだけど──その、「レーベルのアーティスト」みたいになりたくなかったから。「ゴーストリーを代表するアーティスト」みたいにね。僕は自由が欲しいんだ。僕のマネジメントをしてくれている〈ウィチタ〉と仲のいいひとが〈シティ・スラング〉にいて、それでつながったんだ。ヘルスといっしょに仕事をしていた人なんだけど。それで、僕はいろんな種類の音楽をリリースしているレーベルと契約したかったから、ちょうどいいと思ったし、自分が好きな人といっしょに仕事をするのがいいことだと思う。

なるほど、音楽もそうですけど、人の縁でもあったわけですね。でも、ゴールド・パンダのスタンスや自由さっていうのが伝わってくる気がしますよ。
そういえば、前作では「インド」がひとつのモチーフにもなっていましたよね。あなたは日本も好いてくださっていますけれども、東洋という括りの中で、「インド」「中国」「日本」っていうのは、それぞれどんな違いを持ったものとして感じられていますか?

GP:そうだね、まず日本は何度も来ているから、自分の一部というか、自分のサウンドそのもののインスピレーションのひとつになっているんだ。インドは、僕の母方のルーツで……まだ行ったことはないんだけどね。おばあちゃんが聴いていた音楽ってことで、インスピレーションがわくんだ。中国は行ったことがあるけど、まだぜんぜんわかってなくて、もっと理解したいと思ってるんだ。ぜんぜんちがう場所だけど、香港とか台湾とかも含めてね。中国は国としての存在感をどんどん大きくしていると思う。でもイギリスではそれを感じているひとがあまりいないんだよね。中国の人はしばらく前からどんどんイギリスにも入ってきていて、いろんなところにいるし、すごい田舎にまで中華のレストランが建ってたりする。でも、なかなか混ざらないんだ。だから、世界中いろんなところを旅行していてもいろんなところに中国の人がいるけど、そのアイデンティティって何なんだろうっていうのがわからなくて。僕はちょっと漢字は読めるんだけどね。(メニュー表などで)ニクがハイッテイルカドウカトカ(笑)。ロンドンには、僕が日本語を学んだ学校があるんだけど、そこで近く北京語を勉強したいと思ってるんだ。それが何か僕の音楽にいいフィードバックをもたらしてくれるかもしれないしね。音楽のセオリーも学ぼうかなって思ってたんだけど……でも僕はそんなに音楽が好きじゃないから(笑)。

つまらないもの、とるにたらない普通の場所。日常を撮りたかったんだ。でもロンドンではそれができなくて……。

ええー(笑)。でも、ちょっとリズムコンシャスな音楽をやる人って、たとえばアフリカとかに関心が行きやすいと思うんですよね。東洋に関心が行ってしまうのはなぜだと思います?

GP:なぜだろう、僕もよくわからないんだよね。でもアフリカの音楽って幅が広くて怖いっていうか。僕は14歳で『AKIRA』を観て日本に興味を持つようになったんだけど、その経験が僕をつねに日本へ呼び戻すんだ。でも、けっして僕は「オタク」じゃない。マンガやアニメだけが好きというのじゃないんだ。僕の場合、インスピレーションはアフリカのドラムとかリズムからじゃなくて、もっと雰囲気みたいなものから来るんだ。目で見たものとか、イメージとか。

もしそういう視覚的な、映像的なものから影響されることが大きいのだとすると、今回のアルバムは日本の風景との関わりが深いとうかがっているので、そのあたりのお話をうかがいたいですね。

GP:これまでも、わりとずっとそうだったんだ。ただ、それをヴィジュアルとして表現する機会があんまりなかったんだ。だからフォトグラファーのローラ(・ルイス)といっしょに日本に来て、それをやれたのはうれしいよ。彼女はそういうことを表現するのがすごくうまいし、僕らはものの感じ方がすごく似てるんだ。……僕の彼女なんですけど。

わあ、そうなんですね!

GP:カノジョニナッタ。その過程で……(照れ笑い)。

ははは、それはよかったですね。でも、日本でもとくにここを題材にしたいって思う場所はあったんですか?

GP:つまらないもの、とるにたらない普通の場所。日常を撮りたかったんだ。でもロンドンではそれができなくて……。イギリスだと自分が慣れすぎてしまっていて、何がそれで何がそれでないかということが見えにくいんだ。でも日本だと考えられる気がした。日本だからできたことだと思うんだ。

なるほど。東洋の話がつづいてしまいましたけど、一方で“アンサンク”なんかは教会音楽的なモチーフが使われていて、これはこれであなたの音楽の中では珍しいなと思いました。この曲はどんなふうに発想されたんですか?

GP:これは間違いなんだ。

ええー(笑)!

自信があるからバカって言えるんだって、いま気づいたよ(笑)。

GP:ローラはキーボードもやるから、それを借りてレコーダーにプラグインしてワンテイクで録って……それだけなんだ。本当はそれをサンプリングの素材として使おうと思ってたんだけど、聴きなおしたらこれはこれでいいじゃないかって思って。僕はあまりピアノができないから、自分でも何をやっているのかよくわかってなかったんだよね。さっきも、ピアノを弾きたければ弾けばいいっていう話をしてたけど、そういう感じでちょっと弾いてみたものなんだよ。

じゃあ、意識してつくったんじゃない、偶然的なものだったのかもしれないですけど、でもだからこそ自分の無意識の中にあった西洋的なモチーフが出てきていたのかもしれないですね。

GP:自分にとっていい音楽っていうのは、ただ楽しんで、さっさとできてしまう音楽。あんまり考えすぎたりしないけど、後から聴いていいなって思えるもの……。まあ、よくなくてもリリースはできるけどね(笑)。

考え過ぎる音楽が多い中で、そうじゃなくていいんだっていう勇気にもなりますね。

GP:ローラも写真を撮りたいなら撮ればいいじゃない? って言ってる。それと同じかもしれないよね。フォトブックをつくろうとしてたときに、どうやったらいい写真が撮れるの? って質問したんだよね。そしたら、どんなものでも、いちど出版してしまえば、それがいいかどうかは見る人がそれぞれ決めてくれることだ、って。だから、いい写真を撮ろうとするんじゃなくて、ただ撮って、それを出版してしまえばいい。それでいいと思うんだ。

なるほど、とにかくやりたいならやって、出して、あとは「グッド・ラック・アンド・ドゥ―・ユア・ベスト」ってことなのかな。

GP:そう、自分がやりたくて、しかもできるんじゃないかって思うんだったら、きっとできると思うんだ。だからやってみたらいいと思う。中流階級の白人男性ならきっとできちゃうよ(笑)。自分の小さな世界で、かもしれないけど。

ははは。じゃあ、つまらないことを難しく言う人にこの音楽を届けましょうね。グッド・ラック! って。

GP:うん、シンプルでバカなこの音楽をね。

それは自信の表れだと解釈してもいいですか?

GP:そうかもしれない。自信があるからバカって言えるんだって、いま気づいたよ(笑)。


Tugboat Records presents Gold Panda Live in JAPAN 2016

待望の新作を携えたGold Panda、
10月に東阪京ツアーを開催!

『BBCサウンド・オブ2010』や『Pitchfork』のリーダーズ・ポールなど、世界各国で2010年期待の新人に選出。
また、英『Guardian』からは新人賞『Guardian First Album Award』を獲得。
「朝霧JAM’10」や「街でタイコクラブ(2014)」にも出演するなど、日本でも確固たる人気を確立している
英のエレクトロニック/プロデューサーGold Pandaによる3年振りのサード・アルバムが遂に完成! !
既にGuardianのthe best of this weekにも選ばれている1stシングル“タイム・イーター”ほか、
全11曲を収録し、日本は世界に先駆け先行リリース! !
そして最新作を引っさげて10月に東京・大阪・京都での来日ツアーが決定!!


2016/10/15(土) CIRCUS OSAKA

OPEN 19:00 / START 19:30
ADV ¥4,000(ドリンク代別)
レーベル割価格(限定50枚)¥3,500(ドリンク代別)
[Buy] : Pコード:294-444/Lコード:55101/e+(4/11~)
peatix https://peatix.com/event/156835


2016/10/16(日) 京都METRO

OPEN 19:00 / START 19:30
ADV ¥4,000 (ドリンク代別)
レーベル割価格(限定50枚)¥3,500(ドリンク代別)
[Buy] : Pコード:294-836/Lコード:55977/e+(4/11~)


2016/10/18(火) 渋谷WWW

OPEN 19:00 / START 19:30
ADV ¥4,500 (ドリンク代別)
レーベル割価格(限定100枚)¥4,000(ドリンク代別)
[Buy] : Pコード:294-783/Lコード72961/e+(4/11~)


主催・企画制作 Tugboat Records Inc.

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