前作『he(r)art』(2017年)から2年弱、For Tracy Hyde の新作が届けられた。New Young City――SUPERCAR の同名曲から取られたというタイトルのもと、変わらぬ大作志向とコンセプト志向はますます研ぎ澄まされ、夏bot のメロディメイカー(彼の Twitter のプロフィールには一言目にそう書かれている)としての才は、その繊細な旋律とは裏腹に大輪の花を咲かせている。
『New Young City』にはふたつのトピックがある。ひとつは、ヴォーカリストの eureka がギターを持ち、ギタリストが3人並び立つようになったこと。これは結果的にバンドの音像を変え、作曲にまで影響を及ぼした。そしてもうひとつは、ふたつの曲で英語詞に挑戦したこと(“麦の海に沈む果実”では日本語詞と英語詞が両方歌われるので、実際は「ふたつ半」かもしれない)。
拡大解釈されながら人口に膾炙した「日本語ロック論争」なるものから約50年。当初の事情はともかくとして、ミュージシャンやシンガーに話を聞けば聞くほど、日本語とロックやポップスの関係性についての問題意識というのは、まだまだアクチュアルなものであるように感じてならない。私が特に気になったこのトピックについては、アメリカ育ちゆえに日本語へのこだわりを持つ夏bot に少し深く聞いてみた。
「ひとりでインタヴューを受けるのは初めてなんです」と語る夏bot との対話では、(ときに意地の悪い質問もしたかもしれないが) For Tracy Hyde のリアリズム、インターネットとの関わり、そして音楽文化や音楽そのものへの態度といった深いところにまで話が及んだ。それらを記録したこのテキストが For Tracy Hyde というバンドや『New Young City』という作品、夏bot という音楽家の姿、そのありかたを少しでも浮かび上がらせるものになっていればと思う。
もともと僕は根っからのアメリカ人だと思っていて。なので、日本人らしさや季節観、日本的な無常観は後天的に学習して身につけた部分があって。でも若手のインディ・バンドは英語で歌うのが当たり前で、日本語で歌うのはダサいという風潮すらあったり。僕が苦労して身に付けたものをそんなに易々と手放すなよ、みたいな意識があって。
■For Tracy Hyde は毎回、映画的なコンセプトや映画のモティーフを使っていますよね。どうして映画というフォーマットをなぞったアルバムを作るんでしょう?
夏bot:深い理由があるようで、特にないというか……。コンセプト・アルバムを作るうえで「架空の映画のサウンドトラック」というのは、わりと月並みな手法ではあると思うんです。
やっぱり僕は古典的なアルバム・リスナーなので、音楽をアルバム単位で、CDで通して聞くということにこだわりがあって。いまの時代はシングル単位で、(曲を)飛ばして聞くというのが主流になってきていると思うんですけど。ちゃんとCDで、アルバムを通して聞く意味がある作品を提示したいと思ったときに、「トータル性のあるコンセプト・アルバム」というのがフォーマットとしてはいちばん適しているのかなと考えていて。
で、同じく最初から最後まで通しで見ないと意味がないものとして映画というものがあると思うんですよね。なので、消費のプロセスとして一致するものがあるというか。映画になぞらえてアルバムを作ることで「これは一枚通して、一度に聞いてほしい」という意思表示やストーリーの演出が明確にできるのかなと。
それともうひとつは、このバンドが全国デビューしたタイミングで僕が好きだった人が、すごく映画を好きだったという理由もあります(笑)。その人を好きになったことをきっかけに、けっこう映画を見られるようになって。ちょうどそのとき大学院に通っていて――英文科にいたんですけど。でも、僕はもともと文学にまったく興味がなくて(笑)。
■なんで大学院にまで通ったんですか(笑)?
夏bot:就職に失敗したから、逃げるように進んだんです(笑)。文学に興味ないし、苦痛だなあと思ったので、単位を稼ぐために映画の授業を取ったんです。それがだいたいさっき言ったタイミングで、めちゃくちゃ映画を見るようになったという。
■なるほど。さっき「消費」って言葉を使ったのがおもしろいなと思って。夏bot さんは作品を消費する感覚があるんですか?
夏bot:いや、そういうわけではないんです。僕はもともと生まれてすぐアメリカに渡って、幼少期はそこで過ごした関係で、日本語は一言もしゃべれなかったんですよね。なのでいまでも習慣として、日本語と英語の両方で同時にものを考えるところがあって。
いま、完全に英語の「consume」っていう単語が念頭にあって、それで日本語で「消費」って言ってしまったんだと思います。言われてみると、ちょっと不思議な感じがするな、自分でも(笑)。
■細かいことを聞いてしまって失礼しました。このまま言語の話題にいくと、For Tracy Hyde はこれまで日本語詞にこだわっていました。それはどうしてなんですか?
夏bot:もともと僕は根っからのアメリカ人だと思っていて。大人になったら軍隊に入るつもりでいたぐらいなんです(笑)。なので、日本人らしさや季節観、日本的な無常観は後天的に学習して身につけた部分があって。
でも現代の日本社会においては、そういった部分はおろそかにされがちというか。若手のインディ・バンドは英語で歌うのが当たり前で、日本語で歌うのはダサいという風潮すらあったり。メインストリームのポップスも、サビでいきなり英語になるとか――もともとそういったものにすごく抵抗があったんです。僕が苦労して身に付けたものをそんなに易々と手放すなよ、みたいな意識があって。
あとは、日本的な情緒を表現するには日本語が言語としていちばん適しているという。僕は日本語の響きやニュアンスがすごく好きでもあるんです。なので、そういったことをトータルでひっくるめて日本語詞に対するこだわりがあるのかなと。
■夏bot さんは日本語に対して「エイリアン」みたいな感覚がありますか? それとも、ご自身の一部としてある?
夏bot:はっきりどちらとも言い難いんですけど……。言語に限らずにいまでも自分は、多少はアウトサイダー的な感覚はあるのかなと思います。東京にずっと暮らしていて、この街並みは当たり前のものだと思うんですけど、いまだに夜景がきれいだなあと感動することがあったり。
■前作『he(r)art』についてのインタヴューでもそうおっしゃっていましたね。
夏bot:ええ。だから、いまも日本の社会や風景を美化して見ている部分は少なからずあるんです。
■異邦人のような感覚?
夏bot:多少はありますね。潜在(意識)レヴェルかもしれないんですけど。
■それを踏まえてお聞きすると、新作では“Hope”と“Can Little Birds Remember?”の2曲で英語詞に挑んだことがトピックだと思うんです。これはどうしてなんですか?
夏bot:ここ数年、SNSを通じて世界各地に点在するファン層の存在を意識することがすごく多くって。WALK INTO SUNSET という日本語詞で活動しているインドネシアのバンドがいるんですけど、そのメンバーが一昨年の夏ぐらいに来日して遊ぶ機会があったんです。それを皮切りにして、インドネシアやシンガポールのインディ・バンドとつながるようになって。
■今年の1月にツアーで共演した Sobs も?
夏bot:ええ。Sobs のレーベル・メイトの Cosmic Child とか Subsonic Eye とかとは一通り会いました。それで、自分たちの音楽が日本語詞のままで世界に根付いていっている感じがあって。
それ以降、日本語詞でこれだけ浸透するんだったら、英語で歌うとどうなるのかなって気になりだしたというのはありますね。これでもし僕らの音楽がもっと海外に浸透して、いろいろなひとの人生の一部になっていったらすごく素敵だなあと。
同時に、以前から日本のインディ・バンド全般について英語がぜんぜん正確ではないというのがすごく疑問で(笑)。文法も正しくないし、発音も明瞭じゃない。英語がうまい部類に入るバンドでも脚韻に対する意識がすごい甘かったり、英語のアクセントがメロディーのアクセントに合致していなかったり。
なので、日本語にこだわりがあるイメージが強い自分たちが、ものすごくしっかりした英語の曲を出したら、それを日本のシーンがどう受け止めるかのかはちょっと検証してみたいなと。
■その視点はおもしろいですね。韻って詩/詞の音楽的な要素なので。たしかに海外のポップ・ソングってがっつり韻を踏みますよね。夏bot さんは昔から歌詞の韻を気にしていたんですか? それとも英語圏のものをずっと聞いていたから?
夏bot:気にする気にしないというよりはもう、海外で育つと「そういうもんだよな」という(笑)。韻を踏んだ歌詞というものが当たり前すぎて、逆に英語の歌詞で韻を踏まないというのがぜんぜん考えられない。そのあたりが日本語と英語の作詞面での分断というか。
日本は意味性重視で、響きにこだわらない部分が大きいと思います。そこに対して疑問があるとか、こうでなくてはいけないみたいな考えはぜんぜんないんです。実際、僕の日本語の歌詞はそんなに韻を意識して書いていないので。英語の詞は韻を踏まないといけないと感じているのと同じぐらい、日本語の詞は韻を踏まないのが当たり前だと受け止めているので、違和感はないんです。
■「エイリアン」「異邦人」なんて勝手に言ってしまいましたけど、夏bot さんの話を聞いていると、どこか冷めた視点で客観的に日本の音楽を眺めているように感じます。そういう感覚はありますか?
夏bot:特別冷めた視点があるという意識はないんですけれど……。国外の音楽に対しても国内の音楽に対しても、同じぐらい俯瞰的に見ている部分は少なからずある気がします。
もともと僕は渋谷系がすごく好きで。音楽そのものはもちろん、音楽に対する批評性というか、アティテュードの面でもすごく惹かれているんです。なので、当時のインタヴューが載っている雑誌を読み漁ったりしていた時期があるぐらいなんですけれど。彼らの根底には常に批評性や俯瞰的な視点があるので、無意識下にそれがかっこいいものとして刷り込まれているのかもしれません(笑)。
一歩引いて客観的な視点から見てるからこそ、これは使う/使わないとか、選択肢が広がる気がして。逆に当事者意識が強すぎると、そういう冷静な判断って絶対にできない。なので、意識的に俯瞰しようとか、批評意識を持とうとかしているわけではないんですけれども、結果的にそれで得るアドバンテージは少なからずあるような気がしていますね。
100パーセント・リアルではないし、非常に美化されてもいるけれども、これは間違いなく現実だし、現実で起こりうることだという。そういう意識を持って歌詞を書いて、曲を作っています。
■夏bot さんは元ネタをけっこう明かしますよね。それも渋谷系というルーツがあってこそなのかなと。「サンプリング感覚」というとまたちょっとちがうのかもしれませんが。
夏bot:「サンプリング感覚」は近いかもしれませんね。僕は Shortcake Collage Tape 名義でチルウェイヴのトラックメイカーをやっていた時期があって。図書館でシティ・ポップとか民族音楽とかのCDを適当に借りて、それを非圧縮音源として取り込んで、切り刻んで、エフェクトをかけて、みたいな遊びを延々とやってたんです。
その頃は自分の iTunes のなかにある曲を片っ端から聞いて、この曲の何分何秒から何秒まではドラムがバラで鳴ってるとか、ここは雰囲気が素敵とか、そういったものを箇条書きでメモして、それをサンプリングするっていうのをやってたんです(笑)。
■それはだいぶヤバいですね(笑)!
夏bot:なので、自分がかっこいいと思ったものを切り貼りして組み立てていくっていう感覚はその頃からあるんです。
■For Tracy Hyde にもそういうアティテュードはある?
夏bot:そうですね。僕もそうだし、ベースの Mav にしてもそういう部分が少なからずありますね。
■夏bot さんが最初に渋谷系に触れたのは?
夏bot:僕はもともとザ・ビーチ・ボーイズがすごく好きなんです。それこそ小学生の頃から(笑)。
■For Tracy Hyde のコンセプトが「Teenage Symphony for God」で、これって『スマイル』の“Teenage Symphony to God”へのオマージュですよね。
夏bot:僕、小6のときの誕生日プレゼントが『スマイル』のブートレッグだったんです(笑)。
■ええっ(笑)!?
夏bot:当時は西新宿にブートレッグの店がすごい密集してたので、僕がインターネットであたりをつけて、「この店にこれがあるから買いに連れていってくれ」って(笑)。もう本当に大好きだったんですよ。
当時、まるっと一冊ビーチ・ボーイズの話をしているムックが宝島から出ていて、それを読むと『ペット・サウンズ』の項目で“God Only Knows”をフリッパーズ・ギターがサンプリングしているなんて書いてあったんです。ただ、いかんせん小学生だったので、「サンプリング」がなんなのかをよく理解していなくって。すごくアヴァンギャルドな手法だという認識はあったので、怖い人たちがビーチ・ボーイズをもてあそんでいる、なんかやだなあとか思って(笑)。
■たしかに当時のふたりには怖いところもあったらしいので、まちがってはいないですけど……(笑)。
夏bot:その後、「NHKへようこそ!」の主題歌で聞いた、ROUND TABLE featuring Nino の“パズル”(2006年)がすごくいいなと思って。これはなんてジャンルで、どうインターネットで調べたら他に似たような曲が聞けるんだろうって調べていたら、「渋谷系」というワードにぶちあたって。それが中学生くらいかな。
渋谷系のウィキペディアを見ると、真っ先にフリッパーズ・ギターのことが書いてあるわけです。当時はまだ YouTube ができたばっかりだったんですが、とりあえず「フリッパーズ・ギター」と調べてみたら、なぜか“カメラ!カメラ!カメラ!”のMVはすでに上がっていて。そのとき初めて聞いて、かっこいいなあと思いました。それから渋谷系にのめりこんでいきましたね。
■なるほど。「インターネット」というキーワードが出てきました。もしかしたら言い方が悪いかもしれませんが、For Tracy Hyde ってインターネットで人気があるバンドだと思うんです。
夏bot:まあ、そうですね(笑)。
■バンドとインターネットの関係性ってどう捉えていますか?
夏bot:そもそもこのバンドはメンバーが全員 Twitter で集まったんです。もちろんリアルなつながりもあったんですけれど、核になるメンバーは本当に Twitter で知り合った人たち。当初は作品の発表の場も Twitter で、Twitter の台頭と共にこのバンドが成長したという意識があるんです(笑)。
なので、インターネットで支持を集めているというのは当然のことだし、ぜんぜん悪い気はしません。むしろ、7年前に初めてこのバンド名義で音源を出してから、ずーっと Twitter で言及してくださっている方々がいらっしゃるというのは本当にありがたいし、うれしいことだと思いますね。
あと、僕が宅録を始めた頃に作品を発表していたのが2ちゃん(ねる)の楽器・作曲板のシューゲイザー・スレなんですよね。
■あはは(笑)! 掲示板で曲を発表していた tofubeats にも似ていますね。
夏bot:そもそも音楽活動の出発点が2ちゃんという時点で自分とインターネットは切っても切り離せないというか。なので、自分たちがインターネットで人気があるということに対してはぜんぜん負の感情はないんです。
一方でいま、周りで台頭しつつあるバンドはもっとリアルに根差した活動とファンベースを持っているように思うんです。なので、「実体」のあるファンがたくさんいるバンド、っていう言い方をすると問題があるかもしれないんですけど……。彼らのことが無性にうらやましくなる瞬間があるのは否めませんね。
■For Tracy Hyde のファンはゴーストみたいな(笑)。
夏bot:ただ、自分たちには海外に熱烈なファンがいるというのも完全にインターネットがもたらした恩恵でもあるんです。そこは一長一短だし、現状にめちゃくちゃ不満があるわけでもない、というのが正直なところですね。
■でも、For Tracy Hyde の音楽にはインターネットというモティーフは出てこないですよね。それはなぜなんでしょう?
夏bot:逆に、歌詞には当たり前ではないものを書いている部分が少なからずあるかもしれませんね。東京の都心に住んでいると海はそんなに当たり前ではないし、自然も当たり前ではないし。そういう普段の生活のなかに当然のようには存在してはいないものが歌詞に頻出してくる傾向があると思っていて。そう思うときっと、インターネットはあまりにも当たり前すぎて、逆にもう存在が見えないというか。歌詞に書きようがない場所にある気はしますね。
僕はシティ・ポップ・リヴァイヴァルをかなり批判的に見ている部分があって。都市の一側面しか捉えていないというか、上辺だけをすくって都市を肯定していると思うんです。僕は美しい部分も醜い部分も含めて都市生活と東京という街を本当に愛している。だから、「シティ」という言葉をシティ・ポップ・リヴァイヴァルから奪還したかった。
■なるほど。ところで The 1975 って好きですか?
夏bot:ああ……。1975 はもう、神のようにあがめています。
■そうなんですね。というのも、昨年末に出たアルバムが……。
夏bot:あれは明確にインターネットありきの作品ですね。タイトル(『A Brief Inquiry into Online Relationships』)からしてもう(笑)。
■ああいったリアリズムも表現の方法としてありますよね。
夏bot:ああいう露悪性や社会性にも関心はあるんですが、自分が作品として形にするのは少しちがうなというのがあって。
■For Tracy Hyde はもっとロマンティックなもの、美しいものを表現しようとしているのかなと思います。
夏bot:そこはもう一貫しています。そう考えたときに、やっぱりインターネットってちがうなと(笑)。1975 のアルバムにしても、歌詞が好きかといわれるとそうではない。あれを自分がやりたいと思う瞬間がまったくない。やろうとしてもできないんですけど。
■それに関連してお聞きすると、For Tracy Hyde の音楽は逃避的なものだと思いますか?
夏bot:それについては、ぜんぜんそう思ってはいないんです。以前、Night Flowers というイギリスのバンドと対談する機会に恵まれたんですけど、そのときに話していたのはバンドを逃避的なイメージから切り離したいということでした。その意識は完全に共通しているというか、共鳴しているように感じます。
逃避した先にあるものって現実ではない、我々の生活ではないわけでしょう。なので、人の生活に寄り添うような、人生の一部やそのサウンドトラックになるような音楽をつくりたいと思ったときに、現実逃避的な志向に対して真っ先にノーを突きつけないといけない。もっと現実と結びつきやすいものを作らないといけないなというふうに感じていて。
アートワークの面でも具体的なモティーフをずっと使い続けていて、そこには逃避的な志向や抽象性への拒絶という意味合いが少なからずありますね。
■では、夏botさんたちの音楽は For Tracy Hyde としてのリアリズムを表現している?
夏bot:そうですね。僕はリアリズムのつもりで書いています。100パーセント・ノンフィクションではぜんぜんないんですけれども、ある程度は自分の実体験だとか、友だちから聞いた話だとか、SNSを通じて見えた人の暮らしだとか、そういったものを歌詞に落とし込むようにしているので。100パーセント・リアルではないし、非常に美化されてもいるけれども、これは間違いなく現実だし、現実で起こりうることだという。そういう意識を持って歌詞を書いて、曲を作っています。
どんな音楽でもやっぱり芸術だと思っているんです。なので、いま改めて芸術としての音楽を問い直したいというか。ある意味では、「市民宗教的」というか、日本の八百万の神みたいな――そこにいるのが当たり前だけれども、大事にしなきゃいけないというか。なんとなく見守ってくれる存在というか。「いてくれて、ありがとう」という感じです。
■なるほど。それも踏まえてオーソドックスな質問をすると、今回の『New Young City』にはどういうコンセプトがあったんですか? 前作には「東京」というテーマがあったわけですが、今作のタイトルは具体的な街ではないところが気になっていて。
夏bot:実はリリース前にインタヴューを受けるという経験がいままであまりなくって、今回が初めてなんです。やっぱり、リリースして初めて見えてくるものが少なからずあるというか。
■まだ未整理な部分がある?
夏bot:そうなんですよね。自分のなかで具体的に見えてない部分も大きいんです。もともと僕はシティ・ポップ・リヴァイヴァルをかなり批判的に見ている部分があって。あれは都市の一側面しか捉えていないというか、上辺だけをすくって都市を肯定していると思うんです。あとはパーティ・ライフとか、都市生活の享楽的な部分をもてはやしている印象があります。
なので、前作はシティ・ポップの意匠を取り入れて、シティ・ポップ・リヴァイヴァルの体を装って、その都市幻想を内側から瓦解させることを目標にしていたんですけれども。でも、そのコンセプトが伝わりきらなかったというか――自分たちの音楽を形容する時に「シティ・ポップ」という言葉が使われだりとか。「あいつ、あんなにシティ・ポップを馬鹿にしてたのに、自分たちのアルバムのキャッチコピーに『シティ・ポップ』って使ってるやんけ」みたいなことをネットで書かれたりとか(笑)。
自分の力不足もあると思うんですけど、そこを表現しきれなかったことがすごく悔しかった、悔いが残ったんですよね。
■アンチテーゼとしてやったのに、ベタに取られてしまった?
夏bot:そうなんですよ。表層しかすくわれなかったことに傷つきつつも、やっぱりシティ・ポップ・リヴァイヴァルに対する憎しみが消えないというか(笑)。
■あはは(笑)。今回もそれを引きずっている?
夏bot:そうですね。僕は美しい部分も醜い部分も含めて都市生活と東京という街を本当に愛している。だから、「シティ」という言葉をシティ・ポップ・リヴァイヴァルから奪還したかった。一旦そこをまっさらにして、非シティ・ポップ的な文脈で都市生活を肯定してみたかったというのが、少なからず意識的にありますね。
なんで“New Young City”っていうタイトルにしたかというと、文字通りあらゆる文脈とか含意とかを一旦切り離して、まっさらに新しく街を、都市生活を表現したかったというのがあるんです。
同時にこれは、SUPERCAR の『Futurama』の収録曲のタイトルでもあって。もちろん SUPERCAR からはたくさん影響を受けてるし、先人たちの音楽の上に自分たちの音楽が成り立っているという意識は常にあるので、そういうリスペクトの表明でもあります。
あるいは文化が堆積して、ある程度並列化され、古今東西の文化に同時に触れられる場として都市が存在してるというのも表現したくて。……というのがおおまかな概要ではあるんですけど、まだちょっと細かいところが見えていなくて。
■とはいえ For Tracy Hyde って、外的な状況にそこまで音楽的にヴィヴィッドに反応するバンドではないと思うんです。そこはどうですか?
夏bot:ものによりますね……。セカンド(『he(r)art』)ではシティ・ポップ的な意匠や1975 的なサウンドを取り入れたり、インディR&Bの流行に反応してそういった要素を取り入れたりとかしていて。
■でも、そこまでわかりやすい形ではやらないですよね?
夏bot:まあ、露骨にはやらないんですけど、伝わる人には伝わる感度でやっています。
今作に関していうと、今年来日した Turnover が所属している〈Run for Cover Records〉とか、あの周りのエモとシューゲイズのクロスオーヴァー的な音楽をやっているバンドであったり、Alvvays であったり、いまUSインディで流行っているサウンドに感銘を受けている部分がかなりあるんです。もちろんそれをそのままやることはしないし、それは自分の美学には反するというか。あくまでも邦楽の文脈で洋楽的なサウンド・デザインを取り入れることに一貫して取り組んでいるので。
わかりやすい形で反映しているわけではないと思うんですけども、トレンドから自分たちを完全に切り離しているかというと、もうそれは絶対にノーですね。だからこそ、今作を作ったことでいろいろ見えてくるものがあった。セカンドを作った後は、自分がこの先何をしたらいいのかを完全に見失ってしまって。
■それはやりきったから?
夏bot:やりきったし、どうしたらこの作品以上のものを作れるのかとかがぜんぜん自分のなかで見えなくって。その結果活動が停滞して、このアルバムも約2年ぶりの新作になりました。一時期、このバンドはこのまま終わってしまうんじゃないかって……。
■そこまで考えていたんですか?
夏bot:そういう懸念がリアルになっていました。でも今作ができて、それなりにトレンドに呼応しつつも自分たちらしい作品としてまとまって、かつ前作より自信を持って提示できるものになった。なので、この先も数年にわたって、少なくとも数年単位で、その時々のトレンドに向き合って、適度に取り入れつつもちゃんと自分たちらしい作品を作っていけるっていう自信が芽生えた感じがありますね。
それはたぶん、他のメンバーも同様なんですけど。前作で一回終わりかけたけども、今作で持ち返したし、あと数年はぜんぜん戦っていけるっていうのが共通認識としてあるはずですね。
■バンドのモードが変わったのはどうしてなんですか?
夏bot:明確に因果関係があるかはわからないんですけれども、やっぱりトリプル・ギターになったというのがあって。
■ヴォーカルの eureka さんがギターを弾くようになったんですよね。
夏bot:ギターが1本増えて、従来のシンセをいっぱいレイヤリングして、アトモスフェリックな音像を作るっていう手法が使えなくなった。なので、シンプルに削ぎ落とす必要が出てきたんですよね。音像がシンプルになったぶん、もっとちゃんと歌を聞かせないといけないし、それには当然歌詞とメロディーを大事にしないといけない――そういう基本的な部分に立ち返ることができたというのも多少あるような気がしていて。
音像を見つめ直したらソングライティングが変わったっていうのは絶対ある。かつ、シンプルに歌と向き合うっていうことを考えたときに、さっき名前を挙げた Turnover とか、昔から好きな Jimmy Eat World とかが持っている歌心や情感が、かなり自分のなかでしっくりきたんです。それがいまやろうとしていることとすごくマッチしているなっていう実感が湧いた。あとは、もっとストレートなギター・ロックっぽいアプローチをしようと考えたことで、PELICAN FANCLUB や mol-74 のような、いま邦ロックのメインストリームにいるバンドの音楽とも向き直るきっかけになって。
■最後にひとつお伺いします。夏bot さんのブログを読んでいると、聞き手やシーンのことをすごく考えていらっしゃいますよね。先日は「僕は本気で自分のルーツに当たるインディ音楽にメインストリームでのポピュラリティを獲得させたくてバンドをやっています。そうすることでメインストリームの音楽は多様化してより豊穣になり、インディからメジャーに至るまでバンド・シーン全体の活性化/延命に繋がると思っているのです」と書いていました(https://strawberry-window.hatenablog.com/)。でも、バンドで音楽をやる、曲を作るって、世のため人のためにやるわけじゃない。なのに夏bot さんがこれほど聞き手や周りのことを考えているのはどうしてなのかなって思ったんです。ご自身が音楽文化から恩恵を受けてきたからなのか、あるいは思いやりが深い方だからなのか……。
夏bot:ああいうのは大概まあ、はったりですよ(笑)。
■そうなんですか? でも、心にもないことを言っている、という感じではないですよね。
夏bot:でかいことを成し遂げたいな、一旗揚げたいと思ったときに、できっこないよなと思ってたら、絶対できないので。やっぱり、ある程度大きな目標を成し遂げようと思ったら、ちゃんと大きいことを言っていかないといけない。でも、本当に思ってないことはやっぱり絶対言えませんよね。
自分は作り手以前にいちリスナーとして、本当に音楽に救われてきたり、生活を支えられたりした部分があるんです。Ride のような80年代、90年代の、決して演奏はうまくないんだけれども、とにかく曲が抜群によくって、かつ複雑なことをしていないから自分でも似たようなことができるかもしれないって思えるバンドと出会ったことが、いまの自分の人生にかなり大きな影響をもたらしている。いまバンドでこんなことをやってられるのも、高校時代に Ride とかと出会って、野球部を辞めたからで(笑)。
■あはは(笑)。野球部を辞めてギターを持ったんですか?
夏bot:いえ。野球部をやりながら宅録をしてたんですけど、宅録のほうが楽しいなと思ったっていう、それだけの理由なんです。自分は音楽に人生を変えられたので、同じように音楽で人生が変わる方がいらっしゃるとうれしいなあという気持ちは少なからずあります。そこを目標にして音楽に取り組んでいるのは、事実ではありますね。
■安っぽい言い方ですけど、「音楽カルチャーへの恩返し」というか。
夏bot:そうですね。何かしら恩返し、寄与したいというのはあるし。そうやって自分の音楽を聞いて育ったバンドが将来出てきたとして、そのバンドが同じようにシーンへの寄与だとかリスナーへの貢献とかを意識した音楽を作るようになって――そういうサイクルが生まれたらそれはすごく素敵だと思う。一時しのぎとか商業主義とかではない、ちゃんとした遺産というか、伝統というか。そういう精神性が継承されていくことで、ポピュラー・ミュージックの寿命は少しでも延びていくと思うので。
■ポピュラー音楽は死にかけていると思っています?
夏bot:そうは思っていないんですけど、少なくとも音楽は芸術だという認識はどんどん薄れていっている。(違法音楽アプリの)Music FM のように、音楽は無料でそこらに転がってるのが当たり前で、崇高な表現を目指して作られているものではないとか、一時的な流行の消費物だとか――そういう認識をされているように感じる瞬間がすごく多くって。
でも僕は、どんな音楽でもやっぱり芸術だと思っているんです。なので、いま改めて芸術としての音楽を問い直したいというか。そういう認識を広めて、受け継いでいきたいという気持ちは少なからずありますね。ただ、いかんせん自分にそんな影響力はないので、それがどこまでできるのか、まだわからないんですけど。ゆくゆくはそういう視点から発信できるような立場にいけたらなあと思いますね。
■でも、「芸術」としてしまうと権威主義になる可能性もあると思うんです。ポピュラー音楽は私たちに近いものであるからこそすばらしいのであって、崇高なものだと思われ過ぎるのもおかしい……。そこはどうですか?
夏bot:そうなんですよね……。ある意味では、「市民宗教的」というか、日本の八百万の神みたいな――そこにいるのが当たり前だけれども、大事にしなきゃいけないというか。
■お地蔵さんとかお稲荷さんとか?
夏bot:お地蔵さんを蹴ったらバチが当たるでとか、唾を吐きかけたらあかんでみたいな。
■それがポップ・ミュージック?
夏bot:それぐらいの感じで、そんなに恭しく接する必要もないし、畏れる必要もないけれども、なんとなく見守ってくれる存在というか。「いてくれて、ありがとう」という感じです。それぐらいの立ち位置に収まるとちょうどいいのかなあと。
音楽を芸術だと捉えるのが権威主義的というよりは、逆に旧来の絵画や彫刻のようなファイン・アートや、映画とか写真とか、ああいったものが位置として上にいすぎるのかなという意識もあるんです。なので、そのへんがもうちょっと平らになって、その中間地点ぐらいの位置に音楽も収まって、身近に接することができるものだけれども、ちゃんと価値があるし、人の心を動かしたり人生を変えたりする力があるものとして並び立つと、ちょうどいいのかなという気がします。
■わかりました。では、この『New Young City』を聞いて、野球部を辞めて、ギターを持ったり宅録をはじめたりする少年少女たちがいればいいなって思いますね。
夏bot:べつに野球は続けてくれてもいいんですけどね(笑)。
For Tracy Hyde『New Young City』 Release Tour 『#FTHNYC』東京公演
2019年10月16日(水)
会場: 渋谷WWW
出演: For Tracy Hyde
guest / warbear
opening act / APRIL BLUE
時間: 開場 18:00 開演 19:00
料金: 前売り 3000円 当日 3500円
*ドリンク代別
チケット
e+にて発売中
https://eplus.jp/sf/detail/3042780001-P0030001