「Ord」と一致するもの

Takao - ele-king

 私見では、ここ数年のニューエイジ・リヴァイヴァルを牽引してきたヴィジブル・クロークスによる2017年作『Reassemblage』が広くエレクトロニック・ミュージック一般のファンにも好評を持って迎えられたことで、同シーンの活況は更に高次のレヴェルに突入したと考えている。以降、これまで他ジャンルで創作をおこなっていたアーティストも含め、昨今のアンビエント~ニューエイジ再興に(自覚的にせよ、あるいはそうでないにせよ)参画し始め、今年2018年はそうした趨勢が一層可視化された年だったと言ってよいだろう。
 リイシュー・シーンに目を移してみても、オランダの〈Music from Memory〉、ベルリンの〈Aguirre Records〉といったレーベルの活発なリリースは継続して注目すべきものであるし、エレクトロニック・ミュージックとは縁遠いように見えていた総合リイシュー・レーベル米シアトルの〈Light in the Attic〉からも、アンビエント時代を含む細野晴臣の各作がLP化されるなどの動きもあった。そして、その〈Light in the Attic〉からは、来年2019年2月に、『Kankyō Ongaku: Japanese Ambient, Environmental & New Age Music 1980-1990』と題された日本のアンビエント~環境音楽の決定版的コンピレーションの発売も予定されている(https://www.ele-king.net/news/006610 編纂はヴィジブル・クロークスのスペンサー・ドーランだ)。

 こうしたムーヴメント自体は、vaporwaveの興隆~変質(OPNジェイムス・フェラーロのキャリアを参照)などとも複層的に絡み合いながら展開してきたもので、元来は海外発のものでもあった。しかしながら、その音楽要素の参照先として最も大きな影響力を持っているのは、上述のコンピレーションに象徴的だが、かつて(主に80年代に)日本で創られたアンビエント・ミュージックなのだ。
 古くからの日本国内のリスナーはやや面食らう部分があったかもしれない。なぜなら、そうした音楽は、音楽聴取文化の前線からは長い間完全に後退していたからだ(もっと直截な言い方をすれば、忘却されていたと言ってもいい)。細野晴臣のようにポップス・シーンとの交歓を常に怠らなかった稀有な例を他にすれば、あるいは、久石譲のように“国民的映画音楽作家”となっていった例を別にすれば、そうした作家達が積極的に顧みられることは稀だった。高田みどり、芦川聡、吉村弘、尾島由郎、鈴木良雄、日向大介・野中英紀らによるインテリア、他沢山の作家達の作品が一斉に注目を集め、誰かしら国外のマニアによってYouTubeに投稿されたそれらが、AIによるアルゴリズムによって新たなインターネット・ミームになっていったとき、これらの音楽は「はじめて」我々の眼前へその広大な世界を現したのだった。
 そうした中、これらの生産地だった日本からも、かつての“抹香臭い”ニューエイジ感覚からは隔絶した新世代の作家達がいよいよ現れつつある。例えば、やけのはら、P-RUFF といったアーティストと UNKNOWN ME というアンビエント・ユニットを組む H.Takahashi の目覚ましい活躍は、現在胎動するシーンへ多くの人の目を向けさせつつあるし、そうした動きが海外へと更にフィードバックされるという流れも起こっている。

 ここにご紹介するのは、今年6月にBandcampにて発表された日本人作家 Takao によるファースト・アルバム『Stealth』だ。本作こそは、現在起こりつつあるこうした潮流の中から生まれた稀有な作品として、これから先も聴き継がれ語り継がれていくであろう傑作であると断言したい。
 92年生まれの Takao は、いまミュージシャンの標準的発信ツールとなっているSNS上にも“存在しない”ため、その素性を掴むことが難しいのだが、以前にwebメディア AVYSS に公開されたインタヴューによれば、幼少期に触れたゲーム・ミュージックによって音楽に目覚めたというから、原風景としてテレビゲームを経由してエレクトロニック・ミュージックを摂取するという、同時代の世界的ベーシックともいうべき感覚を共有していることが分かる。
 『Stealth』は、今年夏にネット上でセルフリリースされた後、コアなファンの中で話題となっていたが、その後日本が世界に誇る先鋭的総合レーベル〈EM Records〉にフックアップされ、新装を纏い10月にデジタルで、11月にCDとして再リリースされるに至った。(2019年1月にはヴァイナル・リリースも予定されている)。
 濱瀬元彦、武満徹、新津章夫、ヤン富田、Sean McCannといった作家達に影響を受けたという彼の音楽は、そういった先達の名前から連想するように先鋭と柔和が絶妙に掛け合わされた印象を抱かせる。新しい世代のアンビエント作家の必須アイテムであるDAW(彼は、特にエレクトロニック・ミュージックにポテンシャルを発揮すると言われている ableton live を使用しているようだ)、ソフトシンセサイザー、各種MIDIコントローラーというシンプルな環境で制作されたというが、音素ひとつひとつの選択と配置、ミキシングは、極めて精緻な音響意識を感じさせる非常に高レヴェルのものだ。昨今のニューエイジ・リヴァイヴァル以降に特徴的な、かつてのデジタル・シンセサイザーのFM音源を彷彿とさせる音色作りやフレージングには、音響作家としての優れた審美眼、そしてメロディーメイカーとしての高い素養が映し出される。また、シーケンシャルな要素がゆっくりと変化を交えながら豊かなストーリーを物語っていく様からは、構造的な楽曲把握を聴くものに快く意識させるという点で、ダンス・ミュージック的快楽性に通じるキャッチーな感覚をも運び込む。一方で、ノイズ、ドローン、環境音、それらのレイヤーを大胆に“時間”というキャンパスへ塗り込んでいく筆使いには、細やかさとダイナミズムが不敵に同居してもいる。これらの多種多様な要素が、アンビエント作品としては珍しく各曲2~3分ほどという短尺の楽曲に詰め込まれ、全13曲という、まるで“ポップ・アルバムのような”ヴァラエティを聴かせている。

 こうした各音楽要素や全体構造は、結果としてこの『Stealth』という作品に、テン年代末期的とも、リヴァイヴァルに傾倒している(80年代的)とも、あるいはどこか特定の国・地域で作られたとも判別しかねるような印象を強く与えている。
 上述のインタヴューで、「作った年や作者、ジャンルがわかりづらいようになれば面白いかなと思いました。アルバムの曲名は雰囲気やイメージに近い名前になっていて、影響はわかりやすいのかもしれませんが、全体としてはなんでこれが作られたのか不明な感じにしたかったです」と語られている通り、その目論見は見事達成されていると言っていいだろう。

 思えば、こういった“分からなさ”、もっといえば“ステルス性”(=不可視性)というのは、翻ってみれば、かねてよりアンビエント・ミュージックが元来備えていたところの“匿名性”や“非作家性”というものに共通するものでもあると思い当たるのだった。
 そういった伝統的ともいえるアンビエントの“不可視性”に、ポストインターネット的な、更なる脱歴史的様相を与える2018年の Takao と彼の音楽は、回顧か新進かという使い古された批評軸を超え出た次元で、稀なる先鋭的を備えた存在であるとも言えよう。そして、その構造というのは、いま“ニューエイジ”復権にまつわって生まれている、失われた近過去と、起こり得なかった未来に憧憬と諦念を同時に抱いてしまうということへの分析、その多層性とも分かちがたく共通性を持ったものでもあるだろう。(*)
 いつ、どこで、誰が何のために作ったのか分からない、未来からやってきた音のオーパーツ。2018年に生まれたこの新しいマスターピースに心身を浸しながら、エレクトロニック・ミュージックの来し方行く末について、静かに夢想を巡らせたい。

(*)昨今のニューエイジ復権についての思想的背景については以下の拙稿を参照
〈ニューエイジ〉復権とは一体なんなのか – by 柴崎祐二
https://shibasakiyuji.hatenablog.com/entry/2018/12/19/224943

KTL - ele-king

 KTLのサウンドはロックと電子音楽における「消失と咆哮」の先に鳴り響く壮絶なドローン音響空間である。どこか原子の生成を思わせる物質的な電子音と、まるで宇宙の発生を想起させるような強靭なノイズが、高密度かつ高感度に並走・融解し、聴き手の音響空間へと浸食・制圧し、耳を、その脳を、その空間を、その磁場を、その重力を震動させるだろう。音のバロックと、その崩壊のようなドローン・ノイズ。
 00年代以降に勃興したドローン作品の中でも、アンビエントなサウンドにはならず、リスナーの聴取空間に制圧感覚をもたらすという意味で、ドゥーム/ノイズの強靭さとグリッチ・ノイズ/電子音響の刺激を合わせ持つ類まれなユニットといえよう。

 それもそのはずだ。ご存じの方も多いだろうしいまさら多くの説明は不要かもしれないが、このKTLは、あのサンO))) のスティーヴン・オマリーと、電子音響作家ピタにして〈Editions Mego〉主宰のピーター・レーバーグのユニットである。彼らはオリジナル・アルバムを5作リリースしている。まず2006年に『KTL』、ついで2007年に『2』、さらに同年にはEP「3」、そして2008年に『IV』(ジム・オルークによるプロデュース)、2012年に『V』(マーク・フェルがアートワークを手掛けている)を発表する。ライヴ音源なども多くリリースされているが、アルバム・ナンバーを冠したオリジナル・アルバム(EP)は、〈OR〉リリースのEP「3」を除き、これまではピタの〈Editions Mego〉からリリースされてきた。
 しかし新作『The Pyre: Versions Distilled To Stereo』は現在絶好調のリリースを仕掛けるフランスの〈Shelter Press〉からとなった。これには驚かされたが、しかしアートと音響を越境するこのレーベルならば、KTLと結びつくのは必然ともいえる。
 じじつ、本作は、フランスの振付家ジゼル・ヴィエンヌ(Gisèle Vienne)の舞台/ダンス作品『The Pyre』のために制作されたという越境型の音響作品である。その意味ではサウンドトラック盤に近いアルバムかもしれないが、しかし、本作の音には彼らの新しい音響的境地が凍結されており、やはり「オリジナル・アルバム」にもカウントすべき作品にも思えた。あえていえば「硬質/静謐」の生成である。
 音はパリのIRCAMで制作された。舞台はマルチ・チャンネル作品らしいが、本レコード用にKTLの手によってステレオ・ヴァージョンにエディットされている。ミックスをサンO))) の共同プロディースを手掛けている音響作家ランドール・ダン、そしてマスタリングを名匠マット・コルトンが手掛けている点も注目したい。

 前作『V』は2012年リリースなので、なんと6年ぶりのアルバムだ。2018年末は注目すべきエクスペリメンタル・ミュージックが多数リリースされているが、その中でも重要作品といえる。モダンな舞踏作品の音響音楽だが、そのサウンドの肉体への拘束力が、身体が発する重力に抗いたいという意志にシンクロするような音響となっているのだ。時代の先端的なモードを疾走するような「最新音楽」は、抵抗とシンクロを同時に生み育てるものだ。そこにおいては「重力」への抗いこそが、音楽の抵抗とシンクロのアナロジーとなる。このKTLの新作も「最新音楽」のテーゼを象徴するように、新しいアトモスフィアを生成しているように感じられるのだ。
 さらに本アルバムの音は、これまでのKTLと比べて、冷たい鉄のように静謐なのである。轟音の先に漲る硬質でスタティックかつマテリアルな音の生成とでもいうべきか。仏「IRCAM」録音ということもあるが、その鉱物的ともいえる電子音は、まさにピエール・シェフェール、ピエール・アンリなどフランスの電子音楽とミュジーク・コンクレートの伝統に即した音響ともいえよう。同時にその音響は過去の伝統という重力も強く振り払う。肉体と重力からの解放をテーゼとするモダンなコンテンポラリー・ダンスの音楽をベースとした作品としては、完璧な音響を構築しているとすらいえる。これもまた肉体/重力への静かな抵抗の意思の表出といえないか。

 アルバムには全5曲が収録されており、全体でひとつの大きな流れを作っている(ベースが舞台作品の音響音楽なのだから当然だろう)。どの曲もガラスのように透明で、その砕け散った破片のように鋭利で、澄んだ早朝の空気のように清冽でもある。電子音が、波のようにダイナミックに、かつ繊細な変化と生成を行い、聴き手の脳内にインプリティングされている反復という概念を静かに拡張していく。それは確かにピエール・アンリやシェフェールを思わせるオーセンティックな電子音楽のようでもあり、シェーンベルクやヴェーベルンなどの20世紀型の無調の弦楽曲のようでもあり、轟音が過ぎ去ったあとのノイズ/ミュージックのようでもあり、そのどれでもない。「形式」という状態に束縛されてはいないのだ。ここにおいて重要なのは意識への新しい作用とムードの生成にある。

 特にアルバムの最終楽曲にして10分36秒に及ぶアルバム中最大の長尺曲“SuperMellow”は圧倒的な聴取体験をもたらしてくれる。静謐にして、しかし空気を一気に支配してしまうような電子音と具体音の折り重なりは、宇宙の秘密を垣間見るような強烈な音響空間だ。静謐な空間にいくつもの音が舞うように鳴り、生れ、舞う。やがてそれらの音はダイナミズムを増していき、ノイズへと生成変化を遂げる。その刹那、それらの音たちは、「過去」になっていくだろう。まるで「重力」を振り払うように。あたかも「光」の発生のように。もしくはマーラーの交響曲のコーダのように。ロマンティックな時代が終焉し、光と速度の世界へと変わることを宣言するように。
 それはむろんこの曲だけに限らない。このアルバム全体に漲る音響運動には、地上の「重力」に抵抗する強い意志=芯があるように感じられる。踊ること、舞踏は、まさに重力への抗いであろう。KTLのこのアルバムは、そんな意志に見事にシンクロしている。それはサウンドのエディットがもたらす時間の変容感覚ゆえだろう。そう、透明な光のごとき美的完成度と強靭さを称える最新の音響音楽がここにある。

Rhetorica #04 - ele-king

 墨の箱からするすると本体を取り出す。金と銀、2種類の帯にくるまれたそれらの物体は、そのまま彼らに起きた変化を物語っているかのようだ。前回以上に練りこまれたデザイン。傍線や註、ルビ、引用など細部まで徹底している。2年前に書評で取り上げた『Rhetorica #03』、それにつづく『Rhetorica』の第4号がついに発売となった。特集は「棲家(すみか)」――と言ってもそれは狭義の巣や家を指しているわけではない。瀬下翔太による巻頭言は「ぼくたちの「生き方」はもう同じではない。それでも一緒につくるにはどうすればよいのか?」と謳っている。つまりは場ならざる場、あるいは何をも共有しない共同体、というような感じだろうか? まだ読みはじめたばかりだけれど、「ゼロ年代」、『リトルバスターズ!』、『寄生獣』などなど、目次には興味深い数々の名前が並んでいる。ele-kingでもおなじみ、ダブクラのシンタも寄稿している。tomadもいる。『新復興論』の小松理虔のインタヴューもある。『アーギュメンツ』の黒嵜想もいる。松本友也による論考はボードレールからマーク・フィッシャーまでを鮮やかに繋いでみせる。『Rhetorica』入魂の4冊目には2018年、いまこのときの彼らにしかなしえない思索や批評や対話がぎゅうぎゅうに詰めこまれている。少しでも今日の人文的な状況や文化的なあれこれが気になっている方なら、まず手にとって損をすることはないだろう。というより、手にとらなければならない――オブジェとしてもコンテンツとしてもこれほど強くそう感じさせてくれる書物はなかなかないと思う。目次やお求め方法などは下記より。

Rhetoricaは、これまで2年に1度発行してきたインディペンデント・マガジン『Rhetorica』の4冊目を2018年12月16日に発行します。
『Rhetorica #04』は、「棲家」──〝つくり続ける〟ために必要な都市・集団・生活について考える箱入り二分冊の本です。

https://rheto4.rhetorica.jp/

私たちはいま、都市において、集まって余裕のある時間を過ごすことが難しくなっています。
ゆっくりとした時間や思考、空想は今や贅沢なものになってしまっています。
私たちが『Rhetorica #04』を通じて考えたのは、家族ができたり、物理的に遠いところに行ったり、身体を壊したりしても、
それでも仲間と一緒にクリエイティブであり続ける条件や方法です。

私たちは、人に、都市に、文化に、どんな期待を持つことができるのでしょうか。
見慣れた固有名詞にありふれたキュレーション、綺麗に形だけ取り繕ったメディアでは届かない問いに向き合っていることが、本誌の特徴です。
都市に棲み直すために、クリエイティブであり続ける条件や方法を考える。
00/10年代の都市文化批評誌『Rhetorica #04』、2018年12月16日発売。

◆Rhetoricaとは?

Rhetoricaは、2012年に発足した、思想/建築/デザインを架橋しながら批評活動を展開するメディア・プロジェクトです。
完全自主出版のインディペンデント・マガジン『Rhetorica』『RhetoricaJournal』『rhetorica.jp』の発行/運営を行っています。
Rhetoricaのメンバーは、慶應義塾大学アートセンターとコラボレーションした「都市のカルチュラル・ナラティヴ」プロジェクトや、Maltine Recordsのロンドンやアメリカでの公演の支援、島根県津和野町における高校生向け下宿の運営など、多岐に渡る活動を行っています。

◆商品情報

名称:『Rhetorica #04 特集:棲家』(箱入り2分冊、分売不可)
価格:3,000円(通販の場合3,500円送料込み)
ウェブ:https://rheto4.rhetorica.jp/
発売日:2018年12月16日
販売場所:各種イベントおよび手売り、ウェブでの通販
販売元:Rhetorica

Daniel Crawford - ele-king

 ロバート・グラスパーの成功以降、ジャズとヒップホップやR&Bを同列に演奏し、その間を自在に行き来するジャズ・ミュージシャンも普通となってきた。クリス・デイヴやマカヤ・マクレイヴンのように、ビートメイカーやプロデューサーも兼ねるミュージシャンも増えている。西海岸であればスヌープ・ドッグやケンドリック・ラマーらと一緒に仕事をするテラス・マーティンとか、ニュージーランド出身で現在はロサンゼルスを拠点とするマーク・ド・クライヴローなどが、そうしたプロデューサー・タイプのミュージシャンの筆頭だろう。ロサンゼルスのサウス・セントラル出身のダニエル・クロフォードも、同じくマルチ・ミュージシャン/プロデューサーのひとりだ。5才からピアノを始めた彼は、ハイ・スクール時代の仲間とワイルド・バンチというヒップホップ・バンドを結成し(マッシヴ・アタックの前身のワイルド・バンチと同名だが、全く別のバンド)、その活動をきっかけにラファエル・サディークやメアリー・J・ブライジなどと共演するようになった。ヒップホップ、R&B、ソウル、ファンク方面の多くのセッションに参加してきた経歴は、グラスパーやクリス・デイヴなどのそれと被るところもあり、実際に彼の作品はロバート・グラスパー・エクスペリメントの影響が強い。2012年にリリースしたファースト・アルバム『レッド・ピル』では、RGEの“ムーヴ・ラヴ”を自身のピアノでリミックス(というかカヴァー演奏)しているが、ジャズ・ピアノとヒップホップ・ビートの融合から、ヴォコーダーを用いた演奏、メドレー形式やインタールードを挟んだスタイルは、まさにRGEの『ブラック・レディオ』を彼なりに咀嚼したものと言える。

 2014年にはセカンド・アルバム『ジ・アウェイクニング』をリリースするが、こちらはアンプ・フィドラー、ヴィクター・デュプレ、クリーヴランド・P・ジョーンズらをシンガーとしてフィーチャーし、インストのジャズ×ヒップホップ集だった前作から格段に音楽性の幅が広がっていた。その音楽性の拡張にはアフロやブロークンビーツなどの要素の導入もあり、ダニエル・クロフォード自身もいちミュージシャンではなく、総合的な音楽プロデューサーへとステップ・アップした姿が伺えた。『ジ・アウェイクニング』は日本でもCDリリースされ、新世代ジャズ・ミュージシャンのひとりとして来日公演も行ったのだが、基本的に彼はbandcampで自主リリースを行うスタイルをとっている。ミックステープやリミックス集、Jディラへのトリビュート作品などリリース自体はとても多いものの、グラスパーやテラス・マーティンなどに比べればまだまだアンダーグラウンドな存在である。そんなダニエル・クロフォードの『ジ・アウェイクニング』以来、4年ぶりとなるニュー・アルバムが『レヴォリューション』である。

 『レヴォリューション』は『レッド・ピル』『ジ・アウェイクニング』から続く最終章という位置づけで、ソウルの影響が色濃いジャズに、アフロビート、フュージョン、R&B、ヒップホップなどのエッセンスを融合したもの。今回は前2作に比べてずっとゲスト・ミュージシャンが増えて、DJジャジー・ジェフ、ダイン・ジョーダン、マイモウナ・ユセフ、カイディ・テイタム、オスンラデ、ジメッタ・ローズ、オマリ・ハードウィックらが参加。この中で注目すべきはUKのカイディ・テイタムだろう。そもそもカイディは、ミュージシャンとプロデューサーを結ぶスタイルや音楽を1990年代からやってきた大ベテランで、現在の南ロンドンのジャズ・ミュージシャンにも多大な影響を及ぼすひとりだが、ダニエル・クロフォードにとっても指針とすべきアーティストであることは、今回の共演を見ても明らかだろう。ジャジー・ジェフ、ジメッタ・ローズ、マイモウナ・ユセフらはダニエルとヒップホップ~R&B~ネオ・ソウルとの結びつきを示すのに対し、オスンラデの参加はアフリカ音楽との結びつきを示す。ダイン・ジョーダンはジャジー・ジェフと同じくフィラデルフィア出身の若手ラッパーで、ジェフと一緒に作品リリースも行っている。カイディ・テイタムのニュー・アルバム『イッツ・ア・ワールド・ビフォア・ユー』には、ジャジー・ジェフの息子のアミール・タウンズも参加していて、『イッツ・ア・ワールド・ビフォア・ユー』のミックスを手掛けたエリック・ロウは『レヴォリューション』でも1曲ミックスを担当しているので、そうしたピープル・ツリー的な人物相関図も浮かんできそうだ。

 “レヴォリューション・イントゥルース”は自身のヴォイスも交え、アフロフューチャリズムを通過したジャズ・ファンクを展開。オープニング的なこのナンバーは、後に“レヴォリューション”として再登場。本編はより土着性の強いアフロ・ジャズとなっているが、こうしたアフリカ色濃厚なバック・トゥ・ザ・ルーツ的な色彩がアルバムを通じてのひとつのトーンとなっている。“ケイピン”や“チェックリスト”は、プログラミング・ビートと鍵盤のコンビネーションによるジャズとファンクの融合。ハービー・ハンコックの『セックスタント』や『ヘッド・ハンターズ』以降、ジャズにおけるアフロフューチャリズムにはスペイシーな感覚がつきものだが、ここではエッジ感のあるギターと共にキーボードがそれを表現する役割を担っている。“クミコ(スペンド・ザ・ナイト)”はブロークンビーツ調のナンバーで、中盤以降のピアノ・ソロも交えたコズミックな展開はカイディ・テイタムの作品に通じる。一方、そのカイディがフルート演奏で参加した“テレパシー”は、マイモウナ・ユセフのヴォーカルをフィーチャーしたネオ・ソウル的ナンバー。メロウネス漂う中にも土台にはアフリカ音楽のリズムが横たわっている。ジメッタ・ローズが歌う“サイレンズ”も同系のオーガニックなソウル・ナンバーで、彼女の歌声からミニー・リパートンやロータリー・コネクションなどに繋がるところも感じられる。

 ジャジー・ジェフとダイン・ジョーダン参加の“イルージョン・オブ・インクルージョン”は、ヒップホップのビートメイカーとしてのダニエルの側面が表れた作品だが、あくまでキーボードを含めたジャズの生演奏が基本となっている点はRGE同様だ。“サイレンス・イズ・コンプライアンス”や”ビフォア・ザ・ストーム“では、ジャズ・ピアニストとしてのダニエルのプレイを堪能できる。美しいピアノ・ソロが大々的にフィーチャーされる“サイレンス・イズ・コンプライアンス”は、RGEではなくロバート・グラスパー・トリオの方に近い演奏だろう。終盤で俳優のオマリ・ハードウィックによるスポークン・ワードも披露される。オスンラデがヴォーカルで参加した“オール・カムズ・ダウン・トゥ・ワット”は、彼が普段やっているようなディープ・ハウスではなく、土着的でゆったりとしたアフロ~カリビアン・リズムとジャズやファンクが結びついた作品。“マーチ・オブ・ザ・ガラ”もカリブ色が強く、ディーゴ&カイディあたりに近いブロークンビーツ経由のジャズとなっている。ちなみにガラとはサウス・カロライナ州とジョージア州の海岸沿いのことで、アフリカ系アメリカ人やクレオールが多く住み、アメリカにおけるアフリカのルーツが色濃く残された地域である。この曲から次曲の“レヴォリューション”へと続く流れは、アフリカ系アメリカ人であるダニエル・クロフォードのディアスポラな意識がもっとも強く表われた場面だろう。エンディングの“13”は彼の父と兄弟も参加し、亡くなった祖父や親類たちへ捧げている。ファミリーや一族のルーツを示したこの曲は、アルバム全体のテーマを象徴しているだろう。

ジム・オルーク - ele-king

 ジム・オルークはいかなる音楽ジャンルもマスターできる人だと立証する必要がもっとあるとしたら、アンビエント/エレクトロニック音楽に焦点を絞った新レーベル〈ニューホェア・レーベル〉から6月にリリースされた『スリープ・ライク・イッツ・ウィンター』は確実にその証拠をもたらしてくれる1枚だ。豊かな質感を備え、ときに驚くほど耳ざわりなサウンドから圧倒的で不気味な美の感覚を作り出す音楽作品『スリープ・ライク・イッツ・ウィンター』は、パワフルで心を奪う。

 そのアルバムをライヴ・パフォーマンスへと置き換える行為には常にチャンレジが付きまとうもので、というのもライヴ会場のリスニング環境次第でその音楽経験も変化するからだ。エリック・サティが開拓しブライアン・イーノによって統合された本来のアンビエント・ミュージックは「音楽的な家具」――すなわちその聴き方に特定のモードを押し付けてこない音楽だった。しかし、数多くの観衆がひとつのホール内に囲い込まれ、立ったまま、ステージを見つめながらの状態で集団としてアンビエントのパフォーマンスを体験するというのは、そうしたライヴ環境そのものの性質ゆえに、音楽をとある決まったやり方で味わってくださいと求められることでもある。
 
 それだけではなく、2年越しでまとめられ、『スリープ・ライク・イッツ・ウィンター』を形作っていくことになった繊細にバランスがとられたテクスチャーと音の重なりとを、このライヴ・パフォーマンスがそっくりそのまま再現するはずがない。ジム・オルークのようなミュージシャンは、いったん自分の中から外に送り出してしまった作品を再び訪ねたり再構築しようという試みくらいでは満足できない、変化を求め続けるアーティストである点も考慮に入れるべきだろう。そもそも、彼のおこなったアルバムのライヴ解釈の演奏時間はCD版の倍の長さであり、ルーズな構成の中に新しいサウンドやアイディアを盛り込みつつ、それでもアルバムに備わっているのと同じ音響面での文法のいくつかはちゃんと維持している、そういう内容なのだから。

 アンビエント・ミュージックの本質はロックのリズムを否定するというものではあるが、『スリープ・ライク・イッツ・ウィンター』には特有のリズムがあり、完全な静寂の瞬間とは言い切れないものの、それにかなり近いものによって句読点を記されながら、そのリズムは満ち欠けしていく。アルバムにはキーとなるふたつの静止場面があり、そこで聴き手は可聴域のぎりぎりのところで音や振動波を探しまわることになるのだが、音楽はごく漸次的で慎重なペースでもってしか耳に聞こえるレヴェルにまでこっそりと忍び戻ってはこない。ライヴの場でも、同様に静寂がたゆたうプールふたつの存在がパフォーマンスの構成を定義するのを助けていた。それでも会場のウォール&ウォールに訪れたそうした静寂の瞬間は、スタジオに生じる漠たる静寂にはなり得ない──それは屋根で覆われたコンクリートの箱の中にめいっぱい詰まった、たくさんの押し黙った身体が懸命に息をひそめようとしている、そんな場に生まれる静けさの瞬間だ。

 音源作品としての『スリープ・ライク・イッツ・ウィンター』とオルークがしょっちゅうやっている「スティームルーム・セッションズ」のオンライン・リリースとの関係が、少なくとも同アルバムに何かしらの痕跡を残しているらしきことは、オルークが「スティームルーム」で発表されたもののいくつかはある意味『スリープ・ライク・イッツ・ウィンター』の「できそこねたヴァージョンなのかもしれない」と示唆していることからもうかがえる。今年6月にあのアルバムが発表されて以来、「スティームルーム」からは他にもう2作が浮上してきているし、これらの新音源に備わった遺伝子が、音楽をまた新たな何かに変容させつつあるという印象を抱かされる。そこから生まれるのは刻々と変化する奇妙な日没、ぼんやりとした、歪んだ「蜃気楼(Fata Morgana)」(※)が溶け出し、彼方に浮かぶサブリミナルな拍動へと組み変えていくようだ。

※筆者補遺=Fata Morganaは蜃気楼(訳者註:アーサー王物語に登場する魔女・巫女Morgan le Fay=モーガン・ル・フェイにちなみ、イタリア読みがファータ・モルガーナ。水平線や地平線上に見える船や建物などの「上位蜃気楼」を意味する)を意味する言葉だが、このパフォーマンスとも関係がある。オルークの演奏中、その背景には異星の景色っぽく見える歪曲されたヴィデオ・プロジェクションが流れていたのだが、友人はその映像の元ネタはヴェルナー・ヘルツォークの映画『蜃気楼(Fata Morgana)』(1971年)ではないかと指摘していた。


Jim O'Rourke

Live@Wall & Wall Aoyama, Tokyo
17th Nov, 2018

text : Ian F. Martin

If the world needed any further evidence of Jim O'Rourke's ability to master any musical genre, the release in June of Sleep Like It's Winter for new ambient/electronic-focused label Newhere Music provided it in spades. A richly textured piece of music that creates an overwhelming sense of eerie beauty out of sometimes surprisingly harsh sounds, Sleep Like It's Winter is a powerful and captivating album.
Turning it into a live performance was always going to provide challenges, due to the way a live listening environment changes the experience of the music. Ambient music as originally pioneered by Eric Satie and consolidated by Brian Eno was musical furniture – music that doesn't insist on a particular mode of listening. However, a large crowd of people all corralled into a hall to experience an ambient performance collectively while standing, facing the stage are by the nature of the environment being asked to consume the music in a certain way.
There's also no way a live performance is going to recreate exactly the delicately balanced textures and layers that over the course of two years combined to form Sleep Like It's Winter, and you've got to guess a musician like Jim O'Rourke is too restless an artist to be satisfied attempting to revisit or recreate a work he has already got out of his system. For a start, his live interpretation of the album is twice as long as the CD, incorporating new sounds and ideas into a loose structure that nevertheless retains some of the same sonic grammar as the album.
While the nature of ambient music is that it rejects the rhythms of rock music, Sleep Like It's Winter has a particular rhythm of its own, waxing and waning, punctuated by moments of, if not exactly silence, then something quite like it. The album features two key moments of stillness, where your ears are left to hunt for tones and frequences at the very edge of your hearing, the music creeping back into the audible range at only the most gradual and deliberate pace. Live, two similar pools of silence help define the structure of the performance, although at Wall & Wall, these moments cannot be the silence of the studio: they are the silences of a high-ceilinged concrete box filled to capacity with quietly shuffling bodies, trying not to breathe.
The relationship between the recorded form of Sleep Like It's Winter and O`Rourke`s frequent Steamroom Sessions online releases appears to have left at least some mark on the album, with O'Rourke suggesting that some of the Steamroom releases might be in part “failed versions” of Sleep Like It's Winter. Since the album's release in June, two more Steamroom releases have emerged, and it feels like the DNA of these new recordings has gone to work mutating the music into something new. The result is an ever-shifting alien sunset, a blurred, distorted Fata Morgana dissolving and reformulating to a distant, subliminal pulse.

The reference to "Fata Morgana" is maybe a bit difficult to translate. Of course the phrase has a meaning in relation to optical illusions and visual distortions in the atmosphere. However, it's also relevant to Jim's performance. While he was playing, there was a distorted video projection of what looked like an alien landscape, and I was talking to a friend about it who thought it looked like the original clip was from the Werner Herzog documentary movie called "Fata Morgana" . I don't know how you'd translate that, but there is a kind of double-meaning in the phrase.

東京DUB ATTACK - ele-king

 2018年を締めくくる、国内サウンドシステム・ダンス大一番! 同じフロアの中に3つのサウンドシステムを入れて交互に鳴らしあう、ゴマカシ効かないガチンコ・セッション。
 レゲエ(Reggae)において、もっともタフでハードコアな要素にサウンドシステムがある。DIYに設計された独自のスピーカーの山、規格外の低音、1ターンテーブルに置かれる破壊力抜群のダブ・プレート、シャワーのように降り注ぐダブワイズ……あくまでもオリジナルな音を追求し、その場でしか生まれ得ない究極のサウンド体験。それがサウンドシステムにおける”Dub”である。
 “過去(Roots)”、“現在(Present)”そして”未来(Future)”を体現するサウンドシステムが一同に介し同じ空間にて鳴らし合う、シンプルかつ危険なセッション。初開催となる今回は、説明不要のレゲエ帝王マイティークラウンのサウンドシステムを要するScorcher Hi Fi (STICKO & COJIE of Mighty Crown)と“世界基準のサウンドシステム・ミュージック”を掲げるBim One Production + eastaudio Soundsystem、そして関西より唯一無二のサウンドを響かせる最高音響とDub Meeting Osaka (Sak-Dub I, HIROSHI and Dub Kazman)がユナイト(団結)し年末の代官山Unitを揺らす。
 国内ではあまりない純粋なスピーカーの鳴らし合い、日本における新しいサウンドシステム・カルチャーの幕開けがここにはじまる。


TOKYO DUB ATTACK

3 Soundsystem Sessions by :
SCORCHER Hi Fi with Sound System
Bim One Production feat. MC JA-GE with eastaudio Soundsystem
Dub Meeting Osaka (SAK-DUB-I, HIROSHI and DUB KAZMAN) with 最高音響Soundsystem

12月30日@代官山ユニット
OPEN : 17:00
START : 17:00

CHARGE :
Adv 2,800yen / Door 3,300yen
(共にドリンク代別)
※再入場不可
※小学生以上有料/未就学児童無料(保護者同伴の場合に限る)

TICKET :
>> >>一般販売 : 11/3(SAT) on sale
チケットぴあ 0570-02-9999 [P] 131-788
ローソン 0570-084-003 [L] 72780
e+

>> >>STORE
代官山UNIT 03-5459-8630
RAGGA CHINA 045-651-9018
diskunion 渋谷クラブミュージックショップ 03-3476-2627
diskunion 新宿クラブミュージックショップ 03-5919-2422
diskunion 下北沢クラブミュージックショップ 03-5738-2971
diskunion 吉祥寺 0422-20-8062
DISC SHOP ZERO 090-7412-5357 
Dub Store Record Mart 03-3364-5251
UP DOWN RECORDS


Unitイベントページ
https://www.unit-tokyo.com/schedule/2018/12/30/181230_tokyodubattack_2.php

追悼 ピート・シェリー - ele-king

 近頃はみんながハッピーだ
 僕たちはみんなそれぞれのインスタグラムでポップ・スターをやっていて、最高に楽しそうな、もっとも自己満足できるヴァージョンの自らのイメージを世界に向けて発している。僕たちは文化的なランドスケープの中を漂い、愉快そうでエッジがソフトな人工品に次から次へと飛び込んでいく。そこでは硬いエッジに出くわすことはまずないし、蘇生させてくれる一撃の電気を与えることよりもむしろ、締まりのない、無感覚なにやけ笑いを引き起こすのが目的である音楽に自分たち自身の姿が映し出されているのに気づく。

 近頃では、バズコックスにしてもポップ・カルチャーのほとんどに付きまとう、それと同じ麻痺した喜びのにやけ顔とともに難なく消費されかねない。ノスタルジーの心あたたまる輝き、そして40年にわたって続いてきたポップ・パンクのメインストリーム音楽に対する影響というフィルターを通じてそのエッジは和らげられてきた(AKB48の“ヘビーローテーション”はバズコックスが最初に据えた基盤なしには生まれ得なかったはずだ、とも言えるのだから)。ピート・シェリーとバズコックスはファンタスティックなポップ・ミュージックの作り手だったし、その点を称えるに値する連中だ。

 だがもうひとつ、ポップ・ミュージックはどんなものになれるかという決まりごとを変えるのに貢献した点でも、彼らは称えるに値する。ザ・クラッシュとザ・セックス・ピストルズの楽曲が、それぞれやり方は違っていたものの、怒りや社会意識と共に撃ち込まれたものだったのに対し、バズコックスは60年代ガレージ・ロックの遺産を労働者階級系なキッチン・シンク・リアリズムの世界へと押し進め、十代ライフのぶざまさを反映させてみせた。彼らのデビュー作『スパイラル・スクラッチEP』に続くシングル曲“オーガズム・アディクト”は自慰行為の喜びを祝福するアンセムだった(同期生のジ・アンダートーンズも同じトピックをもうちょっとさりげなく歌ったヒット曲“ティーンエイジ・キックス”で好機をつかんだ)。そのうちに、ハワード・ディヴォートがマガジン結成のためにバンドを脱退しシェリーがリード・ヴォーカルの座に就いたところで、“ホワット・ドゥ・アイ・ゲット?”や“エヴァー・フォールン・イン・ラヴ(ウィズ・サムワン・ユ―・シュドゥントヴ)”といった歌では欲望というものの苦痛を伴う複雑さを理解した音楽作りの巧みさを示すことになった。

 バズコックスだけに焦点を絞るのはしかし、ピート・シェリーの死を非常に大きな損失にしている点の多くを見落とすことでもある。バンド結成の前に、彼はエレクトロニック・ミュージックで実験していたことがあり、その成果はやがてアルバム『スカイ・イェン(Sky Yen)』として登場した。そして1981年にバズコックスが解散すると、彼はシンセサイザーに対する興味と洗練されたポップ・フックの技とを組み合わせ、才気縦横でありながらしかしあまり評価されずに終わったと言えるシンセポップなソロ・キャリアを、素晴らしい“ホモサピエン”でキック・オフしてみせた。

 シェリーはバイセクシュアルを公言してきた人物であり、概して言えば満たされない欲望やうまくいかずに終わった恋愛といった場面を探ってきたソングライターにしては、“ホモサピエン”でのゲイ・セックスの祝福は一見したところ彼らしくない直接的なものという風に映った。ここには事情を更に複雑にしている層がもうひとつあり、それは当時の一般的な英国民が抱いていたホモセクシュアリティは下品で恥ずべきものという概念を手玉にとる形で、シェリーがホモセクシュアリティを実に喜ばしいロマンチックなものとして描写した点にあった。言うまでもなくBBCは躍起になってこの曲を放送禁止にしたしイギリス国内ではヒットすることなく終わったが(アメリカではマイナーなダンス・ヒットを記録した)、ブロンスキー・ビートやザ・コミュナーズといったオープンにゲイだった後続シンセポップ・アクトたちは少なくともシェリーに何かを負っている、と言って間違いないだろう。
 
 ピート・シェリーはポップ・ミュージックのフォルムの達人であったかもしれないが、我々アンダーグラウンド・ミュージック・シーンにいる連中にとって、彼の残した遺産そのものもそれと同じくらい重要だ。『スパイラル・スクラッチEP』はその後に続いたDIYなインディ勢の爆発そのものの鋳型になったし、ミュージシャンがそれに続くことのできる具体例を敷いたのは、もっと一時的な華やかさを備えていてポリティカルさを打ち出したバズコックスの同期アクトがやりおおせたことの何よりも、多くの意味ではるかに急進的な動きだった。その名にちなんだ詩人パーシー・ビッシュ・シェリーのように、ピート・シェリーもまたラディカル人でロマン派だったし、彼の影響は深いところに浸透している。

R.I.P. Pete Shelley

text : Ian F. Martin

Everybody’s happy nowadays.
We’re all pop stars of our own Instagram accounts, projecting the happiest, most self-actualised version of ourselves out to the world. We drift through a cultural landscape, bouncing from one cheerfully soft-edged artefact to another without encountering any hard edges, finding ourselves reflected in music whose goal is to induce a slack, anaesthetic grin rather than a resuscitating jolt of electricity.
Nowadays, Buzzcocks can be comfortably consumed with the same slack grin of numb enjoyment that accompanies most pop culture, the warm glow of nostalgia and the filter of 40 years of subsequent pop-punk influence on mainstream music softening its edges (AKB48’s Heavy Rotation could arguably never have existed without The Buzzcocks having first laid the foundations). Pete Shelley and The Buzzcocks made fantastic pop music and deserve to be celebrated for that.

However, they also deserve to be celebrated for helping change the rules for what pop music could be. While The Clash and The Sex Pistols’ songs were, in their own differing ways, both shot through with anger and social consciousness, Buzzcocks pushed the legacy of ‘60s garage rock into the realm of kitchen- sink realism, reflecting the awkwardness of teenage life. Orgasm Addict, which followed their debut Spiral Scratch EP, was a celebratory anthem about the joys of masturbation (contemporaries The Undertones made hay from the same topic slightly more subtly in their hit Teenage Kicks). Meanwhile, as Shelley settled into the role of main songwriter following Howard Devoto’s departure to for Magazine, songs like What Do I Get? and Ever Fallen In Love (With Someone You Shouldn’t’ve) showed a knack for music that recognised the tortured complexities of desire.
Focusing only on Buzzcocks misses a lot of what made Pete Shelley’s death such a loss though. Prior to the band’s formation, he had experimented with electronic music, the results of which eventually appeared as the album Sky Yen, and following his band’s dissolution in 1981, he combined his interest in synthesisers with his knack for sophisticated pop hooks, kicking off a brilliant if underappreciated synthpop solo career with the magnificent Homosapien.

Shelley was openly bisexual, and for a songwriter who typically sought out moments of frustrated desire and love gone wrong, Homosapien was on the face of it uncharacteristically direct in its celebration of gay sex. The complicating layer here lay in the way Shelley played with the British public’s perception at that time of homosexuality as something tawdry and shameful by depicting it in such joyous and romantic terms. Obviously the BBC fell over themselves to ban it and it was never a UK hit (it was a minor dance hit in America) but the subsequent success of openly gay synthpop acts like Bronski Beat and The Communards surely ows at least something to Shelley.
Pete Shelley may have been a master of the pop music form, but for those of us in the underground music scene, his legacy is just as important. The Spiral Scratch EP was the template for the whole DIY indie explosion that followed and as an example for musicians to follow was in many ways a more radical move than anything Buzzcocks’ more flashily political contemporaries managed. Like the poet Percy Bysshe Shelley, from whom he took his name, Pete Shelley was a radical and a romantic, and his influence runs deep.

11 上野日記 - ele-king

 10/25
 京成上野駅のすぐ裏に当たる不忍池の東側から、ベンチに座って窓明かりが消えかかる対岸の建設中のビル群を眺めることが日課となってしまった。元来打ち上がることや、なにかをやりきった雰囲気が苦手で、ここはそういうものから逃げ込む場所になりつつある。
 大分に住んでいることを忘れるかけるほどには長い間東京にいることになりそうだ。今年10往復目の今東京滞在は、いろいろなことが重なって、途中わずかの期間大分に戻ることはあるものの、4ヶ月程になる。この生活に当たってLCC以上の恩恵に与っているのが上野の家で、戦前に建ったとも聞いたそれは義父の実家に当たり、長い間様々な人間が都合に合わせて住んできた場所で、自分も大分に移る直前の一年間暮らし、その後の楽器倉庫と東京滞在の寝床として使わせてもらっている。ここが来年2月いっぱいで使えなくなりそうなことも今滞在を延ばす一因なのだが、ここを拠点に音楽ばかりをやるのは随分久しぶりのことになりそうだ。
 久しい間、途切れない流れるリズムはなにか、それさえあれば普段考えていることがリズムに流れ込んで音楽に参加できるだろうと思っていた。そんなことは「当たり前」のことにしてしまわなければいけないと思い直して30代が始まって、既に2年が経つ。今日のOkada Takuro Bandのリハ音源をベンチで聴いていると、どこか物足りないドラムだ。ドラムだけを聴いたらそれなりだけど、ハットをキープだけに使うことと、周囲の音の聴き方が面白くない。トニー・アレンもエルヴィンも4肢を駆使してプレイすることでドラムを押し拡げてきた。最も器用に動くはずの右手をキープだけに充てるのはもったいないし、右手の動きに対しての他の動きが制限される節がある。フレーズで覚えるのではなくて、フレーズを作り出せる程ウゴくようにしておかないといけない。音は聴かないといけないけど、聴いて合わせれば微妙なタイムラグがうまれる。カウントから我先にスタートするベイシー楽団を思い出した。ラス・カンケルもCSN&Yのライブで自分のリズムを固持しているじゃないか。あれは、はまっているとも思えないが、James Taylorのときは、後ろからやってくる歌とギターに対して有効で独特のアンサンブルを勝ち得ている。もしくは、リーランド・スカラーのプレイに与るところが多いのだろうか。
 新しいことをはじめたいにしても、結局「当たり前」のことを進めることに戻ってくるのではないか。早速岡田から無言の参考音源が届く。Noname"Blaaxploitation"の胸の辺りでリズムを感じたまま16分ハットを刻むのだが、切れよくハットを空けて閉じたりやブレイクをうまくフレージングしているのなんてよく気が利いている。Sly&The Family Stone"In Time"ほどフレーズをマニュアル化せずに、音楽を邪魔しないドラミングはあまり聴いたことがない。相当考え込まれているのだろうが、やはりアルバム『Fresh』全体にそう浸透しているとは言い難く、それなりに根気のいる作業だったのだろうと妄想する。
 Joe Henryにおけるジェイ・ベルローズも思い出して聴いてみる。もう少し即興的だが、楽曲に合わせて展開させるドラミングとしては最高峰に思う。缶ビールが進むにつれてそんなことどうでもよくなってスライ名曲試聴会と成り果てる。

 11/3
 まず10日ほどの東京滞在を終え1週間だけ大分へ帰って来た。東京で気づいたことをモノにさせるに当たって大分の山はわるくない場所だ。しかし、これまでの10日間も、また東京に戻ってからの向こう1ヶ月もよく埋まったものだ。それぞれの準備はそれぞれの時間にやるとして、音の返ってこない山練習の醍醐味である最大出力のアップに勤しむ。Ivan Lins"Quadras De Rodas Medley"で四肢を自由にしてもらい、NonameとSly&The Family Stoneにアイデアを、Eugene McDaniels"The Lord Is Back"にガシガシ前にいる感覚を伝授してもらう。時代も場所もめちゃくちゃだけど、「ソウルフルな音楽か、リズミックな音楽かどうかってことがすべてなんだしさ」と語るカマール・ウィリアムスよろしく、どこか繋がっているような気分になる。この大分の期間でアフリカンチームの練習とサバール研究会も1度づつできたのは幸運だった。これらは僕にとって、リズムの発信以上に、リズムを捉える力を与えてくれる最良の行為だ。

 11/8
 東京に再度着いて早速Okada Takuro Bandのリハを終えたら、岡田とベースの新間さんが上野の家にやって来た。相変らずレコードを漁っているのだが、どうも大分の家で1人で聴いていても調子が上がらない。誰かと音楽を聴くと、相手がどのように聴いているのか自然と伝わってくるから面白い。定期的にそういう機会があれば、無言の参考音源もよく喋るように感じるし、部屋で1人で聴くことも楽しめる。
 そういえば、昨日成田空港から直接向かった新宿のレコード屋で、ブラジル音楽のバイヤーの江利川さん、筋金入りのコレクターのルーシーさん、母船の墓場戯太郎さんにたまたま会った。それぞれのバイブスが音楽を聴きたくさせてくれるので、今日に至ったところもあるのだと思い返した。それはそのあと飲みにいったダニエル・クオン、マルチプレーヤーの芦田勇人も同じ。上野駅に着いて、飲み屋街に紛れたい気持ちを押さえて、不忍池へ。対岸のビル群の明かりもほぼ消えてしまったなかで、イヤホンから流れる音楽を聴くにあたって、こちらのほうがよかったと思う。聴きたくて聴く機会は思っているほど多くないからだ。

 11/10
 水面ラジオという名のレコード試聴会で足立小台のブリュッケへ。ポール・モチアンのドラミングだって3時間も集中して聴いているとなじんでくる。いや、どう考えても真似できないのだが、やはり音楽は誰かと聴いたほうがよいと思う。「降りてくる感覚をそのまま絵に描くかのようなドラミングを'ジャズ'が支えている」という感想まで浮かんだけれど、どこか足りない気がする。町家で投げ銭分少し飲んで、明日のOkada Takuro Bandの準備のため足早に帰宅。終えてみるとやはりいつも通り上野公園へ。3月以降それもできなくなると思うと、無駄じゃないような気さえしてくる。

 11/11
 Okada Takuro Bandのライブを終えて、小雨が降るのを気のせいにして不忍池へ。GONNO×MASUMURAに向けてクラブ・ミュージックとスピリチュアル・ジャズを聴く。Kieran Hebden×Steve Reidは確かにこのプロジェクトに当たって、大きな知恵と予想図を与えてくれたけど、やはり以前から知っていた『Nova』でのドラミングはよく喋る。「迸るエネルギーがリズムにまで表象されるドラミングが'ジャズ'を突き破っている」という感想もまた缶ビールともに適当に流し込んで、最近お気に入りのFolamourにスクロール。イヤホンで目の前が不思議に映るのなら悪くない。GONNOさんとは、アルバム制作のあと、初めてのライブ、切り込んでみるライブ、リラックスしてみるライブとしてきて、来週4回目のライブはそれらのグラデーションを付けることができそうな感触がある。そういえば、GONNOさんとの演奏前は不思議と淡い夢を見ることが多く、演奏中はとかくいろんなことを思い出す。

 11/17
 昨晩名古屋vioでのGONNO×MASUMURAのライブは7曲演った。5曲目までは、グラデーションを付けながら様々な局面を提示して、あとは自由に楽しんで欲しかったし、それなりの感触もあった。行きの沼津から名古屋の間GONNOさんに運転を任せているとき、後部座席で信じられないほど気持ちのよい眠りについて、数え切れないほどの夢をみたのだが、ライブ中それを思い出す瞬間があって、そんなもの別に求めてもいないのだが、感触と照らし合わせるといい状態のひとつではあるようだ。6曲目"Circuit"は、この場を借りて最大出力の実験とさせてもらって、手足絡まること覚悟でブーストしてみた。結果山からやり直そうと誓う始末だったが、チャレンジがないと進歩もない。7曲目"Missed It"は踊らせることだけ。フロア帯同率は1番だったとか。このプロジェクトでは、リズムだけでも面白いということを自分なりに提示すべく4つ打ちライクのルールから外れないよう、5(7)拍子を2拍5(7)連や、2小節で5(7)発バスドラムを均等に打ってみたりしたのだが、演奏後のクラブ体験から察するに、決して無駄ではなかったにしろお互いまだ歩み寄る隙間があるようだ。そのうちお酒も回ってどうでもよくなったし、どうでもよくなってもらえたらそれでいいじゃないかとホテルに帰った。
 戻りの車内は格好のDJスペースで、エンジニアの葛西さんも交じって昨日の続きのようだ。トニー・アレン元ネタのよくやるプレイがあるのだが、その曲を聴かせると、GONNOさんが「元ネタはリラックスしていますね」と漏らす。
 ドラムを叩くと、瞬時的にフィードバックがある。今日のタイムは悪くない、体のテンポはこのくらいだなと、リラックスして叩き続けられることもあれば、小さなことが重力を加えてきて、リズムに乗れず叩くことをやめてしまうこともある。いずれにせよ、意志ではなくて、まずリズムの少し強引な力が働く。叩き続けることができていても、いつの間にか意志が大きくなり、リズムに抵抗してしまって身の程を知らされることもあれば、一度叩くことをやめてしまっても、その時に合った小さい音と力で、少しずつリズムに乗っていこうとすると、いつの間にか意志のスイッチが切れて無駄な重力がなくなっていることもある。
 GONNOさんの一言で、この「小さい音と力」でも太鼓が鳴るという当たり前のことに気がついた。太鼓を下の方からしっかり鳴らす、最大出力を上げる、そういう今までやってきたことのバランスがなんらかのはずみで崩れると、ハットが鳴りすぎる、右手に頼りすぎる、ということに、往々にしてなる。最近、あるバンドのレコーディングにドラムセット一式をかして、ラフミックスを聴かせてもらったのだが、鳴りきっていないなと思うところある以上に、こんなにリラックスしてシャープな音が出るのかと関心してしまったこともあった。自分の楽器だからよりよくわかる。上野の家に着いてからは夢も見ずに泥のように寝た。

 11/24
 FolamourのDJを体感しに青山Ventへ。レインボー・ディスコ・クラブ、名古屋vioと出演でのクラブ体験はあったが、純粋なそれは初めて。幼少期ギターとドラムからスタートしたという彼の音楽は、確かにクラブミュージックにあって驚くほど生の躍動が伝わる。『Umami』では、「クラブミュージックとホームミュージック、踊っている時と考えている時、憂鬱と楽しさそれぞれを表現したかった」作品なところも分け隔て無いファンを勝ち得ているところだが、かなり深酒していたこともあって、やはり後半はどうでもよくなって、見知らぬ黒人女性と踊り狂った。
 昼に酔いざめ特有の悪夢で目を覚ましたが、音楽の多様性を示唆するDJの仕事を思い出して、レコードの処理は、それを必要とする他のリスナーに譲ることになるから、傍に置いておくよりよいかと思い至る。オリジナルでわざわざ買い直す作業はどうしても続くが、その分安価なリイシューや日本盤を処理すれば多少役立てるだろう。しかし、どうだろう、サブスクでなんでも聴けるから、聴くためだけの安価なレコードに手を出さず、何度も失敗せずにとも、初めからオリジナル盤を狙う例えば高校生がいるとしたら末恐ろしい。

 12/9
 水面トリオ、影山朋子バンド、OLD DAYS TAILOR、ツチヤニボンドのライブ、ニカホヨシオ、GONNO×MASUMURA、伊賀渡さんとの録音などしていたら、不忍池もコートを着ないとベンチに座っていられない季節になっていた。それらの合間にFolamourとToninho Hortaを観て、Laurel Haloは諦めてしまった。
 午前中からダニエル・クオンが上野の家にやって来て、キッチンにドラムセットを拡げて録音。掟破りのハンドマイク録音は、2人でヘッドフォンをしながらマイキングを聴きながら、すでにミックスが始まっているかのようだ。シンバルにマイクを近づけるとこんなに低い音が出ているのかとか、家での録音なので自然小さい音になるのだが実はこれで充分鳴っているじゃないかとか、リズムに幅があってわざわざ針の穴を通さなくても波に乗れば気持ちいいことなど感じられて、この期間に感づいていたこととどこかリンクする。ドラムを叩いているというよりは、相変らずナイトメアに犯されながら浄化されることのないまま次々飛び出す掌編的な曲の断片になっていくようで面白い。ムードは重くなく発生地点と矛盾するような気楽さが包み込む。1曲生ピアノと複数の声だけのディープトラックがあったが、それを僕に聴かせながら他人事のようにずっと笑っていたこともそれを物語っていた。送る車内で、なにか思い出したかのように「Life...ジンセイ」と漏らしたら、車を降りて新宿の雑踏の中に消えていった。


Laibach - ele-king

 80年台中盤、インダストリアル・バンドとしては少し出遅れた存在だったライバッハは、ユーゴスラヴィアで活動しているということがまずは関心を引いた。いまでこそ中国のボディミュージックでもスペインのトラップでもすぐにネットで聴くことができるけれど、80年代当初、ベルリンの壁が屈強に「東側」を覆い隠していた時期だったのでユーゴスラヴィアにロックやオルタナティヴな音楽活動があることも知られていなかった(実はいろいろあったことが最近の発掘対象となっている→https://www.youtube.com/watch?v=Y4B0vUIQXBY)。〈L.A.Y.L.A.H. Antirecords〉からリリースされたシングル「Boji / Sila / Brat Moj」を最初に聴いたんだったかなんだったか、ライバッハのサウンドはヘヴィで物々しく、ゴシックとしか形容のしようがないもので、戸川純がベルリン映画祭に招かれた際、「わざわざベルリン近郊から車を走らせ、ライバッハを大音量で流しながらブランデンブルグ門に向かった」と話してくれたのがなるほどと思える通り、異様なまでにドラマティックでゴージャスな音楽性を強調する音楽ユニットだった。そして、『Nova Akropola』(86)こそ〈チェリー・レッド〉からのリリースだったものの、以後は現在に至るまで〈ミュート〉から12枚のアルバム・リリースがあり、『ツァラトゥストラかく語りき』(17)に続く『The Sound of Music』のカヴァー集も〈ミュート〉からとなった。

 そう、1曲目から『サウンド・オブ・ミュージック』をきっちりとカヴァーしている。いきなりズッコけたというか、妙に聴き惚れてしまったというか。ヴォコーダーを使った“ド・レ・ミの歌”や荘厳な“エーデルワイス”など一応はデス声で歌われているものの、滑らかな高揚感があり、意外にもニューウェイヴの原点のようなサウンドに仕上がっている。80年代には古典なりクラシックをからかって遊ぶという意識で、こういったアレンジが百出したようにも思うけれど、結果的には原曲の魅力にとりつかれ“ハッピー・トーク”や“風のささやき”を好んで聴くようになった者としては往時の面白さがぶり返してしまったようで、ついつい何度も聴いてしまう。ライバッハにもビートルズ『レット・イット・ビー』(88)を丸々1枚カヴァーしたという過去があり、西側のクラシックに東側の統制された美意識を反映させるという意味では同じなのかもしれないけれど、“マリア”などは、しかし、それにしても透き通るようなコーラスワークにブレイクの取り方まで、まるでビーチボーイズのようで、似たようなことをやっていても突き抜け方が以前とは比べものにならない。

 実は今年、ライバッハが北朝鮮に公式に招待されてライヴをやった時のドキュメンタリー映画が公開されていたそうで、『サウンド・オブ・ミュージック』はそのサウンドトラックのようなアルバムなのである。北朝鮮の人たちは誰もが映画『サウンド・オブ・ミュージック』に親しんでいるということから、これらのカヴァーを披露することになったらしく、ドキュメンタリーは観ていないので正確なところはわからないけれど、やはり普段とは勝手が違ったようで、必要以上にヴァラエティ色を強調してつくられる予告編の体質を割り引いてみても、ちょっとした珍道中であったことは確からしい。北朝鮮の人たちも初めて公式に国内でライヴ演奏される「洋楽」がライバッハというのは目が点だったことだろう。ライバッハの面々も「なんで自分たちが選ばれたんだろう」と疑問に思いながらのパフォーマンスだったらしい……といったようなことを何も知らずに僕はこのアルバムを聴いていたので、余計にその落差に面白みが増してしまった。北朝鮮の人たちに「洋楽」を聴かせるという使命を背負ってしまったために、無意識に手加減した結果、ここまでわかりやすいサウンドになってしまったのかもしれない。一応、確認してみたけれど、前年の『ツァラトゥストラかく語りき』では彼らのスタイルはとくに緩められていたわけではないし、さすがに代わり映えしなすぎた(どうしてライバッハに興味を持ったのかというと、ドミューンでザ・KLFの番組をやった時にムードマンが「ライバッハ縛りの次はザ・KLF縛りのDJ?」と宇川くんにメールを送っていて、それをCCで読んでいたから)。

 僕はこういった結びつきこそグローバリゼイションのいいところだと思っている。それこそアメリカが「アメリカ・ファースト」を掲げるのはまだわかるとしても、安倍政権がアメリカ・ファーストを推進し、アメリカのカジノ業者や水道会社を国内に引き込み、兵器を爆買いし、辺野古を埋め立て、ファーウェイに部品を収めている京セラや村田製作所の株価が下がることもお構いないしに公的機関ではファーウェイを使わないと即決してしまうのはどうかと思うし、このところアメリカのチャート・ミュージックを持ち上げる音楽サイトが増えていて、その無邪気さにも違和感があってしょうがない。日本では以前からグローバリゼイション=アメリカニゼイションでしかないという声は少なからずあったものの、政治でも文化でもそれらがまたしても色濃くなっていくのはいやな感じだなあと。
 ライバッハは『サウンド・オブ・ミュージック』から9曲のカヴァーに加えて“アリラン”もカヴァーしている(思わず戸川純さんにも薦めてしまいました)。

[12/20編集部追記]Twitterにてご指摘いただいたように、ライバッハはいまはスロベニアのバンドです。ご指摘ありがとうございました。

メアリーの総て - ele-king

 クリストファー・ノーラン監督『ダンケルク』を観て4ヶ月後に封切られたジョー・ライト監督『ウィンストン・チャーチル』を観た方は驚いたんじゃないでしょうか。僕は驚きました。ドイツ軍に追い詰められたイギリス軍がフランスから撤退する経過をフランス側から描いたのが前者で、まったく同じ一週間の間にイギリスの議会で起きたことを扱ったのが後者でしたから。指示を待つ側の苦しみと指示を出す側の事情がそこで初めて結びついたわけで。多分、まったくの偶然で、テーマ的にも補完性はないし、どちらもある意味で駄作だったから歴史の勉強にはなったけれど、それだけのことだといえばそれまでなんですけれど(『ウィンストン・チャーチル』に関しては日本では辻一弘の特殊メイクに話題が集中し、実際それは大した出来栄えだったものの、ありもしない地下鉄のシーンがやはりインド系の方々の逆鱗に触れて欧米では批判の声の方が強烈だった)。同じようにハイファ・アル=マンスール監督『メアリーの総て』と1ヶ月遅れで公開されるビョルン・ルンゲ監督『天才作家の妻』も驚きます。前者は『フランケンシュタイン』を書いたメアリー・シェリーの前半生を描いたもので19世紀前半が舞台、後者は現代の話だというのに、それはまるで続きもののようだったから。それこそ連続で観てしまうとこの200年はなんだったのかという虚しさが倍増し、人類というものに愛着が薄れてしまいかねない。だからメアリー・シェリーは『フランケンシュタイン』を書いたのだと言われればそれまでなんですけれど。

 父親が経営する書店で、その後妻に疎んじられながら、家の手伝いをしたり義姉と遊んだりしているメアリー。イギリスではフェミニズムの先駆とされる実の母親、メアリー・ウルストンクラフトはすでに他界し、残された著作の中にしか母親の痕跡を見つけることはできない。体の弱いメアリーは義母から逃れるためにスコットランドに静養に赴き、ロマン派の詩人、パーシー・シェリーと出会う(これは必ずしも史実ではなく、全体的にストーリーは端折り気味)。パーシー・シェリーは結婚していて子どももいる。そして、彼はメアリーの父親、ウイリアム・ゴドウィンのアナキズム思想に傾倒している。導入部はややこしい人間関係と彼らの心の動きを実に手際よく紐解いていく。パーシー・シェリーとメアリー・シェリーがどのように結びつき、関わりあっていくかがひとつめの軸となる。そして、嫌なことがあると墓場に行って三文小説を読みふけるメアリー。父も母もいわば高尚な思想の持ち主で、B級小説にうつつを抜かす姿は見せられない。メアリーとシェリーは時代の寵児たるバイロン卿と交友を深め、これも史実ではないと思うけれど、カエルの死体に電気を通して足が動く様を見せるショー(「ファンタスマゴリア」)などに出かけて行く。これがフランケンシュタインの怪物に命を吹き込むプロセスのアイディアに結びつくなど、ふたつめの軸はメアリーの創作過程に迫る部分である。実は「ファンタスマゴリア」のシーンまで、メアリー役はエル・ファニングじゃなくてもいいんじゃないかと思いながら僕は観ていたのだけれど、このシーンでファニングが見せる表情はまさに「ひらめき」を表しているとしか言いようがなく、ここからは完全にファニングのペースでしか観られなくなってしまった。『フィービー・イン・ワンダーランド』でトゥレット障害を持つ小学生の役を演じたファニングは以後、エキセントリックな少女の役をやらせたらほかに敵うものはなく、最近では『ネオン・デーモン』や『パーティで女の子に話しかけるには』などで際立たせた「ヘンな女」の存在感をそのままメアリー・シェリーに注ぎ込むことでSF作家の元祖とさえ言われる女性作家の誕生を見事に演じきったという感じ。


 ハイファ・アル=マンスール監督が、そして、この作品をメアリー・シェリーにまつわる史実よりも「女性作家」というテーマに絞り込んだことはいやでもストレートに伝わってくる。アル=マンスールは3年前にようやく女性に参政権が認められたサウジアラビア出身で、デビュー作は小学生の女の子が自転車に乗ってはいけないという慣習を覆す『少女は自転車にのって』であった。女性も大学に行くことが認められ、今年に入って初めて女性も映画館に入ってもいいことになったというほど差別されていた女性たちにアル=マンスール監督が『メアリーの総て』をぶつける意図はあまりに明らか。メアリー・シェリーという題材を通して、彼女はサウジアラビアの女性たちに自分と同じように文化活動に手を出して欲しいのである。それはもうシンプルなことこの上ない。メアリー・シェリーが『フランケンシュタイン』の着想を得た背景を論じるものの中にはメアリー・シェリーは子どもを産みたくなかったので人造人間によってそれに代えようとしたという説もあったりするけれど、アル=マンスールはそうした解釈をまったく視野に入れていない。あくまでも男性たちの横暴な振る舞いがあり、それに抗う女性の創作活動に重きが置かれている。それこそそうした主題からはずれてしまうメアリー・シェリーの後半生もすべてカットされているので『メアリーの総て』という邦題はあまり適切ではないとも。アル=マンスールが描くのは女性が書いた小説を女性の名前で出版することが19世紀前半のイギリスではどれだけ難しいことだったかということに集約され、史実ではパーシー・シェリーが溺死してから彼女を取り巻く物事に変化があるということもここでは無視して話は進められている。物語の結末は完全なる創作で、これは男性の役割に大きな変化を期待しているというメッセージだと受け止めればいいのだろうか。男性が考え方を変えてくれれば、こんなにも世界は女性たちにとって住みやすいところになるという希望的なエンディングを甘いと切り捨てるのは少し酷ではないかと僕には思えたというか(史実ではパーシー・シェリーもメアリー・シェリーも早逝で、この作品とはまったく別種の信頼関係を保っていたように伺える)。


 ビョルン・ルンゲ監督『天才作家の妻』はジョナサン・プライス演じる小説家、ジョセフ・キャッスルマンのもとに電話がかかり、「あなたがノーベル文学賞を受賞しました」と伝えられるところから話は始まる。タイトルだけで、大体、想像はつくと思うけれど、実はキャッスルマンの作品は本当は妻が書いていたのではないかという疑惑を誰もが抱き、実際、クリスチャン・スレーター演じるナサニエル・ボーン記者がキャッスルマン夫妻を追ってスウェーデンの授賞式に乗り込んで行く。『フランケンシュタイン』も初版は匿名で出版されたために夫のパーシー・シェリーが書いたものだろうと噂が立ったわけだけれども、『天才作家の妻』ではその図式はもう少し複雑に入り組んでいる。そして、その核心にはなかなか辿り着かない上に、ノーベル賞の式自体やそのリハーサルがなかなかに面白く撮られていて、クライマックスへゆっくりと突き進むプロセスはとても巧妙だった。そして、パンフレットの解説などでは一義的な解釈で埋め尽くされていたものの、最後の争いの最中に断片的に聞き取れるセリフから真実を推測するのは観客自身であり、ある意味、そこから観客同士(できれば男女)で論じ合うのが本番かもと思うような展開が訪れる。(以下、ネタバレ)僕は初めから共作の名義で発表すればよかったじゃんよとしか思わなかったし、そうはできない事情があったとしたらそのことも描くべきだったのではないかという意見を持ったのだけれど、さて、皆さんはどうでしょう。ちなみにこの作品でメタ的な皮肉になっていると思うのは、妻を演じるグレン・クローズはかつて『ガープの世界』でフェミニストの運動家を演じ、彼女が脚本も手がけた『アルバート氏の人生』がかなりの傑作であったにもかかわらずアカデミー賞を取ることは叶わず、これまでに6度もノミネートだけで終わっていることにある。グレン・クローズにオスカーを与えなかったことがそのまま映画化されているような作品ではないかと。また、ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞したということもあって、ジョナサン・プライスの演技があまりに上手いために、もしかしてノーベル文学賞なんてなくてもいいかもと思ってしまうようなところもこの作品の妙味ではある。ちなみにノーベル賞は女性にはほとんど与えられていない。


『メアリーの総て』予告編

『天才作家の妻 40年目の真実』予告編

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