「KING」と一致するもの

Bob Dylan's Songs - ele-king

 なぜ、なぜボブ・ディランなのか。
 ジェイク・バグが登場したとき、彼は「公営団地のボブ・ディラン」という言葉で賞賛された。UKのメディアにとって、「ボブ・ディラン」とは最高の褒め言葉だ。ジョン・レノンでもエルヴィス・プレスリーでもなくボブ・ディラン……あるいは、ときにサンプリング・ネタを「revisited」という言葉で表すのも、“追憶のハイウェイ61”の原題から来ているのだろうし……
 僕は、UKの音楽に関する本を読んでいた。ラフトレードを創設したジェフ・トラヴィスのエピソードが描かれていた。彼は高校時代、クラスメートが夢中になっているのはせいぜいドノヴァンで、自分のように『ジョン・ウェズリー・ハーディング』を聴いているような人は他にいなかったと言う。なかば自慢げな回想だ。
 そして、思春期に『ジョン・ウェズリー・ハーディング』に夢中になった感性が、やがてザ・スミスというバンドを見いだすわけだから、ブレイディみかこがモリッシーの新作を聴いて「ボブ・ディラン」という言葉を用いるのは的を得ている。
 
 2012年には『テンペスト』があり、昨年は湯浅学の『ボブ・ディラン――ロックの精霊』があった。ルー・リードは「ボブ・ディランに次いでロック文化に歌詞マニアを生んだ人」と言われている。松村正人はボブ・ディランの来日ライヴに行った。木津毅は、こともあろうかOPNの来日ライヴ中にコーエン兄弟の新作について大声で話してきた。誰かが振り向いて話に加わった。
 そもそも、ボブ・ディランは何が偉いのか? ボブ・ディランとは何なのか? ボブ・ディランは何を歌ってきたのか? つまり、ボブ・ディランとの長年の格闘の末に萩原健太が見たモノとは何なのか? 以上の設問のひとつにでも興味のある人は、8月6日発売の『ボブ・ディランは何を歌ってきたのか』のページをめくること。重苦しい時代に、しかし、重苦しさだけに目を奪われないためにも。
 
 予定のページ数よりも大幅に増えてしまった。本書の「メイキング〜」に関しては、場所をあらためて三田格が話すかもしれない。とにかく、『ボブ・ディランは何を歌ってきたのか』は、萩原健太、渾身の力作だ。ボブ・ディランを聴く人のガイドラインであり、また、「アメリカ音楽」が日本でどのように享受されてきたのか、どのように愛されてきたのかという物語でもある。そして、僕としては、ディラン的な「自由」をいまいちど噛みしめたい。ちなみに、表紙のイラストは、カタコトのドラゴン。(野田)

萩原健太
1956年2月10日生まれ。音楽評論家。1978年3月 早稲田大学法学部卒業。同年4月 早川書房入社。1981年6月 早川書房退社。その後フリーとして活躍。 執筆活動、TV出演などを通じて音楽評論を行なう。 他、音楽プロデュースも手がける。著作に『はっぴいえんど伝説』(シンコー・ミュージック)、『ポップス・イン・ジャパン』(新潮社)等がある。

ボブ・ディランは何を歌ってきたのか
978-4-907276-18-8
四六判 384ページ
本体1,800円+税

Amazon

■8月はボブ・ディラン月間!
 8月27日にはソニーミュージックジャパンインターナショナルより、ボブ・ディランの全43作品をリニューアル復刻していくプロジェクト“ディラン究極の「神」ジャケ復刻プロジェクト”の第3弾として80 年代に発表された9タイトルがリリース!

詳細はこちら
https://www.sonymusic.co.jp/Music/International/
Special/bobdylan/140326/sono2/


interview with Traxman - ele-king


Traxman
Da Mind Of Traxman Vol.2

Planet Mu/Melting Bot

FootworkJukeGhetto

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 本当に暑い。夏の真っ直中だ。少しでも身体が動けば汗が噴き出る。え? フットワークだと? 
 人生に「たら」「れば」はないが、自分がいま20歳ぐらいだったら「シカゴのフットワーク以外に何を聴けばいい!?」ぐらいのことを言っていただろう。そして、DJラシャドが逝去したとき、本気でシーンの行く末を案じたに違いない。DJラシャドは、衝動的とも言えるこの音楽に多様な作品性を与えた重要なひとりだった。
 DJラシャドの他界の前には、シカゴ・ハウスのパイオニア、フランキー・ナックルズの悲報もあった。シカゴはふたりの大物を失った。
 で、しばらくするとトラックスマンの『Da Mind Of Traxman Vol.2』がリリースされた。
 以下のインタヴューで本人が言っているように、前作『Vol.1』と同じ時期に作られたものだそうだが、マイク・パラディナスの選曲だった『Vol.1』に対して、今作『Vol.2』は自身が手がけている。ヨーロッパからの眼差しをもってパッケージしたのが前作で、シカゴ好みが全面に出ているのが今作だと言えよう。どうりで……
 豪快な作品である。笑えるほどの大胆なサンプリング使いとユニークで力強いビートは、この音楽の勢いが衰えていないことの証左でもある。圧倒的なまでにファンキーだ。
 しかも……この猛暑のなか、トラックスマンは来日する。くれぐれも充分に水分を取ってから、ギグに向かおうじゃないか。

“ゲットー”は心理状態や人格だ。住んでいる場所や経済状況ではない。ゲットー・エリアに住んでいた奴がゲットーな街を出て行っても、そいつはゲットーなままだ。ネガティヴな意味で使われがちだけど、俺はポジティヴな意味で使う。ハングリーさとかそういうメンタリティを表しているからな。


海法:〈Juke Fest〉はどうでしたか? 今回は〈Booty Tune〉のD.J.AprilとD.J.Fulltono、あとダンサーのWeezy (SHINKARON) もいました。日本人がシカゴの現地のシーンへ訪問することをどう受け止めていますか?

トラックスマン:〈Juke Fest〉は最高だったよ。日本でジューク/フットワーク・シーンを広めてるDJやダンサーがジュークのメッカ、シカゴに来てくれた事は物凄く意義があったと感じている。シーンの現状を見せることが出来たし、彼らをシーンのパイオニアであるJammin' GeraldやDJ Deeon、X-Rayとか若手のSpinnやK.Locke、ダンサー集団のThe Eraに紹介することも出来たし、双方にとって素晴らしい機会になった。〈Dance Mania〉の本社にも連れて行ったよ。

DJラシャドの死についてまずはコメントをください。彼を失ったことはジューク/フットワークのシーンにおいて、どのような意味を持っているのだと思いますか?

トラックスマン:ラシャドの死についてコメントするのは本当に難しいな……。シカゴにはラシャドをDJとしてだけでなく、個人的に親しくしていた人もたくさんいたから彼の死はとても衝撃的だった。実際に会って話をして、彼を『DJ Rashad』ではなくひとりの人間として接すると、本当に素晴らしい人間だということがすぐにわかるし、そういう人たちにとってのショックは計り知れない。彼を失ったことは非常に残念だけど、彼がこの世を去った後もシカゴのプロデューサーやダンサーはかならずこのシーンをさらに世界中に広めようと心に誓っている。

少し前にフランキー・ナックルズが亡くなり、DJラシャドまで亡くなるというのは、シカゴ・ハウスの歴史を知るあなたにとって重い出来事だったと思います。

トラックスマン:そのふたりが亡くなったのは1か月も離れていないんだ。ラシャドとは17〜8年の付き合いだったので、本当の親友を失ったと感じているよ。フランキーの死に関しては、シカゴ全体がショックを受けたニュースだった。ハウス・シーンを最初期から見ている古い世代がもっともショックを受けていると思う。もちろんそれはシカゴに限ったことではなくて、世界中のハウス・ミュージック好きにショックを与えた出来事さ。いい出来事も、悪い出来事も、受け入れなくてはならない。

いまはジューク/フットワークのシーンは日本にも広がっているときだったので、彼の死はとても残念でした。とくにDJラシャドは音楽的な才能に恵まれた人だったし、あなたとはもう古い付き合いだったと思います。ぜひ、彼と出会った頃の話を聞かせてください。

トラックスマン:日本にジューク/フットワーク・シーンがここまで広まったのは本当に素晴らしいことだ。今度の来日も出来る事なら1ヶ月くらい滞在したいよ。
 ラシャドに出会ったのは、1997年か98年のことだな、あるパーティでRP Booに紹介されて初めて会った。その後しばらく会わない時期があったけれど、仲が悪かったわけでは決してなくて、DJでお互いの曲をプレイしていたりもした。2004年に再開して、そこからは完全に意気投合して、シカゴのウェストサイドで「K-Town 2 Da 100'z」というミックステープを俺とラシャド、スピンの3人でリリースしたりもした。その頃ラシャドとスピンはDJ Clentの〈Beat Down〉クルーに所属していたんだけど、それを抜けて俺を含めた3人で〈Ghettoteknitianz〉クルーを始動させた。そこから新しい時代が幕を開けたと言っても過言ではない。もちろん当時は俺らのやってる音楽がここまで大きなものになるなんて誰も予想すらしていなかったけどね。

あなたは子供の頃からディスコ、初期ハウス、ガラージ・ハウスを知っているし、そしてロン・ハーディのDJも知っています。そして、シカゴ・ハウスがミニマルでクレイジーな方向、ビート主体で、テンポも速いゲットー・ハウスへと展開していった過程も知っていますよね。先ほども言いましたが、シカゴの歴史を知っているひとりですが、まずはあなたにハウスを定義してもらいましょう。ハウスとは……何でしょう?

トラックスマン:ロン・ハーディをもの凄くリスペクトしているし、フランキー・ナックルズも尊敬してる。だが、彼らがシカゴのクラブでプレイしていた1983〜85年くらいの時期は、まだ俺は10歳くらいの子供で、クラブに行くことすら出来なかった。音楽の情報源はもっぱらラジオだった。ロンやフランキーのプレイを見ることが出来るようになったのはもう少し歳をとってからだ。
 これは本当に世に知られてないことだけど、俺らの世代のDJはみんなWBMXというラジオ局を聴いて、ハウス・ミュージックの洗礼を受けたのさ。俺は当時WBMXでDJをしていたKenny Jammin Jason、Scott Smokin Silz、そしてFarley Jackmaster Funkのプレイを聞いてハウスを学んだんだ。彼らのことは本当に死ぬほど愛しているし感謝しているよ。彼らラジオDJの存在がなければ、いまのシカゴにここまで多くのDJやプロデューサーがいる状況は生まれていなかっただろう。
 俺より上のロンやフランキーの時代にクラブに行ってた世代は、クラブで流れる曲に注目しただけで、DJのスキルやミックスのテクニックに注目はしていなかった。だがラジオDJは違った。例えば1曲かけるだけでも最初にインストゥルメンタルをかけて、じょじょにヴォーカル入りのヴァージョンにミックスして、そのあとダブミックスのブレイク部分をかけるなどして、ミキシングで展開を作った。俺らはそのスタイルにとても影響を受けている。
 ハウス・ミュージックの歴史に関しては、ラジオDJが後の世代にいかに大きな影響を与えたかなどの重要な情報は、シカゴの街から外に出ることは無かった。ハウス・ミュージックは70年代後半に生まれたと言う人もいるけど、現在も受け継がれているハウス・ミュージックのスタイルが誕生した本当のスタートは、1985年だ。その年にChip Eがリリースしたレコードに"House"(85年発表の「Itz House」)、そして"Jack"(同じく85年の「Time to Jack」)という言葉が初めて使われた。ちなみにChip Eは、十数年前に日本に引っ越して、いまも住んでいるよ。シカゴに戻りたくなくなったのかもね(笑)。
 俺にとってハウスは、キックとスネア、サンプルで構成されたとてもシンプルなもの。それのスタート、そして現在のハウスのスタイルの元となったものの誕生が1985年、とても重要な年だ。俺はハウス・ミュージックについての正しい知識と知識を広めるのが宿命だと思っている。そのためにCorky Strongという名義でも活動している。昔のことを知らないで、良い方向で未来に向かって行くことは難しいからね。
 シカゴは昔から、それこそアル・カポネの時代からとても閉鎖的で、隔離されていて、それでいて自分たちのテリトリーを重要視する街なんだ。ゲットー・ハウスもジュークもフットワークもシカゴではまったくリスペクトされていないのが実際のところで、地元で力のある多くのベテランDJやラジオ、テレビはまったくピックアップしない。インターネット上で盛り上がってるだけだ。これは本当に根深く大きな問題だ。自分たちの街で、自分たちに当てられるべきスポットライトが当たった試しがない。インターネットは比較的最近の媒体で、いまだに多くの人びとはラジオやテレビで新しい音楽と出会っている。なのにそれらのメディアが取り上げてくれないと広がりようがない。俺たちの作った音楽がいつの間にか海を渡って、日本やその他の国で愛されていることを知ったのもつい最近のことだ。いつも海外での評価の方が地元の評価より高いのさ、例えばジミ・ヘンドリクスがアメリカを出てヨーロッパで評価されるまでは、アメリカでまったくと言っていいほど評価されていなかった。それと似た感じだな。このあいだ日本のフットワーカーのWeezyがシカゴに来たとき、ゲットーのレストランでフットワークを披露したんだけど、地元の人間は本当に驚いた。フットワークのダンス・カルチャーが世界に広がってるなんて想像もしていないかったからね。


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俺より上のロンやフランキーの時代にクラブに行ってた世代は、クラブで流れる曲に注目しただけで、DJのスキルやミックスのテクニックに注目はしていなかった。だがラジオDJは違った。例えば1曲かけるだけでも最初にインストゥルメンタルをかけて、じょじょにヴォーカル入りのヴァージョンにミックスして、そのあとダブミックスのブレイク部分をかけるなどして、ミキシングで展開を作った。


あなたがハウスにハマった理由について教えて下さい。

トラックスマン:いい質問だな。最初にChip Eの「Itz House」を聞いたときは全然好きになれなかったんだ。いまは大好きだけどね。同時期にChip Eが発表した「Time to Jack」がハウスにハマった大きなきっかけのひとつだな。電子的なシーケンス・パターンに完全にやられたよ。
 その前年にJesse Saundersが「On and On」を発表して、リズムマシンを使ってファンクを表現するスタイルを確立した。初期のハウスはTR-808リズムマシンのサウンドが多く使われていたんだけど、808のドラム・サウンドに本当に虜になった。その後1987年にハウス・ミュージックのサウンドに変化が見えはじめた。TB-303を用いたアシッド・ハウスが登場して、そのサウンドにも夢中にさせられたね。当時ちょうどティーンネイジャーだった俺は、ロン・ハーディらがDJしていた〈ファクトリー〉に遊びに行きだした。いまでも仲がいいHouseboyって友人とよく一緒に遊びに行っていたよ。〈ファクトリー〉はシカゴのウエストサイドにあったティーンのクラブで、Jammin Geraldとかがプレイしていた。
 あるとき〈ファクトリー〉で遊んだ帰り、夜中の2時くらいにHouseboyが「サウスサイドのクラブに行ってみよう」と誘ってきて行ってみたんだ。そこではロン・ハーディがDJしていて、初めてドラッグ・クイーンとかゲイのパーティ・ピープルを見て衝撃受けた。ロン・ハーディーは選曲のセンスはパワフルで人を引き付ける物があった。だけどDJとしてのテクニックはいまひとつだと感じたのを覚えてる。そのサウスサイドのクラブで流れていたのは、メロディやハーモニーが重視されたキレイ目な楽曲が多かった。いっぽうウエストサイドではビート重視でリズムマシンが多用された電子的な、さっき出たChip Eの楽曲のようなスタイルが好まれた。同じハウス・ミュージックでも、サウスがハウス・クラウド(客)、ウエストがビート・クラウドという風に言われていて、同じ市内でもビート系とハウス系ではまったく違うシーンだったよ。俺はもちろんビート・クラウドさ。

どうしてあなたは、ゲットー・ハウスの流れの方に進んだのでしょうか? たとえばディープ・ハウスではなく、ゲットー・ハウスの側に惹かれた理由を教えて下さい。

トラックスマン:最大の要因はまわりの人間だな。俺がいまでも住んでいるウエストサイドの人間、みんなビート系ハウスの流れを組んだゲットー・ハウスが好きだった。もちろん自分でも好きだったけど、パーティに遊びにくる人たちも、まわりのDJもみんなゲットー・ハウス好きだった。まわりの人たちを喜ばせるためにもゲットー・ハウスに進んだのは自然な流れだったね。80年台後半から90年代初頭にはハウス・ミュージックはシカゴでは落ち着いてしまって、ヒップホップの時代に突入した。そのかわりハウスは、世界中に波及して、当時シカゴを盛り上げていた尊敬していた先輩DJはイギリスやヨーロッパの国々に行ってしまった。
 ヒップホップが勢いを増すなか、シカゴに残ったプロデューサー、Armando、Steve Poindexter、Robert Armani、Slugo、Deeon、そして俺なんかは、ラジオでもすっかりプレイされなくなってしまったハウス・ミュージックを作り続けていた。つまり、ハウスはストリートに戻ったってことさ。その頃は400〜500ドルくらいの少額な契約金でレコード契約を地元レーベルと結んでいた、何より作品を発表し続けたかったからね。その頃から考えるといまの現状は考えられないね。

Traxmanを名乗ったのも、〈TRAX〉ものが好きだったからですよね?

トラックスマン:良くわったね。その通りだよ。〈TRAX〉レーベルから出ていた楽曲は的を得ていたというか、何か俺に語りかけているような魅力があったんだ。DJをやりだした頃はDJ Corky Blastっていう名前で、そのあと90年頃からDJ Jazzyっていう名前だったな、Jazzy Jeffが好きだったからね。93年頃にTRAXMANと名乗りだしたんだ。93年ごろにPaul Johnsonと知り合った。彼は銃で背中を撃たれた直後で車いす生活を余儀なくされたばかりだった。同時期にTraxmenメンバーのEric Martinと親しくなり同じくTraxmenのメンバーとして活動していたGant-manを紹介された、当時まだ13〜4歳の子供だったよ。仲間が増えてきた矢先に、俺たちの活動の場だったウェストサイドの〈ファクトリー〉が火事で焼失してしまい、〈ファクトリー〉の歴史は急に終わってしまった。その直後からJammin Gerald、DJ FUNK、Paul Johnsonなどがレコードをリリースしはじめて、その流れに乗って俺もリリースをはじめた。
 同時期にサウスサイドのDJ/プロデューサーの噂が耳に入るようになってきた。DJ Deeon、Slugo、Miltonとかだ、サウンドを聞いたら彼らは最高にイケてたよ。ちょうどこの時期が85年以降のハウスのオリジネーターとゲットー・ハウス世代の世代交代の時期だったな。その頃はギャング抗争がもの凄く激しくて、ストリートはとても危険だった。俺たちは音楽に救われていた、音楽にハマっていなかったらギャング抗争に巻き込まれて、殺されていてもおかしくなかったからな。実際に殺されてしまった友人もたくさんいる。音楽が俺を救ってくれたから、いまシカゴでくだらない争いに巻き込まれている若いヤツらだって、音楽に救われることが出来るんだということを伝えていきたいと本気で思っている。

DJとして活動するのは何年からですか?

トラックスマン:1981年だね。

DJ以外の仕事はしたことがありますか?

トラックスマン:それもいい質問だ。むかし、1989年から1年ちょっとのあいだ地元のトイザラスで働いて、それ以外の仕事は全部音楽に携わる仕事さ。レコード屋で働いたり、〈Dance Mania〉のディストリビューションの手伝いをしたりしてた。

あなたが〈Dance Mania〉からデビュー・シングルを発表するのは、1996年ですが、自分でトラックを作るようになったきっかけは何だったのでしょうか?

トラックスマン:俺の原点ともいえる初期のハウス・ミュージックに大きく影響されている。アシッド・ハウスも好きだったけど、ビートやシーケンスが強調されたスタイルがやはり好きで、作曲に関してはそれにもっとも影響を受けているな。〈ファクトリー〉でJammin Geraldがプレイしていたり、ラジオで流れていたSleazy Dの“Lost Control"を聴いて、俺もトラックを作ってみようと決めた。Adonisの“No Way Back"っていう曲もかなり影響を受けたな。
 当時は近所にリズムマシンを持っている人が本当に少なくて、87年か88年ごろにSlick Rick Da Masterと知り合い、彼がチャック(=DJ FUNK)を紹介してくれた。リズムマシンを持っていたのは、そのふたりだった。Fast Eddieも割と近所に居たけど、彼はヒップ・ハウスが流行ってきて忙しくなってきた頃だから全然会えなかった。当時はレコードはたくさん持っていたけど、リズムマシンは持っていなかったんだ。DJ Raindeerっていう仲間がいたんだけど、そいつは逮捕されしまって今度はそいつの弟とよく遊ぶようになって、ある日「俺、実はリズムマシンもターンテーブルも持ってるよ」と言ってきたんだ。その頃、DJ FUNKも近所に越してきていて、俺のターンテーブルとFUNKのカシオRZ-1を交換した。ついに機材が揃ったから曲作りが出来るようになった。そこからは夢中になって、トラック制作に取り組んだね。DeeonとかGantmanとかサウスサイドの連中ともどんどん仲良くなって、ゲットー・ハウスシーンが広がっていった。

「Westside Boogie Traxs - Vol I」を出してから、「vol.2」はいつ出たんですか?

トラックスマン:Vol.2はフランスの〈Booty Call〉から2012年に発表したよ。1と3は〈Dance Mania〉だね。

90年代末から2000年代の最初の10年前、あなたはとくに目立った作品のリリースはしていませんが、それは何故でしょうか?

トラックスマン:コンスタントに曲は作っていたんだけど、〈Dance Mania〉も止まってしまい、発表の場が無くなった。デトロイトのDJ Godfatherがそのあいだの時期にシカゴのアーティストの作品をリリースしていたが、俺は彼とはあまり繋がっていなかったからな。それからじょじょにフランスの〈Moveltraxx〉みたいなレーベルから声がかかるようになって、自分の作品を発表する場が出来てきた。

ゲットー・ハウスがどんどん発展して、音楽的に独創的になり、ジュークが世界的に認知されるまでのあいだ、シカゴのシーンはどんな感じだったのでしょうか?

トラックスマン:シーンはあったんだけど、前後の時期ほど盛り上がってはいなかったね。なんとなく続いていた感じかな。

ちなみにシカゴでは、いつぐらいからヴァイナルではなくファイルへと変わっていったのでしょう?

トラックスマン:それは他の連中がPCでDJをはじめて時期と一緒くらいだよ。2000年代半ば頃から、ちらほら増えだしたな。俺は筋金入りのヴァイナル・フリークでターンテーブリストだけど、昔からテクノロジーも好きだから、いまはPCも使っているよ。PCDJを否定する連中もいるけど、彼らはテクノロジーをどこか恐れている部分がある気がする。


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初期のハウス・ミュージックに大きく影響されている。アシッド・ハウスも好きだったけど、ビートやシーケンスが強調されたスタイルがやはり好だ。Sleazy Dの“Lost Control"を聴いて、俺もトラックを作ってみようと決めた。Adonisの“No Way Back"にもかなり影響を受けたな。


Traxman
Da Mind Of Traxman Vol.2

Planet Mu/Melting Bot

FootworkJukeGhetto

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2012年の『Da Mind Of Traxman』以来のセカンド・アルバム、『Da Mind Of Traxman vol.2』は、相変わらず勢いのある作品で、ビートがさらにユニークになっているし、カットアップもより大胆になっているように感じました。

トラックスマン:実は『Vol.2』も『Vol.1』も収録楽曲はほぼ同時期に作られている。もちろん新しい曲も収録されているけどね。いちばんの違いは、前作は〈Planet Mu〉が楽曲をチョイスした楽曲しているが、今作のほとんどは俺が選曲したってことだ。もちろん前作も気に入っているけど、今作の方が実験的な曲を収録出来たし、気にっているよ。

ジャングルからの影響はありますか? 15曲目の“Your Just Movin”など聴くとそう思うのですが。

トラックスマン:言われてみればそう聞こえるかもな。良いところをついてくるな。とくにジャングルを意識して作ったわけではないよ。さっきも言ったように、今作は本当に実験的なアルバムだから、かなり珍しいサンプルとか、変わったネタ使いをしているというだけ。

ジューク/フットワークはダンスのための音楽なわけですが、あなたはアルバムというものをどのように考えていますか?

トラックスマン:アルバムは俺の子供みたいなものだ、1曲1曲に俺の好きなアイディアを詰め込んであるし、自分の子供たちを世に送り出すような感覚だね。

よりテンポを落として、ハウスやテクノとミックスしやすいようにしようとは考えませんか?

トラックスマン:それは別名義のCorky Storngでやっているよ。トラックスマンはジューク/フットワークの名義だ。それにDJをやるときは160BPMからはじめることはまずない。いきなり160から入ったら、あまりに窮屈だからね。最初は比較的ゆっくり、128BPMくらいからはじめて、じょじょに上げていくのが俺の基本スタイルかな。

クイーン、クラフトワークなど、大ネタを使っていますが、サンプリングのネタはどのようにして探しているのですか?

トラックスマン:サンプルは俺の家にある音源と親友のX-Rayのレコード・コレクションから選んでいる。X-Rayは本当に凄いコレクターで、彼のコレクションはまさに“Mind of Traxman"だよ。使うサンプルを探してるときはいろいろなレコードを聴いて、気に入るサンプルを見つけるまでひたすらアイディアを巡らせている。気に入った部分を見つけたら部分的に保存しておいて貯金するようにためておくんだ。

あなたにとって「getto」とは、どんな意味が込められていますか? 人はそれをネガティヴな意味で使いますが、あなたはこの言葉をなかば前向きに使っているように感じます。

トラックスマン:gettoは心理状態や人格だ。住んでいる場所とか経済状況ではない。ゲットー・エリアに住んでる奴がいるとして、そいつがゲットーな街から引っ越して出て行っても、そいつはゲットーなままだ。ネガティヴな意味で使われがちだけど、俺はポジティヴな意味で使う。ハングリーさとかそういうメンタリティを表している。ちなみに俺はG.E.T.O. DJzっていうDJクルーに入っているんだけどそれは"Greatest Enterprise Taking Over"(制圧する最高の企業)の略だ。

ゲットー・ハウスは、このままワイルドなスタイルを貫くのでしょうか? それとも音楽的に成熟する方向を目指すのでしょうか? あなたは未来についてどう考えていますか?

トラックスマン:俺たちシカゴの人間、そして世界中のゲットー・ハウス、ジューク/フットワークのプロューサーがいる限り、音楽のスタイルは変わらない。進化は続けるけれど本質が変わることはないよ。

海法:まもなく日本でのツアーが始まりますがその意気込みをきかせて下さい。

トラックスマン:日本にまた行けるのを本当に楽しみにしている! 嬉しくて、フットワークが踊れたらこの場で踊ってしまいたいくらいだ! 前回よりも絶対に最高の内容になるのは保障する! 是非見に来てくれ!



Da Mind Of Traxman Vol.2 Release Tour 2014 In Japan




数多くの逸話を残した衝撃の初来日から2年。80年代シカゴ・ハウス、90年代ゲットー・ハウス、そして00年代ジューク、シカゴ・ゲットーの歴史と共に30年以上のキャリアを誇るシカゴ・マスター、 Cornelius Ferguson (コーネリアス・ファーグソン)こと Traxman (トラックスマン) aka Corky Strong (コーキー ・ストロング)が最新アルバム『Da Mind Of Traxman Vol.2』を携えて待望の帰還!

ツアー会場先行 & 限定特価でTraxmanのハウス名義Corky Strongでの日本限定来日記念盤CDのリリースやオリジナルのTシャツの物販も要チェック!

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SOMETHINN 6 - DA MIND OF TRAXMAN VOL.2 RELEASE TOUR -
■8.8 (FRI) @ Circus Osaka
OPEN / START 22:00 - ADV ¥2,500 / Door ¥3,000 *別途1ドリンク代500円

Guest:
Traxman (Planet Mu / Lit City / Dance Mania / GETO DJ'Z / TEKLIFE / TEK DJ'Z)

DJs:
Kihira Naoki (Social Infection)
D.J.Fulltono (Booty Tune / SLIDE)
Metome
Keita Kawakami (Kool Switch Works)
DjKaoru Nakano
Hiroki Yamamura aka HRΔNY (Future Nova)

More Info: https://circus-osaka.com/events/traxman-release-tour/

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TRAXMAN JAPAN TOUR 2014
■8.9 (SAT) @ Unit & Saloon Tokyo
OPEN / START 23:00 - ADV ¥3,000 *150人限定 / Door ¥3,500

DJs:
Traxman (Planet Mu / Lit City / Dance Mania / GETO DJ'Z / TEKLIFE / TEK DJ'Z)

DJ Quietstorm
D.J.Fulltono (Booty Tune)
D.J.April (Booty Tune)

Live Acts:
CRZKNY
Technoman

Saloon:
JUKE 夏の甲子園 <日本全JUKE連> 開催!

DJs:
D.J.Kuroki Kouichi (Booty Tune, Tokyo)
Kent Alexander (PPP/Paislery Parks, Kanagawa)
naaaaaoooo (KOKLIFE, Fukuoka)

Live Acts:
Boogie Mann(Shinkaron, Tokyo)
Rap Brains (Tokyo)
隼人6号 (Booty Tune, Shizuoka)
Skip Club Orchestra (Dubriminal Bounce, Hiroshima)
Subsjorgren (Booty Tune, God Land)

More Info:
https://www.unit-tokyo.com/schedule/2014/08/09/140809_traxman.php

interview with How To Dress Well - ele-king


How To Dress Well- What Is This Heart?
Weird World / ホステス

R&BElectronic

Album Reviews Tower Amazon iTunes

 「人生を豊かにしようと、意味のあるものにしようとしているんだ」。ハウ・トゥ・ドレス・ウェルの音楽を語るならば、その言葉に尽きる。デビュー作(『ラヴ・リメインズ』)の、割れていびつに増幅されたゴーストのような音像は、セカンド(『トータル・ロス』)においては驚くほどなめらかに整えられ、ポップ・アルバムとしての輪郭を得ることとなった。ひたすらエコーしていたループ・コーラスは、旋律として彫琢され彩色をほどこされて唄のかたちに結実した。R&Bの新世代を象徴するような見られ方をするようになったのはこの頃だ。──ノイズがスムースなR&Bに変化したことを「進化」ととらえるのはあまりに単純・短絡的かもしれないが、クレルにとってそれはおそらく、そのくらいシンプルなことなのではないだろうか。前作のインタヴューからもうかがわれるが、ファーストとセカンドの間には、混乱と克服(整理)という明確な対比がある。ジャケットに自身の顔がフィーチャーされるようになったのもこのことと無関係ではないだろう。音を楽しむのではない、生を豊かにしようというのが彼の音楽であればこそ、クレルは敬虔なまでに思索をつづけ、己れの姿を鍛えようとするのだ。

 インディR&B、オルタナティヴR&B、チル&B。ともあれこれはあたらしい時代感覚を持ったR&Bなのだ、という主張とともに見いだされるようになったアーティスト群は、ザ・ウィークエンドしかり、インクしかり、たいていがシンガーとプロデューサーを兼ね、ベッドルーム規模のR&Bを発信することを出発点としていた。それがまさに「インディ」「オルタナティヴ」と冠される彼らのリアリティのひとつであったわけだが、クレルが共有するのはそうしたスタイルや時代感覚であって、R&Bというフォームはむしろ偶然的な要素にすぎないようにみえる。いや、ここまで書いてひっくり返すようだが、彼らはみなそうなのかもしれない。初期においてはウィッチ・ハウスとも交差し、クラムス・カジノらとも比較されるベッドルーム・プロデューサーとして注目を集めたクレルを筆頭に、彼らはブラック・ミュージック史にとっては客人にもひとしいのだろう。しかし、それぞれの出自と、現ポップ・シーンのヘゲモニーたるR&Bとの境界で、彼らはおのおのの領域を拡張しつづけている。

 さて、ハウ・トゥ・ドレス・ウェルのサードとなる最新作『ホワット・イズ・ディス・ハート?』がリリースされた。インタヴュー中でも繰り返されるように、本作のテーマは愛、というか本作自体が愛をめぐる思弁そのものである。ピアノが好きだと言っていたが、本作のやさしいピアノは、音楽であるよりもまずクレルの愛の観念をつまびらかにするものだ。ノイズは歌へ、歌は愛へ。アルバム3枚を重ねるなかで、まるで塵と芥から球体の星がひとつできあがるように、彼の生は求心力を得、すべやかに鍛えられている。

 よくわからない闇夜のジャケットは、自身の顔の彫像へ、そしてさらにシンプルなポートレートへと変わっていった。こんなふうにパーソナルで尊い心の鍛錬が、普遍的なオルタナティヴとして鳴っていることに筆者は何万度も感動する。

■How To Dress Well(ハウ・トゥ・ドレス・ウェル)
ベルリンを拠点に活動するトム・クレルによるソロ・プロジェクト。新世代のR&Bを象徴的する存在としても注目される。2010年にデビュー作『ラヴ・リメインズ』を〈レフス〉から、2012年にセカンド・アルバム『トータル・ロス』を〈ウィアード・ワールド〉からリリース。2年ぶりとなる新作『ホワット・イズ・ディス・ハート』では、前作にひきつづき共同プロデューサーとしてロディ・マクドナルドを起用。デビュー当時ウィッチ・ハウスにも比較されたミステリアスな音楽性は、アルバムを重ねるごとに歌ものを主体としたポップな相貌を見せるようになっている。

どんな成長も、失うものと新しく得るものの組み合わせなんだよね。剥ぐこと、進化すること、作り出すこと、生み出すこと、探求すること、認めること、否定すること。

以前にインタヴューさせていただいた折、黒沢清監督の映画『回路(英題:パルス)』に出てくる、人の思念の痕のようなシミと、『ラヴ・リメインズ』(2010年)の音像が似ているというお話をしました。あの彷徨う影のような思いのかたまりは、いまはずいぶんと磨かれて、くっきりとかたちを持つ魂のようになったと感じます。この4年ほどのあいだに、あなたの音と精神生活も、洗練されたり整理されたりしてきたのでしょうか?

トム・クレル:間違いなく『ラヴ・リメインズ』以来成長したとは思うよ──時は過ぎていて、時とともに僕も動いているからね。人生を豊かにしようと、意味のあるものにしようとしているんだ。

むしろその過程で失ったように思うものはありますか?

TK:どんな成長も、失うものと新しく得るものの組み合わせなんだよね。剥ぐこと、進化すること、作り出すこと、生み出すこと、探求すること、認めること、否定すること。

このアルバムにおいては、構成や曲順をどのように行っていますか?

TK:どの作品も同じなんだけど、この作品も直感に頼って、非概念的な、「生きた」過程を通って生まれた作品なんだ。曲が揃った時点ですでに順番は見当がついていたよ。

7曲め“ポー・シリル(Pour Cyril)”の子どものモチーフは具象的なものですか?

TK:具象的であって、具象的ではない。「Broken Child(壊れた子供)」がいてはいけないって僕は本当に信じているからね──壊れた世界なんて世界のあり様じゃないだろ? それから、僕が歌う子ども、「Sweet little life(可愛い小さな命)」は真実、簡潔さ、愛、そして意味を象徴している隠喩なんだ。

子どものモチーフは他の曲にも散見されますが、人の父になることについて考えるのですか?

TK:もちろんさ──。小さい頃から自分の子どもが生まれることは想像していたよ。子どもが大好きなんだ。バカ正直だし、とにかくおかしい。

あなたのうたう「愛」は「人類愛」のニュアンスとも少し異なるように思いますが、かといって対象が特定できるほどパーソナルなものですか?

TK:愛はすべてだと思うよ。つねに僕はそれについて歌っている。愛は僕にとっていちばん大切で、ふだん忘れられがちだけど、人間が持つパワーのひとつだと思っている。

とくにこの曲であなたの特徴でもある過剰にコンプレッサーをかけるようなプロダクションを用いるのはなぜです?

TK:コンプレッサーはそんなに使っていないよ──最近出てきている音楽に比べれば、僕の音楽はグラスのよう、あんまりコンプレッサーにはかかっていない。

愛はすべてだと思うよ。つねに僕はそれについて歌っている。

以前ココロージー(CocoRosie)のTシャツを着ておられましたがジョアンナ・ニューサム(Joanna Newsom)も好んで聴かれるそうですね。彼女たちのサイケデリックでフォーキーな音楽性は、あなたが「新世代のR&B」というふうに目される以前の音を思い出させます。彼女らへのシンパシーについておうかがいしたいです。

TK:彼らはヴォーカルの先駆者だよ。独特な声で歌い上げるところがとても気に入っているんだ。ココロージーもジョアンナ・ニューサムもとてもディープで考えさせられる歌詞を書くんだよね。

11曲め“ヴェリー・ベスト・フレンド(Very Best Friend)”などの軽やかなビート感覚がとても新鮮に思われました。詞のシンプルさからみても、ポップスとしての整った輪郭をもった曲だと感じます。こうした曲の誕生には、ロディ・マクドナルド(Rodaidh McDonald)氏のアイディアやアドヴァイスなどもあったりするのでしょうか?

TK:そうでもないんじゃないかな。この曲は一日で書き終えたんだ。とても簡易だけど、「合って」いたんだよね。「Ya it's dumb but sometimes it's just right(間抜けだけどときどきそれが正しいこともある)」って曲中歌っているんだけど、その歌詞こそがこの曲に対しての思いを表しているよ。

“プレシャス・ラヴ(Precious Love)”では、たとえばマーヴィン・ゲイとダイアナ・ロスを思い出しましたが、この曲や“ワーズ・アイ・ドント・リメンバー(Words I Don't Remember)”など、スムースな手触りのシンセ・ポップやソウル・ナンバーも、前作から発展的に生じた新機軸のひとつではないかと思いますが、いかがですか?

TK:僕の中で“プレシャス・ラヴ”はマーヴィン・ゲイよりもバックストリート・ボーイズなんだよね。とにかくいろんな音楽を聴いてきて、そのすべて(エヴリシング・バット・ザ・ガール、バックストリート・ボーイズ、インフィニット・ボディ、リッチ・ホーミー・クァン、アントニー、ブライアン・マックナイト、スピリチュアライズド、etc.)が、僕の作曲のプロセスに反映されているんだ。

音楽の豊かさには、それをつくる人間自身の充実や豊かさが直結すると思いますか?

TK:そうとは限らないんじゃないかな。充実していて豊かな人生っていうのを手に入れるのは難しいことだし、人それぞれ捉え方が違うものだからね。

あなたが音楽において意図するものは、聴き手に十全に通じていると思いますか? また、あなたは、あなたの音楽を通して世界になんらかの変革がもたらされることを望みますか?

TK:聴き手から自分の音楽について学べることがたくさんある。変革をもたらしたいとは思っていないよ。

ドイツでの録音ということですね。他の場所ではなくその地を選んだ理由を教えてください。

TK:ベルリンに住んでいたからそこでレコーディングしただけさ。

たくさんのミュージシャンたちと仕事をしたいと思いますか?

TK:もちろんだよ! ドレイクと作曲したいね。グルーパー(Grouper)とコラボレートもしたいし、アントニーと演奏したい! 話しはじめたらキリがないよ!

Derrick May - ele-king

 ちょうど今頃、MAYDAY名義の1987年の作品が再発されて、地味に話題になっているデリック・メイのギグが、今週土曜日に代官山AIRであります。ダンス・ミュージック、ハウス・ミュージック、テクノ・ミュージックといったものに興味があって、デリック・メイのDJをまだ聴いたことがない人がいたら、週末はチャンスですよ。DJとしての技術、知識、アイデア、そしてアティチュードにおいて、いまだずば抜けていると思います。デリックの両脇を固めるDJたちも、ヒロシ・ワタナベ、ゴンノをはじめ、クラシック・セットを披露するDJワダなど最高のメンツ。

■7月26日(土)
Hi-TEK-SOUL

代官山AIR | July 26th, 2014

開催日時:
2014年7月26日(土)
OPEN / START 22:00

開催場所:
代官山AIR

出演:
Derrick May (Transmat from Detroit)
Hiroshi Watanabe a.k.a Kaito (Kompakt, Klik Records)
Gonnno (WC, Merkur, International Feel)
DJ WADA (Co-Fusion)
DJ YAMA (Sublime Records)
Ken Hidaka (Hangouter, Lone Star Production)
Milla
Naoki Shirakawa
C-Ken
Shade Sky
Gisu
mick

料金:
¥3500 Admission
¥3000 w/Flyer
¥2500 AIR members
¥2500 Under 23
¥2000 Before 11:30PM
¥1000 After 6PM


interview with Plastikman - ele-king


Plastikman
EX

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 プラスティックマンが11年ぶりに新作を出すのは、何かそうさせる機運が、彼を後押しする気配がこの時代に潜んでいるからだろう。それは本人の知るところではないかもしれない。が、カイル・ホールが俄然大きく見えることとも、ピンチがテクノを手がけることとも、V/Vmが『レイヴの死』などという、20年前も聴いた言葉を繰り返し新作の題名に使うこととも無関係ではないのだろう。
 僕はプラスティックマンが1993年当時、いかに革新的で、いかに衝撃的で、しかも、それがいかにバカ受けたしたのかを伝えなければならない。が、ラマダンマンを聴いている世代に“スパスティック”を聴かせても、普通に良い曲/使えるトラックぐらいにしか思わないようだ……(そうなのか? 高橋君?)。
 たしかに最初、ミニマル・テクノで重要だったのは、ジェフ・ミルズ、ベーシック・チャンネル、プラスティックマンの3人だったが、我々はこの20年ものあいだ、「繰り返し」の音楽がひとつのスタイルとして確立され、四方八方へと拡散していくさまを見てきているし、多くのミニマリストによるこのジャンルの多様性を見てきている。「繰り返し」はトランスさせるし、トランスしたがっている人はつねに少なくないことも知っている。
 1993年から1998年までのプラスティックマンはすごかった。新作の『EX』が11年ぶりのリリースになってしまうのも無理はない。彼はすでに多くのことをやってきているのだ。

2004年から2008年はミニマル・テクノの当たり年で、ハイプ・トレンドになった年だ。僕はハイプ・トレンドになる前からミニマル・テクノをやっていた。ハイプ・トレンドのあいだもずっとミニマル・テクノをやっていた。ハイプ・トレンドが去った後も、変わらずにミニマル・テクノをやっている。

ベルリンにお住まいですか? 

リッチー・ホウティン:いま現在の僕はイビザにいてね、イビザに居つつ、ベルリンで過ごしたり、世界中を旅したり……、こうなるとどこに住んでいるとは特定しにくい状況なんだ。
 ベルリンはずいぶん変わってきたけれど、それは街が大きく変貌していってるだけで、そこに住む人たちは何も変わっていない。いまでも刺激的だし、インスパイアされる。それは10年前と何も変わっていない。むしろ良くなっているとも言える。人が増えたからそれだけ面白い人も増えた。クラブも増えたしね。アンダーグラウンド系、スクワッド、バー、いろいろあって面白い。ベルリンはいまでも、世界でもっとも面白い都市のひとつだと思うよ。

プラスティックマンは、あなたにとってメインのプロジェクトです。1993年、初めて“Spastik”が出たときには相当な衝撃がありました。『Consumed』も当時としては挑戦的な作品でした。あらためてプラスティックマンというプロジェクトのコンセプトについて話してください。

RH:プラスティックマンのコンセプトはイコール、リッチー・ホーティンのコンセプトだと思う。新しいアイディアを積極的に実現していく。だけどそれは、いまの時代にはどんどん難しいものになってきている。音楽を作って25年、エレクトロニック・ミュージック・シーンでずっとやってきて、この長い年月のあいだにほとんどのことはやり尽くされた感がある。何か新しいもの、自分らしい個性を見つけて爆発させるって簡単なことではなくなった。
 プラスティックマンのプロジェクトを10年ぶりに復活させた理由のひとつはそこにある。ここ数年実感していたんだけれど、いま、シーンにある既存の音楽、たくさんの音楽が溢れてるなかで、プラスティックマンの音楽性とは、他の何とも同じではないと思った。だからみんなにもっと聴いて欲しい。衝撃的だと言われたファースト・アルバムから連続性のある発展を遂げてきたものだから、それを5枚〜6枚と聴いて欲しい。と同時に、僕自身のサウンドは他の人たちがやってることと比較しても個性的で遜色ないものだと自負してるし。

〈M_nus〉からシングルは出していましたが、アルバムというと、2003年の『Closer』以来の11年ぶりとなります。今回の作品を発表するに当たっての、いちばんのモチベーションは何だったのでしょう?

RH:モチベーションはたくさんあった。ここ数年のあいだ、新しくて良い音楽がたくさん世に出てきていると思う。そのなかでプラスティックマンのサウンドというのは、テクスチャーがユニークだと思うし空気感が独特だと思う。それをさらに発展させて新しいものを作っていきたいと思った。

2007年、あなたは〈M_nus〉から“Spastik”のリミックスをリリースしました。また、2010年には過去の楽曲を集めた『Kompilation』、CD9枚組のボックスセットしても『プラスティックマン ‎– Arkives 1993 - 2010』もリリースしています。プラスティックマン名義での大がかりなライヴ・ショウも試みています。あなた自身がプラスティックマンの本格的な再活動に着手するにいたった経緯を教えてください。

RH:それはライヴ・ショウをやるのと同じ理由、プロセスだと思うんだ。2008年、2009年、2010年と、僕にとっては音楽活動20周年ということでいろんな企画があった。新しいリスナーがたくさん流入してる実感があるんだよね。新しいリッチー・ホーティンのファンがたくさん増えてると思う。新しいファンはリッチー・ホーティンの歴史をあまり知らない人も多いし、僕がいままでやってきたプロジェクトを全部知っているわけではない。それらのストーリー、歴史、僕の音楽にまつわるさまざまな情報を知らせるためには、プラスティックマンのアーカイヴは有用だった。僕がいままでやってきた事を理解してもらうのにとても役立つと思ったんだ。
 2010年、2011年のライヴでプラスティックマンのアーカイヴをプレイしたのもそれが理由だった。それに僕にとっても、ずいぶん昔に具現化したアイディアを再訪するのはとても楽しい行為だった。エレクトロニック・ミュージック・シーンて変化の速度はとても速い。基本的に過去を振り返るのは好きじゃないし、いままでやったことを忘れてしまうときさえある。だけどそういう、自分でも忘れていたことをあらためて見てみると、それがいい刺激になったりもする。過去の再訪、そして過去からの継続。つまりアーカイヴ・プロジェクトは再始動の序章だよ。それをきっかけとしてニュー・アルバム『EX』に繋がっていったんだ。

近年では、UKのポスト・ダブステップのラマダンマンのように、90年代のプラスティックマンの再解釈が見受けられましたが、ご存じでしたか?

RH:いや、意識したことはない。ただ、プラスティックマンはさまざまなところに影響を与えてるとは思う。長年かけてやってきてるから。君もさっき言ってたように、初期の作品はとくに影響力が強かったと思う。でも僕自身は、音楽を作っていくことを楽しんでるだけだ。誰かに影響を与えたいとか与えようなんて思ってない。いつも考えてるのはプラスティックマンイコール、リッチー・ホーティンのサウンドになるようにってことだけ。

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たしかに『Sheet One』にはユーモアがあって『Consumed』には暗さがあった。そして、今回のアルバム『EX』は表現力があると思う。演奏がより際立っていて、僕が10年ぶりにスタジオでプラスティックマンのサウンドを爆発させようと思った、その航海なんだ。


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『EX』は、昨年11月の、NYのグッゲンハイムでのライヴになりますが、これは作品としてリリースすることを前提でやったのですか?

RH:そういうわけでもなかった。前回のショウのオファーがあったとき、当初は既発の作品でやって欲しいという前提だった。しかし、それではつまらないと僕は思った。だから新曲を書こうと思ってね。それで1回のショウに足りる分くらいの曲を書こうと思って書きはじめた。それがいい感じにフロウしてきたら、ライティング・プロセスもレコーディングも楽しくてね。終わってみたら、これはすごく良いと確信したんだよ。だからリリースすると決断するのは至極当たり前の流れだった。

何故、ライヴ録音という手段を選んだのでしょう?

RH:もともとプラスティックマンのレコーディングというのは、プラスティックマンのライヴ・レコーディングと同じプロセスだからね。ライヴで人前でライヴ・レコーディングをするにしても、スタジオでレコーディングするにしても、結局僕ひとりでレコーディングするわけだから。マシンはずっと動かしっ放しだった。ちょっとアレンジしたり、コンピュータを動かしたり……。グッゲンハイムでのライヴは、普段のレコーディング・プロセスとほとんど同じだったよ。

90年代、テクノはヨーロッパでは受け入れられていましたが、アメリカは最初ヨーロッパほどこの音楽に積極的ではありませんでした。今回のアルバムがNYでのライヴということ、フランク・ロイド・ライトの建築物であるというは、あなたにとってどんな意味があったのですか?

RH:これはとても重要なポイントだった。エレクトロニック・ミュージックの現在は、北米ではこれまでにないほどとても支持されている。ただ、いまでも、やはりアートのひとつとしては捉えられていない。それが音楽史の一部として考えると面白いところでもあるんだけど。
 君の言うように、初期のエレクトロニック・ミュージックは北米ではあまり受け入れられていなかった。最近のエレクトロニック・ミュージックは、ほぼEDMと受け取られている。グッゲンハイムをプラスティックマンで再訪するというのは北米のマーケットに、エレクトロニック・ミュージックはレイヴ・ミュージックだけではない、EDMやダブ・ステップだけでもない、アーティストがいてDJがいて、世界中にあるものだと、世のなかに溢れているんだというね。
 エレクトロニック・ミュージックはさまざまな場所に溢れてる。ホールで、車のなかで、レイヴで、パーティで……。それだけではない美術館とか、そういった施設のなかでも流れてるものだからね。

スタジオでは、どの程度の手を加えたのでしょうか?

RH:ポスト・プロダクションは多少やったね。イマイチ気に入らなかった曲は1曲削除したし、全体のフロウをよくするために曲をちょっと短めに編集したりとか、そういった調整はした。ただ、ライヴ体験となるべく同じ状態でリリースしたかったから、そこは念頭において作業をした。だからちょっとしたミスやヴォリュームの問題なんかは、敢えていじらなかった。それは人間らしい息づかいを感じる部分というか、単なる機械に囲まれてるんではないという部分だから。

今年のソナーでも大がかりなライヴをやられていますし、いまやプロジェクトには、照明やヴィジュアルなどの、何人かのアーティストが関わっています。プラスティックマンというプロジェクトは、いわばチームとして再編され、総合的なアート、大きなプロジェクトに発展しているのですか?

RH:音楽的にはプラスティックマンはイコール、リッチー・ホーティンであり、僕自身なんだけど、ライヴではチームで動いている。とても親密な関係性を構築しているよ。僕の友だちのアリー・デメロール、日本人のイタル・ヤスダ、僕たちは一緒にヴィジュアルを作っている。チームワークでのクリエイティヴ・プロセスだよ。
 それは他のアーティストがやっているやり方とは違う。他のアーティストはそこに人間関係があるわけではない、よく知らないアーティストにヴィジュアル作品だけ依頼して作ってもらう。そういうやり方ではいいものは生まれないと思う。だけど僕たちはチームだ。僕たちがやってるのはひとつの家のなかで、お互いにアイディアを共有して音楽とヴィジュアルが融合したときにパワーを持つような、そういうものを作っている。ライヴで観たときにそれが体感できる何かである、ひとつの体験になるようなそういう作品を作っている。

あなたはデジタル・テクノロジーを積極的に取り入れていることでも知られていますが、とくに今回試みた新しい技術があったら教えてください。

RH:今回はプラスティックマンとしては、初めて、100%デジタルで作ったアルバムだ。303などのデジタル・プラグ・インを使ってるんだけど、そうすることでもっと自由度が増したと思う。全体の空気感がいままでよりも良い。メロディもよりメロディックなものが作れるようになったし、サウンドもより深みのあるものが生まれた。以前よりも広がりが生まれたと思う。音と音の空間もより広がった。

Sheet One』(1993年)にはユーモアがありました。『Consumed』(1998年)には暗さが反映されていました。そして、『EX』は、ライヴ演奏であり、曲名をすべて“EX”ではじまる単語に統一していますね。この意図するところは?

RH:たしかに『Sheet One』にはユーモアがあって『Consumed』には暗さがあった。そして、今回のアルバム『EX』は表現力があると思う。演奏がより際立っていて、僕が10年ぶりにスタジオでプラスティックマンのサウンドを爆発させようと思った、その航海なんだ。初期の頃のサウンドを思い出しながら、新しい領域へと踏み込んだ、その実験が最初から最後まで詰まっている。最初の曲は『Sheet One』に入っていてもおかしくないような関連性を感じる。その一方で、最後の曲は新しい領域、メロディックな領域に足を踏み入れている。それが僕の冒険であり、『EX』が辿った道筋だ。

あなたが今回のプロジェクトをやる上で、大いに参考になったことがあったら教えてください。

RH:このアルバムの重要な要素となってるのは、グッゲンハイムという建築物の傑作だね。それとインスピレーションになったのは僕のベルリンの家の暗いリビング・ルームだ。ベルリンの暗い夜に、ひとりで、部屋に座って曲を作ろうと思ったことだ。

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エレクトロニック・ミュージックの成功と熱狂的に支持された理由のひとつは、ここ10年くらいで考えると、デジタル・ディストリビューションとデジタルDJテクノロジーが先行した部分にもあると思う。デジタル・ディストリビューションはエレクトロニック・ミュージックを活性化するひとつのアドヴァンテージだと思っている。

あなたがいままで経験した他のアーティストのライヴのなかで、とくに印象に残っているものがあったら教えてください。

RH:最近は、あまり他のアーティストとコラボレーションしていない。あまり興味がないんだ。プラスティックマンとしてのライヴで良かったのは、1995年のグラストンベリーかな。プラスティックマンの新しいサウンドにみんなが熱狂し、大きなインスピレーションを与えた。それとソナーやグッゲンハイムも素晴らしかった。2〜3年前のモントリオールのミューテック・フェスティヴァルでのショウも印象に残っている。僕の誕生日で、地元カナダだったから、友だちがたくさん集まってくれた。

ここ数年、アシッド・ハウスやテクノの需要が上昇していると思いますが、あなたは時代性とか、シーンの変化ということにどこまで意識的なのでしょう?

RH:全然意識していない。音楽シーンはすごいスピードで変化し続けている。だから僕は、DJとして音楽をプレイし続ける限りは自分が好きなように冒険していければいいと思っている。自分でこれが良いと思うものをやればいいと思っている。それがたまたまトレンドとして盛り上がったらそれはいいかもしれない。だけどわざわざトレンドに乗る必要はない。

ミニマル・テクノのスタイルの音楽がポピュラーなものとなり、かれこれ20年以上も人びとに求められている理由は何だと考えますか?

RH:ミニマル・テクノはトレンドからどんどん遠ざかっていると思う。ただ、ミニマル・テクノ、ミニマル・ハウス、ミニマル・ミュージックは、ほどほどのバランスを保って人びとの注目をある程度集められるくらいの情報量があって、それで熱心に聴いてる人たちがある程度いるということだと思う。だけど、熱心に聴いてる人はそんなに多くはいないと思うよ。みんなが熱心に聴く、そのときにトレンドが起こる。みんなが熱心に聴いて口コミが広がり、話題に上って……そうしてトレンドの隆盛が繰り返されていく。しかし、音楽というのは、そこに愛があって作られる。音楽とは、そうあるべきだと思うんだ。そういう音楽が僕は好きだし、そういう音楽を僕は追っている。

ミニマルは、この10年で東欧にも広がっています。興味深いレーベルやアーティストがたくさん出てきていますよね。

RH:たしかに2004年から2008年はミニマル・テクノの当たり年というか、ハイプ・トレンドになった年だと思う。もうそういうトレンドがやってこないとは言わないけれど、それ以降の年はトレンドとは逆の方向にいったと思う。だけど僕はハイプ・トレンドになる前からミニマル・テクノをやっていた。ハイプ・トレンドのあいだもずっとミニマル・テクノをやっていたんだ。ハイプ・トレンドが去った後も、変わらずにミニマル・テクノをやっている(笑)。それでいいと思う。それが僕だから。自分の個性を見つめながら少、しずつその個性を発展させていけばそれでいいんだよ。
 東欧のシーンは、他の欧州のシーンと同じように変わり続けている。発展し続けてると思うけど、ロシア、ウクライナはとくにエレクトロニック・ミュージックが浸透していってる気がする。だけどピンポイントでは語れないな……もっと広い目で見ると、こっちでは浸透していきつつ、こっちでは廃れているみたいな、ひとつのスタイルがこっちで人気になっていると思うと、あっちではそのスタイルが廃れていくみたいな……。波と同じで、行ったり来たりだ。満ち潮もあれば引き潮もある。太陽と同じで、昇ったり沈んだりしている。だから結局、自分の道を進むしかない。自分の道を進んでいくなかで同じ道を、同じ場所を共有する人に出会う。それでいいと思う。

〈M_nus〉では積極的に新人(もしくはあまり知名度のない)アーティストを紹介されていますが、彼らはどのような基準で選ばれているのですか?

RH:僕にとって面白くてインスパイアされるアーティストで、この先成長するだろうアーティストを少しでも手助けできたらと思っている。探してるのは、自分の個性を大事にしている人たち。デリック・メイみたいなサウンドとかリッチー・ホーティンみたいなサウンドを目指すんではなくて、自分のサウンドを大事にしている人たち。
 だけど、そういう音を探すのは難しいんだ、誰だって最初は誰かの模倣からはじまるから。だけど、そこから試行錯誤して、自分のアイデンティティを見つける。そこからだね、僕の出番は。そういう人たちと接するとすごく刺激を受けるよ。

〈M_nus〉の最近のシングル作品に関して、ヴァイナルでのリリースがなくなっていますが、それはアナログをカットする魅力/必要性を感じなく なったからでしょうか?

RH:そういうわけではない。より多くの人に届くには、どうすればいいかと考えるとデジタルになる。デジタルの方がディストリビューションがしやすいし、デジタルならどこでもダウンロードできる。
 エレクトロニック・ミュージックの成功と熱狂的に支持された理由のひとつは、ここ10年くらいで考えると、デジタル・ディストリビューションとデジタルDJテクノロジーが先行した部分にもあると思う。アナログみたいにNYのレコード屋に行かないと買えないってものではなく、iTunesでも買える。デジタル・ディストリビューションはエレクトロニック・ミュージックを活性化するひとつのアドヴァンテージだと思っている。ヴァイナルはいまでも支持してるし、いまでもヴァイナルでプレイするのが好きなDJはたくさんいるから、今後もなるべくリリースしていくつもりだよ。だけどそれ「だけ」ってわけにはいかない。CDだけとか、デジタルだけとか、ヴァイナルだけとか。すべてを駆使して少しでも多くの人に届くように、そして少しでも多くの人に楽しんでもらえるようにというのが本来の目標なんだから。

日本でもライヴの予定はありますか?

RH:実は10月にRedbull Music Academyで来日予定なんだ。京都や東京でもライヴができたらいいなと思ってる。

現在あなたとDEADMAU5とのコラボレーションが噂されており、意外な組み合わせだと思う人が多いと思います。それは偶然意気投合したの か、それともあなたのなかで以前からアイデアとしてあったものなのでしょうか?

RH:ジョーは同郷のカナダ人だから、もともと交流もあったし、去年のSXSWでも一緒にDJした。楽しかったから、また一緒に何かやりたいねって話をしている。ふたりの違うタイプのカナダ人が一緒に何かやったら楽しいだろう。彼も忙しいし、僕も忙しいから実現できるのかどうかよくわからないけど。でも、意外な組み合わせに見える人脈を見せるプロジェクトは良いと思う。積極的にやっていきたい。

そういう意味ではEDMには肯定的なんですね。

RH:EDMは良いと思うよ。ここ数年、人びとがEDMに注目することで、エレクトロニック・ミュージックに興味を持つ人が増えているんだから。作り手として、僕たちはいつも新しいものをシーンに持ち込んで、新しい人たちに門戸を開いて、僕たちのシーンに、僕たちのスタイルに呼び込んでいる。EDMのアーティストは新しいエレクトロニック・ミュージック・ファンを呼び込んでいる。そして彼らがドアを開けたら、僕は彼らとは別のドアを開く。そういうことなんだろう。

ele-king presents VINYL FOREVER series vol.III - ele-king

 いつの間にか夏かよー。ラジオ体操の季節、ダンス・ミュージックの季節である。そして、夏が終わっても10月2日には恵比寿リキッドルーム10周年企画のエレナイトがあることは忘れないように。ALTZの追加出演も決まったし……
 10月2日、オウガ・ユー・アスホールと対決する森は生きているですが、エレキングの12インチ・シリーズ「VINYL FOREVER」の第三弾が、森は生きているの“ロンド”、DJ GONNOによるリミックスです。
 “ロンド”は、ライヴでもクライマックスで演奏される1曲で、森は生きているのもっとも美しい曲のひとつですが、クリックなしの演奏で録音しているそうで、つまり、リミックスの難易度としては高い曲でもあります。あの印象的な反復するアルペジオやドラミングをGONNOがどのように再構築するのか、大いに注目するところだと思います。
 ぜひ、その結果を聴いてください。ウルトラ・バレアリック・ハウスになっていると思います。また、“ロンド”のメンバー自らによるオルタネイト・ミックスも収録されています。発売日は10月8日と、だいぶ先の話ですが、覚えておいてくださいね。 

森は生きている/ロンド EP feat. Gonno

品番:EKLP-003
12インチアナログ 45rpm
¥1,500+税

Release: 10.8
初回完全限定生産

<トラック・リスト>
side A ロンド(Alternate Mix)
side B ロンド remix by Gonno

interview with Jim-E Stack - ele-king


Jim-E Stack
Tell Me I Belong

Innovative Leisure/ビート

HouseBass MusicFuture Jazz

Amazon iTunes

 ディスクロージャーのハウス・ミュージックへのアプローチは、ダブステップ以降におけるソウルの復権運動として、いま振り返っても重要なものだったのは間違いないが、いつまでもディスクロージャーを連呼するのも野暮な話で、というのも、ハウス・ミュージックはいまも若い感性によって更新され続けているからだ。サンフランシスコ出身の若者、ジムイー・スタックはまさにそんなひとり。引き出しの多さとクオリティの高さゆえに、新人ながら、すでに欧米の主要メディアからは讃辞をもって紹介されている。NguzunguzuやA$AP Rockyのリミックスによって彼の名前を憶えている人も少なくないだろう。

 デビュー・アルバム『テル・ミー・アイ・ビロング』はベース・ミュージック/グライム以降のセンスをもって、ハウス・ミュージックを刷新する。ボルチモアからジャズまでと、幅広く吸収する雑食性の強いダンス・ミュージックで、いや、ハウス・ミュージックとはいまも前進しているのだと思い知らされる。ベース系独特のリズム感が残る“ラン”や“アウト・オブ・マインド”、“リアシュアリング”のジャジーな和音とスムースなヴォーカル、“ウィズアウト”のアフロ・テイストの入ったシンセ・ポップなどなど、すべての曲がエレガントでありながら若々しい。

 以下のインタヴューでも、ダブステップ、ジャズ、ヒップホップ、アンビエント、R&Bなどさまざまなジャンル、さらには〈フェイド・トゥ・マインド〉、〈ウィディドイット〉コレクティヴ、フォー・テット、ジェイミーXX、オマー・Sなどの固有名詞が出てくる。そのいずれとも少しずつ重なりながら、少しずつズレている絶妙なはみ出し方がジムイー・スタックの面白いところなのだろう。「テル・ミー・アイ・ビロング」、俺の居場所を教えてくれ。しかしユニークな才能がそうした狭間から現れることを、わたしたちは何度も経験しているはずだ。

彼らは俺のアルバムにたくさんソウルが詰まっていることに気づいてくれていた。本心で言ったのかわからないけど、俺にとってはソウルが詰まってるっていうのは大切な意見だった。他にもスペシャルな意見はあったけど、俺にとってソウルこそ一番の意見だったんだ。

はじめてのインタヴューとなるので、基本的なことからいくつか訊かせてください。バイオを拝見しますと、なかなか複雑な経歴をお持ちですよね。いまのあなたの音楽を聴くと少し意外にも思えます。最初にやっていたというジャズ・バンドはどのようなスタイルの音楽だったんでしょうか?

ジムイー・スタック:いろんなバンドにいたから、ひとつのスタイルじゃなかったんだよね。メインだったのは学校のビッグ・バンド。だから主にやっていたのは、ビバップ。ソニー・ロリンズなんかをプレイしてたね。あとは……いまちょっと思い出せない。高校のときはスウィングっぽいのもやってたし、パット・メセニーとかもやってたな。彼は本当にクールなギタリストだと思う。あとは、ジャズ・コンボも数人でやってたよ。でもビッグなスウィングがやっぱりメイン。マイルス・デイヴィスもやってたな。

あなた自身はどのような楽器を演奏するんでしょうか?

ジムイー:ドラムとパーカッションだけ。俺がずっとプレイしてるのはそれだけ。ピアノも興味あったんだけど、すぐに諦めてしまって(笑)。

10代の頃からクラブ・ミュージックに触れてはいたんですか?

ジム:いまやっと触れ出したとこ。子どものころは、やっぱり自分の周りの人間が聴いてる音楽を聴く。だから高校の時に聴いていたクラブ・ミュージックは、アメリカで当時流行ってたものだったね。ボルチモア・クラブ( ボルチモア・ビート)もたくさんあったな。あとはグライムとかダブステップ。当時流行った基本的なアメリカのクラブ・ミュージックだね。

通訳:あまりクラブ・ミュージックには関心はなかった?

ジムイー:全然だね。前はあまりエレクトロニック・ミュージックに関心がなかったから。でも15歳くらいに初めてダフト・パンクを聴いて、それがエレクトロニック・ミュージックにハマるスターティング・ポイントだったんだ。若いときはジャスティスとかマスタークラフトとかあの辺りを聴いてたね。そこからティーンが聴くレコードよりも深いものを探して聴くようになったんだ。

ヒップホップはどうでしょう? とくに好きだったタイプのヒップホップというとどんなものだったのですか?

ジムイー:ヒップホップは……場合によるんだよね。ハマったりハマらなかったり。若いときはみんなが聴くようなヒップホップを聴いてた。ランDMCとかそういうヒップホップ。そこからギャングスタ・ラップとかDJプレミアとかを聴くようになっていったかな。Jディラとかエリカ・バドゥも聴いてたし、あとはベイエリアのラップ/ヒップホップもたくさん聴いてたね。キーク・ダ・スニークとか。でも、そういうのは楽しいパーティ・ミュージックで、自分が音楽的に直接影響を受けたわけじゃない。10代のやつらがパーティでかける音楽、ローカル・ラッパーってだけだよ。

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俺のフラストレーションは、クラブのために音楽を作ってる感があったことだった。DJがプレイしやすいようなイントロとか、ダンスフロアのための音楽。でも、俺はジャズ・バンドの経験もあるし、パンク・バンドでもプレイしてたし、アフリカン・ミュージックやエイフェックス・ツインなんかも聴いてた。

〈フェイド・トゥ・マインド〉のキングダムに強いインスピレーションを受けたそうですが、彼の音楽のどんなところが新鮮だったのでしょうか?

ジムイー:彼のDJプレイを最初に見に行ったとき、俺はまだエレクトロニック・ミュージックのリスナーとしてかなりの新人だったんだ。ディプロとかスウィッチ、シンデンとかを聴いてた。でもキングダムは……彼はそういうミュージシャンたちとは少し変わってたんだ。そこがインスピレーションだった。
 彼からめちゃくちゃインスピレーションを受けたかと聞かれると、それは正直わからない。でもとにかく、彼のDJセットを見たときにすごくびっくりしたんだ。新しい世界が開けた気がした。UKガレージ、グライム、ヤング・マニー、90年代のハウスとかのミックスだったんだけど、俺にとってはそれがクールだった。エレクトロニック・ミュージックのシーンでは、いったいいくつのジャンルが入り交じってるんだろうっていう驚きがあった。ハウスだけじゃなくて、R&Bやヒップホップ、グライムにもなりうるんだなっていうことがわかった。もちろんハウスでもあるし、とにかくすべてのミクスチャーがエレクトロニック・ミュージックなんだな、と。彼自身が俺に多大な影響を与えたかといえばそうじゃない。でも、彼のDJセットを見た経験っていうのが俺の最初のダンス・ミュージックの経験で、目を見開いたってこと。エレクトロニック・ミュージックってクールなんだ! と実感した(笑)。

ングズングズのリミックスであなたは話題になりましたが、彼らのような〈フェイド・トゥ・マインド〉周辺のアーティストやシーンにはいまもシンパシーを抱いていますか?

ジムイー:どうだろう。親密ってわけじゃないんだよね。たまに会うって感じ。ングズングズとか、トータル・フリーダムとか、キングダムとか……その3人がメインかな。でもシンパシーとかはわからない。評価しているのは、彼らの音楽の「ほかとズレてる」ところ。彼らとか〈ナイト・スラッグス〉とか。〈フェイド・トゥ・マインド〉がはじまる前からだけど、自分がはじめてハマったそういう「ズレた」音楽を演奏するアーティストたちが好きなんだ。音楽的にシンパシーを抱いてるかとか、何か共通するものがあるかとかはあまり重要じゃない。彼らはもっとクラブ寄りで、俺のはクラブから離れてるしね。でも彼らのやっていることは評価してるし、最初は本当に衝撃的だった。すごくハマったし。ングズングズはとくに。彼の最初のEPとかね。

〈ウィディドイット〉コレクティヴ(LA拠点のプロデューサー集団)とは親交があるそうですが、シュローモやライアン・ヘムズワースといったトラック・メイカーとあなた自身の共通点はあると思いますか?

ジムイー:シュローモには、自分のアルバムを書きはじめたときにすごくインスパイアされた。
 ニューヨークに引っ越してきたばかりのときは、アルバム用の音楽のプランやネタは何もなかった。すごく大変だったんだ。いろいろやってみないといけなかったから。でも、彼はすでにファースト・アルバムをリリースしていて、一歩先を行っていた。だから彼は、自分よりも経験のあるプロデューサーだった。彼は俺の哲学を変えた存在。「最初の音源を作るときはファンがいるわけでもないし、シーンにも属していないし、DJのことも気にしなくていいし、何も期待がかかっていない。だから自由なんだ。自分のしたいことをやれ」と言ってくれたのが彼。自分自身に正直な音楽を作れと言ってくれた。だから俺はそれを実行した。いまではそれは俺の哲学になってる。彼は、音楽制作に関する俺の考え方を変えてくれた人物なんだ。ライアンは特徴的なヴァイブを持ってるよね。でも音楽的に何か通じるものがあるかどうかはわからない。でも、聴く音楽は同じものが多いと思う。友だちでもあるし、彼のことは好きだよ。

拠点を西海岸からニューヨークに移した大きな理由は何だったんでしょう?

ジムイー:西海岸とニューヨークの間にニューオリンズがあるんだけど、サンフランシスコで高校を卒業してからすぐ、大学進学のためにニューオリンズに引っ越したんだ。そこで音楽プログラムを専攻してた。でも、技術とかプロダクション、エンジニアよりも演奏がしたくなって。ニューオリンズを自分のホームだと思えたことがなかったんだよね。あとは、音楽を勉強するっていうのがイヤだったんだ。自分で好きなようにいろいろやるほうがよかった。そっちのほうが自由だし。クラスを受講するのはあまり刺激的ではなくて。で、結局学校が嫌いになっちゃって(苦笑)、ニューヨークに運良く友だちや家族がいたし、そのあと何していいかもわからなかったから引っ越したんだ。

通訳:学校を退学したんですか?

ジムイー:退学っていうか転校だね。4年間のプログラムのうちの2年をニューオリンズで勉強して、ニューヨークのハンターカレッジに転校したんだ。いまは学校にパートタイムで行きながら活動してるよ。いまだにいろいろ模索中(笑)。

リリース元の〈イノヴェイティヴ・レジャー〉はライをヒットさせたりと最近話題が多いレーベルですが、あなたがサインした最大の理由は?

ジムイー:アルバムを書いたあと何人かに聴いてもらって、ひとからひとに渡って、そのなかで何人か興味を持ってくれたんだ。でも、〈イノヴェイティヴ・レジャー〉はいつも俺と組むことに興味を持ってくれていた。彼らと話したとき、彼らは俺のアルバムにたくさんソウルが詰まっていることに気づいてくれていたんだ。彼らが本心で言ったのかわからないけど、俺にとってはソウルが詰まってるっていうのは大切な意見だった。他にもたくさんスペシャルな意見はあったけど、俺にとってソウルっていう部分は個人的に一番の意見だった。だから、俺を理解してくれてるなと思ったんだよね。
 レーベルのアーティストはあまり知らなかったけど……ノサッジ・シングくらいしか。それよりも、彼らが俺の音楽を評価してくれたってことにぐっときて、そこからレーベルを知るようになったんだ。しかも彼らはアーティストを大切にするレーベル。ビジネスの仕方もうまいけど、アーティストを気にかけて、アーティストがハッピーかどうかを考えてくれるんだ。それは俺にとってすごく大切なこと。あと、彼らは結構年配なのにかなりの幅広い音楽ファンで、俺が興味を持ってるような音楽もすべて知ってるんだ。彼らはジャズも聴くし、DJプレミアやアフリカン・ミュージックも聴く。だから共通点もあるんだ。エレクトロニック・ミュージックだけを聴くとかだったら難しかったかもしれないけど。俺は、自分の音楽をエレクトロニック・ミュージックにしたいんじゃなくて音楽にしたいから。より広がりのある音楽を作ろうとしてるんだ。

では、アルバム『テル・ミー・アイ・ビロング』について訊かせてください。デビュー作離れした、じつに完成度の高いアルバムであると同時に、とてもフレッシュな作品だと感じました。非常にさまざまな要素があなたの音楽では共存しているように思います。いわゆるベース・ミュージックやテクノ、ハウス、アンビエント、ヒップホップにジャズ。はじめからこのような多くのジャンルをまたぐ作品をイメージしていたのでしょうか?

ジムイー::答えはイエスでもありノーでもある。アルバムには10曲くらいしか入ってないけど、25~30曲くらい書いた。で、そこからより良いものを選んで削ぎ取っていった。最初にシュローモに会ったときに、好きなものを作れって話をしてくれたって言ったよね? 当時、俺はレコード契約もなかったし、導いてくれるひともいなかった。それが逆によかった。自由だったから、ただ自然と頭に浮かんでくるものを曲にして、ダーっと30曲書いた。ヒップホップだったり、ボルチモア・クラブっぽいものだったり、ハウスだったり。いろいろと違うものをとにかく作ってみたんだ。自分がしっくりくるものを。
 でも、もちろんアルバムにするときはそこから意識して曲を選ぶ必要があった。そのときに意識したのは……アルバムをリリースする前の俺のフラストレーションは、クラブのために音楽を作ってる感があったことだった。個人的にはあまり自由を感じることが出来てなかったんだ。特定のものを作らないといけなかったからね。DJがプレイしやすいようなイントロとか、ダンスフロアのための音楽。でも、俺はジャズ・バンドの経験もあるし、パンク・バンドでもプレイしてたし、アフリカン・ミュージックやエイフェックス・ツインなんかも聴いてたから、ひとつの種類の音楽を作るっていうことに対してあまり良い気分がしなかった。だから、アルバムでは自分のもっと広い音楽テイストと愛を表現したくて、そういう音楽をまとめたんだ。

しかしなかでも、ハウス・ミュージックの要素が前に出ているように思います。あなたにとっての良いハウスとはどういったものでしょう? 

ジムイー:良いハウスには、すごく自由なヴァイブがある。ただただ聴いていて気持ちいいだけ。頭だけじゃなくて身体を動かしたくなるような良いヴァイブがある。脈がうずくような。だから、俺にとっての良いハウスは、ハードだけど落ち着いたヴァイブやグルーヴがあるもの。音楽のなかで迷いこんでしまうような。そういうのは大好きだね。歩いているときにステップを踏んでしまいそうな、フィーリングやヴァイブがビートの周りに漂ってる。アップリフティングなハウスか、ディープなハウスかは関係ない。その周りにどんなヴァイブが漂っているかが重要なんだ。

通訳:好きなハウス・ミュージックのアーティストはいますか?

ジムイー:誰だろうな……何聴いてるかちょっとチェックさせて……いま俺がハマってるのはヘッド・ハイ。知ってるかな? 彼の作品には昔のハウスのグルーヴがたくさん入ってる。ガレージっぽいグルーヴとか、トッド・テリーなどと似たグルーヴを持ってて、それを2014年の感覚とミックスしてるんだ。彼は最近のお気に入りだね。ヘッド・ハイの作品には本当にハードなグルーヴがある。俺、そういうのが好きなんだ。
 昔ので言えばロビンS。彼女がパーフェクトなハウス・アンセムへの愛を見せてくれたといっても過言じゃない。すごく感情的で、フィーリングが溢れてる。90年代のハウスって世界中の音楽のなかでも好きなものが多いんだよね。バウンスやヴァイブがあって、さっきも言ったみたいに迷い込めるような。あとはラズロ・ダンスホール。彼らも似たことをやってるから。

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EDMはクソだ。できるだけ簡単に曲を作っている。何にも挑戦してないティーンのなかで作り上げられている新しいロック・スターみたいな存在がEDMのアーティストなんじゃない(笑)?

あなたの音楽のなかのハウス・ミュージックの要素は、どちらかと言うとイギリスやヨーロッパのアーティストとの接点があるようにもわたしには感じられます。たとえばフォー・テットやジェイミーXXなどヨーロッパのプロデューサーがハウス回帰していますが、彼らにシンパシーは感じますか?


Jim-E Stack
Tell Me I Belong

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ジムイー:フォー・テットは不動のお気に入り。俺のサウンドに、ちょっとヨーロッパっぽさがあるのかもしれないね。クソみたいなハウスは全部アメリカで作られてるから(笑)。そういう音楽は作りたくないからね。やかましいゴミみたいな音楽。俺はそういうのが嫌いでたまらないんだ。ヨーロピアンに聴こえるっていうのはたぶんヴァイブだと思う。EDMとかはクソ。そういう意味ではフォー・テットにはシンパシーは感じるよ。
 ジェイミーXXも好きだよ。最近の作品はそこまでだけど。いくつかの作品はリスペクトしてるし、良い作品を作ってると思う。でも俺にとって大切なのは……俺はアメリカン・アーティストになりたいんだ。フォー・テットとかジェイミーみたいなヨーロピアンになろうとしてるわけじゃない。彼らがやってることは好きだけど、アメリカン・サウンドを作りたいとは思っている。アメリカの音楽を良い方向に前進させたいんだよね。クソEDMから抜け出させないと。

この作品はリスニングとしても楽しめる作品であり、同時にダンス・ミュージックとしてのパワフルです。あなたにとって、ダンス・ミュージックであることは重要ですか?

ジムイー:全然。偶然そうなったんだ。音楽を作りはじめた最初のころは、クラブ用の曲をたくさん作ってた。クラブ・ミュージックを聴いてもいたしね。だからアルバムにそういう音楽も含まれてはいるけど、そういうアルバムにしようとしたわけじゃない。今回は、ダンスフロアを意識せずに自由に音楽を作りたかった。アルバムを作ってるときは、ただ自分が作りたい音楽を作ってたんだ。何か特別なものを作りたかったわけじゃないし、ダンス・ミュージックみたいにしたいとか、したくないとかはなかった。プロセスは本当に自然だった。それがたまたまダンサブルになっただけ。ダンス・ミュージックとクラブ・ミュージックのいくつかは、自分が世界で一番好きな音楽のひとつでもある。良い作品はね。カリズマとかオマー・Sとか。だから、それが自然と反映されたんだろうね。

通訳:さっきEDMが嫌いとおっしゃってましたが、EDMに関してはどういう意見を持っていますか?

ジム:新しいサブ・ポップ・ジャンルみたいな……できるだけ簡単に曲を作ってるって感じ。リスナーのためだろうけど、何にも挑戦してないし、やりがいがない。キッズたちからデカいリアクションが来るには来るだろうけど……俺はそういうことは絶対にしないから。キッズたちも、そのうちそういう簡単な音楽以上なものを求めるようになるんじゃないかな。もっとやりがいがあったり、ソウルを感じられる音楽。ティーンのなかで作り上げられている新しいロック・スターみたいな存在がEDMのアーティストなんじゃない(笑)?

アルバムの制作にあたって、はじめからコンセプトやテーマはあったのでしょうか?

ジム:いや、なかったね。俺はただ、自然に出てくるものを作品にしただけだから。自分のために作ったし、そのときがたまたま自分のなかの変な時期だったっていうか……どこにも属してなくて、ちょっと迷ってた時期だった。だから、それが自然と表現のなかに出て来たんじゃないかな。でも意識はしていない。アルバムに収録されている曲は、すべてナチュラルなフィーリングで出来てるから。もしかしたら、それが知らないうちにテーマになったのかも。個人的に自分がいた立ち位置というか、自分自身のそのときの姿というか。

そういう意味で、『テル・ミー・アイ・ビロング』というアルバム・タイトル、オープニングの“サムホェア”という曲名が象徴的ですね。

ジム:アルバムを作っていた時期は、なんか外にいた感じがしてて。変な感じ。どこにも属していなかったんだ。周りの友だちはすでにサンフランシスコを出てたから自分もサンフランシスコを出て、で、ニューオリンズに行ってみてもあまりしっくりこなくて、ニューヨークもクレイジーな場所だから完全にホームだとは感じられない。それが曲に表れたんだと思う。俺が何を感じてたかが反映されたんだろうね。
 いま思うと、曲名にもそれが表れてる。高校のとき使ってたサンプルも使われてたりするし、それをニューオリンズでもまた違うヴァージョンに作り変えたり、ニューヨークでも作り直したりってしてたから。属していないとか、落ち着いてない感はたしかに含まれているのかも。

“イズ・イット・ミー”はミニマルで研ぎ澄まされたダンス・トラックですが、これもタイトルが印象的です。クラブ・ミュージックの曲名としては珍しい気がするというか。どうしてこのような、アイデンティティを問うような曲名にしたのでしょうか?

ジムイー:自分でもあまりわからないんだ。ときには2年間とか決まった期間の自分が表れている曲もあるし、昔の自分が表れている曲もあるし……答えはわからない。作ってるときによるんだよね。作ってるときは、自分の感じてることとか自分自身の姿がメインになって表れてくるから。

アルバムには様々なスタイルのトラックがありますが、なかでも“ウィズアウト”はちょっとアフロっぽいムードもあってとくに印象の異なる曲ですね。これはどういったインスピレーションから生まれたトラックなのでしょうか?

ジムイー:自分が作ったビートからはじまった曲。それをだんだん曲にしていった。作っていくうちにインストっぽく感じられなくなって、ヴォーカルを前面に持ってくることに決めた。アンドレア・マーティンが歌ってるんだけど、彼女は素晴らしいR&Bライターなんだ。彼女はエン・ヴォーグとかSWV、トニー・ブラクストンなんかに曲を書いてる。自分より年上で40歳くらいなんだけど、俺の作るような音楽も理解している素晴らしいライターなんだ。R&Bはつねに聴いてるし、彼女は本物の実力あるR&Bライター。だから彼女とコラボできて本当によかったよ。メロディの上から彼女が歌って自分に送ってきたものを、アレンジし直していまのヴァージョンの曲にしたんだ。

アートワークの覆面はあなた自身を表現しているのでしょうか? あるいは違う人物?

ジムイー:あれは俺(笑)。ニューヨークに引っ越してきたときに、パーティに行って気絶するくらいめちゃくちゃ酔ってたんだけど(笑)、その会場にフォトグラファーがいて、あの写真を撮ってくれた。で、アルバム用の写真をどうしようか考えていたとき、これがいいんじゃないかなと思って。わざわざ撮影したものじゃないし、素の自分の写真だったから、何かアルバムの音楽に共通するものがあるような気がして。気に入ってくれるといいけど(笑)。

いま、ミュージシャンとしてもっともトライしたいことを教えてください。

ジムイー:ミュージシャンって、ひとりで作業をする時間が必要だと思うんだ。たとえばジャズのセッションだって、みんないっしょに演奏する前にかなりの時間を個人練習に費やしてる。今回のアルバム作りを終えて、自分ひとりでかなりの時間作業するっていう経験を積めたと思うんだ。これからももちろんそうしていくし、曲も作り続けていくけど、その経験を経たことで、今後ほかのミュージシャンとコラボしていきたいなとも思ってる。俺はもともとバンドで演奏してきたから、そういう音楽もやっぱりやってみたいんだよね。それがいまトライしたいことだな。

イマユラ - ele-king

 ギターを持った幸田露伴、山本精一の名著『ギンガ』『ゆん』に続く待ちに待った最新作『イマユラ』が今週末ついにリリースとなる。紙『ele-king』の好評コラム連載でも、192ページの本誌に毎号深い切れ目のような痕を残していくあの異様の筆にふるえてしまうという方は少なくないだろう。『イマユラ』には、その連載「ナポレオン通信」からも収録されている。
 それにしても、本当に水際立った文体によってつづられた随筆で、音読すればたちまち韻文的な相貌もせりあがってくる。読みふけってふと我に返れば、自分のからだが沼とも谷ともいえる深淵のきわに立っているような錯覚にとらわれるだろう。この夏休みには、高校生の方だってこっそりと手をのばしてみてほしい。本書から音楽家・山本精一に出会うのも、音楽から文筆家・山本精一に出会うのも、どちらも素晴らしい体験だ。

 また、このタイミングで長らく品切れだった第一著書『ギンガ』の復刻版が再度蘇る。これは2009年に新たに32ページを加えて刊行された『ギンガ 増強版』と同内容だ。さらには、2011年の『ラプソディア』以来2年半ぶりとなるオリジナル・フル・アルバム『Falsetto』も完成。こちらも見逃せないリリースとなっている。

山本精一
イマユラ


発売:2014年7月23日
ISBN 978-4-907276-15-7
定価:本体2,000円+税

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山本精一
ギンガ 増強版


発売:2014年7月23日
ISBN 978-4-907276-16-4
定価:本体1,800円+税

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山本精一
ファルセット


発売:2014年7月23日
PCD-25167
定価:¥2,500+税

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 70年代生まれの私たちにとって、女子小学生の遊びといえば、リカちゃん人形をはじめとする着せ替え人形が定番でした。しかし現代の女児たちは、着せ替え遊びにあまり関心がなさそうです。長女が4~5歳の頃に夫からリカちゃん人形を買い与えられたとき、高いドレスをねだられないようにあわてて古着をリメイクしてリアルクローズな人形服をこしらえ、今後のリクエストに応えるべく裁縫材料を購入したものです。しかし彼女がリカちゃんで遊んだのはほんの一時期。落書きされた哀れなリカちゃんは、ビニールケースの中に無造作に突っ込まれたままです。

「もう着せ替え人形では遊ばないの?」
「友だち誰も遊んでないしー。みんな『アイカツ!』とかゲームとかのほうが好きだしー」

 たしかに娯楽が山ほどある現代において、服を着せたり脱がせたりするだけの遊びは退屈にちがいありません。というか、自分自身もなんでそんな退屈な作業をしていたのか、よくわからなくなってきました。狭い家で地味なお下がりを着るしかなかった当時の庶民女児の一人として、リカちゃんになにがしかの夢を託していたのでしょうか。一方、リカちゃんのドレスとさして変わらない値段でひらひらワンピースを買ってもらえるファストファッション時代の現代女児は、わざわざ着せ替え人形で夢を見る必要はなさそうです。事実、リカちゃん人形の売上は、ピーク時に比べて半分以下に下がっていると聞きました(ITmediaニュース)。

 そんな我が家に、なぜかやってきたのが、「起業家バービー」と「大統領バービー」。


左が「起業家バービー」、右が「大統領バービー」

私が「仕事つらい……」と愚痴っていたら、夫が「起業すれば?」と誕生日プレゼントとして注文してくれたのです。

  「起業家バービー(Entrepreneur Barbie)」は、今年6月にマテル社から発売された、バービーがいろいろな職業に挑戦する「Barbie I Can Be…」シリーズの最新作。髪色と肌の色が異なる4種類のラインナップで、アクセサリー小物はスマホにタブレット端末、ブリーフケースと、「おうちサロン」レベルではなさそうな本格的なキャリアウーマン風です。

 「Barbie I Can Be…」シリーズではこのほか、コンピュータ・エンジニア、歯科医、獣医、パイロット、ライフガード、レーサー、サッカー選手、スキー選手、女子アナ、北極レスキュー隊などに扮したバービーが発売されています。「大統領バービー」(U.S.A. President Barbie)もその一つ。ガチャピンにひけをとらないチャレンジぶりですが、同シリーズに限らずバービーの職業人としての歴史は意外にも長く、1960年代の時点で宇宙飛行士、会社役員、地理教師に、1970年代にはダウンヒル・スキーヤー、外科医にもなっています。フェミニズムがカルト思想扱いされている日本に住んでいる身からすると、うらやましいほどのポリティカルコレクトネス。

 そんなバービーですが、本国ではときに厳しいバッシングにさらされてきたのも事実。いわく、バービーで遊んでいた少女ほど、自分の身体イメージに自信が持てず、小学生の頃からダイエットに励む傾向にある。人種偏見を助長する。ジェンダーに対する固定的なイメージを植え付ける。「ご心配なくお母さんお父さん。バービーで遊んでもあなたの娘さんは拒食症になったり人種差別をしたり生涯年収が減ったりはしませんよ」──そんな保護者へのメッセージが、起業家バービーには込められていそうです。起業家バービーの発売に合わせて、公式サイトで実在の女性起業家10名をフィーチャーするBarbie Celebrates Women Entrepreneurs特設ページを設けているのも、フェミニズムを標準装備している保護者へのアピールの一つなのでしょう。またバービーオフィシャルのTumblr「THE BARBIE PROJECT」でも、少女手作りのバービーハウスやお手製メキシコ民族風衣装などのクリエイティヴな遊びの数々が紹介され、娘の知的発達を阻害したくない親心をくすぐってくれます。

 ところが、今年3月にオレゴン州立大学の研究者らが発表した調査は、こうした試みに水を差すようなものでした。バービーで遊ぶ女の子は、男の子よりも将来の職業の選択肢を少なくとらえており、それは従来のバービーで遊ぶ子もお医者さんバービーで遊ぶ子も変わらなかったそうです。職業の選択肢の数が男の子と変わらなかった女の子は、『トイ・ストーリー』のミセス・ポテトヘッドで遊んでいたグループだけ。


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ジェンダーフリーを推進する
じゃがいも「ミセス・ポテトヘッド」

 女子がセクシーであるべしという価値観を内面化してしまうと、必然的に職業の選択肢が減ってしまうということなのでしょうか。ごつくなったり忙しすぎて髭が生えそうな仕事は避けたいでしょうし……。それでも、建前ではあってもコンピュータ・エンジニアが女の子の職業として提示される環境は、率直に言ってうらやましいなと感じています。私は子どもの頃プログラミングや数学が大好きでしたが、女の自分がそれらを活かした道に進めるなんて夢にも思いませんでした。ロールモデルの代わりに与えられたのは、「女がそんなことに興味を持っても何にもならないのに」という、やはり性別ゆえに大学進学を諦めざるをえなかった母親の複雑そうな顔だけ。大人になってみて、女向けとされる仕事は若さや容姿が必須でキャリアを積みづらい職も少なくないことを実感しました。このことが男女間の格差を生んでいる一因であるようにも思われます。ロールモデル、超重要。

 ともあれ、バービーを一目見た長女は、執拗にねだりはじめました。

「リカちゃんでぜんぜん遊んでないじゃない。バービーならいいの?」
「バービーは背が高くてかっこいいからいいの。化粧が濃いのはちょっとイヤだけど。リカちゃんは……かわいい系かな」
「ピンクはもう嫌いになったって言ってなかったっけ。この人たち、どピンクですけど」
「(パステル)ピンクは子どもっぽいもん。でもこのピンクはかっこいいと思う」

 そういえばバービーたちのチェリーピンク×黒の取り合わせ、長女の最近のファッションに似ています。黒ジャージ下にチェリーピンクのトップスという、私からすると不思議なコーディネートは、「強そう」という理由でお気に入りらしい。

 彼女は2体のバービーを両手に持ち、着せ替えはせず(そもそも着替えは付いていないのですが)それぞれの声をアテレコしてごっこ遊びをはじめました。完全に起業家と大統領になりきっています。すごい、ロールモデルになっている。私は子どもの頃、リカちゃんをロールモデルとしてとらえたことはありませんでした。正直、どんな人なのかすらよくわかっていなかったのです。しかしリカちゃんだって時代に合わせた展開をしているはず。調べてみると……


リカちゃん
おしゃべりスマートハウス
ゆったりさん

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 リカちゃんハウスがスマートハウスになっていました。そっち方面に進化していたのか。小物類も、洗濯乾燥機、ルンバ風のロボット掃除機、電動自動車と、最新家電事情を反映しています。しかしこれ、女児は喜ぶのでしょうか。電動自転車で双子の送り迎えもラクラク! 太陽光発電なら電気代もオトクだし、洗濯乾燥機とルンバがあれば夫が非協力的でもどうにかなるワ~って、それ家事育児と仕事を一人で担うお母さんの願望なのでは? よくよくスマートハウスの商品写真を見てみると、台所でお菓子作りをしているお母さん&リカちゃんに、ダイニング・テーブルで新聞を読んでいるお父さんと、家は最新型でもジェンダー観は昭和のままです。写真まんがでは、リカちゃんのドジっ子ぶりも昭和風。あらたにおともだちに加わったキャラの将来の夢は、「ヘアスタイリスト」「トップモデル」「アイドル」「トリマー」「へアメイクアップアーティスト」と、ファッション系で占められています。夢に何を選ぼうが自由とはいえ、偏りすぎというか、リアル女児の夢ももう少しばらけているように思います。これでは起業家リカちゃんや大統領リカちゃんはもちろん、SEリカちゃんも地方議員リカちゃんも生まれそうにありません。家電をきわめてカツマーリカちゃんになれば、意識高いバービー勢に対抗できるかもしれませんが……。

 とはいえ、かの小保方さんがなぜあの論文とあのノートであの地位まで上り詰めたのか、と考えたときに、6歳児ですら嫌がるパステルピンクを積極的に取り入れ、昭和のドジっ子のような実験ノートの取り方をし、理詰めではなくうるうるの瞳で訴えるといった「リカちゃん好きの女児のまま大人になった感」が、大きく介在しているであろうことを思わずにはいられないのです。エライおじさんたちの判断力を奪うほどのピュアな女児力(プリンセス細胞!)。科学の世界だから問題になっただけで、文化系業界や実業界ならあのまま成功し続けただろう、とも感じます。日本の女の子が好きな道で成功するには、リカちゃんをロールモデルにするのが結果正解なのかも。そんなことをぐるぐる考えていたら、ごっこ遊び継続中の娘からこんな声が。

「私ね、29歳で大統領って言ったけど……あれはウソなの」
「実は私も、社長じゃないの」

 虚言癖バービーになっていました。まあそうですよね。身の回りに女性社長も、女性大統領もいないもの。『OECDジェンダー白書――今こそ男女格差解消に向けた取り組みを!』によれば、日本は子育てをしながら働く女性の、男性との給与格差が先進国で最大(男性の39%)なのだそうです。残業ができないために出産前までの職種に戻ることが難しく、パートタイム派遣に就いている私も、格差を構成する母たちの一人。そんな日本の母たちの姿を見ている女児が、人形だけでアメリカンドリームを抱けるはずもなく。やっぱり自分が起業するしかない……のかも。

あいつ呼ぼうぜ! - ele-king

 Aliveというサービスをご存じだろうか?

 立ち上がってまだ1年にも満たないというが、テレビや経済系のメディアなどでも紹介されているので、ご存知のかたもいらっしゃるかもしれない。
 Aliveとはいわば新しいスタイルの“呼び屋”システムだ。一般のユーザーから呼びたいアーティストのリクエストを受け、その実現が可能なレベルまで“支援”が集まれば、ライヴが開催される。“支援”とはチケット予約のこと。もちろん企画が実現されない場合は決済は行われない。イメージとしては、ライヴ・イヴェント限定のクラウドファンディング・プラットフォームといったところだろうか。

 しかし、ユーザーがリクエストと“支援”を行うだけ、という最小限の手間によって、効率的にニーズを集約できるのはすごい。まだサービス開始から数か月という短い期間でありながら、モントリオールのドリーム・ポップ・デュオ、ブルー・ハワイをはじめとして、シューゲイジンな人気ガレージ・バンド、クロコダイルズやUKのサマー・キャンプ、クラムス・カジノらと比較される年若きプロデューサーXXYYXXなど、さまざまなアーティストの招聘が現実化している。「自分は大好きなんだけど、こんなマイナーな人たちの来日なんて無理だよなあ……」というようなアーティストの顔をだれでもひとりやふたり思い当たるだろうが、Aliveにリクエストしてみれば、この広い世の中、同じように酔狂な人間が意外な数存在しているという幸福な事実にぶつかるかもしれない。

 ともあれ、公式サイトに飛べば詳しい説明や絶賛支援募集中のアーティストを見ることができる。もちろん諸事情あるだろうから、リクエストがただちに支援募集企画として立ち上がるわけではないが、投稿欄にはインディ・アーティストを中心にジャスティン・ティンバーレイクなどまでが上がっていておもしろい。ついつい発想がインディにかたよってしまったが、超ビッグネームが意外な抜け穴を通って来日することだってあり得るよね。

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Aliveサイト:https://www.alive.mu/


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