「KING」と一致するもの

ジオラマボーイ・パノラマガール - ele-king

 このごろ90年代のことをよく考える。夢にみるほどである。そこで私はオシャレなサブカル雑誌の編集者で六本木にある編集部を出て大通りを交差点のほうから西麻布にむかって東北へ歩いていると、大きいだけで味気ないビルが建っているべき「六本木六丁目交差点」のあたりに、私は20余年前になくなったはずの小ぶりなビルが建っていた。
「WAVE」の文字をかかげた青灰色の窓のない概観はミズっぽさがなかなか抜けない六本木の空間で異彩を放っており、甘い水にさそわれる蛍のように建物内にすいこまれると、フロア一面を無数の棚がしめており、そこには世界各地から集めたレコードがびっしりならんでいる。そうだ、ここでは4階から順繰り降りながら全フロアをくまなくみてまわるのがノルマだったと気づいた私はエレベーターで現代音楽コーナーをめざすのだが、お客さんも店員も、建物内のすべてのひとたちが知り合いなのにしだいに気味がわるくなり、地下の映画館に逃げ込むも、次から次にあらわれるモギリのみなさんがまたしても顔見知りで、ことばにならない不安をおぼえながら、おそらくフィリップ・グラスが音楽つけただかなんだかの映画をみるともなくみて、逃げ帰るようにその建物をあとに、たちよった書店で手にした雑誌の表紙に、あっ、と声をあげたのはそこに「特集岡崎京子」とあったからである。

 私はサラリーマン編集者だったときも競合他誌なるものを意識したことはないが、勤めはじめてほどない、たしか2000年あたりだったかに出た「スイッチ」のこの特集と、会社に三行半をつきつけたあたりに出た「ペン」のキリスト教の特集にはやられたと思った。なんとなれば、雑誌の特集には時代のほかにたよるあてもない。追認や迎合や、ましてや広告宣伝などではなく、それが世に出てはじめて、読みたかったのはこれなのだと気づかせるなにかを、私は先述の2誌の特集にみたのであろう。
 とはいえ「スイッチ」の特集は「岡崎京子×90年代」だった(と思う)。また恐縮なことに、私はこの号を青山ブックセンター六本木店で購入したものの1ページもめくることなく編集部内で紛失してしまい、いまにいたるも内容のひとつも知らない。やられたとかいえた義理でもないのだがしかし、テーマや書名だけでなりたつ本や雑誌というものもある。2000年代初頭岡崎京子をとりあげるのはその典型であるように私に思われた、その一方で思うのである、なぜ90年代なのか。幕を下ろしたばかりの90年代への追慕の意味合いがあったにせよ、岡崎京子は90年代の表象なのか。岡崎京子の(六本木WAVEが開店した)1983年から96年にいたる(現状での)活動期間を考えると80年代のほうが長いではないか。そしてまた90年代は特定の人物や事象に収斂する時代なのか。それはひとことでいえるようなことなのか。

 そもそもいつからが90年代なのか。この問いが多くの識者を悩ませてきたのはひとの世は数値ほどデジタルではないからである。2020年代に入った途端に2010年代が蒸発するはずもない。その線でいけば、90年代と80年代もたがいにのりいれているであろう。それさえもみるものによる視差がある――とはいえ90年代を起点に2年以上は前後しないのではないか。そうでなければディケイド切りそのものがあやふやになる。この点をふまえ、仮に1990年代のはじまりは2年前の88年だったとしよう。
 1988年は昭和63年である。世はバブル景気に湧き、リクルート事件が起こり、4月の東京ドーム公演をもってBOØWYが解散した。その2年前のチェルノブイリ事故を受けたブルーハーツの「チェルノブイリ」は自主レーベルからは出せたけどRCの『Covers』は大手だったので発売できなかったのも88年。この年の3月10日号から掲載誌が休刊の憂き目をみる11月10日号まで『ジオラマボーイ・パノラマガール』は雑誌「平凡パンチ」に連載した、作者の経歴では中期の代表作ということになろうか。

 物語は東京郊外の高校生である津田沼ハルコと神奈川健一のすれちがいと出会いを軸に、ふたりの家庭や学校生活がからまる構図をとっている。設定への特段の註記はないが、時制はおそらく作品連載時と同じく1988年、舞台は東京の郊外であることは主人公の名前があっけらかんとしめしている。本作はほかにも、岡崎作品を同定する指標である音楽、ファッション、風俗への遊戯的な言及があり、そのことは文化系男女の共感の入口であるばかりか、作者の人間観ひいては人物造形の土台ともなる。事物性をつきつめたはてにあらわれるモノになった身体同士が擦れるさいにたてるあの乾いた孤独な音が岡崎京子の主調音であれば、それは1989年の『Pink』で剥き出しになり、このあたりを90年代のはじまりとするのが至当だが、すでにしてそれは1988年の『ジオラマボーイ・パノラマガール』に潜んでもいた。
 80年代から90年代へのグラーデションが『ジオラマ~』を彩っている。『リバーズ・エッジ』や『ヘルター・スケルター』など、映画にもなった後期の代表作と比して『ジオラマ~』には作家として洗練の課程で整理すべき雑多な要素が手つかずでのこっている。広津和郎なら散文精神とでも呼びそうなものと娯楽性の帳尻をどのようにあわせるか。瀬田なつき監督の『ジオラマボーイ・パノラマガール』にのぞむにあたって、私がもっとも興味をおぼえたのはその点だった。

 結論からもうしますと、瀬田なつきは原作の輪郭をなぞりながらも『ジオラマボーイ・パノラマガール』をまったく新しい物語に「再生」している。主人公の渋谷ハルコと神奈川ケンイチを演じるのは山田杏奈と鈴木仁。俊英ふたりの存在感には高校生の男女の出会いとすれちがい、恋や片思いといった一大事を描くにうってつけのみずみずしさがある。
 その一方で、物語の設定には異同がある。ハルコの苗字は津田沼から渋谷にかわり、彼らの生活圏もどこぞの匿名的な郊外から湾岸方面に移っている。そのことはスクリーンに映る光景が如実に物語るが、現在の空気と地続きの景色を前にして、私は90年代にはしぶとくのこっていた中心と周縁といった二項対立の枠組みがきれいさっぱりなくなっているのに気づいた。渋谷と津田沼は本来、パルコとパルコレッツ、ラフォーレ原宿とラフォーレ原宿・松山ほどの隔たりがあったはずだが、標準化の波にあらわれた世界における差異は類似性のバージョンとして誤差の範疇に収斂する。このことは些末なようでいて1990年代と2020年代の懸隔をみるうえで不可避であるばかりか物語の主題とも密接にかかわっている。なんとなれば『ジオラマボーイ・パノラマガール』とはタイトルがあらわすとおりトポスの物語なのである。

 原作の副題「“BOY MEETS GIRL!” STORY “IN SHU-GO-JU-TAKU”」もまた、作者がこの作品を場所性から構想していたことをほのめかす。むろん創作における構想などきっかけにすぎず、マンガも映画も、ときにそのことをわすれたようにすすむが、彼らがよってたつのもそのような場所であるのにかわりはない。作中では集合住宅に住むハルコと戸建て住まいのケンイチの対比が基調となる。では集合住宅と戸建てとのちがいとはなにか。この問いに橋本治は『ぼくたちの近代史』で家には外があるがマンションには内側しかない、と答えている。さらに家庭の主婦などはちょっとばかしカンちがいしているのかもしれないが、彼女らは家庭に仕えるのでも家庭というカテゴリーに仕えるのでもなく、「家」という建物に仕えている、と喝破するのである。
「家というものが町の中に、そのような置かれ方をしてしまっているんだから、家に仕えるしかないわけで、これを断つ為には家から消えるしかないってんで、俺もう、家なんか見るのもやだってマンションに行っちゃったのね、逃げるように。
 家っていうのは一つの観念なんだよね。この観念てのは、とっても土着的なもので、とってもオバサン的なもので、主人を待望するものでもあるけど、決して主人を存在させないようなもので、適応というものを強制するもの。「家庭が」じゃないのね。家ね。家という建物ね。建物が存在する為、存在するだけで、そこに意味というのが派生しちゃうから、家というものは、それだけの意味を持つのね」(橋本治/ぼくたちの近代史/河出文庫)

 橋本の論旨は戸建て住まいのケンイチの両親が不在のかたちで空位になっているところなど、物語の無意識をいいあてるかにみえる。「オバサン的」など、PC的にどうかなーといわれそうなものいいもあるにせよ、そこにはおそらく江藤淳が『成熟と喪失』でこころみたような家父長制分析への橋本からの柔和な回答の側面もあっただろう。本稿ではただでさえ広げすぎの風呂敷をこれ以上広げないためにもこの点は指摘するにとどめるがしかし、橋本の上の発言が1987年11月15日のものであることには留意すべきであろう。
 なぜ日づけまではっきしているかといえば、『ぼくたちの近代史』の元になった講演がこの日おこなわれたから。会場となったのはパルコやWAVEの親会社でもある西武百貨店は池袋店のコミュニティカレッジ、企画の担当者はカルチャーセンターに勤めていたころの保坂和志である。二度の休憩と三度衣裳替えをはさみ三部構成で都合六時間、しゃべりまくりだったという講演のテーマは多岐にわたる。先の発言があらわれるのは「リーダーはもう来ない」と題した第二部。ここで橋本は先の発言につづき「これ(家/筆者註)は何かに似ているって、実はこれ、「田舎」に似てるんだよ」とつづけている。なかなか刺激的な発言だが、そのことばはバブル期につきすすんだ80年代末の時代の空気をまとっている。そしてその空気はおそらく『ジオラマボーイ・パノラマガール』執筆時の岡崎京子が呼吸していたものでもある。
 都市が郊外にむけて自己増殖するような、80年末から90年代初頭にかけたうわついた感じはいまはどこにもない。瀬田なつきはそれらを二度目の東京五輪をあてこんだ2019年の再開発の風景で代用する。舞台が湾岸らへんなのはそのせいだろうが、その一方で橋本のいう「マンション(都会)vs家(田舎)」的な対立の構図もいまでは描きづらい。90年代から現在にいたる失われた30年は成長だけでなくそこから派生する都会や理想的な生活への憧憬をも阻害した。原作のハルコが嫌悪する生活臭も都心へのあこがれも当時よりはずっとうすい。閉塞感の質がちがうといえばいいだろうか、ケンイチは原作でも映画でもある日衝動的に学校を退学するが、そのような高校生はいまでは稀少な部類なのではないか。いまなら辞める前にひきこもるか不登校になる。時間の重み、いや刹那の質みたいなものがきっと変わったのだろう――そんなふうにも30年前に高校生だった私は思う。
 それらの変化にたいして場所性だけが例外というわけにもいかない。先に述べた『ぼくたちの近代史』の第二部「リーダーはもう来ない」につづく第三部を橋本は「原っぱの理論」と名づけている。橋本はそこで原っぱという社会がほしいという。世の中がいくら縮まってもみんなでつくる混沌を存在させる場所、町という秩序のなかにあって、私有権はありそうだけど世間の支配体制のおよばない子どもたちの社交の場のような。高度経済成長期はそんなのが近所のそこここにあった、昭和の最後にバブル景気がおこり、平成がはじまり時代が90年代にはいったころ、街中の原っぱは不動産になった。むろん拡張する都市は郊外をうみだしつづけその外殻には原っぱがある。とはいえ橋本のいう原っぱは阪神淡路大震災とオウム事件が分断する90年代の後半にいたって、岡崎京子が『リバーズ・エッジ』で描く不吉なものが横たわる現実界にも似た境界域になった。

『ジオラマボーイ・パノラマガール』が描くそこからさらに四半世紀後の世界である。そこではファッションも音楽も流行も、村上春樹の受容の程度も十代の男女の性愛の経験値も90年代とはへだたりがある。日々の暮らしの平坦さひとつとってもそうだ。あの時代からこの方ずっと真っ平らな日々ばっかだったわけはない――、大袈裟にいうとそのことの希望も絶望も描くのが物語の再生であり、この文字面からしてめんどくさそうなことを瀬田なつきは『ジオラマボーイ・パノラマガール』でやってのけている。注目すべきは終始すれちがいつづけたハルコとケンイチがはじめて出会うマンションを建設中のタワマンに置き換えたところ。それにより瀬田は原作の主題は現代的にアップデイトし、あからさまな文明批評を回避する。ゴダール風の冥府降り(昇り?)や不法占拠のパンキッシュさは瀬田なつきと岡崎京子というふたりの作家が二重写しになる場面である。そのはてにあらわれるハルコとケンイチの対面の場面での山田杏奈の表情の変化はとても印象にのこった。このときのハルコの表情の変化には顔色が変わるという慣用句をこえて物語のそれまでの時間をひきうける輝きがある。また余談めいて恐縮だが、映画版は「パン屋襲撃」のくだりがないぶん、『東京ガールズブラボー』が自転車泥棒の逸話を援用している。ほかにも、おばあさんの魂がのりうつるというオカルト要素がUFO的なセカイ系の話に置き換わるなど、90年来来のファンには原作との異同をくらべる楽しみもあるが、私をふくめた古株たちは作中で大塚寧々が演じるハルコの母親と同じ場所にすでに退いているともいえる。小沢健二の「ラブリー」が流れる場面は1990年代(前半)と2020年の若者をつなぐ回路となるが、時間的にも空間的にも多層性を潜在させる世界を側面から支えているのは山口元輝の音楽である。映画音楽を手がけるのははじめということだが、クラブのくだりやエンディング曲など、懐の広さと作品との距離のとりかたなど、映画音楽作家の資質のゆたかさをしめしている。

映画『ジオラマボーイ・パノラマガール』予告編

interview with Richard H. Kirk(Cabaret Voltaire) - ele-king

 ドイツ人のフーゴー・バルがチューリヒにダダイズムの拠点として〈キャバレー・ヴォルテール〉を開店したのは第一次大戦中の1916年のことだったが、イギリス人の当時18歳のリチャード・H・カークがシェフィールドでスティーブン・マリンダーとクリス・ワトソンの3人でキャバレー・ヴォルテールなるバンドをはじめたのはロックがますます拡張しつつあった1973年のことだった。そもそもキャブスは、イーノが提言する〈ノン・ミュージシャン〉の考え(楽器が弾けなくても音楽はできる)に共感して生まれたミュージック・コンクレートのガレージ版だった。テープ・コラージュ、そして電子ノイズとドラムマシンとの交流によってスパークするそのサウンドが、やがては“インダストリアル”と呼ばれることになるものの原点となる。
 それから歳月は流れ、リチャード・H・カークがキャバレ-・ヴォルテールの26年ぶりのアルバムをリリースするのはコロナ禍の2020年11月のこととなった。ほかの2人はとうにバンドを離れている(ワトソンは録音技師。マリンダーは大学の教職)。いまや、というか20年以上前からキャブスはカークのユニットになっているし、カークはいまもシェフィールドで暮らしている。

 キャブスにとっては、サーカスティックな楽器演奏よりも機械じみた単調なビートのほうが、煌びやかな音色よりもノイズのほうが、こ洒落たカフェよりも灰色の廃墟のほうがスタイリッシュで魅力だった。そうした美学/コンセプトを守りながら、時代に応じてそのサウンドを変えてきたキャブスだが、喜ばしいことに新作『Shadow Of Fear』においてまたあらたな局面を見せている。聴いて思わず、ワォって感じである。つまり、音が鳴って1分後にはその世界に引きずり込まれているのだ。初期のざらついたサウンドコラージュに強力なインダストリアル・ファンクが合体したそれは、ひと言で言えばパワフルで、圧倒的だ。26年ぶりに駆動したエンジンは、錆びていないどころか、むしろ活動休止前よりも、烈しく回転している。
 リズムの根幹にあるのはエレクトロやテクノだが、アルバムにおいてブラック・ミュージックからの影響が伺えることは、キャブスの新作を聴くにあたって興味深かった。1曲目の“Be Free”などは“Nag Nag Nag”をシカゴ・ハウスに落とし込んだかのようだし、最後の曲“What's Goin' On”は、その曲名からも70年代ソウル/ファンクのキャブス版とさえ言える。つまり、ディストピアを描いてはいるが、『Shadow Of Fear』は素晴らしくエモーショナルだったりするのだ。
 彼に電話した坂本麻里子さんよれば、取材中は苦笑いが多く、いかにも北部人らしいアイロニーとペーソスが感じられたとのこと。要するに、あんま偉そうなことは言わないし、尊大でもない。それがまあ、インダストリアル・サウンドのゴッドファーザーの言葉なのだ。

あからさまなスローガンをやるのは自分はごめんだ。なにもかもが政治的なんだしね……。ただ、いまの状況の在り方というのは……人びとも政治を意識せざるを得なくなっているんだと思う。

もしもし、カーク氏ですか。

リチャード・H・カーク(RHK):やあ!

今日はお時間いただきまして、ありがとうございます。

RHK:どういたしまして。

まずはアルバムの完成とリリース、おめでとうございます。

RHK:うん。

ソロ名義でも長らく活動され、なおかつご自身のレーベル〈Intone〉からは多数の名義での作品を出されているあなたが、26年ぶりにキャバレー・ヴォルテール名義でのアルバムを出すとは嬉しい驚きでした。

RHK:ああ、それはよかった。君が作品をエンジョイしてくれたらいいなと思っているよ。

はい、とても楽しんでいますので。

RHK:そうか、それはいい!

(笑)で、2014年にベルリンのフェスティヴァルで行われたキャバレー・ヴォルテールの12年振りのライヴが契機となったそうですが、もはやオリジナル・メンバーがひとりとなったキャブスと、あなたのソロ活動との違いについて、どのように考えていたのですか?

RHK:フーム、まあ、かなり区別しにくいってことももたまにある。ただ、今回の作品に関しては……主にキャバレー・ヴォルテールとして作ったね。というのも、いま言われたように、2014年以来、わたしは毎年ライヴをやってきたし、1年ごとにキャバレー・ヴォルテール向けのライヴ・セットをアップデートし続けていたんだ。で、その結果として3時間にのぼる新たなマテリアルが、純粋にキャバレー・ヴォルテールとしての音源が手元に集まった、と。キャバレー・ヴォルテールとして、ステージ上で、実際に生で演奏してきた素材がね。
 ただ、この話題についはあまり長く引きずりたくないな。というのも、この点(キャバレー・ヴォルテール名義を用いること)について自己正当化をやる必然性は感じないから。実際、キャバレー・ヴォルテールの他のメンバーの2名は……うちのひとり、クリス・ワトソン、彼は1981年にやめてしまったんだし(苦笑)──

(笑)大昔ですね。

RHK:(笑)そう、その通り。だから彼はまったく関与していない。それにもうひとりのスティーヴン・マリンダー、彼も1993年にはバンドをやめている。というわけで、自分の立ち位置を正当化しようとするのは自分にとって意味のないことだ、ほとんどそれに近い思いをわたしが抱いているのはどうしてかを君にも理解してもらえるはずだよ。それに、彼ら2名が関わるのをやめて以降の歳月のなかで、わたしは旧カタログの再発や(ゴホッ!と咳き込む)リミックス制作といった諸作業をこなしてきたし……キャバレー・ヴォルテールの過去全体を管理監督してきたんだよね。
 だから、この段階に進むのは自然なことと思えた──いやもちろん、このプロジェクトをライヴの場で再び提示することに興味を惹かれた、というのはあったよ。でも、わたしはこれまでキャバレー・ヴォルテールのキュレーションを担当してきたわけで……とにかく思ったんだよ、(「すまないね」とゴホンと咳き込みつつ)……となれば、次のステップとして理にかなっているのは、過去に留まるのはもうやめにして新たなレコーディング音源をいくつか作ることだろう、と。その結果生まれたのが『Shadow Of Fear』というわけだ。(ゴホゴホッと咳き込む)

1曲目の“Be Free”を聞いたときに、正直感動しました。紛れもなくキャブスの音でしたし、しかも、そのリズムにはフレッシュで力強いモノを感じました。

RHK:なるほど。

また、ナレーションのカットアップがありますよね。部分的に聴き取れる「I did it, I killed it, by mistake(俺はやった。間違えて殺した)」「This city is falling apart(街が崩れ落ちていく)」といった言葉があって、ディストピックなイメージをもたせながら──

RHK:うん、思うにあれは……おそらくあれは、偶然ああなったのかもしれないし、あるいはもしかしたら自分には……なにかが起こりつつある、そうわかっていたのかもしれない。で、ほら、我々はいまやああいうディストピア的な立場に立たされているわけだろう? ブレクジットがあり、そしてミスター・トランプが登場し……そのアメリカは、(苦笑)あと4年も彼につきあわされるかもしれない、と。

それは考えたくないです。

RHK:どうなるかわかないとはいえ、実に憂鬱にさせられる。それにヨーロッパでは──日本に行ったことはないけど、あちらではウイルス禍を越えたようだよね? でも、こちらでは……いままさに……本当に、何千人もが日々感染している状態で、病院のベッドが足りなくなるかもしれない。要するに、コロナ禍の初期段階のイタリアがどうだったか、という状態に戻りつつあるということだよ。一方、イギリスでは、政府が……やれやれ(苦笑)、英政府はこれにどう対処すればいいかさっぱりわかっていないらしくて。無能だね(苦笑)。

ええ……。で、先ほどの質問の続きなのですが、暗いムードに抗うように「be free」という前向きさ/楽天性を仄めかすような言葉がミックスされる。強度のあるビートのなか、相反するふたつのヴィジョンが衝突しているかのようなこの1曲は、今回のアルバム全体を象徴しているように思うのですが、いかがでしょうか?

RHK:うん、それは非常にいい解釈だよ! ただまあ、わたしはあまりはっきりとさせたくない方だし(苦笑)──

ですよね。

RHK:それよりも、聴いた人間がそれぞれに解釈し、自分自身で判断してもらう方が好きなんだ。そうした解釈の方が、(苦笑)わたし自身が言わんとすることよりもはるかに興味深いことだってときにあるからね。わたしのやっていることというのは、実のところ、「ムード」を作り出しているに過ぎない。そうやって、雰囲気であったりテーマめいたものを設定しようとトライしているし、その上で、それがどこに向かっていくかを見てみよう、と。

今作を制作するうえでのあなたのパッションの背景にはなにがあったのでしょうか? ひとつは、とにかく新しいキャブスを2020年代に見せることだと思うのですが──

RHK:もちろん。

テーマであったりコンセプトを決めるうえで、あなたにインスピレーションを与えたものになにがありますか?

RHK:(ゴホンゴホンと咳き込む)失礼……あー(と、言いかけて再び激しく咳き込む)。

大丈夫ですか?

RHK:水を飲み過ぎて……あー、そのせいで(盛んに咳払いしながら)喉がいがらっぽくなってしまったな……ウイルスに感染してはいないはずなんだが(苦笑)。

咳が落ち着くまで、少し待ちましょうか?

RHK:いや、大丈夫だ、続けよう! で……そう、インスピレーションはなにか?という質問だったよね。んー、わからない。

はあ。

RHK:(苦笑)。だから……作っていくうちになにかが浮かび上がってきた、としか言いようがないというのかなぁ。先ほども言ったように、素材の多くはライヴ・ショウ向けに作り出したものだったわけで、それは本当に、非常に……実に剥き出しの未加工な状態であって、いま、君がアルバムとして耳にしているものほど聴きやすくて、磨かれたものではなかったから。
 というわけで、このプロジェクトのそもそものインスピレーションは、ライヴ・パフォーマンスのために作り、書いたコンポジション群をCDなりヴァイナル・アルバムの形で何度でも繰り返し聴くことのできるものに作り変えよう、というものだったんだ。したがって、その素材からなにかを取り去る一方で、特定のヴォイス群を始めとする様々なディテールをそこにつけ足していく、という作業になった。でも……うーん、「ああ! そう言えばこれにインスパイアされたっけ」といった具合に、この場でちゃんと君に答えられるようななにか、それは本当に、とくにないんだ。

なるほど。いや、特定したくないということであれば構いませんのでお気になさらず。

RHK:いやだから、言えるのは……直観にしたがって作った、ということだね。ほとんどもう……スタジオに入った時点で、自分はなにをすべきかがわかっていた、みたいな? ただし、その直観がどこからやって来たのか、その出どころは自分でもわからない、という(苦笑)。

(笑)あなたにはシャーマンや霊媒みたいなところもあるのでは?

RHK:ん~~? うん……まあ、その考え方はあんまり間違っていないかもしれない。とにかく自分自身の意識のなかで起きていること、そしてその次元を越えたところで起きていることとチャネリングしているだけだし……で、それらを自分以外の他の人びとも理解し、そのなかに飲み込まれることのできるなにかへと翻訳していこうとしている、という意味ではね。

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で、ほら、我々はいまやああいうディストピア的な立場に立たされているわけだろう? ブレクジットがあり、そしてミスター・トランプが登場し……

あなたは昨年9月のPOP MATTERSの取材で、「I think it's more necessary now to be politicized(いまはより政治化することが必要だと思う)」と語っていますが、時期的に、おそらくは、それは今作を作っているときのあなたのスタンスでもあったと思います。先ほどもおっしゃっていたように、キャブスはこれまで政治に関しては直裁的な表現よりも、仄めかしであったり、リスナーに考える契機やテーマを与えるみたいなやり方をしてきましたが、今作では政治的な意識がより強く出ているとみていいのでしょうか?

RHK:どうなんだろう。自分じゃわからないな……だから、作品をダイレクトに政治的なものにするか云々に関しては、ずいぶん前に決めたからね──たとえば、70年代後期にはザ・クラッシュのような、政治的なスローガンをがんがん掲げるバンドがいたけれども、それよりもむしろもっと、自分は影響を与える、あるいは暗示することを通じてそれをやろう、と。わかるかな?

はい。

RHK:うん。あからさまなスローガンをやるのは自分はごめんだ。なにもかもが政治的なんだしね……。ただ、いまの状況の在り方というのは……人びとも政治を意識せざるを得なくなっているんだと思う。だからまあ……(嘆息して苦笑)ヒトラーが政権をとってナチス・ドイツが生まれた頃のようなものだ、と。ヨーロッパからブラジルに至るまで、非常に右翼思想の強い連中が存在しているし。

世界中にいますね。

RHK:うん、どこにでもいる。というわけで、その状況は……だから、(ゴホゴホと軽く咳き込む)ほら、生涯ずっとファシズムに対して憎しみを抱えてきた自分のような人間とっては……それこそ、(苦笑)「義務だ」とでも言うのかなぁ、この現状に抵抗・対峙しようとするのは! というのも、そうなったらいずれどうなっていくかを我々はもう知っているんだし。たくさんの人間が死ぬことになり、人びとは服従させられながら生きることになる。

ということは、このアルバムは一種の警告?

RHK:んー……そうなのかもしれない。そうなのかもね……?

というか、警告どころか、既に起きているとも言えますが。

RHK:イエス。

“Night Of The Jackal”という曲名の由来を教えて下さい。映画『ジャッカルの日』(“The Day Of The Jackal”/1973。フレデリック・フォーサイス原作の政治スリラー小説の映画化)を思い起こしましたが、この由来は?

RHK:……まあ……あの曲、“Night Of The Jackal”には、とにかくこう、この曲の起源はアフリカにあるなと思わされるなにかがあった、というか……。

(笑)なるほど。

RHK:だから、いま言われた映画とは直接関係はない。そうは言いつつ、『ジャッカルの日』は、大好きな映画のひとつだけどね。あれは本当にいい映画だ。とても、ある意味とても興味深い映画だよ。でも……残念ながら、申し訳ないけれども、あの映画はこの曲のインスピレーションではないんだ。ただ、たしかあれはイラクかイラン産の映画だったと思うけれども、『Night Of The Jackal』みたいな題名の作品があったはずだな……?

そうなんですね。後でチェックしてみます。

──いやいや、おぼろげな記憶だから、確証はないけれども。(訳注:サーチしてみましたが、当方ではそれに該当しそうな作品は見つけられませんでした)

了解です。

──ただ、こう……あの曲にはなにかしら、一種の緊張感がそのなかにあった、というのかな。ジャッカルはアフリカに生息する動物だし、大型のキツネみたいなもので、狩猟好きな動物で、しかもすごく鋭い牙の持ち主なわけだから(笑)。

もう1曲、“Papa Nine Zero Delta United”のタイトルの由来はいかがでしょう。「もしや9.11のことか?」とも感じましたが?

RHK:いや、そうではないよ。あれは実際の……以前にもああいうタイプの声を作品で使ったことはあったけれども、あれは基本的に、飛行機のパイロット同士がやり取りしている模様で。短縮された用語を使って対話している、と。あの用語がなんと呼ばれるのかは知らないが、短波ラジオを持っているからあの手の会話を傍受できるんだ。とても薄気味悪いんだよ(笑)、喋っているのがどこの誰かも、その人間がどこにいるのかもわからないからね! 実はあれは……かなり前の話になってしまうけれども、マレーシア航空の旅客機が2機、墜落したのは覚えているかな?

ありましたね。

RHK:1機はたしか、ロシアかウクライナの発射したブーク・ミサイルに撃ち落とされ、もう1機はこつ然と消えてしまった(訳注:前者は2014年7月に起きたマレーシア航空17便撃墜事件。後者は同年3月に370便がインド洋に墜落したと推測される事件)。あの事件が、自分の頭のレーダーにあったんだよ。それもあるし、わたしは飛行機嫌いでね。空旅はやりたくないんだ。

そうなんですか。飛ぶのが怖い?

RHK:ああ、もちろん。もう20年も飛行機には乗っていないよ。移動には列車を使うから。

ある意味いまの状況には合っていますね。COVID-19絡みの規制が多く、海外に飛ぶ旅客は減っていますし。

RHK:そう。でも、ラジオで誰かが言っていたのを聞いたけど……COVID感染に関して言えば明らかに、旅客機内の環境はそれほど危険じゃないらしいよ。エアコン設備のおかげでウイルスが四散するんだそうで。

(笑)なんか眉唾ものの説に思えるんですけど……。

RHK:いやだから、そもそもその説はアメリカ軍の唱えているものだっていうね、ハッハッハッハッハッ!

(苦笑)信じない方がいいですね。

RHK:そうだね、信じられない(笑)。

(笑)。『Shadow Of Fear』というタイトルはどこから来たのでしょうか?

RHK:(ゴホッ、ゴホッと咳き込んで)それは、あれがとてもいいタイトルだからであって(笑)……実に心になにかを喚起するタイトルだし、それに……自分でもわからないな。とにかくあれが、このアルバムを作っていた当時の自分の感じ方だった、としか言えない。まとめに取り組みはじめたのは……昨年9月のことだったし、そこから作品を完成させた4月までの間に……イギリスにはこの、ブレクジットというものがあってね。いまもまだ続いているけれども(訳注:イギリスは2016年の国民投票の結果2020年1月31日をもって名目上EUから離脱したが、今年は移行準備期間で離脱に伴う諸交渉は現在も続いている)、もうかれこれ3、4年になる……。で、その間にメディアは多くの悪をもたらしてね。数多くの嘘、そしてフェイク・ニュースだのなんだのが……(苦笑)。
 かと思えば、アメリカにはトランプがいて、彼は……あいつを、北朝鮮の金正恩を挑発して煽るのに近いことをやってしまうような人物なわけでさ(苦笑)……。だから、そういった(ゴホンゴホンと咳払いしつつ)、とにかく(苦笑)総じて自分の感じる、世界の状況がどこに向かっているかについて抱く全般的な不安というのかな……。で、さっきも話したように、アルバムをまさに仕上げつつあった時点で、イギリスは全国的なコロナ・ロックダウンに入ったわけで(3月23日)。そうしたすべてに、どこかこう、このアルバムはなにかによって「書かれた」という感じがするね。

過去4、5年の間、あなたはそうした「恐怖の影」──いまおっしゃったようなことはもちろん、政治の変化や監視社会の影のなかで生き、それに常に脅かされていた、と?

RHK:ああ、そうなんだと思う。まあ、それは……おそらくそんなことを感じていたのは自分だけだったのかもしれないけれども……どうなんだろうね? たとえば、わたしはソーシャル・メディアの類いやインターネットは好きではない。ツィッター等々を見ると、本当に多くのヘイトに出くわすなと思うし、とにかく……いやだからさ、こうなる以前だったら、たぶん、不機嫌な男どもが2、3人バーにたむろして飲みながら不平を垂れる、程度のものだったんじゃないのかな?

(笑)ええ。

RHK:それがいまや、全世界もその不平を耳にすることができるようになった、というねぇ(苦笑)。とにかくまあ、わからないけれども?……人びとには実にぞっとさせられる、そんな感じがする。あらゆる類いのネガティヴさがネット/SNS上に存在しているから。

有毒なカルチャーがありますよね。

RHK:ああ。というか、カルチャーの欠如と言っていいくらいだ(苦笑)。

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ああ、とにかく興味があるってことだよ──だから、リズムのパワーに、それが人びととコミュニケーションを持つ力に興味がある。

ダンス・ミュージックのリズムを取り入れているのは、いまにはじまったことではない、もう、80年代からずっとそうなんですが、今作でもリズムの創造に注力していますよね?

RHK:うん。

ダンス・ミュージックにこだわったのはどんな理由からですか?

RHK:ああ、とにかく興味があるってことだよ──だから、リズムのパワーに、それが人びととコミュニケーションを持つ力に興味がある。というのも、リズムの歴史は何千年も前にさかのぼるものだと思うし(笑)、それこそ人類が存在し始めて以来、人間が2本の棒切れを叩き合わせるようになり、そしてドラムを叩くようになって以来存在しているわけで……。となれば、きっとそこにはなにかしら、(笑)大事な世界があるんだろう、と。だからわたしが基本的に思っているのは、言葉を使えるようになる以前は、人びとはリズム、そして音楽を通じてお互いと意思伝達をおこなっていた、ということなんだ。

たとえば“Universal Energy”にはデトロイトのアンダーグラウンド・レジスタンスにも似た力強さを感じます。

RHK:ああ。まあ、自分としてはアンダーグラウンド・レジスタンスとは似ても似つかない曲だと思うけれども……ただ、わたしは彼らのファンだよ。非常にラッキーなことに、2015年に、イタリアでマイク・バンクスに会う機会に恵まれてね。彼はアンダーグラウンド・レジスタンスの“Timeline”、ジャズ版URのような、あのユニットとしてプレイしたんだよ。それに、あのフェス(訳注:Dancity Festival の2015版と思われる)の同じ顔ぶれでは……彼が……クソッ! ど忘れしてしまって名前が浮かばないなぁ、ほら、あの人?……マイクと一緒にやっていた……

とっさに思い出せなければ大丈夫です、後でネットで調べますので。

RHK:うん、そうしてよ……彼の名前を思い出せないなんて、我ながらなんと間抜けだなぁ、情けないと思うけど……。

いえいえ、よくあることですから、どうかお気になさらず。

RHK:うん。で、とにかくまあ、彼らの音楽は90年代初期から知っていたし、12インチ・シングルも山ほど持っているとはいえ、あれ以降、彼らがどんなことをやってきたかについてはよく知らなかった、みたいな。でも、改めて彼らの音楽を探りはじめてね……(ゴホゴホッと咳き込む)失礼。うん、オンラインを通じて、彼らの音楽を探りはじめたんだよ。そうしたら、実にファンタスティックな、素晴らしい音源やヴィデオ群を彼らがポストしているのを発見してね。あれらは本当に、本当に素晴らしいものだよ、うん。

なるほど。で、質問の続きなんですが、クロージング・トラックの“What's Goin’ On”のホーンのコラージュには黒人音楽へのシンパシーがありますよね? あなたはもともとソウルやレゲエのクラブに出入りするような10代を過ごしてきたわけですが──

RHK:その通り。

いまもキャバレー・ヴォルテールの音楽のなかに黒人音楽からの影響はあると思いますか?

RHK:……まあ、いま君の言ったことがそのまま質問の回答になっているんじゃないの?

(笑)あ、なるほど。

RHK:君自身がその影響を作品から聴き取っているわけだから!

ですね。では、当方の読みは当たっている、と。

RHK:そう。それに、思い出したよ、さっき名前を思い出せなかったのはジェフ・ミルズ! 彼ともあのフェスで会えたんだ。たしか彼は、一時期日本で暮らしていたこともあったんじゃないのかな……? ともかくまあ、うん、あれは本当にこう、ツアー生活に戻ったことに伴うグレイトな体験のひとつだった、みたいな。ヨーロッパ各地で開催される色んなフェスティヴァルに出演するようになるし、おかげでその場で素晴らしい人びとと実際に会えることになる、というね(笑)! うんうん……。

今作は、明らかに悪化していく状況に対してのキャブスの反応と見ているのですが、ただディストピアを描くだけではなく、アルバムの終盤の、希望めいたものも表現しているところに感動を覚えました。

RHK:なるほど。

アルバムの最後の3曲には、アップリフティングな展開の曲を配置しています。その意図について教えて下さい。

RHK:まあ、誰だってハッピー・エンドが好きなものだからね!

(笑)。

RHK:いやだから、あの流れはほとんどもう……ライヴで体験したことから出て来たものだ、みたいな。たとえば……“Universal Energy”、あのトラックを観衆相手にプレイすると、とても妙な効果がオーディエンスのなかに起きるのに気づいてね。すごい数の人間が、狂ったように踊っていた。というわけで、このアルバムになんらかの構造をもたせるに当たって、そのクレイジーさに向けてビルドアップしていくのはいいんじゃないか、と思ったんだ。とは言っても、自分としては(ゴホン!)……“What’s Goin’ On”は高揚するタイプの曲だとは思わないけれども。あの曲に含まれるブラスやホーン・セクションのせいで、たぶんそんな印象が生まれるんだろうな……。というのも、よくよく聴けば、あれはかなりダークな曲でもあるからさ(苦笑)。でも……どうなのかな? あのトラックを仕上げたとき、自分でも思ったんだよ、「これだな、出来た」と。このアルバムを世に出せるようになった、準備完了、とね。

手応えがあった、と。

RHK:と言いつつ、妙な話でもあるんだ。というのも、あの曲を書き始めたときは……たしか、このプロジェクト(=ライヴおよび、その結果としてのアルバム)のために実際に書いた曲としては、あれが1曲目だったはずなんだ。けれども、書いたものの、生であの曲をパフォームすることはなかなかなくてね。2、3回以上、ライヴで演奏する機会を逃してきたと思う。というのも、あの曲にはまだなにか決め手が欠けているなと自分では思っていたから。あれをぐっと持ち上げるのにはもっとなにかが必要だなと感じていたし……アルバムとしてまとめる最後の最後の段階まで、それがなにかを自分にはつかめなかったんだと思う。

いま「希望めいたものも表現している」と言いましたが、具体的にいま現在のあなたが希望を感じていることになにがありますか?

RHK:まあ……とりあえず自分の生は確保しているし──(苦笑)そこには常にありがたい希望を感じているよ! ただ、いまの世界がどうかという点に関して言えば、正直あんまり希望は感じないな(苦笑)!

いまもシェフィールドにお住まいだと思いますが、いま現在のシェフィールドも昔と同じようにお好きですか?

RHK:ノー。まあ、それについてはこの取材の2、3日前にも他の場で話したばかりだけれども……かつてのシェフィールドの多くは解体・撤去されてしまっていてね。古い建物等々、それらは取り壊されてしまった。で、とにかく、いまやシェフィールドの街並は……どことも変わりがない。イギリス北部にあるタウンのどことも差のない、ありふれた景観になってしまった、という。
 それはとにかく悲しいことだと思うし、そもそも自分はあまり表に出歩かないしね(苦笑)、シェフィールドでコロナウイルス問題云々が起きる以前から、あまり外出しないタチだったし、こっちでの他人との社交もやめてしまって。うん……まあ、それは、たぶん自分が年寄り過ぎだからなのかもしれないけどね? ハハハッ! でも、とにかく──いまのシェフィールドには自分が育った街としての面影は見当たらないんだ。まあ、そう感じるのはたぶん老いのせいだろうし……どうなんだろう? 要するに、この街がどうなっているのか、自分にはもうわからない、と。もちろん、シェフィールドにはクラブもたくさんあるし──そうは言いつつ、そのすべてが現時点では閉鎖中なわけだけど──音楽系のヴェニューはたくさんあるんだよ。ただ、そうしたクラブのなかに、かつてそうだったように、実際の「シーン」が存在するのかどうか?というのは、わからないなぁ。それでも、この街には実験的なエレクトロニック・ミュージックをやっている連中がまだいるというのは知っているよ。ただ、これまでのところ、その音楽はわたしの耳にはあまり届いていないね。

シェフィールドはかつてのキャラクター/個性を失ってしまったと思いますか?

RHK:だからまあ、わたしにとってはそうだ、ということだよ。でも、シェフィールドで育った、いま20歳くらいの若者は、また違う世代であって、彼らにとってはそうではないだろうし……ただ、いまどきは余りにも多くがコンピュータやその手のテクノロジー頼みになっているよね。それに対して、キャバレー・ヴォルテールの初期の頃は……ちゃんとしたコンピュータというものがそもそもなかったし(苦笑)、あれらの音楽は一種のシンセサイザーや、ギターや様々な楽器をシンセサイザーのプロセッサを通して変化させて作ったものだったんだ。そうやって新しい、ユニークなサウンドを作り出そうとしていた、という。

手作りの機材等で工夫して音を作っていた、と。

RHK:そう。

と言っても、これは批判でもなんでもないですし、パソコンがあれば買ったその日から音楽を作れるのは素晴らしいことだと思います。ただ、便利過ぎるというか、努力せずに済む、というところはあるかもしれません。

RHK:いや、だから、そこの問題は(苦笑)──

どれも似たり寄ったりな音になってしまう、と?

RHK:そう、その通り。そうなってしまう可能性はあるよね。

コロナがいつ収束するのか見えない現在ですが、この先の予定になにかあれば教えて下さい。

RHK:(ゴホン!)そうだな、この時点でいくつか明かせることがあるから話そうかな。

(笑)予定通りに進めば、ということで。

RHK:いやいや、そうなるはずだよ! まず、これからツアーに出てライヴ・パフォーマンスをやれないのははっきりしているから……『Shadow Of Fear』を拡張することにしたんだ。

ほう?

RHK:なので、来年1月に3曲入りの12インチ・シングルを出す予定なんだ。それらのトラックもライヴ・ショウを元にしているけれども、アルバムにはどうにもフィットしなかったものでね。で、その後にアルバムがもう2枚控えている。どちらもわたしが「Drowns」と呼んでいるタイプの作品で、60分にのぼる瞑想型の音楽ピースみたいなもので。それらは、2月と3月に出せればいいなと思っている。というわけで、『Shadow Of Fear』は(ゴホゴホと咳払いして)、一種のシリーズ作のようなものなんだ。だから、ストーリーはまだあるんだよ。

なるほど。徐々に物語が明らかになっていく、と。

RHK:そういうことだね。でも、そこから先はどうなるか自分にもわからないな。というのも、去年の9月から今年4月にかけて猛烈に働いたわけで……いずれ、どこかの時点でまた新しい音楽を書き始めるだろうけれども、自分としてはまだ「そのタイミングがきたぞ」とは感じていないんだ。だから、ここしばらくは仕事を減らして少しのんびり過ごしていた、ということ。そうやって、とにかく自分の健康管理に気を遣おうとしているし……あまりやり過ぎないようにしよう、とね。それに、アルバム3枚に12インチを1枚というのは──年寄りにしちゃ悪くないだろう? アッハッハッハッハッ!

いや、すごいと思います。質問は以上です。ありがとうございました。

RHK:オーケイ。話せて楽しかったよ。

こちらこそ、面白いお話を聞けてよかったです。どうぞ、くれぐれもお体には気をつけてください。

RHK:うん。どうもありがとう。バイバーイ!

Sun Ra Arkestra - ele-king

小川充

 1993年の他界(宇宙への帰還)後もいまなお、数多くのサン・ラーのレコードがリリースされている。むしろ生前よりもたくさんのレコードがリリースされているくらいだ。その中にはアンソロジーもあればリイシュー、もしくは未発表の音源もあるのだが、そもそもサン・ラーが残した音源はあまりにも膨大で、いまだその全てが明らかになっていない。まるで宇宙空間のように無尽蔵なレコード・ライブラリーが広がっていて、土星からの使者を名乗ったサン・ラーらしい。彼の作品はいわゆるレコーディング・スタジオに入って録音するものではなく、ライヴ会場で即席で録ったものを自主でレコード化して次のツアー会場で売るというような形が多かったので、行ったコンサートの数だけレコードが存在していると言っても過言ではない。そして、サン・ラーが率いたアーケストラ(方舟の意味であるアークと楽団を指すオーケストラとを合わせた造語)は、サン・ラーの死後も活動を続けている。世界中をツアーしていて、数年前には来日公演も行なった。主なきいまもサン・ラーの名を冠しているのは、サン・ラーの精神が宿った楽団であるということなのだが、それは歌舞伎の屋号のようでもあり、実際サン・ラーは「かぶき者」(変わった風体や行動を美意識とする洒落者、歌舞伎の語源)のようでもあった。

 実際のところ現在のサン・ラー・アーケストラは、1950年代の最初期からのメンバーであるサックス奏者のマーシャル・アレンが中心となっている。彼はずっとサン・ラーと行動を共にしていて(アーケストラの場合、メンバーは演奏以外でも寝食を共にするコミューン活動を行なっていた)、サン・ラーの音楽から思想や信仰などを新しいメンバーに伝えている。アーケストラに在籍したメンバーにはジューン・タイソン、スティーヴ・リード、アーメッド・アブドゥラーなどいろいろいたが、サン・ラー同様に他界したり、音楽業界から引退してしまった者もいる。現アーケストラにはビル・デイヴィス、ジュイニ・ブースなど古くからのメンバーもいれば、ジェイムズ・スチュワート、ジョージ・バートンなど、2010年代より加入したメンバーもいる。総勢20名を越す大所帯にはいろいろな国籍や人種、音楽キャリアを持つ者さまざまだが、そうしたミュージシャンが一種の劇団のように集結し、現座長のマーシャル・アレンのもとに劇(演奏)を行なっているのがサン・ラー楽団と言える。

 このたびリリースされた『Swirling』は、そんな現サン・ラー・アーケストラによるこの20年間での最初のスタジオ録音アルバムである。最初にも述べたようにライヴ録音が主なサン・ラー・アーケストラにとっては異色の企画ではあるが、演奏する作品は新曲というわけではなく、往年のアーケストラのレパートリーをスタジオで実演したものとなっている。レコーディングでは20数名のメンバーから15名ほどが抜擢され、即興的なパートはあるものの、基本的には1950年代後半からおよそ60年ほどやってきた、アーケストラのメソッドに基づく演奏が収められている。これもまた歌舞伎などの伝統芸能に近いだろう。タラ・ミドルトンのヴォーカルも往年のジューン・タイソンのそれに限りなく近く寄せていて、ファリド・バロンのピアノやオルガン、キーボードなども在りし日のサン・ラーが演奏していた機種に近いものを揃えている。マーシャル・アレンはアルト・サックスのほかにエレクトロニクスも手掛けているが、それも古い時代の機材をいまなお使い続けていて、それがアーケストラ独特のレトロ・フューチャリスティックな味わいを生んでいる。いまの時代の新しいジャズに合わせたり、その影響を取り入れようとする姿は微塵もなく、潔いまでに自分たちのジャズを貫いている。たとえそれが古臭いと言われようとも。それによって結果的に彼らは影響を受ける側ではなく、影響を与え続ける側でいられるわけだ。

 サン・ラー・アーケストラの楽曲には宇宙や星、惑星などをテーマにしたものが多い。本アルバムにも “Satellites Are Spinning” “Door Of The Cosmos” “Astro Black” などが収められている。そうした宇宙志向や未来志向がアフロ・フューチャリズムと結びついていったわけだが、サン・ラーの場合はそこに古代や太古の神話との繋がりを持たせ、新しいものと古いものが融合した独自の世界を作りだした。冒頭の “Satellites Are Spinning” から “Lights On A Satellite” へと繋がる流れは、まさにそんなサン・ラー・マジックを象徴するものだ。“Seductive Fantasy” の牧歌性に富む演奏も宇宙空間の遊泳をイメージしているようであり、一方でバリトン・サックスがバグパイプのような音色を紡いで民族色豊かなところも見せる。“Swirling” はまさしく古き良き時代のスウィング・ジャズで、“Angels And Demons At Play” はデューク・エリントンのアフリカ色の強い演奏を電化処理したとでも言うべきか。“天使と悪魔の劇” というタイトルが示すようにサン・ラーの風刺性を代表する1曲だが、後半に向かうにつれてエレクトロニクスを交えて混沌としていく様がまさに戯曲的である。“Sea Of Darkness”~“Darkness” はアカペラ・コーラスからワルツへと展開するクラシカルなモーダル・ジャズで、“Rocket No. 9” はラップの先駆けとも言えるヴォーカリーズ・スタイルの歌。トマス・ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』に触発されたような題名のこの曲は、アメリカのポップ・カルチャーも取り込んだような楽曲で、ディジー・ガレスピーの “Salt Peanuts” を下敷きにしたようなほぼワン・コードのシンプルなトラック上で、ホーン・セクションやピアノがコズミックなSEを交えて即興演奏を見せるという構成。サン・ラー・アーケストラのひとつのスタイルだが、伝統的なジャズのビッグ・バンド・スタイルが底辺にあり、ジャズ界の異端とみなされることが多いサン・ラーだけれども、実はオーソドックスなジャズを土台としていることがわかる一例だ。

 アカペラとコズミックなSEだけで綴る “Astro Black” はサン・ラーならではのゴスペル・ソングであり宇宙賛歌。宇宙の神秘は続く “I'll Wait For You” でのフリー・ジャズへと受け継がれる。各楽器が無秩序状態の音を奏でていく様は暗黒の宇宙空間を飛び交う惑星をイメージさせ、その無秩序や混沌を音楽へと構築していくという現代音楽に接近した作品だ。一方で “Unmask The Batman” はアメコミの世界にコミットしたポップ・カルチャー的作品。演奏も「バットマン」のテーマを下敷きにしたブギウギ~ロックンロール調のもので、前衛的な作品と並立してこうした俗っぽいこともやってしまうところがサン・ラーの凄さでもあった。“Sunology” もムーディーなヴォーカルをフィーチャーしたスウィング・ジャズ調のもので、ジャズの本流からすると異形とされたサン・ラーがこうしたオーソドックスな曲をやってしまうのは、一種の皮肉でもあるかもしれないが、ある種痛快でさえある。“Queer Notions” も「異形」のための作品であるが、デューク・エリントン張りのオーケストラ・ジャズとなっていて、まさに裏エリントンだったサン・ラーならではだろう。宇宙の孤独を綴った “Space Loneliness” はブルース曲で、ジャズにとどまらずブギウギからゴスペル、ブルースなどあらゆる音楽を飲み込んでいったサン・ラーの音楽性を象徴する。“Door Of The Cosmos / Say” はファラオ・サンダースなどにも影響を与えたスピリチュアル・ジャズだが、演奏スタイルはジャズ・バンドのそれというより、大道芸とかチンドン屋のそれに近いものだ。サン・ラー自身もそうした大道芸人的なところがあり、実はとてもサービス精神の旺盛な人だったが、そうした人柄を偲ばせるようなピースフルな1曲である。

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野田努

私の音楽に耳を傾けてくれれば、
人びとはエネルギーを得る。
彼らは家に帰り、
おそらく15年くらい経ってから言うだろう、
「15年前に公園で聴いたあの音楽は素晴らしかった」と。*
サン・ラー (1991)

 これは特別なアルバムだ。理由はふたつある。まず、アーケストラがサン・ラーの死後、20年以上の年月を経て発表する新録のアルバムであるということ。もうひとつは、それを “いま” 発表することの意味。で、しかし、ほかにもうひとつある。『Swirling』は半世紀以上も演奏を続けてきたアーケストラが一回しかできないことをここでやっているという意味においても特別なのだ。

 アーケストラは、自らをサン・ラーと名乗った音楽家であり、思想家でも詩人でもあった人物のバンドの名称である。名前はエジプトの神ラーの箱船(Ra's ark)から取られている。サン・ラーいわく「Arkestraには、最初と最後に “ra” がある。Ra は Ar または Ra と書かれ、“Arkestra” の両端は同じ母音、最初と最後が等しい……音声的に均衡がとれている」(1988)*
 それは1950年代のシカゴ──サウスサイドだけでもジャズ・クラブが75もあった街──で誕生した。

私の音楽のなかではたくさんの小さなメロディーが流れている。まるで音の海のように、海は現れ、戻っていき、うねる。*

 アーケストラはただのバンドではなかった。多くの場合ジャズ・バンドのメンバーは演奏(仕事)においての顔合わせであって、日常での友人関係は持たなかった。が、サン・ラーにとってミュージシャンたちは友であり、バンドはコミュニティだった。アーケストラはサン・ラーという父親が統合するいわば家族であり、学校だった。そこには規律(disciple)があり、ジャズの世界では異例と言えるほどの道徳が要請された。故ジョン・ギルモア(tr)も「サン・ラーとは生徒と教師の関係だ」と言っているが、まあ、大学時代は教職を考えていたサン・ラーは人に教えるのが好きだったろうし、思想を共有することはアーケストラによって最大の任務でもあった。

 ちなみに、アーケストラにおいては、物事には集団で向かうものだった。たとえば演奏中に誰かが間違えたとき、ほかのみんなも間違えれば、それは間違いではなくなる、解決とはこうして共同でおこなうもの、団結して成し遂げるものだった。ホワイト・パンサー党の党首であり MC5 のマネージャーだったジョン・シンクレアが「60年代を生き続けている存在」と呼んだのも、もちろん大いなる否定者であるサン・ラーの態度ゆえなのだろうが、コミュニティ(共同体)へのこだわりにもその一因があるのだろう。
 しかしながら、1914年生まれのサン・ラーは1960年代にはすでに50過ぎである。だから、多くの人が知るところの名曲 “Space Is The Place” の頃はほぼ60。ディスコのリズムを取り入れた “Disco 3000” のときは60代半ば、スリーマイル初頭の原発事故に触発された「Nuclear War」をポストパンク時代に出したときはほぼ70歳だ。

 本作『Swirling』を仕切っているマーシャル・アレンは今年で96歳。アーケストラのオーボエ/アルトサックス奏者、バンドの諸作で聴けるエキゾチックなメロディはたいていアレンのオーボエだったりする。彼はシカゴ時代の1958年にメンバー入りし、以来、ずっとアーケストラとして活動しているが、コミュニティの存命においてもアレンは欠かせない人物だった。
 60年代初頭、アーケストラはシカゴからNYへと移動したが(そこでアミリ・バラカのブラック・アート・ムーヴメントにも合流した)、家賃の高騰とリハーサルにおける騒音問題によって、1968年にはNYを出ていかざるをえない状況になっていた。引っ越しはしかも、決して容易なことではなかった。なにせ、複数の中核メンバーを受け入れ、なおかつ大人数での日々のリハーサル場所を確保しなければならない。
 そんな彼らに救いの手を差し伸べたのが、フィラデルフィアのモートン・ストリートに不動産を持っていたマーシャル・アレンの父親だった。かくしてサン・ラーご一行は長屋のようなところにおさまり、結局、そこがアーケストラにとっての最終的な拠点となった。もちろん本作『Swirling』も同地でリハーサルがなされている。

 アーケストラにとってのリハーサルは、演奏技術を磨くということだけが目的ではなかった。そこはサン・ラーが “宇宙哲学” を語る、いわば講義の場でもあった。ときにそれは何時間にもわたることがあったというが、アーケストラにとって重要なのは、世界を変えるために音楽を利用することだった。「明日のイメージを描くために、すべてをジャズに見せかけた」とジョン・F・スウェッドは評伝『Space Is The Place』のなかで表現しているが、実際1958年に彼らの自主レーベル〈サターン〉からは2枚目としてリリースされた『Jazz In Silhouette』のスリーヴにはこう記されている。「これはジャズに見せかけたシルエット、イメージ、そして明日の予想である」
 リハーサル時におけるサン・ラーの話は、あまりにも多岐に及んだという。歴史学、言語学、占星術、天文学、人智学、数秘学、それから冗談とジャズ話……。彼は弁舌家としても有名なのだ。

 また、サン・ラーはメンバーひとりひとりのために譜面を書いたが、往々にして、譜面には通常の音域外の音が指示されていたという。先日、アーケストラをカヴァーストーリーとして掲載した『Wire』誌10月号では、扉の写真にマーシャル・アレンがぶあつく重ねられた譜面を見ている場面を使っているが、それらぼろぼろの年季の入った紙切れたちこそサン・ラーが書いた譜面である。彼がメンバーそれぞれのパートのために書いた譜面はじつに細部にまでしっかり記述されていたが、しかし演奏がはじまると決して譜面通りにはいかないのがアーケストラだった。かつてサン・ラーはメンバーにこう指導したことがある。「君が “知らない” ことのすべてを演奏せよ(Play all the things you don't know!)」*
 たとえばマーシャル・アレンの場合は、アーケストラに入ったことによって、サックスを使っての吠え、叫び、鳥の歌などを会得したのである。

 そう、本作を読み解くヒントは、サン・ラーの人生とその人物像にある。なのでもう少しおさらいしておこう。そもそも彼は第一次世界大戦がはじまる年に生まれている。日本はまだ大正時代である。
 1920年代の(やがてサン・ラーを名乗ることになる)ハーマン・ブラントは成績優秀な優等生だった。1930年代のハーマンは、それに輪をかけての読書家だった。大恐慌時代に黒人が読書家であることはじつに異例のことで、人種隔離された図書館で黒人が本を借りるには、裏口から黒人職員を呼んで本を取ってきてもらうしかなかったという。
 ハーマン~サン・ラーの読書には、確固たる目的があった。それは西欧文明と聖書の欠点を探るためであり、自分とはいったいどこから来たのかを知るためだった。
 そのため彼は古代文明に着目した。ギリシャ哲学やピタゴラス教団、神秘主義に惹かれた彼はグノーシス派にも向かった。ブラヴァツキー(シュタイナーに影響を与えた人)の人知学に傾倒したこともある。また、エジプトの秘密を知るべく、英語以外の言語で書かれた書物も辞書を引きながら読んだというから、ちょっとした素人学者だ。シカゴ時代は、彼の家に来た誰もが壁を隠すほどその床に積み重ねられた本の量を見て驚くほどだったが、彼が古代アフリカにおける文明を知るに至ったことは、サン・ラーの哲学と音楽にとって大きな収穫となった。
 サン・ラーは自分の信念を曲げない人でもあった。1940年代の第二次大戦中は、身体の障害を理由に兵役拒否を続けた。また、収監されてもなお反論することができるほどの知性を彼はすでに持ち得てもいた。軍の幹部が、よく教育された黒人知識人だと感心したというほどに。
 戦後、貧困な黒人たちのあいだで支持者を拡大していたネーション・オブ・イスラムには、関心は示したものの決して賛同はしなかった。あれだけ “黒さ” にこだわり、白い文化に頼らず自律することを目標としながら、しかしサン・ラーにとって白人だけが悪魔ではなかったし、分離主義を望んでもいなかった。彼はつねに、(特定の人種ではなく)人類に対する否定的な意見を述べていたのだから。それにまあ、ありていに言って彼はマッチョな人間ではなかった。サン・ラーはこうも言っている。「私はリーダーでも、哲学者でも、宗教人でもない。ただ、人間を変えることのできる何かを示したいだけだ」*

私の音楽はいつもうねっている。それは人びとの頭の上に行き、一部の人びとを洗い流し、再活性化し、彼らを通り抜け、宇宙へと戻っていき、再び彼らの元にやって来る。*

 たしかに『Swirling (渦巻く)』はうねっている。まずは女性メンバーのタラ・ミドルトン(vln)が、1970年代初頭から歌い継がれ、かつては故ジューン・タイソン(アーケストラ全盛期の女性メンバー)も歌ったサン・ラーの詩をいままた歌う。

衛星たちは回転している
よき日々が壊れている
銀河たちは待っている
惑星地球が目覚めるのを
私たちはこの歌を勇敢な明日のために歌う
私たちはこの歌を悲しみを廃止するために歌う
 “Satellites Are Spinning” (1971 / 2020)

 小さな渦が集合するコズミック・ジャズの “Lights On A Satellite” が続く。そこから “Seductive Fantasy” までの展開は、晩年にサン・ラーが喩えたように、アーケストラのメンバーひとりひとりが宇宙ニュースを記事にしている「宇宙新聞(Cosmic News Paper)」である。
 “Seductive Fantasy” は1979年の『On Jupiter』に収録されているが、同曲が新鮮なアレンジによって演奏されているように、ほかにも “Angels And Demons At Play” や “Rocket Number Nine” といったお馴染みの曲がみごとに甦っている。批評家のグレッグ・テイトは、「アーケストラの面々は、6つのディケイドに渡って展開されたサン・ラーのコンセプトがいまも魅力的であることを充分わかっている」と評しているが、たしかに彼ら・彼女らはサン・ラーの遺産に新たな生命を吹き込んでいるのだ。
 演奏はおおらかで、総じて祝福めいている。実験性には遊び心があり、アレンの電子音にはユーモアがある。サン・ラーの代わりに鍵盤を操っているファリド・バロンの演奏はまったく生き生きとしているし。つーか、この長老たちときたら……

 マーシャル・アレン作曲による表題曲 “Swirling” はスウィング・ジャズだが、これはアヴァンギャルド全盛の60年代~70年代に敢えてスウィングをやったサン・ラーに捧げているのかもしれない。笑ってしまうというか、なるほどというか、ある意味「らしい」と思えるのは、ロックンロール/リズム&ブルースまで披露しているところだ。
 サン・ラーといえば、いまや「アフロ・フューチャリズム」の古典となっているが、20世紀の初頭に生まれ、黒人文化人として世界大戦も経験しながら活動してきた彼を「アフロ・モダニズムの人」と評する向きもある。彼はたしかに、バンドのメンバーから猛反発をくらってもディスコを取り入れるほどの柔軟性のある人だったし、50年代にいくら批評家たちからぞんざいな扱いを受けようとも実験(電子音、短いソロや反復)もメッセージ(あるいは詩)も宇宙服(白人文化の象徴であるスーツの拒絶)も止めなかったが、サン・ラーがもっとも好きだったのはトラディショナルなビッグバンド・ジャズだったと言われている。ことにブルースであれば、同じフレーズを繰り返さずに延々と弾いていられたそうだ。スピリチュアルな人だったのだろうが、世俗的な音楽もずいぶんと愛していた。サン・ラーのそんな側面も今回の新録盤にはよく出ている。
 だが、そうした嗜好性とは別のところで、彼は「音楽は人間世界以前に存在し、人間がいなくても存在し続けることができた」と真剣に考えてもいた。そして、音楽が人間世界以前に存在するのであれば、音楽とは宇宙のものだ。その宇宙の音をこそ、彼とアーケストラはひたすら探求し続けていたのだ。つまり、トラディショナルなジャズと未来志向とのブレンド。

 1993年1月に卒中で倒れ、それでもライヴ・ツアーを続行したサン・ラーも、いよいよ自らの最期を覚悟したとき、アーケストラの面々にこう言ったという。「この世界は甘やかされた子どもたちによって作られている。狂った熊たちの世界だ。自分の思うところを外に向かって伝えよ。私はもうおまえたちにできる限りの情報を与えた。あとはおまえたち次第だ」*
 その成果がこのアルバム、門下生たちが力を振り絞って録音した『Swirling』というわけだ。サン・ラーが生まれてこのかた100年以上も経った21世紀のいま、こんな作品が聴けるなんて幸せこのうえないことで、アーケストラはこの音楽が超越的であることを身をもって証明しているわけだが、悠長なことを言ってもいられない。コロナ、BLM、そして分断された社会と……、ジ・アーケストラがサン・ラーの哲学をふたたび外に向けて伝えるなら、いましかないのだろう。世界を変えるために音楽をやるなんてことがとてもじゃないけど言えなくなったいま、怒りと、しかし喜びに満ちた宇宙の音楽をやるのは15年後では遅い、いまなのだ。

自分が間違っているとわかっているということをわかっている、
ということを知ったら、君はどうするのかい?
音楽と向き合って
宇宙の歌を聴かなければならない
The Sun Ra Arkestra “Face The Music” (1991)

したがって私は話したのだった
そして今後は星々に書かれる
 『Swirling』のブックレットより

* 引用は、ジョン・F・スウェッド著『サン・ラー伝(原題:Space Is The Place)』(湯浅恵子訳)より

TSUBAKI FM - ele-king

 インディペンデントで良質な音楽を届けるインターネット・ラジオ、TSUBAKI FM が名古屋と京都をまわるミニ・ツアーを開催する。名古屋は11/21に、今年オープンしたばかりの club GOODWEATHER にて。11/22の京都はおなじみの CLUB METRO で、ストリーミングもあり。東京から Midori Aoyama、Souta Raw が参加。お店の感染対策に従って楽しもう。詳細は下記より。

時代を反映する新旧ベニューで彩る秋のミニツアーを開催

東京発、インディペンデントミュージックを発信する音楽プラットフォーム「Tsubaki fm」。今夏から新たにマンスリープログラムを開始した名古屋、京都の2都市をまたぎ秋のミニツアーを開催。初日の名古屋公演は新栄に誕生した新しいヴェニュー club GOODWEATHER にて、ローカルに根差した独自の活動を展開してきた名古屋レジデンツと共に。そして京都は今年30周年を迎える古豪ヴェニュー CLUB METRO にてストリーミング配信も含む複合イベントを開催。東京からは Midori Aoyama、Souta Raw の2人も駆けつけ充実のラインナップで至極のミュージックジャーニーをお届けする。

TSUBAKI FM
https://tsubakifm.com/


▶︎NAGOYA
2020/11/21/SAT
club GOODWEATHER
Open: 22:00 / Entrance: ¥2,000
愛知県名古屋市中区新栄1丁目14−24 第3和光ビル2F
https://www.goodweather.org/

MIDORI AOYAMA
SOUTA RAW
AGO
MUSICMAN
SAMMY the RIOT
S.O.N.E.



▶︎KYOTO
2020/11/22/SUN
CLUB METRO
Open:21:00 / Entrance: ¥2,000 inc.1 Drink
京都市左京区川端丸太町下ル下堤町82 恵美須ビルB1F
https://www.metro.ne.jp/

MIDORI AOYAMA
SOUTA RAW
MASAKI TAMURA
YOSHITO KIMURA
SOTA × KUWABARA
soO

FOOD: 明ヶ粋ヶ

TALK LIVE :
TSUBAKI FM × soO × OFF LINE

Park Hye Jin - ele-king

 2018年に「If U Want It」をリリースし、今年〈Ninja Tune〉からの12インチ「How Can I」が話題となったソウルのプロデューサー/シンガーのパク・ヘジン(박혜진)、この9月には〈Domino〉からブラッド・オレンジとの共作 “CALL ME (Freestyle)”も発表している彼女の緊急来日公演が決定した。12月18日@渋谷CONTACT、12月19日(土)@大阪BLACK CHAMBER。今後どんどん成長を遂げていくだろう彼女の現在を、この耳で確認しておくチャンス。しっかり感染対策しつつ、ぜひ会場へ。


世界が注目する新鋭パク・へジンの緊急来日が決定!
前売(限定枚数)の先行発売を開始!

박혜진 Park Hye Jin
and more

TOKYO | 2020/12/18 (FRI) CONTACT
OSAKA | 2020/12/19 (SAT) BLACK CHAMBER

今まさに飛ぶ鳥を落とす勢いのパク・ヘジンの緊急来日が決定!
2018年のデビュー以降、ベルリンのベルグハイン/パノラマ・バー、イビザのDC-10でのプレイ、そしてプリマベーラ・サウンドへの出演や〈88rising〉主催のフェスティバル『HEAD IN THE CLOUDS FESTIVAL』、さらにジェイミー・エックス・エックスとのロンドンでの共演など、瞬く間に活躍の場を世界へ広げていったDJ、ラッパー、シンガーソングライターとして活躍するパク・へジン。その後〈NINJA TUNE〉と契約し、今年6月にリリースした最新EP「How can I」は発売されるや否や世界中で完売店が続出。最近では、ブラッド・オレンジとのコラボ曲が発表されるなど、その勢いは止まることをしらない。主要音楽メディアやファッションメディアから称賛され、大きな注目と期待を集めている。これは見逃せない!

今回の緊急来日に合わせて、海外で制作され SOLD OUT となっていた「How can I」EPのジャケ写Tシャツを数量限定の再生産が決定! 本日より BEATINK オフィシャルサイトにて、受注受付スタート。商品は12月上旬より順次発送される予定。

How can I T-shirt のご予約はこちら
https://www.beatink.com/products/detail.php?product_id=11565

박혜진 Park Hye Jin - Can you (Official Video)
https://youtu.be/WUiapHwpEdc

Blood Orange & 박혜진 Park Hye Jin - CALL ME (Freestyle) (Official Video)
https://youtu.be/wPr8zRCQV10

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【東京】
公演日:2020年12月18日(金)
会場:CONTACT TOKYO (https://www.contacttokyo.com)
OPEN / START 22:00
前売:¥3,300 (税込) | 当日:¥4,000
※ 20歳未満入場不可。入場時にIDチェック有り。写真付き身分証をご持参ください。
※ You must be over 20 with photo ID.
INFO: BEATINK 03-5768-1277 [www.beatink.com] / CONTACT 03-6427-8107 [https://www.contacttokyo.com]

【大阪】
公演日:2020年12月19日(土)
会場:BLACK CHAMBER (クリエイティブセンター大阪 https://www.namura.cc/)
OPEN / START 15:00
前売:¥3,000 (税込) | 当日:¥3,500
※ 別途1ドリンク代金¥600必要
INFO:CIRCUS OSAKA https://circus-osaka.com

チケット発売:
先行発売:11/11(水)正午12:00〜
◆BEATINK (https://beatink.zaiko.io/e/ParkHyeJinJP2020)

一般発売:11月14日(土)〜
◆イープラス (https://eplus.jp/)
◆BEATINK (https://beatink.zaiko.io/e/ParkHyeJinJP2020)

企画制作:BEATINK

Laura Cannell - ele-king

 相変わらず美しく、そして深みのある音楽だこと。心が嬉しくなるとはこういう音楽のことだろう。
 ローラ・キャネルはイギリスのヴァイオリン奏者であり、インプロヴァイザーである。オリヴァー・コーツの新作のように、キャネルの作品もまずはその音(トーン)によって決定する。それは忘れがたいトーンで、あまりに独自なトーンと響きゆえに、一瞬にしてその場の空気を変えてしまう。あるいはまた、静かで情熱的で、ぎょっとするような強度のある倍音を有している。それはまるで、彼女が自然界と話しているかのような、ある種の言語に思える。
 曲のなかには、ヨーロッパ各処の中世の音楽、スティーヴ・ライヒ風のミニマリズム、レデリウス的な室内楽が混ざっている。とくに近代以前の古いもの──国家がとくに誇りとしていないような、中世の旋律や民謡など──を掘り起こすことは、キャネルのおそらく全作品に通底するコンセプトだ(松山晋也氏なら、この曲は地中海のあのエリアで、この曲は東欧のどこそこで、などと言い当てられるかもしれない)。
 そして場所。
 2014年の実質的なソロ・デビュー作『Quick Sparrows Over The Black Earth』によって注目された彼女は、場所を選んで演奏し、録音している。どこでもいいわけではない。2016年の『Simultaneous Flight Movement』は海沿いの灯台で、2017年の『Hunter Huntress Hawker』と前作『The Sky Untuned』は小さな村の古く荒廃した教会で、今作『The Earth With Her Crowns(彼女の冠をした地球)』は水力発電所で演奏し、録音した。場所もキャネルの作品においては、いわばメタレベルでの楽器である。
 
 クワイエタスはキャネルの音楽を“エイシェント・フューチャリズム(古代・未来主義)”と呼んでいる。以前書いたことの繰り返しになってしまうが、最近は、アイルランド出身のアーニェ・オドワイアー(Áine O'Dwyer)、あるいはアースイーターなんか、エイシェント・フューチャリズム的なアプローチをする人が目につくようになった。自然現象と過去への畏敬の念、そこに未来(それは手法的な未来でもあり、必ずしも楽天的ではない未来である)が絡み合う、強い主張のこもったヴィジョンが空の彼方まで広がる。ちなみに、エイシェント・フューチャリズムの始祖をひとり挙げるとしたら、ぼくはサン・ラーだと思う。

 『The Earth With Her Crowns』はリリースされてからすでに数か月が経っているのだが、初夏、真夏、そして秋から冬へと、ぼくは前作同様このアルバムを部屋のなかでなんども聴いている。彼女の高度な演奏技術ゆえに、曲はオーヴァーダブしたかのように聴けてしまうけれど、すべては彼女ひとりによる即興で、驚くべきは、すべては一台のヴァイオリン(そしてリコーダー)によって演奏されている。
 ローラ・キャネルの演奏は、そしてきわめて詩的で、記憶を反響させ、閉ざされた思いを解放するかのようだ。そう、だからためしに空を眺めながら聴いて欲しいですね。胸の奥から得も知れない感覚がこみ上げてくるだろう。

Jam City - ele-king

 ジャム・シティことジャック・ラザムが帰ってきた。2015年の『Dream A Garden』から5年、ついに新たなアルバムが送り出される。タイトルは『Pillowland』、発売は来週11月13日で、今回は〈Night Slugs〉ではなく自身のレーベル〈Earthly〉からのリリースとなっている。
 プレスリリースによれば、疑念と痛みと混乱と変化に満ちた自らの生活に向きあった結果、アンフェタミン漬けで甘~いポップの夢景色のなかに逃避した内容になっているらしい。ふむ。楽しみに来週を待とう。

Jam City
Pillowland

Earthly

01. Pillowland (2:28)
02. Sweetjoy (2:50)
03. Cartwheel (3:38)
04. Actor (2:01)
05. They Eat The Young (2:30)
06. Baby Desert Nobody (1:32)
07. Climb Back Down (3:26)
08. Cruel Joke (4:50)
09. I Don't Wanna Dream About It Anymore (5:05)
10. Cherry (4:05)

Written & Produced by Jam City
Mixed by Liam Howe and Jam City
Mastered by Precise
All artwork by Jakob Haglof
All photography by Sylwia Wozniak

https://pillowland.org/

Virtual Dreams - ele-king

 よう、俺と同世代人たち、ついにこんなコンピレーションが出る時代になっちまった。アムステルダムのレーベル〈Music From Memory〉から、90年代アンビエントのコンピレーション、題して『仮想の夢:ハウス・テクノ時代のアンビエント探求1993-1997』。原題は『Virtual Dreams: Ambient Explorations In The House & Techno Age, 1993-1997」。 LFOやBedouin Ascent、MLO、La Synthesis、Sun Electricやんなか全17曲が収録されるらしい。詳しいリストはココ

 俺より若い世代へ。これがベストな選曲かどうかは議論の余地はあるかもしれないけれど、聴いてみる価値はあると思う。そこで、君がさらに完璧な現実逃避を望むなら、年末号の紙エレキングをチェックして欲しい。まさに90年代の「エレクトリック・リスニング・ミュージック」を大特集しているから。自分で言うのもなんだけど、タイムリーな特集だし。君のコレクションに一助になると思う。ヨロシクね。

Various Artists
Virtual Dreams: Ambient Explorations In The House & Techno Age 1993-1997
Music From Memory
2020年 12月11日発売

BES & I-DeA - ele-king

 日本のブーンバップ・ヒップホップを代表するラッパー BES による人気ミックス・シリーズ最新作は、おなじく SCARS勢の I-DeA とがっつりタッグを組んだ注目の1枚。キモを押さえた選曲に加え、エクスクルーシヴな新曲も4曲収録されている。現在そのなかから D.D.S & MULBE を迎えた “SWS”(プロデュースは DJ SCRATCH NICE)が先行配信中なので、チェックしておこう。

SWANKY SWIPE / SCARS のメンバーとして知られるシーン最高峰のラッパー、BES による人気ミックス・シリーズ『BES ILL LOUNGE』の最新版は盟友 I-DeA とのジョイント! 新録音源として B.D.、BIM、MEGA-G らとの各コラボ曲を収録し、D.D.S と MULBE が参加した “SWS” が本日より先行配信開始!

◆ SWANKY SWIPE / SCARS としての活動でも知られ、SCARS『THE ALBUM』(06年)、SWANKY SWIPE『Bunks Marmalade』(06年)、ファースト・ソロ・アルバム『REBUILD』(08年)といった日本語ラップ・クラシックな作品を次々とリリース。2007年には ULTIMATE MC BATTLE - GRAND CHAMPIONSHIP に出場して準優勝を果たし、その実力をシーン内外に強くアピールして人気/評価を不動のものに。少しのブランクを経て2012年には自身のかかわった楽曲に新曲/フリースタイルを加えたミックス・シリーズ『BES ILL LOUNGE: THE MIX』をリリースして完全復活を果たし、以降は自己名義の作品のリリースのみならず ISSUGI とのコラボレーションでも『VIRIDIAN SHOOT』、『Purple Ability』と2枚のアルバムをリリース。さらに近年では SCARS としても再始動するなど、活発な活動を続けているシーン最高峰のラッパー、BES(ベス)。

◆ 故D.L(DEV LARGE)のもとで D.L や〈EL DORADO RECORDS〉作品などの制作を手掛け、SEEDA や BES を始めとする SCARS勢、NORIKIYO や BRON-K ら SD JUNKSTA 周辺、さらには MSC や JUSWANNA など00年代中期以降の日本語ラップ・シーンにおける重要アーティスト/作品にことごとく関与しており、そのプロデュース/ディレクションの凄まじさは「I-DeA塾」とも称されるほど多くのアーティスト/関係者から畏敬の念を抱かれ、一方、SCARS のメンバーとして、またソロとしても自己名義で作品をリリースするなど多岐に渡ってディープ・エリアで活動してきたシーンを代表するプロデューサー/エンジニア、I-DeA(アイデア)。

◆ これまでにも前述の SCARS『THE ALBUM』や BES『REBUILD』など随所でリンクしてきた BES と I-DeA が再びガッチリと手を組むのは、BES のミックス・シリーズの最新となる第3弾『BES ILL LOUNGE Part 3』! BES がこれまでに関わってきた膨大な楽曲の中から I-DeA らしい切り口でチョイスされており、BES~SWANKY SWIPE 楽曲だけでなく JUSWANNA~メシア THE FLY、MEGA-G の楽曲、さらには TEK of SMIF-N-WESSUN とのコラボ曲など渋いラインもセレクション!

◆ そして! 本シリーズのキモとも言えるエクスクルーシヴな新録音源では、サシで楽曲を制作するのは初となる B.D. や同じく初顔合わせな BIM、D.D.S & MULBE、MEGA-G との各コラボ曲を収録! プロデュースは DJ SCRATCH NICE が2曲、そしてK.E.M、BES & I-DeA が担当。さらには SCARS の名曲 “MY BLOCK” の BES によるリミックスも収録!

◆ 11/18(水)のリリースを前に、新録音源の中から D.D.S & MULBE をフィーチャーした DJ SCRATCH NICEのプロデュースによる “SWS” の先行配信が本日より開始!


アーティスト: BES
タイトル: BES ILL LOUNGE Part 3 - Mixed by I-DeA
レーベル: P-VINE, Inc.
仕様: CD/デジタル
発売日: 2020年11月18日(水)
CD品番: PCD-24994
CD税抜販売価格: 2,400円

[トラックリスト]
01. BES / BES ILL LOUNGE Pt'3 Intro
02. BES / SWS feat. D.D.S & MULBE *新曲
 Prod by DJ SCRATCH NICE
03. GRADIS NICE & DJ SCRATCH NICE / DAYS feat. BES & ISSUGI
04. MEGA-G / HOW HOW HIGH PART.2 feat. BES (REMIX)
05. HIMUKI / G.E.N.S.E feat. BES
06. BES / 美学、こだわり feat. MEGA-G *新曲
 Prod by BES & I-DeA
07. BES / MY BLOCK REMIX *EXCLUSIVE
08. SWANKY SWIPE / Feel My Mind feat. メシア The Fly & 漢
09. SWANKY SWIPE / Breathe In Breathe Out
10. BES / 勘ぐりと瞑想と困惑
11. SWANKY SWIPE / 東京時刻
12. dubby bunny / Narcos feat. A-THUG & BES
13. BES & ISSUGI / BOOM BAP
14. BES / Make so happy feat. BIM *新曲
 Prod by K.E.M
15. ONE-LAW / I DON'T CARE feat. BES
16. メシア THE FLY / No More Comics feat. BES (MASS-HOLE REMIX)
17. BES & ISSUGI / HIGHEST feat. MR.PUG, 仙人掌
18. owls (GREEN ASSASSIN DOLLAR & rkemishi) / Lonely feat. BES & MEGA-G
19. DJ FUMIRATCH / 刻一刻 feat. BES & 紅桜
20. 鬼 / 僕も中毒者 feat. BES
21. TEK of SMIF-N-WESSUN / Cold World feat. BES (SO COLD REMIX)
22. BES / 表裏一体 feat. B.D. *新曲
 Prod by DJ SCRATCH NICE
23. JUSWANNA / Entrance feat. BES & 仙人掌
24. SHIZOO / たしかに feat. BES
 Mixed by I-DeA for Flashsounds

[BES / PROFILE]
SWANKY SWIPE / SCARS としての活動でも知られるラッパー。SCARS『THE ALBUM』(06年)、SWANKY SWIPE『Bunks Marmalade』(06年)、ファースト・ソロ・アルバム『REBUILD』(08年)といったクラシック作品をリリースして人気/評価を不動のものとし、近年はソロだけでなく ISSUGI とのジョイントでの BES & ISSUGI として、また復活した SCARS として活発に活動している。

[I-DeA / PROFILE]
故D.L(DEV LARGE)のもとで D.L や〈EL DORADO RECORDS〉作品などの制作を手掛け、SEEDA や BES を始めとする SCARS勢、NORIKIYO や BRON-K ら SDJUNKSTA 周辺、さらには MSC や JUSWANNA など00年代中期以降の日本語ラップ・シーンにおける重要アーティスト/作品にことごとく関与しており、そのプロデュース/ディレクションの凄まじさは「I-DeA塾」とも称されるほど多くのアーティスト/関係者から畏敬の念を抱かれている。一方、SCARS のメンバーとして、またソロとしても自己名義で作品をリリースするなど多岐に渡ってディープ・エリアで活動してきたシーンを代表するプロデューサー/エンジニア。

Sun Ra - ele-king

 つい先日サン・ラー・アーケストラが21年ぶりの(すばらしい)スタジオ・アルバムをリリースしたばかりだけれど(近々レヴューをぶち上げます)、ここへきてさらなる朗報だ。1993年に土星へと還ったサン・ラー本人が脚本・音楽・主演を務めた映画『Space Is The Place』(1974年)が、日本で初めて公開される。しかも、64分に編集されていたVHSとは異なり、オリジナルの81分のフル・ヴァージョンだ。邦題は『サン・ラーのスペース・イズ・ザ・プレイス』。2021年1月29日より、アップリンク吉祥寺・新宿シネマカリテほかにて公開。これは絶対に観逃せない。アフロフューチャリズムの原点を、その目で体感すべし。

世界が終わっているとまだ気づいていないあなたへ。

地球よ、さらば。

1969年頃に地球から姿を消していた大宇宙議会・銀河間領域の大使サン・ラーは音楽を燃料に大宇宙を航行するなか、遂に地球と異なる理想の惑星を発見した。さっそく地球に戻り〈宇宙雇用機関〉を開設、ジャズのソウル・パワーによる同位体瞬間移動で米国にいる黒人のブラザーたちの移送計画を立てるが、その技術を盗もうとアメリカ航空宇宙局(NASA)の魔の手が迫る……。

太陽神の姿で出現した土星からの使者、超現実的宇宙音楽王サン・ラーが、地球人に鳴らす警鐘。

1960年代後半から70年代初頭にかけて、カリフォルニア大学バークレー校で「宇宙の黒人」という講義を行っていた土星人サン・ラーの存在が、サンフランシスコでアヴァンギャルド・アートを展開していた〈DILEXI〉のプロデューサー、ジム・ニューマンの目に留まり実現した、革新的・暗黒SF映画。サン・ラーの音楽を地球を超えた新しい未来へ人々を導く原動力とし、宇宙探査とその音楽を通して黒人文化の救済を描く。発表したフリー・ジャズの音源があまりにも膨大なため誰も全貌を把握できない土星から降臨した太陽神、超現実的宇宙音楽の創造者サン・ラーが脚本、音楽、主演をつとめたため、本作はどこにも存在しないまったく新しい映画となった。約半世紀を経た今でも類似作品は存在しない。ミュージカル、SFオペラ、社会評論の要素を組み合わせた本作を、一部にはクエンティン・タランティーノ等に影響を与えたブラックスプロイテーション映画群の重要作と呼ぶ人もいる。だが本作はジャンルの慣習に準拠しない。サン・ラーの鋭い精神状態を視覚的に表したもので、〈音楽〉は当時の政治的希望、つまり人種的抑圧からの解放を反映した銀河間の兵器として使われる。これは映画的で哲学的な創造の根源であり、いつの時代においても重要な意味を放ち続ける、時空を超えた傑作である。その奇妙でビザールな内容でありながら唯一無二の黒光りする存在感は同時代に出現した『未来惑星ザルドス』(74)と無理やり比較してもいいかもしれない。また海外ではロジェ・バディム監督『バーバレラ』(68)やニコラス・ローグ監督『パフォーマンス』(70)を例に本作を語る者もいる。

この度上映されるのは地球上に残されていた唯一の35mmプリントからスキャン、史上初めてオリジナルの画面サイズであるスタンダードサイズ(1:1.33)で作られたデジタル素材である。オリジナルのフィルムの状態を最大限再現するため、一切レストアはされていない。海外では過去に約64分の〈サン・ラー編集版〉と呼ばれるバージョンがVHSで出回っていたが、本上映はオリジナルの81分のバージョンである。

地球は音楽なしでは動けない。
地球は一定のリズム、サウンド、旋律で動く。
音楽が止まれば、地球も止まり、
地球上にあるものはすべて死ぬ。
──サン・ラー

『サン・ラーのスペース・イズ・ザ・プレイス』
監督:ジョン・コニー
脚本:ジョシュア・スミス、サン・ラー
製作:ジム・ニューマン
撮影:セス・ヒル、パット・ライリー
音楽:サン・ラー
音:ロバート・グレイヴノア、デヴィッド・マクミラン、アーサー・ロチェスター、ケン・ヘラー
編集:バーバラ・ポクラス、フランク・ナメイ
出演:サン・ラー、レイ・ジョンソン、クリストファー・ブルックス、バーバラ・デロニー、エリカ・レダー、ジョン・ベイリー、クラレンス・ブリュワー
1974年│アメリカ映画│81分│スタンダードサイズ│モノラル│北アメリカ恒星系プロダクション作品│原題:SPACE IS
THE PLACE(宇宙こそ我が故郷)
キングレコード提供
ビーズインターナショナル配給
© A North American Star System Production / Rapid Eye Movies

2021年1月29日(金)より、アップリンク吉祥寺・新宿シネマカリテほか順次公開

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