「KING」と一致するもの

BUSHMIND - ele-king

 いきなりだが、BUSHMINDがニューエイジ/アンビエントのミックスCD『New β Sound』をリリースする。まあ、たしかにサイケデリックはつねに彼のコンセプトではあったので、自然の流れかなと思うが、それにしても彼のウェイトレス感はハンパないです。
 「作った動機はいろいろ重なった結果で……最初は2年前ぐらいに吉村弘の“Tokyo Bay Area”って曲を聴いたとこからすかね」とBUSHMINDはこのミックスCDの背景を明かしてくれた。「その曲で新しい感覚を開かされたのと、日本の過去の音楽自体ほとんど知らなかったんで、掘るのがメチャクチャ楽しくなっちゃって。そっから1年以上毎日新しい音楽探してて、これはミックスに落とし込まないとって思った感じです。ただ現状、世界的にニューエイジ、アンビエントが流行ってるから、自分の色をどうやって出そうかって考えたときに、自分の友だち、知り合いの音源を使うってのがアツいんじゃないかって思って、作りはじめました」
 つまり、選曲もふくめてまったくのBUSHMIND解釈のアンビエント。かの『環境音楽』とは確実に一線を画しています。レーベルは〈セミニシュケイ〉。値段は千円です。いろんな旅が待っているよん。

■ Artist : BUSHMIND
■ Title : New β Sound
■ Format : CD
■ Price : 1,000円(税抜)
■ Label : Seminishukei (JPN)
■ 品番:SMNSK-1939
■ 発売日 : 2019年12月5日

ブラック校則 - ele-king

 赤塚不二夫がもしも酒に溺れず、武居俊樹に代わる若くて優秀なブレーンとタッグを組み続けることができた場合、いったいどの時期までのギャグマンガと張り合えただろうと考え、高橋留美子から中村光へと受け継がれたコミュニティ路線や赤塚がハナから興味を示していない自意識系を除外すると、かなりな拡大解釈をして久米田庸治『さよなら絶望先生』(05-12)や大武政夫『ヒナまつり』(10-)までは行けたのではないかと根拠もなく思うのであった(詳細は会って議論でもしよう)。だけど、『セトウツミ』(13-17)の此元和津也だけはどうやっても赤塚とは距離があり、此元本人が仮りに赤塚の担当編集者になるようなことがあったとしても、これをひとつの作品にまとめることはやはりできないのではないかという溝を感じてしまう。理由はいずれ考えるとして、その、此元和津也が脚本家としてデビューすると知り、10月からのTVドラマ『ブラック校則』は実に楽しみだったし、実際、これまでのところ期待を裏切られた回はない(あとは最終回を残すのみ。正直、10月期のTVドラマではベストでしょう。2位は向田邦子を思わせる『俺の話は長い』、3位は『少年寅次郎』か『おいしい給食』)。主役はセクシー・ゾーンの佐藤勝利演じる小野田創楽とキング&プリンスの高橋海人演じる月岡中弥で、彼らは学校の校則に疑問があるという縛りを手玉にとって、自分たちが置かれている日常を笑いに変え、なんとも鮮やかに高校生活をグレード・アップさせていく(流しソーメンの回、最高!)。これにモトーラ世理奈演じる町田希央がスクラップ工場で働く外国人労働者とラップやグラフィティを介して課外時間を充実させ、労働問題などを巧みにストーリーに織り込んでいく手腕は見事としか言いようがない。モトーラ世理奈はイタリア系アメリカ人を父に持つハーフのファッション・モデルで、最近は女優業にもめざましく、この7月に茂木欣一と柏原譲の演奏を得てフィッシュマンズ「いかれたBaby」のカヴァーで歌手デビューも果たしている。強い内容のセリフをたどたどしく話す様子にはつい目が惹きつけられる。

 驚いたのは『ブラック校則』の映画版が同じ時期に並行して公開されたことで、これがTV版と違ってコメディ要素はほとんど削ぎ落とされ、同じ撮影素材を使いながら、まったく違う雰囲気の内容に仕上げられていたこと。TV版では『セトウツミ』をマネて毎回、小野田創楽と月岡中弥がお台場の海でだらだらと駄弁りながら学校であったことを回想したり、「コーツ高レジスタンス部」と呼ばれるチャット・ルームにログインしたりと、いくつかシチュエーションの異なる場面転換が用意されていたのに、映画版ではシンプルに学校生活だけを追い、ストーリーも一直線に進んでいく。導入はTV版と同じく、町田希央が登校してくると、生活指導の教師から髪を茶色に染めているのは校則違反だと注意され、そう言われた町田希央はくるっと方向を変えて学校の敷地から出ていく。これを毎日繰り返していたのか、町田希央はすでに出席日数が危うくなっている。本当は地毛であるにもかかわらず、町田希央は仕方なく髪を黒く染めて登校してくる。地毛証明書を提出すれば、そもそもこんなことにはならなかったのだけれど、彼女にはそれを提出できない理由があり、この様子を見ていた小野田創楽は校則の方がおかしいと感じ、校則を変えるために意見ボックスを設置する。これに腹を立てた生徒会長の松本ミチロウ(田中樹)が小野田創楽の前に立ちはだかる――。高校生が始める「運動」はあっさりと挫折したように見えたものの、ある時、校舎の裏に誰かがグラフィティを描き殴ったところから、これがレノン・ウォールのような役割を果たすようになり、学校にいる間はスマホを取り上げられていることも手伝って、生徒たちが校則に対して思っていることなど様々な意見が描き加えられるようになっていく。なんでペンキがいつもたっぷりと置いたままなのかなという細かい点は気になったけれど、取り立てて特別な才能があるわけでもない小野田創楽を中心に現状を変えていこうとする高校生の姿はティーンムーヴィーにしては珍しいテーマだし、ルールがあった方がいいと「自由を恐れる」生徒会長の上坂樹羅凛(箭内夢菜)が変化を見せたり、吃音症のラッパー、達磨がほとんど素のままで演じる東詩音など個性的なキャラクターの配置が面白く、何よりも此元和津也の硬派っぷりに驚かされる作品であった。

 TV版の第4話で月岡中弥がこんなことを言う。何匹かの猿がいて、ハシゴを登ればバナナに手が届く。ところが1匹がハシゴを登ると他の猿には冷水が浴びせられる。誰かがハシゴを登ろうとすると、冷水を浴びたくない猿たちはこれを止めさせる。やがて誰もハシゴを登らなくなる。そこに新しい猿が入って来ると、もはや理由もわからずハシゴには登らせない。髪型、スカート丈、アルバイト、自転車通学がどうしてダメなのか、実はもう誰にも理由などわからないのに禁止になっていると。これに対する答えとして、TV版では第5話で規則を破った教師が事故死したというエピソードが語られる。でんでん演じる法月士郎校長はかたくなに校則は厳しくあるべきだと自説を曲げない。映画版ではこうした重層性はなく、校則を変えたい一心で小野田創楽たちは最後まで突っ走っていく。ありとあらゆる登場人物が束になってクライマックスに突入するプロセスはなかなか圧巻でした。小野田創楽が設置した意見ボックスに5人しか意思表示をしなかったにもかかわらず、壁に殴り書きされた言葉で事態が動き始めるという流れは、日本人の「本音」好きがよく表れていて、それは同時に潜在的に「変えたい」はあっても「理想」がないということも露わにしている。この世界がどうなったらいいのかという理想がなければ「変えたい」という衝動もその場しのぎで終わりかねないし、過程こそすべてと考えるか、馴れてしまえば「このままでいいや」ということになりかねない。適度な息抜きを与えられた「このままでいいや」は明らかに「変えたくない」には勝てないし、理想のない「変えたい」は「このままでいいや」にかなわない。「変えたくない」が保守で、「変えたい」がリベラルやラディカルだとすれば、日本人のほとんどは、おそらくは「このままでいいや」ということになるだろう。TV版の第2話で月岡中弥は「痛いやつ、必要説」を唱える。群れからはずれた「痛いやつ」しかパイオニアにはなれないと。月岡中弥の冗談とも本気ともつかない話しっぷりは本作の大きな魅力である。

 僕の記憶にある限り、80年代や90年代の日本人はフィリピンやインドネシアの開発独裁ぶりを見て、どこか嘲笑っていた。イメルダ夫人が贅沢三昧にふけるのはアジアがまだ「後進国」で「遅れている」からだと。僕にはいまの日本はまるで「成長」という呪文をかけられた開発独裁の国にしか見えない。政治家などというものはどの国も大したものじゃないのかもしれないけれど、せめて自分たちがやったことの記録ぐらいは残して欲しいし、身内や友人に利益供与があった場合、マレーシアや韓国でも政治家はクビにされ、国民は他の選択肢に変えるというのに、いまの日本にはそれこそスハルトかピノチェトが君臨しているかのように政権は盤石で、記録を残す政治家を選ぼうという「理想」すら耳にしない。開発独裁に怯えていたアジアの人たちは無知でバカなんだろうな~などとかつては勝手に思っていたけれど、あ、いまは自分たちがそれなのかという感じ。「このままでいいや」が長く続いた結果ということなのか、日本はいま、経済的に途上国並みだとかいう議論の前に政治的に後進国になってしまい、ルワンダのカガメ政権やベラルーシのルカシェンコ政権、トルコのエルドアン政権やフィリピンのドゥテルテ政権と同じカテゴリーに属しているということなんだろうか。つーか、これジャニーズ映画なんですよね。田母神美南(成海璃子)とかヴァージニア・ウルフ(薬師丸ひろ子)とか、役名がとんでもないですけれど。


映画『ブラック校則』(11.1公開)予告編

interview with Kazufumi Kodama - ele-king

 9月6日に吉祥寺のSTAR PINE'S CAFÉで観たKODAMA AND THE DUB STATION BANDのライヴは強烈だった。個人的に、大好きなじゃがたらの“もうがまんできない”をこだま和文のヴォーカルとTHE DUB STATION BANDの卓越した演奏で聞けたことは大きい。だが、それだけではない。実際にライヴを観ながら心のなかで反芻したからと言って、僕なんかがこう書くのはあまりに恐れ多いのだが、まぎれもなく“いまの音楽”だった。しかしなぜそう強烈に感じたのか? それはわからない。それ故、この、こだま和文とバンド・リーダーでベースのコウチへのインタヴューは、そんな個人的な問いを出発点としている。

 トランペット奏者のこだま和文率いるレゲエ・バンド、KODAMA AND THE DUB STATION BANDは、2005年にスタジオ・ライヴ盤 『IN THE STUDIO』、さらに翌2006年にカヴァー集『MORE』を発表したのち活動を休止するものの、2015年12月のSTAR PINE'S CAFÉでのライヴを機に突如活動を再開する。こだま和文とコウチに加え、キーボードのHAKASE-SUN、ドラムの森俊也、ギターのAKIHIROといった日本のレゲエ界の腕利きのミュージシャンたちが集まり再出発を果たしたバンドは、12インチ・シングル「ひまわり / HIMAWARI-DUB」を発表し、2018年12月には、トロンボーン奏者/ヴォーカリストのARIWAの加入を経ていまに至る。

 そして届けられたのが、バンドとして初のオリジナル・フル・アルバムとなる『かすかな きぼう』だ。“霧の中でSKA”というタイトル通り哀愁のムードのなかを軽快なリズムが進行するスカから幕を開け、こだま和文流としか言いようのない憂いを帯びた“CHORUS”へと続く。故・朝本浩文(16年11月に死去)が曲を書いたMUTE BEATの“SUNNY SIDE WALK”のカヴァーでは、コウチが書いた歌詞をARIWAが歌っている。透徹としたダブがあり、ギターのAKIHIROによる“GYPSY CIGARETTE”は酔客でごった返す盛り場のナイトクラブにわれわれを誘うようだ。張り詰めた緊張感がある一方で、開放的であるのは、KODAMA AND THE DUB STATION BANDというバンドの共同体の個性によるものではないだろうか。
 バンドとアルバム、歌うこと、さらにヒップホップやファッション、“もうがまんできない”や“黄金の花”、ツイッターなどなどについて。国立の喫茶店でこだま和文とコウチが語ってくれた。

セクションというものは、演奏上、非常に不自由になるんですね。ところが、それを考えることもなく、彼女を受け入れていた。ARIWAが何か、僕の壁みたいなものを取っ払ってくれた。

STAR PINE'S CAFÉのライヴを観てとても感動しました。こういう言い方は恐縮なのですが、“いまの音楽”と強く感じました。

こだま和文(以下、こだま):そういうことを意識しているわけではないですけど、いまの音楽と言われるのはうれしいですね。いつもいましかないという気持ちでやっていますから。

艶めきがあり、身体が自然に踊り出してしまうようなダンス・ミュージックでした。こだまさんは、2017年に受けられたあるインタヴューを読むと、ある時期までは、ソウルやファンク、レゲエにしろ、踊れるということを経験したオーディエンスやリスナーから踊れないと思われるのはなかなか困ることでもある、という趣旨の話をされています。KURANAKAさんやYABBYさんとコンビを組んで、いわゆるDJセットでも活動されてきました。

こだま:そうやってヒップホップに近いようなこともやっていたわけですから、どこかで常にダンス・ミュージックをやっているという気持ちがありました。でも、これはブラック・ミュージックだとか、これはダンス・ミュージックだとか、そういうようなことを気にすることもできないくらい、僕にとって、いまは現実性のほうが強いんですよね。

“現実性のほうが強い”、というのはとても考えさせられる言葉です。

こだま:いまの暮らしのなかで、踊っていられないだろということもありますでしょ。「そんなに楽しくしろと言われても困るよ」という声が自分のなかからも聞こえますからね。ライヴでみんなに踊ってほしい、という気持ちになるときはもちろんあります。車椅子でライヴに来てくださる方が手足を動かして踊ってくれてもうれしいです。ただ、こっちが強くアピールして「踊れ!」というような時代ではないと思うんです。病院でずっと寝たままの人にも僕らの音楽を聴いてもらえたらいいなとも思いますし、こちらのこだわりなり垣根を取っ払って、リスナーとの関係を作りたいですよね。それで、自分のほうから音楽に何か決められたかたちを持ち込むことをやめたんです。だから自分が作る音楽もどんどんはみ出していきますよね。今回の作品もそんなところを含めて聴いてもらいたい音楽になっています。

いま、「そんなに楽しくしろと言われても困るよ」という声が自分のなかから聴こえてくる、とも話されていましたが、一方で、『かすかな きぼう』からはバンドとしてレゲエ、音楽をやる楽しさ、そういう音のふくよかさも伝わってきます。いまあらためてバンドで音楽をやるということについて何を考えますか?

こだま:最近のこの世の中で、5、6人の大人が集まってひとつの何かをやるというのはとても贅沢なことなんです。若いころは勢いもあって無敵なところがあるので、前日あまり寝ていなくても集まって音を出したりしていたけど、そういうわけにもいかなくなる。それぞれの暮らしの事情がある。しかも、DUB STATION BANDのミュージシャンたちは、選ばれたような、みんな忙しくしている連中だから、ある時間に全員で集まって音を出してバンドに密度を持たせるのは大変なんですね。そんななかで、それぞれ異なった音楽性や好みやセンスを持っている5、6人の人間がひとつの曲に向かって演奏をする。それがふくよかさとなって出ていたら、それはとてもうれしいことですね。こうやって、バンドのメンバーが集まり音を出し、作品を作るということはとても豊かなことなんですよ。いつ何があって、誰かが離れていってグループが続けられなくなるかわからないんです。だから、いましかないと。そういう気持もあります。

いまの時代に、“カネじゃない”なんて、なんだかんだ言ったってキレイゴトだろ、「やっぱり世の中、ゴールドだろ」って気持ちもよくわかるんですよ。僕のなかにだってそういう気持ちはありますからね。

2015年12月のワンマン・ライヴを機にDUB STATION BANDをもういちど始動させたきっかけは何だったのでしょうか?

こだま:第一期のDUB STATION BANDは、それこそ、メンバーひとりひとりのいろんな事情や都合で活動できなくなる時期がきたんですね。僕にとって愛すべきバンドだったから、もういちど腰を上げるのは大変なことで、かなり足踏みしてね。それにしびれを切らしたのかな、ベースのコウチから真剣に「もう一回やりませんか?」と熱意のあることを言われました。最初にその話をしたときにコウチに伝えたんです。「すまんけれども、自分は音楽にしかエネルギーを向けることができない。いろんな意味で他の面倒な仕事もやってほしい」と。それをコウチは快く受けてくれて、リーダーとして音を出すこと以外のこともやってくれているんです。実はそれは、僕にとっては初めての経験なんです。バンドを維持するために自分がリーダーではないという状態がとても良いかたちだなと思いましたね。ありがたいですよ。

そして、2018年の12月にはトロンボーン奏者/ヴォーカリストのARIWAさんもバンドに合流された、と。彼女は、ライヴでもこだまさんとともにフロントに立って演奏されています。

こだま:彼女のことは生まれたころから知っていて何年かおきに会う機会もあったんです。だけど、まさか上京してきた彼女といっしょに音楽をやることになるとは想像していなかったですね。あるとき、コウチが、彼女をリハーサル・スタジオに連れてきてくれたんです。しかも彼女はトロンボーンを持参していて。だったらとにかく音を聞いてみたいなという思いでした。そのときのインパクトは言葉では言えないほど強かった。長いことホーンのアンサンブルでは演奏してなかったんですけど、彼女と僕のアンサンブルは、図らずも僕の好きなものだったんです。演奏すればただちに相性みたいなものはわかるんです。あまりにもぴったりと彼女とのセンスが一致したので驚きました。それは技術的に彼女のレベルが高いとかそういうことではなく、言葉で説明できない何かが僕と彼女のアンサンブルにそのときにすでにあったんです。ミュージシャンとして、とても不思議な出会いでしたね。ARIWAが突然目の前に現れていっしょに楽器を演奏しているということ自体が不思議なことでした。

バンドでの、トランペットとトロンボーンのアンサンブルは、こだまさんにとってはMUTE BEAT以来ということになります。

こだま:セッションを省けばそうなりますね。セクションというものは、演奏上、非常に不自由になるんですね。息を合わせるとか音程を合わせるとか、決められたことを外せないとか、そういう制約がいろいろある。それにたいして僕はある種のトラウマみたいなものがあったんです。そういう制約がめんどうになったから、自分は80年代後半にソロに移行していったわけですから。自分の吹きたいように吹く、歌いたいように歌いたかった。そうして、ソロ・アルバムを作り、DJセットというサウンド・システム型のパフォーマンスをやるようになっていく。そのなかではかなり演奏の自由度が高いわけです。DJがオケを出してくれて、曲もつないでいってくれる。気が向かないところは流しちゃっても、そのあいだDJがスクラッチでもエフェクトでもいろんなことをして楽しめる。そういうすごくフリーなパフォーマンスが魅力的でDJセットをやったんです。バンドでワンホーンでやるのもやはり自由度が高い。そんな風に長年、セクションを拒んでいたわけですね。ところが、セクションの不自由さということを考えることもなく、彼女を受け入れていた。ARIWAが何か、僕の壁みたいなものを取っ払ってくれたとも言えますよね。

そのARIWAさんが歌う“Sunny Side Walk”はMUTE BEATのカヴァーですね。原曲にはなかった歌詞をコウチさんが書かれています。

こだま:“Sunny Side Walk”をやりたいと言ったのはコウチなんです。

コウチ:このバンドは基本的にこだまさんのやりたいようにやりたいと思ってはじめたんです。だからこっちからこれがやりたい、あれがやりたいとはほとんど言わない。そういうなかで、この曲は自分の方から提案したんです。もちろん朝本さんへの追悼の気持ちもありました。そうして、ライヴでやるようになったんですが、まだそのころは歌詞はなかったんです。それが、ある日突然歌詞が湧いてきて。これまで歌詞を書いたことはなかったですし、だから最初はARIWAに歌ってもらおうと思って書いたわけでもなかったんですよ。“Sunny Side Walk”は僕の散歩曲でもあって、いろんなことを考えながら散歩をしているそのままを描いてみたんです。字面で見てしまうとただの散歩の情景なんですけど、それこそ社会を変えようとするデモだったり、こだまさんがおっしゃっている日々の暮らしだったり、そういういろんなものが反映されてもいると思います。

こだま:僕は彼のセンスを知っているから、とてもコウチらしい歌詞だなと思いましたね。僕に足りない部分をコウチやARIWAが引き出してくれたということもありますね。あんまり言葉にすることもなくなってきたけど、モノを作ったり、演奏することにおいて大切なのは、やはり自由であるということですよ。何人かの人間が集まったとしてもそれぞれがまず自由じゃなきゃいけないんです。やりたくないことはやらないとかね。いまこのバンドは、時間がかかっても出てきたものを素直に出していくという状態になっていると思うんですね。誰にも拘束されない時間のなかで、それぞれのなかから出てくるのがいいですよね。ライヴや曲からそういう自由が伝わったらいいなって思いますよ。

いま語られた自由や、さきほどの「自分のほうから音楽に何か決められたかたちを持ち込むことをやめた」という言葉ともつながると思うのですが、ある時期からこだまさんは歌われています。先日のライヴでも歌っていましたね。

こだま:自分の好みやセンスから拒んでいた部分が取り払われて、ある時期からカラオケに行くようになったんですね。するとそこで、歌うことへの殻がすこし破れるわけです。そこで得たものがあった。「この俺でも歌えるな」と。でも、歌いはじめてから数年はかかっていますよ。歌うことが好きになり真面目にカラオケで歌うようになって、さらに、みんなと飲みながら下手でもいいから楽しく歌おうだけではなく、自然にライヴのなかで歌うようになるまでには。

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もともと僕は作業着が好きだったから、すべて捨て去ったなかでどうしても着るんだったら作業着がいいやという選び方だった。すると、外で土木作業をしている人たちとさして変わらない格好になるわけですね。そういうところに自分の価値観みたいなものを絞り込んだんですよね。

カラオケで歌う悦びを知ったということですね。その感覚はとても理解できます。最初はどういう曲を歌っていたんですか?

こだま:ボブ・マーリーばかり歌うというわけではないですよ(笑)。演歌も歌うし、こどものころから馴染んできた歌謡曲や好きな洋楽のロックも歌います。カラオケボックスではなくて、まったく知らない方々が飲んでいるスナックなんですよ。だから、ちょっとしたセンスがいる。季節外れの歌をいきなり歌わないとか、自分で歌い続けないとか、決まり事ではないですけど、僕が得てきたデリカシーみたいなものがあるわけです。また、そのお店のママが、「歌うからにはちゃんと歌ってね」ってうるさいんですよ(笑)。そのころDJもやっていたから前に歌った人からのつなぎを意識して歌ってみたりしましてね。前の人が山口百恵の“コスモス”を歌うのであれば、さだまさしさんの曲を歌おうかなとか、海の歌が来たならば、俺は渚の歌にしようかなとか。そうやって見ず知らずの不特定多数の人の前で歌うことで、ある意味でエンターテイメント性みたいなものが、大げさに言うとね、鍛えられたんですね。ちょっと話が脱線したかな。

いや、とても重要なお話だと思います。STAR PINE'S CAFÉのライヴのときにはじゃがたらの“もうがまんできない”とネーネーズの“黄金の花”(『MORE』収録)をカヴァーされて、歌われました。

こだま:“もうがまんできない”は数あるじゃがたらの曲のなかでも、よく聞いていた曲なんですよ。レゲエ・アレンジの曲ですから、DUB STATION BANDに持ち込みやすいし、他の曲との関係も比較的作りやすい。じゃがたらの“タンゴ”もそうですね。また、おそれ多くも、じゃがたらの歌を歌うことを、自分にぶつけてみたところはあります。ネーネーズの“黄金の花”も自分に身近な曲だったのが大きい。ライヴに行ってご本人たちにもお会いしたし、たまたま“黄金の花”の作詞家の方にもお会いしました。だからとりわけ強い印象がある曲なんです。ネーネーズと言えば、“真夜中のドライバー”も好きな曲です。歌いやすいということもあるけど、よく聞いている曲を自然と選んでしまったんですね。“黄金の花”を最初に歌ったのは、初期のDUB STATION BANDのアルバムのレコーディングのときでした。もし、そのときみんながNGを出していたら歌わなくなっていたかもしれないですね。でも、ある程度受け入れてくれて、それで調子に乗ったわけです。さらに、バンドが再開して時間を置いて、あるとき、「実はじゃがたらの歌をやりたいんだよね」って言ってみたんですよ。するとみんながとにかく良い演奏をしてくれるのでこれまた調子に乗りましてね。『かすかな きぼう』では集中してオリジナルの曲を録音したので、これらの曲はまだレコーディングをしていないんですよ。でも現状ライヴでやっている曲は全部録音しておきたいという気持ちはあります。

ライヴでは“もうがまんできない”と“黄金の花”が補完し合っているように聞けました。“もうがまんできない”には、「ちょっとの搾取ならがまんできる」という歌詞があって、一方“黄金の花”には「黄金で心を捨てないで」という歌詞があります。とても単純化してしまいますが、端的に言うと、両者とも「世の中はカネじゃないんだ」ということを訴えている。僕は普段国内のヒップホップのライヴを観ることがとても多いんですけど、年々、“世の中、カネじゃない”と主張するラッパーは減っていると感じているんです。それが一概に悪いとかではないですし、言うまでもなくお金は大事です。ただ、ミュージシャンやラッパーが、それが仮にパフォーマンスだったとしても、ひとつのオルタナティヴの提示として“カネじゃない”と表現する場面を観ることが少なくなったな、と。そのことをKODAMA AND THE DUB STATION BANDのライヴを観て考えさせられました。

こだま:でもね、この国もいろいろ経てきて、いまの若い人たちも若い人たちなりに生きていくのが大変な時代ですから、「“カネじゃねえ”なんてキレイゴトだろ」という言葉はすぐに返ってくるんですよね。僕がたまたま選んだそれらの曲のなかにそういうシンプルなメッセージ性みたいなものがあるとしてもですよ、もっとふくらみをもたせたうえでの、つまり自由を表現したいんです。ラッパーたちが「世の中はカネだぜ!」ということをラップしてもいいと僕は思いますよ。いまの時代に、“カネじゃない”なんて、なんだかんだ言ったってキレイゴトだろ、「やっぱり世の中、ゴールドだろ」って気持ちもよくわかるんですよ。僕のなかにだってそういう気持ちはありますからね。

2000年前後でしょうか、ちょうどソロ作品を立て続けにリリースしている時代にこだまさんはヒップホップ・ファッションにかなり傾倒されていましたよね。当時、音楽雑誌に載っていた迷彩柄のシャツか何かを着たソルジャーのような出で立ちのこだまさんの写真に釘付けになったのをおぼえています。

こだま:露骨にそういう格好をしていましたね。当時は、これからはこれしかないぐらいの気持ちでヒップホップをかき集めて聴いていましたから。もちろん80年代はじめにも、ジャズ、ソウル、スカ、レゲエやダブといったいろんな音楽を経てきた自分の前に、それらの音楽と同時進行的にヒップホップはあったわけですね。90年代にはデ・ラ・ソウルなんかも聴いていましたよ。でも2000年前後のものは、それから10年、20年ぐらい経たヒップホップですからね。ものすごく強い影響を受けましたよ。エミネムも聴いたし、何よりドクター・ドレーですよ。あのサウンドは強烈だった。凄まじいですよ。ドクター・ドレーのインストのアナログを買い集めましたね。
 その一方で、当時は着るものなんてどうでもいいじゃねえかっていう気持ちになっていった時期なんです。だけど何かを選ばなきゃいけない。そこで聴いている音楽は強く影響するわけですね。どうでもいいことを捨てて剥ぎ取って何かを選ぶということになると、アーミーシャツだったりするんです。もともと僕は作業着が好きだったから、すべて捨て去ったなかでどうしても着るんだったら作業着がいいやという選び方だった。タオルを巻いてキャップをかぶったりしていましたね。すると、外で土木作業をしている人たちとさして変わらない格好になるわけですね。そういうところに自分の価値観みたいなものを絞り込んだんですよね。でも、そういう格好も誤解されたりして批判もあったんですよ。「ラッパーみたいな格好をしちゃって」というような、ね。ネットも普及してきた時代だったから、そういうのを目にしちゃったりしましたね。
 ただ、そういう格好ができるも、のめりこんでいく音楽があってこそですよね。格好なんて普通でいいのかもしれないと思うなかで、ある音楽にのめり込むことで、かろうじて新しいTシャツを買う喜びみたいなものを見つけるわけですよ。年齢とともに、いまはそれすらもちょっと危ういですけど。だけど、何もかもどうでもいいやとなってしまうと、本当にどうでもよくなってしまう。それじゃ生きていけないから。周りにいろんな人がいてくれるありがたみや、ライヴに来てくれる人がいることを支えに生きていっている感じがいまはする。それを続けていけたらいいな。

ネガティヴなことだけじゃ成り立たない。かといって、希望じゃないんですよ。ましてや明るく楽しく踊ろう、ということではない。そこで出てきたものが“かすかな”という言葉だった。

いまの話をうかがって、ますます、今回のアルバムのタイトルの『かすかな きぼう』はとてもこだまさんらしい言葉だなという実感が深まりました。“かすかな”という言葉で僕が連想したのは、こだまさんが篠田昌已さん(編註:じゃがたらのメンバーで、それ以前は梅津和時の生活向上委員会にも参加していたサックス奏者。チンドンも演奏。89年には関島岳郎、中尾勘二とコンポステラを結成。92年、急逝)の『コンポステラ』(1990年)に寄せた文章でした。こだまさんが「音楽で何が出来るんだろう?」と問いかけると、「微力なんだよ、微力なんだけれどやって行くんだよ」と篠田さんが答えた、というエピソードがありますね。『かすかな きぼう』はその篠田さんの言葉を、2019年を生きるこだまさんなりに再解釈したような言葉ではないかと。

こだま:いま篠田くんの話がでましたが、当時の篠田くんもじゃがたらと同時に自分の音楽をやりながら、光のようなものを求めていましたよね。それは僕と一致するところでした。そして、自分が生きる2019年のいま、そういう思いをひとつのアルバムにして聴いてもらいたいと思ったときに、曲名やタイトルをつけるのはなかなか難しい。はるか昔から生きるということは難しいことだったかもしれないですけど、僕がいま生きて感じているのは、国内外の人びとの大変な状況だったり、希望をなくす事柄についてです。そういうことがあまりにも多いんですよ。僕は楽友と呼んでいるんですけど、音楽をやってきた友がポツポツと亡くなっていく現実もある。日々ちっとも楽しくないんですよ。生きていたくもないけど、いま死にたくもない、っていう僕のキーワードがあるぐらいなんですね。そういうなかでも、曲を書いて、それを6人の人間が集まって音を出して作品にできるありがたみがある。そういう作品に思いを込めようとなったとき、どうしてもネガティヴなことだけじゃ成り立たない。やっている以上は聴いてほしいという気持ちを込めたいわけです。かといって、希望じゃないんですよ。ましてや明るく楽しく踊ろう、ということではない。そこで出てきたものが“かすかな”という言葉だった。曲やアルバムやイベントのタイトルを考えるときは、ポジティヴに考えるのではなくて、むしろ“こういうふうに思われたくない”という消去法に近いんです。それが強くなったのは3・11のあとですね。やっぱり大きかったですよ、3・11は。いろいろ変えました。本当に楽しいことなんてないよ、というのが正直な思いです。しかし、江戸アケミはそんな3・11を知らないんだよなぁ。

江戸アケミさんがいま生きていたら何を考えただろうって思ったりすることはありますか?

こだま:いやあ、とてもじゃないけどそこまでは考えが及ばないですね(笑)。でも彼はツイッターとか向いていたかもしれないね。わからないけれども。ツイッターで発信することに対していろいろ背負ったりしていたかもしれないな。

こだまさんのツイッターをよく拝見しています。晩酌されている台所の写真や食事の写真をツイートされていますね。僕は、イヤなことがあるとこだまさんのツイートを見ています(笑)。

こだま:僕は、自己顕示欲みたいなものがいちばんイヤなものだと思っているにもかかわらず、ツイッターをやっているわけですよ。だから矛盾したなかにいつもいる。「お前のことなんか知りたくねぇよ。もっとこっちは大変なんだ」という気持ちでいまの世の中あふれているわけじゃないですか。そのなかには他人から攻撃されてしまうようなあからさまな政治的な発言もあれば、もうちょっと暮らしのなかから聞こえてくる切実な声もありますよね。こちらもそれを垣間見ているわけだから、抑制もしますよね。

本作にも“STRAIGHT TO DUB”という研ぎ澄まされたダブがありますが、こだまさんは音楽、あるいはレゲエやダブのサウンドで、いわゆる自己顕示欲の抑制のようなものを表現されてきた側面もあるように思います。

こだま:ただ、一方で、もうすこしテンションの高い時代には、ものすごく過剰に自己顕示することが自由のひとつの表現だったんですよね。江戸アケミが自分の顔を割れたグラスで傷つけて血を見せるとか、ピート・タウンゼントがステージ上でギターを壊しちゃうとかね。でも、いまやそういう表現は見透かされてしまうでしょ。世の中に生きている人びとは「そんなことじゃおもしろくねぇんだよ」ってなっているわけです。すると、能天気ではいられなくなる。だから、いまはお笑いが成り立たない時代ですよね。一体何をみんな笑いに求めているんだろうか。僕はぜんぜん笑えないんですよ。だけど、たまたま笑えるときがなくはないんですね。ネットからそういう数少ないチャンスみたいなものを得るときはありますよね。

 インタヴュー終盤、こだま和文は、コウチの提案を受け、ステージ上でひとり、ツイッターの呟きのようにお話をするその名も〈独呟「ライブツイート」〉というイベントを数日後に開催すると話してくれた。僕は行けなかったが、きっと、笑いも起きるステキな会になったのだろう。友人に声をかけつつ、次のKODAMA AND THE DUB STATION BANDのライヴに備えようと思う。

Jagatara2020 - ele-king

 ビッグ・ニュースの到着だ。驚くなかれ、80年代バブル期の日本に抗い、駆け抜けた伝説のバンド、じゃがたらが復活する。それだけではない。年明け2020年、じゃがたらは江戸アケミ死後30年の沈黙を破り、Jagatara2020 として“みんなたちのファンファーレ”、“れいわナンのこっちゃい音頭”の新曲2曲を含むニュー・シングルをリリース。1月27日・28日には渋谷クラブクアトロでのライヴ、渋谷 LOFT9 でのイベントも決定している。また、長らく音源が絶版となっていたが、12月22日、旧BMGビクター発売音源全曲のサブスク配信開始予定。さらにまた、じゃがたらクラシックな2枚のアルバム『南蛮渡来』と『裸の王様』がアナログ盤として1月22日に発売決定!
 アフロ、ファンク、ダブなどを吸収したタフなサウンドと鋭く深い言葉の数々は、世相が荒れ、ひとが「生き方」に迷う21世紀の現在だからこそリアルに響くにちがいない。
 この記念すべき新たな船出を祝し、われわれエレキングも『別冊ele-king じゃがたら──おまえはおまえの踊りをおどれ』を刊行します! 江戸アケミの地引雄一によるインタヴュー2本(うち1本は未発表)、荏開津広によるインタヴュー1本のほか、南流石、OTO、EBBY、中村ていゆう、大平ソウリ、ヤギヤスオ、こだま和文らの最新インタヴュー、松原研二による未発表写真に加え、加藤典洋による「じゃがたら論」の再録、さらに磯部涼、荏開津広、栗原康、こだまたけひろ、志田歩、陣野俊史、高島鈴、高橋慎一、野田努、二木信、平井玄、古川日出男、松村正人らによる論考も収録。1月末発売予定。乞うご期待!

[12月18日追記]
 これはすごい……。1月27日に渋谷クラブクアトロで開催される Jagatara2020 のライヴ「虹色のファンファーレ」のゲスト・アーティストが発表されたのだけれど、鮎川誠(SHEENA & THE ROKKETS)、近田春夫(活躍中、LUNA SUN)、こだま和文、田口トモロヲ、不破大輔(渋さ知らズ)、いとうせいこう、町田康、Nobutaka Kuwabara(DEEPCOUNT)、高田エージ(SUPER BAD)、吹越満、大槻ケンヂ(筋肉少女帯、特撮、オケミス)、向井秀徳、永山愛樹(TURTLE ISLAND、ALKDO)、七尾旅人、折坂悠太と、そうそうたる、ほんとうにそうそうたる面子である。この日のライヴはいったいどうなってしまうのか!!
 あわせて、1月29日にリリースされるシングル「虹色のファンファーレ」のアートワークも公開されている。詳細は下記より。

Jagatara2020、1/27渋谷クラブクアトロにて開催の「虹色のファンファーレ」のゲスト・アーティストを発表! 併せて1/29発売のジャイアント・シングル「虹色のファンファーレ」のカヴァー・アートを公開!

1990年に中心人物のヴォーカルの江戸アケミの急死により解散してしまった、日本のロック史を語る上で絶対に欠かすことのできない最重要バンドのひとつ、JAGATARA。2019年3月に伝説のイベント、TOKYO SOY SOURCE 2019 において Jagatara2020 として完全復活した彼らが、江戸アケミのちょうど30回目の命日となる2020年1月27日(月)に渋谷クラブクアトロにて開催するイベント、「虹色のファンファーレ」の豪華ゲスト・アーティストを発表!

ゲスト・アーティスト
鮎川誠(SHEENA & THE ROKKETS) / 近田春夫(活躍中、LUNA SUN) / こだま和文 / 田口トモロヲ / 不破大輔(渋さ知らズ) / いとうせいこう / 町田康 / Nobutaka Kuwabara(DEEPCOUNT) / 高田エージ(SUPER BAD) / 吹越満 / 大槻ケンヂ(筋肉少女帯、特撮、オケミス) / 向井秀徳 / 永山愛樹(TURTLE ISLAND、ALKDO) / 七尾旅人 / 折坂悠太

併せて、じつに30年ぶりの新曲に当時の未発表曲を追加収録し、Jagatara2020 として2020年1月29日(水)にリリースするジャイアント・シングル「虹色のファンファーレ」のカヴァー・アートを公開!

カヴァー・アート

日本のロック史における最重要バンドのひとつ、JAGATARA が奇跡の復活! Jagatara2020 として30年ぶりの新曲を発表! 当時の未発表曲を追加収録したジャイアント・シングルをリリース! リリース記念ライヴ&イベントも決定!

■1990年、中心人物のヴォーカルの江戸アケミの急死により解散してしまった、日本のロック史を語る上で絶対に欠かすことのできない最重要バンドのひとつ、JAGATARA。江戸の追悼イベントなどの形でその後も何度か集結していた彼らが、2019年3月、伝説のイベント、Tokyo Soy Source で Jagatara2020 として完全復活。じつに30年ぶりの新曲に、当時の未発表曲を追加収録したジャイアント・シングルをリリース。

■なによりもまず、新曲2曲がすばらしい。どちらも Oto の作曲で、南流石の作詞・リード・ヴォーカルによる「みんなたちのファンファーレ」は、JAGATARA 再始動を自ら祝うかのような、文句なしに楽しい祝祭性に満ちあふれた楽曲に仕上がっている。TURTLE ISLAND/ALKDO の永山愛樹の作詞・リード・ヴォーカルによる「れいわナンのこっちゃい音頭」は、辺境グルーヴと日本の音頭のハイブリッドといった感のきわめて秀逸なナンバー。どちらも西アフリカあたりの音楽のにおいを感じさせる、JAGATARA ならではの作品。そして、特筆すべきはそのフレッシュさだ。全編からあふれ出るみずみずしさ、新鮮さは、往年のファンはもちろん、JAGATARA 未体験の音楽ファンをも魅了すること間違いない。

■Oto 厳選の未発表曲もすごい。江戸アケミのお気に入りだったという「LOVE RAP」の1988年のライヴ録音、1983年のEP「家族百景」所収の「プッシー・ドクター」の1989年ライヴ録音ロング・ヴァージョン、江戸のギター弾き語りにフールズの伊藤耕がコーラスを付けた(それだけでも感動的だ)「へいせいナンのこっちゃい音頭」(1989年未発表ライヴ録音)の3曲。これは期待せずにはいられない!

■本作のリリースを記念し、渋谷クラブクアトロでライヴ、渋谷 LOFT9 でイベントの開催も決定している。

《商品情報》
アーティスト:Jagatara2020
タイトル:虹色のファンファーレ
レーベル:Pヴァイン
商品番号:PCD-20420
フォーマット:CD
価格:定価:¥2,000+税
発売日:2020年1月29日(水)

収録曲
1. みんなたちのファンファーレ (新曲)
2. れいわナンのこっちゃい音頭 (新曲)
3. LOVE RAP (1988年/未発表ライヴ録音)
4. プッシー・ドクター (1989年/未発表ライヴ録音)
5. へいせいナンのこっちゃい音頭 (1989年/未発表ライヴ録音)
6. みんなたちのファンファーレ (インスト)
7. れいわナンのこっちゃい音頭 (インスト)

《ライヴ/イベント情報》
Jagatara2020「虹色のファンファーレ」
公演日:2020年1月27日(月)
会場:渋谷 CLUB QUATTRO
www.club-quattro.com/shibuya
出演:Jagatara2020
Oto(G) / EBBY(G)/ 中村ていゆう(Dr) / 南流石(うた) / ヤヒロトモヒロ(Per) / エマーソン北村(Key) / 吉田哲治(Tp) / 村田陽一(Tb) / 宮田岳(B) / 関根真理(Per) / ko2rock(Sax) / 西内徹(Sax) / 桜井芳樹(G)

ゲスト・アーティスト [*12/18追記]
鮎川誠(SHEENA & THE ROKKETS) / 近田春夫(活躍中、LUNA SUN) / こだま和文 / 田口トモロヲ / 不破大輔(渋さ知らズ) / いとうせいこう / 町田康 / Nobutaka Kuwabara(DEEPCOUNT) / 高田エージ(SUPER BAD) / 吹越満 / 大槻ケンヂ(筋肉少女帯、特撮、オケミス) / 向井秀徳 / 永山愛樹(TURTLE ISLAND、ALKDO) / 七尾旅人 / 折坂悠太
※ゲスト表記順は年功序列とさせて頂いております。

時間:18:00開場 / 19:00開演
料金:前売6,000円 / 当日6,500円(ともにドリンク代別)
1/27~28通し券:10,000円(各日ドリンク代別) ※60枚限定 ※1/28はお土産つき
チケット発売:
・Jagatara2020 Official Site 優先予約 11/27(水)12:00より jagatara2020.com
・QUATTRO WEB先行予約 11/28(木)12:00より(11/29(金)18:00まで) https://www.club-quattro.com/tickets/
・渋谷CLUB QUATTRO店頭 12/01(日)11:00より ※12/02以降は営業時間内に限る
・プレイガイド(e+、チケットぴあ、ローソンチケット) 12/01(日)10:00より
※Jagatara2020 Official Site、及び渋谷 CLUB QUATTRO 店頭発売でのチケットはオリジナルチケットとなります。
※通し券の発売は、Jagatara2020 Official Site と渋谷 CLUB QUATTRO 店頭のみとなります。

Jagatara2020「Jagatara2020ナンのこっちゃい生サロン」
開催日:2020年1月28日(火)
会場:渋谷 LOFT9 Shibuya
www.loft-prj.co.jp/loft9
出演:Oto / EBBY / 中村ていゆう / 南流石 / 宮田岳 / and more ※Guestあり(後日発表)
-トーク&ミニライブ・レア映像・Jagatara 生カラオケ大会など予定-
時間:18:00開場 / 19:00開演 ※物販の販売は17:00より
料金:前売4,000円 / 当日4,500円(ともにドリンク代別)
チケット発売:
・Jagatara2020 Official Site 優先予約 11/27(水)12:00より jagatara2020.com
※チケットはオリジナルチケットとなります。
※1/27~28通し券については、1/27の情報をご覧ください。

Jagatara2020
江戸アケミを中心とする日本のファンク・ロック・バンド、JAGATARA(じゃがたら)。1979年3月に江戸&じゃがたらとして活動を開始。1982年5月、暗黒大陸じゃがたら名義で今や日本のロックの金字塔となったデビュー・アルバム『南蛮渡来』を発表。各方面で高い評価を得る。1983年、バンド名をじゃがたらに改称。1983年末から1985年夏にかけて、江戸の精神的不調により活動休止。1986年頃から JAGATARA という表記を使用しはじめる。1989年4月、アルバム『それから』でメジャー・デビュー。そのわずか7ヵ月後の1990年1月27日、江戸の急死により解散。2019年3月、約30年ぶりに開催された伝説的ライヴ・イベント、Tokyo Soy Source にて、残ったメンバーにより Jagatara2020 として復活。江戸アケミの志を受け継ぎ、活動を再開。
www.jagatara2020.com

NYクラブ・ミュージックの新たな波動 - ele-king

 日本では平成から令和へと新たな元号を迎え、アメリカではバラク・オバマからドナルド・トランプへ大統領が交代するなど歴史的な瞬間の多かった10年代はあと1ヶ月残し、もうすぐ20年代が始まろうとしている。
 10年代を振り返ると、iPhone をはじめとするスマホが瞬く間に世界へ浸透し、万国共通のソーシャル・ネットワーキング・サービスはフェイスブックから同じくフェイスブック社が2010年に開発したアプリ、インスタグラムへシフト。Spotify や Apple Music などの音楽ストリーミングサービスが日常の一部になるどころか、そういったサービスにわざわざ加入しなくても YouTube や SoundCloud などの無料の共有サービスによって、メディアを使わずにスマホひとつで音楽を聴くことができるエポックメーキングな時代に変わった。
 出だしが長くなったけれど、ここで触れたいのは、時を同じくして変化していったNYはブルックリンのミュージック・シーン。それも、今では世界的な実力のある Anthony Naples や Aurora Halal らを筆頭に、“NYサウンドの新世代”ともいえる10年代のユース・カルチャー・シーンについて紹介していきたい。

 00年代、NYのハウス・ミュージック・シーンにおいて唯一無二の存在は、かつてマンハッタンのミートパッキングにあった「Cielo Club」。2003年にオープンしてから François K. や Louie Vega、Kenny "Dope" Gonzalez などの名だたるメンツがレジデントDJを務めるハイクラスなレギュラー・パーティが話題を集め、翌年(2004)にはアメリカの「Best Club- Dancestar Awards」を受賞。ウィリアムズバーグにあった共同オーナーのヴェニュー「Output」とともに今年始めに幕を閉じるまでの15年間、とにかく“グッド・ミュージック”を提供し続けた老舗だ。
 そんなパーティへ遊びに行っていたヤング・ジェネレーションにとっても前述したようなDJがビッグネームであることには間違いないが、彼らが目指したスタイルは一時代を築いたDJたちと同じものではなかった。むしろ「自分たちと同世代がやりたいことをやれるような場所がNYには少なかった」と話す当時まだ名もないDJや、DIYで新しいことを始めたいと思う人たちによって、NYのダンス・ミュージック・シーンは2010年を境に、地価の高騰するマンハッタンからやりたいことを合理的にできるブルックリンへと移り変わっていった。

 今年11月、再び日本で開催された「Mister Saturday Night」は、まさにそんな時代背景を写したようなブルックリンを代表するパーティのひとつだ。『ガーディアン』誌で“NYで最も優れたDJデュオのひとつ”と称賛された、アイルランド人の Eamon Harkin とアメリカ人の Justin Carter のふたりは、00年代後半にマンハッタンの老舗「Santos Party House」で前身となるパーティをスタート。その後ブルックリンに拠点を移し、ゴワナスのバックヤードやロフトスペースなどのオープンエアーな場所を利用したデイタイムの屋外パーティ「Mister Sunday」を始め、ここだけでしか体験できないDIYなスタイルの「Mister Saturday Night」へと大成させた。
 そんなパーティの常連であるNYのアーティストを取り上げていくことを当初のコンセプトに、2012年には同名義のレーベルを設立。パーティから生まれた理想的なレーベルの第1弾には、まさに当時フロアで踊っているうちのひとりにすぎなかった Anthony Naples をフィーチャーしたEP「Mad Disrespect」をリリース。シカゴ・ハウスのようなドラムマシンにエモーショナルなヴォーカルを乗せたソウルフルなサウンドは、ピークの「Mister Saturday Night」のフロアを思い起こさせる、“新時代のエクスペリメンタルなトラック”として注目を集めた。その後、Hank Jackson や気鋭のデュオ General Ludd などを次々と世に送り出しただけでなく、2015年には「Mister Saturday Night」のホームとして、今のブルックリンで最も旬なヴェニュー Nowadays もオープン。最初は屋外のスペースだけで運営をしていたが、2017年にはより多角的なパーティをおこなうことを目的とした屋内のフロアをオープンさせ、キレイで快適なメインフロアとレストラン&バー、好きな時にチルアウトできる屋外スペースを備えた“現代の大箱”を作り上げた。


Nowadays flyer


DJ Python@Bossa Nova Civic Club

 ここで「Mister Sunday」が開催されていることは言わずもがな、2010年以降に頭角を現しヨーロッパを中心に世界でプレイするほど人気DJとなった Anthony Naples や Aurora Halal、DJ Python などの新世代がレジデントを務めるハウス、テクノのパーティがスケジュールのほとんどを占める。2018年末のカウントダウン・パーティへ行った時は、なんと24時間という長丁場で、22時までは床に敷いたマットに寝そべりながらNYの気鋭なレーベル〈RVNG Intl.〉ファウンダー Matt Werth らによる上質なアンビエントを、朝8時まではレジデントDJたちによるカッティングエッジなテクノを、そして、昼14時まではこの日のゲストであった Theo Parrish による往年のハウスやディスコをフロアに残ったまだまだ遊び足りないみんなで聴いて、踊り明かすような、いい意味で新しい世代にバトンが渡っている場所だと思った。


Nowadays flyer 2018-2019 New Years Party "Nowadays Nonstop"

 「Mister Saturday Night」はさておき、圧倒的にヴェニューが不足していた同時期に、同じくブシュウィックで確立していった特筆すべき場所がもうひとつ。話を10年代初期に一旦戻すと、ベルリンを中心に世界的にミニマル・テクノが主流だった当時、NYのダンス・ミュージック・シーンに新風を吹き込んだのが2010年に設立された〈L.I.E.S. Records (Long Island Electrical Systems、以下L.I.E.S.)〉だ。ファウンダーの Ron Morelli は、ダンス・ミュージックをソフトウェアで作るという当時のスタイルを覆し、今でこそ「ローハウス」といわれるようなザラついたローファイなエレクトロニック・サウンドをDIYで作り、打ち出してきた人物。

 2012年にオープンしたバースタイルの「Bossa Nova Civic Club」は、そんな Ron Morelli を筆頭に〈L.I.E.S.〉が才能を見出したまだ無名の Terekke や Bookworms、DJ Steve O たちがプレイし、当時まだアンダーグラウンドだったサウンドがひとつのジャンルとして確立されていくとともにメイド・イン・ブルックリンのキャッチーなダンス・ミュージックを聴ける場所として不動の地位を築いた。〈L.I.E.S.〉を目当てに通うパーティ・フリークはとにかくぶっ飛んで踊り狂い、100人キャパほどの小さいフロアでありながらもほかのヴェニューと一線を画す、強烈なエナジーがここにはあった。


Bossa Nova Civic Club のバー

 オープンからずっとパーティを続ける Bookworms や、同じくスターティング・メンバーで Anthony Naples のレーベル〈Incienso〉からリリースされたLPが注目を集める Beta Librae、この場所で始まった女性特定のDJ集団「Discwoman」の中心メンバー Umfang、〈White Material Record〉のメンバーでハウス・ミュージックの新星 Galcher Lustwerk などがプレイする今でも、その勢いはほとんど変わらないと思う。もちろんほかに新しくできたヴェニューへ移っていくDJもいるけれど、オープン初期にプレイしていたDJたちが今のブルックリンのダンス・ミュージック・シーンで活躍していると言っても過言ではない。
 ちなみに、10年代初期からDIYを掲げたウェアハウス・パーティを開催する Aurora Halal が主宰し、2014年にスタートしてから今では1000人限定の“特別なパーティ”となるまでに成長したNYで数少ない野外レイヴ・パーティ「Sustain Release」のセカンド・ステージには「Bossa Nova Civic Club」の名前がつけられている。それほど、10年代のダンス・ミュージック・シーンにとってここは重要なポジションであり、オーナーの John Barclay はシーンの立役者でもあるということだ。

 そんなわけで、この10年代をざっと振り返ってみるとブルックリンこそ、冒頭で話したスマホ並みにエポックメーキングなミュージック・シーンに変わった。そんな新世代のアーティストをこれから取り上げていこうと思う。

Squarepusher - ele-king

 先日の〈Warp〉30周年記念公演《WXAXRXP DJS》において、実質ライヴのような強烈なDJをかましてくれたスクエアプッシャーだけれど、なんと年明けにニュー・アルバムがリリースされる。タイトルは『Be Up A Hello』で、1月31日発売。最近はオルガン奏者ジェイムズ・マクヴィニーの作品に関わるなど、ずっと活動を続けていたトム・ジェンキンソンではあるが、スクエアプッシャーとしてはじつに5年ぶりのフル・アルバムとなる。年内12月6日に発売される先行12インチから“Vortrack”とそのセルフ・リミックス“Vortrack (Fracture Remix)”の2曲が公開されているが……これはかなり90年代っぽい? 原点回帰? アルバムへの期待が昂まるぜ。

[12月9日追記]
 更新情報です。先週末発売となった先行シングル「Vortrack」を購入すると、ボーナストラック“Vicsynth1.3 Test Track 1”がダウンロードできるそうです。さらに、1月31日発売のアルバム『Be Up A Hello』のTシャツ付きセット盤にも、それとは異なるボーナストラックが追加されるとのこと。これは嬉しいね!

5年ぶりの待望の最新アルバム『BE UP A HELLO』収録曲先行12インチ・シングル「Vortrack」に隠れボーナストラック!
アルバムのTシャツ付セットにも別のボーナストラックが追加!

〈Warp Records〉30周年記念イベント『WXAXRXP DJS』では、狂気じみたパフォーマンスで話題を集め、その後5年ぶりとなる最新作『Be Up A Hello』(2020年1月31日発売)のリリースも発表し、ファンを喜ばせたスクエアプッシャー。アルバムに先駆けて先週リリースされた12インチ・シングル「Vortrack」に封入されたダウンロード・カードから、表題曲“Vortrack”と自らリミックスした“Vortrack (Fracture Remix)”の他に、ボーナストラック“Vicsynth1.3 Test Track 1”が入手できることが明らかとなった。

さらに、アルバムと同時発売されるオリジナルTシャツ付セットにも別のダウンロード・ボーナストラックが追加されることが決定。90年代のアナログ機材が多用されたという最新アルバム『Be Up A Hello』の制作中、様々なアイデアを試み、様々な形でファンに届けようとするトム・ジェンキンソンの積極的な姿勢が垣間見られる。

スクエアプッシャー、5年ぶりの待望の最新アルバム
『BE UP A HELLO』を1月31日にリリース決定!
先行シングルと自身が手がけたリミックスを同時解禁!

常に新しい響きと新たな試みを求め、リスナーに驚きと衝撃を与え続けている唯一無二のアーティスト、スクエアプッシャーが5年ぶりとなる最新作『Be Up A Hello』(2020年1月31日発売)のリリースを発表! 先行シングル“Vortrack”、そして自らがリミックスした“Vortrack (Fracture Remix)”が同時解禁された。この2曲を収録した12インチは、アルバムに先駆け12月6日(金)にリリースされる。

Vortrack (Original Mix)
https://youtu.be/s3kWYsLYuHc

Vortrack (Fracture Remix)
https://youtu.be/59ke5hp-p3E

〈Warp Records〉が30周年を迎えた2019年、レーベルメイトのワンオートリックス・ポイント・ネヴァー、ビビオとともに3都市を巡った30周年記念イベント『WXAXRXP DJS』では、自身の楽曲群を用いて「もはやライヴでは?」と思わせるほどアッパーな高速ドリルンベース・セットを披露し、満員のオーディエンスを熱狂させたことも記憶に新しいスクエアプッシャー。そのセットにも組み込まれていた未発表の新曲も本作『Be Up A Hello』に収録となる。狂気じみたそのパフォーマンスには、直感と初期衝動に従って一気に完成させたというこの最新作の存在があり、本作を特徴付けた大きな要因に、90年代のアナログ機材を多用したという事実がある。エレクトロニック・ミュージックに目覚めた当時の思いや記憶を綴った日記のようでもあり、いつになくメロディアスで聞きやすい曲もあるのは確かだ。しかし、やはりその内容はスクエアプッシャーの音楽以外のなにものでもない。強烈で、スピーディで、目まぐるしくて、刺激的で、先の予測のつかないスクエアプッシャーの音楽だ。そして映像クリエイターのザック・ノーマンとトム自身がデザインしたアルバム・ジャケットには、『Do You Know Squarepusher』以来初めて、スクエアプッシャーのアイコニックなロゴも登場する。

自分がエレクトロニック・ミュージックを書き始めた頃、つまり90年代に自分が使っていた、そういう機材を使って新作を作りたいと思った。とにかくやりたかったのは、何かに取り組み、仕上げ、そして次に進む、ということ。今回のアルバムは直球で、インパクトに満ちた響きにしたかったんだ。 ──SQUAREPUSHER

最新アルバム『Be Up A Hello』は、2020年1月31日(金)発売。国内盤にはボーナストラックが追加収録され、解説書が封入させる。また数量限定でオリジナルTシャツセットも発売決定!

label: Warp Records / Beat Records
artist: Squarepusher
title: Be Up A Hello
release date: 2020.01.31 FRI ON SALE

国内盤CD BRC-624 ¥2,200+税
国内盤CD+Tシャツ BRC-624T ¥5,500+税

国内盤特典:ボーナストラック追加収録/解説書封入

label: Warp Records
artist: Squarepusher
title: Vortrack
release date: 2019.12.6 FRI ON SALE

輸入盤12inch WAP439

beatink:
https://www.beatink.com/products/detail.php?product_id=10683

Moor Mother - ele-king

 この音楽はぼくにある光景を喚起させる。デトロイトにおいてテクノなる音楽が、すなわちたかが音楽と我々日本人が思っているモノが社会的なパワーとリンクすることを本気で目指していたあの時代のあの光景である。いや、それは彼の地においてまだ終わったことではない。
 そもそも高橋勇人が悪い。昨日、スカイプ越しにロンドンの彼から、チーノ・アモービはテクノ史におけるアンダーグラウンド・レジスタンスのような存在だと評論家サイモン・レイノルズがピッチフォークで書いているという話しをされた。そのときは、まあたしかになぁとは思ったけれど、しかし帰り道で、いや待てよ、現代のアンダーグラウンド・レジスタンスという言い方がもし許されるというなら、それはフィラデルフィア出身のムーア・マザーのほうがより相応しいのではないかと思い直した。それでこうして、深夜に書きはじめているのである。
 ムーア・マザー(本名:Camae Ayewa)の音楽は、アミリ・バラカ、サン・ラー、Pファンク、パブリック・エナミー、UR、ドレクシア、あるいはサミュエル・ディレイニーやオクタヴィア・バトラーのようなSF作家、これらアフロ・フューチャリストたちの系譜の現在地点である。すなわち西欧文明支配の社会に対する抵抗者であり、ジェイムズ・ブラウンやサム・クックのソウル、ボブ・マーリーやラスト・ポエッツを息を吸うように吸収し、そしていま思い切り吐き出している抗議の音楽。ついに出たか。
 
 ひと昔前なら、ブラック・エレクトロニック・ミュージシャンといえばその多くがクラブ・カルチャーに属していたが、ムーア・マザーは必ずしもそういうわけではない。ハウスやテクノはDJのときにかけているようだが、彼女の出自はパンクであり、ラップだ。
 また、彼女の思想的共同体にはフィラデルフィアのブラック・クアンタム・フューチャリズムなるアフロ・フューチャリズム(文化研究、DIY美学、音楽、文学、アート、ワークショップなど)のプロジェクトがある。彼女はそのメンバーのひとりで、主宰者であるラッシーダ・フィリップスはSF研究であり、単著をもつ作家であり、弁護士であり活動家だ。いずれにせよ、ムーア・マザーの3枚目のアルバム『ソニック・ブラック・ホールのアナログ流体』の背後には、ここ10年であらたな展開を見せている新世代による21世紀のブラック・ムーヴメントが深く関わっているようだ。

 ちなみに、1866年のメンフィスの暴動から2014年のマイケル・ブラウン射殺事件までの歴史がコラージュされているという前作『Fetish Bones』以降、ムーア・マザーはいっきに注目を集めている。クラインは、最大限の賛辞をこめて歴史の勉強のようであり「本を読みたくなる音楽」(紙エレ22号)だと言い、自分のアルバムに参加してもらったアース・イーターは、ムーア・マザーについて次のように語っている。「彼女は私が出会った人のなかで、もっとも強いインスピレーションをくれた人のうちのひとりだった。今後出会う人のなかでも、彼女ほどの人はあまりいないと思う。彼女のやっていることは世界にとってとても重要なこと。彼女は詩を通して、人間を超えた存在になっている。タイムトラベルという単純な概念が、彼女の詩のなかで実現され、彼女の詩に耳を傾けている人たちを、悲惨で恐ろしい時代へと連れていくことができる。だから本当にその恐怖を感じることができる。詩を活用して、人びとの想像力を掻き立て、私たちの歴史の恐ろしさを理解し、実感させることができるというのはすごいことだと思うわ。人びとをそういう風に感じさせるということは、とくに私の国ではとても重要なことだと思う」(紙エレ23号)

 我々日本人が彼女の政治的かつ文学的な言葉の醍醐味を経験するには高いハードルがある。それはわかっているが、クラインが「ティンバランド2.0」と喩えたそのサウンドも聴き応え充分である。「言葉は、政府が人びとをコントロールするために使われもするが、音楽が解放のための技術であるなら、より感覚で、より開けている」とムーア・マザーは『WIRE』誌の取材で語っている。ゆえに音楽とはひとつのジャンル/スタイルに閉ざされてはならないというのが彼女の考え方だ。
 よってサン・ラーからの影響に関して彼女は、そこにあらゆる音楽(ブルース、ドゥーワップ、ソウル、ジャズ、クラシック、電子音楽、ノイズなど)があることだと説いている。じっさい本作『Analog Fluids Of Sonic Black Holes』では、複数のゲストを招きながら、エレクトロニック・ミュージックのさまざまな形態が試みられている。アルバムを“音波のブラック・ホール”と言うだけあって、音響そのもものも素晴らしいのだ。
 たとえば冒頭の3曲、思わず空を見上げてしまいそうな、サウンドコラージュとポエトリー・リーディングによる“Repeater”、そして彼女の烈しいラップと強固なビートを有する“Don't Die”~“After Images”へと続く最初の展開には、まずもって圧倒的なものがある。それに続くのが、公民権運動家でもあったポール・ロブスンの歌声からはじまる“Engineered Uncertainty”となる。
 ソウル・ウィリアムスが参加した“Black Flight”でもまた歴史の暗い闇をエレクトロニック・アフロ・ビートが駆け抜けていく。そして、地元フィラデルフィアのハウス・マスター、キング・ブリットによるウェイトレス・トラックの“ The Myth Hold Weight”でアナログ盤のA面は終わる。
 「あなたを感じる」というソウル・ヴォーカルのループとぶ厚い電子音による“Sonic Black Holes”からアナログ盤のB面ははじまる。三田格がレネゲイド・サウンドウェイヴのようだとメールしてきた“LA92”では、1992年のロサンゼルスの暴動がラップされている。ムーア・マザーとコラボレーション・シングルを発表しているMental Jewelryは、今回も3曲で参加しており、力ある声で読み上げられる詩の朗読と有機的に結合するかのような、そしてあぶくのような雲のようなエレクトロニック・サウンドを提供している。そのうちの1曲“Shadowgrams”が終わると、ブリストルの注目株ジャイアント・スワンによる重たく揺れるグルーヴの“Private Silence”が待っている。フィラデルフィアのラッパー、Reef The Lost Cauzeを招いていて、ここでも彼女は烈しくラップする。
 最後から2曲目の“Cold Case”には、ジャスミン革命におけるアンセム“Kelmti Horra(わたしの言葉は自由)”を書いたチュニジアのプロテスト・シンガー、エメル・マトルティが歌っている。そしてアルバムの最後に収録された“Passing Of Time”には、実験的なサンバで知られるブラジルのバンド、メタメタのヴォーカリストであるジュサーラ・マルサルが参加している。

 ──ぼくはこのアルバムを発売日に購入し、それから何度となく聴き続けている。アナログ盤で聴いて、データでも聴いている(いまどき珍しくパワフルな作品なので、半分聴いて休憩入れられるアナログ盤を推薦します)。で、聴いているなかでいまも新しい発見があり、ゆえにいまもってこの作品をどうにもうまく説明できていないなと自分でもわかっている。ただひとつだけ言っておこう。ブラック・マシン・ミュージックの新章が本格的にはじまったと。先日レヴューしたアート・アンサンブル・オブ・シカゴの新作での客演もずば抜けていたが、このアルバムにもまた唸らされている。

消費税廃止は本当に可能なのか? (4) - ele-king

財政のために人々がいるのではなく、人々のために財政がある。

 本シリーズの第三回目では、政府や銀行はその支出に際し財源は必要ない、ただ金額を記帳するだけでお金が生まれるとする概念「スペンディング・ファースト(最初に支出ありき)」や「万年筆マネー(Key Stroke Money)」のことをお伝えした。

 このことは政府や中銀、市中銀行の会計を調査することによって明かになった経緯がある。関西学院大学の朴勝俊教授がランダル・レイ教授の著作「Modern Money Theory」の会計的側面に関する要点( https://rosemark.jp/2019/05/07/01mmt/ )をまとめてくれている。バランスシートを解読することはなかなか難しいかもしれないが、それによると資産と負債が常にイコールになっていることや、政府がただ支出することによって民間に預金が生まれていることがわかる。

出典:MMTとは何か —— L. Randall WrayのModern Money Theoryの要点:関西学院教授・朴勝俊

 「誰かの負債は誰かの資産」だ。例えば上図からは民間銀行の資産「⑩中央銀行券」は中央銀行の負債「⑩中央銀行券」に対応していて、そこからは私たちが普段使っている日本銀行券(通貨)は、もともとは日銀の負債だったこともわかる。

 信じられないかもしれないが、これは事実だ。主流経済学は「貨幣がどこでどうやって作られるか」に注目してこなかった貨幣ヴェール論のままにマクロ経済を論じてきた。ノーベル経済学賞を受賞したポール・クルーグマン教授はMMTにも好意を示しているが、ランダル・レイ教授が以下のように批判している。高名な経済学者でさえ理解していなかったのだから、多くの人が知らなくても無理はない。

「彼は『お金が無から生まれるだって?』『政府の資金は尽きないのか?』といった問いを止められない。彼は”お金”が貸方と借方へのキーストロークの記録であることを全く理解していない。いまだに銀行が預金を取り込み、それらを政府に貸していると考えているんだ」
出典:New Economic Perspectives

 さて、財務省のプロパガンダを信じておられる方は「それでも政府債務である国債が1100兆円にも膨れ上がっているのだから、早く返さなければいけないのだ!」とツッコミを入れるかもしれないが、その点もとくに心配はいらない。

 MMTの視点では、政府支出後に発行された国債は金融市場を介して中銀の発行する準備預金と両替されるだけであり、また「政府の赤字は民間の黒字」「政府の債務は民間の資産」だと認識しているため、国債発行残高(累積債務)はただ単に貨幣発行額を記したものに過ぎないとされる。逆に国債を償還するということは世の中にある通貨を消滅させるということになるので、とくに減らす必要もない。

 その他のポストケインジアンらの視点では、中銀に買い取られた既発国債は借換を繰り返し消化され、またその中銀保有国債に満期が到来した時は、日本の場合は特別会計の国債整理基金とのやりとりを介して公債金という名の現金として財源化、国庫に納付されるだけとなる。国債償還費の殆どは日本政府の子会社である日銀が払っているし、本来は税金で償還する必要さえないのだ。
(参考:政府債務の償還と財源の通貨発行権(借換債と交付債)について -富山大学名誉教授・桂木健次


出典:政府債務の償還と財源の通貨発行権(借換債と交付債)について ポストマルクス研究会報告 -富山大学名誉教授・桂木健次

 桂木教授本人は「私は覗き見ポストケインジアンのポストマルクス派」と自称されているが、経済学も時代と共に進化するので、一つの学派に限らずいろんな研究成果を取り入れるということだろう。財務省の皆さんにも、ぜひ時代遅れとなった新古典派から脱却し、情報をアップデートしてほしいものだ。

 上記のような国債会計処理の事実があることを知ってか知らずか、--知っていてやってるとしたら悪質極まりない背信行為であるが-- 政府がどケチで、その債務ヒエラルキー下部に属する民間銀行や民間企業もどケチなため、実体市場に貸し借りが生まれない。貸し借りが生まれないということは、債務証書たる通貨も創造されえないということだ。

 通貨がこの世に生まれないから、人々は通貨を手に入れる機会を失い、消費もしなければ投資もしない。繰り返しとなるが「誰かの消費は誰かの所得」だ。誰かが消費しなければ他の誰かの所得が増えるはずもなく、経済は縮小していくのみとなる。

 政府が通貨を創造し、実体市場に供給しなければ、民間はただただ限られたパイ(通貨)を奪い合う弱肉強食の資本主義ゲームに没頭せざるを得なくなるという寸法だ。更には、この実体市場に通貨が足りない状況に加えて、市場から通貨を引き上げる消費増税まで幾度も強行されてきた。

 このような狂ったことを20年間やり続けたことによって、この国の需要は損なわれ、あらゆる産業は衰退した。その結果、台風被害に対する治水などの防災体制や、復旧のための供給能力は毀損された。停電が長引いたことによる二次災害となる熱中症で亡くなる人まで出す有り様になってしまったのだ。被害にあわれた方たちのことを思うと強い憤りを感じずにはいられない。

 そう、まさに「Austerity is Murder(緊縮財政は人を殺す)」だ。

 筆者の目には、この状況は「欲しがりません、勝つまでは」と言いながら、兵站を削りインパールに向かった大日本帝国軍の行軍そのものに見える。

 ケルトン教授は来日時に、「大企業や富裕層らの既得権益を代表する一部の共和党議員は、ほかの国会議員にMMTのロジックが知られてはまずいと思っているからこそ、MMTを危険だとする非難決議を国会に提出した。MMTを理解した政治家によって大多数の国民が助かる政策にお金が使われてしまうことを恐れたからだ。これは逆に、彼らが、政府の赤字支出が誰かの黒字になることを知っている証拠ともなる」ということを語っていた( https://www.youtube.com/watch?v=6NeYsOQWLZk )が、MMTや反緊縮のロジックが知られるとよほど都合の悪い勢力がいるということだ。

 エスタブリッシュメントは、自身らの草刈り場である金融市場にお金を流すことで利益を得ようとしているため、財政政策を介して実体市場にお金が供給されることで、金融市場における自らの利益が減ることを防ごうとしているのだろう。実際にはそんなトレードオフが起こるとも限らないのだが。


 先月、日経新聞が「消費増税に節約で勝つ 日常生活品にこそ削る余地あり」と題した記事で、”買わないチャレンジ”として、「何カ月かすると、それまでは当然のように思っていた物欲が、ほとんど強迫観念のようなものだったことに気がつきました」「日常生活費を削減するため、まずは買わない生活を」といったことを書いていた。

 日経新聞も、本シリーズ冒頭で触れた経団連や経済同友会などと同様に「家計簿脳」まる出しである。このような記事を重ねることで国民の消費活動を抑制させれば、日本経済を破滅に導くことになりかねない。日経新聞が訴えるべきは政府にもっと各所に財政支出をしろ、減税しろということではないか。筆者には何かしらの意図があるように思えてならない。

 日本国内ではこのように気の滅入る論説ばかりが目につくが、海の向こうでは一つの兆しも生まれた。先日、欧州中央銀行のドラギ総裁が、「ECBと各国政府は、金融政策ではなく財政政策に力を入れるべきで、MMTやヘリマネのようなアイデアにもオープンになるべきだ」と発したのだ。

 ドラギ氏は、加えて「ECBが国債を直受け(財政ファイナンス)し、消費者に直接届ける」という向きでも発している。この一連の発言が、どこまで具体性を帯びた政策を想定しているのかはわからないが、各国政府に財政出動を勧めたうえで、ECBは最後の貸し手(Lender of Last Resort「LLR」)役以上の役も担うということなのかもしれない。富を吸い尽くすドラギラ伯爵とも揶揄された彼の、任期満了直前の置き土産といったところか。

 この手の「金融緩和は役割を終えた。財政出動が有効だ」とする論はドラギ氏だけではなく、ポール・クルーグマンをはじめ、IMFチーフエコノミストでMIT名誉教授のオリビエ・ブランシャールや、元ハーバード大学学長で元世界銀行チーフエコノミストのローレンス・サマーズらも同様の発言を重ねているほか、実際にドイツ政府は、景気後退への対応策として国民経済の需要を押し上げるために巨額の財政出動を準備していると伝えられている。

 また、先日開かれたG20では、主要国からは「金融政策頼み」をやめ、財政政策にシフトすべきだとの声も上がっている。IMFのゲオルギエワ専務理事は「金融政策だけでは役に立たない」とも主張していた。

 MMTer達は、この「役割を終えた説」よりもっとラディカルな「金融緩和無効論」を早くから論じてきている。ランダル・レイ教授は「中央銀行家は財政政策をどうすることもできない。彼らは、配られた唯一の手札、つまり金融政策でしかプレイできないが、その手札はバランスシート不況においては無力(インポ)である。回しているそのハンドルは経済に繋がっていなかった」と「MMT 現代貨幣理論入門(p473)」に綴っている。

 MMTが注目される背景には「金融緩和策は資産価格を上昇させ、富裕層だけに恩恵を与えた」という不信感もあるのだが、いずれにしても、上述したように、MMTerと同じような発言が、欧米の超大物エコノミスト達からも発せられているのだから、エスタブリッシュメントの庇護者である自民党や財務省、経団連も無視できないのではないだろうか。


 日本では、山本太郎氏の影響もあってか、共産党のみならず国民民主の小沢一郎議員原口一博議員、立憲の川内博史議員ら野党大物議員からも消費税減税ないし積極財政の声が聞こえつつある。加えて、山本太郎氏や松尾匡教授らとマレーシア視察に行った立憲若手の中谷一馬議員は、「MMT(現代貨幣理論)に関する質問主意書」と題した見事な質問書を衆議院に提出している。

出典:衆議院・第200回国会 中谷一馬議員 質問主意書

この質問書と、対する政府答弁に関しては、11月4日と5日に来日講演を予定しているMMT創始者の一人のビル・ミッチェル教授(ニューキャッスル大学)も呼応している。我々一般国民は、野党の議員たちにも声を届けつつ、議論の輪を拡大し、大いに期待して待てば未来は明るいと感じさせてくれる。

 消費税廃止は可能だ。わが国の財政にも心配はない。無意味な心配をし、出し惜しみをすることで余計に状況が悪化することを、わが国は20年かけて証明してきたじゃないか。

 「財政のために人々がいるのではなく、人々のために財政がある」とは、松尾匡・立命館大学教授の言だ。政府財政を均衡させることに意味はない。むしろ財政黒字化のために、徴税で人々のポケットからお金を奪うことは国力の衰退につながる。政府は人々にもっとお金を支出し、経済活動を活発化させることで、生産力を維持し、人々を幸せにしなければならないのだ。

 本稿のような情報に初めて触れられた方もおられるだろう。経済学初学者でミュージシャンである筆者の下手くそな理論解説にもどかしい思いをされたであろうことをお詫びしたい。

 と同時に、たとえば以下のような発言をみたとき、少なからず違和感を覚えていただけたら幸いである。こういう発言こそが、経済学でいう「合成の誤謬」と呼ばれるひとつの勘違いであり、この国を衰退させる考えだからだ。

 ユニクロ・柳井正氏「このままでは日本は滅びる。まずは国の歳出を半分にして、公務員などの人員数も半分にする。それを2年間で実行するぐらいの荒療治をしないと。今の延長線上では、この国は滅びます

Endon / Swarrrm - ele-king

 スプリット盤、はとくにパンクやハードコア、メタル等において顕著な音源形態であり、それは過剰なロックへと表出するなんらかの強固な思想、の分かち合いである……と個人的には思っている。
 で、“わいしんろん”と読むらしい。おそらくはグノーシス主義における反宇宙的二元論に属する思想であろう。物質で構成された悲惨な世界は“偽の神”によって創造された“悪の宇宙”であり、一方“霊”あるいはイデアーこそが真の存在であり「真の世界」に帰依するものである……云々といったアレである。スワームの“偽救世主共”から連想せずにいられるものか。

 ゼロ年代初頭、筆者は超が付くほど熱心なメタルコア、もしくは当時の言葉をかりればシンキング・マンズ・メタル(考える野郎のメタル)のファンであった。当時東海岸を中心に盛り上がりをみせていた新生エクストリーム・ミュージックの担い手、具体的にはコンヴァージやアイシス、ボッチ、ケイヴ・イン、デリンジャー・エスケープ・プラン、カンディリア、ニューロシス、サンやカネイトなどなど……繊細かつプログレッシヴで、それでいて圧倒的に攻撃的なバンドの台頭はロックの未来を確信させる体験であった。それらは高柳昌行をはじめとする日本のフリージャズ、即興演奏が海を渡ってロックとして昇華、消化されていく現象でもあった。そんな当時、筆者が同様の熱気を持って観覧するバンドが二組いた。ヘルチャイルド/フロムヘルとスワームである。90年代より国内のエクストリーム・ミュージックを引率してきた彼らが前述のバンドらを含む国外の次世代へ与えた影響は計り知れない。別個のバンドである両者を一口に語ることはできないが、彼らのギミックを排したエクストリーム・ミュージック、本来の形態としてのロックンロールの究極系を探求するサウンド、シーンに蔓延していたマッチョイズムとは一線を画したグローバルな活動、など、当時自分はこのようなバンドが国内に存在することに驚愕し、その活動を間近で観られることに至極の喜びを感じていたことはいまでも色あせずに記憶に残っている。

 歪神論は国内外に囚われることのない文化交易の賜物と断言できる。エンドンは近年の音源に顕著なパンキッシュなソングライティングと彼らのバックグラウンドとも言えるフリージャズの鍛錬を見事に表出させた楽曲を収録。とくにコンフリクトのアルバム『ザ・ファイナル・コンフリクト』を彷彿させる、アシッドを食ったモヒカン共がステージ上でDビートを用いて宇宙と交信を試みているような曲展開には圧巻だ。メンバーの精神状態を疑うほどの楽曲全体に充満する不穏な空気はさながらSPKの如きガチ狂気。バンドがなければ今頃コイツ等は間違いなくブタ箱の中だろう。対する御大スワーム、恥ずかしながらVoの原川氏の加入以降のバンドの軌跡を追えていなかった自分にとって驚きを隠せない。暗喩を排した日本詞、ジャパニーズ・ハードコア史からその純粋、無垢な魂のみを結晶化したような楽曲にはある種のポップネスすら感じられる。両者の対比は冒頭に語った反宇宙的二元論、物質からなる肉体を悪とする結果のふたつの対極的な道徳を感じさせる。スワームのストイックなまでの楽曲、リリックはもはや禁欲主義とも捉えられるし、エンドンの禍々しいサイケデリアは霊は肉体とは別個ゆえ、肉体が犯した罪悪とは切り離されるという論理の元にあらゆる不道徳に走る放縦主義として捉えられる。

 どちらに成る事もできない自分のような半端者にとっては現在の日本のロックの聖典なのかもしれない。

interview with Adrian Sherwood - ele-king

 トロトロに様々な具材が溶け合った濃厚なスープのようなアルバム『Heavy Rain』。リーの軽快なヴォーカルを温かなルーツ・リディムで彩った『Rainford』に対して、サイケデリックで混沌としたコラージュ感と重心の低いリズム・トラックは〈ブラックアーク〉末期を彷彿とさせる。しかし、本作『Heavy Rain』は単なる“ダブ・アルバム”と呼ぶにはいささか不思議な体制のアルバムになっている。そう、リー・スクラッチ・ペリーの最新作『Heavy Rain』は不思議なアルバムだ。いわゆるダブ・アルバム──アルバムの頭からお尻まで全ての曲を単にエイドリアン・シャーウッドがダブ・ミックスしたヴァージョン集ではない。もちろん続編やアウトテイク集でもない。そのオリジナルとも言える『Rainford』に収録されている楽曲のダブ・ミックスも収録されているが、今回はじめて登場するリディム・トラックの楽曲も収録されている。また単にトラックだけでなく、新たなアーティストも参加している。まず、リーのダブワイズされたヴォーカルが行き交うなか、ヘヴィなリディムをベースに、トロンボーン特有のゆったりとした心地よい熱風のような旋律が流れてくる。その主は、ヴィン・ゴードン──レゲエ・ファンにはおなじみの伝説的トロンボニスト──1960年代末からポスト・ドン・ドラモンド(実際にドン・ドラモンド・ジュニアと名乗っていたこともある)としてジャマイカの音楽シーンにて大量に名演を残しているレジェンドが参加している。インストに管楽器奏者やキーボーディストが新たな旋律を加えることはジャマイカ・ミュージックの常套手段でもあるが……おっと忘れてはいけない、なにより本作の大きなトピックとなっているのはブライアン・イーノの参加だ。『Rainford』の先行シングル・カット曲とも言える“Makumba Rock”のクレイジーで強烈なイーノとエイドリアンによるダブ・ヴァージョン、すでに『Heavy Rain』に先駆けて先行公開されている“Here Come The Warm Dreads”(イーノが自身の『Here Come The Warm Jets』をもじったものだとすれば、往年の〈ON-U〉ファンにはアフリカン・ヘッド・チャージの『My Life In A Hole In The Ground』がニヤリと頭に浮かぶだろう)。本作はある種リー・スクラッチ・ペリーのヴォーカル・アルバム『Rainford』を、その存在そのものをダブで拡張してみせた、そんなアルバムだ。

新しい人と一緒にやって新たなアイデアを取り入れる必要があるんだ。1975年ではなく2020年におけるリー・スクラッチ・ペリーらしいレコードを作ろうとしたわけだ。

今回の『Heavy Rain』は、いわゆるオリジナルの『Rainford』をもとにした純然なスタイルのダブ・アルバムではありませんよね?

エイドリアン・シャーウッド(Adrian Sherwood、以下AS):確かにね。でも、だって同じもの、同じもの、同じ、同じ、同じ……ってやっててもなにも進歩がないだろう? 今回のレコードにはヴィン・ゴードンをはじめとする素晴らしいアーティスト、さらにブライアン・イーノも参加している。俺やリーはダブのはじまりからずっとやってきたけど、まだ新しい人と一緒にやって新たなアイデアを取り入れる必要があるんだ。そして1975年ではなく2020年におけるリー・スクラッチ・ペリーらしいレコードを作ろうとしたわけだ。実際すごく新鮮でエキサイティングなレコードになったと思うね。

リーをメインに添えた『Rainford』とも違ったものになっていると思いますが、アルバムのサウンド・コンセプトなどはあったんでしょうか?

AS:まず『Rainford』のコンセプトはリーの極私的なレコードを作るというものだった。リーが自らのライフ・ストーリーをその歌で語りつつ自分自身について明かしていくというね。実際とても親密で素晴らしいレコードになったと思う。対して『Heavy Rain』だけど、これは他のプロモーションのインタヴューでも話したことなんだけど、あえてリーの過去の傑作にたとえるならば『Super Ape』なんだ。これはダブの発展系であり、いろんなフレーバーが楽しめるものになっているんだよ。それに『Rainford』はあの形で完璧な作品だと思ったから、一緒にレコーディングした楽曲で、残念ながら入れられなかった曲がいくつかあった。でもクオリティ的には収録曲と何ら遜色のない素晴らしい曲たちだったから、それを『Heavy Rain』に入れたんだ。だから『Rainford』が好きなファンは絶対『Heavy Rain』も気に入ると思う。

『Rainford』に対して『Heavy Rain』というタイトルがつけられています、これはどこからもたらされたのでしょうか? よくあるダブ・アルバムっぽい、ヘヴィなサウンドとオリジナルのタイトルをもじったものだと思うけど。

AS:そこには明らかに二重の意味があって、まずひとつは、そのアルバムのヘヴィなベースラインを示唆している。そしてもうひとつは字義通りの「空から降ってくる激しい雨」という意味だけど、それは、このレコードが喚起するものすべてを表わしていると思う。「Rainford」はリーの名前で、彼も非常にパワフルでヘヴィだからね。

今回のジャケットは、キリストの肖像画をコラージュしたもののようですが、これにはなにか意味することがあるのでしょうか?

AS:いわゆる一般的に伝統的なキリストのイメージというのは白人のイタリア人として描かれている。それは、いまやいたるところで目にするわけだけど、実際のキリストはおそらくもっと肌の色が濃い誰かだったはずなんだよ(*おそらくエイドリアンは中東に生まれたことを示唆している)。ハイレ・セラシエ一世が古代イスラエルのソロモン王の末裔だとしたら、古代のイスラエル人は黒人の種族なわけだからね。つまりジャケットのアイデアは、キリストが黒人じゃないといまどうして言い切れるのかということなんだ。もっと言えば、黄色人種じゃないとも言い切れないだろ? こういうキリストのイメージを使うことで怒る人もいるかもしれないけど、でもそれはもう、ファック・ユー(失敬)と言うしかない。そもそもイタリア人が元のイメージを盗んで作り上げたものなんだしさ。伝統的と言われているものに、本当にひとつでも正確な描写があるのかよっていう。まあ俺の意見だけどね。

伝統的と言われているものに、本当にひとつでも正確な描写があるのかよっていう。

80年代、ジャマイカから移り住んだリー・ペリーとともにすでに40年近く作業を共にしていると思うのですが、いままでにリー・ペリーと一緒に作業をして驚かされたことはありますか?

AS:リーは不思議なものが好きで、いつもロウソクや電気で遊ぶんだ。『Time Boom X De Devil Dead』を作ってたときに、友だちのデヴィッド・ハロウ(*アフリカン・ヘッド・チャージなどに参加、1990年代に入るとテクノヴァ、ジェームス・ハードウェイ名義でテクノ・シーンで活躍)が、スタジオの中を指して「見ろ、見ろ」って言うんだよ。そうしたらリーがひとりでスタジオにいて椅子の上に立っていて。俺たちはそれを廊下から見ていたんだけど、彼は片手で天井の大きな電球を握っていて、それがショートして明滅してたんだ。そして左手には触ると電気ショックがくる子供のおもちゃを持っていたんだよ。だから右手で電球を握って自分の手を焦がしながら左手で感電していたわけさ。どうしてそんなことをするかって? そんなのリー本人のみが理由を知っているんだ。たぶん自分で電気を発生させようとしていたんじゃないかな。

リーがあなたのところにいたときに、いろんなもの(機材や7インチ・レコード)を土に埋めていたとききましたが、本当でしょうか? またあなたから見てそれはどういう意味があったと思いますか?

AS:埋めてたのは本当で、それはレコードを育てるため。そしてもっと売れるようにするため。面白がって一枚だけ庭に埋めてたんだよ。そしたらもっと売れると彼は考えたわけさ。

さて今回の一連の作品に関してリーはどの程度制作に関与していたのでしょうか?

AS:まずジャマイカに行ってリーと彼の妻の家で1週間ほど過ごしてヴォーカルを録り、次に彼がイギリスに来てそこでもいくつかリディムを作ったんだ。そのときにリー自身にもパーカッションを叩いてもらい、オーヴァーダブをした。もろもろサウンドの提案もしていったよ。そのあとで自分がミックス作業をしたんだ。だから彼の関与はミックスの工程よりもレコーディングの工程が大きいといえるね。『Time Boom X De Devil Dead』の頃とか、40年ほど前はもっとミキシングにも関わっていたけど。そうやって前にも一緒にミキシングもやっていて、ちゃんとコミュニケーションも取れていて、彼が求めているものは把握しているからね。逆に言えばリーから「これは好きだ、これは好きじゃない」といった意見も出てくるからうまくいっていると思う。

ブライアン・イーノとのコラボレーション“Here Come The Warm Dreads”はどのような経緯で?

AS:ブライアンとはこれまでに何度か会ったことはあったけど、お互いをよく知っているというよりも、お互いについて知っているという感じで、何かを一緒にやったことはなかった。ただマネージャーが同じなんだよ(笑)。だからマネージャーに「ちょっとブライアンに興味があるか聞いてみてもらえるかい?」と頼んだのがきっかけなんだ。そうしたら「ぜひともやりたい」という返事をもらったんだ。ものすごくシンプルな話なんだよ。

“Here Come The Warm Dreads”は片方のチャンネルが完全に喪失したりと、かなりトリッキーなミックスがなされていますね。相当スタジオで盛り上がって作ったんじゃないでしょうか?

AS:かなり楽しい作業だったよ。ただ一緒にスタジオに入ったわけじゃないんだ。作業の直前に、ブライアンがすぐに何週間かどこかへ行ってしまうというタイミングだったから一緒にスタジオに入れなくて。なので、素材を渡して彼は彼でミックスをして俺も俺でミックスをしたんだ。それを後で合体させたというわけ。事前のプランではスピーカーからそのまま音が飛び出してくる感じにしようと話してたから、ある瞬間に片方のスピーカーから俺のミックスが聴こえてきて、彼の音がもう片方から聴こえてきたり、次の瞬間にそれが真ん中で合流したりするという感じなんだ、まあ少々複雑なんだけど、あのトラックは完全にイカれてるね。

イーノはアンビエントの創始者ですが、リーもダブのパイオニアのひとりです。アンビエントとダブに共通するものはなんだと思いますか?

AS:余白、スペースがあるってことだね。たっぷりとしたスペースがあり、そして思考を刺激するところだ。

オリジナル・アルバム+ダブ盤ともに、バックヴォーカルで娘さんふたりが参加されていますね。彼女たちは音楽活動をしているんですか?

AS:ふたりとも声がすごくいいからさ。上の子は音楽をやっていて一緒に作ったレコードもあるんだけど、彼女は心理療法士なんだ。

今回の音源には、スタイル・スコットが殺される前、最後になってしまったレコーディング・セッションの音源が入っている。彼はジャマイカのリズムを変えたんだ。いまのバンドを聴いてみてもその影響がはっきりとわかるね。

ヴィン・ゴードンが多くの曲にフィーチャーされていますが、彼の起用はどんな理由から?

AS:彼は Ital Horns のトランペット奏者のデイヴ・フルウッドと友達で、デイヴからヴィンが来るという話をきいて、とにかく彼とレコーディングをするチャンスだと思ったんだ。彼との仕事はこの上ない喜びだった。もうだいぶ前に、ほんの少しだけ仕事をしたことがあったけど、今回参加してもらえて本当にうれしかったよ。ヴィンはものすごく紳士な人だ。その場で彼の演奏を聴いているときは彼がどんなにすごいことをしているのか気づかないんだけど、ふしぎとあとで聴くとすごいのがわかるんだよ。

フィーチャリングというと、ジ・オーブやユースなどとも活動している、ガウディというイタリア人のキーボーディストが今回のアルバムでフィーチャーされていますね

AS:ガウディは良い友だちで、めちゃくちゃ才能がある。そして、すごくいいやつだよ。珍しいおもちゃのシンセサイザーだったり、楽器をたくさん持っていたりとか、趣味が良いんだよね。正直、今回『Rainford』と『Heavy Rain』の両方でガウディが果たした役割は大きかったし重要だった。彼は今度出るホレス・アンディのアルバムもやってるよ。

また今回の作品は、最初期の〈On-U〉から活動しているクルーシカル・トニーなども参加しています、彼はあなたにとってどのような人物ですか?

AS:彼とは、俺が初めて作ったレコードから一緒だからね。今回のレコードにとってもトニーとジョージ・オバンは決定的に重要で、全曲で演奏してるんだ。言ってみれば彼らがバックボーンとして支えてくれているわけ。トニーは俺が一番好きなリズム・ギタリストでジョージは俺が一番好きなベーシストで、ふたりとも本物だよ。

そして今回は故スタイル・スコット、さらには〈On-U〉初期から活動しているパーカッショニストのマドゥーなどなど、往年のアーティストのクレジットがあります。それを考えると今回、古いマテリアルも入ってそうですが。

AS:今回の音源には、スタイル・スコットが殺される前、最後になってしまったレコーディング・セッションの音源が入っている。そのときのセッションから、リディムをふたつ使っていて、そのうちのひとつは『Rainford』の収録曲。さに、もうひとつ『Heavy Rain』で使っているよ。マドゥーは、〈On-U〉初期からの付き合いで若い頃から知ってるけど、昔の音源ということではなく、今回はわざわざパーカッションを演奏してもらってる。スタイル・スコットも21歳の頃から知っていて、40年来の仲だったわけだけどね。彼に起こったことを考えると毎日胸くそが悪くなる。彼はジャマイカのリズムを変えたんだ。いまのバンドを聴いてみてもその影響がはっきりとわかるね。本当に彼と友だちでよかったし、一緒にやることで自分のサウンドがすごくいいものになったと思えた。あれほど素晴らしい人物と接することができてよかったよ。

クレジットを見る限り、スタイル・スコットのドラムのマテリアル以外は“プリゾナー(Prisoner:囚人)”なる人物がプログラムしたドラムのようです。あなたの別名義なんでしょうか?

AS:ええと……まぁ、そうだね(苦笑)。昔ベースを弾いてる頃はクロコダイル(Crocodile)という名義だったけどね。ドラムのときはプリゾナーだったんだ。なぜその名前かというと、単に面白かったからだけど、あとはいろいろな音をサンプルして機械の中に音を閉じ込めてたからそういう意味もあったんだ。1980年代、いまのPCでのDAWができるもっと前に、AMS Audiofile (最初期のデジタル・オーディオ・エデター)という機材があって、それでサンプルした音を、テープを操作しながらレコードに挿入していったわけ。その当時、俺はその作業で作った音源を“キャプチャーした(捕らえられた)”サウンドと呼んでいたんだ。それでプリゾナーてわけさ。

本作に参加している往年のアーティストたちとの間に、〈On-U〉の音楽から派生したコミュニティがあるのでしょうか? かつてそこでパンクとレゲエが出会ったように、いまでも〈On-U〉の音楽に影響を与えていますか?

AS:コミュニティという感じは昔の方が強かったな。悲しいことに多くの友人が死んでしまったからね。リザード(Lizard、ベーシスト)も(ビム・)シャーマンもスタイル・スコットもプリンス・ファーライもさ。それに俺たちもみんな歳を取ったし……依然として出会いの場にはなってるけど音楽業界も昔とは違う。昔はそれこそ(マーク・スチュワート&)マフィアもタックヘッド、ダブ・シンジケート、リー・ペリー、あとはアフリカン・ヘッド・チャージもみんなしょっちゅうギグをやってたけど、いまはそうじゃない。アフリカン・ヘッド・チャージは調子いいけどね。いまでもレーベルは一目置かれているけど、全盛期のように毎週ギグがあるっていうことではないからさ。いまはレギュラーで活動しているというよりもスペシャルなイベントをやるという感じだな。まずはもうすぐレーベル40周年だからそれに向けて色々やる予定だよ。

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