「KING」と一致するもの

ele-king vol.32 - ele-king

2010年代──音楽は何を感じ、どのように生まれ変わり、時代を予見したのか
いま聴くべき名盤たちを紹介しつつ、その爆発的な10年を俯瞰する

『ele-king vol.32』刊行のお知らせ

目次

ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー
インタヴュー再び「2010年代を振り返る」(小林拓音+野田努/坂本麻里子)

特集:2010年代という終わりとはじまり

2010年代の記憶──幽霊、そして新しきものたちの誕生(野田努)
 ・入眠状態、そしてアナログ盤やカセットのフェチ化
 ・OPNからヴェイパーウェイヴへ
 ・「未来は幽霊のものでしかありえない」とはジャック・デリダの言葉だが
 ・フットワークの衝撃
 ・ナルシズムの復権とアルカ革命
 ・シティポップは世界で大流行していない
 ・そしてみんなインターネットが嫌いになった
 ・アナログ盤がなぜ重要か
 ・音楽市場の変化
 ・巨匠たち、もしくは大衆運動と音楽
オバマ政権以降の、2010年代のブラック・カルチャー(緊那羅:Desi La/野田努訳)
カニエ・ウエストの預言──恩寵からの急降下(ジリアン・マーシャル/五井健太郎訳)
絶対に聴いておきたい2010年代のジャズ(小川充)
活気づくアフリカからのダンス・ミュージック(三田格)
坂本慎太郎──脱力したプロテスト・ミュージック(野田努)
ジェネレーションXの勝利と死──アイドルとともに霧散した日本のオルタナティヴ(イアン・F・マーティン/江口理恵訳)
あの頃、武蔵野が東京の中心だった──cero、森は生きている、音楽を友とした私たち(柴崎祐二)
ネットからストリートへ──ボカロ、〈Maltine〉、tofubeats、そしてMars89(小林拓音)
ポップスターという現代の神々──ファンダムにおける聖像のあり方とメディア(ジリアン・マーシャル/五井健太郎訳)
マンブルコア運動(三田格)
BLMはUKをどう変えたのか(坂本麻里子×野田努)

ライターが選ぶ いまこそ聴きたい2010年代の名盤/偏愛盤
(天野龍太郎、河村祐介、木津毅、小林拓音、野田努、橋本徹、三田格、渡辺志保)
2010年代、メディアはどんな音楽を評価してきたのか

2023年ベスト・アルバム30選
2023年ベスト・リイシュー23選
ジャンル別2023年ベスト10
テクノ(猪股恭哉)/インディ・ロック(天野龍太郎)/ジャズ(小川充)/ハウス(猪股恭哉)/USヒップホップ(高橋芳朗)/日本ラップ(つやちゃん)/アンビエント(三田格)

2023年わたしのお気に入りベスト10
──ライター/ミュージシャン/DJなど計17組による個人チャート
(天野龍太郎、荏開津広、小川充、小山田米呂、Casanova. S、河村祐介、木津毅、柴崎祐二、つやちゃん、デンシノオト、ジェイムズ・ハッドフィールド、二木信、Mars89、イアン・F・マーティン、松島広人、三田格、yukinoise)

VINYL GOES AROUND PRESENTS そこにレコードがあるから
第3回 新しいシーンは若い世代が作るもの(水谷聡男×山崎真央)

菊判218×152/160ページ
*レコード店およびアマゾンでは12月15日(金)に、書店では12月25日(月)に発売となります。

オンラインにてお買い求めいただける店舗一覧
12月15日発売
amazon
TOWER RECORDS
disk union
12月25日発売
TSUTAYAオンライン
Rakuten ブックス
ヨドバシ・ドット・コム
HMV
honto
Yahoo!ショッピング
7net(セブンネットショッピング)
紀伊國屋書店
e-hon
Honya Club

【P-VINE OFFICIAL SHOP】
SPECIAL DELIVERY

全国実店舗の在庫状況
 ※書店での発売は12月25日です。
丸善/ジュンク堂書店/文教堂/戸田書店/啓林堂書店/ブックスモア
紀伊國屋書店
三省堂書店
旭屋書店
有隣堂
くまざわ書店
大垣書店
未来屋書店/アシーネ

明治から昭和30年代まで製造された日本のSPレコード(78rpm)
空前絶後のビジュアル本ついに発売!

明治時代の海外出張録音盤をはじめ、大正時代のはやり唄、昭和の流行歌やジャズソング、歴史的音源や演説などの特殊盤、更には「エロ歌謡」から「夜店レコード」と「へたジャズ!」まで、ぐらもくらぶでヒットしたアルバムカテゴリーを含むビジュアルでたどるレコードの歴史本。

レコードのデザインをテーマとし、歌謡曲レコードの鮮やかなレーベルと歌詞カードなど印刷物をカラー・ページで多数掲載。

お笑い芸人から映画俳優のレコード、2023年の朝ドラのモデルである服部良一や笠置シズ子、100年を迎える浅草オペラと忠犬ハチ公の肉声レコードなど、注目のラインナップ多数。

A5判464ページ(圧巻の2300枚のSP盤、カラー・ページ)

保利透(ほり・とおる)
1972年、千葉県生まれ。アーカイブ・プロデューサー、戦前レコード文化研究家、ぐらもくらぶ代表。過去と現代の対比を検証するというテーマのもと、戦前の音楽の素晴らしさと、録音による時代の変化をイベントやメディアを通じて伝えている。プロデュースしたSP復刻CDに『花子からおはなしのおくりもの』『踊れ!ブギウギ ~蔵出し戦後ジャズ歌謡1948-55』(ユニバーサル)、『日本の軍歌アーカイブス』『KING OF ONDO ~東京音頭でお国巡り~』『ザッツ・ニッポン・エンタテインメント・シリーズ』(ビクター)など多数。近年は戦前の録音風景を再現したCD『大土蔵録音2020』をリリースし、2021年度のミュージック・ペンクラブ音楽賞ポピュラー部門最優秀作品賞に輝いた。ラジオ出演にTBSラジオ『伊集院光とらじおと「アレコード」』など。

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Jim O'Rourke & Takuro Okada - ele-king

 師走。いよいよ年末年始が迫ってまいりました。年明け後最初の目玉となりそうな公演が決まっています。1月13日、ジム・オルークと岡田拓郎による2マン・ライヴ@渋谷WWWです。オルークはソロ・セット、岡田拓郎はマーティ・ホロベック、山本達久、森飛鳥、松丸契らとの「band set」として出演。いや、これは行かないわけにはいかんでしょう。チケットなど詳細は下記よりご確認ください。

音の探究者「ジム・オルーク」と「岡田拓郎 band set」による2マンライブが決定。

ジム・オルークはソロセット、岡田拓郎は”アンビエントブルース”を奏でるバンドセットで出演。

澄み渡り静けさをたたえる新年の東京、さまざまなプロジェクトで才気を発揮し
現代日本の音楽シーンの先鋭と深淵を拓く両者の音を堪能しに、お出かけください。

<公演概要>
タイトル:WWW presents dots "new year quiet"
日 程:2024年1月13日(土)
会 場:Shibuya WWW https://www-shibuya.jp/
出 演:
 ジム・オルーク / Jim O'Rourke
 岡田拓郎 band set (with マーティ・ホロベック、山本達久、森飛鳥、松丸契)
時 間:open 17:00 / start 18:00
料 金:前売 ¥4,000(税込 / ドリンク代別 / 全自由)
チケット:
一般発売:12月1日(金)19:00-
e+:https://eplus.jp/jim-orourke-okadatakuro/
Zaiko:https://wwwwwwx.zaiko.io/e/dots-newyearquiet
問い合せ:WWW 03-5458-7685

公演詳細ページ:https://www-shibuya.jp/schedule/017337.php


ジム・オルーク / Jim O'Rourke
1969年シカゴ生まれ。Gastr Del SolやLoose Furなどのプロジェクトに参加。一方で、小杉武久と共に MerceCunningham舞踏団の音楽を担当、Tony Conrad、Arnold Dreyblatt、Christian Wolffなどの作曲家との仕事で現代音楽とポストロックの橋渡しをする。1997年超現代的アメリカーナの系譜から「Bad Timing」、1999年、フォークやミニマル音楽などをミックスしたソロ・アルバム「Eureka」を発表、大きく注目される。1999年から2005年にかけてSonic Youthのメンバー、音楽監督として活動し、広範な支持を得る。2004年、Wilcoの「A Ghost Is Born」のプロデューサーとしてグラミー賞を受賞。アメリカ音楽シーンを代表するクリエーターとして高く評価され、近年は日本に活動拠点を置く。日本ではくるり、カヒミ・カリィ、石橋英子、前野健太など多数をプロデュース。武満徹作品「コロナ東京リアリゼーション」など現代音楽に至る多彩な作品をリリースしている。映像作家とのコラボレーションとしてWerner Herzog、Olivier Assayas、青山真治、若松考二などの監督作品のサウンドトラックを担当。


岡田拓郎
1991年生まれ。音楽家。2012年にバンド「森は生きている」を結成。『グッド・ナイト』をリリース。2015年のバンド解散後は、シンガー・ソングライターとしての活動、環境音楽の制作、即興演奏、他のミュージシャンのプロデュースやエンジニア、演奏者として数多くの作品やライブにも参加している。ギター、ペダルスティール、シンセなどの楽器を演奏する。2022年8月にアルバム『Betsu No Jikan』をリリース。

Voodoo Club - ele-king

 暴動クラブとは、暴動を起こす部活の名ではない。いま話題の、平均年齢20才のロックンロール・バンドのことだ。11月3日にリリースされたデビュー・シングル「暴動クラブのテーマ」がアナログ・レコードだけで、オリコンROCKシングル週間ランキング第8位。しかも、たった2日間しか集計期間がなかったのにもかかわらず。
 じっさい、このシングル「暴動クラブのテーマ」に収録された表題曲とカヴァー曲“マネー”はロックンロールの嵐だ。生々しいガレージ・ロック、騒々しいノイズ・ロック、写真を見るとグラマラスで、キャンプ的なところもある。ここに初のMVが公開された。監督はGUITAR WOLF、THE JON SPENCER BLUES EXPLOSION、Wilko Johnson等、世界的なロック映像監督のYOU-DIE!!!
 これはひょっとして、いよいよ本格的なロックンロール・リヴァイヴァル!? 暴動クラブがどんな暴動を起こすのか、期待しよう。

 暴動クラブ
「暴動クラブのテーマ」c/w「Money(That’s What I Want)」

 品番:FSKR-1
 回転数:45RPM
 発売元:Beat East/FORLIFE SONGS
 販売元:ディスクユニオン
 定価¥2.200(税抜価格¥2,000)

interview with Waajeed - ele-king

 もしあなたがハウスやテクノといったダンス・ミュージックを愛していて、まだワジードの存在を知らなければ、ぜひとも彼の音楽に触れてみてほしい。
 ワジードは00年代にヒップホップの文脈で頭角をあらわしながら、ここ10年ほどはハウスやテクノの作品を多く送り出しているデトロイトのプロデューサーだ。2022年秋に〈Tresor〉からリリースされた現時点での最新アルバム『Memoirs of Hi-Tech Jazz』のタイトルを最初に目にしたとき、古くからのデトロイト・テクノ・ファンはこう思ったにちがいない。これはギャラクシー・2・ギャラクシーを継承する音楽だろう、と。
 たしかに、一部のシンセやジャジーなムードにはG2Gのサウンドを想起させるところが含まれている。が、本人いわく同作はとくにマイク・バンクスから触発されたわけではなく、父の思い出から生まれたアルバムなのだという。タイトルの先入観を捨て去って聴いてみると、なるほど『Memoirs of Hi-Tech Jazz』にはシカゴ・ハウスやダブの要素も盛りこまれていて、デトロイトに限らずより広く、ハウスやテクノがどこから来たのかをあらためて喚起させてくれる作品に仕上がっていることがわかる。先日の来日公演でも彼は、ブラック・ミュージックとしてのハウスを大いに堪能させてくれるすばらしいDJを披露したのだった。
 2週間後に発売となる紙エレ年末号(2010年代特集)には「BLMはUKをどう変えたのか」という記事を掲載している。音楽業界におけるホワイトウォッシュへの意識が高まったことの背景のひとつにBLMがあることはほぼ疑いないといっていいだろう。BLMはそして、デトロイトも「少なからず」変えたとワジードは述べる。音楽がコミュニティの一助となることを強調し、かつてNAACP(全米有色人種地位向上協会)が所在していたのとおなじ建物でアンダーグラウンド・ミュージック・アカデミーなる音楽教育機関を運営してもいる彼は、『Memoirs of Hi-Tech Jazz』が2020年のジョージ・フロイド事件のころ制作しはじめたものであり、BLMの流れを汲むアルバムであることを明かしている。
 といってもその音楽はけして堅苦しかったり気難しかったりするものではない。それはどこまでもダンスの喜びに満ちていて、スウィートでロマンティックな瞬間をたくさん具えている。「ジャズもテクノも、比喩表現ではなく革命のための音楽」だと言いきる彼の、美しいダンス・ミュージックをまずは知ってほしい。(小林)

(ラジオでエレクトリファイン・モジョが)いつも「玄関の灯りをつけろ!」ってMCで言うんだよ。そうするとまわりの家々が一斉に明るくなっていく。そうでもしないと真っ暗で、町が物騒な雰囲気に包まれてしまうからさ。そういう思い出から、アンダーグラウンドの音楽がいろんなコミュニティの助けになって、なにかしら変革につながるってことを俺は学んできたんだ。

日本に来るのは3回目ですよね。

Waajeed(以下W):3回以上のような気もするけど、たぶんそうだね。

日本にはどんな印象を持っていますか?

W:そりゃもう、ぶっ飛ばされてるよ(笑)。文化にせよテクノロジーにせよ。クラブではブラック・ミュージックへの感謝をいつも感じるな。すべてにおいて好きな国だ。ホームにいるよりいいかも!

あなたはデトロイトに対する愛情をいつも表現していますが、(日本とは)あまりにも違いすぎて変に感じることはないんでしょうか。

W:たしかにそうだね。デトロイトはハードな環境だし。昨日、俺は携帯をタクシーに忘れてしまって、「見つけるのは絶対無理だな」って凹んでたんだけど、タクシー会社に連絡したらあってさ。そんなことはデトロイトだとありえない(笑)。

最近の日本だと見つからないことのほうが多いと思いますよ。

W:ラッキーだったんだな。でも、やっぱり日本のことは安心できる国だと思ってるよ。

あなたが音楽シーンに認知されたのはスラム・ヴィレッジが最初で、ワジード名義の初期の作品もすごくヒップホップ色が強かったですよね。でも2010年代からはハウスやテクノに急接近していきました。そのきっかけはなんだったんでしょうか。

W:ジャンルとしてはまったく違うけど、自分の注目しているようなゾーンはつねに未来にあったんだ。スラム・ヴィレッジにいたころも、未来を見ていた。1999年ごろから、すでにテクノへの意識はあったな。

ぼくも何回かデトロイトに行ったことがあるんですが、2000年代の初頭ごろにスラム・ヴィレッジの “Tainted” が流行っていたのをいまでも覚えています。ラジオをつけるたびにかかっていて。デトロイトといえば、ヒップホップがすごくメジャーなものじゃないですか。そのなかでアンダーグラウンドな文化でもあるテクノやハウスへ接近していった理由というのは?

W:なんだっけ、(エレクトリファイン・)モジョのラジオをよく聴いてたからかな? アンダーグラウンド・カルチャーはスピーディに動いていて、つねになにかが先にはじまるんだ。だから、そこから発生するものはなんでも吸収しようとしてたな。

モジョのラジオを聴いていたのはホアン・アトキンスなど上の世代ですよね。あなたはもっと若い世代なのに、なぜ追いかけていたんでしょうか。

W:いや、ホアン・アトキンスとはそんなに変わらないんじゃないかな(笑)。

彼は50代か60代で、ぼくとそんなに変わらないはず(笑)。

W:ああ、そうなんだ。

俺のなかではジャズもテクノも、比喩表現ではなく革命のための音楽だから、そういう思いを込めた。

ちなみに、あなたはデトロイト時代にどのような少年時代を過ごしていましたか?

W:モジョを聴いてた子どものころは、母親がやんちゃな兄貴のことを心配してたな。銃声なんかもバンバン聴こえるしさ(笑)。だから、ラジオをかけて気分を落ち着かせようとしてたんじゃないかな。モジョのラジオ・ショウにチューニングすると(彼の番組の)「ミッドナイト・ファンク・アソシエイション」が聴けるんだけど、彼はいつも「玄関の灯りをつけろ!」ってMCで言うんだよ。そうするとまわりの家々が一斉に明るくなっていく。そうでもしないと真っ暗で、町が物騒な雰囲気に包まれてしまうからさ。そういう思い出から、アンダーグラウンドの音楽がいろんなコミュニティの助けになって、なにかしら変革につながるってことを俺は学んできたんだ。

ラジオDJが社会的不安の支えになり、街の治安を守っていた、と。すごいエピソードですね。話は戻りますが、〈Dirt Tech Reck〉というあなたのレーベルについて教えてください。

W:ダーティ・テクノ、つまりはそういうこと!

(笑)。どんなコンセプトではじめたんでしょうか?

W:もちろん、ダーティなテクノだよ(笑)。コンセプトはエクスペリメンタルでありながら、ダンス・ミュージックでもあることかな。2013年にニューヨークからデトロイトに戻ったタイミングで立ち上げたんだ。

ニューヨークにいた時期があるんですね。どのぐらいの期間ですか?

W:むちゃくちゃ長いよ。2005年から2013年まで、8年間だ。

エレクトリック・ストリート・オーケストラという名義でアルバムを2枚出していますよね。面白いコンセプトで。すごくアシッドでいろんな要素が入り混じっていて、まさにダーティなテクノで。

W:自分だけのプロダクションではなく、ほかのプロジェクトに関わることで、外から見られている自分のステレオタイプを潰すようなコンセプトがあったかな。ブーンバップだったり、そういうことではない、違うことに挑戦したかった。

なるほど。ちなみにあれは2枚で終わりなんですか? 次を楽しみにしていたんですが。

W:まあね(笑)。基本的には俺は別のプロジェクトは、2枚ぐらいで終わらせるんだ。

ではアルバムについての質問を。『Memoirs Of Hi-Tech Jazz』、これはURに捧げたものなんでしょうか。

W:そうなのかな、たぶんそうじゃない(笑)。あまり関係ないかな。基本的には、亡くなった俺の父親との思い出がコンセプト。ちなみに、今日は彼の誕生日なんだ。親父は俺が小さいころ、ウィードを吸いながらライトを消して、ジャズをよく聴いていたな。グローヴァー・ワシントン・ジュニアとか、ハービー・ハンコックとか、ジョージ・デュークとか。俺の少年期は、家の片側からは親父のジャズが聞こえてきて、もう片側ではモジョのラジオが流れているような状況で、それが音楽の知識になっていった感じだな。初期衝動的なね。そういったことがアルバムを形作っている。だからURの影響下にあるわけじゃないんだ。もちろんマイク(・バンクス)のハイテック・ジャズもいいと思うけど、直接的なつながりはないね。

シングルのリミックスをURが手がけていますが、UR側からタイトルについてなにか言われなかったんでしょうか。

W:いや、だからリスペクトも込めて、URにリミックスを頼んだんだよ(笑)。名前についてはまったく訊かれてないかな。

まさにギャラクシー・2・ギャラクシーの続きを聴いているようなアルバムだな、という感想を最初は抱きました。

ポスト・ギャラクシー・2・ギャラクシーということですね。

W:おお、それはいい表現だ。

なので、直接的には関係がないという話を聞いて驚きました。ところで3曲目の “The Ballad of Robert O’Bryant” というのは、だれのことを指しているんでしょうか。

W:俺だね。父の名前でもあるし、そのまた父の名前でもある。俺は3世なんだ。亡くなった親父に向けたバラードだよ。俺が1989年、ハイスクールに通っていたころ車で親父が学校へ送ってくれてたんだ。俺はバック・シートでよく居眠りしてたんだけど、そういう思い出を込めた曲さ。たぶん、車のなかではURとかテクノ、ジャズなんかが流れてたんじゃないかな。

サイレンの音からはじまる曲なので、なにか事件などと関係があるのかなと思ったんですが。

W:ああ、この曲は2020年のコロナ禍のはじまりのころ制作しはじめたんだけど、その時期にジョージ・フロイドの事件があっただろう。あのときに起こったプロテスト、つまりBLMの流れを汲んだドキュメンタリーでもあるんだ。俺のなかではジャズもテクノも、比喩表現ではなく革命のための音楽だから、そういう思いを込めた。

制作中にあの事件が起きて、BLM運動がはじまっていったとのことですが、それ以降デトロイトの状況は変わりましたか?

W:ああ、少なからずは。(事件を機に)なぜ自分は音楽をつくっているのかということも考えるようになったし、同じブラックたちの抗議活動の重要性もあらためて認識した。けど、実際に抗議活動に参加するのもいいが、やはり俺の仕事は外に出るより、スタジオで音楽をつくることなんだ、とも思ったね。そういうスピリットをあらためて実感したよ。彼らが抗議活動に行くように、俺は音楽をつくる。それはおなじことなんだ。

他方であなたはアンダーグラウンド・ミュージック・アカデミーという音楽教育機関をやっていますよね(https://www.undergroundmusicacademy.com/)。あれはどういうコンセプトのプロジェクトなのでしょうか。

W:コロナイズド、植民地化されたブラック・ミュージックや黒人文化をディゾルヴ(克服)するためのプロジェクトだね。ただバシバシとやってるだけのダンス・ミュージックを、もう少しオリジンへ、つまりデトロイトが培ってきたものへと戻すためのものだ。


アンダーグラウンド・ミュージック・アカデミーのサイトより。

日本に来るといつもあらゆる場所がきれいに整理されていて、完璧な状態が保たれている。でも、デトロイトはもう少しロウな感じなんだ。物騒で、汚れていて。だから、自分がなにをしたいかをはっきりと意識して自分を強く保たないと、生きていけないんだ。なにをするにも大変な街だけど、だからこそ人びとは生き生きとしている。(日本と)完全に真逆だよな(笑)。

ディフォレスト・ブラウン・Jr. のことを知っていますか?

W:ああ、もちろん。美しい青年だ。

すごく彼の考え方と似ているな、と思って。テクノをブラックの手にとりもどす、という。

W:そうだね。音楽のつくり方やDJのやり方を教えるだけじゃなくて、真実を教えるための場所さ。

ブラック・ミュージック・アカデミーは、むかしNAACP(全米有色人種地位向上協議会)があったのとおなじ建物を使っているのですよね。

W:キング牧師も来たことがある場所だし、俺たちもエレクトロニック・ミュージックでおなじことをしようとしてるから、深い意味合いがあるんだ。16歳ぐらいのころにも行ったことがあったな。3階建てで、1階はマイクが借りててミュージアムになってるんだ。アフロ・フューチャリズムについてのね。2階はレコード屋。DIYでペンキを塗ったりしてな(笑)。

アルバムではデトロイト・サウンドと同時に、シカゴ・ハウスやダブの要素もブレンドされていました。それはやはりサウンド面においてもブラック・ミュージックの歴史を継承していく、というような意志があったのでしょうか?

W:いや、そういうわけではなく、音楽的にそうなっただけ。ただ、自分の方向性や興味は、過去のものを継承して新しいものをつくりだしていくことにあるのは間違いない。けっしてシカゴ・ハウスやダブをつくろうと思って完成させたわけではないんだ。そういった要素はもちろんブレンドされているけどね。

なるほど。では最後の質問です。あなたが感じるデトロイトの文化的なよさとは、なんですか? 

W:真実と情熱に満ちあふれていて、正直さがあることかな。それはほかにはないものだ。たとえば、日本に来るといつもあらゆる場所がきれいに整理されていて、完璧な状態が保たれている。でも、デトロイトはもう少しロウな感じなんだ。物騒で、汚れていて。だから、自分がなにをしたいかをはっきりと意識して自分を強く保たないと、生きていけないんだ。なにをするにも大変な街だけど、だからこそ人びとは生き生きとしている。(日本と)完全に真逆だよな(笑)。デトロイトは剥き出しの街なんだ。そこが俺は好きなんだ。

interview with Kazufumi Kodama - ele-king

レゲエにおけるカヴァーというのはちょっと他のジャンルとはちがう、独特の創造性というか、センスが盛り込まれるんです。好きな歌を編曲を変えて歌うカヴァーと、レゲエ・アレンジで演奏するカヴァーというのは。ジャマイカ本国でも素晴らしいカヴァー曲が数え切れないくらいあるんです。その影響もあります。

 私は「悲しみ」と向き合うことがつらくなっていた。誰だって多少はそういうところがあるだろう。出かけたり、人と会う機会が激減したコロナ流行の時期に急激に老いていった家族の介護があり、ニュースを見れば戦争で子どもたちが残酷に殺され、嘆くことしかできないおとなたちが嘆く。私には現実がつらすぎる。どこをみても、くるしくて、ある日、息ができなくなって救急車を呼んだ。それでも私の体はどこもかしこも健康体で、きょうも生きている。「悲しみ」と向き合いたくなくて、悲しい歌や楽しいリズムをぼんやりと聴く。
いきなりあまりにもあからさまな話で、こんな話は誰かにするようなことではないと思いながら、いっぽうで、もっともっと悲しくて、だからこそそれに向かい合えない誰かがいることも想像できる。

 こだまさんへの久しぶりのインタヴューを終えて、すっかり時間が経ってしまった。こだま和文とダブステーション・バンドによるカヴァー・アルバム『ともしび』を聴いてすぐに話を聞かせていただいたというのに。
 ひさしぶりに対面した私は少し緊張していたが、こだまさんのグラスのビールがなくなるころには、“いつもの” こだまさんに、(いつもの)私が、少し絡むみたいに話が転がっていった。
 私は悲しみと向き合わなくなっていたことを、こだまさんと話して、最終的に、私は思い出した。なんて不真面目な態度だろう。
 こだまさんの、まじめな、それはきまじめとさえおもえることもあるくらいの、ていねいでひとつひとつの音が沁みてくるようなトランペットは、こだまさんが「悲しみ」とずっと真面目に向き合っているからだと思う。
 そんなことを言ったら、こだまさんは「なにをいっているんだ」と言うだろう。あいかわらず水越はなにも見えてないと言うだろう。そうなのかもしれない。「悲しみ」というものに、こんなに不意に、ぐいっと向かい合ってしまったのは、それでもこだまさんから聞いた話をやっと真面目に受け止めたからだ。私がここしばらく、目を逸らし続けていた「悲しみ」についての話をうかがった。うまく聞けなかったが、そのことをうかがったのだと思う。

自分にとって必要なものはそんなに多くなかったんだなということがはっきりするんです。例えばファッションとか、クラブ・シーンの喧騒とかですね。これは反論もあると思うけど、例えば冠婚葬祭なんかもそうでした。

最近はここ(立川AAカンパニー)でライヴもされているんですね。こだまさんのアルバムが飾ってあったり、過去のライヴ・ポスターがあったり、本当にホームグラウンドという感じですね。いつからやってるんですか?

こだま:ここは2年くらい前からですね。ベースのコウチが店長の店で、コロナ禍のさいちゅうに、ライヴができるように空気清浄機からなにから整えてくれてくれたんです。

SNSでこだまさんの暮らしというものはちらちらと垣間見えたりしていますけど、特にコロナ・パンデミックの間、いま振り返るとどんな時間でしたか?

こだま:まあライヴをやるものにとってはみんなそうでしたが、大きな打撃でしたよね。否応なく活動できなくなることになって、もちろん金銭的なことも重なりますし。とにかく否応なしに制約されてしまう。日頃「自由が大事」というようなこと言ってた人間がですね、抗うこともできない。あんなことは本当に初めての経験ですからね。中世からの歴史の一場面を見ていたような感じでしたね。当初、そんなに大袈裟じゃないと思っていたけど、だんだん、これは歴史的なことなんだなと思うようになっていましたね。

世界のどこにも逃げ場もなかったですよね。前のアルバムは19年の『かすかな きぼう』で、21年には HAKASE-SUN とのユニットで「café à la dub / カフェアラダブ」がリリースされました。バンドとしてはコロナ禍を跨いで4年ぶりのアルバムですが、カヴァー集で作ろうというのはどういう気持ちで?

こだま:『かすかな きぼう』を、バンドで出すことができて、やっぱり次にまた作りたいと思いますよね。その間にコロナ禍があって、このことが、僕の中で「やれることがあったらやっておきたい」という気持ちを強くしましたね。コロナ禍の中で、否応なしに活動を狭められた中で、自宅に引きこもるというほどではなくても、自宅にいる時間が長くなりますよね。それが「いま何ができるんだろう」ということにつながっていった気もするんです。
 それから、コロナ禍になる以前に、なんかこう、微妙に価値観が変わってきつつあったんですよ。それは自分の年齢やいままでやってきた活動のことも含めて、消極的になるというか、ネガティヴになるというか。いや、そうじゃないな。コウチが僕に働きかけてくれることで、ダブステーション・バンドというのは長い間、維持できていて、そのことに集中できていたということもあるんです。でも、コロナ禍で、狭いところに閉じ込められるような感じの中で、でもむしろそのことが、まんざら自分には合ってるかもしれないなんていうことも思った。これは言葉をたくさん必要とすることだから難しいけど、さかのぼれば「日々の暮らし」ということについて、わりと思っていたわけですよ、以前から。
 世界中でいろんなことが起きるし、価値観の変化やトレンドなんかもある。でもそういうことが、自身の中で絞られていくんです。やっぱり自分の日々の暮らししかないなと。コロナ禍でますます価値観の焦点がそこに合っていき、じっさいそういう暮らしをするんです。飯を作って、その写真をネットにあげるような。

「日々の暮らし」ということはたしかに以前からこだまさんの大事なテーマでしたよね。

こだま:そうです。さらにそれをクリアにさせることになったんです。

ツイッターに投稿されるご飯の写真を見ても、ですからそこには違和感はなくて、ああこれはこだまさんだとスッと入ってきましたね。

こだま:ありがとうございます。あれはネットにあげてるわけですから、自分の飯をね。まったくたいしたものじゃないというか、半ば自慢にもなってしまうしね、自分でも「なにやってんのかな」とときどき思いながらも、「日々の暮らし」ということで、自分の日々の飯をさ、ネットにあげたりして。でも単なるメシ自慢でもなく、あれは自分で作ったものだということなんです。つまり絵を描こうが、曲を作ろうが、僕が作ったものということです。ま、こだまはこんな暮らしをしてますという。人とは「元気でいます」ということにもなるし。ときどき、これは嬉しいことでもあるんだけど、レシピを問うてくださる方もいるんだけど、でもそれはちょっと違うんですよね。僕は料理研究家ではないので、これは……

ご飯でもあるし、こだまさん自身の「日々の暮らし」の表現でもあるし、デザインされた写真という表現物でもあるんですね。

こだま:そうですね。僕は音楽をやってきたわけで、CD出したりライヴやったりするのは、ミュージシャンこだまのいちばん見せたいところだったかもしれないけど、受け入れられるられないは別としても、それと別のところでのこだまというのはこんな感じの人間なんですよという表示ですね。
 そんなことする必要はないし、そんなことする必要はないということは重々わかりながら、それができたのはネットですからね。

こだまさんは以前は昔はデジタル全否定だったのに……。

こだま:そうでもないけど。使ってしまっている。

そういう使い方を発見したんですね。

こだま:そうだよ。野田くんは「ツイッターなんかやるんですか!」なんて言ってたよ。僕はやりませんよって。それをときどき思い出すよ。

ツイッターの中にあっても、こだまさんの静かな感じがいいですね。

こだま:そういう中でやれることはやりたいと言う思いはありました。ことさらネガティヴにということではないですけど、次々に迫ってくる嫌なこと、この数年だったらコロナ禍があり、ウクライナでの戦争があり、いままたパレスチナでしょ。それと国内の政治的な状況もある。そういうことが次々と気になってくるわけです。それと自分の年齢とを考えるわけです。さらに僕に年の近いいろいろな方が亡くなっていくということもあった。「ああ、そうなのか」という思いですね。

そういう時期、起きたことを考えると「ひとつの時代」といってもいいと思いますが、この曲を残したい、この曲を演奏したいということで今回のアルバムで選ばれたわけですよね。

こだま:そう。このダブステーション・バンドで次のライヴ、そのまた次のライヴをやって、活動全体を充実させていきたいという気持ちが強いけど、そうそう新曲を作れるわけじゃないですから、カヴァー曲というのは魅力なんですよね。バンドの場合。個人でうちで曲を作っている分にはそれなりに作ることはできるんだけど……

なるほど、新しい曲をバンドで演奏することが難しいわけですよね。ライヴの機会がないわけですし。

こだま:うん。一から作り上げていく大変さというのがオリジナル曲にはあるわけだよ。カヴァー曲なら、曲名を伝えればみんなそれを拾ってくれて、形にしやすい。それに、レゲエにおけるカヴァーというのはちょっと他のジャンルとはちがう、独特の創造性というか、センスが盛り込まれるんです。好きな歌を編曲を変えて歌うカヴァーと、レゲエ・アレンジで演奏するカヴァーというのは。ジャマイカ本国でも素晴らしいカヴァー曲が数え切れないくらいあるんです。その影響もあります。カヴァー曲をバンドで演奏できるというのはかなりな魅力なんですよ。

私は “花はどこへいった” から、“What A Wonderful World” まで、物語を感じたんですよね。野田くんが「新橋駅前で売ってるような」と表現したこのジャケットの写真の小さなバラが、“花はどこへいった” の「花」から、“Wonderful World” の「赤いバラ」までたどり着くまでの確たるストーリーはないけれど、一貫した物語です。私も散歩しているときにスマホで写真を撮るんですけど、あの小さな蕾のバラがそういう「日々の暮らし」を感じさせる写真なんですよね。すごくなにげなく、構えた感じでなく、撮った人の視線、大切に思うこと、生活というか日常を感じさせる雰囲気がある。真っ赤な、もうすぐ咲きそうな蕾の滲みのような色が、私には涙が滲むような感じでもありました。
 一方で、こだまさんの、世界に対する姿勢、アティチュードというのが、原発事故から、いえ、その前からですが、強いものがありましたよね。そういう意味での強さというようなものは、コロナ禍での生活でどうなりましたか? どうなりましたかというのも曖昧ですが、私はあの期間、見える世界も自分の生活も人生も、曖昧で茫漠としたというか、時間が止まってしまったように感じていた時期がありました。自分がとても無力に感じられていたんです。

こだま:そもそも必要なものというのが、僕にはそれほど多くなかったんですけど、それがなおいっそう、自分にとって「必要なもの」、それは「やれること」に置き換えてもいいんですけど、自分にとって必要なものはそんなに多くなかったんだなということがはっきりするんです。例えばファッションとか、クラブ・シーンの喧騒とかですね。これは反論もあると思うけど、例えば冠婚葬祭なんかもそうでした。結婚式も、以前なら、本当に祝福しようという気持ちがあればそれはすごくいいんですけど、でもなにか義理があったり、上司だからとか後輩だから、ご近所だからなどといったような価値観みたいなものを強いられていたと思うんですね。それはルールという言葉でも言えるかもしれない。こういう場所にはこういう服を着ていかなきゃいけないなんていうことです。そういうもろもろの、制約とかルールみたいなものが、自分には必要なかったんだなと思ったんです。じゃあ必要なことってなんだろうと思うと、せめて選挙にだけは行こうとか、人が嫌な気持ちになることはしないでおこうとか、当たり前のいくつかのことが浮き彫りになってきたと言えばいいか。価値観の崩壊とは言わないけど、全否定ということもありうるんですよね。全否定と言ったら最後には命をたつとか、そういうことにもなるけれど、だけどそうする前に、そうなる前に、自分にはなにが大事でなにをやっていくのかということを考えるようになったんです。

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悲しみ、ということなんです。大きなテーマとしてあるのは。哀愁の悲しみではなくて、涙でもなくて、どうしようもない「悲しみ」というものが、ずっとあるんですよ。

こだまさんは幼い頃から病気とつきあったり、いろいろな人たちの死と向き合うようなご経験をされてきたと思いますけど、私はコロナ・パンデミックになって、親が年老いていて、たぶん初めて(起きてしまった死ではなく)近未来に確実にある死というものを感じたと思うんです。怖いと思いました。こだまさんはそんなふうに狼狽えることもないのでしょうけど……

こだま:僕はもう親も亡くなってるし、身近な人が何人も亡くなっていったということもあるし、そこにまつわる決まり事みたいなことで動いていたことが、つまらないなってはっきりさせたんですよね。客観的に自分で突っ込んでみれば、よりエゴイストになったのかという声も聞こえちゃうんですけど、心の問題なんですよね。人が亡くなったときに弔ったり、悔やんだり、そこがいちばん大事で、そこに絡んでくる決まり事はどうでもよかった。
 世の中でも葬式も小さくなり、お墓もいらないんじゃないかということまで、話はもうきてますからね。昔ながらの家族制があって、家父長制のようなものがあって、それでうまくやれていた時代は大きな葬式やお墓で良かったのかもしれないが、いまはみんな生きるのに精一杯。そういうことがコロナ禍でようやくはっきりさせることができた。

なぜこんなことをうかがったかと言うと、このアルバムには歌が入っている曲が何曲かありますが、そのなかで “You've Got A Friend” と “What A Wonderful World” の歌詞に不思議な感覚を覚えたからなんです。前者は「君が悲しいとき、私の名前を呼んで、私はすぐに隣にくるよ」というようなもので、後者は「世界には戦争があり、悲しみにあふれている。でも小さなところを見れば薔薇が咲いていて青い空が見える、祝福の日に友だちが握手をしている、赤ちゃんの鳴き声がきこえる、なんてすばらしい世界なんだろう」と。
 こうした歌詞は私が日本語に直して理解するからかもしれないし、私は美しい世界も人間の友だちも信じられない貧しい心の持ち主であるということかもしれないけれど、どちらも神さまとか創造主のような視点で人間を見ているように聞こえるんです。「名前を呼べばそばにいることを約束してくれる人」だったり、「世界にはたくさんの瑕疵があるけれど、(私が創造したこの世界は)美しい世界ではないか」みたいな。とはいえ私は無神論なので、もう一度捻れるんですが、つまりこの解釈によれば、このアルバムにこうした曲が並んでいることで、単なる人生讃歌が表現されているのではない何かを感じる。ますますコロナ禍のような大きな見えない力に制御される人間が、それでもその力をある種ナナメに見たり、ずっと遠くに引いて感じたりするというような、まったく言いえていませんが、選曲やレゲエの世界にそういう複層的な世界を感じたわけです。

こだま:うーん? うーん。

すみません、また私の感想を長々と。

こだま:いや、嬉しいご感想ですよ。そうねえ、神っていう単語が出てくると恐縮ですけど、いまの僕がおおやけに、それを言っちゃあダメですよということがいくつかあるんですよ。二つ三つ。そんな僕が、この『ともしび』の前に出したタイトルが『かすかな きぼう』ですよ。「それを言っちゃおしまいよ」ということとはたとえば人の生き死にに関すること、自分の生き死にに関すること。僕はそれを「見えないゴール」と言ってるんですが、そのゴールを自分で作ってしまうということ、つまり自殺とはどういうことなんだとかということもよく考えるんです。僕自身はまだ、それこそ「日々の暮らし」というグラウンドにまだ立っていられるわけで、ゴールを引くことはしませんけど、でも子どもたちが自殺したり、目に見えて増えたようなんですね、若い人たちの自殺ということが。そういうものを考えると、自分が音楽をやっていくとき、ネガティヴではやっていけないので、本当にかすかでもやる気を出して、聴きにきてくださるリスナーのために、というのは口幅ったいけど、共にありたいという気持ちで作るんです。それには「それを言っちゃおしまいでしょ」ということを、どういうふうに話していくかということだとも思います。自分のことで言えば先はそんなに長くないと。そういうことは前にも語っていたけど、生命の寿命と、アーティストとして演奏できるという意味での寿命は違うんですよね。楽器も演奏できなくなるかもしれないとか、そんな日々迫ってくる「見えないゴール」みたいなものを、他のアーティストの方々が次々亡くなっていく中で考えさせられたわけです。

そう言われると、こだまさんのアティチュードや音楽にも、昔からそういう、「それを言っちゃおしまいよ」の一歩手前を意識するような緊張感というか、強さのようなものがあったようにも思いますが、マッチョな強さとは違うけれど、そうした強さがこのアルバムではなんというか達観というか、「おしまい」自体をある距離のところから鳥瞰しているような感じがします。
 たとえばここに入ってくるときに貼ってあるこだまさんのライヴのポスターで使っている写真って枯れた花だったりして、盛りの花じゃないんですよね。

こだま:花は、季節が変わって咲いていくものですからね、こんな世の中になってもまだ季節感のようなものを残して、花は咲くんだなと。そういう季節を捉えるということもありますよ。時間の経過でもあるし、

では、あの「枯れているひまわり」も、咲いていた日にも撮っていたということですか。

こだま:そうです。そうなんです。

でも枯れている方をポスターにした。

こだま:うんそれは「セプテンバー」というタイトルでしたからね。

9月には9月に咲く花もありそうですけど、そこは違うんですね。そういう盛りのものじゃないものを。

こだま:野田くんがときどき僕のことをペシミストだと書いてくれているんだけど、それに僕は反論する気持ちはなくて、これも「それを言っちゃな」という中の言葉なんだけど、「悲しみ」しかないんですよ。最近、人として。
 ついこないだのパレスチナの病院爆破のことにしても、ああいうことを人間がやってしまう。そこはまた言葉をすごくたくさん要するところなんだけど、水越さんの話を大きくまとめると、これは、悲しみ、ということなんです。大きなテーマとしてあるのは。哀愁の悲しみではなくて、涙でもなくて、どうしようもない「悲しみ」というものが、ずっとあるんですよ。
 で、またちょっと変な言い方になるけど、じゃあ「悲しみ」を伝えるのに、マイナー調の曲ならいいのかということではない。いや、じっさいマイナーな曲も多いけどね、それは僕の作るものが自然とそちらを向いてるからそうなってしまったからで、“What A Wonderful World” なんかはもう大メジャー進行の曲なんですよ、曲としては。でもそっちの方が悲しみが表現されていることがあるんですね。チャップリンの “スマイル” という曲とか。そういう、大きなというか、「人とは」というような意味での「悲しみ」ということなんですよ、僕がやるのは。それがまた反転して、喜びにもつながる。うまく言えないことが多いんですけど、「テーマ」というほど大袈裟なことではないが、その前に「静けさ」というものがあったんです。もう少し静かにしてたいなというか。

必要なかったものもたくさんあったんだということも思います。でもそういうもの全部が血肉になって、だからこそ「それは必要なかった」ということもわかったりするんですよね。つまりさ、そんなに世の中にいいものはたくさんはないぞと。

「静けさ」ということで言うと、私はコロナ・パンデミックの最初の緊急事態宣言のとき、毎日、こだまさんの歌詞の “End Of The World” が頭の中で回っていたんです、本当に毎日。マンションの部屋の窓から外を見ると都内の少し大きなバス通りなんですが、緊急事態宣言で車がほとんど一台も通らなくなってしまったんです。ちょっと信じられないような光景でした。大きな交差点の真ん中を自転車が一台、ゆっくり走っているだけで、人間も歩いていないなんていう日も多かった。窓から、飛行機も飛ばない静かな空と自動車も人もいない道路を見ていると、まるで世界が終わったような感じでした。その風景に、以前ライヴで聴いたこだまさんの歌詞のこの曲が思い出されて、まさに「いま」のために歌われた歌じゃなかったかと思っていたんです。実際の歌詞は失恋をした人に「それは世界の終わりじゃないよ」と言っているんですけど、この比喩がまさに比喩じゃなくなっていた。だからこの曲をアルバムで聴けて、とてもうれしいです。カヴァー曲集というのは、そういう複層的、重層的な聞こえ方──聴き方と言うより、聞こえてしまう聞こえ方──を聴く人それぞれが味わえるんじゃないかと思いました。古い記憶と新しい経験がひとつの曲の上で交差したり折り重なったりするんですね。

こだま:パンデミックでいろんなことを思う中で、また揺れ戻ってくるというか、自分にしっくりくるものが、自分が作ったものにあったんだろうなあ。やっぱり、日々の暮らしが切実になる中で、少し前にこんな歌詞を書いてたんだなと。それも意識するわけじゃなくて、ふわふわと自分の中に蘇ってくるんですよ。
 それにやっぱり、過去に作った作品だったり、過去に書いた歌、歌詞で、いいと言っていただけると、うれしいんですね。

それは、名曲、古典、懐かしい歌となって良かったという「良い」とは違って、いまの時代に再びぴったり焦点が合ってしまうという意味で「いま、良い」ということになったりするんですよね。
 そういうことで言えば、ミュート・ビート “キエフの空” がふたたび衝撃とも言えるものになってしまいましたね。この曲はチェルノブイリ原発事故に思いを寄せたものでしたが、20数年後に、同じ空がまた違う災禍に見舞われてしまっている。なんということなんだと。

こだま:いまは「キーウ」というんですね。僕もセットリストには「キーウ」と書くようになりましたね。そのときそのとき曲を作ってきて、その僕はあんまり変わっていないんだと思いますね。

きっとそうですね。そして世界も、これはとてもよくない意味でですが変わっていないところがたくさんあるんですね。

こだま:パンデミックというのは話のひとつの節目として、過去に聴いたり読んだりした音楽、文学なんかもあったけど、この節目に来て、必要なかったものもたくさんあったんだということも思います。でもそういうもの全部が血肉になって、だからこそ「それは必要なかった」ということもわかったりするんですよね。つまりさ、そんなに世の中にいいものはたくさんはないぞと。

こだまさん、それを言っちゃおしまいですよ! あ! 言っちゃった。
 ところで “ゲゲゲの鬼太郎” は、いつ頃からやっていたんですか?

こだま:最近ですね。ここ2年くらいで、まだライヴでは数回しかやっていないですね。

あの曲は、聴く人みんな、歌詞を知っていると思うんですね。ここでの演奏では歌はありませんが、聴いている人の頭の中ではみんな歌詞も再現されていると思うんですね。

こだま:うん。「試験も何にもない」ってね。

そう。それがすごくこだまさんワールドで、納得という感じなんですよね。こだまさんがよくおっしゃってる「比べない、競わない」という世界に通じているんじゃないかと。

こだま:ええ。水木しげるさんの熱心なファンとは言えませんが、好きな世界です。ただこの曲はそういう世界観から入るというのではなく、曲調が、僕の中ではリー・ペリーだったんですよ。
 リー・ペリー、アップセッターズの『スーパー・エイプ』というアルバムがあるんだけど、あの “ゲゲゲの鬼太郎” のメロディ自体が、ベースラインみたいなんですよ。最初のところなんかもまんまダブのフレージングと重なるんです。それが自分の中で自然につながってしまったんですね。これは僕の中ではリー・ペリー解釈なんです。なおかつ、歌詞の世界、そしてあの漫画自体が持つ幻想性、ロマンみたいなものが孕んでいるわけだから、これはこのダブステーション・バンドでやりたいとすぐに結びついたんです。あれも「それを言っちゃあ」の中に含まれるでしょ、「試験もなんにもない」って。水木しげるさんという人はとても大きく人というものを見ていた方なんだろうなと思います。
 音楽を作るのは、自分で意識して探しているわけではないんだけど、ちょっとしたひらめきの集まりですからね。ひらめきがある以上は何かやっていけるんじゃないかと。しかしその光の強さの強弱というものもあって、だんだんだんだん「ともしび」になりつつあるということもあって(笑)

そんなあ(笑)。でもたしかにカヴァー・アルバムにはそういうひらめきは特に重要なんでしょうね。

こだま:そうですね。パンデミック前まではそういうものももっと曲がりなりにもあったと思うんです。それは年齢とも関係すると思うけど、だんだん、ひらめきもね、かぼそくなっていくんだけど、その分輝きは強かったりするの。線香花火が消える前がいちばん輝きが強かったりするんじゃないかと。

えー! またそんなあ(笑)。

こだま:でも、そのぶん、たぶん熱も高いんじゃないだろうか。

野田:僕はこのアルバムのブックレットに載っている、誕生日ケーキを囲んだ写真を見てすごく思ったんですが、こだまさんは幸せ者なんじゃないかと。いつも悲しい悲しいと言っているけど、とても幸せじゃないかって(笑)。

こだま:うーん。そうですね。

野田:よくいうけど、マクロの世界は最悪だけどミクロの世界ではいいことがあるって。そういう感じですね。

まさに “What A Wonderful World” ですね。

こだま:つねに、自分のことをよく知る自分と、自分のことなのによくわかっていない自分とふたつあって。僕は締め切りがなきゃ作らないような人間ですからね。日々の暮らしだけですんでいれば、それはそれで幸せというか、「試験も何にもない」世界ですから。でもそれだって否応なしに孤独とか「見えないゴール」が迫ってくるから、そんなに大きな違いはないのかもしれないけど。

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“ゲゲゲの鬼太郎” のメロディ自体が、ベースラインみたいなんですよ。最初のところなんかもまんまダブのフレージングと重なるんです。それが自分の中で自然につながってしまったんですね。これは僕の中ではリー・ペリー解釈なんです。

野田:『ともしび』を聴いてそんなにペシミスティックな気持ちにならないんですよね。それはなぜでしょう? ペシミズムが表に出なかったのはどうしてなんでしょう。

こだま:それはよくわからないけど、まだ『かすかな きぼう』とか『ともしび』というようなものを自分の中に持っているからでしょうかね。そうしたものを失って、絶望までいったら終わりということでしょうから、絶望し切らないままに日々暮らすということですかね。

私は60になったんですが、そうなると、過去の10年15年の長さを思い、この先同じ時間の長さを思うと、人生は短いよなと驚いています。

こだま:そうか。だけどね、もっとご年配の方もおられるわけですよね。生まれたばっかりの人もいる。でも「今日」という日は同じなんですよ。生きている人にとって。若いとか老いているということは関係なく、幼い子どもはべつにしても、青年も、ご年配の人もいて、みんな「見えないゴール」が先にある。でも「今日」という日だけを見たらそれは誰にとっても同じ「今日1日」ということなんですよね。過去の年月というのはいわばすでに過ぎてしまってきていて、あるのは「今日」という日だけなんですよ。貯金じゃないんだから、あたしは何十年生きてきましたといっても、それはもう過ぎてしまった時間なんです。
 だからと言って「今日という日を大切にしよう」みたいな言い方もしたくはない。そういう感じで、僕は言葉をどんどんどんどん失くしていっているんですよ。ほんとうに、言葉が減っていきますよ。それと経験したことも含め、世界で起きていることも含め、現実はもう言葉を超えてしまっているわけだから、絶句、ということですよね。だけどそれじゃあダメだろうとも思う。声を上げていかなきゃみたいなこともある。でもそれも僕の中ではどうなんだろうという気持ちもある。あとは大事なことというのは、あえて言葉にして言いたいのは、人も自分も傷つけずに、ということですよ。そんな暮らしをしていきたいというのかな。言葉としては数少ないんです。散々人を傷つけてきましたからね、幸いそれを知らされていないというだけで、都合良く生きてきましたから。

いやいや、どこに話を持っていこうというんですか!

野田:若いミュージシャンもいて、でもいまは長い音楽生活をしてきた人たちもたくさんいて、僕はいま、老年期を過ごしているミュージシャンの音楽にすごく興味があります。もちろん18歳の声というものは重要だけど、同じように68歳のときの声も絶対重要だと思う。

こだま:そうですね。音楽というのは運動ですからね、ボディというか、パフォーマンス。アスリートほどではないにせよ、人前で演奏して聴いていただくというパフォーマンスなんですよね。で、パフォーマンス年齢というものがあるから、なかなか絵画とか文学のような表現とはちがって、老年の表現はわかってもらいにくいですよ。やっぱり人はステージの上で元気に踊ったり、動きを見せたり、大きな声を出せたり、盛り上がろうぜと言えるエネルギーを持っている方が、パフォーマンスにはふさわしかったりしたんですね。いままで。野田くんがおっしゃったような、年齢を経てきたようなパフォーマンスというものはまだまだ受け取ってもらえるような状況ではない気がしますね。見た目もあるし、特にポップスの面では、若い人たちが音楽をキャッチして、それに憧れたりしていくわけでしょ。

野田:こだまさんのライヴを長い期間見させてもらっていて、イラク戦争の後だったと思うけど、まだバンドじゃなくてひとりでやっていた頃、ラジカセを持ってきてECDの曲をかけたことがあったんですよ。「ECDがいいこと言ってるぞ」と。自分の曲を演奏しないでECDの曲をかけてた。それがこだまさんっぽい。そんなことを自分のライヴでやるなんてめちゃくちゃじゃない。

こだま:ああ、あったな。そうだった。あの頃、自分の中で大事にしているのが「自由」ということでしたね。それを自分が率先したいと思っていましたね。批判があろうが、ある種のルール違反だったりしても、自分のいちばん大事なパフォーマンスの場で「自由でいる」ということを大事にしたかったんですね。最近はあまり使わなくなりましたね。

自由と言えば、いまももちろん大切ですよね。でも20世紀は、人びとがわりと心置きなく自由に向かっていかれた時代だった気もしますが、いまはその自由を権力者や富裕な人たちが存分に謳歌するようになっていて、弱い人にはむしろ過酷な環境の要因にさえなっていたりする。たとえばアメリカは自由だけど、貧困層やホームレスの人たちの悲惨さは先進国では異様に際立っていたりしますよね。

こだま:その「自由」は「自由民主党の自由」だね。アメリカはその上に医療の皆保険がないからね。僕の友人の奥さんががんの手術をしたんだけど、その手術の当日に家に返されちゃうんですよ。それを聞いたときに、アメリカというものをひとつ知りましたね。がん手術の当日に、点滴をつけたまま家に帰るんだよ。入院は莫大なお金がかかる。
 限られたプールの中で泳いだ方が楽しかったりして、大海で流されたら、相当自由だけどおっかなかったりする。つまりそういうことなのかもしれないですね。

サメがいますから、そういう面はありますよね。

こだま:「自由」ということのリスクがあるんだな。

経験したことも含め、世界で起きていることも含め、現実はもう言葉を超えてしまっているわけだから、絶句、ということですよね。だけどそれじゃあダメだろうとも思う。声を上げていかなきゃみたいなこともある。でもそれも僕の中ではどうなんだろうという気持ちもある。

野田:こだまさんは長い間やってこられて、達成感というものも感じるんじゃないですか。

こだま:まあ、アルバムを作ったり、ライヴをやったり、でも達成感というものではないですね。達成感というのは目標や目的があってのことでしょう? それがそもそもないんだから……
 でもあえていえば、今年の、あのうんざりするほど暑かった夏に、一曲曲を作ることができたんです。それは “海” という曲なんですけど、それが完成しはじめたとき、原発の汚染水を海に流しはじめたんです。それまでタイトルは考えていなかったけど、その状況があって、タイトルを「海」にしたんです。それはいまの自分がいちばん無理せず、大きな狙いもなく、ひけらかすものもなく、ものすごくいい感じで演奏できる曲を意識したんですよ。
 トランペットというのは、ハイトーンの楽器なんですよね。ソプラノとかせいぜいアルトで、華やかな音をパーンと出して聴いていただくということがあったんですよ、いままでの歴史上でトランペットというのは。ものすごい勢いでインプロして、衝撃的なハイトーンを出して人を惹きつけていくということができるときと、否応なしに高い音が出せなくなっていく自分というものもあるわけです。さっきの話で言えば、例えばピカソが10代でものすごく緻密な絵を描いていたけど、晩年には緩やかな線を引く絵を描くようになっていたということにつながるんだと思うけど、まあいい曲ができたんですよ、自分の中で。ただ派手さはないから、どれだけそこに耳を傾けていただけるかどうかはわからないけど、僕としてはこれからの自分がまだパフォーマンスを続けていく中で、それと作品としてのやっていき方のきっかけになった曲なんです。それはダブということでもそうですし……。ひとつのフレーズなんですね、大事なのは。
 アスリートは体力とパフォーマンスで、記録を即座に出すという過酷な仕事ですよね。100メートル走にしても野球やサッカーにしても。音楽にもそういうところがあるんです。たとえば高い音を出すには、大袈裟にいうと、皮膚とか筋肉というものと密接なんですよ。歌を歌う人も少しキーを下げたりしますが、トランペットでも出なくなった音は無理して出さない。つまり、無理してまで出せない音は出さなくていい。パンデミック下でのことにまた結びつきますが、パンデミック後には無理してまで生きていこうとしなくてもいいじゃないかと。
 なんでかというと、毎日毎日、ひとりで自主練をするんです。でも上達しないんですよ。若い頃は、練習すればするほど少しずつでも次なるステップなるものが見えたんですよ。つまり、アスリートがいっくら走り込んだって、過去の記録は出せなくなっていくんです。でもそれもやらなかったら現状維持もできない。練習もなかなかできないんです。へとへとになっちゃうんです。

でも音楽というのは高い音や速弾きがいいというわけでもないじゃないですか。

こだま:うん。でもつねに、そういう種類のものを望む世の中というものがあるんだよ。クラシック音楽というものも僕は好きでときどき聴くけど、全部ピッチが上がってるぜ。みんなやっぱり、世界の動きに応えていっている。スピードやアクロバット的なものを求める。人って、けっきょく、何秒で走れるとかすごく速弾きできますよということにまず目が行くわけですよね。パフォーマーというのは、悲しいことに道化みたいなところがあるんですよ。静かな道化師じゃ絵にならない、誰も相手にしないんだ。ライムライトみたいになっていくんですよ。気がつくと劇場に誰も人がいないというふうに……。
 パフォーマーが自分のいちばん良かったときをキープしたいと望むのは、宿命みたいなものだから。苦しいけど、望まざるを得ない。何か術があれば、なんでも取り入れたい、利用したいという誘惑も、パフォーマーであれば願ってしまうと思いますよ。でもその価値観が、果たしてどうなのかという話なんです。でも人はみんな、受け手と表現するものとの間にある違い、ギャップというものはあります。

聴き手は「音程が全部あっていて高い声の上手な歌」を聴きたいわけではないのにね。

こだま:たしかに、たまにオリジナルの作曲者が、シンガーに歌わせてヒットした歌を、何年も経って歌ってみたらそれが良かったりというようなこともある。そう言えばさっきの達成感の話だけど、“End Of The World” の歌詞を書いて、あれは原曲の歌詞とは違う、いわば替え歌ですけど、その歌詞を書き、チエコ・ビューティーに歌ってもらってレコーディングするというアイディアを思いついたときは興奮して眠れないくらいでしたね。それで、その後も聴くたびに、これは本当に良かったなと思っていた。それを今回、アリワに歌ってもらえてまたうれしかったですね。

自己顕示欲というものがひとつのエネルギーなんですよ。「俺はこうだ」というエネルギーを、持っている間はいいんですけど、自分の中では価値として見出せなくなっても、やっていくわけですから、そこでなにをやるのかということなんです。

野田:ご自分の過去のアルバムをいま聴いて、お好きなのは?

こだま:あのね、自分のアルバムを聴くことはあまりなくなってきてるけど、YouTubeにリスナーの方がアップしてくれているのをたまに聴くことはありますよ。そうか、こんな曲もあったんだなと。

野田:それはなんの曲だったんですか?

こだま:それは『NAZO』っていうアルバムに入っている曲でしたね。

おもしろいですね。自分の曲に、他人の曲のように出逢い直してしまう。それでアルバムを聴き直しましたか?

こだま:聴き直しましたね。

どうでしたか?

こだま:うん。いいなって思いましたね。

そうですか。そうですよね。

こだま:これも「それを言っちゃおしまい」ってことですけどね。

それ、いっぱいありすぎますよ。2、3個じゃないじゃないですか。でも、たくさんの「それを言っちゃおしまい」ということを伺っていて思えてきたことなんですけど、このアルバムについて、最初に “花はどこへ行った” からはじまる。すごく悲しい曲だけど、私がいま聴くと少しアナクロだと思うくらいちょっと時代を超えた、そういう反戦歌からはじまって、“ゲゲゲの鬼太郎” も含めて、次第にこの世界をなんだかんだ言って肯定していく雰囲気というものがすごくあって、でもしかし、そうなんだけど、単なる肯定ではないですよね。「とりあえず肯定しますよ」という感じなんです。「しなきゃしょうがないでしょ」というか、「否定しちゃしょうがないでしょ」、つまり「それを言っちゃおしまいでしょう」ということかもしれないんですけど。

こだま:うん。つまりさ、ガザの病院を爆撃する人がいるわけですよね。そこで怪我をする病人や怪我人を治療する人もいる。そういう世界なんです。さっき言われた「マクロを見ればどうしようもない世界」だけど、小さなところを見ていけばそうじゃないところもあるだろう、救いもあるだろうということなんですよ。僕も。

だけど「救い」だけを見ていたら、悲劇を肯定することになっちゃうでしょと。

こだま:そう。病院を爆撃する側と、それに右往左往してる医師や市民の両極がある世界がまず見えますよね。それからもっと引くと、どっちでもない人たちがたくさんいますよね。なにを考えているのかわからない人びとが。なんか、そんなようなことなんですよ。
 でももう先は知れてるわけですよ、この先ね。たかだか……

いや、そういうことを言ってる人に限って90までやってるということは往々にしてありますよね。バランスとれた食事もしているし。

こだま:いや、自分で客観的にそういうふうに自分に突っ込むときありますよ(笑)。「お前、悲しみだのなんだのと言ってるのに、実はさ、体のこと考えながら豆腐や納豆食ってるんだろ」って。
 いろいろ話しましたが、思うのは、自己顕示欲を削いで、でもパフォーマンスしていくことの難しさということですね。自己顕示欲というものがひとつのエネルギーなんですよ。「俺はこうだ、俺はこうだ」ということです。でもそうじゃなくて、パフォーマンスあるいは音楽を作っていくということの違いを、思っているところです。それはなかなか難しいんです。思い余って、「俺はこうだ」というエネルギーを、持っている間はいいんですけど、自分の中では価値として見出せなくなっても、やっていくわけですから、そこでなにをやるのかということなんです。

自己顕示欲って、表現の原動力として有効というか、いいものですよね。ほかのことだと、自己顕示欲なしでできることはたくさんあると思いますけど、

こだま:願わくはそういう職業につければ良かったと思うこともありますよ。
 それから最後に、いろいろ話した後に抜け落ちていることに気づくのは、寝たきりの人もいるし、体の不自由な人もいるということですね。つねに抜け落ちるんですよね。そうすると、自分が語ったことなどどうでも良くなってしまう。けっきょく、そういう人にとっても、政治というものはすごく大事なんです。だからやっぱりそれは考えていたい。なぜ差別というものがあるのか。なぜ隣国の人を嫌うのか。差別っていうのは根拠もないことで人を排除したり嫌ったりするんですよね。根拠がない、どこにもなんの理由もないんです。

KODAMA AND THE DUB STATION BAND
LIVE ♪冬のともしび♪ 飛石2DAYS

公演日:12月26日(火)、12月28日(木)
会場:立川A.A.カンパニー
出演:KODAMA AND THE DUB STATION BAND
時間:開場19時 開演20時
料金:6,500円+1D
http://livehouse-tachikawa-aacompany.com

Sleaford Mods - ele-king

 「死んだ方がマシなときもある/銃を自分のこめかみに当てて」という歌い出しからはじまるHi-NRGサウンド。ペット・ショップ・ボーイズの永遠の名曲“ウェスト・エンド・ガールズ”を、なんとスリーフォード・モッズがカヴァーし、Bandcampや配信で発表した。そもそも1980年代半ばのこの大ヒット曲は、サッチャー政権下のヤッピー文化(小金持ちの若者文化)を風刺した曲と言われている。「ぼくたちに未来はなく過去もない。ただ今日だけがある」、いかにも英国風のひねりの利いたこの曲をスリーフォード・モッズがカヴァーすることが面白い(先行発表のMVはオリジナルのパロディで、笑える)。しかも、この曲の収益は、ホームレスを支援している団体に寄付される。ペット・ショップ・ボーイズ本人たちもこのシングルを讃え、シングルでは自らリミキサーとしても参加。そしてこうコメントしている。「スリーフォード・モッズは、大義のためにイースト・エンド(労働者階級)の少年たちをウエスト・エンド(繁華街)のストリートに呼び戻してくれた」
 ちなみにジェイソン・ウィリアムソンは、「ペット・ショップ・ボーイズのアルバム『Please』と『Actually』をよく聴いている」そうだが、この2枚、ほんとうに名作です。PSBといえば、この2枚さえ聴いておけばいいくらいに。
 なお、フィジカルの発売は12月15日。


Spotify
Bandcamp

 また、スリーフォード・モッズは最近は、ドイツのミニマリスト、Poleのリミックスも発表している。これが結構いいんです。
 

Felix Kubin - ele-king

 フェリックス・クービンのルックスを見た誰もが思うことだが、一時期の彼はまるで『マンマシーン』時代のクラフトワークのメンバーに紛れていても違和感がない。あるいは、一時期の彼は東ドイツの面影がどこか漂っているが、彼はハンブルク生まれである。フェリックス・クービンに関してまず言われることは、「彼はノイエ・ドイチェ・ヴェレ」より15年遅く生まれた、ということである。そう、遅かったNDW。11歳の少年がラジオから流れるレジデンツのアルバムを録音し、何度も繰り返し聴いている姿を想像してみて欲しい。13歳の少年がホルガー・ヒラーやデア・プラン、DAFに心酔し、自らも電子音楽家として作曲し、ステージに立ち、演奏をはじめる。ホルガー・ヒラーがサンプリングしたリゲティ、ショスタコーヴィチ、ヴァレーズを調査し、ノーノ、クセナキス、シュトックハウゼンを聴き漁る。ダダイズムやマン・レイの美学を取り入れ、そこにアナキズムと共産主義を合成する。クービンは90年代末からまったく時代のトレンドとは合致しない作品を出していく。ちなみに98年に設立した彼のレーベルは〈ガガーリン〉といって、これは「世のなかの嫌なことに反対するのではなく、衛星になれ。地球と一緒に飛ぶ。パラレルな別の人生を生きているんだ」という意味が込められている。
 さて、そんなドイツの天才児、鬼才のなかの鬼才はゼロ年代以降、ばしばしと奇妙な前衛テクノ・ポップ作品を出していくのだが、ここのディスクグラフィーはいまは省略する。というのも、このニュース原稿は、小柳カヲルによる新潟の〈Suezan〉レーベルがこのたび、クービンの少年時代の2枚のアルバムをリイシューしたことを知らせるために書いているのだ。
 クービンは、「元天才児」という言葉も、よく言われている。今回の2枚は、「現役天才児」だった時代のもので、ドイツが生んだ、このとんでもないオタクの初期衝動のすごさを見せつけている。すべての電子音楽ファンよ、フェリックス・クービンを聴かずして、テクノを語るなかれ。


フェリックス・クービン
ザ・テッチー・ティーネイジ・テープス・オブ (CD) 完全限定プレス

(Felix Kubin / The Tetchy Teenage Tapes Of)
・2023年版最新デジタル・リマスター使用
・完全限定プレス
・日本独占リリース!


ディー・エゴツェントリッシェン2
科学者たちの反乱 (CD) 完全限定プレス

(Die Egozentrischen 2 / Der Aufstand der Chemiker)

http://suezan.com/minori/newrelease

11月のジャズ - ele-king

 先日、ele-king年末号で「2010年代のジャズ」に関するコラムを寄稿し、その中で英国マンチェスターのゴーゴー・ペンギンについて「テクノやドラムンベース的な生演奏を現代ジャズでやってしまう」と解説したのだが、スコットランドのエジンバラを拠点とするヒドゥン・オーケストラもそうしたタイプのアーティストである。


Hidden Orchestra
To Dream Is To Forget

Lone Figures

「アコースティックなスタイルでエレクトロニック・ミュージックを創生する」というコンセプトも両者に共通するものだ。ただし、ゴーゴー・ペンギンがバンドであるのに対し、ヒドゥン・オーケストラはマルチ・ミュージシャンであるジョー・アチソンのソロ・プロジェクトである。形態としてはジェイソン・スウィンスコーのシネマティック・オーケストラに近く、実際の作品制作やライヴにおいては様々なミュージシャンやシンガーが参加しまたフィールド・レコーディングを大幅に取り入れた制作スタイルをとる。ゴーゴー・ペンギンよりも少しキャリアは長く、2010年に〈トゥルー・ソウツ〉からファースト・アルバムをリリースしている。2010年といえば英国リーズのサブモーション・オーケストラもデビュー作をリリースしたが、ドム・ハワード率いるこちらは人力ダブステップ・バンドと形容されたが、ヒドゥン・オーケストラの方はジャズ、エレクトロニック・ミュージック、ポスト・クラシカルなどが結びついた存在と言えるだろう。

 最新アルバムの『トゥ・ドリーム・イズ・トゥ・フォゲット』は、前作『ドーン・コーラス』から6年ぶりのスタジオ・アルバムで、これまで作品を発表してきた〈トゥルー・ソウツ〉から離れ、アチソン自身が設立した新レーベルの〈ローン・フィギュアズ〉からのリリースとなる。基本的にはこれまでの路線を踏襲するものの、以前に比べてフィールド・レコーディングスは少なくし、音楽的なテーマやアイデアをより直接的なアレンジメントに落とし込んでいる。ジェイミー・グラハム(ドラムス)、ティム・レーン(ドラムス)、ポッピー・アクロイド(ヴァイオリン)など、これまで多く共演してきたメンバーに加え、ジャック・マクニール(クラリネット)、レベッカ・ナイト(チェロ)など新たなミュージシャンも迎え、重厚で繊細なオーケストラ・サウンドはより深みを増している。“スキャッター” はヒドゥン・オーケストラお得意のドラムンベースを咀嚼したようなリズム・アプローチで、スロヴァキアの民族楽器であるフヤラが尺八のようにエキゾティックな音色を奏でる。小刻みなドラミングと怪しげなクラリネットがサスペンスフルなムードを駆り立てる “リヴァース・ラーニング” も、現代ジャズとドラムンベースやダブステップの邂逅というヒドゥン・オーケストラを象徴するような世界だ。


Laura Misch
Sample The Sky

One Little Independent / ビッグ・ナッシング

2017年頃から作品をリリースするサウス・ロンドンのサックス奏者のローラ・ミッシュは、トム・ミッシュの姉として既に名前が広まっており、この度デビュー・アルバムの『サンプル・ザ・スカイ』をリリースした。サックスのみならずいろいろな楽器を操るマルチ・ミュージシャンで、作曲からヴォーカルまでこなすシンガー・ソングライターでもある。1年ほど前よりエレクトロニック・ミュージックのプロデューサーであるウィリアム・アーケインとコラボを重ね、そして完成したのが『サンプル・ザ・スカイ』である。

 エレクトロニックなプロダクションであるが、“ハイド・トゥ・シーク” に代表されるように全体のトーンは非常にオーガニックで、それは柔らかでナチュラルな彼女の歌声や風をイメージしたというサックスによる部分が大きい。そして、“リッスン・トゥ・ザ・スカイ” をはじめとした作品では、自然や草木、花などをモチーフにした歌詞、ハープなどの弦楽器やアンビエントなサウンドスケープ、鳥のさえずりなどのフィールド・レコーディングを盛り込み、空を浮遊するような感覚に襲われる作品集だ。“シティ・ラングス” のようにフォークトロニカ的な作品もあり、ギターと歌とサックスが織りなす優しい世界は非常に魅力的だ。


Astrid Engberg
Trust

Creak Inc. / Pヴァイン

 アストリッド・エングベリはデンマークのコペンハーゲンを拠点とするシンガー・ソングライター/プロデューサー/DJで、2020年にファースト・アルバム『タルパ』を発表した。デンマークをはじめとした北欧ジャズ界の精鋭が多く参加したこのアルバムは、現代ジャズにエレクトロニック・ミュージックのプロダクションを持ち込み、伝統的なジャズ・ヴォーカルやクラシックの声楽とネオ・ソウルやR&B的なヴォーカル・スタイルを邂逅させ、デンマーク・ミュージック・アワード・ジャズの年間最優秀ヴォーカル作品賞を受賞するなど高い評価を得た。そうして一躍期待のミュージシャンとなったアストリッドの3年ぶりのニュー・アルバムが『トラスト』である。『タルパ』から『トラスト』にかけての間、アストリッドは母となって長男を出産し、『トラスト』のジャケットでは赤ん坊を抱く彼女の写真が用いられている。子育ての中で『トラスト』は制作されたそうで、そうした子どもの存在や母としての自覚が信頼というアルバム・タイトルに繋がっている。

『トラスト』はトビアス・ヴィクルンド(トランペット)、スヴェン・メイニルド(サックス、クラリネット、フルート)など前作からのメンバーに加え、アメリカからミゲル・アットウッド・ファーガソンが参加する。ミゲル・アットウッド・ファーガソンが2009年にJ・ディラのトリビュートとして作った『スイート・フォー・マ・デュークス』を聴いて以来、アストリッドは彼の生み出すストリングスのファンとなり、切望してきた共演が本作で叶ったのである。その共演作である “スピリッツ・ケイム・トールド・ミー” は、ストリングスやフルートがアラビックで神秘的なフレーズを奏で、アストリッドの歌がスピリチュアルなムードを高めていく。


Kiefer
It's Ok, B U

Stones Throw

 2021年の『ホエン・ゼアーズ・ラヴ・アラウンド』から2年ぶりの新作『イッツ・OK、B・U』をリリースしたキーファー。『ホエン・ゼアーズ・ラヴ・アラウンド』はDJハリソンカルロス・ニーニョなど多くのゲスト・ミュージシャンが参加し、初期のジャジーなヒップホップ・サウンドから、より複雑で熟成されたサウンド・アンサンブルへ進化を遂げていった。そうした中でキーファーもビートメイカー的なピアニストからトータルなサウンド・プロデューサーへとさらにスキル・アップしていったわけだが、『イッツ・OK、B・U』はゲストも最小限にとどめてほぼ独りで作っており、『ホエン・ゼアーズ・ラヴ・アラウンド』以前の作風に帰ったものと言える。そして、改めてビートメイクとピアノをはじめとしたキーボードのコンビネーションに注力している。

 ヘヴィなビートに引っ張られる “マイ・ディスオーダー” はキーファーのビートメイカーならではのセンスが表われた作品で、“ドリーマー” やタイトル曲でのタイトなビートとメロウなピアノのコンビネーションは彼の真骨頂である。ジャジーなヒップホップだけでなく、“ドゥームド” のようなエレクトロとニューウェイヴの中間のようなビートもあり、ビートメイカーとしてもさらに幅が広がった印象だ。また、アンビエントな “フォゲッティング・U』は、キーファーの新しい一面を見せるに十分な楽曲である。そして、『ホエン・ゼアーズ・ラヴ・アラウンド』での体験がピアニストとしてのキーファーのキャリアも高めたようで、より繊細で複雑な表現力を持つピアニストとなっていることが、“ヒップス” や “ヘッド・トリップ” などを聴くとわかるだろう。

Zettai-Mu “KODAMA KAZUFUMI Live in Osaka 2023” - ele-king

 長きにわたり KURANAKA a.k.a 1945 が大阪でつづけてきたパーティ《Zettai-Mu》。その最新イヴェントになんと、こだま和文が登場する。関西公演はおよそ5年ぶり、パンデミック後としては初とのこと。バッキングDJは KURANAKA が務める。ほか、メインフロアにはDUB LIBERATION、Tropic Thunder、motokiらが出演、セカンド・エリアにも関西クラブ・ミュージック・シーンを代表するDJたちが集結する。12月16日(土)、スペシャルな一夜をぜひ NOON+Cafe で。

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