「KING」と一致するもの

Shovel Dance Collective - ele-king

 伝統的なフォーク・ソングは、上手く演奏されると尋常ではないクオリティーの高さを発揮する。空気中の何かが変化したかのように、演奏者もオーディエンスも、その会場にいるのが自分たちだけではないことに気付くのだ。シャーリー・コリンズが、かつてインタヴューで「私が歌うと、過去の世代が自分の背面に立っているように感じる」と語ったように。
 これは、現代のフォーク・アンサンブル、Shovel Dance Collectiveの音楽を特徴付ける性質のひとつである。ロンドンの9人組は、いわゆるフォーク・ソング歌手のようには見えない。まずほとんどのメンバーがまだ20代であり、ドローン、メタル、アーリー・ミュージック、そしてフリー・インプロヴィゼーションなどの異端なジャンルへの愛着を公言する。数年前の結成以来、まるで歴史修正主義者のような熱意でフォークの正典に向き合い、労働者階級、クィア、黒人、プロト・フェミニズムの物語を前面に出してきた。その切迫感が音楽にも乗り移り、生々しく、土臭く、非常に生き生きと感じられる。端的に言えば、存在感があるのだ。
 2021年のクリスマスにShovel Dance CollectiveのYouTubeアカウントに投稿された動画は、まさに彼らの典型的なアプローチの仕方といえる。ヴォーカリストのマタイオ・オースティン・ディーンが、がらんとした工業用建物に独り佇み、19世紀の哀歌“The Four Loom Weaver”を歌う。労働者階級の失業と飢餓についての苦悩の物語だ。荒涼としたセットの感じが、ディーンの、首を垂れ、目を閉じてトランス状態にあるかのように切々と歌うパフォーマンスにさらにパンチを加えている。

 これまでのShovel Dance Collectiveのレコーディングの多くは、洗練よりも即時性を重視している。彼らの最初のリリース、2020年の『Offcuts and Oddities』は、手持ちのレコーダーや携帯電話で収録され、しばしばハープ奏者のフィデルマ・ハンラハンのリビング・ルームで録音されているのだ。彼らが従来のスタジオ録音を行うことは想像しにくく、これまででもっとも充実したリリースとなった『The Water is the Shovel of the Shore』(水は岸辺のシャヴェルである、の意)も、勿論そうではない。
 アルバムは4つの長尺の作品(シンプルにIからIVと番号付けられている)で構成され、ヴォーカルとインストゥルメンタルの演奏に、ロンドンのテムズ川とその近辺の水路などで収録された環境音がブレンドされている。マルチ・インストゥルメンタリストのダニエル・S.エヴァンスにより継ぎ合わされたこれらのメドレー/サウンドコラージュは、存分に感情に訴えてくる。
 そこかしこに水が在る。激しく流れ、足元を跳ね上げ、天上から滴り落ちる。たくさんの声が、溺れた恋人や海で遭難した船員、捕鯨船団や、海軍の遠征の話を語り、亡霊のように霧の中から浮かび上がる。しかし同時に、観光客がカモメに餌をやる音、艤装の際の軋む音、そして聖職者が毎年行う川への祝福の音なども聞こえてくる。過去が現在と共存している。歌と、歌に込められた物語は、街そのものから切り離せないものとなる。
 このアルバムは、エヴァンス、ディーンと同じくヴォーカルのニック・グラナータが、ロンドン南東部のかつては水車で埋め尽くされていた地帯であるエルヴァーソン・ロードDLR駅地下を走るトンネルで録音したセッションに端を発する。航海にまつわるテーマの“Lowlands”や“The Cruel Grave”といった曲ではディーンとグラナータの声が幽霊のように空間に轟く。
 他のメンバーたち(彼らのことをショヴェラーズと呼んでもOK?)も水にまつわるテーマを取り上げ、ヴァイオリン、ハンマー・ダルシマー(訳注:イギリスの伝統音楽で多用されるピアノの原型の打弦楽器)、そして私のお気に入りであるバスハーモニカなどの楽器で、バラッドやジグやシーシャンティ(船乗りたちの労働歌の一種)に貢献している。多種多様な録音の忠実度が、hi-fi/lo-fiがブレンドされたcaroline(キャロライン)の自身の名を冠したアルバムを思わせる、ある種の面白いコントラストを生み出している。実際、「The Rolling Waves」の美しいヴァージョンを演奏しているヴァイオリニストのオリヴァー・ハミルトンとロー・ホイッスル奏者のアレックス・マッケンジーは、両方のグループに共通のメンバーだ。
 アルバムに付随するエッセイでは、テムズ川の象徴性と一般的な水について深く掘り下げている。「土地と人々の支配に欠かせない水は、土地の文化とは一線を画した、植民地化、奴隷制度、人種差別、資本、商品や人々の移動の過程で形成された独自の文化を持っている。」という認識は、選曲や演奏のスピリットにも反映される。それは決して騒々しいものではないが、ブリティッシュ・フォークと聞いて多くの人が想像するような気取った田園風のものでもない。
 複数の民族の血を引くこの集団のメンバーと同様に、音楽は特定の国や地域に限定されておらず、イングランド、スコットランド、アイルランドにガイアナの歌がある。アルバムはガイアナ人の母親を持つディーンが歌う「Ova Canje Water」で幕を閉じるが、この曲は旧イギリス領ギアナで逃亡した奴隷が、新しく手にした自由について思いを巡らせながら、タイトルにもなっているカンジェ川の水を振り返って見渡すと言う内容だ。
 荒涼とした話になりがちなこのアルバムのなかでは、希望のある終わり方だ。特に第2部の冒頭を飾る悲痛なバラッド“In Charlestown there Dwelled a Lass ”(チャールズタウンに一人の小娘が住んでいた)がそうで、ハンラハンのハープをバックに、グラナータがアノーニのような情感豊かな震える声で、悲運のロマンスを表現している。衝撃的だ。
 全員によるアンサンブルを聴けるのは、冒頭の“The Bold Fisherman”の1曲のみであるにも関わらず、このレコードにみる団結力のすごさは印象的だ。個々の声が組み合わさり、何よりも大きな物を創造する、真の意味での集団的な仕事なのである。曲の多くが断片としてしか聴こえてこないのも、生きた伝統に触れているという感覚を高めてくれる。人から人へと受け継がれるもの、時が止まっているのではなく、常に動いているもの。過去から未来へと流れる共同体のようなものを。

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Shovel Dance Collective

The Water is the Shovel of the Shore

Memorials of Distinction / Double Dare

James Hadfield
 
Performed well, traditional folk songs can have an uncanny quality. Something in the air seems to shift, as players and audience alike become aware that they’re no longer the only ones in the room. As Shirley Collins once told an interviewer[1] : “When I sing, I feel past generations standing behind me.”
This is a defining quality of the music made by contemporary folk ensemble Shovel Dance Collective. The London nine-piece don’t look like your typical folkies: most of the members are still in their twenties, for starters, and they cite an affection for such heterodox genres as drone, metal, early music and free improvisation. Since forming a few years ago, they’ve been tackling the folk canon with the zeal of revisionist historians, foregrounding working-class, queer, Black and proto-feminist narratives. That sense of urgency carries over into the music itself, which can feel raw, earthy, and very much alive. Simply put, it has presence.
A video[2]  posted to Shovel Dance Collective’s YouTube account on Christmas Eve in 2021 is typical their approach. Vocalist Mataio Austin Dean stands alone in a vacant industrial building and sings the 19th-century lament ‘The Four Loom Weaver’, a wrenching tale of working-class unemployment and starvation. The starkness of the setting gives added punch to what’s already an impassioned performance – which Dean delivers with his head bowed and eyes shut, as if in a trance.
Much of Shovel Dance Collective’s recorded output to date has prized immediacy over polish. Their first release, 2020’s “Offcuts and Oddities,” was captured on handheld recorders and phones; they often record in harp player Fidelma Hanrahan’s living room. It’s hard to imagine the group making a conventional studio record – and “The Water is the Shovel of the Shore,” their most substantial release to date, certainly isn’t it.
The album comprises four lengthy pieces (simply numbered ‘I’ to ‘IV’), in which vocal and instrumental performances are blended with environmental recordings captured along London’s River Thames and nearby waterways. Spliced together by multi-instrumentalist Daniel S. Evans, these medley/sound collages are richly evocative.
Water is everywhere: flowing in torrents, sloshing underfoot, dripping from the ceilings. Voices emerge like revenants stumbling out of the fog, telling stories of drowned lovers and sailors lost at sea, whaling expeditions and naval campaigns. But we also hear tourists feeding gulls, the creaking of rigging, and clergy conducting their annual blessing of the river. The past coexists with the present. The songs, and the stories they contain, become indivisible from the city itself.
The genesis of the album was a session recorded by Evans, Dean and fellow vocalist Nick Granata in a tunnel that runs under the Elverson Road DLR station in south-east London, a site once occupied by a watermill. Dean and Granata’s voices resound through the space, haunting it, as they perform nautically themed fare including ‘Lowlands’ and ‘The Cruel Grave.’
The other members (is it OK to call them “shovelers”?) pick up the aquatic theme, contributing ballads, jigs and sea shanties on instruments ranging from violin to hammered dulcimer and – my personal favourite – bass harmonica. The varying fidelity of the recordings makes for some delicious textural contrasts, redolent of the hi-fi/lo-fi blend on caroline’s self-titled album. Indeed, the groups share a couple of members – violinist Oliver Hamilton and low whistle player Alex Mckenzie – who do a beautiful version of ‘The Rolling Waves’ here.
An accompanying essay delves deeper into the symbolism of the Thames, and water in general: “Vital in the control of lands and people, water has its own culture, distinct from land cultures, formed by processes of colonisation, slavery, racialisation, movement of capital, goods, people.” This awareness informs both the choice of songs and the spirit in which they’re performed. It isn’t raucous, exactly, but nor is this the kind of genteel, bucolic stuff that most people think of when you mention British folk.
In keeping with the mixed heritage of the collective’s members, the music isn’t restricted to any one country or region. There are songs from England, Scotland, Ireland and Guyana. The album concludes with Dean – whose mother is Guyanese – singing ‘Ova Canje Water’, in which an escaped slave in what was then British Guiana looks back across the waters of the titular Canje River, contemplating his newfound freedom.
It’s a hopeful finish to an album whose tales tend to be bleaker in nature. That’s especially true of ‘In Charlestown there Dwelled a Lass’, the heartbreaking ballad that opens the second part. Accompanied by Hanrahan’s harp, Granata delivers a story of doomed romance in a quavering vocal with the emotional intensity of Anohni. It’s a stunner.
Only once – on the opening performance of ‘The Bold Fisherman’ – do we hear all of the ensemble together, yet it’s impressive how cohesive the record is. It’s a collective undertaking in the truest sense, in how the individual voices combine to create something greater than all of them. The way many of the songs are only heard as fragments heightens the sense of tapping into a living tradition: something passed on from one person to the next, in constant motion rather than fixed in time. Something communal, flowing from the past to the future.

律動と残響 - ele-king

 2010年9月4日の深夜、伊豆山中で開催された「Metamorphose 2010」。スティーヴ・ヒレッジとエリオット・シャープを従えたマニュエル・ゲッチングは『Inventions For Electric Guitar』全曲を星空の下で黙々と演奏し続けた。2時間立ち続けて確保した最前列でその波動を浴びながら、私はいつしか30年前のことを思い出していた。ハンブルクからベルリンへと向かう夜行列車の暗い車窓の向こうにぼんやりと浮かんでは消える町の灯り。携帯テレコから延々と流れ続ける『Inventions For Electric Guitar』と『New Age Of Earth』。1980年の夏、2ヶ月かけてヨーロッパを一周していた私は、時間はかかるけど、どうしてもベルリンに行きたかった。『New Age Of Earth』のジャケット(ヴァージン盤)にある風景を見たかった。有刺鉄線が張り巡らされた柵際に屹立する廃墟のようなビルと、その頂に冷たく輝く太陽──あの風景がベルリンのものなのかは不明だったが、とにかくあの孤絶感の中でゲッチングを聴きたいと思ったのだ。

 当時のドイツはまだ東西に引き裂かれ、東ドイツ内の飛び地ベルリン市もコンクリートの壁と有刺鉄線で東西に分断されていた。西ドイツの他の都市とは異なる冷ややかな空気に包まれた陸の孤島には、肌を刺すような緊張感が漂っている。そしてその緊張感は、色彩を失った東ベルリン(旅行者は許可をとって1日だけ行けた)では倍増していた。ゲッチングを聴きながら東西ベルリンをあちこち歩き回った私は結局『New Age Of Earth』のあの場所は見つけられなかったが、ゲッチングのサウンドはこの町だからこそ生まれたということだけはわかった。

 半世紀以上にわたって活動したゲッチングのサウンド手法は初期と後期ではずいぶん異なるが、その哲学を極言すれば「トランス」の一語に尽きる。それは「Trance(意識の変容)」であり、「Trans(超越)」でもある。50年間ひたすら Trance / Trans し続けた音楽家、それがマニュエル・ゲッチングだと思う。何が彼にそうさせたのかといえば、ベルリンという孤島である。孤島で生きる者が抱える緊張感、寂寥感、内省、それらの反作用としての快楽性、刹那性、夢想性。そういったもろもろが混然一体となって昇華されたのがゲッチングの Trance / Trans の正体だろう。ドラッグとの関係にもしばしば言及されるわけだが、実際彼がドラッグ・ユーザーだったとしてもそれは些末な問題だと私には思える。ゲッチングがひたすら奏で続けた律動と残響は、孤島の哀しみにほかならない。


「Metamorphose 2010」にてプレイするマニュエル・ゲッチング

 ベルリン市の西半分(東京都23区よりもやや小さい程度)が壁と有刺鉄線で完全に包囲されたのは1961年のこと。その9年前の52年、マニュエル・ゲッチングは西ベルリンで生まれた。ベルリンの壁は89年には崩壊したわけだが、ゲッチングは生涯この町を離れることはなかった。

 幼少時には家族でオペラなどを楽しみ、クラシック・ギターを習っていたゲッチングだったが、10代半ばには英米のロック・ミュージック、とりわけジミ・ヘンドリクスやエリック・クラプトンなどのブルース・ロックに耽溺し、67年(15才)に最初のバンド、ブルーバーズをハルトムート・エンケ(b)と結成。それはボム・プルーフス、バッド・ジョー等へと名前を変え、69年にはスティープル・チェイス・ブルースバンドになった。そして70年、ゲッチングとエンケの2人に、タンジェリン・ドリームをデビュー・アルバム・リリース後に抜けたばかりのドラマー、クラウス・シュルツェが合流して生まれたのがアシュ・ラ・テンペルだ。ゲッチングとエンケ、シュルツェは皆、60年代末期ベルリンの実験音楽/アートの梁山泊的クラブ、ゾディアック・フリー・アーツ・ラボに出入りしており、同ラボの出資者の一人でもあるコンラート・シュニッツラーの即興音楽コレクティヴ、エラプションで共演していた仲間である。

 ブルースを基軸にサイケデリック・ミュージックを奏でるアシュ・ラ・テンペルの最初の4作品(71年『Ash Ra Tempel』、72年『Schwingungen』、73年『Seven Up』、73年『Join Inn』)では年長のシュルツェに遠慮したり、ドラッグ大好きエンケに引きずられたりしていたゲッチングだが、シュルツェの脱退、エンケの廃人化によるオリジナル・トリオ崩壊後、恋人ロジ・ミュラーのスペース・ヴォイスをフィーチャーした5作目『Starring Rosi』(73年)で気分転換し、6作目『Inventions For Electric Guitar』(75年)からいよいよ彼は独自のトランス・ワールドを確立してゆく。ゲッチングの名前がプログレ/クラウトロックの狭い囲いからはずれ、彼に商業的成功と歴史的名声をもたらしたのは言うまでもなく84年の『E2-E4』だが、ハウス/テクノに絶大な影響を与えたあのミニマル・サウンドは、既に『Inventions For Electric Guitar』において大本ができあがっていた。

Ash Ra Tempel - Ash Ra Tempel (1971) FULL ALBUM

Manuel Göttsching - Inventions for Electric Guitar (Full Album) 1975

 74年、ベルリンの自宅内プライヴェイト・スタジオ〈Studio Roma〉でゲッチングは新作を作り始めたが、その時彼の手元にあったのは、エレキ・ギターとティアックの4チャンネル・テレコ2台、ディレイやエコーなどわずかなエフェクターだけだった。しかしそのミニマムな制作環境ゆえに新たな世界への扉は開かれたのである。微細にピッキングされたギターのミニマル・サウンドがディレイやエコーによって絶え間なく波紋を広げてゆく中、ブルース・スケールを絡めながらめくるめく幻覚的空間を現出させてゆくオープニング曲 “Echo Waves” は、サイケデリック・ロックとミニマル・ミュージックの融合例としていまなお超える作品がない、律動と残響による革命的名曲である。と同時にゲッチングの「Trance / Trans」哲学がポップな形で初めて表現された成功例でもあった。
 その成果を元に、今度はシンセサイザーとシークェンサーを用いてインナー・スペースからアウター・スペースへと視線を転換させたのが成層圏を突き抜ける法悦感に包まれた次作『New Age Of Earth』(76年)であり、その路線はやがて大銀河に溶け込む無我の音響マントラ『E2-E4』へと結実することになる。

Ash Ra - New Age Of Earth (Full Album) 1976

Manuel Göttsching - E2-E4 (Full Length Version) - 1981/1984

 同じ律動が1時間弱続くアルバム・タイトル曲1曲のみを収録した『E2-E4』は84年のリリースだが、録音されたのは81年の12月12日である。たった1日で完成された一筆書きの作品ではあるけど、一筆書きだからこそゲッチングの人生すべてが詰まっていた。緊張と快楽、内省と無我、永遠と刹那、現実と夢想……ベルリンという孤島で70年の生涯をまっとうしたマニュエル・ゲッチングの人生のすべてが。公式サイトによるとゲッチングが亡くなったのは12月4日だという。しかし公に発表されたのは12月12日だった。41年前にたった1日で『E2-E4』を作り上げた “その日” の持つ意味はゲッチングにとっても、音楽史的にも、重い。

interview with Blue Lab Beats - ele-king

 サウス・ロンドンを中心に、若く新しいアーティストによって活況を呈するイギリスのジャズ・シーン。いろいろなタイプのアーティストが活動しているのだが、そうしたなかでもっともクラブ・ミュージックやストリート・サウンドとの連携を見せるひとつがブルー・ラブ・ビーツである。
 ブルー・ラブ・ビーツはプロデューサー/ビートメイカーの NK-OK ことナマリ・クワテンと、マルチ・インストゥルメンタル・プレイヤーのミスター・DM ことデヴィッド・ムラクポルがロンドンで2013年に結成したユニットで、2016年にEPの「ブルー・スカイズ」でデビュー。ヒップホップやR&B/ネオ・ソウル、ハウスやドラムンベース、ブロークンビーツなどのプログラミング・サウンドとジャズ・ミュージシャンたちによる生演奏を融合し、ラッパーやシンガーたちとのコラボを積極的におこなっている。アメリカにおけるロバート・グラスパーやサンダーキャットなどの新世代ジャズの影響を受けつつも、レゲエ/ダンスホールやグライムなどUKらしいクラブ・サウンドのエッセンスを取り入れているのが特徴である。ファースト・アルバム『クロスオーヴァー』(2018年)ではモーゼス・ボイドヌバイア・ガルシアアシュリー・ヘンリーネリヤらと共演するなど、サウス・ロンドンのジャズ・シーンとも深く関わりを見せ、セカンド・アルバムの『ヴォヤージ』(2019年)ではアフリカ、カリブ、ラテンなどのルーツ・ミュージック的なテイストを色濃く表して進化を見せた。

 2021年からは〈ブルーノート〉と契約を結び、今年は3年ぶりのニュー・アルバム『マザーランド・ジャーニー』をリリースした後、キャリア初のライヴ盤となる『ジャズトロニカ』を発表している。この『ジャズトロニカ』はクラシックなどの世界でも名高いロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでの録音で、JFエイブラハムが指揮するマルチ・ストーリー・オーケストラとの共演という、これまでのブルー・ラブ・ビーツの作品のなかでも異色のものとなっている。こうしてまた新たなチャレンジを試みたブルー・ラブ・ビーツが待望の初来日公演をおこなった。会場はブルーノート・ジャパンが手掛ける新業態のダイニング「BLUE NOTE PLACE」(東京・恵比寿)で、12/6~9と4日間に渡って日替わりでゲスト・ミュージシャンやDJも入り、マイケル・カネコら日本のアーティストとの共演もおこなわれた。このライヴの合間を縫って、初めて日本の地を踏んだ NK-OK とミスター・DM に話を訊いた。


向かって左がNK-OK(ナマリ・クワテン)、右がミスター・DM(デヴィッド・ムラクポル)

ライヴではみんなが即興でやれる自由を与えたい。自分の解釈でやってほしい。きっちりこのメロディ・ラインを吹かなきゃ、とか思わずにやってほしい。

日本は初めてですよね?

NK-OK(以下NK):ああ。

以前、日本のアーティスト Kan Sano さんと対談されていましたが、そのとき来日していたわけではないのですね。

NK:あれはZOOMでやったんだ。

日本の印象はどうですか?

NK:とても美しい。ロンドンより全然クリーンで(笑)。比べ物にならない。

ミスター・DM(以下DM):ヴィジュアル的に惹かれる。

NK:すべてにおいてスタンダードが高くて、感動するね。

気に入った場所とかあります?

NK:今朝、神社に行ったんだよ。このあたりの(と地図アプリを見せる。明治神宮のあたり)。少し歩いたよ。

まずは発売されたばかりのライヴEP「ジャズトロニカ」についてお伺いします。ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールという由緒正しき会場で録音されていますね。普段あなたがたがやっているトータル・リフレッシュメント・センターやジャズ・リフレッシュドなどでのライヴとはかなり毛色が異なっていますが、この会場でやることになった経緯を教えてください。

NK:ロイヤル・アルバート・ホールと言っても、厳密にはエルガー・ルームなんだよ。だからチケットも12ポンド(約2,000円)と手頃な値段だ。

DM:テーブルと椅子もとっぱらった。

NK:そう、スタンディングで400人くらいだったかな。ソールド・アウトになってすごく盛り上がったよ。ここ(恵比寿BLUE NOTE PLACE)もそうだけど、インティメイトなギグだった。「ハイプ・マン!」で「イェー!イェー!イェー!」とみんなを煽るやつを、普段はお堅いロイヤル・アルバート・ホールでできたのが最高だったね。「みんなジャンプしろ!」ってね。しかもバックにはストリングスがいて……最高の気分だった。

エルガー・ルームというのは、ロイヤル・アルバート・ホールのなかにあるスペースのことですよね。

NK:ああ、普段は椅子があって150名くらい入るスペースで。新人のミュージシャンにしてみれば、そこでやっても「ロイヤル・アルバート・ホールでやった」と言えるということ。メインのホールよりはずっとハードルが低くて、チケットも手頃な金額になる。メインホールだと50ポンド(約8,300円)は越えるから。

WACは安い授業料で様々な音楽プログラムを提供するところなんだ。授業料は1時間で1ポンド(170円弱)くらいだったかな。そこでデヴィッドと会ったのさ。

JFエイブラハムが指揮するマルチ・ストーリー・オーケストラと一緒にやることになった経緯も教えてください。

NK:ロイヤル・アルバート・ホール/エルガー・ルームの方から、それでやらないかとコンタクトがあり、それでストリング・セクションを集め、ネイティヴ・インストルメンツ社、スピットファイアー・オーディオ社、YouTubeミュージック社、〈ブルーノート〉などに話を持ちかけ、協賛金を出してもらった。YouTubeが全部撮影をしたので、いまは4曲ほどだけアップされてるけど、年内には全曲分が公開予定だ。

ストリングスが入ることで、クラシック音楽との関連が見えましたが、おふたりはこれまでクラシック音楽を学んだことはありますか?

DM:まったくない。

NK:僕も。オーケストラにアレンジされたものを聴くのは好きだよ。J・ディラの……

DM:ミゲル・アトウッド・ファーガソン。

NK:そう、彼のJ・ディラのプロジェクトはよかった。

今回のストリングスのアレンジとか編成に関しては、誰が、どんなふうにされたんですか?

NK:基本のアレンジは僕らふたりがやって、それをデヴィットから作曲家、そして指揮者に渡して、三者のブレインを集結させ、やりとりの末に仕上げたんだ。一度リハーサルをやって、本番に臨んだ。

曲はおもに今年リリースしたアルバム『マザーランド・ジャーニー』からのものですが、オーケストラが加わることで大きく印象が変わっています。ライヴ用に新たにアレンジされたんですよね?

NK:ああ、そうだよ。

今夜(12月7日)の BLUE NOTE PLACE でのライヴはどんな感じになりそうですか? ストリングスはいないですよね。

NK:(笑)。ああ、いないね。僕がドラムマシンとコンピューターを使って、プログラミングですべての音を出し……

DM:そこに僕がキーボードとギターでライヴの要素を加える。

NK:さらにはゲストでサックス(中島朱葉)、トランペット(曽根麻央)、ラッパー(鈴木真海子)、シンガー(ナオ・ヨシオカ)を迎えるよ。

いつもイギリスでやるときのメンバーを全員連れてくるわけにはいかないと思いますが、今回のように現地のゲストを迎えることもよくあるのですか?

NK:ヨーロッパだったら、いつもやってるトランペットとサックス奏者を連れていけるけど、それより遠くだと予算を考えて、現地のプレイヤーを使うんだ。そうすることの楽しさももちろんあるよ。カナダのモントリオールでもそうだった。

マイケル・カネコ(前日の12月6日に共演)さんとはどうでした?

NK:連絡をもらって、音を聴いて「すごいドープなやつだな!」って思ったよ。

逆に、現地の方々とやることの難しさは?

NK:難しさは言葉の壁かな(笑)。それでも通訳を介して、なんとでもなる。

DM:僕らの音楽を、彼らがどう解釈してくれるか……それを聴くのが楽しいよ。

NK:ああ、それが聴けるっていうのがいちばん美しい部分だね。ライヴではみんなが即興でやれる自由を与えたい。自分の解釈でやってほしい、と。リハーサルでも、アレンジを知ってくれた上で自由にやってとお願いしたんだ。きっちりこのメロディ・ラインを吹かなきゃ、とか思わずにやってほしいと。昨夜もすごくいい感じだったよ。

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ひとつでいいから、自分たちの音楽のなかに初めて探索する部分がほしかった。やり慣れたエリアを離れて仕事をすることで、最終的には「メイク・センスするもの(意味が通じるもの)」ができたと思う。

あらためて、これまでの歩みについても伺いたく思います。あなたがたが登場してきた2010年代後半はちょうどサウス・ロンドンのジャズ・シーンに注目が集まり、トム・ミッシュやジョルジャ・スミスなどのシンガーが台頭してきた時期でした。ですのであなたがたのこともそのくくりで見てしまいがちですが、じっさいはロンドンの北部を拠点にしているのですよね?

DM:ああ、ノース・ロンドンだよ。

そこの大学で出会って、曲作りをはじめた?

NK:ベルサイズ・パークにあるウィークエンド・アーツ・カレッジ(WAC)で会ったんだ。僕は12歳くらいだった。一緒に音楽を作りはじめたときは13になってたよね。

DM:ああ。

12歳で大学生だったわけじゃないですよね?

NK:違う違う。僕が食堂でビートをプレイしてたところにデヴィッドが通りかかって、「ドープ! あっちでリハーサルやってるから来ないか?」って声をかけられて、リハーサル室に行ったら、次々と楽器を弾くんで「よし、こいつとやろう」と思ったんだ。

そのときデヴィッドはカレッジで勉強していた?

DM:2010年に入学して数年通ってたよ。

ナマリはなぜそのとき、WACにいたんですか?

NK:説明すると、WACは安い授業料で、ライヴ・ミュージックに関するクラスとか、プロダクション、ヴォーカル、演技、ダンス……と様々な音楽プログラムを提供するところなんだ〔訳注: 5~25歳の低所得家庭の若者が対象〕。授業料は1時間で1ポンド(170円弱)くらいだったかな。日本円なら数百円(笑)? そこは素晴らしい才能を輩出してるんだよ。そこでデヴィッドと会ったのさ。

ブルー・ラブ・ビーツの音楽にはジャズやR&B、ヒップホップ、クラブ・ミュージックなどいろいろな要素が混ざっています。ナマリのお父さんは、アシッド・ジャズの頃に活躍したDインフルエンスのメンバーですが、そこからの影響もありますか?

NK:ああ、それは間違いなくある。父だけでなく、DJだった母からの影響もね。家ではいつもいろんなジャンルの音楽がかかっていたから。

以前、アメリカのロバート・グラスパーからの影響を述べていたことがありますよね。じっさい『ブラック・レディオ』を意識した部分もあると思います。一方で BLB の音楽には、UKならではのグライムやダンスホール、ドラムンベース、ブロークンビーツの影響もあり、それらUSとUKの要素をうまくミックスしていると感じますが、本人としてはどう思いますか?

DM:うん、オープンでいることはいいことだと思う。自分たちにとって安全なゾーンを離れ、人が予想しないような音楽を聴くこともある。だから、僕らもそうなるんだと思う。

ファースト・アルバムの『クロスオーヴァー』にはモーゼス・ボイド、ヌバイア・ガルシア、ジョー・アーモン・ジョーンズ、アシュリー・ヘンリー、ダニエル・カシミール、エズラ・コレクティヴやココロコ、ネリヤのメンバーなど、サウス・ロンドンの面々が多く参加していました。現在のサウス・ロンドンのシーンについてはどう見ていますか?

NK:シーン? とても盛り上がってるよ。UKエキスペリメンタルというか、UKジャズというか……

DM:サブ・ジャンルを生みつつね。

NK:そう、たくさんのサブ・ジャンルがある。イースト・ロンドンも盛り上がっている。特にグライムかな。いや、グライムはノース・ロンドンでも盛り上がってるな。それを言えば、グライムはロンドン全部でだな。

セカンド・アルバム『ヴォヤージ』ではアフロやカリビアン、ラテンのテイストが際立っていて、今年の新作でもその傾向は強まっています。UKにはアフリカやカリブ、ラテン系のミュージシャンも多く、自身のルーツを意識して音楽づくりをする人も少なくないですが、それはあなたがたもそうですか?

NK:ああ、それはすごく大きいよ。さっきも言った「安全なゾーンを離れる」ということさ。特に『マザーランド・ジャーニー』はそれが顕著だったので、制作には2年半~3年近くかかった。何から何までというのではなく、ひとつでいいから、自分たちの音楽のなかに初めて探索する部分がほしかった。だからいつもの安全ゾーンから飛び出し、ゲットー・ボーイとコラボレーションしてみた。彼とはアンジェリーク・キジョーのグラミーを受賞したアルバム(『マザー・ネイチャー』)でも仕事をした。2年近くかかったけど、やり慣れたエリアを離れて仕事をすることで、最終的には「メイク・センスするもの(意味が通じるもの)」ができたと思う。

いま、シャバカ・ハッチングスとアルバムを作ってるんだ。まだエディット段階だけど、レコーディングは面白かったよ。そのロウなエネルギーといい、ヴァイブ感といい。

『マザーランド・ジャーニー』にはエゴ・エラ・メイ、エマヴィー、ジェローム・トーマスなどUKの新しいアーティストが参加していますが、「次は誰とコラボするのか?」といつも楽しみです。彼らとは日頃のセッションで交流を深めて、その結果アルバムに参加してもらっているのですか?

NK:ああ。ブルー・ラブ・スタジオに来てもらってセッションをするわけだけど、どんなときも、なるべくフリーなセッションにしようとしてる。特にこれ、という目的を設定するのでなくて、会話を交わすように音楽をつくる。それは毎回そう。1曲が終わってようやく「ああ、これはこんなふうだね」「もっとこういうふうにしようか」というように話をする。

スタジオに来てもらう前にも、一緒にやったことはあったんですか?

NK:いや、そのときが初めてだよ。

『マザーランド・ジャーニー』のセッションのなかで、特に「これはすごい」と思った相手、もしくは出来事はありました?

NK:フェラ・クティをサンプリングする機会をもらえたことかな。その機会だけでもすごいことだったから〔訳注:フェラ・クティの関係者側からのオファーだったとのこと〕。

DM:スピリチュアルだった。

NK:“ラベルズ” でコフィ・ストーンとやれたのも楽しかったよ。ティアナ・メジャー・ナインとは昔もやったことがあったけど、またやれて良かった。

キーファーともやっていますね。US西海岸の注目のアーティストで、素晴らしい楽器演奏技術とポップでメロディアスな作曲センスを両立させている人ですが、ブルー・ラブ・ビーツと共通点があるようにも思います。彼との共演はいかがでしたか?

DM:とても良かったよ。さっきも言ったように、他のミュージシャンが僕らの音楽をどう解釈するかという意味で、自分以外のピアノ奏者、しかも彼みたいに最高なピアノ奏者の解釈を聴くのは刺激的だった。

NK:特にイントロ部分がね。

DM:ああ。

NK:彼にはラフなアイディアを渡したんだけど、彼から返ってきたヴァージョン、特にイントロの部分はとてもおもしろかった。

今後の活動で何か考えていることはありますか?

NK:いま、シャバカ・ハッチングスとアルバムを作ってるんだ。まだエディット段階だけど、レコーディングは面白かったよ。そのロウなエネルギーといい、ヴァイブ感といい。彼からスタジオに遊びにおいでよ、と招かれて行ったときには、もしかしたら1曲くらい何かをやることになるのかな、とは思ってた。ところが彼から「君たちとアルバムを作りたいんだ」と言われて驚いた。「え、いま?」「そうそう!」「3日で?」「そうそう!」って(笑)。全部で8曲録ったよ。EPになるのかもしれないけど、どの曲も20分くらいやってそれを6分くらいにする、という感じ。そのうちの少なくとも1曲は10分の長さの曲だよ。

素晴らしいコラボだと思います。それは〈ブルーノート〉からリリース予定ですか?

NK:いや、シャバカのレーベルだ。

では〈インパルス〉ですかね。ちょうど先週、ザ・コメット・イズ・カミングが来日していたんですよ。素晴らしいショウでした。

NK:知ってるよ。彼が、なんだっけ……名前を忘れたけどあの楽器(尺八)を作るんだって、インスタに画像を上げてて(と尺八用の竹を手にしたシャバカの投稿写真を見せる)。完成品を受け取るために、来年また日本に来るらしい。レコーディングのときも尺八を持ってたよ。吹くのがすごく難しいから、まだまだ勉強中らしいけどね。彼が日本に来たときの話もたくさん聞いている。

コラボレーション、とても楽しみです。最後に、日本のファンにメッセージをお願いします。

NK:(一度キャンセルになっていたにもかかわらず)辛抱して待っていてくれてありがとう。ようやく日本で演奏することができたよ。来年、また必ず戻ってくる。日本のヴァイブ、すごく気に入ったんで……何もかもがクールだね!

DM:デビューの頃から、長いことサポートしてもらえたこと、感謝してるよ。

NK:2016年からだ。

DM:ああ、もう6年だ。

NK:最高だよ。

boris - ele-king

 先月末に刊行されたele-king Books『現代メタルガイドブック』では、第1章の最初にBoris with Merzbowの『2R0I2P0』を掲載している。これは、序文でも述べたメタルの越境性、型を築きそれを足場にしながら遠く(様々な音楽領域、地域など)へ向かう音楽という特質を非常によく体現する作品だからで、本書のスタンスや広がりを示すものとしても、それにそのまま対応するBorisの広大なカタログへの導入としても、かなり的確なセレクトになったのではないかと思う。本書が刷り上がったタイミングでDOMMUNEのBoris特集(11月15日)が開催され、そこでAtsuoさんと宇川さんに見本誌をお渡しすることができたのだが、直後にAtsuoさんから頂いた感想は以下のようなものだった。「“メタル”という言葉は自分の中では“Heavy Metal”と同義で、“Heavy Metal”と言われるのが嫌だから“メタル”と崩して言っていたのだが、こちらの本ではMetalとHeavy Metalが別物として扱われていたのが衝撃、しかもそれが当たり前のような前提になっていることに驚いた」
 メタル界最大のデータベースサイト「Metal Archives」(別名Encyclopedia Metallum、バンド名+metallumで検索するのはメタル系ディガーの定石)にも「Genre: Heavy Metal」という区分があるように、狭義の「ヘヴィ・メタル」は「メタル」のサブジャンルの一つで、90年代に入るとジャンル全体を指す表現としては機能しなくなる。そこで本書では、80年代までのHR/HM(ハードロック/ヘヴィ・メタル)に対し、その枠に留まらない90年代以降のオルタナティヴ・メタル(MelvinsやKorn以降の系譜)などを「ポストHR/HM」という言葉でまとめ、それら全てを含む概念としての「メタル」の文脈を整理することに努めた。Borisの音楽性は「ポストHR/HM」にまたがる部分が多いが、「HR/HM」的な要素も全くないわけではない。そうした意味において、本書はBorisを聴き込むにあたっての包括的な資料集としても充実した内容になったと思う。

 これはつまり、Borisの音楽性には分厚いガイドブックでも網羅しきれない広がりがあるということでもある。実際、今年発表された3つのフルアルバムをみても、各々の音楽的なスタイルは大きく異なる。1月リリースの『W』はシューゲイザーやアンビエントを初期CANに寄せた感じの天上のドローン・ロックで、成層圏で夢心地になるような朦朧とした陶酔感に包まれていたが、8月リリースの『Heavy Rocks』(同タイトルで3作目)は、1968年以前のプロト・ヘヴィロックを意識しつつ、GASTUNKやトランス・レコード周辺〜初期ヴィジュアル系にも通じる混沌とした作風になっている。そして、12月にリリースされた小文字boris名義の『fade』では、ギターの野太い持続音が軸となり、ボーカルや打楽器の存在感は遠景に希釈されている。Sunn O)))の『Life Metal』や初期のEarthに近い作風の本作は、主なルーツの一つであるドローン・ドゥームに最も接近した仕上がりで、豊かな響きに浸っているうちに64分の長さがあっという間に過ぎていく。傑作の多いBorisのディスコグラフィにおいても、屈指の逸品ではないかと思われる。

 Borisの音楽性はかくのごとく多彩で、それぞれ別のバンドによる作品だと言われてもおかしくない描き分けがなされているのだが、その一方でどの作品にもBorisならではの強い記名性があり、続けて聴いてもほとんど違和感がない。こうした持ち味のなかで特に重要な役割を担っているのが、固有の“間”の感覚だろう。DOMMUNEのBoris特集でも「グリッドもカウントも要らない。バンドとはそういうもの」「リハも、能とか振り付けの稽古に近い」という発言があったように、Borisのリズム・アンサンブルは、伸び縮みやズレを肯定しつついかに息を合わせるかという方向に研ぎ澄まされている。このような特性が顕著に示されているのが『W』収録の“Drowning by Numbers”で、休符を活かしたベースのフレーズはファンク的なのに、そうした音楽に特徴的な“踊らせる”類のノリは殆ど出ておらず、靄のように漂い続ける居心地が生まれている。そして、本作においてはそれが正解だという説得力にも溢れている。こうした“間”の感覚や展開ペースの支配力、いわば“ドローンぢから”はどの作品にも濃厚に備わっていて、万華鏡のように変化する音楽性との対比で新たな表情を示し続ける。Borisがここまで無節操な音楽的変遷を繰り返しながらも大きな支持を得ることができている秘訣は、このあたりにもあるのではないかと思う。
 その上で、もう一つ重要なのが独特のリリカルなメロディ〜コード遣いだろう。『fade』の比較対象としてSunn O)))の『Life Metal』を挙げたが、響きの質感や時間の流れ方は似ていても、静かに泣き濡れるようなメロウな雰囲気は大きく異なる。これはむしろ裸のラリーズやCorruptedのような日本のバンドに通じる味わいで、ゴシック+ノイズ的な場面でも、Tim HeckerあたりよりもMORRIE(元DEAD END、ヴィジュアル系や日本のオルタナティヴロックの始祖的な重要人物)を想起させられたりもする。『fade』では、そうした雰囲気がドローン・ドゥーム形式のもとで程よく抽象化されることにより、湿っているけれどもべたつかない、哀切の残り香が漂うような居心地が生まれている。その意味で、本作はBorisのエッセンスを高純度で凝縮した一枚になっている。歌もの形式ではないので取っ付きづらく思う人もいるかもしれないが、表現力の面ではむしろ聴きやすく分かりやすい内容なので、ここから初めてBorisを聴いてみるのもいいかもしれない。

 Borisのインタヴューはいずれも非常に面白いが、そのなかでもとくに印象的な発言として、「日本の中にいるわけでも、海外にいるわけでもなく、色んなところに出入りが出来るというか、そういう境界を超えながら、どこにも属せない」というものがあった。上で述べた音楽性に加え、アニソンやボーカロイド、同人音楽まで何でも網羅するBorisは、音楽メディアのジャンル縦割り姿勢では確かに扱いづらい存在ではある。しかし、あらゆる音楽形式を網羅するディスコグラフィは、ポピュラー音楽からアンダーグラウンドシーンに繋がる地下水脈のようなネットワークを体現しており、どれか一つの作品を入り口としてどこにでも向かえる道筋を用意してくれている。『fade』1曲目のタイトル“三叉路”はそうした在り方を象徴するものだし、作編曲の面でも、その“三叉路”の最後2分ほどに『W』収録曲“Old Projector”のアウトロを引用、「(汝、差し出された手を掴むべからず)」の終盤ではBathory的な原初期ブラックメタルが聞こえてくる(これはSunn O)))の「Báthory Erzébet」を連想させる)、最終曲“a bao a qu - 無限回廊 -”は2005年の『mabuta no ura』にも同タイトルの曲が収録されているなど、様々な文脈が仕込まれている。境界を超えながらどこにも属さず、それらを俯瞰するところで個を確立し、様々な時間軸を繋げて新たなメランコリーを生み出していく。そうした創意が示された素晴らしい作品である。

Various - ele-king

 『地元コア!』と題されたエリア・コンピレーションで、ここ30年間にマイアミで名を挙げたダンス・アクトがほぼ一堂に会している(テクノ、ハウス、エレクトロが中心で、ヒップホップは除外)。壮観。全44曲。すべて新録のようで、ヴェテランもニューフェイスもなかなかにしのぎを削り合っている。短い曲が多いせいか、テンションも持続し、いわば「マイアミ・ベース以降」がまとめて体感できる。マイアミ・ベースはアトランタに波及してトラップに発展したり、中南米にはファヴェーラ・ファンクやファンク・カリオカといったシーンを誘発したものの、地元マイアミではどのような変化を遂げたのかということがまとめて報告されたことはなく、それがここに見晴らしよく並べられたという感じ。猥雑でダイナミック。簡単にいえばマイアミの魅力は大胆さと低音の太さに尽きるだろう。ロンドンやベルリンは新しいことをやろうとし過ぎて、時にヒネくれた感じになりやすいけれど、マイアミにはそういったことはない。自由闊達なダンス・ミュージックの最前線である。

 収録順ではなく、プロデューサーのデビュー順に聴いてみよう。まずはラルフ・ファルコンとオスカー・Gによるマーク(Murk)。彼らが名を挙げたのは92年にファンキー・グリーン・ドッグス名義のハウス・クラシック“Reach For Me”がデトロイト・テクノを広めた〈Network Records〉にライセンされ、ヨーロッパでヒットしてから。いわゆるシカゴ・アシッドとは異なるヘヴィなベースがマイアミらしさを打ち出し、本作にも2人はこの30年が何事もなかったように同じパターンの“Filth”を提供している。この不動の価値観。シカゴ・ハウスがヨーロッパに飛び火し始めた80年代後半、マイアミで最も人気だったのはエレクトロ・ヒップホップの2ライヴ・クルーで、彼らのサウンドはデトロイトのサイボトロンがマイアミでもヒットしたことから始まったとされる。2ライヴ・クルーのピークといえる『As Nasty As They Wanna Be』(98)の10年後にはそして、サイボトロンをダイレクトに継承しようとするイグザクト(Exzakt)やBFXが現れ、ここでは両者がタッグを組んで“Reach For Me”をミニマル化したエレクトロの“Let Go”を、また同時期にブルックリンで活動し、後にマイアミに移ってきたゴーサブはマッド・マイクを思わせるデトロイト・タイプのエレクトロ、“Who The Fuck Is Me?”をそれぞれに提供し、さらに少し遅れてデビューしたアルファ606は“Cacique”で、これらとはまったく違った神秘的なエレクトロをオファーしている(同作が全体のクロージング・トラック)。

 最近ではチャイルディッシュ・ガンビーノ“This Is America”のリミックスで名を挙げたジェシー・ペリッツは母親が2ライヴ・クルーのダンサーだったことから音楽の現場とは距離が近く、最初は俳優として活躍していた存在。なかなかの遅咲きで、“Jesse Don't Sport No Jerri Curl”が注目を集めるまでに7年かかり、エレクトロとハウスの中間をいくサウンドを模索。ここではエレクトロに寄った“Pocket Full Of Ones”を提供。エレクトロ回帰と同時期にマイアミに大挙して現れたのがグリッチ・ホップで、元ソウル・オディティのフォーニージア主宰による〈Schematic〉を中心にディノ・フェリペやオットー・フォン・シラクが頭角を現し、本作でも後者はオープニングとなる“Miami All-Stars (Tremendo Intro)”を、前者は当時と変わらずファニーな“In Order To Ground The Listener”をそれぞれに提供。彼らのサウンドはプリフューズ73やフンクシュトルンクなどと並べて聴くよりもマイアミ・サウンドの一部として聴いた方がしっくりとくることは間違いない。さらに活動の途切れていたプッシュ・ボタン・オブジェクツを約20年ぶりにレーベル・オーナーのダニー・デイズが担ぎ出して“I.E.”を共作、ピッチを早めたオールド・エレクトロにアシッド・ハウスを絡めたなパーティ・サウンドに仕上げたことはひとつの快挙といえる。

 エレクトロからクランクへと歩を進めたヒップホップとは距離を置き、マイアミ独自のテクノやハウスが増えたのが00年代。まずはマークの後継としてラザロ・カサノヴァが現れ、ゴーサブ同様、ブルックリンからマイアミに移った彼は作風も“Reach For Me”を継承。ここではレイドバックしたダウンビートの“Nieve”を聞かせる。レーベル・オーナーのダニー・デイズもこの世代に属し、彼もどちらかといえば遅咲きで、『Silicon EP』『Speicher 80』(ともに14)では“Reach For Me”やジェシー・ペリッツの試みをテクノの領域に移植。彼が主宰してきた〈Omnidisc〉ではボディ・ミュージック・リヴァイヴァルのヘレン・ハフやアンソニー・ローター、ワタ・イガラシにブラック・マーリンとオルタナティヴ志向を強くしていたものの、16年にリリースしたヘヴィ・エレクトロの「Miami EP」から本作『Homecore!』のアイディアが膨らんでいったのだろう。〈Omnidisc〉では異色といえる本作には蛆虫が地を這い回るような気持ち悪い“110 Dudes”を提供してマイアミのイメージを根底から覆す役割を演じる一方、ひと世代下のニック・レオンと組んでラ・グーニー・チョンガ“Phonkay”ではアフリカ・バンバータそのままのエレクトロ・ヒップ・ホップも聞かせる。

 このところローレル・ヘイローからニコラス・クルスまであらゆるDJミックスに登場するニック・レオンは「マイアミを音楽都市として再浮上させたプロデューサー」と言われるほど評価の高いプロデューサーで、〈Alpha Pup〉からのデビュー・アルバム『Profecía』(16)ではリスニング寄りの穏やかな側面を見せ、世界中のレーベルからリリースされるシングル群ではワラチャというキューバのリズムやドラムンベース、最近はラプター・ハウスと称されるチャンガ・トゥキにデトロイト・テクノを縦横に駆使し、どれも外しがない。とはいえ、本作ではあまり本領を見せていないメカニカルなエレクトロの“Sapo”を提供していてやや残念。ヴォーカリストとしてニック・レオンと組む機会が多いビター・ベイブも本作にソロ名義で“Gimme”を提供し、レゲトン版ドレクシアなどと評されたニック・レオン「FT060 EP」(最高です!)に共作で参加していたグレッグ・ビートー(Greg Beato)はリズム感がそれほどよくないせいか、最近は実験的な作風に傾き出し、〈Schematic〉をエレクトロに戻したような作風をプッシュ。ここでは90sリヴァイヴァル風の“Hey Angel, Whatever”を提供している。

 ダニー・デイズと活動を共にしているジョニー・フローム・スペースことジョナサン・トルヒーヨはニック・レオンやシスター・システムらと合わせてニュー・スクールと呼ばれる若手の代表。DJパイソンの向こうを張る形でレゲトンのリズムに由来するデンボー(dembow)の使い手とされ、これをプッシュ・ボタン・オブジェクツなどのグリッチ・ホップと接続させたと評される。しなやかで柔軟性のある『R​.​E​.​M.』(ムスリムガーゼ、池田亮司、ヤン・イエリネクらに捧げられている)や『Tide』など彼は本当に才能豊か(“Sueño Latino”みたいな曲がたまにあるところもよい)。本作にはいままでとイメージが異なるタイトなエレクトロの“Refresh”を提供。本作でデンボーを扱ったものはMJ・ネブリーダによるフィッシュマンズみたいな“Arquitecto”も。また、トルヒーヨが新設した〈Space Tapes〉から4thアルバム『Parrot Jungle』をリリースしたニコラス・G・パディヤはエレクトロとベース・ミュージックを接合させたハイブリッドで、ニューエイジ用語をちりばめているわりに曲が荒々しいのは絶滅させられた少数民族の代弁者を名乗るからだろうか。本作にはガラッと変わってポリリズミックなブリープ・エレクトロの“Zone”を提供。ジョニー・フローム・スペース周辺からはほかにシスター・システム、バニー(Bunni)などがエントリー。

 ベース・ミュージックがマイアミと相性がいいのは当たり前というか、ハーフタイムとエレクトロをスムースにつなげ、珍しくUKガラージを意識したINVTも短期間にミニ・アルバムを量産しながら(この4年で『Sano』『DisruptionI』『Extrema』『Cambio De Forma』『Mundos』、ニック・レオンと組んだ『Paseo』『Media Noche』『Plaza』『Doble Carga』『Ritmo Caliente』『Gazebo』『Duro』『La Chamba』『MiradaI』『Prendida』など)クオリティは下がる気配もなく、本作では前述のワラチャを応用したらしき“Dassit”を提供。このドラムはたまらない。リトル・シムズの新作『No Thank You』に収められていた“X”もおそらくは同じリズムで、個人的にはこれがベスト・トラック。ほかにUKとダンス・ミュージックの文脈を共有しているのはFKAトゥイッグスを早回しにしているようなバブルガム・エレクトロのティドゥー(TIDUR.)、トッド・テリーが派手にジュークをやっているようなセル6(sel.6)、アレックス・リース“Pulp Fiction”を思い出すなというのが無理な90sドラムン・ベースのシノビ(Shinobi)、同じくドクター・ロキット名義のハーバート“Café De Flore”を思わせるスパニッシュ・ムードのハーフタイム、“Red Keycard”を聴かせるニア・ダークといったところ。UKはやはりどこかに冷静な感じがあるというか。

 ニック・レオン、ジョニー・フローム・スペースと並んでいま、マイアミにおける台風の目となっているのが、そして、フィー-ゴー・ジット(Fwea-Go Jit)。同じフロリダ州のタンパで生まれたジューク(スペルはJookで、ジュークボックスに由来)と呼ばれるヒップ・ホップ・ダンスがマイアミに飛び火してジャージー・クラブやダンスホールと融合し、DJキャレド“To the Max”(17)によって世界的に広められたバウンス・ビートを縦横に駆使した3thアルバム『2 La Jit』はけっこうな評判を呼んだ。MCの起用も多く、どこを取ってもピットブルかよと思う激しいダンス・ミュージックの嵐で、本作では折り返し地点に置かれた“Touch It Turn It”が微かな哀愁も漂わせつつ、次章への幕開けとなっている。また、リッチー・ヘルはこれまでになかったタイプというのか、バンド編成でマンボやクンビアを演奏し、ボビー・コンダースやモーリス・フルトンに近いリラックス・タイプ。本作にはクンビア調の“Rapto Cosmico”を提供。

 ここからは少し端折ろう。さすがに数が多過ぎる。ウィッチハウスとしてキャリアをスタートさせたブラック・アントことジャン・ピエール・アンソニーは少し変わり種で、初期には拷問のようなゴシック・ホップを掘り下げ、4作目から〈Schematic〉に移籍、レーベル・カラーに合わせてLAビートに転じている。5thアルバム『Hidden Packages (Islands 3 + 4)』はまさかのJ・ディラとラス・Gに捧げられ、本作にもフラッシュ音を強調したグリッチ・ホップの“Bellfast3”を提供。同じ〈Schematic〉からゾン・ジャマール(Sohn Jamal)とマックス・ブゾン(Max Buzone)、そしてロイジュー(Roiju)もエントリー。サイケデリック・ブレイクコアのジョセフ・ナッシングを思い出すゾン・ジャマールは比較的オーソドックスなグリッチ・ホップの“TQ Visa”を、哀愁に沈んだIDMのマックス・ブゾンはいままでとは比較にならない出色の“Epoch”を、そして叙情的なIDMのロイジューはパーカッシヴな“Sin Gravedad”をそれぞれに提供。珍しくミニマル・テクノのフィーフ(Feph)はまったく表情を変えずに“Resolve”をオファー。やはりマイアミには珍しく〈Warp〉風のリスニング・テクノからミニマルも射程内に置くエライアス・ガルシアも本作ではジェフ・ミルズ風の“Radiant”を。

 『Homecore!』は半数がここ2年でデビューした新人か本作で初めて曲を発表したニューフェイスで占められ、オープニングに続いて2曲目と3曲目に抜擢されているのがロウ・エンズ・レコーズとジ・オウ・ファイ(Tre Oh Fie)。どちらも荒々しいエレクトロを提供し、イメージ通りのマイアミで幕を開けるという役割を全うしている。御大マークの次に置かれたコフィンテクスツ(Coffintexts)も新人ながらやはり大役を担い、これもハードなブレイクビーツ路線とは少し変わってハーフタイムの“Muy Bien”で面白い流れをつくっている。無名どころの新人ではほかに(って僕が知らないだけかもしれないけれど)、ジャン・アンソニーによるポリリズムのエレクトロ、“Trees Whispers Leave”もなかなかに良かった。

 10年代の前半こそロサンゼルスにレイヴの舞台を奪われたものの、ほどなくしてその座を奪い返し、レイヴどころか『お熱いのがお好き』の昔から踊る天国であり続けているマイアミ。キューバとの関係が様々な意味でマイアミを活気づけ、介護される富裕層が共和党支持なら介護する労働者が民主党支持というスタンダードな政治風土を背景にマルコ・ルビオ上院議員や最近ではトランプの代替わりとされるロン・デサンティス州知事が吠える、吠える。ゲイ・クラブでの銃乱射事件が象徴しているように、いまや性別を気にしないノンバイナリーに対して性別をはっきりさせるバイナリーのテリトリーとしても強度を増し、マジック・マイクたち男性ストリッパーもステージ狭しとショーを続けている。最近になってマイアミに引っ越したジェフ・ミルズ夫妻によると日本並みに湿度が高く、コロナでも誰もマスクなんかつけていなかったというし(ロックダウンが解除されたと思ったら、あっという間に海岸がゴミだらけになったとも)。突拍子もない水着ショーも面白いし、できることならエルモア・レナードやカール・ハイアセンの犯罪小説を読み続けて一生を終えたいなー……と思った3時間半でした。

aus - ele-king

 00年代にデビューし数々の作品を送り出すも、近年は長らく音楽活動を休止していた東京のプロデューサー aus が、新作シングル「Until Then」を発表する。aus 自らが主宰する〈FLAU〉と、ロンドンのハウス・プロデューサー、セブ・ワイルドブラッドが主宰する〈All My Thoughts〉からの共同リリースというかたちで、B面にはワイルドブラッドによるリミックスを収録。年明け、1月後半に発売予定。
 なお4月には〈Lo Recordings〉から、15年ぶりとなるフル・アルバムのリリースも予定されているそうだ。困難を乗り越えた aus の、新たな船出を祝いたい。

ゼロ年代ジャパニーズ・エレクトロニカ不朽の名作『Lang』で、一躍シーンの中心へと躍り出た東京出身のアーティストausが久々の新曲を10inch & CDでリリース。生音のストリングスで幕を開け、たおやかなムードが漂う中、小気味好いキックが介入すると、マリンバ、ピアノ、深みのあるシンセサイザーなど様々な楽器がブレンドされ、随所で浮き上がる国籍不明にエディットされたユニークなヴォーカルをアクセントに、滑らかでパーカッシヴなグルーヴに引き込こまれる。録音・解体・再構築された特徴的なヴォーカルは、彼の言語への興味が示されており、シネマティックで浮遊感のあるトラックは前へ前へと前進する躍動感に満ちている現行のディープ・ハウス~エレクトロニカとも共振しながらも、確かな個性を見せるメロディアスできらびやかな楽曲で、ausの新章であると同時に真骨頂とも言える仕上がり。
アジアを除く海外リリースはジャジー・ディープハウスの雄Seb Wildblood主宰のAll My Thoughts。B面にはSeb Wildblood自身のリミックスが収録される。Loraine JamesやRoss From Friendsら現行の人気エレクトロニック・ミュージシャンが自身のプレイリストやミックスなどにフィーチャー、今秋には久々の新曲をOlafur ArnaldsがBBC Radio3でプレミア公開して話題を呼んだ。

about aus
東京出身。10代の頃から実験映像作品の音楽を手がける。早くから海外で注目を集め、NYのインディーズ・レーベルよりデビュー。伝説的なレコードショップOTHER MUSICに「現代のエッジと甘美さ、印象的な歌心をこれほど日本的な方法で融合させたアーティストは他にいない」と評される。これまでにヨーロッパを中心に世界35都市でライブを行い、レコード・レーベルFLAUを主宰。現在は香港のインターネット・ラジオHKCRでレジデンスを務める。また、海外アーティストの招聘も積極的に行っており、Olafur ArnaldsやJulia Holter、Julianna Barwick、Grouperらの来日公演を成功させ、静謐でユニークな音楽を紹介するショーケースFOUNDLANDを継続的にオーガナイズしている。
長らく自身の音楽活動は休止していたが、 今秋イギリスBBC RADIO3でOlafur Arnaldsが新曲をプレミア放送。2023年、Seb Wildblood率いるAll My Thoughtsと共同でニューシングル「Until Then」をリリース予定。同4月にはGrimesやSusumu Yokota、サーストン・ムーアらをリリースしたイギリスのLo Recordingsから15年ぶりのフルアルバムも予定している。

■aus - Until Then

タイトル:Until Then
アーティスト:aus
デジタル発売日:2023年1月18日
10inch/CD発売日:2023年1月25日
フォーマット:10”/CD/DIGITAL
レーベル:all my thoughts, FLAU

tracklist:
1. Until Then
2. Until Then (Seb Wildblood Remix)

Federico Madeddu Giuntoli - ele-king

 イタリアのピサ出身、現在はバルセロナ在住のフェデリコ・マデッドゥ・ジュントリは、音楽のみならず、美術や写真など複数の分野で横断的に活躍するアーティストだ。00年代にはイタリアのエレクトロニックなバンド、DRMの一員としてアルバム『Haiku』を発表してもいる(ベルリンのトゥ・ロココ・ロットや、〈Hefty〉に作品を残すナポリのデュオ Retina.it が参加)。
 そんな彼のソロ・アルバムが日本の〈FLAU〉からリリースされている。ゲストとして、〈12k〉からの作品で知られる日本のアンビエント/エレクトロニカ・アーティスト Moskitoo や、ドイツのプロデューサー AGF(ヴラディスラフ・ディレイことサス・リパッティのパートナーでもある)が参加、それぞれをフィーチャーした曲のMVが公開中だ。注目しておきましょう。

神経科学の博士号を持ち、美術、写真、言語学と様々な分野で活躍するバルセロナ在住のイタリア人アーティストFederico Madeddu GiuntoliがAGF、Moskitooらをゲストに招いたファースト・アルバムをリリース。11のミニマルで親密な小さな曲で構成された本作には、寂寞感漂うピアノの断片、密やかに爪弾かれるギター、絶妙にコントロールされたドラム・パーカッション、柔らかで繊細なスポークンワード/ボーカルが、加工されたマイクロ・サウンドとフィールド・レコーディングと共鳴し、ロマンスとミステリーへの簡潔で、深遠な旅を作り出しています。

「このアルバムは、洗練とレイヤリングの緩やかなプロセスに従って形作られ、10年以上にわたる長い間、邪魔されることなく、しばしば自分の意志に反して、最終的な形に到達するために組み立てられたものです。この作品に関連性を見出すことができるとすれば、それは、稀な脆弱性、憧れ、生き生きとした感覚、即興性と脆さの芳香が、説明しがたい完璧な印象と混ざり合ったものを提供する能力にあると言えるでしょう」

about Federico Madeddu Giuntoli
イタリア・ピサ出身、バルセロナ在住のサウンド・アーティスト。To Rococo RotやRetina.itとコラボレーションを果たしたイタリアのエレクトロニック・バンドDRMの一員として活動後、バルセロナに移住し、写真家として、写真集「Nuova gestalt」を出版、彫刻作品の制作や国際的なランゲージ・トレーナーとしても活動している。

■Federico Madeddu Giuntoli - The Text and the Form

タイトル:The Text and the Form
アーティスト:Federico Madeddu Giuntoli
LP発売日:2022年12月7日
フォーマット:LP/DIGITAL

tracklist:
01 lolita
02 text and the form (feat. Moskitoo)
03 #8
04 you are (feat. AGF)
05 flow
06 inverse
07 our Bcn nights
08 unconditional
09 h theatre
10 unconditional (reprise)
11 grand hall of encounters

不気味なものの批評を超えて - ele-king

 イギリスの批評家マーク・フィッシャーの『奇妙なものとぞっとするもの』の日本語訳が、先日 ele-king books の一冊として刊行された。本書は日本語に訳されたフィッシャーの著書としては『資本主義リアリズム』、『わが人生の幽霊たち』、『ポスト資本主義の欲望』に続く四冊目に当たる。これらのうちでおそらく最も有名な『資本主義リアリズム』は、ドナルド・トランプのアメリカ合衆国大統領就任と著者フィッシャーの自殺がほぼ同時期に起きたあの悪夢のごとき2017年の翌年である2018年に邦訳が出版され、資本主義とは異なる社会的組織化の原理をもった世界を想像することさえ困難になってしまった現在の私たちを取り巻く生と思考の諸条件をクリアに描き出してみせた絶望的なまでにリーダブルな書物として、日本でも大きな話題となった。それゆえ多くの人にとってマーク・フィッシャーの名は、『資本主義リアリズム』の著者として、同書における怜悧で核心を突くような政治的社会的考察の数々とともに記憶されているに違いない。彼の晩年の講義録であり最近邦訳が刊行されたばかりの『ポスト資本主義の欲望』は、2010年代に入ってからのフィッシャーがゼロ年代後半にみずから提示した暗鬱たるヴィジョンからの逃走線を、いやむしろ構築線とでも呼ぶべきものをいかにして引こうとしていたかを生々しく物語るものとなっており(ジェルジ・ルカーチの『歴史と階級意識』とヘルベルト・マルクーゼの『エロスと文明』があのような仕方で再評価されるなどといったい誰が予想できただろうか)、『資本主義リアリズム』に感銘を受けた多くの読者の期待に応えるものとなっている。「出口なし」の状況、個人主義的な快楽主義の規範のなかで見失われる集合的な享楽の可能性、「新しいもの」や実験への欲望に対して絶えず加えられる新自由主義的な抑圧──そのような条件のもとで実存的に窒息しかけながら、打開策を求めて必死で手探りし続けている人々に、翳りを帯びた表情で、しかしユーモアを忘れずに内在的な救いの手を差し伸べる。マーク・フィッシャーとはそのような人だった。現代大陸哲学の確かな知識にもとづき政治と社会を縦横無尽に論じてゆく左派のブリリアントな「理論家」としてのフィッシャーの姿が、そこには明瞭に記録されている。
 他方で、『わが人生の幽霊たち』と『奇妙なものとぞっとするもの』の二冊にはフィッシャーの別の相貌が映し出されている。すなわち、「理論家」としての政治的フィッシャーに完全に統合されているとは言いがたい、「批評家」としての美学的フィッシャーである。周知のとおりフィッシャーは90年代にウォーリック大学の哲学科で学び、博士号を取得している。当時そこでは異端のドゥルーズ&ガタリ派哲学者ニック・ランドが教えており、レイ・ブラシエやイアン・ハミルトン・グラントやロビン・マッカイといった、思弁的実在論と呼ばれる大陸系哲学運動の中核をのちに担うことになる人々も学生として籍を置いていた。フィッシャーは彼らと晩年まで友人であり続ける。彼が一見すると『資本主義リアリズム』での自身の立場と正反対に見えるもの、すなわち加速主義──イギリスではランドを通じて広められた、資本がもたらす認知的かつ技術的な生産のプロセスを徹底的に加速させることで資本主義そのものを内破させることができるとする立場──に積極的にコミットする姿勢を見せたのにもそのような背景がある。しかしフィッシャーは初めからウォーリック大学にいたわけではない。ランドとともにあの伝説的な CCRU(Cybernetic Cultural Research Unit)を立ち上げたセイディー・プラントが96年に同大学に移ってくるまでは、70年代以来カルチュラル・スタディーズの牙城であったバーミンガム大学で学んでいた。つまり彼はもともと、スチュアート・ホールやポール・ギルロイの系譜に属するカルチュラル・スタディーズの研究者(の卵)だったのである。94年には雑誌『ニュー・ステイツマン』にオアシスやブラーに代表されるブリットポップの反動性を批判した記事を寄稿する傍ら、D-Generation という「パンクの幽霊に取り憑かれたテクノ」をコンセプトとしたグループで「Entropy in the UK」というEPを発表し、音楽批評家サイモン・レイノルズの目に留まったりもしている。したがってフィッシャーの活動の中心には当初から音楽が、それも文化全体への批判的視点に貫かれたものとしてのパンク(もしくはポストパンク)があったのだと言われねばならない。
 以上のとおり「批評家」としてのフィッシャーは、ポピュラー文化が生み出した諸々の作品、あるいはより正確に言えば「文化的生産物」のうちに、解放的未来への政治的想像力を活気づけるようなエッジの効いた美学的ポテンシャルを探ろうとする立場をとっていた。資本主義リアリズム(サッチャー的な「この道しかない=オルタナティヴなど存在しない」)への政治的批判と、加速主義(パンク的な「未来などない=未来の幽霊の声を聴かなければならない」)への美学的コミットメントという二つのパースペクティヴの不安定な総合を試みるルート、抑鬱への傾斜をも含んださまざまな危険に満ちたルートを歩みつつあった彼の姿は、2000年代の前半から彼が自身のブログ K-Punk や『The Wire』などの雑誌に発表してきた音楽、小説、映画、テレビドラマといった多彩なジャンルの生産物を取り扱うテクストからなる『わが人生の幽霊たち』(原著は2014年に出版)においてとりわけはっきりと確認することができる。そこでフィッシャーは、ザ・ケアテイカーブリアルといったミュージシャンたちを「アンイージー・リスニング」の実践者、失われたユートピア的未来の亡霊を絶えず回帰させるような「憑在論」(哲学者ジャック・デリダの用語)の美学の実践者として、力強く支持することになる。この「憑在論」の美学に関して強調されねばらないのは、そこで念頭に置かれている聴取のタイプが、80年代リバイバルやヴェイパーウェイヴなどに見られるような明らかに自己慰撫的な「ノスタルジー・モード」(批評家フレドリック・ジェイムソンの用語)の聴取のそれとはまったく似て非なるものであるということだ。幽霊や亡霊の形象を動員することでフィッシャーが試みているのは、私たちの眼と耳を私たちの慣れ親しんだ世界のイメージから引き剥がして、見慣れないもの、よそよそしいもの、異邦的なもの(the alien)のほうへと向けなおさせることである。フィッシャーの美学的格率が述べるのは、私たちは自身の思考をつねに「外部(the outside)」へと方向づけておかなければならない、ということだ。
 『わが人生の幽霊たち』と同じく五井健太郎によって日本語へと訳されたフィッシャー生前最後の著作『奇妙なものとぞっとするもの』は、何よりもそのような「外部」の概念の具体的な練り上げを試みたものとして読むことが可能な書である。本書では、ホラー小説とSF映画と(広義の)実験音楽とが同じ概念的道具立てによって論じられるが、そこで基軸となるジャンルはホラーだ。このことは、ダルコ・スーヴィンの『SFの変容』が典型的であるように、批評的評価の観点からは伝統的にSFのほうがホラー(ファンタジー)よりも意義深いものだと見なされてきたことを踏まえるならば意外に感じられるはずである。さらにフィッシャーは、本書の序でみずから定義する「奇妙なもの」と「ぞっとするもの」という二つの概念を用いることによって、ホラーやSFをめぐる批評的言説の世界でこれまで覇権的な地位を占めてきた「不気味なもの」という精神分析的な概念を乗り越えることを企てる。「奇妙なものやぞっとするものを「ウンハイムリッヒ」なもの〔=不気味なもの〕の一部と見なすことは、外部から世俗的なものへの撤退の徴候である。広範に見られる「ウンハイムリッヒ」なものにたいする偏重は、ある種の批判〔critique〕へと向かう衝動に対応するものであり、そしてこの批判はつねに、内部の穴〔gaps〕や行き詰まりを通じて外部を処理することによって作動する。だが奇妙なものやぞっとするものはこれとは反対の動きをおこなう。すなわちそれらは、外部の視点から内部を見ることを可能にするのだ」(邦訳、14頁)。外部を内部化し、幽霊をドメスティケートしてしまう精神分析および「不気味なもの」の概念を拒絶したうえで、内部をいかなる意味でもその相関項ではないような外部の視点から掴み返し、幽霊をオイディプス的三角形から解放して猛り狂わせるような戦略をフィッシャーはとる。これは批判/批評への反逆でもあるのだ。また、ここでのフィッシャーの「不気味なもの」概念の批判(あるいはむしろ「批判の批判」)には、先述した通り彼と近しい間柄であった思弁的実在論の哲学者たちが「相関主義」──カント以来の、したがって「批判/批評哲学」以来の大陸哲学に支配的であった傾向──への批判として展開した議論とよく似た点があることも指摘されるべきだろう。ホラーの概念的ポテンシャルを展開することで、外部を内部と相関させることなく、しかもあまりに難解な表現に頼ることなく、素面で思考する方法を彼は開発しようとしたのだ、と言ってもよい。本書におけるグレアム・ハーマンやレザ・ネガレスタニやベン・ウッダードへの参照は、フィッシャーが友人たちのそうした哲学的思弁の冒険に対してある種の親近感を抱いていたことの証左を与えている。
 さて、しかしそうなってくると問題は──なお、本書の訳者である五井が原語の多義性に配慮して「奇妙なもの」という包摂度の高い訳語を充てた “the weird” は、H・P・ラヴクラフトのクトゥルー神話や日本における怪談に相当するゴシックとの結びつきがはっきりと意図されている概念である以上、私個人は「怪奇なもの」あるいは「奇怪なもの」と強く訳すのが妥当ではないかとやはり思ってしまうのだが、それはともかく──「不気味なもの」の「批評/批判」を超えるための概念がなぜ二つあるのか、ということになりそうである。もっと踏み込んで言うなら、「外部」はなぜ二つ存在しなければならないのか、ということだ。それに関連することとして、フィッシャーが「奇妙なもの」と「ぞっとするもの」を恐怖(horror / terror)の情動に必ずしも結びつくものではないとしている点も注目に値する(邦訳、10頁参照)。この二つの「外部」の存在様態は、恐怖へのゲートとしても十分に機能するが、そうならないように機能することもできる──それはなぜなのか。このような問いに納得のいく答えを与えることは、この短い紹介記事ではもちろん到底なしえない。しかし、「何にも属していないもの(that which does not belong)」というフィッシャーによる「奇妙なもの」の定義が、アラン・バディウの哲学における「出来事とは状況へのその所属〔appartenance; belonging〕が決定不可能であるような多のことである」という主張を思い起こさせるという事実から、少なくとも彼がどのような狙いのもとで、「奇妙なもの」は「モダニズム的な作品や実験的な作品」にしばしば見出されるものであり、「新しいもの」の指標となるものだと述べているのかを推測することはできる(邦訳18頁)。それは「理論家」フィッシャーの関心事であるポスト資本主義的世界の実現可能性という問題に、おそらく深く関わっている。すなわち、その世界は、いまだ資本主義的世界の想像力のなかに生きる私たちにとってはたいへん「奇妙なもの」と感じられるに違いないが、にもかかわらず、私たちはそれを享楽しようとするポジティヴな感情をもつことができる──そのような含意が、「奇妙なもの」に関するフィッシャーのさまざまな記述からは浮かび上がってくるように思われるのだ。
 他方で、「不在の失敗や現前の失敗によって」構成されると言われる「ぞっとするもの」が、運命論(fatalism)と行為主体性(agency)に関わるとされているのは、これもやはり『ポスト資本主義の欲望』における「資本には媒介する力(エージェンシー)があります」(邦訳174頁)という発言と関連づけて読まれるべきであろう。『奇妙なものとぞっとするもの』では資本自体がそもそもあらゆる点で「ぞっとするもの」であることが述べられている(邦訳15頁)。「ぞっとするもの」の概念は、いるはずなのにいない誰か(現前の失敗──遺跡)やいないはずなのにいる誰か(不在の失敗──幽霊)への回路を開く「ケア」的なニュアンスをもつものと解釈することもできるが、他面では、徹底的に非人称的で脱中心化された運命の車輪──私たち自身が始めたものであるはずなのにその終わりを想像することができなくなってしまったもの──としての資本主義という恐ろしいイメージに通じているものでもあるのである。「ぞっとするもの」という情動はそれゆえ、「外部」のネガティヴな存在様態としての側面をもつと言っていいだろう。むろん、ネガティヴであってもこの情動を通して私たちは、「外部」としての世界についての認知地図を拡張する機会を手に入れられることに変わりはないのだが。
 必ずしも恐怖に結びつくわけではないとはいえ、それでもジャンル・フィクションとしてのホラーとの結びつきが強固な二つの「外部」概念である「奇妙なもの」と「ぞっとするもの」をどのように読み解いていくかは、読者に委ねられている。ここまでの紹介で誤解させてしまっていないことを願うばかりだが、本書『奇妙なものとぞっとするもの』は、難解な哲学書の類いではまったくない。取り上げられる作品や作家は具体的かつポップであり、フィッシャーの筆致はつねに明快でありヴィヴィッドでさえある。にもかかわらず、ここまでの紹介が示してきたとおり、フィッシャーの「理論家」的テクストと「批評家」的テクストを今後私たちが総合的に読もうとする際には、『奇妙なものとぞっとするもの』は間違いなく鍵となるような内容を含んでいると判断される書物なのである。「批評/批判」が前提とするようなジャンル間ヒエラルキーを疑いつつ、「不気味なもの」によってドメスティケートされない「外部」を思考すること、そのような普遍的(でおそらくは集合的)な理論的課題に取り組みつつも、個体的で特異的な作品や作家と向きあい、そこに表現されている幽かな行為主体性を言葉で掬いとることを、たとえその行為が淡々としすぎていてほとんど淡白に近いものになる瞬間があったとしても、本書においてフィッシャーは一切怠っていない。そこで賭けられているのは、自己の行為主体性を信じるのと同じくらい、運命の奇怪な力、あるいはむしろ運命のなさの不思議な力を感じつつ、世界そのものの行為主体性を信じることだ。それは決して簡単なことではないだろう。だからこそ、そのようなことが目論まれた書物は──ラヴクラフトが作り上げた架空の/ハイパースティショナルな書物『ネクロノミコン』がそうであるように──千年でも二千年でも、永遠に、読まれそして読みなおされることができてしまうのである。本書「も」また、そのような呪われた書物の一冊、ぞっとするほどにポップで、怪奇/奇妙なまでに希望に満ちた書物の一冊なのだということは、もちろん、言うまでもない。

DOMi & JD BECK - ele-king

 年末は今年リリースされた作品を振り返る時期で、『ele-king』誌でも今年の年間ベスト・アルバムのジャズ部門を選出した。そのなかにはいろいろタイミングがズレてしまってレヴューで取り上げなかった作品があり、リリースは夏頃となるがドミ&JDベックのデビュー・アルバムもその一枚だ。ジャケット写真を見てもおよそジャズ・ミュージシャンらしからぬ2人組で、とにかく若い。
 ドミ・ルーナことドミティーユ・ドゴールはフランスのメス生まれの22歳で、フランス国立高等音楽院卒業後にボストンのバークリー音楽院に留学。そのままアメリカへ移住して活動しているが、3歳でピアノ、キーボード、ドラムスの演奏をはじめ、5歳でナンシー音楽院に入学してジャズとクラシックを学びはじめたという才女だ。
 JDベックはテキサス州ダラス生まれの18歳で、5歳でピアノをはじめた後に9歳でドラムスに転向し、12歳のときには楽曲制作を開始している。10歳の頃にはエリカ・バドゥのバンドでドラマーを務めるクレオン・エドワーズや、スナーキー・パピーのドラマーのロバート・シーライト、ソウル・ミュージシャンのジョン・バップなどと共演し、その教えを受けているという早熟ぶりだ。共に幼い頃からその天才ぶりを謳われた神童である。

 ふたりは2018年にロバート・シーライトの誘いで、アメリカ最大の音楽イベントであるNAMMに出演する。最初の出会いとなったそれ以降も連絡を取り合うようになり、1ヶ月後にはエリカ・バドゥのバースデー・パーティーで再び共演し、ふたりは音楽制作と定期的な演奏活動をスタートする。カリフォルニアを拠点とする彼らは、2019年はサンダーキャットアンダーソン・パークなどのバック演奏に抜擢され、プログレッシヴ・ロック・バンドのチョンと全米ツアーもおこなった。ふたりの才能が認められるのにさほど時間は掛からず、ハービー・ハンコック、フライング・ロータスルイス・コール、ザ・ルーツといった名立たるアーティストとの共演が続く。
 YouTube上にも数々の動画をアップし、なかでも2020年に急逝したMFドゥームの『マッドヴィレイニー』へのトリビュート動画が、その凄まじい演奏テクニックもあって話題となる。2020年にはアリアナ・グランデ、サンダーキャットと一緒に出演したアダルト・スウィム・フェスティヴァルで、サンダーキャットの “ゼム・チェンジズ” の演奏が大きな反響を呼び、ブルーノ・マーズとアンダーソン・パークが組んだブギー・ユニット、シルク・ソニックのシングル曲である “スケート” を共同で作曲。こうしてアルバム・デビュー前からドミ&JDベックは大きな話題となっていた。

 そして2022年の4月、アンダーソン・パークが〈ブルーノート〉傘下に設立した新レーベルの〈エイプシット〉から、ファースト・シングルの “スマイル” をリリース。続いてアンダーソン・パークをフィーチャーした “テイク・ア・チャンス” や “サンキュー”、“ワッツアップ” などシングルを次々発表し、ファースト・アルバムの『ノット・タイト』をリリースと、2022年はドミ&JDベックにとって怒涛の進撃となった。
 『ノット・タイト』はドミ&JDベックが自身でプロデュースをおこない、アンダーソン・パーク、サンダーキャット、ハービー・ハンコックとこれまで共演してきた面々に加え、スヌープ・ドッグ、バスタ・ライムズというラッパー陣、カナダのシンガー・ソングライターのマック・デマルコ、現在はドイツのベルリンを拠点に活動するジャズ・ギタリストのカート・ローゼンウィンケルなど、多彩なゲストを招いた作品となっている。ドミはキーボード、ヴォーカル、JDはドラムス、ヴォーカルを担当するほか、ミゲル・アトウッド・ファーガソンがストリングスとそのアレンジで参加する。

 アルバムはクラシックの室内楽を思わせる “ルーナズ・イントロ” で開幕し、そのままJDのテクニカルなドラミングが圧倒的な “ワッツアップ” へと繋がっていく。“ルーナズ・イントロ” はクラシックの素養もあるドミならではの楽曲だ。“スマイル” はJ・ディラ以降のヨレたビートによるヒップホップ感覚、スクエアプッシャーエイフェックス・ツインなどのドリルンベースなどの要素を注入したフュージョン作品で、ロバート・グラスパー以降の新世代ジャズをさらに更新した、言わばZ世代のジャズ。
 サンダーキャットの歌とベースをフィーチャーしたAORジャズの “ボウリング” は、ほのかに漂うブラジリアン風味がパット・メセニーとトニーニョ・オルタの共演を彷彿とさせる。“ナット・タイト” でもサンダーキャットはベースを演奏し、ミゲル・アトウッド・ファーガソンのストリングスも加わる。JD、サンダーキャット、ドミのドラム、ベース、キーボードのソロの応酬が聴きごたえ十分。全体的にはとてもテクニカルでプログレ的な楽曲なのだが、不思議と難解さはなくてどこかポップでさえあるところがドミ&JDベックの持ち味である。

 マック・デマルコが歌う “トゥー・シュリンプス” は、クールで抑えたヴォーカルに幻想的なドミのコーラスがまとわりつく。チック・コリアのリターン・トゥ・フォーエヴァーを現代にアップデートしたようなナンバーだ。“ユー・ドント・ハフ・トゥ・ロブ・ミー” はドミとJDがデュエットするナンバーで、浮遊感のある不思議なメロディ・ラインが印象的。アメリカのジャズっぽくもなく、かといってイギリスやヨーロッパのジャズでもなく、通常のジャズの文脈から外れた個性的な作品。フライング・ロータスの〈ブレインフィーダー〉周辺らしい楽曲かもしれない。
 ハービー・ハンコックがピアノとヴォーコーダーで参加する “ムーン” は、およそ60歳もの年齢の開きがある両者による夢のような共演が実現。ハンコックがこうした若い世代と難なく共演するところが凄く、そんなハンコックと対等に渡り合える技術や感性を持つドミ&JDベックの才能の証でもある。“テイク・ア・チャンス” ではアンダーソン・パーク、“パイロット” ではアンダーソン・パーク、バスタ・ライムズ、スヌープ・ドッグらと共演し、ジャズの枠に収まらないドミ&JDベックの音楽性の広がりを表現。カート・ローゼンウィンケルと共演する “ウォウ” は、ジャズというより限りなくプログレに近いような超絶技巧のフュージョン。“スペース・マウンテン” や “スニフ” も同様で、アドリブの発想が自由で天才的。ファースト・アルバムでこの完成度、20歳前後という若さや伸びしろがあるふたりがこの先どんな進化をしていくのか、末恐ろしさを感じさせる。

Watson - ele-king

 日本語をいかにリリックとラップで操るか──その一点の革新性において、日本語ラップが大きな転換期を迎えた。これは、KOHH 以来となる大きな変化と言えるだろう。『ele-king vol.30』掲載、2022年ベスト・アルバムについてのテキスト(12月27日発売)で、私は次のように記した。「2022年は、Watson の年だった。雑多なサウンドがひしめくフェーズへとシーンが突入しているからこそ、圧倒的な強度のリリックとラップを矢継ぎ早にドロップし続けた彼が、シンプルに勝者である」と。先日、早くも今年2枚目となるアルバム『SPILL THE BEANS』を発表したばかりの Watson だが、そもそも春にリリースされた『FR FR』すらいまだ十分に語られていない。すでにヘッズの間では確固たるプロップスを築き上げているこのラッパーに対し、尽くされるべき言葉はあふれている。

 以前から “18K” といった曲で垣間見えていた彼のクリエイティヴィティがいよいよ結実した『FR FR』は、次々に繰り出されるラップの集積が、カットを積み上げ延々とフィルムを回し続ける映写機のような技巧で生み出されている。この忙しなくオーヴァーラップし続ける映像的なラップこそが彼のオリジナリティだ。と同時に、映画のごとく移りゆくその描写には、日本語ラップに脈々と受け継がれてきたあらゆる断片も観察できる──RHYMESTER の鋭い一人称、キングギドラの体言止め技法、BUDDHA BRAND のナンセンスな言語感覚、 SEEDA のユーモア──それらすべてを。

 1曲目の “あと” から、センスが猛威をふるっている。「金と/あと/知名度/あと/お化粧/加工/が上手い女の子」というリリックから「あと」をタイトルに抜き出す感覚が斬新だ。めくるめくラップを次々に発していくスタイルを、「あと」という一言でサクッと象徴させる軽やかさ。一方で、「踵踏まない大事に履く靴/靴 今トヨタ プップ/No new friends 今ので十分/あの子気になるおれのクリスマス/その日も見えない所skill磨く」というお得意のリズミカルなリリックによって「毎日磨くスニーカーとスキル」(Lamp Eye “証言”)といったクラシックへさり気なくオマージュを捧げることも忘れない。

 映写機のごとく回り続ける技巧が最も機能したのは “BALLIN” である。言葉をころころ転がすような早口と叙情的なメロディが同時に奇襲するこの曲は、「辞めたタバコ好きだったナナコ/徳島サッカーのみな産む赤ん坊/ピカソじゃないパブロの真似/古着買ったTommy/そからballin黒髪でもballin/簡単に思い浮かぶ絵/最終は俺が勝つgame」というラインで、パラパラ漫画を彷彿とさせるシーンの転換が見事になされる。さらにはそのような場面展開が、ただことばの次元に留まるのではなく運動となってイメージを喚起する点が Watson の独自性であろう。たとえば、“DOROBO” の「夜書く汗と けつ叩く歌詞を/前行く為でしょ 人間足ついてる2本/関係ないパンパン膨らませるお下がりの財布も/プレ値がパンパンついた服着るおれ丁度いいサイズを」というライン。ここで「人間足ついてる2本」という映像的なリリックを差し込んでくる才能には、ひれ伏すしかない。この2本の足は “I’m Watson” で「金なくって乗れないタクシー都合いいよ俺には/歩きながら書いてるリリック1年前の俺21」というリリックに接続され、見事なモンタージュを見せる。“Living Bet” における、「持つペンが手首につける腕時計」や「枯れる事知らないタトゥーの薔薇」というラインも同様である。耳にするすると飛び込んでくる発音が「腕時計」や「薔薇」というイメージとして立ち上がり視覚へと昇華されるさまは、極めて立体的な視覚性に満ちている。

 そもそも、ラップのスキルが桁違いではないだろうか。ハッキリとした活舌が基盤にあるのはもちろんだが、“DOROBO” での「ZARA menのジャケット」「PRADA」など、炸裂する巻き舌が楽曲を随所でドライヴさせる。音程を上げることで高揚感を効果的に演出する技も見事で、同じく “DOROBO” での「なけなしの金」や “I’m Watson” での「チョップ」「パーティ」など、メロディアスなラップのなかでもさらに強弱をつけることで各シーンを映し出すカメラが躍動し続ける。

 群雄割拠のラップ・シーンにおいて、いま、高い技術を持ったラッパーは数多くいる。しかし、ここまでスキルフルで独創的でありながらも模倣を促すようなチープさを感じるラップは、それこそ KOHH 以来と言えるだろう。もちろん、その間に LEX や Tohji といった素晴らしい演者もいた。ただ、LEX のラップの新規性はフロウの多様さにあり、Tohji のラップの革新性はラップというフォーム自体の解体作業に宿っている。一方で Watson のラップは、「誰もが真似しやすくゲームに参入しやすい」民主性に則っており、その点で KOHH が『YELLOW T△PE』とともに現れた2012年以来、約10年ぶりにゲーム・チェンジャーとして抜本的にルールを変える力を秘めている。

 私は『FR FR』を聴き、随所に用意されたユーモアへ宿る哀愁についてチャールズ・チャップリンを連想せずにはいられなかった。この徳島の若きラッパーが膨大なカットを積み上げ延々と回し続ける映写機によって映し出すのは、「裁判所で泣くママ治すZARA menのジャケット/先輩かばってももらえない約束のお金/これで稼いで贅沢させるマジ/友達にvvsあげたい」といった、哀しみに支えられたユーモアである。ここには、チャップリンの『街の灯』のような、普遍的なドラマ性を支える必死の運動がある。

 Watson の時代が来た。日本語ラップの新たなスクリーンが幕を開けたのだ。

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