ドラムの森山がとりあえず一番凶暴になりまして、ドーンと打ち込んでくる。それに対して僕は最初は指で応じていたんですが、森山のドーンは強烈ですから、こっちも負けずにやってやるというので、ダーンと打ち返した。それが肘打ちのはじまりですね(笑)。
山下洋輔トリオが結成から50周年を迎える。それに併せて12月23日(月)に新宿文化センターにて、「山下洋輔トリオ結成50周年記念コンサート 爆裂半世紀!」と題したイベントが開催される。歴代のトリオ参加者である中村誠一、森山威男、坂田明、小山彰太、林栄一らはもちろんのこと、三上寛、麿赤兒、そしてタモリさえもが参加する、めったにお目にかかることのできない集大成的な催しである。遡ること50年前、すなわち1969年に病気療養から復帰した山下は、ピアノ、サックス、ドラムスという特異な編成で、既存のジャズに囚われることのない「ドシャメシャ」なトリオを結成した。ときを同じくしてギタリストの高柳昌行は吉沢元治、豊住芳三郎らと結成したニュー・ディレクションで最初のアルバム『インディペンデンス』を録音し、ピアニストの佐藤允彦はドラマーの富樫雅彦らとともに耽美的な傑作『パラジウム』を発表している。あるいは富樫、高柳、吉沢、高木元輝という黄金のカルテットによる先駆的な即興作品『ウィ・ナウ・クリエイト』がリリースされたのも同年である。のちに日本のフリー・ジャズと総称される立役者たちが出揃った1969年は、まさしく日本のフリー・ジャズの幕開けを告げたきわめて重要な年だったと言ってよい。
彼らの道行は70年代に入ると勢いを増すとともにそれぞれに大きく分かれていったように思う。あるいはそれぞれのオリジナリティが確立されていったと言うべきだろうか。そのなかでもわたしたちが思い起こさなければいけないのはおそらく、山下洋輔トリオが決してエリート主義に陥らなかったということである。むろん万人に受ける音楽などないし、誰もが聴かなければならない唯ひとつの音楽などこの世にはない。とはいえミュージシャンが聴衆を選別することほど不毛なこともない。日本においてフリー・ジャズというある種の特殊な音楽が、ジャンルの壁を超えて様々なミュージシャンの基層にあり、そしていまもなお聴衆を惹きつけているのだとすれば、それは間違いなく山下洋輔トリオがあくまでも「開かれた場所」において活動することに徹してきたからに他ならない。このことは先日、誰もが出入りできる東京タワーの麓で開催された「アンサンブルズ東京」において、大友良英──大友は山下ではなく高柳に師事していた──によるフォルムを持たない即興的なアンサンブル、あるいはノイジーなギターの響きを聴いたときに、いまもなおかたちを変えて受け継がれているとともに、これからも確保していかなければならないものなのだと強く感じた。であればこそわたしたちは、開かれた過激さを纏う山下洋輔トリオの活動と当時の同時代的な状況について、単に過ぎ去った時代を回顧するのではなく、アクチュアルな問題意識をともなってあらためて振り返る必要があるだろう。(細田成嗣)
既成のものをぶち壊せという運動もたしかにありましたが、僕らに関して言えば、音楽を政治的なメッセージとして演奏したことは一度もないです。そういうことを音でもできるよというか、自然に壊しちゃってるところが結果的には一致していましたけどね。
■山下洋輔トリオが結成された1969年にはまだフリー・ジャズというものが存在しなかった。正確に言うとのちにフリー・ジャズと呼ばれるような音楽は、その頃の日本ではニュー・ジャズと呼ばれていたと聞いています。ニュー・ジャズ、つまり新しい音楽に取り組むという意志が、当時の山下さんにもあったのではないでしょうか。
山下洋輔(以下、山下):ええ、ありましたね。ただしもちろん手本になるものはありました。ピアノのセシル・テイラーやアルト・サックスのオーネット・コールマンなど、アメリカではじまっていたフリー・ジャズ運動です。最初の頃の僕は正統派だったので、あの人たちの音楽に近寄ってはいけないと考えていました。けれども考えがガラリと変わったんですね。トリオを結成する1年半前に僕は病気をして、しばらくピアノが弾けなくなっていました。回復してから病気になる前のバンドを再結成してリハーサルをはじめたんですが、どうしてもその音楽が当時の自分の気持ちにそぐわなかった。何かもっと力強くて激しいものを求めていたんです。リハの直前にベースの人が就職をしてバンドを辞めるということもあって、ピアノ、サックス、ドラムという偶然、セシル・テイラーと同じ編成になってしまった。そこで何をやろうかなって思ったときに、みんなデタラメに勝手に音を出したらどうなるかやってみた。そしたらとても面白い後味があったんです。そのときに一緒にはじめたテナー・サックスの中村誠一は、ジョン・コルトレーンの来日コンサートを客席で聴いていたんですよね。66年に日本でコンサートをやったコルトレーンは、もう完全にフリー・ジャズになっていて、「あのコルトレーンがどうしてこんなメチャクチャをやるんだ!」と驚くほどでした。ですから、ああいうことをやるんだなと理解して、すぐに誠一はできましたね。それからドラムの森山威男は、一所懸命にフォービートをやるよりも、自分勝手なことをいきなりやる方が大好きだ、っていうのをそのときに発見しましてね。彼は藝大の打楽器科出身で、誠一は国立音大のクラリネット科出身。ふたりともどういう音楽が世の中にあるのかを知っていたわけで、そのどれとも似ていないものをやる、ということを最初の動機にしてトリオをはじめられたんですね。
■何にも似ていない音楽をやるにあたって、既存のジャズを破壊するような心持ちもあったのでしょうか。
山下:それもあります。やはり似てしまうというのはいままでの秩序があるからですね。それまでジャズが「これが決まりだ」といって守ってきたものを、全部忘れたっていいんじゃないかなと。むしろ忘れてやろうよと。そういう考えになりました。それが自然と破壊につながるわけですね。
開かれた場所、誰もが足を踏み入れることのできる場所で、遭遇してもらう。特別なところと知ってわざわざ足を運ぶのではなくて、普通の場所に行ってみたらとんでもない奴らがいた。そういう状況を求めたかったんです。
■たとえばピアニストのスガダイローさんは「自分は山下洋輔のモノマネでいいと割り切っている」とおっしゃっていたことがありました。そのうえで彼自身のオリジナリティが出ていると思うのですが、いまのお話を伺うと、そういったこととは異なるスタンスが感じられます。
山下:そうですね。彼はわざと宣言してはじめたわけですが(笑)、ジャズの掟に囚われずにやるという最初の段階では、僕もピアノのセシル・テイラーの肘打ちを、ああいうこともやっていいんだっていう手本にしていましたよ。とはいえテイラーのやることを全部真似するという意識はなかった。似てしまうところもあるだろうけれども、自分はあくまでも自分の勝手をやってるんだと思っていました。ドラムとサックスとピアノで同時に演奏するわけですが、それまでのジャズにあったようなテンポやコードという決まりがありませんから、そういうものは頼りにしないで、お互いの演奏を聴き合いながら、「ああ言えばこう言う」といった応酬でやっていくわけです。そのうちにドラムの森山がとりあえず一番凶暴になりまして、ドーンと打ち込んでくる。それに対して僕は最初は指で応じていたんですが、森山のドーンは強烈ですから、こっちも負けずにやってやるというので、ダーンと打ち返した。それが肘打ちのはじまりですね(笑)。それをなんどもやっているうちに自然と音楽の技法になっていきました。
■アメリカで生まれたジャズという音楽を日本でやることに関してどのように考えていらっしゃいましたか。
山下:ジャズの面白さは第二次世界大戦の前から日本に伝わっていました。演奏する人たちもたくさんいた。けれどもやがて敵性音楽だから禁止だと言われることもあって、やはり日本でジャズが本格的に花開いたのは戦後になってからでしょうね。たとえばドラムのジョージ川口さんのバンドなんかは、中学生の頃僕も聴きに行きましたよ。ジャズは映画音楽にも使われ、ダンス音楽にも使われ、自然と我々のなかに入ってきました。そのなかでも特にモダン・ジャズと言われるものは、自分の自己表現としてこの音楽をやっていた。ダンス音楽や映画のバックなんかじゃないと。それは小説や絵画、映画といったものと同じで、いわゆる普遍的な芸術表現分野なんですよ。どの国の誰がそこに参加してもいい。新しい表現をやっていける。そういうジャンルとしてジャズというものが近代に登場してきたんですね。ひとりひとりが面白い即興演奏をする、そのなかで誰が好きで面白いっていうふうに聴く。そういうジャンルができたときに、そこに我々も入っていったということですね。
■その中でもモダン・ジャズを続けていく人もいれば、フリー・ジャズと言われるものを試みていく人もいました。現在に比べれば当時はフリー・ジャズに同時代的な勢いがあったように思います。
山下:ジャズの歴史が長く続けばプレイヤーもたくさん出てきます。その中で自分の表現を求めたいと思ったときに、いままでのやり方では満足できないと考える人がたくさんいたんだと思いますよ。そのことと、あの頃の時代的な背景というものを関連づけて考えてもいいかもしれませんね。ちょうど60年代後半から70年代にかけてというのは、世界的に学生運動というのが盛んな時期で、既成のものをとにかく壊すということに価値があるんだというような考え方がありました。ですから我々がものごとを壊しても、それを「ああ、あいつらは音楽でそれをやっているんだな」って、たとえば学生運動をやってる人たちが共感してくれるとか、学校に呼んでくれるとか、そういうこともありました。そういうことが背景になってるという一面はありましたね。
■『DANCING古事記』というアルバムも、そうした学生運動との関わりのなかで生まれた作品ですよね。
山下:そうなんです。早稲田のバリケードの中でやりましてね。発案したのはテレビ・ディレクターの田原総一朗さんでした。彼が担当していたテレビ番組に僕らを出して、学生運動の最中に突っ込んだら火炎瓶が飛んできてメチャクチャになって我々が逃げ惑うであろうと、それをカメラに撮りたかったらしいんですが、案に相違して学生たちはみんなシンとして聴いてしまった(笑)。これは面白かった。テレビ番組のために作ったので録音が残っていて、それをのちに麿赤兒さんが面白いからと言って『DANCING古事記』というアルバムにしてくれた。そのおかげでいまだに伝わっているわけで、幸運なことですね。
■当時は政治や状況というものが、音楽と強く結びついていたのでしょうか。
山下:政治状況は政治状況ですごかったし、既成のものをぶち壊せという運動もたしかにありましたが、僕らに関して言えば、音楽を政治的なメッセージとして演奏したことは一度もないです。そういうことを音でもできるよというか、自然に壊しちゃってるところが結果的には一致していましたけどね。
■山下さんは1972年に、若松孝二監督の映画『天使の恍惚』の劇伴を務められてもいます。それもまた、ポリティカルな意識というよりも、自然と面白いものを求める流れの中でコラボレートすることになったのでしょうか。
山下:若松孝二さんはピンク映画を利用して社会派の新しい表現をぶち込んでしまうっていうことをされていましたね。それは言ってみれば現状破壊みたいなもので、そういうことでは僕と根が一緒なんですね。それを感じ取っていたからなのか、我々と一緒にやったら面白いだろうという話が向こうから来て。そこに相倉久人さんという絶好の方がおられてね。相倉さんは若松さんのことも我々のこともよく知っていましたから、この両方が結びつくのは面白いと考えてくれた。実情を申せば、「台本も何も読まなくていい、とにかく君たちは演奏しなさい、画面に合わせて僕が全部つけてあげるから」と言われて、そうやってあの映画はできたんですよ。そういういろいろな幸運が重なってできるんですね、ものごとっていうのは。
■批評家の平岡正明さんとはそうした流れのなかで出会っていったのでしょうか。
山下:ええ、平岡さんは相倉さんと一緒に行動していましたからね、僕にも注目してくれて。いろいろなことを面白おかしく書いてくれましたね。すべてを革命に結びつけたりして(笑)。ああいう言い方もあるなと思いました。
■山下さんの活動について書いていた音楽批評家だと、他にもたとえば副島輝人さんがいます。
山下:副島さんとはちょっと距離がありましたね。でも最初のリハーサルで我々がメチャクチャをやったときに、その場にいて見届けていたのは副島さんなんですよ。まあ、後に我々のことを書くのは相倉久人さんが多かったこともあり、副島さんが主に手がけるのはまた別のフリー・ジャズのグループになった。
■副島さんはその頃のジャズをめぐる音楽批評について、「ニュー・クリティシズム」という言い方で、平岡さんや相倉さんのほか、間章さんや清水俊彦さんなどに言及していたことがありました。
山下:間章さんは何だか僕たちの悪口を言っていたという印象があります(笑)。ですからあまり近寄りませんでしたし、特に個人的に付き合うということもなかったですね。急に出てきたフリー・ジャズというものについて、色々な人が色々なことを言いました。やっぱりすごく強い印象を得たのでしょうね、書きたくなるのはもちろんわかりますよ。そこで好みが出てくるのは仕方のないことで、それはそれでいいと思ってました。清水俊彦さんもおられましたね。最初の頃のことはよく覚えてないんですが、後年になってさまざま認めてくださったことが印象に残っています。
[[SplitPage]]フリー・ジャズだから我々も自分勝手と言えば自分勝手なんですけど、相手のことも理解しながらやるっていうのが我々の基本でもあるんですよ。いまはこいつはこうやりたいんだな、じゃあ俺がやったらあんたがやりなさい、っていうふうに考えるんです。
■トリオ結成前の山下さんが、1965年にサックスの武田和命さん、ベースの滝本国郎さんとともに富樫雅彦カルテットでおこなった演奏が、日本で最初のフリー・ジャズだったと書かれていることもあります。どのようなグループだったのでしょうか。
山下:僕らがのちにはじめるやり方とは少し違っていました。ちゃんとテンポがあったんですね。ただしコードはもうなくていいというところまできていました。それとそれまでのモダン・ジャズでのアドリブのやり方は、ワンコーラスというのがあって、それを3回か4回やったら次の人に渡すっていう寸法が大体決まっていたんですけれど、あの富樫のカルテットではとにかく自分のやりたいことが出てくるまでいつまでやってもよかった。ですから当時としては長い演奏がよくありましたね。で、相倉久人さんがずっと聴いていてくれまして、司会もしてくださっていた。それで相倉さんの執筆したものの中に「日本で最初のフリージャズ」といった文言が残されることになったんです。
■それよりもう少し遡ると、1963年に録音された『銀巴里セッション』というアルバムがあります。銀巴里では毎週金曜日の昼にジャズ・セッションがおこなわれて、オールナイトのイベントも開催されていたと聞いています。山下さんにとって銀巴里での活動はどのようなものだったのでしょうか。
山下:あれはとても進歩的な試みでした。その頃のミュージシャンはダンスホールとかキャバレーとか、そういうところが主な仕事場だったわけです。つまり演奏だけを聴かせるための場所がなかった。本当に演奏だけで食えているのは一部のミュージシャンだけでした。たとえばジョージ川口さんのビッグ・フォアとか、白木秀夫さんのグループなどですね。そういう人たちだけがお客さんに演奏を聴かせる機会があったんです。こうした状況をどうにかしようということで、ギターの高柳昌行さんとベースの金井英人さんがふたりで組んで、シャンソン喫茶の銀巴里にかけあって、金曜の昼間だけ貸してもらった。そこにお客さんに来てもらって、生のジャズを聴かせる。いわゆる有名バンドではない人たちが、演奏だけを聴かせるということをはじめたわけで、これは画期的なことだったんですよ。それで若手も呼んでくれまして我々にも声がかかった。若い日野皓正もいましたし、富樫雅彦もいました。そういう人たちが集まっては金曜日にセッションを繰り広げるとても素晴らしい場になっていました。そういう盛り上がりを受けて、近所にあったキャバレーがジャズ・ギャラリー8と名前を変えて、「うちも毎日ジャズのライヴをやっていいよ」とオーナーが言い出した。そこに先ほどの富樫カルテットが出るようになるわけです。
■そのあと新宿の旧ピットインの2階にニュージャズ・ホールというスペースがオープンしました。ちょうど山下洋輔トリオと同じでニュージャズ・ホールも今年で50周年なんですが、ニュージャズ・ホールには山下さんは一度も出演しなかったと聞きました。そこには何か理由があったのでしょうか。
山下:ありましたね。ニュージャズ・ホールというのは、ニュー・ジャズだ、フリー・ジャズだっていうことを標榜しましてね。どこか「お前らにはわかんないだろうけど」っていう態度でこもっちゃう感じがあったんです。僕は下の階にあった普通の「ピットイン」で、ありとあらゆるジャズが聴けるけど、こういうものもあるよというやり方をしたかった。それははっきり覚えていますね。ニュージャズ・ホールでやるのは「来たい奴だけ来なさい」という感じで。そうするともう通の世界になってしまう。そういうのは嫌だったんです。誰もが聴ける場所に出て行くけれど、自分らのやることは変えない。メチャクチャに聴こえるならそれでいいと。その同じ場所で次の日には普通のジャズ・バンドがやっている。そういうふうに開かれた場所、誰もが足を踏み入れることのできる場所で、遭遇してもらう。特別なところと知ってわざわざ足を運ぶのではなくて、普通の場所に行ってみたらとんでもない奴らがいた。そういう状況を求めたかったんです。
■ニュージャズ・ホールにはサックスの阿部薫さんがよく出演していました。彼のことは当時どのように見えていたのでしょうか。
山下:独りだけでやるのを好んだ人でしたね。阿部薫というサックス奏者がいて、ひとりでピアノも弾いたりしている、っていうことは前から知っていました。実際に演奏も聴いて、やはりすごい奴だと認識していました。一度か二度、彼の方から望んだのかこちらから声をかけたのか、飛び入りみたいなかたちで一緒に演奏したこともありましたよ。阿部はもうとにかく自分勝手でしたね(笑)。フリー・ジャズだから我々も自分勝手と言えば自分勝手なんですけど、相手のことも理解しながらやるっていうのが我々の基本でもあるんですよ。いまはこいつはこうやりたいんだな、じゃあ俺がやったらあんたがやりなさい、っていうふうに考えるんです。変なサービス精神ではなく、音楽家のあり方として、お互いにみんなが表現できた方が面白いからなんですね。けれども阿部には一切その配慮がなかった。自分がくたびれるまでひとりで吹いていましたね(笑)。音楽が阿部のものだけになってしまって、せっかくいる共演者の表現を封殺するのはつまらないんです。
よく外国帰りのミュージシャンが、あっちでは大ウケだったのに日本では全然ダメだ、日本人は聴く耳がないなんて言うこともあるでしょ。けれどもアーティストがそう言っちゃダメだなと思いました。
■阿部薫さんと一時期は行動をともにしていた高柳昌行さんは、山下さんからするとどのような存在だったのでしょうか。
山下:もともとは僕にとっては素晴らしいモダン・ジャズのギタリストだったんですよ。それがフリーになってからはあんまり近寄れなかったというか。高柳さんはやっぱりニュージャズ・ホールにこもる方で、聴きたい奴だけが来いというような厳しさがありました。高柳さんのお弟子になった人とも付き合いがありましたから、いろいろな話を聞きましたね。高柳さんの言葉として伝え聞いたところによれば、客が増えるのは良くない、客が増えていくような音楽をやっているのは堕落だ、こんなことを言っていたそうですね。
■それは厳しいですね。
山下:厳しいでしょ。いいねって言われて客が増えちゃうのは、これはもう堕落であるという、そういう考え方をするんですね。僕らはそこは違います。やることは変わらないけど、それを面白がって来てくれる人が増えたらいいと、単純にそういうふうに考えてましたからね。
■客が増えるのは堕落だというのは、山下さんの活動に対して高柳さんがおっしゃっていたのでしょうか。
山下:いいえ、違います。一般論として、おそらくご自分についてもおっしゃっていたんじゃないでしょうか。半分冗談なのかもしれませんが、それは客に来てもらうために自分が不本意なことをやっているんじゃないか、そういうことをしてしまうことへの戒めだったのかもしれませんね。僕たちはなるべく多くの人にとにかく聴いてほしい、わかってほしい、でもそのために音楽を変えることはしない、ということでずっとやってきました。
■反対に、フリーになって以降の高柳さんの活動で、山下さんから見て評価できるところはございますか。
山下:それはありますよ。モダン・ジャズをやっていた人がフリー・ジャズをやりはじめて、しかもその後もそのまんま、それこそわかってたまるかの勢いで音を出し続けていましたからね。これは尊敬に値することです。同時に高柳さんは銀巴里セッションというものをはじめた人ですからね。そういう意味では僕にとっては恩人なんです。初めて人前で演奏を披露することができたのは銀巴里セッションのおかげですからね。それまでももちろん仕事はしてたんですが、それはダンスホールでありキャバレーであり、バーであって、人を飲ませて踊らせる役目の音楽だったわけで。純粋に自分の演奏を聴いてもらうという場は銀巴里が初めてだったわけですから。僕にとっての高柳さんの存在は、そのことと一緒になっていますね。
■ニュージャズ・ホールは1971年に閉店しますが、一方で山下洋輔トリオは70年代になるとむしろ活動のピークを迎え、国際的にも広く知られるようになっていきます。初めて海外で演奏したときは、どのような反応が返ってきたのでしょうか。
山下:我々がピットインで演奏してるのを、ドイツのマネージャーがたまたま立ち寄って聴いて、いままでとは違うメチャクチャさにびっくりして、これはヨーロッパに連れていったら面白いと考えたようです。それで彼の招きでツアーができたわけですよ。最初に行ったときから、聴衆の反応には過大な期待はしていませんでした。もちろんそれを聴いて喜んでくれる人がいれば嬉しいことではあるんだけど、まずは外国の人の前で自分たちが演奏できることが嬉しいわけですからね。そういう気持ちで行ったんです。生まれて初めてのヨーロッパはルクセンブルグのジャズ・クラブでした。演奏したら最初のうちはやっぱり唖然とした反応でしたが、途中で帰ってしまう人はいませんでした。それで2セット目の終わりくらいに、熱狂的な拍手がだんだん沸き起こってきた。楽しんでくださっている人もいるようだということがわかって嬉しかったです。その次がメルス・ニュージャズ・フェスティバルだったんです。『クレイ』というアルバムに収録されている演奏です。野外のジャズ・フェスティバルだったこともあって、お客さんはたくさんいましたね。それでも我々がやることは一切変えずに、前のジャズ・クラブと同じようにドシャメシャにやったわけですね。そしたらすごい騒ぎになった。これはもちろん嬉しかったですよ。演奏の途中から歓声が上がったり、ソロが終わったら大きな拍手があったり。終わってから楽屋に戻ってビールを飲んでたんですけど、客席の声が全然おさまらないんですね。ドイツ語で「ツーガーベ」っていうんですが、アンコールが鳴り止まない。それでもう一度やってこいと言われて、また出ていきました。振り返ってみればメルス・ニュージャズ・フェスティバルで大成功したことになるんですが、もうその瞬間はね、ほとんど実感がないんですよ。僕たちは普段通りにやっただけでしたから。それでもこれだけ騒いでくれたのは嬉しかったですけどね。そしてこれがそれ以降のヨーロッパ・ツアーにつながるわけです。メルスははじまってまだ3回目だったんですが、ドイツ全土で評判になっていまして、そこで大ウケをした奴らだっていうので、ベルリン・ジャズ・フェスティバルのプロデューサーが目をつけた。それでその年の秋のベルリン・ジャズ・フェスに呼ばれてしまった。こういうことが起きたんですね。傍から見たら大成功物語ですよね。でも僕らにはあまりその実感がありませんでした。やる場所さえあれば思いっきりやるという態度のままでしたね。
■ヨーロッパで演奏したときの客席の反応と、日本で銀巴里やピットインで演奏していたときの客席の反応に、違いを感じることはありましたか。
山下:ありましたね。ヨーロッパの方が思い切り反応が返ってきます。演奏が良ければ全力で拍手してくれるし、大騒ぎしてくれますね。ヨーロッパに行く前から同じトリオでピットインで演奏していたんですが、やはりそんな大騒ぎにはならない。それは熱狂的な人たちはいてくれたんですが、会場全体がそうだというのではなかったですね。ヨーロッパでは本当に全体が応えてくれる。そういうふうに感じましたね。
■それは聴く人たちの文化の土壌ができ上がっていたとも言い換えられるでしょうか。
山下:そう言えるでしょうね。ヨーロッパの人たちは昔からアメリカのジャズを聴き手として受け止めてきましたからね。他所からジャズをやりにくる人たちには慣れてるわけですね。昔の僕のエッセイにも書きましたけど、ヨーロッパではどこに行っても大ウケしたんですが、このことは日本に帰ったら忘れなければいけないと思ったんですね。よく外国帰りのミュージシャンが、あっちでは大ウケだったのに日本では全然ダメだ、日本人は聴く耳がないなんて言うこともあるでしょ。けれどもアーティストがそう言っちゃダメだなと思いました。ヨーロッパと日本ではお客さんが違うのであって、日本で大ウケするためにはそのために日本でコツコツと積み上げていく時間がなきゃいけない。そう思っていました。ヨーロッパはヨーロッパ、日本に帰ったらまたあらためて「こいつら何をやってるんだ」っていう目にさらされるだろう、そういうふうに覚悟していました。
■2009年にはトリオ結成40周年記念コンサートが開催されました。40年経って日本の文化の土壌や聴き手の反応は変わったと思いましたか。
山下:40周年記念コンサートでは日比谷野外音楽堂が満員になりましたからね。僕らのやっていることに騒いでくれる人たちは昔に比べれば増えたように見えますけど、一般の聴衆というよりも、昔から聴いてた人たち、我々と同世代の人たちが集まってくれたという方がやっぱり大きいと思います。これは自分への戒めとしてそう思ってるということです。もちろん20代や30代で聴いてくれる人たちもいるんですよ。ダイローなんかが僕のやり方からはじめたんだと言ってくれて、若い人に聴衆を作っているのはとても良いことだと思うけれども、だからといって胡座をかいていたらいけないですからね。
■山下洋輔トリオは1983年に一度解散しています。それはおそらく山下洋輔トリオというフォーマットでできることをやり尽くしたというところもあったのではないかと思います。
山下:そうでしょうね。
■しかしお話を伺ってきて、今年の50週年記念コンサートでは、山下洋輔トリオというフォーマットを回顧するのではなく、むしろその新たな姿を目撃することになるのではないかと思いました。
山下:ぜひとも期待してください。僕にとっては今回のコンサートはまた新たな出会いです。昔やっていた仲間たちとの再会ではあるけれど、いまお互いにできることをすべてぶつけ合うという意味では、トリオをはじめた頃と何ら変わりません。みんな元気にしていますし、お互いのことをよく知っているぶん、昔のトリオにはなかったいろいろなコミュニケーションのあり方が聴かせられるんじゃないかと思います。それがとても楽しみですね。
山下洋輔 トリオ結成50周年記念コンサート 爆裂半世紀!
公演名:山下洋輔 トリオ結成50周年記念コンサート 爆裂半世紀!
公演日時:2019年12月23日(月)
開場 17:15 / 開演 18:00
会場:新宿文化センター 大ホール
料金:全席指定
【前売】S席 ¥8,000(税込)/ A席 ¥7,000(税込)
【当日】S席 ¥9,000(税込)/ A席 ¥8,000(税込)
出演者:
山下洋輔(p)
中村誠一(ts)、森山威男(ds)、坂田明(as)、小山彰太(ds)、林 栄一(as)
ゲスト:タモリ、麿 赤兒、三上 寛、ほか
MC:中原 仁
備考:
※3歳以上要チケット
※出演者ならびにゲストは都合により変更になる場合がございます。あらかじめご了承ください。
主催:ジャムライス
共催:(公財)新宿未来創造財団・朝日新聞社
運営:ディスクガレージ
お問い合わせ:ディスクガレージ 050-5533-0888(平日12:00~19:00)
TICKET:一般発売日 2019年9月7日(土)10:00~
●チケットぴあ https://w.pia.jp/t/yosuke-pr/
0570-02-9999
Pコード:154-242 ※要Pコード
●ローソンチケット https://l-tike.com/
0570-084-003
Lコード:72519 ※要Lコード
●イープラス https://eplus.jp/yosuke/
●CNプレイガイド https://www.cnplayguide.com/yosuke_trio50/
0570-08-9999(10:00~18:00)
●ジャムライス https://www.jamrice.co.jp/yosuke/
●新宿文化センター(窓口のみ) 03-3350-1141(9:00~19:00/休館日を除く)