「KING」と一致するもの

Procare - ele-king

 不定期に開催されているパーティ「プロケア」。11月10日、久方ぶりに同パーティが渋谷・WWWβにて敢行される。NYを拠点に活動するプロデューサーの K Wata (yaeji のアルバムにロレイン・ジェイムズらに混ざってフィーチャーされていましたね)、オーストラリア出身の Cousin、ブランド〈C.E〉設立者 Toby Feltwell のゲスト3名に加え、同パーティのレジデンスの面々が出演。なかでもUS拠点の K Wata は、日本での初ライヴを披露する。詳細は下記より。

interview with Slauson Malone 1 - ele-king

 スローソン・マローン1ことジャスパー・マルサリスが、〈Warp〉と契約を交わし、アルバム『EXCELSIOR』をリリースした。プロデューサー、ミュージシャンであると共に、ファイン・アートの世界でも活動するアーティストだ。ニューヨークやロサンゼルスで個展を開催し、最近もチューリヒ美術館のビエンナーレに招聘されている。ロサンゼルスに生まれ、いまも活動拠点としているが、10代でニューヨークに移り住み、美術を学び、クリエイターとしてのキャリアをスタートさせた。
 彼のアート作品は、油彩の抽象画、釘やハンダを組み付けたキャンバス、コンタクト・マイクを使ったサウンド・インスタレーションなど多岐に渡るが、「自分の心に残るものは自分が嫌いなもの」という彼の言葉そのもののように、影や暗部を淡々と照らし出している。そして、彼の音楽も不協和音、不安定なビート、解決しないメロディが絡まり合っている。とはいえ、抽象度の高いアート作品とは違い、アコースティック・ギターやビートに乗った彼の声はよりストレートに感情を伝えている。その声はどこか、マック・ミラーを思い起こさせもする。
 ニューヨークのアート・シーンと結びついたスタンディング・オン・ザ・コーナーやラッパーのメードニー(Medhane)と繋がりのあったスローソン・マローン1の音楽は、ローファイなフォークやインディ・ロックにも近い。しかし、それだけに収まっているわけではない。『EXCELSIOR』には、シンガー・ソングライターのチョコレート・ジーニアスことマーク・アンソニー・トンプソンや、BADBADNOTGOOD のドラマー、アレックス・ソウィンスキーなども参加しているが、基本的には様々な楽器をひとりで演奏している。ベッドルーム・ミュージックの延長にあるプロダクションだと言える。
 ジャスパー・マルサリスとネットで検索をすれば、ウィントン・マルサリスの名前がたくさん現れる。そう、彼の父親は世界的なジャズ・トラペッターだ。ジャズ・アット・リンカーン・センターの芸術監督を長年務め、クラシック音楽の世界でも活躍し、ジャズ及びジャズ・ミュージシャンの地位向上に腐心してきた。そして、マイルス・デイヴィスがエレクトリック楽器を使ったこと、ヒップホップに接近したことを批判した人物でもあり、いまもヒップホップには否定的だ。この父親と対比させて何かを語りたくもなるが、それはあまり意味がないと感じてもいる。ジャスパー・マルサリスのアートも音楽も、既に充分に自立したものであるからだ。

ポピュラー音楽は、みんながそれぞれ作品の意味を解釈したりして積極的に関わるという、まさにそこが面白いところだと思う。

今回、スローソン・マローン1として〈Warp〉からデビューすることになった経緯から教えてください。

SM1:すごく粘ったからだと思う。

粘ったというのはレーベル側がですか?

SM1:じゃなくて僕が。すごくいいパートナーになれると思ったんだ。彼らがマーク・レッキー(Mark Leckey)のレコードをリリースしたっていうのが決め手としてあったから。マーク・レッキーとフロリアン・ヘッカー。マーク・レッキーっていうのはヴィジュアル・アーティストで、僕は大ファンなんだよ。ちなみに僕自身もアートをやっていて。だから〈Warp〉には、音楽やアートを分野横断的なアープローチで作ることに対する理解がある人が誰かいるんだと思って。それで〈Warp〉と契約したいと思ったんだよ。基本的にはそれが理由だね。

〈Warp〉というレーベルにはどのような印象を持ってきましたか?

SM1:もちろん彼らは素晴らしい音楽をたくさんリリースしてきたと思う。でも僕が興味を持ったのはファイン・アートに対する感受性があるっていう、その特定の理由だったね。

ジャスパー・マルサリス、スローソン・マローン1、あなたにはふたつの名義がありますが、名義による作品の区別はあるのでしょうか?

SM1:スローソン・マローン1は何と言うか、パフォーマンス・アートの延長という感じだね。スローソン・マローンはもう死んでいて、スローソン・マローン1はそのコピー・バンドみたいなもの(笑)。自分のなかではそういう感じで説明するとしたらそうなるかな。

本名のジャスパーの方がリアル?

SM1:どっちがリアルとかじゃなくて違うだけ。たとえば結婚式に着ていくような服装のときはプールに行く格好をしているときと振る舞い方が変わるよね。泳ぐときは海パンが必要で。でもそのふたつのうちどっちがリアルとかってことではない。違うだけ。

画家、アーティストとしての活動と、ミュージシャンとしての活動、どちらが先だったのでしょうか? また、それぞれの活動はどのように作用しあっているのでしょうか?

SM1:同時発生だったと思う。どちらかと言うとファイン・アートの方はずっとプロフェッショナルというか、キャリアとして続けていくものとして考えてきたんだよ。でも5、6年くらい前に音楽が趣味からプロフェッショナルなものへと変わったんだ。

つねに安全な場所を探していたというか、自分にとっての理想的な場所を作りたくて。逃げ込むっていうわけではないけど、何だろう、いつでも行ける場所が欲しかったんだ。

あなたが音楽で表現できることと、アートで表現できることの間に、どのような共通項、あるいは違いがあるのか、教えてください。

SM1:僕のアート活動は絵がベースだから、つねにフレームを意識してる。つまり二次元空間があって、それが絵画でもパフォーマンスでもすごく似ているんだ。ステージがあって、そして人びとが立って四角い長方形を見ている。僕が絵を描くとき、何度も繰り返されるアイコンや色、形だったりというテーマがつねにあると思う。たとえば円錐形が何度も繰り返し出てくるとか。そして音楽でも同じく、つねに同じテーマを探求しようとしているんだ。スマイルのテーマ、“Smile #1” “#2” “#3” “#4” “#5” “#6” (編注:ファースト・アルバム『A Quiet Farwell, 2016–2018 (Crater Speak)』やEP、シングルなどの収録曲)とか。それから新作にも “Olde Joy” と “New Joy” があったり。
ふたつのいちばんの違いは経済的な構造かな。音楽はレーベル的にはつねに赤字運営だけど、一般大衆が支えている部分も大きい。このプロジェクトにお金を出したいか、このアルバムを買いたいかを人びとが決める。一方アートは非常に私営化されているというか、ギャラリーやコレクターといった機関がひとりのアーティストをバックアップする。だからそこはかなり違っていて、でも同時にアートは妙に自由度が高くて、一般大衆の関与が少ないからより挑戦的なアイデアを試すことができたりする。でもやっぱり音楽はエキサイティングなんだよ。ポピュラー音楽は、みんながそれぞれ作品の意味を解釈したりして積極的に関わるという、まさにそこが面白いところだと思う。

表現できることの違いはどうですか?

SM1:やっぱり時間がいちばん大きい違いかな。音楽は、その作品を鑑賞するためには時間ごと経験しなければならないから。絵や彫刻にも時間はあるけど意味が違うというか、そこに寄りかかってはいない。鑑賞者はいつ立ち去ってもいいし、時間を忘れることもできる。音楽はモロに時間なんだよね。あと音楽の方が変にパーソナルな感じがする。自分が音楽のなかで語っていることって、アートのときよりもかなり個人的なことじゃないかと思う。

最初に音作りをはじめたきっかけは何だったのでしょうか? また、特に影響を受けたものは身近にありましたか?

SM1:僕の姉がEDMのDJになりたかったんだ。それで、説明が難しいんだけど、何と言うか、僕はいつもそういったコンサートの規模の大きさに衝撃を受けていて。スティーヴ・アオキとかアフィとかのサウンドを聴いているとウオオオーッとなって、たぶんその頃初めて自分の音楽を作ってみたいと思ったんだ。あと僕は、つねに安全な場所を探していたというか、自分にとっての理想的な場所を作りたくて。逃げ込むっていうわけではないけど、何だろう、いつでも行ける場所が欲しかったんだ。

弾き語りやラップから、楽器演奏、トラックメイキングまであらゆることをあなたは手掛けていますが、そうした制作スタイルが生まれた背景を教えてください。

SM1:単純に好奇心だと思う。「これはどうしてこうなんだろう?」とか、「この椅子はどうしてこういう形なんだろう?」とか、そうやって興味を持ち続けた結果として生まれたんだ。

『EXCELSIOR』にはコラボレーターも多数参加していますが、どのように制作されていったのでしょうか? アルバムのヴィジョンを描いて制作に臨んだのでしょうか? それとも徒然に曲を作っていったのでしょうか?

SM1:じつは元々このアルバムを諦めかけていたんだよね。曲数も2曲のみにするつもりで、その2曲はほとんど完成していて、でもそのときマネジメント・チームにすごく支えてもらったんだ。あと仲のいいミュージシャンの友だちがいて、彼女がジョー・ミークの “I Hear A New World” って曲を聴かせてくれて、それが効いたというか、音楽の力というものにすごく興奮したんだ。それでその曲をカヴァーしようと思って、実際アルバムにも収録されているんだけどね。それからニッキー・ウェザレル(Nicky Wetherell)はアルバムでチェロを弾いていて一緒にツアーもしたんだけど、彼の影響もすごく大きかった。ソングライターとしても人としても。彼とストリングスのアレンジをやったり曲のアイデアを探求したりするのは本当に楽しかった。それからアンドリュー・ラピン(Andrew Lappin)の影響も大きかったね。彼のスタジオで作業したんだけど、僕は普段は全部自宅でやるから、スタジオに入って、次はドラム、次はヴォーカルという感じでチェックリストに沿って作業するのが面白かったよ。

それで2曲のみにするつもりがいつの間にか?

SM1:そう。そこから拡張していった。面白いのは、このアルバムの中心的なテーマのひと つが細胞分裂で、原子や細胞が分裂するプロセスだったこと。そして実際ひとつの曲が別の曲に分裂していくような感じになっているんだよ。それがいつの間にか最初のテーマに戻っていたり。結果的にその最初の2曲がアルバムの土台のようになったのが面白いなと。だから結局、もうやりたくないと思っていたのに諦めることに挫折したってことだね(笑)。

様々な楽器、機材を使える状況で、曲作りは実際、どうやってはじまるのでしょうか? 

SM1:そのときによって変わるけど……自分の耳が発達したり、興味の対象が変わったり。この質問を訊かれるのが初めてで、ちょっと考えるから待って……ああ、わかった、まずは他の音楽を聴くことからはじまる。それで好きだと思った音楽の何に自分が興味を持っているのかを考える。メロディなのか、サウンドのテクスチャーなのか。それからメロディやコードを作りはじめるんだけど、その時点ではまだかなり抽象的で、方向性があるわけではなく、僕のパソコンがゴミ箱と化し、ヘドロが沈殿していく。あるいはキノコのように菌を増殖させていく。それをひたすら修正して破壊して。そして最後の3ヶ月くらいですべてが立ち現れてくる感じで、そこがいちばん好きだね。

リリック、言葉はあなたの音楽において大切にされていると感じます。『EXCELSIOR』で追求したことを教えてください。

SM1:主に身体についてだったと思う。皮膚や骨や肉体や血。

フライング・ロータスにインタヴューした際、彼はサックスを少し習っていたが、親類の優れたミュージシャンたちを見て早々に諦めたと話していました。あなたの場合も似たような経験はありますか?

SM1:正直すごく複雑なんだ。というか、どんな家族構成であってもたいていは次世代がより良くなることを望んでいて、でも時代と共に何が良くて何が悪いかは変わる、みたいな話だと思う。

ライヴは大好きだよ。録音された音楽とはかなり違うものだよね。結構パフォーマンス・アートに近いというか。僕がいちばん気に入っているのは、それをポップ・ミュージックの文脈のなかでやれるということ。

お父さん(ウィントン・マルサリス)の音楽は、あなたにとってどのような存在だったのでしょうか? 

SM1:僕にとっては音楽自体がどうっていうことではなくて。コンセプトとか音色とかサウンドよりも深いもので。父をはるかに超え、祖父をはるかに超え、その祖父または祖母をはるかに超えた深い系譜があって……。

では、お父さんが大切にしている伝統的なジャズに対する、あなたの意見もぜひ訊かせてください。

SM1:音楽。全部音楽だよ。素晴らしいと思う。デューク・エリントンは素晴らしい作曲家だと思うしビリー・ストレイホーンも素晴らしい。

ジャズではメソッドが大切にされています。またジャズに限らず、ジャンル音楽には固有のスタイルがあります。あなたの音楽は、そこから自由であろうとしているように感じられますが、メソッドやスタイルにどう向き合ってきましたか?

SM1:よく聴くことだと思う。そのメソッドを理解した上で、ちゃんと聴こうとすること。音楽に限らず誰かの話でも何でも。僕の向き合い方を説明するとしたらそうなるかな。でも誰もがそこから借りる必要があるのかどうかはわからない。よくよく考えてみるとそれって恣意的なものだったりするからさ、特にアートではね。キュービズムであるための要件がキュービズムの絵を興味深いものにするわけではないっていう。たとえば誰でも四角を描いたりそれっぽい感じの絵を描けるけど、そこじゃないわけだよ。画家それぞれが現代における実存と向き合ったり、もっとずっと深い考えがあったんだ。

NYのシーンとも交流があって、スタンディング・オン・ザ・コーナー(Standing On The Corner)やメードニー(Medhane)との活動からも、あなたを知りました。彼らとの関係について教えてください。

SM1:もういまはないね。若い頃の自分にとっては刺激的な時期だったけど、男性の集団にいることに居心地の悪さを感じるようになったから。

LA生まれで、活動基盤もLAですよね? LAの音楽シーンについてはどう思われますか? 特に共感を寄せるアーティストがいれば教えてください。

SM1:じつは正直に言うと、あまり出かけないから、いま何が起きているのかちょっと疎くて。あ、違う、昨日出かけたんだ。ええと……誰を観たのかど忘れした! 脳がコロナのときみたいな……ちょっと待って。あ、わかった、ジェフ・パーカーだ、ギタリストの。彼の影響はかなり大きいからライヴを観れてすごく嬉しかった。それからジョシュ・ジョンソンにも影響を受けてるよ。

ライヴをやることは好きですか? またライヴはどのようなスタイルでおこなっているのか教えてください。

SM1:ライヴは大好きだよ。録音された音楽とはかなり違うものだよね。結構パフォーマンス・アートに近いというか。自分の身体も使って、観客がいて、すごく楽しい。普段は僕がギター、ヴォーカル、コンピューターで、ニッキーがチェロで、アコースティック・ギターとチェロという古典的な楽器ふたつだけだから迫力に欠けるんだ。そしてものすごく退屈なところからはじめて、同じ音を何度も何度も繰り返し弾く。ひたすらCを弾くとか。そして観客がうんざりしてきた頃に徐々にメロディのあるフレーズを弾いていき、それが最初の曲に発展する。あとは、まあこれはレコードと同じ感じだけど、すごく静かになったりラウドになったり、そしてあるときは僕が叫んだり床で転がって観客を押し退けたり(笑)。そこはレコードとはかなり違う。僕のアートと音楽それぞれの活動の中間みたいな感じ。そこでできることがたくさんあると思っているし、すごく興味がある。アイデアを試す場所というか。僕がいちばん気に入っているのは、それをポップ・ミュージックの文脈のなかでやれるということ。多くの人はパフォーマンス・アートの経験がないかもしれないし、あったとしても受け付けないっていう感じだと思うからさ。

 まるでプラトンの「洞窟の寓話」みたいだ。男性優位にもとづいた家父長的な観念の数々が何千年ものあいだ女性の経験をかたちづくってきたために、その外でシスターフッドを概念化することは難しいし、ましてそれを定義することは難しい。
 いずれにせよ私は、フェミニズムがこんにち辿りついている地点を疑わしく思っている。いうまでもないことだが、たとえば日本とアメリカのあいだにある社会的・文化的なニュアンスの違いは、結果として女性の行為についての異なる基準を生みだすことになる——つまりジュディス・バトラーが述べたとおり、「ジェンダー[役割の数々]は行為遂行的なものであり[……それらが]行為されるかぎりにおいて実在する*2」ものなのだ。だけどけっきょくのところいま、ニューヨークから東京まで、誰もが同じ経験をしている。つまりいま現在のフェミニズムのなかでは、女性にたいする抑圧のメカニズムそのものが、私たちをエンパワーするための鍵としてブランド化されてしまっているのである。 
 とはいえ、10年たらず前まで、フェミニズムは刺激的な危険地帯に身を置いていた。#Metooの示した展望のあとで、いったい私たちは、どうしてこんなところに辿りついてしまったのだろうか?
 そのピークにおいて#Metooは、——そもそも女を支配し沈黙させる性質をもつ家父長的な管理が、原初的なかたちをとってあらわれたものである——性的暴行の証言とともに、有名無名を問わない女たちを公の場へと連れだした。2000年代初頭にこの運動を開始したとされるタラナ・バークの言葉を引用するなら、「”Me too”はたった二語で十分だった。(……)暴力は暴力である。トラウマはトラウマだ。だけど私たちはそれを軽んじるように教えこまれ、子供の遊びのようなものだと考えるようにさえ教えこまれている」
 だけどミュージシャンたち——つまり明確に社会のサウンドスケープを形成している者たち——は、2010年代なかばの絶頂期のさなかで、奇妙なほど沈黙したままだった。とはいえ、少数の女性たちが名乗り出たことは賞賛されるべきだろう。なかでもとくに挙げられるのは、虐待を受けたマネージャーにたいする10年以上に及ぶ訴訟につい最近決着をつけたばかりのケシャや、レディー・ガガビョークテイラー・スイフトなどの名前だ。とはいえしかし、こんにちのフェミニズムをより生産的な方向へと導きうる道しるべは、まさにいま現在ポップ・ミュージックのなかに身を置いている女性たちをより深く掘り下げてみることによって与えられる。

もうひとつの“F”ワード
——いったいいま誰がフェミニストになることを望んでいるのか?

 スキャンダラスな——いやむしろ虐待的な——男性ミュージシャンたちは、実質的にひとつの原型になっている。長い間彼らには、その行動にたいするフリーパスが与えられてきたのだ。マイケル・ジャクソンは金目当ての子供たちに性的虐待なんかしていない。たしかにデイヴィッド・ボウイは14才の「グルーピーの子供」とセックスしたが、彼女は自分からその状況を招いたのだ。だとしても、ではあの悪名高いレッド・ツェッペリンのサメ事件はどうなのか? いずれにせよいつも、「男ってのは困ったもんだ」で済まされるのだ。カニエ・ウエストでさえ擁護者を抱えている。YouTubeのコメント欄をざっと見てみると、敬虔なイーザス信者の軍勢がいることが見えてくる。なかでもとくに、以下のような悲痛なコメントは、こちらをノスタルジーというボディーブローで連打してくる。「カニエは『Graduation』を作った。『Graduation』を作った。『Graduation』を作ったんだ!」*3
 どうやら男たちの場合、アーティストと彼の作るアートは、つねに切り離すことが可能らしい。
 だがしかし、女たちの場合はどうだろう?
 人類学者のルース・ベハーは『Women Writing Culture』において、あえて発言する女たちに突きつけられる期待をあきらかにしながら、「女たちが書くとき、世界は見張っている*4」と警句めかして書いている。女性ミュージシャンたちもまた、その発言にかんして——文字どおりそれを注視するような——同様の圧力に直面している。よく知られているとおりだが、シネイド・オコナーが教皇の写真を破った直後にキャンセルされたことを思いだしておこう。より最近の例として、ラッパーのアジーリア・バンクスは、楽曲よりもそのスキャンダルで有名になっている。また誰もが覚えているとおり日本では、AKB48のメンバーが、ボーイフレンドと夜を共にするというとんでもない犯罪——嗚呼!——を犯したために、頭を丸め、公に謝罪したのだった。
 悲しいことに#Metooは、たった数年で頓挫しだしたが、おそらくそれは、不幸にも性的暴行とコミュニケーション不足が結びつけられていったからだろう。2022年になるとハリウッドは、配偶者からの虐待を主張して彼の「名誉を毀損」した元妻アンバー・ハードとの訴訟に勝ったジョニー・デップを、やさしく諸手を広げて受け入れた。#Metooのあとで、私たちに伝えられているメッセージはこれまで以上にはっきりしたものになった。私たち女は、火あぶりにならないよう目立つようなことはしないのが一番なのだ。
 当初は#Metooや、ジョー・バイデンにたいする性的暴行の申し立てを支持していたレディーガガが、にもかかわらず大統領就任式で歌うことになったのは、きっとそうした圧力があったからなのだろう。だがこのことはむしろ、アメリカの(そして他の後期資本主義社会の)政治が激しく分岐していることの証明なのかもしれない。「すべての女たちを信じる」[#Metoo運動のなかで生まれたスローガン”Belive women”の派生系。ハラスメントや暴行の申し立てをまずは信じることを主張する]——なるほどね、だけどそうすることが政治的に不都合じゃないかぎり、でしょ?
 またおそらく——以前は自身がフェミニストであることを宣言する光り輝く巨大な電飾の前でパフォーマンスをしていた——ビヨンセが、女性問題にたいする公然としたサポートをやめたのは、#Metooのあとで、もはや社会の同意が得られなくなったからなのだろう。
 あるいはまた、おそらくこのことは、あの業界の寵児について、そう、テイラー・スウィフトその人について説明するものでもあるはずだ。私は自分が「スウィフティー[Swiftie:スウィフトのファンの通称]」だとは思わないし、スフィフトが——フェミニスト的な立場を主張していたのに——カニエ・ウエストの「Famous」のなかの悪名高い歌詞(自分とスウィフトは「まだセックスしてるかもしれない」というもの)を[発表前に知っていながら]知らないふりをしていたことを、[カニエの元妻の]キム・カーダシアンが暴露したときは、真剣に眉をひそめもした。しかしキャリアがスタートに見られたコンプライアンスを重視するその公的な人格は、結果として彼女のファン層(とその経済的自由)を築きあげ、そして最終的には、いまいる場所まで彼女を辿りつかせることになった。こうして彼女はいま、倫理的な理由でSpotifyから楽曲を取り下げたり、最初の6枚のアルバムを自身のアーティストとしてのヴィジョンに合うように再録したり、摂食障害について率直に語ったりしているわけである。
 だからこそ、キム・カーダシアンには[SNS上で]すぐに捕まったとはいえ、スポットライトの外で一年を過ごしたすえに18キロも痩せて帰ってきながら、歴史に残るカムバック・アルバム『Reputation』であからさまに中指を突き立て、次のように歌っていた頃のテイラー・スウィフトこそが、私は大好きなのだ。「私は誰も信じないし、誰も私を信じない。私はあなたの悪夢の主演女優になってやる」  あれこそが最高(バッドアス)だった。

女の性の力

 #Metoo以降、他に何が起きたのかを考えてみよう。グローバル経済は着実に下降している。アメリカ人たちは2008年の破綻以降いまだにふらついたままだ。一方で日本では、バブル崩壊以後の終わりのない不況が、長い戦後史上でも最低の円安を招いている。またコロナ禍以降、インフレによって貧富を分けるうんざりするような隔たりが世界中で広がっている。
 苦境にあえぐ経済は、同じ立場で男が1ドル稼ぐあいだ、こんにちにいたってもいまだに77セントしか稼げていない女たちにとって、とくに深刻な含意をもっている。そうした状況がある以上、セックス・ワークが——なかでもOnlyfans[ファンクラブ型のSNS]のような界隈のなかや、「シュガー・ベイビーズ」というかたちでおこなわれるそれが——これまで以上に魅力的なものに見えているのも当然だといえる。『Harper’s Bazaar』誌でさえもが、カーディ・Bがストリッパーだったことを梃子にして登りつめたことを「シンデレラ・ストーリー」だと表現するくらいだ。
 「WAP」で共演しているメーガン・ザ・スタリオンは自身のリリックのなかで、ごくシンプルに、「この濡れたマンコにキスしたいなら学費を払ってよ」と歌っている。
 カーディ・Bのブランドになっている、いわゆる「売女ラップ[slut rap]」の土台には、当時としては革命的だった1990年代の遺産が横たわっている。リル・キムの“How Many Kicks”やキアの“My Neck, My Back (Lick It)”といった曲が、その当時のヒップホップの場を地ならしし、女たちも、異性をモノのように扱うことで悪名高い男たち——私がここで思い浮かべているのはスヌープ・ドッグの“Bitches Ain’t Shit”やジェイ・Zの“Big Pimpin’”のような曲だ——に肩を並べることができるようにしたのは疑いないことだ。
 だがけっきょくのところ売女ラップは、男性の眼差し(メイルゲイズ)からの持続的な解放にはいたらなかったと言えるのではないだろうか? 私は何もここで、女性のセクシュアリティや、「世界最古の職業」(このこと自体、女の「選択」よりも男の欲望の方が優先されてきたことの例だが)を侮辱しようというつもりはない。そうではなく——とくに女性のセクシュアリティの表象がどんどんと男性の眼差し(メイルゲイズ)におもねったものになっている状況のなかにおいて——こんにちのフェミニズムが、そうした選択は女性たちをエンパワーするものだと主張していることに疑問を投げかけたいのだ。もちろん、少なくともエルヴィス以来ずっと、ポップスターたちは自身のセクシュアリティを資本化してきたわけだが、ガールパワーを伝えるものだったローリン・ヒルの“Doo-Wop (That Thing)”やシャナイア・トゥエインの“Any Man of Mine”、ノー・ダウトの“Just a Girl”といった90年代のヒット曲は、“WAP”を隣に置かれると、まったくもって禁欲的なものに見えるてくる。
 つまり私たちのもとにはいま、男性ミュージシャンにたいして、何でもいいがたとえば、「バカなことするのはやめて」と頼みこむ代わりに、その先には袋小路しかない「性的エンパワーメント」なるものへと向かう道をどんどんと突き進んでいく女性のポップスターたち——しかも男性プロデューサーからなるチームに指導された*5女性ポップスターたち——がいるのだ。ドレイクが自身[と21サヴェージ]のアルバム『Her Loss』のなかでフェミニズムに言及しているのは、よく言えば自分で自分に鞭を打っているようなものだが——ああ、クソッ、俺は悪いビッチたちに惑わされた善人だ、というわけである——、悪く言えば人を侮辱するたぐいのものだ。「お前らのために50万ドル遣ってやるぜビッチ、おれはフェミニストだ」といったリリックによってドレイクは、男性の眼差し(メイルゲイズ)の外に自分たちのための価値を見いだそうとしてもがく女たちを嘲笑っている。だがそのことと、“WAP”の待望された続編である“Bongos”——そのMVのなかでは、Tバックを履いた二人のラッパーがセックスの真似をしながら、「ビッチ、私はお金そのものみたいにイケてる/私の顔をドル札を印刷したっていい/太鼓みたいにコイツを叩いてみたらどう?」とラップしている——とのあいだに違いがあるとした場合、けっきょくのところそれは、後者においては、女が主導権を握っているという点に求められることになるだろうか?
 たしかに、ポン引きに食い物にされるより、自分自身がポン引きになる方がいいだろうが、だが真剣に考えてみてほしい、はたしてそれだけが私たちの選択肢だといえるのだろうか?
 #Metoo以降メディアがどう変わったか(あるいは変わっていないか)を見ていると、私たちは完全に論点を見失っているのではないかと思えてくる。言っておくが、私はカーディ・Bのメディア上での人格が好きだ。彼女はクレバーでふてぶてしく、現代にとって決定的なものである経済的な戦いも上手くこなしている。彼女もまた最高(バッドアス)だ。だから我がシスターたちの一部とは違った考えをもっていることになるかもしれないが、とはいえ私は、ファミニズムを苦しめる内輪揉めに加わるつもりはまったくない(また平等を求めるその他の運動に加わるつもりもまったくない——この点については、次のように書くなかでシモーヌ・ド・ボーヴォワールが見事に要約しているとおりだ。「女たちの翼は切り取られている、その上で彼女は、飛び方を知らないといって責められる*6」)。プラトンの寓話の洞窟に捕らえられたあの魂のように、私たちにとって真の平等を概念化することは難しい。
 だけど、ねえ(メン)*7——カーディ・Bがあの素晴らしい声を何か他のことを言うために使ったとしたらどう思う? 
 けっきょくのところ性的暴行とは、不平等にもとづくより広範なシステムの悲劇的なあらわれなのであり、このシステムにおいて女たちは、男の期待によって拘束されつづけている。男たちに私たちの価値を定義するように頼っているかぎり、私たちの価値はあくまで、特定の(セックス)にかかっていることになる。つまり、男の喜びに向けて調整された(セックス)に。
 だがひどいセックスと同じで、そんなことはただ退屈なだけだ。

【プロフィール】
ジリアン・マーシャル/Jillian Marshall

ジリアン・マーシャル博士は、現在ニューヨークを拠点に活動しているライター、教育者、ミュージシャン。初の著作『JAPANTHEM: Counter-Cultural Experiences, Cross-Cultural Remixes』 (Three Rooms Press: 2022)は、日本の伝統音楽、ポピュラー音楽、アンダーグラウンド音楽にたいする民族音楽的研究にもとづき、大学と公共圏を架橋している。博士号取得後にアカデミアを去ったが、その理由のひとつは、同僚たちからその半分もまともに受け取れないのに、彼らの二倍も努力するのに嫌気がさしたからである。https://wynndaquarius.net/

◆注

  • 1 [訳注:原題にある”hot take”とは、大方の予想とは異なる見方を強く示すことで、受け手の積極的な反応を引き出す一種のレトリックのこと。もともとはスポーツ・ジャーナリズムで用いられた言葉だが、SNS上で一般化した。日本語の語感としては「逆張り」にも近いが、もっぱらネガティヴな面が強調されてしまう点で本稿のもつ自覚的な戦略性にはそぐわないため、ここでは、カナによる音写で多義性を残しつつ、直訳的に訳した]
  • 2 Judith Butler, “Performative Acts and Gender Constitution: An Essay in Phenomenology and Feminist Theory,” in Performing Feminisms: Feminist Critical Theory and Theatre, ed. Sue-Ellen Case (Baltimore: Johns Hopkins University Press, 1990), 278.
  • 3 はぁ。冗談ではなく私は、本当に昔のカニエが恋しい。
  • 4 Ruth Behar, Women Writing Culture, ed. Ruth Behar and Deborah Gordon (Berkeley: university of California Press, 1995), 32.
  • 5 カーディ・Bとメーガン・ザ・スタリオンは、自分たち以外の6人と作詞のクレジットを共有している——そのいずれもが男性だ。
  • 6 Simone de Beauvoir, The Second Sex (New York: Vintage, 1989), 250.
  • 7 [訳注:英語では、性差を問わず誰かに呼びかけるさいの言葉として”man”が用いられるが、ここではそのことが、言語そのものに刻まれた男性優位の例として強調されている。]

なお、本コラムの第二回目(2010年代のカニエ・ウェスト)は、年末号のエレキングに掲載される。

Musicological Hot Take: Pop Music Post-#MeToo By Jillian Marshall, PhD

It’s like Plato’s “Allegory of the Cave": because patriarchal notions of male superiority have shaped the female experience for millennia, it’s hard to conceptualize —let alone define — womanhood outside of it.
Nevertheless, I find myself wondering about where feminism has ended up today. Of course, socio-cultural nuances between, say, Japan and the US create different standards of the feminine performance — and, as Judith Butler wrote, “Gender [roles] are performative… and are real only to the extent that [they] are performed.”*1 But in the end, it’s the same story from New York to Tokyo: in contemporary feminism, the mechanisms of women’s oppression are now branded as the keys to our empowerment.
Yet not even ten years ago, feminism was perched at an exciting precipice. So, how did we end up here after the promise of #Metoo?
At its peak, #MeToo brought forward women of both stature and obscurity with stories of sexual assault: a primary manifestation of patriarchal control that, by its nature, dominates and silences women. Quoting Tarana Burke, who is credited with starting the movement in the early 2000s, “‘Me too’ was just two words… Violence is violence. Trauma is trauma. And we are taught to downplay it, even think about it as chid’s play.”
Yet musicians — those who explicitly shape society’s soundscape— remained curiously silent during #MeToo’s height in the mid-2010s. Perhaps it should be celebrated that only a handful of women came forward with stories: notably KE$HA, who only recently settled a decade-plus lawsuit against her abusive manager, as well as Lady Gaga, Bjork, and Taylor Swift. But a deeper inquiry into women in pop music today provides a roadmap that could guide contemporary feminism toward a more productive direction.

The Other “F” Word: Who Wants to Be a Feminist, Anyway?

Scandalous — nay, abusive — male musicians are practically an archetype, and they’ve long been awarded free passes on their behavior. Michael Jackson didn’t sexually abuse those gold-digging children. Sure, David Bowie had sex with a fourteen-year-old “baby groupie,” but she put herself in that position. And that infamous shark incident with Led Zeppelin? Well, boys will be boys. Even Kanye West has his apologists: a quick look at YouTube comments reveals legions of faithful Yeezus devotees. One lament in particular hits me with a nostalgic gut punch: “He made Graduation. He made Graduation. He made Graduation!” *2
With men, we can always seem to separate the art from the artist.
But women?
In Women Writing Culture, anthropologist Ruth Behar quipped that “When women write, the world watches,”*3 articulating the expectations thrusted upon women who dare speak up. Female musicians face similar pressures regarding their voices— literally. Consider how Sinead O’Connor was famously cancelled for ripping up a photo of the Pope before cancellation itself. More recently, rapper Azalea Banks is more famous for her scandals than her songs. And in Japan, we all remember when the AKB48 member who shaved her head and publicly apologized for the egregious crime of — gasp! — spending the night with her boyfriend.
Sadly, #MeToo began fizzling out just a few years in, perhaps due to unfortunate conflations of sexual assault with poor communication. By 2022, Hollywood opened its loving arms to Johnny Depp following his victorious lawsuit against ex-wife Amber Heard, who “defamed” him with claims of spousal abuse. Post #MeToo, the message is clearer than ever: we women best stay in line, lest we burn at the stake.
So maybe this explicit pressure explains how Lady Gaga, despite her initial support for #MeToo and the sexual assault against allegations against Joe Biden, sang at his 2021 presidential inauguration ceremony. But this might be more of a testament to the bitter bifurcation of American (and other late-capitalist societal) politics. “Believe all women”— unless it’s politically inconvenient to do so, right?
And maybe Beyonce— who once performed in front of that giant, glowing sign declaring herself a FEMINIST — dropped her overt support of women’s issues because, post-#MeToo, societal permission was no longer granted.
Or maybe this all explains the industry’s darling: yes, Taylor Swift herself. Now, I’m not exactly a “Swiftie,” and I raised a serious eyebrow when Kim Kardashian revealed that she feigned ignorance — while claiming a feminist stance, no less — regarding Kanye West’s infamous lyric about how he and she “might still have sex” in his song “Famous.” But Swift’s compliant public persona at the start of her career is what built up her fan base (and financial freedom) to ultimately arrive where she is now: pulling her catalog from Spotify for ethical reasons, re-recording her first six albums to fit her artistic vision, and speaking candidly about her eating disorder.
And though Kim Kardashian caught her red-handed, I love that Taylor Swift came back forty pounds healthier and a year out of the spotlight later, middle fingers blazing on a come-back album for the ages, Reputation, singing: “I don’t trust nobody and nobody trusts me. I’ll be the actress starring in your bad dreams.” Badass.

The Power of Female Sex

Let’s consider what else has happened since #MeToo: the steady downturn of the global economy. Americans are still reeling from the crash of 2008; meanwhile, an endless post-Bubble recession in Japan has weakened the yen to its lowest value in the long postwar. And since coronavirus, inflation cleaves a disheartening chasm across the globe between the rich and poor.
The implications of a struggling economy are particularly grave for women who, to this day, still earn just 77 cents for every dollar made by men in identical positions. So it makes sense that sex work, especially in spheres like OnlyFans or as “sugar babies,” holds seemingly more appeal than ever. Cardi B’s upward mobility, leveraged by stripping, is even described by Harper’s Bazaar as a “Cinderella Story.”
“WAP”-collaborator Megan Thee Stallion puts it succinctly with her line, “Pay my tuition just to kiss me on this wet ass pussy.”
Cardi B’s brand of so-called “slut rap” builds on a legacy from the 1990s that was revolutionary for its time. There’s no doubt that Lil Kim’s “How Many Kicks” and Khia’s “My Neck, My Back (Lick It)” leveled the hip-hop playing field for a time, enabling women to keep up with boys notorious for their objectification of the opposite sex (Snoop Dawg’s “Bitches Ain’t Shit” comes to mind, along with Jay-Z’s “Big Pimpin’”).
But can we finally admit that slut rap didn’t impart lasting liberation from the Male Gaze? I don’t mean to shame female sexuality or the “world’s oldest profession” (itself a commentary on the prioritization of male desire more than female “choice”), but to question contemporary feminism’s insistence this choice is inherently empowering— particularly as representations of women’s sexuality increasingly pander to the Male Gaze. Of course, pop stars since at least as far back as Elvis have capitalized on their sexuality, but the 90s girl-power messaging of Lauryn Hill’s “Doo-Wop (That Thing),” Shania Twain’s “Any Man of Mine,” or No Doubt’s “Just a Girl” appear downright puritanical next to “WAP.”
So rather than imploring male musicians to, I don’t know, stop being assholes, instead we have female pop stars — coached by a team of male producers*4 — marching further down a dead-end road toward “sexual empowerment.” We can all agree that Drake’s nods to feminism on his album Her Loss, is self-flaggelating at best — aw, shucks, just a good guy led astray by bad bitches — and insulting at worst. With lyrics like “I blow half a million on you hoes, I’m a feminist,” Drake makes a mockery of women’s struggle to find worth for themselves outside the Male Gaze. But when the purported difference between this and “WAP”’s much-anticipated follow-up, “Bongos” — whose video features the two rappers in thongs, simulating sex, rapping “Bitch, I look like money / You could print my face on a dollar / Better beat this shit like a drum?” — is that, here, the women are in control?
Sure, I suppose being your own pimp is better than being pimped, but seriously: these are the options?
Seeing how things have (or haven’t) changed in media since #MeToo leaves me wondering if we’ve missed the point altogether. For the record, I like Cardi B’s media personality: she’s clever, unapologetic, and in tune with the economic struggles definitive of our times. She, too, is a badass, so while I might have differing ideas on feminism from some of my sisters, I’ll never participate in the infighting that plagues feminism (and any other movement for equality_, which Simone de Beauvoir eloquently summed up when she wrote, “Women’s wings are clipped, and then she’s blamed for not knowing how to fly.”*5 Like those souls trapped in Plato’s allegorical cave, it’s hard for us ladies to conceptualize true equality.
But man — can you imagine if Cardi B used that incredible voice of hers to say something else? Ultimately, sexual assault is a tragic symptom of a broader system of inequality, where women are imprisoned by male expectation. When we look to men — themselves increasingly socialized by pornography and violence — to define our value, our worth hinges upon a particular kind of sex: one geared toward male pleasure. Like bad sex itself, it’s all just so boring.

  • 1 Judith Butler, “Performative Acts and Gender Constitution: An Essay in Phenomenology and Feminist Theory,” in Performing Feminisms: Feminist Critical Theory and Theatre, ed. Sue-Ellen Case (Baltimore: Johns Hopkins University Press, 1990), 278.
  • 2 Sigh. I really do miss the Old Kanye.
  • 3 Ruth Behar, Women Writing Culture, ed. Ruth Behar and Deborah Gordon (Berkeley: university of California Press, 1995), 32.
  • 4 Cardi B and Megan Thee Stallion share writing credits on “Bongos” with six others— all men.
  • 5 Simone de Beauvoir, The Second Sex (New York: Vintage, 1989), 250.

Author Bio

Jillian Marshall, PhD, is a writer, educator, and musician currently based in Brooklyn New York. Her first book, JAPANTHEM: Counter-Cultural Experiences, Cross-Cultural Remixes (Three Rooms Press: 2022) draws on her ethnomusicological research on Japan’s traditional, popular, underground music worlds, and bridges the university and the public sphere. She left academia following the completion of her doctorate, in part because she was tired of working twice as hard to be taken half as seriously by her colleagues.

10月のジャズ - ele-king

 つねに新しいものが求められがちな音楽シーンにあって、ジャズの場合はそれだけでなく、過去の音源の発掘や歴史に埋もれた作品の再評価といった作業も大きな意味合いを持つ。そして、歴史や伝統のある音楽シーンであるからこそ、昔から現在に至るまで長く活動するミュージシャンも多い。今月はそうしたレジェンドのリリースが見られた。


Hugh Masekela
Siparia To Soweto

Monk Music / Gallo Record Company

 南アフリカ出身で米国に渡り、世界的に活躍したトランペット奏者のヒュー・マセケラ。シンガーでもあり、作曲家としても数々の名曲を残した彼が没したのは2018年だが、その死後もミュージシャンたちへの影響は続いており、たとえば生前の2010年に録音された故トニー・アレンとの共演作『リジョイス』が2020年にリリースされた。これは彼らふたりの録音に、新たにエズラ・コレクティヴココロコなどの演奏を加えて完成されたもので、見事に新旧ミュージシャンの共演となっていた。そして、この度またヒュー・マセケラの未発表音源が発掘された。

 2005年にトリニダード・トバゴのジャズ・フェスに参加して以来、アフリカとカリブの音楽を繋ぐことに腐心していったマセケラは、2012年から2016年にかけてトリニダード・トバゴを訪問し、現地のミュージシャンたちとのセッションをおこなった。参加したのはソカの伝説的なミュージシャンであるマシェル・モンタノ、スティールパンの世界的第一人者であるアキノラ・セノンが率いる楽団のシパリア・デルトーンズ・オーケストラなど。マセケラは2005年のフェスでシパリア・デルトーンズ・オーケストラに出会ってから、その演奏にずっと魅せられ続けてきており、念願の共演となったようだ。

 トリニダーソ南部の街であるシパリアから南アフリカのヨハネスブルグにあるソウェトへと題されたこのアルバムは、マセケラはじめとした参加ミュージシャンの国境を越えたセッションに留まらず、アフリカ大陸とカリブ海の文化的遺産を巡る旅のような音楽である(トリニダードの住民の多くは、かつて旧英領時代にアフリカから奴隷として連れてこられた人びとを祖先とする)。トリニダードで人びとが集うもっともポピュラーな場所はマンゴーの木下だそうで、そこで政治や経済について議論がおこなわれ、歴史や文化が受け継がれてきたとアキノラ・セノンは述べており、そうした背景が “ザ・ミーティング・プレイス” “マンゴ・ツリー” といった曲へと繋がった。自分たちのルーツは本質的にアフリカ人であるというセノンは、トリニダード・トバゴの文化的遺産とアフリカ系カリブ人のディアスポラの復興のため、その象徴的な楽器としてスティールパンを用いているそうだ。そして、その音色はとてもピースフルで、“ボンゴ・デイ” や “ロール・イット・ガル” などさまざまなタイプの音楽とも調和することが可能だ。アフリカからカリブへと跨る文化遺産の多様性、そしてその根底にある平和的な思想を音楽にしたアルバムと言えよう。


Idris Ackamoor & The Pyramids
Afro Futuristic Dreams

Strut

 1970年代より活動するアイドリス・アカムーアと彼の率いるザ・ピラミッズは、2010年代に入るとスピリチュアル・ジャズ再評価の影響を追い風に、『ウィ・ビー・オール・アフリカンズ』(2016年)、『アン・エンジェル・フェル』(2018年)、『シャーマン!』(2020年)とコンスタントにアルバムを発表している。『アン・エンジェル・フェル』『シャーマン!』はヒーリオセントリックスのマルコム・カットが共同プロデューサーとなり、そのミキシングやレコーディング作業を通じてアイドリス・アカムーアの音楽観や世界観を現在のシーンにも繋がるものへと仕上げていたわけだが、この度リリースされた新作『アフロ・フューチャリスティック・ドリームズ』もやはり彼が共同プロデュースをおこなう。結成から50周年を迎えたザ・ピラミッズは、オリジナル・メンバーのマルゴー・シモンズや1970年代の作品にも参加したブラディ・スペラーのような年長のミュージシャンがいる一方、サウス・ロンドンのアフロ・バンドであるワージュやジョーダン・ラカイのバンドに参加するアーネスト・マリシャレスと若いミュージシャンも参加するなど、新旧ミュージシャンが融合した形で、サン・ラー・アーケストラのように過去・現在・未来を繋ぐ存在と言えよう。“サンキュー・ゴッド” あたりはとてもサン・ラー的な楽曲だ。

 『アフロ・フューチャリスティック・ドリームズ』というタイトルが示すように、シャバカ・ハッチングスら南ロンドンのミュージシャンらの活躍で再び注目を集めるようになったアフロ・フューチャリズムを反映したアルバムであり、『アン・エンジェル・フェル』以降に顕著なブラック・ライヴズ・マターからの影響が本作においても “ポリス・デム” “トゥルース・トゥ・パワー” などの楽曲に表れている。また、表題曲などシンセサイザーやエフェクターによって人工的なサウンドとプリミティヴなアフリカ音楽を意図的に融合する場面があり、そこがアカムーアなりのアフロ・フューチャリズムの表現と言えるだろう。


Kofi Flexxx
Flowers In The Dark

Native Rebel Music

 コフィ・フレックスとは覆面的なアーティストだが、実際はシャバカ・ハッチングスの新たなプロジェクトである。これまで2022年にカルロス・ニーニョとコラボした “イン・ザ・モーメント・パート3” というフリーフォームなアンビエント音源をデジタル・リリースしたのみで、今回の『フラワー・イン・ザ・ダーク』が実質的な初リリース・初アルバムとなる。シャバカ以外の参加ミュージシャンは明らかではないが、楽曲ごとにラッパーやシンガーがフィーチャーされていて、ビリー・ウッズ、アンソニー・ジョセフ、コンフューシャスMC、エルシッド、ガナブヤ、シヤボンガ・ムセンブなどが参加する。トリニダード・トバゴ出身の詩人であるアンソニー・ジョセフのポエトリー・リーディングをフィーチャーした “バイ・ナウ(アキューズド・オブ・マジック)” は、同じカリブをルーツに持つシャバカ・ハッチングスにとって、彼らのルーツや歴史・文化を表明したアフロ・ジャズ。ヒュー・マセケラやアイドリス・アカムーアら先人の音楽とも繋がる作品である。

 “イット・ワズ・オール・ア・ドリーム” や “フラワーズ・イン・ザ・ダーク” など、比較的リズムを中心とした作品が多く、リズム・セクションもパーカッション中心にミニマルでトライバルな展開をしていく。シャバカのサックスやクラリネット、フルートも土着的な音色を奏で、“インクリーズ・アウェアネス” や “ショウ・ミー” のように薄くアンビエントな演奏が目につく。特に “インクリーズ・アウェアネス” ではインド音楽のようなコーラスが幻想的に流れ、サンズ・オブ・ケメットザ・コメット・イズ・カミングなどともまた異なる、シャバカのまた新たな側面を見せるプロジェクトだ。


Daniel Villarreal
Lados B

International Anthem Recording Co. / rings

 ダニエル・ヴィジャレアルは南米パナマ出身で、シカゴに移住して活動するドラマー/パーカッション奏者。ラテン・バンドのドス・サントスのメンバーでDJとしても活動する彼は、ジェフ・パーカーなどとも交流が深く、その力を借りてファースト・アルバムの『パナマ77』を2022年にリリース。アメリカの黒人ドラマーなどとはまた異なる、ラテン民族ならではの独特のリズム・センスを感じさせるアルバムだった。

 この度リリースした新作『ラドスB』は、鍵盤楽器や管楽器なども入っていた『パナマ77』と異なり、ダニエル・ヴィジャレアルのドラム&パーカッション、ジェフ・パーカーのギター、アンナ・バタースのベースというミニマムなトリオ録音(“サリュート” という曲のみローズ・ピアノが入る)。録音自体は2020年10月のロサンゼルスにて2日間でおこなわれており、3人の即興的なセッションを比較的ラフな形でレコーディングしている。ラテン音楽特有のハンド・ベルではじまる “トラヴェリング・ウィズ” は、ファンキーなフレーズを奏でるギターやベースを交え、1970年代のエル・チカーノやマロといったラテン・ロックを彷彿とさせる作品。このあたりはDJもやるヴィジャレアルのレア・グルーヴ的なセンスが表れているようだ。速いビートを刻む “リパブリック” は、ラテン民族ならではのヴィジャレアルのドラミングが光る楽曲。一方、レイドバックしたグルーヴの “サリュート” にはフォーキーで枯れた雰囲気もあり、ラテン音楽とアメリカのブルースがうまくマッチした楽曲となっている。

これ一冊で予習は万全!
MCU新作『マーベルズ』に備えるマーベル映画とマーベル・コミックの世界!

いまや世界最大の映画フランチャイズとなって久しいMCU(マーベル・シネマティック・ユニヴァース)。その最新作はマーベル史上最強のヒーロー、キャプテン・マーベルと新世代の仲間たちによる「マーベルズ」が登場! この公開に先駆け、ele-king cine seriesではMCUの15年を改めて振り返ります。

2008年の『アイアンマン』から25年。フェーズ1から現在のフェーズ5まで、30作以上にのぼる映画が制作され、近年ではドラマでの展開も開始。

いよいよ全貌を把握するのも難しくなってきた今こそあらためてMCUの25年を総まとめ、新作に備えてこれ一冊で予習も万全!

目次
イントロダクション
原作に見る『マーベルズ』登場人物たち 中沢俊介
対談 MCUを振り返る――奇跡の15年 光岡三ツ子 森直人

Filmography
■Phase1 前代未聞のプロジェクト胎動期 長谷川町蔵
■Phase2 騒ぎの前の静けさ 真魚八重子
■Phase3 時代と並走した爆発力 森直人
■Phase4
ワンダビジョン 光岡三ツ子
キャプテンの盾の行方――『ファルコン&ウィンター・ソルジャー』 侍功夫
マルチバースでも魅せる愛されヴィラン――『ロキ』 真魚八重子
破竹の勢いの追憶――『ブラック・ウィドウ』 中沢俊介
ファン心をくすぐる「もしも」のショートストーリー――『ホワット・イフ…?』 侍功夫
香港映画へのオマージュに溢れたアクション見本市――『シャン・チー/テン・リングスの伝説』 高橋ターヤン
来たるべき「映画的世界(シネマティック・ユニバース)」――『エターナルズ』 佐々木敦
新旧ホークアイの逃走劇――『ホークアイ』 侍功夫
大人になったピーター・パーカー――『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』 長谷川町蔵
多重人格ヒーローの異色作――『ムーンナイト』 侍功夫
モックアップ・マッシュアップ・オール・アット・ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ――『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』 ヒロシニコフ
『ミズ・マーベル』 光岡三ツ子
父権の外で立ち上がるコメディ――『ソー:ラブ&サンダー』 木津毅
愛らしい小品――『アイ・アム・グルート』 侍功夫
メタなコメディ――『シー・ハルク:ザ・アトーニー』 侍功夫
よみがえる古典ホラーの世界――『ウェアウルフ・バイ・ナイト』 侍功夫
アフリカと中南米の激突『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』 長谷川町蔵
心温まるクリスマス・ストーリー――『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー ホリデー・スペシャル』 侍功夫
■Phase5
バカが量子にやって来る――『アントマン&ワスプ:クアントマニア』 ヒロシニコフ
爽快な大団円――『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3』 てらさわホーク
ニック・フューリーとその苦境――『シークレット・インベイジョン』 てらさわホーク

対談
マーベル映画と「正義」――マルチバース・サーガが表す「弱さ」と「継承」 杉田俊介 藤田直哉
Column
MCU以前のアメコミ映画 中沢俊介
MCU映画のサントラ 長谷川町蔵
世界ヒーロー紀行 ヒロシニコフ
対談
マーベルとDC――混迷するアメコミ映画の現在地 柳下毅一郎 てらさわホーク

オンラインにてお買い求めいただける店舗一覧
amazon
TSUTAYAオンライン
Rakuten ブックス
◇7net(セブンネットショッピング) *
ヨドバシ・ドット・コム
◇Yahoo!ショッピング *
HMV
TOWER RECORDS
◇紀伊國屋書店 *
honto
◇e-hon *
◇Honya Club *

全国実店舗の在庫状況
◇紀伊國屋書店 *
◇三省堂書店 *
丸善/ジュンク堂書店/文教堂/戸田書店/啓林堂書店/ブックスモア
◇旭屋書店 *
◇有隣堂 *
◇くまざわ書店 *
◇TSUTAYA *
◇大垣書店 *
◇未来屋書店/アシーネ *

* 発売日以降にリンク先を追加予定。

Róisín Murphy - ele-king

 数ヶ月前、ライヴ会場でたまたまGEZANのマヒトゥ・ザ・ピーポーと会って、久しぶりに話すことができた。ぼくは彼の服装/ファッション・センスが好きで、いつも興味深く思っている。まずはそのことを彼に伝えたと思うけれど、これにはそれなりにちゃんとした理屈がある。
 この社会において「格好いい」とされるもの、「美しい」とされるものには、ふたつある。権力(ないしは企業)の側が提供するそれか、そうしたエスタブリッシュメントの外側で生まれたそれかのふたつだ。ビートルズも、ヒッピーも、グラムも、パンクも、あるいはジャズもラテンもファンクも、それらの音楽に付随したファッションは外側で生まれている。そしてそれら外側で生まれたセンスを「格好いい」「美しい」と認めたのは、権力(ないしは企業)の側ではなく、同じようにエスタブリッシュメントの外側にいる人たち(すなわち庶民)である。ヒップホップも最初はそうだったが、いまやスターたちはエスタブリッシュメントの側が提供するものを好んでいるように見えるときがある。インディと呼ばれる文化のライヴに行っても、同じような傾向を感じる。それに対して、マヒトゥは外側の価値のなかで動き、かなり目立っている。スーザン・ソンタグが『反解釈』で説いている批評的なスタイル論がそこには生きているのだ。ロイシン・マーフィーの目立つためのハイファッション志向も、目指すべきはおそらく外側なのだろう。その証拠になるのかどうかわからないが、いわゆる“インディ・ダンス”ないしは“クラブ・ポップ”などと括られるスタイルのなかで、彼女の新作のクオリティは抜きんでている。

 だいたいマーフィーは、日本ではずっと長いあいだあまりよく知られていない存在だった。彼女が最初にモロコで登場した1990年代のなかばといえば、“インディ・ダンス”ないしは“クラブ・ポップ”なる道を切り拓いたビョークがその完成形『ポスト』を出した頃で、すでにマッシヴ・アタックの『プロテクション』もあったし、アンダーグラウンドではセイバース・オブ・パラダイスにナトメアズ・オン・ワックス、オーストリアからはクルーダー&ドーフマイスターも登場し……等々、日本で輸入盤を漁っているリスナーからしたらモロコに付き合っているどころの状況ではなかったのだ。
 日本でマーフィーが最初に注目されたのは、マシュー・ハーバートが全面協力した彼女のソロ・アルバム『Ruby Blue』(2005)だった。これは、ハーバートがもっとも人気のあった時期における、彼のヒット作のひとつ、スウィング・ジャズをIDMに融和させた『Goodbye Swingtime』(2003)から2年後の作品で、しかも彼のジャズ・バンドのメンバーがごっそりマーフィーにとって初めてのソロ・アルバムをバックアップしたことが、日本での彼女への注目を促したのだった。じっさい、『Ruby Blue』はいま聴いても古びない名盤であるのだが、では、マーフィーなる人物がどんな女性なのかというところまではよくわかっていなかった。ただ、先日の河村祐介のインタヴュー記事を読んでも明らかなように、彼女がダンス・ミュージックの目利きであることたしかで、今回のアルバムのパートナーがDJコッツェなのも間違っていない選択だ。
 『Ruby Blue』と同じ年にリリースされたDJコッツェのアルバム『Kosi Comes Around』は忘れがたい1枚で、テクノ・ファンであるならその年の年間ベスト級の作品だった。エレクトロニカ/IDMとフロア向けのテクノとに枝分かれしたテクノ・リスナーの耳をもういちど共有させたという点において、同作は重要作だったのだが(つまり、楽しく踊れて、実験的でもあった)、彼の卓越したセンスは、今回のマーフィーの『Hit Parade』でも惜しみなく注がれている。

 何度でも言うが、“インディ・ダンス”ないしは“クラブ・ポップ”なるものはイギリスのお家芸である。古くはニュー・オーダー。ひとつの型を作ったのは初期のビョーク。その轍に、ホット・チップとか、最近ではジェシー・ランザケレラ、そしてロミーもいる。明るいとは言いがたいイギリス人気質のなかからダンス・ミュージックをベースとしたポップ・ミュージックがどうしてこうもう伝統的に生産されるのか、興味深くもある。というのも、UKのダンス・カルチャー自体が外側で生まれている文化であるからだ(ノーザン・ソウルしかり、レイヴ・カルチャーしかり)。

 マーフィーは本作のリリース直前に自身のフェイスブックで、Puberty blockersはクソで、製薬会社は笑いが止まらないだろう、まだ精神的に不安定な子どもたちは保護すべき、と書いた。Puberty blockersは、思春期における性ホルモンの分泌を抑えて、二次性徴の進行を抑える薬で、トランスを自覚している人の多くの若者が悩んだすえに自分の生物学的な性を抑えるために服用しているそうだ。私のことをトランス排外主義者と呼ばないで、とも書いてはいるものの、彼女のこの投稿は、瞬く間にLGBTQ+界隈に広まって、スキャンダルとなり、大いに批判されている。日本でいえば、yahooニュースのトップという感じだろうか(のちにマーフィーは謝罪をしている)。しかし、こうした失態があったにも関わらず、彼女のこのアルバムはキャンセルされることもなく、英語圏内のほとんどのメディアで、発言はまずかったがこの作品は良いと、好意的に取り上げられている。今年で50歳になったマーフィーは、愛されているのだ。

 テクノ・ファンであるなら、DJコッツェが全面プロデュースしていることから、だいたいどんなサウンドか想像できるだろう。コッツェの特徴は遊び心ある実験性とユーモアで、『Hit Parade』のアートワークもその趣向と相互関係にある。で、たしかにこれは面白い、河村が書いているように多彩なスタイルが楽しめる“インディ・ダンス”ないしは“クラブ・ポップ”なるアルバムなのだ。そう、とくに“CooCool(最高に格好いい)”はサウンドも歌詞も素晴らしい曲である。

  魔法が帰ってきた
  温かい感じが溢れ出す
  愛の新時代、白熱の喜び
  理由も充分、理性を無視してやっちゃえ
  愚かな季節になって
  それは最高に格好いい
  
  私たちは暴動をやった
  自分のなかの子供を抱きしめて
  ワイルドでいこう
  それは最高に格好いい

  どんなパロディも人生の原動力だった
  ライフワークの背後でファンク化する
  自分のなかの子供を受け入れよう
  ワイルドになれ

  遊び心さえあれば
  私は、言いなり以上のことをやる
  それは最高に格好いい
“CooCool”

理想郷 - ele-king

 年の初めにちょっと入院していて本でも読むかと村田沙耶香を手に取った。イギリスではけっこう人気があるらしく、日本の小説はもう何年も読んでなかったと思って。『地球星人』というタイトルは野田彩子のマンガみたいと思いつつ読み始めると、限界集落にペドフィリアなど、それはいま受けて当たり前でしょうという題材が次々に出てくる。最後まで読んだけど、あまりのマーケティング臭さに力が抜けてイギリス人もあてにならないと思ってベッドに顔を押しつけた(わき腹にドレーンが入っているのでこのポーズしかできない)。若い者についていけない時はノスタルジジイになろうと、次は大江健三郎を探したものの、『同時代ゲーム』が見つからず、40年前に一度読んだきりだった村上春樹『羊をめぐる冒険』に手が伸びた。思惑通り80年代に感じていたことをいろいろと思い出しながら読んでいると、あれ、これは『地獄の黙示録」じゃないか、少なくとも北海道の奥地へ、奥地へと分け入っていく過程は『地獄の黙示録」をイメージしていることに気がついた。目的地に辿り着くとご丁寧にも机の上に『地獄の黙示録」の原作と言われたコンラッド『闇の奥』が置いてある。西欧の植民地主義を北海道の開拓事業と重ね合わせ、カーツ大佐と児玉誉士夫を二重写しにしたということか。『羊をめぐる冒険』が刊行された頃、児玉誉士夫はCIAの工作員だったことを認め、ロッキード事件の判決が出た次の年に亡くなっている。『羊をめぐる冒険』でも右翼の大物とされている児玉誉士夫は戦争中に中国から金塊を強奪してきてそれを自民党の結党資金にあてたことは有名な話で(ロッキード事件が原因で児玉誉士夫が抜けた勝共連合は資金不足に陥り、その母体である統一教会が霊感商法を始めざるを得なくなった経緯はこのところ詳しく掘り返されている通り)、その児玉誉士夫に取り付いていた「羊」を探し出して自分もろとも殺すことで当時の左翼にできなかったことを成し遂げた気にさせる小説なのだから、ファンタジーとはいえけっこう生々しく時代背景を感じさせる作品なんだなと。40年前とあまりに読後感が違うので疲れて再びベッドに顔を押しつけた(わき腹にドレーンが入っているのでこのポーズしかできない)。

 第37回ゴヤ賞を受賞したというだけでロドリゴ・ソロゴイェン監督『理想郷』を観に行き、そして、またしても『地獄の黙示録』に出食わすこととなった。ドゥニ・メノーシュ演じる主人公のアントワーヌが中盤で、いつもは妻と水浴びに来る川から顔の上半分を水面から出して無表情になる場面。自分はなぜこんなところまで来てしまったのかと、アントワーヌはウィラード大尉と同じ目つきをする。コンラッドが批判的に扱った植民地主義は欧米の人間がアジアやアフリカの奥深くまで入り込んでいることに焦点を当てている。『理想郷』でターゲットにされているのはアジアやアフリカではなく、同じスペインの過疎地である。いわばヨーロッパの内部にかつてのアジアやアフリカと同じ未開拓のフロンティアがあり、ある種の人たちにとっては奥深くに入り込む価値があるということ。このことが『理想郷』という作品には背景として横たわっている。ある種の人たちとは植民地主義を突き動かしていたものと同じ。つまり、資本主義である。『理想郷』がアクチュアルな作品だと思えたのは、その資本主義が一枚岩ではなかったことを明確にしたことだった。この話は実際にオランダからスペインに移ってきた夫婦に起きた悲劇が何年にもわたってスペインのマス・メディアで報道される事態となり、その事件をもとにしたフィクションだという。

 オープニングは暴れ馬を押さえつけようとする3人の男たち。これがスローモーションで延々と映し出される。不思議な導入だけれど、このシーンが何を表しているかは後半に入ってからかなり重要な意味を持ってくる。続いてパブでゲームに興じる男たち。リーダー格のように振舞っているシャン(ルイス・サエラ)が「ガリシア州では……」と話し始める。ガリシアは独裁政権で知られるフランコ(やカストロの親)の出身地で、世界で最も家父長制が強い地域だとする説もある。過疎地というのは大体、家父長制が強い地域である。日本でも東京が最も出生率が低いとされているけれど、それは地方から未婚の女性が集まってくるのだから当然で、少子化が本当に深刻なのはそうした若い女性に出て行かれた地方であり(女性のUターンはほぼないという)、『理想郷』の舞台となった村でも若い女性はまったくといっていいほど出てこなかった。作品の後半でクローズ・アップされるシャンたちの母親は明らかに家父長制を支える女として描かれ、ガリシアを舞台としながら、この作品は世界中に根強く残る家父長制に対して資本主義が2つの異なるアプローチを試している場面として見ることができる。それは家父長制の延命か方向転換を迫るもので、日本にも応用が効くケース・スタディでもあった。ゲームに参加していなかったアントワーヌがパブから出て行こうとすると、「おい、フランス野郎!」と呼び止められる。アントワーヌは妻のオルガ(マリナ・フォイス)と共にフランスから移住してきた「よそ者」で、2人は日々、科学的農業を営み、収穫した野菜を市場で売って生計を立てている。アントワーヌがパブから家に戻ると家の内部はとても洗練されていて、2人がインテリだということはすぐに見て取れる。アントワーヌとオルガはその土地にはなかった新しい農業を持ち込んできた改革者であり、さらには古民家を改造して観光事業でも村に貢献しようと考えている。彼らがこの村に移ってきたのは「美しい」場所だからであり、それを守るために、風力発電の建設には反対の立場をとっている。電力会社はちなみにノルウェーの会社でグローバル企業という設定。

 シャンの弟、ロレンソ(ディエゴ・アニード)がまずは露骨にアントワーヌに絡んでくる。シャンとロレンソは村に風力発電を誘致し、保証金をせしめるつもりだったのに、アントワーヌとオルガに反対されたことで恨みを持っていた。シャンとロレンスは嫌がらせをやめず、日々エスカレートしていく。そして、ついに警察沙汰になるも地元の警察はそれほど頼りにならないことがわかるとアントワーヌは小型カメラを持ち歩くようになる。シャンとロレンソはすぐにも盗み撮りに気がつき、対立感情は以前よりも激しさを増す。日本でも奨励されているわりに地方への移住が必ずしもスムーズではなく、地元住民が移住者を受け入れないという話はユーチューブの人気番組になるほどで、物語の前半はそのような地方の閉鎖性がこれでもかと印象づけられる。シャンとロレンスがアントワーヌとオルガに対して行う嫌がらせは人種差別的であるだけでなく、アントワーヌとオルガがいわゆるリベラルな価値観を軸とした男女関係にあり、観光事業で村を再生させようとする経済的な感覚の点でもズレは広がっていく。アントワーヌとオルガがやろうとしていることはやがて村の秩序を破壊し、序列を組み替えてしまうという危機意識とも結びついているのだろう、(以下、ネタバレ)アントワーヌが犬を連れて森の中を散歩しているとロレンスとシャンはゆっくりととアントワーヌに近づき、冒頭で暴れ馬を押さえつけていたようにアントワーヌを組み伏せる。そして、アントワーヌを殺してしまう。

 1年後。1人残されたオルガの元にフランスから娘のマリー(マリー・コロン)がやってくる。娘は母を説得して一緒にフランスで暮らそうと提案し、2人は口論になる。マリーはシングル・マザーで、オルガは彼女の人生に口を出したことはない、自由にさせてきた、その結果がシングル・マザーだったと諭し、自分が村に残ることはアントワーヌへの愛情の証だと正当化する。その時はマリーの方が正常に思えるので、どうしてオルガがそんなにも頑ななのかと戸惑っていると、次の場面でアントワーヌの死体は発見されていないことがわかり、森の中を捜索し続けるオルガの執着や土地を離れることに違和感があることは多少なりとも理解できる流れになっていた。とはいえ、オルガの生き方はアントワーヌの夢を自分の夢として受け継いでいるだけで、必ずしもオルガ自身の人生を生きているとはいえないというマリーの批判はとても強く耳に残る。マリーが現れたことで、シャンとロレンソの母親、オルガ、マリーと3世代にわたる女性の価値観が並んだことになり、マリーからすれば男に支配された人生という意味ではシャンとロレンソの母親もオルガも同じだという視点が有効になってくる。男たちに好き勝手をさせるか、男と協力し合うか。科学的農業の実践や古民家の改修作業にオルガがどれぐらい主体性を持っていたのか。これは観る人それぞれによって印象は異なることだろう。マリーの批判が強く印象に残った僕はオルガの主体性に疑問が残った口だけれど、ストーリー的にはマリーが男に頼らない女だと強く自覚するのではなく、「自分はシングル・マザーでしかない」ことをマイナスと考え、オルガの方が正しかったという結論に落ち着く。そうなんだろうか。家父長制に組み敷かれた女でもなく、シングル・マザーでもなく、男と夢を共有し、村の再開発に意欲を燃やしてきたオルガが唯一の選択肢なのだろうか。このシークエンスはいまだもやもやしている。マリーがオルガに愛想をつかして村から出て行ったとしてもその後のストーリーに大きな変化があるわけでもない。マリーの存在を男に頼らない生き方として温存してもよかったと思うのは僕だけか。自分の信念をマリーに理解してもらえたオルガはやがて森の中でアントワーヌが残した小型カメラを発見する。そこにはシャンとロレンソがアントワーヌを殺した決定的瞬間が写っていると確信したオルガはシャンとロレンソの母親に「お前はひとりぼっちになる」と告げにいく。オルガにはシャンとロレンソではなく、その母親しか見えていない。女の生き方としてオルガはシャンとロレンソの母親が許せないのである。エンディングはシャンとロレンソの母親を見つけたオルガの不敵な笑い。多国籍企業と結びついて家父長制を温存させようとした男たちの母親にリベラルの視点で村を再編し、都会的な価値観によって経済的な再生を目論んだ女が勝利したという笑みである。この笑みに「美しさ」はなかった。ウィラード大尉がカーツ大佐を暗殺した時もこんな笑みは浮かべなかった。

 原題は「野獣」を意味する「AS BESTAS」で、これを『理想郷』という邦題にしたのはなかなかの慧眼だと思う。長野県の村を舞台に似たような図式で話を進めた瀬々敬久監督『天国』と発想は同じである。『理想郷』と『天国』の違いは殺人の実行者がヨーロッパは個人、日本は集団だということぐらい。同じ殺されるにしても助けようとしてくれる人がいるだけ『天国』よりも『理想郷』の方がましだったのかもしれない。

METAMORPHOSE ’23 - ele-king

 伝説のオールナイト野外パーティ。レイヴ・カルチャーの流れをくむ音楽フェス。ギャラクシー2ギャラクシーを筆頭に、これまで数々の名演が残されてきたという、個人的には一度も参加することのかなわなかったメタモルフォーゼが、11年ぶりの復活を果たした。
 静岡県御殿場市の遊RUNパーク玉穂に到着したのは20時半過ぎころ。すでに終了した SOLAR STAGE の入口で受付をすませ、来た道を引き返す。けして都市部では味わえない、自然の闇。

夜の部 LUNAR STAGE の入り口。

 しばらく歩くと、ポール棒がピラミッド型に組まれミラーボールがぶらさがっている。この小粋なゲートをくぐると右手に平地が広がり、先に大きな建造物が見える。雰囲気から推すに、たぶんもとは厩舎だろう。ここが夜の部、LUNAR STAGE の会場だ。なかをのぞくとダブリン出身ベルリン拠点のDJ/プロデューサー、マノ・レ・タフがプレイしている。バキッとしたテクノやダブっぽい曲がつぎつぎと繰りだされている。

外から見た LUNAR STAGE。漏れてくる照明に気持ちが高まる。

 ある程度堪能したのち、ビールをもとめて屋外へ。バーは高台に位置している。厩舎もとい LUNAR STAGE は片側の壁がとり払われているため、上から見下ろすかたちでなかの様子を楽しむことができる。この眺めがまたかなりいい感じなのだ。

バーへといたる坂道。中央奥がステージの建物。右端のラーメン屋に長い列ができている。

 22時前ころになると、ぽつぽつと雨が降りはじめる。ちょうどティミー・レジスフォードの出番ということもあり、坂をくだって屋内に避難。80年代から活動をつづけ、長らくNYのハウス・シーンを牽引してきたシェルターの設立者、今年3度目の来日となるレジスフォードによるアップリフティングなセットは、ざあざあ降りに突入した雨とは裏腹に、この日のピークのはじまりを告げていた。最前列には肩車をして盛り上がるオーディエンスの姿。

 つづいてステージに立ったのはカール・クレイグ。前日は札幌のプレシャス・ホールに出演していたらしい。キャップにタオル、黒いTシャツに赤いストールをまとっている。ダークな雰囲気でDJがスタート。曲をかけつつ、その場でドラム・マシンを叩いて重ねていくスタイルだ。序盤、ムーディマンの “I Can't Kick This Feelin When It Hits” が耳に飛びこんできて、一気にテンションが上がる(なんらかのリミックス・ヴァージョンか、あるいはほかの曲とかけあわせられている)。ソウルフルな曲やダビーなテック・ハウスなどを経て、中盤にはアン・サンダーソンのヴォーカルをフィーチャーしたオクタヴ・ワンのヒット曲 “Black Water” を投下。いちばん昂奮したのは終盤手前、クレイグ自身のヒット曲、ペイパークリップ・ピープル “Throw” が鳴り響いたときだ。あの強烈なドラム・パートにセクシーな男性ヴォーカルがかぶせられている。個人的には、この1時間半が LUNAR STAGE のハイライトだった。

最高にかっこよかったカール・クレイグ。

 むろん、出演者はみな歴史をつくってきた大ヴェテランたち。以降もすばらしい夜が継続していく。1時からはNYのジョー・クラウゼル。頻繁にミュートを駆使するプレイが印象に残る。2時半になるとダレン・エマーソンが登場、会場はぱきっとした音に包まれる。卓の後ろで応援するカール・クレイグ。最後はまさかの “Born Slippy” を投下。あのエコーを爆音で体験できたのは僥倖だった。そのままシームレスに主催者 MAYURI のDJへと移行、ハード寄りのテクノが厩舎を埋めつくす。気がつけば終演の5時。降りしきる雨のなか、大満足の一夜が終わりを迎えた。

 さすがに踊り疲れていたのだろう。前日もクラブに行っていたのが影響したのかもしれない。あくまで仮眠のつもりがぶっ倒れてしまい、気がついたときには午後になっていた。雨はやんでいる。慌てて再度遊RUNパーク玉穂を目指す。ぼくが到着したタイミングでは曇っていたので富士山は見られなかったけれど、芝生と林のバランスが絶妙な広場で、なんとも開放感のある空間だ。後方にはフットボールを楽しんでいる親子の姿。びしょびしょの地面が昨夜の昂奮を思い出させる。

昼の部 SOLAR STAGE で舞台の反対側を眺める。まったり楽しむ家族たちの姿。

 2日目の SOLAR STAGE では新進ロック・バンド、羊文学が演奏していた。宙へと抜けていくギターの残響が心地いい。つづいて登場したのはハイエイタス・カイヨーテのネイ・パーム。ブルージィな弾き語りで、ジミ・ヘンドリックスやプリンスのカヴァーも披露。ふだんそれほど入念にチェックしているとはいえないアーティストと出会えるのはフェスの醍醐味だ。それに、羊文学のような若手かつエレクトロニック・ミュージックの領域外で活動するアクトをブッキングすることは、世代の超越や趣味の横断の点で大いに意義のあることだと思う。

いま人気絶頂の若手バンド、羊文学。エフェクターの効果が開けた空間とみごとにマッチ。

 トリはジェラルド・ミッチェル率いるロス・ヘルマノス。ラテン・ミュージックを咀嚼し、独自のロマンティシズムを打ち立てたデトロイトのテクノ・バンドだ。ファースト・アルバム同様 “Welcome To Los Hermanos”、“The Very Existence”、“In Deeper Presence” の3曲ではじまる流れに、涙をこらえることが難しくなる。中盤の “Queztal” でサレンダーすることを決意。彼らの音楽はもちろんのこと、野外という状況がまたハマりすぎていてとにかく最高だった。最後は “Jaguar” で〆。かくして11年ぶりに開催されたメタモルフォーゼは、盛大な拍手喝采とともに幕を下ろした。

感涙のロス・ヘルマノス。

 後ろ髪を引かれながら、御殿場市をあとにする。晴れていればより一層すばらしい体験ができたのだろうけれど、天に文句をいってもしかたがない。キュレーションも会場もばっちりツボを押さえている。来年以降もまた開催されることをせつに願う。

べらぼうにうまかった焼き鳥屋。また食べたい。

Amnesia Scanner & Lorenzo Senni - ele-king

 2018年に出た『Another Life』は強烈だった。以降も実験的かつコンセプチュアルな電子音楽を送り出しつづけている〈PAN〉のデュオ、ヴィレ・ハイマラとマルッティ・カリアラから成るアムニージャ・スキャナーが初めての来日を果たす。今年出た最新作ではいま話題のNYのアーティスト、フリーカ・テット(OPN最新作収録曲の、あの印象的なMVも手がけていましたね)とコラボしていた彼らだが、今回の東京公演はハイマラとそのテットのコンビで敢行。
 また同時にミラノからネオ・トランスの先駆者、みずからを「レイヴ・シーンの覗き屋」だと称するロレンツォ・センニも来訪、東京と大阪の2か所をめぐる。東京では上記アムニージャ・スキャナーと、大阪ではSoft Couとの共演だ。エレクトロニック・ミュージックの前線に触れるまたとない機会。お見逃しなく。

WWW & WWW X Anniversaries

Local 25 World -FIESTA! 2023-
Amnesia Scanner & Lorenzo Senni

2023/11/17 FRI 18:00 at WWW X
早割 / Early Bird ¥3,900 (+1D) *LTD / 枚数限定
TICKET https://t.livepocket.jp/e/20231117wwwx

LIVE:
Amnesia Scanner [DE/FI / PAN]
Lorenzo Senni [IT / WARP]

+++

4F Exhibition: TBA

curated by ippaida storage / Soya Ito
artwork / painting: Nizika 虹賀
layout: pootee

https://www-shibuya.jp/schedule/017250.php

現代ポップ&レイヴ・アートの伝説2組、ベルリンからAmnesia Scannerを待望の初来日、イタリアからLorenzo Senniを8年ぶりに迎えた世界を巡るサウンド・アドベンチャーLocal Worldが本編25回目となるWWWの周年パーティを開催。

2016年12月渋谷WWWを拠点に始動、本年7年目を迎えるイベント・シリーズ兼ディレクターLocal World本編第25回がベルリンからAmnesia Scannerを待望の初来日、イタリアからLorenzo Senniを8年ぶりに迎えWWWの周年イベントとして開催。

10年代前期の元流通/レーベル業のmelting botからイベント業への変換機に生まれたLocal Worldはクラブとアートにおけるコンテンポラリーな電子音楽のモードを軸に立ち上げ当初の脱構築期(Deconstructed)から始まり、アジアやアフリカを念頭に多種多様なサウンドとリズムのキュレーションしながら世界各国のアーティストを招聘、並行してディレクションを務めるWWWの最深部”WWWβ”を基盤に新しいローカル・シーンを形成する担い手としてコロナ禍では下北沢SPREADを拠点にハイパーポップ期へと突入、都内のクラブにてメディアのAVYSSのイベント制作やアーティストのリリース・パーティのサポート含む断続的な活動を続け、本年からWWWにカムバックを果たす。下記のテキストとフライヤーのアーカイヴ・リンクから本パーティを始め前身のシリーズBONDAID、過去のブッキングやツアー・プロモーターとしての活動リストが確認出来る。

Local 1 World EQUIKNOXX
Local 2 World Chino Amobi
Local 3 World RP Boo
Local 4 World Elysia Crampton
Local 5 World 南蛮渡来 w/ DJ Nigga Fox
Local 6 World Klein
Local 7 World Radd Lounge w/ M.E.S.H.
Local 8 World Pan Daijing
Local 9 World TRAXMAN
Local X World ERRORSMITH & Total Freedom
Local DX World Nídia & Howie Lee
Local X1 World DJ Marfox
Local X2 World 南蛮渡来 w/ coucou chloe & shygirl
Local X3 World Lee Gamble
Local X4 World 南蛮渡来 w/ Machine Girl
Local X5 World Tzusing & Nkisi
Local X6 World Lotic -halloween nuts-
Local X7 World Discwoman
Local X8 World Rian Treanor VS TYO GQOM
Local X9 World Hyperdub 15th
Local XX World Neoplasia3 w/ Yves Tumor
Local XX1 World DJ Sprinkles
Local XX2 World Oli XL
Local XX3 World Pelada
Local XX4 World Piezo & Liyo

Lorenzo Senni Japan Tour 2023

トランスのその先へ!〈Warp〉から最新アルバムをリリースするイタリアの鬼才、現代レイヴ・アートの始祖Lorenzo Senni待望の来日ツアー開催。

11/17 FRI 18:00 at WWW X Tokyo w/ Amnesia Scanner [DE/FI / PAN]
https://t.livepocket.jp/e/20231117wwwx

11/19 SUN 18:00 at CIRCUS Osaka w/ Soft Cou [IT]
https://eplus.jp/sf/detail/3980020001-P0030001

今回のテーマ”FIESTA!”は8年前の2015年11月にLorenzo SenniとInga Copelandを招いてWWWで開催したLocal Worldの前身イベントBONDAIDの記念パーティBONDAID#7 FIESTA!から踏襲し、10年代のエレクトロニック・ミュージックの文脈において最重要な現代ポップ&レイヴ・アートの伝説とも言える2組、ニューヨークのフリーカ・テトを迎えた新形態のオルタナティブ・エレクトロ・デュオAmnesia Scanner(本公演ではフリーカ・テトとヴィレ・ハイマラのみ出演)をベルリンから、トランス系脱構築レイヴの始祖Lorenzo Senniをイタリアから迎えた”祝祭”をコンサートと展示を通して表現する。

またLorenzo Senniは11/19日に大阪公演をCIRCUS OSAKAにて予定、両公演追加アクトの詳細は後日発表となっている。

[プロフィール]


Amnesia Scanner [DE/FI / PAN]

Amnesia Scannerはベルリンを拠点とするフィンランド人デュオ、ヴィレ・ハイマラとマルッティ・カリアラ。2014年に結成されたグループの活動範囲は、作曲、プロデュース、パフォーマンス、そしてクリエイティブな演出と循環に及ぶ。システムの脆弱性、情報過多、感覚過多への深い憧憬を特徴とするAmnesia Scannerは、現在をカーニバル化する。ストリーミング・プラットフォームが主流となり、アーティストとファンの間のフィードバック・チャンネルがより直接的になるにつれて、音楽やライブ・パフォーマンスの聴き方がどのように進化しているかを含め、彼らの作品の中核には、現代の体験がどのように媒介されているかという関心がある。

2014年のミックステープ『AS Live [][][][][]』をベースに、グライム、トラップ、レイヴのデータ・リッチなメッシュと、2015年のオーディオ・プレイ『Angels Rig Hook』で絶賛された機械仕掛けのナレーターを織り交ぜた。その直後には、アーティストのハーム・ヴァン・デン・ドーペルとビル・クーリガス(PANの創設者)とのサイバードローム・オーディオ・ビジュアル・プロジェクト、Lexachastを発表した。純粋なAmnesia Scannerの領域に戻ると、Young Turksの2枚のEP(ASとAS Truth)が2017年に到着し、デュオがますます知られるようになった没入的な環境を、ダークなレイヴ・ツールの研磨されたコレクションに抽出した。Angels Rig Hookの実体のないヴォーカリストは、デュオ初のLP『Another Life』(2018年 PAN)で "オラクル "として姿を変えて戻ってきた。このアルバムは、ポップな曲構成とアヴァンギャルドなEDMをカップリングし、子守唄から過熱したドゥームバトンやニューメタル・ギャバまでスイングする。2021年、Amnesia Scannerはセカンド・フル・アルバム『Tearless』をリリースした。このアルバムは「地球との決別の記録」であり、サウンド的にもメロディ的にも、彼らの特徴であるオーヴァークロック・ポップという作品の幅を広げている。ラリータ、LYZZA、コード・オレンジがアムネシア・スキャナーに加わり、迫り来る崩壊へのボーダレスなサウンドトラックを作曲している。

Amnesia Scannerは、デンマークの大規模なRoskilde FestivalからベルリンのBerghain、ロンドンのSerpentine Galleriesまで、幅広い会場や環境でパフォーマンスを行ってきた。デザインとビジュアル・ディレクションは、PWRとコラボレーションしている。ヴィレ・ハイマラは、独立して、デヴィッド・バーン、FKAツイッグス、ホリー・ハーンドン、アン・イムホフなどのアーティストのために作曲し、プロデュースもしている。Amnesia Scannerでの活動以外にも、マルッティ・カリアラは建築家、文化批評家、クリエイティブ・シンクタンク「ネメシス」の共同設立者でもある。

https://pan.lnk.to/STROBE.RIP

https://www.youtube.com/watch?v=mgbSR7f4K-o&ab_channel=AmnesiaScanner
https://www.youtube.com/watch?v=3MzBSV-_mjQ&ab_channel=AmnesiaScanner
https://www.youtube.com/watch?v=N8mT3-YvmxE&ab_channel=AmnesiaScanner
https://www.youtube.com/watch?v=5CEmVTzmzpw&t=143s


Lorenzo Senni [IT / WARP]

ダンス・ミュージックのメカニズムや動作部分のたゆまぬリサーチャーであり、尊敬されるエクスペリメンタル・レーベルPresto!!!の代表であるこのイタリア人ミュージシャンは、この10年で最もユニークなリリース『Persona』(Warp 2016年)、『Quantum Jelly』(Editions Mego 2012年)、『Superimpositions』(Boomkat Editions 2014年)を手がけている。

2016年にWarpと契約し、EP「Persona」は、デジタル・カルチャーと音楽の分野で最も有名で、最も長く続いている年間賞の1つであるプリ・アーツ・エレクトロニカで名誉ある「Honorary Mention」を受賞した。Pointillistic Trance(点描トランス)」や Rave Voyeurism(窃視レイヴ)という造語で自身のアプローチを表現するロレンツォ・センニは、トランスから脊髄を引き抜き、目の前にぶら下げるサディスティックな科学者のようである。

彼の作品は、90年代のサウンドとレイヴ・カルチャーを見事に解体し、その構成要素を注意深く分析して、まったく異なる文脈で再利用できるようにしたもので、反復と分離を重要なコンセプトとして、多幸感あふれるダンス・ミュージックに見られる”ビルドアップ”のアイデアを出発点として、高揚感はほどほどに、より内省的な作品を作り、暗黙のうちに感情の緊張とドラマを保っている。

Presto!!! レコードの創設者として、DJスティングレイ、フローリアン・ヘッカー、パルミストリー、エヴォルなど、国際的に高く評価されているアーティストのアルバムをリリースしてきた。レコードの創設者として、DJスティングレイ、フローリアン・ヘッカー、パルミストリー、エヴォルなど、国際的に評価の高いアーティストのアルバムをリリース。映画、演劇、映画音楽の作曲も手がけ、ユーリ・アンカラニの受賞作『ダ・ヴィンチ』や『ザ・チャレンジ』のサウンドトラック、ウェイン・マクレガーの『+/- Human』(コンピューター制御のドローンとロイヤル・ナショナル・バレエ団のダンサーによるダンス・パフォーマンス)などがある。また、アメリカの歌手ハウ・トゥ・ドレス・ウェル(How To Dress Well)の音楽も手がけ、テート・モダン(ロンドン)、ポンピドゥー・センター(パリ)、MACBA(バルセロナ)、カサ・ダ・ムジカ(ポルト)、MACBA(バルセロナ)、Auditorium Nazionale Rai(トリノ)、Auditorium Parco della Musica(ローマ)、Zabludowicz Foundation(ロンドン)、ICA(ロンドン)などでLasers & CO2 Cannonsを含む作品を展示し、パフォーマンスを行っている。

https://linktr.ee/lorenzosenni

https://www.youtube.com/watch?v=qNlbN_YZHFY
https://www.youtube.com/watch?v=0UH2tqHTi_M&ab_channel=LorenzoSenni
https://www.youtube.com/watch?v=v_AjXH0xu4A&t=174s&ab_channel=LorenzoSenni
https://www.youtube.com/watch?v=X2Yh8zkC-0g&ab_channel=ka1eidoscopic2

インタビュー@eleking “パンデミックの中心で「音楽を研究したいだけ」と叫ぶ!”
https://www.ele-king.net/interviews/007574

インタビュー@SSENSE “ロレンツォ・センニ:情熱の規律”
https://www.ssense.com/ja-jp/editorial/music-ja/lorenzo-senni-discipline-of-enthusiasm?lang=ja

Japan Vibrations - ele-king

 パリに生まれ東京で育ったDJ、アレックス・フロム・トーキョーがこのたび、日本のエレクトロニック・ダンス・ミュージックに特化したコンピレーション・アルバムをリリースすることを発表した。細野晴臣からはじまり、Silent Poetsや横田進、オキヒデ、Mind DesignやC.T. Scan等々、ジャンルを横断しながら駆け抜ける。(トラックリストをチェックしましょう)この秋の注目の1枚ですね。

 また、このリリースに併せて、11月2日から13日までDJツアーも決定。(11/2 鶴岡 Titty Twister、3日 京都Metro、4日 大阪House Bar Muse、5日は東京で6年振りにGalleryを開催、8日 東京Tree@Aoyama Zero、9日 熊本Mellow Mellow、10日 福岡Sirocco、11日 旭川Bassment。なお、11月1日にはDOMMUNEにて特番も決定しております。

V/A
Alex from Tokyo presents Japan Vibrations Vol.1

world famous
アナログ盤は日本先行で2023年11月01日発売
CDは2023年11月22日発売

トラックリスト:
1. Haruomi Hosono - Ambient Meditation #3
2. Silent Poets - Meaning In The Tone (’95 Space & Oriental)
3. Mind Design - Sun
4. Quadra- Phantom
5. Yasuaki Shimizu - Tamare-Tamare
6. Ryuichi Sakamoto - Tibetan Dance (Version)
7. T.P.O. - Hiroshi's Dub (Tokyo Club Mix)
8. Okihide - Biskatta
9. Mondo Grosso - Vibe PM (Jazzy Mixed Roots) (Remixed by Yoshihiro Okino)
10. Prism - Velvet Nymph
11. C.T. Scan - Cold Sleep (The Door Into Summer)

 Alex From Tokyoが日本で重ねた25年以上の人生における音楽の回想録、第一章!

 『Japan Vibrations Vol.1』で、80年代半ばから90年代半ばまでの日本のエレクトロニック・ダンス・ミュージック・シーンの刺激的な時代に飛び込もう。東京でDJ活動をスタートした音楽の語り部でもあるアレックス・フロム・トーキョーが厳選したコレクションは、シーンを形作った先駆者たちや革新者たちにオマージュを捧げている。
 この秋にリリースされるこのコンピレーションは、日本の現代音楽史における活気に満ちた時期を記録したタイムカプセルとなる。また、その時代を生きた本人からのラヴレターでもある。
 アンビエント、ダウンテンポ、ダブ、ワールド・ビート、ディープ・ハウス、ニュー・ジャズ、テクノにまたがる11曲を新たにリマスター。国際的なサウンドに日本的な要素が融合した、楽園のような時代のクリエイティビティに満ちた創意工夫と、そのエネルギーを共に紹介する。
 シーンのパイオニアである細野晴臣、坂本龍一、清水靖晃、クラブ・カルチャーを形成した藤原ヒロシ、高木完、ススムヨコタ、Silent Poets、Mondo Grosso、Kyoto Jazz Massive、そして新世代アーティストのCMJK(C.T.Scan)、Mind Design、Okihide、Hiroshi Watanabeのヴァイブレーションを体験しょう。このクラブ・シーンの進化をDJセットの進行とともに展開します。

 本作はサウンドエンジニア熊野功氏(PHONON)による高音質なリマスタリングが施され、日高健によるライセンスコーディネート、アルバムアートワークは北原武彦。撮影は藤代冥砂とBeezer、と全員がアレックスと親交の深い友人達が担当。プレスはイタリアのMotherTongue Records。販売流通先はアムステルダムのRush Hour。サポートはCarhartt WIP。
 『Japan Vibrations Vol.1』は、リスナーを日本の伝説的なクラブで繰り広げられるエネルギッシュな夜にタイムスリップさせ、音楽の発見と内省の旅へといざないます。


Alex from Tokyo/アレックス・フロム・トーキョー
(Tokyo Black Star, world famous, Paris)
https://www.soundsfamiliar.it/roster/alex-from-tokyo

 パリ生まれ、東京育ち、現在はパリを拠点とする音楽家、DJ、音楽プロデューサー(Tokyo Black Star)、サウンドデザイナー(omotesound.com)&インタナショナル・コーディネータ。world famousレーベル主宰。
 彼のキャリアは約30年に及び、日本、フランス、ニューヨーク、ベルリンそして現在の拠点であるパリと、世界を股にかけて国際的に活躍中。
 アレックスを、限られた時空や芸術の連続体の中に閉じ込めてしまうのは、とても考えられないことであり、誰がそんなことをするというのだろう。
 4歳の頃から、東京に住んでいたアレックス・プラットは、地球最大の都市の音と光景の中で育つ。1991年9月に生まれ故郷のパリに帰国。当初は大学進学のためだったがパリのアンダーグラウンド・クラブ・シーンに飛び込み、1993年にパリでDj DeepとGregoryとのDJユニット「A Deep Groove」を設立してDJキャリアーをスタート。
 1995年に東京に戻ってきたAlexは、日本を目指した交流あるヨーロッパのレーベル、DJやアーティスト達の橋渡し役として活躍する事となる。Laurent GarnierのレーベルF Communicationsの日本大使になり、ロンドンのレコードショップ/レーベルMr. Bongoの渋谷店及びレーベルDisorientで働き、そしてフランスのYellow ProductionsとBossa Tres Jazz 「When East Meets West」の企画と日本側のコーディネートを行う。同時に東京のレーベルP-Vine, Flavour of Sound、Rush Productions、Flower RecordsやUltra VybeからミックスCDを製作。
 1990年代末にサウンドエンジニアの熊野功とTokyo Black Star名義でオリジナル楽曲やリミックスの制作を開始(2015年に高木健一が正式メンバーとして加入)。ベルリンのトップ・レーベルInnervisionsから2009年にファースト・フル・アルバム「Black Ships」を発表。
 クラブ・シーンを超えて、もうひとつのパッションである音楽デザイナーとしてAlexはインタナショナル・ファッション・ブランド(Y-3, Louis Vuitton, Mini, Li-Ning, wagyumafia)やセレクトされたクライアントのために音楽コンサルティングや制作を提供。2006年9月に日本の河出書房社から出版されたLaurent Garnierの自伝「Electrochoc」の日本語訳を担当。
 DJとしては日本と世界の音を吸収して「ディープ・ハッピー・ファンキー・ポジティブ」なサウンドを共有しています。
 2022年までの2年間ベルギー、ブリュッセルのKioskラジオで隔月に放送されている番組「ta bi bi to」(旅する人達のための音楽)では、世界中のリスナーに多彩な音楽の旅を提供。
 現在では、ベルリンのトップ・ゲイ・パーティCocktail D’Amoreでのレギュラー、そして日本ではDj Nori、Kenji HasegawaとFukubaと共に25年続けているSunday Afternoonパーティ「Gallery」のレジデントを務める。
 2019年にはベルリンからworld famousレーベルを再起動して、2023年の秋には日本のエレクトロニック・ダンスミュージックのコンピレーション企画シリーズ『Japan Vibrations Vol.1』を世界リリース。
 2023年9月1日にリリースされた所属のイタリアのDJエージェンシーSounds Familiar の10周年記念コンピレーション・アルバム『Familiar Sounds Vol.2 』に新曲 "Wa Galaxy "で参加。
 アレックスは、今も絶えることなく、音楽の旅を続けている。

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