「KING」と一致するもの

AJ Tracey - ele-king

 ロンドンのストリートで生まれたラップ・ミュージック「グライム」が話題になっている。特に自主レーベルから発表されたスケプタの『コンニチワ』が、イギリスで最も優れたアルバムに対して送られるマーキュリー賞を受賞したのは、世界のインディペンデント・シーンに勇気を与えただろう。

 そんなシーンでフローとリリックで頭角を現してきた若干22才の新星MC、エージェー・トレーシーが来日し、日本初ツアーをおこなう。
 彼はこれまで4枚のEPをフリー・ダウンロードでリリース。今月もニューヨークのエイサップ・ロッキーとのコラボレーションから、Mumdanceとのモジュラー・シンセのセッションまで、ジャンル・国を超えて活動中だ。その勢いを証明するかのように、昨年ストームジーが受賞したモボ・アウォードで早くも「ベスト・グライム・アクト」にノミネートされ、今夏のフェスティヴァルでも引っ張りだこである。

 ツアー初日の大阪は10月15日(土)、大阪COMPUFUNK RECORDSにて行松陽介やグライムMC 140 + Sakanaなどが共演。東京は10月16日(日)夕方からSkyfish × DOGMA、DEKISHI + Soakubeatsらが迎え撃つ。
 彼の初ツアーは勢いづく「今」のグライムとローカルのストリート・ミュージックが共鳴するイベントになりそうだ。(米澤慎太朗)


10月16日 (日) 18:00 -
MO’FIRE @ CIRCUS TOKYO

https://circus-tokyo.jp/
¥2000 (ADV) / ¥3000 (DOOR) + 1d
前売り : https://jp.residentadvisor.net/event.aspx?881144

AJ Tracey
Skyfish × DOGMA
DEKISHI + soakubeats
Double Clapperz
Carpainter
Underwater Squad
Host : Onjuicy

10月15日 (土) 23:00 -
PCCP @ COMPUFUNK RECORDS

¥2500 (ADV) / ¥3000 (DOOR) + 1d

AJ Tracey
YOSUKE YUKIMATSU
YOUNG ANIMAL
140 + SAKANA
SOUJ
SATINKO
ECIV_TAKIZUMI


AJ Tracey プロフィール

ウェスト・ロンドン出身のAJ Traceyはおそらくここ一年のUKアンダーグラウンドのグライム・シーンの盛り上がりから生まれた最も才能あるMCである。万華鏡のような言葉選びとはっきりと聞き取れるフローはそのシーンにおいて誰にも比較できない独自さを持っている。AJ Traceyはその美声とフローで荒々しいクラブ・アンセムからスイート・ジャムまで器用に乗りこなす。

The Quietus – 彼はマイクでクリアにラップして、常に魅了出来る本当のリリシストだ。

昨年夏の「The Front」でデビューし、秋には“Spirit Bomb”、“Naila”がストリート・アンセムとなった。“Naila”はYouTubeで異例の50万回再生され、Rinse FM、Beats 1 Radio、BBC Radioでヘヴィプレイされた。2016年に入り、Tim Westwood Crib Sessionへの参加、Last Japanとの共作「Ascend」のリリースや2stepレジェンドとして知られるMJ Coleとのコラボレーション“The Rumble”を公開するなど、常に話題のMCだ。

Zamzam Sounds - ele-king

 ワールド・ミュージックの名作を再発する〈ミシシッピ・レコーズ〉や、アフリカ音楽の名門〈サヘル・サウンズ〉といったレーベルが拠点とするアメリカ北西部の都市ポートランド。多様で豊かな音楽的土壌を備えた同市で2012年から運営されている〈ザムザム・サウンズ〉は、ひとつのスタイルに捕らわれることなくダブの可能性を拡張してきた。その運営を手掛けるのはレーベルの前身〈BSIレコーズ〉の創立メンバーだったふたり、エズラ・エレクソンと彼の公私にわたるパートナーであるトレイシー・ハリソンだ。
 発足以来、〈ザムザム・サウンズ〉は7インチに特化したリリースを展開している。世界中から届けられるデモの中から、その製作者だけにしか成しえない個性を持ったものだけが選りすぐられ、ルーツ・レゲエ、ステッパーズ、ダブテクノ、ダブステップなどの少し斜め上に位置づけられるような異質で新鮮なサウンドが世に送り出されている。
 今回は、これまでに発表された40を超えるタイトルの中から、レーベルがカヴァーする領域の広さを感じ取れる5枚を選んだ。その多様な音楽スタイルもさることながら、ファインアートの学位を取得しているハリソンが手作業でシルクスクリーン・プリントを施すジャケット・デザインも同様に味わい深い。


RSD - World Hungry / Dub Pride (ZamZam Sounds)

開放感のあるステッパーズ“ワールド・ハングリー”と、エコーとリバーブによってさらなるうねりがグルーヴに加わる“ダブ・プライド”を収録。ロブ・スミス節炸裂のベースラインとブレイクビーツによるトラックは、まさに彼だけにしか成しえない個性に満ちている。

Deadbeat feat. Gregory Isaacs - Claudette (ZamZam Sounds)

以前からダンスホールとテクノを融合させたトラックを制作しているデッドビート。テクスチャーを豊かに加工したスネアや明瞭なミックス処理によって、これまでにない印象を生むダンスホールが実現している。このようなトラックをリリースするあたりにザムザム・サウンズらしさを感じる。

Beat Pharmacy - Beach Dub / Bowling Dub (ZamZam Sounds)

ダウンビートに乗せてダビーなエフェクトがセッションしているかのように絡み合う“ボーリング・ダブ”が面白い。近年のビート・ファーマシーは以前に増して特異なダブ・サウンドを探求するようになっている。

Compa - Shaka's Truth / Atha Dub (ZamZam Sounds)

ダブステップの総本山〈ディープ・メディ〉からもリリースしているコンパが超強力デジタル・ステッパーズをドロップ。ズシリと打ち込まれるキックと、擦り付けたように少し歪ませたハットによって堅牢なビートが構築され、フロアを熱く盛り上げる。

Hieronymus - Silk Road / Pound of Pepper (ZamZam Sounds)

ミニマルダブを制作していたころのキット・クレイトやポールがもっとルーツに接近していたら、こんなトラックになっていたのでは? と思わせられる多様な要素を含んだスローステッパーズ2曲を収録。エレクソンとハリソンの懐の深さがうかがえる1枚だ。

Kan Sano - ele-king

 カン・サノ×七尾旅人といえば、「サーカスナイト」のリミックス・ヴァージョンが思い起こされるが、あのアーバン・メロウなトラックにやられちゃった方々に朗報である。カン・サノが七尾旅人をフィーチャーした久々の新曲、『C’est la vie feat. 七尾旅人』を10月30日にリリースすることが決定した。しかもアナログ7インチで、だ。

 ソロ名義でのフジ・ロック・フェスティバル2016出演やセイホー・バンドセットへの参加、そして藤原さくらのライヴ・サポート等、近年活動の幅を広げているカン・サノであるが、今回リリースされる『C’est la vie feat. 七尾旅人』では自身のキーボード・スキルを駆使した、昨今のR&Bシーンに呼応するようなエレクトロなアーバン・ソウルを聴かせてくれる。この7インチには浮遊感のあるエレクトリック・ピアノと七尾旅人の詞が印象的な「C’est la vie」と、カン・サノ自身がヴォーカルをとった「Magic!」の2曲収録されており、どちらの曲においても、更新し続ける彼のエレクトロ・サウンドを堪能出来るだろう。初回生産分のみの限定盤とのことなので、気になる方はお早めに。

 ちなみにカン・サノは、明日22日にWWW Xにて開催されるD.A.N.によるレギュラー・パーティー、「Timeless」にセイホー・バンドセットのメンバーとして出演する。チケットはソールド・アウトで、当日券の販売は未定のようだが、このステージではソロ名義のカン・サノとは違う一面を見せてくれるだろう。これからも、カン・サノから目が離せないようだ。

Kan Sano / C’est la vie feat.七尾旅人
発売日 : 2016年10月30日(日)
発売元 : origami PRODUCTIONS
価格 :¥1,389+税
試聴音源:https://soundcloud.com/kan-sano/cest-la-vie_magic


■Kan Sano

キーボーディスト/トラックメイカー/プロデューサー。
バークリー音楽大学ピアノ専攻ジャズ作曲科卒業。在学中には自らのバンドでMonterey Jazz Festivalなどに出演。
キーボーディスト、プロデューサーとしてChara、UA、大橋トリオ、RHYMESTER、佐藤竹善、Madlib、Shing02、いであやか、青葉市子、Seiho、韻シスト、Nao Yoshioka、Ovall、mabanua、須永辰緒、七尾旅人、Monday Michiru、羊毛とおはな、片平里菜、Hanah Spring、COMA-CHI、Twigy、アンミカ、Monica、ゲントウキ、Eric Lauなどのライブやレコーディングに参加。
また新世代のビートメイカー、プロデューサーとして国内外のコンピレーションに多数参加する他、LION、カルピス、CASIO、NTT、ジョンソン、日本管理センターのCMやJ-WAVEのジングル、AnyTokyo 2015の会場音楽など各所に楽曲を提供。
さらにSoundCloud上でコンスタントに発表しているリミックス作品やオリジナル楽曲がネット上で大きな話題を生み、累計40万再生を記録。
また、トラックメイカーとしてビートミュージックシーンを牽引する存在である一方、ピアノ一本での即興演奏でもジャズとクラシックを融合したような独自のスタイルで全国のホールやクラブ、ライブハウスで活動中。
“Kan Sano” の名は、様々なシーンに破竹の勢いで浸透中!
https://kansano.com/

Brian Eno × Dentsu Lab Tokyo - ele-king

何もかもが俗悪きわまる再版であり、無益な繰り返しなのである。過去の世界の見本がそのまま、未来の世界の見本となるだろう。ただ一つ枝分かれの章だけが、希望に向かって開かれている。この地上で我々がなりえたであろうすべてのことは、どこか他の場所で我々がそうなっていることである、ということを忘れまい。 オーギュスト・ブランキ『天体による永遠』浜本正文訳

 ブライアン・イーノ? ああ、なんか有名なじいさんね。アンビエントだっけ?──若いリスナーたちにとってイーノとは、もしかしたらその程度の存在なのかもしれない。しかし、実際の彼はそんなのんきなご隠居さんのイメージから最も遠いところにいる。2016年のブライアン・イーノは、たとえばアルカやOPNと同じように切実に、「いま」という時代のアクチュアリティを切り取ってみせようと奮闘しているアーティストのひとりである。いま彼が試みていることは、あるいはフランク・オーシャンが実践するような複合的な展開、あるいはビヨンセが体現するようなポリティカルなあり方、あるいはボウイの死のようなインパクト、そのどれにも引けを取らない強度を有している。
 4月末にリリースされたイーノの最新作『The Ship』は、歌とアンビエントを同居させるというかつてない音楽的実験を試みる一方で、そこに大胆に物語性をも導入するという、これまでの彼のどのアルバムにも似ていない野心的な作品であった。そしてそれはまた、タイタニック号の沈没および第一次世界大戦という出来事を「いま」という時代に接続しようとする、非常にポリティカルな作品でもあった。そのような複合性を具えた同作は、『クワイータス』誌が選ぶ2016年上半期のトップ100アルバムのなかで5位にランクインするなど、各所で高い評価を得ている。

 去る9月15日、『The Ship』のタイトル・トラックである "The Ship" の新たなミュージック・ヴィデオ「The Ship - A Generative Film」が公開された。
 とにかくまずはデスクトップのブラウザから、この特設サイトにアクセスしてみてほしい

トレーラー映像

 このヴィデオでは、イーノとDentsu Lab Tokyoとのコラボレイションによって開発された「機械知能(Machine Intelligence)」が、"The Ship" にあわせて自動的かつリアルタイムに、一度限りの映像を生成していく。あらかじめ20世紀の様々な歴史的出来事を学習させられた「機械知能」が、刻々と更新されていく世界中のトップ・ニュースを解釈し、それに類似した過去の出来事をピックアップして新たな映像を生み出していく、というのが本ヴィデオ作品の大まかな仕組みである。サイトへアクセスした瞬間に新しい映像が自動的に生成されるため、われわれはその時々でまったく異なる映像を視聴することになる。
 画面の左側では、ロイターやBBCの最新の記事がリアルタイムで更新されていく。画面の上部では、その記事の写真から「機械知能」が連想した過去の様々な写真が召喚され、ランダムに配置されていく。更新されるニュース写真とそれに基づいて召喚される過去の写真は、互いに何らかの関連性を有したものであるはずだが、必ずしも同じような出来事を記録したものであるとは限らない。要するに、「機械知能」が最新の写真を見て、それをあらかじめ記録された膨大なデータ=「記憶」と照合し、何か他のイメージを連想していくのである。したがって、そのプロセスには「誤認」の発生する余地がある。
 たとえば人は月を見たとき、そこに単に地球という惑星の衛星としての天体を認識するのではない。ある者はそこにウサギの影をみとめ、またある者はそこにカニの影をみとめる。それは、観測者が自らの所属する文化の体制に縛られて無意識的におこなってしまう、創造的な「誤認」である。では、はたして「機械知能」にもそのような「誤認」をおこなうことが可能なのか──それが本ヴィデオ作品のメイン・コンセプトである。

 このアイデアの一部は、すでに『The Ship』でも試みられていたものだ。表題曲 "The Ship" の二つ目のパートである "The Hour Is Thin" は、マルコフ連鎖ジェネレイターがタイタニック号の沈没や第一次世界大戦に関連する膨大な文書を素材にして自動的に生成したテクストを、俳優のピーター・セラフィノウィッツが読み上げていくというトラックであった。今回のヴィデオ作品はいわばその映像ヴァージョンであり、"The Hour Is Thin" で試みられていた偶然性の実験をさらに推し進めたものだと言えるだろう。
 イーノはこれまでも『77 Million Paintings』といった映像作品や、『Bloom』、『Trope』といったスマホ用アプリなどで、決して(あるいは、可能な限り)繰り返しの発生しない映像表現や音楽表現の探究を続けてきた。それは「ジェネレイティヴ(生成する)」と呼ばれる着想であるが、本ヴィデオ作品もそのような試行錯誤の径路に連なるものである。それは、ある何らかの制約のもとで能う限り偶然性や一回性を追求しようとする手法であり、あるいは、ある何らかの秩序のなかでいかにその秩序から逸脱するかを思考しようとする手法である。そのように「ジェネレイティヴ」な探究の最新の成果として公開された本フィルムは、何よりもまずブライアン・イーノという作家によって提出されたアート作品なのである。

 だが、このヴィデオ作品のポテンシャルはそこにとどまらない。本ヴィデオ作品が興味深いのは、「ジェネレイティヴ」という技術的な手法が、世界の報道記事とリアルタイムで関連付けられているというところである。つまりこのヴィデオは、極めて政治的な作品でもあるのだ。たったいま発生した出来事も実はすでに過去に起こったことの繰り返しなのではないか、いや、完全に同じ出来事が生起することなどありえないのだから、仮に繰り返しのように思われる出来事が起こったのだとしたらそれはあくまで「誤認」によって恣意的に過去の出来事が捏造されたにすぎない、いや、しかし「誤認」が発生するということは少なくとも過去の出来事と現在の出来事との間に何らかの類似点が存在するということではないか、いや、……。
 これは、まさに『The Ship』というアルバムが喚起しようとしていたことである。本ヴィデオでは「機械知能」による「誤認」を通して、たったいま人間がおこなっていることとかつて人間がおこなったこととの間に、強制的に回路が繋がれる。そのサンプルのひとつが、『The Ship』ではタイタニック号の沈没と第一次世界大戦であったわけだ。それに加え、一度として同じ画面が立ち上がることはなく、常に異なる映像が紡ぎ出されていくという趣向も、『The Ship』がかけがえのない「個性」の亡骸を拾い集めようとしていたことと呼応している。
 本ヴィデオ作品は、一度CDやヴァイナルという形に固定されてしまった『The Ship』を、再び偶然性や一回性の荒波のなかへと解放する作品なのである。

 さらにこのフィルムが興味深いのは、そのように「ジェネレイティヴ」な映像が、われわれを音楽へと立ち返らせる契機をも与えてくれる点だろう。次々と生成されてゆく映像に目を奪われていたわれわれは、しばらく時間が経った後に、ふとそこで音楽が鳴っていたことに気がつく。われわれが映像を見続け、「これは何の写真だろう?」、「これは最新のニュースとは何も関係がないのではないか?」などと思考している間、その背後ではずっと "The Ship" が鳴り続けていたのである。積極的に聴かれることを目的とせず、周囲の環境(この場合は、デスクトップの画面)への注意を促す──これは、まさにアンビエントの機能そのものではないか。

 このフィルムにはあまりにも多くのテーマが組み込まれている。テクノロジーの問題、アートの問題、音楽の問題、政治や社会、歴史の問題。このヴィデオ作品を通してわれわれは、それらの問題について「いま」という時間のなかで考えざるをえない。
 正直、『The Ship』という作品をここまで発展させてくるとは思っていなかった。イーノの探究は衰えるどころか、ますますその先端を尖らせている。今年われわれはボウイというスターを失ったが、まだわれわれはイーノという知性を失っていない。われわれはそのことに感謝しなればならない。(小林拓音)

BRIAN ENO

Dentsu Lab Tokyoとのコラボレーションが生んだ
「機械知能」が生成するミュージックビデオ
「The Ship - A Generative Film」を公開!
制作の裏側を紐解いたインタビュー記事も公開!

人類というのは慢心と偏執的な恐怖心(パラノイア)との間を行きつ戻りつするものらしい:我々の増加し続けるパワーから生じるうぬぼれと、我々は常に、そしてますます脅威にさらされているというパラノイアとは対照的だ。得意の絶頂にありながら、我々は再びそこから立ち戻らなければならないと悟らされるわけだ…自分たちに値する以上の、あるいは擁護しきれないほど多大な力を手にしていることは我々も承知しているし、だからこそ不安になってしまう。どこかの誰か、そして何かが我々の手からすべてを奪い去ろうとしている:裕福な人々の抱く恐怖とはそういうものだ。パラノイアは防御姿勢に繫がるものだし、そうやって我々はみんな、遂にはタコツボにおのおの立てこもりながら泥地越しにお互いと向き合い対抗し合うことになる。
- ブライアン・イーノ

アンビエントの巨匠、ブライアン・イーノが、最新アルバム『The Ship』のコンセプトでもあるこのステートメントを出発点に、テクノロジー起点の新しい表現開発に取り組む制作チーム「Dentsu Lab Tokyo」(電通ラボ東京)とともに、人工知能(AI)の可能性を追求する先鋭的なプロジェクトとして発足。最新楽曲「The Ship」に合わせて、映像が自動的かつリアルタイムに生成されるミュージックビデオを本プロジェクトの特設サイト上に公開された。

BRIAN ENO’S THE SHIP - A GENERATIVE FILM
https://theship.ai/

*特設サイトの視聴環境
携帯端末向けには最適化されておりませんので、ご覧いただくためには、下記パソコン環境でのブラウザーを推奨します。
Windows >>> Google Chrome(最新版)、Mozilla Firefox(最新版)
Macintosh >>> Safari 5.0以降、Google Chrome(最新版)、Mozilla Firefox(最新版)

トレーラー映像はこちら↓
https://www.youtube.com/watch?v=9yOFIStVuRI

本プロジェクトは、AIを「人間の知能」と対比し、その違いを際立たせるために「機械知能」(Machine Intelligence:MI)と名付け、機械が人間のようなクリエーティビティーを発揮できるかを模索するものとして発足。人類共有の外部記憶ともいえるインターネットから、20世紀以降のエポックメーキングな出来事を記憶として大量に学習させた機械知能を構築し、世界的な報道機関が運営するニュースサイトのトップニュースを見て、記憶と照らし合わせながら類似する事象を解釈し、どのような映像を生み出すのかを追求したプロジェクトである。

特設サイトにおいては、アクセスした瞬間に映像が生成されるため、来訪者ごとに視聴できるミュージックビデオが異なり、訪れる度に唯一無二の作品として、楽曲が持つ世界観とともに人々の感性を刺激し続ける。

またWIRED.jpにて制作の裏側を紐解いたインタビュー記事が公開中。
https://wired.jp/special/2016/the-ship/

The Shipについて
もともとは3Dレコーディング技術を使った実験から創案され、相互に連結したふたつのパートから成り立つブライアン・イーノ最新アルバム。美しい歌、ミニマリズム、フィジカルなエレクトロニクス、すべてを知り尽くした書き手が綴る物語、そして技術面での新機軸といった数々の要素を、イーノはひとつの映画的な組曲へと見事に纏め上げ、キャリア史上最もポリティカルな作品にして、過去の偉大な名盤たちのどれとも似つかない傑作である。ボーナストラック「Away」が追加収録される国内盤CDは、高音質SHM-CDを採用し、ブライアン・イーノによるアートプリント4枚が封入された特殊パッケージ仕様の初回生産限定コレクターズ・エディションと、紙ジャケット仕様の通常盤の2フォーマットとなり、いずれもブックレットと解説書が封入される。

Dentsu Lab Tokyoについて
新しいクリエーションとソリューションの場であると同時に、研究・企画・開発が一体となった“創りながら考えるチーム”でもあるDentsu Lab Tokyoは、2015年10月1日に始動。これまでの広告会社のアプローチとは全く違う、テクノロジー起点の新しい表現開発に取り組んでいる。
キーワードはオープンイノベーション。電通社内のみならず、社外の提携アーティストやテクノロジストとも協働しながら、広告領域にはとどまらない分野のクリエーションとソリューションを手掛ける。

https://www.beatink.com/Labels/Warp-Records/Brian-Eno/BRC-505/


 フランスの哲学者ジャック・ランシエールと『関係性の美学』の著者としても知られるキュレーターのニコラ・ブリオーとの間に交わされた論争について、美学者・星野太によって明快に論点整理がなされた「ブリオー×ランシエール論争を読む」という論考がある。それによると、ブリオーが称揚するリレーショナル・アートをはじめとした社会的諸関係を無媒介的に産出することを「作品」として提示する近年の芸術は、どれも多かれ少なかれ「芸術の再政治化」を目論むものであるとして、ランシエールは次のように批判する。すなわち、「芸術と政治の関係はそもそも二項対立ではなく、両者は『感性的なものの分有』を再配置するための二つの形式」なのであって、「〈芸術=虚構〉と〈政治=現実〉という等号を安易に措定し、前者から後者へと移行することを訴えるような態度」は、政治的なものの手前にあって「われわれの生を構成する感性的な基盤」を見えなくさせてしまう。それは「革新的であるどころか極めて凡庸で退行的」な芸術である、と。

 それに対してブリオーは、ランシエールのリレーショナル・アートの理解の仕方がそもそも不適切であり、それらの作品の本質を社会的諸関係の無媒介的な創出という側面に還元して捉えていることに問題があるとして反論している。詳細は省くが、さしあたりここではランシエールの芸術と政治の関係性の捉え方――それにはブリオーも暗に共感を示している――に注目したい。芸術と政治は対立するものではなく、どちらも感性的なものに基づいた虚構の形式なのだという捉え方に。

 そのように考えるとき、今年のフジロック・フェスティバルにおいて学生団体SEALDsの主要メンバーが出演すると知らされた途端に、アレルギー反応のように噴出した「音楽に政治を持ち込むな」という批判の声が、あまりにも表面的で浅薄なものに過ぎないということがみえてくる。ランシエールが述べるように「芸術と政治は、互いに関係づけられるべきかどうかが問題となるような、永続的で分離された二つの現実ではない」のだ。むしろ「芸術と政治は、虚構がまとう二つの形式の姿であり、『現実的なもの』は、それら虚構の効果によって生み出されもすれば、同時に変容させられもする」のである。ここでの「芸術」という言葉の意味は「既存の『感性的なものの分有』に異議を申し立てるための『行為=制作』」として解されたいが、さらに踏み込んで考えてみるならば、いまや日本の音楽フェスティバルの代名詞ともなっているイベントに向けて「音楽(虚構)に政治(現実)を持ち込むな」という批判が飛び交ったという事実からは、音楽フェスティバルというもの一般に対して聴衆がいったい何を求めてそこに足を運ぼうとしているのかを透かし見てみることもできるだろう。

 それを手短にいうならば、作り手・作品・受け手の関係の強固な安定性を虚構のうちに求め、政治的なるものをあくまで現実として虚構の安定性を揺るがすものであるとしてその場からできる限り排除しようとする聴衆の欲望ということになる。再度ランシエールの考えを引くならば、「作者の意図、作品の形式、受容者の視線という『あらかじめ規定された諸関係』を『宙吊り』にすること」、つまり「既存の支配関係の『中性化』」によってこそ、芸術から感性的なものを基盤としたもうひとつの虚構(=政治的なるもの)の潜勢力を見出すことができるのにもかかわらず。ようするに聴衆はフェスにおける音楽体験にふだんの生活や日常的な思考が揺さぶられてしまうような経験を求めていないし、ましてやそこで自身がもつ政治的意見に変更が迫られることなどもってのほかなのである。たとえ「政治的な音楽家」が出演するのだとしても、それは政治(現実)に対立するものとしての音楽(虚構)としての範疇にとどまる体裁をなしていなければならない。それは休日を「安全に」過ごすためのレジャーでなければならないのだ。

 以上のようにして見出されたように聴衆が音楽フェスを単なるレジャーとしてしか考えていない限り、たとえフジロック・フェスティバルが本来的に政治的な主張を掲げたものであったとしても、そのことをもって「音楽に政治を持ち込むな」という批判を批判することは虚しい作業とならざるを得ない。むしろそのように二項対立的に(「フジロックはそもそも政治(=現実)を持ち込んだ音楽(=虚構)なのだ」)しか捉えていないがゆえにこそ、そこでは現実と虚構の対立関係が求められるしかなく、そして聴衆にとってのその関係性の振り子が虚構としての「音楽」の方位へと振り切れることで、主催する側が考える対立関係のバランスとの間に齟齬をきたしたのだとさえいえるのではないか。いずれにせよここでは音楽=政治=虚構の基盤となるべき「感性的なものの分有」の「再配置」が全く省みられなくなっていると言っていい。それは音楽フェスティバルを、ひいては音楽文化全体を根源的に貧しくすることにはならないか。

 そしてこのような情況を鑑みたうえでこそ、昨年十一月に六本木スーパー・デラックスで二日間にわたって開催されたフタリ・フェスティバルのような音楽祭が、少なからぬ関心を集め静かならぬ興奮とともに終えたことは評価されなければならない。わたしはこのフェスティバルを紹介するにあたって、そこで「特殊音楽」なる言葉を用いたわけだが、その意味をアルノルト・シェーンベルクの音楽から「生を労働と余暇に分ける二分法」に対する批判を嗅ぎ取ったテオドール・ヴィーゼングルント・アドルノが、さらにシェーンベルクの音楽が「音楽を社会のただ中における幼児的行動様式の自然保護区として徴発する画一主義に絶縁を宣告する」ものとして聴衆につきつけた次のような要求を見て取ったことを想起しつつ考えるとき、それはランシエールが述べる「芸術」の潜勢力へと限りなく近づいてゆくことだろう。

すなわち、同時的進行の多重性に対するもっとも鋭い注意、次に何が来るかいつもすでにわかっている聴き方というありきたりの補助物の断念、一回的な、特殊なものを捉える張りつめた知覚、そしてしばしばごく僅かの間に入れ換わるさまざまな性格と二度と繰り返されないそれらの歴史を正確につかむ能力などを、それは要求する。(……)この音楽は聴き手がその音楽の内的運動を自発的に共同構築することを求める。そして単なる観照ではなく、いわば実践を聴き手に期待する。(『プリズメン』渡辺祐邦・三原弟平訳、筑摩書房)

 「ありきたりの補助物」を「断念」し「特殊なものを捉える」ということ、そしてそのことを要請するような音楽行為に立ち会うということ。「特殊音楽」に接することは出来事の追認ではなく出来事が生成する場それ自体への関与であり、「現実的なもの」に変容をもたらす虚構の不安定性に向かう聴衆が、「内的運動を自発的に共同構築する」必要に迫られるような音楽の余白に身を晒すことである。「特殊音楽」はジャンルではない。むしろそこにおける音楽行為はあらゆる囲い込み運動から逸脱し多方向的に逃走していくのであって、そして名づけようもないなにものかを目指すということにおいてそれは出来事の一回性を獲得することへと方向づけられてもいるのである。「特殊音楽」とはそうした逸脱と逃走と獲得のプロセスのことに他ならない。それはもしかしたらどこまでも受け身で臨む聴衆にとっては耐え難いほどの退屈でしかないのかもしれないし、どこまでも「安全」であることを望む聴衆にとっては許し難いほどの「危険」に満ちた音楽であるのかもしれない。しかし裏を返すならば、作り手・作品・受け手の関係性の「宙吊り」に能動的に参与する限りにおいて、これほど魅力的で他に代えがたい音の愉しみもないのだといえるだろう。以下ではそうした「特殊音楽」を体現する行為の一端を、フタリ・フェスティバルに見られた幾つかの試みを辿り直しながら、より具体的な様相のもとに探っていく。


鈴木昭男×ジョン・ブッチャー

 二日間のフェスティバルに続けて出演した鈴木昭男は、いまだ「サウンド・アート」なる概念あるいはジャンルが確立する遥か以前から、音楽としても美術としても捉えきれない特異な試みを続けてきた稀有な存在である。彼が提唱する「点音(おとだて)」は、なかでもその表現に対する姿勢が色濃く反映された実践だ。野外において耳を澄ませるための特定の場所を探る試みであり、場に潜在する響きとの出会いに捧げられたある種の儀式的な行為ともいえる「点音」は、フェスティバルでみられた彼のライヴ・パフォーマンスとも繋げて考えることができるだろう。ライヴでは主に細い棒状のものを手にしながら、金属や木製の板、段ボールのようなものなどの物体を叩いたり擦ったりして微弱な音を出し続けるという演奏が行われていた。日常的によく目にする物体やよく耳にする響きでも、このような機会でもなければその音を音楽として聴いてみることはほとんどないだろう。だがこれを身近な物体に潜む響きの豊かさとして片付けてしまってはならない。むしろそれらすべてを逃さぬように聴き取る共演相手が、恐ろしいほどの速度で反応をし続けることの触発材料を、次々と投擲する行為としても捉えられるからだ。それは彼が「点音」で場に潜在する響きを探り出していったのと同様の試みを、対人間の実践として行っていくかのようだ。すなわち、共演者の音の在り方にじっと耳を傾けて、それを触知するやいなやあの手この手で手繰り寄せていくのである。

 より直接的に場に潜在する響きを探り出す試みは、「非楽器・非即興・非アンサンブル」を掲げるスティルライフの「演奏」から見て取ることができる。向かい合って座りながらのパフォーマンスを行った彼らの行為は、それをより正確に言うならば、演奏するというよりもその場で聴取の共同作業を行うことから、結果的に立ち上がる音の場を音楽として提示していくものである。手元に用意された音具は聴かれるべき音の図を描くのではなく、そうした音の場を整調する役割を果たしていく。そしてそれは会場の環境に大きく左右されることにもなる。フェスティバルの日もスーパー・デラックスに特有の響きを聴き取っていった彼らは、しかし「演奏」の半ばあたりで客席から音の場を切り裂くような大きな音が聴こえたことが、彼らの演奏=聴取に不可逆的な特異点を設けてしまうこととなった。場所によって出来上がる音楽が大きく変わってしまう彼らのようなグループにとって、フェスティバルというひとつの場所になかば無理やりに様々な音楽と観衆を並べてしまう空間は不得手とするものなのだろう。あるいは「聴取」を掲げることはその場でしか起きない特殊な響きを捉えることでもあるが、その反面どのような不意の事故的な響きが闖入してこようとも、それをあるがままに受け入れるしかないことの「危うさ」がみられたというべきか。しかしたとえ受け手が直接的には何も介入しなかったのだとしても、場所そのものが音楽の体験を種々様々に導くようなものもある。


杉本拓『Septet』

 異なる楽器を用いた七人の演奏家によって奏でられていく杉本拓の作曲作品『Septet』は、昨年三月にベルリンで初演され、日本ではフタリ・フェスティバルで行われた演奏が初めての試みとなった。クラリネットとフルートの二菅楽器を中心にしながら、奏者はそれぞれ音程のほとんど変わらないひとつの音を出し続けていく。演奏者が入れ替わり立ち替わりすることで、引き延ばされた響きは楽器ごとの微妙な相違をみせていき、さらにモジュレートする共鳴のし合いを聴かせてくれる。劇的な変化は訪れることなく、それがそのまま四十分近く続く。あるいはそのように持続することが、聴き手の耳を集中と散漫の両極に引き裂き、微細な音響の変化を劇的に彩っていくといったほうがいいだろうか。『Septet』はフェスティバルの一週間後に、ベルリンでの初演を収録したアルバムがリリースされているものの、それをフェスで行われたパフォーマンスが追体験できるものとして捉えることはできないだろう。長時間にわたって演奏される微弱な「ひとつの音」は聴かれるべき図を描くとともに、地となって聴き手の知覚を他の領域へと差し向けもするのだ。注意深く聴取し続けることが集中から散漫へと反転した瞬間、その演奏の場における風景や匂い、あるいは温度のような皮膚感覚的な肌触りなど、「音楽」の外にあったものがするりと聴き手の体験のなかに滑り込んでくる。『Septet』を聴くことは場を知覚することでもあり、ライヴと録音物では大きく異なる体験になるのである。

 同じように録音物との距離を見定めてみることから、場の特異性をどのように引き出していくのかが捉えられるものとして、The International Nothingの演奏を挙げることができる。結成十六年めを迎えたこのグループは、ミヒャエル・ティーケとカイ・ファガシンスキーのふたりから成り、あくまで作曲作品を通してクラリネットの可能性を探求する活動を行ってきた。意外にもこのユニットとしてはこれが初めての来日となる彼らは、フェスティバルの前年にリリースされた三枚目のアルバムに収録されている楽曲を、二曲目から最後まで計五曲演奏してくれた。とてもふたりだけで演奏しているとは思えないような響きの数々を伴いながら、ふたつのクラリネットが対位法的に絡み合っていき、あるいは持続音同士がモジュレーションを生み出していく。そこにみられる音程の変化は旋律を生み出すためのものではなく、むしろ響きのヴァリアントとして提示されてゆくものだ。どこか物憂げなメロディが聴こえてきたかと思えば、それはメロディとして完成される前に響きの中へと溶解していく。そうした展開の不気味なほどの美しさ。ここでアルバムと同じ楽曲を演奏することは同一性の再現にとどまらず、眺める角度によってイメージを変えていく立体彫刻のように、音響の襞をどの角度から切り取るのかということが、むしろ彼らの演奏が行われる場所とそれを聴取するわたしたちの位置の特異性を引き立たせてくれるのである。


ユタカワサキ×ju sei×大蔵雅彦×ミヒャエル・ティーケ

 楽曲の演奏でありながらも、まったく異質なパフォーマンスをみせてくれたのがju seiである。あくまで「うた」を中心に活動を行うこのデュオ・グループは、これまでにも楽曲の構造を闊達自在に変化させていくことで、ライヴごとにまったく異なる演奏を見せてきた。今回のフェスティバルでもju seiの楽曲が演奏されていたものの、それは共演者たちが参加すべきただひとつの枠組みとしてではなく、音楽の場を更地から共有しようとする田中淳一郎とseiにとって、端的にそれがそこで可能な行為としてあったのだということなのだろう。彼ら/彼女らとともにアルバムを制作してもいるユタカワサキのアナログ・シンセサイザーは、まるでソロ・パフォーマンスを行っているかのごとく淡々と、だがしかし確実に合奏に影響を及ぼすかたちで奏されていく。同様に、大蔵雅彦とミヒャエル・ティーケによる二つの管楽器も、抑制されたフレーズを淡々と響かせながら、共演者の「次の一手」になんらかの作用を与える。それらはju seiの「うた」を装飾するのではなく、より深部にある楽曲の構造的な領域において伸縮作用をもたらしていくといえばいいだろうか。そこでの楽曲は演奏の同一性を担保するものではなく、むしろ非同一的な差異の産出を促す契機としてあるのだ。

 楽曲よりも強固に「同じもの」を再現することができる複製技術を取り上げたパフォーマンスも、フタリ・フェスティバルでは行われていた。スティーヴン・コーンフォードによる映像作品『Digital Audio Film』がそれである。中心で線香花火のような赤く丸いレーザー光が非常な速度感を伴って明滅する映像が壁面に投射され、しばらくすると両脇にカメラのような外観をしたモノクロの具象物が現れはじめる。よくよく目を凝らして見ると、それはカメラではなくCDプレイヤーのピックアップ・レンズのようだ。世界をどこまでも物質的に捉えて記録するカメラのレンズに対して、ピックアップのそれはむしろ記録された信号を読み取るための解釈装置としてある。レーザー光とレンズの対比からは、CDという音響メディアに潜む「読む行為」と「読む主体」との関係性が浮かび上がってくる。さらに映像の作者であるコーンフォード自身に加え、パトリック・ファーマーと河野円による会場の空間を自在に飛び交うサウンド・プロダクションが、CDプレイヤーそのものを用いた響きであるということを考え合わせれば、ここでのパフォーマンス全体が音響メディアの潜在性の顕在化へと向けられていたのだといえるだろう。それはいつ・どこでも「同じもの」を再現することができるはずのCDプレイヤーが、音響を再生産するためにはそのつど「読むこと」という一回的なプロセスを通過しなければならないという視覚イメージのなかで、さらにその技術それ自体から滲み出る非再現的な響きを明らかにしてくれるのである。


パトリック・ファーマー『Border』

 視覚に訴えかけるような試みは、要注目のイギリスの新しい世代の音楽家のひとり、パトリック・ファーマーの作曲作品『Border』から見て取ることもできる。石川高、田中悠美子、ロードリ・デイヴィス、村山政二朗の四人によって披露されたこの作品は、『家族ゲーム』式に並列になった彼ら/彼女らが、ファーマーのコンダクションを受けながら演奏を進めていくという内容で、それぞれの演奏者のふだんのライヴではなかなか見られないようなパフォーマンスも見受けられた。手元の物体を擦り続ける石川、三味線の調整を行う田中、エレクトリック・ハープに乾燥パスタのようなものを散らすデイヴィス(彼はこういったパフォーマンスを以前にも行っている)、うがいする村山……「慣れ親しんだ動作を」といった指示が書かれていたのかどうかは定かではないが、四者四様の行為がステージに奇っ怪なイメージを作り上げていく。極めつけは煎餅菓子を食べ始めた田中悠美子が、そのまま立ち上がって自身のスマートフォンで共演者の写真を取り始めた場面だろうか。固唾を呑んで耳を澄ませているだけでは見えてこない音楽世界が、あくまで音を介した不確定的なアクションを伴いながら演劇的に試みられた作品だった。さらに視覚に訴えかけるものとして、見たこともないような自作楽器の使用を複数の出演者が試みていたことも興味深い。


川口貴大×徳永将豪×ユエン・チーワイ

 自作楽器を用いることそれ自体はなにも今に始まったことではなく、むしろあらゆる楽器は原初的には自作でしかあり得ないとさえ言えることだろう。それは音具としての身体の拡張であり、人間が様々な音色を獲得していく過程でもある。しかしフタリ・フェスティバルで見られた自作楽器の使用は、単に響きの新奇さを獲得するためというよりも、既成の楽器を用いる際にまとわりつく演奏行為――それは音を予測させる「補助物」ともいえる――から、どのように自由でありながら音を介した表現をなし得るか、ということに焦点が当てられていたように思われる。スティーヴン・コーンフォードと大城真はライヴ会場を散策しながら手のひらサイズの自作楽器をそこかしこに設置していき、得体の知れぬ生き物のように楽器たちが騒めき「合奏」する特異な空間を現出する。ベテラン・サックス奏者としても知られる広瀬淳二は、なんとも手作り感満載な自作楽器から、まるで菜園にホースで水を遣るかのような気楽な仕草をみせながら、しかし強烈な電子的ノイズを響き渡らせていく。見た目のインパクトが最も印象深かったのは川口貴大のサウンド・オブジェクトだ。ステージ中央でムクムクと盛り上がる剥き出しの臓器のようなビニール袋、妖しく光る投げ置かれたスマートフォン、耳を劈く破裂音を発する幾つものラッパ群。それらは拡張された身体というよりも、複数の別の身体が無目的的にごろりと横たわっているかのようであり、もはや楽器と呼ぶことがあまり意味をなさないほどに異様な物体となっている。

 既成の楽器は他方では、音楽の成立を条件づける楽音を、洗練された予期し得る響きとして生成する役目も果たしてきた。制御不能なノイズを音楽の素材として用いることは、まずはこうしたイデオロギーに対する否定性の提示であり、さらには音楽が成立する条件をより柔軟にしていくための方途でもある。だが人間によって制御しきれない響きを素材として扱うには、制御不能な音の外側でサウンドをコントロールしていく必要が出てくるだろう。グラインド・コアにも似た轟音を聴かせるNAKASANYEの三人は、制御不能なノイズのコントロールをアンサンブルの編み目のなかに聴かせてくれる。あくまでアコースティックな響きを用いるヨエル・グリップのベースとアントナン・ジェルバルのドラムスが、ひたすら機械的な反復フレーズを出し続けることによって、同じように反復する吉川大地の機械でしかないフィードバック・ノイズに生きた揺らぎをもたらしていくのである。二日間のフェスティバルを通してもっとも大きな爆発的ノイズの海を聴かせてくれたのは、中村としまると秋山徹次、それにリュウ・ハンキルの三人によるセッションだった。だがそれは音圧レベルにおいて単に大きかったというだけではない。演奏の始まりにリラックスしたムードを漂わせていただけに、その振幅の深さが音の大きさというものをより強調していくような、サウンドの流れを巧みに構築していく手腕がみられたのである。それは制御不能な音をその外側からコントロールしていく一方で、どこまでも音のコントロールを手放すことなく予期し得ぬ響きへと賭けられた即興演奏でもあるのだといえるだろう。


ロードリ・デイヴィス×ジョン・ブッチャー

 即興演奏がその原理に従って非同一性の極北へと突き進むことが、必ずしも意想外であることの獲得を結論しないということの隘路から、そうした原理を抽出し、即興演奏であることに拘ることなく探求を推し進める試みを眺めてみることが、「特殊音楽」という言葉を持ち出した発端なのであった。だから「純粋な」即興音楽はその原理に最も近しいようでありながら、同時に解消し難い矛盾を孕んだ試みでもある。今回のフタリ・フェスティバルではどの出演者も他者との共同作業を行うことがパフォーマンスの起点になっていたが、それを即興演奏に当て嵌めてみるならば、編成の妙味によってそうした矛盾を切り抜けようとしていたのだと捉えることもできるだろう。

 島田英明を取り囲むようにして両脇でヤン・ジュンと康勝栄が演奏するという配置は、それぞれ独自のセッティングが施されたヤンと康によるノイジーなエレクトロニクス演奏を縦横無尽に駆け巡る、島田の電子変調されたヴァイオリンを用いた個性的なサウンドを際立たせ、弓で弦を様々なニュアンスで叩いたり擦ったりすることの自在さを聴かせてくれる。広瀬淳二のホワイト・ノイズが合奏の下地をなしていくところでは、カイ・ファガシンスキーの抑制されたクラリネット演奏がクラシカルかつモノクロームな響きを重ね、他方で生粋の即興演奏家・高岡大祐が様々な特殊奏法を駆使して彩り豊かな響きをチューバから紡ぎ出してゆくといったふうにして、対比的なサウンド・イメージが醸成されていた。あるいは川口貴大の鳴動する物体を音の風景に、それを縫って進むようにしてアルト・サックスの徳永将豪が音響的な即興演奏を試み、ユエン・チーワイはときおり何かを咥えながらのエレクトロニクス操作を試みていくというセッションからは、別の対比が浮かび上がってくる。会場全体を埋め尽くすような響きを轟かせていた川口のサウンド・オブジェクトがふと静まり返る瞬間に、生音と電子音という異質なふたりの演奏が前面に躍り出てくる面白さを聴かせてくれるのだ。

 こうした側面から見るならば、ジョン・ブッチャーとロードリ・デイヴィスによるデュオという、これまでに幾度となく共演してきている組み合わせは、編成の面白味を欠いているように映るかもしれない。だが別の角度から眺めてみると、この編成でなければなし得ない演奏の面白さが見えてくる。デュオ・ライヴにおいてエレクトリック・ハープに徹していたデイヴィスは、テーブルに寝かせたこの楽器から、複数の道具を駆使してサウンドの地となるような響きを生成していく。そこに降り立ったブッチャーは、独自に習得/開発してきたあらゆる特殊奏法や、さらにはマイクを用いたフィードバックをも駆使してサックスを自在に操っていく。共演を重ねることで徐々に形成されてきただろうこのようなサウンドの役割分担が、こうも見事に演奏されている様を目にすると、出会うべくして出会った最良の関係性がそこにあるかのようにも思えてくる。そこで賭けられているものは異質な個と個が出会うことの驚きだけでなく、ソロ・インプロヴィゼーションが自らの音楽語法を開拓するプロセスであるように、彼らの関係性それ自体を基盤とした語法の開拓へと向けられてもいるのだ。その語法は物質として捉え返された楽器の潜在性を、演奏のたびごとに異なる音楽として顕在化することになるだろう。


Far East Network

 即興演奏であっても、また別の見方ができるものもある。最後に紹介しておきたいのは、国籍がバラバラの東アジアの即興音楽家たちによる、継続的なグループ活動として突出した存在であるFENのパフォーマンスだ。フェスティバルでは大友良英が彼に特有のギター・フィードバック・ノイズを出し、徐々に音量を増大させていくというところがサウンドの底流をなしながら、リュウ・ハンキルとヤン・ジュン、それにユエン・チーワイがそれぞれ応答していき、爆音状態へと突入していく演奏を聴かせてくれた。アンサンブルズ・アジアのひとつの雛形ともいうべきFENを、単に「大友良英のバンド」として見ることは正しくないが、それでも結成のきっかけとなった彼が、この日のライヴのように、グループが演奏する音楽の流れにとりわけ重要な役割を果たしてきたことは否定できない。それはしかし国籍のみならず演奏方法も様々な四人をひとつにまとめあげる方途というよりも、そうした多様性をそのままに共に音楽を奏でることの可能性の契機として模索されたものなのだろう。四人が等しく共有するのはひとつの楽曲でもひとりのメンバーが主導する音でもなく、そこに流れる物理的時間ただそれだけしかないのであって、ここで即興演奏は音の場のみならず生きる場所をも分かち持つための、一回的な音楽的時間を紡ぎ出す手段としてあるのだ。演奏の強度もさることながら、そうした可能性を投げかけることが音楽の未来へと繋がるようなFENの実践は、露骨な政治性を掲げてアジアをひとつにまとめあげようとすることよりも、より根源的な共同の在り方を指し示してくれるのである。

 ここに取り上げてきた実践はフェスティバルのほんの一断面に過ぎないが、少なくともそこにおいて見られたのは作り手・作品・受け手の関係性が強固に規定され、それをただひたすら「安全に」受け入れるという出来事の追認ではなかった。「次に何が起こるかを正確に知っていることほどつまらなく、退屈なことはない」とはベン・ワトソンによるデレク・ベイリーの評伝の邦訳で強調されていた一節だが、まさに聴衆の一人ひとりが出演者の音楽行為に能動的に参与することによって、それぞれに異なる体験の愉しみを発見していくようなその関係性の流動的な在り方があったのだ。そこで聴衆が身を晒したのは「既存の『感性的なものの分有』に異議を申し立てるための『行為=制作』」であり、「『あらかじめ規定された諸関係』を『宙吊り』」にする音楽行為の数々にほかならない。それは一見すると政治と無関係に思えるかもしれないが、まさに政治的なるものの手前にある感性的な基盤に揺さぶりをかけるという意味において、どんな政治的音楽よりも「政治的」たり得ていたと言っていい。もちろん、どこまでも「安全な」フェスティバルというものがあり、それに余暇を費やすことそのものは別に否定されるべきことでもなんでもないだろう。そうではなく、あらゆる音楽フェスティバルがそこにのみ集約されてしまうことの貧しさに対する批判として、フタリ・フェスティバルがここでは称揚されているのである。現場報告を兼ねながら述べてきた実践の数々は、だから知覚するわたしたちがどのような「宙吊り」現象と立ち会うことになったのかについてのひとつの記録であり、さらにはレジャー化することで忘れ去られつつある音楽フェスティバルの潜勢力をいま一度思い起こすための糸口として提出するものでもある。

yahyel - ele-king

 yahyel。なんとも不思議なスペルだ。このバンドのことが気になり出してからしばらく経つけれど、いまだにちゃんと綴ることができない。yahyel。
 ヤイエル。なんとも奇妙な響きだ。このバンドのことが気になり出してからしばらく経つけれど、いまだにうまく発音することができない。ヤイエル。
 この風変わりな名前と同じように、かれらが奏でる音楽もまた独特の雰囲気を醸し出している。すでに何もかもが出揃ってしまった感のあるこの現代に、かれらは「いやいや、そんなことはないですよ」とブルージーでオルタナティヴなサウンドを鳴り響かせる。もしかして、これからすごいことになるんじゃないか? おっ、メンバーにVJまでいるぞ、かれらは一体どんな野心を抱いているんだろう? そんな、リアルタイムで新しい音楽を発見したときの、わくわくしたりどきどきしたりする感じ──こういう感覚は久しぶりだ。
 来る9月28日、かれらは500枚限定の初CD作品『Once / The Flare』をタワーレコードにてリリースする。この日タワレコへ全力疾走した者だけが、かれらの未来を先取りすることができるだろう。
 さあ、きみはどうする?

今注目のyahyel、500枚限定の初CD作品『Once / The Flare』発売決定!

今年のフジロックフェスティバル〈Rookie A Go Go〉に出演し、日本人離れしたヴォーカルと最先端の音楽性、また映像クリエイターとしても活躍するバンド・メンバーが制作したミュージック・ビデオ「Once」が話題となるなど、今最も注目を集める新鋭yahyel(ヤイエル)が、初のCD作品となる500枚限定の2曲入りEP『Once / The Flare』(¥500+tax)をタワーレコードにて9月28日(水)にリリースする。

yahyel – Once

本作品にはiTunesにてジャンル別チャート3位を記録するなど、国内ポップ・シーンにその存在感を強く印象付けた「Once」と、新曲「The Flare」の2曲を収録。マスタリングは、エイフェックス・ツインやアルカ、ジェイムス・ブレイク、フォー・テット、FKAツイッグスなどを手がけるマット・コルトンが担当している。


label: Beat Records
artist: yahyel
title: Once / The Flare
ヤイエル『ワンス / ザ・フレア』

cat no.: BRE-55
release date: 2016/09/28 WED ON SALE
price: ¥500+tax

取扱店舗
タワーレコード札幌
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yahyel | ヤイエル

2015年3月に池貝峻、篠田ミル、杉本亘の3名によって結成。
古今東西のベース・ミュージックを貪欲に吸収したトラック、ブルース経由のスモーキーな歌声、ディストピア的情景や皮肉なまでの誠実さが表出する詩世界、これらを合わせたほの暗い質感を持つ楽曲たちがyahyelを特徴付ける。

2015年5月には自主制作の4曲入りEP『Y』をBandcamp上で公開。同年8月からライブ活動を本格化、それに伴いメンバーとして、VJに山田健人、ドラマーに大井一彌を加え、現在の5人体制を整えた。映像演出による視覚効果も相まって、楽曲の世界観をより鮮烈に現前させるライブセットは既に早耳たちの間で話題を呼んでいる。

2016年1月にロンドンの老舗ROUGH TRADEを含む全5箇所での欧州ツアーを敢行。無名にも関わらず噂が噂を呼び、各ライブハウスを満員にするなど、各地で熱狂的な盛り上がりを見せた。続いて7月に、デジタル・シングル「Once」をリリースし、フジロックフェスティバル〈Rookie A Go Go〉ステージに出演。現在制作中の1stアルバムに先駆けて、500枚限定の2曲入りEP『Once / The Flare』を9月28日(水)にリリースする。

https://www.beatink.com/Labels/Beat-Records/yahyel/BRE-55/

Masters At Work - ele-king

 90年代からハウス・ミュージックに多大な影響を与え続けてきたマスターズ・アット・ワーク。ルイ・ヴェガとケニー・ドープからなるこのヴェテラン・ユニットが、なんと10年ぶりに来日を果たすこととなった。
 今回の来日公演は、PRIMITIVE INC.の10周年およびageHaの14周年を記念して、11月19日(土)に東京は新木場・ageHaにて開催される。また、今回のアニヴァーサリーを祝うため、他にも多くのアーティストが出演することになっている(詳細は後日アナウンスされる予定)。
 週末の昼間から開催される同イベントは、こだわりのフードやワークショップなどが楽しめるキッズ・エリアも併設されることになっており、子どもも一緒に楽しめるフェスティヴァルとなるだろう。

Louie VegaとKenny Dopeからなる最強ユニット
“MASTERS AT WORK”
10年振り!! 奇跡の来日公演!!!

PRIMITIVE INC. 10th Anniversary × ageHa 14th Anniversary
MASTERS AT WORK in JAPAN
- It’s Alright, I Feel It! -
2016.11.19 (Sat) 14:00 - 21:00 at ageHa
OFFICIAL HP : https://mawinjapan.com

MASTERS AT WORK。その存在は世界でも唯一無二。ハウス・ミュージックを軸に音楽の可能性を強力に拡げた史上最強のユニットである。サルサやラテンを背景に持ちグラミー賞も獲得しているLouie Vegaと、ヒップホップやレゲエなどのサウンドで、ストリートから強烈な支持を受けているKenny Dope。それぞれの持ち味を落とし込んだMAWの音楽は90年代のデビューから現在に至るまで、ダンス・ミュージック・シーンに与えた影響は凄まじく、既に音楽界の至宝と言われている。日本での公演はNuyorican Soul名義でのアルバムを控えた1996年に実現。その後、個々で来日公演は定期的におこなわれつつもMAWとしての来日は、多忙なLouie VegaとKenny Dopeのスケジュールを合わせることも、また提示される条件をクリアすることも困難な為、10年を経た2006年のPRIMITIEV INC.設立記念パーティーまで待つことになる。今でも語られる熱狂的な盛りあがりをみせた伝説の日から更に10年、MAWとして3度目の来日公演が遂に現実のものに。世界的に見てもMASTERS AT WORKでパフォーマンスは年に数える程しかなく非常にプレミアムな機会。全てのダンス・ミュージック・ファンが歓喜する日となるだろう。

PRIMITIVE INC.の10周年とageHaの14周年という特別な日だからこそ実現できる10年に一度の物語が結実する。今後はアニヴァーサリーを祝うべく多くのアーティストの出演がアナウンスされていく予定。ageHaの昼間という特別な環境の中で屋内と屋外のエリアをつなぎVIPからキッズ・エリアまで併設する充実のホスピタリティー。大人から子供まで楽しめるダンス・ミュージックのフェスティヴァルとも言えるだろう。

MASTERS AT WORK in JAPAN - It’s Alright, I Feel It! -
PRIMITIVE INC. 10th Anniversary × ageHa 14th Anniversary

日時 : 2016年11月19日(土)14 : 00 ‒ 21 : 00
会場 : ageHa@STUDIO COAST www.ageha.com
出演 : MASTERS AT WORK (Louie Vega & Kenny Dope), and much more!!!
料金 : 前売りチケット
Category 0 : ¥3,800- ▶ 9/19 (月) ~ 9/26 (月) 限定100枚!
Category 1 : ¥4,300- ▶ 9/27 (火) ~ 10/4 (火) 限定100枚!
Category 2 : ¥4,800- ▶ 10/5 (水) ~ 10/31 (月)
Category 3 : ¥5,300- ▶ 11/1 (火) ~ 11/18 (金)
 当日券 ¥5,800-
 VIPシート ¥30,000- ~ 
公式HP : https://mawinjapan.com


Masters At Work (Louie Vega & Kenny Dope)

Louie VegaとKenny Dopeによる史上最高のユニットMasters At Work。あらゆる音楽スタイルを吸収してダンス・ミュージックの最先端を走り続けてきたDJ、そしてプロデューサー・チームである。ラテンやアフリカン、ジャズやダンス・クラシックを背景に持つLouie Vega、ヒップホップやレゲエなどストリート・ミュージックがアイデンティティーのKenny Dope。この両者の持ち味をハウス・ミュージックに、たっぷりと注入したサウンドこそがMasters At Work最大の魅力だろう。93年に1stアルバム『Masters At Work』を発表後、ヴォーカリストにLuther Vandrossを迎えた「Are You Using Me」、そして「Beautiful People」や「Love & Happiness」などMAW初期の代表曲とも言える作品を立て続けにリリース。96年にはセルフ・レーベル〈MAW Records〉を設立。翌97年には彼らの多才ぶりを遺憾なく発揮した集大成とも言えるNuyorican Soul名義での『Nuyorican Soul』を発表。大御所Roy AyersやJocelyn Brownなど豪華なゲスト陣の参加も大きな話題を呼んだが、R&Bやソウルに、ラテンやジャズを大胆に吸収した豊潤なサウンドはダンス・ミュージック・シーンに多大な影響を与え、名盤として愛されている。圧倒的な評価を得たMAWのもとにはリミックスの依頼が絶えまなく届き、Madonna、Michael Jackson、Janet Jackson、Jamiroquai、Björk、Daft Punk、Misia、Tei Towaなどを含め、数え切れないほどの作品を手掛けている。02年にリリースされたMAW名義での2ndアルバム『Our Time Is Coming』は世界中で大ヒットを記録している。ソロ活動も精力的で、06年にはLouie Vegaが過去幾度となくノミネートされた第48回グラミーでベスト・リミキサー賞を受賞。トップ・オブ・トップへと登り詰める快挙を成し遂げた。Kenny Dopeは全編インストゥルメンタルのオリジナル・アルバムを発表。ストリートのカリスマとして君臨し続けている。2014年と2015年にはMAWとして2年連続でUKトップ・レーベルの人気コンピレーション『House Masters』を手掛け、計8枚のディスクにクリエイションを詰め込んだ。その内容は永久保存盤とも言える内容で、輝かしいNYハウスの調べを奏でている。90年代のデビューから今も天頂で光を放ち続けるMasters At Work。既に音楽界の至宝と言える存在だろう。

Kyle Hall & Jay Daniel - ele-king

 ともに90年代生まれのデトロイトの新世代アーティスト、カイル・ホールジェイ・ダニエルが来日する。神戸(9月23日)と東京(9月24日)をまわる今回のツアーは、ふたりがデトロイトで主催しているレギュラー・パーティー「FUNDAMENTALS」の名を冠しておこなわれる。

 カイル・ホールは昨年末に、LP3枚組のセカンド・アルバム『From Joy』を自身のレーベル〈Wild Oats〉よりリリース(今年の春には国内流通盤CDも発売)。また、ジェイ・ダニエルは近々待望のファースト・アルバムをリリースする予定とのこと。

 なお、ツアー用のイラストは、カイル・ホール『From Joy』やByron The Aquariusの12インチ「Gone Today Here Tomorrow」のアートワークを担当したMichio Jamesが手掛けている。

■ KYLE HALL (Wild Oats / from Detroit)

■ JAY DANIEL (Watusi High / Wild Oats / from Detroit)

BADBADNOTGOOD - ele-king

 トボけた顔して、最先端の音楽をやってのける、アノ4人組がまた日本にやってくる。しかも、今回はWWW Xでの単独公演だ。アノ4人組とは、もちろんバッドバッドノットグッドのこと。どこか憎みきれない、不思議なバンドである。
 8月にサマー・ソニック2016の出演のために来日したばかりの彼らであるが、単独来日公演は2014年以来の約2年ぶりだ。最新作『Ⅳ』は今のところ彼らの最高傑作であるし(これが更新される可能性は大いにある)、前回の単独公演ではまだ正式に参加していなかったリーランド・ウッティの存在は、今回の公演においての重要なポイントになるだろう。実際にサマー・ソニックのステージでは、彼のアグレッシヴなプレイが炸裂していたようで、これには期待せざるをえない。
 もっとも、バッドバッドノットグッドのメンバーでアグレッシヴなプレイをするのは、なにも彼だけではない。言ってしまえば、全員アグレッシヴそのものである。音源を聴くだけでも、彼らの勢いのあるプレイを感じることが出来るが、ライヴにおいては繊細さを犠牲にしてまでも、勢いに乗り続けるような演奏を繰り広げる。『Ⅲ』を出した頃には、まだその勢いが空回りしているような印象も否めなかったが、ここ最近のライヴ映像をチェックしてみると、荒々しさはそのままに勢いに乗り続けることを体得したことがよくわかる。おそらく、数多くのライヴをこなしてきたからだとか、リーランドの加入によってバランスが取れたからだとか、諸々の理由があるのだろうけど、そんなことはどうでもいいと思ってしまうほどの、勢いが感じられる。あえて言ってしまうならば、ライヴにおいての彼らはより「ロック」なのである。

バルセロナで開催されたソナー・フェスティバル2016でのBBNG。


 また、今回の来日公演の発表に合わせて、「スピーキング・ジェントリー」のミュージック・ビデオが公開された。この映像は、日本のクリエイティヴ・スタジオ「オッドジョブ」が制作しており、シンセ・サウンドとドラム、ベースのフレーズの絡み方がたまらなく気持ちいい楽曲に、爽やかサイケなアニメーションが手がけられている。

BADBADNOTGOOD - Speaking Gently (OFFICIAL VIDEO)


 今回の公演において気がかりなことは、彼らの演奏を爆音で聴けるのか、ということである。アレックス・ソウィンスキーのドラムと、チェスター・ハンセンのベースが生み出す走り気味のグルーヴを、全身で感じたいのだ。マット・タヴァレスのシンセと、リーランド・ウッティのサックスの音で頭をクラクラさせたいのだ。
 彼らの音を体感出来るのは、11月18日。まだ2ヶ月先ではあるが、爆音を期待しながら、時が来るのを待とう。(菅澤捷太郎)

interview with Michael Rother - ele-king


Harmonia - Musik Von Harmonia
Brain/Grönland/Pヴァイン

Krautrock

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Harmonia - Deluxe
Brain/Grönland/Pヴァイン

Krautrock

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 クラウトロック、あるいはジャーマン・エレクトロニク・ミュージックの最重要人物の一人であるミヒャエル・ローターが、去る7月末に来日公演をおこなった。
ローターは70年代初頭、結成されて間もないクラフトワークにギタリストとして短期間参加した後、同じくクラフトワークでドラムを叩いていたクラウス・ディンガーと共にノイ!を結成。“ハンマー・ビート”と呼ばれる剛直な8ビートを軸にしたパンキーなサウンドはクラウトロックの一つの象徴的モードとして、後のパンク~ニュー・ウェイヴに絶大な影響を与え、更に90年代以降のクラウトロック再発見/再評価のきっかけにもなった。
 ローターはまた、ノイ!での活動と並行してクラスター(ディーター・メビウス&ハンス・ヨアヒム・レデリウス)と共に結成したハルモニアでも活動。ポップでパンクでストレンジでアンビエントなそのエレクトロニク・サウンドは、80年代から今日に至る様々なスタイルのエレクトロニク・ミュージックに影響を与え続けている。ローターの業績に対するリスペクトを公言するミュージシャンも、古くはブライアン・イーノから近年はステレオラブやエイフェックス・ツイン、オウテカに至るまで、枚挙にいとまがない。
 ローターは、ハルモニア解散後はソロ活動に専念し、たくさんのアルバムを発表してきたが、特にここ数年、ノイ!やハルモニア時代のレパートリーを中心にしたライヴ活動が増えているのは、クラウトロックに対する若いリスナーたちの関心と評価がますます高まっている証でもある。今回の日本公演を企画したのがクラウトロックのテイストを受け継ぐ前衛ロック集団オウガ・ユー・アスホールだったことも、実に納得がゆく。ドラムのハンス・ランペ(ex.ノイ!~ラ・デュッセルドルフ)、ギターのフランツ・ベルクマン(ex.カメラ)とのトリオ編成によるそのライヴでは、ノイ!やハルモニアの名曲がふんだんに演奏され、会場につめかけた新旧クラウトロック/エレクトロニク・ミュージック・ファンたちを熱狂させた。
 おりしも『フューチャー・デイズ~クラウトロックとモダン・ドイツの構築』日本版も出たばかりというジャスト・ミートなタイミングでの本インタヴューがおこなわれたのは、東京でのライヴ直前の楽屋。時間が短かったため、ハルモニア結成あたりで話が終わってしまったのは残念だが、ほぼノーカットで、“クラウトロック大使”ミヒャエル・ローターの貴重な肉声をお届けしよう。

当時は音楽だけではなく、芸術や映画、さらに政治や社会制度でも大きな変化が起こっていた。私の成長をそのような変化と切り離すことは不可能だ。私は“変化の暴力”とでも言うべきものに強く影響されたんだよ。

近年、ライヴでノイ!やハルモニアの曲を積極的にやっているようですが、どういう理由からですか?

ミヒャエル・ローター(Michael Rother、以下MR):まずは、それらの曲を演奏することが楽しいというのが第一の理由だ。あと、音楽に対する私の考え方が昔から変わっていないというのもあるね。いや、少しずつ変わってはいるんだげど、それが円を描くように元の場所に戻っていく様子を、違った場所から眺めているとでも言うか……。私の場合、時にはより抽象的な音楽を好むし、メロディやリズムにより強い関心が向かうこともある。近年は、実験を更に重ねる必要性を感じているんだけど、オーディエンスたちは、速くリズミカルなビートを求めているように思える。まあ私も最近はそういったものも好きなんだけどね。

昔の曲を演奏してほしいというリクエストが、プロモーターやファンから直接あるんですか?

MR:ない。それはあくまでも私が決めたことだ。だけど、ノイ!やハルモニアの曲をやると告知すれば、どんな感じのショウになるのかオーディエンスたちにとってイメージしやすいよね。だから昔の曲をやるとあらかじめ発表している部分もある。

ノイ!やハルモニアは90年代以降に再評価のムーヴメントが興ったわけですが、その背景にはソニック・ユースやステレオラブのリスペクト宣言の効果もあったと思いますか?

MR:うーん、それはわからないけど(笑)……確かに、私たちは80年代には一旦忘れ去られた存在であり、90年代にはノイ!について話しているドイツのミュージシャンなんて誰もいなかった。でも、我々の音楽がCDや海賊盤によって世界中を移動した結果、ソニック・ユースやステレオラブといったバンド、あるいは『クラウトロックサンプラー』(95年)を書いたジュリアン・コープなどのミュージシャンがその音楽を聴いてくれた。特にジュリアン・コープの本は、大きな衝撃をもたらしたと思う。理由はわからないんたけど、ずっと、ドイツのジャーナリストは私たちのようなミュージシャンに対する理解がなかったし、誇りにも思ってなかった(笑)。そういう状況の中、「あなたの音楽は素晴らしい」と外部からやってきた人間に言われたわけだ。ノイ!のアルバムが2001年に〈Gronland Records〉から再発されたのは、大きな一歩になった。それら再発アルバムはそれまで以上にたくさん売れたわけで。
当時は、Eメールやウェブ・サイトなど、コミュニケイションにおいても大きな変化が見られた時期で、世界中の人々と直接連絡をとれるようになった。今や私はフェイスブックだってやっているからね。もっとも、更新にはさほど時間をかけているわけじゃないけど。たとえば東京でライヴをすることになったら、その報告をする程度で。自分の朝食にコンプレックスがあるので、それをフェイスブックに載せるなんて、とてもじゃないができない(笑)。

90年代にはステレオラブが盛んにノイ!的なサウンドをやって人気を集めたわけですが、当時、クラウス・ディンガーはそれに対して怒っていましたよね。つまり、「おれたちのサウンドが盗まれた」と思っていた。あなた自身はどう思っていましたか?

MR:友人がステレオラブのライヴに連れて行ってくれたことがあった。私はそれまで彼らを聴いたことがなかったので、演奏が始まると「あれ? これは自分の曲かな?」と思ってしまったんだ(笑)。それはそれで面白いけどね。どんなミュージシャンも情報に晒されているので、そこから影響を受けることもあるし、むしろ影響に身を任せてしまった方がいろいろと楽なこともあるとは思う。
でも、私はそうじゃないんだ。ずっと、周囲とは違うことをやりたかったし、誰かのコピーではなくオリジナルになりたかった。だから私が満足することなんて、これからも決してないと思う。他人から「君のアイディアは20年前に別のミュージシャンがやっていたよ」なんて言われた日には動揺してしまうよね(笑)。もし音楽を作るのが好きなら、その創作活動のアイディアは、「なぜ音楽を作るのか?」というところからくるべきだ。そして心や空間に漂っているメロディやリズムを拾い上げる。そういうことをしないで、誰かのモノマネをするなんてけっしてやってはいけないことだと思っている。
私が音楽を始めたのは激動の時代だったので、新しいものを作ることによって自分自身の音楽的アイデンティティを獲得するのは自然なことだったんだ。当時は音楽だけではなく、芸術や映画、さらに政治や社会制度でも大きな変化が起こっていた。私の成長をそのような変化と切り離すことは不可能だ。私は“変化の暴力”とでも言うべきものに強く影響されたんだよ。
とはいっても、私が作った音楽に誰かが反応してくれるのは率直に嬉しいものだよ。オアシスやレッド・ホット・チリ・ペッパーズのような人気バンドまで関心を持ってくれているわけだしね(笑)。その結果、ある日、ジョン・フルシアンテに会ってセッションをして、ステージにも一緒に立つことになったわけで。共演がどんな感じになるのか最初は見当もつかなかったけどね。私だって、他のミュージシャンからインスパイアされることは大歓迎だ。いつも、新しいものを作るべきだと思っているからね。


photo: 松山晋也

ジミ・ヘンドリクスやビートルズを繰り返すことはまっぴらごめんだったんだ。とにかく違うことがしたいと、いつも意識していた。

最近の若者たちが、ノイ!やハルモニアのようなプリミティヴなロック・サウンドに魅せられるのはなぜだと思いますか?

MR:それは、どうして音楽が好きなのかを尋ねるようなもので、とても難しい質問だな(笑)……でも、ちゃんと答えるなら……その楽曲がある特定の状況に結びついているものだからだと思う。私たちはゼロから物事を始めなければならなかった。音楽に対するラディカルなアプロウチをもってして、アメリカやイギリス的な構造を持つ音楽的過去から脱却する必要があった。つまり……「OK、いったん全部をぶっ壊そう。そして小さなかけらを拾い集めて、新しい方向に向かい、新しい音楽を始めよう」という具合に。ジミ・ヘンドリクスやビートルズを繰り返すことはまっぴらごめんだったんだ。とにかく違うことがしたいと、いつも意識していた。私は昔も今も、他の音楽に対しては敬意を抱いている。でもそれは私の音楽じゃない。私のラディカルさが若い人々に魅力的に映るかもしれないのは、こういった姿勢がいつの時代でも生じうるものではないからじゃないかな。
たまに「これはノイ!やハルモニアにそっくりじゃないか !?」と思う曲に出会うけど、それが先週録音されたものなのか、はたまた15年前の作品なのか知る由はない。なぜならそれは、音楽の発展の時間軸とは切り離されているものであり、私のしてきたこととは違うまったく新しい一歩だからだ。特定の時代の音楽のテイスト、さらにはファッションなどから切り離された独自性があり、新鮮に感じる……そういった曲を作る若者たちが、私の作品を聴いてくれているのは嬉しい限りだね。だいたい、自分と同世代の人間にしか音楽が届かないのは悲しいことだし。

70年代初頭にクラフトワークに加わる前、あなたはいくつかアマチュアのバンドをやっていましたよね。スピリッツ・オブ・サウンドその他。当時は主にどのような音楽をやっていたんですか?

MR:私は65年にバンド活動を始めたんだが、その頃はまだギターを始めて1年くらいしか経ってなかったし、みんながみんなイギリスの音楽に夢中になっていた。ヒーローは言うまでもなくビートルズやストーンズだったから、私たちも進んでコピーをしていた。それを2~3年続けていくうちに、自分たちが何をやっているかがわかるようになり、即興演奏をするようになったんだ。そこから自分たちのアイディアを自由に持ち込むようになり、70年代に入る頃にはかなりの変化を遂げていた。あと、サイケデリック文化の影響などもあったよね。ひとつはっきりしているのは、そこにはいつも壁があったということだ。他人の音楽やポップ・カルチャーから引用してきたアイディアをいくら使っても、その壁の向こう側へは到達できなかった。つまり、そのドアを開けるために、いったん自分たちのやっていることをやめなければならなかったというわけだ。

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私たちは、白紙を前にしてその場でいきなり描き出す画家のようなものだった。

60年代から70年代半ばにかけて、他の国と同じように西ドイツはとても政治的な時代でした。ドイツのロック・シーンにも政治に積極的にコミットしていた人々が多くいましたが、あなた自身の立場はどうでしたか?

MR:当時のミュージシャンたちに比べたら、私は若手だった。特に60年代後半なんか、どこに顔を出してもみんな年上だった。でも、その時点で私は明確な政治的意見を持っており、具体的にはヴィリー・ブラント(註:ドイツ社会民主党党首で、69~74年には西独首相)を支持していた。過去にナチス・ドイツはポーランドに侵攻したりしたわけだが、そういった歴史を乗り越えて、彼は東側の国々との和解を主張していた。ヴィリー・ブラントの前は保守政権だったが、彼らはワシントンしか見ておらず、西側の一部になろうとしていて、当然、東側は敵と見なされていた。そんな政治状況の中、ブラントは東側との協調をはかり、それが1970年の“ワルシャワでの跪き”(註:ワルシャワのユダヤ人ゲットー跡地でブラントが跪いて献花し、ナチス・ドイツ時代のユダヤ人虐殺を公式に謝罪した)につながったわけだ。
私は学校を卒業した67年、当時義務だった兵役を拒否したんだが、その際、精神的な理由で銃を握れないことを証明するために、かなり厳しいテストを受けさせられた。それは、私の発言に矛盾がないかを検査する試験官を前にして、文章を書いていくというものだった。その時、試験官と激しい口論をしたのを憶えているよ。「君の意見にはまったく説得力がないが、もう行ってよろしい」と最後に試験官は言い放った。それで兵役を逃れる代わりに、精神病院で働くことになったんだ。あの体験は、私の人生でとても重要な意味を
持っている。
また、冷戦からの影響も避けては通れない。あの当時は、戦争の悪夢をよく見たものだ。ベルリンは、文字通り分断されていたし、80年代にソ連のゴルバチョフがグラスノスチやペレストロイカを唱えるまで、本当に何が起こるかわからない状況だったから。私はハルモニア時代(70年代半ば)にドイツの片田舎のフォーストに引っ越したんだが、とても綺麗な風景が広がっていたにもかかわらず、上空では戦闘機が飛び交っていた。彼らはレーダーに映るのを避けるために、家の屋根すれすれのところを低空飛行していて、その騒音は想像を絶するものだった。ほぼ毎日だよ。それを耳にした子供たちは泣き叫び、動物たちは暴れまわり……。街には戦車が列をなしていたし。いつでも臨戦態勢なんだ。そんな時代が終わった時、本当に嬉しかった。とにかくいつも、保守政党やその政策とは対極的
なところに私の考えは位置していたんだ。

その精神病院での雑務時代に、カンやアモン・デュールが登場してきました。当時、彼らの音楽をどのように感じていましたか?

MR:当時、私のガールフレンドはカンを知っていたんだが、私は知らなかった(笑)。その後、クラフトワーク時代にカンとは何回か一緒にコンサートをやったけどね。ヤキ・リーベツァイトは素晴らしいドラマーだと思う。彼のリズムの流れが本当に大好きなんだ。他には……(笑)いずれにせよ、バンドそのものもポジティヴに捉えていたよ。ただ当時は斜に構えがちで、自分たちはカンとは違うと思っていたけどね。

クラフトワークのラルフ・ヒュッター、フローリアン・シュナイダーに初めて会った時の印象はどうでしたか?

MR:クラフトワークについても、それまでは全く知らなかったんだ。知り合いのギタリストが、クラフトワークで演奏してくれと彼らに頼まれ、私も一緒に付いて行くことになった。「どんなバンドか知らないし、変な曲だなぁ。おまけに名前は“発電所”か(笑)。まぁ、行ってみよう」くらいの軽い気持ちだった。それがきっかけで、ラルフ・ヒュッターとジャムをしながら曲を作るようになったんだ。それまで私は、あまり他のミュージシャンには共感を覚えなかったんだが、彼らは違った。自分は一人じゃないんだな、と思えた。クラウス・ディンガーはフローリアン・シュナイダーの音楽を聴いていて理解があったので、バンドに誘われたという流れだった。

ノイ!時代、そのクラウス・ディンガーとあなたの間には常に衝突があったとファンの間では言われてきました。ですが、最近日本版も出た『フューチャー・デイズ』の中で、あなたは、クラウスとは音楽的ヴィジョンが完全に一致していて、いつも同じ方向を向いていたと語っています。その共通していたものを言葉で説明することはできますか?

MR:それはとても直感的なものだ。私たちは音楽について議論することも計画を立てることもなかった。やりたいことがあったら、すぐに試していた。結果的に、お互いのやり方が好きだったし、周りにもそれが認められるようになった。そして完成したのがノイ!のファースト・アルバムだ。たとえるならば、私たちは、白紙を前にしてその場でいきなり描き出す画家のようなものだった。現代のミュージシャンたちはテクノロジーの発達もあり、簡単に準備ができまるけど、私たちは準備なんてしたことがなかった。事前に決めることといえば、「今からEメジャー・スケールの長い道を走るぞ」くらいだった(笑)。それで経過を見ながら色を足していくわけさ。作業を進めながら、今何が起こっているのか、これからどうすればいいのかがわかってくる。つまり、常に作業中の状態だった。だからこそ、コニー・プランクがノイ!のチームに加わったのは大きかった。彼には、作品に適した瞬間を捕まえる能力が備わっていたし、説明せずとも私たちがやろうとしていることを感じて理解してくれたからね。彼はどんな実験にも前向きで、私たちと同じくらいクレイジーで、クラスターやクラフトワークとの仕事も喜んでやっていた。彼がいなかったら、ノイ!の作品はありえなかったと思う。

今振り返ってみて、とりわけ際立っていたクラウス・ディンガーの才能は何だったと思いますか?

MR:私は、彼のパワフルなドラミングには強く感化された。クラウスはヤキ・リーベツァイトのように神がかった技術の持ち主ではなかったけど、彼の力強さには誰もが圧倒されていたよ。彼はマシーンのような存在で、ひとたび彼が音楽の中に投入されると、他のすべてが動き出すんだ。けれど、クラウスの先導力と決断力は、後に問題になることもあった。彼はけっして自分の見解や意図を説明しようとはしなかったからね。「なんで俺のやっていることをそのまま理解しようとしないんだ?」という具合だ。それに、私はクラウスの間違いを指摘することもできなかった。クラウスが亡くなった今、私は、彼の気難しさや意地悪なところではなく、その創造性に改めて注目するようになった。性格的には、私と彼は対極だ。クラウスは要求が強いし、あまり人を信用しなかった。そういったものが先天性なのか、両親との関係によるものなのかはわからないが、最終的には彼自身の才能の開花や私とのコンビネイションにも繋がっていった。かくして彼は、多くの人々にインスピレイションを与えるミュージシャンになったわけだ。


photo: 松山晋也

お互い影響されないことは不可能だよね。私たち3人はハルモニアの音楽を発展させることを大いに楽しんでいた。

あなたは73年の後半からクラスターの二人と一緒に本格的に演奏し始め、それはやがてハルモニアになったわけですが、彼らに初めて出会ったのはいつですか?

MR:あれは、私がクラフトワークと演奏していた71年だったね。二人がコニー・プランクと作業をしている時に知り合ったんだ。彼らの音楽を初めて聴いた時、私は希望を感じた。彼らと一緒だったら、(当時準備していた)ノイ!の曲をライヴでも演奏できるかもしれないなと思ったんだ。私とクラウスはデュオだったので、スタジオ・ワークの再現がうまくできず、サポート・メンバーを探していたんだ。それで私はギターを持って彼らの元へ行った。結果、ハルモニアは素晴らしいものになった(笑)。

あなたにとって彼らのサウンド、表現は、どういう点が特に魅力的だったんですか?

MR:まず耳を奪われたのは、『Cluster II』(72年)に入っている「Im Suden」という曲のメロディだった。(ハンス=ヨアヒム・)レデリウスによる、ギターの弦4本が奏でるリピート・フレーズの音程が素晴らしかったんだよ(笑)。それで彼らとはうまく作業ができると確信した。当時はまだギターでブルーズを弾くのが大多数であり、そういう類の音階を耳にする度に私は曲への関心を失っていた。今だってそうさ。1音でもそういうフレーズが鳴れば、「わかった、もうけっこうです」となってしまう(笑)。

レデリウスとディーター・メビウスも、かなり個性の異なるコンビですが、当時のあなたが受けた二人のキャラクターの印象はどのようなものでしたか?

MR:メビウスは前に出てくることはなく、後ろから状況を見極めるタイプだ。彼はまた、奇妙な音を追求していて、驚かせることのスペシャリストだった。レデリウスはもっとオープンで、一緒にメロディを書けるミュージシャンを探していた。レデリウスがキーボー
ドなどでメロディを反復させて、私がギターを重ね、メビウスが変な音を加える、といった形が多かったかな。
ただ、彼らのキャラクターを一言で説明するのは、とても危険だね。メビウスに関して言えば、彼と私はとても似ていると思う。亡くなる数週間前、彼は私の住むフォーストにやってきたこともあった。当時、私はハルモニアのボックス・セットの作業を進めており、メンバーの意向を確かめるためにメビウスの奥さんとレデリウスにアイディアをいろいろ送っていた。メビウスは(病気のため)ガリガリだったが、心は元気で、ユーモアも健在だった。だから彼の人柄を一言で言い表すなら、「ユーモア」を選ぶ。もちろん、私たちには違いもたくさんある。私は働くけど、彼は働きたかったことなんて一度もないはずだ(笑)。98年に、20年ぶりにメビウスからライヴに誘われた。スタジオに入り、最初の5分で機材をチェックし終えると、「じゃあ料理を始めるぞ」と彼は言った。つまり、彼は音楽で働くなんてことをしたがらなかったということだ。メビウスの才能は自発的な即興に特化していた。これははっきりしていることだが、私たちの音楽の作り方は兄弟関係のようなものだったんだ。

クラスターの二人とあなたが、互いに与えあった影響はどんなものだと思いますか?

MR:お互い影響されないことは不可能だよね。私たち3人はハルモニアの音楽を発展させることを大いに楽しんでいた。調子が良い時は、コンサートやスタジオで自発的に様々なアイディアが生まれた。あの一瞬一瞬は、3人揃って初めて生まれるものだった。ノイ!のようにスタジオのテクノロジーに依拠したものではない。3人の具体的な相互影響について語るのは、単純化してしまうかもしれないので避けたいが……ただ、私がリズムを彼らに与え、彼らはもっと抽象的な音楽へのアプロウチ方法を私に示してくれたとは言えるだろうね。

あなたは幼少期に数年間パキスタンで暮らしていましたよね。その体験は、あなたの音楽性にも深く影響しているように僕は感じているんですが、どうですか?

MR:その結びつきを明確にすることは難しいが……当時聴いた音楽はとても印象的だったね。単調だが魔術的で、どこで始まってどこで終わるのかがわからないエンドレスな音楽だった。路上で演奏していたバンドのことを今でもよく憶えている。けっしてヘビ使いの笛のようなものではなく(笑)、とても反復の多い音楽だったから、ノイ!の「Hallogallo」のような曲と直接的ではないけど、つながりがなくはないだろうね。私は今でもインドやパキスタンの音楽は好きだ。

あなたは猫も好きですよね。『Katzenmusik』(79年)というソロ・アルバムもあるし。猫のどういうところが好きですか?

MR:猫はミステリアスでインディペンデント、そして美しい。あと、猫は自分が友達になると決めた相手としか友達にならない。無理やり友達にならせることは不可能なんだよね。飼い主を尊敬してくれる犬とはまったく違う。そういう点に惹かれるんだ。

自分の音楽と猫に共通点があると思いますか?

MR:見当もつかないな(笑)。ただ、さっき君が言った『Katzenmusik』、あれはもちろん猫への愛から生まれた作品だ。少なくとも、猫はたくさんのインスピレイションを私に与えてくれる存在ではある。隣にいるとリラックスもできるしね。

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