「KING」と一致するもの

石田昌隆『JAMAICA 1982』 - ele-king

 『JAMAICA 1982』は、『ミュージック・マガジン』などで活躍中の写真家・ライターの石田昌隆の写真集。タイトルにあるように、1982年のジャマイカ(の主に音楽シーン)をとらえたもので、同年の7月7日から8月25日までの53日間滞在して撮影した写真が編まれている。サウンドシステム、スラム街、レコード店、ナイヤビンギ、人々……写真を見ているとベースの音が聞こえてくる。ハーブの香りも匂ってくる。この時期のジャマイカの音楽シーンの写真としては、世界的にみても貴重なものばかりじゃないだろうか。石田さんの撮り方/構図がじつにキマっているので、どの写真も格好良すぎるほど格好いい。石田さんの目には、ジャマイカがこのぐらい格好良く見えていたんだろう。貧しい、しかしこいつらは絶対に格好いい。なんにせよ、これで石田さんが見てきた風景のいちぶをぼくたちも共有できる。まったく嬉しい限り。発売は7月6日。石井志津男さんのオーヴァーヒートからのリリース。
 写真集の刊行に併せて、原宿のBOOKMARCにて写真展も開催される。この機会にぜひ、迫力満点の生の写真も見て欲しい。

【写真集】
■タイトル:JAMAICA 1982
■著者 :石田 昌隆
■ページ:64ページ(全フルカラー)
■サイズ:A4横開き(210mm×297mm)
■発売日:2018年7月6日
■定価:3,800円(税別)
■品番:OVEB-0004
■ISBN:978-4-86239-831-4
■発行:(株)OVERHEAT MUSIC / Riddim Books


【写真展】
■会場:BOOKMARC(ブックマーク)
東京都渋谷区神宮前4-26-14
TEL:03-5412-0351
■会期:2018年7月7日(土)~16日(月・祝)
・7月6日(金) オープニング・レセプション
・7月15日(日) トークショー


【石田 昌隆(いしだ まさたか)/ PHOTOGRAPHER】
著書に、『黒いグルーヴ』(1999年)、『オルタナティヴ・ミュージック』(2009年)、『ソウル・フラワー・ユニオン 解き放つ唄の轍』(2014年)がある。現在、アルテス電子版で『音のある遠景』を連載中。撮影したCDジャケットに、矢沢永吉『The Original 2』(1993年)、フェイ・ウォン『ザ・ベスト・オブ・ベスト』(1999年)、ソウル・フラワー・ユニオン『ウインズ・フェアグラウンド』(1999年)、『Relaxin‘ With Lovers』(2000~2018年 全15作品)、ジェーン・バーキン、タラフ・ドゥ・ハイドゥークス、ヌスラット・ファテ・アリ・ハーン、ズボンズ、カーネーション、濱口祐自、LIKKLE MAIほか多数。旅した国は56カ国。

【写真展 会場/BOOKMARC(ブックマーク)】
ニューヨーク発のファッションブランド「マーク ジェイコブス」が手がける新感覚ブックストア。
2010年9月にNYのBleecker Streetに第1号店をオープン。世界5店舗目となるストアとして、2013年10月、 東京・原宿にギャラリーを併設したストアをオープン。
『BOOKMARC』を作るきっかけとなったのはNYのWest Villageにあった本屋が閉店するニュースでした。
デザイナーであるマーク・ジェイコブス本人やブランドのCo-Founderであるロバート・ダフィーは共に本に 対して並々ならぬ情熱を持っており、元々マーク BY マーク ジェイコブスのストアでは厳選された本を 取り扱っていたが、West Villageのその本屋をありのまま引き継ぎ、本のバリエーションを増やすことで、マーク ジェイコブス ブランドのインスピレーション源を表現する新しい顔をつくることに成功した。そして、 『BOOKMARC』は、アートに関する書籍を中心として取り扱う小さな本屋の新規開店が少なくなった昨今、実際に本を手に取り、書籍の素晴らしさを再認識し、その場で購入できる場所を提供したいという願いが込められている。
『BOOKMARC』では芸術、写真、ファッションや音楽に関する書籍は勿論のこと、詩集や芸術論に至るまで、様々なジャンルの厳選された書籍を取り扱っている。またコレクターたちを虜にするヴィンテージ本やサイン本も多数揃えている。

住所:東京都渋谷区神宮前4-26-14 TEL:03-5412-0351
営業時間:11:00~20:00 定休日:不定休
ギャラリー併設:BOOKMARCの地下スペース


interview with Grimm Grimm - ele-king


Grimm Grimm - Cliffhanger
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 マイ・ブラッディ・ヴァレンタインの頭脳、ケヴィン・シールズが彼の元恋人シャルロット・マリオンヌ(ル・ヴォリューム・クールブ)とともに設立したレーベル〈Pickpocket〉からデビューを果たし、いまはなきインディー・ロックの祭典《All Tomorrow's Parties》には2度も出演、その〈ATP〉レーベルからも音源をリリースしたことのある日本人がいるのをご存じだろうか。ある種の人にとっては、嫉妬すら覚えるような輝かしい経歴を持つ彼は、東京出身・ロンドン在住のマルチ・インストゥルメンタリスト、Grimm Grimmことコウイチ・ヤマノハ。彼の通算2枚目のアルバム『Cliffhanger』がリリースされた。

 前作『Hazy Eyes Maybe』よりおよそ2年半ぶりとなる本作は、ウィリアム・S・バロウズのカットアップ技法を彷彿とさせる散文詩や、いまにも消え入りそうなウィスパー・ヴォイス、童謡やバロックなどにも通じるどこか懐かしいメロディ、アコギやピアノによるシンプルなトラックによって構成された、フォーキーでサイケデリックなサウンド。前作に引き続き、盟友BO NINGENのKohei Matsudaが参加しシンセを奏でている他、様々なライヴやイベントで共演を重ねているシャルロットや、エクスペリメンタル・バンド、ブルー・オン・ブルーのディー・サダもヴォーカリストとしてフィーチャーするなど、前作よりもさらに深みのある内容に仕上がっている。

 ロンドンに移住してすぐ、スクリーミング・ティー・パーティーなるバンドを結成し、その後ソロでの活動を始めたヤマノハ。彼の生み出す、どこの国のどの時代の音ともいえないサウンドは、一体どこから来ているのだろうか。

ときどき、「人と人は、深いところでは繋がっているな」と思うことがあるんです。「無意識の領域」というか、そこにはポジティヴでもなくネガティヴでもない、ニュートラルな感情がある。

まずは、ヤマノハさんがイギリスへ移住した理由を教えてもらえますか?

コウイチ・ヤマノハ(以下ヤマノハ):特に理由はありませんでした。イギリスの音楽が好きだったというワケでもなくて、ただちょっと日本が窮屈だなと思うことはあったんですけど、でもそれも理由でもないから「何となく」っていう感じですかね。ただ、こっちでは音楽はやろうと思っていました。

かれこれ10年以上、暮らしているんですよね。こんなに長く住むと思っていました?

ヤマノハ:いや、思ってなかったですね。2年くらいしたら住む場所を変えるつもりだったのに、気づけばこんなに経ってしまいました(笑)。ロンドンって、やっぱりちょっとイギリスじゃない感じがあって。コスモポリタンというか、多国籍空間で、変人も多いですし(笑)。何年いても不思議で。ここ10年くらいでテレーサ・メイみたいな右翼政府に変わってきているっていうのもあって、いまだに自分はエイリアンだなと感じます。そういうところは東京と似ているのかもしれないけど、ロンドンの方が僕にとっては居心地が良かったんですよね。

ロンドンで最初に結成したバンド、スクリーミング・ティー・パーティーは、どうやって始まったのですか?

ヤマノハ:ロンドンに着いて、割とすぐにドラマーとベーシストを探していたんです。街のあちこちの壁や電柱にメンバー募集の紙を貼ったりして。で、たまたま通りかかったスタジオの前に女の子がいて、ドラムケースの上に座ってたんですよ。「彼女、ひょっとしてドラマーかな?」と思いつつ一度は通り過ぎたんですけど、戻って声をかけたらやっぱりドラマーで(笑)。たったいま、ドラマーをクビになって、ドラムセットを家に持ち帰るところだって言うんですね。それで、その場で仲良くなったのが最初のドラマー、イタリア人のテレーサ・コラモナコだったんです。もうひとり、日本にいるときからの友人ニイヤンがロンドンに来て。彼はギタリストだったので、僕がベースをやることにして3人でスタジオに入ったのが、スクリーミング・ティー・パーティーの始まりですね。

バンドは2006年から2010年まで活動し、その間メンバーチェンジもありつつ3枚のシングル(「Between Air and Air」「Holy Disaster」「I'd Rather Be Stuck On The Stair Rail」)と2枚のミニ・アルバム(『Death Egg』『Golden Blue』)をリリースしています。バンド解散後は、ヤマノハさんはすぐソロ活動を始めたのですか?

ヤマノハ:いや、そこから3年くらい空きました。その間はずっと作曲やフィールド・レコーディングにハマっていて、ヨーロッパの古い建物や廃墟へよく行ってましたね。で、あるときベルリン西部にある廃墟でふとGrimm Grimmのコンセプトを思いついたんです。その頃はすでに曲を書きためていて、それをどういう形にするかを思いついた。言葉で言うのは難しいんですけど……うーん、懐かしい感じ? 死ぬときや、生まれる時の感じというか。ときどき、「人と人は、深いところでは繋がっているな」と思うことがあるんです。「無意識の領域」というか、そこにはポジティヴでもなくネガティヴでもない、ニュートラルな感情がある。基本的に僕は、ハッピーな音楽を作りたいと思う人間なのですが(笑)、そういう「無意識の領域」を想起させるような音楽が作りたいんですよね。

確かに、Grimm Grimmの音楽を聴いていると「懐かしさ」みたいな感情をかき立てられるのですが、それって日本人だからこそ感じるものなのでしょうか。イギリスの人には、ヤマノハさんの音楽はどう受け止められていますか?

ヤマノハ:「懐かしさ」といっても、いわゆる「ノスタルジー」とは少し違うと思っていて。さっきの「生と死」じゃないですけど、過去と未来が繋がっているような感じというか。そこを目指しているんですが、海外でも伝わる人には伝わっているなと感じますね。

いまっぽい音でも、昔懐かしい音でもなく、どこの時代の音楽かも分からないような、そういうサウンドを目指しているのでしょうかね。

ヤマノハ:そうですね。いまある音楽を否定したり、無視したりするつもりは全然ないのですが、時代感のない、タイムレスなメロディやサウンドに個人的には惹かれます。今回ミックスをしてくれたベルリン在住のミュージシャン、エンジニアのゴー君(Nakada Goh;ケヴィン・マーティンのThe Bugのサウンド・エンジニア)は古い友人で、ミックスをする時は1曲ごとに、例えば「視聴覚室で吹奏楽部が練習しているのが遠くから聞こえる学校感」とか「海辺の病院」とか、アンビエントの雰囲気や想像の場所を伝えてサウンドを決めていきました。

歩いていたら、ケヴィン(・シールズ)がいつもお金をあげてるホームレスたちが目的地のケバブ屋までついてきちゃった、ということがありました(笑)。一度に20ポンド(2800円)くらい平気であげちゃうから、みんな顔を覚えてるんですよ。

そもそも、曲作りをする上でヤマノハさんが影響を受けた人というと、誰になるのですか?

ヤマノハ:ここ5年くらいは、未来派の絵画などに刺激をもらっていると思うんですけど、音楽でいうと誰なんだろう。うーん、わかんないですね。ムーンドッグとかはいまでもよく聴いてます。あとはヴァシティ・バニアンとかの曲にあるメロディの永遠性に惹かれます。サイケフォークとか、そういうステレオタイプの定義ではなくて、なんというかどんなジャンルの音楽やコメディや建物や椅子でさえも、生死感が根底にうっすらあるものに影響を受けます。

童謡や、バロック音楽の影響もあるような気がします。

ヤマノハ:グレン・グールドが弾く、オルガンのバッハとかは昔から好きですね。あの「建築感」というか。それこそ過去と現在と未来が繋がっているような気がしますね。

2014年の夏には〈Pickpocket Records〉(マイ・ブラッディ・ヴァレンタインのケヴィン・シールズと、ル・ヴォリューム・クールブのシャルロット・マリオンヌが共同設立したレーベル)からシングルをリリースしていますよね。彼らとの出会いは?

ヤマノハ:元々僕は、シャルロットがやっているル・ヴォリューム・クールブが好きだったんですね。ロンドンに着いて、初めて友人に借りたCDが彼女のファーストで。「ベスト・フレンドを殺した」というタイトルの作品でした。それから7年ほど経ったとき、偶然入った近所の中古レコード屋で彼女が店員をしていて。それで話しかけたのがきっかけとなって仲良くなったんです。ケヴィンは、シャルロットに紹介されて知り合いました。みんな、イメージと違ってとても気さくな人たちです。

もうすぐMBVの活動が再開されますが、最近ケヴィンには会いました?

ヤマノハ:ひと月くらい前に、ダイナソーJr.がロンドンでライヴをやって、もともとJとケヴィンは兄弟みたいに仲が良くて、そのときに誘ってくれました。終演後、シャルロットも含めみんなでご飯を食べに行くことになって。カムデン・タウンを歩いていたら、ケヴィンがいつもお金をあげてるホームレスたちが目的地のケバブ屋までついてきちゃった、ということがありました(笑)。一度に20ポンド(2800円)くらい平気であげちゃうから、みんな顔を覚えてるんですよ。あ、ミュージシャンやってるケヴィンだ! って。

ケヴィンらしいエピソードですね(笑)。Grimm Grimmは、2015年と2016年の《All Tomorrow's Parties Iceland》にも出演していますよね。

ヤマノハ:はい。バリー・ホーガン(ATP主催者)は、たまたま飲みに行ったバーのカウンターで隣どうしになって。話してみたら、友人の友人だったりして、結構見えないところにある横のつながりに気づいたりしますね。ATPは問題児の集まりみたいな(笑)。子供がそのまま大人になったみたいな人たちばかりで、そういうところが好きでしたね。もちろん、ビジネスなんだけど、それを超えたところでやっているというか。そういう人たちは、会った瞬間に分かりますね。「この人とは仲良くなれそうだな」っていうのは、シャルロットにもケヴィンにもバリーにも、〈Stolen Recordings〉(スクリーミング・ティー・パーティーが所属していたレーベル)の人たちにも感じました。

Grimm Grimmとル・ヴォリューム・クールブは、よく一緒にイベントをやっているみたいですね。

ヤマノハ:ええ。ここ数年でシャルロットとは親友になって、ル・ヴォリューム・クールブ VS Grimm Grimmというユニットでお互いの曲を演奏しあうプロジェクトもしています。彼女は交友関係が広くて、特に90年代のいろんなミュージシャンと繋がることができました。10代のときに聴いていたマジー・スターのホープ・サンドヴァルや、ジーザス・アンド・メリーチェインの人たちとか。アラン・マッギー。刺激を受けることもたくさんあります。

彼女はいま、ノエル・ギャラガーと一緒にツアー回っているんですよね?

ヤマノハ:そう! あれは本当にビックリしましたね(笑)。ノエルのプロデューサー、デヴィッド・ホルムズがシャルロットの友人でもあり、それが縁で参加することになったみたいです。彼女は特に楽器が上手いわけでもなくて、主にコーラスとして参加することになったんですね。でも、「何かしら弾けた方がいいよね」っていう話になって、僕のところに相談に来たんです。「どうしよう?」って。それで、「ハサミの音で参加するのはどう?」って提案したんですよ。

(笑)。

ヤマノハ:僕は、ハサミの音が前からすごく好きだったので、パーカッション代わりに使ったらどうだろう? と思って。最初シャルロットは「ええ? ハサミ?」っていうリアクションだったけど、結局ライヴでやることになって。そしたら映像としてもハサミと女の人で、黒いオカルトっぽくてインパクトあるじゃないですか(笑)。一気に話題になって。ジュールズ・ホランドに出演したのが大きかったのかな(https://www.youtube.com/watch?v=iwV1lKNA0wU)。あれで炎上しちゃったんですよね。

リアム・ギャラガーも苛ついてましたよね(笑)。

ヤマノハ:いろいろと大変だったみたいですよ。オアシスのフーリガンみたいなファンから脅迫メールが来たりして。「ちゃんと楽器を弾きやがれ!」とか。ちょっと変わった子っぽく映っちゃったからか、風貌を中傷するような書き込みとかもあって。彼女自身は全く気にしてなくて、いまの状況を楽しんでますけどね。

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自分を含め周りにいる人たちの人生は、崖にぶら下がっているみたいだなって思ったところからですね(笑)。あと、崖からぶら下がっているような、クライマックスのいちばんいいところで「来週に続く」みたいに終わることを「cliffhanger」というらしくて。


Grimm Grimm - Cliffhanger
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それを聞いて安心しました。さて、Grimm Grimmの最新作『Cliffhanger』ですが、こちらはどのようにして生み出されたのですか?

ヤマノハ:アルバムは、この2、3年いろんなことがあったのとリンクしている部分はある気がします。親しかった友人が亡くなったり、生死をいままで以上に身近に感じました。それについて書いた曲がタイトル曲なのですが、そこからアルバムの構想が膨らんでいきました。それと今回は「いままでで以上に正直に作ろう」と思いました。前作よりも、 自分のいちばん弱い部分が剥き出しになって、結果的に張り詰めた雰囲気が出たというか。音数もだいぶ少なくなっているんですけど、「引き算」で音楽を作っていくのが楽しかったですね。

アルバム・タイトルはどこから来ていますか?

ヤマノハ:さっきの話じゃないですが、自分を含め周りにいる人たちの人生は、崖にぶら下がっているみたいだなって思ったところからですね(笑)。まあ、半分ジョークですが。あと、海外では映画のシリーズものとかで、崖からぶら下がっているような、クライマックスのいちばんいいところで「来週に続く」みたいに終わることを「cliffhanger」というらしくて。60年代に生まれた言葉で、それとかかっているのも面白いなと思いました。

ヤマノハさんは崖からぶら下がっているような人生ですか?(笑)

ヤマノハ:(笑)。きっと多かれ少なかれ、みんなそう感じるときはあるんじゃないかなと思います。もがいたり足掻いたりしながら誰もが生きていると思うし。「苦難があってこその人生」という風に、ポジティヴに受け止めて生きた方がいいんじゃないですかね。例えば、人生において不安はつきものだと思うんですけど、僕は「不安」はいいことだと思っていて。それを乗り越える力があれば、それこそ幸せだなと思うんです。

心強い言葉です。ちなみにタイトル曲は、ディー・サダという女性ヴォーカルをフィーチャーしています。

ヤマノハ:その曲は、いろいろとアレンジを試しながら何度かレコーディングしてみたんですが、なんか上手くいかなくて。ディーにヴォーカルをお願いして、歌とアコギだけのアレンジにしたらいい感じになったんです。彼女はブルー・オン・ブルーという、ロンドンのエクスペリメンタル・バンドに所属するネパール系女性ミュージシャンです。友人でもあるのですが、彼女の声が僕はすごく好きなんですよね。

ほんと、ジュディ・シルの未発表曲みたいな美しさがありますよね。

ヤマノハ:嬉しいです。このメロディが、頭のなかでずっと繰り返し流れていて、それを携帯のボイスメモに録っておいて後から歌詞を付けました。難しかったのは、普通にアレンジしたらポップになり過ぎてしまう曲だったこと。自分のなかにも、そういう邪念というか(笑)、「サビでもっと盛り上げて……」みたいなポップスの定石を、ついつい踏襲したくなる。悪魔のささやきですね。でも、何度か試しているうちに「あ、これ全部要らないや」と気づき、それでナイロン・ギターと歌だけにしたんです。

来日したとき、ライヴでも披露していた“Final World War”は、スクリーミング・ティー・パーティー時代にリリースした曲なんですよね?

ヤマノハ:この曲は、演奏しているうちに自分のなかで意味が変わってきたというか。最初に作ったときは「世界が滅亡して、それでもまだ流れている音楽」というイメージだったんですね。あるいは「事故で大破した車のカーステから流れている音楽」というか。ほんと、タイトル通り「世界最終戦争」という感じだったんですけど、いまは演奏していると、「最後の戦争が終わって、平和な世界が訪れるように生きる」というポジティヴな光景が目に浮かんでくるようになった。なので今回は、その解釈でレコーディングしたいなと思ったんです。

廃墟というとネガティヴな印象を持つ人もいると思うんですけど、僕のなかではポジティヴなイメージ。朽ちたままそこに存在している姿に、恋してしまったようなドキドキする感情を掻き立てられるんですよね。

そういう、ヤマノハさんの気持ちの変化はなぜ訪れたんでしょう。

ヤマノハ:特に何か、大きなキッカケがあったわけじゃないんですけどね。生きていく上で、ポジティヴに考えなければどうしようもないときってあるじゃないですか。新聞でやりきれない悲しいニュースとか読んだりしていて、そう感じることが多くなってきたのかもしれないですね。ただ、いまだにあの曲をやり続けている意味は、自分でもよく分からないんですよね(笑)。まあ、気に入ってる曲なんだと思います。演奏していて、気持ちがニュートラルになるというか。

もう1曲、スクリーミング・ティー・パーティー時代の“Shayou”も収録されています。これって、太宰治の『斜陽』と関係あります?

ヤマノハ:よく言われるんですけど、恥ずかしながらその本のこと知らなかったんですよ(笑)。最近まで読んだことがなかったんですけど、日本人の友人が帰国するときに本をたくさんくれて、そのなかに『斜陽』もあって読みました。ただこの曲は、ブダペストの工業地帯にある廃墟へ行ったとき、朽ちた建物の隙間から太陽光線がバーっと降っていて、その光景を見たときに思いついたものです。

お話を聞いていると、ヤマノハさんにとって「廃墟」はインスピレーションの源ようですよね?

ヤマノハ:そうかもしれない。廃墟というとネガティヴな印象を持つ人もいると思うんですけど、僕のなかではポジティヴなイメージ。朽ちたままそこに存在している姿に、恋してしまったようなドキドキする感情を掻き立てられるんですよね。ロンドン東部にカナリー・ワーフという、ウォーターフロント再開発地域があるんですけど、妙な未来感があってそこを歩いていていてもなぜか同じ気分になります。巨大建築物ってなんか切なくて。

ひとつとして同じ形のものはないですしね。人工的な建築物が、朽ちて自然と同化していく感じも好きです。

ヤマノハ:そう。他の惑星の生物のことを思ったりしますね。もっとわかりやすく言えば、廃墟は『天空の城ラピュタ』みたいな感じかな。

“Shayou”のシンセは、Bo NingenのKohhei Matsudaさんが弾いているんですよね。

ヤマノハ:はい。隣の部屋に住む彼に来てもらって(笑)、同じシンセを2台並べて一緒に弾きました。試し録りをそのまま使っています。イメージとしては、「小学校の屋上」みたいな感じ……(笑)? なんか小学校の屋上って、なんとも言えない無機質で巨大な非日常感があったと思うんです。あまり頻繁には行かないし。晴れた空が広がる、永遠に終わらない真っ青な空間というか。言葉にならない異世界感というか。

“Hybrid Moments”は、アメリカのホラー・パンク・バンド、ミスフィッツのアコースティック・カヴァーです。Grimm Grimmでは、カヴァーって他にもやりますか?

ヤマノハ:たまに。森田童子の歌や“ムーン・リヴァー”をやってます。そういえば森田さん、亡くなっちゃいましたね。日本に住んでいるときによく聴いている時期があって、童子好きが集まるイベントに出たことがあるんです。「森田童子の曲を演奏する」という内容だったのだけど、そのときに、ものすごく彼女に似ている声の人がいたんです。異様に張り詰めた雰囲気がある人で「あれは一体誰だったんだろう」って言い合っていたんですけど、どうやら本人だったらしく。

ええ?

ヤマノハ:そうなんです。名前も変えて。で、みんなが気がついたときには、すでにいなくなってた。後日手紙が送られてきて、「いま、童子は横にいます」と書いてあった。超現実的で、白昼夢のような体験でした。

不思議な体験ですね……。でも確かに、Grimm Grimmと森田童子のメロディには、どことなく通じるものがある気がします。前作『Hazy Eyes Maybe』に収録されていた“Kazega Fuitara Sayonara”とか。

ヤマノハ:あ、本当ですか。童子の歌って、飲み屋とかバーで流れたら、それまで賑やかだった場がしんと静まりかえってしまうような、空気を一変させる力がありますよね。そこが僕はとても好きです。歌詞の世界も、根本的というか。恋愛だけじゃない精神世界的な何かがあって。

ところでヤマノハさんは、歌詞でどんなことを書きたいですか?

ヤマノハ:10代の頃って英詞の内容がわからないまま音楽聴いていて。いま思うと、英詩とかを日本語にするっていう翻訳の作業は、本当のところ繊細すぎてほとんど不可能みたいなことだと思うんです。その若干間違った歌詞翻訳を読んだりして、辻褄の合わない雰囲気、距離感に影響を受けました。僕は、歌詞の内容より音の響きや音質の方にプライオリティがあって。歌詞は散文詩じゃないですけど、1行ずつ考えていくので繋げたときに意味がなくなることも多いんですね。それでも、メロディと一緒に聴いたときに何かイメージが想起されればそれでいい。そういう歌詞の方が、聴き手のイメージが限定されず、いろいろと湧いてきたりすると思うんですよね。

ウィリアム・S・バロウズのカットアップという技法に似ている部分があります。“Orange Coloured Everywhere”の、ナレーションみたいな声は?

ヤマノハ:タイトル曲でゲスト参加してくれたディーや、友人たちに喋ってもらいました。もともとこれは、デイジー・ディッキンソンという映像作家の『Blue But Pale Blue』という短編映画の作品のために作った曲なんです。

シャルロットが参加している“Si”は、日本語の「死」という意味?

ヤマノハ:いえ、フランス語で「if」という意味です。シャルロットと会って、一緒に作った曲なんですが、僕がメロディを考え、彼女が歌詞を付けてくれました。

今後はどんな活動展開を考えていますか?

ヤマノハ:7月にジュネーヴにあるCERN(セルン)という欧州合同原子核研究機関でライヴをする予定があります。スティーヴン・W・ホーキング博士が「ビッグバン・セオリー」を研究していた巨大なドームで、普段滅多に演奏できるところではないのですごく楽しみです。メンバーと一緒にドラムマシンやシンセを使って取り組んでいて。そこからインスピレーションを受けながらアルバムの準備をしています、いまはドラムマシンで曲を作っていますね。

へえ、じゃあまた違った雰囲気の作品になるかもしれないですね。

ヤマノハ:最終的には、今作よりももっと削ぎ落としたものになるかもしれないですけど。逆にチェロやホーンを入れたり、いろんなことができたらいいなと思案中です。いずれにせよベーシックな作曲の部分は変わらないと思いますね。

編集後記(2018年6月29日) - ele-king

 こんな最悪な週末も珍しい。土曜日である。ぼくは玄関の水槽の砂利のなかに貯まった汚物(餌の食べ残しであるとか糞であるとか)を吸い取って、カルキを抜いた新しい水を入れ替えようとしていた。貧乏なクセに多趣味の自分は、つりも好きで、子供といっしょによく多摩川に行って魚やエビを採ってくるのだが、それら魚やエビの何匹かが家の水槽のなかにいるというわけだ。
 ろ過装置をつけているとはいえ、水槽の水は定期的に入れ替えなければならない。家にはアクアリスト専用の汚物を吸い取るポンプ(灯油を入れるときに使うポンプに近い)があり、それを使ってまずはバケツに汚い水を溜める。それを洗面所に捨ててから新しい水を水槽に入れるのだが、その日もいつもと同じようにいっぱいになったバケツを持って、玄関から廊下を水がこぼれないように慎重に歩いていた。で、一歩、二歩、三歩進んだそのときだった。突如バケツの取っ手が折れたのである。バケツは落下し、悪臭漂う水は勢いよくその場にぶちまかれたのだった。
 血の気が引いたとはこのことで、廊下の壁に設置してるCD棚の下の方はもちろん濡れている。が、このときはCDどころではない。まずは大量にぶちまかれた汚水をどうやって家のなかから出せばいいのだろうかと、途方に暮れた。
 これから先の展開は、あまりにも生々しい家族の話になるので止めておくけれど、その最悪な週末は波乱に満ちた今週の不吉な前兆だったのかも……なんてことはないのだろうが、しかし。

 日本とポーランドの試合後の居心地の悪さは、そのルールがイエローカードの枚数に起因することにあるのだろう。たとえば、人生においてイエローカードの枚数が多い人が、ある場面において蹴落とされるとしたら、決して気持ち良いの社会とは言えない。そもそもイエローカード自体が相対的なものだ。基準は審判や試合の流れにもよるし、フットボールにおいて、場合によっては味方にとっての勇敢なプレイに対する証ともなる。試合中、審判に激しく抗議してもカードは出されるわけだが、そんな役回りを絶対権力を行使する死刑執行人だと皮肉ったのはウルグアイの作家、エドゥアルド・ガレアーノである。そんな訳で、カードの枚数の少なさをもって勝負に出たアキラ・ニシノが世界中からブーイングされるのは当たり前であり、そうであって良かったとさえ思う。イエローカードの枚数が順位を決する世界など、ぼくも見たくはない。
 しかし指揮官という立場のアキラ・ニシノは、ただがむしゃらに、自分のチームが決勝トーナメントに進める可能性の高いほうに賭けたわけで、昔からグループリーグのことに最終戦は、がちんこの真剣勝負ではなく、露骨な時間稼ぎや体力温存の塩試合、次戦の対戦相手を見据えた打算的な試合なんかはあるものなので、そういう意味ではやることをやったまでのことと言えるのだけれど、今回の場合はそれが意味してしまうところが悪かった。ぼくは明らかにイエローカードの多い人生を歩んでいる。素直に喜べるわけがない。

 それでは最後にフットボールのための最高の音楽を紹介しよう。フットボール・ファンでもあるマイケル・ナイマン(ジム・オルークが若い頃に影響されたという本の著者でもありますね)の1996年の作品、『After Extra Time』。タイトルは「延長戦の末」にという意味。さて、いよいよ決勝トーナメントがはじまるぞ!

interview with Laetitia Sadier (Stereolab) - ele-king


Laetitia Sadier Source Ensemble
Find Me Finding You

Drag City

Amazon

 Initially emerging as a curiously conceptial bubblegum pop tangent from the shoegaze scene, Stereolab throughout their career embodied a series of tensions – between accessible and experimental, complex and grindingly simple, personal and political. Their music was never purely bubblegum: it had to be John Cage Bubblegum, it was never purely avant-garde: it had to be Avant-Garde AOR.
Stereolab’s roots lie in guitarist/main songwriter Tim Gane and lead vocalist/lyricist Laetitia Sadier’s time with jangly indiepop band McCarthy, with whom Stereolab shared similary explicit leftwing politics.
However, where McCarthy’s lyrics were typically sarcastic dissections of the absurdities of contemporary political life, Stereolab’s politics tended to be more reflective and even romantic, revelling in their own uncertainty, feeling out the relationship between self and society with less confidence and more innocent curiosity.
Their early records were infused with a gushing enthusiasm for the motorik rhythms of Neu!, which they then filled out with organ drones, and it’s probably fair to say that, along with Julian Cope, Stereolab were in large part responsible for the UK music scene’s rediscovery of Krautrock in the 1990s. However, from around 1994’s Mars Audiac Quintet, and more explicitly on 1996’s Emperor Tomato Ketchup, the band’s sonic palette broadened considerably, incorporating influences from ‘60s film soundtracks, French pop, jazz and a more sophisticated use of electronic elements.
Through all these mutations, the group’s unique and instantly recognisable sonic identity was Laetitia Sadier’s vocals, which simultaneously embodied a cool detachment and an unaffected romanticism. Sadier’s vocal foil for much of the ’90s was keyboard player Mary Hansen, and the interplay between the two singers helped to define the group up until Hanson's death in a road accident in 2002. Their combination of deadpan delivery and breezy “ba-ba-ba”s reflected a broader dynamic within the band’s music between pop’s desire to give you everything all at once and an avant-garde wariness of making things too easy.
From the start, Stereolab infuriated the UK music press with cryptic song titles and obscure puns alongside what seemed like a contrarian insistence that what they were doing was pop. And it was pop in the sense that, at its heart, Stereolab’s music was generally simple and melodic, drawing on familiar chords and rhythms – the song Transona Five was built around the instantly recognisable beat of Canned Heat’s On The Road Again, for example.
It also reflected a punkish rejection of the grownup world and a love of childish thrills. It’s there explicitly in song titles like We’re Not Adult Orientated, but also in the dadaist delight in nonsense that led to them describing the tracks on Transient Random-Noise Bursts With Announcements with gnomic nuggets of hi-fi wisdom like “subjective white noise” and sci-fi surrealism like “underwater aztec”.
In some ways, Stereolab were like a precociously smart teenager experiencing first love: so keen for you to like them, but always holding something back; complicating every simple expression of their feelings, but also underscoring every attempt to be cool and aloof with something disarmingly honest.
In the end though, perhaps the band themselves were always their own best reviewers, so it may be best to leave the last words to them:
“Constantly evolving, curious / Sombre, obscure, dark and luminous / Vitriolic, stringent, prophetic.”

Yeah, and I think that’s the beauty of pop: that it is this simple, conservative structure that lends itself perfectly to being disturbed and disrupted.

IAN:
Since this issue of the magazine is focused on avant-pop, I’m interested in how you feel about that term. With me, I find that I use it a lot without ever really thinking about what it means. It’s certainly a term that has often been used to describe Stereolab, but was it a term you ever felt comfortable with?

LAETITIA:
Well, as you know, artists don’t like to be pigeonholed in any way, so no term would suit. But if I were to choose one, this would actually be quite legitimate, because there were strong pop references in our music, and it was our structure for a lot of what we were doing. And there was an immense liberty between a verse and a chorus, where Tim might want to try out some ideas, so there would be these “avant” ideas perhaps between parts four and seven of track three on the album. That’s how I understand the “avant” in “avant-pop” – it’s taking liberties and being free to explore inbetween a rather simple structure, without our music being “avant-garde” strictly speaking.

IAN:
It also seems to me that the term “avant-pop” embodies a contradiction. There’s something fundamentally conservative about pop, in that it’s music that wants you to feel comfortable in how you already are, whereas the avant-garde is about taking you out of your comfort zone.

LAETITIA:
Yeah, and I think that’s the beauty of pop: that it is this simple, conservative structure that lends itself perfectly to being disturbed and disrupted. I think The Beach Boys were masters of hiding an incredible amount of complexity and even darkness beneath something that on the surface is so shiny and friendly – when inside it’s just plain weird! So in that regard pop can be very subversive and can be a danger to society! (Laughs)

IAN:
You mention about the the importance of simplicity, and I remember reading something that Tim said about how a lot of the simplicity and minimalism of early Stereolab was dictated to a large degree by your own limitations as musicians.

LAETITIA:
Yeah. Indeed, you have what you have, and you have to work with that. In a sense it’s more liberating to accept the physical limitations. It’s much more hindering to have too many possibilities and have to narrow it down rather than have a much more narrow terrain to work with and think, “How do we exploit this bit of land here and how do we extract the gems?” There was a fair amount of limitations because we were not schooled musicians. But the aim wasn’t to be virtuosos, and I guess that’s also part of the pop thing. You don’t have to be a virtuoso: you just explore your capabilities within the context of being a normal human being, not some supreme creature touched by the hand of God! It was more punk: do the best with what you’ve got.

IAN:
Within punk, there seemed to be a lot of affection – sometimes a little ironic and sometimes more sincere – for the bubblegum extremes of pop music. The Sex Pistols covering The Monkees etc., despite them not seeming ideologically compatible on the face of it.

LAETITIA:
But they were! I don’t know if I can make the class system step in, but I will! It was about the working classes taking power, exercising their self-determination, so that’s very important and very dangerous. You know, The Who and The Kinks were probably seen with an air of suspicion by the authorities because they had an incredible amount of sway with the youth. They were a bit threatening, and of course so were the punks. And the punks made a point of saying, “I didn’t go to school for this, and I’m going to make it as simple and direct as I can to show that anybody can do this!”

That’s what I find so appealing in that sort of pop, is that it was very political. Not political with a big “P” but it was about people taking matters into their own hands through their art. That’s how I educated myself politically: it was through music, not through reading Karl Marx.

IAN:
Yeah. When Stereolab started, one of their most audible influences was Krautrock, which was a music with its own kind of simplicity. But Krautrock also embodied this thing that wasn’t only a class thing but also this attempt to get away from the Anglo-American hegemony over rock music.

LAETITIA:
Yeah, and again there was a big element of self-determination and saying “Fuck you!” to the man. That’s what I find so appealing in that sort of pop, is that it was very political. Not political with a big “P” but it was about people taking matters into their own hands through their art. That’s how I educated myself politically: it was through music, not through reading Karl Marx – because it’s hard to read Karl Marx! And far less immediate than listening to a pop album.

IAN:
Of course, as your career progressed, you all became better musicians and so some of those limitations fell away. How did you keep in touch with that simplicity?

LAETITIA:
The watershed point would be “Emperor Tomato Ketchup”. That’s where it shifted to something more overtly complex. I didn’t write the music, so it’s difficult for me to answer this clearly, but as far as I know, each album stemmed from an idea, and it would imply some kind of restriction. One album was written entirely where none of the notes from the melodies appeared in the chord that was sustaining the melody – which I think is great. It brings about more tension. It wasn’t dissonant, but I think “tension” is the word that springs to mind, and that for me makes it an interesting song. Another example was “Margarine Eclipse”, which was essentially three albums, because we had one on the left speaker, one album on the right speaker, and then you had the sum of the two, which created the third album, so that was another sort of conceptual idea. There were often little tricks like that, which sustained entire albums.

IAN:
You’ve mentioned the idea of “tension”, and your work often has a kind of tension between music that on the face of it seems cheerful, happy, pleasant, and lyrical content that’s quite dark or angry. I’m thinking particularly of “Ping Pong” off “Mars Audiac Quintet”, where the lyrics about the cycles of economic downturn and war seem ever more relevant with the way the world seems to be heading now.

LAETITIA:
Yeah, absolutely. It’s difficult for me to say why I write certain things, but I know what you mean, especially with Stereolab, there was more darkness than originally suspected from a first glance. We were very serious about what we did. It was our way of making sense of our lives and of being autonomous. And of course I’ve always been very very sensitive to the way the world is going, and in fact since I was born it’s just getting worse. I always felt that we could organise ourselves a bit better, and I don’t mean a utopian society where everybody’s cool and the sun shines every morning – I just mean, “Hold on a minute: we can do this a little bit better so that it works out for more of us who are living on this planet.” And yet it seems that, “Oh, my God, we can’t!” The pathology has only gotten worse and deeper, at least on the surface. Because there’s a lot of good things as well that are happening, and people are getting organised in more silent ways – silent in the sense that you might not hear about it. People are going, “You can’t expect anything from governments: we’re going to have to do it ourselves!” and that I view as a good development: people taking matters into their own hands on a local level.

IAN:
Do you think there’s a parallel between what you’re describing there and the music scene? Something about the idea of organising independently of power structures?

LAETITIA:
I don’t know, because in my own experience, in my band, there were a lot of power structures actually. It wasn’t a democracy, in the sense that Tim monopolised the entire musical field and operated as a kind of “soft tyrant”. I mean, I had all the freedom lyrically speaking, but only because he couldn’t do it! (Laughs) So I don’t have an idealised view of being in the band. I’ve never been in a band where everyone wrote together. Even in my own band, I write almost everything. Sometimes on certain songs I give my bassist Xavi (Munoz) the chords and he writes a bass line, and then I have to write a melody on top of that, and it’s like, “Shit! He took all the melodic feel!” but it’s great because you have to dig deeper. So this thing about relinquishing control is probably difficult if you have a very strong artistic expectation, which I think Tim had. But also as a result I think our music was very reined in. It might seem crazy, but I’ve been listening to Stereolab’s old records recently, and they’re very repressed. But it’s really hard to let go and to let things flow, and I think that’s the reserve of some really, really great musicians where the’re totally on top of their instrument and go beyond.

IAN:
Do you think that having your creativity channeled narrowly into your lyrics and vocals influenced the way you make your own music?

LAETITIA:
Yeah, yeah, of course! And also what it forced me to do was start my own band, which was Monade, and I think Tim was very relieved! (Laughs) And, yeah, so that was a creative way around this issue, because I wanted to write my own songs, I had my own ideas, which are actually very similar to Stereolab, so I think I could have co-written much more with Tim. I’ve done seven albums now, and to my dismay I’m like, “This is still very influenced by Stereolab!” It’s really strange how each time I try to let go of that, I’m always face-to-face with that root, which I created. And I listen to what Tim is doing, and it’s still also... there’s no escaping it! It’s absolutely crazy! I don’t know, I could maybe write some reggae stuff to break it, but then it wouldn’t be me!

IAN:
But also one of the most powerful things music can do is that it creates a world. People fall in love with bands because they create worlds that they’re able to immerse themselves in and feel comfortable with. I wonder if the difficulty you describe in escaping Stereolab is a measure of how immersive the world you created was.

LAETITIA:
I don’t know. I find myself quite good at getting out of my comfort zone, at least when I compare myself to people I know. So I don’t know if what I’m looking for is something comfortable that I recognise, that I identify as safe. And particularly in the artistic field, where I feel that’s where you should be most free, and most adventurous. There’s no danger of hurting anyone because, as you say, it’s a world we create.

Yeah, and also coming from psychoanalysts themselves. It was always around “the problem came from your parents,” never from society.

IAN:
That comes back in a way to the “avant” side of avant-pop, right? The need to step out of your comfort zone, and also to take the listener out of their comfort zone.

LAETITIA:
Yeah, this is the duty! But maybe that’s where one can act and maybe not have that pretension of taking anyone out of their comfort zone, and simply do what comes best, and not be too complicated. I worked with Colin Newman recently, and his wife Malka Spigel who was in (Belgian postpunk band) Minimal Compact. I didn’t know that they worked with a looper where things had to be four and four and four and four, and so I was sending something which I found quite interesting and fun and not too complicated, and they totally rejected it! What they did was they took parts of the song and then they looped it. And it worked fine, but I realised that, compared to what they were sending me, it just gave me a glimpse of how complex I make things and how I could simplify it a lot. I’m not saying it’s good or bad; it’s just an insight.

IAN:
A friend of mine once remarked to me that he thinks Stereolab must be the band whose lyrics contain the word “society” more than any other. And I was thinking how this idea of looking at the structure of the world in many ways goes against the rather individualistic world of pop or rock music.

LAETITIA:
Yeah, there’s a dichotomy between a world of egos and society. And I wanted Stereolab’s lyrical work to bridge the very intimate and personal and society; where does political start and where does it end? Because the way I saw it was let’s be as complete as we can, and for me being complete is talking about things that matter to me. Some people view pop music as a means to escape reality, so if you talk about mindless things, or if you “settle the accounts” with somebody, or express the world of feelings around a relationship. I do explore emotional stuff as well – that wasn’t excluded. It just seemed to me that let’s talk about important stuff, because there’s enough of it going on out there that we can discuss or at least question, because a lot of what I talked about in my lyrics were just questions for myself. Even the capitalist, the individualist, all this is stuff I could feel within myself. It was like, “No, I can be that monster too, and I’d like to interrogate that.”

IAN:
It seems that we’re often being encouraged by society to think very internally and to not really interrogate the relationship between ourselves and the outside world. In the song “The Well-Fed Point of View” by yours and Tim’s old band McCarthy, the lyrics tackle this quite directly.

LAETITIA:
Yeah, and also coming from psychoanalysts themselves. It was always around “the problem came from your parents,” never from society. And in fact, I got very interested in a guy called Cornelius Castoriadis. He wasn’t just a psychoanalyst, he was many things, but he was married to a very famous psychoanalyst (Piera Aulagnier) in the ‘60s, ‘70s, ‘80s in Paris, and they both were some of the first in the field to interrogate the impact of society on the human psyche. But it’s amazing to see that they were rare ones. Like, as if society did not impact your psyche, your unconscious, which I find extremely dubious! Of course it’s going to have an impact: everything has an impact on us: the architecture, the way the streets are laid out. It’s like if doctors are saying whatever you eat doesn’t impact your health: how can you say that?

IAN:
You mention architecture, but that’s true of music as well, right? The aesthetics, or the “internal architecture” of music also has an impact that goes beyond the lyrics.

LAETITIA:
Yeah, I think so. And the production of the song will say a lot. It’s a language.

IAN:
There seems to be an ease pop culture in Japan has in disconnecting the aesthetics from the content. But at the same time, maybe that’s impossible because the aesthetics have an impact of their own that is connected to the content.

LAETITIA:
Yeah, and I think there was enough happening aesthetically in our work that people would suspect that it had a revolutionary intent: that this wasn’t your regular pop group. And I think in Japan people were very savvy as well when it came to music. People knew their stuff! Not to mention that we called one of our albums “Emperor Tomato Ketchup”, which was named after a super-revolutionary Japanese movie.

IAN:
By Shuji Terayama, yeah.

LAETITIA:
I haven’t seen it! I haven’t read Marx and I haven’t seen “Emperor Tomato Ketchup”! (Laughs) Don’t tell them!

IAN:
It’s too late. It’s on tape! With the many collaborations you’ve been involved in, do you think that enriches your music?

LAETITIA:
Definitely. Like I said, it gets you out of your comfort zone, and it forces you to a sort of activity to be productive, because anything could make you go out of productivity: feeling a bit depressed or this or that or the other. It’s good to be kept in action. And stuff comes out that wouldn’t normally come out, so it’s very instrumental in keeping the creativity bubbling and active.

IAN:
Are there any particular projects that you’ve worked on with other people that stand out as being especially rewarding experiences for you?

LAETITIA:
When I worked with Jan and Andi (Mouse on Mars). It was so brilliant. We had a tour of Greece and Italy booked up and we had to come up with an hour’s worth of music, and it was the first time I was working like this outside of Stereolab. It was really difficult for me because I wasn’t confident that I could do this. I then learned that if I’m asked to do it, that means that I can do it! So that became my sort of motto. And yeah, somehow we did it and we had such a fun tour – it was such an adventure! But working with people, each time it’s a different adventure. I’m currently working with a Brazilian band called Mombojó, and we created a group together called Modern Cosmology – we made a video called “C’est le Vent”, “It’s the Wind”, which gives an idea of our collaboration. I can only see the positives of working with other people and “crossbreeding” (laughs) your creativity.

IAN:
So you made three albums with Monade, then three just under your own name, and then more recently one as Laetitia Sadier Source Ensemble. It seems like there’s a period there where your identity is subsumed within this idea of a band, then three albums where you push your own individual identity to the foreground, and then finally this third stage where you’re trying to reconcile the collective and the individual. Would you say there’s something like that going on in the process?

LAETITIA:
Yeah, thank you for summing it up so beautifully! Yeah, it’s true that there’s time where you’re in the playground and you’re working out who the hell you are like, “This is me.” And then there are some times where you open it up and it’s like, “This is me in the world, this is me and my friends, and this is collective me.” And even when I was in my “this is me” period, Laetitia Sadier, I was still well aware that nothing that I do is just the product of solely me: it’s the product of many people’s involvement. And it seemed to me that it was an important point to make when I “Source Ensembled” Laetitia Sadier, because we’re told that “This is just you, and you and you and you alone!” and that’s wrong: that’s a lie. We are all connected here.

IAN:
Jumping back to Stereolab, I think it’s interesting that the band is in many ways a product of the 1990s and the age of CDs. For example, most Stereolab albums are far too long to fit onto a single piece of vinyl. But at the same time, they’re also albums that seem designed to be appreciated on vinyl.

LAETITIA:
Yeah, like any music that respects itself! (Laughs) It’s true. I have a turntable in my kitchen and a CD player, and I’m not attached to the object at all, and I would prefer to listen to CDs because you don’t need to worry about turning it over. But now I realise there’s something different about vinyl. I don’t know what it is, but it’s just more music-friendly.

IAN:
I think the way it forces you to constantly attend to it by turning it over every fifteen minutes encourages a different, more attentive sort of listening.

LAETITIA:
Yeah, it’s funny how this kind of alienation in fact gives you more connection with the record.

IAN:
Perhaps it goes back to the idea of tension again. In this case, rather than tension within the music, it’s tension between the listener and the medium itself that engages the listener. The other extreme would be Spotify or something, where you just put on a playlist while you’re cooking.

LAETITIA:
Yeah, you just consume it. I don’t have Spotify, but my son’s got it and it’s amazing though. Just say a band and there you have it. I think I’m going to have to get it, especially because I’m going to be on Spotify as of this month (April 2018). The Drag City catalogue is on all the streaming platforms, which it wasn’t before – Drag City have given in! It’s tricky but times are changing and people just have new ways of listening to music. There’s a lot of people out there – have you seen all this youth out there! (Laughs)

IAN:
OK, I guess before we finish, I should just ask if there’s anything more you’ve got coming up that you’d like to tell us about.

LAETITIA:
Well, really the main thing at the moment is my project with those Brazilian boys, Modern Cosmology. Apart from that, I’ll make it to Japan again maybe not this year but next year, one way or another.

Our Favorite LGBTQ+ Songs - ele-king

 セイント・ヴィンセントの新しいミュージック・ヴィデオが最高である。昨年のアルバム収録曲“Slow Disco”のディスコ・ヴァージョン、その名も“Fast Slow Disco”に合わせて用意されたもので、ベア/レザー系のゲイ・クラブが舞台になっているのだが、裸の胸と尻をさらけ出したゲイたちの群れのなか、汗まみれのアニー・クラークが歌うというものだ(彼女はバイセクシュアルをカミングアウトしている)。派手なバッキング・ヴォーカルを入れたベタベタなゲイ・ディスコ・サウンドもかえって効果的だ。そこでわたしたちはHIV/エイズ以降の現在にあってなお、70年代のフリー・セックスの祝祭を再訪する。ディスコ・シーンが生み出した性の解放を、そこではダンス・ミュージックが大音量で鳴らされていたことを……。

 こうしたヴィデオが発表されるのは、世界的に6月は「プライド月間」であるからだ。49年前の1969年、6月28日に起きた〈ストーンウォールの反乱〉から半世紀が経とうとしているが、今年の6月も世界各地でLGBTQ+の権利やジェンダーの平等を掲げるプライド・パレードが開催された。はためくたくさんのレインボー・フラッグ。今年のNYプライドの写真をいくつか見ていると、かつての女子テニス界の女王であり現在のLGBTQ+運動のシンボルのひとりであるビリー・ジーン・キングが、現在の銃規制運動のアイコンでありバイセクシュアルをカミングアウトしている坊主頭の高校生エマ・ゴンザレスと並んで笑顔を見せているものに引きこまれた。歴史の積み重ねにより、世代を超えた共闘が清々しく実現されているからだ。
 そして音楽を愛するわたしたちは、その歴史のなかでたくさんの歌たちがあったことを知っている。70年代のディスコ、80年代のハウスやシンセ・ポップ、90年代のライオット・ガール、そして21世紀のじつに多種多様な音楽が、セクシュアル・マイノリティの自由を鳴らし、切り拓いてきた。音楽だからこそ感じられるジェンダーとセクシュアリティの多様性がそこにはある。もしあなたが「プライド」の意味を知りたければ、トム・ロビンソン・バンドの“Glad to Be Gay”を聴くといいだろう。アイデンティティ・ポリティクスにおけるもっとも重要な命題が、そこでは端的に提示されているからだ。
 あるいはまた、音楽は音楽であるがゆえに、「プライド」だけでは掬い取れないセクシュアル・マイノリティの感情や実存にも入りこんでいく。「イエスはホモ野郎が嫌いなんだよ」と父親に切々と説かれる様を描いたジョン・グラントの“Jesus Hate Faggots”、マフィアに性奴隷のような扱いを受けて非業の死を遂げたゲイ・ポルノ俳優の内面に入りこむディアハンターの“Helicopter”の凄み。アノーニの声はそれ自体の響きでもってジェンダー規範をゆうに超越してしまうし、自らを「ミュータント」と呼んだアルカは歌詞に頼らず電子音でクィアの官能を鳴らしてみせた。

 この企画を思いついたのは、まずは単純にプライド・マンスに便乗しようと思ったからなのだけれど、もうひとつ、ピッチフォークが先日発表した「過去50年のLGBTQ+プライドを定義する50曲」のリストがなかなかに興味深かったというのもある。こうしたリストを作るとき、たとえば自分ならついつい当事者性にこだわってしまうのだが、ピッチフォークのリストはミュージシャンの当事者/非当事者の線引きに関係なく……いや、SOGI(Sexual Orientation and Gender Identity の略。性的指向と性自認を示す)の区分に関係なくアイコニックな50曲を選出している。作り手がヘテロであってもゲイであっても、トランスであってもシスであっても、ゲイ/トランス/クィア・ソングは歌えるし、それに合わせて踊れると、こういうわけである。
 いまや大人気バンドであるザ・エックスエックスはシンガーふたりがゲイで、同性愛に限らないジェンダーレスなラヴ・ソングを歌っているが、こうした態度は非常に現代的だと感じる。最近ではジェンダーが流動的であるという「ジェンダー・フルイド(gender fluid)」や対象のジェンダーに関係なく性的願望を抱く「パンセクシュアル(全性愛)」なども認知され始めており、当事者/非当事者の線引きがますます難しくなっている。それはおそらく良い兆候で、更新されていく価値観に合わせて、音楽やそれにまつわる言説も柔軟に変化しているということなのだろう。

 そんなわけで、今回はSOGIの区分にこだわらず、ライター陣に自由な発想で私的に偏愛するゲイ/トランス/クィア・ソングを選んでもらった。正史にこだわったものではないが、そのぶん、じつに多彩なサウンド、多様な性のあり方が集ったと思う。楽しんでいただけたら幸いだ。
 「わたしの・俺の魂の一曲がないじゃないか」という方は、ぜひわたしたちにもあなたのお気に入りを教えてください。Happy Pride! (木津毅)

※性的少数者の総称として、この記事ではLGBTQ+というタームを使っています。僕はフラットな意味で「セクシュアル・マイノリティ」と書くことが多いのですが、とくに欧米だと「マイノリティ」というと人種のことを先に連想しやすいということもあるそうで、現在ではLGBTQ+が適切な表現として採用されることが多いようです。


My Favorite (21st century ver.) 
選:木津 毅

Kylie Minogue - Come into My World (2001)
Pet Shop Boys - The Night I Fell in Love (2002)
The Soft Pink Truth - Gender Studies (2003)
Rufus Wainwright - Gay Messiah (2004)
Antony and the Johnsons - For Today I Am a Boy (2005)
Matmos - Semen Song for James Bidgood (2006)
John Maus - Rights for Gays (2007)
Hercules and Love Affair - Blind (2008)
The XX - VCR (2009)
Deerhunter – Helicopter  (2010)
St. Vincent - Cruel (2011)
Frank Ocean - Forrest Gump (2012)
John Grant - Glacier feat. Sinéad O'Connor (2013)
Perfume Genius - Queen (2014)
Arca - Faggot (2015)
坂本慎太郎 - ディスコって (2016)
Syd - Bad Dream/No Looking Back (2017)
Serpentwithfeet - Bless Ur Heart (2018)

野田努

Tom Robinson Band - Glad To Be Gay (1978) 

「この歌を世界保健機構に捧げる。国際疾病分類における302.0の病気に関する、これは医学の歌だ」、そうトム・ロビンソンは話してからこの曲をはじめる。この当時、ホモセクシャルは性的/精神的な病気に分類されていたのだ。この曲の歌い出しはこうだ。「イギリスの警察は世界で最高だね。信じられない話だけど、奴らはずけずけとオレらのパブに入って、いっぽうてきに客を壁に一列に並ばせるんだ……君がゲイに生まれて嬉しいなら、一緒に歌ってくれ/君がゲイに生まれて嬉しいなら、一緒に歌ってくれ」

ジャジーなパブロック調の魅力的な曲だ。この曲を聴いたのは高校生になったばかり頃だった。そして、曲の真の意味を知るのはもっとずっと後になってからのことだったが、パンクに触発されたこの勇気あるメッセージを真に受けた連中がいたからこそ、それもひとつの力となって、いまこうして世界は変わったんだと思う。

小川充

Lou Reed - Coney Island Baby  (1975)

“Walk On The Wild Side”はじめ、同性愛、トランスジェンダー、セックス、ドラッグ、生と死といった題材が多いルー・リードとヴェルヴェット・アンダーグラウンドの作品。それらの多くは荒々しくギラギラした演奏だったり、またはクールでソリッドなロック・ナンバーだったりするのだが、そうしたなかにあって1975年という彼の転換期にあったアルバム『コニー・アイランド・ベイビー』のタイトル曲は、内省的でアコースティックなイメージのバラード調の作品。少年時代に自身がゲイであることに気づき、そのために父親から虐待されていたというルー・リード。そんな彼の救いはフットボールで、高校時代に教えてもらったコーチを慕い、「彼のためにフットボールがしたかった」と歌う。「都会はサーカスや下水道みたいで、いろいろな嗜好をもった人が集まる」とも。それまでのルーにあったワイルドでキャンプなイメージとは違い、肩の力が抜けて枯れたムードに始まり、エンディングへ向けて次第に熱くなっていく展開で、極めてナチュラルに自身の心情やニューヨークで生きることについて歌っている。私が音楽を通じてLGBTQについて知るようになったのは、デヴィッド・ボウイやルー・リードの作品を聴いてからだが、そうしたなかでルーのこの曲はもっとも好きな曲のひとつ。性別やLGBTQであるか否かを超えて、ルーの裸の歌は切々と響いてくる。

行松陽介

忌野清志郎+坂本龍一 - い・け・な・いルージュマジック (1982)

まだジェンダーという言葉も知らない子供の頃にこの曲のPVを見て、少なからず衝撃を受けました。ACT UPの活動や様々なジェンダーに関する問題などについて知ることになるのは、それから随分と後になってからでした。

沢井陽子

St. Vincent - New York (2017)

この曲は、聴けば聴くほどいろんなシナリオが浮かんでくる。「“New York isn't New York without you love,” ニューヨークは、あなたなしではニューヨークでない」の歌詞は、カーラ・デルヴィーニュやクリステン・スチュワートなどの、彼女の恋人との別れを歌っていると言われたが、ヒーローをなくし友だちをなくし、たくさんの人が去ったけど、自分はまたここで全部をひとりでやり直す、という彼女のハートブレイク感と、ニューヨークへの強い愛が描かれている。自分の知らない誰かのために涙を流し、数ブロックの中で起こるドラマは、ニューヨーク的で、LGBTQだけでなく、ニューヨーカー、誰に置き換えても当てはまる普遍性を持っている。そんな弱さを見せる彼女も素敵。

鈴木孝弥 (ライター・翻訳家)

Freddie McGregor feat. Marcia Griffiths - United We Stand (2005)

レゲエ愛好家だからアンチ同性愛者だと思われるのははなはだ迷惑だし、あなたがそう結びつけるとしたら、そのあまりに短絡的な見方を猛省してほしい。たしかに過去何名かの急進派レゲエ・アーティストが過激な反同性愛ソングを発表し世界規模のスキャンダルとなった。とりわけ欧米では人権活動家がそんな曲を看過しないから、当該歌手の来訪コンサートは中止に追い込まれ、当局が興行ヴィザを発給しないという判断にまで至った。そうした“アンチ・ゲイ・チューン”の根拠に“男色法”や“聖書の記述”(本当に全知全能の神があんなことをたびたびのたまったのだとしたら、だが)があるとしても、それらは人が自由に生きる権利に先立つものではない、という判断を断固支持する。この曲をデュエット・カヴァーしている2人の思いもきっとそうだろう。イソップ起源とされる団結のためのモットーの古典〈United we stand, divided we fall(団結すればひるまず、分裂すれば倒れる)〉をモティーフとし、どんな困難があろうと、愛し合う私たちが一緒なら大丈夫と歌う、英ブラザーフッド・オブ・マン70年の大ヒット曲だ。これまでとくに性的マイノリティの人権運動において熱烈に愛唱されてきたこの曲を、レゲエ界を代表するこのヴェテラン歌手2人が組んで2度も録音していることはもっと知られるべきだ。

Lisa Stansfield - So Be It (2014)

このミュージック・ヴィデオは、自然をあるがまま見せる。何故、こんな風にわざわざ映像で自然を確認する価値があるかというと、それが美しいからであり、そして我々が往々にしてその美しさを見失いがちだからだ。

Lisa Stansfield - Never Ever (2018)

彼女がLGBTQ界隈からも大きな支持を得てきたことは、この最新曲を聴いても合点が行く。普遍の愛を描くシンプルな言葉。琴線に触れ、活力となり、背中を押してくれる。世の雑音にあたふたする自分を後ろに捨て去れる気がする。

柴崎祐二

Bola de Nieve - Adios felicidad(1963)

革命期におけるキューバ音楽の変遷は、ジャズなどをはじめとした米国ポピュラー音楽の流入・融合の流れと、それを排除しようとする共産勢力との拮抗の歴史だった。数年前日本でにわかに再発見された「フィーリン」も、当初革命政府から「帝国主義的音楽」と目されていたのをご存知だろうか。発端となった曲が「アディオス・フェリシダ(幸せよ、さようなら)」で、同曲が当局から批判されたことで、カストロをも巻き込んだ論争に発展していったのだった。ナット・キング・コールなどの米ジャズ・ボーカル音楽に影響を受けた甘く気怠い洗練が、退廃的かつ反動的な音楽だと指弾されたという。

この曲、日本ではブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブでもおなじみのオマーラ・ポルトゥオンド版が知られているかもしれないが、当時上記のような論争を引き起こすきかっけとなったのは男性シンガー、ボラ・デ・ニエベによる版だったという。ピアノ弾き語りのスタイルで数々の名唱を残した彼こそは、革命体制下のキューバ音楽史上では極めて珍しいゲイ・アーティストであった(そのころアカデミック〜文化界において同性愛は厳しい弾圧の対象にされたが、彼はそれを奇しくも免れた)。

削ぎ落とされた歌詞と、過ぎ去りし日々に哀切を捧げるような歌い口、歌詞、全てが美しい。深読みが過ぎるかもしれないが、上記のような経緯を知った上で聴くと、どうしても表現や性の自由を暗喩的にかつ静かに称揚する音楽であると思えてならない。

ちなみに同曲の作者のエラ・オファリルは、一連の論争ののちに今度は「同性愛者の嫌疑」で勾留され、拷問まがいの取り調べを受けることになり、ついには国外へと逃れているのだった。

岩沢蘭

Tin Man - Constant Confusion (Tama Sumo mix version) (2009)

2009年に〈KOMPAKT〉から出たタマ・スモ『Panorama Bar 02』のミックスの一曲目。パラノマ・バーに飾られているというヴォルフガング・ティルマンスの写真をいつか見に行きたい。

Bronwen Lewis - Bread and Roses (2014)

映画『Pride』(邦題『パレードへようこそ』)の挿入歌。ジェームズ・オッペンハイムの詩をもとに作られた100年以上前のこの歌は、ユニオンソングとして有名な曲だ。クィア・ソングとしての趣旨は外れてしまうかもしれない。ただ映画のなかで歌われていたこの曲がよかったことと、次回日本のパレードでこの歌を聴きたいと思い選曲しました。
以下映画の字幕から引用です。

ささやかな技と愛と美を
不屈の精神は知っている
私たちはパンのために闘う
そしてバラのためにも

小林拓音

がつんと正面から「LGBTQ+」というテーマに向き合っているものというよりも、まずはサウンドありきで、ふだん好きでよく聴いていたり動向を追っかけたりしているミュージシャンの作品のなかから、どうにも気になってしかたのないものやその文脈とリンクしていそうなものをいくつか。

Oneohtrix Point Never - Returnal (Antony's Vocal Version)  (2010)
https://soundcloud.com/oneohtrix-point-never/returnal-antonys-vocal-version

当初歌詞の内容はまったく気にせず聴いていたけれど、紙エレ最新号で坂本麻里子さんが訳しているのを読んだらなぜか頭から離れなくなった。「君が去ったことはなかった/君はずっとここにいたんだ」。

Kingdom - Stalker Ha (2011)
https://www.youtube.com/watch?v=XpXjaCIFFg4

最近ではシドとのコラボが話題の〈フェイド・トゥ・マインド〉のボスによる、比較的初期の曲。MAWをサンプリング。

Mykki Blanco - Join My Militia (2012)
https://www.youtube.com/watch?v=WC-QH74zha8

「あんたの場所がどこにあるのか忘れるな」。ラップもトラックもとにかく強烈。プロデューサーはアルカ。

Grizzly Bear / Gun-Shy (Lindstrøm Remix)  (2013)
https://soundcloud.com/grizzlybearband/grizzly-bear-gun-shy-lindstrom

アゲアゲである。原曲の情緒はいったいどこへやら。毎年クリスマス・イヴにイルミネイションを眺めながら聴いている。

Owen Pallett - Infernal Fantasy (2014)
https://www.youtube.com/watch?v=4VMpu-03zuM

「べつの時代を待つ」「べつの人生を待つ」というイーノの声が耳に残り続ける。「地獄のファンタジー」とはいったい。

Le1f – Koi (2015)
https://www.youtube.com/watch?v=aUBzGKpHGAY

恋かと思ったら鯉だった。興味深いことにプロデューサーのソフィーは同年、安室奈美恵と初音ミクのデュエットも手がけている。

Yves Tumor - Serpent I (2016)
https://yves-tumor.bandcamp.com/track/serpent-i

ひとつのアイデンティティに固定されたくないからだろうか、さまざまなエイリアスを用いていろんなスタイルを試みる彼のなかでも、とりわけわけのわからないトラック。

Fatima Al Qadiri – Shaneera (2017)
https://fatimaalqadiri.bandcamp.com/track/shaneera-feat-bobo-secret-and-lama3an

「シャニーラ」とは「邪悪な、ひどい」といった意味のアラビア語の、誤った英語読みだそう。彼女の出身地であるクウェイトではクィアのスラングとして用いられているのだとか。リリックは出会い系アプリ Grindr のチャットから。

三田格

Gizzle - Oh Na Na (2017)

去年、ヒップホップで一番好きだった曲。何度か聴いているうちにクィア・ラップだということに気がついた。LGTBQだから好きというわけではなく、好きになった曲がLGTBQだったというだけ。そんな曲はたくさんあります。

大久保潤

Limp Wrist - I Love Hardcore Boys, I Love Boys Hardcore (2001)

Limp Wristはフィラデルフィアのクィア・ハードコア・バンドである。90年代に活躍したシカゴのラティーノ・ハードコア・バンド、Los Crudosのヴォーカリストであるマーティンを中心に結成された。
なんだかんだでヘテロの白人男性中心のUSハードコア界にあって、Crudosはシーンにおけるヒスパニック系を中心としたマイノリティの置かれた状況などについて、ほぼ全曲スペイン語で歌ってきた。
そんなマーティンの次なるプロジェクトとしてスタートしたLimp Wristは音楽的にはCrudosの延長上にある1分前後のファストでシンプルなパンク・ロックだが、歌詞は基本的にゲイ・コミュニティに言及したもの。
2015年、アメリカ最高裁で同性婚を認める判決を出たタイミングでLos Crudosが来日、場内が「マーティンおめでとう!」というムードがいっぱいだったのが忘れられないのでこの曲を選んでみました。

田亀源五郎  (ゲイ・エロティック・アーティスト)

Man 2 Man - Male Stripper (1986)

レザーパンツを履いた青年のヌードという、ゲイゲイしいジャケットに惹かれて12インチシングルを手にとったら、裏ジャケに載ってたアーティスト写真もハードゲイ(和製英語だけど)風だったので即購入。目に付いたゲイっぽいものは、とりあえず買っておくという年頃だった。当時の自分の好みからすると明るすぎ&軽すぎではあったのだが、音の好み云々よりも、映画『クルージング』に出てきたようなレザーマンが集まるゲイディスコ(行ったことがない憧れの地だった)では、こういう曲がかかっているのだろうかと想像してドキドキしていた。そして後に20年くらい経ってから、この曲のプロデューサーが、次のMan Parrishだったと知ってビックリ。

Man Parrish - Heatstroke (1983)

80年代に海賊版VHSで観た、自分が大好きだったゲイポルノ映画に、Joe Gage監督の『Heatstroke』(1982)という作品があった。主演のRichard Lockeが大好きだったというのもあるのだが、ホモエロスを濃厚に描き出すGage監督の映像表現にも大いに惹かれ、ぶっちゃけ自分のマンガにも影響を与えている。そしてこの『Heatstroke』には、ゲイポルノ映画としては珍しくオリジナルの主題歌まであり、しかもそれがなかなかカッコ良かった。その主題歌を手掛けていたのがMan Parrishで、後により凝ったアレンジになってオーバーグラウンドでリリースされた。私が音源をゲットできたのはCD時代になってからだが、ハードコア・ゲイポルノ映画の主題歌がCDで入手できるなんて、この曲くらいのものじゃないだろうか。インターネット時代になってから本人のブログを見つけ、キャリアの初期にアダルトフィルムの音楽を手掛けていたことや、Joe Gage監督と未だにコンタクトがあることなどが明記されていたのも、なんかとても嬉しかった。

Jamie Principle - Sexuality (1992)

ハウスに興味を持ち始めたころに、何かのレビュー(『ミュージック・マガジン』だったかな。当時買っていた音楽雑誌はそれくらいだったし)でアルバム『The Midnite Hour』を知って購入。その中で私が特にこの曲を推したいのは、曲として好きだというのもさることながら、多分これは自分がsexualityという言葉と出会った最初期のケースだったから。少し経ってから、この言葉は日本のメディアでも見られるようになったけれど、当時の日本語表記はもっぱら《セクシャリティ》だった。でも私はこの曲で、「いや《セクシュアリティ》だろう、はっきりそう歌っているし」と思っていたので、自分の文章ではずっとその表記にこだわっていた。昨今ではこの表記の方が優勢になってきた感があり何より。

大久保祐子

Rostam / Half-Light (2017)

イラン移民の親を持つアメリカ人で、ゲイをカミングアウトしている元ヴァンパイア・ウィークエンドのロスタム。
昨年発表したアルバムの表題曲にもなった“Half-Light”という言葉には夜明けと日暮れというふたつの意味があるらしいとの話を知ってから改めてこの曲を聴くと、「Baby, all the lights came up what are you gonna do ?」と繰り返されるフレーズが美しい曲をより輝かせているように感じる。アルバムには「他の男の子たちとは違う男の子」と同性愛について歌っている曲もあるのだけれど、ぼんやりしていて曖昧で影を持った言葉のほうに強く想像を掻き立てられる。
あかりが消えるように終わりかけた最後にウェットのケリー・ズトラウの歌声が現れ、視点が変わるところがまたいい。

interview with OLD DAYS TAILOR - ele-king


OLD DAYS TAILOR
Pヴァイン

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 2008年のデビュー以来、在りし日のシンガー・ソングライターによる良質な音楽を思わせる歌世界を丁寧に紡いできた笹倉慎介。日本語ならではの詩情と温かみのあるサウンドが融合した彼の音楽は、ただ過去を見つめる視点だけにとどまらず、慌ただしさのなかで看過されてしまいがちな、都市とその郊外で日々を重ねるなかでふと見えてくる様々な風景と心象を、膨よかな筆致で描いてきた。
 今回笹倉は、かつて2014に7 inchシングル「抱きしめたい」で共演した森は生きているの元メンバー岡田拓郎(ギター)、谷口雄(ピアノ)、増村和彦(ドラム)に加え、細野晴臣のバンド他数多くのアーティストのバッキングを担当する伊賀航(ベース)、自身もシンガー・ソングライターとして活動する優河と今回がレコーディング・デビューとなる濱口ちなのふたりをコーラスとして迎えた新バンドOLD DAYS TAILORを結成した。
 各メンバーの個性が一体となるなかで生まれる「バンド・サウンド」の魅力とは。今作の大きな参照となったというジェームス・テイラーへの溢れる愛情。そして「在りし日を紡ぎ、仕立てること」によって生まれる音楽をいま奏でるということ。極めてまろやかな聴き心地を持つこの音楽世界が、その実メンバーの高度な技巧と鋭敏な感性によって丁寧に形作られているということを知るとき、私たちは笹倉やバンドメンバーと共に、本当はまだ見ぬ知るはずのない風景をふと「過ぎたことのように」慈しんでいることに気づくかもしれない。どこかでみたかもしれない風景は、永遠に古びない。この音楽は、どこかでみたようでいて、いつまでもここにあり続ける。
 笹倉慎介、岡田拓郎、谷口雄の三人のメンバーによるインタヴューをお届けする。


僕の世界を隅々まで行き渡らせてきたというのが、これまで出してきたソロ名義の作品。今回はそれとは違ったものを作りたいなという気持ちがありました。 (笹倉)

そもそもの話なのですが、このプロジェクトが発足したきっかけはなんだったんでしょうか? 森は生きていると一緒に7 inchシングル「抱きしめたい」を作ったことから自然発生的に進んでいった感じですか?

笹倉慎介(以下、笹倉):昨年東洋化成から「レコード・ストア・デイに笹倉さんのシングルを出しませんか?」って話が来て。もちろんソロでやることもできたんですけど、「抱きしめたい」の後に、森は生きているのみんなと「いつかバンドやりたいね」って話していたのを思い出して。シングル単発企画だし、軽いノリで「バンドやっちゃうかな」って思い立ったんです。

谷口雄(以下、谷口):そんな感じの軽いノリで笹倉さんからメールが来ました(笑)。

じゃあ、はじめは今回のアルバムに先行してリリースされた「晴耕雨読」の7 inchリリースだけのつもりだったんですね。

笹倉:そう。運が良ければアルバムも出せればいいな、というのはあったんだけど。で、せっかく「晴耕雨読」がリリースされるなら、〈Pヴァイン〉へ「抱きしめたい」の再発もどうですか? って話を持っていったら、「じゃあアルバムも作ってウチからリリースしませんか?」ってトントンと話が進んで。

たしかに、OLD DAYS TAILOR結成の話を最初に耳にしてから、アルバムが出るまですごくスピーディーだなと思いました。

岡田拓郎(以下、岡田):すごく早いですよね。レコーディングも気づいたらどんどん進んでいった感じ。

谷口:僕らも途中から「これ何のために録っているんだろう?」って思っていたら「え! アルバムが出るんですか?」っていう(笑)。

笹倉さんとそのバック・バンドっていう形ではなくて、あくまでひとつのバンドとして始動したのはなぜ?

笹倉:単純に「バンド」という形にしたほうが面白い作品になるんじゃないかなと思ったんです。ソロだとバック・バンドがいようとも結局は100%僕の意見でまとまってしまう。僕の世界を隅々まで行き渡らせてきたというのが、これまで出してきたソロ名義の作品。今回はそれとは違ったものを作りたいなという気持ちがありました。

このメンバーになった理由は?

笹倉:それは単純に楽だったから(笑)。

コミュニケーションのしやすさという意味で?

笹倉:バンドであるからには、メンバーそれぞれの主張や個性が出ないといけないけど、みんな音楽的な面でも信頼できるメンバーだし、その点も大丈夫だろうと。どんなに人間関係ができていても、一緒に音を出したときに違和感があると制作は大変。今回のメンバーはそれがほとんどない。

何もしていないようだけど実はめちゃくちゃ効果的なことをしている。その感じって本当はとても難しくて。 (笹倉)

各メンバーについてコメントいただきたいのですが、まずベースの伊賀航さん。お付き合いは古いですよね?

笹倉:伊賀さんこそ、本当に一緒にやっていて楽です(笑)。

プレイがうまいっていう意味で?

笹倉:そうですね。いろいろな演奏に参加しているという場数のことももちろんあると思いますけど、僕の音楽へのフィット感がもう抜群なので。

コーラス担当の優河さんと濱口ちなさんの女性メンバーおふたりの魅力は?

笹倉:優河ちゃんは、彼女自身のソロ活動でももちろんそうですが、めちゃくちゃ魅力的で「本格的」な歌声を持っています。

笹倉さんとのハーモニーも抜群ですよね。もうおひとりの濱口さんは普段はどんな活動している方なんでしょう?

笹倉:まだプロとしては何もしていないです(笑)。僕がオーナーを務めている(埼玉県)入間にあるカフェ兼スタジオ「guzuri recording house」のスタッフなんです。学園祭でコーラス・グループやバンドをしたことがあるようで。そのとき合唱ではっぴいえんどの“風をあつめて”をやったと言っていたので「じゃあちょっと聞かせてよ」って言ったら、歌ってくれたんです。それが本当にまっすぐな声で、これは良いなと。優河ちゃんとの良いコンビネーションになりそうだなと思いました。

増村(和彦)くんのドラムの魅力は?

笹倉:やっぱり彼も歌詞を書く人なので、言葉を聞きながらアプローチするタイム感みたいなものが良いなと思います。メロディーへ言葉をどう乗せていくかということへの感覚が鋭い。会話をすればすぐ理解してくれる。メロディーに乗せるとき、言葉の音をどう譜割するかがいちばんややこしかったりするんです。リズムを食っている、ここは食ってない、ここは伸ばしているとか、そういうことにちゃんとプレイとしてついていけているのはすごい大事ですね。精密に叩けるというよりは、歌に合わせて波を作れる。

谷口:各曲のレコーディングは、基本的に増村くんと笹倉さんのふたりでそのあたりについて会話することから始まっていましたね。

笹倉:それが終われば僕は寝てる(笑)。

谷口:俺たちが録る頃にはホントに寝てましたよね(笑)。

笹倉:全部寝てるわけじゃじゃないけど(笑)。

(笑)。鍵盤担当の谷口くんは?

笹倉:今回の制作にあたってはやはりジェームス・テイラーの音楽が下敷きにあったので、そのニュアンスを汲んだプレイをお願いました。でも、ジェームス・テイラーのバック演奏って改めてじっくり聴くと目立つようなことは何もしていないっていう……(笑)。けれど、何もしていないようだけど実はめちゃくちゃ効果的なことをしている。その感じって本当はとても難しくて。だいたい鍵盤は音が目立ってしまいがちだから。けれど今回谷口くんは期待に応えてくれました。

たしかに、ジェイムス・テイラーのバックを務めていたザ・セクションの鍵盤奏者クレイグ・ダーギーも、彼ならではの「節」みたいなは感じないですよね。

谷口:そう。何も個性がないようだけど、音楽全体で聴くと効果があるって感じ。

笹倉:でき上がったものを聴くと「谷口くん、レコーディングにいたっけ?」っていうアレンジになっていたり(笑)。

谷口:「ミックスのとき、僕の音消してませんか?」って(笑)。

音が小さいという意味じゃなくて?

谷口:違いますね。笹倉さんのアコースティック・ギターが既にもうメロディーのような性質も兼ねたものなので、それを崩さないように後押しをするようなプレイをしたら……いないように聞こえてしまう(笑)。普通にコードをガーンって弾いたら笹倉さんのギターと音が当たりまくるので、相当研究しました。

岡田:倍音だけ添える鍵盤、みたいな感じだよね。

なるほど。一聴するとギターが豊かに響いているように聞こえる感じ。

谷口:そうそう。

岡田:でも、いざ鍵盤を抜いてみるとぜんぜん違った風に聞こえると思います。

笹倉:そうですね。まさしくそういうところが上手い。

谷口:どういう風なプレイをするかっていうのはかなり迷いました。でも最終的に岡田くんもいるから良いかって思って。そしたら岡田くんがいちばん大変だったという(笑)。

岡田:そう……(笑)。僕がいちばん最後に音を重ねるから。

じゃあ、その岡田くんのギターについて。

笹倉:岡田くんもバッキングのプレイについては谷口くんと同じような感覚。僕のギターが結構歌ってしまっているので、歌っているギターをもっと充実させるようなプレイをしてくれたと思います。

やっぱりギターについてもザ・セクションのプレイのイメージで、というのがあったんでしょうか?

笹倉:そう。(ザ・セクションの)ダニー・クーチ的なプレイ。

岡田:だから僕もクーチはすごく聴いて用意してきましたね。けど、彼のプレイが参考音源としてあるような曲ならいいんですけど、ないような曲はすごく大変でした。上モノが僕と谷口くんしかいないなかで、鍵盤がアコギの倍音を担う方にいってしまったので、合いの手職人的なプレイが必要になってきて。

結果的には岡田くんのプレイが彩りとして前面に聞こえてくる感じにもなっていますよね。ギター好きとしてはたまらない感じ。

岡田:地味ギター好きには、ですね(笑)。

「これはクーチで、おっ、これはデヴィッド・スピノザで、これはデヴィッド・T・ウォーカーで、これは鈴木茂」みたいな聴き方になってしまいました(笑)。
みなさんの話を聞いて思いましたが、Jロック的なものにありがちな全体の圧を稼ぐために多重的に音を積み上げるというものとはもちろんぜんぜん違って、OLD DAYS TAILORの場合は、まずキャンパスがあってそこにお互いスペースを見つけて色を塗り合っていくっていう感じがしました。ときにあえて空白も残したり。そういうバンド感っていうのは、オーソドックスでありながらもいまならむしろ新鮮に響くかも。

岡田:基本オーヴァーダブもなかったですよね?

笹倉:うん。ほぼないですね。必要最低限のアンサンブル。

進め方としては、笹倉さんが弾き語りのデモをメンバーに渡して、そのあとは「せーの」でguzuriで録った感じですか?

笹倉:最初のシングル「晴耕雨読」に関しては事前にみんなでリハをしました。ある程度固まってきたら、リズム・セクションと僕だけブースに入ってドラム、ベース、アコギを先に録っていった形です。アルバム制作に入ってからは、まず話し合ってからリズム録りをやっていった形ですね。その段階では岡田くんと谷口くんはいてもらわなくても良かったかもね……待ち時間がとにかく長いから(笑)。

谷口:俺たちも10回くらいguzuriに行ったけど、結果そのうち3回くらいしか録ってないですからね(笑)。

ダビングの段階で呼ぶだけで良かったんじゃないか、と(笑)。

谷口:まあいま思えば、自分のプレイのためにも作業の過程を見ておいてよかったと思いますけどね。

じゃあ、基本アレンジは録音をやりながら決めていく感じ?

笹倉:プリプロ兼本番録音みたいな形ですね。

相当各メンバーの当意即妙的センスにかかっている感じがしますね。それをオッケーにできるというのがさっきおっしゃっていた信頼関係ってことなんだろうなあ。やはり理解し合っていない人同士だと成り立たなそうです。

笹倉:まあプレイについては自己責任です(笑)。

笹倉さんが「そのプレイちょっと違う」みたいにディレクションすることも?

笹倉:そういうこともあります。逆にミックスのときにはメンバーの意見もちゃんと聞いてやっていきました。

今回の録音は全てguzuriでおこなわれたんでしょうか?

笹倉:基本はそうです。1曲だけ岡田くんがオーヴァーダブを彼の自宅でやっているけど。

岡田くんと谷口くんは、guzuriで既に何回かレコーディングを経験していると思いますけど、通常のスタジオにはないあの場所ならではの魅力ってなんでしょう?

岡田:やっぱり建物全体に日が差してくるのはいいですよね。すぐ外に出られて、しかも公園の近く。

たしかに周囲の環境も素晴らしいですよね。

谷口:「息が詰まるなあ」っていう感覚がないスタジオだと思います。

都市部の密閉されたスタジオとかだと、すごく不健康な気持ちに陥るときもあるしね。夜遅くまで狭いところにいて……。

谷口:そういうのはないですね。朝は朝だし、夜は夜。人間のリズムに沿った録音ができる。

普通スタジオ作業中って、食事も出前弁当ばっかりになってしまったり。

岡田:guzuriだと、ご飯はお店の料理を食べたり、近くの店まで美味しいうどんを食べに行ったりできる。機材が足りないなというときはすぐハードオフにも行けるし(笑)。

海外の郊外スタジオとかはそういうのが割と普通みたいですよね。もっと増えればいいのになって思う。昔のリゾート・スタジオのようなものじゃなくて、もっと日常と繋がっている感じの。
今回はマスタリングまで含めてエンジニアリングは笹倉さんが全て担当しているんですね。岡田くん谷口くんからみてエンジニアとしての笹倉さんってどんな印象でしょうか?

谷口:やっぱり何と言ってもguzuriの特性を知り尽くしていますよね。スタジオとしては特殊な作りだと思うんですが、どこにマイクを立てたらどういう音になるかというのを心得ているなと思います。

岡田:録り音も、楽器の前に立って聴いているというより、楽器を弾いている位置でプレイヤー自身が聴いているような音になっているなと思います。

やはり笹倉さん自身がプレイヤーだからプレイヤー目線の音ってことなのでしょうか。

岡田:そうかもしれないですね。いわゆる専業のエンジニアさんってアンプの前で鳴っている音を録るというのが一般的だしもちろんそれも良い音ではあるんですけど、笹倉さんはぜんぜん違っていて、弾いている側がいちばん気持ち良いと思う音を捉える。ドラムについても、ドラムの前で聴くより叩いている側から聴くのが本当はいちばん気持ち良いと思うんだけど、今回の音も増村くんが座っている位置で聴いているような感じでした。

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ジェームス・テイラーやブルース・コバーンなどのフィンガー・ピッキングで歌う人たちの演奏を聴いたときに、「こんな風に弾き語りできたら最高だよなあ」って思ったんです。それでジェームス・テイラーを音楽的に結構研究して。 (笹倉)


OLD DAYS TAILOR
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Folk RockIndie Pop

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アルバムの楽曲の話に入っていければと思います。ここ近年、笹倉さんはライヴを見に行くためだけに渡米するほど、ジェームス・テイラーにハマっていると伺っています。先ほど話にあったとおり、このアルバムでも各人のプレイ含め楽曲自体にもそのテイストが色濃く反映されていると思います。彼は単に「好きなミュージシャン」という以上の存在なんでしょうか?

笹倉:そうですね。僕がこれまで飽きないで音楽をやってこられた原動力です。10代の頃からずっとニール・ヤングを聴いてきたんですが、ニール・ヤングのプレイ・スタイルに飽きてきたというか(笑)。もちろん彼の音楽は素晴らしいんですけど、やっぱりひとりでライヴを演るとき、ニール・ヤング的表現だと曲やノリの面でできることがかなり限られてくる。その点、ジェームス・テイラーやブルース・コバーンなどのフィンガー・ピッキングで歌う人たちの演奏を聴いたときに、「こんな風に弾き語りできたら最高だよなあ」って思ったんです。それでジェームス・テイラーを音楽的に結構研究して。いまはYouTubeでどう弾いているかも大体見られるけれど、あんまり僕がインターネット派じゃなかったので、耳コピをして……

ジェームス・テイラーのギターを耳コピするのは難しそうですね。

笹倉:ベースからコードを追いかけていって。そしたら意外と簡単なコードだった(笑)。

そこからいまや外国まで追いかけるくらいにハマっているってことだと思うんですが、気づいたらドンドン魅せられていったということなんでしょうか?

笹倉:とにかく聴いていると幸福感がすごいんですよね。

なるほど。ジェームス・テイラーの魅力って実はとても言葉にしづらいと思っていて……。僕も聴けば瞬時に「最高だなあ」と思うんですけど、それ以上に具体的な言葉を紡げないというか。コード・プログレッションも洗練されているし、ハーモニー感覚も繊細。朴訥としたクルーナー・ヴォイスの魅力……各論的にはいろいろあると思うのですが。

笹倉:彼はまず、歌のピッチがめちゃくちゃ良いんですよ。圧倒的に上手い。複雑な音楽性とかいろいろあると思うんですけど、単純に音楽として素晴らしく完成度が高いんですよね。

そうですね。たとえシンプルな弾き語りだとしても異常なほどにウェルメイド。

笹倉:「下手だけどいいよね」とかそういう次元ではなくて、ただ単純に「良い」っていう。

岡田くんと谷口くんのふたりにとっては、ジェームス・テイラーってどんな存在ですか?

岡田:しばらく聴いていなかったんですけど、今回久々に聴き直しました。個人的にAORにハマってたことあって、特に70年代半ば以降の作品とか素晴らしいなあって改めて思ったり。それと、ジェームス・テイラーって似た人がいないなと思って。あんなに売れているのにフォロワー的な人がいないんですよね。

たしかに。兄弟たち……たとえば弟のリヴィングストンも似ているようでやっぱり違うしね。

岡田:兄のアレックスはぜんぜん違うし。

谷口:妹のケイトも違うし。

岡田:誰も真似しないというか、おそらく真似できない。今回彼の音楽を下敷きに制作してみたら本当に難くて。曲の作りもそうだし、演奏も何も演っていないよう思わせつつああ聴かせるなんて簡単なことではない。あそこまで普通にいい曲なのにオンリーワンな存在って他に浮かばないなあ、って思います。

決してトリッキーということではないのに。

谷口:そうなんです。でもやってみると難しい。

岡田:極端な話、スティーリー・ダンの方が簡単じゃないかと思います(笑)。

谷口:譜面化できない難しさみたいなのもあると思うんですよね。スティーリー・ダンは譜面にすればMIDIでも演奏できると思うんですけど、ジェームス・テイラーの音楽はおそらくMIDIでは再現できない。しかし彼自身は何を聴いてきてああいう音楽を作るようになったのかがよくわからないですよね。

岡田:ニュー・ソウル以前なのにニュー・ソウルっぽい感覚があるよね。

笹倉:そういえば「ジェームス・テイラーが影響を受けたサウンド」っていうプレイリストがAppleMusicにあったな……(iPhoneを取り出す)

岡田:(プレイリストを見ながら)サイモンとガーファンクル、ビートルズ、バッファロー・スプリングフィールド、エリック・アンダーソン、レッドベリー、ロネッツ……

う~ん、たしかにそこら辺に影響を受けているっていうのも分かるんだけど……ジェームス・テイラーのあの独特の洗練に直接的につながらない気が……67年にダニー・クーチと一緒に演った音源でその後発掘されたフライング・マシーンの音源とか聴いても既に洗練されているんだよね。ラヴィン・スプーンフルなどのハーモニー、アンダースンポンシア系のプロの作家っぽさ、あとはフレッド・ニールとかのジャジーなフォーキーさ、そういうものが融合している感じが……。

岡田:時代的にもフォーク・ロックとかに影響を受けると普通はサイケになりそうだし、本人もめちゃくちゃジャンキーだったのに曲はまったくもってフレッシュっていうのがよく分からない。見た目もすごく繊細そうでシャープで……モンテ・ヘルマンの『断絶』に出ているジェームス・テイラーの目つき、あればヤバイ(笑)。

なんだかジェームス・テイラーの話ばっかりになっちゃいましたけど(笑)……笹倉さんは日本語の自作詞をそこに載せる。アルバムを聴くと簡単にやっているように聞こえるかもしれないけど、実際はすごく大変なんだろうな、と思いました。

笹倉:メロディーから作るわけですけど、音節的にぜんぜんうまく日本語詞が乗らない。言葉の意味の面でも、日本語ならではの伝わり方がうまくメロディーにハマらなかったりします。

たしかに直接的にロックっぽい……わかりやすく言うと仮に内田裕也的な歌詞を乗せたらすごい珍味なものになってしまいそうですよね(笑)。そう思うとやはりはっぴいえんどというのは先駆的という意味でも偉大だったと思うんですけど。

笹倉:そうですね。

今後はさらに音楽への向き合い方をいちばん純度の高い形に持っていきたいなって。そういうところにもう一回立ち返りたいなって気持ちがあるんです。だから自分の見え方をビジネス的にどうしていこうとか、いまはぜんぜん興味がない。 (笹倉)

今作でもいろいろなトライを経てこうなっていると思うんですけど、非常に上手く日本語が乗っていると思いました。我々がネイティヴだからというのもあると思いますが、日本語って言葉のチョイスによって意図していた以上に意味を発揮してしまい、それに他の要素までが支配されてしまうということがあると思うんですけど、この作品ではそれが周到に避けられているなと感じました。例えば、“過ぎたことのように”のなかでタイトルをリフレインするところとか、割とインパクトのある句が繰り返されているはずなのに、いい意味で音に埋まっている。大人の技巧を感じました。匠の技(笑)。
岡田くんと谷口くん作の曲についてもお話を聞かせてください。まず岡田くん作“午後の窓”。

笹倉:森は生きているの頃の曲なんだっけ?

岡田:元々は森は生きているの最後の方にライヴで演っていた曲ですね。

これを持ち込もうと思ったのはなぜ?

岡田:笹倉さんに「なんか曲ないの?」って言われて。僕のソロ・アルバム用にも録っていたんです。森は生きているのヴァージョンとソロ・アルバムのヴァージョンはお蔵入りしていているし、ちょうど増村くんが歌詞を書いていたし、このバンドで違うテイストのものをやってみたらどうかなって思って引っ張り出してました。

これはジェームス・テイラー的世界とは違って、若干『ロングバケーション』ぽさもあって。岡田くんの趣向が反映されつつ、しっかりバンド感もあって。ヴォーカルも岡田くんが担当して……

笹倉:いや、これ僕の声です(笑)。

え!? 岡田くんの声にそっくりじゃないですか?

谷口:似てますよね。僕も最初歌入り版が上がってきたとき「ヴォーカル、デモのまんまじゃん」って思いました(笑)。

笹倉:僕と優河ちゃんの声をユニゾンで重ねているんです。

なるほど! それでこの声の質感になっているのか……面白いなあ。
そして谷口くん作“アフター・ザ・ガール”。すごく谷口くんっぽいなあって思いました。わ、ジェイホークスみたいだ! って(笑)。

谷口:これも元々は、岡田くんから森は生きているの最後の方に「なんか曲ないの?」ってメールが来て、そのとき出した曲ですね。

岡田:そのときは結局ボツにしたんですよね(笑)。

谷口:歌詞もメロディーもなかったから、いま思えばそれで提出するっていうのもどうかと思うんですけど(笑)、どこかで使いたいなと思っていたので、今回メロディーも作って増村くんに歌詞を書いてもらって。

一瞬のホッとする感じが良いですねえ。バンドとして、ふたりの曲が入ることによって音楽性の幅が出ていて良いなと思いました。あと、大滝詠一のカヴァー、“恋の汽車ポッポ”。これは笹倉さんの選曲?

笹倉:そうです。これも実はジェームス・テイラー・スタイルなんです。ジェームス・テイラーがチャック・ベリーの“プロミスド・ランド”をカヴァーしているものがあって。そのアレンジを参考にしています。自分でこういうテイストの新曲を作るのもアリかなって思ったんですけど、バンドのあり方として、かつての音楽を紡ぎ直すというスタンスも大事にしたかったから、日本の名曲を違ったスタイルで継承するっていうのも良いなと思ったんです。ジェームス・テイラーもそうですけど、シンガー・ソングライターでも昔の曲を継承するっていうスタンスは割と欧米では一般的だし、自分もそういうのをやりたいなあと思った。

いまおっしゃった何かを継承していくという意識はOLD DAYS TAILORというバンド名にも通じますよね。ブックレットの最初のページに笹倉さんによるメッセージが入っていますよね。「在りし日を紡ぎ仕立てることで生まれた、音や言葉が……」という。ただ過去を向くのではなく、何かを継承していこうとすることの貴さ、そういう気概を感じます。一方で“過ぎたことのように”では「なにもない海を見ていると なぜだか ありもしない記憶に 胸がきしむのです」「波間に見えた舟の 知るはずのない痛みを 覚えている」という、体験してないことを体験していたことのように思う視点というのもある。過去といま、というものの繋がりへの繊細な視座を感じます。このアルバムの制作中、時間が過ぎていくことや、自分が移ろっていくことと、そういうものに対して感覚がとても鋭敏になっていたということなのでしょうか?

笹倉:そうですね。でも制作中だけというより、昔からずっと変わらない感覚かもしれないな。

谷口:たしかにguzuriの周りのあの環境で過ごしていれば、そうなるのかも。

やっぱり笹倉さんから見て「世の中もうちょっと落ち着けよ」って思いますか?

笹倉:いや、そんなことはぜんぜん思わないですね。

都会から離れた環境にあえて自分をおいて時間の流れから身を閉ざすという人もいる思うんですが、そういう感覚ではないと。

笹倉:そうです。

そうか、元々の生活がそこから始まっているわけですものね。だからこそ、アルバムに描かれている光景は、ゆったりしているところもあるんだけど、一方で現代に生きている人が皆感じている時間感覚があるのかもしれないですね。その不思議なバランス感は笹倉さんの音楽の大きな魅力のひとつだなあと感じます。

笹倉:都会も田舎も、どちらも僕は好きですね。

岡田くんと谷口くんのふたりはどうですか? 都会から逃げ出したい願望というか……。

岡田:僕も以前まで福生に住んでいていまは国立だから、そんなバタバタしている感じじゃないですね。

谷口:僕も都心在住ってわけじゃないので。

ああ、そう考えると、OLD DAYS TAILORのメンバーは武蔵野中心にみんなサバーバンな人たちでもあるんだね。そういうみんなの感覚がじんわり出ている気がします。
さて、いよいよリリースになりますが、今後の展望は?

笹倉:この先のことを考えるとなんだか疲れてきてしまって……(笑)

いろんな人にどうやって聴かれるかを想像すると、ってことですか?

笹倉:いまはあんまりそういうことを考えないで音楽に接したいんですよ。ミュージシャン主導でガシガシ宣伝のこととかも考えなきゃやっていけない時代だとは思うんですけど。音楽制作を続けていくなかでもサイクルがあって。いろいろ意識を高く持ってDIYでやっていかなくては、って思うときもあったりするんですけど、いまはもう高校生くらいの気分。

どういうことですか?(笑)

笹倉:これまでずっと自分なりに言葉と音楽の関わりをひたすら考えながらやってきて、今回のアルバムはそのひとつの結果ということになると思うんですけど、今後はさらに音楽への向き合い方をいちばん純度の高い形に持っていきたいなって。そういうところにもう一回立ち返りたいなって気持ちがあるんです。だから自分の見え方をビジネス的にどうしていこうとか、いまはぜんぜん興味がない。でも立ち返るためのいろんなことを考えるとまたそれはそれで面倒くさくて疲れてしまうんだけど……(笑)

このアルバムもそういう気持ちに立ち返りたいというのを念頭に作ったんでしょうか?

笹倉:そうですね。

だからなのか、純粋な音を奏でる歓びに溢れていると思いましたよ。

笹倉:ありがとうござます。だからこそ、こういうことは考えたくないんだけど……やっぱりもちろんたくさんの人に聴いてもらいたいし、売れてほしいな、っていうのはありますね。あれやこれや僕が考える必要がなくなるように(笑)。

7/11にはレコ発公演も予定されていますね。ライヴはどんな感じになりそうですか?

谷口:レコーディングでも、重ねなしのリアルなバンド・サウンドそのままにライヴで再現できるように作られた作品なので、ぜひアンサンブルの気持ち良さをを聴いてほしいですね。

笹倉:なかなかライヴを頻繁にできるバンドではないので、7/11、ぜひ来てほしいです。

楽しみにしています。今日はありがとうござました。

interview with Jim O’Rourke - ele-king

 ジム・オルークのようなミュージシャンについて書くことはつねにひとつの挑戦となる。彼の作品が表面的に見える部分にとどまることはまずありえない。リスナーにたいしていかに作用しているかという部分を見えなくするためのその慎重なメカニズムは、ほとんど不可視の創造的プロセスなのである。おびただしいほどの複雑さや音楽的知性が、まるではじめから存在していたもののように、作品を完全に自然なものにし、わかりやすいものにさえしている。制作のさいに彼がとるアプローチには、アカデミックな訓練からくる要素がはっきりと含まれているにもかかわらず、その一方で、出来上がった音楽のなかには、あふれるほどの情感がこもっている。

 最近の比較的目立ったリリースであり、予期せぬかたちでロック的な作曲に回帰するものだった、2015年の『シンプル・ソングス』は、すぐに親しみをもてるロックなリフレインが、聴く者がどこをどんなふうに旅しているのかをまったく気づかせないままに、未知なる音楽的領域と完全に混じりあうようなものだった。アンビエントにフォーカスをあてた新しいレーベルである〈NEWHERE〉からリリースされた最新作『Sleep Like It’s Winter』で彼は、冷たく、危なっかしく、しかし生気にあふれた、美しい45分のインストゥルメンタルの楽曲とともに、また根本的にまったく別な音の世界に身を置いている。

E王
Jim O'Rourke
sleep like it’s winter

NEWHERE MUSIC

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 『シンプル・ソングス』と『Sleep Like It’s Winter』のあいだに、バンドキャンプ上でおよそ2ヶ月に一度のペースで配信された、オルークの『Streamroom』シリーズとして、22曲の別々の作品がリリースされている。そのうちのいくつかは、アーカイヴから過去の楽曲を発掘して出したもののようだが、これほど急激なリリースの流れのなかにはきっと、彼の制作を解きあかす手がかりとなる何かが見つかるはずだ。じっさい、『Sleep like It’s Winter』の直前に『Streamroom』でリリースされたもののなかには、共通する部分もある。

 アンビエント・ミュージックとは、これほどレイヤーが重ねられ、何層にも織りなされるものではない。それは定義上ほとんど分析を拒否するようなものであり、もっぱら意識の外側の部分に作用するものだ。だがそれにもかかわらず、『Sleep Like It’s Winter』は、聴きかえすたびに新たな発見がもたらされる、さまざまなアイデアに満ちた、非常に意識的なアルバムだと感じさせるものである。


たいていの人はイーノと答えるんでしょうね。だけど私の場合それは、マイケル・ナイマンの『実験音楽 ケージとその後』という本までさかのぼることになると思います。高校生のころに初めて読んだんですが、とてもすばらしい、重要な本です。


一般にアンビエントとかドローンといった言葉で評されている音楽について語るのは難しいと、個人的にはずっと思っていて……。

J:ですよね。じっさい私も、アンビエントの作品を作ってほしいというかたちで依頼されて、だからこそやってみようという気にもなったわけですが、はじめからアンビエントの作品を作ろうとしたりはしませんでしたしね。これがアンビエントのレコードだっていうものよりも、アンビエントに近いものを作ろうという感じです(笑)。私のやっていることはたいてい、〈それに近い〉ことだといえると思います。それは、〈これこそがそれだ〉っていうものとは対立するものなので。

それを聞いて思いだしたのですが、以前にもあなたは、批評家のようなやり方で音楽制作にあたるというご自身のアプローチにもとづいた発言をされていましたね。

J:はい。私は音楽を楽しみのために作っているわけではありません(笑)。たしかにそんなようなことをいいましたね。自分と比べようというわけではないですが、若いころに私は、ゴダールからのある引用を読んだんですよ。それは、「映画について批評する最良の方法は、自分でもう一本映画を作ることだ」というものでした。幸運にもまだ若いころにその言葉を知って以来、その言葉はいまもずっと私に突きささったままで、自分の制作の基礎の部分になっています。

新作にはどのくらいの時間をかけられたんでしょう?

J:だいたい2年です。

制作をはじめられたころはまだ東京に?

J:まだ東京にいました。うん、最初に依頼のあったときは東京でしたね。だけどそのころはまだほかにもいろいろと進行中の仕事がありました。なので最初の6ヶ月はたしか、じっさいに何かはじめるというよりは、いろいろと考えをめぐらせていたという感じだったと思います。いったいぜんたい「アンビエント」ってどんな意味なんだろうとか、世代によっても意味が違ってくるぞとか、そんなようなことについて、いろいろと考えていました。はじめはに依頼されたときは、「新しくアンビエントのレーベルを立ちあげたんです」といわれて、私としてはただ、「ああ、そうですか……」という感じだったんです(笑)。「特定のジャンルのレコードを作る」という発想のもとにレコードを作るなんて、ひどく忌まわしいことな気がして。だけどやってみることに決めました。逆にこんなにゾッとするようなアイデアもないなと思ったからです(笑)。アンビエント・ミュージックが嫌いなわけではありませんよ──そういうことじゃない。自分ならそんなふうに制作にはのぞまないというだけのことです。ともかく、奇妙な依頼だからこそ受けてみようと決めたわけです。

アンビエント・ミュージックと聞いて、あなたがいちばん最初に参照する足場というか、その枠組みになるようなものはなんですか?

J:うーん、たいていの人はイーノと答えるんでしょうね。だけど私の場合それは、マイケル・ナイマンの『実験音楽 ケージとその後』という本までさかのぼることになると思います。高校生のころに初めて読んだんですが、とてもすばらしい、重要な本です。その本のなかで語られていることのなかには、イーノはほんのすこししか出てきませんし、それに(イーノ自身は)まだそのころ、「アンビエント」という言葉は使っていません。かわりに彼が参照しているのは、「家具の音楽」という(エリック・)サティのアイデアです。あとはきっと、イーノの『Discreet Music』のジャケットの裏面だと思います。あのレコードの裏では、ほかでもなく彼自身が作品の背景にあるアイデアを語っていて、あとはそれが技術的にどんなふうに作られたかを示すダイアグラムも載っているんです。あれには若いころ、かなり感化されました。だけど、アンビエント・ミュージックについて考えるとなっても、私はかならずしもイーノのことは考えませんね。というのも私は、イーノのじっさいのアンビエント作品が、つまり彼がその後にむかっていった、『アンビエント』と名づけられた一連の作品が、正直なところそれほど好きじゃないんですよね──彼を尊敬していないというわけじゃないですよ。ただ私の好みではないというだけです。ある意味では、サティによる定義のほうが好きですね。つまりそれは、「家具の音楽」で、ようするにBGMのようなものなんだということです。だとすればそうした音楽は、積極的な目的意識をもって聴かれるためのものじゃないということになりますし、リスナーは、流れてくる音楽の形式的な構造に従う必要はないということにもなるでしょう。サティの定義はある種、「アンビエント」という言葉が何を意味するかという、その言葉の捉え方の変化を促してくれるものだと思います。この作品を作りながら、私にとっていちばん大事だったのは、「ひとが作品の形式的な構造に、完全に見切りをつけてしまおうと決める境界線はどこか」ということであり、「形式的な構造は感じられるままでありながら、それがうるさく迫ってくることのない境界線はどこか」ということでした。

形式的な構造という点で、話をイーノに戻すなら、彼はどこか、音楽から演奏家をすっかり取りのぞいてしまうというアイデアに興味をもっているような部分がある気がします。

J:そいう音楽観は、私も自分の全生涯をかけてすこしずつ、ですが確実にむかっていっているものですね(笑)。その点では、ローランド・カイン(※Roland Kayn/ドイツ出身の現代音楽/電子音楽家)の存在が私にとっていちばん大きかった。彼の音楽はアンビエントだといわれたりしますが、そう呼ぶにしてはあまりに攻撃的すぎます。彼の音楽のアイデアは、システムを生みだしておきながら、あとはそれを好きなようにさせておくというものです。そんなふうに好きなようにさせておいたとしても、当初にあったアイデアが表現されたままであるような、そんなシステムをいかにして作りだすか、そこに挑戦があるわけです。過去10年のイーノの作品のいくつかや、ナンバー・ピースのようなケージの作品のいくつかに注目してみれば、彼らがそうしたシステムを作っているのがわかると思う。ケージ後期のナンバー・ピースはかなりおもしろくて、一見したところそうは見えないにもかかわらず、じっさいにそれを正確に演奏してみようとすると、かなりの厳密さが要求されるものなんですよね。カインのような人物や、イーノがやっていたこと、とくに70年代にやっていたことからいえるのは、彼らは、いずれにしろ何かしらの成果はもとめていつつも、だけどそれにたいして自分からはけっして干渉しようとはしないということだと思います。


このところ、だいたい2ヶ月に一度くらいはバンドキャンプ上に新しいものをアップされていますね。ああしたものを聴いていると、リアルタイムにではないですが、この最近あなたが何をしているか、もうだいたい把握しているような気分になります。

J:そうですね。バンドキャンプは、インターネットが生みだしたもののなかでも、例外的に好きなもののひとつなんです。聴きたいひとが50人しかいなかろうが、とにかくそこで聴けるというところが気に入っています。レコードをリリースすることで生じてしまういろんなこととは一切なんの関係もなくいられるなら、それにこしたことはありませんからね。わかってもらえると思いますが、私にとって、作品ができあがったらもうそこで終わりなんです。そのときにはもう私は、別のどこかへむかっていますからね。

そんなふうにバンドキャンプで発表された作品は、今回のアルバムに何か影響を与えましたか?

J:あのなかのひとつかふたつは、今回のアルバムの失敗したヴァージョンだといえるかもしれません(笑)。正直にいってバンドキャンプの曲は、ああいうものが聴きたいひとたちのなかの、50人とか80人のためのものなんです。「ほら、みんなこんな感じのが聴きたいんだろ、聴いてみてくれよ」っていうふうにやっているだけです。あんな感じのものは今回の作品には関係ないですね。バンドキャンプの作品にかんしていえば、80曲なら80とおりの失敗した部分があるっていう感じですかね。


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90年代の黒沢清は、この点で他の追随を許さない存在でした。たとえば『蛇の道』とか『蜘蛛の瞳』といった作品のなかで彼は、並外れたやり方で時間の問題を扱っています。ひとつのイメージに結びつけられて見られていたものを再構成し、そのなかで生まれていた時間についての知覚を再構成すること、それが彼のやり方です。


Jim O'Rourke
sleep like it’s winter

NEWHERE MUSIC

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今回のアルバム『Sleep Like It’s Winter』のなかには、聴覚のぎりぎりの部分で聴こえてくるような音がたくさんありますね。音があらためて鳴りはじめるまでのすこしのあいだ、ほとんどまったくの沈黙(サイレンス)がおとずれることもあります。

J:うん、そうですね。80年代の後半とか90年代のはじめのころの、ごく初期の私の作品の多くには、かなりそういうものがありました。ですが若かったのもあって、まだほかの人のやり方を真似しているだけでした。私は沈黙を真似していたわけです(笑)。じっさい当時は真似したくなるようなものがたくさんあって、たとえば(ジャチント・)シェルチ(※Giacinto Scelsi/イタリア出身の現代音楽/電子音楽家)のやっていたことなんかは、大学時代ものすごくのめりこみましたね。あとは、やはりはまっていたリュック・フェラーリ(※Luc Ferrari/フランスの現代音楽/電子音楽家)の作品の多くのなかにある沈黙の意味について、真剣に考えてみたりとか。あと当時は、ハフラー・トリオとかP-16.D4(※80年代ドイツの電子ノイズ・プロジェクト)といったわけのわからないものもありました。ですが、ああいうものを本当に理解できるようになったのは、もっとずっとあとになってからでした。沈黙というのは、ラウドな部分と同じように、強弱法の一部なんです。じっさいに何かを聴く行為のなかでは、時間というものがいろいろなことを意味するものです。そして時間は、何かしらの音が流れているよりも、沈黙のなかでこそ、決定的なかたち知覚されるものです。だから沈黙とはそのまま時間でもあるといえると思います。できることなら私としては、沈黙の使い方によって、時間の知覚のされ方を拡張したいと考えてるんです──上手い具合にドラムのフィルインが入っているのと同じようなことですね。

つまり沈黙は、作品の全体的なリズムとして機能しうるということですね。

J:そう、まさにそのとおりです。今回の作品を作るにあたって、もうひとつ何度も考えたのは、作品が「アンビエント」だからといって、あるいはパーカッションの要素とかそういったものがないからといって、そこにリズムがないわけではないということです。なので、リズムの役割とは何かとか、リズムがそれ自身を主張するにはどうしたらいいかとかといったことについても、かなり考えてみる必要がありました。沈黙というのもそういう問題の一部なんです。つまり、沈黙も音声上の句読法の一種で、カンマとか、ピリオドとか、あるいはセミコロンのようなものでありえるわけですよ。もちろんその前に何があって、そのあとに何がくるかも重要ですが、大事なのは、ピリオドやカンマのあいだにある違いに気づくことができるようになるということです。今回の作品には決定的な沈黙の瞬間がひとつあって、それはカンマとして機能しています。それともう一箇所、3つのピリオドが連続して出てくる箇所もあります。すくなくとも私としてはそんなふうに考えていますね。

今回の制作をとおして、アンビエント・ミュージックのなかにもクリシェがあると思われましたか?

J:はい、それはもう完全にあります。これは制作をはじめる前からわかっていたことでもあります。というのも、私がアンビエント・ミュージックを聴かない理由は主にそれですからね。ようするに、本当に多くのアンビエントの作品がメジャー・セブンス・コードで、ハーモニーが重要視されているものばかり──つまりどうやってそれでハーモニーを生みだすかを考えているものばかりだったわけです。あとは、メジャー・ナインスもすごく多い。パーフェクト・フィフス以外では、アンビエント・ミュージックのなかで、このふたつがハーモニーをかたちづくるもので、それをつかってどうやってハーモニーを作るかが、アンビエントの問題だというわけです! 私としてはむしろ、倍音に近いものを生みだしたかったので、ハーモニーは欲しくありませんでした。ドローン風のやり方の場合、本当に問題になるのは倍音で、ハーモニーではないからです──とはいえ、こういうことは制作を進めながらその場で気づいていったことですけどね。記憶しているかぎり、失敗したヴァージョンはすべて、このふたつが混ざりあってしまっているようなものです。一度録音が終わってしまうと、ミックスの作業のあとであらためてそれを聴いたのはマスタリングのときだけで、だから、作品がどんなふうなのかは、いまはもう忘れてしまっているところがあるんですよね。失敗したものからはとても多くのものを学びましたが、できあがったものから何か学んだかといえば、ちょっと心もとないですね。答えが見つかったというより、次の問いが見つかった感じというか。これはいつものことで、ようするに私は、答えを信じてはいないんです。ある問題の解決というのは、さらに次の問いへと続いていくべきだと思っています。

まるで特定のジャンルで制作している映画監督みたいですね。あなたは、こんなふうに選ぶわけです。「あの定型を使ってすこし遊んでみようかな。いやそれとも、いっそあの定型をめちゃくちゃにしてみるのもいいな」と。

J:それはとてもよくできた喩えですね。というのも、若いときの私は、音楽なんかよりもずっと、そういうタイプの映画監督に影響されたんですよ。いつか映画監督になりたいとずっと思っていました。ですがそれには金がかかりすぎるし、だいたいどんなふうに生きていかなきゃならないかわかってしまって、けっきょく実現はしませんでしたけどね。ロバート・アルドリッチとか、リチャード・フライシャーみたいな監督には本当に影響されました。彼らは、そうしたジャルルの定型という檻のなかに身を置いているにもかかわらず、ほんとうにいろんなことをやっているんですよ。そういうところを見るのが好きでした。ウィリアム・フリードキンなんかは、私のスーパーヒーローです。本当に好きですね。『L.A.大捜査線/狼たちの街』のような映画がジャンルの決まりごとをどう扱っているかを見ると、まったく驚くべきものがありますよ。いまでは真正面からこちらを睨みつけてくるその特大サイズのポスターを持っているほどです。さっきいった制作についての考え方は、ほかの何にもまして、本当に、映画に由来しているものなんです。とにかく映画からはいろんなアプローチの仕方を学びました。

たしかに、かなり簡潔なまとまりのなかでストーリーが語られるポップ・ミュージックと比べると、たったひとつの要素がアルバム全体にまで拡張されたようなものであるアンビエント・ミュージックは、より映画的なリズムのなかで展開していくものかもしれませんね。

J:そうですね。構造についていえば、ほかの芸術の形式と比較したとき、音楽が雄弁には伝えることのできないものとして、時間を後ろむきに扱うことが挙げられると思います。音楽が時間を変えられるとしても、それは何かしらの参照軸を作ることをとおしてのことです。音楽が形式的な構造をもってはじめて、つまり構造的な参照軸やメロディーによる参照軸をもってはじめて、それが可能になるわけです。ですがもしそれが、たんに何かを思いだされるだけなら、時間を再構成したことにはなりません。90年代の黒沢清は、この点で他の追随を許さない存在でした。たとえば『蛇の道』とか『蜘蛛の瞳』といった作品のなかで彼は、並外れたやり方で時間の問題を扱っています。ひとつのイメージに結びつけられて見られていたものを再構成し、そのなかで生まれていた時間についての知覚を再構成すること、それが彼のやり方です。そんなふうにして、たったひとつのイメージからでさえ時間についての知覚を変えてしまうのです。視覚芸術にはこうしたことが可能ですし、いうまでもなく文章を書くことでもそれは可能です。だけど、それほど雄弁な仕方でそうした問題を扱うツールが、音楽にはない。かなり不器用なかたちでしかできないんです。私が大学のころから興味をもってきたのは、そうしたことです。シュトックハウゼンとか、ああいったものについて学んでいたのも、そういう問題に興味があったからでした。一連の「モメンテ」作品を制作していたシュトックハウゼンには、つねにこの問題があった。60年代から70年代にかけて、シュトックハウゼンのような作曲家たちは、音楽のなかに時間の問題をもちこんだわけです。とはいえ、じっさい驚くような成果も生まれてはいますが、いずれにしても上手くいっているとはいえないと思います。時間の問題は、音楽というジャンルのなかでいまだに問われるべきものとしてありますし、私もそれについて多くのことを考えつづけています。そしてこの問題を定期的に思いださせてくれるのは、やはり音楽よりも映画なんですよね。


ちょっと馬鹿げた例ですが、若いとき、毎年『裸のランチ』を読んでいて、読みかえすたびに、本についてよりも自分自身について学んでいることに気づいたんです。本が変わるのではなく、自分自身が変わっているのがわかったわけです。いうまでもなく本の内容が変わることはない。書かれてることは以前から変わらないですからね。


あなたは以前、音楽を制作するにあたって、定期的に自分自身を妨げるものを生みだすんだとおっしゃっていましたね。

J:いまはかつてほどではないですね。たしかにいまより若いころは、そんなふうにすることが必要だと考えていました。なんというか、いまは自然に自分自身を失敗させることができている感じです。ことさらに意識してやっているわけではなくて、私の脳がそういうふうに働いているということですかね。若いころはそうしなければいけないと思っていたわけですが。若いころといえば、そのころはまだ制作に使ういろいろな道具がなかったじゃないですか。あれは素晴らしいことですよ。道具ばかりが増えすぎてしまうのは本当に最悪なことです。道具を持てば持つほど、できることは少なくなっていく。「ああしたものには触れずにおこう」と考えることは、それ自体具体的な制約になりますからね。じっさい、この作品に使われている楽器は3つだけです──あ、失礼、4つですね。短波ラジオを楽器と見なすなら4つです。

この作品ではどなたかとのコラボレーションはありますか? それともすべてご自分で?

J:私だけです。ドラムを入れてもらおうかという計画もあったんですが、実現はしませんでした。だから、ハードディスクのなかが、使わなかったドラム入りのヴァージョンでいっぱいになっていますよ(笑)。

いまは地方にお住いなわけですが、引っ越されたことは作品に影響を与えているのでしょうか?

J:以前より制作に集中するようになったことですね。集中力を途切れさるものがあまりないので。20代前半の感じにすごく近くなっていると思います。何日も徹夜なんてこともあるくらいで。テープ・マシンをもって部屋にひきこもって、あとはもうノンストップで作業したり。いますぐにまたやりたいかといわれたらそうでもないですが、ともかくこのところは、もう一度そんな心構えをもつことができるようになりました。これは長い間できていなかったことです。

あなたは「ジム・オルーク」という名義で幅の広い音楽をプロデュースされていますが、とくに日本では、「今回はこういうプロジェクトで、こういう感じの音なんだ」というような理解がはびこっているように思います。前に私の友人がライヴをやったんですが、終わったあとに、会場のマネージャーがこんなふうにいったんです。「うーん、これなら3つの別のバンドに分けてやるべきだな」。

J:そうですね。それはとても還元的な考え方です。そしてそういう考え方はたしかに、ほかのどこよりも日本のなかで共有されてしまっているものかもしれませんね。

以前あなたは、アーティストの仕事を、バラバラなものとしてではなく総体として考えるには、いまは厳しい時代になっているとおっしゃていましたね。

J:はい、音楽の場合はその傾向がより顕著だと思います。たとえば、誰かが「ヒッチコック」といったとします──この場合ひとは、自分の好きなひとつかふたつの映画のことをいっていて、「ヒッチコックの作品」全般についていっているわけではない。こういうことが音楽の世界で一般的なものになってしまっているんですよ。というのも、音楽の世界は、そうした社会的で政治的な考え方とはっきりと結びついているからです。でも、それをどう考えるかというよりも、何よりもまず商品として存在せざるをえないポピュラー・ミュージックの分野では、そういうふうに考えるひとはそれほど多くはありません。好きか嫌いかという話とは別に、フランク・ザッパは例外的な見られ方をしている人物ですね。だいたいいつもロック・バンドと一緒にレコードを制作していたにもかかわらず、ひとは「フランク・ザッパの作品」全体について考えています。あとは、たとえばボブ・ディランのような人物もそんなふうに考えられていますね。だけどいずれにしろ彼らは例外で、一般的にはそうではない。

では、ご自分の音楽のなかには、つねに回帰するようなテーマがあるとお考えですか?

J:まったくそう思いますね(笑)! どれも同じですよ。本当に同じことをやっているだけです。ピカソ本人だったか、別の誰かだったかが、ピカソの作品についていったことと同じです。「何度も何度も、ただ同じ絵ばかりを描いている」って。

『シンプ・ソングス』のようなアルバムと、今回の『Sleep Like It’s Winter』のようなアルバムとの関連性についてはどうお考えですか? あるいはカフカ鼾の『Nemutte』のような作品との関連についてはいかがでしょう?

J:私が作った、ということでしょうかね(笑)。冗談のように聞こえるかもしれませんが、ある意味で、その質問にたいする答えとしてはこれがベストだと思います。私がやろうとしていることのある側面が、ほかのものよりもよりはっきりと出ているということはあるかもしれませんが、いずれにしてもそれは、どのアルバムにも含まれていることだと思います。

私の聴いたかぎりでは、それぞれの作品をつなげているのは、要素が移りかわっていくときに聞こえてくる多様なレイヤーの存在ではないかと思うのですが。

J:『The Visitor』という作品は聴いてもらえましたか?

ええ。とはいえ、じつは今日はじめて聴いたのですが。

J:あの作品がたぶん、いちばん上手くいったものだと思います。いろいろ改善するべきとことはありますが、やってみたいと思っていた音楽にいちばん近いのはあれです。あれはもう全体が、いまおっしゃったような要素の移りかわりにかかわっているものですね、本当に──クレイマーなら、「あっちにいったりこっちにいったりしてどうしようもねえ!」って叫ぶところですよ(※クレイマーとは、『となりのサインフェルド』というアメリカのコメディ・ドラマでマイケル・リチャーズが演じている登場人物。彼が下着をブリーフからボクサーパンツに変えたら、陰嚢が揺れてまったく最悪だよ、というシーンから)。だけどそういう移りかわりについては、理論の上で考えるわけではないんです──つまり、「よし、このへんでちょっと雰囲気を変えてみよう」というふうに考えたりするわけじゃない──理論にもとづいたアイデアとか実践じゃなくて、じっさいにいろいろな要素を一緒にするときに、たいていの場合ああいうかたちになる、ってことなんですよ。絨毯を織るような感じですね。上手いアナロジーかどうかはわかりませんが、ようは、自分のやったことを音楽をとおして見せびらかすべきじゃない、っていうことです。全体をひとつにまとめるという部分に注目して見るなら、よくできた絨毯ていうのは、作り手の技術が、全体から受ける印象よりも悪目立ちしていないものであるべきですよね。だから、音楽制作のなかでいちばん難しいもの──それは作為を隠すことです。作為は隠されるべきです。この点は私にとって、本当に、ものすごく重要なことですね。

いまおっしゃったようなことは、ずっとあなたの制作の鍵になるものだったわけでしょうか?

J:ずっと考えていたことですね。いつからそんなふうに思うようになったのかは思いだせませんが、かなり若いころからそう考えていました。たぶん、そうですね……91年とか92年ごろ、それが生みだしているはずのもの以上に作品を過剰に飾りたてる習慣から抜けだしたころからだと思います。作為を隠すこと自体が、なくてはならない制作の一部なんです。制作の大部分は、それを隠すことにある。それを殺してしまうために命を与えなくてはならないものがあるわけです。いっている意味がわかってもらえますかね?(笑)

たしかに、最近のあなたの作品を聴く楽しみのひとつに、繰りかえし聴いているうちに、まったく別なものとして聴こえてくるということがありますね。

J:それを聞いて思いだしたことがあります。前にもいったことですが、私にとってすごく大事なことで、いまおっしゃったことに真正面から関係することです。高校生のころ、家から200ヤードくらいのところに映画館があって、毎日のようにかよっているうちに、だんだんとタダでいれてくれるようになったんです。だから本当に毎日かよっていたんですが、そんなかである日、やっぱり映画にいこうとすると、父がいうんです。「あの映画はもう観たじゃないか。なんでまた観にいくんだ?」。そこで私は答えんたです。だいたいこんな意味のことでした。「たくさんのひとが、たとえば1年とかそのくらいの月日をかけて、自分の人生をその映画を作るために捧げているんだよ。2時間でそれが全部理解できるなんてふうに考えるほど傲慢なことはないじゃないか」。映画の素晴らしいところは、たとえばこういうところです。いい映画ほど、その表面にすべてがあらわれることはない。コースのディナーみたいに、なんでもかんでも目の前に給仕してくれるわけではないわけです。見る者が自分から掘りさげる必要があるし、そういった共鳴がなければ機能しないものがそのなかにはある。これはとても大事なことだと思います。時間をかければかけるほど、共鳴する部分は増えていくんですよ。ちょっと馬鹿げた例ですが、若いとき、毎年『裸のランチ』を読んでいて、読みかえすたびに、本についてよりも自分自身について学んでいることに気づいたんです。本が変わるのではなく、自分自身が変わっているのがわかったわけです。いうまでもなく本の内容が変わることはない。書かれてることは以前から変わらないですからね。それもまた若いときの、とても印象ぶかい思い出のひとつですね。

いまのお話はきっと、何かに入りこんでいく自分なりの道を見つけるために、余白になるような部分をもっておくことが大事だという話ともいえるかもしれませんね。私の場合、ボウイに興味をもつまでにものすごく時間がかかったんですが、それは彼のことを「古典的なロック」と決めてかかってしまっていたからでした。だけどそんなレッテルは邪魔なものでしかなかった。ボウイの作品にはとても多くの入り口があって、だんだんと自分にあった入り口がわかっていったんです。

J:わかります。私の場合は、何年か前のキース・ジャレットですね。ECMは大好きで──とくに70年代のECMはずっと聴いてきたものでもあるので、もちろん彼のことは知ってはいましたし、好きだろうなとは思っていて、レコードも聴いてみるべきだと思っていました。それにいうまでもなく彼は、その世界におけるとても優れた人物で、しかもそれは、昨日今日の話ではないですからね。ですが最終的に彼のことがよくわかるようになったのは、本当にこの2、3年なんです……。

わかります。私がいいたいのは、入り口のドアはひとつじゃないということです。たくさんのドアがあって、私は自分自身のドアを見つけなくてはいけなかったわけです。

J:そうですね。きっかけになるようなひとつのドアがあるべきで、一度それを開けてしまえば、ほかのものは関係なくなってしまうんだと思います。それはちょうど……(笑)いやすみません、なんだか急にジェネシスの曲(※おそらく“The Chamber of 32 Doors”のことと思われる)のことを思いだしてしまった、申し訳ない!

ジェネシスの名前を出したからって謝ることはないですよ!

J:いえ、ジェネシスの名前を出したからといって謝るつもりはありません! 私ほどのジェネシス・ファンはそうはいないはずです──もちろん、ピーターが在籍していたころの話ですけどね。『眩惑のブロードウェイ』はいまでもずっと好きなアルバムです。それにしても、昔はジェネシスの名前を出したからって気まずい思いをすることなんてなかったんですけどね。

「ジェネシスの名前を出したからといって謝るつもりはありません!」 いい言葉です。このインタヴューを締めくくるのにぴったりかもしれませんね。どうもありがとうございました!

Marsesura / Uwalmassa / Wahono - ele-king

 ジャカルタの〈DIVISI62〉とデュッセルドルフでドントDJが主宰する〈Diskant〉傘下〈DISK〉の共同リリースとなるガムラン・テクノの4曲入りコンピレーション。ドントDJはキャリアも長く、そう簡単には紹介し切れないプロデューサーで、2016年にソロでリリースしたセカンド・アルバム『Musique Acephale』ではアシッド・ハウスやテクノにガムランを融合させることで新たに注目を浴びた存在。その彼(フローリアン・マイヤー)がその時からインスピレーションを得ていたのか、その後に育まれた縁なのかはわからないけれど、インドネシアでガムランをベースにテクノをつくっている3組をまとめて紹介するのは、ごく自然な成り行きといえる。3組とも男性なのか女性なのかもよくわからんちんですが、逸早くブルックリンのレーベル〈Maddjazz Recordings〉からヒップホップ風のトラックでデビューしていたWahonoと、その WahonoがRMPと組んだMarsesura 、そして、ここでは2曲を提供しているUwalmassaの3組がそれ。ざっくり言えばWahonoとUwalmassaが中心人物なんでしょう。コンピレーションのテーマは都会のスラムとダンドゥットと呼ばれるインドネシアの音楽、そして、シラットという武術だそうです。そう言われても何もイメージできませんが。
 まずはティンバランドのチキチキにガムランとフルートを載せたMarsesuraがオープニング。

 パーカッションだけのゆっくりとした展開から呪術的なムードはばっちしで、続くUwalmassaの“Untitled 10”ともども23スキドゥー『アーバン・ガムラン』(84)を思い出すなと言う方が無理だろう。ドントDJが持ち込んだテクノやアシッド・ハウスの要素はスパッと捨て去られ、あくまでもガムランの音だけで現代的な再構築が試みられている。Bサイドに移って”Untitled 06”ではヴォイス・サンプルも用いられ、シャックルトン式のダブステップに通じるものがあると指摘する声も(なるほど)。最後のWahonoは最も音数が多く、派手に鐘の音が叩き鳴らされる。ストイックなのに快楽的というか。
 カンとベーシック・チャンネルの出会いなどと評されたドントDJのサウンドにはガムランだけでなくアフリカのリズムも聞き取れる。「Animisme」と同時に〈DISK〉からリリースされたバンボウノウ「Parametr Perkusja Ep」はむしろアフリカ寄りで、フレンチ・フライと共にパリからベース・ミュージックの担い手として登場したバンボウノウがいつの間にかアフリカとベース・ミュージックの橋渡し役になっていることに気がつかされる。とくに“Dernier Metro”が「Animisme」に勝るとも劣らないヒプノティックなミックスを聞かせ、ドントDJとの連携にも納得がいく。

 アフリカン・ビートといえば、ラムジーがやはり強力だった。ジョン・ハッセルのレヴューで触れた「ミュージック・フロム・ザ・フォース・ワールド 1983-2017」のコンパイラーでもあるファーガス・クラークがグラスゴーで主宰する〈12th Isle〉はクルー・サーヴィスやパルタなど新たな才能の集積地となりつつあるけれど、とりわけラムジーことフィービー・ギラモトーの5作目『Pèze-Piton』はアフリカン・リズムとハウスを組み合わせたものとしてはなかなか聞き応えのあるものになっていた。名前から察するにケベックのミュージシャンなのか、彼女の叩き出すビートはやはりフランスでアフロ・ハウスを先導してきたアルビノスやブラック・ゾーン・ミス・チャント(ハイ・ウルフ)を踏まえつつ、より複雑に展開させたものに聞こえるし、ふわふわとした質感には独特のものがある。

 アフリカだけでなく、ラムジーの志向はサンバをはじめとするブラジル音楽にも向いているようで、全9曲はとてもバラエティに富んだ作品性を示している(エンディングは中華風)。あるいは80年代のリジー・メルシエ・デクローを思わせる無国籍志向と呼んだ方がいいか。少し前のリリースだけど、せっかくなので併せて紹介しておきたい。
 ドイツのバレエが精神性を重んじた観念的なものに向かい、フランスのそれが官能的な性格を帯びるように、等しくワールド・ミュージックにアプローチしても、ドイツはストイックで、フランスは楽しさを手放さないという対比も興味深いところ。

PROCARE Feat. POSHGOD - ele-king

 梅雨明けはいつになるやら。たまの晴れ間は猛暑だし、基本的にジメジメしてて陰湿な今の季節、外に出るのもおっくうになっちゃいますよね、わかりますよ。いざクラブに足を運んでも、エントランスに置いてた傘をパクられて濡れてタクシー拾うハメになるのなんてゴメンですよね、わかります。だけど、しばらくクラブで踊ってなかったり、イヤホンだけで音楽きいてもフラストレーション溜まっちゃうじゃないですか。だから本ちゃんの梅雨の期間である6月を乗り越えて7月になったらその溜まりに溜まったものを吐き出しにどこかへでかけませんか。
 7月7日、七夕の夜に開催される「PROCARE」と第された本パーティは、Anthony NaplesやButtechnoなんかを東洋化成製ヴァイナルで発売するレーベル「City-2 St. Giga」、原宿の外れに位置する刺繍屋さん「葵産業」が主催。この時点でメジャーな感じが一切香ってこないですが、それがイイですね。
 ラインナップはマイアミを拠点とするCSPGのPX$H6XDことPOSHGOD(Metro Zu! 懐かしい!)に、自称テクノおじさんことみんな大好きワンドリさん(1-Drink aka 石黒景太)、今年8月に日本をあとにするウルトラデラックスなDJ HEALTHYくん、などなど盛りだくさん。
パーティ会場では前述したPOSHGODと1-DRINKの音源を含む全12曲収録のコンピCD『PURE-FESSIONAL』がマーチャンダイズとして販売。Will DimaggioやUon、Khotinを含む全員が未発表音源を提供しているなかなかに豪華な仕様です。帯の文言、アートワークもなかなかダサくて(褒めてます)ついつい手を伸ばしちゃいそうですね。
 ここまで読んだみなさん、パーティのスローガン「安心・安定・安全」を合言葉に重くなった腰をどうにかして、この日は中目黒へ遊びにでかけましょう。

PROCARE Feat. POSHGOD
7月7日土曜日午後10:00

POSHGOD
1-DRINK
DJ HEALTHY
REFUND
KONIDANCE
KOKO MIYAGI

HIBI BLISS x POIPOI
BGKNB
VICK OKADA
NINA UTASHIRO
HIMAWARI

Venue:solfa www.nakameguro-solfa.com
Door:¥2000


PURE-FESSIONAL By PROCARE

Track List
1. Uon - door 2
2. Will DiMaggio - B (Broadcast Mix)
3. Khotin - Mornings ii (Live at New Forms)
4. 1-Drink - Untitled
5. Kareem Kool - Untitled
6. Ko Saito - Squala
7. James Massiah (DJ Escrow) - Twisted ("You're Too High To Leave Now!")
8. James Massiah (DJ Escrow) - Kane (In The Astral Plane)
9. Senmei - Okinawa
10. Konida - Jhetto Re
11. B.Y.M - ?
12. Posh-God - Untitled

試聴
https://soundcloud.com/professionalcare/sets/purefessional

ele-king vol.22 - ele-king

 この勝ち目のない戦いをどう闘っていけばいいんだ? と人は言う。もう無理なんじゃないかと。そんなときはロシアW杯の日本代表を思い出すんだ。識者のほぼ100%が負けると予想していた試合で、2度先制されながら2度追いつき、負けなかった。ドイツとスウェーデンの死闘もそうだったが、最後の最後に何が起きるかわからないというリアルを今回のW 杯は我々にまざまざと見せつけている。

 ぼくたちは音楽を聴く。20世紀後半には音楽のムーヴメントがいくつかあった。そうしたムーヴメントは世界をよりよくしたいと夢想する若者たちが起こした。ぼくたちはムーヴメントなき21世紀を生きながら音楽を聴く。細分化されたトレンドを消費することや趣味の差異化をめぐるマウンティングに高じるか、それは人の自由ではあるが、ひとつ忘れてならないのは、音楽はいまも世界をよりよくしたいと願い、そして、思考を止めていないということだ。
 音楽はいまも考えている。考えに、考えて、おそらく深く考えている。ムーヴメントがあった20世紀以上に。
 紙エレキングvol.22で、ぼくたちはいまの音楽がどれほど深く考えているのかを特集した。OPNはその代表格のひとりだ。そして、OPNやチーノ・アモービのようなアーティストの作品からは、いまどきの現代思想の潮流も引き出すことができる。だからぼくたちは、彼らのような若い世代の作品に影響を与えている思想にまで触手を伸ばしてみた。これはほんの入門編だが、日本のほかの音楽メディアでいっさい触れられていない重要なことを特集した。
 人はよく「最先端」という言葉を気軽に使うが、本当に「最先端」の意味をぼくたちは追求した。紙エレキングVOL.22、本日発売です。ぜひ読んで欲しい。

contents

巻頭写真:塩田正幸

特集1:加速するOPNとアヴァン・ポップの新局面

preface OPNに捧げる序文 (樋口恭介)
interview ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー (三田格/坂本麻里子)
column 私の好きなOPN(佐々木敦、坂本麻里子、河村祐介、八木皓平、松村正人、木津毅、デンシノオト、小林拓音、野田努)

アヴァン・ポップの新局面 ※ポップに実験が必要である理由

interview レティシア・サディエール(ステレオラブ) (イアン・F・マーティン/五井健太郎)
interview ダーティ・プロジェクターズ (木津毅+小林拓音/坂本麻里子)
interview ヤン・セント・ヴァーナー(マウス・オン・マーズ) (三田格/坂本麻里子)
column ホルガー・シューカイ (松山晋也)
column ブライアン・イーノ (小林拓音)
column 坂本龍一 (細田成嗣)
column グレン・ブランカ (松村正人)
column アーサー・ラッセル (野田努)
column 「前衛」と「実験」の違いについて (松村正人)
avant-pop disc guide 40 (三田格、坂本麻里子、デンシノオト)

CUT UP informations & columns ※2018年の上半期の動向を総まとめ

HOUSE(河村祐介)/TECHNO(行松陽介)/BASS MUSIC(飯島直樹)
/HIP HOP(三田格)/POPS(野田努)/FASHION(田口悟史)
/IT(森嶋良子)/FILM(木津毅)/FOOTBALL(野田努)

特集2:アフロフューチャリズム ※黒に閉じないことの意味

column 周縁から到来する非直線系 (髙橋勇人)
interview チーノ・アモービ (髙橋勇人)
column ドレクシアの背後にあるモノ (野田努)
interview クライン (小林拓音/米澤慎太朗)
column 未来を求めて振り返る (山本昭宏)
interview 毛利嘉孝 (野田努+小林拓音)
afrofuturism disc guide 35 (野田努、小林拓音)

REGULARS ※連載!

幸福の含有量 vol. 1 (五所純子)
乱暴詩集 第7回 (水越真紀)
東京のトップ・ボーイ 第1回 (米澤慎太朗)
音楽と政治 第10回 (磯部涼)

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