「KING」と一致するもの

魂のゆくえ - ele-king

 未来に希望が持てるかどうかは、次の世代のことを想像してみるとわかる。ますます肥大化する高度資本主義経済、広がる格差、暴走する政治、止められない気候変動……。2020年に生まれた子どもが働き盛りになる2050年をおもに科学の力で予想したときに、様々なデータが示すのは絶望的なものばかりだ。つまりたんなる主観とか思いこみではなくて、客観的な事実や計算で証明されたものだということ。それを知りながら、子どもをこの世界に産み落とすのは現代の罪なのだろうか? いま、思想やカルチャーなど様々な層でダークなムードが立ちこめているが、多くの人間が明るいイメージを未来に抱くことができないのは間違いない。

 『タクシードライバー』や『レイジング・ブル』といった70年代からのマーティン・スコセッシ作品をはじめとして、シドニー・ポラック、ブライアン・デ・パルマといった大物との仕事(脚本)で知られる映画作家ポール・シュレイダーの監督・脚本作である『魂のゆくえ』は、現代というのがいかに憂鬱な時代であるかを語るのに、トランプ政権以降ますます重くのしかかってくる環境問題をまずその入口にしている。主人公はニューヨーク郊外にある小さな教会「ファースト・リフォームド」の牧師を務める男トラー(イーサン・ホーク)。教会は小さいものの由緒正しい歴史を持ち、長くそこにいるトラーはそれなりに信頼を得ているようだ。あるとき、彼は信徒の女性メアリー(アマンド・セイフライド)から夫がひどくふさぎこんでいるから話を聞いてやってほしいという相談を受ける。実際に夫マイケルに会って聞くところによると、夫婦は環境活動家であり、そのため授かった子どもが産まれることは喜ばしいことと思えないと吐露し始める。未来はどう考えても破滅的だろうと。マイケルは鬱を患っていた。
 そこからトラーがたどる心境の変化や行動は、『タクシードライバー』を現代にアップグレードしたものだと言っていい。つい最近もプロットだけ見れば同作を彷彿とさせるリン・ラムジー『ビューティフル・デイ』があったばかりだが、『魂のゆくえ』はそちらよりも精神的に近い。すなわち脚本家本人の手によって、70年代後半のアメリカを覆っていた閉塞感を見事に捉えた名作を想起させる物語が生み出されているのだ。だがはっきりと異なる点があって、『タクシードライバー』が持っていたスコセッシが得意とするところのロック感覚がここには(当然だが)まったくなく、ひたすら静謐かつ重々しい空気に覆われている。髪をモヒカンにして鏡に映る自分とにらみ合ったロバート・デ・ニーロは当時における反社会的ロック・ヒーロー像に他ならなかったし、社会の底辺で犠牲になっている少女を救うというヒロイズムがそこにはいくらか乗っていたはずだ。ベトナム戦争の後遺症を引きずっていた作品とはいえ、その根底には、世界はより良い方向に変えられるはずだというカウンター・カルチャーからの精神がまだ流れていたように思う。しかし、『魂のゆくえ』のトラーの姿がTシャツにプリントされたり、ロック・バーの壁にポスターで貼られたりすることは絶対にないだろう。彼はひとり、よく整頓された清潔な部屋で酒に浸るばかりだ。『タクシードライバー』においてトラヴィスがベトナム帰還兵だったことと、本作のトラーがイラク戦争で息子を失くしていることも示唆深い対比だ。どちらもアメリカ政府の横暴の被害者なのだが、トラーの場合それが直接な体験と身体性を伴っていなかったためだろうか、ひたすら孤独に閉じこもっており、自身も抑鬱状態にある。

 心を壊していたマイケルが銃で自殺してしまい、彼に少なからず同調していたトラーは遺言に従い環境汚染が進む港湾のほとりで葬儀をおこなう。合唱団がニール・ヤングの“Who's Gonna Stand Up?”を歌う――「地球を救うのは、立ち上がるのは誰だ? そのすべては、わたしとあなたからはじまる」――。そのことがメディアに報じられると、皮肉にも自身が所属する教会が環境汚染の原因を作っている大企業の寄付を受けていることがはっきりする。未亡人となったメアリーと交流を続けながらも、ますます内省を深めていくトラー。そして……。
 この世界で子どもを持つことに深い罪悪感を抱くマイケル、自分の所属する組織が環境破壊に加担しているのは間違いだと気づくこととなるトラー、両者は世間的な価値観から言えば狂ってしまった人間だということになるのだろう。けれどもふたりは、良い世界であってほしいと――とりわけ次の世代にとって――願っているだけだ。現代で生き抜くためにはその願いを「なかったこと」にするしか方法はない。いま鬱は大きな社会問題だとよく言われるが、もしかすると、世界が良くあってほしいと思い悩む人間のことを「鬱」と呼ぶシステムになっているだけなのかもしれない。主人公が宗教に関わる人間であり、彼が壊れていく物語だということも、現代において何かを信じることの困難をよく表している。

 映画は終盤のクライマックスに向けてスピリチュアルな問いに向かっていくのだが、これもまた、科学やデータでは絶望を乗り越えられない時代であることを示しているだろうか(トラーが神秘的な体験をするシーンはタルコフスキーの『サクリファイス』からの引用が指摘されている)。けれども癒着にまみれたキリスト教(教会)もまた、アメリカの民の救いにはならない。音楽を手がけたラストモードのアンビエントもまた厳かさを増していくが、当然キリスト教的な響きとはかけ離れたものだ。そのムードのなかいくらかドラマティックに訪れるラスト・シーンがトラーにとっての救済だと言えるのか、あるいはどこまでも世界を変えることの不可能性を示しているのか、その判断は難しい。
 しかしながら、少なからずカウンター・カルチャーやアメリカン・ニューシネマの時代の当事者であったポール・シュレイダーがいま70歳を過ぎ、わたしたちが直面しているもっとも重い問題を見据えながら、軽々しい希望を抱くことができない映画を産み落としていることには恐れいる。いま次の世代のことを思いやることは、未来を良くしたいと願うことは、どこまでも絶望し、狂うことである。その重さを、静かな怒りを、わたしたちはここでただ受け止めるしかない。

予告編

Flying Lotus - ele-king

 問答無用、この春最大のニュースの到着だ。フライング・ロータスが5年ぶりとなるニュー・アルバムをリリースする。読者の皆さんは覚えているだろうか? アンダーソン・パークとのコラボが報じられたのはすでに2年前。長かった。じつに長かった。散発的に新曲の発表はあった。フライロー自らが監督を務める映画『KUSO』の公開もあった。昨年のソニックマニアでのパフォーマンスも圧倒的だった。彼の主宰する〈Brainfeeder〉は10周年を迎えた。それを記念してわれわれele-kingは1冊丸ごと特集を組んだ。そして最近では渡辺信一郎の新作アニメ『キャロル&チューズデイ』への参加が話題を呼んだ。長かった。じつに長かったが、いよいよである。タイトルは『Flamagra』。これはもしかして「フライング・ロータスによるドグラ・マグラ」という意味だろうか? 詳細はまだわからないけれど、どうやら炎がコンセプトになっているようで、とりあえずは熱そうである。くだんのアンダーソン・パークに加え、ジョージ・クリントン、デヴィッド・リンチ、トロ・イ・モワソランジュと、参加面子もものすごい。発売日は5月22日。嬉しいことに日本先行発売だ。もう何も迷うことはない。

[4月24日追記]
 昨日、待望の新作『Flamagra』より2曲が先行公開されている。“Spontaneous”にはリトル・ドラゴンのユキミ・ナガノが、“Takashi”にはサンダーキャット、ブランドン・コールマン、オノシュンスケが参加。フライローいわく、オノシュンスケについては坂本慎太郎のリミックスを聴いて知ったのだという。なんでも Spotify でランダムにその曲が流れてきたのだとか。2曲の試聴は下記リンクより。

https://flying-lotus.ffm.to/spontaneous-takashi

FLYING LOTUS
FLAMAGRA

フライング・ロータス待望の最新作『FLAMAGRA』堂々完成
自ら監督したトレーラー映像「FIRE IS COMING」を解禁
27曲収録の超大作に、超豪華アーティストが集結!

アンダーソン・パーク|ジョージ・クリントン|リトル・ドラゴン|ティエラ・ワック|デンゼル・カリー|デヴィッド・リンチ|シャバズ・パレセズ|サンダーキャット|トロ・イ・モワ|ソランジュ

credit: Renata Raksha

グラミー賞候補にもなった前作『ユー・アー・デッド!』から5年。ケンドリック・ラマーの傑作『トゥ・ピンプ・ア・バタフライ』におけるコラボレーション、カマシ・ワシントンの大出世作『ジ・エピック』の監修、サンダーキャットの出世作『ドランク』では大半の楽曲をプロデュースし、ここ日本でも上映されたコミック・ホラー長編映画『KUSO』の監督・脚本を手がけ、主宰レーベル〈ブレインフィーダー〉が10周年を迎えるなど、底なしの創造力でシーンの大ボスとして君臨するフライング・ロータスが、マグマのごとく燃えたぎるイマジネーションを詰め込んだ27曲(*)の超大作、その名も『フラマグラ』を完成させた。(*国内盤CDにはさらに1曲追加収録)

発表に合わせてフライング・ロータスとデヴィッド・ファースが手がけたトレーラー映像「FIRE IS COMING」が公開された。
https://www.youtube.com/watch?v=aTrTtzTQrv0

本作は、12年に及ぶキャリアの中でロータスが世に提示してきた革新性のすべてを掻き集め、それをさらに推し進めている。ヒップホップ、ファンク、ソウル、ジャズ、ダンス・ミュージック、トライバルなポリリズム、IDM、そしてビート・ミュージックが図解不可能なほど複雑に絡み合い、まるでロータスの頭の中に迷い込んだような、もしくは宇宙に漂う灼熱の惑星の上にいるかのような、驚異的独創性が発揮された傑作だ。

いつも頭の中では一つのテーマが浮かんでいて、火にまつわるコンセプトが燻り続けていた。ある丘の上に永遠の炎が鎮座しているんだ。 ──フライング・ロータス

過去作品でも豪華な参加アーティストが話題を呼んだが、今作のラインナップは数もインパクトも過去作を上回るものとなっている。アンダーソン・パーク、ジョージ・クリントン、リトル・ドラゴンのユキミ・ナガノ、ティエラ・ワック、デンゼル・カリー、シャバズ・パレセズのイシュマエル・バトラー、トロ・イ・モワ、ソランジュ、そして盟友サンダーキャットがヴォーカリストとして参加。さらに、デヴィッド・リンチの不気味なナレーションが今作の異様とも言える世界観を炙り出している。

フライング・ロータス待望の最新作『フラマグラ』は5月22日(水)に日本先行リリース。国内盤にはボーナストラック“Quarantine”を含む計28曲が収録され、歌詞対訳と解説書が封入される。初回生産盤CDは豪華パッケージ仕様。またTシャツ付セットも限定数販売決定! 2枚組となる輸入盤LPには、通常のブラック・ヴァイナルに加え、限定のホワイト・ヴァイナル仕様盤、さらに特殊ポップアップ・スリーヴを採用したスペシャル・エディションも発売。Beatink.comでは50部限定で、スペシャル・エディションのクリア・ヴァイナル仕様盤が販売となり、本日より予約が開始となる。

なお国内盤CDを購入すると、タワーレコードではオリジナル・クリアファイル、Beatink.com、HMV、diskunion、その他の対象店舗ではそれぞれオリジナル・デザインのロゴ・ステッカー、Amazonではオリジナル肖像画マグネットを先着でプレゼント。また、タワーレコード新宿店でアナログ盤を予約するとオリジナルB1ポスターが先着でプレゼントされる。

label: WARP RECORDS / BEAT RECORDS
artist: FLYING LOTUS
title: FLAMAGRA

日本先行リリース!
release: 2019.05.22 wed ON SALE

国内盤CD:BRC-595 ¥2,400+tax
初回盤紙ジャケット仕様
ボーナストラック追加収録 / 歌詞対訳・解説書付
(解説:吉田雅史/対談:若林恵 x 柳樂光隆)

国内盤CD+Tシャツセット:BRC-595T ¥5,500+tax
XXLサイズはBEATINK.COM限定

TRACKLISTING
01. Heroes
02. Post Requisite
03. Heroes In A Half Shell
04. More feat. Anderson .Paak
05. Capillaries
06. Burning Down The House feat. George Clinton
07. Spontaneous feat. Little Dragon
08. Takashi
09. Pilgrim Side Eye
10. All Spies
11. Yellow Belly feat. Tierra Whack
12. Black Balloons Reprise feat. Denzel Curry
13. Fire Is Coming feat. David Lynch
14. Inside Your Home
15. Actually Virtual feat. Shabazz Palaces
16. Andromeda
17. Remind U
18. Say Something
19. Debbie Is Depressed
20. Find Your Own Way Home
21. The Climb feat. Thundercat
22. Pygmy
23. 9 Carrots feat. Toro y Moi
24. FF4
25. Land Of Honey feat. Solange
26. Thank U Malcolm
27. Hot Oct.
28. Quarantine (Bonus Track for Japan)

Amgala Temple - ele-king

 ノルウェイの音楽的良心たるジャガ・ジャジストですが、その中心人物であるラーシュ・ホーンヴェットによるプロジェクト、アムガラ・テンプルが来日します。ジャガ・ジャジストはライヴも高い評価を得ているバンドだけに、初となるアルバム『Invisible Airships』をリリースしたばかりのアムガラ・テンプルがいったいどんなパフォーマンスを披露してくれるのか、気になるところです。5月18日から21日のあいだに都内3箇所をめぐるツアー、詳細は下記よりご確認を!

ジャガ・ジャジストから派生したジャズロック・プロジェクト、アムガラ・テンプル待望のジャパンツアー決定!

ジャガ・ジャジストのコア・メンバーである Lars Horntveth を中心に Amund Maarud、Gard Nilssen というノルウェーの異能プレイヤーが集結したアムガラ・テンプルは、ジャズ・ロックの系譜を受け継ぎながらもプログレからサイケ、クラウトロックまで飲み込んだまさに2020年代を迎えるに相応しい先鋭的なサウンド! ライヴの半分近くはインプロ(即興)で構成されるなど二度と同じ演奏をしないライヴ・アクトとしても熱狂的な支持を集めている彼らのパフォーマンスをお見逃しなく!

「Avenue Amgala」(ライヴセッション映像)
https://youtu.be/G-Lb29r7A24

Amgala Temple:
Amund Maarud (electric guitars)
Gard Nilssen (drums, gongs, bells, melodic drum)
Lars Horntveth (bass, keys, lap steel, guitar & vibraphone)

Amgala Temple (with member of Jaga Jazzist) JAPAN TOUR 2019

2019年5月18日(土) CROSSING CARNIVAL'19
会場:TSUTAYA O-EAST、duo MUSIC EXCHANGE、clubasia、WOMB LIVE、TSUTAYA O-nest
時間:Open / Start 13:00(時間予定)
チケット料金:¥4,800 (税込 / ドリンク別)

チケット ※枚数制限4枚
イープラス:https://eplus.jp/crossingcarnival19/
問い合わせ:SOGO TOKYO(03-3405-9999)

2019年5月20日(月) 六本木VARIT
Live :
・Amgala Temple (with member of Jaga Jazzist)
・東京ザヴィヌルバッハ・スペシャル
(坪口昌恭:Keys / David Negrete:Alt. Sax, Flute / 宮嶋洋輔:Guitar / 角田隆太:Bass (from ものんくる) / 守真人:Drums)
時間:Open 18:30 / Start 19:00
チケット料金:Adv. ¥2,800 / Door ¥3,300 (+1 drink order)

チケット発売/予約受付開始日:4月20日(土)
イープラス:https://eplus.jp
購入ページ:
https://eplus.jp/sf/detail/2939610001-P0030001
問い合わせ:六本木VARIT(03-6441-0825)

2019年5月21日(火) Shibuya 7th FLOOR
Live :
・Amgala Temple (with member of Jaga Jazzist)
・guru host (坂口光央+一樂誉志幸)
・角銅真実
時間:Open 18:30 / Start 19:00
チケット料金:Adv. ¥2,800 / Door ¥3,300 (+1 drink order)

チケット発売/予約受付開始日:4月20日(土)
イープラス:https://eplus.jp
7th FLOOR メール予約:4/20 (土)~5/20 (月) (nanakaiyoyaku+0521@gmail.com)
件名に公演名、本文にお名前(フリガナ)、予約人数をご記入ください。
ご予約の確認がとれましたら返信いたします。
*入場順:①イープラス(整理番号順)、②メール予約/その他のご予約の順番となります。

[アルバム情報]
タイトル:インヴィジブル・エアシップス / Invisible Airships
アーティスト:アムガラ・テンプル / AMGALA TEMPLE
レーベル:P-VINE
品番:PCD-24818
定価:¥2,400+税
発売日:2019年3月6日(水)
日本語解説:山﨑智之

-収録曲-
1. Bosphorus
2. Avenue Amgala
3. Fleet Ballistic Missile Submarine
4. The Eccentric
5. Moon Palace

https://p-vine.jp/music/pcd-24818

 この世から真っ先に消し去るべき概念のひとつに「男らしさ」がある。学校や会社に通っている男性は少なくとも一度は体験したことがあるはずだと思うのだけれど、これだけアイデンティティ・ポリティクスが猛威をふるう昨今においてさえ、男性にたいし暗に「男らしさ」を要求してくる連中のなんとまあ多いことか。しかもたいていの場合、当人たちは無自覚だから厄介だ。もしかしたら僕自身、誰かにたいしそのような身ぶりを強制してしまっているかもしれない。そのときは、ごめんなさい……としかここではいえないが、とまれ家父長制と呼べばいいのかマッチョイズムと呼べばいいのか、あるいは体育会系というのかホモソーシャルというのか、状況によってあてがうべき言葉は異なるだろうけども、ほんとうに因習というのは根が深い。

 2017年にリリースされたファースト・アルバム『Yesterday's Gone』によって大きな躍進を遂げたUKの若きラッパー=ロイル・カーナーは、とにかく「男らしさ」から遠ざかろうともがいている。ように見える。彼はいつもくよくよし、なよなよしている。ように見える。無論、褒め言葉である。彼の簡単な略歴についてはこちらを参照していただきたいが、そのリリックはドラッグ体験の自慢や血塗られた抗争とは無縁であり、トラックもまた雄々しさや猛々しさから距離をおいている。トラップのようなUSのメインストリームでもなく、ストリートを反映したグライムでもなく、あるいはルーツ・マヌーヴァに代表されるような、UKの音楽に特有のジャマイカからの影響を忍ばせたスタイルでもない、いわば「第四の道」を模索し続けているのがロイル・カーナーというアーティストではないだろうか。

 まもなく発売される彼のセカンド・アルバム『Not Waving, But Drowning』は、そのような「第四の道」をさらに推し進めたものとなっている。昨年、男性が弱さを吐き出すことについて議論を提起したのはジェイムス・ブレイクだったけれど、カーナーもまた自らのナイーヴでフラジャイルな「内面」や「感情」を臆することなく表現するラッパーだ。とはいえその題材は必ずしもミクロな恋愛や友情に限定されているわけではなく、たとえば“Loose Ends”や“Looking Back”では、これまで白人には黒人とみなされ黒人には白人とみなされてきたという彼の、混血としての社会的な葛藤が吐露されている。そんなふうにぼろぼろになっている自分をさらけ出し、ラップすること。そのスタンスにはブレイクとの親和性も感じられるが、それ以上に、カーナーをフックアップしたUKのソングライター=クウェズからの影響が大きいのではないか。

 日本ではなぜかそれほど人気のないクウェズだけど、彼は歌い手であると同時に特異なサウンドの作り手でもあって(昨年ひさびさにリリースされたEP「Songs For Midi」も良かった)、にもかかわらず近年は裏方にまわりっぱなしの印象があるが、たしかに彼の手がけたソランジュティルザなんかを聴いているとプロデューサーとしての才に恵まれていることはわかるので、もしかしたらそっちで食っていこうと考えているのかもしれない。まあなんにせよ『Yesterday's Gone』に引き続き本作でも5曲に参加しているクウェズは、カーナーのセンシティヴな言葉の数々を活かすべく大いに尽力している。その奮闘は“Still”や“Krispy”におけるピアノの響きや細部の音選びに、あるいは著名なイタリアン・シェフであるアントニオ・カルッチョの名が冠された“Carluccio”の奥行きに、あるいはカーナー同様クウェズがフックアップしたシンガーであるサンファ、彼による美しいヴォーカルが堪能できる“Desoleil (Brilliant Corners)”の旋律や残響によく表れている。

 しかし、このセカンド・アルバムにおける最大の功労者はじつはクウェズではない。本作の鍵を握るひとりは、2曲で作曲とプロダクションを務めるトム・ミッシュである。彼はカーナーに飛躍の機会を用意した人物であり、これまでふたりは幾度もコラボを重ねてきた。ミッシュの2016年のミックステープ『Beat Tape 2』やシングル「Reverie」、あるいは昨年大ヒットを飛ばしたアルバム『Geography』にはカーナーが客演しているし、逆にカーナーの『Yesterday's Gone』にはミッシュが招かれている。まさに盟友と呼ぶべき関係だろう。そのミッシュが手がけた“Looking Back”はもたつくビートの映える1曲で、他方“Angel”も背後のもこもこした電子音が耳をくすぐるのだけど、ベースをはじめとする低音部も魅力的だ。ここでドラムを叩いているのがユナイテッド・ヴァイブレイションズのユセフ・デイズだというのは見逃せない。おそらくは南ロンドンという地縁によって実現されたのだろうこのコラボは、カーナーとUKジャズとの接点をも浮かび上がらせ、じっさい、カーナーは5月にリリースされるエズラ・コレクティヴの新作にも参加している。

 そして、ミッシュ以上に重要なのがジョーダン・ラカイの存在である。本作全体を覆うメロウネスや叙情性は、6曲で作曲とプロダクションを担当するラカイによって誘発されている感があり、たとえばジョルジャ・スミスを迎えた“Loose Ends”や“Sail Away Freestyle”のアダルト・オリエンテッドな音像は、いわゆるクワイエット・ウェイヴの文脈に連なるものといえる。なかでも決定的なのは“Ottolenghi”だろう。これまた高名なシェフであるヨタム・オットレンギを曲名に持ってくるあたり、もしラッパーでなければシェフになりたかったというカーナーの料理好きな一面が強く表れているが、背後にうっすらと敷かれたシンセの持続音はそれこそイーノ=ラノワを彷彿させ、とにかくせつなさとはかなさが爆発している。すべてが過ぎ去っていくことを電車の進行と重ね合わせるリリックも、それを写真というテクノロジーによる時間の切断と結びつけるMVも印象的で、ほかの曲でも「過去」という単語がキイワードになっていることから推すに、この“Ottolenghi”こそが『Not Waving, But Drowning』を代表する1曲なのではないだろうか。

 ここで忘れてはならないのが、インタールード的な役割を与えられたスポークン・ワードの小曲、アルバムのタイトルにも採用された“Not Waving, But Drowning”だ。カーナーの祖父によるものだというこの言い回し、20世紀前半のイギリスの詩人スティーヴィー・スミスに着想を得たこの一句は、僕たちにとてつもなく残酷な現実を突きつけてくる。

溺死した男についての記事を読んだ
その男の仲間は、彼が海から手を振っていると思ったらしい
でも彼は溺れていたんだ

 手を振っているんじゃない、溺れているんだ(Not Waving, But Drowning)──。文字どおり死にそうなくらい苦しんでいるのに、楽しそうにしていると受けとられてしまう、そのようなリアルを毎日毎日毎日毎日生き続けなければならない人びと、頼れる友もいなければ帰るべき場所もないような人びと、つまりはあなたに向けて、ロイル・カーナーは丁寧に言葉を紡いでいく。まるで、それもいずれは過去になると、慰め、そっと寄り添うかのように。そう、僕たちは「自分たちで新たな過去を作らないといけない」(“Carluccio”)。
 社会の要請する「男らしさ」から遠く離れ、ヒップホップの王道からも距離を置き、己のか弱き魂を吐き出しながら、ミッシュやラカイに協力を仰ぐことで今日的な音像にアプローチしたカーナーのセカンド・アルバムは、彼の「第四の道」がオルタナティヴであることを証明すると同時に、そんなふうに規範に苦しめられている人びとをときに涼やかに、ときに暖かく包みこむ。これほど優しくて愛おしいラップ・ミュージックがほかにあるだろうか。

 シークレット・プロジェクト・ロボット(SPR)は、20年前にはじまった。当初はマイティ・ロボットという名前だった。マイティ・ロボット場所であり、ヴィジュアル・グループであり、DJ、プロジェクトの名前だった。コンタクト・レコーズから彼らのショーやヴィジュアル作品などを収録したDVDをリリースした後、その精神を引き継ぐ次の冒険としてシークレット・プロジェクト・ロボットがはじまった。
 NYに引っ越して来たばかりだった私は、マイティロボットを発見してからというもの毎日のように通った。彼らはブルックリン(ウィリアムスバーグ)のDIYバンド(ヤーヤーヤーズ、ライアーズ、アニマル・コレクティブ、!!!、オネイダなど)を積極的にブックした。フェスやパーティ、アートショーを開き、毎日のように人を集まる場を作った。
 彼らがシークレット・プロジェクト・ロボットとなってからは、最初はウィリアムスバーグ、次にブッシュウィックと場所を移した。こうして彼らは20年間DIY精神を保持したまま、生き延びてきている。新しい場所に引っ越して1年、彼らはあらたな決断を持った。それは2019年4月末、いまの場所を別のビジネスに譲ることだった。

 アートスペースからはじまった彼らは、ブッシュウィックに移ったときからアートスペースだけでやっていくのは厳しいと感じていた。しかしアートは売れなくてもアルコールは売れることに気付くと、彼らはバー、カフェを続けてオープンした。シークレットを維持することができたのはそのおかげだ。なので、新しいシークレットもアートギャラリー兼バーとしてオープンした。アンダーグラウンドなDIYギャラリーから合法的なバーとなったわけである。が、バーによって金はまわせるが、彼らは自分たちのやりたいことはこれではないと気づいた。で、今回の決断へと至ったのである。

 現シークレット・プロジェクト・ロボットは閉店するが、同所はデス・バイ・オーディオ・アーケードというゲーム制作会社が、ワンダーヴィルと改名して引き継ぐことになった。キックスターターで資金を募り、目標金額を達成した(https://www.kickstarter.com/projects/markkleeb/wonderville-arcade)。ゲームやピンボールがあるヴェニューになる予定で、いままでジプシーのようにいろんなDIY会場を転々としていた彼らだが、ようやく自分の場所を見つけたというわけ。。
 ライトニング・ボルトのブライアンGもゲームを作っているし、ブルックリンのDIYシーンはゲームへと向かっているって? 

Nivhek - ele-king

 13歳でパンク・ロックを好きになることは、メインストリームの大衆文化から外れて生きることを決断するしかないということだったが、21世紀も20年近くが経過した現在においてはかつてと同じことを意味しない。60年代にサイケデリック・ロックに心酔することは映画『モア』のような人生が待っていたかもしれないが、柴崎祐二の論によればそれは新種のイージーリスニングとして機能しているらしいし。
 かつて普通じゃなかったものは、やがて普通の大衆文化のなかに組み込まれる。世のなか保守的になったと言われるが、じつは他方で、かつて普通じゃなかったものへの許容度は上がっているといえるのかも。逆にいえば普通じゃないものを探すのは難しく、メインストリームから外れて生きることも、生き方を選び取ることも困難な時代だとは思う。リズ・ハリスは、いまでも、メインストリームから外れて生きることを決断するしかないと思わせてくれる数少ないひとりである。

 リズ・ハリスの、Nivhekという名義によるアルバムが彼女自身のレーベルからリリースされた。グルーパー名義で知られる彼女だが、これまでもいくつかのプロジェクト名義でも作品をだしてきている。とはいえそれらは複数人によるプロジェクトで、ソロではグルーパー名義のみだった。
 グルーパーというのは、彼女が幼少期に属していたグルジェフ系のコミューンにおける共同体の単位のようなものが“グループ”で、“グルーパー”とはグループを構成する個人の名称だった。ピッチフォークのインタヴューによれば、彼女は11歳で“グループ”を去っている。彼女はそれまでポップ・ミュージックに触れる機会を持たなかった。が、やがて彼女はニルヴァーナを好きになり、大学にも進学して環境科学を学んだ。彼女はソーシャルワーカーとなって、アニマル・コレクティヴのツアーに誘われるまで音楽は趣味/余興だった。いまでは彼女はマネージャーも雇わず、ツアーはひとりで出かけ、通販のアナログ盤を自分で郵送する完全なDIYインディ・ミュージシャンとして生きている。彼女はソロ活動の名義はすべてグルーパーで統一している。
 Nivhek、ニヴヘックと読めばいいのかどうかわからないがとりあえずそう表記しておく。それはおそらくはひとの名前で(女性の名前かもしれない)、リズ・ハリスの新しいソロ名義である。ニヴヘックは、ただし、リズ・ハリスの旅の記録でもある。このアルバムにはポルトガルのアゾーレス諸島、ロシアのムルマンスクでのセッションが含まれているそうだ。
 アルバムは、『Grid of Points』よりも実験的である。曲は“死”にリンクしている。生を謳歌するのがポップ・ミュージックの大前提としてある。しかしリズ・ハリスの音楽は“死”に優しく寄り添っているようだ。

 『After Its Own Death/Walking In A Spiral Towards The House』はアナログ盤で2枚組、1枚目が“After Its Own Death(それ自身の死のあとで)”、2枚目が“Walking In A Spiral Towards The House(家に向かってうずまきを歩く)”。どちらの曲も組曲的な展開で、歌ではなく声が、聖歌隊が、ビブラフォンの音に溶け込んで、ときおり挟み込まれる電子音やギターやピアノ、フィールド・レコーディングなどと重ねられている。とくにビブラフォンはこのアルバムを特徴付けている。それは全編にわたって響き、かろうじてメロディを奏でている。
 音は遠くで鳴っているようだ。スピーカーから虚空が映し出される。来世からの音響だというひともいれば、睡魔を誘うというひともいれば、憑依した場所の音楽、あるいは夢に支配された音楽というひともいる。
 ぼくは彼女の音楽を聴いていると取り残されたような気分になる。まったく自分がこの日常に馴染めてないことに気が付いて、いや、まずいまずい、そんなことでは生活をやっていけないぞとその感覚を追い払おうとする。が、しかしリズ・ハリスの音楽はまさに幽霊のように、ひとをその日常から引きはがそうとする。静かだが強力な残響によって。

マキタスポーツ - ele-king

平成という時代を鳴らすように──マキタスポーツ「平成最後のオトネタ」

 2019年3月27日、マキタスポーツによる「平成最後のオトネタ」と銘打ったライヴがおこなわれた。ちょうど原稿に追われていた時期でもあったのだが、なんとか仕上げ、草月ホールに駆けつけた。 はたして始まった「平成最後のオトネタ」ライヴは、平成の30年──それはちょうど、マキタスポーツが上京してからの30年と重なるという──を総括するような見事なものだった!
 オープニング、オウム真理教からSMAP解散、はたまたささやき女将まで、世間やワイドショーを騒がせたフラッシュ映像が流されたあと、マキタスポーツ十八番とも言える長渕剛のパロディが披露され、場内は笑いに包まれた。いや、正確に言うとパロディではなく、FNS歌謡祭で歌われた“乾杯”の完コピなのだが、ともかく、長渕自身の過剰なアレンジを再現するマキタスポーツの姿に客席は沸いた。

 芸人・ミュージシャンとしてのマキタスポーツは、アーティストの似顔絵をスケッチするような「作詞作曲モノマネ」や、アレンジひとつで楽曲をがらりと変容させてしまうようなパロディ芸に定評がある。その根底にあるのは、音楽に対する鋭い分析眼に他ならない。その人をその人たらしめている要素を正確に分析することによって、「作詞作曲モノマネ」もできるしパロディとしてズラすこともできる、ということだ。その点において、マキタスポーツのパフォーマンスは、古川ロッパの声帯模写からタモリや清水ミチコにいたる文体模写的なモノマネの系譜にある。そのようなたしかな分析眼のもと、ライヴ冒頭では、ミスチルをはじめとする個性的なアーティストが「作詞作曲モノマネ」され、パロディ化されていた。あるいは“X-WORLD”という演目では、X-JAPANの代表曲“紅”に対して、次々と各国風(中国風、ジャマイカ風、ロシア風……)のアレンジが加えられていた。ここに遠く、大瀧詠一『LET'S ONDO AGAIN』の試みが響き合う。後半冒頭にあたる「マッシュアップシリーズ」では、「サチモス」と「音頭」を掛け合わせた“STAY TUNE音頭”が披露されていたが、そこではやはり、“LET’S ONDO AGAIN”や“イエローサブマリン音頭”といった一連の大瀧詠一ワークスを思い出す。
 さらに、“縁の下の力持ち”という演目では、米津玄師“Lemon”や星野源“Pop Virus”に使用されている効果音に注目し、その効果音をネタにした芸をしていた。パフォーマンスの中身を言葉で説明するのは難しいし、正直野暮ったいところもある。笑いつつ思ったのは、J-POPのサウンド的なアップデートに対応するかたちでマキタスポーツの芸それ自体も更新を目指されている、ということだ。平成とはなにより、J-POPが定着し大きく更新した時代でもあった。

 そんなマキタスポーツによる「平成31曲オトネタメドレー」は圧巻だった。それは、「平成31曲」を面白おかしくパロディ化するとともに、「平成」の時代精神を見事に切り取っていたからだ。例えば、ZARD“負けないで”に対しては、同曲における自己啓発要素とその暴力性が強調されるかたちでパロディ化されていた。あるいは、あらゆる歌詞における「きみ」を志村けん風に「チミ」と言い換え、楽曲の世界観を台無しにしてしまうネタ。「愛のままにわがままに僕はチミだけを傷つけない」(B'z“愛のままにわがままに僕は君だけを傷つけない”)「振り返るといつもチミが笑ってくれた」(藤井フミヤ“TRUE LOVE”)「たとえばチミがいるだけで」(米米クラブ“君がいるだけで”)などなど、真面目な歌詞の世界に突然、変なおじさんが割り込んでくるようでおかしいのだが、同時に、J-POPがいかに「きみ」という二者関係のみを問題にしていたか、ひいては、いかにJ-POPが社会に背を向けていたか、が示されているようでもあった。

 だとすれば、マキタスポーツのネタのおかしさとは、J-POPそのものが、そして平成という時代そのものが抱えるおかしさなのではないか。だって、マキタスポーツの表現は、アーティストなり楽曲のもっている一面を拡大し強調するものなのだから。マキタスポーツの芸におかしさを感じるとすれば、それは同時に、ネタ元である平成のJ-POPたちにおかしさ(滑稽さ・奇怪さ)を感じていることに他ならない。誰もがなんとなく抱いている感触を、実際に言葉にし、表現にし、明らかにすること。そのような行為を一般に批評と呼ぶ。マキタスポーツが批評的だと言われるゆえんだ。「平成最後のオトネタ」は、社会が深刻になるほどに自己啓発的でポジティヴになる、J-POPのありかたを、平成という時代を、鋭く批評していた。

 ラスト、「アンコール」(という演目があること自体がマキタスポーツおなじみの皮肉である)で披露された、「誰かがなんとかしてくれるはず」と連呼する「大丈夫、たぶん」という曲は、J-POPで歌われがちな〈大丈夫ソング〉的なものが、実際は無根拠な〈他力本願ソング〉であることを指摘するものだと言える。その意味で「大丈夫、きっと」は、最近のライヴではしばしば披露されていた曲ではあるものの、とくに「平成最後のオトネタ」のラストを飾るにふさわしい曲だった。

 と、ここまでなかば解説的に書いてきた。しかし、さらに踏み込もう。徹底した分析眼のそのさきへ。メタメタな分解作業のそのさきへ。ここからは、いち受け手としての矢野利裕が見たマキタスポーツの姿だ。

 どんなに分析しても解けない魔法がある。どんなに分解しても残るなにかがある。マキタスポーツが徹底的にアーティストを分析するとき、むしろその態度はロマン主義的に映る。長渕剛を徹底的に分析し、再現しようとするとき、突きつけられるのはむしろ、どうしたって長渕剛になれない、ということである。あるいは、どこまで行ってもマキタスポーツはマキタスポーツだ、ということである。マキタスポーツの変幻自在で批評的なパフォーマンスに触れたときに感じているのは、逆説的なことながら、マキタスポーツの圧倒的な身体のほうなのである。
 マキタスポーツの著書『一億総ツッコミ時代』(講談社文庫)を振り返りながら考える。あらゆるものにツッコミを入れ続けた平成の終わり、起こっていることは身体性の復権なのではないか。あまりにも細分化したマナーとコードに張り巡らされた現在、求められているのは、説明不要の圧倒的な身体の躍動ではないか。それは例えば、他の追随を許さぬ長渕剛のような。
 考えてみれば、長渕剛がそうだったのだ。よしだたくろうになりたくて、ボブ・ディランになりたくて、ブルース・スプリングティーンになりたくて──でも、最後の最後は長渕剛以外の何物でもなくて。その誰にもなれなさのさきに、唯一無二の〈おかしさ〉に満ちた長渕剛の身体の躍動があった。どこかで聞いたことのある言葉やメロディかもしれないが、長渕剛が歌うとき、そこには唯一無二のオリジナルな響きがあった。人によっては笑ってしまうほど、しかし無視できないほどの過剰な表現。マキタスポーツが完コピしようとしたのは、そんな長渕剛的身体だった。それは知的な批評以上に、躍動的な身体を目指すことの表明である。

 いや、このことすらマキタスポーツの表現は織り込み済みなのだろう。というのも、今回のライヴでは、「記憶の森」という身体で魅せる堂々たるパフォーマンスがなされたからだ。このミュージカル仕立ての新作が、個人的には傑作だった。「香川照之の名前が思い出せない」というあまりにも日常的なひとコマについて、延々と20分かけて「記憶の森」のなかをさまよいながら、マキタスポーツがひとり三役で歌い、踊る。この仰々しい20分が本当に馬鹿馬鹿しくて、おかしくておかしくて。ずっと笑っていた。わけのわからない凄みすら感じた。必見である。
 非常に本格的な振り付けだったが、昨今のミュージカルの流行を意識しただけではない。たいしたことないことに対して仰々しく歌って踊る、それによっておかしな世界が出現する、というミュージカルの表現が、マキタスポーツのライヴには必然的に求められていたのだ。その身体ひとつの躍動で世界が一変するような表現こそを、平成の終わりのマキタスポーツは追求していたのだ。まわりくどいことを言っているようだが、なんのことはない。現在のマキタスポーツはとくに、パロディの元や文脈を知らなくとも、表情や動きがすでにじゅうぶんにコミカルであり、面白くて笑えるところがある。音楽に詳しくない人や子どもにだって喜んでもらえるように。 不思議な言いかただが、あらゆるアーティストに変身し「モノマネ」するマキタスポーツを通して、マキタスポーツの身体性を再発見されるのだ。
 そして、このようなありかたを強く体現するのが、西野カナ“トリセツ”のパロディ、“トリセツおじさん”に他ならない。だんだんとポンコツになってくる「おじさん」の様子を「トリセツ」風に歌ったものだ。今回のライヴでは、「平成31曲オトネタメドレー」のラストを飾っていた。
 なぜ俺は、この“トリセツおじさん”がこんなにも好きなのか。それは、この曲を聴くときいつも、西野カナのパロディを通して、歌い演奏するマキタスポーツの唯一無二の「おじさん」的身体が迫り出してくるように感じるからだ。頭では西野カナの替え歌を聴いているわけだが、触れているのはマキタスポーツの「おじさん」的な身体の躍動、リズムとメロディである。この意味と躍動の二重性に、妙に心動かされてしまうのだ。本当に。マキタスポーツの本領は知的な批評性ではない。かと言って、難しいことを考えないノリの良さでもない。徹底した批評のさきに再発見される身体の運動である。その運動や振動に触れることがマキタスポーツのライヴにおいて大事なことである、と思っている。
 しかし、個人的には、あらゆる音楽がそうなのだ、と思う。僕らはともすれば、音楽の歌詞に感動しているように錯覚するが、本当は音楽をめぐる躍動感に触れているのではないか。その躍動感をほんの一部でも自分のものにしようと、鼻歌を歌ったり、面白おかしくモノマネをしたり、カヴァーをしたり、カラオケで歌ったりするのだ。そこにこそ、音楽の喜びがある。そのような喜びとともに軽薄に広がっていく歌のかたちがある。その軽薄さを前面に押し出すものとして、コミックソングのようなものがある。
 ここまでくると、半分告知を兼ねていることを言わねばならない。本文冒頭で筆者が追われていたものとは、『コミックソングがJ-POPを作った 軽薄の音楽史』という書籍の最後の最後の原稿作業であった。明治時代のオッペケペー節に添田唖禅坊。エノケンにあきれたぼういず。美空ひばりにスネークマンショー。そして、現在ではピコ太郎やマキタスポーツにいたるまで。さまざまな局面で音楽は笑いとともに歌われ、広がっている。そのような笑いとともにある音楽の、その無限の広がりの一端を僕なりに紡いだのが、『コミックソングがJ-POPを作った』という本である。でも、お世辞とかステマとかではなく、そのような音楽の軽薄な部分に強く目を向けさせたひとりが、僕にとってはマキタスポーツだったのだ。先日の「平成最後のオトネタ」には、平成という時代を彩ったありとあらゆる音楽の喜びが、マキタスポーツという身体の借りながら鳴らされているような感触があった。願わくば、自分の本において少しでもそのような感触が存在しますように。

ビューティフル・ボーイ - ele-king

 シガー・ロスの“Svefn-g-englar”をここまで恐ろしい曲に聴かせてしまうとは。フェリックス・ヴァン・ヒュルーニンゲン監督『ビューティフル・ボーイ』はティモシー・シャラメ演じるニック・シェフがふとしたきっかけで何度もドラッグに手を出してしまう重度の依存症を扱った作品。ようやくドラッグと縁が切れたと思ったニック・シェフがみんなと食卓を囲み、それなりに楽しい時間を過ごしているかと思いきや、彼はまるで“Svefn-g-englar”の中盤から渦を巻き始めるサイケデリック・ギターに引きずられるようにしてスプーンでドラッグを炙り始めている。シガー・ロスは確かに日常とドラッグによるトリップのボーダーをさらりと飛び越えるような曲作りがうまく、ドラッグ・カルチャーを抜きにして語れない存在ではあるけれど、ここまで悪魔のように描くことはないだろうと思うほど説得力があり、音楽とドラッグの結びつきをナチュラルに印象付けるシーンとなった。
『ビューティフル・ボーイ』には原作がふたつある。ニック・シェフのドラッグ依存に頭を痛める父親が書いたニューヨーク・タイムズの記事(後に単行本化されベストセラーに)と息子本人が書いた回顧録。これらを擦り合わせてひとつの作品としている。つまり、両者の視点が交錯したつくりとなり、ニック・シェフには自分の行動を説明する言葉が足りない分、息子から見た父親への批判的視線は父親役のスティーヴ・カレルがしっかりと演技に反映させている。誰に対してもすぐに怒鳴り、声のトーンが高すぎて言葉に説得力がないところなど、まったくといっていいほど愛される存在ではない父親をカレルは巧みに造形し、困り果てて頭を抱えるシーンにはパン・ソニックの重苦しいドローンが鳴り渡るなど音楽による心理描写はここでも実に効果的。おかげでドラッグに依存しているニック・シェフだけが悪という一面的な見方は最初から通用しない。

 父親のデヴィッド・シェフは生前最後にジョン・レノンのインタビューを取ったという実在のジャーナリストで、寄稿先には「ローリング・ストーン」のようなカウンター・カルチャーの媒体も含まれる。要はドラッグ・カルチャーを世に広めてきた側にかつては立っていたと想像でき、それを知っている息子は最初は父親と一緒にマリファナを吸おうと誘ったり、世界観を共有してこようとしたエピソードもいくつか挟み込まれている。ニック・シェフは6つの大学に合格するなど、ある時期まではけっこうな優等生で、それがプライマスのTシャツを着たり、ニルヴァーナ“Territorial Pissings”をシャウトしたり、フィッツジェラルドの『美しく呪われしもの』を読みふけるなど、ある時期を境に「反抗的になっていった」末のドラッグ・アディクトであった。ニック・シェフはことあるごとに「自立したい」と口にし、それは「家族から離れたい」と同義ではあっても、実際に自立するわけではなく、自立とドラッグが異次元で入れ替わったような生活態度に終始する。アメリカでは家から出て行かない子どもを親が裁判で訴えるケースもあるほどミレニアル世代は自立に対する欲求が低くなっているそうで、ニック・シェフの矛盾は未来に希望が持てず、無気力になりやすい世代の問題意識にもオーヴァーラップするところが大なのだろう。『ベニスに死す』のタジオ役、ビョルン・アンドレセンの再来とまで言われているティモシー・シャラメは理想だけが空回りし、気分の浮き沈みが激しいアディクトの様相をなかなか上手く演じている。

 父親は息子を理解したい、あるいは自分がロック・カルチャーを世に伝えてきたという自覚もあるから、息子のことを理解しようと自分でもクリスタル・メスを試してみたりもする(コルトレーンを鳴らしてみるものの、それはおよそドラッグによるトリップとは思えない描写に終始する)。そして彼は過去の回想ばかりにふけっている。ニック・シェフがまだ幼かった頃の仕草を思い出し、これにジョン・レノン「ビューティフル・ボーイ」の歌声が柔らかく重なっていく。なんとも後ろ向きなシーンで、ジョン・レノンがもはや現代には役立たずであるかのような印象さえ受けてしまう。ニック・シェフがサンフランシスコはイヤな雰囲気だといってドラッグ・カルチャーの聖地だった同地を離れニューヨークに行きたがる感覚も示唆的と言える。ニック・シェフは父親を責めて「管理するな」という言葉を投げつけたりもするけれど、(以下、ネタバレ)行方が分からなくなった息子を何度も探しに行く父親の動機は支配欲でしかないのかもしれず、子離れができていなかったのは実は父親の方だったということがこの辺りから濃厚に伝わってくるようになる。そして、家族というものの境界線がどこにあるかを見極めたかのようなクライマックスを経て、父親は「家に帰りたい」と懇願する息子に「戻ってくるな」と告げ、息子が死んでしまったとしてもそれは息子が自分で判断することだと考えを変えていく。これは父親が初めて息子が自立することを認めた瞬間といえ、実際、ニック・シェフは『トレインスポッティング』よろしくトイレの個室でそのまま動かなくなってしまう。ここではドラッグがもたらす天国的な気分がダイレクトに伝わり、この前後に停滞した親子関係に一定の距離感を与えるように響くペリー・コモ「サンセット・サンライズ」という選曲も見事だった。全編に渡って美しい自然の構図と選曲の妙はこの映画をとても品のある作品に昇華させていると思う。

 驚いたのは続けて公開されるピーター・ヘッジス監督『ベン・イズ・バック』との相似形である。『ビューティフル・ボーイ』はニック・シェフが麻薬更生施設に入院するところから始まり、『ベン・イズ・バック』はルーカス・ヘッジス演じるベンが麻薬更生施設から戻ってくるところから話は始まる。ニック・シェフもベンも、そして、どちらも前妻の子どもであり、親が再婚した家庭に馴染めないというところが共通している。ベンがドラッグに手を出した原因は医者による過剰な鎮痛剤の乱発であり、察するところそれがプリンスやリル・ピープの命を奪った合成アヘン(フェンタニル)へと向かう引き金になったのだろう。『ビューティフル・ボーイ』では父と息子の葛藤として描かれていた関係性は『ベン・イズ・バック』ではジュリア・ロバーツ演じる母親ホリーとのそれに置き換わり、ホリーの対処の仕方は、ここまで書いてきた文脈でいえば息子に自立を促すようなものではなく、息子が死んでしまっても仕方がないとは彼女は考えない。単純に比較はできない設定の違いはあるものの、ステップ・ファミリーとドラッグが深く結びつけられた作品を立て続けに観たことで、思ったよりも血の繋がりが実生活に影響を及ぼすアメリカというものを目撃してしまった感もあり、『俺たちステップ・ブラザーズ』や『なんちゃって家族』といった作品はやはり理想でしかないことも思い知らされた(あれはあれで面白かったけど)。

interview with Bibio - ele-king

 特筆すべきはそのアイリッシュでトラッドな趣だろう。たしかにこれまでもフォーキーな側面はあった、というよりむしろそれこそがビビオの音楽における特異性だったわけだけど、本日リリースとなる新作『Ribbons』ではそれが新たな局面を見せている。おそらくは昨年ヴァイオリンとマンドリンを弾きはじめたことが大きな影響を与えているのだろう。まずは先行シングルとなった“Curls”を聴いてみてほしいが、民俗的な要素が彼特有の音響や旋律と結びつくことによって、これまで以上に感情や記憶を揺さぶるじつに喚起力豊かなアルバムに仕上がっている。これはビビオのディスコグラフィのなかでもブレイクスルーとなる1作ではないだろうか。
 とはいえ彼はビビオである。ご存じのように彼はこれまでいろんなジャンルに挑戦してきたわけで、今回の新作もアイリッシュの要素ひとつに還元してしまうことはできない。アルバムにはほかにもさまざまな実験が詰めこまれていて、たとえば、これもヴァイオリンを弾きはじめたことの影響なんだろうけど、冒頭の“Beret Girl”や“Ode To A Nuthatch”にはバッハの影がとり憑いているし、あるいは“Before”や“Old Graffiti”には彼のソウルやファンクにたいする愛が滲み出ている。なかでも興味深いのは中盤に配置されたいくつかの曲たちだ。ビビオ流インダストリアルとも呼ぶべき“Pretty Ribbons And Lovely Flowers”には耳を奪われるし、ドアをノックする音と足音を核にした“Erdaydidder-Erdiddar”のリズムもじつに愉快である。
 そしてもちろん、それら種々の試みは彼のトレードマークとも言えるノスタルジーによって覆い尽くされている。ノスタルジーは懐古趣味とは違う、と以下のインタヴューにおいてビビオは強調しているが、たしかに彼の音楽はある特定の時代への帰属意識を煽るものではない。けだし、なぜわれわれはノスタルジーを抱くのか、そもそもノスタルジーとはなんなのか、そういった問いを投げかけることそれじたいがビビオの音楽の精髄ではないだろうか。レトロがある種の記号だとしたら、ノスタルジーはそれを超え出る想像である。新作『Ribbons』ではその想像の切れ端が、このお先真っ暗な現代を生きる私たちに新たな可能性の断片を示してくれているように思われてならない。

僕のフォーク音楽の経験は限られている。僕はフォーク・ミュージックの大部分があまり好きではなくて、フォーク音楽の、突出した、特定の要素が好きなんだ。余分なものが取り除かれた感じ、加工されていない感じがとても好きなんだ。

今作では“Curls”を筆頭に、随所でヴァイオリンやマンドリンがフィーチャーされています。昨年はじめたそうですが、なぜそれらの楽器をやってみようと思ったのですか?

スティーヴン・ウィルキンソン(Stephen Wilkinson、以下SW):過去の作品でヴァイオリンのパートを弾いてくれた友人がいて、彼が去年のはじめにマンドリンを注文して入手したときに、その写真を僕に送ってくれたんだ。それを見たら僕も即座に欲しくなってしまってね(笑)。そこで自分もマンダリンを買って、習いはじめた。マンドリンのチューニングはヴァイオリンのと同じだから、同時にヴァイオリンも学ぼうと思ったのさ。

ヴァイオリンを独学で学ぶのはかなり大変だったのではないでしょうか? どのようなプロセスで習得していったのですか?

SW:僕はまだ習いはじめの生徒だよ。でもマンドリンの弾き方を学んでいたことが役に立った。僕は11歳か12歳のころからギターを弾いていたから、マンドリンの弾き方を学ぶのはそんなに難しくなかったんだ。ギターみたいにフレットもあるし、弦をつま弾いて弾くから、馴染みのある演奏方法だった。だからヴァイオリンへ移行しやすかったけれど、ヴァイオリンはずっと難しかった。僕にとっては新しい楽器だから、僕はまだビギナーなんだ。だけど僕の、楽器やその演奏方法に対するアティテュードというのは、その楽器から何らかの音、たとえばなんらかのメロディを出すことができれば、それを録音することができるから、それでいい、ということなんだ。何年か前、サックスを買ったときもそうだった。曲のパートさえ吹ければ、それを録音して使うことができる。だから僕は自分のことをサックス演奏者やヴァイオリン演奏者とは呼ばない。けれど、レコーディング用のパートを演奏することはできる。あとは、YouTubeでチュートリアル動画を見たりしたよ。そこから弓の持ち方や、簡単な演奏のテクニックなどの基本を学んだ。そして、マンドリンで学んだ、アイルランドのトラッドのメロディをヴァイオリンでも弾いてみて、技術を上げるようにした。

前作の『Phantom Brickworks』は「場所」をコンセプトにしたアンビエント作品でしたけれど、今回のアルバムにもテーマはあるのでしょうか?

SW:テーマはあまりないね。今回のアルバムは、ここ数年かけて起こったことを集めたような作品だから。『Phantom Brickworks』はサイド・プロジェクトとまでは言わないけど、10年以上かけて作った、テーマ作品だった。さまざまな場所に捧げる曲をまとめた、べつのプロジェクトだったんだ。それにたいして、僕の他の作品は、フォト・アルバムのようなもので、僕がその時期に興味があった要素が含まれた作品になっている。だからアルバムによって、その時期に受けた影響も違うから、作品のスタイルも異なっていると感じられるかもしれない。

本作にはケルト音楽やトラッドからの影響が大きいです。あなたの音楽はこれまでもフォーキーでしたが、それと今回新たな影響とが見事に溶け合って、ひと皮向けた印象があります。ケルティックな要素、トラッドな要素を取り入れようと思ったのはなぜでしょう?

SW:それらは僕にとっては新たな要素だと感じられないけどね。僕が昔から強く影響を受けていたのは、60年代のスコットランド出身のバンド、ジ・インクレディブル・ストリング・バンド(The Incredible String Band)で、彼らはトラッドというよりもサイケデリックの要素が強かった。僕はファースト・アルバムを出したときから、彼らのサウンドに強く影響を受けていた。だから伝統的な器楽編成法やアコースティック楽器には当時から興味があったんだ。ジ・インクレディブル・ストリング・バンドにも伝統的な音楽を演奏している曲があるからね。それと同時期に僕はニック・ドレイクにはまって、それが僕のギターの演奏方法に大きな影響を及ぼした。だからフォーキーな部分は僕のなかでけっこう前からあったけれど、今回のアルバムではその感じがより伝統的な方法で表現されたんだと思う。とくにヴァイオリンを学びはじめたから、アイルランド人のフィドル演奏者、ケヴィン・バーク(Kevin Burke)を聴いて、アイルランドのメロディなどを学ぼうとした。だからマンドリンとヴァイオリンを学びはじめたことによって、僕のサウンドに新たな一面が加えられたように聴こえるんだと思う。

僕たちはみんな、似たような感情を体験している。同時にその体験は私的で個人的なものでもあるんだ。だから具体的な時代を参照しなくてもノスタルジーを喚起させる方法があるということなんだよ。

今回のアルバムの制作にあたり具体的にインスパイアされたアーティストや作品はありますか?

SW:とくにないかな。先ほども言ったように僕がおもに影響を受けているのは、ニック・ドレイクとジ・インクレディブル・ストリング・バンドで、その後、『Parallelograms』というタイトルのアルバムを70年代初めに出したカルフォルニア出身のアーティスト、リンダ・パーハクス(Linda Perhacs)の音楽を知った。それが今作の影響にもなっていると思うけれど、僕のフォーク音楽の経験は限られている。僕はフォーク・ミュージックの大部分があまり好きではなくて、フォーク音楽の、突出した、特定の要素が好きなんだ。ケヴィン・バークは比較的最近影響を受けたアーティストで、彼が70年代80年代にレコーディングした作品が好きだ。ギターとヴァイオリンのみが使用されていて、余分なものが取り除かれた感じのする、伝統的な音楽だから、オーケストレイションがあまりされていなくて、加工されていない(=raw)感じがする。そういう感じがとても好きなんだ。

ペンタングルやバート・ヤンシュ、フェアポート・コンヴェンションなどは参照しましたか?

SW:彼らの名前は知っているけれど、作品は持っていないからあまりちゃんと聴いたことがないね。たぶん曲をいくつかは聴いたことはあると思うけれど……。

いまUKはEU脱退をめぐって揉めていますが、今回このようにイギリスのトラッドやケルトの要素を強く打ち出したことは、ブレグジットと関係していますか?

SW:それはまったくない。僕はEU残留派だから、イギリスの現状には満足していないよ。

“Ode To A Nuthatch”にはバッハからの影響が感じられます。彼のもっとも偉大なところはどこでしょう?

SW:彼の偉大な点はたくさんあるからそれに答えるのは難しいけれど、僕が好きなバッハの音楽の多くは、無伴奏チェロ組曲なんだ。マンドリンでそれらを練習したり、最近はチェロも手に入れたからチェロでも練習したりしている。バッハには、ひとつのメロディをとおして、ものすごくたくさんの、そして多様な感情を生み出せる能力があった。彼はオーケストラのアレンジにかんしても天才だったけど、彼にはメロディとハーモニーに対する驚異的な理解力があった。そしてひとつのメロディ・ラインをとおして、さまざまな感情を生み出す能力があった。彼は真の天才だった。

“Pretty Ribbons And Lovely Flowers”はこのアルバムのなかでもとくに異質で、惹きつけられました。インダストリアルっぽくもあり、他方でヴォーカルは不思議な加工を施されていて、ビビオの新規軸ではないでしょうか。曲名に「Ribbons」とあることからも本作の核なのではと思ったのですが、いかがでしょう?

SW:この曲はアルバムの核というわけではないよ。アルバムのなかに、アルバムを代表する曲というのはとくにないからね。でも、アルバムのタイトルはたしかに曲のタイトルの影響を受けている。そして、この曲がアルバムのなかでも異質だということも同感だ。この曲で使われている手法のいくつかは『Phantom Brickworks』のときに使用したものだから、その作品との関係性はある。この曲を作ったのは、かなり前だったんだけど、ずっとお気に入りの曲だったし、周りの友人たちも気に入ってくれたから、今度のアルバムには入れたいと思った。たとえ今作がフォーキーなサウンドになっていったとしても、この曲がアルバムに残されることは重要だった。

“Erdaydidder-Erdiddar”でリズムを刻んでいるのはタップシューズでしょうか? このアイディアには何か参照元があったのですか?

SW:タップシューズではないけど、足音だよ。それからドアをノックする音。これはじっさいのドアを使ってスタジオで録音したんだ。木のドアをスタジオに持ち込んでね。足音はサンプリングした。最初に足音をサンプリングして、そこからリズムを作った。それが曲のバックボーンになった。

“Old Graffiti”はファンク~ディスコのスタイルです。“Pretty Ribbons~”からここまでの中盤は本作のなかでも雰囲気が他と異なっていますけれど、アルバムをこのような構成にしたのはなぜでしょう?

SW:『Phantom Brickworks』は例外として、僕はアルバムにさまざまな、対照的な感情を含めるのが好きなんだ。僕にとってアルバムは映画のようなもので、映画にはさまざまなシーンがあって、ひとつのシーンから次のまったく違うシーンへと移ったりする。アルバムでもそういうような旅路を作りたいと思っている。だから曲の順番というのはとてもたいせつで、今回はそれを決めるのが大変で時間がかかった。新しい曲ができて、それをアルバムに追加するたびに、アルバムの構成をすべて変えなくちゃいけなかったからね。だからかなり難しかった。

本作にはディオンヌ・ワーウィック(Dionne Warwick)やディー・ディー・シャープ(Dee Dee Sharp)といったソウル・アーティストへのオマージュが込められているとのことですが、彼女たちの魅力を教えてください。他のシンガーと違っているところはどこでしょう?

SW:そのアーティストたちというよりも、ある特定の歌やアルバムを僕が知るようになって、今回のアルバムにわずかだか影響を与えているという感じだよ。“Before”や“Old Graffiti”には、僕が、ある特定のレコードを聴いてアイディアを得た要素が含まれている。いま挙げられたアーティストたちも、その人たちをサンプリングした最近の音楽、つまりマッドリブやJ・ディラ、MFドゥームなどを聴いて知るようになったんだ。彼らの音楽から、多くの60年代70年代のソウル・ミュージックのアーティストを知るようになった。だから僕が影響を受けているのは、ディオンヌ・ワーウィックやディー・ディー・シャープたちというよりも、彼女たちの曲に使われていたアレンジの方法のアイディアなんだ。ディー・ディー・シャープの曲に“I Really Love You”っていうのがあるけど、そこで使われているキイボードのような楽器のサウンドが、コードを弾くときに、タイムラグがあるような聴かせ方をしていて、その、時間がずれているような感じがとても好きなんだ。“Old Graffiti”を演奏しているときには、その感じを入れようとした。“Before”には、インストゥルメンタルのパートにメインのメロディがあるんだけど、エレクトリック・ギターが入っていて、シタールみたいに聴こえるように設定してある。そのアイディアも、ディオンヌ・ワーウィックやジャクソン5などの古いレコードを聴いてアイディアを得たものなんだ。当時のアーティストの多くはこういうサウンドを使っていたんだ。

人びとが求めているのは音楽だけではなく、自分が所有できて、見ることができて、集めることのできる、フィジカルな何かだ。それはとても人間らしいことだと思う。だからヴァイナルがまだ消滅していないということは理解できるし、良いことだと思う。

これまであなたはフォークだけでなくソウルやファンク、ヒップホップ、ハウスにアンビエントと、作品ごとにさまざまなスタイルに挑戦してきましたけれど、そのすべてに共通している「ビビオらしさ」はなんだと思いますか?

SW:ほかの人が僕にそういう意見を言ってくれることはあるけれど、自分で何かと言うのは難しいな。たとえば、僕が友人たちの前で曲をかけて、それが誰の曲か言わなかったとする。それはハウス・ミュージックかもしれないし、エレクトロニック・ミュージックかもしれないし、なんでもいい。だけど、彼らはたいてい、それが僕の音楽だということがわかるんだ。そして、僕も同じように、音楽を作る友人たちの曲を聴くだけで、誰がそれを作ったかがわかる。なぜだかはわからない。ある特定のメロディかもしれないし、リズムのアイディアかもしれない。歌を歌うアーティストなら、声で認識できるから、よりいっそうわかりやすいけどね。知り合いのなかでも、僕みたいに、さまざまなスタイルの音楽を作る人たちが何人かいる。マーク・プリチャードはその良い例だ。クリス・クラークも。ふたりとも〈Warp〉のアーティストたちだ。彼らはエレクトロニック・ミュージックを作ることもできるし、アコースティック楽器やピアノだけの曲を作ることもできる。だけど彼らの音楽には彼ららしさというものがたしかにある。でも、それがなんなのかというのは説明できない。それに、自分のサウンドを自分で判断するのは難しいと思う。

あなたの音楽を貫いているもののひとつにノスタルジーがありますが、それについてはどのようにお考えですか? ノスタルジーは人に何をもたらすものでしょう?

SW:ノスタルジーとレトロは違うものだと思う。何かが「レトロだ」と言うとき、それはある特定の時代のデザインなどを参照しているという意味で使われていると思う。たとえば70年代のレトロ・ファッションとか。レトロな音楽というのもそう。その一方でノスタルジーとは、リスナーのなかでの感情を呼び起こすことだと思う。だから音楽にあるノスタルジーは、大勢の集団にたいして、同じ特定の時代を思い起こさせるものではないと思う。むしろ、個人のなかにある、個人的な思い出を呼び起こそうとしている。僕は、僕の音楽にたいしてフィードバックをもらうけど、ノスタルジーがどのように作用するかということについて、いろいろな人の意見やコメントを読んでいる。そのコメントは世界各地の、まったく異なった環境にいる人たちから寄せられてきている。カルフォルニアの人とか日本の人とか、僕が育ってきた環境とはまったく違う人たちだ。でも、僕たちはみんな、似たような感情を体験している。同時にその体験は私的で個人的なものでもあるんだ。だから具体的な時代を参照しなくてもノスタルジーを喚起させる方法があるということなんだよ。僕が関心のあるノスタルジーは特定の時代のものではない。僕のそれは、かなり長い時間軸に及んでいるかもしれないからね。

プレス・リリースには「記憶や子供時代に感じたこと、昔の画家たちによる牧歌的な風景画にも影響を受けている」と書かれていましたが、それらについて具体的に教えてください。

SW:子どものときは、世界の見え方が違うと思う。政治についてもよく知らないし、人間であることの現実にあまり縛られていない。子どものころは、魔法や幽霊などの存在を信じている。だから子どものとき、世界はまったく違った場所のように感じる。経験することも新しいことばかりだ。僕が子供のころ田舎へ行って、父親と釣りにいったことを覚えている。それは素晴らしい体験だったことを覚えている。とても新しくていままでにしたことのない体験だったから。それを大人になったいまふたたび体験するのは非常に難しい。まったく新しい場所に行ったとしても、成長するにつれて、過去の経験によって条件づけられてしまい、ある意味、なかなか物事に感心・感動しなくなってしまう。いろいろな期待を抱いてしまったりするからね。だから子どもの世界観は大人のそれとはかなり違う。でも、自分の子ども時代の記憶もまたじっさいとは違っていたりする。人びとは子ども時代を美化して記憶している傾向がある。それは、素敵なことだと僕は思うんだけどね。
 風景画の画家たちについては、そのままの風景を記録しようとしているのではない人たちが好きだ。彼らは、その場所の写真みたいな記録を残したいわけではない。彼らは、その場にある何かしらの感情やフィーリングを捉えようとしている。僕が言っているのは、イギリスの画家ジョン・コンスタブルなどのことで、彼が描く田舎の風景には、イギリスの田舎にある静けさや穏やかさが表現されている。もちろん、それらが描かれた時代には騒音公害もなかったし、なんの汚染もなかった。いまそのような風景画を観ると、それはべつのことを表しているように僕には感じられる。僕はその時代に戻りたいと思う。そういう絵を見て、あの時代に行ってみたいと思い、あの時代、あの場所に行っている自分を空想して楽しんでいるんだ。

あなたが最初に〈Warp〉からアルバムをリリースして今年で10年になります。このレーベルに移った当時と現在とでもっとも変わったことはなんですか?

SW:音楽業界はいまストリーミングが重要で、それが10年前と比べて大きく変わったことだね。レーベルが生き残るためには、ストリーミングに真剣に取り組んでいかなければならない。人びとが音楽を聴くための新しい方法として最初にストリーミングが登場したとき、僕はあまりそれが気に入らなかった、というか興味がなかった。いまはストリーミングを受け入れていて、それが人びとの音楽の聴き方にどんな影響を及ぼしているのかを観察している。ストリーミングはラジオに近いものだと思うようになったんだ。人びとは自分で作ったプレイリストや、登録しているプレイリストを聴いていて、音楽をコンピレイションのように聴いている。さらに観察していて気づいたのは、ストリーミングではメロウな音楽やアンビエントな音楽、チルな音楽がよく聴かれているということで、これはおもしろいと思ったな。つまり、人びとはよりリラックス効果のある音楽を聴きたいと思っているということだ。それは目が疲れているからかもしれないし、職場で聴いているからかもしれない。仕事中にメロウなBGMが欲しいのかもしれない。だから、ストリーミングは人びとの音楽の聴き方にも影響を与えているということ。僕は音楽を作る側の人間で、アルバムを聴くことによって影響を受けていることが多いから、あまり音楽をストリーミングしないけどね。プレイリストを聴くよりも、アルバムを通しで聴くほうが多いな。自宅ではレコードを聴いている。だからアルバムのレコードをかけてそのアルバムを全部聴くか、少なくともレコードの片面は全部聴いている。この変化はおもしろいと思った。
 それと、この10年間でヴァイナルの売り上げが伸びているのも興味深い。それは、人びとが求めているのは音楽だけではなく、自分が所有できて、見ることができて、集めることのできる、フィジカルな何かだということの表れだと思う。それはとても人間らしいことだと思う。人間はモノが好きだ。フィジカルなモノが好きだ。だからヴァイナルがまだ消滅していないということは理解できるし、良いことだと思う。集めたヴァイナルには価値がある。その反面、曲をダウンロードするためにストリーミング・サービスにお金を払っても、曲を聴くことはできるけど、その後に残る資産が何もない。僕はレコードを聴くためにレコードを買うけれど、投資でレコードを買う人たちもいる。けれど、いつかレコードがいらなくなったときに、それを売ったらなんらかの価値があるというのも良いことだと思う。

Kelsey Lu - ele-king

 歓喜雀躍とはこのことです。先日、待望のファースト・アルバムのリリースがアナウンスされたばかりのケルシー・ルー、なんと来日公演が実現しちゃいます。こんなにもはやくそのステージを体験することができるなんて……5月29日は渋谷WWW Xに集合決定ですね。いったいどんなパフォーマンスを披露してくれるのか、楽しみに待っていましょう。

Solange、Blood Orange から OPN まで、数々のアーティストからラヴ・コールを受ける才媛が放つ甘美なオブスキュア・ソウル。
LA拠点のアヴァン・チェリストでありヴォーカリスト/プロデューサーの Kelsey Lu (ケルシー・ルー)が、待望のデビュー・アルバムを来週 4/19 にリリースし、日本初となる単独公演を 5/29 WWW X にて開催。

Kelsey Lu は現在LAを拠点に活動。間も無く4月19日にリリースされる彼女のデビュー・アルバム『Blood』は、2016年に発表されたEP 「Chruch」(ブルックリンの教会でライヴ録音された作品)に続く待望のリリースとなる。共同制作者に The xx や Sampha、David Byrne などのプロダクションで知られるイギリス人プロデューサー Rodaidh McDonald を迎え、Jamie xx、Skrillex や Adrian Younge らも参加。「Church」以降に公開されたシングル“Due West”や 10cc の名曲カヴァー“I'm Not In Love”も収録される。

これまで Solange や Florence + the Machine、Blood Orange、さらには OPN のライヴ・プロジェクト M.Y.R.I.A.D. など数々のアーティストからラヴ・コールを送られ、彼らのライヴや作品でミュージシャンとしての才気を発揮してきた Lu による注目のソロ・プロジェクトは、彼女のトレードマークとも言えるチェロの旋律に導かれながらもマルチ・インストゥルメンタリストとしてそのイメージを更新していくサウンド、力強くもデリケートでしなやかな歌声、ミストのように空間を覆うジェントルでダイナミックなプロダクションが生み出す、甘美なオブスキュア・ソウル。

今まさに世界から注目を浴びはじめた Kelsey Lu の、リリース後絶好のタイミングとなる来日公演をお見逃しなく。
チケットは明日 4/13(土)10:00より発売。

Lu の嫋やかなダンスに彩られた奇妙な短編映画のような仕上がりのミュージック・ビデオの数々もぜひチェックを。

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