小林拓音
ゆく河のながれは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつむすびて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし。鴨長明『方丈記』浅見和彦校訂
あまりにタイトル数が多いので数え方が難しいが、本人単独名義としては19作目ということになるのだろうか。このたびリリースされたブライアン・イーノの最新作『Reflection』は、『Discreet Music』(1975年)から開始された試みの最新の成果であり、『Thursday Afternoon』(1985年)や『Neroli』(1993年)、そして『Lux』(2012年)の系譜に連なる作品である。それはすなわちアンビエントであり、「Thinking Music」であり、「ジェネラティヴ(自動生成的)」な音楽である。昨年の『The Ship』でそれまでのスタイルとは異なる方向性を模索し、果敢に自身のディスコグラフィに抗ってみせたイーノだが、そのような実験的なチャレンジを経て彼はいま、素朴に「原点」をリフレクト=回顧したくなったのだろうか。『Reflection』は多くのリスナーが彼に求めているだろう王道の、じつにイーノらしい長尺アンビエント作品に仕上がっている。
とはいえかつてスクラッチ・オーケストラやロキシー・ミュージックに参加していた彼の「原点」がどこにあるのかというのは難しい問題で、本人もライナーノーツにおいて1965年にアート・スクールで制作した作品のことを回想しているが、本作に『Reflection(反射=反映=回顧=熟考)』というタイトルが冠せられているのは、そのようにこの作品がイーノ自らに過去を振り返らせ、自身と対話する機会を与えるものだからである、とひとまずは考えることができる。つまり本作のテーマはさしあたりパーソナルなものであり、その点においても、タイタニック号の沈没と第一次世界大戦という出来事を現代の世界情勢へと接続しようと試みた前作『The Ship』とは対照的な作品となっている。
本作ではイーノらしいベルのような電子音が優しいメロディを紡ぎ出し、それがときおり挿入される低音や風のような電子音とあいまって穏やかな空間を創出している。音の質感は“The Ship”の冒頭部分に似ているが、『The Ship』のような音声の実験やノイジーな展開が繰り広げられることはない。CD盤『Reflection』には全1曲54分のトラックが収められており、その形式は『Thursday Afternoon』や『Neroli』と同じだが、さすがに当時とはテクノロジーの水準が異なっており、テクスチュアは今日的な感触を与える。アナログ盤『Reflection』は四つのパートに分かれており、その形式は『Lux』に似ているが、本作に『Lux』のような明るさはない。このように『Reflection』はイーノ節全開の王道アンビエント作品ではあるものの、かつての彼の諸作の二番煎じというわけではないのである。
この作品が興味深いのは、それがiOS/Apple TV対応のアプリとしてもリリースされているところだ。イーノはこれまでも『Bloom』や『Trope』といったアプリをピーター・チルヴァースとともに開発しているが、本人名義のスタジオ・アルバムと連動した形でアプリを発表するのは今回が初めてである。なるほど、たしかにどれほど一回性を追求して作品を制作しようとも、それがCDやヴァイナルという形で公開される限り、音はデータとして固定されてしまい、彼の求めるジェネラティヴな音楽が真の姿を現すことはない。その問題を解決するために彼は今回、作品それ自体をアプリ化することに踏み切ったのだろう。
イーノは本作を制作するにあたり、素材の選択、規則の設定、試聴という三つのプロセスを経由したことを明らかにしている。まずは音の素材やモードを選定し、次にそれらが自動的に結合しさまざまなヴァリエイションが生成されていくアルゴリズムを組んで、その後それを実際にプレイし聴き込んでいく。そしてその試聴の体験を第一・第二の段階までフィードバックさせ、改めて素材やアルゴリズムに調整を加える。気の遠くなるような作業だが、アプリ版『Reflection』にはその成果がリフレクト=反映されており、1日の時間帯や1年の時期に応じて異なるムードが生成されるよう綿密にルールが設計されている。
ということは、CD盤『Reflection』は、無数に生成される本来の『Reflection』から任意のパターンを切り取った、ある種のサンプルのようなものなのだろうか? どうやらことはそれほど単純ではなく、イーノ本人はアルバムとアプリがもたらす聴取体験は別物だと考えているようだ。つまり同じ『Reflection』という名のもとに、既存のアルバム概念を踏襲したフィジカル盤と、無限に音を生成していくソフトウェアのふたつが共存しているということになる。では、なぜそれらに同じタイトルが冠せられているのか? 本作の核心は、このふたつのヴァージョンの並存にこそある。
アプリ版『Reflection』では、起動するたびに異なる音の組み合わせが発生し、二度と同じ展開が訪れることはない。他方CD盤『Reflection』では、プレイするたびに何度も同じ展開が訪れる。しかし、では「同じ」とは一体どういうことだろう?
ミュージック・ラヴァーなら一度は経験したことがあるはずだ、同じであるはずの音源が同じようには聴こえない、聴こえてくれないという事態を。あなたはある曲を再生し、享受し、感動してもう一度再生ボタンを押す。けれど、ついたったいま体験したばかりの感動がまったく同じように生起することはない。不安に駆られたあなたはもう一度再生ボタンを押すが、そのときに訪れるのは一度目に再生したときとも二度目に再生したときとも異なる感動である。あなたは不思議に思い、改めて翌日また同じ曲を再生してみる。同じ部屋、同じ再生装置、同じ音源であるはずなのに、やはり昨日と同じようには聴こえてくれない――
当たり前の話ではあるが、聴き手は生きている。それはつまり、リスナーは決して時間の外部へと逃れることなどできないということだ。いまのあなたは10分前のあなたとは違う。そのことに自覚的であろうがなかろうが、あなたは10分という時間が過ぎ去った後の世界を生きている。その10分の間に、あなたの感情や気分や体調は変化している。だから今日のあなたは昨日のあなたではないし、明日のあなたも今日のあなたではない。
ふたつの『Reflection』がリフレクトしているのは、音の送り手であるイーノと音の受け手であるあなたというふたりの存在だ。絶えず変化し続け、二度と「同じ」状態を発生させることのないアプリ版『Reflection』は、ブライアン・イーノというアーティストが長年追求してきたジェネラティヴな試みを、現時点でもっとも適切にリフレクト=反映する作品である。それと連動しながら、しかしそれとは異なりつねに「同じ」状態を発生させるCD盤『Reflection』は、あなたというリスナーが刻一刻と変化し続けている事実をリフレクト=反射する。CDに刻印されたデータがどれほど「同じ」であろうとも、聴取はつねに一回的である。それは、あなたというリスナーもまた「同じ」主体でありながらつねに変化し続けているからだ。遷移的なアプリ版と不変的なフィジカル盤とをセットでリリースすることによってイーノは、まさにそのような聴取の一回性を、ひいてはあなたという存在の一回性を告げ知らせようとしているのである。『Reflection』は、音楽がはかないということの、そしてそれを聴くあなた自身もまたはかないということのリフレクションなのである。
イーノは本作を制作する上で、「流れる川のほとりに座っている時」を念頭に置いている。曰く、「そこにあるのは同じ川だが、流れる水は常に変わり続けている」。日本のリスナーはすでにこの着想になじみがあるはずだ。「ゆく河のながれは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつむすびて、久しくとどまりたるためしなし」。このあまりに有名な書き出しによって導かれるのは、震災や火災、遷都や飢饉などのルポルタージュであった。かつて鴨長明は過酷な現実を目の当たりにし、情勢の不安定さを「はかなさ」として抽出してみせたのである。そのことを思い返すとき、イーノが悲惨な世界に向き合った『The Ship』というヘヴィな作品の後に、穏やかで二重にはかないこの『Reflection』を世に問うたことの意味が見えてくるだろう。それは、彼による新年のメッセージを読んだ者ならもう気づいていることである。
まずは落ち着こう、と。そしてリフレクト=熟考することからはじめよう、と。いや、世界にたったひとりのかけがえのないあなたはもう、すでにリフレクト=熟考しはじめているはずだ、と。
小林拓音
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野田努
私は演奏することよりプランを作ることのほうが好きだったため、いったん機械を作動したら、ほとんどあるいはまったく私の側からの介在なしに音楽を作り出しうるような状態やシステムに興味が惹かれていた。1975年『ディスクリート・ミュージック』イーノ自身によるライナー
私は聴くことができて、そして無視することもできる曲を作ろうとしていた。1975年 前掲同
バイヤールはこの曲のあるところでは記譜されているテンポの約半分で演奏している。そして私は彼の判断の素晴らしい賢明さに敬意を表して、もっと遅いテンポでやった。1975年 前掲同
ある環境におけるバックグラウンドとして特別に考案された音楽のコンセプトは、1950年代、Muzak社によって提唱された。1978年『ミュージック・フォー・エアポーツ』イーノ自身によるライナー
あらたまって書くのも野暮な話だが、ブライアン・イーノの先見の明の非凡さに疑いの余地はない。彼がアンビエント理論を打ち立ててから40年後の未来には、Muzak社のバックグラウンド・ミュージックのテンポを遅らせた反復=ヴェイパーウェイヴまで含まれることになる。それはしかしデジタル的退廃で、「思考のための空間」を導くものかどうかは怪しいところである。
『リフレクションズ』は、感触で言えばここ最近の彼のアンビエント・ミュージックそのもので、コンセプトも、40年前に彼がジャケットの裏面にしたためたそれから逸れるものではない。つまり、「いったん機械を作動したら、ほとんどあるいはまったく私の側からの介在なしに音楽を作り出しうる」ことの最新型だ。ことにアプリでは,その都度その都度自動生成される曲が流れる。そのアンビエンスはバッテリーがもつ限り、終わりがない。このようにイーノは忌々しいスマホ時代に対応しているわけだが、ぼくのまわりにはスマホを所有しないイーノ・ファンもいる。
『ディスクリート・ミュージック』をはじめとする初期の名作には、牧歌的と言ってもいいほどの楽天性があった。イーノは自らが影響を受けたゴスペル音楽のことを“楽天主義のメッセージ”と形容しているが、自分の体験から言っても教会でゴスペルを聴くということには、とにかくなんだかよくわからないけど良いことあるよという、信仰心のない人間をも前向きにさせる力がある。そこまで際だったものではないにせよ、1978年の定義に基づけばアンビエントとは「平穏を導くもの」で、実際初期の作品にはロマンティックなムードもある。そうしたある種の情緒は、もうここ数年のイーノ作品にはない。曲はより物質的で、物理的だ。
『リフレクションズ』のジャケが、どうにも気になる。黒のなかをブライアン・イーノ本人の幽霊のように暗い表情が浮かんでいる。紙エレキングvol.19の表紙を見て欲しい。ガラス板にreflections(反射)しているのは、iPhoneを構えているイーノだが、それがまた何とも茫洋と頼りなく見えるのだ。
BBCによれば、2016年の流行語のひとつに「ポスト・トゥールス(ポスト真実)」があるという。いや、まったく……、時代はいまP.K.ディックというわけだが、要するに、人にとって重要なのはもはや真実ではない。“自分にとって都合が良い”真実なのだと。トランプの醜さという真実よりも、雇用を増やしてくれるという真実を信じるように。細分化されたメディア環境がポスト・トゥールス社会を可能にしている(スマホの話じゃないが、いまは音楽の享受/再生のやり方も細分化し過ぎている)。
本当に何がなんだかわからなくなっているというのもある。テレビを点けると討論番組をやっている。誰かがリベラルの敗北をしゃべり出す。リベラルは口当たりのいい理想ばかりを並べて経済をないがしろにしてきたからこんなことになったんだと唾を飛ばす勢いで言う。これもまた2016年の風景のひとつだが、2017年はその延長にある。
近年のイーノは、まるで、あたかも、若き日に多大な影響を受けたコーネリアス・カーデューの政治活動を追っているかのようだ。1981年に事故死したUK現代音楽の巨匠は、シュトックハウゼンに学び、やがてジョン・ケージと出会い、演奏し、晩年は活動家として、マルクス主義者として生きた。そしていまブライアン・イーノは自ら矢面に立って、真摯な態度で政治的意見を述べる。政治コメンテーターも右往左往するポスト・トゥルースの時代、アーティストが政治に言及するのは昔とは違った意味でのリスクがある。知性派として知られるイーノだが、彼は間違いなく情熱家でもあり、つい先日も、ブレグジットで思い知った自らの無知を打ち明けながら、ポリティカル・メッセージを新たに公表したばかりだ。
アンビエント・コンセプトにおける「無視することも可能」という説明は、真であり、注意深く聴かなければわからないという逆説でもある。『ディスクリート・ミュージック』はぼくをいまでも心地よくさせてくれるが、『リフレクションズ』は上げも下げもせず、むしろ醒めさせ、リスナーを冷静さに導こうとするかのようだ。激烈だった2016年が終わり、2017年がはじまった。紙エレ年末号の特集に沿って言えば、いまぼくたちにできること──しっかりと注意深く聴くこと。
ひとつは作曲、もうひとつが演奏、そして3つめは聴くこと。 ジョン・ケージ(1955年「実験音楽」)
野田努