「KING」と一致するもの

Cornelius - ele-king

 コーネリアスが、2月22日に「変わる消える」のアナログ12インチ・シングル盤をリリースする。同曲は、mei eharaをヴォーカリストに迎え、現在配信中の楽曲だが、今回は小山田圭吾本人のヴォーカル・ヴァージョン。また2011年にsalyuxsalyuに提供した楽曲「続きを」のセルフ・カヴァーも収録。両曲とも初発表のヴァージョンとなる。あわせて現在配信中のバージョンもカップリングとして収録、待望のアナログ盤リリースとなる。

Cornelius
変わる消える

収録曲
Side A
1 変わる消える
2 続きを
Side B
1 変わる消える (feat. mei ehara)
2 変わる消える (feat. mei ehara) [John Carroll Kirby Remix] 
   Lyrics by Shintaro Sakamoto / Music by Keigo Oyamada

2月22日発売
WPJL-10178
¥2,400(税抜)/ ¥2,640(税込)
アナログ12インチ・シングル
https://cornelius.lnk.to/changeandvanish

Everything But The Girl - ele-king

 トレイシー・ソーンとベン・ワットによるエヴィリシング・バット・ザ・ガール(EBTG)が新しいアルバム『Fuse 』を4月21日にリリースする。これは1999年の『Temperamental』以来の新作で、EBTGにとっての通算11枚目のアルバムとなる。
 先行で発表されたシングル曲“Nothing Left To Lose”は、ハウス・ミュージックの影響下にあった90年代のEBTGの延長にあり、アルバムの内容も、エレクトロニックであり、ソウルであるという。

 以下、レーベルの資料からの抜粋です。

 2021年の春から夏にかけてベン・ワットとトレイシー・ソーンによって書かれ、制作された『Fuse』は、バンドが90年代半ばに初めて開拓した艶やかなエレクトロニック・ソウルを現代的にアレンジしたものとなっている。
サブ・ベース、シャープなビート、ハーフライトのシンセ、空虚な空間からなるワットのきらめくサウンドスケープの中で、ソーンの印象的で豊かな質感の声が再び前面に出ており、これまで同様、現代的、同時代的なサウンドでありながらエイジレスなバンドのサウンドに仕上がっている。
  バンドの再出発とニュー・アルバムについて、トレイシーはこう語っている
 「皮肉なことに、2021年3月にレコーディングをスタートしたとき、このニュー・アルバムの完成されたサウンドについて、あまり関心事がなかったの。もちろん“待望のカムバック”といったプレッシャーは承知していたから、その代わりにあらかじめ方向性を決めないで、思いつきを受け入れる、オープンマインドな遊び心の精神で始めようとしたのね」
  2人は自宅とバース郊外の小さな川沿いのスタジオで、友人でエンジニアのブルーノ・エリンガムと密かにレコーディングを行った。
 希望と絶望、そして鮮明なフラッシュバックが交互に現れるこのアルバムの歌詞は、時にとらえどころがなく、時に詳細に描写され、再出発することの意味をとらえている。
  ベンは次のように語っている。
 「エキサイティングだったね。自然なダイナミズムが生まれたんだ。私たちは短い言葉で話し、少し顔を見合わせ、本能的に共同作曲をした。それは、私たち2人の自己の総和以上のものになった。それだけでEverything But The Girlになったんだ」
  二人のスタジオでの新たなパートナーシップは、新しいアルバム・タイトルにもつながった。
 「プロとして長い間離れていた後、スタジオでは摩擦と自然な火花の両方があった」とトレイシーは言う。「私たちがどんなに控えめにしていても、それは導火線に火がついたようなものだった。そして、それは一種の合体、感情の融合で終わった。とてもリアルで生きている感じがしたわ」

Everything But The Girl
Fuse

Virgin Music
2023年4月21日、配信・輸入盤CD/LPにて発売予定
https://virginmusic.lnk.to/EBTG_NLTL

■バイオグラフィー
 エヴリシング・バット・ザ・ガールは、トレイシー・ソーン、ベン・ワットの2人により、1982年にコール・ポーターの「ナイト・アンド・デイ」の荒々しいジャズ・フォーク・カバーで登場した。その後、80年代を通じて英国でゴールド・アルバムを次々と発表。1992年にワットが難病の自己免疫疾患で死に瀕した後、1994年に彼らの最大のヒット曲である「Missing」が含まれ、ミリオンセラーとなった熱烈なフォークトロニカ『Amplified Heart』で復活を遂げる。その後90年代を通じて多くのヒットを生み出し、96年リリースの『Walking Wounded』がバンド初のプラチナ・セールスを記録するなど、多くのヒット曲を生み出すが、1999年のアルバム『Temperamental』のリリースを最後に2000年に活動を停止する。
 2000代はトレイシー、ベンそれぞれソロ活動を展開。ソロ・アルバムやノン・フィクションの出版、また自身のレーベル、Buzzin’ Flyの成功など、その才能を遺憾無く発揮してきた。
 そして2023年、EVERYTHING BUT THE GIRLとして24年ぶりとなる新作アルバム『FUSE』を4月21日にリリースする。

■ アーティスト日本公式サイト
https://www.virginmusic.jp/everything-but-the-girl/

SHE SAID/シー・セッド その名を暴け - ele-king

 『彼女は話した』ーー観終わったあとにこれほど納得のいくタイトルもなかった。「#MeToo」運動が世界で拡大するきっかけとなった記事をニューヨークタイムズの記者2人が書き上げるまでのプロセスを追ったファクション(ファクト+フィクション)。オープニング・シーンは92年のアイルランド。犬を連れた若い女性が海岸沿いを歩いていると不思議な光景に出くわす。それは映画の撮影現場で、彼女は友人に呼ばれてここに来たらしい。続いてキャリー・マリガン演じるミーガン・トゥーイー記者が恐怖の表情で路上を疾走する短いシーン。トランプ支持者からの脅迫に怯え、何かから全力で逃げている状態を表した心象風景か。1年ほど時間軸を遡って16年のニューヨーク。トゥーイーはクリントンとトランプが争う大統領選の最中にトランプにセクハラされたという女性から証言を得る。ここからゾーイ・カザン演じるジョディ・カンター記者がハーヴィー・ワインスタイン(作中ではワインスティーンと発音)を追うシーンと、トゥーイーがトランプの取材を続けるシーンが短く交互に差し挟まれる。トゥーイーは妊娠していて臨月に近く、出産直前にトランプ本人から電話で罵声を浴びせられ、記事が世に出ると何者かから脅迫が届くようになる。大統領選でトランプが勝ち、トゥーイーは出産して産後鬱に。一方でカンターはワインスタインの元で働いていた女性が不自然なかたちで辞職していることに気づき、連絡先を探すが見つからず、その娘の家を訪ねると偶然にも本人に会うことができ、カンターは「25年も待っていた」と歓迎されたかと思うと、帰り際には「やはり話はできない」と取材を断られてしまう。私にはもうできないとジャーナリストの仕事を諦めかけていたトゥーイーは閉塞状況に耐えかねて再びオフォスを訪ね、彼女の様子を見たデスクのレベッカ・コーベット(パトリシア・クラークソン)にカンターの取材に合流したらどうかと示唆される。トゥーイーはカンターとタッグを組み、ハーヴィー・ワインスタインの周辺を調べ始める。トゥーイーとカンターはまず3人の女性に話を訊いてみようとするが、彼女たちとは会えないか、会えてもやはり話すことはできないと断られる。本当は、しかし、彼女たちは話したがっているのではないかと感じた2人は、なんとか話を聞き出す方法はないかと思案していると、2人の動きに気づいたワインスタインがニューヨーク・タイムズに弁護士を送り込んでくる。

 ハーヴィー・ワインスタインはすでに現実の世界で有罪となり、収監されて刑務所内でコロナになったことも報じられている通り。『セックスと嘘とビデオテープ』や『アタメ』などアートハウス系の作品を次々とヒットさせ、タランティーノを世に送り出したワインスタインは『スクリーム』『イングリッシュ・ペイシェント』『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』と、本当に多岐に渡るヒット作をプロデュースし、『もののけ姫』 英語版、『アザーズ』『ロード・オブ・ザ・リング』と90年代をリードしたプロデューサーの1人であることは確か。その裏で何が起きていたかをトゥーイーとカンターが調べ、証拠を探し出そうとするも、ワインスタインの権力があまりに絶大で、あらゆるところに情報網を敷いているため2人はなかなか証拠に近づくことができない。取材の途中、トゥーイーは企業の情報を公開している政府内の独立機関EEOCがなぜかセクハラ訴訟の回数だけは非公開にしていることに気づき、思わず電話で対応している女性に「あなた個人はおかしいと思わないのか」と声を荒げてしまう。取材の突破口となったゼルダ・パーキンス(サマンサ・モートン)がカンターに語った言葉のなかにも「法律は性加害者に有利にできている」と静かに怒りを述べる場面があり、僕にはこのひと言がこの作品で最も重く感じられる主張となった。(以下、ネタバレ)これらのシーンはこの作品が糾弾しているのはワインスタイン個人ではなく、もっと大きなものだということを観客に告げている。トゥーイーが作品の冒頭でトランプの取材を諦めなければならなかったことがどういうことなのか、パーキンスの言葉がすべてを表し、そして、パーキンスが口を開くまで、この映画のタイトルは『SHE DON”T SAY』が相応しかったのに、ここから一気に『SHE SAID』に転じていく。世界初のセクハラ裁判を映画化した『スタンドアップ』では最初に立ち上がるジョージー・エイムズ(シャーリーズ・セロン)がいて、それに追従する女性たちが「#私も」と現れるという流れだったけれど、『SHE SAID』ではほぼ全員が最初に声を出す1人になる。実際に声をあげた1人であるアシュレイ・ジャッドは本人役で出演もしている。また、トゥーイーとカンターの取材活動を支える多くの男性たちが綿密に描かれていると同時に、その男性たちの多くが権力者だということは両義的な意味を持っていると思ったことも付け加えておきたい。言い方を変えれば沢山の男たちにゲートを開けてもらわなければ2人は先に進めなかったのが現実だったと見えたのである。

 『SHE SAID』を観ながら嫌でも思い出してしまったのが『テルマ&ルイーズ』と『大統領の陰謀』、そして昨秋のTVドラマ『エルピス』。前者は女性2人が戦っているところが同じというだけなんだけれど、『ドライヴ』や『未来を花束にして』(これも女性参政権のために爆弾闘争を行った女性活動家たちを描いた作品)で可愛らしい顔立ちを見せていたキャリー・マリガンがすっかり大人の表情を見せるようになっていてスーザン・サランドンとダブって見えたということもある。ウォーターゲート事件を扱った『大統領の陰謀』もジャーナリストが権力と戦うというところだけが同じで、これはスピルバーグも『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』でしっかりと引用したばかり。安倍政権下で日本のTVがライセンス事業であることをチラつかされ、報道番組がものの見事に萎縮してしまったことを反省的に回顧する『エルピス』は麻生太郎としか思えない政治家が殺人事件の隠蔽に関わっているという筋立てで、やはり真実を明らかにするために権力と対峙するところが想起のポイントではあるのだけれど、『エルピス』が自己実現のために真実を追求しようとする青春ドラマだったのに対し、あくまでも人権のために動く『SHE SAID』は掛け値なしの社会派ドラマであり、性被害に遭った女性たちにトゥーイーが「あなたの過去は変えられないけれど、次の犠牲者を出さないために(話してくれ)」というところは誰のためにやっているのか(少なくとも自分だけのためではない)ということが強調され、おそらくこういった人権意識を前景化させれば日本でこの手のドラマは視聴者を増やすことはないだろうということも同時に考えざるを得なかった。『エルピス』で長澤まさみ演じる浅川恵那は第2話で「キャスターとして自分の伝えた事がどれほど真実だったのか。それを考えると息が苦しくなる。今の自分はその時の罰を受けている(彼女の背景には福島原発事故当時の専門家の発言や安倍晋三の「アンダーコントロール」発言の映像が流れる)」と自分自身の贖罪意識に帰結させることで問題を小さなものにしてしまうともいえる。青春と社会では人が置かれている場所があまりにも違う。日本だけで「#MeToo」がもうひとつ盛り上がらなかった理由もそこにあるのだろう。それでも『エルピス』は現在の日本で考えられる限り最上の政治ドラマだったと思うし、これがヒットした意味は大きい。

 昨22年に「起きた」ことで最も驚いたのはやはり安倍銃撃事件であり、その余波が収まったとはまだまだ言えないけれど、「起きなかったこと」で驚いたのはサンフランシスコ講和条約から70年が経ち、日本が主権を回復したことを誰も祝わなかったことだった。沖縄本土復帰50周年は朝ドラから何から記念行事を山と積み上げていて、それはまあ、米軍基地を押しつけていることに引け目があるから過剰にそうなるのかもしれないけれど、起源にこだわる建国記念日にはなんだかんだあっても国家として主権を回復したことに誰も興味がないというのはどういうことなんだろうと思うし、主権意識に乏しい日本人が責任感もなく、自信もないまま生きているのは致し方ないことで、そういったことはすべて整合性のあることなんだとも思わざるを得なかった。もちろん、人権意識が極端な場合は戦争を引き起こすという側面もある。ワインスタインも裁判で自分の非は認めず、「#MeToo」運動が魔女狩りのような一面も持ち合わせていたことはワインスタインのやっていたことを知っていたとされるメリル・ストリープの自宅が落書きだらけになったことにも表れている。さらにいえば「#MeToo」運動自体に懐疑的だったフランスという例があったことも考えさせられる一面は持っていた。また、ワインスタインがやったことは「彼女たちが話した」通りだとして、一方で湧き上がるのはそんなことを続けながら彼はさらに『世界にひとつだけのプレイブック』『英国王のスピーチ』『フルートベール駅で』といった繊細な作品を世に送り続け、民主党支持者だけあって『華氏911』や『コンフェッション』といった政治的プロパガンダも臆さず、単なるエンターテイメント作品で終わらない『アビエイター』『シン・シティ』『ザ・マスター』といった名作も完成させてきたという不思議さである。二面性というにはあまりに極端だし、それこそ昼はリベラル、夜は殺人鬼と化していた『アメリカン・サイコ』そのままではないか。これだけの作品を世に送り出すために、彼にはセクハラや性暴力が必要だったとして、どこでそれらは折り合いをつけていたのだろうか。『SHE SAID』にはそこまで求めるものではないにせよ、ハリウッド映画の新たな謎としていつか本人か誰かが一定の解釈を与えてくれることを望みたい。それですら作品にしてしまうのがハリウッドだろうし。ちなみに日本では「#MeToo」運動と「Time's Up運動」がごっちゃにされていて、この映画で扱われているのは「#MeToo」運動が拡大する1日前までの話であり、取材を始めた頃にカンターは記事が出ても「無視されるのが一番怖い」と、記事が与える影響についてはあくまでも未知数としてこれに取り組んでいたことがとても印象的だった。

Theo Parrish - ele-king

猪股恭哉

 ダンス・ミュージックにおけるミックスCDというフォーマットは、重要な表現手段としてかつて機能していた。クラブでのプレイをライヴ・レコーディングしたものから、よりアルバム的な、コンセプトを定め微細な箇所まで作り込んだ作品が精力的に発表されていた。フランソワK『Essential Mix』、リッチー・ホウティン『De9: Closer to the Edit』などなど。現在ではインターネット上でオフィシャル、アンオフィシャル問わず、無限に広がり続けていくミックス音源は、自身のスタイルを提示する名刺としての役割へ変化していくことになった。
とはいえ、DJやプロデューサーが貴重なレア音源や忘れ去られていた作品をセレクトしたり、自分のお気に入りのフレッシュな才能を世の中に送り出すキュレーションとしての機能は、かつても現在も駆動し続けている。

 さて、セオ・パリッシュのDJ-KICKSである。自身のレーベル〈Sound Signature〉から数多のミックス音源をリリースしてきた彼によるオムニバス的な側面ではない、初のオフィシャルなミックス作品である。DJとしての評価は揺るがないものを確立し長いキャリアを重ねてきたベテランとしては意外かもしれないが、様々なジャンルや歴史を横断する彼のスタイルを踏まえるとライセンス問題をクリアするのが困難だったのかも知れない(余談ではあるが、かつてMinistry of Soundが一世を風靡した人気ミックス・シリーズ「Masterpiece」にセオが登場するのでは? という噂があった。真偽のほどは不明ながら実現していれば……)。

 本作は、『Detroit Forward』という副題がつけられているとおり、デトロイトのアーティストたちで構成されており、地元音楽コミュニティをセオがキュレーターとして紹介する形をとっているといえるだろう。セオ自身がクレジットされているのは1曲のみで、他はすべてがデトロイトを中心としたローカルな才能たち。アンプ・フィドラーのリミックスを手掛け、近年はソロ活動を積極的に行っているビートメイカーであるメフタ。独特の浮遊感を漂わせるビートメイキングがラッパーJOHN C.とのコラボでも非凡なプロデュースセンスを発揮する。鍵盤奏者としてアンドレスやオマーS、スコット・グルーヴス作品に参加してきたイアン・フィンクが、セオ・パリッシュのクラシック”Moonlite”をカヴァー(コンガでアンドレスも参加している)。マッド・マイク譲りのモーターシティ・ソウルを受け継ぐマルチ・プロデューサーのジョン・ディクソン。デトロイトではないが〈Sound Signature〉からアルバムもリリースしたDJのスペクターがパワフルでタフなジャズ・ビートダウンを提供。セオやアンドレス、ワジードといったプロデューサーから、スカイズー、ドゥウェレ、エルザイらヒップホップ・アーティスト作品にも携わる女性シンガー、モニカ・ブレア。
 そして、本作にクレジットされたアーティストのうち唯一3曲も参加しているデショーン・ジョーンズ。マッド・マイクの薫陶を受け、デトロイトが誇る偉大なトランペット奏者であるマーカス・ベルグレイヴの弟子であり、グラミー賞へのノミネート経験もあるサックス・プレイヤーによる秘蔵トラック。シンガー・イディーヤとコラボしたメロウR&Bに、シンガーやラッパーをフィーチャーした濃厚なファンク、ホーンとコンガとピアノによる巧みなコンビネーションが冴えるハウスまで、名うてのトランペット奏者の知られざる一面を引き出したセオの彗眼に唸らされる。
 ほかにも、YouTubeで公開されている公式ショートフィルムでもフィーチャーされているDJのフーダットとシンガーソングライター・ソフィアEが手掛けたミニマルなデトロイトハウス、プロデューサー/ドラマーのノヴァ・ザイイがヴォーカリスト・ケスワを迎えたスペーシーでサイケデリックなモダンソウル……。
 事程左様にローカルな才能が結集し、様々なスタイルの音楽が次々を広がっていく様は、まるでセオが率いるバンドが演奏しているようで、グルーヴとストーリーが独特の時間軸の変化を見せ聴き手を魅了する(全体のプロデュースをセオがコントロールしているような統一感!)。音楽の街デトロイトで脈々と受け継がれてきたコミュニティが、最高のDJの手でミックスCDとしてキュレートされ、メディアとして世界へ発信される。デトロイト・パワー。

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野田努

 『J・ディラと《ドーナッツ》のビート革命』は良いところもある本だが、ひとつ、大きな間違いがある。アメリカ人の著者が、おそらくは自分が読んだ記事のみによって、デトロイトのクラブ・シーンを「テクノに支配されていた」と紹介している下りである。んなわけないだろ。少なくとも90年代は、デトロイトもほかのアメリカの都市と同様、ロックとヒップホップが人気であって、テクノやハウスなんて音楽は少数派の音楽だったし、そもそもクラブ・シーンと言えるほどのシーンもなかった。
 また、ローカルにおいてはラップとテクノは繋がってもいる。昨年の元スラム・ヴィレッジのワージードのアルバム『Memoirs Of Hi-Tech Jazz』(完璧なテクノ作品)はその好例で、昔で言えば、たとえば同書で鬼の首を取ったように述べている「ジット」(昔ながらのチンピラ風情)、彼らをデトロイト・テクノ第一世代が拒絶したのは書かれている通りだが(喩えれば、高校の文化祭を荒らしに来るヤンキーを追っ払うようなものだから)、しかしその「ジット」にリンクしているシーンこそ、かの地でもっとも大衆的に盛り上がっているエレクトロのシーンであって、そこから出てきたのがオックス88やドレクシア、そのシーンとテクノとの回路を作ったのが(初期においてヒップホップの影響を受けていた)URだ。デトロイト・テクノがブリング・ブリング・シットや不良自慢と距離を持とうとしたのはまったくの事実だが、これはこれでじつに意味のある話なので、いつかしてみたい。

 いずれにせよ、デトロイト・テクノおよびハウス、ひいてはハウス・ミュージックそのものがアメリカ内部においてはいまだに理解が浅いのだろう。そういう観点からすると、ビヨンセがハウスをもってアルバムを作り、彼女以前にラナ・デル・レイやドレイクがムーディーマンをフィーチャーしたのは(ずいぶん前の話になるがミッシー・エリオットがサイボトロンを引用したのも)、アメリカにおいては文化闘争と言える。大袈裟に思われるかもしれないが、スペシャル・インタレストのようなアメリカのパンク・バンドの口からジェフ・ミルズやドレクシアの名前が出るのは、ぼくからしたらかなり例外的なことだったりするのだ。
 だいたい、アメリカの先鋭的なブラック・エレクトロニック・ダンス・ミュージックは、60年代〜70年代のジャズのように、母国よりもヨーロッパにおいて評価され、多くは大西洋を渡ったところに活動の場を見出している。そして、ゼロ年代において、UKを拠点に活動しているエレクトロニック・ミュージシャンを取材した際に、もっとも多くインスピレーションの源として名前を聞いたのがセオ・パリッシュだった。

 ベルリンの〈!K7〉レーベルによる「DJ-Kicks」は、DJによるミックスCDの長寿シリーズで、2016年にはムーディーマンの魅力的な1枚をリリースしているのだが、DJミックスがネットで無料で聴けてしまう今日においては、ますます存在意義が問われてもいる。選曲に関しても、すべてをフラットにしたがる情報過多な現代では、そこに実験音楽があろうがJ-POPがあろうが誰も驚きはしない。よほどの何かがなければ、商品として成立しないだろう。
 セオ・パリッシュは、ある意味まっとうなコンセプトでミックスCDの意義を我々に再確認させる。ここに収められている20曲中19曲が未発表で(ほとんど新曲のようだ)、クレジットされている17人のプロデューサーは、セオ本人(それからジョン・ディクソン)を除けば格段有名なわけではない。しかしどうだ、みたことかと、素晴らしいなんてももんじゃない、驚きの連続なのである。
 これらハウスやテクノの進化形を聴いていると、デトロイトで何が起きていたのかまだ外の人間が知らなかった時代の、デリック・メイのDJミックスの音源(当時はカセットテープ)を思い出す。ほとんど知られていないシカゴのアブストラクトなディープ・ハウスばかりがミックスされたそれは、「音楽研究所(ミュージック・インスティテュート)」と呼ぶに相応しい、アンダーグラウンドという実験場からの生々しいレポートだった。『デトロイトの前線(Detroit Forward)』と銘打たれたセオ・パリッシュのこれは、いまだかの地において音楽研究が続行されていることを明白に訴えている。そして、デトロイトの神話体系の外側、すなわちメディアやネット系プラットフォームが目配せしないところにこそ、もっともスリリングなサウンドがあるのだと主張しているようでもある。
 ゼロ年代以降のセオ・パリッシュが彼のディープ・ハウス・スタイルを追求しながら平行して手がけていたのは、「レジスタンス年代記」と命名されたサン・ラーへのトリビュート作の発表、あるいは〈Black Jazz〉レーベルの編集盤の監修といった、70年代スピリチュアル・ジャズとの接合である。それを思えば、彼のセレクションにジャズ色が際立っているのは必然なのだろう。本作において唯一3曲に絡んでいるDe'Sean Jonesはスティーヴィー・ワンダーのバックも務めていたこともあるその筋のエリートで、彼はマカヤ・マクレヴェンのバンドでも演奏している。タイムライン(URのサブプロジェクト)のメンバーとして日本で演奏経験もあるサックス奏者だが、彼が入ったときのライヴはほとんどフリー・ジャズで、これまで何度もあったURの来日ライヴのなかの3本の指に入るインパクトだった。
 で、そのDe'Sean JonesとアイディーヤのR&Bヴォーカルによる“Pressure”というダウンテンポの曲がアルバムのオープナーとなっている。凄腕の楽器奏者としてのジョーンズはそこそこ知られているかもしれないが、ここではトラックメイカーとしての彼の姿が表出している。“Flash Spain”という曲ではラテン・ジャズ・ハウスを、“Psalm 23”ではハード・ゴスペル(とでも呼びたくなるような曲)を試みているが、どの曲も大胆さを忘れていない。
 デトロイト・テクノの発展型を知りたければDeon Jamarの“North End Funk”をお薦めするが、その叙情性はWhodatとSophiyah Eによる“Don't Know”にも受け継がれている。ドラム奏者のMeftahによる“When The Sun Falls”と“Full”という曲も深夜の友になりえる恍惚としたアンビエント・ハウスだ。
 かつてサブマージからアルバム(ウマー・ビン・ハッサンやバーニー・ウォーレルがフィーチャーされていた)を出したことのあるDuminie DePorresは、セオ・パリッシュとともに、それこそジュリアス・イーストマンの前衛にリンクするであろう、ジャジーなミニマルを見せている。もうひとつ、実験精神に関しては、セオの〈Sound Signature〉からも作品を出しているH-Fusionによる、テリー・ライリーとドレクシアが出会ったかのような“Experiment 10”が突出している。彼はこの先、ヨーロッパで影響力を持つことになるかもしれない。
 女性アーティストでは、Monica Blaire(mBtheLight名義で〈マホガニー〉からアルバムを出しているが、本作でも同名義の曲がセオによってリエディットされ収録されている)とKesswaがこの先期待大の独創的なサウンドを披露している。そして、カーティス・フラーやフィル・ラネリンなどレジェンドたちと共演経験のある気鋭のジャズ・ピアニスト、Ian Finkelsteinがセオ・パリッシュの曲“Moonlite”をそのエレガントなピアノ演奏によってカヴァーすれば、Sterling Toleは“Janis”という曲によってデトロイト・ヒップホップのファンキーな側面を強調する。

 昨年はディフォレスト・ブラウン・ジュニアが著書『黒いカウンター・カルチャー集会(Assembling a Black Counter Culture)』をとうとう上梓し、デトロイト・テクノの政治的な文脈をより深く紐解いている。こうした新たなデトロイト研究が顕在化している最中、セオ・パリッシュによる『デトロイトの前線』が、モーターシティの音楽がいまも成長しその幅を押し広げていることを見せ、目立ちはしないがそれは音楽の価値やブラック・ミュージックの気高さとは無関係であるとあらためて証明したことの意味は、そう、じつに大きい。

宇宙こそ帰る場所──新訳サン・ラー伝 - ele-king

世界で唯一にして決定版、サン・ラー評伝、待望の新訳

近年ますます人気を拡大し、生前以上に聴かれている稀なジャズ・アーティスト
インディ・ロック・バンドからクラブ系のジャズ・バンドまでがカヴァーし、
レディ・ガガがその楽曲を引用するほど
その幅広いリスナー層はマイルス・デイヴィスに匹敵する

自分は地球人ではないし、ましてや黒人でもない
家族もいないし、生まれてさえいない
生涯をかけて作り上げた寓話を生き抜いた音楽家の
彼が消し去った地球での全人生を描いた大著

モーダルなジャズから電子音、
サイケデリック、大アンサンブル、
フリー・ジャズ、そしてアフロフューチャリズムの原点……
その影響力と功績において
欧州ではマイルス、コルトレーンとならべて語られる巨匠
サン・ラーのすべてがここにある!

目次

序奏

CHAPTER 1 バーミングハム
CHAPTER 2 シカゴ
CHAPTER 3 シカゴ pt.2
CHAPTER 4 ニュー・ヨーク・シティ
CHAPTER 5 フィラデルフィア
CHAPTER 6 世界・未来・宇宙

謝辞
出典/註記
主な参考文献リスト
サン・ラー・ディスコグラフィ
索引

[プロフィール]
ジョン・F・スウェッド(John F. Szwed)
1936年生まれ。イェール大学名誉教授(人類学、アフリカン・アメリカン研究、映画学)、コロンビア大学名誉教授(同大学ジャズ研究センター教授、センター長を歴任し、現在非常勤上級研究員)。グッゲンハイムおよびロックフェラー財団フェロウシップ。マイルズ・デイヴィス、ビリー・ホリデイ、アラン・ローマックス等々に関する著作が多数あり、その代表的なジャズ研究書『Jazz 101: A Complete Guide to Learning and Loving Jazz』(2000)は、『ジャズ・ヒストリー』として邦訳されている(諸岡敏行訳、青土社/2004)。また、CDセット『Jelly Roll Morton: The Complete Library of Congress Recordings by Alan Lomax』《ラウンダー・レコーズ/2005》のブックレット「Doctor Jazz」で、同年のグラミー/ベスト・アルバム・ノート賞を受賞している。

鈴木孝弥(すずき・こうや)
1966年生まれ。音楽ライター、翻訳家(仏・英)。主な著書・監著書に『REGGAE definitive』(Pヴァイン、2021年)、ディスク・ガイド&クロニクル・シリーズ『ルーツ・ロック・レゲエ』(シンコー・ミュージック、2002/2004年)、『定本リー “スクラッチ” ペリー』(リットー・ミュージック、2005年)など。翻訳書にボリス・ヴィアン『ボリス・ヴィアンのジャズ入門』(シンコー・ミュージック、2009年)、フランソワ・ダンベルトン『セルジュ・ゲンズブール──バンド・デシネで読むその人生と女たち』(DU BOOKS、2016年)、パノニカ・ドゥ・コーニグズウォーター『ジャズ・ミュージシャン3つの願い』(スペースシャワーネットワーク、2009年)、アレクサンドル・グロンドー『レゲエ・アンバサダーズ──現代のロッカーズ』(DU BOOKS、2017年)、ステファン・ジェルクン『超プロテスト・ミュージック・ガイド』(Pヴァイン、2018年)ほか多数。

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KAKUHAN - ele-king

 エレクトロニック・ダンス・ミュージックと即興音楽/実験音楽の融合、その現時点における最高到達点。KAKUHAN なるデュオのデビュー作は、そう言い切ってしまっていい圧倒的な強度を誇っている。ゆえにだろう、たとえばミュージシャンからの信頼も厚いマンチェスターの独立系オンライン・レコード店 Boomkat は、2022年のベスト・リリース第5位に本作を選出している。にもかかわらず、日本ではほぼ無風状態に近い。なので紙版の年末号で2022年のベスト・アルバムの1枚に選んだ本作を(そして個人チャートでも複数の人間がベスト10にセレクトしている本作を)、あらためてウェブでも紹介しておきたい。

 大阪の日野浩志郎は、現代日本のエレクトロニック・ミュージック・シーンにおいて食品まつりSUGAI KEN と並ぶ存在感を放つ、重要プロデューサーだ。ダンスに特化した YPY 名義のアルバムもすばらしかったけれど、ほかにもエクスペリメンタルなバンド goat を率いたり、レーベル〈birdFriend〉やマーク・フェルなどをリリースする〈NAKID〉を主宰したり、オーケストラ・プロジェクト《GEIST》から芸能集団=鼓童との映像作品まで、保守的なここ日本において果敢に野心的な試みをつづけている勇者のひとりと言える。
 その《GEIST》にも参加していたチェリスト、中川裕貴と日野によるコラボがこの KAKUHAN だ。中川はおもにフリー・インプロヴィゼイションの分野で活躍する京都のチェリストで……というより、およそ「チェリスト」ということばからは想像のつかない奏法やパフォーマンスを実践する、これまた勇者のひとりである(詳しくは細田成嗣によるレポートおよびインタヴューを参照)。

 本作では、自由闊達なエレクトロニクスと非正統的なチェロの奏法がなんとも不気味なノイズ世界を生みだしている。冒頭 “MT-DMZ” からしてホラー感満載だ。木製の戸や床が軋むようなチェロに、絡みつく電子音。2曲目 “MT-STM” では「弾く」というよりも「弓でこする」印象のチェロを相手どり、ころころと心地いい音が転げまわっている。まるでお化けが楽しくおしゃべりしているかのようだ。他方で途中から割りこんでくるハンドクラップは、フロアの情景を呼び起こしもする。手のこんだリズムも聴きのがせない。
 4曲目 “MT-BZSR” になってようやく旋律らしきものが前面に出てくる。が、背後ではエレクトロニクスがもこもこと抽象的な音響を生成しており、やはりひと筋縄ではいかない。B面最初の “MT-SS1” では逆にチェロはドローン的な役割を担い、メタリックなパーカッションがテクノのムードを醸しだしている。つづく “MT-AUTC” もエレクトロニクスが主役な印象だけれど、妖怪のうめき声のようなノイズを発する弦もまた聴き手を惹きつけて放さない。

 いくつかのカセットを除けば、日野にとって本作は YPY 名義のCD以来のフルレングスにあたる。トリップの極地を追求していた件のCDとは異なり、ここではチェロとの共存が優先されている。攪拌(かくはん)とは「かきまぜる」という意味だそうだ。生クリームを泡立てるときのように、料理や化学の分野で用いられることばである。本作ではクラブ・ミュージックとしてのテクノやベース・ミュージックと、いわゆる即興シーンや実験音楽で培われたアイディアがみごとに攪拌されている。その混合レヴェルの高さとセンスのよさに、海外のリスナーも讃辞をおくっているにちがいない。

 ちなみに本盤のデザインを手がけているのは、ele-king books でもお世話になっている Zodiak こと Takashi Makabe。かつてデザイナーズ・リパブリックがそうだったように、サウンドが尖端的であるとき、ヴィジュアルもまた更新されていくのだ。ぜひフィジカルを手にとって、音以外の部分にも注目してほしい。

R.I.P. Alan Rankine - ele-king

 昨年のウインブルドンではニック・キリオスが大活躍だった。全身に刺青が入った黒人のテニス・プレイヤーで、ショットが決まるたびに客席の誰かに大声で話しかけ、勝っても負けてもオーストラリア本国に戻ればレイプ疑惑で裁判が待っていた(精神障害を理由にいまだに裁判からは逃げている)。大坂なおみが開いたエージェント・オフィスが初めて契約した選手であり、日本に来た時はポケモンセンターの前に座り込んで「絶対にここから離れない」とSNSに投稿していた。僕の推しはカルロス・アルカラスだったんだけれど、昨年は早々とキリオスに負けてしまったので、そのまま惰性でキリオスを追っていた。そうなんだよ、危うくカルロス・アルカラスのことを忘れてしまうところだった。それだけインパクトの強い選手だった。僕がカルロス・アルカラスを応援し始めたのはピート・サンプラスに顔が似ていたから。90年代のプレースタイルを象徴するテニス・プレイヤーで、あまりにもプレーが完璧すぎて「退屈の王者」とまで言われた男。W杯のカタール大会でエンバペがゴールするたびにマクロンが飛び跳ねていたようにサンプラスが00年の全米オープンで4大大会最多優勝記録を打ち立てた時はクリントンも思わず立ち上がっていた。試合でリードしていても苦々しい表情だったサンプラス。内向的で1人が好きだったサンプラス。僕がピート・サンプラスを応援し始めたのはアラン・ランキンに顔が似ていたから。僕はアラン・ランキンの顔が大好きだった。セクシーでガッツに満ち、野獣に寄せたアラン・ドロンとでもいえばいいか。初めて『Fourth Drawer Down』のジャケット・デザインを見た時、この人たちは何者なんだろうと思い、どんな音楽なのかまったく想像がつかなかった。

The Associates – The Affectionate Punch(1980年)

 なんだかわからないままに聴き始めた『Fourth Drawer Down』はなんだかわからないままに聴き終わった。朗々と歌い上げるビリー・マッケンジーのヴォーカルと実験的なのかポップなのかもわからないサウンドは現在進行形の音楽だと感じられたと同時に「現在」がどこに向かっているかをわからなくするサウンドでもあった。その年、1981年はヒューマン・リーグがシンセ~ポップをオルタナティヴからポップ・ミュージックに昇格させた年で、シンセ~ポップのゴッドファーザーたるクラフトワークが『Computerwelt』で自ら応用編に挑むと同時にソフト・セル『Non-Stop Erotic Cabaret』からプリンス『Controversy』まで一気にヴァリエーションが増え、一方でギャング・オブ・フォー『Solid Gold』やタキシードムーン『Desire』がポスト・パンクにはまだ開けていない扉があることを指し示した年でもあった(タキシードムーンはとくにベースがアソシエイツと酷似し、アラン・ランキンは後にウインストン・トンのソロ作を何作もプロデュースする)。『Fourth Drawer Down』はそうした2種類の勢いにまたがって、両方の可能性を一気に試していたようなところがあった。それだけでなく、グレース・ジョーンズ『Nightclubbing』に顕著なファッション性やジャパン『Tin Drum』から受け継ぐ耽美性も共有し、オープニングの“White Car In Germany”では早くもDAF『Alles Ist Gut』を意識している感じもあった。混沌としていながら端正なテンポを崩さない“The Associate”を筆頭に、PILそのままの“A Girl Named Property”、物悲しい“Q Quarters”には咳をする音が延々とミックスされ、あとから知ったところでは“Kitchen Person”は掃除機のホースを使って歌い、“Message Oblique Speech”のカップリングだった“Blue Soap”は公園のようなところにバスタブを置いて、その中で反響させた声を使っているという。まるでジョー・ミークだけれど、ジョー・ミークにはない重いベースと破裂するようなキーボードが彼らをペダンチックな存在には見せていない。

 これらが、しかし、すべて助走であり、アラン・ランキンとビリー・マッケンジーが次に手掛けた『Sulk』はとんでない方向に向かって華開く。昨年、同作の40周年記念盤がリリースされ、全46曲というヴォリウムに圧倒されながらレビューを書いたので詳細はそちらを参照していただくとして、ここではスネアをメタル仕様に、タムを銅性の素材に変えたことで、インダストリアルとは言わないまでも、全体に金属的なドラム・サウンドが支配するアルバムだということを繰り返しておきたい。『Sulk』はパンク・ロックのパワーを持ったグラム・ロック・リヴァイヴァルであり、ニューウェイヴの爛熟期に最も退廃を恐れなかった作品でもある。あるいは15歳のビョークが夢中で聴いたアルバムであり、彼女のヴォーカル・スタイルに決定的な影響を与え、イギリスのアルバム・チャートでは最高10位に食い込んだサイケデリック・ポップの玉手箱になった。『Sulk』はちなみにイギリス盤と日本盤が同内容。アメリカ盤とドイツ盤がベスト盤的な内容になっていた。ジャケットの印刷技術もバラバラで、リイシューされるたびに緑色が青に近づき、裏ジャケットのトリミングも違う。オリジナル・プリントはイギリスのどこかの美術館に収蔵されているらしい。

 ビリー・マッケンジーが『Sulk』の北米ツアーを前にして喉に支障をきたし、アメリカで売れるチャンスを逃したとして怒ったアラン・ランキンはアソシエイツから脱退、『Sulk』に続いてリリースされたダブルAサイド・シングル「18 Carat Love Affair / Love Hangover」(後者はダイアナ・ロスのカヴァー)がデュオとしては最後の作品となってしまうも、『Fourth Drawer Down』以前にリリースされていたデビュー・アルバム『The Affectionate Punch』のミックス・ダウンをやり直して、同じ年の12月には再リリースされる。元々の『The Affectionate Punch』はなかなか手に入らず、その後、イギリスでようやく見つけたものと聴き比べてみると、ミックス・ダウンでこんなに変わってしまうものかと驚いたことはいうまでもない。たった2年でアラン・ランキンが音響技術の腕を確かなものにした自信が『The Affectionate Punch』の再リリースには漲っていた。同作からは“A Matter Of Gender”が先行カットされ、結局、デビュー・シングル“Boys Keep Swinging”(デヴィッド・ボウイの無許可カヴァー)などを加えて元のミックス盤も05年にはCD化される。『Sulk』に続く道も感じられはするけれど、オリジナル・ミックスはまだシンプルなニューウェイヴ・アルバムで、この時期は〈Fiction Records〉のレーベル・メイトだったキュアーとヨーロッパ・ツアーなどを行なっていたことからロバート・スミスがギターとバック・コーラスで参加、ベースのマイケル・デンプシーはその後もアソシエイツとキュアーを掛け持っていた。ロバート・スミスは後にビリー・マッケンジーが自殺する直前、キュアーのライヴを観に来てくれたのに声をかけ損なったことを悔やんで「Five Swing Live」をリリースしたり、“Cut Here”をつくったりしている。

The Associates – Sulk(1982年)

 バンドを脱退したとはいえ、『Sulk』の名声はアラン・ランキンにプロデュース業の仕事を舞い込ませる。ペイル・ファウンテインズ“Palm Of My Hand”は“Club Country”で用いたストリング・アレンジを流用しながら彼らのアコースティックな持ち味を存分に活かし、反対にコクトー・ツインズ“Peppermint Pig”はあまりにもアソシエイツそのままで、これは派手な失敗作となった。彼らのイメージからは程遠いインダストリアル・ドラムに加えて近くと遠くで2本のギターが同時に鳴り続けるだけでアソシエイツに聞こえてしまい、ノイジーなサウンドに尖ったリズ・フレイザーのヴォーカルが入るともはやスージー&ザ・バンシーズにしか聞こえなかった。そして、アンナ・ドミノやポール・ヘイグのプロデュースから縁ができたのか、アラン・ランキンのソロ・ワークも以後は〈Les Disques Du Crépuscule〉からとなる。アソシエイツ脱退から4年後となったソロ・デビュー・シングル“The Sandman”は幼児虐待をテーマにした静かな曲で、カップリングは戦争を取り上げた暗いインストゥルメンタル。続いてリリースされたファースト・ソロ・アルバム『The World Begins To Look Her Age』はアソシエイツのようなエッジは持たず、80年代中盤のニューウェイヴによくあるAOR風のシンセ~ポップに仕上がっていた。これはランキンを失ったマッケンジー単独のアソシエイツも同じくで、マッケンジーもまた気の抜けたアソシイツ・サウンドを鳴らすだけで、2人が離れてしまうと緊張感もないし、いずれもメローな部分ばかりが際立つ自らのエピゴーネンに成り下がってしまったことは誰の耳にも明らかだった。2人がそろった時の化学反応はやはり1+1が3にも100にもなるというマジックそのものだったのである。しかし、2人は93年まで再結成に意欲を示さず、とくにビリー・マッケンジーはイエロやモーリツ・フォン・オズワルドといったユーロ・テクノの才能と組んでサウンドの更新に勤め、それなりに意地は見せていた。アラン・ランキンは『The World Begins To Look Her Age』の曲を半分入れ替えて〈Virgin〉から『She Loves Me Not』として再リリースした後、〈Crépuscule〉から89年に『The Big Picture Sucks』を出して、まとまった音源はこれが最後となる。

Alan Rankine – The World Begins To Look Her Age(1986年)

 93年に再結成を果たしたアソシエイツは6曲のデモ・テープを製作するも94年からアラン・ランキンは地元グラスゴーのストウ・カレッジで教鞭に立ち、それほど頻繁に作業ができなくなった上にビリー・マッケンジーが97年1月に自殺、新しいアルバムが完成されるには至らなかった。そのうちの1曲となる“Edge Of The World”はその年の10月にリリースされたビリー・マッケンジーのソロ名義2作目『Beyond The Sun』に“At Edge Of The World”としてポスト・プロダクションを加えて収録され、さらに3年後、キャバレー・バンド時代のデモ・テープなどレア曲を37曲集めた『Double Hipness』には6曲とも再録されている。6曲のデモ・テープは『The Affectionate Punch』に戻ったような曲もあれば、新境地を感じさせる“Mama Used To Say”にドラムンベースを取り入れた“Gun Talk”など完成されていれば……などといっても、まあ、しょうがないか。ザ・スミスがビリー・マッケンジーを題材にした“William, It Was Really Nothing”に対する10年越しのアンサー・ソング、“Stephen, You're Really Something”も週刊誌的な興味を引くことになった。アラン・ランキンが残した音源は少ない。ビリー・マッケンジーと組んだアソシエイツとその変名プロジェクトにソロ・アルバム2.5枚とソロ・シングル3枚、クリス・イエイツらと組んだプレジャー・グラウンド名義でシングル2枚のみである。また、2010年まで大学教員を続けたランキンは大学内に〈Electric Honey〉を設け、ベル&セバスチャンのデビュー・アルバム『Tigermilk』など多くのリリースにも尽力している。

 ビリー・マッケンジーがソロでつくった曲は間延びした印象を与えることが多かったけれど、アラン・ランキンが加わるとそれがタイトになり、まるで伸び伸びとは歌わせまいとしているようなプロダクションに様変わりした。アソシエイツはそこが良かった。歌が演奏にのっているというよりも声と演奏が戦っているようなサウンドだったのである。まったくもって調和などという概念からは遠く、ビリー・マッケンジーがどれだけ気持ちよく歌っていてもアラン・ランキンのギターは容赦なくそれを搔き消し、いわば主役の取り合いだった。“Waiting for the Loveboat”も脱退前にアラン・ランキンが録っていたデモ・テープはぜんぜん緊張感が違っていた。アラン・ランキンはおそらくせっかちなのである。彼らの代表曲となった“Party Fears Two”がトップ10ヒットとなり、トップ・オブ・ザ・ポップスに出演した時もランキンは同番組が口パクであるのをいいことに鳴ってもいないバンジョーを弾いたり、ピエール瀧の綿アメみたいに客にチョコレートを食べさせるなどふざけまくっていたのは、たった1曲のために2時間以上も拘束されるため「飽きてしまったから」だと答えていた。『Fourth Drawer Down』も実はそれまでがあまりに狂騒状態だったので、少しは落ち着こうとしてつくった曲の数々だったというし、それがまた再び狂騒状態に戻ったのが『Sulk』だったから、あそこまで弾け飛んだということになるらしい。自分の人生を何倍にも巨大なものにしてくれる人との出会いがあるということはなんて素晴らしいことなのだろう。2人合わせて103歳の人生。短い。あまりに短いけれど、『Sulk』はこれから先、いつまでも聴かれるアルバムになるだろう。R.I.P.

編集後記(2022年12月31日) - ele-king

 2022年はことばに力のある音楽が多く生み落とされた年だった。あくまで自身の体験にもとづきながら、自分をとりまく社会の存在を浮かび上がらせるコビー・セイを筆頭に、パンクの復権を象徴するスペシャル・インタレストウー・ルーなど、せきを切ったようにさまざまなことばが湧き出てきた。それはもちろん、2020年以降の世界があまりにも激動かつ混迷をきわめていたからにほかならない。
 日本には、七尾旅人がいた。パンデミックやジョージ・フロイド事件以降の世界を鋭く描写しながら、しかしけっして悲愴感を漂わせることなく、ぬくもりあふれるポップな作品に仕上げる手腕は、問答無用で今年のナンバー・ワンだろう。ほかにも、たくさんのことばが紡がれている。それらの動向については紙エレ年末号で天野くんがまとめてくれているのでぜひそちらを参照していただきたいが、個人的にもっとも印象に残ったのは tofubeats だった。
 レヴューで書いたことの繰り返しになってしまうけれど、「溺れそうになるほど 押し寄せる未来」という一節は、どうしたってペシミズムに陥らざるをえない2022年の状況のなかで、「失われた未来」のような思考法と決別するための果敢な挑戦だったと思う。もともと『わが人生の幽霊たち』でその考えを広めたマーク・フィッシャー当人も、つづく著作『奇妙なものとぞっとするもの』では資本主義の「外部」について試行錯誤し、いかにペシミズムから脱却するか、あれこれ格闘していたのだった。来年はいよいよ『K-PUNK』の刊行を予定している。どうか楽しみに待っていてほしい。
 もうひとつ、その『奇妙なものとぞっとするもの』でも論じられていたアンビエントの巨匠、ブライアン・イーノが新作で歌った「だれが労働者について考えるだろう」というフレーズも強く脳裏に刻まれている。振り返れば、2022年の大半はイーノについて考えていたように思う。別エレの特集号、大盛況に終わった展覧会「AMBIENT KYOTO」とその図録の制作、6年ぶりのソロ・アルバム。人民のことを忘れない彼のことばにも、大いに励まされたのだった。

 本をつくるのはほんとうに大変だけれど、それは自分が明るくない分野の知見に触れる、絶好のチャンスでもある。個人的に今年は『ヴァイナルの時代』と別エレのレアグル特集号、そして現在制作中のサン・ラーの評伝に携われたことが、非常に大きな経験になった。エレクトロニック・ダンス・ミュージックのルーツがブラック・ミュージックにあること、それを忘れてはならない。
 2022年、ele-king books は24冊の本を刊行している。あたりまえだが、本はひとりではつくれない。協力してくださった著者、ライター、通訳、翻訳者、カメラマン、イラストレイター、デザイナー、印刷会社や工場、流通のスタッフ、そしてもちろん購読者のみなさま、ほんとうにありがとうございました。来年も多くの企画を準備しています。2023年も ele-king books をよろしくお願いします。

 最後に。故ミラ・カリックスの思い出として、1曲リンクを貼りつけておきたい。

 それではみなさん、どうぞよいお年を。

mira calix - a mark of resistance (radio edit)

interview with Pantha Du Prince - ele-king

 2022年はビヨンセが高らかに、ハウスがもともとブラック・ミュージックでありゲイ・コミュニティから生まれた音楽であることを訴えた年だった。テクノでいえば、2018年からディフォレスト・ブラウン・ジュニア(スピーカー・ミュージック)が「テクノを黒人の手にとりもどせ(Make Techno Black Again)」を掲げて活動している。そういった動きを受けこの見出しをつけたわけだが、ホワイトウォッシング(白人化:詳しくは紙エレ年末号の浅沼優子さんのコラムを)が問題の時代にあって、いわゆるミニマル・テクノ~ハウスにくくられる音楽をやっているパンサ・デュ・プリンスことヘンドリック・ヴェーバーが、それらのルーツを忘れていないことは重要だろう。
 最新作『Garden Gaia』のサウンドや彼の来歴については、先日のアルバム・レヴューを参照していただきたい。今回は《MUTEK.JP》出演のため初の来日を果たした彼に、清らかで逃避的なあの音楽がどのように生まれたのか、その背景を探るべくいくつかの質問を投げかけている。サウンドから予想されるとおり感じのいい気さくな人柄で、好きな音楽から環境問題まで、大いに語ってくれた。

都会からちょっと離れたところに行くと、いきなり手つかずの自然が広がっていたりするんです。そのぶつかり合いみたいなところが好きなんです。たとえば東京も、すごく都会なんですけど、少し歩くだけで田舎のようなところに出たり、みんなが知らないような自然があったり。

今回が初来日ですよね。どこか行かれましたか? 気になるものはありました?

ヘンドリック・ヴェーバー(以下HW):じつは日本に住んでいるインテリア・デザイナーの友人がいるんです。彼に渋谷とかを案内してもらって、カフェとか、「COSMIC WONDER」というブランドのストアに連れていってもらいました。月曜日(12月12日)からは「Sense Island」という島(横須賀市猿島の無人島)のエキシビションのようなイヴェントに行く予定です。まだそれほど観光できていないので、ほかにもいろいろ見てまわりたいなと思っています。ドイツにも日本人の友人がたくさんいるんですよ。竹之内淳志さんという日本のマスターから舞踏を習っていて。だから日本とは強いつながりを感じています。

現在の拠点はベルリンですか?

HW:エリア的にはそうですね。ベルリンの郊外に住んでいます。

あなたの2004年のデビュー作はミニマルなダンス・ミュージックにフォーカスするベルリンのレーベル〈Dial〉から出ていました。今年は〈Perlon〉からメルキオール・プロダクションズ15年ぶりのアルバムが出て話題になりましたが、現在でもベルリンのミニマルのシーンは勢いがあるのでしょうか?

HW:わかりません(笑)。以前と比べて、わたし自身変化したし、スタイルも少しずつ変わってきました。いまでもクラブでプレイしますが、自分のジャンルはどんどんちがう方向へ向かっているし、コンパクトさやミニマルさは薄れて自分独自のジャンルを確立できてきていると思うんです。いまはクラブだけでなく、クラシック音楽やアンビエントのフェスティヴァルでも演奏しますし、ほんとうに幅が広がったんです。最近はモダン・アートやヴィジュアル・アート、サウンド・アートの場で演奏することもあります。わたしの音楽はひとつのセッティングだけで完結するものではありません。オーディエンスのひとたちが座って聴くこともできれば、パーティでダンスしながら聴くこともできるし、あるいはふつうのコンサートのように楽しむこともできる。時間帯や場所もさまざまで、幅広い層に聴いてもらえる音楽に変わってきていると思います。

そのようにご自身の音楽が変わっていくきっかけになったことはありますか?

HW:やっぱり自分自身が変わってきて……たとえば自分の身体やフィーリングについて知るようになっていったことが、ひとつのきっかけとしてあるように思います。それともうひとつ、「音楽はつねにすべてのひとのものである」という意識が自分のなかにあって。夜クラブに来るひとたちのためだけではなく、あらゆるひとに届けられる音楽をつくることに興味がありました。それで、みなさんが家で聴いても楽しめる音楽をつくりたくて、自然と変化していったのかなと。あと、自然環境とのつながり、植物や動物と人びととのつながりを表現したいというのもありますし……まわりのひとたちにも自分自身について知ってもらうことで、自分たちが周囲とどうつながっているかを追求できますし、それにともなって音楽も変わっていくんだと思います。わたしはアルコールも飲まないしドラッグもやらないので、まわりの人たちや環境から影響されて変わっていったんだと思いますね。

自然とのつながりというお話が出ましたが、あなたの音楽にはよく鳥の鳴き声と水のフィールド・レコーディングが導入されています。「自然」のなかでも、とりわけ「鳥」と「水」にフォーカスするのはなぜですか?

HW:わたし自身がもっとも多くの時間を過ごすのがそういう場所なんです。もちろん東京みたいな都会も好きですよ。人びとが集まっているエナジーを感じますが、でもやっぱり自分は自然のなかでインスピレイションをもらったり、自然とつながりを感じることが多いんです。リラックスできますし、身体的にも精神的にも癒されますし。健康を保つためにはとてもたいせつな場所なんです。だからよく森に行って鳥の鳴き声を聴いたり、海辺に行ったり、あと南スペインやハノーファーに行ったり。今回のアルバムはじっさいにそういう場所でレコーディングしました。都会からちょっと離れたところに行くと、いきなり手つかずの自然が広がっていたりするんです。それがとてもおもしろくて、そのぶつかり合いみたいなところが好きなんです。たとえば東京も、すごく都会なんですけど、少し歩くだけで田舎のようなところに出たり、みんなが知らないような自然があったり。
 鳥にかんしては……鳥ってもっとも古くから存在する動物なんです。恐竜が鳥になったんです(※鳥は恐竜の一種だと考えられている)。だから鳥の鳴き声を聴くと、人生や歴史、いろんなものが混ざりあって考えさせられるんです。テクスチャーも、フリークエンシーがとても複雑で、それがすごくおもしろい。小さい動物なのにあんなにインパクトのある大きなサウンドをつくりだすことができるのはすごいと思います。水も、ヴァラエティ豊かですばらしい。速い流れと遅い流れで音がぜんぜんちがうし、山からちょっと流れてくる少量の水でも地面や草に流れる音がありますし、アグレッシヴで強い音が出たと思いきや、アンビエント的でハーモニーのような美しい音も出るし、ラウドな音も出るし。美しい音がいきなり強い音に変わったり、ちょろちょろした小さな音でも奇妙に、危険に感じられることもある。そういった水の音の幅広さはすばらしいです。だから鳥と水が多いんです。

自然への関心は幼いころから抱いていたのですか?

HW:そうですね。もちろん小さいころから興味はありました。自分は都会のそばに住んでいて、都会と田舎のあいだで育ったんですが、どちらも孤独を感じます。

都会の孤独というのは、「ひとがいっぱいいるけどだれも知り合いじゃない」みたいな感覚でしょうか?

HW:そうです。逆に田舎の場合は、文化や文明が恋しくなる。自分のまわりにその両方があることが当たり前の環境で育ったんです。

病気になることは必ずしもダメなことではありません。それによってからだがバランスをとれるようになり、もっと強くなる。メンタルヘルスについてもおなじだと思います。なにかよくないことがあっても、それはよりよい方向へ変化するためのステップだと思うんです。

新作『Garden Gaia』の制作は、パンデミック中ですか? ウイルスも自然から発生するものですが、人間たちに壊滅的な状況をもたらしました。先ほど自然と都会のバランスについての話がありましたけれど、今回の新型コロナウイルスについてはどう思いましたか?

HW:非常に複雑な状況だったと思うんですが、人間が変化するべきだという警告だったような気もします。もっとサステイナブルに生きよう、自分の健康にも気をつかおうと思いましたし、コミュニティでひとと一緒になにかをやることのたいせつさにも気づきました。そして自分にとってなにが幸せなのか、なにが自分を幸せにしてくれるのか考えさせられました。多くを学べるいいレッスンだったと思っています。自分たちの人生においてなにがたいせつかという問いを持ち、自身の心をより深い部分まで掘り下げるようになりましたし、起こっていることと自分とのつながりについても考えるようになりました。コロナって、みずからそれを受けいれないといけないんですよね。それによって自分の体も変化していくと思うんです。ワクチンもそうです。もしかしたらもうみんなに抗体ができているのかもしれない、わたしのなかにも存在しているのかもしれない──そうやってひとのからだも、なにかがあるたびにそれを受け入れることで変化していくんだなと感じました。これはわたしたちにとって新しいチャレンジだと思います。どう受けいれ、どう付きあっていくか、どう変化していくかがたいせつです。あと、ひとりではなにもできないこと、すべてがつながっていることにも気づかされましたね。パンデミックが起こったら、日本だけではどうすることもできないし、ドイツだけでも中国だけでもダメだし、やっぱり世界じゅうのみんながつながって、みんなでなにかをしないと乗りこえることはできないんです。
今回のパンデミックでは、ガイア(※大地、地球)という大きなもののなかでみんながつながってシステムを形成し、それが機能していることのバランスを強く感じました。そのバランスを表現して、世界に発信したいと思いました。たとえば、病気になることは必ずしもダメなことではありません。それによってからだがバランスをとれるようになり、もっと強くなる。メンタルヘルスについてもおなじだと思います。なにかよくないことがあっても、それはよりよい方向へ変化するためのステップだと思うんです。受けいれて、変化していく。まわりとバランスをとりながら、乗りこえていく。そういったつながりとバランスを感じる機会が今回のパンデミックでした。

わたしはエレクトロニック・ミュージックが好きでよく聴くのですが、ときどきエレクトロニック・ミュージックが電気を使わざるをえないことについて考えます。クラブのサウンドシステムもそうですし、ヴァイナル・レコードやCDの生産もそうで、石油由来のものをいっぱい使わなければいけない。と同時にわたしたちは、気候や自然について考えることを避けて通れない段階にきている──そういったテクノロジーと自然の関係についてはどう思いますか?

HW:じつはわたしは、テクノロジーと自然を分けて考えていないんです。文明が生まれたことにより、自然も人類も発達してきたと思っています。わたしにとってより重要なのは、いかにテクノロジーを使わないかではなく、どのように使うかです。じっさいテクノロジーはすばらしいものですし、それを利用することで自分たちの人生をエンジョイすることも、とても大事なことです。飛行機に乗ってもいいし、パーティをしてもいい。ただ、それらを楽しむなかで、どのようにテクノロジーをとりいれ、有効活用できるかを考えることがいちばん大事だと思います。使うだけなら簡単ですが、すべてにノーと言うのでもなく、どのようにとりいれて使うか。テクノロジーが生みだすエネルギーはすばらしいものなのだから、その使い方を考えていくべきだ、と。そこがテクノロジーと自然を分けて考えるよりもたいせつなことだと思いますね。

デトロイトのすべての音楽もそうです。セオ・パリッシュや友人になったマッド・マイクからは強く影響を受けています。それらすべてが、自分の音楽からは聞こえてくるんじゃないかなと思います。

もっとも影響を受けた音楽や作品はなんでしょう?

HW:すごくたくさんの音楽から影響を受けましたね。うーん……まず、ドイツのクラウトロックからは大きな影響を受けました。ハルモニアやクラスター、もちろんノイ!も。80年代後半のイギリスのインディ・ミュージックからも大きくインスパイアされましたね。あとたとえばパン・ソニックだったり、日本のノイズ・ミュージック。すごく好きなのは……カールステン・ニコライ、〈Mille Plateaux〉、池田亮司。とくに〈Mille Plateaux〉からは特別な影響を受けました。〈Mille Plateaux〉と、〈Mego〉ですね。フロリアン・ヘッカーだったり……あとはフランシスコ・ロペス。もちろん、リカルド・ヴィラロボスやベーシック・チャンネルもですし、ハウスだとハーバートですね。デトロイトのすべての音楽もそうです。セオ・パリッシュや友人になったマッド・マイクからは強く影響を受けています。それらすべてが、自分の音楽からは聞こえてくるんじゃないかなと思います。子どものころはクラシック音楽をよく聴いていたので、その影響も大きいです。バッハやリスト、シューベルト。とくにシューベルトは自分にとって大きな存在です。それと、リゲティの影響も大きい。……まだまだ出てくるんですが、このあたりにしておきます(笑)。いま挙げたひとたちは自分にとってとても大事なエッセンスになっていますね。

マッド・マイクと友だちになったというのはすごいですね。デトロイトに行ったんですか?

HW:ツアーで会って、いっしょに時間を過ごすことができました。アンダーグラウンド・レジスタンス・ミュージアムに行ったんですが、なんとそこに彼がいて、自分のところに来てくれて、歓迎してくれました。魔法のような体験でした。スペシャルなエディションのレコードを全部くれたりして、とても友好的で、すごくクールないいひとでした。

アンダーグラウンド・レジスタンスのベスト・レコードはなんですか?

HW:フーッ! ……うーん、答えられないな(笑)。……DJロランドの「Knights Of The Jaguar」かな。大きなヒットですけど、自分はヒットが好きなので。いまだに大好きです。ご存じのとおり、わたしの音楽はとてもメロディックだと思うんですが、やはりデトロイトのああいう感じとメロディが合わさることで、よりダークでアップリフティングな感じのサウンドをつくりだすことができていると思います。みんなが知らないようなものを挙げられなくて、アンダーグラウンド・レジスタンス・ファンの答えじゃないですね(笑)。でも、デトロイトのあのコミュニティが世界的な大ヒットを生みだすことができたということがすばらしいですよね。とても賢くて、シンプルなライフのなかで可能性を活かして、規模の大きいものをつくっているところが魅力だと思います。

あなたの音楽には、いい意味での逃避性があると思います。気候危機だけでなく、近年は大きな戦争などいろいろなことが起こり、暗い時代がつづいています。とくに2022年はそうでした。そういったなかで、音楽にできる最良のことはなんだと思いますか?

HW:つねに音楽はそういう役割を担ってきたと思います。たとえばナポレオンの時代にしても、乱世から美しい音楽が生まれています。社会にエネルギーをもたらすのも音楽だと思いますね。そこから生まれるダークでアグレッシヴな音楽にも希望が見えたりするでしょうし。あと、アーティストや音楽それ自体は政治的になってはいけないと思っています。やっぱりコミュニティが大事なんです。先ほども話したように、この地球でどうバランスをとり、どうみんなでひとつになって生きていくかがたいせるだと思います。政治的になりたければ政治家になればいいんです。音楽をつくって届ける身としては、他人とは異なる見方をして、なにが大切か、どんな可能性があるのか、どのような美しさが存在しているかを見つけだして、それをみんなに届けることで、人びとがつながってコミュニティを形成できるようにしたい。それが自分たちアーティストにできることだと思います。たとえばウクライナでも、レイヴ・ミュージックによってみんながひとつになってエネルギーを生みだすことができています。なにがたいせつか、人びとが心でなにを感じているか、そういうものを伝えあって広げていくのが音楽にできることだと思います。

J Jazz Masterclass Series - ele-king

 和ジャズの再発を手がけているUKの〈BBE Music〉が、今度は、オリジナルは100枚などと言われる激レア盤、寺川秀保の自主制作盤『イントロデューシング』のリイシューを出しました。 1978 年の作品で、島根県の益田市「DIG」における演奏を録音しライヴ盤。ビブラフォン奏者の藤井寛がフィーチャリングされている。
 アルバムには、ウェイン・ショーター(『J Jazz Vol. 3』収録の「Black Nile」)、フランク・フォスター(「Simone」)とミルト・ジャクソンとジミー・ヒース(「Rerev」)といったジャズ界を代表する作曲者たちの諸作品の、素晴らしい解釈の演奏を披露している。発売は来年1月23日で、CDとアナログ盤あり。

寺川 秀保 HIDEYASU TERAKAWA / Quartet Live Featuring Hiroshi Fujii
寺川秀保 (ts,ss)
三浦哲男 (b)
“サンダー”中矢アキヒロ (ds)
藤井 寛 (vib)

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