「KING」と一致するもの

七尾旅人 - ele-king

新しい希望の歌文:桑田晋吾

七尾旅人
リトルメロディ

Felicity

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 このアルバムの音源が届いてから、毎日聴いた。十数回ほど通して聴いたあとに、思った。ここでもまた、この稀有な歌い手は、音楽によるファンタジーを呼び起こしている。いままでで、もっとも親しみやすいやりかたで。そして少し、複雑な方法をとって。

 はじめに聴こえるのは、砂嵐のようなノイズだ。ガイガー・カウンターを想起させる不穏な信号音。男が咳きこむ音。およそ20秒の混濁の後、輝く雨垂れのように美しいアコースティック・ギターが、そっと響きはじめる。そうして「圏内」に足を踏み入れた瞬間、この新しい音の旅は、はじまる。いま"きみのそばへ"行くために、乱れた現実のなかを、くぐりぬけていく――『リトルメロディ』は、そんな風にはじまる。
 少なくない反響を呼び起こした"圏内の歌"。この曲のなかでは、雨が降っている。目に見えない物質が含まれた水で濡れた世界を、ガット・ギターとピアノが小さく乱反射しながら描き出す。歌声は、ささやくような「小さな」声だ。雨樋のある屋根。どろんこで遊ぶ子ども。水辺にうつる月。おばあちゃんの話。そのような風景の記憶を持つ人に、この曲は語りかける。「離れられない 小さな町」。それは、例えば「東京電力株式会社福島第一原子力発電所の20km圏内」の小さな町であると同時に、聴く人の心のなかにある、故郷のような、その人にとって大切なものがある「町」のことかもしれない。その「町」が不条理な力で汚されたとき、人は簡単にその特別な場所を、離れることができるだろうか。どこまでも優しくて綺麗なこの音の奥にあるのは、引き裂かれるような痛みの感覚だ。
 この曲をアルバムのはじめに持ってくることは、大きな決断だったはずだ。曲の美しさとは別の場所で「メッセージ性」が発生して、それによってはじかれてしまう人もいるかもしれないから。でも、この『リトルメロディ』と題された作品は、この曲を必要とした。あの日以来の現実に基づいた歌を響かせて――ある種の「重し」を聴き手の心にくくりつけてから――七尾旅人は、聴き手を飛翔させようとする。彼がずっと信じ続けてきた、「歌」という翼で。そして"my plant"で「圏内」をもういちどくぐりぬけ、歌は、湘南などの圏外の世界へ向かっていく。

 『リトルメロディ』は、七尾旅人の作品のなかで、もっとも抑制されたアルバムだと思う。サイケデリアも、奇抜さも、この世界では鳴りを潜めている。そしてそれが、これまでの七尾旅人の作品とは違った種類の、曲と聴き手の親和性の高さを生みだしている。"湘南が遠くなっていく"(森俊之編曲)"サーカスナイト"(Dorian共編曲)"七夕の人""Memory Lane""リトルメロディ"。耳に残るメロディがいくつも散りばめてある。普通のJポップ・歌謡曲として流れても違和感のない曲が並んでいる。爪弾かれるアコースティック・ギター、太田朱美が奏でる風のようなフルートが、夏をメランコリックに広げる"Everything is gone"。そして"Rollin' Rollin'"に続くヒット・ソングとなるだろう、甘く苦い"サーカスナイト"。まるでサザンオールスターズのような夏の物語"湘南が遠くなってゆく"。切ない感覚を残すメロウな3曲が続き、アルバムのハイライトを作る。"七夕の人"から"Chance☆"までの煌めきが、後半をファンタジックに染めあげる。そして、コスガツヨシを迎えてエモーショナルに響く"Memory Lane"。そこで聴こえる真っ直ぐで伸びやかな歌声も、七尾旅人の新しいステージを感じさせる。

 「おまじない」("アブラカダブラ")をかけること、かけようとすること。「おまじない」にかかること、かかろうとすること。それはいま、とても難しいことだろう。おそらくこの国の(戦後の)ファンタジーにおいて最大級の影響力を及ぼしてきたと言えるであろう宮崎駿も、東日本大震災の後、「いまはファンタジーを作るべきではない」と言った。
 震災によって非日常的な状態が日常に入り込んでしまった新しい現実の後、なお音楽による「ファンタジー」を呼び覚ますとはどういうことなのか。この『リトルメロディ』には、七尾旅人のひとつの答えが示されている。いま、ファンタジーという言葉を使うこと自体がとても難しい。書きながらそう思っているけれど、僕がここで考えているのは、このような意味でのファンタジーの力のことだ。

 「ダンスを踊ったり、音楽を聴いたりするときと同じように、物語を頭だけでなく、心と体と魂で読むならば、その物語はあなたの物語になる。そしてそれは、どんなメッセージよりもはるかに豊かなものを意味するだろう。それはあなたに美を提供するだろう。あなたに苦痛を経験させるだろう。自由を指し示すだろう」「彼ら(ファンタジーの紡ぎ手たち)が回復させようとしている感覚、取りもどそうとしている知識は、ほかの人たちがほかの種類の生活を送っているかもしれないどこかほかの場所が、どこであるにせよ、どこかにあるというものだ」(アーシュラ・K・ル=グウィン著・谷垣暁美訳『いまファンタジーにできること』河出書房新社)

 『ゲド戦記』の原作者のこの言葉は、七尾旅人の歌、『リトルメロディ』にも当てはまると僕は思う。『リトルメロディ』と同じように、『911fantasia』も、大きな力が作動した後に作られた。でもふたつの作品には、対極的といっていいほどの大きな違いがある。
 『911fantasia』では、「おじいちゃん」の「独り言」に、すでに死んだ子どもが相手をする。世界を覆ってきた「幻」について語る「おじいちゃん」も、じつは幻に捕えられていたという、ある意味でかなり怖い構造を持っている。幽霊や幻から目覚めようとする巨大な物語は、最後に「いつまで(幻のなかを)探してるの?/なんだかおかしいわ」と、「此処」にいる「歌」が応答することで終わる。その意味では、『911fantasia』は「ここにある歌」に立ち返ろうとする作品でもあった(そのための旅が、あまりにも大きすぎたのだが)。『911fantasia』に収められた一片の宝石"Airplane"は、「あの飛行機」に乗る女の子の視線を宿して創造された。七尾旅人の想像力が、高度何千メートルの、乗ることが不可能な飛行機のヴィジョンにまで羽ばたく。その飛行機は、この現実世界で起こった事実のなかの飛行機であり、しかし同時に「外の世界」の出来事のなかの飛行機でもあっただろう。でも"圏内の歌"、『リトルメロディ』は違う。七尾旅人は、現実の福島に赴いている。実際に七尾旅人や僕らの生きるこの国の「町」や人の歌物語だ。そこに、『リトルメロディ』の光の秘密があるように思う。

 この作品の最後の歌の最初の瞬間、もういちどノイズが訪れる(歌詞の通りに耳を澄ませてこの曲を聴くと、何か巨大なものが湧き上がってくる音、風になびくような微かな歓声など、繊細なサウンド・デザインによる音の景色が聴こえる。そしてまた、水晶のようなピアノの響きが)。この"リトルメロディ"に託された想いがどんなものなのか、ここで説明するまでもないだろう。七尾旅人が創った、新しい希望の歌。最後の瞬間に子どもが口ずさむ言葉が、余韻を残していく。
 大きな悲鳴のあとで、もういちど、心から「わぁ。(驚きに満ちた小さな悲鳴)」と歌うことができるように。『リトルメロディ』に、僕はそんな願いを感じる。素敵な作品だと思う。

 「朝に夕に仰ぐ星と同じく現実なのです。そして、翔びたいと願うものは誰でも、歌と引きかえに翔ぶことができるのです。/歌の力によって人が肉体を離れる瞬間に、唇は語ることをやめますが、歌はなおもつづき、人が翔びつづけるかぎり歌もつづくのです。もし今夜、わたしが肉体を離れるとすれば、皆さんにも覚えておいてほしいのです。歌は終わることなしと」(トマス・M・ディッシュ著・友枝康子訳『歌の翼に』国書刊行会)

文:桑田晋吾

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小さなメロディにおける両義性 文:橋元優歩

七尾旅人
リトルメロディ

Felicity

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 七尾旅人はこれからもフォークのスタイルをつづけていくのだろうか。『リトルメロディ』は美しいが、どこか不自由で息苦しい印象を受ける。筆者にはその理由の一端が彼のフォークにあるように思われる。かつてあれだけ多様な音楽性を乱反射させていた七尾がなぜこのスタイルへ向かったのか。

 そもそもの1作目から言葉が渦を巻いていたわけだから、それが言葉とギターというシンプルな形態に結びついていったのは必然だったかもしれない。デビュー作の歌詞カードを見れば瞭然であるように、はじめそれらの言葉はまったく整理されていなかったが、ひとつひとつがつよい磁石のように、まったくおびただしい音や形式を引きよせているのがわかった。「雨に撃たえば...!」などという表記は、荒唐無稽であるようでいて、物事とその名前や意味がくっつかないでぶらぶらと宙をただよっていたようなあの時期(99年の流行語には学級崩壊やだんご三兄弟があり、改正住民基本台帳法が成立してぶらぶらしたものは数字をつけて管理されようとしていた)の感性をすばらしく圧縮している。

 いま聴き直してみると、そうしたぐちゃぐちゃな表出がやがて現代詩のような体裁をそなえはじめるころに、フォークのスタイルが獲得されていったようにみえる(『ひきがたり・ものがたりVol.1 蜂雀』)。言葉の序列が整ったことがフォークを呼び寄せたのか、フォークへ行きついたことが言葉を整えさせたのかはわからないが、それは朗読や物語りを編むまでに研磨されて、やがて『911ファンタジア』へと結実していく。その意味で『911ファンタジア』はプログレッシヴなフォークというふうに言えるかもしれない。その後に発表されるのが前作『ビリオン・ヴォイシズ』である。

 これらの作品にあってそのスタイルは挑戦であり先鋭性そのものであった。フォークにおいて社会的なテーマ性が往々にして硬直してしまうという難点を、ただ切り離して四畳半フォークへとスライドさせてしまうのではなく、音楽自体を研磨することで踏み抜いてしまう......つまり食えないプロテスト・ソングではなくジューシーなプロテスト・ソングを組み上げていた。「プロテスト」という言葉自体が硬直しているため、そのように言ってしまうと作品のイメージをとてもせまく限定的にしてしまうが、甘い音に固い言葉をのせるなどというレベルをはるかに超え、七尾旅人という大きな創造性のなかに彼自身の社会的な問題意識をきわめて自然に組み込んでいた。"シャッター商店街のマイルスデイビス"などは『911ファンタジア』からの方法的な成果をふまえ、ファンタジーと社会批評とが卓抜なアイディアとパフォーマンスによって縫い合わされた曲だ。そこには「フォーク・シンガーって、いかになにもしないかだと思ってるから」とうそぶく余裕やユーモア、そしてフォーク・シンガーというものの本質的ないかがわしさへの憧れをみることができた。

 こうしたカーヴを描きながら、いま彼のフォークは直接性へと向かっているようにみえる。よりダイレクトに、より平易な表現で、手の届く範囲へ届けたいという思いが本作の背景にあったのではないか。フクシマに材をとった "圏内の歌"は、ここまでパッケージ化されることなく、あくまで肉声での表現にこだわって各地で歌われてきた。震災がひとつの引き金になったのかもしれないが、大胆で融通無碍な七尾のフォームは、小ささというあたらしい倫理へと変容しかけているようにみえる。それはもちろん、これまでの作風のひとつの進化として、ひとりの表現者としての誠実さや真摯さから生み出されたものであるはずだ。

 七尾の近年の活動、とくにライヴ活動には、なによりもつよくコミュニケーションが前提されている。彼のフォーク・スタイルはほとんどそのために選択されているようにさえ感じられた。歌は自己表現というよりは、そこにいる人々に向かって投げられる対話の端緒であり、そのフィードバックをえて再度投げられる。客をいじるのも、ツイッターを組み込むのも同じことであり、彼はそれをとても鮮やかな手つきでみせてくれる。「百人組手」などの取り組みや、ストリーミング配信、さまざまなミュージシャンとの録音やコラボレーションも同様である。七尾はそうして対話の端口をひらこうとするような取り組みを、もうずいぶんとあの黒と麦わらのいでたちでおこなってきた。それはさながら踊り念仏の聖人のようでもあり、各地へおもむき、自分のじかの声が届く範囲の人びとに、彼の信じる歌の力を届けてまわるという"圏内の歌"=小ささの倫理のスタンスは、すでに準備されていたのだとも言えるだろう。

 だが、それならばライヴ・アルバムの名盤を作ることもできたのではないか。スタジオ・アルバムというパッケージングにおいて、七尾の取り組みの価値がうまく取り出されているとは言えない。"エヴリシング・イズ・ゴーン"や"湘南が遠くなっていく""七夕の人"などは普遍的なラヴ・ソングとしての平明さをそなえ、また宛名のついた曲でもあるような直接性もにじませていて、七尾が想定する聴き手の射程がより小さく絞られたというようにもみえる。つまり、小ささの倫理にもとづき、生の声で伝えることのできるライヴやプライヴェートな演奏において引き立つ曲だというようにも思われる。"湘南が遠くなっていく"のシングル盤が湘南地区限定で販売されているのも同様の原理からであろう。だがアルバムのなかではやや一本調子である。さまざまなアーティストとの録音にはとても緊密な空気がある。だが"サーカス・ナイト"や"メモリー・レーン"は、"ローリン・ローリン"を超える一手を打てない。"アブラカダブラ"の微熱のようなサイケデリアや"ビジー・メン"のもつれるようなビートのアプローチも全面化されるわけではない。

 "リトルメロディ"ではこう歌われる。「そしてみつけたよ/小さなメロディ/何千光年の遠すぎる時間を/短い歌で超えよう」......小さなメロディの本質は、その小ささで思いもかけない距離を超えていけるものとして表現されている。歌というものがものを動かす途方もない力について、七尾のような稀有な歌い手には確信があるのだ。だがその「小ささ」とはかならずしも平易さという意味ではないはずだ。「リトルメロディ」によって、自身の大きさを規制してしまってはいけない。ギターと言葉だけで人びとを愉しませ、あるいは煙にまくことの、本質的なうさんくささをもういちど引き寄せてほしい。そのことで自身のフォークのもうひとつの倫理性を立ち上げてほしい。そのように思った。

文:橋元優歩

interview with Kim Doo Soo - ele-king

 空しく消えるその美よ
 咲いてまた散る
 花と同じように
 朝霧
 夕焼け......
 また運のない日が過ぎ 
 多くの苦悩と彷徨も
 忘れたかのように消え去るだろう
"道なき時の歌"


キム・ドゥス - 10 Days Butterfly 10日間の蝶
PSFレコード

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キム・ドゥス - Evening River 夕暮れの川
PSFレコード/Blackest Rainbow

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 韓国のソウルの街には、東京とは異なる雑然さ、猥雑さ、アッパーな気風がある。僕が韓国の街を散策したのは2002年のワールドカップ期間中のこと。滞在中、CDショップにも足を運んだ。勘で選んだ現地の音楽を数枚買って聴いてはみたが、あの頃はどれもがJ-POPの劣化版にしか思えなかった。しかしそれがいまではどうだ、おそらくは血のにじむような研究と努力によってK-POPは世界に認知されている。グライムスでさえも少女時代のPVを面白がっている。しかし......我々はもっとも近い外国である韓国について多くを知らない。
 
 2006年、アメリカの〈20|20|20〉レーベルから、『インターナショナル・サッド・ヒッツ(国際的な哀しいヒット曲集)』というコンピレーションがリリースされている。ギャラクシー500のデーモン&ナオミが主宰するレーベルからのリリースということもあって欧米では話題になっている。収録されているのは三上寛、友川かずき、トルコのFikret Kizilo、そして韓国のキム・ドゥス。彼らは「言葉」の人だが、それは「音」としての魅力を発見されて、世界に伝播している。
 キム・ドゥスは、韓国のアシッド・フォークとして、近年になって注目を集めている。ショービジネス界のなかでしごかれたK-POPとはまったく別の韓国のシーンを代表するシンガーだ。本サイトでの三上寛のインタヴューでも語られている。
 キム・ドゥスがデビューしたのは1986年、名前は『土地』という小説に出てくる悪漢"キム・ドゥス"から取られている。ファースト・アルバム『シオリッキル』で歌われている自由思想は、思想に厳しい当時の韓国政府から圧力をかけられたほどのものだったというが、キム・ドゥスの運命を変えたのは1991年に発表した『ボヘミアン』だった。あるリスナーがこのタイトル曲に歌われている人生の虚無感を引き金に自殺するという事件が起きる。これを受け止めるかたちでキム・ドゥスは音楽を捨て、山に籠もり、電気のない生活を10年も送ったという。2001年、アルバム『自由魂』でカムバックしたキム・ドゥスは、韓国国内の音楽シーンで賛辞ともに迎えられ、以来、地道な活動を続けている。

 『FOUND』や『bling』といったスタイル雑誌も刊行され、華やかなポップ・カルチャーが拡大している韓国において、キム・ドゥスの厭世的な音楽はいまでも異端な輝きを発しているように思える。ティム・バックリーをさらに瞑想的にしたような『10日間の蝶』や『夕暮れの川』からは、K-POPからは見えない風景が広がっている。言葉がわからずとも、彼の深い漂泊の思想ないしはロマン主義、波瀾万丈な彼の人生から湧きあがるエモーションは充分に伝わってくる。ヘルマン・ヘッセが人生のベルトコンベアから落ちた人=敗残者たちの流浪における美を描いたように、キム・ドゥスもさすらいのなかに人生の本質を見いだしているのだろう。

 地平線の上に明星が輝くとき
 私はまた放浪の道に立っている
"彷徨う人のために"

 去る7月、来日していたキム・ドゥスに明大前のカフェで話を聞いた。帰国を直前にしたあわただしいなか、筆者の的はずれな質問にも丁寧に答えてくれた。

歌詞を禁止されたりしましたが、そういったことに哀しみは感じませんでした。政治的な弾圧によって音楽的な方向性を変えたこともありませんし、ですから韓国の歴史と自分の音楽の哀しみとは関係はありませんね。

Kim Doo Sooさんの音楽は、日本では口コミで広がっていて、ディスクユニオンをはじめとする都内の輸入盤店でも、4~5年前から韓国のアシッド・フォークとして売られています。

Kim:私は自分のスタイルを貫いているだけで、ジャンルにはあまりこだわりはありません。どんな風にみんなから呼ばれても、あまり気にしません。それは評論家の役割で、私にはあまり関係はありませんね。私はミュージシャンですから。

アシッド・フォークと呼ばれることに違和感はありますか?

Kim:ないです。

僕はKimさんの音楽を聴いて、美しさと哀しさを強く感じました。『10 Days Butterfly』の1曲目でも、歌詞が自分のなかの哀しみのことを書かれていますよね。その哀しみっていうものは、個人的な哀しみっていうよりも、物凄く大きな、Kimさんがこれまで受け取ってこられた歴史的な哀しみという風に捉えてよろしいんでしょうか?

Kim:すべての作品は作った人間の人生が関係するものですので、(おっしゃるような)わたしの音楽の哀しみというものは、わたしの人生と関係があるものでしょう。

それは韓国という国の歴史と関係があるのでしょうか?

Kim:それはないですね。人間の本質的なもので、韓国の歴史とは関係ありません。

でもたとえばKimさんは、光州事件を経験されていますよね。非常に政治的な意味での弾圧を経験なさっているわけですけれども、それは音楽とはどういった関係にあるのでしょうか?

Kim:たしかに歌詞を禁止されたりしましたが、そういったことに哀しみは感じませんでした。それ(政治的な弾圧)によって音楽的な方向性を変えたこともありませんし、ですから韓国の歴史と自分の音楽の哀しみとは関係はありませんね。さっき哀しみとおっしゃったんですけれども、それは政治とは全然関係ありません。自分は政治家でもないですし。

わかりました。では「哀しみ」はひとまず置いておいて、Kimさんのバイオグラフィー的なことを大雑把に聞きたいんですけれども。光州事件っていうのは、若い韓国の学生たちが韓国の民主化を訴えた事件でしたが、Kimさんもその渦中にいながら音楽でもって何か主張していたんでしょうか?

Kim:そのとき衝撃はあったのですが、私は政治にはあまり関心がなく、自然や人間に関心がありました。韓国には民主化を掲げるような歌もありましたが、私はそのような歌を歌う人間ではなかったです。バガボンドと言いますか、放浪者のような感じでした。

Kim Doo Sooというのは、韓国の有名な小説の悪役から取ったということなのですが、それはどのような意図だったのでしょうか?

Kim:家では歌を歌うことを反対されていましたので、そのとき芸名が必要だったんです。本名を使えなかったのです。それで、そのとき読んでいた小説が有名な『土地』だったのです。その悪役がKim Doo Sooでした。そのとき特別な意図はなく、いっしょに住んでいた兄と酒を飲みながら、「このキャラクターのなかで誰がいいかなー」と話してたまたま選んだのがKim Doo Sooでした。

(笑)なるほど。たとえば日本では、それこそKimさんぐらいの世代のひとたちは、アメリカとかイギリスとか、ビートルズとかボブ・ディランとか、そういった欧米のロックやフォークを聴いて、そしてその自由な精神に影響を受けて、それを自分たちの上の世代に向けて表現しました。その時代、韓国では、どうでしたか?

Kim:私は特定の個人やバンドに没頭したことはないんですけれども、70年代のアメリカのフォークには影響を受けました。

ソウルには、その手の音楽を買えるレコード店もあったんですよね。

Kim:もちろん買うことはできました。

ドラッグ・カルチャーとかサイケデリック・カルチャーは、韓国ではどうだったんですか?

Kim:韓国も一時期、大麻で騒動というのがありましたよ。有名な芸能人が刑務所に入ったこともありましたし、いまも問題になっています。

その辺は日本と似ているかもしれませんね。日本もすごく厳しいので。韓国には、アンダーグラウンド文化といいますか、三上寛さんのように(インディペンデントで)やってらっしゃる方っていうのはたくさんいらっしゃるんですか?

Kim:以前はたくさんいましたけど、いまはあまりいなくなりました。ただ、インディ・バンドは増えつつあります。テレビには出ずに、クラブ(ライヴハウス)での活動を活発にするバンドがいま現れています。それはいい傾向だと思っています。

なるほど。Kimさんのこれまで歩んできた人生を調べますと、"ボヘミアン"という曲がすごく影響力を持っていて、YouTubeなんかにも上がっていますけれども。それを聴いたひとが自殺してしまったという事件が起きてしまったということがよく書かれているのですが、その件について話していただいてよろしいでしょうか。どのようなことが起きたのかということを。

Kim:とても悲しいことが起きました。それを聞いて私はすごくショックだったのです。自分の音楽を聴いて、ひとが平穏になったり癒されたりすることを望んでいたのに、自殺したという噂を聞いて衝撃を受け、それから10年くらい活動を一切しませんでした。

具体的にはどのようなことを歌った歌なのでしょうか?

Kim:放浪について、です。これはリメイクで、オリジナルは他のアルバムにあります。それはやはり、むなしくなるような(虚無感のある)雰囲気でした。詞も違いました。だから詞も書き直して、新しく作りました。

そうだったんですか。オリジナルの"ボヘミアン"は何年に書かれたんですか?

Kim:89年に作って90年に発表しました。

Kimさんご自身が一番初めにアルバムを出したのは何年なんですか? 86年デビューと書いてありますが、それは自主制作で出したのですか、それとも韓国のレコード会社から出したのですか?

Kim:メジャー・レーベルから出しました。

日本でも表現の自由と言いながら、歌ってはいけない言葉があったり実は自由がないんですけれども、韓国でも、たとえば政治的な歌は歌えないとか、そういう話を聞いたことがありますけれども、その辺りの韓国の音楽シーンの表現の問題というものをどのように考えていらっしゃいますか?

Kim:昔は酷かったんですけれども、いまは少し良くなって表現の自由が得られるようになりました。お笑い芸人が政治家をネタにしてギャグをする時代になりました。ですから、昔ほどの問題はないですね。かつてだったら想像もできないことです。

ちなみにどの大統領によって変わったというのはありますか?

Kim:たぶんノム・ヒョンですね。

それはノム・ヒョン大統領が民主化政策をどんどん進めていって、自由な表現をある程度許容したってところがあるんですか?

Kim:もちろん。そうですね。

ノム・ヒョン大統領というと、日本では小泉政権のときに、彼が靖国参拝をする度にノム・ヒョン大統領がそれを批判していたのをすごく覚えているんです。そういったすごく複雑な日本と韓国との政治的な関係があります。日本と韓国の歴史的な歴史的関係についてKimさんはどのように考えていらっしゃるでしょうか?

Kim:音楽には国境はありませんし、ミュージシャンはみんな友だちですし、私はそういった複雑な関係というのはあまり気にしません。

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ヨーロッパの詩人の言葉ですけれども、この言葉に全部含まれているでしょう。「哀しみと死がなかったら、人間はどこに行くのでしょう」というものです。その言葉を読んだとき、私は絶望感よりも平穏をもらいました。


キム・ドゥス - 10 Days Butterfly 10日間の蝶
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キム・ドゥス - Evening River 夕暮れの川
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音楽はいちどやめようと思ってたんですか? そのときどのような生活を送っていたんですか?

Kim:そのときは完全に音楽をやめようと思って、山に行きました。10年間山に住んでいて、すごく気持ちが落ち着きました。それは自然がくれた力だと思います。

その10年間はどういった生活を送られていたんですか?

Kim:1ヶ月の生活費が韓国ウォンで20万ウォン(1万5千円ほど)でした。厳しかったですね。

そのときの気持ちというのは、絶望的なものだったんですか?

Kim:多少絶望的な気持ちもありました。しかし、当分の安定と平穏さは戻りつつありました。

ギターはどういったところから影響を受けているんですか? 

Kim:あまり影響を受けたことはないです。誰かから教えてもらったこともないですし、自分で学びました。

じゃああのメロディというのも、自分で作られたものですか?

Kim:そうです。誰からも教えてもらったことはないです。

小さいこと聴いていた歌とか、そういうところから?

Kim:童謡はすごく好きでしたね。

ほかの同世代のミュージシャンというのは、Kimさんと同じように何かの影響ではなく、自分たちで歌い始めたものなんですか? 

Kim:たぶん、学校とかそういうところで習ったひとが多いでしょうね。

ボブ・ディランとか、そういったものの影響もなかったんですか?

Kim:それは、ディランとか、ニール・ヤングとか、トム・ウェイツとか、そういうのをたくさん聴いたのは事実です。居酒屋やコーヒー・ショップに行くといつも流れているのはアメリカのフォークでしたから。

ああー、そうなんですか。

Kim:70年代、80年代はアメリカのフォークが流行っていましたからね。

へえー。あの、80年代というと、日本ではディスコとかそういうのでしたからね。

Kim:音楽だけ聴くようなコーヒー・ショップなんかもあったんです。韓国でLPっていうのがすごく流行ったことがありましたね。

いつミュージシャンになったんでしょう?

Kim:これだというきっかけはたぶんないんですけれども、小学生のとき、先生が私の家にわざわざ来て「彼に音楽をさせたほうがいいです」と言われたことはありました。でも、家ではすごく反対されました。儒教が厳しくて、家ではラジオも聴けないような状態でしたから。そんな家でミュージシャンが生まれたのは不思議なことですね。

日本でも儒教的な影響はすごく強くて、たとえば先輩後輩の関係であるとか、そういうところで影響は強いんですけれども、そういう儒教的な文化に対する反抗心みたいなものはあったんですか?

Kim:当然ありました。高校を卒業したら家を出ようと子どものときから思っていました。

なるほどね。では、ボブ・ディランであるとかアメリカのフォーク・ソングの歌詞の内容は当時わかっていたのですか?

Kim:わざわざ辞書を引きながら勉強したようなことはなかったんですけれども、大体の内容はわかっていました。

先ほどご自身で放浪者とおっしゃいましたけれども――。

Kim:そういう流れ者的な表現がいいと思っていました。放浪する生活はずっと夢でした。あちこちに行って歌うような生活、それが夢だったんです。

11年ぶりに『自由魂』というアルバムを出しますよね。11年ぶりっていうのが......。

Kim:私のアルバムを作ってくれた制作者がわざわざ山まで来て、昔のアルバムを再発したいと言ってきたのです。そのときは精神的にかなり良くなっていて、再発よりはいま出来ている曲があるから、新しくアルバムを作った方がいいんじゃないですかと提案しました。そのとき『自由魂』を作りました。

その後、『International Sad Hits』というコンピレーションを、それこそ三上さんとかといっしょにアメリカで発売されますけれども、海外で活動されるようになったのはどのようないきさつなんでしょうか?

Kim:〈P.S.F. Records〉が宣伝しはじめて、そのスケジュール通りでやってますね。

最初に海外でプレイしたのはどこなんですか?

Kim:ベルギーですね。

何年ですか? 2006年?

Kim:ああー、正確には思い出せないです(笑)。

それまでフォークというのは、言葉の音楽ですよね。だから、歌詞が理解できないとその本当の面白さは伝わらない。三上さんもKimさんも、音だけで国際的に広がったのはすごいなあと思って。

Kim:言葉が違うので心配していたんですけれども、直接演奏してみると、やはり言葉というのはそれほど問題ないですね。むしろ、もっと深く感じるような気もします。

日本ではここ数年K-POPが大人気です。K-POPの人たちは英語でも歌うし、日本語でも歌うんですね。取材も日本語で答えるんです。Kimさんは、それとは全く逆のことをやって国際的になってるっていうのは面白いですね(笑)。
 KimさんはK-POPに関してどのような見解を持っていますか?

Kim:K-POPが流行って日韓が友好になるのはすごくいいと思いますけど、言ってしまえばK-POPは音楽ではなくてエンターテインメント・ビジネスだという気がします。

韓国国内ではK-POPというのはどうなんですか?

Kim:若いひとというか、学生ばかりですね。テレビを観たらみんな少女時代で、年寄りはチャンネルを変えます(笑)。

韓国ドラマやK-POPは日本でずっと人気があるんですけれども、韓国の人気スターで自殺するひとが多いじゃないですか。どうして彼らは自殺しちゃうんですか?

Kim:うつ病や、精神的なストレスですね。個人的な事情があったり。韓国はインターネットがすごく盛んですけれども、そこでの誹謗中傷を見てストレスが溜まる場合もありますし。それも、たくさんの理由のうちのひとつでしょうね。

それはやはり、韓国の音楽ビジネスの悪いところなんでしょうかね? 

Kim:たぶんそうですね。

日本では華やかな部分ばかりが強調されています。タワーレコードの一階に行けばK-POPがダーッと並んでいます(笑)。でも、在日の人たちとってはすごく前向きな変化をもたらしてもいるようです。
 さきほどインディ・バンドが増えているとおっしゃってましたけれども、たとえばKimさんの歌を聴きに来るような若い世代のリスナーが増えているっていう状況もあるんでしょうか?

Kim:少しずつ増えています。自分はあまりライヴをやらなかったんですけれども、いまは増やしています。私はあまり健康でないのでライヴをたくさんはできないんですけども、観客は少しずつ増えています。ファンはライヴをもっとやってほしいと不満を持っているみたいですね。

なるほど。最初の質問に戻りますけれども、哀しみと言ったときに、Kimさんは人間の本質的な哀しみだとおっしゃいました。それがどういうことなのか、他の言葉で話してくださいますか。

Kim:この表現がいちばんいいと思います。ヨーロッパの詩人の言葉ですけれども、この言葉に全部含まれているでしょう。「哀しみと死がなかったら、人間はどこに行くのでしょう」というものです。その言葉を読んだとき、私は絶望感よりも平穏をもらいました。哀しみと死は、私たちをもっと人間的にさせるものです。
 ヘルマン・ヘッセは「死は人間の友だ」と言っています。

ヘルマン・ヘッセも放浪ということをテーマにしていますけど、お好きなんですね。

Kim:すごく好きな作家です。ヘルマン・ヘッセのための歌を作ったこともあります。

あなたの歌のなかにはすごく自然が出てきますけれども、あなたは何を意味して、どのような意図で自然を歌うのでしょうか?

Kim:他の言葉では表現できません。自然は自然なのです。

いまはソウルに住まれてるんですか?

Kim:ソウルから一時間くらいの田舎に住んでいますが、もっと田舎に行きたいので行くつもりです。

ちなみにサッカーはお好きですか?

Kim:野球のほうが好きです(笑)。

歌詞のテーマっていうのはどういうところから来るものなんですか?

Kim:疑問、自然、経験......といったことです。

この『10 Days Butterfly』のアートワークが美しいですけれども、これは?

Kim:私の友人で、有名な画家のHan Hee Wonによるものです。蝶は10日間しか生きられません。その短さ(はかなさ)が人間の生に似ていると感じました。人間の生の短く美しい様を表現したいと思ったのです。

日本という国は島国なんですね。周りを海に囲まれているんですけれども。韓国は全部陸で、変な話ベルギーまでつながってる。歩いて行こうと思えば行けるじゃないですか。そういう、大陸で繋がっているというのは、感覚としてあるんですか? 

Kim:ありませんね。韓国の上には北朝鮮がありますから、日本と同じように、繋がっているわけではありません、

ちなみに韓国のひとたちが好きな日本の音楽というと?

Kim:昔はJ-POPもすごく有名でしたが......。

アンダーグラウンドでいうとどうですか?

Kim:いま、韓国に日本のアンダーグラウンドのミュージシャンがたくさんいらっしゃってるみたいです。韓国に住みながら活動しているミュージシャンを、自分も3人ぐらい知っていますよ。

へえー。日本人ですか?

Kim:そうです。

たとえば誰ですか?

Kim:ハチさんです。有名なギタリストです。

春日博文さん(カルメン・マキ&OZなどで知られるプロデューサー。現在韓国で活動中)ですね。

Kim:彼はすごく指が長いみたいですね。あとは、長谷川さん、佐藤行衛(ゆきえ)......。

『10 Days Butterfly』には英語と韓国語と日本語の歌詞が載っていますよね。それが素晴らしいと思いました。

Kim:ちゃんと翻訳ができていますか(笑)?

すごくいい翻訳ですね。美しい日本語で。

Kim:リズムとか韻とかはたぶん、掴みきってないと思うんですけど。

今年韓国も大統領選を控えているじゃないですか。どうなんですか? 原発問題なんかも、大統領選のひとつの論点になってるじゃないですか。

Kim:政治は自分はちょっと関心がないですね。韓国も、良い政治家は少ないですね。良いリーダーの資格がない人ばかりです。それで私はさらに関心がなくなりましたね。

逆に言えば、韓国からセックス・ピストルズみたいなパンク・ロッカーが出てくる可能性はあるんでしょうか?

Kim:ありますあります。インディペンデント・バンドの実力がすごくついているので、うまい人がたくさん出ると思います。

モスクワでは、ライオット・ガールズというか、プッシー・ライオットという女の子のパンク・バンドが出てきていま話題になっていますよね。

Kim:おおー!

三上寛さんは「日本のパンクのゴッドファーザー」なんですよ。

Kim:彼はスーパーマンです。寛さんがヨーロッパに行ったらすごく喜ばれるんじゃないかと思います。彼のようなスタイルはないので。

数年前、イギリスの『WIRE』という雑誌がKimさんを紹介をしてましたけど、韓国でも反応がありましたか?

Kim:反応があったかどうかは私はわかりません。家でテレビもほとんど見ませんし、インターネットもメールばかりで、ちょっと記事を読むぐらいですね。情報には疎いほうです。自分の名前が売れることにはあまり興味がありませんしね。

 この暗い世の中を彷徨う人よ
 あなたはどこに流れるのか
 星はまた光り鐘は鳴るだろう
 この瞬間はお前のために
 この瞬間だけはお前のために
"彷徨う人のために"



THE OTOGIBANASHI'Sとパブリック娘。 - ele-king

 夏休みがきたんだな、と思った。それはもう、個人的には12年ぶりくらいのやつが。

 ついきのうまで高校生でしたというような若いオーディエンスのいきれにむせる会場で、しばし回想するのは「夏休み」だ。8月にまだ手の届かない若々しい夏の夜に、なにかを期待するように集まった彼らからは、シャンプーの香のようにその幻影がたちのぼっていた。あれはなんなのだろう? 制度としての夏休みから派生した、ファンタジーとしての、意味としての夏休みに、われわれは抗しがたくとらえられている。

 この日のライヴは2組出たラップ・グループが印象に残った。いっぽうはその「夏休み」という強迫観念を背負って無方向に走り回り、もういっぽうはそうした「夏休み」をひっそりと置き去りにする。すでに日数もたっていることだから、本レポートでは彼らについて言及することにしたい。


 ザ・オトギバナシズはこの夜もっとも美しかった。気持ちの純粋さが擦り切れないぎりぎりの声量で、ごくやわらかく、詩的なイメージや言葉を切りとってくるB.M & bokuを見て、ヒップホップにはこんな表現があるのかとおどろいた。絵本の世界のような表象が、自身の自然な思考や感情表現と結びつき、美学ではなしに引き寄せられている。そしてそんなラップが、チルウェイヴやヒプナゴジックのフィーリングにささえられたミニマルなアンビエント・トラックにのってナイーヴに展開されていく。なるほどこれはクラウド・ラップのフィーリングだ。そしてそれはおとぎ話を語るのに向いている。

 彼らは2番めのアクトだったが、ステージではなくうしろのDJブースで行われるらしく、先に出演した進行方向別通行区分の変拍子とシニカルな文学性にみっちりと揉まれたオーディエンスの後方で、まるで幕間のDJセットのように始められなければならなかった。ただでさえロック色のつよいイヴェントである上、人々はまだステージの方を向いたまま次を待っている。出入りも困難な混雑状況であるから向きを変えるのもむずかしい。なかなかのアウェイだ。しかしすぐにトロ・イ・モワがかかると、フロアの空気が撹拌されるのを感じ、そしてとてもいい予感がした。進行方向別通行区分→トロ・イ・モワ。

 オトギバナシズは彼らのまわりの小さな半円から、徐々にフロアのルールを書き換えていった。ソフトなビートでゆっくりと。みんながこっちを向かなくてもいい。それぞれがそれぞれに、この場所を遊び場に変えればいいのだとばかりに、まず率先してひとり遊びをはじめたという感じだ。いでたちはやんちゃだったが、とても洗練された印象を受けた。赤い色の服もキャップの下のタオルも怪奇的なマスクも、すべてドリーミーにやさしく世界をかたちづくっていたと思う。"プール"以外のトラックもあらべぇ(a.k.a. Blackaaat / ovoviolooooa)なる少年の手になるものだったのだろうか。羽化したばかりのセミの翅のように、あのエスリアルな音づかいは、あの夜あの会場で果敢に響いていたと思う。よくもわるくも一種の閉鎖性から逃れることが困難な日本のインディ・ロック空間に、彼らのフィーリングは涼やかな外の空気をもたらしていた。トロ・イ・モワに表象されるある種の音が、記号的な役割を果たした部分もあったかもしれない。それに、最終的にフロアの全体を制するというような影響をおよぼしたわけでもなかった。しかしそれでも、彼らが鳴っていることに筆者はとても未来を感じた。


 オトギバナシズが小さな足音でこの夏休みの島を飛び立ったのと対照的に、パブリック娘。はにぎやかにフロアを制した。このころには人々のあいだに隙間ができていたこともあってか、彼らはのびのびと動き回り、オーディエンスの注意を集めている。じつにただの結婚式の2次会ノリであって、愛嬌と素人感覚をブースターとして、屈託ないステージングを繰り広げた。終始アッパーなトラック、ディスコや歌謡曲、アニソンもあっただろうか。それら自体にセンスを感じるわけではないが、彼らにはドキュメンタリー性ともいうべき華があった。いままさに目の前で進行する彼らの青春、生活、互いの関係性、そうしたものが奇妙にくっきりと、いやみなく開陳されている。"初恋とは何ぞや"などのリリックにもあきらかなように、そこにはやや文学的な、あわい問いかけがあり、このグループの個性を形成している。彼らはなにかをパッケージングしようとし、それを懸命に追いかけている。言葉にすると凡庸だが、いまという時間のもろさをはからずも取り出し、まぶしく散らせているようにみえた。

 しかし、ならばもう少しひねりがあってもいいかもしれない。サウンドももちろんだが、詞においても童貞景気で盛り上がりをねらうようなやりかたは新しいとは言えない。「あの娘」という手垢にまみれたモチーフを多用するなら、それなりの工夫が必要ではないかと思う。彼らのサマー・フィールには、どこか強迫観念としての「夏休み」を感じる。宿題をしなければ、友だち(彼女)を作らなければ、かけがえのない時間を過ごさねば......イビサでもサーフでもない、この「夏休み」という特殊な時間性への感度は、磨けば武器となるだろう。ぜひベタに落ち着けることなく、飛翔させていってほしいと思う。

 あと、客いじりももう少し洗練させてほしいと思う。被害者としてだが。

interview with Mark McGuire - ele-king

 暑中お見舞い申し上げます。
 以下に掲載するのは、去る5月に初来日したマーク・マッガイアのインタヴューです。
 簡単におさらいしましょう。マッガイアは、今日のアメリカの音楽シーンにおける新世代として、欧米ではもっとも評価の高いひとりです。ジム・オルークさんも評価しています。この5年のあいだにアメリカのアンダーグラウンドで起きていたこと、ノイズ/ドローンから美しいアンビエントが生まれてきたプロセスの体現者でもあります。海や水を題材にしたアルバムも多いので、この季節に向いているとも言えます。最近は、トラブル・ブックスとのコラボ作品を出していますが、これも涼しくて良いですよ。
 彼はまだ20代なかばの青年ですが、エメラルズとして、またはソロ活動において、大量の作品を発表しています。カセットテープ作品にCDR作品......それらの人気作は数年後にヴァイナルとなって再発されています。つまり彼は、音楽の発表の仕方の新潮流の代表者でもあります。
 取材をしたのは、翌日の帰国を控えた、日曜日の昼下がりでした。以下のインタヴューを読めば、彼がどんなところから来たのかわかると思います。


野田:日本での滞在はどうですか?

マーク:すごくリラックスして過ごしています。新宿で公園に行ったり、浅草では水辺を散策してとってもよかったです。あとはCDを買ったり、ボアダムスのライヴを観にいったり。

野田:リヴィング・ユア・セルフ』のことを考えていたんですが、この作品まであなたは自然をテーマにしたりすることが多かったと思います。それが一変して、このアルバムで家族というテーマを扱うことにしたのはなぜですか?

マーク:いままで家族からいろんなサポートを受けてきました。母は毎回ライヴを観にきてくれたし、妹のために書いた曲もあるし、弟からもいろいろ学んできていて。そのみんなから音楽ってどういうものか、自分はどういう存在なのか、そんなことをいろいろ学びました。この作品は僕にとって初めてのメジャーなアルバムだったので、そういういろんなサポートに対して恩を返したかったんです。
 あと、まわりのみんなは自分の家族について語るときに、それがどんなにいい家族かってふうに話すけど、実際はそうじゃないことも多い。たとえば「ごめんなさい」といういうような気持ちも表現して、それとともに「サンキュー」という気持ちも表したかったんです。このアルバム・タイトル自体もポジティヴなこととネガティヴなことの両方を示しているつもりです。

野田:理解のある家族なんですね。

マーク:そう思います。でもいつもそうだったわけじゃないですよ。最初僕はロック・バンドをやっていたんだけど、ノイズとかエレクトロニック・ミュージックをやるようになったときに、なんか、何をやってるのか理解できなかったみたいです(笑)。でもどうやって、どんなふうに僕が成長していったのかをちゃんと見ててくれたので、いまは理解があります(笑)。

野田:あなたのような20代なかばの若さで家族を自分の音楽のテーマにする人は多くはないですよね?

マーク:はははは。僕の家族はとても親密なんです。それはいい意味でも、悪い意味でも。それで、それまでたくさんのカセットなんかをリリースしてきたけど、ちゃんとした初めてのアルバムでは、次に進むためのひとつの区切りとして、家族というテーマを選ぶのがいいんじゃないかって思いました。

野田:しつこいようですが、たとえばロックンロール・ミュージックは、自分の両親やその世代に反抗することで熱量をあげていったようなところがありますよね。ロックの歴史という観点から考えると、『リヴィング・ユア・セルフ』のような実直な家族愛の表現は興味深いなと思ったんです。

マーク:そうですね、それはわかります。僕のまわりでも、父親のことは好きじゃないとか、子供の頃いやな経験をしたっていう人はいるし。でもそういうむかしのことについてとやかく言いすぎて、家族との関係を壊すことはしたくないなって思います。よくも悪くも、家族からのレスポンスのなかでとてもたくさんのことを学んだことには変わりないから、僕はとくに反抗はしなかったんです。

野田:50年前は、親の世代や古い価値観に対する反抗心が音楽のエネルギーとして働いていた。しかし、今日では必ずしもそこにはないってことでしょうかね。

マーク:僕はカソリックの家に育ったんです。教会に行くっていうようなこともいまはないし、カソリックとして生きてもいないんだけど、母がすごくオープン・マインドな人なので、むかしはよく話したんです。ぜんぜん話が通じなかったり、いまだに平行線なことも多いんだけど、そうやって実際に話してくれたってことに対してすごく感謝していますね。

橋元:"ブレイン・ストーム(フォー・エリン)"って、さっき妹さんへ捧げたと言っていた曲だと思うんですが、あなたの曲にはミニマルな構造のものが多いなかで、あんなにドラマチックな旋律を持った曲っていうのはめずらしいのではないですか?

マーク:この曲には時間をかけました。たしかに僕の曲の作りかたって、基本的にはディレイを使って音を重ねていくものだけど、これはループをベースにするんじゃなくてもっとしっかりメロディを作っていったんです。こういうのはこれから深めていきたいなって思う。これ、じつはこのアルバムをリリースする予定だった別のレーベルの人に、初め送った曲だったんですね。そしたら「ギター・ソロっぽすぎるんじゃない?」とか言われて......。何がやりたいんだ? みたいなこと言われて却下されたんですよね(笑)。

野田:はははは!

橋元:ええ、なんてことを! 私この曲を聴くと「エリン」って人はひょっとしたら死んじゃったかとても遠いところに行ってしまった人なんじゃないかって。そのくらい情感ふかい曲で、そこがいいと思うんですけどね。

マーク:このアルバムにはとてもたくさんのアイディアとストーリーが入っていて、いろんなことについて語ってるんです。ファミリーって、家族だけじゃなくて職場や友だちをさしたりもする言葉だし。そこにはいいことだけじゃなくて、いろんなストーリーがあって、たとえば後悔とか怒りとか。それからあなたが言ったような距離ということも。距離って地理的なものもあるけど、心のディスタンスっていうものもあるんじゃないかと思う。そういうテーマはこの作品のなかにはたしかにあります。

橋元:"ブラザー(フォー・マット)"という曲も弟さんへの献辞があります。これもドラムがすごくエモーショナルで作品中では異質な曲です。誰かに捧げることで、あなたはより素直にリリカルな曲を生めるんじゃないでしょうか。

マーク:弟とはよく音楽をやってて、高校のときはいっしょにロックをやってたんです。彼はロックが好きで。で、ドラマーだから、あの曲でたたいてもらったってわけなんですけどね。

野田:アルバムには家族の会話が入ってますよね。会話ではじまって、会話で終わってる。先日の東京のライヴも最初は日常会話からはじまってましたね。こういう、会話からやるっていうのはどういう意図があるんですか?

マーク:その録音は弟の5歳の誕生日のときのもので、たとえばその録音のなかで嵐について話したりしていて、そのことがまたべつの曲になったりしているんです。音源自体はタイム・カプセルみたいなもので、それがこのアルバムの起源になっているとも言えます。あと、ここには彼らはいないけど、音のなかにはずっといっしょにいるんだよっていうことでもあります。

野田:ライヴでああやって声を用いるっていうのは、そのまま受け止めると、その日常的な会話からあなたの音楽によっていろいろなところにオーディエンスをトリップさせる、そしてまたもとの日常にもどってくる、というような意図があったのかなって思ったのですが。

マーク:僕にとっては音楽は毎日やっていることだし、それが日常です。でもそういう会話のサンプリングによって、そのほかの、友だちとか家族っていう日常もひとつにする感覚でやっています。

野田:音楽が日常ってことですが、エメラルズのジョン・エリオットさんとはリリース量を競いあってるんですか?

マーク:はははは(笑)ノー、ノー。ずっと音楽をやっていて、パーティに行ったりとかお酒をのんだりとかってことに集中しなかったから、結果としてリリース量が多くなったという感じで。高校のときの友だちとかは、パーティーとかお酒とか好きで、ちょっとちがうなって思ってたんです。そこでジョンと会ったときに意気投合して。彼は音楽、音楽ってずっと集中してる人だったから。それでバンドになっていったんです。リリース量がとても多いって結果にも、かな。


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野田:『リヴィング・ユア・セルフ』以降にもたくさんリリースされていますが、そのなかで大きなものってなると『ゲット・ロスト』かなって思います。抽象的なアルバム・タイトルが多かったなかで、これは「失せろ」って意味じゃないですか。そういう直情的なタイトルにしたのはなぜですか?

マーク:このタイトルもさっきのようにいろんな意味にとれるものだと思うんですけど、英語だと「失せろ」というほかに「迷う」という意味もあるんですね。『リヴィング・ウィズ・ユアセルフ』が家から出ていくものだったとしたら、『ゲット・ロスト』は世界の広さに圧倒されてまよってしまった、そういうものだったんじゃないかって考えられます。世界はとてもクレイジーでいろんなものがうごめいている場所ですからね。でもその「迷う」っていうこと自体いはすごく大事なことだとも思ってます。スリーヴに書いてあるんですけど、「迷う」ことでなにかを発見したり、次につながっていくのはほんとに大事なことです。

野田:それは、クリーヴランドを離れたり、アメリカを離れてツアーをまわったりとか、そういう経験からきた言葉なんですか?

マーク:もちろんそこにはたくさんのできごとがあります。自分を強く持って、ここだって決めて進んでいったとしても、とてもたくさんの筋道ってものがありますよね。そういう、こうしたい、こうしたほうが良かったというたくさんの選択肢のなかで、自分に対して正直にいよう、そうしたことを強く持とうって思ったところからきています。あとは、クリーヴランドからポートランドへ引っ越したっていうのも大きいかな。そんな規模の引っ越しは初めてだったから。ひとりになった気持ち、とてもさびしい気持ちはあらわれているかもしれません。

野田:エメラルズのほかのふたりのメンバーもいっしょに引っ越したんですか?

マーク:彼らはクリーヴランドにいますね。

野田:ポートランドっていうと、いまとてもアーティストが集まる街でもあり、なおかつアメリカでもっとも銃声が鳴り響く街でもあるっていう噂を聞いたんですが。

マーク:銃声? クールですね(笑)。

(一同笑)

マーク:銃については最近考えをあらためて......、まあ、いいや。

野田:ええ、なんです?

マーク:もちろん銃は持たないほうがいいって思ってるんですけど、最近はハンティングのためとか自分を守るためというよりも、政府についてちょっといろいろ、嫌なことがあったものだから、それで銃を持ったほうがいいんじゃないかって思うようになって。

野田:ええ(笑)! それは聞き捨てならないですね!

マーク:いやいやそれは......

野田:ポートランドは治安が悪いっていうのはほんとなんですか?

マーク:僕はいちばんいいとこに住んでるわけじゃないけど、とくに問題ないですよ。住んでる人っていうより、警察のほうが危ない、こわい感じです(笑)。前の警察署長っていうのが、ちょっと獰猛な人だったみたいです。

野田:日本も似ています。

マーク:まあ、でも、これは気にしないでください。なんでもないです。なんでもない(笑)! 僕はいちども銃を撃ったことないですからね。でもそういった人たちや政府に対してアンチを唱える意味で銃を持つのもいいんじゃないかって、最近は思ったりします。

野田:それはすごいなあ。

マーク:でも......、これはほんと、なんでもないから(笑)!

橋元:(笑)『ゲット・ロスト』で声を入れようと思ったのはなぜです?

マーク:歌ってる曲は2007年の曲なんです。いつもは自分の曲に歌が必要だとは思わないんだけど、ときどき音だけじゃ表現できないから言葉で言わなきゃっていうことがあって。この曲はそんなふうにできたものです。シンガー・ソングライターみたいに歌うんじゃなくて、人間の声っていうものはとても面白い楽器にもなるとも思ってるので、もっといろんな可能性を拡張していきたいですけどね。

野田:あなたのライヴを観て、あんなに踊れるっていうか、ダンサブルな演奏に驚きました。いつもあのスタイルでやっているんですか?

マーク:僕はとてもいろいろなことをやっています。だけどあのときのライヴはお客さんとの一体感がほしかったので、音楽とリズムでそれをやろうって思いました。お客さんに身体を動かして観てもらいたかったんです。僕自身もボアダムスのライヴでそんなふうに観ていました。僕自身はドローンとかアンビエントとかもっとメディテーティヴなものとか、いろいろなスタイルでやります。バランスのとりかたに悩むこともありますけど......。
 たとえば流行の音楽がありますよね。そういうものも好きで、やりたいなって思ったりもするんですけど、そういうものを取り入れることで自分のスタイルを失ってしまうんじゃないかって思ったりもして、そういうバランスがむずかしいんです。

野田:流行っている音楽っていうのは?

マーク:レトロなインディ・ダンスとかですね。

野田:〈100%シルク〉とか?

マーク:別に悪く言ってるんじゃないんですよ! ローレル・ヘイローフォード&ロパーティンみたいな人たちのことです。いろんな人がいるってことです。たとえばドラムマシンとギターを使ったような曲もありますけど、そっちの方向に自分が進むべきかっていうとちょっと違うかな、とも思います。

野田:ローレル・ヘイローとは交流があるんですか?

マーク:フォード&ロパーティンとは、特別親しいわけじゃないけど知り合いです。ゾーラ・ジーザスとも知り合いです(笑)。

野田:ちょっと意外ですね! あのー、5~6年前、アメリカのインディ・ミュージック・シーンの若い世代たちがドローンをやってたじゃないですか。あれはなんでなんでしょうね。

マーク:2000年くらいにスケーターとかダブル・レオパード、サンルーフの影響を受けたんですけど、僕はその当時ノイズのコミュニティにいたんです。あの頃は、そんなことをしているのは自分たちだけだと思ってたんだけど、気づいたらほかのノイズの人も同じようなことをやってました。
 それが何故か......、たとえばシンセサイズな音楽がダンス・ミュージックになってって、その次の展開ってわからないけど、また90年代にもどるって展開もあるかもしれないですね。ひとつのジャンルにそういうシフトがあるように、それもなにかシフトしていったものなんじゃないでしょうか。僕らにとってはそれはとてもナチュラルでオーガニックな流れなんです。こういうバンドのように、こういうジャンルのようにやりたいって思ってたわけではなくて、自分たちにとって正直に音をつくっていった結果こうなったという感じです。

野田:テリー・ライリーやラ・モンテ・ヤングのような人たちのドローンというのは、現代音楽の発展型で、ある意味論理的で、専門的でマニアックな音楽だったんですけど、それがいまではより感覚的で身近なものになったっていうことでしょうか?

マーク:彼らはニューエイジのドローンの人たちに対して影響があったような作家で、僕らはどうかわからないけど、そういう人たちもいますよね。僕にとってはパンクとハードコアが初めにありました。それはクレイジーなものでしたが、ドローンをはじめたとき、とてもコントロールが効いた音楽だと思いました。とてもミニマルなもので、それが新鮮に思えたんですね。それはとてもリラックスできるものなんだけど、その奥底にパンクやハードコアのようなタフな要素があるんじゃないかって思います。あと、ドラッグなんかをやるときにはパンクみたいにハードなものはやめたほうがいいんじゃないかとも思いますよ(笑)。

橋元:そういう、ドローンとか瞑想的な、アトモスフェリックな音っていうのは、あなたのなかでサーフ・カルチャーと結びついていたりしますか? インナー・チューブ名義での作品はサーフ・カルチャーの影響から生まれたということですが。

マーク:インナー・チューブというのは、スケーターのスペンサー・クラークとのプロジェクトなんですけど、彼ととてもよく遊んでいたことがありました。『ストーム・ライダーズ』というサーフィンについての映画があって、その映画はサーフィンの精神性に関する映画だったんです。そのなかで、「波の力は地球上でいちばん大きな力の源だ」っていうことが語られているんです。
 このプロジェクトはシンセサイザーを使ったメディテーション音楽なんですが、とっても楽しかったです。決められたテーマがあったので、むしろいろんなアイディアがふくらんでいきましたね。でもすごいたくさんあるなかで、海のなかにいること、それはサーフィンでも泳ぐことでもいいんだけど、そこに人生のすべての感覚があるんじゃないかって。その海のなかにいる感覚から、世界をどう見るか、人生の経験をそこにどうやってつなげていくかってことをテーマにしました。

野田:レコードにはポスターが入っているんですよね。

マーク:それは映画からきてますね(笑)。

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野田:ちなみにクラウトロックからの影響もすごくあると思うんですけど、同時代のエレクトロニック・ミュージックからの影響っていうのはないんですか? ベーシック・チャンネルみたいな、ベルリンのミニマル・テクノであるとか。

マーク:もちろんあります。初期のデトロイト・テクノとか。さっき言ってたパンクの話ではないですが、とてもコントロールされていて、とても凝縮されている、そういうタフさのようなものがあるっていうところに惹かれます。すごく正直にいうと、僕は80年代のソウルも好きで、それとデトロイト・テクノには似たようなところがあると思ってます。

野田:デトロイト・テクノが好きなのに、ライヴではドラムマシンを使わないってとこがすごいと思いますよね(笑)。

マーク:ふふふ。ギターでテクノをつくります。

橋元:さっき言ってたようなローレル・ヘイローとかゲームス、フォード&ロパーティンも入るかもしれませんけど、いまチルウェイヴと呼ばれているような音楽が現実逃避的だっていうような批判を受けたりしていますけど、現実逃避っていうこと自体は音楽や文化にとってすごく大きな役割を果たしてきたものだと思うんですね。あなたの音楽には現実逃避的な部分があると思いますか?

マーク:デフィニトリー! もちろんそれはあります。でも、たとえば、チルすることで「人生はいいよね」と言ってしまうことは正しくないと思います。ネガティヴなことも言うべきだと思います。本当の人生のなかでは人はそれでリラックスすることはできないじゃないですか。もっとたくさんのむずかしいことがあります。僕がアルバムで表現したかったように、いいこと悪いことの両面について触れるべきです。けど、もちろん自分の音楽に現実逃避的な部分はあるな、とは思っています。

橋元:そういう部分が逆に自分の音楽をふくらませることはないですか?

マーク:そうですね。それはあります。僕の音楽にはエクスタシーのような、いい気分に満たされるようなものがあるとは思いますけど、それは人びとに必要なものじゃないかっていう気持ちから生まれてるんです。みんな学校とか仕事やなんかがあって毎日とても忙しいから、そういう感情がないと生きていけないんじゃないかと思っています。生きていくのに必要なものなんじゃないかって思います。ただ、くりかえしになるけど、ものごとのふたつの面については考えなきゃいけない。

橋元:なるほど。実際あなたにとって音楽をつくることとギターを弾くこととはどのくらい分離したものなんでしょう? 即興的な部分が大きいのですか?

マーク:それはほんとにいろいろなんですけど、はじめにたくさんのアイディアがあることも多いです。実際ギターを弾きながら何かを発見していって、それをコンポーズドさせていったりもするんですけどね。あとはたくさんのレコーディングを作っておいて、あとで聴きながら「あ、ここいいな」って思った部分をつなげていくようなやりかたもします。だから、けっこういろんなやり方が組み合わさっているかなあ。でもいずれにせよすごく時間をかけることが大事だと思ってます。10年じっと座って考えるっていう意味ではないんですけど、やってみたことをあとからじっくり考えなおしてみてみることですね。

橋元:最後にエメラルズについて訊きたいと思います。エメラルズをやることで自分の音楽にフィードバックがあるとすれば、それはどのようなことなんでしょう。そしてメンバーの性格分析や音楽上の役割分担について教えてください。

野田:そもそもエメラルズの次のアルバムって用意されてるの?

マーク:とってもいいレコーディング・スタジオを借りたみたいです。6月は1カ月まるまるそのクリーヴランドのスタジオで作業することになりそうです。それでポートランドに結果を持って帰っていろいろ作業して、また8月にクリーヴランドに戻って作ります。
 レーベルは〈エディションズ・メゴ〉です。でも、アルバムを作るために集まるんじゃなくて、みんなで音を出すのが楽しいから集まるわけで、アルバムはほんとに、あくまでその結果ですね。音を出すのが目的です。でも、そのスタジオは〈エディションズ・メゴ〉が借りてくれてるから、もちろんまあ、出るんでしょうね(笑)、アルバムが。とってもいい条件だったみたいです(笑)。
 で、最初の質問ですけど、僕らは実際エメラルズがこんなに成功するとは思ってなかったんです。ジョンとはもう13年くらい音楽をやっているんですけど、ぜんぜん誰にも、見向きもされなかったんです(笑)。だからいまの状況に圧倒されてるところもありますけど、ジョンからもみんなからもすごくたくさんのインスピレーションをもらっています。

野田:ヨーロッパからの反応はどうなんですか?

マーク:とてもいいです。アメリカよりいいです。ウォッカも飲めます(笑)。
 ふたつめの質問については、そうですね、僕ら3人は、とっても性格がちがうんです。違っているからこそ、音楽がいっしょにやれる、集まれば音楽が生まれてくるんだと思ってます。僕ら3人のパートははっきりと決まっているわけではないんですけど、バランスをとても大事にしているんですね。アルバムを船だとすると、いつも、その船がまっすぐ進んでいるかな、ということをつねに気にしています。とても大きなところでは、僕らはジョン・コルトレーンに影響を受けてるんです。彼らの演奏はいつもタイト、そしてどの部分を見てもコントロールされているし、音のバランスもとてもいい。大きな影響を受けてます。ひとりじゃなくて複数の人で演奏しなきゃいけないときに、お互いのことを気にしなきゃいけない、そういったときにジャズからとても大きな示唆を受けます。
 僕はエメラルズの3人を世界でいちばん大事な友だちだと思っているし、3人で音楽ができることをほんとうに素晴らしいことだと思います。音楽というのは自分のなかから生まれてくるもので、音楽がさきにあるんじゃなくて、自分がさきにあるものだと思うから、もしそれを誰かとやる場合は、フレンドシップがすごく重要になります。だから6月の録音にはそのフレンドシップという原点に立ち返ろうってことも思ってます。エメラルズの音楽ファンのために作るというより、僕らメンバーがお互いのことが好きなんだというそういう原点にもどって作りたい。そう思ってます。

野田:みんなほんとはエメラルズに来てほしいと思ってるんですが、聞いたところによると機材がすごいんですよね。それでなかなか持ってこれないっていう。

マーク:僕もすごくたくさんペダルを持っていて、ほかのふたりも機材はたくさんあるので、その点でたしかにツアーは難しいかもしれないです。やるときはほんとにベストを尽くしたいので......

野田:なんか、すごい古い機材を使うんですよね?

マーク:ジョンはすごい大きなモジュラーのシステムを組んでいます。メロトロンも持っているけど、さすがに1回もライヴに持ち込んだことはないですね(笑)。スティーヴも10個くらいのシンセサイザーを持ってるので、まあピンク・フロイドみたいに予算がガンガン使える人たちじゃないと、ちょっとむずかしいですね(笑)。彼らはボートを使ったみたいけど、たしかにボートじゃなきゃ無理かもです。エメラルズの機材は、飛行機には載りきらないでしょう(笑)。

野田:そんなに......、ところでさっき、あなたはノイズ・シーンにいたと言っていましたが、そのノイズ・シーンについて詳しく教えてください。次の紙ele-kingでは「ノイズ」を特集しようと思っているんです。

マーク:僕たちが2005年に演奏をはじめたとき、エメラルズの前にフランスライオンズというバンドをやっていました。その秋、僕たちはクリーヴランドでスリーピータイム・ゴリラ・ミュージアムという本当にひどいバンドの前座をやって、とても変なセットをその晩演奏したのですが、そのライヴでジョージ・ヴィーブランツ(Viebranz)という人に出会いました。
 ジョージはクリーヴランドの小さなクラブやDIYスペースでたくさんのライヴを企画していて、僕たちにオハイオのアクロンにあるダイアモンド・シャイナーズに翌週末に演奏しにおいでよと言ってくれました。ダイアモンド・シャイナーズはタスコ・テラーというバンドが運営していた小さなDIYハウス・スペースです。そこで僕たちは同じ好みを持ったたくさんの楽しい人たちに出会って友だちになり、また彼らが紹介してくれたバンドとのネットワークを築きました。そしてそれと同じ時期に、僕たちが夢中になっていたノイズやエクスペリメンタル・ミュージックのたくさんの音楽がオハイオやミシガン周辺で生まれているということを知りはじめました。とりわけコスモス・ファームという場所、ラムズブレッドというバンドが運営していたオハイオのデラウェアにあるザ・ラムズデンという場所で、そういった音楽のライヴ演奏がおこなわれていました。
 僕たちはそこで演奏しようと何度か試みたのですが、彼らから詳細をもらうのはすこし難しくて......、でもあるとき、ようやくそこで演奏することができたんです。そこでは僕らが好きなバーニング・スター・コア、ヘア・ポリス、ウルフ・アイズ、クリス・コルサーノといったバンドのライブを見ることができて、とても興奮しました。それから僕たちはラムズブレッドとすぐに仲よくなったんです。ラムズブレッドはとても愉快でパーティ好きで、信じられないほどいいレコードを持っていました。それから当時の彼らは僕たちと同じくらいの量のウィードを吸っているバンドでもありました。
 エメラルズをはじめたすぐあとでした。クリーヴランドであったマジック・マーカーズ/ラムズブレッドのライヴでラムズブレッドと仲よくなって、ヴァンパイア・ベルト、デッド・マシーンズ、バーニング・スター・コアなど僕たちが賞賛するバンドも出演するデラウェアの彼らのハウス・パーティで演奏してよと誘ってくれたのです。そのライブは僕にとっていちばん緊張したライブとなりました。僕らは5~6分しか演奏しなくて、ほとんどサウンドが作れなかったと思います。そこにいた人たちは楽しんでくれたみたいでしたけど。それから僕たちはその場所やミシガンでタスコ・テラー、レズリー・ケッファー、グレイヴヤーズ、ラムズブレッド、バーニング・スター・コア、シック・ラマ、ハイヴ・マインド、アーロン・ディロウェイなどたくさんのバンドとライヴをやりました。

野田:ソニック・ユースからの影響はありましたか?

マーク:僕たちの音楽は前に言ったようなのバンドを通して、サーストン・ムーアに紹介されました。サーストンは僕らが2006年にタスコ・テラーとスプリット作ったカセット『クリスマス・テープ』を聴いて、僕たちにとっては最初のヴァイナルとなるその再発をリリースしたいとオファーしてくれたのです。その当時サーストンはオハイオのノイズ・シーンによく顔を出していて、タスコ・テラーの子どものころからの友だちであるレズリー・ケッファーや、ラムズブレッド、そして僕たちとタスコ・テラーのスプリットLPをリリースしました。
 サーストンはとてもいい人で、すばらしい人たちとのネットワークを持っています。でも個人的にはソニック・ユースに夢中になったことはありません。僕が彼らにいちばん興味をもったのは、図書館で『ウォッシング・マシン』を借りて聴いたときでしたが、そのとき僕は8歳でした......。それ以外はあまり自分にひっかかったことはありませんでした。彼らはたくさんのバンドに影響を与えていると思いますが、正直、僕はそのうちのひとりではありません。
 僕たちがバンドをはじめたときにとても大きな影響を受けたのはラムズブレッドでした。自由でサイケデリックな要素を持つ彼らの音楽や、彼らとの個人的なつながりは、初期の僕らに助けや助言をあたえてくれました。彼らがもう演奏しないことや、彼らのことを語ることを誰もしないのは悲しいことですが、彼らは僕が音楽を通して出会ったなかでももっともディープな人たちで、彼らのことが大好きです。

 ※次号の紙ele-kingでは、ゼロ年代のノイズ/ドローンのシーンについて特集します。こうご期待!

DJ KAMATAN (PANGAEA) - ele-king

夏schedule
8/4 KNOT @ 福島会津若松 CLUB infinity
8/5 ひかり祭り @ 神奈川相模原市 旧牧郷小学校
8/10 DUB FRONTIR @ 仙台 PANGAEA
8/19 伊達祭 @仙台 勾当台公園
8/24 PANGAEA NIGHT DJ光 @ 仙台 PANGAEA
8/25,26 SUN MOON @ 岩手 千貫石キャンプ場
8/31 echo8 @ 仙台 PANGAEA 
9/1,2 龍岩祭 @ 山形 蔵王温泉
9/9 こころのヒダ @ 仙台 ADD
9/21,22,23 Chill Mountain @ 大阪 荒滝キャンプ場
9/28 未定 @ 沖縄 那覇
9/29 未定 @ 沖縄 那覇

仙台pangaea
https://pangaea-sendai.com
https://twitter.com/KAMATAN6


1
Carter Bros - Wild Cats EP - Black Catalogue

2
Alejandro Mosso - Mosso 001 - MOSSO

3
Ivano Tetelepta - Taksi - Fear Of Flying

4
DJ Jus Ed - I'm Comin - Underground Quarlity

5
Julien Bracht - Down Under EP - Inter Groove

6
Julio Bashmore - Ribble To Amazon - 3024

7
Bushmind - Good Days Comin' - P.vine

8
The Planty Herbs - Music is the world - Wax on

9
Strategy - Boxy Music - 100%Silk

10
Peaking Lights - Lucifer - Mexican Summer

interview with Heiko Laux - ele-king

 ハイコ・ラウクスはジャーマン・テクノを体現するような人物だ。テクノ黎明期に多感な10代を過ごし、周囲の誰よりも早くシンセサイザーとドラムマシンで楽曲制作を開始。94年に地元ヘッセン州の小さな町でレーベル〈Kanzleramt〉を立ち上げた。それがスヴェン・フェイトの目に留まり、フランクフルトの伝説的クラブ、〈Omen〉のレジデントに抜擢される。99年にはテクノ・キャピタルとして勢いを増していたベルリンに拠点を移し、変わらぬ情熱と熟練のスキルで制作活動とDJ活動ともに精力的に続けている。

 数ヶ月前、宇川直宏氏に「今年もFREEDOMMUNE 0 <ZERO>やるから、いいテクノDJブッキングしてよ!」と言われて真っ先に思い浮かんだのが彼だった。実際に出演が決まり、〈eleven〉でのアフター・パーティと大阪〈Circus〉でもそのプレイを披露することになったハイコに、ベルリンで話を聞いた。テクノ・ファンならすでにお馴染みのベテラン・アーティストだが、3年ぶりの来日ツアーに先駆けて、これを読んでその素晴らしいプレイのイメージを膨らませて頂ければ幸いだ。


ドイツのテクノもデトロイトの影響を受けてはじまったようなものだからね。そのデトロイトの人たちはクラフトワークに影響を受けていたりするわけだけど。


初めまして。もうすぐFREEDOMMUNE 0 <ZERO>に出演のため来日されますが、私があなたをブッキングしたんですよ。その経緯から少し話させて下さい。実は、きっかけは今回共に出演するDVS1をEle-Kingのために昨年インタビューしたことだったんです。

ハイコ:へえ? どういうことかな?

彼が、90年代にあなたをミネアポリスに呼んだことがあって、その縁であなたに〈Tresor〉でDJする機会をもらったと言っていました。それが初めてベルリンでプレイした体験だったと。

ハイコ:ちょっと待って、いまもの凄い勢いで頭の中の記憶を呼び戻してるから... でもDVS1という人は知らないな。前は違う名前でやっていたのかな?

あれ? 覚えていないですか? それは意外ですね。ではその事実関係は日本で再会した際にDVS1本人と確認して頂きましょう。いずれにせよ、その話を聞いたのが昨年のちょうど同じ頃で、そのすぐ直後にあなたが〈Berghain〉に出演していたので、初めて聴きに行ったんです。

ハイコ:ああ(ニヤリ)、あの日あそこに居たのか。あれは......かなりいいセットだった。

めちゃくちゃ凄かったです(笑)。それで一発でヤラれてしまったんですよ。そのときに、「この人を日本にブッキングしよう」と思ったんです!

ハイコ:そうか、ありがとう。実はね、公にはしていないんだが、CLR Podcastに提供したミックスは、あの日のセットの中の2時間分なんだ。あそこのクラブは録音だの撮影だのに関してはとてもうるさいからね、ここだけの話だけど! うん、あれはかなりいいパーティだった。

2009年の〈WIRE〉に出演して以来、日本には行ってませんものね?

ハイコ:そうなんだよ、だからもの凄く楽しみにしている。そろそろ行きたいと思っていたところだよ。

それまでは、わりと定期的に来日してましたよね?

ハイコ:2000年か2001年くらいから、ほぼ1年おきには行っていたね。

これまでの来日体験はどうでしたか?

ハイコ:いい思い出しかないよ。日本は大好きだ。僕は食べるのが好きなんでね、食べたいものがあり過ぎて困るくらいだ(笑)。初めてスキヤキを食べたときなんて、発狂するかと思ったよ! ヤキニクとか、コウベビーフとか...... とにかく日本の食べ物のレヴェルの高さは凄い! もう6回くらい日本には行ってるけど、毎回驚きがあるね。

ちょっと音楽の話に戻しましょうか(笑)。実は私は90年代のテクノについてデトロイトのことはある程度知っているんですが、ドイツのことはほとんど知識がないので、ぜひその頃の話、そしてあなたがどのような体験をしてきたのか教えて頂きたいんです。

ハイコ:まあドイツのテクノもデトロイトの影響を受けてはじまったようなものだからね。そのデトロイトの人たちはクラフトワークに影響を受けていたりするわけだけど。

バイオグラフィーによれば、ファーリー・ジャックマスター・ファンクの「Love Can't Turn Around」に衝撃を受けて音楽をはじめたとのことですが?

ハイコ:そうだね、まああの曲は一例だけど、ああいうサウンド、いわゆるTR-909のドラムととてもシンプルなベースだけであれだけパンチのある曲は衝撃だった。ああいう音が部分的に使われている曲は聴いたことがあったけれど、シカゴハウスからはそれまで感じたことのない凝縮されたエネルギーを感じたんだ。「俺はこれをやりたい」と思ったんだよ。

それはラジオで聴いたんですか?

ハイコ:いや、クラブだよ。当時は兄がDJをしていたので、まわりの子たちよりも早くクラブに行くことが出来たし、家にそういうレコードがあった。シカゴ・ハウスやUKノアシッド・ハウスなどだね。それ以外はまだポップ・ミュージックしかなかったけれど、あの頃はポップ・ミュージックのシングルにもB面に風変わりなダブ・ミックスなどのインスト・ヴァージョンが入っていた。そういうシンプルなグルーヴの音楽を好んでいたね。特定のサウンドを上手く組み合わせれば、とても少ない音で凄い威力のある曲が出来上がるというところに魅了された。

かなり早い段階から自分の曲を制作することに興味を持っていたようですね?

ハイコ:ああ、もう10代半ばから。小さなバイクに乗れるようになった頃に、最初のキーボードを買いに行ったのを覚えているよ。14歳とかじゃないかな。

その歳ですでにクラブに行って、制作も始めていたんですね?

ハイコ:ああ、地元のバート・ナウハイムという小さな町から、兄の車に便乗してフランクフルトのクラブに出入りしていた。あの頃聴いたDJといえば、スナップ(Snap!)のプロデューサーのひとりだったミヒャエル・ミュンツィッヒなどだね。彼はいつも、ド派手な衣装で現れた。インディ・ジョーンズみたいな帽子を被ったり......毎週違う格好で(笑)。でも誰よりもクールな音楽をかけていた。彼はビートマッチ(曲のピッチを合わせる)だけでなく、ハーモニーをミックスしていたのが印象的だった。前の曲のブレイクのときに、例えばピアノのハーモニーが入っていたとしたら、次の曲のBPMの違うイントロのハーモニーと混ぜるんだ。そこから全然リズムが変わったり。それがとても新鮮だったね、「こういうことも出来るんだ」と思った。いまそういうやり方をする人は全然いない。でも僕は、いまでも選曲をするときにハーモニーで選んだりするよ。他に僕が体験したことと言えば、クラブ〈Omen〉の盛衰だけれど、それもバイオグラフィーに書いてあることだね。

当然、DJとしてスヴェン・フェイトからも大きな影響を受けていますよね?

ハイコ:完全に。スヴェンとの出会いは、僕のキャリアのターニング・ポイントになったから、特別な存在だね。あの頃は誰もが〈Omen〉でプレイすることを目標にしていた。だから僕も自分から「やらせて下さい」なんて野暮なことは聞かなかった。その代わり自分でレーベル(〈Kanzleramt〉)を始めて、曲を出すようになった。そしたら、96年にスヴェンがライヴをやらないかと誘ってくれたんだ。そしてライヴ出演したら、またやって欲しいと言われて、「実は僕はDJもやるんです」と言った。当時、金曜日がスヴェンの日で土曜日が外部のゲストDJがプレイしていた。その土曜日に何度かやったところ、「金曜日にお前の枠をやるから、好きな奴を呼んでパーティをやれ」と言われた。だからサージョンやニール・ランドストラムなどを呼んで一緒にやっていた。店が閉店するまで、それを続けたんだ。

ライヴもやっているんですね? それは知りませんでした。

ハイコ:実はそのときと、すぐ後に一度「POPKOMM」(かつては毎年開催されていたドイツ最大の音楽見本市)だけで、それ以来全然やっていないんだ。他のアーティストとコラボレーション、例えばテオ・シュルテと一緒にやっているオフショア・ファンクなどでは何度かやっているけど、ソロは全然やっていない。それも最後にやったのは2008年だ。その後はDJしかやっていないね。でも、今年のADE(Amsterdam Dance Event)で久々のライヴを披露する予定だよ。とても楽しみだけど、ライヴとなると途端にナーヴァスになる(笑)。

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僕はたしかにラップトップを使っているけど、間違いなくDJをしているからね、そこが違うんだと思う。僕はちゃんと曲を「触っている」。それが鍵なんだよ。こういうシステムを使うと、オートシンクも簡単に出来るけど、それをやってしまうとDJの醍醐味がなくなってしまう。

少し意外なのは、あなたがハウスから音楽の道に入ったということですね。テクノ一辺倒なのかと思っていたので。

ハイコ:というか、あの頃はテクノというものが存在していなかったんだよ。デトロイト・テクノもシカゴハウスの影響で出て来たものだからね。テクノへと加速していったのは90年代初頭のことだよ。

そういう流れのなかで、あなた自身もよりテクノに傾倒していったと?

ハイコ:そういうこと。だからテクノ・ブームがやって来る少し前に、すでにこういう音楽に脚を踏み入れていたのは、幸運だったと思う。周りがテクノに目覚めた頃には、すでにシンセサイザーやドラムマシンに親しんでいたからね。だからテクノが確立される前から、テクノをどうやって作るのかは分かっていた。ハウスを速くして、テクノのエネルギーを足せば良かったんだ。

そう考えると、あなたはドイツにおける第一世代のテクノ・アーティストと言えますね。

ハイコ:やはり僕よりも、スヴェン・フェイトやジェフ・ミルズやDJヘルの方が僕よりも先にやっていたけれどね。僕の出身の小さな町では輸入盤のレコードを売る店なんてなかったから、それほどたくさん聴けたわけではなかったし。アンダーグラウンドな音楽は、大都市に行かないとアクセスできなかった。僕がレコードを買っていた隣町の店なんて、半分が自転車屋で、店の半分がレコード・コーナーになっていたからね(笑)。レコードを売るだけでは、まだ商売にならなかったからだ。〈Omen〉の前身だった〈Vogue〉というクラブで、スヴェンを聴いたり、90年代に入ってからジェフ・ミルズやジョーイ・ベルトラムのプレイを聴いた。
 それでデトロイト・テクノに開眼して、「そうか、こんなことも出来るのか!」と思ったね。特に、ジェフ・ミルズを見たときは度肝を抜かれた。プレイしたレコードを次々と背後に投げ捨てながらプレイしていた(笑)。傷がつくとか、そういうことを気にせずにバンバン投げ捨ててたね......そういうクラブが身近にあって、本物のアーティストを間近で見て体験することが出来たのはとても幸運だったと思う。ジェフがヨーロッパで初めてやったのは〈Omen〉だったんじゃないかな。当時は、フランクフルトがドイツのダンス・キャピタルだったからね。ベルリンの壁が崩壊してからは、フランクフルトとベルリンのライヴァル関係がしばらく続いた。もちろん、その後ベルリンが勝つことになるわけだけども...... 90年代前半はほぼ同等のレヴェルだった。その競争意識が、音楽にもプラスに働いたと思う。

なるほど。そういう環境の中で、あなたのDJスタイルも築き上げられていったわけですね。あなたも当時のジェフのようにターンテーブル三台を操ることで知られていましたよね?

ハイコ:そうだね。かつては、三台使ってレコード1枚あたり2分くらいだけ使ってどんどんレイヤーしていくスタイルをやっていたけど、いま(のレコードで)同じことをやっても上手くいかない。ただテクニックを見せびらかすだけみたいになって、せわしなくて聴いている方は楽しめないと思うんだ。お客さんも世代交代しているからね。でも三台使ってプレイするのは楽しいから、またやろうと思っている。新しい使い方を考えているところだ。一時期は、なるべく展開や要素を削ってどこまでできるか、というプレイに挑戦していたんだけど、それも退屈になってしまって。だって、二台だけだと、あいだの5分間くらいやることがなくて(笑)。
 いまはSeratoを使ってプレイしているけど、Seratoが面白いのはレコードの好きな部分を好きなようにループできるところ。この機能を使うと、レコードとはかなり違ったことが出来る。また、Seratoの場合、曲の途中で停止しても、また好きな瞬間から狂いなく再生することができるから、曲の抜き差しが正確に、より自由に出来るようになった。レコードだと、ミュートできても曲の尺は変えられないから終わるまでに何とかしなければいけないというプレッシャーがある。でも、Seratoなら、好きなだけブレイクをホールドして、好きなタイミングで曲を戻すことが出来る。Seratoのおかげで、アレンジメントの幅が広がったと思うよ。
 いまはCDJ三台と、それぞれに効果音などを入れたUSBスティックも使ってさらに自由な組み合わせが出来るようにしている。だから単なるDJというよりは、サンプラーを取り入れているようなプレイだね。「遊び」の幅が広がった。今はブースで暇を持て余すこともなくなったよ(笑)。またDJすることが楽しくなっている。一時期は楽しめなくなっていたのも事実なんだけど、今は自分でも楽しめる新しいプレイの仕方を確立しつつある。

私は個人的にヴァイナルDJを好むことが多く、とくにテクノやハウスに関してはラップトップDJに感心することは滅多にないんですが、あなたのプレイは別格だと思いました。レコードでやっているようなライヴ感というか、臨場感がありましたし、長い経験を感じさせる確かなスキルがわかりました。

ハイコ:わかるよ、僕も同じだから。僕はたしかにラップトップを使っているけど、間違いなくDJをしているからね、そこが違うんだと思う。僕はちゃんと曲を「触っている」。それが鍵なんだよ。こういうシステムを使うと、オートシンク(自動的にピッチを合わせる機能)も簡単に出来るけど、それをやってしまうとDJの醍醐味がなくなってしまう。自分の手で合わせるからこそ、そこにエネルギーが生まれるんだ。ソフトウェアでプログラムされてしまっていると、そのエネルギーがない。完璧にシンクされた曲を次々と並べていくなんて、簡単過ぎるし何の面白味もない。やっている方もつまらない。その場の思いつきで新しいことを試していくことが面白いんだからさ。僕はフォーマットではなく音楽を重視するから、何を使ってプレイしているかはこだわらない。音源がCDでもラップトップでも別にいいと思う。それを使って何をするか、が問題なんだよ。いまはラップトップを使うのが面白いから、しばらく使ってみるつもりだ。

先ほどフランクフルトとベルリンがライヴァル関係にあって、いまはベルリンがその競争に勝ってテクノ・キャピタルになっているという話が出ましたが、その両方を見て来たあなたはベルリンの現状をどう受け止めていますか? ここ数年でテクノはさらにリヴァイヴァルした印象がありますけど?

ハイコ:とくに何とも思わないな(笑)。自分が幸運だとは思うけれどね。ごく自然なことだと思う。街やそのシーンの勢いというのは移り変わりがあり、より活気があるところに人が集まって来るのは自然なこと。テクノのシーンに関わりたいなら、ベルリンにはそういう仕事がたくさんあるし、その上観光客も大勢やってくる。ここにいればいろんな人に会えるし、活動の場を作っていける。レッド・ホット・チリ・ペッパーズからジョージ・クリントンまで、みんなやって来るから観ることが出来る。生活費も安いしね、これほど条件が整っていて、ニッチなアーティストにまで機会が与えられている街は他にない。これはテクノに限ったことではないし、他のジャンルも、演劇やアートに関しても同じだ。さらにベルリンはとてもリラックスしていて競争がない。周りを蹴落とそうとするような人はいない。そしてとてもリベラルだね。僕は99年にベルリンに移って来たけど、一度も後悔したことはないよ!

 

【来日出演情報】
8/11 FREEDOMMUNE 0 <ZERO> @ 幕張メッセ
8/17 AFTER FREEDOMMUNE +1<PLUS ONE> @ 東京eleven
8/18 CIRCUS SHOW CASE @ 大阪Circus

【リリース情報】
Jam & Spoon - Follow Me (Heiko Laux SloDub)
https://www.beatport.com/release/follow-me!-remixes-2012/924547
発売中

Sterac - Thera 1.0 (Newly Assembled by Heiko Laux) of "The Secret Life on Machines Remixes" on 100% Pure vinyl/digi with Ricardo Villalobos, Joris Voorn, Vince Watson, 2000 and One, Joel Mull, ...
2012年8月発売予定

Rocco Caine - Grouch (Heiko Laux & Diego Hostettlers 29 Mix) (12"/digi Drumcode)
近日発売予定

Heiko Laux & Diego Hostettler - Jack Up Girl (12"/digi on Christian Smith's Tronic TR89)
近日発売予定

Heiko Laux - Re-Televised Remixed (12"/digi on Thema Records NYC)
original and remixes by Lucy, Donor/Truss
近日発売予定

Heiko Laux & Luke - Bleek (on Sinister, 4-tracker V/A with P?r Grindvik, Jonas Kopp & Dustin Zahn)
2012年秋発売予定

Mark Broom & Mihalis Safras - Barabas (Heiko Laux Remix)
other remixers: Slam
近日発売予定

 ジョン・フルシアンテは昨日のアーティストではない。先日リリースされた5曲入りEP『レター・レファー』は、多くのファンを驚かせたはずである。しかしもしこの作品が往年のファンの手にしかわたっていないのならば、非常に残念な事態だ。フルシアンテはその外に出るためにあれほどの名声を浴びるバンド、レッド・ホット・チリ・ペッパーズを脱け、彼にただマイ・ギター・ヒーローたることを望む人々を振り切ったのだから......! 

 そこからはシンセが聴こえ、ドラムンベースが聴こえ、ラップがきこえてくる。ウータン・クラン率いるRZAをはじめとして、ほぼ全編をラップに縁どられながら、ボーズ・オブ・カナダなどを思わせるリリカルなエレクトロニカが彼の詩情を延長していき、やがてギターに接続される瞬間は、彼がただ異種配合によって新しいキャリアを構築しようとしたのではなく、自分なりに追いかけてきた音楽性の蓄積をきちんと表出しようとしていることがうかがわれる。
 
 そもそも前作『ザ・エンピリアン』の時期に、すでに彼はアシッド・ハウスやエレクトロニック・ミュージックにしか興味がないという旨の発言をしていたようだ。ブレイクコアの雄、あのヴェネチアン・スネアーズやクリス・マクドナルドとも新たなプロジェクトを立ち上げている。今作までには、デュラン・デュランやウィーヴ、ザ・ライクのメンバーも参加するLAのトライバルなアート・サイケ・プロジェクト、スワヒリ・ブロンドでギターを弾いたり、ガレージ・パンクではなくあくまで王道なロック・フォーマットのなかに繊細で物憂げな叙情や知性をひらめかせる女子バンド、ウォーペイントの作品を再アレンジしたりと、つねにチャンネルを現在のリアルなシーンに合わせてきた。

 さて9月12日にはアルバム本編である『PBXファニキュラー・インタグリオ・ゾーン』がリリースされ、そうしたフルシアンテの取り組みの全貌が明らかになる。ある意味では自分に求められている役割を裏切って制作したエレクトロニック・ミュージック作品であり、アルバムでこれまでのブルージーなギター・ナンバーが戻ってくることはない。おそるべき挑戦がつまったこの意欲作を楽しみに待とう。

ジョン・フルシアンテ - レター・レファー

ジョン・フルシアンテ - レター・レファー
発売中

Amazon
1. In Your Eyes
2. 909 Day
3. GLOWE
4. FM
5. In My Light

ジョン・フルシアンテ - レター・レファー

ジョン・フルシアンテ -
PBXファニキュラー・インタグリオ・ゾーン
2012.09.12発売
Amazon
1. Intro/Sabam
2. Hear Say
3. Bike
4. Ratiug
5. Guitar
6. Mistakes
7. Uprane
8. Sam
9. Sum
10. Ratiug(acapella version) -bonus track-
11. Walls and Doors -bonus track-

interview with Purity Ring - ele-king


Purity Ring - Shrines
4AD/ホステス

Review Amazon iTunes

 ピュリティ・リングは、いわゆるR&Bのシーンにとっては招かれざる客かもしれないが、その外にあってあたらしいR&Bをかたちづくる存在である。ウイークエンド、ナスカ・ラインズ、インク、アヴァ・ルナ、ファースト・パーソン・シューター......そのようなアーティストはいま次々と現れてきつつある。招かれざる客だというのは、たとえば〈4AD〉や〈ロー〉、〈レフス〉、〈メキシカン・サマー〉といったレーベルからリリースされているということだ。彼らはチルウェイヴや昨今のインディ・ダンス・ブームとつよく結びついた流れのなかから派生してきている。ジャケットからして「R&B」的ではないが、ジェイムス・ブレイクが鮮やかにシーンを縫い合わせたように、彼らもそれぞれR&Bとはべつの個性やルーツからそれへと接近し、思い思いの世界を構築している。

 コリン・ロディックとミーガン・ジェイムズによるこのカナダの男女デュオは、ホーリー・アザーやセーラムのようなダークなウィッチハウスを、ドリーミーなシンセ・ポップとして噛みくだき、R&Bやヒップホップのリズムでくびれのある音楽に仕上げた。ドーリーでエアリーなヴォーカルは、なみいるディーヴァとはイメージにおいてかけ離れるが、やっていることはそう変わらない。ポップスとしてイノヴェイティヴであり、リリース元の〈4AD〉とは音楽性から言ってもとてもフィットしている。
 
 もとはふたりともゴブル・ゴブルというエクスペリメンタルなエレクトロニック・バンドのメンバーだったようだ。いつしか単独での楽曲制作に目覚めたコリン・ロディックが本ユニットを始動させた。90年代のR&Bに大きな影響を受けたという彼はおもにトラック作りを、読書や物を書くのを好むというミーガン・ジェイムズは詞とヴォーカルを担当し、互いのアイディアは遠距離でやりとりされている。

 今回取材できたのはコリンひとりだったが、とてもおっとりとした人柄である。オンラインで公開された"アンガースド"1曲のために、彼らはまたたく間に大きな注目を浴びるようになったわけだが、そんなに突っ込んだ音楽リスナーというふうでもないらしく、のんびりと、正直に回答してくれた。たくさんの姉たちと少年時代に聴いた音楽が、しぜんと「にじみでてきた」という彼のトラックは、機材やソフトの機能をたのしみ、工夫することで生まれてきたもののようだ。こうした態度もとてもいまらしい。

自分自身もそういうD.I.Yな環境に身をおいていると思ってて、ミーガンなんかも服はほとんど手作りしちゃうんだ。僕の今日のこのズボンだってそうだよ! 基本的には独学なんだよ。ていうか、実際のところ自分でも何をどうしたらああなったのかよくわかってないんだよね。

フジロックが終了したところですが、どうでした? あなたがたはとても凝ったライヴをされるとうかがっています。

コリン:日本は初めてだったし、あんなに大勢の前でやれるなんてね! すくなくとも思ったよりぜんぜんたくさんのオーディエンスだったよ。とっても楽しかった。フェスティヴァル自体もいままで行ったなかでも最高にきれいな、すばらしいものだったし。

ステージに立たれたのはふたり? 機材とヴォーカルっていうセットですか。

コリン:そうだね。ミーガンが歌って、たまに太鼓もたたくんだけど、僕が使ってる楽器っていうのは手作りで、ランタン型のものがたくさんぶら下がってて、それを叩くことでシンセサイザーの音を再現するというものなんだけど......

名前はあります?

コリン:いや、ないんだ(笑)。

えー。電子楽器ってことになりますか。音階が出せるような?

コリン:そうだなあ......。いちおう楽器です。よりクリエイティヴになれる電子楽器ってところかな。音階は、出せるよ! ここに移し出したシンセの音はぜんぶ出せるんだ。

へえー。イクイップメントについてもうすこし教えてもらえます?

コリン:あとはMIDIコントローラーが置いてあって、パッドが付いてるやつだけど、それでミーガンが歌ってるのをその場でサンプリングして切り貼りしたり、ちょっと声の質を変えてみたり、分断させたり。それから、繭型の照明を20個くらい用意して、それを僕の楽器と連結させて音といっしょにライティングが変わるような、そういうものを作って工夫してみたんだ。見た目も演出するような感じでさ、ミーガンの声なんかにもあわせて変化していくんです。

ああ、それはすごい。シンセ好きなんですね。そういうアイディアとか技術はどこかで学んだものなんですか?

コリン:基本的には独学なんだよ。ていうか、実際のところ自分でも何をどうしたらああなったのかよくわかってないんだよね。けどこんなパフォーマンスをしたいっていうイメージがあって、そのためにどういう楽器があったらいいのかっていう必要から、なんとなく自分でできるなりに作っちゃったものだから、いまだにほんとに思い通りのことができない部分があるんだけどね。

すごくD.I.Y.なかたちですよね。なにか、あなたのまわりにそうした雰囲気の仲間やシーンがあったりするわけではないんでしょうか。

コリン:そうなんだよね。前のバンド(ゴブル・ゴブル)もそうだったんだけど、自分自身もそういうD.I.Yな環境に身をおいていると思ってて、ミーガンなんかも服はほとんど手作りしちゃうんだ。僕の今日のこのズボンだってそうだよ(※ステッチのかわいらしい、おちついた黄色のズボンでした)! ステージ衣装も彼女がやってくれてるし、それを含めて、僕たちのやってることはなんでもD.I.Y.だね。

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水といえばミーガンだよ。ミーガンはすごく水に惹かれるらしくて、とにかくなにかというと泳ぎに行くんだよね。どこに行っても、まず訊くのが「どこに行けば泳げる?」ってことなんだよ(笑)。

PVとかはかなり凝ったクオリティですよね。ブルーワーという方の監督で"ベリスピーク"のヴィデオなんかは、おふたりがアイディアなどを出しているんですか?

コリン:あれは、ミーガンと僕とがある程度のアイディアを提示して、それを何人かの監督からプレゼンしてもらって、選んだものなんだ。ブルーワーさんはいちばんこっちの言うことを変えてしまった人なんだよね。唯一のこされていたのが、もともとの僕らの案のなかのヴァイヴというか雰囲気だけって感じで、あとはまったくかけ離れたものにしてしまってあって。でもそこが逆にいいと思って、彼にきめたんだ。

あの暗くて模糊とした水底の造形もよかったですし、気味の悪いものがまとわりついてくる感じも、あなたがたの音楽を視覚的にうまく延長していたと思います。アーティスト写真にも水を用いたものがありますよね。こうしたあいまいな、水なんかの表象を好んで用いるのはなぜなんでしょう?

コリン:ほかにどこに水をつかってたっけ?

いや、このアー写とか......(アーティスト資料などに用いられている写真を示す)

コリン:あはは、ほんとだ! そのとおりだよ。......ええと、"ベリスピーク"はたぶん僕らの音楽のなかでもいちばんダークなもののひとつで、攻撃的な響きのものだったなと思う。その意味で、ああいう暗い水底の雰囲気はしっくりきていたかもしれないよね。なにかつかみどころのない暗さ。でも、水といえばミーガンだよ。ミーガンはすごく水に惹かれるらしくて、とにかくなにかというと泳ぎに行くんだよね。どこに行っても、まず訊くのが「どこに行けば泳げる?」ってことなんだよ(笑)。セイリングも好きだよね。とにかく水にとりつかれているらしい(笑)。

ははは、奇妙ですね! あなたはクラムス・カジノをフェイヴァリットに挙げておられたと思うんですが、クラムス・カジノにも少し似たような感覚があると思うんですね。スクリューとは言わないまでも、アッパーなテンションやテンポを生まないことにはなにか理由があるんですか?

コリン:ええと、先に言っておくと、クラムス・カジノはすごい人だと思うし、音楽も大好きなんだけど、でもじつはそう影響を受けたというほどにはよく知らないんだ。でも、たしかにそうだね。彼のほうが、抑えがきいているという意味ではずっと上だし、うまくやっているとは思うけど。僕らの音楽はときとして跳ね上がるし、わりと昂揚したりするって自分では思ってるんだ。こうして人と話していると、自分がこうしたいって思って作ったものとぜんぜんちがう印象を持たれていたりして、おもしろいものだよね。

あなたのダークでドリーミーなエレクトロニクスは、ウィッチハウスとか、もっとひろくヒプナゴジック・ポップと呼ばれるような現代的な流れをいくつも巻き込みながら、新しい世代のR&Bにも接近していると思います。こうした流れのひとつひとつは、わりと無意識に目指されたものなんですか? 意識的に追っているものはあるのでしょうか。

コリン:どうなんだろう、ちがうもの、あたらしいものをつくりたいという気持ちはつねにあるんだけどね。いまあるものの最後になって終わりたくない、って。でもなにかの流れを意識的にとらえて組み立てているかっていえば、それはなんとも言えないな。エレクトロニック系の音楽は、ドラムがあってベースがあって......っていう型にはまらないで、とても自由につくっていけるものだから、どんどん新しいことをやるのが大事だとは思ってる。機材が提供してくれるサウンドのパレットが無限にあるわけだから。でも異なったもの同士を組み合わせるっていうような部分は、たぶん無意識にやってるかな。とくに、アタマのふたつ、はじめて書いた曲のふたつなんかは、何にも考えないで作ったと思うよ。できちゃった、って感じの曲なんだ。あらためて聴いてみれば、ああ、これはここから来てたんだなっていう説明はつくと思うんだけどね。でもいまの僕にそのへんを分析することはできないかな。

大きな影響として90年代のR&Bについても言及されていますが、そのころって、まだすごく幼いですよね? リアルな記憶とかはあるんでしょうか?

コリン:ちょうど僕は90年生まれだよ。だから、99年は10歳だ。99年までが90年代だからね! 姉が4人いるんだけど、10歳くらいのころは、ラジオなんかをいちばん聴いてた時期で、姉たちといっしょに、ポップスからR&Bから、とにかくそのときはやっているものをガンガン耳にしてたんだ。僕自身はそんなに興味があったわけじゃなくて、いつもいっしょにいたから聴かされてたって感じだね。もうちょっと大きくなって自分で音楽を選ぶようになっていくと、メイン・ストリームから外れるものも聴くようになるんだけどね。でもいまこうして音楽をつくるようになってみると、あのラジオを聴いてたころの影響っていうのがどんどんにじみ出てくるものなんだなって思うよ。当時聴いていたときの、そのままのフィーリングがよみがえってくる感じがあるよ。

ああ、「にじみ出てくる」ねえ。なるほど。ところで、ピュリティ・リングを聴いて「踊れるグライムス」って評した人がいるんですけど、カナダからみたグライムスの活躍ていうのはどんなふうに見えているんでしょう? カナダのシーンに与えた影響はありますか。

コリン:えっ、本当~(笑)。僕は逆にグライムスのほうが踊れると思うなあ。

あははっ。

コリン:僕らのほうがスローだし、スペーシーで、すき間も多いし。リズムも一定だしね。クレアは友だちだよ。地元モントリオールの仲間だし、共通の友だちも多いんだ。彼女はやっぱり、その後カナダのアーティストが世界に出ていくきっかけになってくれたような人だなって思うよ。モントリオールの、僕らみたいな音楽をやっているアーティストたちが注目されたのも、彼女からはじまっている。けっこうそれはクールなことだよね。

シングルが〈ファット・ポッサム〉から出ていたりするのはどういうきっかけなんですか? ユース・ラグーンなんかもいますけど、どちらかというとガレージ・ロックなんかの印象のつよいレーベルですよね。

コリン:当時べつになんの契約もない状態だったから、自費でシングルでも出そうかって思ってたところに〈ファット・ポッサム〉から連絡があったんだ。だから渡りに船で契約したんだけど、たしかに僕らはあのレーベルのなかでは浮いてたよね。〈4AD〉のほうが合ってるって僕でも思うよ(笑)。でもあの段階では〈4AD〉なんてとても。彼らが僕らに気づいてくれるのは、そのずっとあとのことになるね。

ピュリティ・リングって名前はどんな意味でつけたんですか? ふたりでそう名乗るのは意味深にも思われますが。

コリン:いや......とくに意味はないんだ(笑)。でも響きはいいし、覚えやすいし、何年か前からバンドかなにかをやるならこの名前にしようって思ってたよ。ちょうどミーガンといっしょにやることになったから、じゃあそれを、って感じで。なんとなく、つくりたいと思う音楽の雰囲気にも合ってたしね。

あれれ、そうなんですか。じゃあ最後に、先に帰ってしまった相棒にひとことお願いします。

コリン:いやあ、とくにないよ、ノー・コメント(笑)。だけどおもしろいね。僕がいま話してたことがぜんぶ日本語になるわけだから、あとから見たって写真くらいしかわからないんだね、僕は。

 7/31火曜日の朝、突然やってきた知らせ。「オリヴィア・トレマ・コントロールのビル・ドスが逝去」
 アセンスのローカル新聞フラッグ・ポールのゲイブ・ヴォディッカがいち早くツイートすると、『ブルックリン・ヴィーガン』も「これが嘘であって欲しい」と祈りながら、アップデートをはじめた。
 そのツイートから数時間後、オリヴィア・トレマ・コントロールのオフィシャル・サイトが、「We are devastated by the loss of our brother Bill doss. We are at a loss for words.(僕達の兄弟分、ビル・ドスの逝去に打ちひしがれ、言葉を失っています)」とコメントを載せる。チャンクレットなど、他のサイトでも、どんどんアップデートがはじまり、真実として受け止めるしかなかった。

 私もその日は、何も手に付かなかったが、彼との思い出を少しでもシェア出来たらとここに書いて見る。

 オリヴィア・トレマ・コントロールを初めて知ったのは、私がLAにいた1996年のことだった。その頃、アップルズ・イン・ステレオの『ファン・トリック・ノイズメイカー』が日本のトラットリアからリリースされ、私も大好きで聴いていたので、彼らのショーに行った。そのときの対バンがミュージック・テープスとオリヴィア・トレマ・コントロールで、アップルズ・イン・ステレオを見に行ったにも関わらず、私はこのふたつの対バンにいままでにない感動を覚えた。これがきっかけで、日本ではまだ知られていない、こういった素敵なアメリカのインディ・バンドを紹介していこうとレコード・レーベルをはじめた。彼らとの出会いで、自分の進んで行く道を確認したのだ。

 彼らとたちまち友だちになった私は、彼らの住むアセンスに滞在することになる。いまでも1年にいちどは里帰りしている。

 私が住んでいたのは、ビルのバンド・メイトで、エレファント6の中心人物のウィルの家だった。そこでは毎日のようにオリヴィア・トレマ・コントロールの練習がおこなわれていた。ビルはリーダー的役割で、まわりに気を使い、心優しく、まだ英語もろくにしゃべれなかった私の面倒を見てくれた。オリヴィアにインタビューするときは彼が答えてくれた。初来日したときに、みんなで渋谷を散策したのが、つい最近のように思い出される。

 彼らは2010年再結成し、先月6月のノースサイド・フェスティヴァルでNYでプレイした。そのとき久々にビルと会って、これからのオリヴィアの活動などについて話した。「ヨーロッパは、すでに決まっているから、次は日本にも行きたいね。この(ノースサイド)次は、シカゴのピッチフォーク・フェスだから、来るなら言ってね。ゲストにいれるから」とウィンクされたのが、最後の会話になった。
 エレファント6に関する記事をまとめようと、彼用のインタヴューもすでに送り、会ったときに「インタヴュー返すの遅れてゴメン! ツアーから帰ったらすぐに返すよ」と言われたのに、返って来ないインタヴューになった。

 彼のお葬式は8/4(土曜日)アセンスの音楽会場である40ワットでおこなわれる。オリヴィアも良くプレイした馴染み深い場所だ。彼の家族は、地元の音楽家支援サイトに寄付ページ(nuci's place)を設けている。彼にお花、愛を贈りたい人は、こちらへ。 https://www.nuci.org/help/donate-online/

 ビルは、クリアな声でハーモニーを大事にする、素晴らしいシンガーだった。暫くはオリヴィア・トレマばかりを聴いてしまうんだろう。
https://m.pitchfork.com/features/afterword/8908-bill-doss/
(写真の下の文章の最後の"here"をクリックすると、ビルの素晴らしい作品集が聞ける)

 最初にアッタチした写真(01/02)は、1996年に彼らを始めてLAで見た時に撮った物。写真ケースに入れたら、くっついて離れずNYに移っても、ずっと私の部屋に飾られている。その他、アセンス時代の思い入れのある写真。書きかけのUS POP LIFE本を仕上げなければ。

 レスト・イン・ピース、ビル
 安らかにお眠り下さい。

 Rest in peace Bill Doss
 8/1/2012 Yoko Sawai

FREE DOMMUNE - ele-king

 みなさんご存じのように、来週末の8月11日には幕張メッセでFREEDOMMUNE0<ZERO> のリターン・マッチが開かれます。何でしょうか、宇川直宏の根性というか、精神力というか、ガッツというか、とにかく尋常なパワーではないことは事実ですよね。人並みはずれたエネルギーには、本当に敬服します。まったく恐ろしい男です。

 屋内でやるので、天候によって中止になることもないでしょう。昨年のことが10年前のことのようにい思われますが、あのとき泣いた人も安心して行くことができます。良かった、良かった。
 やっぱりどんなフェスティヴァルでも「第一回目」というのは特別な楽しみがあり、特別な緊張感があるものです。
 さてさて、どんなことになるのやら......

 開演前に「FREE ele-king TV Vol.21」をやることになりました。早い時間ですが、冷蔵庫で冷やしたビールをぐいっとやりながら、笑ってやってください。よろしくお願いします。それでは11日にお会いしましょう。

●17:00-18:00「FREE ele-king TV Vol.21」
"FREEDOMMUNE0<ZERO> A NEW ZERO開会宣言"
出演:野田努(「ele-king」編集長)、三田格(音楽評論家)、
松村正人(元STUDIO VOICE編集長)、磯部涼(音楽評論家) 、宇川直宏(DOMMUNE主宰)

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