ポストパンク時代に生まれた悲しい歌は、日本では「ネオアコ」という訳語によって普及した。悲しみも一緒に普及しているのならいいのだが。
ポストパンク時代の彼らの悲しい歌は、パンクの残滓の色濃い当時のポップの基準では大人しすぎたのだろうか、あるスジからは「軽薄だ」とも言われたそうで、そもそも自分たちのルーツは70年代の音楽にあったからだとガーディアンの取材に答えているのを読んだことがある。
「彼ら」というのは、ベン・ワットとトレイシー・ソーン。ふたりは、出会ってから28年後(2009年)に結婚した。周知のように、ベン&トレイシーは1982年からともにエヴリシング・バット・ザ・ガール(EBTG)として活動している。
ワットの父、トミー・ワットは、グラスゴーの労働者階級出身で、ジャズ・バンドのリーダーだった。60年代以降は、ジャズのマーケットは、ポップ音楽に駆逐されるものの、トミー・ワットは、1957年にはアイヴァー・ノヴェロ賞(英国作曲家協会の優れた作曲家への表彰)を受賞したほどの人物だったそうだ。イングランド最大のロマ(ジプシー)家族に属していた曾祖父に持つ母親は、TVのインタヴューアでありコラムニストだった。ベン・ワットは、そんな彼のボヘミアン的な父と母親についての読み応えのある物語を著したことで、今年の初頭、母国のメディアに大きく取り上げられている。
l Ben Watt Hendra ホステス |
かように、なにかと話題が続いての、ベン・ワットの31年ぶりのセカンド・ソロ・アルバムである。
31年前のファースト・アルバム『ノース・マリン・ドライヴ』は、「ポストパンク時代にぞんざいに扱われたクラシックである」と、ガーディアンは書いているが、しかし、日本では、そのまったく逆で、ポストパンク時代のベストに挙げる人が珍しくないほど評価され、愛されてきた。むしろ、『ノース・マリン・ドライヴ』の印象が強すぎるため、90年代の途中からクラブ・ミュージックにアプローチした近年のワットのほうが忘れられているのではないかと思われるほどだ。『ノース・マリン・ドライヴ』は「ネオアコの金字塔」であり、ベン・ワットとはその作者なのだ。
そういう意味では、『ヘンドラ』は、ポストパンク時代を音楽、ことUKの音楽とともに過ごした人たち(僕もそのひとりだ)の多くにとって、たぶん、大きな出来事である。メランコリーは、ずっと消えないのだから。
たしかに『ノース・マリン・ドライヴ』にはとても美しいところがたくさんあると思うし、誇りに思っているけど、同時にどこか……なんていうか、「そんなに良くないな」と思う部分もあるんだよ(笑)。とくに歌詞はとっても繊細で無知なところがある。
■『ノース・マリン・ドライヴ』は、日本では「ネオアコ」という括りで、オレンジ・ジュースやアズティック・カメラ、トレイシー・ソーンのソロなどともに、いまでも絶大な支持があることをご存じですか?
ベン・ワット(BW):うん、知っているよ。最後に日本に行ったのは4~5年前で、そのときはDJとして行ったけど、とても良い時間を過ごしたよ。すごく良く面倒を見てもらったし、ギグも素晴らしいものだった。でもその前に行ったのは90年代、『Walking Wounded』のツアーのときだったと思うな、時間が経ちすぎてあまりよく覚えてはいないんだけど……
■いつか自分のソロを発表したいという気持ちは、この30年間、頭のどこかにあったのでしょうか?
BW:ずっと長い間、絶えず頭の片隅にはあったんだ。その頭のなかの(ソロ・アルバムを作りたいという)声はときによって大きくなったり、小さくなったりはしたけれどね。何しろ前のアルバム(『ノース・マリン・ドライヴ』)を作ったときはまだ19歳か20歳で、その時点で自分自身の小規模なキャリアがあったけど、その後に違う道を歩むことになったんだ──結果的に、トレイシーと一緒に20年やって、それからエレクトロニック・ミュージックを10年やった。
でも、ここ2年くらいのあいだにその頭のなかの声が大きくなってきたんだ。まずは自分の本が書きたくなって、最近出版された僕の両親についての本『Romany and Tom』を書いた。そしてその後、今度は自分の曲が書きたいと思ったんだ。その時点では書いた曲は全然なかったんだよ、ノートに未発表の曲を書き溜めたりはしていなかったからさ。それでこのアルバム『ヘンドラ』のために曲を書きたいっていう強い欲求が出てきて、去年いちから曲を書きはじめたよ。
■それが「いま」リリースになったことにはどんな理由があるのでしょう?
BW:それは自分でも知りたいね(笑)。なんでだろう、自分でもわからないな。あまりいろいろ自問したりはしないんだよ。自分の直観に従っているだけだからさ。たぶんDJとしての活動やレーベル運営に停滞を感じたんだと思う、それらにかなり時間を取られていたし、他の人をサポートするのにほとんどの時間を使っていて、自分自身がクリエイティヴなことをできていないように感じていたんだ。だから自分自身のクリエイティヴな活動を再開したかったのさ。その時点では何をするのかはっきりわかってはいなかったんだけどね。とりあえず本が書きたいことはわかっていたけど、その後にソロアルバムを作ることになるとはそのときは思っていなかったから、自分でも驚きだよ。
通訳:そこで曲を書きはじめた直接のきっかけはなんだったのでしょう?
BW:ちょうど本を書き終わったとき、その本を読んでもらうのを楽しみにしていた、僕の姉が突然亡くなったんだ。すごくショックで、しばらくは放心状態だった。そして去年の1月頃、ギターを持って座ってみたときに、新しい曲を書きたいって気付いたんだよ。
■あなたの「Summer Into Winter」(1982年)と『ノース・マリン・ドライヴ』(1983年)は、日本ではクラシックな作品として位置づけられていますが、やはり、最初のアルバムで完成された作品を作ってしまうと、次のアルバムが出しにくくなるものですか?
BW:そんなこともないよ、僕自身はとくに「完成された」アルバムだとも思っていないしね(笑)。だって自分では絶えずどこを直せばより良いものを作れるか、改善点を探しているものだしさ。自分で作ったものに対して、もっと違うやり方でやれば良かったとか、どこが良くないかを探して、その欠点を直そうと努めるのが普通だよ。
たしかに『ノース・マリン・ドライヴ』にはとても美しいところがたくさんあると思うし、誇りに思っているけど、同時にどこか……なんていうか、「そんなに良くないな」と思う部分もあるんだよ(笑)。とくに歌詞はとっても繊細で無知なところがあるし、あのアルバムに入っている曲はどれもイノセンスから生まれたものだと感じるよ。そしてその点、新しいアルバムは経験から生まれた曲だといえるね。
もっと、メランコリックで綺麗なものだったんだ。でもそこによりエッジを加えて、ただ美しい音だけではないものにしたかった。もっと泥臭い、荒さのあるものにしたかったんだ。
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■『ヘンドラ』はシンプルなフォーク・ロック・アルバムだと思います。 ジャズやボサノヴァでもありません。『ノース・マリン・ドライヴ』という30年前の作品と比較するのは無茶だとは思いますが、『ヘンドラ』のシンプルなフォーク・ロックという方向性について教えて下さい。
BW:とにかく自分自身に自然に降りてくるようなレコードが作りたかったんだ。あまりプロダクション面のことを考えたり、エンジニアリングやスタジオについてのことを考えたくはなかった。だからユアン・ピアーソンにそういう部分を一任した。僕自身はただギターを持って曲を書いて、自分が自然に感じる方向へ向かいたかった。それにおそらく、10代の頃の自分に影響を与えたものとの繋がりみたいなものをどこかで意識していたのかもしれない、トレイシーと会う前の自分自身にね。そういうものって永遠に消えないと思うんだ。14歳や15歳の頃、ジョン・マーティンやニール・ヤング、ブライアン・イーノ、ニック・ドレイクとかの音楽をよく聴いていて、彼らの音楽は僕のなかにすごく強い印象を与えた。そしてたぶん今回、そういった音楽の影響が浮かび上がってきたのかもしれない。
■原点回帰したというか、1960年代のフォーク・ロックに立ち返ったと 言ってもいいのでしょうか?
BW:わからないな、それは他の人が言うことであって、僕が決めるわけじゃないよ。このアルバムを作るとき、いま挙げたような自分に影響を与えた音楽を振り返っていた部分はあるかもしれないけど。そもそも曲を書いている時点ではまだそれらの曲は発展途上で、自分でもどういう方向性のものになるかはわからないんだ。今回の作曲中には、ギターを普段とは違うチューニングにした。だからそれが曲に独特の、美しく物憂げな、印象主義的な音を与えていると思う。でも同時に歌詞はかなりダークなものなんだ。だから、音楽自体にもよりダークなエッジを加えたいと思った。それでバーナード・バトラーに声をかけたんだ、彼のギターにはもっとブルーズでロックな要素があるからね。もっとディストーションのかかった音さ。それが今回のアルバムのバランスに重要だったんだ。
通訳:バーナード・バトラーが参加する前のアルバムのサウンドはもっと明るいものだったということですか?
BW:いや、明るいとかポジティヴとは僕は言わないかな(笑)。でももっと、メランコリックで綺麗なものだったんだ。でもそこによりエッジを加えて、ただ美しい音だけではないものにしたかった。もっと泥臭い、荒さのあるものにしたかったんだ、バーナードのギターはそういうサウンドだからね。ミック・ロンソンがデヴィッド・ボウイと一緒にプレイしたのと同じようなことさ。
■あなたは、主に70年代の音楽に影響を受けたという話を聞いたことがありますが、デイヴ・ギルモアは、ひいてはピンク・フロイド は、あなたにとってどんな存在なのでしょうか?
BW:彼とは本当に偶然に、アルバムを作りはじめる前に出会った。パーティで紹介されて、彼の自宅に行って、彼の作ったデモを聴かないかって訊かれたときには驚いたよ。そこでイエスと返事をして、彼の家で1日過ごして、意気投合した。
彼の音楽を聴いて、音楽についての話をしたりランチを一緒にした2週間後だった。僕がスタジオで“The Levels”のレコーディングをしていたとき、彼のギターの音がこの曲にぴったりなんじゃないかと思った。それで彼に電話でこの曲のためにギターを弾いてくれないか訊いたら、彼の返事は「イエス」だった。そんなシンプルな理由さ。
正直言うと、僕は特別ピンク・フロイドのファンってわけじゃないんだ。彼のギタープレイが好きなんだよ。それに彼の歌声もね。彼の歌い方って、とてもイギリス人っぽいんだ、アメリカンな感じとは対極にある。だから、ピンク・フロイドのデイヴのファンだったというより、彼自身が好きなんだ。
■先ほど、メランコリックと言いましたが、たしかに『ノース・マリン・ドライヴ』は、とてもメランコリーな作品です。あのメランコリーについて、いまいちど、あなたなりに解説していだけないでしょうか?
BW:うーん、とくに解説することはないよ……ただ自分に正直な表現をしているだけさ。自分の頭の中に聴こえるものをそのまま曲に書いているんだ。僕のやる事に特別な技巧やトリックはなくて、自分の感じる物事をストレートに表現しているだけだよ。
通訳:そういったメランコリックな感覚を持つようになった要因や環境など、無意識下での影響などは思い当たりますか?
BW:うーん……(沈黙)……思い当たらない(笑)。さっきも言ったように、自分の音楽がどこから来ているかとか、あまり自問をしないんだ。ただ直感に従って曲を書こうとしているだけさ。子供の頃から、そういう風に音楽が「聴こえる」なかで育ってきたし、曲を書くときもそういう方法で書きたい。『ノース・マリン・ドライヴ』の曲なんかは、10代特有の怒りだったり、若いラヴソングだったり、どれも若い頃には誰でも経験する典型的な物事についてさ。ただそれが僕なりの形で出てきたっていうだけだから、それを解説するっていうのは難しいな。あまりそこを深く考えたくないというか、それに名前をつけてしまいたくはないんだ。
■では、なぜデビュー当時のあなたやトレーシー・ソーンはアコースティックな響きの音楽性にこだわったのでしょう?
BW:わからないな、本当に自分でも知らないんだよ(笑)。自然といろいろなことをやりながら成長していくのさ、音楽を聴いてその影響を吸収して、自分のなかで音楽が聴こえてきて、それが座って曲を書き出すと出てくるんだ。もっと詳細を話せたらいいんだろうけど。
■他のバンドからの影響はありましたか? オレンジ・ジュースとか?
BW:うーん、僕が思うには、トレイシーは若い頃に彼女の兄が持っていた70年代初期のロックなんかのレコードを聴いたり、父親のジャズだったり、その後には自分でディスコやパティ・スミス、アンダートーンズ、バズコックス、それにオレンジ・ジュースなんかを発見して聴いてきたから、彼女の側にはそういう影響は少なからずあると思う。
僕のほうはちょっとそれとは違っていたね。僕の父親がジャズ・ミュージシャンだったからジャズをたくさん聴いたり、10歳くらい年の離れた兄や姉が持っていた60年代後半から70年代前半のレコードを聴いたりして育ったんだ。ルー・リードやロイ・ハーパー、サイモン&ガーファンクル、ニール・ヤングとかね。そして10代の頃にジョン・マーティンの音楽に出会って、それが僕のギタープレイにかなり影響を与えた。その他にはさっきも言ったブライアン・イーノの70年代半ばの『ビフォア・アンド・アフター・サイエンス』とか、その後にはニック・ドレイクやロバート・ワイアット、ケヴィン・コインとかのイギリスのアウトサイダー・フォークみたいな音楽も発見してよく聴いたな。だからその辺の音楽が当時の影響だったとは言えるかもしれないね。
■あのアルバムや「Summer Into Winter」の収録曲で、いまでもとくに好きな曲を教えて下さい。
BW:『Summer Into Winter』の“Walter And John”はとても好きだね。あとは『ノース・マリン・ドライヴ』のタイトル・トラックも好きだよ、あのアルバムでいちばん良い曲だと思ってる。それと“Some Things Don't Matter”も好きな曲だよ。
僕はどの曲もほとんどが美しさとメランコリーのあいだにあると思う。そういう対比に惹かれるんだ、綺麗なメロディに悲しい歌詞が乗っていたりする曲や、その逆の曲を書くのが好きなのさ。
Ben Watt Hendra ホステス |
■今回の、たとえば“THE GUN”という曲もそうだし、EBTGの悲しい歌を聴いていても、決して社会とは無関係ではないように思うんですが、あなた自身、政治と音楽はどのように考えているのでしょうか?
BW:僕が音楽と政治を繋がりのあるものとして扱うときは、あくまで個人的な立場や見解からアプローチする。政治がどのように人びとの生活を染めていくかとか、日常生活にどんな影響を及ぼしているかとかさ。“THE GUN”は銃規制やそれがある特定のひとつの家族に対して与える影響についての歌だけど、これまでのキャリアにおいても僕はそういう、パーソナルな政治的な意見を曲のなかで折に触れて書いてきたと思う。だから僕が政治について書くときはいつもそういった視点からさ。
■あの時代と比べて、インターネットの普及に象徴されるように、いまの社会は大きく変わりました。あなたがもっとも変わって欲しくなくて変わってしまったものは何だと思いますか?
BW:うーん……どうしよう(笑)。そういう風な考え方をしたことがなかったんだ。基本的に僕らはみんな自分の目の前にあるものに対処しているから──いまもいま現在で、いくつもそのときの問題っていうものがあるものでさ。そうだね、僕らの生活は僕が20歳だった頃からはだいぶ変わったよ。でも、目の前にある問題に取り組むっていうものなんじゃないかな……わからないや、難しい質問だね。
■『ヘンドラ』というタイトルになった理由は?
BW:タイトル・トラックになっている曲が、僕の亡くなった姉についての曲なんだけど、姉はとてもシンプルな人生を歩んでいた人で、お店の店員としての仕事をして、窮屈で難しい生活をしていた。週末に休みが取れると、いつも「ヘンドラ」に行く、と言っていたんだ。それがどこなのかは知らなかったけど、綺麗な言葉だなとは思っていた。
そして彼女が亡くなったとき、その言葉の意味を調べてみることにした。そうしたらそれが、彼女の行っていた場所の通りの名前で、同時に古いコーンウォール語で「home(=家、家庭、故郷)」、または「farm(=牧場、農園)」っていう意味の言葉でもあると知った。その途端、この言葉がアルバムのタイトルとして素晴らしいものだと思えたんだ。僕の姉に関連しているパーソナルな繋がりもあって、美しくて不思議な、神話的な響きの言葉でさ。そしてホーム、戻る場所っていう深い意味合いもあって、今回のアルバムにはぴったりだった。
■この先もソロ・アルバムを出していくつもりですか?
BW:現時点ではわからないな、あまりいつも先のことを計画しないようにしているんだ。僕の人生において、いちども計画を立てようとしたことはないよ。いつも直観に従うようにしているからさ。何かひとつのことを続けて、それが何か間違っていると感じたら、そこで止めて、「次は何をしよう?」って自問するのさ(笑)。そこで決断を下すんだ。
■〈Unmade Road〉は今後もレーベルとして活動していくのでしょうか?
BW:当然このアルバムを〈Buzzin' Fly〉や〈Strange Feeling〉から出すこともできたけど、それをすると僕自身レコード会社にいなきゃならない。今回はそうしたくなかった、どちらも小さなインディペンデント・レーベルだからやることがたくさんあって、そういう仕事をこなしながらアーティストとしての活動も両立させるっていうことはしたくなかったのさ。だから新しいレーベルを立ち上げたわけで、あくまでこのレーベルは今回のアルバムを乗せて走るための乗り物のようなものなんだよ。
■最後に、あなたの音楽はメランコリックとはいえ、今作の“SPRING”や“ヘンドラ”、“GOLDEN RATIO”や“NATHANIEL”などといった曲には、ある種の前向きさも感じます。
BW:僕はどの曲もほとんどが美しさとメランコリーのあいだにあると思うんだ。これは僕自身の曲に限らず、音楽全般において僕がダウンビートでありながら、どこか高揚感のあるものに興味があるからだろうね。そういう対比に惹かれるんだ、綺麗なメロディに悲しい歌詞が乗っていたりする曲や、その逆の曲を書くのが好きなのさ。だからその高揚感のある部分によって、ポジティヴさも出しているように聴こえるんだろうね。
部屋はどれも冷えきっているが それでも天国だ
お日様だって輝いている
知ってるだろう 雲の切れ間から差し込む光を
人がなんと言っているか
オー ヘンドラ オー ヘンドラ
ぼくはこの道をまた歩むだろう
それで申し分ないと きみが感じさせてくれるから
“ヘンドラ”