「KING」と一致するもの

第5回 ハラキリを選ばない生き方 - ele-king

 ハッピーハロウィン。あなたがこのコラムを読んでいる頃にはもう、ハロウィンは終わっているだろう。思い立ってdocsに文章ファイルを作成した今日は10月30日。思い立っただけで書きたいことはまだ抽象的で、その抽象的な要素どうしが脳内で4次元構造を作りながら漂っているような状態だ。書き終わる頃にはクリスマスが見えているかもしれないし、一応メリークリスマスとも書いておこうか。

 ハロウィンは明日に迫っているが、世間の浮き足立った空気は今年は感じない。ここ数年の渋谷での激しい盛り上がりが嘘のようだ。去年の今頃、初めての Protest Rave を渋谷で行なった。あの熱気が遠い過去のように感じられる。世界は変わってしまったのだ。ハロウィンといえば年に一度唯一ゴスやダークな世界観のものが表の世界でフィーチャーされる、あるいは表の世界の住人に利用される日だが、そのダークな側の世界は私が日常的に接している世界でもある。そしてそのことを思っていると、なぜ私はダークな力に惹かれ、いつから私はそのダークな力に惹かれはじめたのだろうかと、思いがけず自分の人生を振り返ってしまっていた。おそらく私のコラムを読む人の大半もまたその魅力を知っている側の人だろうと思う。昼/夜、明/暗、陽/陰、天使/悪魔、ライトサイド/ダークサイド、地上/地下などと、世界はしばしば二分される。その二分された世界で私は後者に自分の居場所を見出した。

 私はクリスチャンの家庭で育った。夕食の前には神に祈り、日曜日は礼拝と教会学校に行って聖書を学んだ。自身で選択するまで洗礼は受けなくて良いという親の方針のおかげで私はクリスチャンではない。無神論者のいま、その方針には感謝している。念のために記しておくが、私は神を信じないが、宗教や他者が神を信じることを否定しない。聖書を学ぶ中で天使/悪魔という概念をまず得ることになった。その頃はビートルズが好きでよく聴いていた。
 小学校3年生のときに転校をした。二つ下の弟と両親の四人で住むには木造のアパートは狭すぎたため、郊外に引っ越すことになった。転校後に仲良くなった友人の証言によると、私は転校初日から挨拶もろくにせずにノートにずっと絵を描いていたらしい。よく覚えていない。その学校では “先生のお気に入り”(嘘つき)と喧嘩をして理不尽に怒られたことが何度かあったことを覚えている。神様は全てを見ておられます。なら証言台にも立ってくれ。その頃は KISS が好きだった。血を吐いたり火を吹いたりするのに憧れていた。他のクラスメイトはモーニング娘。を聴いていた。サンタクロースはいなかった。
 その後、順調に反抗期を迎えた私の反抗心は生物学上の親ではなく、宗教上の父=神に、そしてその宗教に向いた。悪魔という存在は、神に対する忠誠心の強化のために排他的で二元論的な価値観が生み出した存在だと私は主張していた。正統派の絵に描いたような中二病に正しい時期に罹患して良かったと思う。その頃よく聴いていたのは Dr Dre と Sean Paul、あと Marilyn Manson や Sum 41。不良の先輩の影響で Cyber Trance も少し。制服の下にバンドTや ALBA ROSA のTシャツを着て、ボタンを開けた制服のシャツの隙間から見えるTシャツの色や、背中に透かして見えるTシャツの柄で精一杯の自己主張をしていた。

 こうしてローティーンまでの人生を過ごし、中二病的な症状が治ったあともいろいろなものと何度も衝突し、そうして自我が成長していくに従い、はじめに書いた後者の世界に自分の居場所を見出していくことになった。
 良い子じゃいられなくなったとき、良い信徒になれなかったとき、お手本に忠実になれなかったとき、その決まり切った価値観から否定されたとき、そこにまた別の世界/生き方/可能性/未来が選択可能だということを示してくれたのがダークサイドのものたちだった。

 「罪を告白せよ」「神はいつも正しい」と言われ、ペニー・ランボーとスティーヴ・イグノラントは「SO WHAT!」と叫んだ。「要するに良い事ー悪い事、ホンモノーニセモノっていう二律背反で物事を考えていくと、どんどん視野が狭くなっていくのさ」と江戸アケミは諭した。彼は幼いときに洗礼を受けたクリスチャンだったが、後に棄教した。坂口安吾は『堕落論』の中で「日本は負け、そして武士道は滅びたが、堕落という真実の母胎によって始めて人間が誕生したのだ。生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道がありうるだろうか。私はハラキリを好まない」と記した。二律背反で物事を考えていくと世界は非常にシンプルになる。神の側、あるいは良い事の側、正当な手順の側、ハラキリの側、文頭に書いた前者の側は二律背反で物事を考え、それに反するものを罪/悪魔/悪いこと/ニセモノ/堕落とカテゴライズしてきた。しかし、世界はより複雑であり、前者の側は無数にある選択肢のひとつに過ぎず、そしてその集合以外の場所にも無限の選択肢が存在する。選択肢は生き方であり可能性であり、無限の選択肢は無限の未来を生む。そして無限の未来は必ず希望を内包する。坂口安吾はその「正当」と「堕落」の間に存在する人間性に対する態度の差を指摘した。前者は人間らしさを恐れるあまり規律や戒律によって、あるいは力によってそれを制限しようとする。私もハラキリを好まない。彼は続けて「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない」と記した。私はダークな力を借りて、そのハラキリを選ばない生き方の中に自身を見出した。二律背反的な思考で大きなものに寄り掛かり、そこに自身のアイデンティティを同化させて依存していては、真に人間らしい自分らしさを発見することができないどころか、その二律背反的な思考で寄り掛かった大きなものに反する人に対しては、その存在をも攻撃し、否定するようになる。規律や戒律によって、あるいは力によって人間らしさや自分らしさが否定されるとき、私たちはそれに向かって「SO WHAT!」と叫ばなければいけない。私は私のやり方で「SO WHAT!」と叫ぶ。君は君のやり方で「SO WHAT!」と叫ぶ。「SO WHAT!」と叫んだ先にこそ二律背反から解放された自由があり、そこでのみ真に自分自身を発見し、救われることができる。江戸アケミは「救われたいんだよ。けど、宗教は嫌なんだよ。だから、何に救われたいかって言ったらリズムで救われたいんだよ」と言っていた。その救いとはまさにこの、自分自身を発見した先にある救いなのではないだろうか。「SO WHAT!」と叫んだ先には無限の可能性や未来があり、その中には必ず希望があり、救いがある。もう一度言う。規律や戒律によって、あるいは力によって人間らしさや自分らしさが否定されるとき、私たちはそれに向かって「SO WHAT!」と叫ばなければいけない。

 ゲイやレズビアンのカップルは子供が産めません。SO WHAT!
 ピンクは女の子の色です。ブルーは男の子の色です。SO WHAT!
 大麻は違法です。SO WHAT!
 日本人らしくありません。SO WHAT!
 言葉遣いが良くないです。SO WHAT!
 そんなんじゃお嫁にいけません。SO WHAT!
 タトゥーは悪の象徴です。SO WHAT!
 あなたの言動は政府の方針に反します。SO WHAT!
 So what, so what, so what, so what, so what, so what, so what, SO WHAT!!!

interview with Yoh Ohyama - ele-king

 ゲーム音楽に対する風向きが変わった。あるいは、ゲーム音楽が現在一線で活躍する様々なミュージシャンたちのルーツになっていることが、多くの人びとに理解されはじめた。そのきっかけのひとつを作ったのが、2014年のドキュメンタリ作品「Diggin' In The Carts」だったことは間違いないだろう。同ドキュメンタリのディレクターであるニック・ドワイヤーは2017年、〈Hyperdub〉主宰コード9と共同で「Diggin'~」のレトロゲーム音楽コンピレーションを制作する。このとき ele-king はニックへの取材を通してゲーム音楽研究家 hally こと田中治久の存在を知り、そこから『ゲーム音楽ディスクガイド』の刊行へと歩みを進めるのである。
 同書はゲーム音楽を「ゲームプレイの追体験装置」ではなく、ゲームを知らなくても楽しみうる「一個の音楽」として捉え直し、40年に及ぶ歴史のなかから950枚の名盤を選びぬいた。ありがたいことにこの試みは高く評価され、本年には続刊を実現するとともに、〈Pヴァイン〉もゲーム音盤の復刻を手掛けるようになった。
 その第一弾となったのが、名だたるレア盤のひとつ「ガデュリン」(スーパーファミコン)のサウンドトラックである。大山曜氏はそのBGMの生みの親のひとり。ゲーム音楽家であると同時にプログレ・バンド、アストゥーリアスでの活動でも高名だが、その人物像には謎も多い。ふたつのシーンをまたいで活動してきた大山氏の歩みを、この機に改めて追いかけてみよう。

「ドラゴンクエスト」しか聴いていなかったんですよ。参考にしつつも、似たようには作れないと思いました。そこに自分の色が出たのが「ガデュリン」をはじめとする当時の音だったのではないかなと。

まずは、「ガデュリン」サントラ再発、おめでとうございます。

大山:古いサントラにまた光を当てていただいて、ありがとうございます。聴いて喜んでくださる方、思い出に思ってくださっている方がいらっしゃるなんて夢にも思いませんでした。実は「ガデュリン」のサントラが当時出ていたことを、ほとんど覚えていなかったんですよ。正直なところ、作ったまま埋もれているものだと思っていました。

当時のゲームサントラはアーティストではなくゲームメーカー主導で作られることも多かったので、そのせいかもしれませんね。

大山:そもそも実際にゲーム中で鳴っている音を聴いたことがなかったんですよ。僕たちは作曲だけで、データ化は別の方々がやっていたんですね。今回のリイシューにあたって初めて聴かせていただいたんですが、自分でも十何年ぶりに聴いて、面白いなと思いました。まだ「ゲーム音楽はこう作る」みたいなセオリーを持っていなかったので、戦闘シーンひとつとっても、作り方にいろいろな工夫がされていて、頑張ってるなと。むしろ、こういう尖った感じをいまやっていることに活かしたいなと思いました。

いまのご自身の作風とはだいぶ違っていると思われますか?

大山:いえ、基本は一緒だと思うんですよ。ただ、いまのゲーム音楽はまず発注があって、「なんとか風にしてくれ」と言われることが多いですが、当時はそういった依頼がなくて、何もないところから形にしていっているのが面白いなと思いました。プログレが大好きなので、出てくる音はやっぱりプログレのエッセンスがどこかに詰まっているのだと思います。変なところで変拍子が使われていたりとか、ホールトーンの音階が使われていたりとか(笑)。

旧サントラの未収録曲も、今回ご自身のアレンジという形で収録しました。

大山:ゲームの音がすごく素朴な印象だったので、それに近づけたものを今回5曲作らせていただきました。やっぱり同じCDに入る以上、あまり音質的に差が付いちゃいけないなと思ったので、チープな感じも出しつつ、いま聴いても面白いかなと思えるギリギリの線でやってみました。どうやったら当時の音源に近づくか、色々試しながら作りました。

データ化は別の方々だったとのことですが、そのあたりをもう少し。

大山:当時手掛けたゲーム音楽は、すべてそうですね。ゲーム会社さんのほうに耳コピーでデータ作成するチームがあったんです。僕らはカモンミュージック(MIDIソフト)を使っていて、作った楽曲はそのデータをお渡ししたり、あるいはテープに録音してお渡ししたりしていました。音色などもデータ作成の方々に作っていただいています。ドラムのなかった曲に、後からスネアっぽい音を足してもらったりもしましたね。

そういう意味では、アレンジャー的な役割も担ってもらっていたわけですね。

大山:ただそんな流れだったので、実は耳コピーが間違えていたのか、僕が作った曲とは音符が違ってしまっているところがあったりもします。和音が変わって、逆に面白い感じになっている曲もありましたね。あとは仕様の関係か本来16分音符のリズムが8分音符になっていたりもしました。いずれにしても、もうその音で世に出たわけだし、ゲームをプレイした皆さんはむしろその音に馴染んでいらっしゃるわけだし、そのままでいいかなと思っています。

データ作成の人と顔を合わせることは、あまりなかったのでしょうか?

大山:そうなんです。「ディガンの魔石」(1988)のデータ作成が崎元仁さんだったことなども、だいぶ後になってから知りました。もう崎元さんがすっかり有名になった後にお会いする機会があって、そのときに「実は僕がやっていました」と教えていただいたんです。

ちなみに、当時のテープがいまも残っていたりは……。

大山:今回探してみたら見つかったんですが、いや、ひどいものです(笑)。YAMAHA DX-7 などで作っていますが、いま聴かせるのはお恥ずかしいところがあります。リメイクであれば喜んでやらせていただきます(笑)。「シルヴァ・サーガ」(1992)の頃まではそういうやり方でした。Performer とかを使いだしたのは少し後で、ZIZZ STUDIO の時代になってから Cubase に乗り換えて、以降ずっと Cubase ですね。

「ガデュリン」は「ディガンの魔石」と世界観が繋がっていて、楽曲も半分ほどは「ディガンの魔石」からのリメイクになっています。やはり音楽制作にあたっても「ディガンの魔石」と関連付けてほしいというオーダーがあったのでしょうか。

大山:確かあったと思います。スーパーファミコンで出すにあたって足りない部分を補った感じだったのかなと。仕様が変わって作り替えた部分もあるかもしれません。発注の流れは同じでしたね。

リメイクとあわせて、同時に「ガデュリン」のための新曲を書き下ろして、みたいな。

大山:そういうことだったと思います。たしか「こういうシーンにこういう曲を書いて欲しい」というクライアントとの打ち合わせがあったと思うんですよ。津田(治彦、当時のフォノジェニック・スタジオの責任者)さんは全然覚えてないとおっしゃっていましたけど。ともあれ、全体の流れはプロデューサーである津田さんが把握しておられて、僕は「こういう音楽を」という指示を受けて作っていたというのが正しいと思います。

「湖のシーンです」というような文章が三つぐらいあるだけで、それを見て曲をどんどん作っていく。ゲームとほぼ同時進行で作っているので、制作途中にゲーム画面を見ることはほとんどありません。

大山さんといえば、やはりルーツであるプログレについてお聴きしないわけにはいきません。まずはプログレッシヴ・ロックとの出会いについてお教えください。

大山:14歳、中学二年生のときに『クリムゾン・キングの宮殿』と出会ったのが最初です。それからマイク・オールドフィールドの『チューブラー・ベルズ』。この二枚をほとんど同時期に聴いて、それまでポップスばかり聴いていたので非常に衝撃を受けたのをおぼえています。それからいろいろと漁り初めて。

エグベルト・ジスモンチにも傾倒されていたそうですね。そのあたりもアストゥーリアスのアルバムには反映されていますよね。

大山:はい。だいぶ影響を受けたと思います。

プログレ以前はミッシェル・ポルナレフにハマっておられたとか。

大山:プログレに行く少し前ですね。ポップスも色々好きだったなかで、ポルナレフがいちばん気に入っていました。アメリカンなロックよりもヨーロッパの香りのほうが好きな性分だったみたいで、それでプログレに見事にハマってしまったという感じですね。

中学生時代からバンド活動をされていたそうですが、当時はハードロックやフュージョンなどを?

大山:そうですね。友達が好きなバンドとかを。でも、四人囃子もやっていましたね。中学生のときに初めてやったバンドで。ファースト・アルバムの曲などをカヴァーしていました。四人囃子はリアルタイムで聴いていたんですが、1976~77年ぐらいからですね。『Printed Jelly』以降なので、森園(勝敏)さんが抜けた後ですね。

その少し後に、マルチカセットレコーダーで多重録音の実験をはじめられたと。

大山:18~19歳の頃ですね。高校時代はバンド活動ばかりやっていました。この頃はスペース・サーカスが好きでしたね。当時はちょうどフュージョン・ブームで、テクニカルなベーシストにあこがれたころもありました。

そこからフォノジェニック・スタジオ入社に至ったのは?

大山:23歳のときに脱サラをしまして、音楽関係の仕事を探していたところ、津田さんの会社の張り紙が石橋楽器にあったんです。レコーディングとシンセサイザー・マニュピレートの両方をやっているということで、話をうかがいに行ったら「じゃあ、来なよ」ということになって、そこで働きはじめたんです。津田さんから「実は僕もプログレ・バンドをやっていたんだ」という話を聞いたのは、その後なんです。新月の名前は知っていましたけど、門を叩いたのは本当に偶然だったんです。そこでプログレ好きに改めて火がついたという。普通のジャンルの方だともう少し違う生き方になっていたんじゃないかなといま思います。

ご入社が1985年ですね。しばらくはマニュピレータ業務が主だったのでしょうか?

大山:そうですね。特にカモンミュージックでの打ち込みが多かったです。あの頃はスタジオに呼ばれて行って、譜面を渡されて「一時間後にみんな来るからそれまでに全部打ち込んでおいて」というのが多かったです。バンド・メンバーがいるときだと大変でしたね。こっちのせいで遅れてはいけないので、必死でした。いろんな現場に行って、おかげ様でだいぶ鍛えられました。猛スピードで入力していると、見ている皆さん圧倒されて驚かれるんですよ。それで場の雰囲気が変わったりすることもありましたね。とにかく毎日やっていたので、相当早かったと思います。

マニュピレータ時代には、レベッカのお仕事を多くされていますね。

大山:呼ばれればどこにでも行っていたんですけど、そのなかで、当時とても売れていたレベッカのお仕事を数多くさせていただきました。リーダーの土橋安騎夫さんとはそれ以来の付き合いで、バンドが解散してからもお仕事でご一緒させていただいております。弊スタジオ(ZIZZ STUDIO)代表の磯江(俊道)も、その流れでレベッカと一緒に回っていたことがあったりして。ファミリーのような感じというか、僕らは土橋さんの人脈から派生した子分たちがやっている会社みたいな感じではありますね。最近はご一緒に仕事をすることはなくなっていますけど、最もお世話になったバンドかもしれません。

そうした業務のなかに「ゲーム音楽の制作」が舞い込んでくるようになったのは?

大山:単純に、当時ゲームの音を作る音楽会社が少なかったというのが、まずあると思うんです。最初に「ミネルバトンサーガ」(1987/ファミコン)の音楽をやって、それを気に入っていただけたので、続けてお仕事をいただくようになりました。フォノジェニックで請けていたのは、たぶんアーテックさんの仕事だけだと思います。

発売時期でいえば「獣神ローガス」(1987/PC-9801)が先ですが、制作そのものは「ミネルバトンサーガ」のほうが先だったのですね。

大山:そうだったと記憶しています。ゲームの音楽を作るのはもちろんこのときが初めてでした。セオリーみたいなものがまだない時代だったので、すぎやまこういち先生の作品を参考にして、どうやって三つの音で全部作ればいいのかなど、音の組み立て方を研究したりしましたね。逆にいうと、「ドラゴンクエスト」しか聴いていなかったんですよ。参考にしつつも、似たようには作れないと思いました。そこに自分の色が出たのが「ガデュリン」をはじめとする当時の音だったのではないかなと。FM音源ならもう少し多く音数を使えたと思いますが、効果音で使うから結局3音だけになったりもしましたね(筆者注:たとえば「獣神ローガス」が3音のみ)。

1987年ごろにアストゥーリアスを結成しておられます。80年代に3回ライヴがおこなわれて、第1回のライヴのときに後にバッファロー・ドーターを結成する大野由美子さんが参加しておられました。

大山:大野さんは津田さんの知り合いといいますか、フォノジェニック・スタジオに彼女のバンドがよく出入りしていたんです。それで仲良くさせていただいて。僕の曲はピアノがけっこう大変なので、大野さんにピアノを頼んで、花本(彰。新月メンバー)さんにも割と簡単なところを弾いてもらう形で、当時ライヴをやりました。彼女はピアノもヴァイオリンも弾ける方で、クラシカルな素養があるんです。当時、20歳ぐらいだったんじゃないですかね。大野さんのバンドは津田さんのところに録音に来て、色々学んでいたんだと思います。僕自身も多くを学ばせてもらいました。いい環境の仕事場だったと思います。

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現代のプログレってプログレ・メタルが主流で、いわばドリーム・シアター系列のすごく巧い人たちも数多くいるわけですが、それは真似はできないですし、そういう人たちとは違うなというのをいつも思いますね。

2回目のライヴでは、桜庭統さんの DEJA-VU と対バンをされていますね。

大山:桜庭さんとは、当時はレーベルメイトのような感じで仲良くさせてもらっていました。その後すっかり大物になられて、最近はお会いしていませんが、「竜星のヴァルニール」(2018)では桜庭さんと ZIZZ STUDIO が一緒に音楽をやらせていただいたりもして。

桜庭さんが楽曲を手がけた「アイルロード」(1992/メガCD)という作品では、音楽録音がフォノジェニック・スタジオでした。

大山:ああ、そういうこともあったかもしれません。これは僕がエンジニアをしていますね。桜庭さんがここで録らせて欲しいと相談に来たと思うんです。DEJA-VU をやっていた頃。彼はまだ学生で、フォノジェニックに手伝いにきたこともあったんですよ。

アストゥーリアス結成当時にデモ・テープを制作しておられますね。あれは市販もされたのでしょうか?

大山:そうです。ファースト・ライヴをやったときに一本いくらかで売って。売上はみなさんへのギャラに回したような気がします。音のほうはいま聴くとお恥ずかしいですね。

後の作風にはない、プログレハードっぽい曲もあったりして新鮮でした。

大山:当時作っていた曲を色々入れていたんだと思います。

デモテープには「ミネルバトンサーガ」や「ディガンの魔石」の楽曲、それに、後に「シルヴァ・サーガ」に使われる曲なども入っていますね。順序としては、ゲーム用に作った曲をアストゥーリアスに持ってきたのか、それともその逆か、どちらになりのでしょうか?

大山:まずゲームの音楽として作って、気に入ったものをアストゥーリアスで使わせていただいたという形です。フレーズを使わせていただいたりもしていますね。アストゥーリアスでの作曲とゲームでの作曲は、僕のなかですごく似ているところがあるんです。特にRPGの世界観とは通じるものがあるんですよね。湖のシーンや森のシーン、そういったもののために作るというお題があると、すごくイマジネーションが湧いてきて、自分でもお気に入りのメロディがたくさんできたんです。これはぜひ使わせてほしいと(ゲーム制作サイドに)言って、入れさせていただいたと思います。

ゲームのために作曲する場合、まず何かしら資料が来るわけですよね。

大山:当時はペラ1枚くらいの紙資料しかいただいていなくて。少しは絵もあったと思いますけど、基本的には「湖のシーンです」というような文章が三つぐらいあるだけで、それを見て曲をどんどん作っていくという。これはいまでもそうなんですけど、ゲームとほぼ同時進行で作っているので、制作途中にゲーム画面を見ることはほとんどありません。画面をみるのはほとんど最後ですね。もっとも僕自身はゲームが下手で、「獣神ローガス」も最初の面どまりだったんですけどね。

しっかり画面と合致しているかどうかは、終わってみるまで自分ではわからない。

大山:逆にいえば、こちらの思う通りに作って、それが気に入っていただけたからよかったというところですね。気に入ってもらえると、若かったので調子づいちゃって、じゃあ次はもっと気に入ってもらおうと、楽しく前向きに作らせていただいたのを覚えています。

当時はあまりリテイクなどもない感じだったのでしょうか。

大山:いまと比べるとだいぶ少ないかもしれません(笑)。昔はシーンの指定などもいまほど細かくありませんでしたし、アーテックさんもあまり発注した経験がなく、お互い手探りだったなかででき上がったものを気に入っていただいたので。ただ、「ガデュリン」のサントラはいま聴くとすごく短いなと思いますね。あれっ? もうこれで終わり? みたいな。当時はデータサイズの問題があったのかもしれません。

アーテック作品では「サイコソニック」という名義を使っておられましたが、あれはバンド名か何かでしょうか?

大山:津田さんがフォノジェニック・スタジオを会社登録するときに、音楽スタジオ以外の業務はサイコソニックという株式会社名にしたんです。それでサイコソニックとフォノジェニックを使い分けていたんだと思います。どちらも一緒なんです。

サイコソニックからシリウスAというユニットのアルバムが出たりもしていました。

大山:僕はお手伝いしただけだったのであまり記憶にないのですけど、ありましたね。津田さんが手がけてCDになっていましたね。ああ、そういえば津田さんのバンドで「Phonogenix」というのがありましたね。

1988年に岡野玲子原作コミック『ファンシィダンス』のイメージ・アルバムで『雲遊歌舞』というのが出ているのですが、そこに Phonogenix 名義の楽曲が1曲ありますね。手塚眞さんがプロデュースされていて、メンツがかなり豪華なんですよね。

大山:これ面白いですよね。サエキけんぞうさんとかも入っていて。ライヴをやった記憶もありますね。

Phonogenix の活動はどのような感じだったのでしょうか。

大山:津田さんと花本(彰。新月メンバー)さんが中心で、バンドとしてレコードを出していた他に、手塚眞さんと仲が良かったこともあって、そちらからお仕事をいただいたりとかしていましたね。そんなにしょっちゅうライヴをやったり制作をしたりということはなかったかと思います。依頼があればチームでやっていました。

アストゥーリアスで3枚のアルバムを発表しておられますが、その後しばらく休眠期間に入っておられます。

大山:アルバムがあまり売れなくて、〈キングレコード〉との契約期間も終わり、それでいじけて9年間休んでいたというところです。

1996年ごろに、Soul Bossa Trio のアルバムに参加しておられましたね。

大山:はい。(東京パノラマ)マンボボーイズの方ですよね。マニュピレートで参加させていただきました。スタジワーク中心で。この頃は呼ばれればどこへでも行って、ということが多かったですね。ゲーム音楽を再び作るようになったのは、ZIZZ STUDIO がはじまったあたりからですね。色々と依頼をいただいて再び作るようになりました。

ZIZZ STUDIO が初参加したニトロプラス作品「Phantom -PHANTOM OF INFERNO-」が2000年ですね。大山さんが ZIZZ STUDIO に参加することになった経緯は?

大山:僕は1994年ごろにフォノジェニック・スタジオを辞めていて、磯江くんもその後に辞めているんですが、彼がゲーム音楽業界を開拓していって、ニトロプラスさんとお付き合いができて、それで手伝ってくれないかみたいな話が来たのが「Phantom」あたりからだったと思います。いまは社員ですが、当時はお手伝いだけだったんです。磯江くんがいなければゲーム音楽の世界とは交流がなかったですね。ZIZZ STUDIO と出会えたことを感謝しています。

ニトロプラスさんという先鋭的なメーカーとのタッグで、ZIZZ STUDIO の存在感はより強まったように思います。

大山:そうみたいですね。当時新進メーカーだったニトロさんは、すごく音楽に力を入れている会社で、とことんやってくれと言われて。BGMを打ち込みだけで済ませてしまうところも多かったなかで、とにかく全部に生楽器を入れてくれと。そんなに予算がなかったので、自宅でギターやベースを弾いたりして。それでニトロさんやお客さんに喜んでいただいたのが、いまにつながっている感じがします。

とても低予算とは思わせない、高密度な音だったと思います。

大山:実際のところは、採算度外視でやっていたようです(笑)。弊スタジオが現在の場所に移転したのは7~8年前なんですけど、それ以前は磯江くんの自宅でした。いまこの場所で使っている2畳の防音ブースが、当時は古ぼけた一軒家にありまして、そこで何でも録っていましたね。いまは下の階にフォーリズムを録れる広いスタジオがあって、このブースではたまに歌を録ったりするくらいですが、2000年ごろはこれがフル稼働していました。何かというとこれで録って、生楽器を使っているぞというのを売りにして、ZIZZ STUDIO は頑張っていたのだと思います。

アコースティック・アストゥーリアスの結成もその流れですよね。生楽器のアコースティック編成でのバンドというのが、素晴らしいなと思いました。

大山:ZIZZ の仕事で、ヴァイオリン、クラリネット、ピアノの方々と知り合いまして、それでチームを組んだんです。最初はお願いしてやってもらっていたんですけど、やがてうまく息が合ってきたという感じですね。とにかく生楽器を売りにしている会社ですので、ここにいると色んなミュージシャンとの出会いがあります。

1980年代のアストゥーリアス結成時のプログレ観と、2000年以降のエレクトリック・アストゥーリアスの結成以後とでは、プログレ観は変わりましたか?

大山:だいぶ変わったと思います。多重録音でもやってはいますけど、基本的に4~5人編成の生演奏ですから、それだけしかパートがないという構造的な違いもありますし、実際にライヴでやると緊張感もありますし。海外にもけっこう行かせていただきまして、反応を見るにつけ、変わったバンドなんだなというのは実感しますね。現代では「ロック・バンドの人たちによるプログレ」が多いと思いますが、うちのメンバーはそうじゃないので、そこも変わっていますね。そういう人たちが作る音というのが出てくるんだろうなと思います。

アコースティック・アストゥーリアスも他にない感じですよね。

大山:ああいう形でプログレをやろうとはなかなか思わないですよね(笑)。海外のお客さんはビックリしていましたね。なんだこれはという感じで。現代のプログレってプログレ・メタルが主流で、いわばドリーム・シアター系列のすごく巧い人たちも数多くいるわけですが、それは真似はできないですし、そういう人たちとは違うなというのをいつも思いますね。

いまはなんでもヴァーチャルで出せるようになりましたが、やっぱりアナログ・シンセが使っていて楽しいですね。

ゲーム音楽のなかでプログレをやるということについてはどう思っておられますでしょうか? ゲーム業界には隠れプログレ・ファンが多いような気がします。

大山:ゲーム音楽はそれを避けては通れない感じがありますね。

そのなかでもキース・エマーソンの影響はかなり大きいのではないかと思います。大山さんもその影響を受けたものを作られていますよね。

大山:はい。もちろん僕も大好きですね。いまやゲーム音楽だけじゃなく、NHK大河ドラマの「平清盛」に “タルカス” が使われたりもして、昔だと考えられない状況ですよね。いま思えば90年代は冬の時代で、これは裏話ですけど、当時は仕事のときに「普段プログレをやっています」とは言いにくい空気もすごくあったんですよ。2000年代からは、ゲームとのつながりでプログレが認められてきたというところもありますよね。

ゲーム音楽ってジャンル的になんでもありというところがあるので、それで受け入れる人も増えてきているのではないかと思います。

大山:クラシックとかジャズとか、いろんな素養が必要になってくるので、普通のロック・バンドの人ではちょっと対応できないのがゲーム音楽というか。プログレあがりの人がみんなこっちに流れてきますね(笑)。

近年は、プログレ・フェス《PROG FLIGHT》にも携わっておられますよね。

大山:主催の栗原務さん(Lu7)に頼まれて、企画のお手伝いをさせていただいている感じですね。栗原さんと僕とで好きなプログレが違うので、互いの意見をすり合わせて出演バンドを決めたりしています。今年はちょっとできないですけど。

空港のなかにある会場もいいですよね。

大山:ありがとうございます。250人のキャパですけど、第1回(2017年)をやるときに「お客さんを満員にできるかな?」という相談を受けて、難波弘之さんを呼んだりしたんですよ。満員になってよかったです。あの規模で席が埋まるのは素晴らしいですね。90年代には考えられなかったです。老若男女、若い人も増えていますね。

ゲーム音楽経由でプログレを知る若い人は増えていると思います。最後に、お好きなシンセサイザーはなんでしょうか?

大山:一通り使っていましたけど、Roland の SUPER JUPITER とか、あれはいまでも持っていますね。いまはなんでもヴァーチャルで出せるようになりましたが、やっぱりアナログ・シンセが使っていて楽しいですね。

ありがとうございました!

COMPUMA & 竹久圏 - ele-king

 これは珍しいテーマの作品だ。COMPUMAとギタリストの竹久圏による新たな共作は、京都の老舗茶問屋=宇治香園(創業155年)が掲げる「茶+光+音」のコンセプトに呼応している。
 5年前の共作『SOMETHING IN THE AIR -the soul of quiet light and shadow layer-』のその後を踏まえた内容のようで、なんでもふたりはこの5年で廃園と化してしまった茶園をじっさいに訪れ、着想を得たという。詳しい経緯は下記、宇治香園の茶師・小嶋宏一氏のメッセージをお読みいただきたいが、その根底には茶は光と音と同等か、それ以上のものだという考えが横たわっているようだ。
 アートワークは前回に引き続き五木田智央と鈴木聖が担当。ヴィジュアルにも注目です。

COMPUMAと竹久圏(KIRIHITO/GROUP)による5年ぶりの新作!
2020年11月11日(水)発売

今作は、京都の老舗茶問屋、宇治香園の創業155年の記念の年、同社が取り組んできた音と光で茶を表現する “Tealightsound” シリーズ最新作、大野松雄「茶の木仏のつぶやき」に続く「番外編」として制作されたもので、“Tealightsound” の原点ともなっている、COMPUMA feat. 竹久圏による前作「SOMETHING IN THE AIR ‒ the soul of quiet light and shadow layer -」から5年を経て、廃園となりジャングルのように変貌してしまった茶園にふたりが再訪し、あらためてその茶園よりインスピレーションを得て「音を聴く」という行為を見つめ直して向かいあったサウンドスケープと心象風景を模索する意欲作となっている。アートワークは前作に続き、画家・五木田智央とデザイナー・鈴木聖によるもの。

アーティスト: COMPUMA & 竹久圏
タイトル: Reflection
レーベル: 宇治香園 / SOMETHING ABOUT
品番: UJKCD-5188
形態: CD
定価: ¥2200(税抜) / ¥2420(税込)
JANコード: 4970277051882

01. The Back of the Forest
02. Decaying Field
03. Nostalgia
04. Time and Space
05. Between the Leaves
06. Reflection of Light pt.2
07. Meguriai (An Affair to Remember)
08. Flow Motion
09. The Other Side of the Light
10. Shinobi
11. Enka (Twilight Zone)

Compuma: Electronics, Field Recording
Ken Takehisa: Acoustic and Electric Guitar, Kalimba
Hacchi: Harmonica

Mixed by Compuma and Ken Takehisa
Recorded and Mastered by Hacchi at B1 Umegaoka-Studio, 2020

Produced by Compuma for Something About Productions, 2020

Field Recording Captured at the Tea Plantation in the Mountain of South Kyoto in June 2020

Painting: Tomoo Gokita
Photographs: Koichi Matsunaga
Design: Satoshi Suzuki

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京都の老舗茶問屋〈宇治香園〉の創業150年を記念して、“Tealightsound” を掲げるシリーズの第1弾「SOMETHING IN THE AIR -the soul of quiet light and shadow layer-」を制作したCOMPUMAと竹久圏のコンビが、シリーズ第7弾のリリースを機に5年ぶりに帰ってきました。
COMPUMAによる様々な虫や気配を模したような電子音と、竹久圏が奏でる郷愁ギターに、廃園となった茶畑の時間経過フィールドレコーディング素材が様々な場面で立ち現れ、タイムトリップ感を誘発します。日常のリフレッシュとして役立ちそうな、良質サウンドスケープな内容です。
──山辺圭司/LOS APSON?

Silver ratio (白銀比)という言葉が浮かんだ。圏さんとCOMPUMA氏は直感的に銀色を想起させる二人である。しかしアルミとクロモリの自転車のように、材質も重量感もどっこい違う二人の組み合わせでもある。ギターの音が細やかな筋書きをつくっている。電子の粒子が水や草木の中をくぐって悠々と息をしている。物語が本格的に動き出しそうなところで、ぷつりと幕。こんな音楽が使われている映画を銀幕で観たいんだよな。
──威力

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Reflection に寄せて

こんにちは。私は京都南端の茶問屋、宇治香園で茶師をしております、小嶋宏一と申します。茶師とは、品種や標高で異なる茶葉の特徴を利き分け、組み合わせ、代々続く銘柄を作る、お茶の調合師のような職人のことです。私はお茶が大好きで、その魅力をさまざまな場面でお伝えしたいと考えています。

当園では毎年、創業を茶の起源再考の機会として、光と音で茶を表現する Tea+Light+Sound= “Tealightsound” というコンセプトのもと、茶を感じるクリエイターの方々に作品を制作していただいています。
茶のすばらしさ、魅力を体感していただくには、実際に茶葉にお湯を注ぎ、そこから滲み出した雫を口に含んでいただくのが一番です。しかしそこには、地理的、空間的な制約が生じます。光(アート、写真、デザイン、映像)や音(音楽)は、そうした制約を超え、その存在を伝えることができます。

また一方、茶は飲料、植物、精神文化の拠点となるような多面的存在ですが、日々茶づくりを行う中で、実はもっと巨大な何かなのではないか、と感じるようになりました。そうしたことを、茶と似た質を持つ光と音と共に伝える試みが "Tealightsound" です。

この "Tealightsound" という概念は、平成二十七年の創業記念作品、COMPUMA feat. 竹久圏 / 「Something in the Air ‒ the soul of quiet light and shadow layer -」制作時にぼんやりと思い描いていたことを、徐々に言葉にしてゆく過程で生まれました。いわば「Something~」は、"Tealightsound" の原点なのです。
それから五年の歳月を経て、COMPUMAさんと竹久圏さんに、改めてその原点に向き合っていただく機会を得ました。「Something~」は、とある茶園に捧げるレクイエム、と当時のCOMPUMAさんは書いておられますが、実際その茶園は録音直後に放棄されて廃園となり、その言葉が(偶然)現実化しました。

今、茶業界では急須で飲むお茶離れから若い生産者が減少し、重労働を伴う山間茶園の手入れが難しくなって、放棄される所が急増しています。いったん放棄されるや自然の力はすさまじく、雑草が生い茂って以前の姿に戻すことは極めて困難です。このすばらしい力を秘めた茶の魅力をもっと広く伝えることで、茶に興味を持つ人が増え、茶園に若い力が戻ってきてほしいと、切に願います。

本作「Reflection」は、廃園と化して五年を経た茶園に再訪し、フィールドレコーディングを行うことから制作をスタートしました。かつて美しかった茶園がジャングルのように変貌した姿を前にして、お二人には様々な思いが去来したことと思います。そうした諸々を含めての「Reflection」。何が変わり、何が変わらなかったのか。ぜひ「Something~」と聴き比べていただきたいと思います。

また本年は、新型コロナウィルス感染症(COVID-19)が世界を覆い、様々な価値観を塗り替えたことで記憶される年になろうかと思います。「Reflection」は、そんなコロナ禍のさなか、緊急事態宣言解除後の六月より制作が開始され、十月に完成しました。作品は、望むと望まざるとにかかわらずその時代を映し込みますが、今作は五年後、そして十年後に、どのように聴かれるのか、とても興味深いです。お茶にエージング(熟成)があるように、音楽にも別の形のエージングがあるのかもしれません。これから今作とともに歳月を重ね、それを味わい、確かめてゆきたいと思います。

この作品を、すばらしい音楽、アートワーク、写真、デザインの集まりとして体験していただくとともに、茶そのものにも興味をもっていただき、茶の世界に足を踏み入れるきっかけにしてもらえましたら、とてもうれしく思います。

令和二年十月二十二日
宇治香園 茶師
小嶋宏一

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COMPUMA (松永耕一 / KOICHI MATSUNAGA)
1968年熊本生まれ。ADS(アステロイド・デザート・ソングス)、スマーフ男組での活動を経て、DJとしては、国内外の数多くのアーティストDJ達との共演やサポートを経ながら、日本全国の個性溢れるさまざまな場所で日々フレッシュでユニークなジャンルを横断したイマジナリーな音楽世界を探求している。自身のプロジェクト SOMETHING ABOUT より MIXCD の新たな提案を試みたサウンドスケープなミックス「Something In The Air」シリーズ、悪魔の沼での活動などDJミックスを中心にオリジナル、リミックスなど意欲作も多数。一方で、長年にわたるレコードCDバイヤーとして培った経験から、BGMをテーマに選曲コンピレーションCD「Soup Stock Tokyoの音楽」など、ショップBGM、フェス、ショーの選曲等、アート、ファッション、音と音楽にまつわる様々なシーンと空間で幅広く活動している。Berlin Atonal 2017、Meakusma Festival 2018 への出演、ヨーロッパ海外ラジオ局へのミックス提供など、近年は国内外でも精力的に活動の幅を広げて
いる。
https://compuma.blogspot.jp/

竹久 圏 (KEN TAKEHISA)
ギタリスト兼ボーカリスト兼コンポーザー兼プロデューサー。10才の時にクラッシックギターを始める。12才でパンク・ニューウェーブに打ちのめされる。94年、DUO編成のロックバンド "KIRIHITO" を結成。ギター、ボーカル、シンセ(足)を同時にプレイするスタイルで、ハイテンションなオリジナルサウンドを構築。その唯一無比のサウンドとライブパフォーマンスは海外での評価も高く、現在までに通算4枚のアルバムをリリースしている。2006年にはソロアルバム『Yia sas! / Takehisa Ken & The Spectacrewz (power shovel audio)』を発表。ダブ、ハウス、ロック、ヒップホップ、エレクトロニカを竹久独特のギターリフで繋ぐ、あらゆるジャンルの才能とのコラボレーションとなる大作となった。繊細かつダイナミズムな音楽性のインストバンド "GROUP"、DISCOでPUNKな魅力溢れる "younGSounds" にもギタリスト兼コンポーザー、あるいはアイデアマンとして参加中。その他にも、UA、FLYING RHYTHMS、イルリメ、一十三十一、やけのはら、田我流 等のライブバンドや録音にも参加している。これら完全に趣きの異なる様々なバンド活動以外にも映画音楽の制作やバンドプロデューサーとしての顔も見せ始め、活動のフィールドを拡げている。
https://www.takehisaken.com/

R.I.P. 近藤等則 - ele-king

 近藤等則にインタヴューする機会はたった1度しかなかったが、その時の印象は今なお鮮烈に残っている。とにかく、目力の強い人なのだ。そして語気も荒い。会った瞬間に「極道」という文字が頭をよぎった。本人は普通にしゃべっているのだろうが、あの鋭い眼光と話し方は、傍から見ればケンカをふっかけているように思われるはずだ。私のひとつ前のインタヴュワーだった知人と後日会った時、彼は「ビビッちゃって何を話したのか全然記憶にない」と笑っていた。もちろん私も緊張マックスだった。この時の取材(2015年2月)は、“枯葉” や “サマータイム” といったお馴染みのスタンダード・ナンバーばかりを近藤のエレクトリック・トランペットとイタリア人トラックメイカーのエレクトロニク・サウンドでカヴァしたムーディーなアルバム『Toshinori Kondo plays Standards~あなたは恋を知らない』に関するものだったのだが、私が開口一番「闘う男というパブリック・イメージからすると、意外ですね」と言い終わる前に「俺はこのアルバムでも闘ってるつもりだよ!」と語気荒く返され、冷や汗がタラリと流れたのだった。そう、実際、近藤等則は70年代のデビュー時から一貫して闘い続けた男なのだ。

 1948年12月15日、愛媛県今治市で生まれた近藤等則(本名は俊則)は京都大学(工学部に入学後、文学部に転部・卒業)在学中からジャズ・トランペットに本格的にのめりこんでゆき、やがて日米のフリー・ジャズ/フリー・ミュージック・シーンで頭角を現してゆく。その雌伏期──60年代末期から70年代半ばのことを、当時の近藤の盟友・土取利行(ピーター・ブルック劇団の音楽監督その他、世界的に活躍してきたパーカッショニスト)はかつて私にこう語ってくれた。いい機会なので紹介しておこう。
 「私(土取)はGSバンドのドラマーを経てジャズに転向し、70年に大阪にできたSUB(サブ)というジャズ喫茶で働き始めた。その頃、サブによくセッションに来ていた京大生の近藤等則と仲良くなったが、当時彼は、オーネット・コールマンに刺激されてフリーに傾きつつあった。間もなく私と近藤はベイシストを加えて、トリオでフリー・ジャズをやりだした。72年、近藤の大学卒業を機に、私たちは一緒に東京に出た。深夜バスに乗って。私は住み込みで新聞配達を始め、近藤は奥さんと一緒に幼稚園で住み込みの守衛をやった。私たちはその幼稚園や、多摩川の河原、鶴川の和光大学の軽音楽部などで練習を続けた。
 近藤と私は、新宿ピットインのそばにあった〈ニュー・ジャズ・ホール〉のオーディションを受け、デュオで昼間演奏するようになった。当時そこには、まだ無名の阿部薫、高木元輝、沖至、坂田明なども出ていた。私たちはすぐに『ジャズ批評』誌などで “山下洋輔を超えるフリー・ジャズの猛禽獣” などと紹介され、徐々に名前を知られるようになっていった。そして近藤は山下洋輔と、私は高木元輝と一緒にやり始めた。それが73~74年頃のことだ」

 75~76年にはレコーディングもスタート。近藤が録音に参加した最初の作品は、筒井康隆の小説をモティーフにした山下洋輔のアルバム『家』(76年)で、次が、同じく山下を中心とするユニット、ジャム・ライス・セクステット(Jam Rice Sextet)の『Jam Rice Relaxin'』(76年)。また、それらと前後して浅川マキのライヴ盤『灯ともし頃』(76年)にも坂本龍一などと共に参加している。ちなみに、盟友の土取も、76年に坂本との即興コラボ・アルバム『ディスアポイントメント - ハテルマ』をリリースしている。
 当時の近藤は、いわゆるフリー・ジャズ畑の新星トランペッターと目されていたわけだが、しかし彼は(そして土取も)60年代以降のある種のマナー(手くせ)が滲みついたフリー・ジャズには当時から息苦しさを感じており、その先にあるもっと自由な音楽を目指していたという。その思いを形にした最初の試みが、エヴォリューション・アンサンブル・ユニティ(Evolution Ensemble Unity)だ。これは75年、故・間章が組織したフリー・ミュージック・コレクティヴで、高木元輝、近藤等則、土取利行、徳弘崇、豊住芳三郎などのメンバーがデレク・ベイリーや小杉武久(タージ・マハル旅行団)などとも交流しつつ、“即興とは何か” という大テーマの下に新しい表現を探求した。


EEUの旗揚げコンサート(75年8月13日、青山タワー・ホール)から

翌76年に近藤(tp)、高木(sax)、吉田盛雄(b)のトリオ編成で制作されたEEU唯一のアルバム『Concrete Voices』では、隙間を意識した脱フリー・ジャズ的表現がより明確に志向されている。

 そして78年、近藤はよりヴィヴィッドなフリー・ミュージックの戦場を求めて渡米。80年代初頭までの数年間、ニューヨークのロウワー・イースト・サイドを拠点にたくさんの音楽家たちと共演を重ねていった。“マッド・ワールド・ミュージック” と呼ばれていたという当時の仲間たちのサークル──ジョン・ゾーン、フレッド・フリス、ユージン・チャドボーン、ウィリアム・パーカー、ヘンリー・カイザー、トリスタン・ホイジンガー、ビル・ラズウェル、ジョン・オズワルド(プランダーフォニックス!)等々の顔ぶれからも、近藤が目指していた新しい世界が窺える。NY時代には、ジャズ・クラブよりもCBGBなどロック系のハコによく通い(スーサイドが一番のお気に入りだったという)、台頭しつつあったヒップホップ/DJカルチャーにも強く惹かれたという。この時期、近藤は自身で設立したインディ・レーベル〈Bellows〉を中心に、たくさんのアルバムをリリースしているが、ジャズでもロックでもない実験を通して、“フリー” であることの自由さと不自由さ、限界と可能性を体得していったのだった。


ジョン・オズワルド、ヘンリー・カイザーとのトリオによる『Moose And Salmon』(78年)から



スティーヴ・ベレスフォード+トリスタン・ホイジンガー+デイヴィッド・トゥープ+近藤のクァルテットが英Yレコーズから出したアルバム『Imitation Of Life』(81年)から “Whoosshh”

 その成果と新しいヴィジョンを具現化していくのが、82年の帰国後だ。83年には、豊住芳三郎やセシル・モンローらとチベタン・ブルー・エアー・リキッド・バンド(Tibetan Blue Air Liquid Band)を結成(渡辺香津美もゲスト・ギタリストとして参加)し、初のメジャー・アルバム『空中浮遊』を発表。NYロフト・ジャズやファンク、ニューウェイヴ/ノー・ウェイヴ、ヒップホップ、レゲエ、純邦楽など各種民族音楽を煮詰めたこのフュージョン作品によって、近藤等則という音楽家の名はジャズ・マニア以外のリスナーの間でも注目されるようになった。


チベタン・ブルー・エアー・リキッド・バンド『空中浮遊』(83年)

 そして翌84年には、チベタン・ブルー・エアー・リキッド・バンドを発展解消して近藤等則IMA(International Music Activism の略)を結成し、アルバム『大変』を発表。フリクションのレック(ギターとベイスを随時スイッチ)、ドラムの山木秀夫、キーボードの富樫春生などの才人たちをメンバーに擁したこのパワー・ユニットは、10年弱の間に10枚のアルバムを発表し、商業的にもかなりの成功を収めた。日本や韓国などの伝統音楽家やDJをゲストに招き入れるなど、新しい才能、新しいモード、新しいテクノロジーを積極的に取り入れながら時代に対峙するその姿勢は、マイルズ・デイヴィスのエレクトリック・ジャズ・ロック期(60年代末~70年代半ば)を思い出させたりもする。というか、近藤自身もきっと意識していたはずだ。都市のコンクリートと共振するハイパー・モダンなサウンドとそれを支える広範な文化的視野を特徴とする近藤の表現は、YMOファミリーやムーンライダーズ、マライア/清水靖晃などと並び、80年代日本ならではの音楽文化遺産と言っていいだろう。


近藤等則IMA『Konton』から “Gan” (86年)


近藤等則IMA『Tokyo Rose』(90年)

 また、この時代の近藤は、TVの深夜番組の司会者をやったり、CMにも出演するなど、お茶の間にまで顔を売る一方、海外のミュージシャンとのコラボレイション(グローブ・ユニティ・オーケストラへの参加など)も積極的に続け、活動の幅を地球規模に広げていった。70年代からの仲間ビル・ラズウェルがプロデュースしたハービー・ハンコックの『Sound-System』(84年)などは、参加作品の中でも特に有名だ。


資生堂 CM(88年)


ハービー・ハンコック『Sound-System』の近藤参加曲 “Sound System”

 人気も金もあった近藤は、しかし93年に突然IMAを解散し、アムステルダムへ移住。そして〈地球を吹く〉という新しいプロジェクトを掲げて、大自然の中で空や山や海や砂漠や星に向かってラッパを吹き始めたのだった。件のインタヴューの中では、当時のことをこう回想している。
 「80年代にIMAを作った理由は、20世紀のすべての音楽を日本人の自分なりに統合してやろうと思ったからなんだ。フリー・ジャズ、ファンク、パンク、ロック、日本の民俗音楽……そういったすべての要素を混ぜ合わせて、我々日本人がどんなグルーヴの音楽を作れるのか、挑戦した。実際、その目論見以上の反響があったけど、それは元々俺にとっては最後のまとめだった。だからIMAも90年代初頭にはおしまいにして、次に行った。21世紀の音楽をイメージして」
 つまり近藤の中では、“21世紀の音楽をイメージする”=“大自然に向けて演奏する” ことだったわけだ。彼は「ねえちゃんからネイチャーだな」と笑いをとりつつ、こう続ける。
 「21世紀の音楽と20世紀の音楽の決定的な違いは何か……その一つは、ネイチャーだ。人類史上最大の都市文明が開化したのが20世紀であり、その音楽は都市の中で生まれ、消費された。音楽は人間どうしのコミュニケイション・ツールになった。99.9%の20世紀音楽は、客に聴かせるためのものだった。神に向かって演奏したり、火山に向けて祈るような音楽は、20世紀には誰もやらなかった。そこで、“自然との関係性を考えた音楽” というテーマが俺の中で出てきたわけだけど、それは、昔から目指していた “日本人ならではの音楽” というもうひとつのテーマとも矛盾することなく、そのまま〈地球を吹く〉プロジェクトにつながっていったんだ。当然テクノロジーの発達を認めた上でなくては新しい表現もないと思うので、トランペットもエレクトリックにしなくてはいけないし、デジタル・サウンドもはずせない」


〈Blow The Earth ~地球を吹く〉シリーズからペルー編

 ちなみに、〈Apollo/R&S〉からもリリースされ評判になったDJクラッシュとのコラボ・アルバム『記憶 Ki-Oku』(96年)や、端唄の栄芝師匠との共演作『The 吉原』(03年)なども、彼の中では何の違和感もなく「21世紀の音楽」として生まれた企画だったはずだ。
 こうして20年近く世界各地で大自然とひとりで格闘し続けた近藤は、2012年には再び東京に拠点を戻し、既に始めていた〈地球を吹く~日本編〉を続行。翌13年にはドキュメンタリー映画『地球を吹く in Japan』を発表した。


『地球を吹く in Japan』から

 近年は、アムス時代に録りためた膨大な量の音源を自身の〈Toshinori Kondo Recordings〉から次々とリリースしつつ、2018年にはIMAを再編(近藤等則IMA21)するなど、旺盛な活動を続けた。亡くなった2020年10月17日の翌日にも、イラストレイターの黒田征太郎、ドラマーの中村達也とのコラボでライヴ・ペインティング・パフォーマンスをやることになっていた。何の前触れもなく逝ってしまったのは悲しくはある。だが、その唐突さもまた、一瞬も立ち止まることなく走り続けた近藤らしい最期だとも思える。
 「俺は21世紀の音楽という自分のコンセプト、ヴィジョンを人に語ることはなかったけど、これからはしっかりと語りかけてゆきたい。ネイチャー、スピリット、テクノロジーという三位一体をベイスにして新しい音楽を作ろうと呼びかけてゆきたい」とギラついた目で語られた力強い言葉の先にどんな風景が現れるのか、見たかったけど。黙祷。

Sleaford Mods - ele-king

 今日では、音楽なんぞにとくに興味がない人でもモッズパーカは知っているし、着ていたりもする。それはラモーンズも聴いたことのない人が穴の空いたジーンズを穿いているのと似ている。「すべて売り物~」と歌ったのはアーント・サリー時代のPhewだが、いにしえの抵抗のアイテムもおおよそすべて商品化されている現代では、スキンヘッズのユニフォームすらも一般的なファッションアイテムになっている。ああ、いま、ホンモノのモッズは何処に……
 批評家マーク・フィッシャーは、ディック・ヘブディジ(社会文化研究者の草分けで、『サブカルチャー』が有名)のモッズ論を引用しつつこう書いている。「60年代のモッズは、たとえ脂っぽいチップスやパーカ、スクーターやグリース、ギャングやクラブでさえも、グラマラスな夢のなかのものとして存在していた。スリーフォード・モッズに残っているものといえば、ポテトチップスとグリースぐらいだが」
 
 スリーフォード・モッズのジェイソン・ウィリアムソンは、90年代のブリット・ポップの熱狂に乗れなかった若者のひとりだった。勘が働いたのだろう。あのときの浮かれたイギリスにおいては、オアシスにせよブラーにせよ、どちらもモッズ・ファッションで、それがまた英国のポップの象徴として機能した。ジョイソンはその波には乗らなかった。が、ジェイソンはスクーターに乗り、やがて“モッズ”を名乗った。
 モッズは貧乏な労働者階級の文化から来ている。ジェイソンがいまモッズを名乗ることにはそんな意味も含まれている。また、いまもなおモッズでいるというのは、彼らの年齢を思えばレトリックでもありユーモアでもあるのだろう。それは彼らの政治性ともリンクしている。60年代のモッズがスクーターに乗って着飾ることは、その時代の若者にとって実現可能でささやかな資本主義的な快楽でもあった。

 資本主義(経済)というのは、スリーフォード・モッズにとって大きなテーマだ。『緊縮時代の犬ども(Austerity Dogs)』というのが彼らの出世作だったが、彼らの音楽は、働く人たちを追い込んでいる、現在の新自由主義がもたらす諸問題に政府が充分に対応してきれていないことに腹を立てている。ザ・クワイエタスはスリーフォード・モッズをこう表現している。「賃金の停滞、インフレ、福祉国家の崩壊に直面しながら働いている人たちの絶望感、現在のイギリスの窮地をこれほど要約しているバンドは他にいない」
 我々に言わせれば、「現在イギリスのメディア(右翼系を除く)からこれほど好かれているバンドは他にいない」である。いまやストームジーと並ぶ存在だ。最近は、アイドルズとのディスり合戦(アイドルズが労働者階級を装っていることへのクレームが発端)を繰り広げると、ファット・ホワイト・ファミリーが参戦してスリーフォード・モッズの味方をしたりと、場外乱闘でも話題を提供している。
 フィッシャーいわく「都会的な魅力や軽快な叙情性ないしは素朴なロマン主義、こういったものの欠如はイギリスではもっとも愛されない」と、そしてそれがスリーフォード・モッズである。ジェイソンは堂々と広く愛されないアクセント(訛り)で歌っている。その「極端な怒りは、イギリスの政治の失敗に対する階級意識の鋭さによって力説される」。そして今年はベスト盤が国内チャートで1位になったりと、スリーフォード・モッズはいまや歴としたイギリスを代表するバンドのひとつなのだ(つまり、すっかり愛されてしまった!)。来年の1月には新作が出るとのことで、アルバムのタイトルは『Spare Ribs(代わりの肋骨)』。絶望感をいだきながら働いている人はぜひ耳の穴にぶち込んでくれ。新曲がまた最高で、MVも最高。暗い時代のなかで明るい気持ちを抱かせてくれるのはたいていこんな奴らじゃない?

Sleaford Mods - Mork n Mindy


「俺たちの命は、ほとんどの政府にとって消耗品であり金融制度システムの下では二の次に過ぎないものだ。俺たちは家畜のようなものであり、利益を得るための棚の上の部品であり、何らかの危機ーそれが捏造されたものであれ、捏造されていないものであれーが起こり、生産性を脅かすことになれば、すぐにでも破棄される。これは不変なことで、特に現在のパンデミックではそれが明らかにそして顕著になった。…人間の体が、全ての肋骨(Ribs)なしでもまだ生き延びることができるのと同じように、俺たちは皆、資本主義が維持されるための“代わりの肋骨(Spare Ribs)”であり、無知と遠隔的な支配のせいで、パーツ交換が可能な存在なんだ」
──ジェイソン・ウィリアムソン

Sleaford Mods
Spare Ribs

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2021/01/15 FRI ON SALE
DesertSessions
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 90年代前半、レア・グルーヴのムーヴメントでジャズを聴きはじめた人たちは、まずはジャイルス・ピーターソンら元祖ジャズDJたちがヘヴィプレイしていた〈Prestige〉の10000番台(*1)や〈Blue Note〉のBNLA期(*2)からはじまり、さらに奥深く掘っていくうちに、この〈Black Jazz Records〉や、〈Strata-East〉というレーベルにたどり着くのがお決まりコースでした。

*1:60年代末、名門ジャズ・レーベル〈Prestige〉の品番10000番以降はオルガンを多用したグルーヴのあるいわゆるソウル・ジャズと呼ばれるサウンドが主流になる。
*2:〈Blue Note〉レーベルのBNLAから始まる品番の時期はエレクトリックな楽器が多用され、ソウル~ファンクの影響を強く受けたフュージョンの元祖的なサウンドで人気を博した。

 1969年にカリフォルニア(オークランド)で設立された(初リリースは1971年)〈Black Jazz Records〉。1971年にニューヨークで設立された〈Strata-East〉。同時代でその性格も非常によく似たアメリカ東西のこのふたつのレーベルは、レア・グルーヴ的にほぼ同時に再評価され、スピリチュアル・ジャズという新ジャンル(?)をDJたちがでっちあげるきっかけとなった2大レーベル。共に多くのタイトルがリアルタイムで日本盤もリリースされており、シリアスなジャズ・ファンから無視されていた90年代前半までは捨て値で日本の中古レコード店で容易に見つかったことがレア・グルーヴ好きやDJたちにおける、世界的にもいち早かった日本での人気に拍車をかけたに違いありません。

 〈Black Jazz Records〉と〈Strata-East〉とは、互いに強く影響し合ってはいたでしょうが関係のないレーベル。なのでいきなり長い余談から入ってしまいましたが、個人的に、いや一般的にも、少なくとも日本では上記の理由でこのふたつのレーベルは切っても切り離せないはず。長くなるので端折りますが、とにかく今回のリイシューで〈Black Jazz Records〉が気になったビギナーには、余計なお世話かもですが〈Strata-East〉もぜひ聴いていただきたいものです。

 キーボーディストのジーン・ラッセルと、パーカッショニストのディック・ショリーによって設立されたレーベル、〈Black Jazz Records〉。この「Black」とは人種のことであり、思想性が強いレーベルでありながら、そういったレーベルにありがちなフリー・ジャズに陥ることなく、タイトなドラム、地を這うようなベース、そのシンプルで強いリズム隊にフェンダーローズなどのメロウネスも加わったサウンドでファンクネスを体現。同時代の名門ジャズ・レーベルもファンク路線に走ったけど、その思想性からくる(?)暗さ、重さのレベルが全然違っていました。レア・グルーヴからジャズを聴きはじめて到達した人たちはそこにヤラれたに違いないです。暗くて重いのに踊れるサウンドは新しかった。

 1971年から1975年までに、パーカッシヴなピアノが特徴的なレーベル・オーナーのジーン・ラッセル、後のディスコディーヴァで讃美歌のように歌っていたジーン・カーン(アルバム名義は夫のダグ・カーン)、分厚く重いウッドベースを弾くヘンリー・フランクリン等のアルバムを20枚リリース。その統一されたアートワークもレア・グルーヴ好きの物欲はもちろん、サンプリング・ソースを探すヒップホップDJたちの琴線も刺激しました。

 これまた余談ですが、ディック・ショリーはイリノイ州シカゴ近郊を拠点とするレーベル、〈Ovation Records〉のオーナーでもあったので、〈Black Jazz Records〉もシカゴのレーベルだったっけな? と時々混乱するのは私だけでしょうか。

 〈Black Jazz Records〉と聞いてまず私の頭に浮かぶのが、いくつかのタイトルのオリジナル盤において、向こう側が透けて見えそうというか、ソノシートかと思ってしまうほどの薄い盤があるということ。「オイルショックによる原材料費高騰によって薄くなったのでは?」と90年代当時は言われていたけど、いまでは「RCAが開発した薄くて高音質なダイナフレックス盤と関係あるのでは?」説が強い。というのも設立者のディック・ショリーは音楽家でありながら、元々はRCAの技術者でもあった人で、60年代のRCA高音質盤であるダイナグルーヴ盤の開発にも関わっていたとか。〈Black Jazz Records〉、〈Ovation Records〉共に4チャンネル、クアドラフォニック盤が多く、オーディオへの強いこだわりが明らかなのはそういうこと。

 そこら辺の詳しいことはオーディオマニアに任せるとして、〈Black Jazz Records〉のオリジナル盤はその盤の薄さゆえに、中古レコード屋で見つけたときに、喜びながらも「これ、ジャケットだけで中身(レコード盤)が抜かれているんじゃないか……?」という不安をレコード・ディガーなら一度は持ったことがあるはずですよね。それを分かち合いたくて書いてみました。Black Lives Matter の時代に〈Black Jazz Records〉が再びリイシューされるのは非常に意味があることなのに、こんなどうしようもないあるあるネタ的なことに多くの字数を割いてしまいました。すいません。

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Gene Russell / New Direction (1971)
レーベル第一弾はレーベル・オーナー自らのリーダー作。ピアノ・トリオにコンガを加えた編成で、まだジャズ・ファンクというより、ヤング・ホルト的なジャズ・ロックな内容。“Listen Here” のヘンリー・フランクリンによるブンブンなベースはいかにも〈Black Jazz Records〉ですね。

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Walter Bishop Jr. / Coral Keys (1971)
タイトル曲は、6年後の1977年に〈Muse〉レーベルからリリースされた自身のアルバム『Soul Village』でも再演した彼の最高傑作のひとつ。ハロルド・ヴィックやウッディ・ショウ、イドリス・ムハンマドなど〈Black Jazz Records〉には珍しく有名どころのジャズマンが参加。

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Doug Carn / Infant Eyes (1971)
ディー・ディー・ブリッジウォーターのデビュー作『Afro Blue』のヴァージョンがDJ人気の “Little B's Poem” 収録。ディー・ディーよりこちらが先だし、個人的には断然こちら。実はこの曲、ヴォーカルのジーン・カーン名義で7インチ・シングルカットされております。コルトレーンの “至上の愛” のカヴァーも最高のアルバム。

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The Awakening / Hear, Sense And Feel (1972)
〈Black Jazz Records〉がリリースした唯一のグループ作。おまけに西海岸ではなく、AACMとも関わりがあるメンバーが在籍するシカゴのグループ。〈Cadet〉レーベルの多くの作品に関わり、シカゴ・ソウルを代表するアレンジャー、プロデューサーであるリチャード・エヴァンスがベーシストとして一曲だけ参加。という風にレーベルの中では特異な作品ながら、そのサウンドはまさしくドンズバな〈Black Jazz Records〉。

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Gene Russell / Talk To My Lady (1973)
個人的に〈Black Jazz Records〉で一番好きな曲 “Get Down” 収録のアルバム。これもヘンリー・フランクリンの極太ベースのイントロ、そこにこれまた極太ドラムが入る瞬間が最高なシンプルなジャズ・ファンク。この曲は違いますが、多くの曲でエレクトリック・ピアノを使用。その音色がまた、まさに〈Black Jazz Records〉。

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Kellee Patterson / Maiden Voyage (1973)
フリーソウルとしても紹介されたせいか、90年代の日本では本作が〈Black Jazz Records〉の中で一番人気でした。フリーソウル人気は “Magic Wand Of Love”。ジョアン・グラウアーのアップテンポなヴァージョンがDJには知られる “See You Later” はおそらく本盤が初出。

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Roland Haynes / 2nd Wave (1975)
本作しか作品が確認されていない詳細不明な謎のキーボーディストのリーダー作。レーベル・カタログの中でも特異な劇画調イラストのジャケットがさらに謎を深くさせている。謎ではないキーボーディスト、カーク・ライトシーとのツインキーボードにリズム隊という面白い編成。ふたりが奏でるキーボードの音色はやはりドンズバ〈Black Jazz Records〉。

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Cleveland Eaton / Plenty Good Eaton (1975)
ラムゼイ・ルイスやドナルド・バードのグループで活動したベーシスト。ヴォーカルやコーラス、ストリングスを多用したディスコ寄りのサウンドは〈Black Jazz Records〉の中でも最もゴージャス。まるでブラック・ムーヴィーのサントラのようでもあります。

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Calvin Keys / Shawn-Neeq (1971)
パット・メセニーが彼に捧げた曲を書いたことでも知られるギタリストのファースト。ジャケ写のツラ構えから聴かずして最高の内容だとわかる処女作にして最高傑作。ギターは言うまでもなく、アルバム通してラリー・ナッシュのエレクトリック・ピアノ(フェンダーローズ)も素晴らしい。エレクトリック・ピアノも〈Black Jazz Records〉のサウンドを特徴づける重要な楽器。

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Rudolph Johnson / Spring Rain (1971)
いわゆるスピリチュアル・ジャズというよりも、ファンク色も控えめのモダン・ジャズなサウンドで、そんなところが〈Black Jazz Records〉では特異な1枚。30年ほど前に、当時好きだった女の子のために作った初めてのミックス(テープ)に “Fonda” を入れたので、個人的にも超重要アルバム。

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Henry Franklin / The Skipper (1972)
ヒュー・マセケラやフレディ・ハバードなど有名どころのアルバムにも参加のベーシスト。〈Black Jazz Records〉特有の這うような重いベースは大抵、彼が担当。自身の初リーダー作である本作ではヘヴィなだけではないメロウな面を見せております。DJ Mitsu The Beats の人気ミックスに収録された “Little Miss Laurie” はまさしくそれ。

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現在、〈Black Jazz〉作品のリイシュー・プロジェクトが進行中です。2020年最新リマスター音源を使用、それぞれLP/CDの両フォーマットが用意されています。今後も続々とラインナップは増えていく予定とのことで、下記リンク先よりチェック!
https://p-vine.jp/artists/series-black-jazz-2020

ヴェイパーウェイヴは僕のカルチャーではないよ。僕のシーンではないし、自分があの一部だったこともなければあれをフォローしたこともなかったし、あの手の作品をあさった、みたいなこともまったくなかった


Oneohtrix Point Never
Magic Oneohtrix Point Never

Warp/ビート

ConceptronicaHypnagogic PopAvant Pop

 インタヴュー、その2。その1からの続きです。
 さて、彼の自伝の一部と言える新作『Magic Oneohtrix Point Never』からかぎ取れる孤独な感覚については、おそらく前回のインタヴューで本人が語っている。ニューエイジ解釈についても多弁を呈しているが、ひとつ言えるのは、最終的に彼はそれを嫌いではないということ。で、たしかにそれはmOPNにある。歪められた奇妙な音響として。

 ダニエル・ロパティンの言葉を読みながら、彼は昔チルウェイヴにも手を染めていたことを思い出したりもした。チルウェイヴにしろヴェイパーウェイヴにしろドリーム・ポップにしろヒプナゴジック・ポップにしろチル&Bにしろ、10年前のインディ・シーンに広く伝染したエスケイピズム──刹那的だが、その刹那においては永遠のまどろみ──は、10年経ってさらに拡散しているようだ。NYのロックダウンによってそれが加速したとしても不思議ではない。ロパティンは、偶然にも、なかば感傷的にそのまどろみを再訪してしまった。が、10年後のロパティンは、彼のインナースペースの記憶を、彼がかつて検査し、調査した夢と現実のはざま、ないしはユートピアとディストピアの揺らぎをコンピュータにコピーすると、こなれた手つきで調整するかのようにそれらを対象化し、彼なりのポップ作品にまで仕上げたと。それがmOPNなる新作の正体ではないのだろうか。本人も認めているように内省的な作品だが、親しみやすい音響に仕上がっていると思う。
 御託はこの辺にしましょう。今回もまた、ロパティンがとことん正直に話してくれています。

そういえば、TINY MIX TAPESというWEBメディアが2019年の終わりに「2010年代のもっとも好きな音楽」として、あなたのChuck Person名義の作品『Chuck Person's Eccojams Vol.1』(2010)を選んでいましたが、ご感想をお願いします。

DL:光栄に感じた。ただ、と同時に僕には難儀でもあったっていうか……だから、自分は必ずしも、あのウェブサイトをやってる連中と同じような喜びとともにあのレコードを聴けるわけじゃない、と。あの音源があそこまで他の人びとにとって意味を持つというのには、自分も本当に「わあ、そうなの?」と興味をそそられる。
 あの作品を作ったときはほんと、自分はとにかく……直観的に作った、みたいな。自分を駆り立ててあれを作らせたものがなんなのか自分でもわからないし、意図的にやったところは一切なくて。とにかく「これをやる必要がある」と自分は感じていたし、その通りにあの作品をやって、その結果を人びとがああして気に入ってくれたのは、自分にとってショックであったし、と同時にありがたい恩恵でもあった。
 だけど僕にとっては非常にこう、(苦笑)理解しがたいんだよね、他の人びとがあのレコードに見出す重要性というものは……。いや、もちろんそう評されるのは素晴らしいんだよ! とてもワンダフルだし、自分の作り出した何かがいまだにこれだけ長い時間が経ってもなお人びとの心を動かしている、みたいなことであって、それはとても感動的なんだけどね。

アンビエントやドローンの文脈で出会った我々のようなリアルタイムで聴いてきたリスナーからすると、『Eccojams Vol.1』と同じ年の『Returnal』のほうが圧倒的にインパクトが大きいですし、『Replica』(2011)や『R Plus Seven』(2013)の当時の評価も高かった。なので、後々になって一部のリスナーが『Eccojams Vol.1』のほうを強烈に評価するというのは興味深く、やや不思議でもあります。

DL:うん、そうだよね。僕もいつも困惑させられるんだ、なぜなら自分にとっては──それがなんであれ、いま自分の取り組んでいる最新のものこそ自分に作り出せるベストなものになっていくだろう、そう思ってやっているからさ。だって、僕は生きているんだし、さらに良くなろうと努力しているところで、正直になろうと努めてもいる。だから僕からすれば常に、「頼むから、どうか自分の最新作をいちばん好きな作品にしてください!」みたいな(苦笑)。ところが……うん、僕にしても微妙なところだよ、あの作品は実にナイーヴなやり方で作ったわけだし。でも、と同時に自分にとってそれはとても素晴らしいことでもあるんだけどね。だから、あの作品を聴くとこう、自分の……無垢さを聴いて取れる、みたいな(照れ笑い)。
 当時の自分はオーディオ・エディターの使い方すらロクに知らなかったわけで、とにかくひたすら手っ取り早く薄汚いやり方で何かを作っていた。それってとても……っていうか、僕にとっては実際、そっちの方がはるかにセラピー効果のある音楽なんだよな、ニューエイジ・ミュージックを過剰に参照している類いの音楽よりも。なぜなら僕は自分自身を癒す手段としてあの音楽を作っていたから。退屈な仕事の時間しのぎとして何か作りたいなと思ってやったことだったし、あの音楽を作ることで自分もリラックスさせられたんだ。

もしかしたらそれは……コロナウイルスにまつわって生じた実存的な恐れの感覚、そことも少し関わっているのかもね? ここしばらくの間に自分が家族や友人連中と交わした会話、そのすべてはすごくこう、みんながそれぞれの人生を振り返り思索している感じだったし──だから、「一体どうして我々はこの地点にたどり着いてしまったんだろうか?」という。

日本ではあなたがヴェイパーウェイヴの重要人物のようになっていますが、いかが思われますか? 

DL:ああ、あれは僕からすれば、自分のカルチャーではないね。どうしてかと言えば、あれは一種、『Eccojams』に反応した一群の若い世代の連中、みたいなものだったわけで。彼らはなんというか、『Eccojams』をもとにして……それを様式化した、という。で、僕にとっての『Eccojams』というのは基本的に言えば……いやだから、あれが一種の青写真だった、というのはわかるよ。ごく初期の頃に、自分でもこう言っていたのは憶えているからさ、「これは、『誰にだってやれる』という意味で、フォーク・ミュージック(民族音楽)みたいなものだ」って。クッフッフッ! 要するに、ゴミの山にどう対処すればいいか、その方法がこれですよ、みたいな(苦笑)。

(笑)なるほど。

DL:そうやってゴミを興味深いものにしよう、と。で、思うにそこだったんだろうね、人びとがとくに興味を惹かれた点というのは。だから、あれは個人的かつキュレーター的な作法で音楽にアプローチする、そのためのひとつのやり方だったっていう。でも、ヴェイパーウェイヴは違うな、あれは僕のカルチャーではないよ。僕のシーンではないし、自分があの一部だったこともなければあれをフォローしたこともなかったし、たとえばBandcampでさんざん時間を費やしてあの手の作品をあさった、みたいなこともまったくなかった。まあ、ラモーナ(・アンドラ・ザビエル:Ramona Andra Xavier aka Vektroid他)のことは知っているけどね。僕たちは初期の頃に話をしたことがあったんだ。そこでとても興味深い会話を交わしたし、彼女は素晴らしい人物であり、コンポーザーとしても優秀だよ。ただし、自分は彼女とは違う類いのコンポーザーだと思ってる。

でも新作は、まさにこうしたOPNをめぐる理解と誤解を楽しんでいるあなたがいるように思ったのですが、いかがでしょうか? というのも、前作、前々作と比べるまでもなく、あなたのキャリアのなかでも明るい作品というか、funな感じが出ていますよね? 

DL:うんうん。

その意味でも、初期=『Eccojams』期のイノセンスを少し取り戻した、それが新作に作用したのかな?とも思いましたが。

DL:ああ、それは間違いなくある。自分にもそれは聴き取れるから。で、これってある意味、自分が話してきた、長いこと言い続けてきたようなことなんだけども(苦笑)──だから、「単に他の音楽を素材に使って『Eccojams』をやるんじゃなくて、自分自身を『Eccojam』(エコー・ジャム)してみたらどうだろう?」って(笑)。

(笑)それはすごくメタですね。

DL:うん。でも、それに、そっちの方がもっと合法的だし。(編注:もともとヴェイパーウェイヴは既存の曲の無許可なルーピングを元にしている)

(笑)。

DL:ハッハッハッハッハッ! (作者が同じなので)そんなに僕の名前をクレジットに記載してくれなくてもいいよ、みたいな(笑)。という冗談はともかく、うん、その意見には同意する。明るいし、カラフルで……『Magic Oneohtrix Point Never』収録のアンビエントなピースの多くは、僕の耳には、僕が僕自身を「エコー・ジャム」しているように響く。うん、たしかに。

そもそもなぜタイトルが『Magic Oneohtrix Point Never』、先ほどおっしゃっていたようにセルフ・タイトルなんですか?

DL:……自分にもわからない! もしかしたらそれは……コロナウイルスにまつわって生じた実存的な恐れの感覚、そことも少し関わっているのかもね? ただ……自分でもどうしてあのタイトルにしたのかわからないんだ。とにかくそういうタイミングだった、というか。ここしばらくの間に自分が家族や友人連中と交わした会話、そのすべてはすごくこう、みんながそれぞれの人生を振り返り思索している感じだったし──だから、「一体どうして我々はこの地点にたどり着いてしまったんだろうか?」という。

ええ。

DL:「この状況に自分たちを引っ張ってきたのは何? 何が起きてこうなったんだ?」と。彼ら自身の送ってきた人生、世界、そして政治や何やかやにおける人生を振り返っていて……だから一種の、(これを機に)自分たちの人生を査定する、みたいな感覚があったっていう。もしかしたらそれが(このタイトル命名の)由来の一部かもしれないよね? 
 でも、それと同時に……単純に、音楽そのものに対するリアクションっていう面もあったと思う。今作をまとめていく過程で、「この曲、それからこの曲を入れよう」って具合に楽曲群のなかから選んでいったわけだけど、そうするうちに自分に何かが聞こえてきた──「この曲、これはセルフ・タイトルのレコードみたいに聞こえる」と感じたんだよね。それとは別の曲群ではまったくそう感じなかったし、それよりもあれらの楽曲群はもっと、特定の、音楽的な美学の世界の方と関わっているように思えた。ところが、この曲、これは自分にとっては音楽的にとても自伝的なものとして響くぞ、と。過去に遡って、自分がひとりで何もかもやっていた頃、00年代初期あたりの自分を思わせるものがある、と。

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アルバムというフォーマットが死を迎えても、僕はかまわないけどね(笑)。世界はそういうものだ、というだけのことだよ、そうやって世界はどんどん変化しているんだし。それに自分は……戦略的に「これはこういう風に」と狙って何かやろうとしたためしがないんだ。


Oneohtrix Point Never
Magic Oneohtrix Point Never

Warp/ビート

ConceptronicaHypnagogic PopAvant Pop

アルバムの内容について訊きますね。ゲストのクレジットがない曲のヴォーカルは、(サンプル以外は)すべてあなたですか?

DL:うん。ヴォコーダーを使ってね。あれはこう……僕はずっと、ヴォコーダーを使ったレコードが好きで。ジョルジオ・モローダーの『E=MC2』(1979)だとか……

(笑)はい。

DL:ハービー・ハンコックの『Sunlight』(1978)等々、好きなものにはキリがない。ダフト・パンクだって『Discovery』(2001)以降、また使いはじめたし。いつもヴォーカルにヴォコーダーをつけてきたんだよ、だって、僕はシンガーではないからね。僕は、僕は……キーボード奏者だよ(苦笑)! だから、ヴォコーダーを使うと、自分の歌声をそのまま使ったり、たとえばそれにオートチューンをかけるよりもヴォーカル・メロディやハーモニーの面ではるかに興味深い、もっと流動的で、かつ豊かなものが手に入るんだ。というのも、自分はハーモニーという意味ではいまだに、自分の指で鍵盤を押さえるときほどクリエイティヴに考えることができないから。
 というわけで、僕にとってのこのレコードのサウンドと言えば、それになる。ほんと、ヴォコーダーにとても重点の置かれたレコードだ、というか。だから、(笑)仮にSpotifyのプレイリストに「これぞヴォコーダー作品だ」みたいな題のものがあって、『Sunlight』や『E=MC2』が並ぶなかにいずれ『Magic Oneohtrix Point Never』が含まれるようになったら、僕としてはとてもハッピーだよ、うん。

本作にはインタールードのような “Cross Talk” が4つ挟まれています。アルバム全体としては、ラジオの番組やチャンネルが変わっていく感じを意識しているそうですね。なぜいまラジオというある意味古いメディアに注目したんですか? 

DL:ふたつの理由があると思う。ひとつは、ニューヨークがロックダウンされていた、自主隔離生活を送っていた間に、友人たちがストリーミング・ラジオの番組をやっていて。もともとラジオは好きだったけど、あれをよく聴いていたのをきっかけに「Magic Oneohtrix Point Never」について考えるようになったし──というのもあの名前は、僕の育ったボストンにある、ソフト・ロックのラジオ局「Magic 106.7」(マジック・ワン・オー・シックス・セヴン)に引っかけた言葉遊びのようなものだから。
 最初に言ったように、僕はいつもラジオを聴いていたし、ラジオを録音したミックステープをずっと作っていた。とにかくリスニングするのが好きなんだ。ポッドキャストも、人びとのトークも、コマーシャルも、特殊音響効果等々も好きだし……とにかくラジオにある質感と色彩とが大好きで。子供だった頃からずっとそうだったし、あまりにも好き過ぎて、自らのプロジェクトをラジオ局にちなんで名付けたくらいだ。
 というわけで、もしも自分がセルフ・タイトルのレコードを作るとしたら──オーケイ、まず状況を設定する必要があるな、と。それって映画を作るようなものだし、さて、アルバムをどこに設定しようか? と。で、ラジオという設定に作品を据えたいと思ったんだ。

今年はラジオ放送が開始されてからちょうど100年です。そのことと関係ありますか?

DL:えーっ!?

アメリカで初めてライセンスを受けて商業ラジオが放送されたのは今から100年前にピッツバーグにて、とされています。なので、もしかしたらあなたがラジオを選んだのはそのせいもあるのか?と考えもしましたが……。

DL:(マジに驚いている模様)うわぁ………っていうか、ほんとに? アメリカで、最初のラジオ放送がおこなわれてから今年で100周年? ワ〜〜オ!

はい。この手の発明/テクノロジーの話だけに諸説あるかもですが──

DL:(苦笑)。

一般に、1920年の10月、ピッツバーグのKDKAという局が最初だった、とされています。

DL:ワ〜〜〜オ! 

でも、単なる偶然みたいですね。

DL:ああ、偶然だ。しかも、このレコードが出るのも10月だし。実に妙な話だね。

今日は配信全盛の時代で、音楽は単曲で聴かれることが主流ですが、この時代におけるアルバムの意義とはなんでしょう?

DL:ああ、僕にも見当がつかないな。アルバムってマジに死に絶えつつあるんじゃないかと思う(苦笑)。いやほんと、自分にはわからないし……だから、Spotifyの人は「アーティストもこれまでのように2、3年おきにアルバムを1枚作っていればいい、というわけにはいかない。コンスタントにトラックだのなんだのを作り続ける必要がある」(訳注:Spotifyの共同設立者ダニエル・エクが今夏「Music Ally」相手に語ったコメントのことと思われる。)みたいなことを話しているわけだし。どうなんだろう? なんとも言えないなあ。
ただ、アルバムというフォーマットが死を迎えても、僕はかまわないけどね(笑)。世界はそういうものだ、というだけのことだよ、そうやって世界はどんどん変化しているんだし。それに自分は……戦略的に「これはこういう風に」と狙って何かやろうとしたためしがないんだ。仮に、自分がその方向に向かうとしたら……だから、思うにティン・パン・アレー系の音楽(訳注:ティン・パン・アレーはマンハッタンにあった楽譜/音楽出版社他の多く集まったエリア。転じて、職業作曲家とパフォーマーとが分業制の商業主義ポップスの意味もあり)の興味深いところというのは、あの手の歌って尺がとても短かったわけじゃない? それはどうしてかと言えば、フォノグラフ盤に収録できる音楽の長さには物理的に限界があったからだ、と。オーケイ、なるほど。
 ってことは、別に悲しむべきことじゃないんだよ、これは。とにかくテクノロジーと美学とは、歴史を通じてそうやってずっとダンスを続けてきた、ということに過ぎない。だから、奇妙な(笑)、ダーウィンの進化論めいた自然選択が起こり、音楽が楽曲単位の各部に細切れにされるようになり、レコードという概念が古風で古臭いものになったとしても、それはそれでオーケイなことであって。
 ただし、僕はレコードを愛しているけどね。レコードを聴くのが好きだ。だから僕も単に、自分の育った時代、その産物だってことなんだろうな(苦笑)。自分にはわからないけど、でも、うん、それはそれでオーケイ、ありなことだよ。

ASMRの人気についてはどう見ていますか? 

DL:うん、すごく、すごーく興味深い現象だよね。あれはもしかしたら、孤独感……人びとの抱く寂しさとどこか関係があるんじゃないかな? 親密な繫がりの欠如、そこと何か関係があるんじゃないかと思う。というのも、密な繫がりがあり、他の人びとと近い間柄を保てていれば、ASMRは常に身の回りで起きているわけで。その人間の日常に密接な繫がりが欠けている、もしくは他との接触を絶たれていて孤立した状態だったら、ASMRを得る何かしら別の方法を見つけなくちゃならなくなるのかもしれない。うん……非常に興味深いし、かつ、ある意味とても美しくもある現象だ。
で……今回のレコードのなかにも一カ所、僕からすればASMRな瞬間が訪れる場面があって、それはアルカの参加曲。あのトラックを聴いてもらうと、彼女がヴォイスを使って「S(エス)」というぶるぶるしたサウンドを生み出しているのが聞こえる。僕は彼女のヴォーカルおよびその周囲をこう、サウンド・デザイン等々を通じて、ある種非常に親密に響くようなやり方で提示した、という。あれはとても興味深い、彼女特有のものだし、彼女がやりたがったのもそれだったんだよ、ただ「エス・エス・エス……」と繰り返し発語する、みたいなこと。あれは本当にクールだった。
 でもまあ……(軽く咳払いして)ASMR人気がどうして起きているのか、それは僕にもわからない。ただ、思うにそうした現象が浮上するのは、おそらく人びとが「親密な繫がりが足りない」と感じているときなんじゃないか? 。

いまおっしゃったように、“Shifting” にはヴォーカルでアルカが参加しています。2010年代、OPNとアルカはエレクトロニック・ミュージックの最前線を駆け抜ける二大巨頭のような存在でした。10年代が終わり、その両者がコラボするに至ったことに大きな感慨を覚えます。かつて、そして現在、アルカの音楽についてはどのように思っていました/いますか?

DL:ああ、彼女はとんでもない才能を持つクリエイターでありヴォーカリストだ。彼女の音楽は本当にずっと好きだったし、知り合って結構経つけど、僕たちはいつも「一緒に何かやろう、何かやろうよ」と言い合っているばかりでね(笑)。で、遂にはお互いウンザリしたというか、「いつまでこうして無駄話を続けるつもり?」みたいな。

(笑)話してるばかりじゃなく、やろう、と。

DL:(笑)そうそう、「とにかくやっちゃおう!」と。でも……そうだね、お互いのクラフトに対する、素敵な称賛の念(苦笑)を共有しているよ。彼女の音楽は聴いていてとても共感できるし、メロディ面でも同様で、たまに「ああ、なんて綺麗なメロディなんだろう!」と感じることもあって、昔からの友人みたいに思える。だから、言葉を交わすまでもなく理解し合える誰か、みたいな。それに僕は好きなんだ、常に惹かれてきたんだよ、こう……クレイジーでスキゾな音楽を作っているアーティスト、ジャンクのように聞こえるというか、彫刻的にごちゃっとした混沌の塊で、でも聴いているうちに形をとってまとまっていく音楽を作っているアーティストたちに。そういうタイプのアーティストに常に惹きつけられてきたし、それはアートの分野を問わずでね。
というのもそれって、とある人びとが見ている現実というものの眺め、そのもっとも興味深い表現の仕方のように思えるから。で、彼女はとにかく、そこに音楽で生命を吹き込むのが最高に上手いんだ。僕は常にそこに感心させられてきたし、強く心奪われてもきたね。

最後は “Nothing’s Special (特別なものはなにもない)” という曲で終わります。これは何を意味していますか? まさに本作の本質を自ら明かしているとか?

DL:んー、あのタイトルの二重の意味が気に入っているんだ。だから、あそこから所有格の「‘(s)」を抜かすと「nothing special(どうってことない/これといって別に、といった意)」という、いささかシニカルな意味合いにとれる。でも「’」を足すと「特別なものはなにもない」になり、まあ、一種の禅っぽい在り方ってことだよ。
あの歌にはちょっとこう……とても悲しいときはどんな風に感じるか、それについて考えをめぐらせてみた、みたいなところがあるね。だから、思い出すわけだよ──たとえこの、悲しみのどん底みたいなものにある状態ですら、人は思い出しているんだよ、「自分は悲しみを感じている」って風に(苦笑)。ただ単に悲しいのではなく、悲しみというものを「感じて」いるっていう。で、何かを感じるというのは形状を伴うものだし、それは吟味・検討の形状であり、すなわち生きているということの形だ、と。で、「nothing is special」というフレーズは、ある意味ものすごい悲しみ、自分にはなにも信じられないという状態のことだけど、と同時にそれはまた、悲しむのもひとつの興味深い感覚であることを思い起こさせてくれる、という。あれはだから、メランコリーについての歌だね。

もう予定時間も過ぎていますし、これで終わりにしようと思います。今日は、お時間をいただいて本当にありがとうございます。

DL:どういたしまして。

わたし個人も、このアルバムをとてもエンジョイしています。美しくまとまっていますし、曲の間に挟まるクロス・トークも面白いです。

DL:(笑)うんうん、あれね、あれは自分でもやってて楽しかったよ。ともあれ、ありがとう。

former_airline - ele-king

 90年代後半より活動をつづける久保正樹によるソロ・プロジェクト、former_airline のニュー・アルバム『Postcards from No Man's Land』が、なんと、イアン・F・マーティン主宰の〈Call And Response〉より10月28日にリリースされている。フォーマットはカセットテープ(ダウンロード・コード付き)と配信の2種。バンドキャンプで買えます。パンデミックの最中に制作されたという本作、シューゲイズやポストパンク、クラウトロックから影響を受けたサイケデリック・サウンドをお楽しみあれ。

former_airline
「Postcards from No Man’s Land」
2020/10/28リリース

久保正樹によるソロ・プロジェクト。いくつかのバンド活動を経て、90年代後半よりギター、エレクトロニクス、テープなどを使用した音作りを始める。2000年代後半より former_airline 名義で活動開始。J・G・バラードにも例えられる音世界は、ときに「サイファイ・サイコ・エロチシズム」、「ディストピアン・スナップショット」などと称されたりもする。カセットテープを中心に、日本、イギリス、アメリカ、ドイツ、フランスほか世界各国のレーベルより8枚のアルバムをリリースしている。
今回のフルアルバム『Postcards from No Man's Land』に収録された曲のいくつかは2019年に録音され、多くは2020年に新型コロナウィルスによるパンデミックのなか自宅にこもり録音されたもの。

久保は、この過渡的な状況において、アルバム制作を通じて表現をすることが重要だと語る:
「このアルバムは、何気なかった日常が遠い思い出と消え行き、新しい普通とともに世界が大きく変わってしまう前後の音の記録として、どうしても『いま』リリースしたかった作品で、そこに残されたいまだ知らない空虚を見つめ、したためた便りのようなものです」

former_airline の音楽は、21世紀のパニックと情報過多を表現しているが、それを超えて希望に満ち忘られている未来が、世界を悩ましている精神的な夢の空間へと導いているよう。アルバム『Postcards from No Man’s Land』では、閉所恐怖症的な感覚、モートリック、アーバン、インダストリアルな要素がドリーミー、サイケデリック、トランスの要素へ途切れなく溶け込んでいく。
ポストパンク、クラウトロック、ミニマルウェーブ、シューゲイズ、ダブ、アシッドハウスからの影響を受けていながらも、former_airline はそれらを受け入れて、楽観的で今のカオスに根ざした彼自身の音の世界を作り上げている。

Artist website: https://formerairline.tumblr.com
Artist Twitter: https://twitter.com/former_airline_
Label website: https://callandresponse.jimdofree.com

CAR-44
『Postcards from No Man's Land』
Side A
 In Today's World
 Geometries of the Imagination
 Insane Modernities
 On the Sea of Fog
 Dubby the Heaven
Side B
 Paint This December Blue
 Destroy What Destroys You
 Walking Mirrors
 S. Sontag in the Psykick Dancehall

Format: カセットテープ+DLコード / Bandcamp
Price: ¥1500+tax

11/8 (日) ONLINE RELEASE EVENT
スタート 20:00 JST
LIVE:
・former_airline
・Demon Altar
https://www.twitch.tv/callandresponse

Rob Mazurek - Exploding Star Orchestra - ele-king

 今年出たジェフ・パーカーの『Suite for Max Brown』でも顔をのぞかせていたけれど、90年代からガスター・デル・ソルやトータスジム・オルークステレオラブらの諸作に参加し、トータスのジェフ・パーカーとはシカゴ・アンダーグラウンド・トリオ~クァルテットやアイソトープ217を組んで、ポストロックとリンクする活動をつづけてきたジャズ・コルネット奏者のロブ・マズレクが新たなアルバムをリリースする。先行公開中の下記 “A Wrinkle in Time Sets Concentric Circles Reeling” を聴けばわかるように、いまなお刺戟的なジャズに挑戦しつづけているようなので、ぜひチェックを。発売は12月16日。

Rob Mazurek - Exploding Star Orchestra
Dimensional Stardust

ジェフ・パーカーやジョン・ハーンドン、チャド・テイラーらシカゴ音響派時代の朋友から、〈Blue Note〉より鮮烈なデビューを飾った新鋭ジョエル・ロスまで参加の、ジャズ・コルネット奏者ロブ・マズレク率いるエクスプローディング・スター・オーケストラ待望の新作!!
ハードバップからポストロックまでをプレイしてきたロブ・マズレクが到達した、前衛ジャズと現代クラシックも入り交じる壮大な音世界!! 日本限定盤ハイレゾCD「MQA-CD」仕様、ボーナストラックを加えてリリース!!

Official HP : https://www.ringstokyo.com/robmazurek

間違いなく、このアルバムはロブ・マズレクのキャリアの集大成であり、今も前進を続ける彼と仲間たちが生み出した驚くべき新作だ。シカゴ・アンダーグラウンド(デュオ、トリオ、カルテット、オーケストラ)、アイソトープ217°、サンパウロ・アンダーグラウンド、そして、このエクスプローディング・スター・オーケストラへと結実した軌跡が鮮やかに刻まれている。アルバムの何れの断片も美しい。(原 雅明 rings プロデューサー)

アーティスト : Rob Mazurek - Exploding Star Orchestra (ロブ・マズレク・エクスプローディング・スター・オーケストラ)
タイトル : Dimensional Stardust (ディメンショナル・スターダスト)
発売日 : 2020/12/16
価格 : 2,800円+税
レーベル/品番 : rings (RINC69)
フォーマット : MQA-CD (日本企画限定盤)
バーコード : 4988044060678

* MQA-CDとは?
通常のプレーヤーで再生できるCDでありながら、MQAフォーマット対応機器で再生することにより、元となっているマスター・クオリティのハイレゾ音源をお楽しみいただけるCDです。

Rob Mazurek (director, composer, piccolo trumpet, electronic renderings, modular synth)
Damon Locks (voice, electronics, texts)
Nicole Mitchell (flutes)
Macie Stewart (violins)
Tomeka Reid (cellos)
Joel Ross (vibraphone)
Jeff Parker (guitar)
Jaimie Branch (trumpet)
Angelica Sanchez (acoustic piano, electric piano)
Ingebrigt Håker Flaten (bass)
Chad Taylor (drums, percussion)
Mikel Patrick Avery (drums, percussion)
John Herndon (drum machines)

Tracklist :
01. Sun Core Tet (Parable 99)
02. A Wrinkle In Time Sets Concentric Circles Reeling
03. Galaxy 1000
04. The Careening Prism Within (Parable 43)
05. Abstract Dark Energy (Parable 9)
06. Parable of Inclusion
07. Dimensional Stardust (Parable 33)
08. Minerals Bionic Stereo
09. Parable 3000 (We All Come From Somewhere Else)
10. Autumn Pleiades
+BONUS TRACK 追加予定

CAN:パラレルワールドからの侵入者 - ele-king

 映画『イエスタデイ』は、ビートルズのいない世界を想像してみろと、私たちに問いかける。リチャード・カーティスの、代替えの歴史の悪夢のように陳腐なヴィジョンのなかでも、音楽の世界はほとんどいまと変わらないように見え、エド・シーランが世界的な大スターのままだ。

 しかし、多元宇宙のどこかには、ロックンロールの草創期にビートルズのイメージからロックの方向性が生まれたのではなく、カンの跡を追うように出現したパラレルワールド(並行世界)が存在するのだ。それは、戦争で爆破された瓦礫から成長した新しいドイツで、初期のロックンロールがファンクや実験的なジャズと交わり、ポピュラー・ミュージックがより流動的で自由で、爆発的な方向性の坩堝となり、アングロ・サクソン文化に独占されていた業界の影響から独立した世界だ。

 カンのヴォーカルにマルコム・ムーニーを迎えた初期のいくつかの作品では、このような変化の過程を聴くことができる。アルバム『Delay 1968』の“Little Star of Bethlehem”では、ねじれたビーフハート的なブルース・ロックのこだまが聴こえるし、“Nineteenth Century Man”は数年前にビートルズ自身が“Taxman”で掘り起こしたのと同じリズムのモチーフを使った、拷問のようなテイクをベースにしている。

 カンの1969年の公式デビュー盤、『Monster Movie』のクロージング・トラック、“Yoo Doo Right”は、いかにバンドがチャネリングをして、ロックンロールを前進的な思考で広がりのあるものへと変えていったかがわかる小宇宙のようだ。ムーニーのヴォーカルが、「I was blind, but now I see(盲目であった私は、いまは見えるようになった)」や、「You made a believer out of me(あなたのおかげで私は信じることができた)」とチャントして、ロックとソウルの精神的なルーツを呼び覚ますが、それはベーシストのホルガ―・シューカイとドラマーのヤキ・リーベツァイトのチャネリングにより、制約され、簡素化されて、容赦のないメカニカルでリズミカルなループとなり、ミヒャエル・カローリのギターのスクラッチや、渦巻き、切りつけるようなスコールの満引きに引っ張られて、ヴォーカルから焦点がずらされる。

 カンが1960年代に取り組んでいたロックの変幻自在の魔術への、もうひとつ別の窓は、映画のための音楽を収録したアルバム『Soundtracks』で見ることができる。クロージング・トラックの “She Brings the Rain” などは、かなり耳馴染みのある1960年代のサイケデリックなロックやポップのようにも聴こえるが、このアルバムでは、それ以外にも何か別のものが醸し出されている。それは “Mother Sky” の宇宙的なギターとミニマルなモータリックの間に編まれた緊張感のあるインタープレイや、ヌルヌルしたグルーヴと新しいヴォーカリスト、ダモ鈴木の “Don’t Turn The Light On, Leave Me Alone” での不明瞭なヴォーカルでより顕著であり、おそらくバンドの最盛期の基礎を築いている。

 『Tago Mago』、『Ege Bamyasi』、『Future Days』といったアルバムは、現代のポピュラー・ミュージックの基礎となったカンのパラレルワールドが、我々の世界にもっとも近づいた所にあるものと言えるだろう。目を細めれば、異次元の奇妙な建築物と異界のファッションが、世界の間に引かれたカーテンをすり抜けて侵入しているのが、かろうじて見えるはずだ。それはポスト・パンク・バンドのパブリック・イメージ・リミテッド、ESG、ザ・ポップ・グループ他の生々しい、調子はずれのファンクのリズムや、ざらついたサウンドスケープ、あるいはマッドチェスター・シーンのハッピー・マンデーズやストーン・ローゼスといったバンドのゆるいサイケデリックなグルーヴのなかに、またソニック・ユースとヨ・ラ・テンゴのテクスチュアとノイズのなかに見ることができる。さらに1990年代初期のポスト・ロック・シーンでも、ステレオラブやトータスといったバンドの反復や音の探究を経て、おそらく21世紀でもっとも影響力のあるバンド、レディオヘッドにまで及んだ。カンは過去半世紀にわたり、ポピュラー・ミュージックの進化に憑りついてきた幽霊なのだ。

 カンの影響が長いこと残り続けるあらゆる“ポスト〜”のジャンル(ポスト・パンク、ポスト・ロック、そしてかなりの範囲でのポスト・ハードコアも)が、私にとって重要に思えるのは、これらはジャンルを超越したところにある、生来の本能的なジャンルだったからだ。ポスト・パンクは、パンクに扇動されて自滅したイヤー・ゼロ(0年)に、ファンク、ジャズ、ムジーク・コンクレート、プログレッシヴ・ロック他を素材として掘り起こし、自らを再構築しようとしていた音楽だ。一方、ポスト・ロックは生楽器をエレクトロニック・ミュージックの創作過程のループ、オーバーレイやエディットに持ち込んだ。それらは、従来のロック・ミュージックの世界での理解を超えた居心地の悪い音楽的なムーヴメントだったのだ。言うまでもなく、カンは最初からロックの接線上に独自の道を切り開いてきており、マイルス・デイヴィスが自身のジャズのルーツから切り開いた粗っぽいロックンロールのルーツと同じく、予測不可能なジャンルのフュージョンへの地図を描いていた──おそらくカンの爆発的なジャンルを超越した初期のアルバムにもっとも近い同時代の作品は、マイルスが平行探査した『Bitches Brew』 と『On the Corner』などのアルバムだろう。

 この雑食性で遊び心に満ちた折衷主義は、鈴木の脱退後のアルバムにおいても、カンの音楽の指針となっていたが、『Tago Mago』で到達した生々しい獰猛さを、1974年の『Soon Over Babaluma』の雰囲気のある、トロピカルにも響くサイケデリアのような控えめな(とはいえ、まったく劣ることのない)ものに変えたのだ。

 彼らはもちろん時代の先をいっていた。ロックの純粋主義者たちは、バンドの70年代後半のアルバムに忍び寄るディスコの影響を見て取り、冷笑したかもしれないが、グループの当時のダンス・ミュージックの流行への興味は、カンの幽霊の手(『Out of Reach』のジャケットのイメージによく似ている)に、彼らの宇宙的な次元と、報酬目当てのメインストリーム・ミュージックが独自の行進を続ける世界との間のヴェールを掴ませる役割を果たしていたのだ。カンは一度もロック・バンドであったことはなかったし、シューカイが徐々にベーシストとしての役割からリタイアし、テープ操作に専念するようになったことは、バンドの特異なアプローチが、音楽がやがてとることになる幅広いトレンドの方向性を予見させる多くの方法のひとつであったと言える。もっとも、カン自身はそれらのトレンドに対しては、斜に構え、独自の動きを続けた。

 そういった意味では、1979年の自身の名を冠したアルバムは、カンのことを雄弁に物語っている。10年に及ぶキャリアのなかで蒔いた種が、新世代の実験的なマインドを持ったアーティストたちに刈り取られ始め、カンの音楽とアプローチを軸にした作品が創られ始めたため、彼らはそういった作品に、“巨大なスパナを投げつけて”、妨害せずにはいられなかった。カン自身が創ったミニマリストのような、歪んだノイズのアトモスフェリックなディスコと、ファンクに影響されたサウンドは、キャバレー・ヴォルテールやペル・ウブ、ア・サートゥン・レシオなどと並べても違和感がなく、“ A Spectacle” や “ Safe” などのトラックは、彼らの技の達人ぶりを示していた。しかし決して安全な場所には留まらないのがカンであり、デイヴ・ギルモア時代のピンク・フロイド(1979年には絶対クールではなかった)のような世界にも喜んで飛び込み、SIDE2の大部分を躁状態のダジャレの効いたジャック・オッフェンバックの「天国と地獄」のダンスのテーマである“Can-Can(カン・カン)”の脱構築に費やし、間にはピンポン・ゲームまではさんでいる。言うまでもなく、彼らの最もバカバカしく、最高のアルバムのひとつだ。


 カンの影響下にあるパラレルワールドは、時に我々の世界の近くにありながら、その音楽はあまりにも多くの迂回路に進むため、ほとんどの場合、ぎりぎり手が届かないというフラストレーションを感じてしまう。我々は、次元の間に引かれたカーテンを完全に通過することはできないかもしれないが、隅々まで目をこらして、影や、我々の世界の亀裂を見ると、そこにまだ特異性が根付いているのを見出すことができる。そこには何かが存在し、他の場所からの侵入者が、我々が引いた線の間をぎこちないファンキーさで滑りこんできて、固体を変異可能にし、現実を異世界にし、異世界を現実にするのだ。

 ここに、バンドの面白さを象徴していると思う6枚のアルバムを挙げる。

『Soundtracks』──1960年代のロックから、より宇宙的なものへのバンドの変遷を示している。

『Unlimited Edition』──カンのもっとも折衷主義的で、実験的なアルバム。

『Tago Mago』 ──カンのもっとも極端な状態。

『Ege Bamyasi』──ダモ鈴木時代の、もっとも親しみやすさを実現した作品。

『Landed』──ポップ、エクスペリメンタル、アンビエントなアプローチをミックスするカンの能力を示す素晴らしい一例。

『Can』 ──バンドがバラバラな状態にあっても、常に自分たちにとって心地よいカテゴリーの作品を作るのを避けていたことがわかる。

(7枚目の選択として、『Soon Over Babaluma』は、もっとも繊細で雰囲気のある、カンの一例。)

Can: Intruders from a Parallel World

Ian F. Martin


The movie Yesterday asks us to imagine a world without The Beatles. In Richard Curtis’ nightmarishly banal vision of that alternate history, the music world seems much the same and Ed Sheeran is still a global megastar.

Somewhere in the multiverse, though, there’s a parallel world where the direction of rock emerged out of its rock’n’roll youth not in the image of The Beatles but rather sailing in the wake of Can. It’s a world in which a new Germany, growing from the war’s bombed-out wreckage, was the crucible in which the raw energy of early rock’n’roll merged with funk and experimental jazz, taking popular music in more fluid, free-flowing, explosive directions, independent from the hegemonic influence of the Anglo-Saxon culture industries.

You can hear this process of transformation happening in some of Can’s early work with Malcolm Mooney on vocals. On the album Delay 1968, you can hear warped, Beefheartian echoes of blues rock in Little Star of Bethlehem, while Nineteenth Century Man is based around a tortured take on the same rhythmical motif The Beatles themselves had mined on Taxman a couple of years previously.

On Can’s official debut, 1969’s Monster Movie, the closing track Yoo Doo Right is like a microcosm of how the band were channeling rock’n’roll into something forward-thinking and expansive. Mooney’s vocals summon forth chants of “I was blind, but now I see” and “You made a believer out of me” from the rock and soul’s spiritual roots, but it’s constrained, streamlined and channeled by bassist Holger Czukay and drummer Jaki Liebezeit into a relentless, mechanical rhythmical loop, the vocals dragged in and out of focus by the ebbs and flows of Michael Karoli’s scratching, swirling and slashing squalls of guitar.

A different window into the transformational witchcraft that Can were working on 1960s rock can be seen on the album Soundtracks, which collects some of their work for films. Some songs, like the closing She Brings the Rain, come across as quite familiar sounding 1960s psychedelic rock and pop, and yet something else is brewing in the album too. It’s there most clearly in the tightly wound, tense interplay between cosmic guitars and minimalist motorik rhythms of Mother Sky, as well as more subtly in the slippery grooves and new vocalist Damo Suzuki’s slurred vocals on Don't Turn The Light On, Leave Me Alone, laying the ground for what is probably the band’s most celebrated phase.

The albums Tago Mago, Ege Bamyasi and Future Days are really where that parallel world in which Can were the foundation of modern popular music moves closest to our own. Squint and you can just about see that other dimension’s strange architecture and alien fashions trespassing through the curtain between worlds. You can hear it in raw, discordant funk rhythms and harsh soundscapes of post-punk bands like Public Image Limited, ESG, The Pop Group and others; it’s in the loose, psychedelic grooves of Madchester scene bands like The Happy Mondays and The Stone Roses; it’s in the textures and noise of Sonic Youth and Yo La Tengo; it’s in the repetition and sonic exploration of the nascent 1990s post-rock scene, filtering through bands like Stereolab and Tortoise, eventually informing perhaps the most influential rock band of the 21st Century, Radiohead. Can are a ghost that’s been haunting the evolution of popular music for the past half century.

The lingering influence of Can on all the “post-” genres (post-punk, post-rock and to a large extent post-hardcore too) feels important to me, because these were genres with an innate instinct towards transcending genre. Post-punk was music trying to build itself anew after the year-zero self-destruction instigated by punk, mining fragments of funk, jazz, musique concrète, progressive rock and more as its materials. Meanwhile, post-rock brought the live instruments of rock into the loops, overlays and edits of electronic music’s creation process. They were musical movements uncomfortable in the world of rock music as conventionally understood. Can, needless to say, had been charting their own path on a tangent from rock since the beginning, approaching a similar slippery fusion of genres from the rough roots of rock’n’roll that Miles Davis had been charting from his own jazz roots at the same time — arguably the closest thing to Can’s explosive, genre-transcending early albums among any of their contemporaries can be found in Davis’ parallel explorations on albums like Bitches’ Brew and On the Corner.

That omnivorous, playful eclecticism remained a guiding feature of Can’s music in the albums that followed Suzuki’s departure, even as they traded in the raw ferocity that had reached its peak in Tago Mago for something more understated (but in no way lesser) in the atmospheric and even tropical sounding psychedelia of 1974’s Soon Over Babaluma.

They stayed ahead of the curve too. Rock purists may have sneered at what they saw as a creeping disco influence on the band’s late-70s albums, but the group’s interest in then-contemporary dance music kept Can’s spectral hand (much like the jacket image of Out of Reach) grasping at the veil between their cosmic dimension and the mercenary world where mainstream music continued its own march. Can had never been a rock band anyway, and Czukay’s gradual retirement from bass duties to focus on tape manipulation is another of the many ways the band’s idiosyncratic approach foreshadowed the direction broader trends in music would eventually take, even as Can themselves continued to move oblique to those trends.

In this sense, their self-titled 1979 album says a lot about Can. Just as the seeds sown by their then ten year career were starting to be reaped by a new generation of experimentally minded artists and the pieces were starting to realign themselves around Can’s music and approach, they couldn’t resist throwing a giant spanner in the works. The sort of minimalist, noise-distorted, atmospheric, disco- and funk-influenced sounds Can had made their own would have sat very comfortably alongside the likes of Cabaret Voltaire, Pere Ubu and A Certain Ratio, and in tracks like A Spectacle and Safe, Can showed they were masters of that craft. Can were never about being safe though, and they were just as happy diving down rabbit holes of Dave Gilmour-era Pink Floyd (desperately uncool in 1979) and devoting a large chunk of side 2 to a manic, pun-driven deconstruction of Jacques Offenbach’s “Can-Can” dance theme, interspersed with a game of ping pong. Needless to say, it’s one of their silliest and best albums.

The parallel world that lives under the influence of Can is sometimes tantalisingly close to our own, and yet their music pursues so many oblique detours that it mostly feels frustratingly just out of reach. We may never fully be able to pass through that curtain between dimensions, but look in the corners, the shadows and the cracks in our world where idiosyncrasies can still take root, and there is something there: some trespasser from elsewhere, slipping in their awkwardly funky way between the lines we draw, making the solid mutable, the real otherworldly and the otherworldly real.


Here are 6 albums that I think represent six interesting aspects of the band.

Soundtracks - Shows the band's transition from 1960s rock into something more cosmic.
Unlimited Edition - Can at their most eclectic and experimental.
Tago Mago - Can at their most extreme.
Ege Bamyasi - The most accessible realisation of the Damo Suzuki era.
Landed - A great example of Can's ability to mix pop, experimental and ambient approaches.
Can - Shows how even as the band were falling apart, they always avoided making anything that fit into a comfortable category.

(As a 7th choice, Soon Over Babaluma is a great example of Can at their most subtle and atmospheric.)

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