「KING」と一致するもの

Sam Kidel - ele-king

 音楽は気持ちいいほうが良いに決まっている。気持ち良さなしで生きることは不可能だと、UKはブリストルのヤング・エコーのメンバー、サム・キデルは2016年のQuietusのインタヴューで言っている。が、気持ち良さだけでは思考停止する。アドルノのそんなところに影響を受けてしまったキデルは、「快適さのために生まれた音楽」=「ミューザック」を反転させ、快適であると同時に政治的という『Disruptive Muzak(破壊的ミューザック)』なるコンセプトを練り上げた。いわく「アンチ資本主義アンビエント」。いかなるアンビエントも政治から逃れられないというのがキデルの意見だ。
 「破壊的ミューザック」においてキデルは、マーク・フィッシャーが『資本主義リアリズム』のなかでこれぞ中心なき資本主義のカフカ的迷宮だと説明した「コールセンター」のやりとりをサウンドコラージュした。物事がすべて合理的に、そしてスムーズにいくように見えながら反対側の現実へとすり抜けていくような感覚、何度もかけ直しながらなにげに希望が薄れていくその反対側の現実──〈The Death of Rave〉からリリースされた「破壊的ミューザック」は、この感覚をうまく捉えている。

 本国では昨年末にリリースされ、今年に入って日本のレコード店でも出回った『シリコン・イアー』なる2曲入りは、サム・キデルのコンセプチュアルなエレクトロニック・ミュージックのあらたなる成果だ。
 アナログ盤のインナーでは、それぞれの曲のタネ明かしが記されている。A面の“Live @ Google Data Center”は、曲目の通り「グーグル・データ・センターにおけるライヴ」……というわけではない(笑)。さすがにそれは無理だし、これはあくまでも「そのシミュレーション」、ということである。
 キデルは、グーグルのサーバ・ルームの写真および建築図面から“場”を推測し、ソフトウェアを使って“場”(スペース)の音響学的特性を推測した。彼はこれを「擬態ハッキング」(mimetic hacking)と呼んでいる。
 そのサウンドをたとえるなら、オウテカの「アンチEP」の21世紀版ないしはレイヴ系IDMとでも言おうか、「破壊的ミューザック」もそうだったけれど、キデルの音楽はあらゆるエレクトロニック・ミュージックの混合である。前作がアンビエント/ヴェーパーウェイヴに焦点が当てられていたとしたら、今回の“ライヴ@グーグル・データ・センター”はダンス・ミュージックに寄っている。
 グーグルやヤフーといった検索機能とニュース・サイトを併せ持つオンライン世界における問題点、おもにパーソナライズドに関する議論は、イーライ・パリサーの『フィルター・バブル インターネットが隠していること』(井口耕二訳/早川書房)という本に詳しい。利用していたつもりが、じつはインターネットに閉じ込めらているんじゃないかという感覚があるとしたらそれはどこから来ているのかということを掘り下げた本だ。キデルはそのヒンヤリとヌメっとした不気味な感覚をサウンドで表現しつつも、無機質な空間に不釣り合いなダンス・ミュージックのビートをぶつけている。かなり歪んだものではあるが。
 もう片面の“Voice Recognition DoS Attack”は、音声認識ソフトの誤作動(弱点)を応用したオーディオ・パッチに基づかれている。声を使ったアンビエント系IDMで、ロバート・アシュレー(『前衛音楽入門』参照)風ではあるが、遊び心たっぷりに展開している。
 それにしても……たった2曲で2400円は高いぞ! しかしまあ、それはともかく昨年ローレル・ヘイローのアルバムを出したフランスのこのレーベル〈Latency〉は要チェックだ。ほぼ同時にリリースされたMartina Lussiのアンビエント・アルバム『Diffusion Is A Force』も良かった。 

φonon - ele-king

 昨年スタートしたEP-4の佐藤薫によるレーベル〈φonon(フォノン)〉が、初となるショウケース・イベントを開催する。題して《φonon 2days 2eras》。4月30日はDOMMUNEにて、5月2日は神楽音にて、と2日間にわたっての開催だ。詳しくは下記をご覧いただきたいが、Radio ensembles Aiida、Singū-IEGUTI、HOSOI Hisato、森田潤、EP-4 [fn.ψ]といった同レーベルからリリースのある面々のみならず、DOMMUNEには学者の市田良彦や毛利嘉孝も出演するとのことで、なんとも興味深い。GWの予定は空けておこう。


〈φonon〉初のレーベル・ショーケース・イベントが2デイズ開催決定!

2018年初頭に発動した〈φonon (フォノン)〉レーベル初の本格的ショーケースイベント「φonon 2days 2eras」が、4月30日と5月2日の元号をまたぐ2日間にわたりDOMMUNEと神楽坂の神楽音で催されることが決まった。

〈φonon〉はEP-4の佐藤薫がディレクターを務め、CDメディアを中心にエレクトロニクス/ノイズ/アンビエント──系のアルバム作品をリリースしている先鋭的レーベルだ。これまでに8枚のCDアルバムをリリースし、4月19日に2枚の最新リリースを控えている。

〈φonon〉試聴リンク:https://audiomack.com/artist/onon-1

そんな〈φonon〉のすべてがわかる2デイズだが、普段一同に会することの稀な東西のアーティストによる2日間のパフォーマンスに加え、4月30日のDOMMUNEでは思想史家・市田良彦と社会学者・毛利嘉孝を迎えたトークタイムも用意され、音と時代を超えるマニフェストが言葉と音量子によって語られることになる。(市田によるφonon 2018 活動報告は事前に必読! https://www.webdice.jp/dice/detail/5727/

出演アーティストは、Radio ensembles Aiida、Singū-IEGUTI、HOSOI Hisato、森田潤、EP-4 [fn.ψ](佐藤薫+家口成樹)──など、〈φonon〉から単独CDをリリースした面々を中心に、コンピレーションに参加したZVIZMO(テンテンコ+伊東篤宏)、4月19日にCDをリリースするbonnounomukuroとHeteroduplexなど、その顔ぶれはとても多彩。特に半数は関西圏のアーティストなので、めったにないこの機会を逃す手はないだろう。

両日のラインアップや詳細は以下のとおり。

《φonon 2days 2eras 概要》

■day 1(talk & live):
日時:2019年4月30日 (火・祝) 19:00〜
場所:DOMMUNE( https://www.dommune.com )
料金:¥3,000(要予約)

出演:
市田良彦
毛利嘉孝
佐藤薫
伊東篤宏
ほか…… (以上talk)

Radio ensembles Aiida
Singū-IEGUTI
HOSOI Hisato
森田潤
Heteroduplex
bonnounomukuro
ZVIZMO (以上live)

■day 2(live):
日時:2019年5月2日 (木) 18:00 open / 19:00 start performance
場所:神楽音( https://kagurane.com )
料金:Adv. ¥2,800 Door. ¥3,000

出演:
Radio ensembles Aiida
HOSOI Hisato
Heteroduplex
bonnounomukuro
EP-4 [fn.ψ]
伊東篤宏
森田潤
DJ 小林径

問い合わせ
φonon
sp4non@gmail.com

φonon オフィシャルサイト
https://www.slogan.co.jp/skatingpears/


Cosey Fanni Tutti - ele-king

 『トゥッティ』のなかに一貫して存在している、不吉で、ゾッとするような、何かを引きずって滑っていくような感覚──いいかえるなら、すぐ側にまで迫りくる湿り気のある暗さが生む、閉所恐怖症的な強度。オープニング曲“トゥッティ”の単調なベースラインと機械的でガタガタと騒々しいパーカッションのなかにはそうしたものがあり、そしてそれはそのままずっと、クロージング曲“オレンダ”のもつ、近づきがたいような重い足どりのリズムのなかにも存在しつづけている。最初から最後までこのアルバムは、息苦しいほどの霧に、隙間なく包まれている。

 この霧をとおして、おぼろげな影がかたちを結んでいく──ときに現れた瞬間に消えてしまうほどかすかに、そしてときに水晶のような明るさのなかにある舞台を貫き、それを照らしだしながら。オープニング曲では、トランペットのような音が暗闇を引き裂いていく一方で、5曲目の“スプリット”における、音の薄闇のなかを進んでいく、かすかに光る金属の線のような粒子は、おぼろげだが、しかし距離をおいてたしかに聞こえてくる天上的な雰囲気をもったコーラスによって、悪しきもののヴェールを貫いてるそのメランコリックな美しさによって、そのまま次の曲“ヘイリー”へと繋がっていく。

 おそらくはきっと、メランコリーの感覚へとつづいていく、ガス状のノスタルジーのフィルターのようなものが存在していて、それがトゥッティのこのサード・アルバムに入りこんでいるのだろう。このアルバムは、コージー・ファニー・トゥッティの2017年の回想録『アート・セックス・ミュージック』のあとに作られる作品としては、またとないほどにふさわしいものとなっている。というのもそれは、部分的に、彼女の生まれ故郷であるイングランド東部の街ハルで、同年に開催された文化祭のために作られたものをもとにしているからだ。やがてロンドンにおいてインダストリアルの先駆者となるバンド、スロッビング・グリッスルを結成する前の時代を、彼女はその街を中心にして過ごしていたわけである。

 1969年における、パフォーマンス・アート集団COMUトランスミッションの結成からはじまり、スロッビング・グリッスルやクリス&コージーによるインダストリアルでエレクトロニックな音の実験を経由する、過去50年にわたる経験と影響関係を描いていくなかで、過去について内省し、ふかく考えるそうした期間が、『トゥッティ』という作品の性格を、根本的な次元において決定づけているようにおもわれる。その回想録や近年に見られるその他の回想的な作品をふまえると、トゥッティはこのじしんの名を冠したアルバムによって、ひとつの円環を──はじめてじしんの名義のみでリリースした1983年の『タイム・トゥ・テル』以来の円環を、閉じようとしているのだという感覚がもたらされる。

 だが、コージー・ファニー・トゥッティはまた、まとまりのあるひとつの物語のなかに収めるにはあまりに複雑で、たえずその先へと向かっていくアーティストでもある。たしかにトゥッティは、幽霊的な風景をとおって進むビートとともに、彼女の作品のなかに一貫して拍動している人間と機械の連続性のようなものを、じしんの過去から引きだしている。だが彼女にとって過去とは、みずからの作品を前方へと進めていく力をもったエンジンなのである。『タイム・トゥ・テル』におけるリズムは、捉えがたく、ときに純粋なアンビエントのなかに消えさっていくようなものだったが、それに比べると『トゥッティ』は、はるかに攻撃的で躊躇を感じさせないものとなっている。こうした意味で、この作品に直接繋がっている過去の作品はおそらく、比較的近年にリリースされた、クリス・カーターと、ファクトリー・フロアーのニック・コルク・ヴォイドとともに制作された、2015年のカーター・トゥッティ・ヴォイドでのアルバムだろう。とはいえこの作品と比べると『トゥッティ』は、より精密に研ぎすまされ、より洗練されたものとなっていて、その攻撃性や落ちつきのなさは、節度をもって抑えられている。

 ゾッとするような暗さをもつものであるにもかかわらず、そうした落ちつきのなさと節度の組みあわせのなかで、『トゥッティ』はまた、これ以上ないほどに力強い希望の道を描きだしてもいる。というのも、このアルバムが強力で完成されたものであればあるほど、そこらからさらに多くのものがもたらされるのだという兆しが高まっていくからだ。
(訳:五井健太郎)


A sinister, creeping darkness slithers through “Tutti” – the claustrophobic intensity of humid darkness that clings too close. It’s there in the grinding bassline and mechanical, clattering percussion of opening track “Tutti”, and it lingers on in the grimly trudging rhythm of the closing “Orenda”. From start to finish, the album is wrapped tight in a suffocating fog.

Through this fog, shapes take form – sometimes faintly, fading away as quickly as they appeared, sometimes piercing through and illuminating the scene in a moment of crystal clarity. On the opening track, a trumpet cuts through the darkness, while on “Split”, solar winds seem to shimmer matallic through the sonic murk, joined on “Heliy” by a celestial chorus, blurred but distantly chiming, a touch of melancholy beauty piercing the veil of evil.

There’s perhaps a gauzy filter of nostalgia to the melancholy that creeps into the Tutti’s later third, which is fitting for an album that comes off the back of Cosey Fanni Tutti’s 2017 memoir “Art Sex Music” and has some of its roots in work she created for a culture festival in her hometown of Hull that same year, which she based around her own early years before leaving for London with her then-band, industrial pioneers Throbbing Gristle.

This period of introspection and reflection seems to have informed “Tutti” on a fundamental level, drawing on five decades of experiences and influences from the founding of the COUM Transmissions performance art collective in 1969, through the industrial and electronic sonic experimentations of Throbbing Gristle and Chris & Cosey. Taken together with her memoir and other recent reflective works, there is a sense that Tutti is closing a loop with with this self-titled release – her first album solely under her own name since 1983’s “Time to Tell”.

But Cosey Fanny Tutti is also too complex and forward-thinking an artist to let that be the whole story. Certainly “Tutti” draws from the past, with the beats punding through the ghostly soundscapes a continuation of a man-machine heartbeat that has always pulsed through her work. However, for her the past is an engine powering her work ahead into the future. Where the rhythms of “Time to Tell” were subtle, occasionally dissolving into pure ambient, “Tutti” is far more aggressively forthright. In that sense, the release it hews closest to is perhaps the comparatively recent 2015 “Carter Tutti Void” work, produced with Chris Carter and Factory Floor’s Nik Colk Void. Still, “Tutti” is a more finely honed, more refined work, its aggression and restlessness tempered by restraint.

Through its creeping darkness, it’s in that combination of restlessness and restraint that “Tutti” also holds out its strongest line of hope, because as powerful and accomplished as this album is, it also extends the promise of more to come.

 十和田市現代美術館での毛利悠子さんの個展《ただし抵抗はあるものとする》の目玉作品であるインスタレーション《墓の中に閉じ込めたのなら、せめて墓なみに静かにしてくれ》の展示室にむかう廊下の壁面には映像作品《Everything Flows : Interval》を映写している。いや「いた」と過去形で書くべきなのは、毛利さんの個展は北の地に桜前線がおとずれるよりひとあしさきに十分咲きの桜のごとく好評のうちに先週末に千秋楽をむかえたからであり、私はまことに残念なことに会期中に彼の地をおとずれることがかなわなかったが、3月初旬に毛利さんとナディッフで対談したおり、ジガ・ヴェルトフの『カメラを持った男』(1929年)を抜粋再編したという《Everything Flows : Interval》を壇上で拝見した。毛利さんがなぜジガ・ヴェルトフの映画を題材にしたかは、私の能書きよりも個展の図録にして現在の彼女の思索の一端がかいまみえる展覧会と同名の著書を繙かれるのが近道だが、映画の黎明期をいくらかすぎ、20世紀モダニズム文化が花開いた時代に、ロシアを舞台に当時最先端の技法をもちい、映画を撮ることについての映画を撮ったジガ・ヴェルトフの、1932年の日本公開時の邦題を『これがロシヤだ』というモノクロ、サイレントのドキュメンタリーフィルムから毛利さんが抜いたのは、しかしこの作品を映画史の前衛たらしめたシーンよりむしろそれらのあいだをつなぐなにげない余白のような場面だった。その意図については、それだけでかなりの紙幅を割くことになる──ネットですけれどもね──のでここではたちいらない。ただひとことつけくわえると、フィルムは撮影者の意図しない映像をとらえることがしばしばある、この機制は映画にかぎらず、写真や録音物といった近代テクノロジーを媒体にもつ表現形式にはつきもので、その点で映像の初発的な偶然性をレコード、ことに実験音楽や即興音楽における記録のあり方に敷衍したデイヴィッド・グラブスの『レコードは風景をだいなしにする』(フィルムアート社)の論点にかさなるものがあると、私はそのさいもうしあげた。すなわち主たる対象にあたらないものが接続詞の役割をえて、作品の力動の淵源になっており、それをぬきだせばつくり手にひそむものがみえる(かもしれない)ことが過去の映像や録音物にふれるにあたっての旨味のひとつともなる。再解釈、再定義、再発見をふくむ聴取や視聴のあり方は眼前にそそり立つアーカイヴの存在に気づいたころにははじまっており、毛利さんをふくむ誠実な方々の表現はそこに内在する批評の感覚でアーカイヴを触知する、そのような作家の身体/感覚は90年代をひとつのさかいに十年期の終わりにはさらに深まっていった。

 ザ・シネマティック・オーケストラ(以下TCO)がグループをひきいるジェイソン・スウィンスコーの勤め先だった〈ニンジャ・チューン〉から『モーション』でデビューしたのは90年代と20世紀が終わりかけた1999年だった。いま聴き直すとアシッド・ジャズ、トリップ・ホップないしブレイクビーツなることばが矢継ぎ早に脳裏をかすめ、目頭を熱くさせるこのアルバムは、しかしいわゆるモダン・ジャズやスピリチュアル・ジャズを土台に、室内楽風のストリングスや緻密に構築したリズムを加味したことで、クラブ・ジャズがリスニングタイプに脱皮する画期となった──というのは大袈裟にすぎるのだとしても過渡期をうつしだしていたのはまちがいない。さらにTCOは世紀をまたいで3年後にあたる2002年のセカンド『エブリデイ』ではヴォーカル曲をふくむ構成で、先の傾向をより盤石なものとした。アリス・コルトレーン風のハープの爪弾きで幕をあけるこの作品は前作以上に曲づくりに重点を置き、起伏に富む曲調が名は体をあらわすかのごとき佇まいをしめしている。往年のソウル歌手フォンテラ・バスを担ぎ出し、音的にも意味的にも厚みを増したサウンドは今日までつづくTCOの音楽性の雛形にもなった。ゆっくりと立ち上がりじっくりと語りゆく音の紡ぎ方はさらに映像喚起的になり、なるほどシネマティックとはよくいったものよ、との慨嘆さえ漏らさざるをえない『エブリデイ』の扇の要の位置に置いたのが“Man With The Movie Camera”すなわち「カメラを持った男」と題した楽曲だった。

 私はこのとき、来日したスウィンスコーに話を聴いた憶えがあり、ジガ・ヴェルトフの映画についても質問したはずだが、昔のことなので記憶はさだかではない。それとも取材したのは次作のときだったか。いずれにせよ、『エブリデイ』の次作は2003年に世に出た。タイトルを『マン・ウィズ・ア・ムービー・カメラ』という。すなわち『カメラを持った男』だが、じつは2作目と3作目は前後関係が逆なのだった。『マン・ウィズ・ア・ムービー・カメラ』は表題のとおり、ジガ・ヴェルトフの同名作の全編にわたり音をつけた作品だが、もとはEU主催の文化事業で映画に生演奏をつけるプロジェクトの一貫として2001年におこなわれたものが2003年にレコードになったのだった。したがって『マン・ウィズ・ア・ムービー・カメラ』の演奏はライヴがもとで、耳をそばだてるとリズムのゆらぎも聴きとれる一方で音像にはスタジオ録音以上に奥行きが感じられる。映像と音を同時に再生すると楽しさもひとしおというか、YouTubeにも映画とサウンドを同時再生した映像があがっているので、公式か非公式かはぞんじあげないが、興味のある方はご覧いただくとして、そのなかでも『エブリデイ』に収録(再録)した表題曲“Man With The Movie Camera”からインタールード的な“Voyage”~“Odessa”を経て“Theme De Yoyo”にいたるながれは白眉である。その最後に位置する“Theme De Yoyo”はアート・アンサンブル・オブ・シカゴがモーシェ・ミズラヒ監督による1970年のフランス映画『Les Stances à Sophie』に提供したサウンドトラックからの抜粋で、原曲の歌唱はAEOCのレスター・ボウイーの奥方でもあるフォンテラ・バスが担当している。この背景が『エブリデイ』の“All That You Give”や“Evolution”へのバスの参加のきっかけだったと推察するが、おそらく同時並行的に進行していた『エブリデイ』と『マン・ウィズ・ア・ムービー・カメラ』へのとりくみがTCOをコンセプト主導型のプロジェクトから音楽的内実を備えた集団に脱皮させた、そのような見立てがなりたつほど2000年代初頭の作品は力感に富んでいる。

 上記3作を初期のサイクルとすると、その4年後に世に出た『マ・フラー』は彼らの次章にあたる。花を意味する仏語を冠したこのアルバムでTCOはこれまで以上に歌に比重を置いている。前作につづきフォンテラ・バス、新顔のパトリック・ワトソンとルイーズ・ローズが客演した『マ・フラー』は映像喚起的というより音がイメージそのものでもあるかのように運動し、ジャズの基調色は後景に退いている。作品の自律性をみるひとつの指標である空間性が『マ・フラー』にはあり、それが彼らの代表作たるゆえんでもあるが、なかでもしょっぱなの“To Build A Home”はTCOの世界にリスナーをひきこむにうってつけである。TCOの首謀者スウィンスコーは最新のオフィシャル・インタヴューでこの曲について「当時あれを〈Ninja Tune〉に届けた時、彼らはああいう曲を期待していなくて戸惑ってた」のだという。ところがこの曲は「本当にたくさんの人に響いた」ばかりか、ストリングスやピアノなどのクラシカルな編成を効果的にもちいた編曲はTCOがアレンジによる色彩感、ときにくすみ、ときに鮮烈でもある色彩感を自家薬籠中のものとしたことを意味していた。

 まさに「ホームを建てた(Build A Home)」というべき『マ・フラー』をものしたザ・シネマティック・オーケストラだったが、しかし彼らはその後12年の長きにわたる沈黙期に入ってしまう。12年といえば、きのう生まれた子どもが中学にあがり、干支がひとまわりするほどの時間である。いかに居心地のいいわが家とはいえ手を入れなければならない箇所も目立ってきた。とはいえリフォーム代もばかにならない。悩ましいところだが、手をこまねいていてはますます腰が重くなる──おそらくこのような生活感とは無縁の地平で、スウィンスコーは『マ・フラー』以降のTCOの行き方を熟考し動き出した。

 そこには環境の変化も寄与していた。スウィンスコーは長らく住み慣れたロンドンを離れ、2000年代なかばにはニューヨークへ、その後ロサンゼルスに拠点を移している。実質的に「ホーム」を離れていたのだが、それにともない他者との共同作業を中核に置く音づくりの方法も必然的に変化した。結果、新作『トゥ・ビリーヴ』は歌への志向性で前作をひきつぎ、旋律線の印象度はさらに深まったが、それ以上に歌唱と編曲の多様性で前作をうわまわるレコードになった。そもそも前段の発言の直前にスウィンスコーはこうもいっている。「僕は自分のやったことを繰り返したくないし、繰り返すことに意味を見出せない」このことばは生き馬の目を抜く音楽業界でいかに誠実に音楽をつくりつづけるか、その決意をしめしたものともとらえられるが、発言はさらに音楽が生きながらえるにはスタイルにとらわれないことが肝要だとつづいていく。スウィンスコーの発言を裏書きするように、『トゥ・ビリーヴ』は形式よりもリズムや音響といった音楽の原理にちかい部分に注力し、何度聴いても聴くたびに滋味をおぼえる一作になっている。私はこのアルバムを最初、レコード会社主催の試聴会で、さらにレコード会社のストリーミングで発売後はCDで愛聴しているが、再生環境やデータの種類のちがいによらず、音の表情に相同性があるのは、細部の再現性に気を配っているからで、そのようにすることで各エレメントがパズルのピースをくみあわせるように聴覚上でぴったりかみあうのである。その意味で『トゥ・ビリーヴ』は人声から器楽あるいはサンプリングのいち音にいたるまでどれが欠けてもなりたたないが、なかでも、フライング・ロータスからサンダーキャットまで、現行のLAシーンと深くコミットするミゲル・アトウッド・ファーガソンの手になるストリングスの存在感はきわだっている。『トゥ・ビリーヴ』でスウィンスコーの片腕となったドミニク・スミスのひきあいで参加し、96テイクものトラックを提供したというアトウッド・ファーガソンは通常のオーケストラの編成ともちがう、何挺もの同種の弦をかさねており、意図的に帯域を狭くとったなかにそれらが輻輳することで、クラシック音楽をたんになぞるだけではない『トゥ・ビリーヴ』の音響感覚を特徴づける音響空間ができあがっている。この実験的なサウンドデザインが『エブリデイ』以来の登場となるルーツ・マヌーヴァや、LA人脈のモーゼス・サムニーや常連のタウィアの歌声と併走するとき、ザ・シネマティック・オーケストラの新章はふくよかなイメージの広がりとともに延伸する、その過程をこの目で確認する機会がちかづいているとは、なんともはやラッキーなことといわねばならない。

Kode9 - ele-king

 アルバム『Nothing』から4年、スペースエイプとのEPから数えると5年。最近はローレンス・レックによるインスタレイションの音楽を担当したり、ベリアルとのミックスを発表したりしていたコード9が、いま新たな動きを見せている。彼とニック・ドワイヤーが監修を務め、2017年に〈Hyperdub〉よりリリースされたコンピレイション『Diggin In The Carts』は、日本のゲーム音楽に特化するというそのコンセプトから少なからぬ注目を集めたわけだけれど、来る5月、同作のリミックスEPが発売されることとなった。全4曲のリミックスを手がけているのはコード9で、ソロ作品としては久しぶりのリリースである。素材に選ばれたのは細井聡司(『The麻雀・闘牌伝』)、石橋浩一(『デザエモン』)、古代祐三(『アクトレイザー』)、新田忠弘(『サークII』)の計4組。現在そのなかから1曲が先行公開されている。か、かっこいい……。

チップチューン黎明期アーカイヴが80/160bpmで踊りだす!
KODE9 と森本晃司による伝説のA/Vライヴで使用されたリミックス音源が遂に公式リリース!

Nick Dwyer と Kode9 が監修を行い、80年代後期から90年代中期にかけて、日本のゲーム・ミュージックが生んだ貴重かつ革命的な楽曲ばかりを集め、世界を驚愕させたコンピレーション作品『Diggin’ In The Carts』。同作のアートワークも手掛けたアニメーション作家、森本晃司と Kode9 によるオーディオ・ヴィジュアル・ライヴは東京からバルセロナの SonarFestival まで多くのフリークスを熱狂させた。そして、同セットで披露され、音源化が熱望されてきたリミックス・トラックが遂に Kode9 にとって実に5年ぶりとなるEP作品としてリリース!! 一見で虜になるスリーヴ・デザインは、森本晃司のアニメーションを操った Konx-om-Pax が手掛けている。

title: Diggin In The Carts Kode9 Remixes
release: 2019.05.03
label: Hyperdub
format: 12inch, Digital
link: https://fanlink.to/digginremix

Tracklisting:
A1. Soshi Hosoi - Mister Diviner [The Mahjong Touhaiden] Kode9 Remix
A2. Koichi Ishibashi - Bad Data [Dezaemon] Kode9 Remix
B1. Yuzo Koshiro - Temple [Actraiser] Kode9 Remix
B2. Tadahiro Nitta - An-Un (Ominous Clouds) [Xak II] Kode9 Remix

interview with Binkbeats - ele-king

 年頭のニュースでも取り上げられていたが、ユーチューブでのライヴ映像によってその名を一気に広めたビンクビーツ(本名:フランク・ウィーン)。ユーチューブのライヴ動画で、その超絶的な楽器演奏テクニックを知らしめたアーティストと言えばドリアン・コンセプトなどが思い浮かぶが、ビンクビーツの場合は全ての楽器をひとりで操るというさらなるサプライズがある。最近のジャズ系ではジェイコブ・コリアーもこうしたひとり多重録音をするアーティストで、昨年は〈ブレインフィーダー〉のルイス・コールのマルチ・ミュージシャンぶりも人々を沸かせたが、ビンクビーツの場合はJ・ディラ、フライング・ロータス、エイフェックス・ツイン、ラパラックス、アモン・トビンなどクラブ・サウンドやエレクトロニック・ミュージックをカヴァーしていて、たとえばマッドリブがプロデュースしたエリカ・バドゥの“ザ・ヒーラー”(2007年のアルバム『ニュー・アメリカ パート1』に収録)のカヴァーでは、サンプリングで用いられた琴の音色を実際に自身で琴を演奏して再現するといった具合に、その凝りようやマニアックぶりがハンパない。

 オランダ出身のビンクビーツは、それら2013年から2014年にかけてユーチューブで公開されたライヴ映像を音源化するほか、2017年より『プライヴェート・マター・プリヴィアスリィ・アンアヴェイラブル』という作品集をリリースし、これまで発表された2枚のEPをまとめたものが先だって日本でアルバムとしてCD化された。この中の“イン・ダスト/イン・アス”という曲には、〈ブレインフィーダー〉所属で同じオランダ人であるジェイムスズーが参加していて、彼のアルバム『フール』(2016年)にも参加していたニルス・ブロースが全曲に渡ってシンセサイザーを演奏しているなど、非常に興味深いアルバムとなっている。ビンクビーツ自身も『フール』には本名のフランク・ウィーンでパーカッション奏者として参加していて、ジェイムスズーとはいろいろと関わりが深いようだ。それから昨年発表されたDJクラッシュのニュー・アルバム『コズミック・ヤード』でも、“ラ・ルナ・ルージュ”という曲にビンクビーツがフィーチャーされていたことをご存じの方もいるかもしれない。そんな具合にいま注目すべきアーティストであるビンクビーツの、これが本邦初公開となるインタヴューである。

ジョン・ケージのような音楽を通して、何だって音楽になりうるし、どんなものだってパーカッションになるってことを学んだのさ。

日本にはあなたの経歴が多く伝わっていないので、生い立ちを踏まえていろいろお伺いします。あなたの拠点はオランダのユトレヒトですね。私も前に行ったことがあるのですが、ユトレヒト大学がある学生の町という雰囲気で、古くからの建造物も残っていて運河沿いの街並みはとても風情がありますよね。ユトレヒト古典音楽祭や大きなレコード・フェアもあったりと、音楽がとても愛されている印象を受けました。

ビンクビーツ(以下、B):そもそも俺が生まれたのはヘンゲローという町で、それからユトレヒトに引っ越したのはユトレヒト音楽院に行くためで、それ以来ここに住んでいる。ユトレヒトは非常に音楽シーンが活発で、俺のスタジオがある大きなビルには他にもたくさんのアーティストのスタジオが入っていて皆そこを拠点にしているんだ。

音楽とはどのように出会ったのですか?

B:初めて音楽に出会ったのがいつなのかははっきりとはわからないけど、母親が言うには家ではいつもラジオがかかっていたそうだ。両親は実際に楽器を演奏したりはしていなかったので、親の影響ではなかったんだろうけどね。俺が思うに、子供のころにはおもちゃの一本弦のギターやトイ・ピアノがいつもあったし、そしてもちろんだけどダンボール箱のドラムを叩いたりしていたからだろう。そして9歳のときに俺は初めてドラム・セットを手に入れて、それ以来音楽を作っているんだ。

子供のころはどのような音楽を聴き、またどんなアーティスから影響を受けましたか?

B:子供のころはロックにハマっていたんだ。俺はガンズ・アンド・ローゼズの大ファンでさ。それからセパルトゥラみたいな、もっとヘヴィなやつが好きになったんだ。そのころの俺はドラムしかやってなかったけど、次第にレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンの曲に合わせてベース・ギターも弾きはじめた。高校生になってからハマったのはヒップホップ。モス・デフ、バスタ・ライムス、ア・トライブ・コールド・クエスト、ザ・ルーツとかさ。
俺の人生に影響を与えたミュージシャン、プロデューサーはメチャクチャいっぱいいるよ。ほんのちょっとだけ名前を挙げれば、J・ディラ、マッドリブ、フライング・ロータス、レディオヘッド、ビョーク、ジェイムス・ブレイク、そしてトーマス・ディブダール、ハンネ・ヒュッケルバーグ、ファイスト、さらにはジョン・ケージ、スティーヴ・ライヒ、クセナキス、ハリー・パーチのような現代音楽作曲家たち……キリがないね。

あなたの作る音楽にはジャズ、エレクトロニック・ミュージック、IDM、ビート・ミュージックなどの要素がありますが、それらはどのように吸収していったのですか?

B:ただ聴いているうちに吸収したんだと思うよ。君だってある特定のスタイルの音楽が好きになったら、それをいっぱい聴くだろう。そうなると自動的に、そのスタイルを多少なりとも自分の音楽に取り入れてしまうものさ。

あなたはマルチ・ミュージシャンで、ドラム、ベース、ヴィブラフォンなど様々な楽器を演奏しているのですが、これらはどのようにマスターしていったのでしょう? 音楽学校で学ぶとか、誰か先生に教えてもらったのか、それとも独学でマスターしていったのですか?

B:ドラムは子供のころにはじめたんだ。その延長線上でパーカッションをはじめて、高校卒業後にはクラシックのパーカッションを学ぶためにユトレヒト音楽院に行ったんだ。ひと口にパーカッションと言っても、とても楽器の範囲が広いんだよ。ドラムを叩くこと、マリンバ、ティンパニ、みんなパーカッションの一部さ。ジョン・ケージのような音楽を通してさらに広がって、何だって音楽になりうるし、どんなものだってパーカッションになるってことを俺は学んだのさ。
ギターとベースは子供のころに独学でやっていたけど、『ビーツ・アンラヴェルド』というカヴァー曲をひとりきりで再現演奏するシリーズ・プロジェクトのためにまたやりはじめたんだ。そのときにヴォーカルもはじめた。そう、ヴォーカルがいちばん新しい試みなんだよ!

エレクトロニック機材のスキルはどのようにして身につけましたか? また、DJなどはするのでしょうか?

B:俺は間違いなくDJではないよ(笑)。肩書きとしてはミュージシャンで作曲家なんだけど、10代のころにコンピュータの音楽ソフトを使って制作をはじめたんだ。ファストトラッカーのようなプログラムを使っていたな。後にフルーツループス、そしてキューベースを使うようになって、いまは主にエイブルトンを使って作業しているよ。これらのプログラムは音楽制作以外には使っていなかったね。でも『ビーツ・アンラヴェルド・シリーズ』以降、オーディオのミキシングに夢中になって、これらのプログラムをそれにも使いたいと思ってやってみたらとても上手くいったんだ。とは言え、自分自身を「ミキサー」とか「エンジニア」だとは思わないよ。そうなるには長い道のりがあることくらい知っているさ。

あなたのことをユーチューブで知った人も多いと思います。いま話に出た『ビーツ・アンラヴェルド』シリーズの映像となりますが、J・ディラ、フライング・ロータス、エイフェックス・ツインなどの曲をリアルタイムでカヴァー演奏していて、それを全くひとりで、同時に様々な楽器を使いながらやってしまうことに驚かされた人も多かったようです。いろいろあるメディアの中でもユーチューブでやったのが効果的だったと思いますが、こうしたパフォーマンスをおこなうアイデアはどのように生まれたのですか? また、ここでやっている曲はあなたの中でも特に思い入れのある曲ということでしょうか?

B:ユーチューブでのパフォーマンスは事故のようなもんだね。エイブルトンを使った音のループをコンサートのリハで試していたんだ。そのころ俺はエリカ・バドゥの“ザ・ヒーラー”をメチャメチャ聴いていたんだけど、それをリメイクしたら面白いんじゃないかと思ってさ。映画制作を学びたがっていた友達がカメラを持ってやってきたので、それを撮ってもらったんだよ。それがすっげえカッコいい出来だったんで、反響なんて考えずにネットに載っけちゃったんだ。そっから月イチで動画作って載っけることにしてさ。そう、そこから『ビーツ・アンラヴェルド』がはじまったのさ!

オランダは〈ラッシュ・アワー〉のコンピの『ビート・ディメンションズ』に象徴されるように、フライング・ロータスはじめLAのビート・シーンの音にもいちはやく理解を示した国で、〈キンドレッド・スピリッツ〉や〈ドープネス・ギャロール〉などはジャズ、特にスピリチュアル・ジャズを時代に先駆けてフォローしてきたレーベルです。ビルド・アン・アークやカルロス・ニーニョのいろいろなプロジェクト、それからドリアン・コンセプトも〈キンドレッド・スピリッツ〉からリリースされましたが、そうしたオランダの音楽シーンはあなたの音楽性の形成に影響をもたらしましたか?

B:う~ん、実際のところ俺に影響を与えたものの大半はオランダ以外のものだよ。いま君が言ったアーティストとか音楽も、厳密にはアメリカなどほかの国から来ているよね。オランダで起きていることの中にもクールなこともあるけどさ、俺自身が音楽で目指していることに関して言えば、そっちよりイギリスやアメリカの音楽がベースになっているよね。それから北欧の国々からのインスパイアも大きいよ。でもオランダに住んで、プレイの場のほとんどがオランダで、多くのオランダのミュージシャンと共演をしているとなれば、全く影響を受けないわけにはいかないよ。恐らくその影響は潜在意識においてだと思うけど。

同じオランダ人ということで、〈ブレインフィーダー〉から『フール』をリリースしたジェイムスズーとはいろいろ交流があるようですね。あなたが『フール』にパーカッション奏者として参加する一方、あなたの“イン・ダスト/イン・アス”にはジェイムスズーがフィーチャーされています。彼とはどのようにして出会い、一緒に音楽を作るようになったのですか? また、あなたは彼のどのような音楽性に共感しているのでしょう?

B:ミッチェル(ジェイムスズー)とはネットを通じて知り合ったんだ。彼の“ザ・クラムツインズ”(2013年リリースのEP「イェロニムス(Jheronimus)」に収録)の動画を見つけて、そのサウンドとプロダクションにぶっとばされたんだよ。それまで彼のことは知らなかった。フェイスブックにメッセージをつけてそのビデオを投稿したら、それに彼が返事をくれたのさ。
彼は凄く創造力があってオランダ有数の音楽的天才だと思うよ。彼は音楽をダサくすることなく、不思議な感じにしたり、笑えるものにしたりできるんだ。“イン・ダスト/イン・アス”に彼を誘った理由は、俺が制作過程で煮詰まっていたら、ミッチェルが上手に曲をまるっきり作り変えたんだよ。そして俺は彼のやり方でそのまま彼に続けてもらったのさ。

ジェイムスズーを通じてフライング・ロータスや〈ブレインフィーダー〉の面々、ドリアン・コンセプトなどと繋がりはあったりしますか?

B:ミッチェルを通して、去年の11月にLAでドリアン・コンセプトには一度だけ会ったな。デイデラスザ・ガスランプ・キラーにも会ったことあるけど、何度も会ったことがあるわけではない。でも彼らは俺の音楽を知っていたよ。俺が彼らの音楽を知っているようにね。世界中のメチャクチャ多くの人たちが俺の動画をシェアしてくれて、特にミュージシャンの間でシェアされたから、彼らの多くも俺の動画を観たことがあるんだろうね。

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同じことの繰り返しで行き詰まる代わりに、違った角度での改善や発展をし続ける発想を得るには、気が多いことは大切なことだと俺は思うんだ。

これまであなたは本名のフランク・ウィーン(Frank Wienk)でいろいろなセッションに参加しています。ユトレヒトのビッグ・バンドのナランド(Knalland)の一員であり、パーカッション・ユニットのスラグワーク・グループ・ダン・ハーグ(Slagwerkgroep Den Haag)のメンバーで、フリー・インプロヴィセイション集団のザ・カイトマン・オーケストラ(The Kyteman Orchestra)にも所属するなど、実に幅広い活動をおこなっているのですが、そうした中でビンクビーツとしての活動は自身にとってどのような位置づけとなりますか?

B:ビンクビーツは自分で音楽制作して、ライヴで独演する、本当に俺だけのプロジェクト。俺がたくさんのいろんなことを同時進行させているのは本当さ。たとえばスラグワーク・グループ・ダン・ハーグは俺がメンバーのひとりで、いろいろなプロデューサーたちとのクロスオーヴァーなコラボレーション・プロジェクトなんだ。
いつだって音楽に対して俺は気が多いんだけど、同じことの繰り返しで行き詰まる代わりに、違った角度での改善や発展をし続ける発想を得るには、気が多いことは大切なことだと俺は思うんだ。その反面で、あんまり多くのことをやり過ぎてしまうとリスナーを混乱させてしまう。だから、ビンクビーツでやっていることとは違うけど、面白いなと思うことを見つけたら、本名を使ってそれをやったりするんだよ。

これまでのあなたのEPをまとめた『プライヴェート・マター・プリヴィアスリィ・アンアヴェイラブル』は、基本的にあなたが演奏する楽器の多重録音によるものですが、そうした中でパートナーとして、キーボード/シンセサイザー奏者のニルス・ブロースも重要な役割を占めています。彼はあなたのライヴ映像でも共演していますし、またジェイムスズーのアルバムやカイトマン・オーケストラでも一緒にやっています。彼とはどのようにして出会い、いろいろと共演するようになったのですか? また、あなたの音楽にとってどのようなパートナーと言えますか? 私が思うに彼はフローティング・ポインツのようなアーティストかなと? 対してあなたはひとりでリチャード・スペイヴンやスクエアプッシャーをやっているのかなと?

B:『プライヴェート・マター・プリヴィアスリィ・アンアヴェイラブル』はライヴでやっていることとちょっと違う。ライヴを観て聴くことと、CDを聴くこととは全く違う体験だと思うんだ。だからCDではもう少し多層的にしたり、もうちょっと手を加えたりする。ニルスはその手を加えるときに素晴らしい役割をしてくれるんだよ。彼は俺の良き友人であり共同作業もたくさんやっている。彼とはカイトマン・オーケストラを通じて出会い、音楽の趣味がとても似ていることがわかって友人になったのさ。
共同作業のはじまりは、ざっくりとした新しい曲をニルスのところに持っていって手伝ってもらうことが何度もあって、そこからだね。そして自分のスタジオに戻って、新たな素材を使ってその曲の制作作業を続けたんだよ。ときには彼に好きなようにしてもらったり、ときには特定の箇所の手伝いをしてもらったり。場合によっては“リトル・ナーヴァス”という曲でやったように、彼にソロを演奏してもらったり。必要となれば彼は素晴らしいソロイストになるからさ。
ニルスがフローティング・ポインツで、俺がリチャード・スペイヴンやスクエアプッシャーをやっているとの意味合いはわからないけど、褒め言葉して受け止めておくよ。ありがとう。

あなたは普段どのようにして作曲をおこなっているのでしょうか? “リトル・ナーヴァス”のライヴ演奏を見るように、ドラムやベースで作ったフレーズをループさせ、そこにいろいろな楽器を即興的に乗せていくというような?

B:新曲を作るときは、まずコンピュータで作りはじめる。それから選んだ楽器を鳴らして即興演奏をやって、それを録ってループして重ねはじめるんだ。“リトル・ナーヴァス”では、買ったばかりの緑のフルート・パイプのようなものを使ってはじめた。それにプログラミングしたドラムを乗せたけど、長い時間が経ってどんな意図でそれをやっていたのかわからなくなっちゃってさ(笑)。
ある晩、そのデモに合わせてベース・ギターで即興していたら、じわじわと主軸のメロディが浮かんできて、そこからニルスと一緒に多層的にして録音したんだけど、それでもまだ何か物足りなかった。ともかく最後に決め手として生ドラムを録音して、“リトル・ナーヴァス”をリリースした。だからそのレコードではニルスにソロをやってもらっていない。ソロを録音したにはしたんだけど、レコードには入れていないんだ。それはフェンダー・ローズで、何だか耳触りがしっくりこなかったのさ。
その後、ライヴ用に練習をしはじめたときに、彼はミニ・ムーグを使ってソロをやったんだ。それこそが足りなかった何かだったんだよ。でもレコードは既にリリースされてしまっていた。つまり、“リトル・ナーヴァス”の彼のソロ・パートはライヴでしか聴けないんだよ!

アルバムにはいくつかヴォーカルをやっている作品もあります。あなたはプロのシンガーではないと思いますが、とても味のあるいい歌声だと思います。内省的な感じはジェイムス・ブレイクやサンファあたりに通じるもので、“アース”のようにアコースティック寄りのサウンド、“リズミッコノミー”や“イン・ダスト/イン・アス”やのようにエレクトリック寄りのサウンドのどちらにもうまくフィットしていると思います。歌はあなたの作品にとって重要な要素ですか?

B:君が言うとおり俺はヴォーカリストではないけど、声を自分の使える楽器のひとつとして認識しているんだ。ヴォーカルが必要のない曲でも、より良くするにはヴォーカルを入れるべきと強く感じるときもあるのさ。
俺は曲にヴォーカルを入れたくて入れるんだけど、ヴォーカルははじめたばかりだし得意なわけでもない。他の多くの楽器と同じさ。俺は楽器によっては名人級に上手いわけでもないけど、それが曲のどの部分に必要かどうかはわかるし、その楽器が充分に機能するようにプレイはできる。

“ジェイクズ・ジャーニー”や“イニキティ”はテクノやハウス・ミュージック的なビートの曲で、フローティング・ポインツあたりとの類似点も見いだせそうです。オランダはこうしたテクノなども盛んな国ですが、やはりあなたの音楽への影響も大きいのですか?

B:いま君が言うような「テクノ」や「ハウス」は、俺にとって80~90年代に流行ったそれとは全然違う音楽になってきていると思うね。ロックにすっげぇハマっていた子供のころは、いわゆる四つ打ちがホント嫌いだったんだ。クラブ・ミュージックとは俺にとって四つ打ちのことだけど、でもでも後からだんだんクラブ・ミュージック好きになってきたのさ。それには人を心地よくダンスさせる力があるからさ。
“イニキティ”はハウスやテクノではなく、よりトラップをベースにしたつもり。ジェイムス・ブレイクの良いところを参考にしてトラップ・ビートと組み合わせて作ったんだ。

“ハートブレイクス・フロム・ザ・ブラック・オブ・ジ・アビス”はあなたとルーテンによるデュエット曲です。彼女(テッサ・ドウストラ)はとても個性的なシンガー・ソングライター/ギタリストで、あなたも彼女のアルバムにプロデューサーとして参加していますが、どのような交流があるのですか?

B:テッサは俺が『ビーツ・アンラヴェルド』をはじめる直前にメッセージをくれたんだ。彼女はいくつかのバンドでの俺のプレイを見てくれていて、何の制約もプランもない音楽を作りたがっていた。で、俺たちは多くの曲を手がけたんだ。未発表だけど、その全曲がまだ俺のハード・ディスクのどっかにあるはずだよ。そうしているうちに、俺たちは音楽制作の喜びを分かち合える素晴らしい関係だとわかったのさ。だから俺たちはそのまま音楽を作り続けた。
彼女が自身のアルバムを手がけていると教えてくれたときに、俺に聴かせてくれた数曲が素晴らしかったんで、手伝わせてくれるよう申し出たんだよ。同時に俺も自分の曲を制作中で、“ハートブレイクス・フロム・ザ・ブラック・オブ・ジ・アビス”に男性からではなく女性からの視点での歌詞が欲しかったから、彼女に書いてもらったんだ。そしてさらには俺とのデュエットも頼んだのさ。

“ザ・ハミング/ザ・ゴースト”にはミスター・アンド・ミシシッピというインディ・ポップ・バンドのリード・シンガーであるマキシム・バーラグが参加しています。彼女とはどのような交流がありますか?

B:“ザ・ハミング/ザ・コースト”は『プライヴェート・マター・プリヴィアスリィ・アンアヴェイラブル』の2枚目のEPに入っているけど、彼女のヴォーカルはあのEPで最後に録音したんだ! あの曲は歌詞もできていたのに、自分で歌入れしたらしっくりこなかったから、誰か適したシンガーが見つかるまで長いこと寝かせていたんだ。そんなころに俺のマネージャーでもありプロデューサーでもあるサイモンが、たまたまスタジオでミスター・アンド・ミシシッピと仕事をする機会があって、いいシンガーがいるからと彼がマキシムを推薦してくれたのさ。彼女の起用によって“ザ・ハミング/ザ・ゴースト”の仕上げはまるでマジックのように上手くいったよ。彼女の深く暖かい声はまさしくあの曲に必要だったのさ。

今後はどのような作品を作っていきたいですか?

B:ビンクビーツとしてのサードEPが完成して、この3月にリリースされたばかりだ。『プライヴェート・マター・プリヴィアスリィ・アンアヴェイラブル』は前の2枚のEPと合わせて三部作となるんだ。そのほかにいままでやってきたこととは違うプロジェクトやライヴを手がけているけど、さっきも言ったように同じことを繰り返し過ぎちゃダメで、そのことはアーティストとして成長するには重要なことだと思うんだ。まだ内容のことを詳しくは言えないけど、プロジェクトによっては爆音で鳴らすものがあれば、静かで瞑想的なものもある感じさ。
その次にはダンスのためのスコアと舞台パフォーマンスのためのスコアを書く予定で、すでに2本のドキュメンタリー用のスコアを書いている最中だし、たぶんもっと増えると思うよ。スラグワーク・グループ・ダン・ハーグの活動もあるし、ルーテンのセカンド・アルバムもあって、そこでは再びマキシムとの待ちに待った仕事もやっている。そう、たくさんの音楽が待ちかまえているんだ!

僕たちのラストステージ - ele-king

 コメディアンが彼らの先輩を演じるとなると、やはり気合が違うのだろうか。チャップリンやバスター・キートンと共にトーキー時代から活躍していたローレル&ハーディの引退劇を扱った『僕たちのラストステージ』では何を演じてもワン・パターンだったスティーヴ・クーガンがまずは同一人物とは思えない役者ぶりを見せている。『24アワー・パーティ・ピープル』(02)でファクトリー・レコーズの社長、トニー・ウイルソンを演じ、ハリウッド進出後も『アザー・ガイズ』(10)では嫌味たっぷりなCEO、『ミスター・スキャンダル』(13)ではイギリスのポルノ王、ポール・レイモンド、最近では『ノーザン・ソウル』(14)にも教師役でキャスティングされていたクーガンはどちらかというとイギリスではアラン・パートリッジというTVのコメディ・シリーズで知られる喜劇役者で、苦虫をかみつぶした表情だけですべてを貫き通してきた筋金入りの金太郎飴役者であった(エレキング本誌でかつてブレディみかこ×水越真紀の対談シリーズにつけた「NO POLITICS,THANK YOU」というタイトルも『スティーヴとロブのグルメトリップ』(10)から拝借した彼のセリフ)。そのクーガンが老境に差し掛かったスタン・ローレルの哀愁や喜び、相方への愛憎や不屈の精神を信じられないほど多彩な表情で演じ切り、恐ろしいほど感情移入させてくれるのである。これにまずは唸ってしまった。クーガンだけではない。バカみたいなコメディ(『俺たちステップブラザース』『おとなのけんか』)から極度のシリアス(『少年は残酷な弓を射る』『ロブスター』)まで、役者としての幅は充分に演じ分けてきたジョン・C・ライリーも始まってしばらくは彼だと気づかないほどメイクで肥え太った体型となり、ここまで別人になれてしまうのかと思うほどオリヴァー・ハーディになりきっていた(とんでもない巨漢に扮してしまったために、彼は服の中にホースを張り巡らせ、水で体を冷やしながら演技していたらしい)。ふたりはまた、ローレル&ハーディのダンスをコピーする際、オリジナルのふたりがミスをしたところまで忠実に写し取っていたといい、さすがにそこまで僕にはわからなかったものの、「しつこい」ということがもたらす普遍性が時代も人種も超えてしまうことはいやというほど理解できた。というより、そもそもローレル&ハーディの体の動き、それは日本ではドリフターズやその周辺のお笑い芸人たちが70年代まで繰り返し模倣してきた基本動作であり、間接的に想起させられる懐かしさでもあった。

 ローレル&ハーディがメイクを済ませ、ハリウッドでスタジオ入りするところから話は始まる。ローレルはプロデューサーのハル・ローチ(ダニー・ヒューストン)と口論になる。ハーディはローレルに結婚したいと考えているルシール(シャーリー・ヘンダーソン)を紹介する。舞台はそこから一気に1937年から1953年にジャンプし、ローレル&ハーディはすっかり過去の人となっている。彼らは映画界に復帰するために資金をつくろうとイギリスまでドサ回りのツアーに来たのである。辿り着いたのはニューカッスルの汚いホテル。蓋を開けてみると客席はガラガラで、前途は暗い。予定されたスケジュールも減らすことになりそうだと興行主から告げられる。路上を歩いていると、見上げればアボット&コステロのポスターが彼らを見下ろすようにして貼られている。彼らはそれでもイギリス北部を中心にツアーを続け、少しずつ客足が回復してくる。そして、ロンドンでは大きな公演が組まれることとなり、アメリカに残してきた妻たちもイギリスまでやってくることに。ところが妻たちの口論がきっかけとなってローレルとハーディの関係も複雑な過去を振り返るかたちでギクシャクし始め、とある小さなイベントに余興で出演しようとした際、それまで体力的に無理を重ねてきたハーディが急に倒れてしまう。ハーディは絶対安静の身となり、せっかくのロンドン公演も続行不可能に。興行主はせっかく大量のチケットがさばけたこともあり、代役を立てて予定通り公演を行おうとするものの、舞台袖で待機していたローレルは……。

 テクノロジーの発展はなんでもひとりでやれることを拡大してきた。岩井俊二のように演技以外のことは、監督も編集も照明も音楽までひとりでこなせてしまうということは、映画監督がイメージを具現化する上で大きな恩恵を与えてくれたことだろう。クリエイターだけの話ではなく、いまでは誰かに何かを尋ねても「ググレカス(JFGI)」と言い返されるだけだし、生きることはスマホが全部やってくれる時代もすぐそこに実現しかけている(道を歩いている時に会いたくない人が近くを歩いている場合はその道を避けられるようスマホが指示を出してくれるとか、寝ろだの起きろだの、1時間おきに椅子から立てだの、次に何をやればいいかはだいたいスマホが指示を出してくれるわけだし)。スタン・ローレルとオリヴァー・ハーディが苦境を脱しようと助け合い、あるいは激しく罵り合い、最後のドサ回りを完遂していく姿は、もはや人類にとって贅沢品のような行為になりつつあるのかもしれない。誰かひとりと強い関係を結べば、それは一生その人を支配し、他の人と関係を構築することは不可能に近くなる。多くの人々と多面的な付き合いを優先するならばテクノロジーは存分にその助けとなってくれるし、多くの人間関係を維持していた方がたいていの人にとってはビジネス上は有利になるだろう。ローレル&ハーディのような成功例は多くの人の教科書にはならないし、ぞれぞれにそれなりの能力がなければ力を合わせるという考え方からして成立するよすががない。少しずれるかもしれないけれど、さっき、ワイドショーを観ていたらヨーロッパに進出した電気グルーヴは石野卓球ばかりが才能を認められ、楽器のできないピエール瀧は劣等感に苛まれ、それでドラッグに手を出したのではないかという推論が堂々と述べられる始末であった。スタン・ローレルとオリヴァー・ハーディを見ていても、ローレルが脚本を書き、それをふたりで演じるのだとしても、明らかにハーディの愛嬌によってローレルのアイディアは何倍にも増幅するのであって、すべてをローレルだけでまかなったところで同じ結果が得られないのは明らかである。誰かと誰かががっちりと組むデラックスでラグジュアリーな人生の豊かさをこの映画で味わっていただけたら。

『僕たちのラストステージ』予告編

Yves Jarvis - ele-king

 今期はTVドラマに面白い作品が多く、最終回まで見てしまったものが5作品もあった(最後の最後まで低視聴率だった『スキャンダル専門弁護士 QUEEN』が個人的にはダントツでした)。興味深かったのは登場人物が人の悪いやつばかりという『グッドワイフ』が面白かったのは、まあ、当然だったとして(オリジナルはアメリカ作品なのでキャラクターは日本人離れし過ぎだったけれど)、逆にいい人しか出てこない『初めて恋をした日に読む話』は面白くなるはずがないと思ったにもかかわらず、なぜか最後まで楽しめてしまった。いい人しか出てこないなんて、話に陰影のつけようがないし、そもそも世界が単調で嘘くさいだけだと頭ではわかっているのに……(それこそ『3年A組』は人間の裏表だけで突っ走ったようなドラマだったし……)。音楽も同じくで、少しは毒だったりネガティヴな要素がないとリアリティのあるものにはならないのではないかと頭では思うのに、どういうわけかごくごくたまにピュアなムードだけで押し切られてしまうこともある。ここ1ヶ月ほど繰り返し聴いていたイヴ・ジャーヴィスもそうで、あまりに無防備で素直な作風なのに、それとなく心に引っかかり、何度も聴いてしまったというか。こういう人もたまにはいるんだよな。

 世田谷の空が狭すぎるならケベックの空はもっと狭いのか。弾け出すには何か足りないどころか、弾け出すという考えにも至らないのだろう。モントリオールのジャン・セバスチャン・オーデットが、これまで使っていたアン・ブロンド(Un Blonde)の名義からイヴ・ジャーヴィスに名義を切り替えて1作目はソウルフルな宅録風のアコースティック・ポップで、これがとても心地よく優しい響き。サーラ・クリエイティヴが腰砕けになったようなヘロヘロのヒップホップ調だった初期のアン・ブロンドは、最終的に『Good Will Come To You』(18)でサイケデリック・フォークを志向するようになり、それまでは「楽観的で朝の喜び」を表現していたものにフィールド・レコーディングやエレクトロニックな処理を増やし、さらには「寝る前に感じる苦痛」というテーマを与えることで『The Same But By Different Means(違う意味で同じ)』へとヴァージョン・アップを果たすこととなった。1曲だけヒップホップに揺り戻したようなビートもありつつ(“That Don't Make It So”)、全体としてはソフトで温かみのあるフォーク・ロックを軸に、しんみりと落ち着いた気分にさせてくれる全22曲という構成(曲の長さは14秒から8分12秒までかなり幅がある)。エアリアル・ピンクがスティーヴィー・ワンダーを取り入れたといえば少しは雰囲気が伝わるだろうか。

 ノワール・フォーク・シュールレアリズムと称されたりもしているので歌詞にはけっこう不穏な部分もあるのかもしれないけれど、何を歌っているのかはよくわからない&とくに話題にもされていない。ジャム・セッション風の“Blue V“、鳥の声だらけの“Dew of the Dusk”に“Exercise E”はとても美しいアンビエント・ドローン。よく聴くとかなりハイブリッドな音楽性で、これらを見事にまとめあげているというか、全体を貫くイメージがしっかりとしているので、それらが手法によって引き裂かれてしまうということがない。自分だけに接近して語りかけてくるかのような歌い方のことを枕を意味するピロウィーと形容するらしいけれど、オーデッドのそれはまさに耳元で囁かれているかのごとく。声の調子を変えることもなく、ひたすら穏やかにメランコリーが煮詰められていく。彼の音楽ヴィデオにはいつも彼だけしか映し出されず、ほかはすべて死に絶えたかのようで、まるで地球上で生き残ったのはこの人と僕だけ……みたいな。そんな聴き方も悪くない気がして。

『違う意味で同じ』というタイトルは、なんか、しかし、ジレ・ジョーヌのことみたいだな。

音楽性が豊か(very musical)で、直球(direct)で、そして簡潔(concise)ね。
(オフィシャル・インタヴューより)

 というのが、「ニューアルバム『GREY Area』を3語で表すなら?」という質問に対しての、リトル・シムズ本人による回答だ。本作の、たとえば“Selfish” “Pressure”や“Flowers”で聞かれるピアノとフックの歌メロが印象的な、内省的でメロウな楽曲群に「豊かな音楽性」を見出すのは難しくない。しかし何よりも“Offense”や“Boss”のように生ドラムのサウンドが印象的な生楽器で構築されたビート群に絡みつく、単にメロディックという意味だけでなく、リズムと発声が完全にコントールされた「音楽的」としか言いようのない彼女のフロウは、僕たちの鼓膜を「直球」で捉える。そしてそのリリックは、タイトルのシンプルさが示すようにとても「簡潔」で、曲のコンセプトもまた直球でストンと落ちてくる。

 しかしこの3語の回答は、リトル・シムズというラッパーの本質を突いているようでもある。

 ロンドン出身の25歳、ケンドリック・ラマーをして「一番ヤバい(=illest)」アーティストだと言わしめる彼女は、プロのラッパーを志して大学を中退してから、ひたすら走り続けてきた。前作『Stillness In Wonderland』──『不思議の国のアリス』に目配せするコンセプト・アルバムでもある──でその実力を見せつけ、アンダーソン・パークゴリラズ、そして憧れのローリン・ヒルらとツアーを重ね、数あるMV群でも独特のレトロ・モダンなヴィジュアルイメージをまとってファッションアイコンとしても認知され、絶対数の圧倒的に少ない女性ラッパーの中でも順風満帆に成功への道を辿っているように見えた。しかし、彼女を待っていた「ワンダーランド」は単に夢見ていたファンタジックな世界ではなかった。

周りに有名人が増えてくると彼らの成功と自分を比べてしまったり。そして「これじゃダメだ。ああなりたい」と思ってしまったり。そんなことにばかり目が向いてしまいがち。自分の足場を固めないといけないのに。
(オフィシャル・インタヴューより)

 成功への階段を上ることで、自分を見失う。あるいは、ツアーばかりの生活も、彼女にとっては厳しい経験だった。

家を離れている時間が長いのは、ホント大変。すごく寂しいし孤独を感じるし、色んなものを見逃している気がする。それだけじゃなくて、前は普通だった体験を共有できないっていうか、ね? それがキツかったな。
(オフィシャル・インタヴューより)

 しかしそれらも含めて、彼女は自身の経験を音楽という形に造形し、世界と共有する。それらを溜め込まずに、リリックにしたためる。

ほとんどもう、セラピーみたいなものよ、そうやって…うーん、なんだろ、形に残してケリをつける、かな、それができるのはセラピーのようなもの。 (オフィシャル・インタヴューより)

 本作に収録の“Therapy”もそんな彼女の曲作りについての歌だろうか。しかし聞こえてくるのは、「なんでセラピーに来る時間を作ったのかも分からない/あんたの言葉に助けられることなんてないんだから/あんたが何かを理解してるなんて信じない」といった、むしろセラピーを咎めるようなリリックだった。そうだ。彼女は誰のものでもない、自身の経験に基づいて、創作活動というセラピーを見つけたのだ。だから、紋切り型の表面的な言葉を発する人々をセラピストになぞらえながら警鐘を鳴らしつつ、「私たちは欺瞞と虚構に満ちた社会に生きてる/なんとかヒット曲を生もうと、人々は必死になってる/大きな声で言うべきことじゃないかもしれない/もう言っちゃったけどね」と毒づく。

 何よりも今作における彼女は「直球」だ。たとえば「Tiny Desktop」に出演する彼女の、いかにも人懐っこい笑顔やその物腰から、無防備に彼女のライムに近寄ってはならない。制作に
サンダーキャットとモノポリーも迎えた、その名も“Venom(=毒)”で驚異的なスキルを見せつける彼女のライムに噛みつかれるのがオチだ。

男たちはプッシーを舐めてる、ケツの穴もね/あら、怒ったの? なら私のところに来てみなさいよ、ディックヘッド
“Venom”より

 “Offense”や“Boss”にも通底している攻撃性には、ロクサーヌ・シャンテからニッキー・ミナージュまで引き継がれるフォーミュラが息衝いている。“Therapy”の韻を踏みまくるスタイルといい、“Venom”のアカペラが映えるいかにもスキルフルな高速フロウといい、彼女がヒップホップらしいスキルフルなラップに魅了されたラッパーであろうことは一目瞭然だが、フェイヴァリットは誰なのだろう。

間違いなくビギー・スモールズ、ナズ、ジェイZ、カニエ・ウエスト、あと…モズ・デフ、ウータン、それと…2パック…ミッシー・エリオット、バスタ・ライムス、ルダクリス…その他諸々。
(オフィシャル・インタヴューより)

 なんとも頼もしい。確かにブレイドにも、ルーツ・マヌーヴァにも、あるいはダーティ・ダイクにも、要所要所で僕たちはUKのアーティストたちにヒップホップの良心を見てきた。このアルバムには、そんな彼女のラッパー/ヒップホップ観が表れている。つまりここには、しばしば現在のヒップホップが失ってしまったと嘆かれるクリエイティヴィティが満ち溢れているのだ。
ではそれは、どのように生まれたのか。成功への道に導かれつつも自身を見失ってしまいそうになったときに彼女が選択したのは、「コラボレーション」だった。本作は、同じロンドン出身で彼女のことを9歳から知っているという Inflo をプロデューサーに迎え、何人かのゲストをフィーチャーしつつも基本的にはふたりのコラボレーションで制作された。

全部最初から一緒に作っていったから、本当の意味でのコラボレーションだった。ビートが送られてくるのとは違って…いや、それだってコラボレーションには違いないけど、今回みたいに本格的に誰かと共同作業をしたことは今までなかった。それもプロジェクトの最初から最後まで。相手のアイデア、私のアイデア、と出し合って、私が相手の作ったものを気に入らなかったり、相手が私に作ったものを気に入らなかったりすることがあっても、お互いに歩み寄って納得のいくところを探し出すっていうのは単純にやり方が違ったし、おかげで本当に強力なプロジェクトになったと思う。
(オフィシャル・インタヴューより)

 結果生まれた、ファンキーかつアトモスフェリックな生楽器の演奏を中心に据えたプロダクションと彼女のラップの相乗効果はどうか。一聴してすぐに分かるのは、それが現行のアメリカのヒップホップ・チャートからは決して聞こえてこないであろうサウンドだということだ。

今度のアルバムのサウンドは完全に異質だと思う。私の前のアルバムとも全然違うし、今耳にする音楽と比べても違うし、なんて言うんだろう…とにかく個性的。
(オフィシャル・インタヴューより)

 生楽器中心ということもあり、それは恐ろしく「簡潔」なサウンドだ。しかしそれは単調というのは違う。むしろそれは、「簡潔かつ複雑」とでも言うべき音空間なのだ。たとえばオープニングの“Offense”を貫くのはファンキーなブレイクビーツとブリブリのシンセベースだが、シムズのために十分に空けられた音の隙間に挿入されるフルートやストリングス、あるいはコーラスといったウワネタは、どれもオーヴァードライヴで歪まされ、かつリヴァーブでさらに空間性を強調されている。しかしどの音も互いに埋没することなく、しっかりとフレーズ単位でその輪郭を主張しながら絡み合うのだ。そしてビートの隙間を縫うように、彼女は一ライン毎に十分に間を空けながら、ここしかありえないという絶妙な位置にライムを配置していく。いつの間にかラッパーたちは、隙間を空けることを怖がり、強迫症にかかったように言葉数を多くして息継ぎをする間もないヴァースを量産してきた(そんな状況に疑問を呈したのがトラップというジャンルだという捉え方もできるかもしれないが)。“Venom”のようにリスナーを窒息させるラップにもスキルが必要なら、この“Offense”のように行間のグルーヴに語らせる「簡潔」なヴァースもまた、並々ならぬスキルに裏打ちされたものだ。

 さらに「簡潔」なビートを「複雑」に彩る、“Wounds”や“Sherbet Sunset”、“Flowers”で聞こえてくるギターは、独学で身につけてきたという、彼女自身によるものと思われる。

こんなにメンタルがおかしい世界でどうやって正気でいられるか/世界は十分病んでるわ/ヴードゥー・チャイルドがパープル・ヘイズで遊ぶほどに/一人でいる時は決して安息できない/これは一時的なものじゃない
(“Flowers”より)

 彼女が以前からリスペクトを公言しているジミ・ヘンドリクスと共に、カート・コベインやバスキア、ジャニス・ジョプリンといった27歳で亡くなったアーティストたちに花を手向ける“Flowers”で幕を閉じる本作(日本盤には去年の来日のことだろうか、渋谷を訪問した様子もリリックに登場するボーナス・トラック“She”が収録)は、確かに「音楽性が豊か」で、「直球」で、そして「簡潔」な作品だ。しかしそのような作品を、彼女はなぜ『GREY Area』と命名したのだろうか。

SNSの時代は特に、あっという間に本来の自分じゃないものになってしまいかねないから、とにかく自分に正直に、自分の気持ちに正直に、そして自分は完璧じゃないということをオープンに受け入れて、みんなと同じで間違いも犯すし、まだ24才で自分が何者でこの世界で何をしようとしているのかわからないまま模索していて…女性としてもはっきりしないことがまだ沢山あって、世の中は白黒はっきりしたことばかりじゃなくてグレーゾーンがたっぷりあるってことをそれでヨシとしたい。だからアルバムのタイトルもグレー・エリアにしたの。白黒で割り切れるものなんかなくて、見た目ほどシンプルじゃないから混乱もするし、そこで迷うことも多いけど、それが人生なんじゃない?
(オフィシャル・インタヴューより)

 世界を前にして、ときにはグレーの無限のグラデーションのなかで方向性を見失うことすらも、率直に示すこと。本作を形作る濃淡様々なグレーのピースたちは、彼女の足跡だ。そのようなグレーのなかで迷い、引き裂かれるラッパー像といえば、やはりケンドリックを思い起こしてしまうが、果たして彼女は、どこへ向かうのだろう。しかし今はまず、本作の直球で簡潔な表現の底を流れるそのグレーな豊かさに、耳を澄ますことにしよう。

Roma/ローマ - ele-king

 スティーヴン・スピルバーグがストリーミング・サーヴィスはアカデミー賞ではなく、TVドラマを対象としたエミー賞で扱うべきだったと提言を下した『ローマ』。世界で同時配信される前に3週間の劇場公開をしているのでアカデミー賞を競う条件は満たしていると反論するネットフリックス(カンヌは選考外としている)。前にも書いたようにNHKニュースでも『グリーンブック』はほぼスルーで、『ローマ』を観ること=映画はもはや映画館で観る時代ではなくなるという論点ばかりが語られ、それはもしかすると最大で66億円もつぎ込んだというキャンペーンの成果なのかもしれないけれど、いずれにしろ横長のスクリーンで観たいと思ったこともあり、遠くの映画館まで足を延ばしてきた(都心ではやっていない~)。結論からいうと『トゥモロー・ワールド』よろしく横に水平移動するカメラが多用され、それも視点が移動したりしなかったりと効果も臨機応変で、画面の右側を三分の一しか使わない構図など、バカでかいTVを持っていない僕としてはスクリーンで観たことは完全に正解だった(ちなみに僕が行った回はガラガラで、珍しくおっさんばっかり)。

 オープニングがまず美しい。画面いっぱいに敷石が映し出され、やがてそれが水浸しになっていく。水たまりには空が映り、はるか上空を飛行機の陰が飛んでいく。いつまででも観ていられるアート・フィルムのようで、真上から撮っていたカメラが視点を上昇させていくとヤリッツァ・アパリシオ演じるクレオが掃除を終えて家に入っていくシーン。この質感はヌエーヴォ・シネ・メヒカーノそのもの。ハリウッド以前は世界の映画シーンをリードしていたメキシコが50年ぶりに再生を賭けて起こした芸術運動がヌエーヴォ・シネ・メヒカーノで、イニャリトゥ『アモーレス・ペロス』(00)が代表作とされている。カルロス・レイガダス『闇のあとの光』(12)のようなマジック・リアリズムは一切なく、端正なモノクロ仕上げはキュアロンが製作したフェルナンド・エインビッケ『ダック・シーズン』(04)と同じくルイス・ブニュエルの精神に立ち返ったことを表している。クレオは同じく先住民のアデラと共に家政婦として働いていることがだんだんとわかってくる。彼女たちが住み込みで働いているのはアントニオとソフィア夫妻に子どもが4人とグランマのテレサを加えた7人構成の中産階級の上……ぐらいの家。アントニオが車で帰ってくるシーンが序盤のハイライトになるだろうか。ただの車庫入れをここまで誇張して描くかと思うほどバカみたいなアップが笑ってしまう。それはおそらく子どもにはそう見えていたということで、この映画は実際、キュアロン自身の子ども時代を描いたものらしく、舞台はメキシコのローマ地区、時代は1970年から71年にかけて。ちなみにキュアロンは自分が特権階級として育ったことに罪悪感があるとも語っている。

 クレオとアデラはこまめに働き、休みになるとボーイフレンドたちとドイツ映画を見たり、ベッドを共にしたり。繁華街のにぎやかさといかがわしい物売りたちのデモンストレーションは念入りに再現されていて、TVに登場するビックリ人間なども含めて、それらは子どもたちに見えていた世界観が色濃く反映されているのだろう。子どもたちが様々な遊びに興じるなか、そして、アントニオはカナダに出張で出掛けていく。(ここからはネタバレというと大袈裟だけれど、知らない方が楽しめるストーリー展開で)雹に打たれて遊んでいる子どもたちを呼び寄せ、出張中の父親に手紙を書くよう指示したソフィアにクレオは自分が妊娠したこと、そして、そのことを話すとボーイフレンドは行方をくらませてしまったことを告げる。「クビですか?」と尋ねるクレオにソフィアはそんなことはしないといって翌日、かかりつけの病院にクレオを連れていき、自分は別な医者とベタベタしている。診察を済ませたクレオは「新生児室を見てくれば」とソフィアに促されるまま生まれたばかりの赤ちゃんたちを眺めているといきなり大地震に襲われる(前の日にTVで3・11特番を目にしていた僕はこの場面、本気で怖かったです)。

『ローマ』には様々な音楽が流れているものの、それらはすべて作中で鳴っている音楽であって、いわゆる劇伴はまったくつけられていない(最後にエンドロールでクレジットされている曲の多さにはあッと驚くものがあった)。にもかかわらず、場面転換は非常にリズミカルで、どちらかといえばミニマリズムに近い作風ながら、だらだらとして思わせぶりなカットが多いデヴィッド・リンチとは対照的に編集のテンポだけで淀みなく日常は織り成されていく。先住民たちが住むゲットー地区の描写を経てクレオがテレサに伴われて家具店に赤ちゃん用具を探しに行くと、外で渦巻いていた学生たちのデモ隊が政府に支援された武装組織と衝突し、後に120人が殺害されたことが判明する「血の木曜日事件」が勃発。家具店の中に「殺さないでくれ」と逃げ込んできた学生を撃ち殺したひとりがクレオに銃を向けたまま、しばらく微動だにせず、やがて走り去っていく。それはクレオを妊娠させたフェルミンであった。クレオはそのショックで破水し、病院に運び込まれる。テレサは病院のスタッフにクレオの名前や家族のことを訊かれるものの、ミドルネームすらわからず、ほとんどのことには答えられない。そして分娩室でクレオが産んだ子どもは死産であった(新生児のベッドが地震で瓦礫に埋まったり、新年のお祝いでコップを割ってしまうなど予兆はいくらでもあった)。

 打ち沈んだクレオには休暇のつもりで、ソフィアは子どもたちと海辺の避暑地へ行こうと提案する。実は出張だといっていたアントニオはそのまま別な女性と駆け落ちし、留守の間に本棚を運び出しに来ることになっていた。ソフィアもクレオも男に裏切られたと言う意味では同じ境遇になったのである。キュアロンは前作『ノー・グラヴィティ』で生きることに絶望した宇宙飛行士ライアン・ストーン(サンドラ・ブロック)がもう一度生きようという意志を持った時に「重力」がその助けとなるという設定を与えていた(原題は『グラヴィティ』で、邦題が『ノー・グラヴィティ』だと教えると英語圏の人たちにはバカ受けします)。しかし、もう一度生きてみようとストーンが思い直す時に彼女は幻覚を見ていて、ジョージ・クルーニー演じるマット・コワルスキー(=男)がそのアシスト役になっている。それが『ローマ』ではアントニオとフェルミンだけでなく、他の細かいシーンでも男性は役立たずか裏切り者として描かれ、男たちは見事に女性が生きることを邪魔する存在でしかない。それは意図的なのかもしれないし、キュアロンにとっての過去が偶然にも#MeTooと共振しただけなのかもしれない。ビーチで繰り広げられるクライマックスではソフィアとクレオには階級差がなくなったともとれるような場面が逆光の中に映し出される。そして、死産がクレオにとって悲劇ではなかったことが明かされる。

 ソフィアはしかし、あまりにも強い女性として描かれすぎな気もしないではない。母親に求めるものが多過ぎると批判された細田守『おおかみこどもの雨と雪』(12)と同じく、妊娠したことで戸惑うクレオと比較して何に対してもめげる様子を見せないソフィアの気丈さはさすがに尋常ではない。女性がその意志を貫くという意味では初期の代表作『天国の口、終りの楽園。』にも通じるものがあるのかもしれないけれど、この作品が扱っている人種問題や経済格差、あるいは#MeTooに通じる部分よりも僕はどうしてもそこが気になってしまった。マザコンをよしとするメキシコの気風なのかもしれないし、キュアロンが母親の弱い面を見ないで育ったというだけのことかもしれない。わからない。ちなみに最初から最後まで犬だらけで、犬と人間の距離感も僕にはナゾだらけでした。

『ROMA/ローマ』予告編
                  

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