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ハウ・トゥ・ドレス・ウェル......、これは穴馬、ダークホースですよ。〈トライ・アングル〉というレーベルは、oOoOOをはじめ、ハウ・トゥ・ドレス・ウェル、ホリー・アザーといった怪しげな連中の作品をリリース、いわゆるダークウェイヴ/ウィッチハウスの発火点となっている。ハウ・トゥ・ドレス・ウェルの音楽は、たとえるならサイケデリックな幽霊屋敷のR&B、嗚咽のような、すすり泣くダークウェイヴ/ウィッチ・ハウス。彼のアルバム『ラヴ・リメイン』は、恐ろしい作品である。
そしてアクティヴ・チャイルド、チルウェイヴ/シンセ・ポップの現在ですね。今年はファースト・アルバム『ユー・アー・オール・アイ・シー』もリリースされました。もうこの人は、歌が素晴らしいです。アクティヴ・チャイルドの登場とともにソフト・セルやアソシエイツの中古もいっきに品薄になりました。
そんなわけで、12月12日は代官山 UNITに現実逃避してください。
12/12(月) 代官山 UNIT
OPEN 18:00 / START 19:00 ¥4,500(前売/1ドリンク別途)
INFORMATION:
03-3444-6751 (SMASH), 03-5459-8630 (UNIT)
smash-jpn.com smash-mobile.com www.unit-tokyo.com
チケット発売中!
ぴあ (P: 152-493), ローソン (L: 75255), e+ (eplus.jp), UNIT, 岩盤
企画制作:root & branch
協力:ART UNION CORPORATION/PLANCHA, ULTRA-VYBE
Nov.24 (thu) thanksgiving & Occupy Wall Street
11月24日はサンクス・ギヴィング・ディ(11月の第4木曜日)。アメリカではいちばん大きなホリディ。クリスマスよりもサンクス・ギヴィング・ディに、みんな家族の元へ帰る。街はひっそり静まり返り、ニューヨークはゴースト・タウン化する。私の友だちはアパートのビルのなかで残っているのは私だけと嘆いている......。
この日は、家族や友だちでディナー・パーティを催す日で、ターキーの丸焼き、グレイビーソース、クランベリーソース、マッシュポテト、スタッフィング、コーンブレッド、温野菜、パンプキンパイなどなど、食べ物に溢れる、別名「ターキー・ディ」、とも呼ばれるくらいだ。実際、スーパーに買い出しに行くと、ターキーとじゃがいものコーナーは売り切れ。
私は今年は居残り組。昨日も街に出てみたが、ひっそりとしていたし、今日も寂しい感じだろうと諦め半分でウォール街に繰り出した。なによりも、先日インタヴューしたグレッグ・フォックスが語っていたウォール街のデモの中心地をこの目でたしかめたかったというのがある。
デモ(座り込み占拠)の中心となったズコッティ・パークは、11月14日の夜中(11/15の早朝)に警官によるデモ参加者の強制排除で200人以上が逮捕された。いちじ騒然とし、私たちのまわりのミュージシャンからも「いまウォール街で撤去作業が行われている!」などというツイッターが随時アップデートされた。(ちょうどインタヴューした、グレッグ・フォックスの翻訳が一段落したところだっ。)
今週月曜日(11/21、強制排除から一週間後)には、グレッグ・フォックスも経営に携わるブルックリンのシェア・スタジアムで、テッド・レオ、チータス・アンドロニカス、ソ・ソ・グロスのウォール街デモをサポートするベネフィットショーが開かれた。
壁にはOWS(ウォール街を占拠せよ)の文字が描かれ、バンドも観客も大いに盛り上がっていた。チータスの最後のほうのセットで、誰かがドリンキング・ソングをリクエストする。チータスは、「これはドリンキングでなく、公正の歌」と言ってザ・クラッシュで有名な"I Fought the Law"をカヴァーしたあと、テッドレオとソ・ソ・グロスのヴォーカリスト、アレックス・ディバインをステージに呼んで、こんどはビリー・ブラックの"To Have and To Have Not"をカヴァーする。この曲のコーラスは、「Just because you're better than me(だって君は君は僕より良い)/ Doesn't mean I'm lazy(僕が怠け者という意味ではなく)/ Just because you're going forwards(だって君は前に進んでる)/ Doesn't mean I'm going backwards(僕が後退しているっていう意味ではなく)」というものである。
話を今日に戻す。ウォール街の駅を降りると、すぐ横のトリニティ教会がある。それを左手にブロードウェイを北に上がると、2ブロックほど先に、ズコッティ・パークが見えてくる。強制排除と聞いていたのでガラーンとしているのかなと思いきや、意外にも人がたくさんいた。もちろん警察も大勢いるけど、その公園だけがわやわやしている。なかに入ろうとすると可愛らしい女の子に「お腹減ってる? 今日はサンクス・ギヴィング・フードを無料でサーブしてるの。ターキーがいい? ヴェジタリアンがいい?」と聞かれる。見れば、たくさんの人がフードラインに並んでいる。「thanksgiving line dinner start here(サンクス・ギビングのディナーの列はここからスタート)」というサインを持った男の人がせっせと列の整頓をしている。レストランや個人サポーターの協力により、5000人分を用意したらしい。私はもちろんターキーをリクエスト。「エンジョイ!」ときびきび働く元気の良い彼女。その横では、「nirvana positively pure 」というブランドの水もサーヴしていた。
ここで働いている人はみんなボランティア。サンクス・ギヴィングらしいことがここでできるとはまったく想像していなかったので、なんだか得した気分になった。メーシーズのサンクス・ギヴィングパレードにいくよりもサンクスギヴィングが味わえるかも。
公園のなかにはいると人びとが思い思いに、メッセージをいれたプラカードを掲げている。物を作って置いていたり、リーディングをしていたり、アコースティック・ライヴをしていたり、遊園地みたいになっている。リーダーというか中心になる人がいないので、どこに行って良いのかもわからず、横ではすでに誰かが警察官と言い合いになっている。誰かが逮捕されていたり、かなりカオス状態だ。カメラやマイクを持った報道陣も多く、まだまだ動きの真っ只なかなんだなと感じる。
私はせっかくなので、そこに座って、サーブしてもらったサンクス・ギビング・ディナーを食べてみた。ターキー(w/クランベリーソース、グレイヴィー)、マッシュド・ポテト、マッシュド・パンプキン、ブレッドが入っていて、きちんとしていた。
しばらく音楽を聞いたり、人びとと交流したり、様子を見ていたが、ヒッピーの聖地のような、すでに観光地のようにもなっている。この動きがどの方向に行くのかは人びとがひとつになって、どのようにこの困難な金融問題/貧困問題に立ち向かうのかにかかっている。時間も経っているし、そこにいるだけでなく何か具体的な、目に見える動きが必要だろう。それがないことには、このカオス状態はこのまま続くと思う。
その日は私たちのまわりのインディ・バンドたちはいなかったが、このあいだにウォール街のデモをサポートするミュージシャンのリストも増えてきているし、インディ・ミュージック・リスナーのなかでは今日のアメリカが抱えた金融問題、経済格差の問題への関心は高まっている。
11月29日には、ユニオンプールという会場で、ライアン・ソウヤー(トール・ファー、スタビング・イーストワードw/Tunde of TVOTR )、GDFX、サイティングスのショーがある。これもこの動きに何かを訴えるショーになる。人びとが未来のためにひとつになることを強く認識したとき、まだ混沌としているウォール街デモの動きにも光が見えるのかもしれない。
私はヨコハマトリエンナーレ2011に関わっている方と話したとき、今回のメダマのひとつがクリスチャン・マークレーの《The Clock》と聞いて、ある感慨をおぼえた。この作品は映画から切りだした映像の断片を現実の24時間の流れとシンクロさせた24時間の長さの映像作品で、鑑賞者は12時にそれを観るとしたら、画面には時計の針が12時を指す映像が映っている。1分程度の断片が線条の時間に沿って延々と展開するのをまのあたりにすることで、私たちは映像の集積がつくるイメージのベクトルに引きずられつつ、おのおのの断片の記号性と向き合うだけでなく、現実の時間をつねに意識することになる。ウォーホルの『エンパイア』や前回のトリエンナーレに参加したダグラス・ゴードンの『24時間サイコ』とか、時間を脱臼させたり再認識を迫る映像作品は、実験映画/映像の分野にすくなくないが、マークレーのように外からではなく、時間の内側で時間と戯れてみせたものはあまりない。というか、原理を転倒させることなく、似たものがないものをつくりあげるのは途方もない手間がかかる。マークレー(とスタッフ)は《The Clock》を制作するにあたり数千の映画を観たという。時計の映っているシーンはないかと血眼になった。キリのいい時間ならそれなりにあるが、ハンパな時間は簡単に見つからない。それは映画のアーカイヴにタグをつける作業に似ていた。あるいは、エスペラント語を学んで長編小説を書くようなものかもしれないと思うと眩暈がする。
宇川直宏は「DOMMUNE開局宣言」で「映像により世界は連帯している」と、映像があふれる時代を指摘した。一方で「何をもって"映像"なのか?」総意のない混沌とした情況に進んで巻きこまれることで、どこまでも「現在」であろうとする。「世界」とのつきあい方をいいたいのだ。クリスチャン・マークレーはアーカイヴを掘ってつなぎ作品にすることで、映像に現実の時間をとりこみ、作品と現在とのあいだに緊張関係をうみだした。映像が現実と相互交通するこの関係の背後に逆・現実拡張というほどの狙いがあったかどうかわからないが、マークレーがふたたび(?)現在のアートシーン(?)の先頭にあらわれたのは、宇川直宏の問題意識と無関係とはいえないと思うのである。なんといっても、マークレーは《The Clock》の展示で今年のベネチア・ビエンナーレでグランプリにあたる金獅子賞を受賞したということだ。ヨコハマトリエンナーレ2011に鳴り物入りで登場したのである。
2011年10月22日 「"Manga Scroll" A vocal score by Christian Marclay」より
ヨコハマトリエンナーレ2011 / 日本郵船海岸通倉庫(BankART Studio NYK)
マークレーはわかりやすい。と書くと語弊があるかもしれないが、もってまわったいい方の現代美術と較べるとそのコンセプトは輪郭がはっきりしている。鑑賞するひとが受ける印象にはちがいがあるのは当然だが、マークレーのいいたいことが伝わらないという心配はない。あるいはいいたいことをねじ曲げて受けとられないという気がする。シンプルなアイデア。それを形にするための偏執的編集。さらにそれを浸透させる伝達力とそこに含まれる笑いがポップさにつながるのはマークレーも例外ではない。しかもここにはヨーロッパ的な屈託というよりも--マークレーはスイス系アメリカ人である--20世紀初頭にカフカが夢想した未来のアメリカの工業化された都市の摩天楼と、それを支えるシステムの影にある野趣を感じさせる逞しさがある。逞しさというのはちょっとちがうかもしれないが、即物的で実体的な手触りはやはり拭えない。この印象は私がマークレーを知った最初に感じたことだ。いまも変わらない。私は彼を90年代前半に知った。マークレーがダウンタウン派と呼ばれるニューヨークの即興音楽シーンに出入りしていたころで、フリージャズの形式を逃れ、ロックやハードコアやオルタナやダンスミュージックに逃走線を敷いたその界隈の音楽家に較べても、マークレーは最初からどこか超然としていた。というか、誰彼のように高度な音楽の素養がないからアイデアで勝負するしかない。ターンテーブルといっても、ヒップホップやバトルDJみたいな系統的なスキルとフォーマットとは関係ない。マークレーの影響下にあった大友良英はターンテーブル音楽を批評として機能させたが、マークレーは諷刺に近かった。諷刺であるからには対象を異化し、なにものからも距離を保たねばならぬ。だからターンテーブルの個数をベラボウに増やすか、会場に敷きつめたレコードを踏ませるか、レコードを切り刻んで接着するか、ヤヤコシイことばかりマークレーは考えていたが、それを簡便に伝達する術をほとんど本能的に心得ていた。才能という言葉を使うのは何もいってないに等しいが、これを才能といわずして何といおう。
マークレーの代表作に、ルイ・アームストロングやジミヘンや、ゲンズブールとジェーン・バーキンの音源をコラージュした数曲を収録した『More Encores』という10インチ盤がある。89年にドイツの〈No Man's Land〉から発表し、97年にクリス・カトラーの〈ReR〉から再発された。当時東証一部上場企業の従業員だった私は社員寮でこの10インチ盤を聴いていた。やや音量は大きかったかもしれないが、そこは折り目正しい企業人であるから、騒々しいということはなかったはずである。ところが一曲目の"ヨハン・シュトラウス"がはじまり誰もが知っている"美しき青きドナウ"をコラージュしたパートにさしかかったとき、隣の部屋の方が壁をバンバン叩く音がした。部屋の模様替えでもしているのだろうと、私は気にかけなかった。レコードの中ではマークレーがヨハン・シュトラウスの三拍子に合わせてスクラッチしている。一拍目にスクラッチが来るのがいかにもワルツだ。興に乗ってきた私は盤面を擦りはじめた。ヨハン・シュトラウスを擦るマークレーを擦る私という連想が私を陶然とさせたそのとき、ドアを激しく叩く音がした。レコードから針をあげ、扉を開けてみると、隣の部屋の先輩が立っていた。スポーティに刈りこんだ頭髪とシャンと伸びた背筋は彼がかつて運動部で厳しい鍛錬を積んだことをうかがわせる。技術職で、たしか工場のシステムを管理する部署だったはずだ。
「きみが音楽を好きなのはわかるけど、キチガイみたいなのは止めてくれないかな」と彼はいった。怒気はふくんでいるが、口調は穏やかである。私はひどくメン食らった。楽しんでいた音楽が他人の迷惑になっていたことに動揺した。
「すみません。以後気をつけます」
その場はそれで収まった。ともに折り目正しい企業人であったのが幸いした。しかし私は考えこまざるを得ない。マークレーが彼の神経を逆なでしたのは、音量でもノイズの含有量とも美意識とも(たぶん)関係ない。教科書に載っている名曲が歪曲されたこと、無自覚に前提としていた教科書的なものの歪みから生まれた「余り」と向き合うことの不安があったのではないか。マークレーは長いキャリアを通じて、観客と鑑賞者にそれを突きつけてきた。境界線はここにある、と。それは案外すぐそばにある、と。そしてまた、その外に踏み出すのは意外に簡単だ、と。ちょっとした頭の捻り具合だ、と。マークレーはいっている。それはヒップホップがブレイクからループを組み立てたこととも、ジミヘンがギターを壊す瞬間だけを持続させる目的でJOJO広重が非常階段を結成したのとも動機はそう変わらない。インダストリーとポップ音楽をまとめてフルクサスの血脈に引きずりこめ! と。マークレーの音楽はそういうふうに耳を鼓舞する。と、考えながら、10月22日、私は日本郵船海岸通倉庫(BankART Studio NYK)に腰かけている。
2011年10月22日 「"Manga Scroll" A vocal score by Christian Marclay」より
ヨコハマトリエンナーレ2011 / 日本郵船海岸通倉庫(BankART Studio NYK)
今日はクリスチャン・マークレーのコンサートである。といっても、マークレーは演奏しない。ヨコハマトリエンナーレ2011の関連イベントとして、マークレーの《Manga Scroll》を巻上公一が「演奏」するのである。簡単に説明すると、《Manga Scroll》は海外(アメリカ)に輸出した日本のマンガに描かれたオノマトペ--当然外国語に翻訳されている--をロールペーパー上に再構成したグラフィック作品で、掲載図版をご覧いただきたいのですが、「KA-BAWM」「FLIP PLOOF」「ZOOOM」「BOOM!」といった大小さまざまな擬声語が左から右へ流れていく巻物(スクロール)形式になっている。巻上公一はこの幅20メートルにおよぶ作品をスコアに見立て、擬声語を音声化するという。
Christian Marclay / Courtesy of Gallery Koyanagi
Image courtesy of Graphicstudio/USF, Tampa, Florida, USA
おおかたの席はすでに埋まっていて--定員制のイベントなのです--演奏者=巻上公一も待機している。最前列で作者が見守っている。三日後にギャラリー小柳ではじまる「Scrolls」展のために来日したのだろう。司会の女性の前口上に続き作者が挨拶する。「中世日本の表現形式である巻物と現代のマンガのミックスであるこの作品を上演するのにマキガミ以上にふさわしいアーティストはいない。マキガミは日本語でいうスクロール、巻紙ですから」と作者は面長な顔をやや上にさし向けてしゃべっている。社員寮の隣の先輩とどことなく似てる、と思ったのはさっきまで彼のことを考えていたからだ。《Manga Scroll》が中央の長机の上に寝かされていて、観ることができないのはちょっと不満だが、コンサートでは観客は演奏者の手元の譜面を見ないのだから、しょうがない。主役はあくまで音だということだ。
2011年10月22日 「"Manga Scroll" A vocal score by Christian Marclay」より
ヨコハマトリエンナーレ2011 / 日本郵船海岸通倉庫(BankART Studio NYK)
巻上公一は声帯を縦横に駆使し《Manga Scroll》を音声化する。『Kuchinoha』『Koedarake』といったソロ・ヴォイス盤の音声実験(実験的音声)における声の可能性を上から下へ、あるいは右から左へ、スクロールするように、巻上は声を引き攣らせ撓ませ歪ませ二重化させる。巻上の声のヴィルトゥオーゾぶりは圧倒的だが、アクロバティックなテクニックに溺れるより、テクニックそのものを戯画化するように思えるのは、マークレーと巻上の思惑の一致というべきだ。オノマトペという、意味でも音でもある言葉をどちらともつかないように音にすることに巻上公一ほど長けたひとはいない。しかも《Manga Scroll》は日本のマンガの擬声語を英語に翻訳したものが元である。そこに誤解や誤読や翻訳不可能性が入りこむ隙間が生まれる。それだけでなく、世界中に知れわたった「マンガ」とカートゥーンやアメコミといった海外コミックとのタッチのちがい--文化的なコードの差異--も《Manga Scroll》には投影されている。あるいはマンガ史という形式の来歴まで視野に入れ、演奏者はつぎつぎ現れる擬声語を読み解いていかなければならない。普段マンガを読むとき、誰もそこまで気にしない。みんな電車の中で普通にマンガ本を開き、電車に揺られている。誌面はコマに割られていて、その中にキャラが描かれていて、フキダシには文章があり、擬声語がそこに描かれた情況や運動を視覚化している。読者はそれら全部を頭の中で統合しながらマンガを読み進めていくわけだけだが、ここでマークレーの側に立って考えてみると、マンガという形式/メディアをサンプリング/エディットするには擬声語に着目するのがいちばんてっとりばやい。というか、これしかない、とマークレーは思った。その発想は大文字の「映画」を「時計」という記号からリエディットした《The Clock》と響き合っている。
巻上公一の演奏が終わって、はじめて実物の《Manga Scroll》を目にしたとき、さまざまな擬声語が紙面上で連鎖し旋回し衝突していた。文字たちが結託してひとりでにDNAの螺旋構造に組み上がったかのようなシームレスな文字列はマークレーの偏執的編集性をうかがわせるだけでなく、文字のデザインのエフェクト(初期マック・デザインを思わせる)がそのまま、この作品をグラフィック・スコアとして使うときに指示記号に転化することを物語っていた。音の長短や高低など、演奏者の決定に任せる部分はもちろんある。であっても、グラフィック・スコアはだいたいそういうものだともいえるのだが、これを詳しく述べるのには私は稿を改めなければならない。(了)
クリスチャン・マークレー「Scrolls」
2011年12月22日まで
GALLERY KOYANAGI
www.gallerykoyanagi.com
2011年10月22日 「"Manga Scroll" A vocal score by Christian Marclay」より
ヨコハマトリエンナーレ2011 / 日本郵船海岸通倉庫(BankART Studio NYK)
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TIMMY REGISFORD
FELA IN THE HOUSE OF SHELTER(CD)
OCTAVE LAB(JPN)
»COMMENT GET MUSIC
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COSMIC METAL MOTHER
TIME IS NOW
PANACUSTICA(GER)
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紙ele-kingの「0号」に載ったダニエル・ロパーティンのインタヴューを読んで、彼がたとえるところの「歯医者の治療音とその場に流れるBGMのソフト・ロック」という言葉のなかに、三田格が文中で指摘する「ノイズとアンビエントも等価」もさることながら、ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー(OPN)のユーモア体質を確認した。フォード&ロパーティン名義の作品におけるシニカルな風刺ないしはその低俗さもそれを思えば「なるほど」といった感じである。ところが、アメリカのあるレヴュワーときたら「『リターナル』が(不確実的シナリオを基礎としたオープンスペースの超認識ヴィジョンにおける)ルソー的作品であるなら『レプリカ』はデュシャン的だと言えよう」などと書いている。最初にこの一文を目にしたときに「ルソー的」というたとえをてっきり「社会契約論」のルソーのことだと思いこんで、「おー、そこまで言うかー」と思案してみたものの、考えてみればデュシャンと対比しているわけだから印象派の画家のルソーのことかと理解した。当たり前のことかもしれないが、「Rousseau record」という欧文だけでは我々にとっては人文学者のルソーのほうが身近だと思える(?)......というか、『リターナル』というアルバムはデジタル・ミュージックにおける新たな社会契約論めいた大きなインパクトとして2010年にリリースされている。
そもそも......サンプリングが応用されてから久しい現代のポップには「デュシャン的」な展開はずっとある。卑近な例のひとつを言うなら11年前に咳止めシロップと大麻の幻覚とターンテーブルの実験の果てに他界したDJスクリューが発見した"スクリュー"の急速な拡大がある。ジェームス・ブレイクの"CMYK"もウォッシュト・アウトの"Feel It All Around"も、既製品を面白くいじくることが作品のアイデアの中心にある。そしてOPNの新作『レプリカ』も、ガラクタをそれなりにきちんと陳列した「デュシャン的」作品だと言えよう。歯科医院の摩擦音をはじめ、TVゲーム、くっだらない深夜のムード音楽、音楽ファンからは見向きもされないような安っぽいジャズ......とてもディスクユニオンでは買い取ってもらえそうにない価値のない音ばかりが『レプリカ』ではセックスアピールを持った亡霊のように拾われ、ループとなって、エディットされる。
いかにも欧州的な芸術趣味を押し通すウィーンの〈エンディションズ・メゴ〉でのリリースを経て、どちらかと言えば俗っぽいブルックリンの〈メキシカン・サマー〉傘下に自ら指揮する〈ソフトウェア〉からのリリースということもあるのだろうけれど、たとえば『ピッチフォーク』が収録曲の"Sleep Dealer"を「スティーヴ・ライヒのポップ・ヴァージョン」と形容してしまうように、『リターナル』を起点とするなら『レプリカ』はフレンドリーに聴こえる。低俗さを創造的なポップとして展開することは、それこそレジデンツや中原昌也もすでにやっていることではあるけれど、『レプリカ』という作品はハイプ・ウィリアムスのようなポスト・チルウェイヴ......、いや、ポスト・スクリューという明日に開いている。エイフェックス・ツインの"ウィンドウリッカー"の次を狙っているのは、本当にロパーティンかもしれない。
Chance Operation Resolve Pヴァイン |
Chance Operation Place Kick+1984 Pヴァイン |
1981年に高校生だった人間にとってライヴハウスは受験の帰りにひとりで立ち寄るようなくらい身近で、そして刺激的な場所だった。チャンス・オペレーションもそういうなかで見ている。
セックス・ピストルズの解散とPILの登場は本当にいろいろなものを変えた。ポスト・パンクとは、パンクというロマンに対するアンチ・ロマンでもあったから、ロックの定説はことごとく裏切られ、反復を基調とした冷淡なグルーヴは瞬く間に広まった。UK、US、ドイツ、そしてここ日本にも。チャンス・オペレーションもそういうバンドのひとつだった。
このサイトを読んでいる多くの人にとってのヒゴヒロシとは、DJとしてのヒゴさんだろう。実際の話ヒゴヒロシとは、この20年ものあいだアンダーグラウンドな活動を続けているDJのひとり、幅広い尊敬を集めているDJのひとりである。が、彼が東京のパンク前夜からそこで演奏していた人物であるという歴史が忘れられているわけでもない。ディスコやハウスのDJだって、彼がパンクの人だったことを知っている。チャンス・オペレーションは、ポスト・パンクの時代においてミラーズ解散後のヒゴヒロシが結成したバンドだ。その再発を祝しておこなわれたこのインタヴューは、主にその時代に焦点を当てている。取材には、ヒゴさんに興味津々のDJのメタル君も駆けつけてくれました。
ベースのフレーズを反復して、そしてそれをもとに曲を作ったんですね。だからたしかにベースの反復がもとになっている。それから、必要のない音はどんどん削ぎ落としていくってことも意識してましたね。
■僕にとって今日は、1992年以来の2回目の取材なんですよね。
ヒゴ:ああ、じゃあホントに、いわゆるレイヴ直後?
■そうです。新宿の喫茶店で話したのを覚えてませんか?
ヒゴ:どこだっけ?
■新宿の駅のビルじゃなかったでしたっけ。ちょうどヒゴさんがDJやられた頃で、僕のなかでヒゴさんといえば、ミラーズやチャンス・オペレーション、あるいはスターリンのヒゴさんだったんで、そうとう緊張して取材を申し込んだんですよね。
ヒゴ:えー、そうだったの(笑)。
■いまでこそヒゴさんはDJとして名が通ってますけど、当時はまだ衝撃でしたよね。そこは距離があると勝手に思ってましたし。
ヒゴ:はははは。
■あのときはヒゴさんが〈代々木チョコレートシティ〉で「Water」というパーティをはじめた頃でした。
ヒゴ:そうですね。土曜の夜にね。オールナイトでね。
■日本では最初のジャングルのパーティでしたね。
ヒゴ:結局行ったのが......。
■1991年。
ヒゴ:そう、レイヴの真っ只なかに行ってしまったんでね。最初に現場で聴いたのが当時はハードコア・ハウスと呼ばれたもので。
■そう、ハードコア・ハウスと呼んでましたね。
ヒゴ:だからデトロイト・テクノなんかもその取材のときに野田くんから聴いて「あ、そうなんだ」って思ったぐらいで、当時は僕もまだかじりだてというか、当時はハードコア・ハウス一色だった時代だったから。そのあとになっていろいろ聴きはじめて、デトロイト・テクノなんかも知ったんだよね。
■しかもヒゴさんにレイヴ・カルチャーを教えたのが水玉消防団のカムラさんだったという話をそのとき聞いて。
ヒゴ:そうそう(笑)。
■けっこう上がりましたよ(笑)。で、ヒゴさんのやっていた「Water」に行くと、入口では何かカプセルを配っていたんですよね(笑)。
ヒゴ:あれはちょっとした冗談だったね。ビタミン剤かなんかで。
■「雰囲気だけでも」って入口のひとに言われたんですよ(笑)。
ヒゴ:はははは。
■あれは可笑しかったですよ(笑)。で、まあ今回は、チャンス・オペレーションの再発ということでその音楽と作品が生まれた時代の空気、あるいは2011年におけるチャンス・オペレーションの再評価などについて訊きたいと思います。最初は手の写真の12インチ「チャンス・オペレーション」ですよね。
ヒゴ:そうです。
■僕もあのアートワークがレコード店の棚に入って、雑誌に載ったときのことをよく覚えていますね。まずは今回、チャンス・オペレーションが再発にいたった経緯を教えてください。
ヒゴ:去年の春前かな......ディスクユニオンで〈テレグラフ〉の再発をやりたいという話があって、〈テレグラフ〉だけではなく〈ゴジラ〉もやりたいと。〈ゴジラ〉はじつはこれまでも何回も再発されているんで、まあ、再発のフォーマットみたいなものもできていて、わりとスムーズに〈ゴジラ〉は出せたんです。〈テレグラフ〉のほうは作品数も多いし、毎月のように再発されていって、「それではチャンス・オペレーションも出しましょう」ってなったんですね。チャンス・オペレーションも以前、徳間ジャパンで再発されているんですけど、そのときは最初の12インチと「スペア・ビューティー」という7インチ2枚組の編集盤として出したんですね。
■それって何年ですか?
ヒゴ:うーん、90年代の初頭だったかな? (注:タイトルは『デュアル・ページ』として1990年にリリース)で、まあそのとき徳間から出したCDは、とくにボーナス・トラックもあるわけじゃないし、『プレース・キック』のほうもいちどCD化されているんですけど、そのときもただCD化されただけなんです。だからチャンス・オペレーションに関してちゃんと再発したのは今回が初めてとも言えるんですよね。
■ユニオンはここ数年、ずっと熱心に日本のポスト・パンクの再発をやってますもんね。EP-4であったり、最近ではタコであったり。
ヒゴ:そうですね。僕のほうもずいぶん時間が経っていることですし、未発表の音源なんかも聴きあさってみて、それでたとえば初期の音源なんかも加えるのもいいかなと思ったり。それでマスタリングまではうまく話が進んでいたんですが、デザインの件でユニオンと話が合わなくなったり、スケジュールが迫ったりで、「どうしようかな」と。自分としてはデザインもふくめて余裕をもって出したかったというのがあって、それで結局、Pヴァインから出すってことに落ち着いたんですよね。
[[SplitPage]]反体制が当たり前の時代でしたからね。僕は高校生のときにすでにバンドに夢中になって、集会も身近にあったんですけど積極的に行くようなタイプではなかったですね。ただ、そういう時代のエネルギーはもちろん感じていましたよ。
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■そういえばフリクションが再発されたのって......、もう7年前ですか。ゼロ年代以降のこうした日本のポスト・パンクの再発に関してはどういう風に受け止めてますか?
ヒゴ:チャンス・オペレーションって92年までやってたんですよね。
■やってたんですね。
ヒゴ:じつはやってたんです(笑)。91年にレイヴに衝撃受けて、日本に帰ってDJやってレイヴをオーガナイズしはじめた頃にはまだチャンス・オペレーションをやっているんですけど、しかし、半年後ぐらいには、もう自分のなかではDJやパーティのほうにどんどん興味がいってしまっているんですね(笑)。それでまあ自然消滅ってわけじゃないけど、チャンス・オペレーションはなくなっていくんです。バンド活動そのものは止めてはいないんですけど、とにかく90年代は、チャンス・オペレーションみたいな自分の過去の表現に対しては、それほど特別な感情もなかったのが正直なところなんです。止めてまだ時間も経ってないですからね。だけど、2000年過ぎてから聴いたときには、けっこう自分でも気づくことがあったんですね。
■再発見があったということですね。それは?
ヒゴ:僕はミラーズの2年間だけドラムを叩いていたんだけど、もともとはベースなんですね。3/3のときもそうだったんですけど、チャンス・オペレーションになってまたベースに戻ったんですよね。ベーシストとしての自分が過去を振り返ったときに、いまの自分の原点がチャンス・オペレーションにはあるのかなと思ったんです。当時はそんなことまったく思ってなかったですけど、今回聴き込んで、自分で気がついたっていうかね。なんていうか発見があったんですね。
■古くなってないと。
ヒゴ:古くなってないというよりも、音楽に向かう姿勢、バンドのスタンスみたいなものがこのときにできている......というか、できつつあった。チャンス・オペレーションはメンバーの入れ替わりの激しいバンドだったんですけど、自分のやりたいことがある程度わかっていたっていうか。
■さっきも言ったように僕はチャンス・オペレーションが出てきた頃をよく覚えていて、『Doll』を読んでいるような高校生だったんで、ヒゴさんのインタヴューを読んでジョン・ケイジのチャンス・オペレーションを知ったくらいなんですよね(笑)。
ヒゴ:はははは。
■今回のアルバムのジャケットに使われた写真もよく覚えているんです。当時のヒゴさんのコンセプトは何だったんですか?
ヒゴ:ミラーズ解散後はやっぱドラムでヴォーカルをやりたかったんですね。それでいろんな人たちとスタジオに入るんですが、どうにもしっくりこなかったんですね。
■チャンス・オペレーションは、まず音楽的に3/3やミラーズとは違いますよね。ワンコードで、反復性が高く、感情を抑制して、ストイックな演奏しているじゃないですか。音の変化が確実にありました。
ヒゴ:基本的にはリズム楽器が好きなんですね。ドラムというのは野球でいうキャッチャーみたいなもので、後ろからみんなを見渡せるんですけど、動きに制約がある。ミラーズは自分でギターで曲を作って自分でドラム叩いて自分で歌っていたので、ドラムをステージの前面に出したこともありましたけど、演奏中に動くことはできないわけです。
■それでベースに戻ったんですね?
ヒゴ:いまでもドラムは好きですけどね。でもそのときベースに戻った。ベースラインで曲を作って、そのままステージに立つことができるんですよ。
■チャンス・オペレーションの結成は1980年で、最初のシングルが1981年ですが、ギャング・オブ・フォーやデルタ5といったUKのポスト・パンクからの影響はありましたか?
ヒゴ:直接的にはなかったですね。
■カンやノイは?
ヒゴ:音は聴いていたけど、そこも直接的な影響はなかったですね。
■とはいえ、共通性があると思うんですよ。コード展開がなく、ミニマルで、いわゆるアンチ・ドラマ、アンチ・ロマンで......アメリカにグリール・マーカスという有名な評論家がいますが、彼は当時ギャング・オブ・フォーやデルタ5を「圧倒的なまでの冷静さ、ロマンティシズムに酔いしれない醒めた姿勢」って評しているのですね。それた似たものをチャンス・オペレーションにも感じるんです。INUの『メシ食うな』にも、フリクションにもスターリンにも、そうしたアンチ・ロマンはあったと思うんですね。
ヒゴ:たしかにそうですね。
■ああしたポスト・パンクのアンチ・ロマンな姿勢は、自分が中高生のとき、に夢中になっていた音、70年代末から80年代初頭にあった音だったという印象があるんですよね。
ヒゴ:そうですね。
■あの反復性はまったく古くなっていないのはたしかで、むしろいま、そういうミニマリズムのほうがよりカジュアルになってきているじゃないですか。だからチャンス・オペレーションや『スキン・ディープ』は、いま聴いても説得力があるっていうか。ドラマチックな音楽って、たとえばJ-ROCKなんかがそうですけど、2つぐらいのヴァースがあって、サビがあってって、そうした曲作りとは対極の発想というか。
ヒゴ:やっているほうとしてはそこまで明確に意識的だったわけじゃないですけどね。
■僕は当時すごくびっくりしたんですけどね。やっぱ時代の空気がああいう音を生んだってことですか?
ヒゴ:僕はそっちのほうが大きいと思いますよ。たとえば僕はミラーズの頃はレゲエばっか聴いているんですね。もちろん聴く音楽と演奏する音楽は違うんですが......僕はチャンス・オペレーションのときは、ベースのフレーズを反復して、そしてそれをもとに曲を作ったんですね。だからたしかにベースの反復がもとになっている。それから、必要のない音はどんどん削ぎ落としていくってことも意識してましたね。
■ヒゴさんにとってのモチヴェーションってどこにあるんですか?
ヒゴ:ひとつのスタイルをずっと続けいくことは性に合わないんですよ。だから何か新しいことにトライすることっていうのかな。
■音の追求心みたいなことですか?
ヒゴ:新鮮さばかりを追っているのもどうかと思うんですけど、どうしても新鮮なものに惹かれるんですね(笑)。自分のなかでなにかしらの新鮮さを見つけていかないとつまらないんです。でないと次にいけないし、同じ曲を繰り返し演奏することがなかなかできない。チャンス・オペレーションのときはそれが自覚的でしたね。同じ曲でも演奏のたびにどこか変えてみたりとかしてましたから。
■ロックに対するアンチ・テーゼはありましたか?
ヒゴ:とくに初期の頃はジャズっぽいと言われましたけど、ジャズをやっていたわけではないし、自分としてはずっとロックをやっていたつもりだったんですけどね。だからロックに対するアンチでもないんです。ロックが基本で、でもジャズの好きなところは取り入れたいみたいなことはありましたね。
■チャンス・オペレーションにもフリクションにも、スターリンやINUにも、大きな言葉でいうと、ニヒリズムがあったと思うんですね。無意味さ、虚無を生きるといいますか。どうなんでしょう? "LIMITER SHUFFLE"の歌詞には、「通り過ぎてそのまま 放り投げてグッバイ 揺れて飛びちる 底ナシの季節」という言葉が出てきますが、これなんかも当時の虚無感をよく表しているんじゃないでしょうか?
ヒゴ:はい(笑)。
■歌詞はヒゴさんが書かれているんでしょ?
ヒゴ:そうですね。
■ヒゴさんがどれほどのニヒリストだったか教えてください!
ヒゴ:いやいや、ニヒリストというかね(笑)、僕、もともと電車好きなんですね。電車から音楽にいったんです。鉄道オタクじゃないんですけど、小学校は下北のそばに住んでいて、身近な電車が井の頭線だったんですね。当時の古い車両はいろんな車種があるんです。そうしう車種が好きで、中学校になって中野に超して、そうすると通学で念願の電車通学ができて、小田急にも乗れるようになるんです。小田急もまた車種が多いんです。僕は鉄道車両の設計技師になりたかったほどなんです。そういう機械と科学がすごく好きでね、じつは曲の題材はそういうところから持ってくることが多いんです。
■へー(笑)。電車好きですか! そんな少年がやがて日本のプレ・パンクの3/3でベースを弾くというのも面白い話ですね。ちなみに3/3はおいくつのときでしたか?
ヒゴ:22ですね。
■○△□のことは知っていたんですか?
ヒゴ:高円寺にロック喫茶ができてね、何回か行ったことはあるんだけど、直接はまだ知り合えていなかった。3/3は僕の前に何回かベースが交代していて、僕がバンドで最後のベーシストになったわけですけど。
■3/3は、たとえるならストゥージズへのリアクションみたいなサウンドで、早すぎた日本のパンクだったと思うんですけど、ヒゴさんのなかにもそうしたパンク的な感性はあったわけでしょう?
ヒゴ:それはもちろん。自分で考えて自分でやれってことですよね。3/3の頃から甘っちょろい感じにはなじめませんでしたね。
■その「甘っちょろさ」って何ですか?
ヒゴ:なんかね、自分の人生がこうなったらいいなみたいな気持ちを歌することはできませんでしたね。
■希望や夢は歌にできないってことですか(笑)?
ヒゴ:そうですね(笑)。
■ヒゴさんは世代的には、学生運動が下火になった世代ですよね。
ヒゴ:僕よりも2つくらい前は大きかったですよね。当時、2年違うだけでもぜんぜん違ったんですけど。
■みんなでデモや集会に行くような感じにはなじめなかったってことですか?
ヒゴ:というか反体制が当たり前の時代でしたからね。社会と自分がどう関わるのか、それを問われてすぐに答えることができるようでないとやっていけないような時代でした。僕は高校生のときにすでにバンドに夢中になって、集会も身近にあったんですけど自分はそこに積極的に行くようなタイプではなかったですね。そういう反体制の動きみたいなのが下火になりつつあったとはいえ、ただ、そういう時代のエネルギーはもちろん感じていましたよ。だから音楽は手段だと思ってました。どう生きていくかが重要で、あくまでも音楽はその手段であると。
■ニュー・ミュージックに表象される夢や希望が嫌いだという話ですが、ではヒゴさんにとっての夢や希望とは何でしたか?
ヒゴ:混沌......、宇宙もそうじゃないですか。もとは混沌であって、僕はそのことを納得できるんです。最近ニュースで、宇宙の5%ぐらいがわかったという話を見たんですけど、「いや、それはそうでしょ」っていう(笑)。「宇宙なんか解明できるわけない」って。言ってみれば、混沌を生きるってことですね。
■初期のレイヴはまさに混沌そのものでしたよね。ヒゴさんは、都合よく整理されたものが好きじゃないんですね?
ヒゴ:必要以上に整理されたものは好きじゃないですね。
■デビュー曲が"カスパー・ハウザー・ナウ"ですが、"カスパー・ハウザー"を取り上げたのは?
ヒゴ:それはヘルツォークの『カスパー・ハウザーの謎』を観て。
■素晴らしい映画ですよね。
ヒゴ:本当に素晴らしい映画ですね。あれです。あの、人間の親に普通に育てられなくても、それが幸せ不幸せじゃなくても、それでも人は生きていけるっていうのがね。
■"TOUCH & GO"も音と同時に言葉も入ってくる曲ですが、この曲の主題は? 「くやしいことの始まり......何かを試せる......夜更けていくとき......きわどいことなど......するどいことなど」ということなど、暗示的な言葉だと思うのですが。
ヒゴ:すれすれの状態のことですね。
■それは自分のこと? それとも社会のことですか?
ヒゴ:両方でしょうね。
[[SplitPage]]ハードコア・ハウスはブレイクビーツ、つまりサンプリング音楽なんだけど、構成の仕方がそれまでの音楽感覚とはまったく違うんです。あの無節操さ、「なんで前半でこうなのに、後半はこうなっちゃうの」みたいな、とうてい理解できない(笑)。
Chance Operation Resolve Pヴァイン |
Chance Operation Place Kick+1984 Pヴァイン |
■ファースト・フル・アルバム『プレース・キック』が1985年ですが、結成からずいぶん時間が経って、そして音楽的にはよりダンサブルになっていると言いますか、疾走感、躍動感のようなものがありますよね。こうした音楽面での変化についてお話いただけますか?
ヒゴ:変化というか、とにかくメンバー・チェンジが激しかったんですよね。だからメンバーによって演奏も違ってくるわけだし、とくに初期や中期では、手探り状態をそのまま続けていくって感じだったから。
■ヒゴさんは、80年代の当時いろんなバンドに出入りしてましたが、やっぱシーンにはある種の共同体的なところがあったんですか?
ヒゴ:東京ロッカーズのときははっきりとそれがありましたね。ミラーズのときですね。「いまここではじめなければ」という意識が高い時期だったし、それを複数のバンドが共有してたからね。でも、ニューウェイヴの時期になるとその集まり方も変わってくるんです。音楽性も多様になりましたが、バンドとバンドとのつながり方も変わっていったんですよね。
■もっとドライなった?
ヒゴ:というか、ひとつのバンド単位で物事を考えていくようになった。
■共同体意識が薄れていくんですね?
ヒゴ:そうですね。
■しかも『プレース・キック』が出る1985年にはインディ・ブームがはじまってますからね。
ヒゴ:そうですね。
■チャンス・オペレーションやフリクションがアンチ・ロマンだとしたら、ブルー・ハーツに代表されるようなわかりやすいロマン主義がいっきにライヴハウスを席捲するでしょ。ああいうものに自分たちがどんどん隅っこに追いやられていくって感覚はなかったですか?
ヒゴ:追いやられていくって......。
■あんま気にしなかったですか?
ヒゴ:ぜんぜん気にしなかったわけじゃなかったけど、それまで自分たちがやってきたことを守ればいいって気持ちもなかった。僕は3/3のときにそのライヴハウスの黎明期から知っているんだけど、あのときはものすごい数でライヴハウスとバンドの数が増えていったよね。
■オーディエンスが自分たちから離れていくってことは感じてましたか? ある意味では、多くのリスナーからはチャンス・オペレーションよりもビート・パンクのほうが求められていたじゃないですか。
ヒゴ:媚びたくないっていうのがすごくあって。
■たしかに媚びてませんでしたよね。チャンス・オペレーションのライヴも当時、観ているんですが、本当に無愛想で(笑)。
ヒゴ:たしかにそうですね(笑)。
メタル:踊ってました?
■いや、まだそんなダンスって感じじゃなかったですよね。
ヒゴ:そうですね。
■『プレース・キック』はそれでもダンサブルですよね。"FEEL ROCKER "なんかは代表曲のひとつじゃないですか?
ヒゴ:え、そうかな(笑)。
■僕が勝手に思ってるだけというか、チャンス・オペレーションのなかではキャッチーな曲じゃないですか。
ヒゴ:まあ、そうですね。『プレース・キック』はドラムがイヌイジュン(元スターリン)で、そのことがけっこう大きかったですね。彼は最初にコンセプトを持ってくるタイプで、コンセプトがはっきりしていないとやらないんです。1曲1曲、最初にコンセプトを絵コンテみたいに書いて確認しあってやってましたから。
■8ビートの曲も多いですもんね。
ヒゴ:たとえば"RAZOR BLAZE"なんかは彼のアイデアでね、ちょっと変拍子も入っていたりね。曲の作りも構造的になっているんですよね。
■イヌイさんはいまでも音楽をやられているんですか?
ヒゴ:いや、彼は一級建築士で、大阪で建築の事務所をやっていると思います。僕もずいぶんと会っていないんです。
■どうして『プレース・キック』というタイトルにしたんですか? サッカーからきているんですか?
ヒゴ:「キック」という言葉が好きなのと、あとサッカーというよりも蹴球ですね。もっとプリミティヴな感じ。
■プリミティヴですか。ヒゴさんはこれだけ長年音楽活動しているくらいだから、すごく強い気持ちを持っていると思うんですけど、あんま音楽には出ないですよね。あるいはじつは出しているんだけど、あまり気づかれないだけだとか?
ヒゴ:いや、これはもう性格なんでしょうね。たぶん、みんなが思っているほどストイックではないと思いますよ。
■だいたいハードコア・ハウスですからね(笑)。メタルから見て、ヒゴさんってストイックに思える?
メタル:人間的にはゆるいっすよね。
■快楽主義者だもんね。
ヒゴ:はははは。結局、60年代や70年代にあった強いものが、80年代になって、そうじゃなくてもいいんだみたいな空気がどんどん増えていって、それはホントに違和感を感じてましたけどね。
■時代の変化は、具体的にはどんなところに感じましたか?
ヒゴ:若い世代と話していくなかで、そうしたものは感じましたね。
■長いものには巻かれろ的な?
ヒゴ:もうちょっとやわらかな対応で生きていったほうがいいじゃんみたいな(笑)。
メタル:チャンス・オペレーションはヒゴさんにとってベースの実験ってありましたか?
ヒゴ:そこはあんまないですよ。
■なぜチャンス・オペレーションって名前にしたんですか?
ヒゴ:大それた名前にしちゃったんだけど、要するに音楽の解釈をもっと広げたかったんですよね。
■そこはやっぱアンチ・ロックというか、ロックの文法に飽きたからですよね?
ヒゴ:はははは、まあ......。僕がパンクに走ったときに、昔から知っているヒッピー連中とは決裂してしまうんですね。それがレイヴでまた再会するんですけど、ただ、チャンス・オペレーションの頃はロックの古い考えに関しては異を唱えてましたね。そういったことはたしかにありましたね。
■いまでこそパンクを否定する人ってあんまいないけど、77年当時はパンクにはどちらかといえば批判的な意見が多かったですよね。まともに演奏できないクセにみたいな。
ヒゴ:はははは。そういうのってあったよね(笑)。
■メタルはヒゴさんとけっこういっしょにDJやってるの?
メタル:あ、いちどだけですけど、ヒゴさんはやっぱ面白いですよね。
■そういえばヒゴさんは、ダモ鈴木さんともやられてますよね。
ヒゴ:ダモさんとは、国立の地球屋でやるときにはいつもいっしょにやっていて、もう7~8回やってますよね。
メタル:チャンス・オペレーションのときはダンス・ミュージックということを意識していたんですか?
ヒゴ:そんなに意識してなかったですね。
■でもファンクのビートは取り入れてますよね。そのあたりはいまの耳でも聴けるんですよね。
メタル:そうなんですよ。ディスコ・パンクという言い方は違うかもしれないけど。
■でもその青写真だよね。
ヒゴ:そうかもね。
メタル:当時、ディスコに行ってたんですか?
ヒゴ:行ってないですね。好きか嫌いかと言えば、違うものって感じでした。
■僕も10代の頃はディスコが嫌いでした。当時はライヴハウスとディスコとのあいだにはまだ距離がありましたよね。
ヒゴ:完全に分かれてましたね。
メタル:チャンス・オペレーションでは、ドラムがいないときにはリズムボックスを使ってたということですが、そういうのって、パレ・シャンブルグ的というか。
■あー、なるほど。リズムボックスの使い方とか、やっぱワンコードで引っ張っていくような感じでね。
ヒゴ:当時、僕が聴いてホントに格好いいなと思ったのは、ディス・ヒートでしたね。あれはもう、すごく格好いいと思った。
メタル:それがどうしてハウスやテクノに向かっていくんですか?
ヒゴ:ロックを聴かなくなったのは、80年代なかばぐらいだったんですよね。ハウスも名前は知ってたけど、そんな聴いていたわけじゃなかった。それで、1991年にレイヴの現場のすごいところに放り込まれちゃって(笑)。もうDJがブースのなかで何をやってるのかもわからない。そこでかかっている音楽がいったいどうやって生まれたのかわからない。ただもう、パーティ・ピープルのエネルギーに圧倒されてね......。イギリスのブレイクビーツってホントにすごいんですよ。ブレイクビーツってものに対するイギリス人の感覚っていうか、作り方っていうか、あれはもうね、ホントにすごい。すごい発明だと思うんですね。デトロイト・テクノはマシンでいかにグルーヴを出すのかってことを考えているけど、イギリスのブレイクビーツはそれとは違う発想なんです。ハードコア・ハウスはブレイクビーツ、つまりサンプリング音楽なんだけど、構成の仕方がそれまでの音楽感覚とはまったく違うんです。あの無節操さ、「なんで前半でこうなのに、後半はこうなっちゃうの」みたいな、とうてい理解できない(笑)。
■はははは、いまのベース・ミュージックにもその伝統は生きてますね。でもたしかにあのブレイクビートの無節操さは、リズム楽器の観点から見ても驚きなんでしょうね。
ヒゴ:すごいんですよ。絶対に生のドラムでは再現できないニュアンスなんです。それを確立させて、それをベースに曲を作ってしまっているから、もう太刀打ちできない。独自の世界なんです。
■じゃあ、最後にヒゴさんの近況を教えてください。
ヒゴ:今年がレイヴ体験まるまる20年でね、それでちょっとアンビエント、チルアウトっていうんじゃないけど、いままでとは違った視点でパーティをオーガナイズしようかなと思ったんですよね。それで「1968」っていうパーティをはじめました。これはまあ、サイケデリックをテーマにしてやっています。ジャンルとか時代も関係なく、サイケデリックを感じさせるもの。
■それは楽しみですね。じゃあ、今日はどうもありがとうございました。
ヒゴ:まだ話していいですか(笑)?
■どうぞどうぞ(笑)。
ヒゴ:あとね、1997年から「DIP AURA」というダンスのパーティやっていて、もう90回近くやっています。来年の1月21日に中野のヘビーシックでやるんですけど、ゲストで、ダブ・スクワッドのライヴが入ります。
■じゃ、まさに「Water」の。
ヒゴ:そう、ダブ・スクワッドは「Water」に遊びに来ていた連中なんですよね。ダブ・スクワッドは彼らがそれをやる前から知っているんです。
■わかりました。じゃあ、そんな感じで、今日はありがとうございました。
ヒゴ:いや、まだ告知があるんですけど、12月17日の土曜日なんですけど、新宿の〈BE-WAVE〉というところで、「HARDCORE MESSENGER」といって、じつはこれはハードコア・ハウスをメインにかけるパーティなんです。ああいう音って、あの頃にしか作られていないんですね。「Water」ってパーティをいっしょにやっていたDJ フォースも出るんです。
■へー、それは楽しみですね。1991年ぐらいのレコードっていまでも中古で高いじゃないですか。ゾンビーって人が数年前に1991年当時の機材のみを使ってハードコア・ハウスの作品を出しましたけどね。
ヒゴ:へー、そうなんですか。
■いま、あの時代の音がまた脚光を浴びているんです。そういう意味では「HARDCORE MESSENGER」は良いタイミングですね。
今回リリースされる『Resolve』は2枚組で、「カスパー・ハウザー・ナウ」「チャンス・オペレーション」「スペア・ビューティー」の収録曲に、ライヴ音源が14曲、スタジオ未発表が1曲入っている。『Place Kick+1984』には、オリジナル・アルバムにライヴ音源1曲とカセット作品から1曲を加えている。PILが再結成するようないま聴くと、なるほど、この音は2011年に響く音だと納得する。
いよいよ今週は本サイト『ele-king』のイチオシのひとり、バス君の登場。デイデラスやビョークのIDM好きの人とか、あるいは初期のマニー・マークがグリッチを試みたとしたら......LAからやってくるバス君は、〈アンチコン〉レーベルが見いだした素晴らしい才能です。アンダーグラウンド・ヒップホップの鬼っ子だった〈アンチコン〉が送り出すドリーム・ポップとも言えますが、そのメッセージは混沌とする現代社会への鋭いメッセージでもあります。ジェームス・ブレイク、そしてカリブーが好きなリスナーもぜひ注目してみてください。
22日にはDOMMUEにも出演。また、24日の代田橋FEVERでは、アルバム『言葉の泡』が話題のPhotodiscoもライヴ出演します。
バス君のメッセージは、たとえば次のようなものです。
Baths Cerulean Anticon |
2011.11.25(金) 新代田 Fever (All Night)
"Tugboat presents Baths Live in Tokyo 2011″
OPEN 24:00 / START 24:30
ADV¥3,500(+1Drink)/DOOR¥4,000(+1Drink)
opening act: Sodapop (anticon. label Manager)
出演: Sodapop / Baths / Photodisco / cokiyu
※ご注意 / 要身分証明書 https://www.tugboatrecords.jp/category/event
グレッグ・フォックス......日本ではまだ名前が知られていないかもしれないが、ブルックリンの音楽シーンにおけるキーパーソンのひとりだ。元リタジー、ダン・ディーコン・アンサンブル、ティース・マウンテン、ボアドラム、最近ではガーディアン・エイリアン、GDFX、マン・フォーエヴァー、llllなどなど、その活動領域も幅広い。ブルックリンの音楽シーンにおいて、かなりの重要な位置にいることは間違いない。つねに複数のバンドに参加しているし、ショーもオーガナイズしている。今回のウォール街における経済格差抗議運動デモ(占拠運動)でも真っ先に動いたいのがグレッグ・フォックスだ。
私が彼を知ったのは2年ほど前のことだ。ダン・ディーコン・アンサンブルをブシュウィックのサイレント・バーンという会場に見に行ったときだった。彼はドラムを叩いていた。私はその超人的なドラム・テクニックに、ただ圧倒されるばかりだった。
彼はシェア・スタジアムBKというDIY会場のブッキングもしていて、私も参加させてもらったり、バンドを見に行ったりしていた。多くのミュージシャンから彼の評判は聞いていた。いつかじっくり話してみたいと思っていた。
彼は素晴らしいミュージシャンであると同時に、凄腕のビジネスマンでもある。関わるバンドはどんどん大きくなっていくし、そして次から次へといろんなバンドに参加している。
9月17日、「Occupy Wall Street(ウォール街を占拠しよう)」を合い言葉に、若者たちによるウォール街のデモがはじまったときだった。グレッグからまわりのミュージシャンに呼びかける手紙が回って来た。彼がどのように感じていて、いま自分たちが何をすべきで何ができるか。その話題は避けて通れなかった。それぞれがそのために何かしなければと考えはじめた。そして私は、この機会に彼に訊いてみることにした。「ウォール街デモと音楽に関し訊きたいことがあるんだけど」と尋ねるとツアー中にも関わらず快く、「何でも訊いていいよ」とすぐに返事がかえってきた。
ウォール街のデモは、いま起こっている、国際的な革命を表明していると思う。この世界にいる人はみんなひとつの地球を共有していて、みんな共有物のなかのひとつで、みんな本当の意味でひとつであるということにいままで以上に気づかされていると思う。
■ele-kingのインタヴューにお答えて頂いてありがとうございます。音楽が三度のご飯よりも大好きな人たちが集まる音楽ファンのためのサイトです。まずは自己紹介からお願いします。
グレッグ:こんにちは、この機会をどうもありがとう。僕の名前はグレッグ・フォックス。ニューヨーク・シティ生まれ、ニューヨーク育ちでいまはニューヨークのクイーンズに住んでる。僕のメインの音楽フォーカスはドラムだけど、他の楽器もたくさん演奏しるよ。エレクトロ・ミュージックも作っているんだ。いま関わっているプロジェクトは、ソロのGDFX、ガーディアン・エイリアン、マン・フォーエバー、IIII (w/ヒシャム・バルーチャ、ライアン・ソウヤー、ロブ・ロウ、ベン・ヴィダ)。最近DJドッグ・ディックの新しいアルバムのドラムをレコーディングした。これから一緒にツアーにもいくみたいだね。
別のプロジェクトも進んでいて、いまはまだあまり話せないんだけど、かなり楽しみだよ。過去には、ダン・ディーコン・アンサンブル、ティース・マウンティン、リタジー、ボアダムスのボアドラムなど、いろんなバンドでプレイしていたよ。いまはガーディアン・エイリアンというバンドで、同じブルックリン出身の友だちバンドのドリーブスとツアー中。たったいまはアラバマ州、バーミンガムのボトルツリーという会場のトレイラーの前に座っている。そろそろ最初のバンドがスタートする頃じゃないかな。
■ウォール街のデモについて訊きたくて、あなたにインタヴューを申し込みました。ウォール街デモの動きに関するプロジェクトを進行中だとか? それについてのあなたからの手紙が回ってきたのですが、この辺について詳しく説明してもらえますか?
グレッグ:ウォール街のデモがはじまったとき、僕はツアー中だった。とはいえ僕は『アドバスターズ』という雑誌の定期購読者だから、それが起こることは事前に知っていたんだ。彼らはその1ヶ月前からそのことについてよく話していたからね。ツアーから家に帰ってきて、ウォール街デモの中心地となった公園で過ごしていた友だちに会った。で、一緒に見に行ったら、たぶん、公園に着いて5分も経たないうちにキッチンで働いて、食事をサーブしている自分がいたんだよ。その週はその公園で食事をサーブしてほとんどを過ごした。
その後、ショート・ツアーがはじまり、そこを出てツアーで多くの時間を過ごさなければならなくなった。しかし、そこで働いているほかの友だちをチェックして、できるだけオーガナイズできるようにしたんだ。時間があるときはグループ・ミーティングにも参加した。ウォール街デモのキッチン部隊にはツイッター・アカウントがある。もし誰かフォローしたい人がいれば、@OWS_Kitchen だよ。
それから僕は、ニュー・パーティ・システムという、音楽に関連したワーキング・グループをディビット・ファーストとバーナルド・ガンと一緒にキュレートしている。ニュー・パーティ・システムはふたつのミッションがあって、1.ウォール街のデモの動きに対してベネフィット・ショーをオーガナイズしてまだこの動きを意識していない人びとに、何らかの形で加われるように気づかせる。2.ニューヨークのミュージシャンによる、オリジナル・レコーディングをシリーズでリリースして、ダブルで、この動きのためのお金をレイズし、同じ考えを持ったミュージシャンをあつめて、コラボレーションをすることでいわゆる「大きな波」を持ってくる。そうすれば、僕たちひとりひとりがやるよりも、もっとたくさんの人に伝えることができるし、アーティストが一緒に創造すると集団としてもさらに重みがでる。大きな波になって、もっとたくさんの人に伝わると思うんだ。最近、ハード・ニップスのエミとウォール街のデモについてよい話し合いをしたんだけど、彼女が使う「大きな波」という暗喩がとても好きだった。
■なぜこのプロジェクトをはじめようと思ったのですか? また、このデモに対してはどう思いますか? まだ日本ではこの動きに関してあまり知らない人もいるので、詳しく説明お願いします。
グレッグ:いまはこの動きについてはっきり「何」とは言えないけど、個人的にこのウォール街のデモは、いま起こっている、国際的な革命を表明していると思う。この世界にいる人はみんなひとつの地球を共有していて、みんな共有物のなかのひとつで、みんな本当の意味でひとつであるということにいままで以上に気づかされていると思う。
インターネットは僕らがひとつの大きな脳であるということを潜在的に気づかせてくれると思うし、僕たちは一緒になって、世界を自分たちのしたいようにすることができる。テクノロジーは地球がよりユートピアな状態にあることを気付かせるために存在する。僕らを阻止するただひとつのものは国際的な貨幣市場システムなんだ。ウォール街の動きは避けられない反応で、ドル社会の世界経済で利益を得て、支配力を増やす人たちの権力への巨大な伝達だと思う。彼らは人びとへの興味の代わりに、利益のために、政治的、経済的決定を指示する。もし、権力構造や経済オリエンテーションの改革がすぐにおこなわれなかったら、自分たちで惑星を完璧に破壊することになる。
BPの流出から福島の経済的危機、終わりのない戦争......たくさんの国際的な危機が発生している。それらは莫大で、汚れた権力機構を維持する利益のために動かされている。とくにアメリカでは、僕たちは長いあいだ自分が実際に見たものではなく、恐ろしいメディア支配下で見させられ、そして生きている。僕たちは戦争、暴力のイメージで充満させられている。メディアは僕たちを初心者向けに易しくさせ存続させるたの宣伝機関のように見える。そのメッセージは、基本的に「批判的に考えるな。口を閉じろ。役立たない物を買い続けなさい」と言っている。このメッセージは、ポップ・ミュージック、宣伝、ラジオなどの新しいメディアにも届いている。だから今回のウォール街の動きは、こうした権力や金、メディア機関に対する脅威だよ。警察が抗議者を殴りつけ、野営地を取り壊し、市民の市民権を破っている。そしてこれが明らかなのに、彼らの行動はニュース番組からは削除される。
だが、僕たちに対する暴力が酷くなれば酷くなるほど、この動きのための理解や同情は大きくなる。すべてのインターネットをシャットダウンしなければこれらの情報を取り入れることはできない。むしろ逆に、権力機構がどれだけ腐っているかを知ることになる。僕は、ウォール街の動きを赤ちゃんが床でハイハイしたり乗り物での年月を過ごしたあとに歩き方を習うような、その運命を目覚めさせる人間性の一部と見ている。僕たちはひとつで、僕たちの集合体は「変える」力があると気付いている。もう避けられないと思う。
アメリカの60年代を思い返したとき、音楽と政治的な能動主義は一心同体だった。僕たちはウォール街デモの動きを通して、政治と音楽との新しい関係性をいま見つけていると信じている。政治的ステートメントに参加することはアーティストの責任であると強く思う。直接的な行動か、発言という形なのか、もしくは現状のままいまのラインに沿って働くのかに関わらずね。
■10月23日に、あなたはブルックリンでウォール街のデモに関したベネフィット・ショーを開きましたが、どんなバンドが参加して、どのような反応があったのでしょうか?
グレッグ:10月23日の日曜日に最初のニュー・パーティ・システムのベネフィット・ショーを開催した。ラインナップは、マウンテンというバンドのコーエン・ホルトキャンプ、オネイダのキッドているミリオンのドラム・アンサンブルで、僕もときどきプレイする、マン・フォーエヴァー、ノート・キラーズ、そして僕のバンド、ガーディアン・エイリアン。たくさんの人、とくにウォール街のデモの参加者がたくさん来てくれてうまくいったと思う。毎日、ウォール街デモで働いている彼らがリラックスして音楽を楽しんでいるのを見れて、とても嬉しかった。少ないけど500ドルをレイズしたよ。次は12月上旬に予定しているけど、少なくてもこの2倍の成功があると期待している。
■また、他のミュージシャンたちとこの動きに関連するレコーディングもしているとか。それはすでに終わっているのでしょうか? また、リリースするとすれば、いつ頃になるのでしょうか。
グレッグ:ニュー・パーティ・システムは2日間コリン・マーストンのスタジオで過ごした。彼は素晴らしいプロデューサー、エンジニアという以外に、クラリス(krallice)、ダイスリズミア(dysrhythmia)、ゴーガッツ(gorguts)などのバンドでもプレイしている。コリンは、このプロジェクトのために2日間エンジニアの時間を寄付してくれた。
レコーディングに参加したミュージシャンはディヴィッド・ファースト、キッド・ミリオン、バーナルド・ガン、キップ・マローン、そして僕。僕たちは良い素材をたくさんレコーディングしたし、いますべてを通してみて、最初のニュー・パーティ・システムのレコードがどういうものになるか決めているところだ。僕がツアーに出ているので、ディヴィットと僕はすべてを離れながら、コーディネートしている。
たぶん、最初のレコードは2012年の初期にはリリースできると思う。これからもっとたくさんのゲスト・ミュージシャンとレコーディングしていくつもりだよ。このプロジェクトをどのように発展させるか、たしかではないけれど、僕はとても楽しみにしている。このウォール街デモの動きの、僕たちの感情的な投資に取り組むために、集合体として他のミュージシャンやアーティストと結合するのは素晴らしいよね。
■デモの場所で他のミュージシャンが演奏しているのを見たことはありますか? 音楽はこのデモを救うと思いますか?
グレッグ:たくさんのミュージシャンが公園でプレイしているのを見ている。ウォール街デモそれ自身が「救済」を必要しているとは思わないけれど、音楽はこの動きの役割りを果たしていると思うし、すでにある程度までいっている。アメリカの60年代を思い返したとき、音楽と政治的な能動主義は一心同体だった。僕たちはウォール街デモの動きを通して、政治と音楽との新しい関係性をいま見つけていると信じている。政治的ステートメントに参加することはアーティストの責任であると強く思う。直接的な行動か、あるいはメディアを通じての発言という形なのか、もしくは現状のままいまのラインに沿って働くのかに関わらずね。
アーティストやミュージシャンは、話さなくても伝えることができるし、そうする際に言葉ではできない多くの真実を話すことができる。この意味を通して、僕たちは人びとに気づかせ、彼ら自身を活性化させるのを助けるんだ。僕たちはウォール街デモの動きに対して自分からはなかなか関係を見出せない人びとに向けてドアを開くことができる。人びとはまどろみから揺れ起きて、直面している世界情勢を知る。すべての人びとは地球にいる人間のひとつであることを悟るべきだ。
■インディ・ミュージックをやっているあなたと同じぐらいの年の人たちは、この動きに対して「気が付いている」と思いますか? 他のミュージシャンであなたと同じような活動をしている人を知っていますか?
グレッグ:さざまなな形でウォール街デモの動きに関わっているたくさんのミュージシャンやアーティストを知っている。たくさんの音楽仲間にこれからのベネフィットショーの参加を賛同してもらえたし、基本的に僕がいままで話してきたミュージシャンはみんな情熱的にそのいち部にいる。
とはいえ、とくに国際政策やその関係に関して公に取り組むこと、正直で、純粋で、情緒的なこうした姿勢を示すことを嫌う人がいるようにも思える。人びとは「おかしなこと」をためらうべきじゃない。むしろ僕からすれば、このウォール街デモの動きに対して、何らかの方法で、少なくとも何らかのサポートを示すことのないアーティストやミュージシャンが多いことにも驚いている。
でも、まだ始まったばかりだからね。これからもっと増えると思う。いずれは、いま僕らが直面している問題をもっと多くの人が悟ってくれると思う。
■ありがとう。最後に、あなた自身のことについて訊きます。音楽をはじめたきっかけは何だったのでしょう? 音楽をはじめるにあたって音楽的ヒーローはいたのでしょうか?
グレッグ:僕はニューヨーク経由の地球出身。マンハッタンで生まれ、両親の家を出るときにブルックリンに引越し、いまはクイーンズに住んでる。僕は基本的に人生をずっとそこで暮らしている。
僕がなぜ音楽をプレイするか? 僕の祖父はドラムをプレイしていて、いつもプレイしたいと思っていた。いつも音楽をプレイしたいという衝動があったし、これって素晴らしいリリースだよね。音楽は長いあいだ僕のパスに沿ったガイドで、非常に価値があった。続けているあいだには、いちどに起こる出来事や覚えておくべきものなどがたくさんあったし、僕が想像もしなかった、さまざまな場所へ連れていってもくれた。いまも正しいことをしていると思い続けている。演奏して、レコーディングをして、ツアーを続けている。僕は好きだから音楽をプレイしている。ジョセフ・キャンベルの言葉に「好きなことを追い続けなさい」というのがある。
音楽的ヒーローでいますぐに頭に浮かんだのは、ジョージ・クリントン、フランク・ザッパ、キャプテン・ビーフハート、エルヴィン・ジョーンズ、ボアダムス、ニード・ニュー・ボディ、ドクター・ティース・アンド・ザ・エレクトリック・メイヘム、オーケストル・ポリー・リズモ、バットホール・サーファーズ、ロランド・カーク、ライトニング・ボルトかな。
■ブルックリンのオススメバンドを紹介してください。
グレッグ:ドリーブス、PCワーシップ、CSCファンク・バンド、ハブル、トーク・ノーマル、ボウ・リボン、アーメン・デューン、クラウド・ビカム・ユア・ハンド......最近ダスティン・ウォングがバルチモアからブルックリンに引越して来てプレイを見たんだけど、とてもかっこ良いよ。ソフト・サークル、サイティングス、マン・フォーエヴァーもいいね。
■日本には行ったことがありますか? 日本の文化に対して、どのような印象を持っているのでしょうか?
グレッグ:もし僕がお金のことを気にしないで世界中のどこでも行って音楽をプレイできるとしたら絶対日本に行きたい。行ったことはないけど、いつも行きたいと思っていた。古代の日本建築にとても魅了されたし、クロサワは僕のいちばん好きな映画監督だよ。日本のサイケデリック・ミュージックも大好きだし、そもそも僕は任天堂をプレイして育ったんだ。それと僕が思う日本食って、きっと現地では違うのかもしれないけど、なぜか日本では食事も合うと思うんだ。もう我慢できないくらい日本に行ってみたいね。日本で音楽をプレイするのは僕が人生のなかでやってみたいことのひとつ。いまのところプランはないけどきっと遠くはないと思うんだ。
■日本のバンドで好きなバンドはいますか?
グレッグ:ボアダムス、アシッド・マザー・テンプル(とくにマコト・カワバタのソロ)、DMBQ、ボリス、メルツバウ、それと『ゼルダの伝説』の作曲者のコウジ・コンドウ。あふりらんぽとにせんねんもんだいも好きだよ。
※9月17日にウォール街で数百人の若者からはじまった経済格差を訴えるデモは、翌週にはさらに全米から若者が集まり、100人近い逮捕者を出すほどの規模となった。グレッグ・フォックスが取材のなかで述べているように、もともとはカナダのアナーキスト雑誌『ADBUSTERS』の呼びかけではじまっているが、集まったデモの主体が20代の「沈黙の世代」と呼ばれる若者層だったことも話題となっている。その後、シカゴ、サンフランシスコ、フィラデルフィアなど全米の多くの都市でもデモが繰り広げられている。また、2ヶ月後の現在もこの運動は拡大している。
冨田勲 PLANETS ZERO ~Freedommune<zero> session with Dawn Chorus 日本コロムビア |
冨田勲 惑星(プラネッツ) Ultimate Edition 日本コロムビア |
『PLANET ZERO』は、もともと〈FREE DOMMUNE〉のために準備されていた演奏で、フェスティヴァルの無念の中止を経て、そしてこのたびCD化されることになった。作品の下地には冨田勲のもっとも有名な作品のひとつ、『惑星(Planets)』がある。そして宇宙の現象を音に変換するという、ユニークなアイデアの「ドーン・コーラス」もある。〈FREE DOMMUNE〉のサイトでさんざん記されていたように、「ドーン・コーラス」とは太陽の黒点から発せられる電波を受信する音のことで、その音はおおよそ明け方において受信できる。詳しくはココを読んで。→www.dommune.com/freedommunezero/2597
冨田勲とは、言わずと知れた電子音楽における"もうひとりのゴッドファーザー"である。YMOより数年先立って、シンセサイザー・ミュージックの祖としての冨田勲は日本よりも海外において知られている。以下のインタヴューのなかで僕がそれを『惑星』という日本語タイトルで喋っているのに対して冨田勲本人はそれを『Planets』と英語読みで話すのも、作品が1970年代当初は日本での理解を得られることなく先にアメリカのレーベルからリリースされていたという過去をあらためて知らしめていると言えよう。
経験的に言っても、それはうなずける。イサオ・トミタの名前は、むしろ海外のテクノ・ミュージシャンの口から聞いたものだった。「5歳のときに父親の部屋でトミタを聴いて、まるで別世界に連れて行かれたような気持ちになって、それからエレクトロニック・ミュージックを好きになった」という話をしてくれたのはグローバル・コミュニケーションだったか......ジェフ・ミルズは〈FREE DOMMUNE〉で同じステージに立てることを楽しみにしていたというし、フライング・ロータスもリスナーのひとりだという話を耳にしたことがある。この20年のあいだ、欧米のエレクトロニック・ミュージックのスリーヴノートの「inspired」のクレジットにおいて「Isao Tomita」という名前を見つけている人は少なくないだろう。
『PLANET ZERO』には、世界に名だたるこの巨星の音楽の醍醐味が凝縮されている。電子音楽という"手段"における目的意識とその聡明さ、サラウンドシステムという音響体験にもとづいた他に類を見ないミキシング、そして「ドーン・コーラス」と呼ばれるコズミック・ノイズの――まるで鳥の奇妙なさえずりのように聞こえる――そう、ロマンティックな面白さ。取材当日、用意された部屋には4つのスピーカーのサラウンド・システムの再生装置――といっても、家庭用のコンパクトなもの――が置かれていた。30分ほど早めに着いた僕とカメラマンの小原泰広君は、サラウンド・システムで再生された『PLANET ZERO』の立体音響のすごさにまずは驚いた。
高速道路を走ると、先端がひゅいともやしのように曲がっているだけの照明がずらーっと遠方まで並んでいるんですね。まるで印刷されたようにね。あれはあれでね......、つまりシンセサイザーの電気的な音はあれのことだと思うんですよ。出しやすいんです。同じ波形が続いている。
■いま、この部屋で初めてサラウンドのシステムで『PLANET ZERO』を聴いたんですが、音酔いするかのような臨場感に驚きました。『PLANET ZERO』を聴くためにサラウンドを買おうかなと真剣に考えてしまいました(笑)。
冨田:でしょう? それなのになんで一般的にサラウンドが盛り上がらないんでしょうね(笑)。なぜだか、サラウンドで聴くには100万円ほどの機材が必要じゃないかという偏見があるんですよね。いまお聴きになったシステムは、フルセットでせいぜい4~5万円ですよ。昔の安いスピーカーといまの安いスピーカーでも雲泥の差ですからね。昔のように、値段が安いから音が貧素とかではないんです。
■ひとつの作品として、サラウンドというのは音が良い悪いではなく、ステレオ作品とはまた何か別物の作品なんだなと思いました。
冨田:そうなんです。ステレオの延長ではないんです。聴いてもらってよかったです。
■それでは質問したいと思いますが、今日は初めて冨田さんの作品に触れるであろう若い世代のためにも、初歩的な質問をさせてください。まずは、冨田さんとシンセサイザーとの出会いを振り返ってみたいと思います。そもそも冨田さんはシンセサイザーのどんなところに魅力を感じたのですか?
冨田:私がNHKのラジオの仕事をはじめたのが昭和27年ですから......1952年ですね。日本が戦争に負けて7年目ですか。慶応大学の2年だったんですが、NHKで作曲の仕事をさせてもらっていたのですが、最初の頃はまだ大きな番組ではなく、朗読と音楽みたいなね、15分ぐらいの短編の番組で、その頃はシンセサイザーなんかは陰も形もない頃でした。その後立体音楽堂などで大編成のオーケストラを手がけるようになったのですが、モーグ・シンセサイザーと出会うまでに20年ぐらいあったんですね。その頃は僕は、誰しもが陥る行き詰まりですか。
■行き詰まり?
冨田:要するに絵の場合は、いまの現代画家でも必要とするものはなんでも原料として色彩のもとにする。金粉でもいいし、石炭ガラでもいいわけです。ところがオーケストラは......僕はもともとオーケストラにものすごく興味を持っていたんだけれど、立体音楽堂をやっていた頃(まだFM放送がない頃)、NHKのラジオの第一放送をLチャンネル、第二放送をRチャンネルでという、両方のチャンネルを使った大編成のオーケストラの豪華番組があったんですね。それはオーケストラを扱った番組の頂点みたいなものだったんです。そこまでやらせてもらっていた。ところがいまお話しした絵と違って、オーケストラのスコアの楽器の配分というのが、ワーグナーの時代からの100年間はそんなに変わってないんですね。モーツァルトからワーグナーまでの100年間ははずいぶんと変わった。楽器も改良された。音質も良くなったんですね。しかし、ワーグナーから現代までほとんど変わっていないわけです。そうすると譜面を書いていて、これはもうすでに誰かがやっているんじゃないかという邪想が出てくるんです。音源が同じですからね。当時でも、SEを入れたりしている人がいましたけど、やっぱきちっとしたオーケストラとなると、フルートからはじまってオーボエ、クラリネット、ファゴット、トランペット、ホルン、トロンボーン、テューバ......あとは弦楽器、それから打楽器......それは変わっていない。
■19世紀末からそれほど変わってないという。
冨田:そこで新しい楽器を考案しても、じゃあ誰が演奏するんだと。バイオリンでさえも20何年間も弾きこんでやっとプロになるのにね、そう簡単に新しい楽器が入り込むことは不可能。そんなことを考えているときにシンセサイザーという話を聞いたんですよ。
■はい。
冨田:これは演奏者、扱う人間のアイデア次第によってどんな音でも出るんだと。いまのシンセサイザーというのはボタンを押すとプリセットされたいろんな音が出ますよね。モーグ・シンセサイザー(MOOG III-C)っていうのは、それがない。ぜんぶ自分で作らなければ音にならないんです。
■まさに合成機械なわけですね。
冨田:そう、シンセサイズ(合成)しなければならない(笑)。だからね、パレットだけをモーグさんはミュージシャンのために作ったわけです。そこではいろんな音を作ることができる、いろんな音の素を集めて倍音を重ねることもできればフィルターで特定の音をピークにして音色を作るとか、ピッツィカートやシロフォンのように、音がすぐに止まってしまう成り立ち、それからドラのように叩いた瞬間はたいした音はしなくても、あとからブアーンと広がってくるとか、あとでクレッシェンドしてくるとか、そういうような音の成り立ちとか仕組みの細かい......、いまでいう電子オルガンみたいなもののもとになるありとあらゆる装置をバラバラに箱の枠に並べただけという。それをコードをつないで、自分で数あるヴォリュームを調整しながら音を仕組んでいくわけですね。まあ好きなようにやってくださいと。
■根気が要る話ですね(笑)。
冨田:最初はこのモーグのどこがアウトかわからなくてね(笑)。それで各モジュールのすべてインとアウトがあるなかの、線をつないだいちばん最後のモジュールのアウトが、そのモーグ・シンセサイザーのアウトだったということがわかったんですね。(笑)。
[[SplitPage]]戦時中ですから、西洋音楽は聴くのも演奏も禁止、ラジオから聞こえてくるのは、軍歌、国民歌謡、文部省唱歌だけなんです。ジャズもシャンソンも、ラテンも、西洋音楽はすべて禁止されていたんです。
冨田勲 PLANETS ZERO ~Freedommune<zero> session with Dawn Chorus 日本コロムビア |
■冨田さんご自身がモーグ・シンセサイザーを取り寄せたのが......?
冨田:1972年です。
■それで1年4ヶ月かけて研究された。
冨田:自宅というよりも自分の工房ですよね。
■当時、おいくらしたんですか?
冨田:1千万ですね。
■うぉぉぉぉ!
冨田:いや、1千万だけれども、僕が個人で道楽で入れたわけではないんです。ひとつのプロダクションを作りまして、それで輸入したんです。だから町工場で営業用の印刷機や洗濯機に1千万円を投じると言ったら、それほどたいした金額ではないでしょ。だって、それで稼ぐつもりでいたわけですから。
■はははは。ちなみにどうやってモーグ社と連絡を取って購入したんですか?
冨田:それはもう、連絡の取りようがなかったですね。
■いまみたいにインターネットがあるわけじゃないですからね。
冨田:ですから、個人的に、モーグ・シンセサイザーを作っている工場を知っているという人を介して、その人の紹介状をもってモーグさんを訪ねていったんです。
■アメリカまで行かれたわけですね。
冨田:いまのような格安の航空券などないし、しかも1ドルが360円の時代ですから、それはもう高い渡航費ですよ。JALの普通のクラスの座席で40万円しましたから。それでバッファローの工場に尋ねて行ったんですが、田舎の野原のなかのお粗末な平屋の工場で、以前は屠殺場だったとか。とても世界の最先端を行く電子楽器をここで作っているとは思えませんでした。入り口には受け付け窓口もなく、いきなりモーグさんが奥からぬっと顔を出しました。まさに「暗闇から牛」です。
■連絡はどうやって取ったんですか?
冨田:テレックスですね。打ってくれる人がいましてね、それでやりとりしていたんです。それでね、シンセサイザーを買ったものの、税関がどうしてもこれは楽器に見えないと(笑)。
■はははは、見たことないですもんね。
冨田:それでとにかく通関が通らなくて、手こずりました。1ヶ月ぐらいかかりましたね。どうしても楽器じゃないと言うんですよ。そうこうしている羽田の倉庫が狭いというんで、千葉県のJALの倉庫に入れられちゃったんですよね。それで1ヶ月後に通関税を払うべくモーグを取りにいったら、1ヵ月の倉庫の保管料を払えって言うんですよ。
■はははは、シンセサイザー、1台を取り寄せるのがどれほど困難だったかという(笑)。
冨田:そうですね(笑)。それと、僕もその時点ではよく把握していなくて、それがどういうものなのか理解するのに苦労しましたね。電源スイッチを入れても音が出ないんですから。出るには出ても意図した音は出ないんです。オシレーターから発信音むき出しの音で、音程も合ってないんですから。ようやく意図する音色が出せるようになっても、次は音程を合わせなければならない。
■初期の、組み立て式のコンピュータみたいなものですか?
冨田:コンピュータまでいかない。たんなる音出し機ですね。
■なるほど。さきほど音を創ることに惹かれたと言いましたけど。
冨田:そこなんです!
■最初はワルター・カーロスの『スイッチト・オン・バッハ』を通してシンセサイザーと出会われたという話ですが。
冨田:そうです。大阪万博の1970年にその存在を知りました。現物はみていませんがそういうものがあるということを知ったわけです。
■それで、いまおっしゃったように、ご自身で輸入して、時間をかけていろいろ研究されたと。実際に手に取ってみて、あらたにお気づきになった魅力などありましたか?
冨田:それはもう、従来の楽器の枠におさまらない音が出るということです。組み合わせによっては従来の楽器の音に似た音も出せますが、僕が興味を持ったのは、従来のオーケストラの楽器のなかにはない音が自分の技術によって出すことができるということでした。
■エレクトロニックな音質というか、電気的な音への魅力はなかったですか?
冨田:そんなもの、何も魅力を感じてなかったでしたよ。
■ハハハハ(笑)。
冨田:電気的な音とは何を言うのか(笑)。たとえば電話の受話器を上げると「ツー」っと発信音が鳴りますけど、あれは電気の発信音ですけど、あの無機質にはぜんぜん興味はないです。そうではなくて、自分のイメージした音を出すということなんです。そもそも電気とは自然のエネルギーですからね。風が吹けば風車がまわり、水が流れれば水車がまわるように、電気の流れたがっている自然の習性をうまく利用して仕組んだのが電子楽器で、その習性を人間が捻じ曲げたら回路は働かないんですね。だいたい電気的な音とはどういう音ですか?
■我々はそれをエレクトロニックな響きとか、ブリープ音などと言ってしまうのですが、電子機材で生成される無機質な音色、電子機材を介して生まれる信号音めいた響きと言いますか。そういう音が、乱暴な言い方をすれば僕のようなリスナーにとっては使い方次第ですが、バイオリンやクラリネットの音と等価でもあるんです。
冨田:道路に並んだ照明がありますよね。昔は日本橋の照明なんかもものすごく彫刻に手の込んだ照明がありました。ところがいま高速道路を走ると、先端がひゅいともやしのように曲がっているだけの照明がずらーっと遠方まで並んでいるんですね。まるで印刷されたようにね。あれはあれでね......、つまりシンセサイザーの電気的な音はあれのことだと思うんですよ。出しやすいんです。同じ波形が続いている。オシレーターにうつしても動いていないんですね。同じ波形が続くんです。バイオリンでもフルートでも、かならず揺らぎますからね。似た波形でも、同じ波形は出てこないんです。電気的な音とはその波形が同じことなんじゃないでしょうか。
■たしかに、おっしゃる通りです。
冨田:電話の受話器の「ツー」っという音に揺らぎはないですから。同じ波形が続くだけですからね。初期の電子楽器はそういう音を出しやすいんです。簡単にコンデンサーとコイルでもって発信させればそういう音になりますからね。それは安易で、出しやすい音なんです。しかし、たしかに意図的にそれを使っている人もいますよね。
■まさにそのことなんです。クラフトワークですね。
冨田:そう、あのドイツのね。あれはあれで、僕は面白いと思うんですね。あれは、まさにシンセサイザーの無機質な音を逆手に使っているんです。
■そうですね。
冨田:それから最近では音響で、48k(Hz)よりも96k(Hz)のサンプリングとか、192k(Hz)とか、それは細かければ細かいほどいい音になるといわれています。だけども、トレヴァー・ホーンがアート・オブ・ノイズをやったときには、逆にそのクオリティを悪くした音を使って面白いアルバムを作りましたよね。
■すいません、冨田さんの口からアート・オブ・ノイズという名前が出てくるとは思いませんでした(笑)。
冨田:あれはあれで面白いですよ。たしかに自然音を録音した場合は、48kと96kでは差があると思うんです。気配も違う。自然音はハイサンプリングのほうがより自然に近く聴こえます。でも、モーグ・シンセサイザーの場合は、スピーカーやヘッドフォンによらない生音がないので比較のしようがない。モーグさんは40年前にはそのようなハイサンプリングで聴かれるとは考えていなかったので、せいぜい48kぐらいまででそれ以上の高聴波は想定していない。実はそこの部分に予期せぬノイズが潜んでいて編集機に悪さをし苦労をしました。生音とは比較することのできない、シンセサイザーでの場合は48kまでで充分だと思っています。『Planets(惑星)』は96kでやってしまいました。労力の無駄でした。
トレヴァー・ホーンは人間の声をあえて低周波数でサンプリングしましたよね。まるで初期のサンプラーみたいな使い方をしたんです。それが面白かった。サンプリング周波数の高低は音響技術者のなかでの話しで、アートはサンプリングの周波数の高低のなかには潜んでいないんですよね。
■おっしゃる通りだと思います。
冨田:礼拝堂のタイル職人が作ったタイルの絵がありますね。あれは素子が荒いですね。イエスだろうがアラーだろうが、素子が荒いんです。それが細かければありがたみが上がるわけではないんですね。シンセサイザーにも、それと似たところがあるんです。そこはたしかに現実音とは違います。それを電気的と言うのか、人工的と言うのか(笑)。そういう意味では面白いジャンルです。とくに若い人たちには面白い題材ではないでしょうか。初期のモーグ・シンセサイザーのあの面倒くさい操作にも挑戦してもらってね。
■ハハハハ。
冨田:というのも、最近のシンセサーザーは操作がすごく簡単になってますでしょ。あまりにも簡単過ぎるんですよね。したがってだんだんひとりひとりの個性がなくなってきていますね。僕の音とYMOの音では表現しているものがぜんぜん違います。僕がモーグ・シンセサイザーを使うのと松武(秀樹)君が使うのとではぜんぜん違うんです。また喜多郎さんも違う。
■音が均一化されているのはたしかにそうだと思います。それだけ広く普及したってことでもあると思うんですけど。
冨田:それが残念なんです。
[[SplitPage]]ニューヨークはね、ロスと違ってアメリカでもヨーロッパ側だから保守的なところがあるんです。面白いことに、ヨーロッパのなかでもイギリスだけが違ってましたね。イギリスは、けっこう受けたんですよ(笑)。ところがフランスあたりになるとね(笑)。
冨田勲 月の光 BMG JAPAN |
Wendy Carlos Switched on Bach 日本コロムビア |
■質問を変えますね。シンセサイザーを使った最初の作品はドビュッシーの『月の光』(1974年)の演奏でしたが、ドビュッシーの作品を選んだ理由を教えてください。
冨田:それはもう、ワルター・カーロスの『スイッチト・オン・バッハ』を意識しました。当時、参考になるものを探していたんです。シンセサイザーだけで1枚のアルバムを作ったとなるとワルター・カーロスしかいなかったんです。しかし、あれはどう聴いても線画的と言いますか、オシレーターの、さっき言いましたように放っておけばおのずから出てくるような音なんですね。バッハの曲はそういうところありますよね。バッハは対位法の使い方は天才的で、構築の仕方もすごいですね。まあ、超天才的な作曲家なんで、だから線画的に演奏しても形になってしまう曲なんです。だけど僕はシンセサイザーというのは画家の使うパレットのようなものだと思ってましたから、そうなるとフランスの印象派になるわけです。
■それはすごく面白い話ですね。僕はクラシックに関しては浅学ですが、たしかにバッハにはそういうところがあるのは僕なりに理解できます。ロックで言えばポール・マッカートニーみたいな人ですよね。作曲が優れているから誰がカヴァーしてもそこそこ様になってしまうと言いますか......。でも、だからドビュッシーだったんですね。
冨田:これだったら勝負できるかなと思ったんです。色合いを出したかったんですね。線画とは違ったものを出したかったんです。
■ああ、なるほど。そうだったんですね。そのお話はとても面白いです。僕はてっきり、冨田さんの代表作となった『惑星』(1977年)がそうであるように、宇宙というテーマ、冨田さんのコズミック・ミュージックの第一歩ということなのかなと思っていました。でも、違ったんですね。
冨田:違うんですね。色彩なんです。色合いです。フィルターがあって、楽器では出ない音色が出せる。そこで勝負しない手はないなと思ったんですね。
■ではなぜ、その後『惑星』のように宇宙をテーマにすることになったんですか?
冨田:ドビュッシーをやって、賛否両論でした。「けっこう良い」っていう人もいましたが、「あれは邪道だ」という人もいました。しかし音楽的でなければ音楽以外の何かが聴きてに感情移入をする。ぼくはそれで充分なのです。僕はね、わりと実況中継的音楽というものに興味があるんですよ。
■実況中継的音楽?
冨田勲 源氏物語幻想交響絵巻 日本コロムビア |
冨田:そこでなにかがおこなわれているという。たとえば......、これはオーケストラでやったものですが、僕には『源氏物語幻想交響絵巻』というアルバムがあります。そのなかで、王宮の庭園でされている儀式であるとか、六条御息所の生霊が出て来て葵の上との、まあ女同士の争いですよね。それから、たとえば葵祭の行列の見物の場所取り争いですよね、そういう、なにか起きている場所のパノラマ音、それを実況的に描く......。レスピーギの"ローマ3大交響詩"からおおいに影響を受けています。そういう何かがおこなわれている情景を表現するためにサラウンドである必要があったんですね。源氏物語の最後の"宇治十条"の浮舟の場面もそうです。雪が降る宇治川に浮舟が入水自殺をはかる切ない場面の表現なんですが。
■ああ、なるほど。それで立体音響(サラウンド)でなければならない。
冨田:それを僕は適当な表現がないので実況中継的って言ってしまうんですけど、だから『惑星』も同じなんです。宇宙のどこかでおこなわれていることと言いますか。あの作品のなかでは、たくさんの宇宙スタッフたちのインターカムの音が入ってくるでしょ。当時のインターカムの音は悪いんですよ。でも、そのうちインターカムで歌い出してしまったりして(笑)。
■なるほど。『惑星』もたまたま『惑星』であって、その本質は、何かが起きている"場"を音で表現しているんですね。
冨田:そうなんです。それをサラウンドで作ってしまおうとしたんです。聴いてそんな感じするでしょ?
■はい、たしかにそれはいま理解できます。空間を創出すると言いますか。
冨田:ただ、それほどアート的ではないかな(笑)? やりすぎて。へんな宇宙人も混じっていますし、"木星"なんかもね、UFOがどっかから飛んできたり(笑)。
■『惑星』には茶目っ気があるんですね。
冨田:ありますね。手塚治虫さんのアニメの音楽をやってきていたんでね、もう「ぱふぉぱふぉぱふぉ」とか、ヒゲオヤジやヒョウタンツギのイメージです。実はあの作品は手塚さんからの影響が強いですね(笑)。
■なるほど(笑)。しかしいまお話をうかがって思ったのは、冨田さんの場合は、リスニングというよりもエクスペリエンス(体験)ということのニュアンスが強いのかなということなんです。
冨田:いやね、僕らの世代、子供の頃に音楽なんてなかったんです。戦時中ですから、西洋音楽は聴くのも演奏も禁止、ラジオから聞こえてくるのは、軍歌、国民歌謡、文部省唱歌だけなんです。ジャズもシャンソンも、ラテンも、西洋音楽はすべて禁止されていたんです。音楽なんかなかったんです。そして日本が負けて、進駐軍が入ってきたときに、進駐軍向けのラジオ放送のなかにおもちゃ箱をひっくり返したようにいろんな音楽が出てきたんです。僕らの世代のミュージシャンはみんなそこから影響を受けたんですね。それまで音楽を知らなかったんですけど、ちょうど好奇心旺盛な年代のときにカルチャー・ショックが起きたんですね。
■そのお話は、大きくは戦後リベラルのなかで洋楽に慣れ親しんだ僕の世代にもつながりますね。
冨田:ただね、3歳の頃から教育ママにピアノを習わされて、やれソナチネだとかバイエルだとかやらされたようなのとは違うんです。教育された世代とはどうも違うんです。父の仕事の都合で北京に行っていたことがあったんですけど、天壇公園の音の反響に5歳のときにものすごく驚いたんです。それで帰国して、昭和16年かな、ラジオで蓬莱山、仏法僧の放送を聞いて、それで僕はどうしても仏法僧の声を聞きたくて、岡崎の比較的近くの三河の蓬莱山まで行って、夜中の宿坊で......、宿坊ったって、人気のない、信仰をもった年取った人がちらほらいるような、蝋燭もないから山で拾った雑木をかまどで燃やして明かりにしてましたけど......。その宿坊から仏法僧の声を聞いたんですね。
■宿坊にはお父さんと行かれたんですか?
冨田:父は兵隊に取られていませんでした。8歳上の従兄弟と行きました。その記憶が忘れられず、NHKのサラウンド番組で霊山のあちこちに楽器を配置をして「仏法僧に捧げるシンフォニー」というのをやりましたけど、崖の山で音の反響が面白くそのときの"場"の音を利用したシンフォニーを書いたんです。つまり岩肌を反響する音の聞こえ方に興味があったんですね。だから『Planets(惑星)』も同じ考えなんです。当時あれは音楽じゃないと言われましたけど、もともと音楽をやろうとは思っていなかったんです(笑)。音楽でないのなら音楽でないもの。それを聞いた人が何かを感じ取ってくれればいいんです。
■なるほど。それもまた興味深いお話ですね。ところ僕はもうひとつね、冨田さんが当時、1977年の時点で国際的に活動されましたでしょ。そこにも興味があるんですね。たとえばアメリカのジャーナリストが書いたレヴューを読むと、そのレヴュワーは『惑星』を評価しているんですけど、文章のなかに「クラシックの純粋主義者からは叩かれているが......」みたいなくだりがあるんですね。
冨田:そうそう(笑)。とくにニューヨークはね、ロスと違ってアメリカでもヨーロッパ側だから保守的なところがあるんです。面白いことに、ヨーロッパのなかでもイギリスだけが違ってましたね。イギリスは、けっこう受けたんですよ(笑)。
■それはわかります(笑)。
冨田:ところがフランスあたりになるとね(笑)。
■はははは。
冨田:もうすごかったですよ(笑)。
■当時『惑星』を聴いていた客層というか、どんなオーディエンスだったんですか?
冨田:そこまでは僕は意識していないですよ。僕はただ好きで作って、聴いた人が自分の気持ちのなかで何か、ある場を想像してくれたら良いなとは思ってましたよ。それがシンフォニーなのか、シンセ音楽なのか、作っている僕自身がそんな区分けは考えていない。今回の『PLANET ZERO』だってそうですよ。音楽でなくても良いんです。いまの若い人たちも、きっとそこはこだわるところじゃないと思うんです。
■まったくその通りですね。いまそこにこだわることはないですよね。
冨田:ただいまは別の意味で過渡期だとは思いますけどね。
■海外と国内との反応はどんな差がありましたか?
冨田:日本はもう......保守的ですよね。ドビュッシー(の『月の光』)を日本からは出せないと、それでアメリカから出したわけですから。日本では誰も認めてくれませんでした。
■それでアメリカのRCAとコネクションができたんですね。
冨田:そう。『スイッチト・オン・バッハ』を手がけたピーター・マンヴェスがRCAに移籍していたんですね。彼のところに持って行けば絶対に反応してくれるだろうと。彼しかいないと。それでピーター・マンヴェスのところに持って行ったんですね。
■そういう経緯だったんですね。
冨田:やっぱああいう人がいないとね。
■そうですよね。
冨田:あとは営業ですね。
■営業ですか。
冨田:これはという企画でも営業でダメになったんですよ。要するにこんなものをレコード店のどの棚に置くんだと。映画でもないし、クラシックでもない、室内楽でもないし、ジャズでもない。
■ロックでもない(笑)。
冨田:そうなると、営業から「売れない」と言われるんですよね。『スイッチト・オン・バッハ』なんか効果音というコーナーに置かれてましたからね。
■効果音はないですよね。
冨田:それじゃ、ちょっとねと、そしてピーター・マンヴェスのところに持って行ったんですね。そうしたら彼が「すぐにやろう」と言ってくれたんです。その反応の違いたるやすごかったですよ。営業にプッシュする力もまったく違っていたんですね。話が通るのが早かったですよ。それから、『ビルボード』や『キャッシュボックス』、業界誌、あるいはニューヨークの大きなレコード店「サム・グーディー」だとか、発売前にそういう人たちを集めて記者会見を開くからもういちど来てくれと。
■『惑星』のヒットもアメリカが先だったんですか?
冨田:そうです。日本では出してないんです。
■アメリカ先行だったんですね。オリジナルはアメリカ盤になるんですね。あのジャケットも。
冨田:『Planets(惑星)』はそうですね。アメリカで作ったジャケットをそのまま使うと、日本では使用料を払わなければならないので、『月の光』も『火の鳥』も日本でジャケットを作ったんですが、『Planets(惑星)』のジャケットはアメリカ盤のがあまりにもいいんでね、お金を払ってまでもアメリカ盤のものをそのまま使ったんです。今年コロムビアから出した『惑星 ultimate edition』のジャケットの河口洋一郎さんによる宇宙探索機のイラストもなかなか負けちゃいないというか。はやぶさ(小惑星探査機)のイメージとして描いたんですよね。僕はこのイラストに触発されて曲を書いたくらいなんですが......"イトカワとはやぶさ"ね......、そういえば糸川(英夫)博士(注:日本の宇宙工学の父)は、僕のこの『Planets(惑星)』ができたときにバレエを踊ってくれたんですよ。しかも帝劇でね、
■帝劇で!
冨田:60の還暦だというのに、踊ってくれてね。
[[SplitPage]]ワーグナーは、それほど宇宙のことは知らなかったと思うんだけど、聴くと宇宙そのものと言いますか、やはり愛は宇宙なのかと、そのことを僕はすごく感じていたんです。あの曲には、いくつものいくつもの星雲を乗り越えていくようなイメージがありますからね。
冨田勲 PLANETS ZERO ~Freedommune<zero> session with Dawn Chorus 日本コロムビア |
■それはまたすごい話ですね。そろそろ時間がなくなってきたので、今回の『PLANET ZERO』について訊きたいと思うのですが、当日に設営してあったドーン・コーラスの装置の写真をあらためて見ると、残念でなりません。
冨田:ドーン・コーラスの装置に関しては、そんなにたいしたものではないんですよ。実にちゃちなものでね、コイルを置けばそこに(電磁波が)入ってくるんです。低周波ですから、それを音に置換すれば「ぴゅーぴゅーぴゅーぴゅー」と出てくるんです。
■まあ、〈FREE DOMMUNE〉では、ジェフ・ミルズというテクノDJをはじめ、出演者のなかでも楽しみにしていた人も少なくなかったですし、本当にこれをあの場で生で聴けたらなと、CDを聴いていてもついつい思ってしまうのですが、冨田さんご自身はあのフェスティヴァルでのライヴに関してどのような期待がありましたか?
冨田:まあ、NASAで発表する宇宙の天気予報と、地球の天気予報を両方気にして見ていたわけですが、地球の天気は楽観してたなぁ。地球のほうでやられるとは思っていなかった。そこへもってきてさらに、晴れて朝日がトランペッターの顔を照らすとき、天空に向かって"ジュピター"を吹くというのを想像していたんですが、ぜんぶがうまくいくとは限らない......。まあ、そういう考えが天に通じて意地悪されたんでしょうかね(苦笑)。やぁ......。
■あのロケーション、そしてオーディエンスを考えてみても、実に惜しい。そう思います。
冨田:ねぇ。ツイッターを見るとすごい人たちが期待してくれていた(笑)。8月の1、2、3日と浅間山麓でドーン・コーラスの降りてくる未明に頑張ってテストをやったんです。それで2日に良い音が入ってきたんです。それを収録したんですね。それで、まあ、ドーン・コーラスの音もあり、シンセサイザーの背景音楽もすでにできている。本間(千也)さんのトランペットの録音もオッケーだと。これだけ素材が揃っているのに、これは出さない手はないんじゃないかと。それをリリース元の日本コロムビアが理解してくれた。
■それで今回のリリースにいたるわけですね。
冨田:楽しみにしてくれていた方々が本当に多かったんです。だから、この作品を聴けば、「あー、そうだったのか」と。わかっていただけるんじゃないかと思います。そもそもドーン・コーラスは、リハーサルができないんですよ。(もしリハーサルをやるとしたら)前の日の夜明けにやらなければならないですし、その両日のドーンコーラスの元になる太陽の黒点の状態が同じ状態であるとは限らないわけですよ。浅間山麓で録音したときも1日と3日は(音が)来ないんです。ものすごく大きな黒点が直線上に4つ揃ったんですが、地球に対する向きも関係しているみたいでね、2日だけ非常に強いのが入ってきたんです。
■シンセサイザーは冨田さんにとって音をクリエイトできる装置だったと。パレットであり、音を塗ることができる。ドーン・コーラスとはまたそれとは違った発想ですよね。
冨田:そうです。音源であればパレット以外のものであってもいいのです。戦時中、いつ敵の空襲に遭うかわかりませんから、寝るときもラジオをつけっぱなしにしておくわけです。名古屋のNHKでしたけど、とにかく長波で、長波にしないと、相手に電波の発信源がわかってしまうんですね。潜水艦も長波だったらしいですけどね。まあ、敵にわからないってわけで長波を使うわけです。そのかわりに長波は混線の神様みたいなもので、いろんなものが入ってきてしまう。そのなかにドーン・コーラスも入ってきたんですね。明け方、朝の30分ぐらい、毎朝聞けるわけじゃないんですが、入るときは「ぴーぴーぴーぴー」言うわけです。
■最初は何の音だと思いましたか?
冨田:何の音かわからなくてね、第一次大戦のときに無線のヘッドフォンのなかにドーン・コーラスが入ってきて、最初は敵の妨害の電波かと思ったらしいですね。要するに程度の悪いラジオや送信機に入ってきてしまうんですね(笑)。ノイズとしてね。ドーン・コーラスはノイズですから、性能が良い機械になれば入ってこないんです。太陽と地球の関係というのはたかが半世紀ぐらいではそう変わらないので、いまでも入ってくるんです。ただし、いまでは電波の数が多いですから、AMラジオの音も入ってきてしまうんですね。その周波数は帯域を調節することで抜け出すことができるんですが、どっかで雷があれば、かなり遠方であってもその音が「ガリガリガリガリガリ」と入ってきてしまうんですね。地球上のどっかでそれはかならず鳴ってしまうからね。だから浅間山で録ったときにもやっぱりそういう音も入ってきてしまったんですが、それは削除して、編集したんですね。実際に(コイルを使って)やるとあんな(CDで録音されているような)綺麗には出ないですよ。いろんなノイズが入ってしまいますから。
■そのドーン・コーラスは、音としての面白さなんですか、それともそのドーン・コーラスというコンセプトの面白さなんですか?
冨田:まあ、天空からの音ですからね。地上からはそれをトランペットで迎えると。そのアイデアです(笑)。それを聴いてリスナーがどう思うか? あるひとつの雰囲気は浮上したんじゃないかと僕は思っているんですけどね。
■なるほど。
冨田:ドーン・コーラスをモノラルにしてスピーカーに分岐して出すべきか、サラウンドにするべきか......、違う場所にいくつかのコイルを置けば、飛び込んでくる磁力線は違うでしょうから、違った磁力線をそのままそれぞれのスピーカーにつなげばサラウンドになるんじゃないかとも思ったんです。だけども、現場でそんな凝ったことをやってもうまくいかないんじゃないかと。それでひとつのコイルに飛び込んできた音にディレイをかけてサラウンドにすることにしたんです。それならひとつの音だけ監視していればいいわけですからね。
■なるほど。
冨田:でも、実際はノイズも入ってきたでしょうね。とくに川崎のあの場所は工場地帯ですからね。たしかに明け方は工場は動いてませんが、昼にリハーサルをやったときにはいろんなノイズが入ってきましたね。
■それはそれで逆にそのノイズを聴きたかったですね。
冨田:そうですね。
■インプロヴィぜーションですね。
冨田:そうです。あなたの言うように、まさにインプロヴィぜーションなんです(笑)。それができなかったことは本当に残念です。
■ライヴでは、『PLANET ZERO』に収録された曲順通りの演奏予定だったんですか?
冨田:ええ。"トリスタンとイゾルデ"を入れるかどうかだけは迷いましたけどね。
■まさに最後の質問として、なんで"トリスタンとイゾルデ"を入れたのかということを訊こうと思っていました。
冨田:あの曲から感じるものはまさに宇宙でしょう。せっかく本間さんにトランペットを吹いてもらうんだし、CDでは"トリスタンとイゾルデ"でトランペットのパートを作って吹いてもらいたかったのと、ライヴでは太陽が出る前の明け方の混沌とした状態のなかで宇宙の広がりを見せようと思ってましたけど、今回はレコードですから、最初からドーン・コーラスと"トリスタンとイゾルデ"をみなさんに聴いて聴いていただいてもいいんじゃないかと。"トリスタンとイゾルデ"は、すでに1986年のニューヨークでの「自由の女神100年祭」でハドソン川で演奏しているんです。ワーグナーは、それほど宇宙のことは知らなかったと思うんだけど、聴くと宇宙そのものと言いますか、やはり愛は宇宙なのかと、そのことを僕はすごく感じていたんです。あの曲には、いくつものいくつもの星雲を乗り越えていくようなイメージがありますからね。