「KING」と一致するもの

Yoshino Yoshikawa - ele-king

 これまで〈Maltine Records〉や〈ZOOM LENS〉といったネット・レーベルから作品を発表、近年は海外へも活動範囲を広げ、昨年は ONJUICY とのコラボ曲“RPG”も話題になった Yoshino Yoshikawa がついに、ファースト・フル・アルバムをリリースする。しかもなんと、活動10年目にして初のフィジカル作品だそう。彼の提唱する「Ultrapop」なるスタイルを凝縮した集大成的なアルバムになっているとのことで、ベース・ミュージック由来の低音とキュートさが同居した、楽しいアルバムに仕上がっているようだ(件の“RPG”も収録)。発売は8月21日、楽しみに待っていよう。

Yoshino Yoshikawa
2019.08.21 1st full album!!
Ultrapop
活動10年目にして初のフィジカル・リリース! “Ultrapop” の名を冠した1stフル・アルバム!

Yoshino Yoshikawa、活動10年目にして自身初となるフィジカル・リリース『ULTRAPOP』。
兼ねてから標榜している、ジャンルやスタイルをひとつの質感に統一する方法論から生まれた“Ultrapop”。
今作では、アウトサイダーという立場から“Ultrapop”を用い、ダンス・ミュージック、ヒップホップ、エレクトロニック・ミュージック、フュージョン、ジャズ、ビデオ・ゲーム・ミュージック等、多彩なジャンルを Yoshino Yoshikawa という強い個性で編み込んでいる。
旧知の仲である AZUMA HITOMI、野兎、LLLL をはじめ、グライムMCの ONJUICY、鍵盤ハーモニカ奏者兼プロデューサーとして活躍する ゆnovation が参加し、これまでの活動の軌跡が垣間見える集大成的な作品に仕上がっている。
確かなスキルに裏打ちされた繊細なサウンドとグルーヴ、未来を諦めないという希望と日々の祈りから生まれた『ULTRAPOP』を、Yoshino Yoshikawa と共に楽しんで頂きたい。

Yoshino Yoshikawa
Ultrapop

not records
NOT0024
¥2,000円 (tax out)
CD1枚組/ジュエルケース仕様/全14曲収録

Amazon / Tower / HMV

01. Popcorn Stand
02. Spiral Tone
03. Yokaze (with 野兎)
04. Night Ride (with LLLL)
05. Entertainer 2019
06. Cycling
07. Taking Shelter (with ゆnovation)
08. Don't Leave Me (with 野兎)
09. Rain
10. Strange Dream
11. Toro Nagashi
12. Get Me Out (with AZUMA HITOMI)
13. RPG (with ONJUICY)
14. Yumetatsu Glider 2019

■ Yoshino Yoshikawa

東京在住のプロデューサー。
Ultrapop を提唱し、ダンス・ミュージックからポピュラー・ミュージック、アニメやゲーム・ミュージックまで幅広い領域をカバーした楽曲をソフトウエアと共にシンセ駆使しフラットな電子音楽的質感に落とし込む作風は国内外に根強いファンを持っている。
これまで東京の〈Maltine Records〉やLAを拠点とする〈ZOOM LENS〉といったレーベルから複数のEP、LPをデジタルリリース。
これまでに、FPM、東京女子流、南波志帆などのアーティストに Remix を提供する一方で、音楽ゲーム「maimai」シリーズや、アニメ「きんいろモザイク」のキャラクターソング提供なども行った。
2017年には初となる海外ライブを韓国 Cakeshop で敢行し、盛況のうちに終了。
英字新聞 The Japan Times や OWSLA 主催のメディア“NEST HQ”にも記事が掲載される等、海外にも活動範囲を広げている。

interview with Francesco Tristano - ele-king

日本はジャズの流れているカフェが多い。ヨーロッパでそんなところはもう存在しない。僕は子どものころ、ジャズ・ミュージシャンになりたかった。東京にいると、当時の思いがふたたび感じられる。東京はジャジーな街だ。

 街を歩くのが好きだ。安物の発泡酒を片手に、目的地もなく、ひとりで、ふらふらと都内をうろつくのが大好きだ。新宿、四谷、市ヶ谷、飯田橋あたりは殿堂入りである。秋葉原も良い。神田~大手町~有楽町も趣のあるラインだが、その先の銀座はとりわけすばらしい。昼間でもじゅうぶん魅力的だけど、夜はなお格別で、見上げ続けていると首が痛くなってくる高層ビルの群れ、きらびやかなネオン、せわしなく行き交う年収の高そうな労働者たち──それらを眺めながらとぼとぼ歩いていると、なんというか、生きている実感が沸いてくる。どこまでも明るく残酷なバビロンの風景は、「ここにいる連中と気が合うことは一生、絶対にないんだろうな」と、自分がどういう場所に生き、どういう角度から世界を眺めているのかを、明確に思い出させてくれる。そしてそれは、どこまでも個的な体験だ。

 リュクサンブール出身、現在はバルセロナを拠点に活動しているピアニスト、フランチェスコ・トリスターノの新作は、『東京ストーリーズ』というタイトルどおり、東京がテーマになっている。
 トリスターノといえば“Strings Of Life”のカヴァーで名を馳せ、デリック・メイとはじっさいにコラボも果たし、カール・クレイグの作品にも参加するなど、まずはデトロイト勢との交流が思い浮かぶ。かの地のテクノを吸収することで獲得されたであろうグルーヴ感は、ピアノが前面に押し出されたこの新作においても、たとえば冒頭の“Hotel Meguro”や“Insomnia”、ヒロシ・ワタナベを迎えた“Bokeh Tomorrow”などのトラックによく表れ出ているし、あるいは“Neon City”や“The Third Bridge At Nakameguro”といった曲のビート感はヒップホップとして享受することも可能だろう。他方で彼は一昨年、アルヴァ・ノト、フェネス、坂本龍一とともにグールド生誕85周年を機にセッションをおこなうなど、ダンスとはまたべつの角度からもエレクトロニック・ミュージックの文脈に切り込んでおり、着々とモダン・クラシカルの重鎮への道を歩み進んでいるように見える。
 そんなトリスターノが東京をテーマにしたアルバムをつくったと知ったとき、最初に気になったのはやはりその切り口だった。日本との接点も多い彼は、いったいどのような観点から東京を眺めているのか?
 今回の新作がおもしろいのはまず、最終曲“Kusakabe-san”の琴を除いて、表面的なオリエンタリズムをいっさい排している点だろう。「僕は日本人じゃないから、日本らしいものをつくる意味がない」と彼は言う。「日本人のミュージシャンがバルセロナに来て、バルセロナについてのアルバムをつくろうとして、カタルーニャの民族音楽みたいなサウンドのアルバムをつくるようなものだよ。それはあまりおもしろい作品とは言えない」。とはいえ、ご機嫌な3拍子“Electric Mirror”初っぱなの声優的な声のサンプルに代表されるように、アルバムには随所に日本語の音声が挿入されていて、ほらやっぱりエキゾティシズムじゃんと目くじらを立てることも可能なわけだけど、他方でスペイン語も聞こえてくるから、むしろそれらは彼自身の内的な何かを表現するものだと考えたほうがいい。「たいせつなのは何かパーソナルなものを持ち込むことだ」と彼は続ける。『東京ストーリーズ』は、ひとりの人間のどこまでも個的な──すなわち誰とも絶対に共有不可能な、でもだからこそ逆説的にもしかしたら共有できるかもしれない──記憶の風景を浮かび上がらせる。それはいったいどのようなものだったのだろう?


日本人のミュージシャンがバルセロナに来て、バルセロナについてのアルバムをつくろうとして、カタルーニャの民族音楽みたいなサウンドのアルバムをつくるようなものだよ。それはあまりおもしろい作品とは言えない。

目黒や新宿など東京の都市が曲名になっていますが、東京をテーマにしてアルバムをつくろうと思ったのはなぜですか?

フランチェスコ・トリスターノ(Francesco Tristano、以下FT):僕が初めて日本に行ったのは2001年だから18年前だった。それから少し間があって、2009年からは定期的に日本に行っていまに至る。初めて東京に行ったときも、東京という街にすごく感心したけれど、街が巨大すぎてクレイジーすぎて掴みづらい感じがした。だから、東京にハマるまで時間がかかったよ。東京に40回くらい訪れてからは、東京の友人や、行きつけの場所や飲食店などができてきた。ある意味、東京でレコーディングする時期を待っていたんだと思う。僕は6年前に京都でアルバムをレコーディングしているんだ。良い経験になったし、良い準備運動になった。けれど今回の東京をテーマにしたアルバムはとても特別なものになるとわかっていた。

曲名になっている赤坂や銀座などはどちらかといえば高級感のあるエリアですが、とくにそういう側面は意識しなかった?

FT:いや、これは僕の個人的な体験がもとになっている。たとえば銀座はたしかに高級感のあるエリアだけど、その一面は僕には関係ないことで、銀座にはヤマハがあったから、僕はピアノの練習のために銀座に行っていた。赤坂から自転車で銀座に行き、ピアノの練習をする。だから“Ginza Reprise”はピアノの練習曲みたいな曲なんだ。アルペジオがあったり、同じフレーズの繰り返しだったりする。銀座は僕の練習スペースだから。赤坂についての曲は……同じ場所に何度も滞在していると、そこが自分のホームのような感じになってくるよね? 赤坂には僕が滞在しているホテルがあって、とても落ち着いた感じのホテルで宣伝もされていない、変わったホテルなんだ。東京のホテルにしては珍しく部屋にバルコニーがついているから、おそらく、以前は居住用のマンションだったのだと思う。そこが偶然、僕の拠点になったんだ。じつはデリック・メイがそのホテルのことを教えてくれたんだよ! 10年くらい前に彼から教わって、それ以来、毎回そこに滞在している。だから赤坂は僕にとって、朝起きて、バルコニーのドアを開けて、外の音、車の音や、人の音、下にいる子どもの声なんかを聞いて、下に降りていき、そこでコーヒーを飲むところなんだ。つまり朝のルーティンだね。“Akasaka Interlude”という曲だけど、日本盤にはその「リズミック版」のボーナストラックが入っている。
 いま話したふたつ、銀座と赤坂は僕にとってのルーティンを表している曲なんだ。僕が東京にいるときに毎日おこなっていること。

ユザーン、ヒロシ・ワタナベ、渋谷慶一郎と、日本のゲストが多く参加していますが、東京についてのアルバムだから日本の人を使おうという前提があったのでしょうか?

FT:もちろんだよ。東京でレコーディングをするとなれば、日本人のミュージシャンの友だちにぜひ参加してもらおうと思っていた。ヒロシさんとはかなり前から友だちで、ヨーロッパでも何度か共演してきたし、彼にリミックスをしてもらったこともある。何年か前に彼と一緒に曲をつくりはじめたけれど、結局完成されなかった。僕が彼のスタジオに行って、一緒に作業して、彼が送ってくれたファイルに、今度は僕がレコーディングを追加してというように、ファイルのやりとりをしていたんだけど、「スタジオで生のレコーディングをしよう」と僕から提案した。そのほうがファイルをやりとりしているよりもずっと強烈な体験になるからね。
 ユザーンとは何年かお互いのことを知っていたんだけど、今回のスタジオ・セッション以前に共演したことはなかった。でも彼とは何か一緒にやりたいと思っていた。それが何かは具体的にわからなかったけど……。一緒にライヴをやろうと企画してもいたけど、それも流れてしまった。他にも一緒に何かをやる案があったんだけど、「スタジオ・セッションを一緒にやらないか?」と僕から提案したら彼は快諾してくれた。
 渋谷さんとは最近、1年前くらいに出会って、共通の友人が僕たちを紹介してくれた。東京は巨大な街だけど、世界は狭いなと思った。なぜなら、僕のジュリアードの同級生のマキヤさんが、渋谷さんと東京で同級生だったから! マキヤさんは、いまでもニューヨークに住んでいてヤマハで働いているよ。多くの人と出会えば出会うほど、世界を狭く感じるのは当たり前かもしれないけれど、 さまざまな人たちと一緒に音楽を演奏していくと、僕たちはみんなファミリーの一員なんだって気づくんだ。

エレクトロニクスと生楽器とを共存させるときに注意していることはなんでしょう?

FT:エレクトロニックの楽器を使うときは、アコースティックの楽器と同じように扱うようにしていたね。少なくとも今回のアルバムにおいては。シーケンスされている部分も少しはあるけれど、リズムやベースの部分を含む、エレクトロニクスの多くは生演奏している。エレクトロニクスの楽器をそのままの音として聴こえるように、エレクトロニックの楽器を直接的な方法で使いたかった。あまりプロダクションが過度にされていないようにしたかった。もちろんマスタリングやミキシングはおこなったけど、パソコンからトラックが1ヶ月間流れていて、それに合わせてミックスをするというわけではなかった。テイクやトラックを毎回録音して、それをミックスするというやり方だった。シンセサイザーに直接音を出させて、僕がそれを演奏して録音するという感じだった。僕以外にも、ヒロシさんやグティ、渋谷さんもシンセサイザーで参加してくれたけどね。

3曲目“Electric Mirror”はリズムが楽しく、疾走感があり、ユーモラスな曲ですが、これには何か参照元はあったのでしょうか?

FT:アルバムの曲の多くは日本で作曲したんだけど、これは東京で作曲しなかった数少ない曲だ。ジャン=フィルップ・ラモーのバロック・オペラ「カストールとポリュックス」がもとになっている。1800年代初期の作品で(註:正しくは1700年代)、僕はこのベースラインとその他の要素をいくつか拾って、エレクトロニックな楽器用に書き直した。作曲しているうちに、ある種の対話のようになっていったから「ミラー」というタイトルにした。鏡で自分の姿を見ると、そこには少し違う感じの自分が見える。この曲もバロック・オペラを使っているけれど、音は歪んでいるし、エレクトリックな響きがある。秋葉原や原宿で見られるクレイジーな日本の若者文化のイメージなんだ。表現力が豊かというのか、曲の最初の部分で、お店で何かを売っているような女の子の声が聞こえるだろう? 曲には、異文化間のアイデンティティが存在しているよね。秋葉原では自分たちの趣味に没頭して遊ぶ若者たちがいる一方で、他の国でも似たような美意識を持つ人たちが存在している。そんなイメージなんだ。ライナーノーツには「Impossible is nothing (=Nothing is impossibleを鏡で写した感じ)」って書いたと思うけど、バロック・オペラを原宿風に演奏することだってできるという意味なんだ。

6曲目“Lazaro”や8曲目“Insomnia”などには、ニューエイジ~アンビエント的なシンセが入っていますが、ふだんそういった音楽は聴くのでしょうか?

FT:あまり聴かないな。“Lazaro”で聞こえるのはアナログ・シンセサイザーだから、それがそういうふうに聴こえたのかもしれないね。“Insomnia”のアイディアは、シンセサイザーを特定な響きを持つ楽器として使っただけで、ニューエイジ的な感じを出そうと思ったわけではないよ。“Lazaro”では単純にシンセサイザーにとても柔らかい音の出るアナログパッドを使ってピアノのメロディの伴奏をしていたんだ。“Insomnia”のつくりはもう少し複雑で、グティがシーケンスしたシンセサイザーのパーツを持ち込んできたから、より複雑なサウンド・デザインが聴ける。“Insomnia”で僕が気に入っているところは弦楽器のピッツィカートな音だ。これは僕が子どものころから好きな音だった。オーケストラでもこういう音を書くことができるけれど、今回はそれをシンセサイザーのために書いた。するとより直接的で差し迫った感じの音になる。

僕が東京の街を楽しみはじめたのは地下鉄を使うことを止めてからだった。自転車だけで移動するようになったんだ。街を本当に知りたいなら、自転車を使うほうが良い。

9曲目“Cafe Shinjuku”にはクラリネット奏者のミシェル・ポルタルが参加しています。彼はどのような経緯で参加することに?

FT:ミシェル・ポルタルも健在するアーティストのなかの偉人のひとりだ。僕は彼の音楽を聴いて育ったから、彼の音楽は昔から聴いている。 彼と共演できたことも、やはりこのうえなく光栄なことだった。僕たちは4年くらい前に共演をして、その一度限りの共演からは何も発展しなかったのだけれど、僕が作った曲で、彼にぜひ演奏してもらいたい曲があったから、彼にスタジオに来てくれるようにお願いした。そこで“Cafe Shinjuku”をレコーディングしたんだ。
 僕には新宿での記憶が明確にあるから、彼に曲がどのようなものなのかを説明した。僕は新宿のカフェに座って人を待っていた。外は雨がひどくて、だからその人は遅れていた。僕はコーヒーを何杯もお代わりしながらカフェのラジオを聴いていた。日本はご存じのとおり、ジャズが流れているカフェが多い。ヨーロッパでそんなところはもう存在しないから、それはとてもクールなことだと思う。ヨーロッパではどこに行っても、ジャズがかかっているところなんてもうない。とくにカフェなんかではメインストリームのラジオしかかかっていなくて、ジャズはいっさいかかっていない。僕は子どものころ、ジャズ・ミュージシャンになりたかったんだ。即興で演奏して、自由に弾くジャズ・ミュージシャンになるのが夢だった。そういう思いを僕はずっと抱いてきた。 東京にいると、当時の思いがふたたび感じられる。東京はジャジーな街でもある。ラジオでかかっているところも多いし、少し高級感のあるジャズ・クラブもある。ジャズの街である東京にオマージュを捧げたいと思った。だからミシェルにバスクラリネットを吹いてもらいたかった。これはアルバムのなかでもとくにお気に入りの曲なんだ。

今回のアルバムでもっともフロアでかかってほしい曲はどれですか?

FT:アルバムはダンスフロア向けではないけれど、いまアルバムの曲のリミックスをしているところで、自分がリミックスしたものもいくつかある。ダンスフロアで、あるいはリミックスとしてもっとも可能性のあるのは“Insomnia”、“Bokeh Tomorrow”、“Nogizaka”の3曲だ。“Nogizaka”の原曲ヴァージョンは遊び心がいっぱいでピアノっぽいけれど、僕が作ったリミックスは観客の反応も良いし、みんな踊ってくれるからいちばんフロア向けなのは“Nogizaka”だと思う。

逆に、もっともコンサート・ホールで聴いてもらいたい曲はどれですか?

FT:“Yoyogi Reset”か“Lazaro”だと思うな。とても親密な曲だし、僕の個人的な経験がもとになっているし、とても繊細なところに触れているから。“Yoyogi Reset”は僕が日本でブレイクダウンを体験したときの曲だ。僕が東京の街を楽しみはじめたのは地下鉄を使うことを止めてからだった。自転車だけで移動するようになったんだ。それは6年くらい前の話だけど、街を本当に知りたいなら、自転車を使うほうが良いと思った。僕は自転車が大好きで、どこの街でも、どこに行くときにも自転車を使う。最初は東京で自転車に乗るのは難しくて危険だと思ったけれど、勇気を持って乗ってみたら、東京をまったく違った形で楽しめるようになった。代々木公園は、僕の拠点からあまり遠くないところにあったから、代々木公園まで自転車で行ったり、そこでジョギングしたりしていた。僕は毎日ジョギングをしていて、東京では代々木公園で走っていた。でもこの曲はジョギングについてではなくて、2年前、僕の妻の父親が亡くなったときの曲だ。そのとき、僕はちょうど日本行きのフライトに乗っていたから、この体験は日本と深く関わりのある出来事になった。フランクフルトで乗り継ぎをしていたときに電話がかかってきて、「父親が亡くなりそうだから戻ってきて」と妻に言われた。だから僕は妻のもとに戻り、翌日は義父の葬儀でピアノを演奏した。バッハの曲を弾いたよ。東京に行くスケジュールを立て直し、2日後に日本へ向かった。その当日に演奏をしなければいけなくて大変だったよ。夕方5時に到着して、その日の8時にはもうステージにいなければいけなかった。シャワーを浴びる時間もじゅうぶんになかったくらいだ。その後も公演が続き、僕が葬儀で弾いた曲も含まれていたから、僕にとってはとても辛い体験だった。そのツアーは非常に大変なツアーだった。東京での僕の体験は、楽しいことや、愛情を感じていることや、美味しい食べ物を食べることばかりではない。孤独を感じたり、家族や故郷と離れていることから、物事をしっかりと受け止められない辛さを感じたりすることもあった。だからこのときに代々木に行ったのは、呼吸をするため、マインドをリセットするためだった。だからこの曲がいちばんパーソナルな曲だね。

バロック音楽には現代の音楽と共通するものがある。すべてはベースの音が基本になっているだろう? テクノの曲からキックドラムとベースラインを取ったら、もうあまり何も残っていない。要となっているのはベースだ。

今回のアルバムは東京をテーマにしつつも、いわゆる「和」の要素やエキゾティシズムに頼った部分はほとんどないですよね。

FT:そうだね、偉大な監督、小津安二郎の言葉に次のようなものがある。「I'm Japanese so I make Japanese things (俺は日本人だから日本らしいものをつくる)」。僕だったらこう答える。「僕は日本人じゃないから、日本らしいものをつくる意味がない」。 東京が僕に与えてくれたものや、東京で出会った人たちのおかげで、僕は東京が大好きだ。でも僕が日本人になることはけっしてないし、いつか東京に住む機会があるかもしれないけれど、ずっと日本に暮らしているわけでもない。今回のアルバムは僕の、謙虚な気持ちからの、とてもパーソナルな体験がもとになってつくられたものだ。だから日本っぽい音にしようとか、江戸の感じを真似したりするようなことはいっさいしなかった。今回のアルバムでは、フィールド・レコーディングもたくさんしたし、琴の音が入っている曲もアルバムの最後の方にある。あれは、たんに琴の音が好きだからというエピソードとして入れたんだ。とにかく日本らしいサウンドのアルバムをつくろうとはしなかったよ。それは間違っていると思う。それはまるで日本人のミュージシャンがバルセロナに来て、バルセロナについてのアルバムをつくろうとして、カタルーニャの民族音楽みたいなサウンドのアルバムをつくるようなものだよ。それはあまりおもしろい作品とは言えない。やはりたいせつなのは何かパーソナルなものを持ち込むことだと思う。だからこのアルバムは、東京での僕の個人的な体験や、街から受けたパーソナルなインスピレイションがもとになってつくられた。

今回のアルバムを「日本」や「東京」、「寿司」などの単語を使わずに言い表すとしたら?

FT:「ラーメン」はどうかな(笑)? 今回のアルバムにはラーメンについての曲はなかったね。こういう質問には、「その空間にあるピアノ(Piano in space)」と答えることが多い。これはピアノ・アルバムで、ピアノの音がアルバムの曲すべてから聴こえる。そこにエレクトロニック機材がオーケストラのように伴奏してくれている。〈ソニー〉からリリースされた僕の前の作品『Circle Songs』は100%ピアノ・ソロだったけれど、今回のアイディアとしては純粋なピアノ・ソロの音から、フル・オーケストラによる、エレクトロニックなサウンドに移行するというものだった。

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バッハは楽器に強いこだわりがない人だった。彼が作曲する音楽の言語は絶対的だった。彼は楽器という表現方法をもとにしていない。だからバッハは技術の進歩には興味を示すと思う。シンセサイザーにも興味を示していたと思うよ。

クラシカルは歴史が長い分、バロックや古典派、ロマン派、印象主義などさまざまなスタイルがありますが、そのなかでもとくに影響を受けたのはなんでしょう? バッハはよく取り上げていますし、あなたの大きなルーツのひとつだと思いますが、できればそれ以外で。

FT:僕はバッハを毎日聴くし、バッハを毎日聴いて育ってきたからバロックが第一のインスピレイションになっているね。でももうひとつの理由として、バロック音楽には現代の音楽と共通するものがあると思うからなんだ。とても遊び心があって非常にリズミカル。テクノやエレクトロニック・ミュージックと同じようにベースがとても重要で。すべてはベースの音が基本になっているだろう? テクノの曲からキックドラムとベースラインを取ったら、もうあまり何も残っていない。リズムの要素が少し残っているかもしれないけれど、やはり要となっているのはベースだ。だからバロック音楽には間違いなく強い影響を受けているね。

ピアノはいまでこそ古典的な楽器とみなされていますけれど、発明された当時の人びとにとってはとてもハイファイでデジタルな音に聞こえたのではないか、それこそ今日におけるシンセサイザーのように聞こえたのではないかと想像しているのですが、この考えについてピアニストとしてはどう思いますか? たしかバッハはピアノ曲をひとつも書いていませんよね。

FT:ピアノは非常に複雑な楽器だ。どう言えばいいのかな……。ピアノは未来から来た楽器だと当初から考えられていた。とても複雑で巨大で、出る音も大きかったから、作曲家はどうやってピアノを扱っていいのかわからなかった。バッハが弾いてみたピアノはおそらく最高級のものではなかったと思うんだけど、彼はピアノを好まなかった。そのときバッハはかなり高齢だったということもある。正直な話、バッハは楽器に強いこだわりがない人だった。キイボード楽器向けのバッハの音楽でも、ヴァイオリン向けのバッハの音楽でもまったく同じに見えるよ。彼が作曲する音楽の言語は絶対的だった。楽器という表現方法をもとにしていない。だからバッハは技術の進歩には興味を示すと思うよ。当時もそうだった。当時もっとも技術的に進歩していたのはオルガンだった。教会がすばらしいオルガンを所有していた。それはきわめて優れた技術を持つ楽器だった。バッハはオルガンに強い興味を持っていた。オルガンの技術に強い関心を持っていたから、彼は現代の考えに近い考えを持っていたと思う。シンセサイザーにも興味を示していたと思うよ。

あなたは2011年のアルバム『BachCage』でバッハとケイジを同時に取り上げていましたけれど、その2組を一緒に取り上げようと思ったのはなぜ?

FT:このふたりは対話しているんだ。互いに対してね。彼らは数多くの点でつながっている。ふたりの作曲家の対話というか、卓球のラリーのようなプレイリストをつくって、このふたりをつなげる要素を探していた。たとえば、各作曲家の作品に共通するメロディや、ある特定の音やリズムの参考になるような音の要素。僕が先ほど話したバッハについての内容は、バロック音楽全般に当てはまることだ。現代の音楽との共通点が非常に多い。だからケイジの音楽や自分の音楽と、バロック音楽のあいだに共通点を見つけることは僕にとって容易なことなんだ。

ケイジだと“4分33秒”に注目が集まりがちですが、彼はピアノ曲や数々の電子音響の実験も残しています。あなたにとってケイジのベストな作品は?

FT:そうだな……ケイジが何を作曲したということよりも、彼が作曲したということ自体が重要なことだと思う。彼のヴィジョンは、緊迫性や現代的という意味では、他の作曲家のヴィジョンよりはるかに先を行っている。ジョン・ケイジ前とジョン・ケイジ後がある。彼はすばらしい音楽をたくさんつくったけれど、重要なのは、彼の作品の底には非常に強力な概念的な基盤があったということなんだ。そのせいで音楽の影が薄れてしまった。彼は自分でも言っているけれど、ジョン・ケイジ後は著作者という概念が消えてしまった。ジョン・ケイジの登場により、作曲家という概念が消滅した。僕たちは、作曲家であれ演奏者であれ一般の観客であれ、みな同じ体験の一部である。同じ体験の一部であり、体験を共有している。作曲家が独裁的権力を持ち、演奏者は作曲家の忠実なメッセージを観客に伝えなくてはいけなくて、それを聴く観客も静かに従うべき、という構造/ヒエラルキーはもう存在しない。それがケイジの思想だ。ケイジ以降、僕たちは音楽をまったく新しい思想として捉えている。だから彼は20世紀における超重要人物だったと思う。彼のベストな作品にかんしては、僕はケイジの作品で大好きなものがいくつもあるけど、“In A Landscape”というピアノ曲はとても美しい作品だと思う(*『AMBIENT definitive』をお持ちの方は22頁を参照)。

バッハとケイジの作品で、ピアノで録音されたもののなかでは、それぞれどの演奏家によるものがおすすめですか? 前者はできればグールド以外で。

FT:僕はグールド以外のバッハ演奏家をあまり知らないから、おすすめするとしたらやはりグールドだな。それ以外だと誰がおすすめできるかな……坂本龍一も僕が好きなバッハを弾いていたかもしれない。でも、彼はむしろキュレイター的なことをしているのかも。ケイジにかんしては、ケイジ専門の演奏家という人がいないから答えるのは難しい。それにケイジはピアノ作曲家として有名なわけではないからね。でも、ひとりだけケイジのピアノ音楽をよく演奏していた人がいた。ケイジを聴くには、スティーヴン・ドゥルーリーという人がおすすめで(*『AMBIENT definitive』をお持ちの方は22頁を参照)、バッハを聴くならやはりグールドをおすすめするね。

昨年は『Glenn Gould Gathering』でアルヴァ・ノト、フェネス、坂本龍一と共演していますが、それ以前から彼らの音楽は聴いていましたか? それぞれどのような印象を持っています?

FT:現代に健在するアーティストたちのなかでもっとも偉大な3人だと思う。坂本龍一と共演することになったと聞いたときは、信じられなかったよ。僕にとっての3大インスピレイションのひとつに入るからね。だから彼と、アルヴァ・ノト、フェネスと共演できたということはほんとうにすばらしい体験だった。もちろん以前から彼らの音楽はよく知っていたよ。何年も前から彼らの音楽を聴いてきたから。だからこの共演は僕にとってとてもたいせつで、共演した1週間の期間は充実した時間を過ごすことができた。それも、もうひとつの「東京ストーリー」になるよね。あの3人と一緒に東京で1週間を過ごした。そのとき、彼らには強い影響を受けたよ。

デトロイト・テクノは都会の悲しみをもっともうまく捉えた音楽だと思う。僕たちは本来の故郷である地球や自然界とはまったく切断された世界に暮らしている。僕たちが見るもの、触るもの、つくるものはすべて僕たち自身が発明したものだ。デトロイト・テクノはその悲しみをいちばん上手に表現している。

2016年の『Surface Tension』はデリック・メイをゲストに迎え、彼の〈Transmat〉からリリースされました。彼とはいつ、どのような経緯で?

FT:デリックとは10年くらい前に出会った。カール・クレイグがデリックのことを紹介してくれたんだ。僕たちは車でデトロイトの街を走っていて、一緒に時間を過ごしていた。互いにいろいろなアイディアが浮かんで、一緒に音楽をつくろうという話になっていた。初めて彼と一緒に仕事をしたのはオーケストラのプロジェクトだった。5年くらい前にベルギーでやった公演だったけれど、とても良い出来で、デリックとは結局、オーケストラ公演をその後もデトロイトやパリなどでもやることになった。彼と共演した後、僕は毎回こう言っていたんだ。「デリック、今度一緒にスタジオに入って制作しようよ」って。デリックは「うーん、どうかな。音楽のレコーディングはもう何年もやっていないから、わからないな」と言っていたから僕は、「じゃあ、こうしよう。スタジオに来てくれさえすれば、僕が適当に録音しておくから、何か良いものができたら、そのときにまた考えよう」と伝えた。そうやって彼を僕のスタジオに呼んだ。そしてスタジオで僕は、彼が演奏したものをすべて録音したんだ。彼が僕のスタジオに入るなり、録音ボタンを押してずっと録音していた。僕たちはアルバムを1枚リリースしたけれど、まだまだ音源はたくさんあるから、その音源だけであと2枚はアルバムがつくれるよ。現時点では、あの8曲がリリースされるのにふさわしい音だと思うから、残りの音源は保留にしているけれどね。

デトロイト・テクノが成し遂げた最大の功績はなんだと思いますか?

FT:個人的に思うのは、デトロイト・テクノは、人類の都会の悲しみをもっともうまく捉えた音楽だと思う。あなたも東京に住んでいるからわかると思うけれど、僕たちは都会という、僕たちの本来の故郷である地球や自然界とはまったく切断されてしまった世界に暮らしている。僕たちが見るもの、触るもの、つくるものはすべて僕たち自身が発明したものだ。僕たちは、自然の要素というものに触れてはいないんだよ。水道から流れる水道水を自然のものと捉えるならべつだけど、たとえば手を洗って石鹸を使うときも、なんらかの化学物質が入っているし、手を拭くときにタオルを使うけれど、そのタオルも、綿を織ったり、工場で染められたりという技術が使われている。そういった、自然界の要素から切断されているという状態。僕だって建築物などのつくられたものは好きだし、モノが嫌いだと言っているわけではない。ただ、僕たち人間がそういうモノに溢れた環境に暮らしていて、自然の要素に触れていないという状態に悲しみを感じるんだ。デトロイト・テクノは、その悲しみをいちばん上手に表現していると思う。僕にとっては、とてもエモーショナルでポエティックな音楽だ。同時にとてもグルーヴィで、他の感情が付随してくるときもあるけど、悲しみを感じられる音楽でもあると思う。

2年前には『Versus』でカール・クレイグともコラボしていますが、近年はジェフ・ミルズがオーケストラとやったり、デトロイト・テクノがクラシック音楽と結びつく例が目立つ印象があります。それ以外でも、ここ10年くらい、クラブ・ミュージック~エレクトロニック・ミュージックとクラシカルが融合するケースが増えてきていますが、そういう動きにかんして「カウンター・カルチャーが正統なハイ・カルチャーの地位にのぼり詰めようと背伸びをしている」、あるいは「ハイ・カルチャーの側がカウンター・カルチャーの良いところをかすめとろうとしている」、そういう側面はあると思いますか?

FT:その両面があると議論できると思うけれど、それはあまり関係ないことだと思う。たいせつなのは、音楽に限界はないということだから。音楽を、ジャンルやスタイルがあるものだと捉える必要はないと思う。なんらかの基準を満たすからこれは○○の音楽だ、という考え方は必要ないと思う。僕は、音楽に限界や辺境というものはないと思っている。だから、オーケストラを使ってエレクトロニック・ミュージックを演奏したいと思うのは自然なことだと思うし、エレクトロニック・ミュージックのアーティストたちがクラシック音楽のミュージシャンを使って自分を表現してみたいと思うのは自然なことだと思う。そういう試みにたいしオープンな姿勢でいることは、さらに豊かな体験ができるということだから。エレクトロニック・ミュージックにもアジェンダがあって、クラシックな音楽ホールで演奏会をやりたいと思うだろうし、その一方でクラシック音楽も観客の層を広げたいと思っているだろう。だからいま挙がったような側面はたしかに正論として存在すると思うけれど、僕個人の意見としてはとくに気にしていないな。

いま注目している若手のテクノ・アーティストはいますか?

FT:もちろん! 最近は才能あるプロデューサーが大勢活動している。ほんとうにたくさんの作品がリリースされているから、僕はそのすべてをフォロウすることはできないし、すべてを知るなんてことは不可能だけど、たとえば日本だけでもシーンは盛り上がっているし、すばらしい音楽をつくっている人たちがいる。メインストリームな音楽や、ダンス・ミュージックでいまいちばんホットなものを知りたいのであれば、僕はそこまで知らないけれど、ライヴ・セットで最近いちばん気に入っているのは、ブラント・ブラウアー・フリック。最近新しいアルバムが出たんだ。『Echo』というタイトルで先週リリースされたばかりだ。すごくおすすめだよ! 彼らも東京が大好きなんだ。

ふだんテクノやエレクトロニック・ミュージックを聴いている人におすすめの、最近のクラシカルの音楽家を教えてください。

FT:僕がおすすめするのは、僕のメンターであるブルース・ブルベイカー。ピアニストであり、偉大な人でもある。すばらしいアルバムを何枚か出しているよ。フィリップ・グラスのようなアメリカのミニマル・ミュージックに傾倒しているけれど、僕がいちばん好きなのは『Codex』というアルバムで、2年前にリリースされた作品。『BachCage』同様、とても昔の音楽と、アメリカのミニマリスト作曲家のテリー・ライリーの作品とを行き来しているんだ。すごくクールだよ。


栗原康 × 白石嘉治 - ele-king

 お知らせです。おかげさまで好評をいただいている『ele-king臨時増刊号 黄色いベスト運動──エリート支配に立ち向かう普通の人びと』の刊行記念イベントが、7月21日(日)武蔵野プレイスにて開催されます。同書に参加し、昨年の『文明の恐怖に直面したら読む本』も記憶に新しい栗原康と白石嘉治のふたりが、ジレ・ジョーヌについて、刊行後の動向も含めてぞんぶんに語り合います。主催は、『黄色いベスト運動』号に翻訳記事を提供してくれた、ル・モンド・ディプロマティーク日本語版の会。ちなみに代表理事を務める村松恭平は、まもなく刊行されるヴァルファキス『わたしたちを救う経済学』の翻訳にも参加しています。当日は懇親会もありますので、お時間ある方はぜひ!

ディプロ出版記念シンポジウム
フランスの民衆蜂起「黄色いベスト」運動を問う

~エレキング臨時増刊号『黄色いベスト運動~エリートに立ち向かう普通の人びと』の出版を記念して~

対談:白石嘉治氏(仏文学者) vs 栗原康氏(アナーキズム研究者)

 昨年末、燃料税の値上げに反対してフランスで始まった「黄色いベスト」運動はマクロン大統領に象徴されるエリート支配に立ち向かう“民衆蜂起”として今もなお続いている。組合や政党が主導したかつての社会運動と違い、地方在住のおじさんやおばさんが自然発生的に立ち上がったこの運動は、左右のイデオロギー対立を超えたアナーキーな運動として、パリ・コミューンや五月革命とともに歴史にその名を刻むことになるだろう。

 その実情を伝えるエレキング臨時増刊号『黄色いベスト運動』(Pヴァイン、今年3月発売)の出版を記念し、同誌で対談している仏文学者の白石嘉治さん(『ネオリベ現代生活批判序説』新評論など)とアナーキズム研究者の栗原康さん(『何ものにも縛られないための政治学~権力の脱構成』角川書店など)をお招きし、「黄色いベスト」運動の意義とアナーキズムの現在について考える。

※参考図書:白石嘉治・栗原康共著『文明の恐怖に直面したら読む本』(Pヴァイン発行)

■日時:7月21日(日)午後2時半~4時半
■場所:武蔵野プレイス3階 スペースC
 東京都武蔵野市境南町2-3-18(JR中央線武蔵境駅南口)
■資料代:一般800円、会員・学生500円(学生の方は学生証をお持ちください)
■定員:40名(先着)
■主催:ル・モンド・ディプロマティーク日本語版の会

https://www.diplo.jp

※シンポジウム終了後、近くの居酒屋で懇親会を開催します。講師を囲んで和気あいあいと懇談したいと思います。参加費は3000円程度の予定です。
※申し込みとお問い合わせは日本語版の会まで(diplojapon@gmail.com 携帯080-4451-1954)

SCARS - ele-king

 先日、入手困難だったファースト・アルバムがリイシューされ、話題沸騰中の日本を代表するヒップホップ・グループ SCARS。こたびの完全復活にあわせなんと、オフィシャルTシャツの発売が決定した。本日7月5日より販売受付がスタート。SからXXLまで、各サイズしっかり取り揃えられているのが嬉しい。完全限定生産とのことなので、締め切られてしまう前に急げ!

A-THUG を筆頭に SEEDA、STICKY、BES、bay4k らが名を連ねる日本語ラップ・シーン最重要グループ、SCARSのオフィシャルTシャツが完全限定で発売!

 A-THUG を筆頭に SEEDA、STICKY、BES、bay4k らが名を連ねる日本語ラップ・シーン最重要グループ、SCARS! 奇跡の復活を果たし、またファースト・アルバム『THE ALBUM』、セカンド・アルバム『NEXT EPISODE』のリイシューも実現して再びシーン内で大きな注目を集める中、オフィシャルのTシャツが完全限定で発売!
 その『THE ALBUM』のジャケットでも使用された赤をベースとする SCARS ロゴを用いたデザインで、ボディは GILDAN (6ozウルトラコットン)を使用し、ブラック・グレーの2色、S~XXL サイズが発売。本日7/5(金)正午から下記サイトのみの完全限定生産での発売となります。受注受付期間は7/22(月)正午までを予定しており(※変更になる可能性もあります)、発送は8月上旬頃を予定しております。また期間中にオーダーしていただいた方にはTシャツのデザインでも使われたSCARS ロゴのステッカーが特典としてついてきます。お買い逃しなく!

*SCARS ロゴTシャツ - 販売サイト
https://anywherestore.p-vine.jp/?pid=144029904

アイテム: SCARS ロゴTシャツ
カラー: ブラック / グレー
サイズ: S / M / L / XL / XXL
販売価格: 3,800円(税抜)
受注締切: 2019年7月22日(月)正午
発送予定: 2019年8月上旬

※ご購入のお客様には SCARS ロゴ・ステッカーが特典としてつきます。
※ボディは GILDAN (6ozウルトラコットン)になります。

参考サイズ (単位:cm):
Sサイズ:身幅 46.5 / 身丈 70.5 / 袖丈 17 / 肩幅 44
Mサイズ:身幅 51.5 / 身丈 72 / 袖丈 17.5 / 肩幅 47.5
Lサイズ:身幅 55.5 / 身丈 75.5 / 袖丈 19 / 肩幅 51
XLサイズ:身幅 60.5 / 身丈 79.5 / 袖丈 20 / 肩幅 58
XXLサイズ:身幅 65 / 身丈 81 / 袖丈 21.5 / 肩幅 65

Cabaret Voltaire - ele-king

 リチャード・カーク、クリス・ワトソン、スティーヴン・マリンダーの3人によって結成されたキャバレー・ヴォルテールは、パンクの波が来る前からダダイズムに傾倒し、イーノが標榜した「ノン・ミュージック」を実践するプロジェクトだった。テープループやオシレイターを使って、アブストラクなサウンドコラージュをしていた彼らは、ポストパンク以降のインダストリアル・サウンドを先取りしていたと言えるだろう。
 そんなキャブスの、まさにパンク前夜の貴重な音源『1974-76』、そしてパンク以降に映画のサントラとして制作された『チャンス・ヴァーサス・コーザリティ』の2作が〈ミュート〉よりリイシューされる。前者は、結成初期にバンド自身で録音した音源の中からセレクトされた楽曲集で、1980年にインダストリアル・レコードからカセットでリリースさてあもの。その後1992年に〈ミュート〉からCDで発売され現在は入手困難となっていたが、今回新たにマスタリングされ発売されることとなった。後者は、1979年に同名映画のサントラとして制作された『チャンス・ヴァーサス・コーザリティ』 。これは今回が初のリリースとなる。
 2枚ともに、8月30日(金)にリリースされる。


キャバレー・ヴォルテール
1974-76 (1974-76)

Mute/トラフィック

リマスター作品。1980年にインダストリアル・レコードからカセットで発売され、その後1992年にMute傘下のThe Grey AreaよりCDで再発され現在は廃盤となっていた。本作は、バンド結成初期の音源の中から自身でセレクトされた楽曲集である。それらは全てクリス・ワトソンの自宅屋根裏にあるオープンリールのテープレコーダーで録音されたのだが、その中の数曲が1976年、バンド自身によってカセットテープで限定数リリースされ今となっては伝説のお宝バージョンとなっている。


キャバレー・ヴォルテール
チャンス・ヴァーサス・コーザリティ (Chance Versus Causality)

Mute/トラフィック

初商品化。リマスター作品。1979年、バベット・モンディーニ監督による同名映画のサウンドトラックとして制作された作品。この作品は即興演奏で構成されており、「リズムを減らし、より多重録音を」という当時の一文が残されている。勢いがあり即興的ながら茶目っ気たっぷりで温もりが感じられるこの作品は、この時期におけるキャバレー・ヴォルテールの刺激溢れる瞬間を切り取ったものであり、ヴォーカル・サンプリング等の技法やサウンド全体を通して『Nag, Nag, Nag』と『Voice of America』 のリリースの間を強く結びつけるアルバムとなっている。ジャケットに関しては過去のアーカイブから蔵出しされた素材を使用し、その当時の画像、ライヴ演奏時の写真などを含めそれらをモンタージュ的に配置し、リチャード・H・カークとフィル・フォルステンホルムによってデジタル加工が施されている。

◼︎キャバレー・ヴォルテール
バンド名の由来:1910年代に既成の秩序や常識に対するカウンターとして起こった反芸術運動(ダダイズム)の活動拠点であったスイスのキャバレーの名前にちなんでいる。既存の音楽の解体、再構築という彼らのサウンドと共鳴している。

73年結成。シェフィールド出身。バンド名は1910年代に既成の秩序や常識に対するカウンターとして起こった反芸術運動(ダダイズム)の活動拠点であったスイスのキャバレーの名前に由来する。既存の音楽の解体、再構築という彼らのサウンドと共鳴している。オリジナル・メンバーはリチャード・H・カーク(guitars, keyboards, tapes)、スティーブン・マリンダー(vocals, bass, keyboards)、クリス・ワトソン(81年に脱退/ keyboards, tapes)。79年にデビュー・アルバムをリリースし、15枚のスタジオ・アルバムをリリースしている。82年初来日公演実施。95年以降は活動休止中だが、最も再結成が望まれるバンドのひとつ。現在実に1994年以来のオジリナル・アルバムを制作中である。

www.mute.com
www.facebook.com/CabaretVoltaireOfficial

vol.116 : プライド月間 2019 - ele-king

 NYの夏は野外コンサートが盛りだくさん。先週末はTortoiseが1998年のアルバム『TNT』を通して演奏、その2日前は、テキサスのKhruangbinが雨の中、日本のKikagaku Moyoと一緒にライヴ、そして今週頭はJapanese BreakfastとHatchie、水曜6/26はカナダディで、トロントのAlvvays、カルガリーのthe courtneys、オンタリオのEllis……といった具合だ。

 野外ショーはフリーが多く、がっつりバンドを見たい人は前、雰囲気を楽しんだりまったりしたい人は後ろの方でシートを敷いてピクニックをしている。アルコールは持ち込めないが、スナックや水なは大丈夫。出店の飲み物やフードなどもあり、友だちとハングアウトするには持ってこいである。
 ここ何年かは、プロスペクトパークの野外ショーが気に入ってよく通っていたが、今年はセントラルパークのサマーステージによく来ている。3年前にはUnknown Mortal Orchestraも観たし、良いインディのラインナップが揃っている。
 こういったショーは、寄付をするパトロンで成り立っているので、VIPエリアやメンバーエリアがあるために、私たちは、フロアでぎゅうぎゅうになりながら見るのであるが、ショーがフリーで楽しめるので文句はあまり言えない。
 私が普段行くDIYショーは、若者、クィアが多く、まだまだ少数派だと感じるが、野外ショーはNYという街をここに持ってきたかのように、いろんな種類の人がいる。白人、黒人、アジア人、ラテン系、ユダヤ系、アラブ系など、野外コンサートに来るとあらためて自分はメルティングポットといわれるNYにいる、と感じる。今年は、LGBTと女性が良く目につく。6月はプライド月間ということもあり、マーメイドパレードやイベントがあったり、たくさんの企業がこぞってレインボー旗を掲げている。サマーステージのスポンサーのひとつのキャピタルワン銀行などは、ユニオン・スクエア支店が、レインボー柄になっていたし、他の銀行や企業も自分だけ取り残されたくないというように次々レインボーに染まっている。


 プレイするバンドも女性フロントのバンドが多く、オーディエンスもLGBTに対してとてもオープンに感じる。その背後では、まだまだコンサバな人も多く、この多様性をまとめるのは一筋縄ではいかないのだろうとも感じる。
 今月初めにポルトガルに行ってからというもの、アメリカのエキセントリックさが目に付くようになった。ポルトガルの人はめったなことでは声を上げないが、アメリカの人は小さなものにでもすぐ声を上げる。人種や国の違いと言えばそれまでだし、どちらが良いという問題でもないのだが、NYにいると、NY的にならないと生きていけない。今月最後の日曜日には5番街でLGBTの大きなパレードが行われるそうなので、NYの新たな団結を見れることを願う。


COLD WAR あの歌、2つの心 - ele-king

 「冷戦」とのタイトルだが、これは政治映画ではない。クラシカルな佇まいを持った情熱的な恋愛映画であり、音楽映画だ。陰影に富んだ白黒のイメージ、スタンダードの画面サイズ、ぶつかり合いながらも惹かれ合う運命にある男女……。それらを数々の歌と音楽が情感豊かに彩っていく。90分足らずの時間、観る者はただ陶酔的な心地になるばかりだ。
 いや、政治映画ではないと書いたが、東西対立に翻弄された1950年代のポーランドにあっては当然、愛も音楽も政治からは逃れられない。時代がそれを許さなかった。ただ、だからと言ってこれが「特殊な時代」を舞台にした過去に憧憬するばかりの映画かと言えば……前作『イーダ』と本作で現代ポーランドを代表する映画作家となったパヴェウ・パヴリコフスキは、本作をたんなるクラシックの模倣とせず、どこかで現在と繋ぎとめているように思える。

 映画は農村の民たちが民謡を歌うシークエンスから始まるが、すぐに主人公の音楽家ヴィクトルがどうやら民族音楽を蒐集している人間だとわかる。各地に赴き民謡のフィールド・レコーディングを行い、それを国立民族舞踊団のための音楽としてアレンジするのだ。あるときヴィクトルは団員の選抜で若い女ズーラと出会い、父親を殺したとも噂される彼女のどうにも危うい魅力に惹きつけられる。すぐに激しく愛し合うふたり。やがて舞踊団はソヴィエト指導者の賛歌をプログラムに入れざるを得なくなり、芸術的自由を求めてヴィクトルは西側への亡命を目指す。ともに逃げようと誘ったズーラは約束の場所に現れずヴィクトルはひとりで国を出るが、その後もふたりは場所を変えて何度も出会い直すこととなる――。
 本作における舞踊団はポーランドに実在する民族芸術団である「マゾフシェ」をモデルにしており、国民の公式音楽とも言えるものを当時の国民に提供していたという。その音楽の魅力をパヴリコフスキ監督は5年前に再発見したそうだが、本作において非常に重要な役割を与えている。とりわけ、主題歌に位置づけられるのが民謡「2つの心」である。ヴィクトルはまずその歌を農村の少女が歌っているのを発見し、舞台のための音楽へと発展させる。そしてその後、同じ歌が50年代のパリではしっとりとしたジャズのアレンジで姿を変えて登場することになる。
 どのシーンを切り取っても絵になる本作だが、ハイライトはこの歌の場面だろう。それはヴィクトルとズーラが国を離れ、違った姿で生き延びることを象徴するものだ。西側の音楽に乗せてポーランド語で歌うズーラの周りを、ゆったりとエレガントに動くカメラ。監督は前作『イーダ』との最大の違いが移動撮影にあり、またそれは音楽のためだったと語っているが、ここでの360度パンのような言ってしまえば「わかりやすい」演出は『イーダ』ではあまり見られなかったはずだ。だがそのことが本作にある種の大胆さを与えており、映画的な快楽を高めている。

 ヴィクトルは亡命先のパリでジャズをやるわけだが、ポーランド民謡をそこに混ぜ合わせつつ音楽活動を続けている。海外の音楽を聴いている人間なら誰しも、似たようなことが数えきれないほど起きてきたことを知っているはずだ。つまり、政治的理由で国を逃れた者たちがいつだって音楽をともに越境させ、それまでになかった新しいものとして鳴らし始めることを。そうして故国の音楽は、姿を変えながら生き続けるのである。
 何度も別れたりくっついたりを繰り返す男女の姿は監督の両親からインスパイアされたものだそうだが、彼はその物語をそのままトレースするのではなく、何より音楽を鍵とすることで主題を浮き彫りにしている。政治的困難に人間が晒されたとき、それでも迸る情熱がどうしようもなく国境を越えていくこと、である。だから、1950年代のヨーロッパを舞台にしたこのロマンティックなラヴ・ストーリーは、その古めかしい見た目とは裏腹に、人間の移動が不自由になりつつある現代とたしかに重なっている。いま、愛と音楽は自由を求めてどこまでも移動することが可能だろうか。そのヒントを得たいのであれば、わたしたちはこの美しい映画にただ身を投じるだけでいい。

Kenmochi Hidefumi - ele-king

 けっこう前の話になってしまうが、GW中に木津毅君とbutaji君と代々木公園で開催していた東京レインボープライドで会って、いっしょに水曜日のカンパネラのライヴを見たのだった。コムアイ、人気者だったなぁ。オオルタイチのコズミックなサウンドをフィーチャーしたそのライヴが終わってから、おそらくその場にいたであろうケンモチヒデフミにひと声をかけようと大盛況の会場内を探したのだけれど……人びとのパワーに圧倒され……とても辿り着くことができなかった。どこいるんだ、ケンモチヒデフミ……そう思っていたら、ここにいた。

 ケンモチは足をシャカシャカ素速く動かし、フットワークに興じている。水曜日のカンパネラのサウンド面をコントロールするこの男は、去る5月に9年ぶりとなるソロ・アルバムをリリースした。それは彼がここ数年触発されていた音楽、シカゴのゲットー・ミュージック、ないしは南アフリカのゴムを咀嚼した音楽である。そう、ここにはあの殺気だったリズムをヒントにしたゲットー・スタイルの新解釈、ドリルでもジャージー・クラブでもない、言うなればその日本ヴァージョンとも呼ぶべきサウンドが創出されている。水カンでは黒子に徹しているケンモチだが、意外なことに彼は機敏なダンサーだったのだ。
 アルバムは、シカゴのゲットー・ダンスと久石譲との出会いのような曲“Aesop”ではじまる。激しさとメロウネスが溶け合うこの美しいトラックは、“Hippopotamus”や““Fish Sausage””と並んで本作において最高の曲だ。続く“BabyJaket ”はチージーな曲調のいかにもJ-Pop式のディスコといった感じで、しかしそれで相手を油断させておいてフェイントからシュートというのが今回のケンモチである。ゲームセンターで鳴っているかのような“RoboCop”においてリズムは断片化され、スピードアップする。そしてスピードに乗った状態のまままシュート、“Jaburo”ではテクノとR&Bがシュールに混じり合う。
 過剰さ、キッチュさ、小学4年生が遊んでいるかのような子供っぽさは、欧米人が日本人を見るときのひとつのステレオタイプである。お望み通りの現代日本オリエンタリズム、ハローキティのゲットー・ダンスにようこそ、そう言わんばかりの展開のなかで、“Fish Sausage”はコーネリアスの“スター・フルーツ~”の甘い恍惚にもっとも近づいた曲だ。いや、それは気のせいかもしれない。支離滅裂な“Mountain Dew”や“Fight Club”の暴走が片っ端から夢を打ち砕いていく。
 アルバムは、チルアウトな感覚を持ったメロウな“Hacienda”を経由して、最後は陶酔的な“Tiger Balm”で終わる。『沸騰 沸く』は、悪ふざけたっぷりだが、先にも書いたように奇妙な叙情性を持ち合わせている。食品まつりのフットワークが温泉街だとしたら、こちらは渋谷のハチ公前だろう。ひたすらケオティックで、キッチュで、なにごともスピーディーで過剰。ケンモチヒデフミはシカゴのゲットー・スタイルを、もののみごと現在の東京に投射させたと言える。
 
 『沸騰 沸く』とほぼ同時期にリリースされた、ケンモチヒデフミがプロデュースしたシャンユー(Xiangyu)のファースト・シングル(といっても7曲入りだが)も、音楽的にはケンモチのソロ作と連なっている。こちらはゴムを彼なりに咀嚼し、ポップ・ソングのなかで展開している。もしこれが彼にとって水曜日のカンパネラに次ぐプロジェクトだとしたら、“Go Mistake”のナンセンス・ラップとキッチュなトラックからなる世界は、現代日本オリエンタリズムとして充分に機能するだろう。しかしシャンガーンを取り入れた“プーパッポンカリー”の巧妙さは、ちょっとした新しい可能性を感じる。ここで描かれている東京は、もはや異国のような東京であり、生活感のない冗談のような都市の姿だ。シャンユーの早口ラップはゲームのようで、“風呂に入らず寝ちまった”や“ 餃子”のような曲は、このぐらい笑ってなければやり過ごせないということなのだろう。
 まあなんにせよ、コムアイは屋久島に行ったというが、ケンモチときたら……どこまでもナンセンスで、しかしながら、『沸騰 沸く』も『はじめての○○図鑑』も、目を見張るほどのエネルギーが炸裂している。ケンモチヒデフミのどこにこんなエネルギーがあるのか、今度会ったときにぜひ訊いてみよう。
 
 

Flying Lotus - ele-king

 通算6作目、じつに5年ぶりとなる待望のアルバムをリリースし、大いに称賛を浴びているフライング・ロータス。この秋には単独来日公演も決定し、ますます熱は昂まるばかりだけれど、多彩なゲストを迎えさまざまなスタイルを実践した渾身の新作『Flamagra』は、彼のキャリアにおいてどのような位置を占めているのか? そしてそれはいまの音楽シーンにおいてどのような意味を担っているのか? 原雅明と吉田雅史のふたりに語り合ってもらった。

ひとりで作ってきたトラックメイカーがそこからさらに成熟したことをやろうとすると、たいていは生楽器を入れたり、あるいは壮大なコンセプトを練るじゃないですか(笑)。彼は今回の新作でそれにたいする答えを出したんだと思います。 (原)

吉田:まずは、原さんが最初に『Flamagra』を聴いたときどう思われたか教えてください。

原:初めて聴いたときは、『You're Dead!』と比べると地味だなと思った。ゲストはたくさん参加してるけど、ひとりで作っている感じがして、すごくパーソナルな音楽に聞こえたんですよ。『You're Dead!』もいろんな人が参加していて、聴いた箇所によってぜんぜん音が違うという印象を受けたんですが、『Flamagra』は、もちろん各曲で違うんだけど、全体をとおして落ち着いていて、統一感のある作品だなと思ったんです。オフィシャルのインタヴューを読むと、今回は自分で曲を書いてキイボードも弾いて、クラヴィネットの音がポイントになっていると。じっさいに使われている音数もそれほど多くない。要素はたくさんあるけど、決めになる音が『You're Dead!』よりも拡散していない感じで、ずっとある一定のレヴェルでアルバムが進んでいくような印象を受けましたね。

吉田:曲のヴァリエーションは多様だけど、ひとつの原理に沿って聴こえるように「炎」というコンセプトを立てて、作り貯めたものをそこに全部入れたかったんだと思います。そのときひとつの軸になるのがクラヴィネットの音色で。ギター不在の今作では、鍵盤と弦楽器の両方の役割を担っているところがある。ソランジュとの曲(“Land Of Honey”)も4、5年前に作ったって言っていたけど、統一感のためにクラヴィネットの音はあとからオーヴァーダブしたんじゃないかと思うくらいで(笑)。それから今作の新しさを考えるにあたって、サンダーキャットを中心としたミュージシャンと一緒に書いてる曲が多い中で、ひとりで書いている曲がポイントになるのではないか。5曲目の“Capillaries”は、ビートやベースのパターンはこれまでのフライローっぽいんだけど、アンビエントなピアノの旋律が中心になることでピアノ弾きとしての彼の新しいサウンドに聴こえる。それから“All Spies”という曲もひとりで書いていて、これはひとつのリフをさまざまな音色のシンセやベースで繰り返し、その周縁でドラムが装飾的な使われ方をするという、シンプルながらひとつずつ展開を積み重ねる楽曲です。重要なのは、特定のサウンドで演奏されたメロディをサンプリングしてループするのではなくて、あくまでもリフとなる「ラドレファラド~」というひとつのシンセのメロディがあって、それをさまざまな音色がユニゾンしながら繰り返し演奏していく。つまりサンプリングループからアンサンブルへの移行を見てとれる。結果としてこの曲は、YMO的な印象もありますよね。そういう多様な楽曲がひとつの原理で繋がっている。

原:YMOは好きだったみたいな話を実際にしているよね。今回はやっぱり自分で曲を書いて、アンサンブルを活かしているのが大きい。

吉田:これまでは仲間のミュージシャン陣が演奏したラインをサンプリングフレーズのようにして彼が後から編集していた印象だけれど、今回はメインとなるリフや楽曲展開をあらかじめ書いて皆で一緒に弾いているようなところがある。今回ジョージ・クリントンが家にきて一緒に曲作りをしたとき、その場でぱっとセッションをしたらスポンティニアスに曲ができて、それがすごく自信になったと言ってますよね。それは自分で理論を学び直したことなんかもあって、ある程度即興的に楽曲を形にできるようになったからだと思うんです。とくに、『Cosmogoramma』以降は超絶ミュージシャンたちの演奏を編集するエディターの側面も強かったと思うんですが、今回は作曲者兼バンドマスターとしても自信をつけたんじゃないかなと。ちなみに俺は最初に聴いたときはポップなところがすごく印象に残りました。これまでのアルバムより多様性があるなと思ったとき、リトル・ドラゴンとやった“Spontaneous”や“Takashi”辺りが、とくにこれまでにない新しい景色だと。じっさいフライローは「もっと売れなきゃいけない」というようなことを言っていたから、意識的にポップな部分を入れているのかなと。そのあたりはどう思いました?

原:ポップさはあまり感じなかったかな。ポップだと思った曲もあるけど、相変わらず1曲が短いから、感情移入する前にすぐ変わっちゃうんですよね。だから、「この曲をシングルカットするぞ」みたいな感じは受けなくて。

コルトレーン一家という自身の出自へのがっぷり四つでの対峙がようやく終わって、みそぎが終わったというか。「俺が考えるジャズをひとまずはやり切った」みたいな感じがありますよね。 (吉田)

吉田:フライローの曲って、たとえばヒット曲とか代表曲がどれかって思い出しにくいですよね。曲が短くてたくさんあるから、曲単位で「あの曲がシングルでヒットした」というよりもアルバム単位で「あのアルバムはこういう感じだったよね」と記憶されている。だけどあらためて聴くと楽曲をさらに細分化した各パーツの部分、たとえば『Cosmogramma』だったら“Nose Art”のキックとベースの打ち方だったり、“Zodiac Shit”のエレピとストリングスとか“Table Tennis”のピンポン玉の音なんかは、とても印象的なんですよね。曲単位では残ってないんだけど、断片としてはけっこう残っている。
フライローがもともと持っているほかのアーティストと違う点は、アヴァンギャルドやアブストラクトさを追求しつつも、そういったエッジの効いたポップさのあるフレーズを量産しているところだと思うんですね。そういうポップさは昔から持っていた。ただ、全体としてはシリアス・ミュージックだった。扱ってきたテーマも、ジャズとどう向き合うかだったり、死とどう向き合うかという、スピリチュアルですごくシリアスで、その番外編としてキャプテン・マーフィーがあったり『Pattern+Grid World』があったりした。『KUSO』で雑多なイメージをコラージュできたことも活かされていると思うんです。今作も最終的にはアルバム後半に並ぶシリアスな楽曲群に回収されるけれど、そこまで展開はこれまでの雑多な世界観全部をひとつのアルバムにミックスしてもいいという感じになっている気がしますね。たとえばティエラ・ワックとやった“Yellow Belly”のように、『You're Dead!』のときのスヌープ・ドッグとの“Dead Man's Tetris”の奇妙なビート路線もひとつのイディオムになってきていたり、その雑多な世界観の中にクラヴィネットの裏拍のサウンドも含まれている。シリアス一辺倒ではない垢抜け感のようなものが、サウンド面でもリリック面でも楽曲構造面でもさまざまに表れている。リターン・トゥ・フォーエヴァーに『Romantic Warrior』というアルバムがありますよね。〈Polydor〉から〈Columbia〉へ移籍して、チック・コリアが使いはじめたARPの音色が印象的で、そしたらアルバムのサウンド全体も一気に垢抜けて。シリアスから脱皮したというか、ポップな要素もすごく入っている。少し似ているなと思いました。それこそ中世のシリアス・ミュージック=宗教音楽とポップ・ミュージック=世俗音楽の分裂という対置で考えられるかもしれない。ポップ化する以前のフュージョンやフライローのシリアスさにはそれこそスピリチュアルだったり、プレイを崇拝する宗教的な側面がありますし。

原:基本的に今回の作品は、ゲストを自分のところに呼んできたり自分がどこかへ行ったりして録り溜めてきたものが膨大になってしまって、自分でもどうしたらいいか見えなくなっていたところがあったと思うんですよ。時間をかけたというのも、個々の録音を録り溜めていた期間が長きに渡ってということで、そこから実際に曲として仕上げるまでの、手を動かしていない空白の時間も相当長かったんだと思う。それで「炎」というストーリーやクラヴィネットの音を見つけて、ストーリー立てできると思ったんじゃないか。そして、キイボードを習って、アンサンブルや理論を学んだうえで、ようやく見えてきた結果なんだろうなと思いましたね。素材となる録音物はたくさんあったにしても、最終的に完成に導いたのは彼の作曲の能力とか構成力とかそういった部分なんだろうなと。『You're Dead!』はコラボしたものをそのままバッと出したという面もあったと思うけど、コラボして融和的なものができ上がったとして、じゃあその次はどうするかというときに、もう一回、個に戻った表現をしようとすると、ふつうは変にコンセプチュアルな方向に走りがち。でも彼はそうではなくて……『Flamagra』も一応コンセプチュアルなふうにはしてありますが、僕はじつはそんなにコンセプトはないと思う。

吉田:意外とそうですよね。プログレのバンドとかに比べたらワンテーマでガチガチではない。だからこそこれだけ雑多な楽曲群をゆるくつなげてるんだと思います。デンゼル・カリーもジョージ・クリントンも「炎」をテーマにリリックを書いているけど、たとえばラヴ・ソングも「燃える想い(炎のように)」「あなたが好き(炎のように)」みたいな感じで、アンダーソン・パークも「ソウル・パワー(炎のように)」みたいな。もうなんでも炎じゃんみたいなところがある(笑)。

原:「炎」の話も読んだけど、コンセプト的には隙がある。だからやっぱりそれよりも、要となる音、音色を見つけたとか、作曲に関して自信を持てたとか、アンサンブルを作れるようになったとか、そういう手応えの方が大きかったんじゃないかな。

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自分はこういうのを期待されているからそれを裏切って、もっと尖った方向に行かなきゃいけないとか、そういう意識もぜんぜん感じない。本人は「誰かがクリエイティヴになるのを励ますような作品にしたい」とふつうに良いことを言っているんですよ(笑)。 (吉田)

原:フライローが出てきた当初は、いわゆるひとりでこつこつと密室でビートを作っているビートメイカーのようなイメージでした。〈Stones Throw〉でインターンをやったりして、LAのビートメイカーのコミュニティのなかにはいたんだけど、じっさいはヒップホップ色は薄かったと思う。デビューも〈Plug Research〉だったし。当時『1983』は日本では「ポスト・ディラ」みたいな紹介のされ方をしていたけど、ぜんぜんそれっぽい音ではなかった。

吉田:いわゆる後期ディラの影響のあるブーンバップに電子音、サイン波ベースというイディオムで作られてるのも1曲目だけですね(笑)。

原:「黒い」か「白い」かでいえば「白」っぽい音だった。レコードより、ネットの隅を掘っているというか、マッドリブみたいな感じではない。だから〈Warp〉と契約したのもすごく納得がいって、むしろああいうのがLAのブラック系の人から出てきたということのほうが当時はおもしろかったんですよね。〈Warp〉は当時プレフューズ73を推していたけど、そのあたりの白人のビートメイカーもなかなかそのあとが作れないという状況だったから。ダブリーもそうだったけど、ヒップホップじゃなくて、テクノなどエレクトロニック・ミュージックの人が作るビートが、期せずしてディラのようなビートとシンクロする流れがあって、そこに影響されたのがフライローや初期の〈Brainfeeder〉のビートメイカーたちだった。その先駆けみたいなところはある。それでフライローをきっかけにLAのビート・ミュージックが注目されて、00年代後半から10年代頭にかけて広がったんだけど、それも頭打ちになった。フライローははやい段階で「俺のビートのマネするな」とか言ってたけど、そのころから特殊な位置に居続けている。

吉田:確かに『Los Angeles』で確立される16分音符で打つヨレたハットに浮遊感のあるシンセのウワモノ、シンセらしさが前面に出た動きの大きいベースライン辺りのビートの文法がフォロワーたちの間で蔓延する。それで本人は『Cosmogramma』に行っちゃいましたからね。

原:そこから先、ビートを作っている人たちがどういうふうに音楽的に成長できるか、成熟できるかということをフライング・ロータスは考えていたと思うんですよ。彼の音楽って、いろいろとごちゃごちゃ入っている要素を抜くと、根本にあるものはティーブスに近くて、すごくメランコリックな音楽の組み立て方をしていると思うんです。ティーブスとかラス・Gとかサムアイアムとか、あのへんが彼にいちばん近かった連中だと思う。そのコミュニティで作ってきたものがベーシックにあって、そのうえに何をくっつけていくのかというところでいろいろ思考錯誤して、それがその後の〈Warp〉での彼の音楽だと思う。
それで、それまでひとりで作ってきたトラックメイカーがそこからさらに成熟したことをやろうとすると、たいていは生楽器を入れたり、あるいは壮大なコンセプトを練るじゃないですか(笑)。彼は今回の新作でそれにたいする答えを出したんだと思います。『You're Dead!』までは筋道がわかるんです。『Cosmogramma』ではアリス・コルトレーンを参照して、じっさいにハープの音を印象的に入れてストリングスも入れたり、『You're Dead!』では凄腕のジャズ・ドラマーを4人も入れてフライロー流のジャズに接近する側面を見せたりして、でも今回の作品ではもう一度、密室でひとりでビートを作っていたころの感じがある。いろんなゲストを交えながらも、原点に戻っているようなところが。

吉田:ジャズとの距離感が変わったというか、ジャズの磁場をそれほど意識していない印象ですよね。コルトレーン一家という自身の出自へのがっぷり四つでの対峙がようやく終わって、みそぎが終わったというか。「俺が考えるジャズをひとまずはやり切った」みたいな感じがありますよね。

いまはもうネタはすぐバレちゃうし、なんでも組み合わせられちゃうし、「こうすればこういうトラックができますよ」というのが当たり前の世界になっちゃったので、つまらないなと思うわけ。そういう意識は当然フライローにもあったと思う。 (原)

吉田:フライローのインタヴューで、今作のドラムの音色には大きく3つあって、それぞれを「小宇宙」だと思っていると言っていたんですよね。MPCとかソフトウェアサンプラーでブレイクビーツをサンプリングしてチョップしたドラムと、ミュージシャンが叩く生ドラム、そして808なんかのドラムマシンという3つです。それぞれのドラム・サウンドは探求し甲斐のある小宇宙と呼べるほどの深みを持っているわけですが、フライローはそれらを並列に扱っている。それぞれの楽曲やアルバムごとに3つの小宇宙の力関係が異なるという。「Reset EP」のときも、“Vegas Collie”という曲ではLAMP EYEの“証言”など多くの曲でお馴染みの、ラファイエット・アフロ・ロック・バンドの“Hihache”のドラムを16分で刻んで複雑なパターンにしていたけれど、他方で最後の“Dance Floor Stalker”ではドラムマシンも使っている。ふつうはそういうふうにまったくソースの異なる音色のドラムをひとつのアルバムに散りばめると、いかにも「さまざまな手法を取り入れてます」みたいな感じになっちゃいますが、フライローは初期からそれがうまくできている。ドラム・サウンドに限らず、ネタと生楽器と電子音をミッスクしたときに徹底的に違和感がない。今回のアルバムも1曲のなかでソースがさまざまに切り替わったりしているし、そういう素材の扱い方はすごく優れていて、それがよく発揮されたアルバムだと思います。

原:もちろんこれまでもやっていたんだけど、その混ぜる能力がすごく洗練されてきている感じはするね。自分ですべての音のデザインまでやる感じになっている。前回まではミックスやマスタリングはダディ・ケヴがやっていて、今回もケヴが関わっているけれど、フライロー自身がけっこうやっている。録音全体にもすごく気を使っているし、いままで以上にアルバム全体を見る力、構成力みたいなものがアップしていますね。ちなみに『You're Dead!』って、じつは40分くらいしかないんですよね。

吉田:意外と短い。

原:今回は60分以上ある。『You're Dead!』はたしかに、あの構成でやると40分しかもたなかったという感じはするんだよね。60分も聴いていられないと思うんだけど、今回は何度でも聴ける感じがある。

吉田:フライローは「ミックスはすごく難しい」と『Cosmogramma』のころに言っていて、当時もダディ・ケヴにも伝わらないから自分でもトライしている。『You're Dead!』では生ドラムの音をめちゃくちゃ歪ませていてすげえなと思いましたけど、あれに行きつくのにそうとう思考錯誤があったと思うんですよ。『Cosmogramma』ではアヴァンギャルドな楽曲のベクトルに合わせるようにベースやドラムは歪みや音圧に焦点を当てて、次作は空間的なアンビエンスに焦点を当てて電子ドラムはハイを出してレンジが広がっている。そういった実験もひと通りやり終えた感じがします。だから今回は極端な歪んだサウンドも聞こえてこない。そうなると普通は「売れ線に走った」とか「きれいになっちゃっておもしろくない」ってなるんだけど、フライローだと「あなたがあえて綺麗な音作りをするということは、そこに何か意味があるに違いない」という像ができあがっていて(笑)、でも本人は裏をかいているつもりはないだろうし、気にしないで自由にやっているだけだと思うんです。自分はこういうのを期待されているからそれを裏切って、もっと尖った方向に行かなきゃいけないとか、そういう意識もぜんぜん感じない。本人は「誰かがクリエイティヴになるのを励ますような作品にしたい」とふつうに良いことを言っているんですよ(笑)。

原:人の励みになる音楽を作りたいとか、そんなこといままで言ったことないよね。たぶん立ち位置が変わってきたんだろうね。〈Brainfeeder〉についてもかなりコントロールしているというか、たんに自分の名前を冠しているだけじゃなくて、アーティストのセレクトもちゃんと自分でやっているし。本腰を入れてやっているからこその責任もあるんだと思う。これまでは自己表現みたいなことで終わっていたのが、あきらかに違うレヴェルに行っている。

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ジョージ・デュークとかスタンリー・クラーク的なフュージョンを通過して、このままいくとプログレからフランク・ザッパとか、超絶技巧の世界に行くのかなともちょっと思ったけど、やっぱりそっちじゃないんだなということがわかった。 (原)

吉田:原さんはフライローの音楽を聴いて、何かヴィジョンって浮かびますか?

原:僕はそもそも音楽を聴いてもあまりヴィジョンが浮かばないんですよね。ただこのアルバムは映画的でもあるし、ヴィジュアルと連動している作品だなとは思っている。

吉田:インストの音楽って日常の生活の中で流しっぱなしにしたりして、多かれ少なかれBGMになりうるところがあると思うんです。歌詞があると、その内容と自分の経験がマッチしないとハマらないけど、インストはどんな場面にもハマる可能性がある。外を歩きながら聴いたり車で聴きながら走ることで街の見え方が変わったりするし、自分の個人的な体験と結びついたりもするから、ベッドルームで聴いていてもリスナー自身のサウンドトラックになるところがあると思うんです。でもフライローの曲はそういうものに結びつきづらいと思うんですよ。BGMとなることを無意識的に拒絶しているというか。今作は半分くらいの楽曲に言葉が入っているというのもありますが、彼は視覚的なヴィジョンを持っていて、自分が表現したいヴィジョンを聴いている人に伝える能力に長けている。たとえば今作の“Andromeda”とか『Cosmogramma』の“Galaxy In Janaki”なんて、そういったタイトルで名付けられているからとはいえ、めちゃくちゃ宇宙のヴィジョンが見えるじゃないですか(笑)。宇宙を表現するための音像や楽曲のスタイルが、この2曲で大きく変わってるのも興味深いですが。インスト作品には適当な曲名を付けてるケースも多いと思うし、フライロー作品のすべてがそうだとは思わないけど、明確に彼の脳内のヴィジョンとリンクしている曲もある。今回のアルバムにはそれが結実していて、聴き手が勝手に自分のヴィジョンを重ねられない感じがある。

原:たとえばニューエイジのアーティストが、この作品の背景にはこういうものがありますって言っても、それを聴いている人にはなかなか伝わらなくて、ヨガの音楽として機能するとか、具体的なところに作用する効果というのはあると思うけど、精神的なものと音楽じたいがどう結びついているのかわからないことが多いのとは対照的な話ですね。ジャズ・ドラマーのマーク・ジュリアナにインタヴューしたときに、彼はオウテカとかエイフェックス・ツインが好きで、理論を突き詰めてビート・ミュージックというプロジェクトもやってきたわけだけど、いまいちばん興味のあるのは、音楽のマントラ、レペティション(反復)、トランス的な部分をもっと精査することだと言っていたのね。人間じゃなくて機械をとおして表現される感情、精神を愛してるとも。理論と技術を突き詰めていった先にある、精神的なものをどう扱っていくのかという話で、それは機械の音楽、エレクトロニック・ミュージックをどう捉えるのか、ということでもある。フライローはその点でも、興味深いところにいると思うんです。彼はアリス・コルトレーンとも近いスピリチュアルな世界にも理解があって、一方でエレクトロニック・ミュージックにも当然深く関わってきた。さらに今回音楽理論も突き詰めはじめた。

吉田:フライローの音楽はフロア向きなのかベッドルーム向きなのかというのもちょっと判断しづらいところがおもしろいなと。曲は情報量が多すぎて1分とかで終わっちゃうし、踊りたくてもどこで乗ればいいのかが難しい。かといって静かに聴くものかというと、《ロウ・エンド・セオリー》出身ということもあって、フロアではバキバキにやってくる。《ソニックマニア》でもめちゃめちゃビートの音圧が凄くてオーディエンスも盛り上がっていた。だからフロアとベッドルームの間のグラデーションを行き来する音楽というか。

原:やっぱり曲がそもそも短いよね。1分、2分、長くて3分とか。初期のころはたしかに《ロウ・エンド~》の影響もあったと思う。《ロウ・エンド~》のDJはみんな1分か2分で次の曲をカットインでぶっこんで、それ以上は長くやらないという方針、スタイルだから、その周辺のビートメイカーも1分2分の曲ばかりだった。でもいま彼が1分2分の曲を量産しているのは、そうしたDJやフロア向けのためではないよね。なぜフロアでどんどん変えていたかというと、自分も、聴いているほうも飽きちゃうから。その「飽きちゃうから」という部分だけはいまの彼にも繋がっているような気がする。聴き手の意識をひとつの場所に留まらせずに、どんどん場面を展開していくという意味で。そのやり方が非常に巧みになってきた。

吉田:今回アンダーソン・パークとやった“More”はめずらしく4分以上あるんですよね。でも、最初の浮遊感のあるコーラスのシンガロング・パートは1分くらいで、次にラップ・パートが来ますが、それも1分半くらいすると一旦ブレイクが入ってアンダーソンのスキャット・パートへ展開する。だから1分から1分半で次々と展開する仕組みになっている。それこそテーマパークのライドみたいに飽きさせない構造になっている。それらの断片をどうやってつなげるかというのもポイントですよね。たとえば3曲目の“Heros In A Half Shell”も電子4ビート・ジャズという趣で、次の曲の“More”とはだいぶ毛色が違う。でも両者をうまくつなげるために、“Heros In A Half Shell”の最後の10秒ほどはミゲル・アトウッド=ファーガソンのストリングスだけが鳴るパートが入っていて、気が利いているなと。

原:ミックスとして非常におもしろいものになっているよね。だからある意味ではサウンド・アーティストみたいなところもあって、いまこんなミックスをしている人は特異だしおもしろい。ビートを作っていたときは短い曲の美学みたいなものがあったけど、そこにそのままコラージュに近いようなミックスの手法が入り込んでいて。今回の作品は謎のバランスで非常にうまくまとまっている。それが聴く人の意識を変えさせている。

吉田:27曲もあるから曲順はいろいろな可能性があったかと思いますが、同じようなカラーを持った曲が並ぶブロックがありつつも、個々の曲の並べ方はダイナミズムがある。たとえば中盤の流れだと“Yellow Belly”と“Black Balloons Reprise”とか、“Inside Your Home”に“Actually Virtual”とか、スムースにつなげるんじゃなくて、どちらかといえば対極のものをぶっこむ場面もありますよね。デペイズマンの美学というか。でもたんに落差を楽しむだけでなくて、落差のある両者をどうつなげば聴かせられるのかという点にはすごく意識的な感じがします。異質なものを突然入れるのはコラージュ的でもあるし、DJ的でもある。あるいはビートライヴをする際のビートメイカー的とも。現代音楽的なものに目配りをするクラブ・ミュージックの気配を反映しているともいえる。

原:でも、ヒップホップってもともとはそういうものだったからね。意外なネタを見つけてきて組み合わせて、そのなかにはふつうに現代音楽も入っていたんだけど、いまはもうネタはすぐバレちゃうし、なんでも組み合わせられちゃうし、「こうすればこういうトラックができますよ」というのが当たり前の世界になっちゃったので、つまらないなと思うわけ。それにたいする揺り戻しは、例えばザ・ルーツが『...And Then You Shoot Your Cousin』で突然ミッシェル・シオンのミュジーク・コンクレートを暴力的に挿入した様にも見て取れる。そういう意識は当然フライローにもあったと思う。

吉田:『KUSO』のコラージュ的な作風も含めて、いろいろなものをミックスする手つきの良さが際立つ。そういう意味で、スピリットの部分でヒップホップ黎明期のそれこそアフリカ・バンバーター的なものを体現していると考えると、またこのアルバムの聞こえ方も変わってくるかもしれない。

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『Cosmogramma』以降聴いていなかった人たちにもぜひ聴いてもらいたいですね。絶対ドープだと思える曲があると思う。ヒップホップが出自のビートメイカーにはとくに“FF4”を聴いてほしいです。 (吉田)

吉田:僕の周りのビートメイカーなんかは、ヒップホップの人が多いので、フライローにかんしては『Los Angels』までで、『Cosmogramma』からはビート作りに参照するようなものではなくなったという意見が多かった。『You're Dead!』も参照するのは難しかったと思うし、もしかしたらいまのヒップホップのビートメイカーたちはフライング・ロータスを自分とはあまり関係のない遠い存在と思っているかもしれない。でも今回のアルバムはどのジャンルのどの人が聴いても、それこそJポップの人が聴いても、自分のサウンドにフィードバックできるんじゃないかなと思います。もともとそうでしたが、ミュージシャンズ・ミュージシャンとしての懐がさらに深くなって、彼を参照しうるミュージシャンの母数が拡大している気がします。

原:生ドラムを使ったり808を使ったり、まったく質感の違うものを共存させるところなんかはふつうに参考になると思うけどね。

吉田:これまでは「あの変な歪みは下手に真似するとあぶねぇ」みたいな、真似できないという感じがあったけど、今回はサウンドのバランスもめちゃくちゃ良いですからね。荘厳なパッド系やコーラスっぽいシンセがだいぶ引いた背景で鳴っているんだけど、手前に来ている楽器隊はリヴァーブやエフェクトも控えめで、何を弾いているのかが聴き取りやすい。サンダーキャットがいて、ブランドン・コールマンのクラヴィネットがあって、ミゲルのストリングスがあって、本当に5ピースくらいのバンドで演奏している感じが目に浮かぶ曲もある。そこはいままでと違う。

原:やっぱり自分でアンサンブルを作っているのが今回はいちばん大きいんじゃないかな。これまではどうしてもミゲルがアレンジをして、ミュージシャンが演奏して、それをうまく合わせるという感じだったけど、今回はミックスまで含めてフライロー自身がちゃんとアンサンブルを作り直している感じがする。

吉田:インプロ含めた演奏データがありきの「切って、貼って」のやり方だと、各パート間の展開や繋ぎの部分がこんなにうまく成立しないと思うんですよね。曲としてちゃんとバンドっぽいキメやユニゾン、エンディングが多かったりするじゃないですか。もともとフライローの強みはループをベースとしたビート・ミュージックにいかに手打ちのドラムや楽器で展開をもたらすかにあったわけで、そこに完全に振り切っているともいえる。キャリアの初期に、ジョン・ロビンソンやオディッシーといったラッパーに提供しているヒップホップ・ビートは思いっきりワンループで作ってますが、そうするとフライローらしさをぜんぜん読み取れないんですよね。

原:アンサンブルって00年代後半以降、キイになっていたと思うんです。それまではダブの残響とか、ベースの音圧とか、楽音以外が構成するサウンドに魅力があって、もちろんアンサンブルが活かされている音楽もあったけど、多少乱暴に言うとポピュラー・ミュージックでも力を持っていたのは音響のほうだった。それが00年代後半からまたアンサンブルが重視されてきて、ミゲルのようなクラシック畑の人がたくさんフィーチャーされたり、ジャズの復活もそういう部分が大きいと思う。その時代にフライローが出てきて、当初はそういう流れとはぜんぜん違うところにいるように見えたけど、じっさいはその流れとも並走していたことに今回の作品で気づくことができた。

吉田:エヴァートン・ネルソンが活躍して、4ヒーローとかドラムンベースなんかでもアンサンブルが重視された時代の回帰のように見えるところもありますよね。でも今回のアンサンブルの作り方はバランスがいいんですよね。たとえばサンダーキャットって、やっぱり弾きまくるじゃないですか。でも今作はフライローや彼がフェイヴァリットに挙げるジョージ・デュークやスタンリー・クラークのようなテクニカルさはないですよね。『You're Dead!』では、そういうサンダーキャットのバカテクやBPM速めの4ビートのドラムのパッセージをいかに自分の音楽と融合させるかという試みでもあったと思うんですけど、今回は良く聞かれるユニゾンは速弾きではないし、むしろゆったりしている。

原:もしかしたらほんとうはサンダーキャットはめちゃくちゃ弾いていたのかもしれないけど、それをぜんぶカットしている感じだよね(笑)。

吉田:たまに思い出したように速弾きやワイドストレッチっぽいアルペジオが聞こえてきますけど(笑)、分量としては少ないですもんね。そういう意味でもフライローはテクニカルなフュージョンと対峙するというみそぎをも済ませた感がある。

原:そういうジョージ・デュークとかスタンリー・クラーク的なフュージョンを通過して、このままいくとプログレからフランク・ザッパとか、超絶技巧の世界に行くのかなともちょっと思ったけど、やっぱりそっちじゃないんだなということがわかった。

吉田:そこで、今回自分でピアノを学んだっていうのは良い話ですよね。坂本龍一の『async』に大いに影響されたって。

原:今回の作品を聴いてちょっと安心した感はあるよ。

吉田:『You're Dead!』からさらに突き詰めると「どこ行っちゃうの?」という不安がね。

原:ライヴではどうなるのかわからないけどね。そこでは超絶技巧になっているかもしれない。

吉田:それはそれで観てみたいですけどね。《ソニックマニア》のときも、映像との融合というのはこれまで多くのアーティストが試みた手法ではあるけれど、やはり静と動の展開というか、広大なランドスケープを想起させる「静」のパートと、バキバキのビートが引っ張る「動」のパートのギャップが際立つような映像の使い方をしていて、あらためて彼がやると違って見えたから。

原:立ち位置的にさらにおもしろいところに来たなという感じはある。『Los Angels』までは好きだけどそれ以降はダメという人がいるとして、そういう意味でもこの作品はいろんなところで人を励ます作品だと思うんだよね。

吉田:いまのヒップホップは、トラップが生まれたことによって、そっちの人たちと、ゴールデンエイジしか受けつけない人たちとに分かれちゃってると思うんです。トラップについては自分もある時期まではどう聴けばいいのかわからなかった。でもあるときイヴェントに行ったら、トラップがなんなのか身体的に理解できて大好きになったんです。

原:そういえば今回トラップは入っていないね。トラップをやる人は使っているけど。

吉田:たしかにトラップはないですね。フライローが808のハットを乱打したら、それはそれでおもしろかったんだけどな(笑)。他方で、いま日々リリースされるヒップホップ作品には、たとえば〈Mello Music Group〉周辺とかアルケミストやマルコ・ポーロやロック・マルシアーノ周りとか、誰でもいいんですが、ゴールデンエイジ以降のヴェテランから若手まで原理主義的なプレイヤーもたくさんいて、そういうアクトたちのレヴェルがすごく高い。しかもよりメインストリームにはオッド・フューチャー勢なんかもいるわけで。だからじつはゴールデンエイジのものを聴き直す必要すらなくなっていて、現在進行形のアーティストたちだけでじゅうぶんに成立する世界が広がっている。

原:ジャズと一緒だよね。いまのジャズもめっちゃうまいプレイヤーがたくさんいて、彼らは当然昔の作法を身につけてもいるから、それを聴いていればべつに昔のジャズをことさらに懐かしがる必要のない世界になっている。

吉田:そういう作品が元ヘッズの耳に届いてない状況があると思うんですよ。それはすごくもったいないなと思う。90年代の耳で聴いても、すごくクオリティが高くてドープなヤツらがたくさんいるのに。情報収集をして探すハードルが高いってのはわかるんですが。なにせ数が多すぎて、腰が重くなりますよね。で、ずっとATCQやギャングスターやウータン聴いてればいいやって(笑)。

原:だからフライローは今回デンゼル・カリーにやらせたんじゃないかな(笑)。『ファンタスティック・プラネット』のサントラの曲(アラン・ゴラゲールの“Ten Et Tiwa”)とか、大ネタをそのままバーンと使って、しかもそれをわざわざデンゼル・カリーに昔風にラップさせているでしょう。

吉田:あれは熱かった! 何この90年代感っていう(笑)。急に98年のアングラ・クラシックに回帰したみたいな。まあフライローはもともと『1983』と同時期に90年代後半のアングラ・グループのサイエンズ・オブ・ライフ(Scienz of Life)のプロデュースもしてますからね。得意分野(笑)。

原:彼はあのころのアブストラクトなヒップホップも当然好きで聴いていた。今回のビートにも《ロウ・エンド・セオリー》以前の音というか、それっぽいものがあって、それと対等な感じでポップなものも混ざっている印象です。そういう意味ではヴァリエーションがあるんだけど、それも含めて全体をフライローがひとりで作り直した感じがしますね。

吉田:そういう目配りがフライローはさすがだなと。だから今回のアルバムは、『Cosmogramma』以降聴いていなかった人たちにもぜひ聴いてもらいたいですね。絶対ドープだと思える曲があると思う。ヒップホップが出自のビートメイカーにはとくに“FF4”を聴いてほしいです。サンクラ世代のビートメイカーたちへのアンサーのような、かつてなくシンプルなキックとスネアとハットを。それから彼自身と思われるピアノにミゲルのストリングスの上ネタも、シンプルだけどいっさい隙がない。

原:音楽を組み立てるってどういうことなのかを、ここから学ぶことができると思う。他人の録音があって、生の音と機械の音といろんなレイヤーがあって、それをどうまとめるかということにかんして、すごくアイディアのある作品だと思う。

吉田:バンドスコアとか出てほしいですね(笑)。フライローの完コピのバンドスコアとかアツくないですか(笑)。サンダーキャットのベースはタブ譜付きで。これまでの過去作品だとしっくりこない曲もあると思うんですけど、今回は行ける感じがします。まあティエラ・ワックとの曲とかどうするんだっていう問題はありますが(笑)。


FLYING LOTUS in 3D
公演日:2019年9月26日 (木)
会場:新木場 STUDIO COAST
OPEN 18:30 / START 19:00
前売:¥7500(税込/別途1ドリンク代/スタンディング)※未就学児童入場不可

一般発売:6/29(土)~
イープラスローソンチケットチケットぴあBeatinkiFLYER

Yosuke Yamashita Trio - ele-king

 これは事件である。今年で結成50年(!)を迎える山下洋輔トリオが一夜限りの復活を果たす。これは事件である。山下洋輔といえば日本のフリー・ジャズにおける先駆者のひとりであり、そのトリオは初期の『DANCING古事記』や、坂田明加入後の『モントルー・アフターグロウ』、『キアズマ』など、多くの重要な録音を残している(紙エレ最新号の細田成嗣による「日本のフリー・ジャズ20」にも当然選出)。今回の再結成には中村誠一、森山威男、坂田明、小山彰太、林栄一と、歴代のそうそうたる奏者たちが参加するとのことで、これはもう歴史的瞬間になるのは間違いないだろう。絶対に見逃してはいけない。

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