「KING」と一致するもの

Mira Calix - ele-king

 ミラ・カリックス――紙エレ23号でも少しだけ触れたけれど、彼女はとてもおもしろいアーティストだ。90年代半ばにエレクトロニカの文脈から浮上してきた彼女は、2000年に『One On One』という良作を残し、その後ゼロ年代には現代音楽をおもなレパートリーとするロンドン・シンフォニエッタや、昨年アルバムをリリースしたオリヴァー・コーツ、そしてなんと虫たち(文字どおり虫です)と共演。以降も映画や演劇のスコア、インスタレイションなどをつうじて精力的に活動を続けてきた。
 そんな彼女が久しぶりにフィジカル作品を発表する。〈Warp〉からのリリースは2008年の『The Elephant In The Room』以来じつに10年ぶりだが、公開された新曲“rightclick”は予想以上に低音が効いていて、初期ともゼロ年代とも異なる趣を携えている。これは早くほかの曲も聴きたいですね。ミラ・カリックスの新作EP「utopia」は1月25日、10インチ・ヴァイナルとデジタルにて発売。

mira calix

〈WARP〉初期より活躍する才女、ミラ・カリックスが〈WARP〉からは10年ぶりとなるEPのリリースが決定! 新曲“rightclick”のMVが解禁!

レディオヘッドのサポートアクトへの抜擢やボーズ・オブ・カナダのリミックスなどで話題を呼び、初期より〈WARP〉の屋台骨的な活躍をしてきたミラ・カリックス。〈WARP〉からは10年ぶりとなるEP、「utopia」が1月25日に発売されることが決定し、同時にEPに収録される楽曲“rightclick”のMVが公開された。

mira calix - rightclick
https://www.youtube.com/watch?v=w1mZWs1Neis

このEP制作のように、自分にタイム・リミットや厳しいルール、幅の狭い音の種類を与えること、ライター、プロデューサー、ミュージシャンとして完全に自主的に取り組むことはとても新鮮だった。それはある意味で自分のルーツ、〈WARP〉から初めて10インチのヴァイナルをリリースした時に戻ってくるような感じだけれど、全く新しいもののような遊び心があるようにも感じたわ。 - Mira Calix

彼女の最近のプロジェクトは、野心的な合唱音楽作品やパフォーマンス・アーティスト、独特なスピーカー拡散システムなどを取り入れたサウンド・インスタレーションといった活動が中心になっており、10年ぶりとなる〈WARP〉からのリリースに関しては自身が「全く新しいもののような遊び心があるようにも感じた」と語るように、フレッシュさを感じさせる内容となっている。

待望の10年ぶりとなるEPは1月25日にアナログとデジタル配信でのリリースを予定しており、iTunes Store でアルバムを予約すると公開中の“rightclick”がいち早くダウンロードできる。

label: Warp Records
artist: mira calix
title: utopia
release date: 2019/01/25 FRI ON SALE

[tracklist]
1. rightclick
2. just go along
3. upper ups
4. bite me

more info:
https://www.beatink.com/products/detail.php?product_id=10043

vol.109:NYのたこ焼きパーティ - ele-king

 明けましておめでとうございます。NYはお正月もほとんどなく、私は1/1から普通に働いていましたが、ようやくホリディムードも終わり、平常に戻ってきました。
 私は、ブシュウィックのミードバー(ハニーズ)で、毎月たこ焼きイベントを開催しています。バンドやDJ、ダンサーなどのゲストを招待し、ドリンクやフードを提供し、ミードを飲みながら、たこ焼きを焼いています。場所が場所なのでバンドやアーティストが多く、元ラプチャー、アヴァルナ、ピルなどのメンバーもよく来ます。
 ツアーから戻ってきたばかりだったり、レコーディングの最中だったり、仕事の合間だったり、みんな忙しくしていますが、息抜きは必要。とくにこの辺りは音楽会場も多いし(エルスホエアなど)、サクッと一杯にちょうど良いみたいです。NYはたくさんのバーがあり過ぎますが、働いている人や誰とハングアウトするかによって行く場所が変わります。
 さて、ハニーズでは今回は、Data securityというユニットが登場。音と映像がシンクロするライヴを生でするという試み。あまりの機材の多さに卒倒しそうになりました。スーツケースふたつ分ぐらいの機材だったので。金曜の大会場でダフト・パンクを見ているような、ダンスフロアになりました(火曜日でしたが)。で、そこにNha Mihnというベトナムレストランを経営していた、Fredが来ていました。
https://www.insideelsewhere.com/new-blog-1/nha-minh-healthy-vietnamese-bowls-brooklyn




たこ焼きイベント(ハニーズチューズデー)!

 彼は、ベッドフォードでレストランを経営した後、しばらくケータリングをし、そしてNha Mihnをオープン。彼のNY1美味しいベトナム料理とアートショー、音楽ショー、フリーマーケットなど楽しいイベントをどんどん開催。その間にも彼は別の店でポップアップをしたり、イベントに出店したり、いろんな場所に出没。彼に出演をお願いするとすぐに「良いよ」と返事をもらい、話が決まりました。


Japanese new year bowl
(チキンとごぼうの肉巻き、サツマイモご飯、なます、野菜のゼリー寄せ、レンコン煮)

 NYではたくさんの場所が閉鎖し、たくさんの場所がオープンしています。失敗は当たり前、これがダメなら次はこれと直ぐに立ち直り、模索し、良いものだけが淘汰されていきます。あの会場と彼が手を組んで、こうなるのか、なるほどなど、フットワークが軽い人と話をすると、こんな人がブルックリンを作ってるんだなと感じます。最近ブルックリンでは、ファンドレイザーショーも盛んで、ミュージックショーをしたり、絵を描いたり、タロット占いをしたり、ジュエリーを売ったり、スタンダップ・コメディをしたり、自分ができるなにかで、参加し貢献しています。
 音楽だけのショーは少なくなり、マルチなショーが増えている、と思いますが、いろんなものが合わさって、たくさんのオーディエンスにも届くのが現在的なのでしょう。


Data security


DJ SIM Card

ALTZ - ele-king

 大阪のコズミック大将ALTZによるバンド・プロジェクト、ALTZ. Pがいよいよアルバムをリリースする。ヌケの良いシンセベースによる艶めかしいファンクからはじまる『La Toue』と題されたそれは、大阪独特のいかがわしいサイケデリアがまばたきしたとたん崇高に見え、しかし目をこすった途端バカバカしく見えてしまうという、腐食性と精神性をかねそなえたキッチュなリアリズムと幻想を展開する。素晴らしい女性コーラス隊はときにソウルフルで、鬼才Pulseman、元NEWEST MODELのドラムスMau&ベースのシェイク吉村の叩き出す中東ディスコ・ビートに酔いながら、リスナーはいつの間にか昇天するでしょう。
 日本の土着性をどう切り捨て/取り入れるかという点では、食品まつりやGroundなんかとも共通する志向があり、幻想的な冒険は、クラブ・カルチャーには興味ないリスナーをも踊らせるでしょう。ぜひぜひ、チェックしてください。ピース。


ALTZ. P
La Toue

ALTZMUSICA
https://www.altzmusica.com/

Binkbeats - ele-king

 これは興味深い。まずはこのエイフェックス“Windowlicker”のカヴァー動画を視聴してみてほしい。あの楽曲を人力で、しかもたったひとりで再構築してしまうこの人物、ビンクビーツ(Binkbeats)というオランダのプロデューサーである。他にもフライング・ロータスラパラックスアモン・トビンなどのエレクトロニック・ミュージックをがしがしひとりでカヴァーしているからすごい。アンダーグラウンドの最尖端に敏感なDJクラッシュの最新作『Cosmic Yard』にもフィーチャーされていたので、それで気になっていた方も少なくないだろう。そんなアナタに朗報です。ちょうど本日1月9日、彼がこれまで発表してきた2枚の12インチを独自にまとめたCDがリリースされます。昨年ソニックマニアで来日した〈Brainfeeder〉のジェイムスズーも参加しているとのことで、おもしろい音楽を探している方は要チェックですぞ。

BINKBEATS

〈Brainfeeder〉総帥 Flying Lotus、Thom Yorke (Radiohead) 率いる Atoms For Peace、そして Aphex Twin や、さらには J. Dilla まで数々のアンセムを人力且つたった一人で再現したライヴ映像で世界中に衝撃を与えたオランダのビート・サイエンティスト BINKBEATS ついに日本デビュー!

LAビート・シーンを牽引する〈Brainfeeder〉総帥 Flying Lotus “Getting There”、Thom Yorke (Radiohead) 率いる Atoms For Peace “Default”、そして Aphex Twin “Windowlicker”といった数々のアンセムやさらには J. Dilla の“Mixtape”を人力且つたった一人で再現したライヴ映像で世界に衝撃を与えたオランダのマルチ・インストゥルメンタリスト BINKBEATS。ROCK、POSTROCK、ELECTRONICA、HIPHOP、JAZZ など幅広い音楽要素を融合し多種多様な楽器/機材を駆使しながら構築する先鋭的なビートや美しくもエモーショナルなメロディ、それらを独創的なサウンド・スタイルで展開した本作は各500枚限定でプレスされた連作EP「Private Matter Previously Unavailable」 PART1 と PART2 の全曲を収録したオリジナル楽曲としては初のCD化!

既に YOUTUBE で公開されているライヴ映像が100万再生を超えているM1 “Little Nerves”は Daedelus や Jameszoo の作品にも参加しLAビート・シーンの重要レーベル〈Alpha Pup〉からも自身の名義でリリースしている注目の若手鍵盤奏者 Niels Broos をフィーチャー、そしてM3 “In Dust / In Us”には〈Brainfeeder〉から発表された 1st『Fool』が高い評価を受けた Jameszoo もプロデュースに加わるなど次世代の注目アーティストが多数参加! 現在ワールドワイドにツアーを行っており、また DJ KRUSH の最新アルバム『Cosmic yard』(2018年3月)にも参加するなど日本国内でも徐々に活動の幅を広げるなど、その唯一無二なパフォーマンスで世界各地に衝撃を与えている今後の活躍が期待されているアーティストである。

タイトル:Private Matter Previously Unavailable / プライヴェート・マター・プリヴィアスリィ・アンアヴェイラブル
アーティスト:BINKBEATS / ビンクビーツ
発売日:2019.1.9
定価:¥2,400+税
PCD-24796 / 4995879-24796-9
日本語解説:原雅明
p-vine.jp/music/pcd-24796

Additional Synths On All Tracks By Niels Broos
Additional Production On In Dust / In Us By Jameszoo
Additional Vocals On Heartbreaks From The Black Of The Abyss By Luwten, The Humming / The Ghost By Maxime Barlag

interview with Laraaji - ele-king

 去る9月、ヴィジブル・クロークス以降のニューエイジ・リヴァイヴァルともリンクするかたちで、すなわちある意味ではベストとも言えるタイミングで単独初来日を果たしたアンビエント~ニューエイジの巨星、ララージ。そのこれまでの歩みについてはこちらの記事を参照していただきたいが、往年のファンから若者までをまえに、いっさいブレることなく独特の静謐なサウンドを披露してくれたララージ本人は、現在いくつかの位相が交錯しそのもともとの意味がよくわからなくなっている「ニューエイジ」という言葉について、どのように考えているのだろうか。興味深いことに彼は取材中、何度もそれが「実験」であることを強調している。つまり? 鮮やかなオレンジの衣装を身にまとって現れた生ける伝説、彼自身の言葉をお届けしよう。

ニューエイジは、ナウエイジという言い方もできる。「now」というのは「new」な状態がずっと続いているということだ。いまというこの瞬間が続いている状態が「new」なんだ。古くならないということだね。

いつもオレンジの衣装を身につけていますが、その色にはどのような意味があるのですか?

ララージ(Laraaji、以下L):私は太陽の色と呼んでいる。80年代の頭ころ、実験的にというか無意識にこういう色を着ることが多くなっていったんだ。私のスピリチュアル系の先生が言ってくれたことがあって、70年代くらいからこのサンカラーは、自分の内面を表出させる「イニシエイション」の色なんだそうだ。そもそもこの色には「炎」とか「自分を変える(トランスフォーメイション)」という意味合いもある。太陽が沈むことによって古い自分が滅し、太陽が昇るときに新しい自分が生まれる――そういう生まれ変わり、更新みたいなことを意味する。太陽の色にはそういう効果があるんだよ。それともうひとつ、自分が務めるサーヴィス、仕える自分としてのユニフォームでもある。真の自分、もしくはその周りの他の人たちのほんとうの姿に仕える自分だね。

そういったことを考えるようになったのはやはり、70年代に東洋の神秘主義に出会ったことが大きいのでしょうか?

L:東洋哲学に出会ったことで、それをどういうふうに実現していけばいいか、よりフォーカスを絞れた側面はあると思う。そもそも私はバプテスト教会育ちで、「ジーザスとは?」というような環境で育っている。ジーザスこそが理想だから、「ああいうふうになりたい、ああいう良き存在になりたい」と思って育ってきた。「良き存在」とはどういう存在かというと、周りの人のスピリットを昂揚させて昇華させてあげられるような、飛翔させてあげられるような、そういう存在になりたいということだけれども、それは人を笑わせることでもできる。それでコメディとか、役者の道を考えたりもしたんだが、70年代に具体的にメディテイションとか東洋哲学とかメタフィジックス(形而上学)みたいなものに出会い、それを知ることによって、もっと大きなスケールで何かを実現したり、人の魂を軽くするようなことができるんじゃないかと思うようになった。思考科学(サイエンス・オブ・マインド)とか、ポジティヴなものの考え方(ポジティヴ・シンキング)とか、そういうものをより追求するようになって、「これは音楽でもできるんじゃないか」と思うようになった。それでそのふたつの考え方にもとづいて音楽をやっていたらイーノとの出会いがあって、どんどん世界が広がって、繋がっていくことになるんだ。さきほど「他の人たちへのサーヴィス」という言葉を使ったけれど、「音楽で何か人の役に立つことができるんじゃないか」と思って活動していくなかで、ヘルプを求めている人が向こうから寄ってくるようになってきたんだ。それが私の音楽活動の流れだね。

現在の技術をもってすれば、たとえば車のなかでも大聖堂で聴いているような響きで音を楽しむことができる。ニューエイジとは、そういう新たなリスニング経験ができる時代という意味だ。

これはもう何度も訊かれていることだとは思いますが、あらためてイーノとの出会いについて教えてください。

L:私は当時プロデューサーを探していた。自分の音楽を導いてくれる人が欲しくてね。じつは当時はイーノの名前も知らなかったんだ。1978年、ニューヨーク・シティのワシントン・スクエア・パークで私は、目をつぶって、蓮座に脚を組んで、エレクトリック・チターを弾きながら、その音をパナソニックの小さなアンプから出して、演奏をしていた。演奏が終わると、チターのケースに入っているお金を数えた。一枚だけ、お金ではなくてメモが入っていた。読んでみると、それがイーノからの誘いの手紙だったんだ。いま自分は近くのヴィレッジに住んでいて音楽を作っているから訪ねてこい、と書いてあった。「一緒にやりたい」という趣旨のことが書かれていた。それでじっさいに行ってみた。1、2時間そこで話をしたんだけれど、アンビエント云々という話になったときに、私はそれがなんなのかまったくわからなかった。しかし一緒にやったらおもしろそうだとは思ったので、スタジオに入って、実験的にやってみることには合意した。その結果として生まれたのが、『Day Of Radiance』だった。

あなたの音楽もアンビエントと呼ばれることがありますが、それについてはどう思います?

L:それを拒絶するつもりはないよ。それでマーケティングがうまくいくなら、レコード会社が「それが良い」というなら、「どうぞ」と思う。私が音楽をプレイするときは、自分が置かれている環境に浸りきる。一緒に音楽を聴いてくれているリスナーが、音の鳴っている環境に自分を没入させるとでもいうのかな。そういうことができる音楽だという意味では、アンビエントという定義に合致するのかなとは思う。たぶん私がやる音楽は、聴こうと思って聴かなくてもその場に身を置くだけで何かが感じられるタイプの音楽だと思う。夢を見ているような感覚になるかもしれないし、もしかしたら聴きながらクリエイティヴな思想を巡らす人もいるかもしれないし、あるいは何も考えない無の状態になる人もいるかもしれない。そういうふうに、音の鳴っている環境がその人になんらかの影響を与えるというのがアンビエント・ミュージックであるならば、そういう意味においてアンビエントと呼ばれることはたしかにそうだと思う。けれども、もし自分で呼ぶのであれば、「美しいインプロヴァイゼイション音楽」、もしくは「実験的で神秘的な音楽」、そういった呼び方になるね。

他方でニューエイジと括られることもありますよね。その言葉についてはどうですか?

L:ニューエイジについては、「新しいリスニング体験ができる時代」という意味で捉えている。いまのテクノロジー、技術的な進歩によって可能になった、自分たちの耳で捉えることのできるサウンドのテクスチャーとか新たな聴き方があると思う。たとえば、みんな車のなかで聴いたり家で聴いたりすると思うけれど、より良い音でより良いテクスチャーでその音を体験できる時代がいまはある。それがニューエイジだと、私は思っているよ。その意味においてならニューエイジは(私の音楽に)あてはまる。それはいまは、もしかしたら耳だけではなくて身体で感じる音楽になっているのかもしれないし、トランスを感じさせてくれるようなものという意味なのかもしれない。たとえば現在の技術をもってすれば、車のなかで聴いていても、カテドラル(大聖堂)で聴いているような響きで音を楽しむことも可能だろう。そういう新たなリスニング経験ができる時代という意味だね。
 他方でニューエイジは、「ナウエイジ」という言い方もできるかもしれない。ようするに「いま」という時間がどこまでも持続するようなリスニング体験ということで、それを可能にしてくれる音楽に使われるのがドローンだったり、空間を活かした音作りであったり、いわゆるアンビエントと呼ばれる音楽だったりするわけだ。この音楽を聴いていると「いま」という時間が永遠に続くような感覚を味わわせてくれる。ナウエイジ・ミュージックというのも私の音楽にあてはまる言葉なのかもしれないね。

その永遠に続くかのような「いま」というのは、鳴っている音を聴いている(瞬間的な)「いま」ということでしょうか? それとも、もうちょっと広い意味での「いま」ということでしょうか?

L:「new=now」というか、いまというこの瞬間が続いている状態が「new」なんだと思う。古くならないということ。その状態を可能にしてくれるメディテイションとかトランスというものがあって、その間に味わっている「いま」というこの瞬間のことだ。それが永遠にずっと続いていくような感覚。でもじつを言うと、「new」も「now」も人間が作ったものではなくて、自然界のなかにすでに存在している、内蔵されている音の周波数みたいなものなんだ。精神性だよね。「now」というのは「new」な状態がずっと続いていること。そういう意味において、私の言うニューエイジ、ニューエイジ音楽というのはコマーシャルなニューエイジ音楽とは別物だね。私の言っているニューエイジは、それがロックだろうがジャズだろうが、あるいはまったく異文化の音楽でもよいんだけれども、たとえば西洋の人がはじめてガムランを聴いて体験したときに、まったく新しいと思うその感覚、それこそがおそらく私の言いたいニューエイジなのだと思う。
 たとえば、ある音楽でぜんぜん知らない意外な昂揚感を味わったとする。自分の身体から魂が離脱するような感覚を味わったり、それまで知らなかったヒーリングの感覚を味わったり、思いも寄らないイメージが自分のなかに沸いてきたり。そういうことをはじめて味わわせてくれる音楽があるとすると、その「はじめて」「新しい」という感覚がずーっと持続することこそが私の目指すニューエイジ音楽なんだ。他方ではコマーシャルなニューエイジ音楽というのもあって、それはそのときだけ新しければいいから、来月は違うものが、来年はまた違うものがニューエイジになっていく。ひるがえって私の音楽には、その新しい「いま」という感覚が永遠に続くトランス感やドローン感みたいなものがある。そういう意味でのニューエイジだ。ヒーリング体験にもいろいろあると思うが、既存のありがちなヒーリング体験でも、伝統的なヒーリング体験でもない、新しい癒しの体験を与えてくれる音楽だ。

レコード店がラベリングするようなコマーシャルなニューエイジにはある種の現実逃避というか、つらい現実から逃げる手助けをしてくれるようなニュアンスが負わされていることもあると思いますが、あなたのニューエイジにそういう側面はない?

L:そういった逃避的なものを提供するニューエイジ音楽は背骨のない音楽だね。ようするにオルタナティヴなクラシック音楽とか、あるいは実験的なクラシック音楽とか、いろいろな呼ばれ方をするクラシック系の音楽もそういう棚に並んでいると思うけれど、そこで作り手のミュージシャンに「ぜひこれをみんなに伝えたい」という強い思いがあれば、それはそれなりの音楽として表れるだろう。たとえば「ニューエイジ」という名前にカテゴライズされていなくても、ジャズ系の人で本当にヒーリングの力のあるコンテンポラリーな音楽を作っている人はいる。ただそういう人たちがやっていることは、「ニューエイジ」というオブラートに包んだような、安全な感じのする響きでみんなが安心して聴けるような、そういう音楽としてはみんなが認めていないのだろうね。「ニューエイジ」からは、「けっして洗練された耳を持たなくても、誰でも安心して楽しめる音楽ですよ」というようなニュアンスを私は感じる。私の言うニューエイジとは、ほんとうにチャクラからみなぎるエネルギーだったり感情だったり、そういったものに真に根差した音楽で、聴き手がアラスカの人だろうが台北の人だろうが理屈ではなく訴えかけてくるものを理解できる、そういう音楽のことだから、「ニューエイジ」の棚に行っても見つからないかもしれない。「ニューエイジ」の棚で見つかるのはまたべつの種類のものなんじゃないかな。

あなたの音楽にはそのときそのときの時代や社会の状況が映し出されていると思いますか?

L:答えはイエスだね。ただ、そうだな……時代そのものというよりも、時代にたいして自分がどうレスポンスしたいかという気持ちが表れているんだと思う。だから、ものすごく過激な時代であれば、私は逆に、自分の音楽でみんなをもっとリラックスするほうへと導いてあげたいと思う。そのような表れ方だね。

ということはやはり、あなたが活動してきた40年間は過激な時代だったということでしょうか?

L:たぶんそういうことだと思う。過激というのにもいろいろあると思うが、私が最近とくに思うのは、とにかく情報過多ということだ。みんなが歩きながらつねにiPhoneを見ているような状況がある。そうするとインフォメイションが一気にガーッと頭のなかへと流れ込んでくる。そういう時代だからこそ、音楽を聴いているときくらいは軽やかに、余裕のあるシンプルな気持ちになってもらいたい。音楽を作るときの私の目的は、そういった日常や世界の慌しさからシフトさせてあげられるような、そういうものを提供したいんだ。

みんなが歩きながらつねにiPhoneを見ている。情報が一気に頭のなかへと流れ込んでくる。そういう時代だからこそ、音楽を聴いているときくらいは軽やかに、余裕のあるシンプルな気持ちになってもらいたい。

これまでいろんな相手とコラボしてきましたが、2010年代に入ってからはとくに若い世代とのコラボが活発になった印象があります。また、10年代にはあなたの作品が数多くリイシューされるようにもなりました。なぜいまそのようにあなたの音楽が求められているのだと思いますか?

L:そういう話を振られるまで自分では考えたこともなかったな。おそらく私の初期の作品はイノセントで、いろいろと無邪気に探訪していた時代の作品だから、それがいまの若者の気分に合致するんじゃないかな。その罪のなさだったり遊び心だったり、あるいは当時はまったく洗練された機械を使っていなかったから、その垢抜けない感じだったり……言うなればトイ・ミュージック、楽しいおもちゃのような音楽だったからね、それがいまの20代や30代頭くらいの、いろんなことを疑問に思ったり問いかけたりしている世代の人たちにとって安心感があるというか、そういう人たちの気持ちに訴えたということなのかもしれない。私が「自分は何者なのか?」ということを探りあぐねていたころの音楽、それがぴったりくるというのはわかるような気がするね。あの頃の私は既成概念にとらわれず、「こういう音であるべきだ、こういうテクニックを使うべきだ」と言ってくるような権威にたいして、やんわりと反発しながら音楽を作っていて、箱からはみだしたいという思いがあった。その結果としての実験性だった。

いまでも音楽を作るうえで何かに反抗することはありますか?

L:そう言われてみると、いまは外に対して反逆・反抗するというより、自分のなかにガイダンスを求めるという状況になっているから、それが若い人たちに伝わっているのかもしれないね。私はつねに音楽をとおしてより高い導きを与えるということをやっているつもりだから、何を信じてよいかわからなかったり次の段階に進むにはどうしたらいいのか迷っていたりする人たちに、それが伝わるのかもしれない。私の求める高次のガイダンスのようなものが、音楽をつうじて彼らに伝わっている、それが若い人たちに喜ばれる理由かもしれないと、いま思ったよ。私自身は現在、何かに対して反抗するということは考えていない。むしろ自分のなかで、「より革新的でありたい」とか「実験的でありたい」とか、あるいはそのためにリスクを負うとか、そういうことを追求しながら音楽を作っている。洞察というべきかな。そういういま私のなかで起こっていることが、音楽をとおして若い人たちに訴えかけているということなのかもしれないね。

マシューデヴィッドの〈Leaving〉から音源がリイシューされたり、カルロス・ニーニョやラス・Gと仕事をしたりと、最近はLAシーンとの接点が目立つ印象があります。

L:LAというより、カリフォルニアかな。それらはどれも、私がライヴでカリフォルニアへ行って、そこで出会った人たちとの話のなかからはじまったプロジェクトなんだ。フレンドリーで、ほんとうに居心地のいい仲間たちだよ。気づいたらそうなっていたという感じだね。私から頼んだことはない。コンサートを見た人たちからEメールが来るようになって、という感じだな。

近年の作品ではサン・アロウとの共作がけっこう好きなのですが、それも自然ななりゆきではじまったものだったのでしょうか?

L:あれはツアー中のライヴ録りなんだよ。キュー・ジャンクション(Qu Junktions)が組んだツアーだったんだけれど、サン・アロウと一緒にまわっている最中に録った音源から良いところをとって作ったアルバムだ。

昨年はブラジルのサンバ歌手、エルザ・ソアーレスをリミックスしていましたね。

L:BBCで一緒にやったやつだな。スタジオの手配だった。実験プロジェクトのなかで一緒にやったものだ。インターネット配信で……ちょっと番組の名前が思い出せないが、BBCがアーカイヴしている。

最近注目しているアーティストや作品はありますか?

L:エリック・アーロン(Eric Aron)という人の作品。それとスティーヴ・ローチ(Steve Roach)、ジョン・セリー(Jonn Serrie)。エリックとジョンは、シンセサイザーの使い方が、自分がそのなかに身を置いていると気持ちが良くて、それにすごく冒険心がある。先見の明があるような気がするんだ。

長いあいだ音楽を続けてきて、機材だったり考え方だったりいろいろ変化した部分もあると思いますが、40年間あなたの音楽に一貫しているものはなんでしょう?

L:冒険だね。求める、探求する旅。本来の自分の姿をより深く知りたい、その思いで音楽を作っている、その旅、クエスト、これはずっと変わっていないと思う。そのために、静かな部分とか、いまを持続させるとか、そういうことを意識しながらやっていて、それはむかしから変わらないと思う。

 ちょっと感動的なセリフがあった。博物館の学芸員がヴィヴィアン・ウエストウッドのコレクションを差して「この服には歓びがあふれている」と解説したシーンである。パンク・ロックをそのような視点で見たことはなかった。厳密にいうと学芸員が指差したのはパイレーツ・ファッションで、パンク・ファッションではなかったけれど、ヴィヴィアン・ウエストウッドがデザインを手がけた時期としては近い時期のものであり、このドキュメンタリーでも初期のものはひとまとめにされ、とくに区別されているようにも思えなかった。これまで僕はパンク・ロックから「怒り」や「悲しみ」を感じ取ることはあっても「歓び」というキーワードを絞り出すことはなかった。でも、考えてみればそうなんだよな。ボディマップやパム・ホッグといったニュー・ウェイヴのファッション・デザイナーたちは明らかにヴィヴィアン・ウエストウッドから「歓び」を受け継いでいる。パンク・ファッション=コンフロンテイション・ドレッシングから「怒り」や「悲しみ」を引き継いだファッション・デザイナーもいたのかもしれないけれど、どちらかというと僕の目はレイ・ペトリのバッファロー・スタイリングやスローン・レンジャーとして語られるダイアナ妃に向いていた。ボディコンやカラスよりもロンドンのファッション界に多大なインパクトを残して33歳で夭逝したリー・バウリーの方が派手で面白そうだったし、それこそ僕が「歓び」に反応していた証拠だったということになる。ウエストウッド自身が、そして、「バック・トゥ・ヴィクトリア」という伝統回帰へ反転してしまった経緯はここでは語られない。それはファッションのみならずイギリスの文化史にとって大きな転換点をなすものだったと思うのだけれど、ヴィクトリア回帰は誰もが当然のことといった調子でドキュメンタリーは進められていく。それどころか、「セックス・ピストルズについて語るのは辛い」といってウエストウッドは、しばし、口を噤んでしまうのである。え、もしかしてパンクについてはウエストウッドは語らないのかと、僕はちょっと焦ってしまった。

 話を戻そう。パンフレットによると、ヴィヴィアン・ウエストウッドというのが「人の名前だとは知らなかった」という若い人もいるらしいし。
 ローナ・タッカーによるドキュメンタリー・フィルムは労働階級出身のヴィヴィアン・イザベル・スウェアが平凡な結婚生活に「知的な欲求が満たされない」といって別れを告げるところから始まる。部屋の中央に座らされたウエストウッドは最初の結婚相手だったウエストウッド姓をそのまま名乗り続けることになるものの、あらゆる回想についてどこか面倒臭げであり、著名人にありがちな「前しか見ていない」というクリシェで覆い尽くされている。それこそ聞き飽きた台詞である。しかし、そうは言いながらウエストウッドはしっかりと過去を回想し始める。ここは監督の粘り勝ちなのだろう。パンク・ロックについても結局はウエストウッドは細かいことも語り尽くす。雇った人やどのようにしてブティックを運営していたかという側面から語られる「レット・イット・ロック」や「セディショナリーズ」の話はリアリティがあって、これまで「伝説の」という浮ついた接頭辞がお決まりになっていた世界から固定観念をあっさりと解放してくれる。そして、それはある意味、現在のワールドワイドになったウエストウッド・ブランドまで地続きの話にもなっている。自分の目の届かない範囲まで店の規模を大きくしたくないというウエストウッドはなぜか日本とはライセンス契約を結び、中国への出店は計画段階で自分で潰してしまう。ヴィヴィアン・ウエストウッドが大企業の傘下に入らず、インディペンデントを貫いているからできるのかもしれないけれど、このドキュメンタリーでは金の流れも明快に説明されていく。パンク・ファッションで注目された後、1985年には子どもを育てる金がなくて生活保護を受けなければならなかったという説明ともそれは対応し、なんというか、最後まで観ると、お金がなさすぎることもありすぎることもこの才能を潰せなかったんだなという感慨が僕には残るしかなかった。同じくイギリスの靴職人であるマノロ・ブラニクのように産業とはかけ離れた次元で靴を作っていられれば楽しいというスタンスともぜんぜん違う。ウエストウッドは、だから、芸術家というのともちょっと違うのではないか。


 しかし、このドキュメンタリーでもっと驚いたのは夫であるアンドレアス・クロンターラーとの関係や、ケイト・モスが最後にほのめかすLGBT的な世界観だろう。この辺りは観る人の楽しみにしてもらいたいので、ここでは省略。あまりにも内容が多岐に渡るので、なるほどパンク・ロックのことを省略しても話は成り立つのだなと思うけれど、後半部分では、さらにウエストウッドの政治活動に焦点が当てられていく。アクティヴィストのウエストウッドが大きな関心を払っているのが環境問題で、グリーンピースと共に南極の氷を視察に行き、ロンドンのパラリンピックで保護を訴える垂れ幕を掲げ、シェールガスの掘削に抗議してキャメロン首相の別荘に戦車を乗り付ける(パンフレットには首相官邸とあるけれど、これは誤り。シェールガスの掘削に関してはハッピー・マンデーズのベスもこれを阻止しようとして議員に立候補したことがあった)。そして、なにげないシーンだったけれど、70代後半という年齢にもかかわらずウエストウッドは自動車を使わず、自分の店から自転車で帰っていく。カメラが回っている間はずっと不機嫌で威張りちらしているイヤなババアだけれど、自転車で走っていくシーンにはさすがに参りましたというしかなかった。この作品、原題は「パンク、アイコン、アクティヴィスト」なんだけれど、できれば「戦車と自転車」にして欲しかったなーという感じ。
 ちなみに『戸川純全歌詞解説集 疾風怒濤ときどき晴れ』を編集している時に「初期パン」という単語は読者に分かりづらいので「初期パンク」に直していいですかと戸川純さんに訊いたところ、「初期パン」だけは譲れないと言われてそのままにしました。「初期パン」、すなわちヴィヴィアン・ウエストウッドである。

『ヴィヴィアン・ウエストウッド 最強のエレガンス』予告

My Penis is Made of Dogshit - ele-king

 ウータン・クランの『Once Upon A Time In Shaolin』は音楽の大量消費に抵抗するため1部しかコピーがつくられず、これが美術品としてオークションにかけられるというリリース形態を経たのち、2億円で競り落とされたことはヒップホップ・ファンならよく知るところだろう(複製をつくってもいいのは88年後だとか)。誰も聞いたことがないから定かではないけれど、同作にはシェールのようなミュージシャンだけでなくFCバルセロナのサッカー選手だとか、様々なゲストが参加しているらしく、174ページに及ぶブックレットも付いているという。ファレルの曲が1億円で売り買いされていることを思うと2億円というのは意外と安いのかなとも思うけれど、これを競り落としたのはマーティン・シュクレリという人物で、『Once Upon A Time In Shaolin』を競り落とした翌年に証券詐欺罪でFBIに逮捕され(懲役7年)、彼が経営する製薬会社が開発した薬の製造権をあまりにも高く設定したことで「アメリカでもっとも憎まれている男(the most hated man in America)」と呼ばれる起業家である。高校中退以降の学歴も定かではなく、その後はトレーダーたちが興味を惹かれるエピソードにも事欠かない。「強欲の典型(poster child of greed)」を自称しながら、バーニー・サンダースの思想には共鳴しているとして多額の寄付も行っている。シュクレリはカニエ・ウエストによる形を変えていくアルバム『The Life of Pablo』も10~15億円で単独所有権を得たいと持ちかけたそうで、先の大統領戦においてはもしもヒラリー・クリントンが当選すれば『Once Upon A Time In Shaolin』を叩き割り(このアルバムにはバック・アップ・データが存在しない)、ドナルド・トランプが当選したらフリーダウン・ロードですべて公開すると発表したものの、実際にトランプが当選しても1曲しか公開はしなかった。この、あまりに不可解で現代的な人物をテーマにしたのがマイ・ペニス・イズ・メイド・オブ・ドッグシット(あえて訳しません)の新作である。ニューヨークを起点とするロー・ファイ・ジャズ・バンド……とひとまずは分類しておこう。

 前衛音楽にあまり理解がない僕としては彼らの初期作は正直、聴くに耐えない。ガチャガチャいってるだけでうるさいだけだし、中には1秒しかない曲とかはやめて欲しいし。ただし、タイトルにはユニークなものが多く、「イエスは遠くで高笑い」「巨大な皮下注射器によってソドム化されつつ、銃口でサンタクロースを楽しませなければならないG・G・アリン」「君はこの曲をスポティファイで見つけることはできない」「グレン・フライは死んだけど、イーグルスのその他大勢はまだ生きている」と挑発的なものしかなく、曲名の90%以上にはブラック・メタル仕込みの「サタン」という単語が入っている(「ケンドリック・ラマーは退屈だ」というのも悪魔主義に由来するのだろう)。あるいは『Satan's Pregnant Again』がいきなり女性ヴォーカルをフィーチャーしたフォーク・ソング集だったりして途中から音楽的脈絡もなくなってしまい、2013年に『The Essential My Penis Is Made Of Dogshit』として初期作をまとめた後、現代音楽のカヴァー集『My Penis Is Made Of Dogshit Plays The Modern Classical Greats』をリリースしたあたりから様相が変わりはじめる。同作の1曲目はジョン・ケージでおなじみ“4分33秒”で、しかしこれは無音でもなんでもなく、2曲目のテリー・ライリー”In C”もだいぶ前衛的に崩していて、どことなく昨今のミュジーク・コンクレート回帰をバカにしているムードが漂いはじめると、ギャビン・ブライアーズ”Jesus' Blood Never Failed Me Yet”、スティーヴ・ライヒ”come out”と現代音楽を次から次へとスカムでトラッシーな世界観へと投げ込んでいく。そして、トニー・コンラッド”Early Minimalism”はややシリアスながら、ラストの“The Sinking of Titanic”ではついに奇妙なまでの抒情さえ立ち上がってくる。ロシアで新たに起きているナショナリズムの台頭を扱ったチャールズ・クローヴァーによる著作のサウンドトラックだという『Santa Gets An Abortion』ではクリスマス・ソングや「禁じられた遊び」などポップ度を増し、一見正統派のジャズに取り組んだ『Satanic Jazz』にはもはや戸惑うしかない。そのようにして少しずつ存在感を高めていった時期に平行して勝手に『LateNightTales』と題してロバート・ワイアットやハイプ・ウイリアムズ、カエターノ・ヴェローゾやオノ・ヨーコの曲を配信したり、同『Vol. II』ではペンギン・カフェ、カン、ビル・ドラモンド、チャーリー・パーカーをピック・アップし、後にはやはり勝手に『DJ-KiCKS』と題してアクトレスやムーディマン、マウス・オン・マースやダイアナ・ロスの曲をDJミックスしてバンドキャンプに上げているのは大丈夫なんだろうかという心配も。スポティファイにはこの年末にSZAのデモやクイーン・カーターの名義でビヨンセの曲がありもしないアルバムとしてアップされて騒ぎとなったばかりなので、ストリーミング時代における著作権をどう考えるかというアート的な問いかけなのかもしれないけれど(?)。

 そう、2015年にリリースされた『Anal Fissures』は酔っ払いの鼻歌のような「悪魔にはお酒が必要」で始まり、アートといえばなんでも許されるのかというような曲が並び(つーか、基本的には会話ばっかり)、2016年の『Eternal Cuck』ではネオ・アコとスカムのクロスオーヴァーへと舞い戻り、この人たちのやりたいことはどうもわからないと思っていたところにフィジカル・オンリーでリリースされた『The Crucifixing Aidsrape of Martin Shkreli』がとんでもなかった。イントロとアウトロのようにして短い曲「マーティン・シュクレリの悪魔的な呼び出し」と「マーティン・シュクレリの愉快で凄絶な死の後に訪れる世界の治癒」が置かれてはいるものの、メインとなるのは80分近い「マーティン・シュクレリの命運が尽きる時、6台か7台のピアノを使って悪魔がマーティン・シュクレリを磔にする」で、これはタイトルにある通り、複数のピアノが美しくもどこか不協和音を響かせながら、不条理なムードを延々と奏で続けていく。いわゆる無調音楽というやつながら、時にドラマティックな高揚があり、めくるめく高音の乱舞にはシェーンベルグがバリアリック・ミュージックを作曲したようなイメージの退廃と狂気が横溢し、先にあげた『DJ-KiCKS』に“スエーノ・ラティーノ”のデリック・メイ・リミックスをミックスしていたことがなるほどと思えるような曲になっている。それこそパク・チャヌクの作品に通じている方はオムニバス映画『美しい夜、残酷な朝』で彼が展開した拷問シーンの美しさを想起していただきたい。指を一本ずつ切り落とされるプロセスにどうしようもなく見入ってしまう、あの美意識の強さと正気を捨てた正義の恐ろしさ。あれがそのまま音楽になっているような飛躍がこの曲には宿っている。そして、流れるような演奏は最後にディレイを効かせて、まるでスクリュードされたようなエンディングへともつれ出していく。かつてパット・マーラーはインディグナント・セレニティの名義でワーグナーをスクリュードさせ、思いもよらないアンビエント・サウンドを導き出したものだけれど、この曲もまたそうした種類の発明に近いものだろう。それにしてもこれまでさんざん悪魔だ、サタンだと悪ぶってきた連中がマーティン・シュクレリをヒューマン・ガービッジト呼び、富裕層に対する怒りをここまで燃え上がらせるとは。もしかして世界はフランス革命前のムードなんでしょうか(?)。

 ちなみに、このアルバムは「ニューヨークと世界の衰退を代表するクソ野郎に対する純粋な憎しみ」を表現したものであり、配信はなく、CDの収益はすべてマーティン・シュクレリとは対立するライフスタイルのために使われるとのこと。歌詞ではシュクレリの電話番号と住所が読み上げられ、アルバム・タイトルにあるAidsrapeなどという単語は存在しない。

編集後記 (2018年12月28日) - ele-king

 年間ベスト・アルバムを選ぶ作業は面白いには面白いが、正直なところ、ある種の罪悪感もある。作品の順列を付けることにではない。音楽を聴くという体験はその年の作品に限られることではないし、さいしょに聴いたときは好きになれなかったけれど、2年後には気に入ってしまったという作品だってある(その逆もある。そのときは良いと思っても2年後には売りたくなるような作品)。
 また、音楽を聴くという体験は商品として流通している“もの”だけに限定されることでもない。年間ベスト・アルバムでは語られないことのほうが重要だったということは、個人単位ではおうおうにしてある(そのことは紙エレvol.23のコラム原稿を読んでいただいてもわかる)。先日、コリーンのインタヴューを掲載したのも、彼女が2017年に発表したアルバムは、ぼくにとっては2018年も聴き続けた作品であって、聴いた回数でいえばもっとも多いかもしれない作品だった。リスナーにも文化がある。重要なのは音楽を聴くという体験=行為であって、それから引き起こされることの意味について考えてみることだ。
 こういう話はめんどうくさいし、めんどうくさい現実から逃れたいから音楽を聴いているんだという反論なら死ぬほど浴びてきた。が、めんどうくさい現実から逃れるのだけが目的であればカラオケでもハロウィーンでもゲームでも代替可能な、ほかの多くの娯楽と並列されるべき“もの”ということになる。自分も若い頃はテクノでぶっ飛んで踊っていた人間のひとりなので、バカ騒ぎは大好きだ。が、ただそれだけならほかにも選択肢はある。
 結局のところ、ぼくが音楽(それを聴いて書くこと)にこだわっているのは、音楽とはたんに耳に流し込む砂糖菓子ないしはアルコールさもなければドラッグのカクテルではないと考えているからだろう。誤解してほしくないのは、ぼくは耳に流し込むアルコールさもなければドラッグ・カクテルとしての音楽を、まあいまはそれほどでもないけれど、ほんの10年前までは本当に好きだった。だからというわけではないが、決して否定はしない。しかしこの価値観が万能ではないことは、たとえばジョン・ケージの“4分33秒”を曲として認めるひとには説明不要だろうし、逆説的な話だが、ドラッグのカクテルとしての音楽のもっともハードコアな形態すなわちレイヴ・カルチャーを体験しなかったら、ぼくの場合は、社会や政治への関心もいまほど高くはなかったと思う。
 音楽を聴き続けることによって、自慢するほどではないけれど少なからず教養を得てきたと思うし、考えるということの契機を与えられてきているのはたしかだ。音楽メディアの役割もぼくはそこにあると思っている(マウンティングすることではない)。24時間テクノで踊ってもそこに意味はないし言葉があるわけではないという意見に対して、ぼくはそこにも意味と言葉があると思っている。作品は作者の奴隷ではないし、作品を聴くという行為もまたクリエイティヴになりえるはずだ。そうでなければ音楽は文化としての強度を失うだろう。

 さて、唐突ながら、ここで2019年1月に刊行される3冊の単行本の紹介をさせていただきたい。
 まず1月9日にはマーヴィン・リン著(島田陽子訳)の『レディオヘッド/キッドA』。著者はアメリカのオンライン・マガジン『タイニー・ミックス・テープス』の編集長。2013年にele-kingで取材しているひとである。ヴェイパーウェイヴが好きなひとは特別な感情をいだいているメディアかもしれない。パフュームから食品まつりまで、日本の音楽にも積極的にアプローチしているメディアとしても知られている。それはともかく、『レディオヘッド/キッドA』は、音楽を聴くこととはいったいなんなのかという大きな命題にも立ち向かっている本で、ここまでぼくが書いてきたことともリンクするが、著者はより複数のレイヤーをもって『キッドA』について考えている。
 ちなみに同書のなかに次のような一節がある。
 「僕らの好みの中枢というのは、文脈を解き明かすことよりも、聴きながらその体験を深めるために選んだ(無意識の場合もある)価値観に左右されるのだから、時間が魔法の杖を振るったおかげで安全になった枝の上にちょこんと止まって、「なあ、みんなすっかり勘違いしていたんだ、あれはいい音楽だったじゃないか」と言うのは簡単だ。なぜならその視点は対象の音楽が置かれた元の文脈からすでに遠くに隔てられ、それぞれがどんな形で取り組もうと、頭の中で簡単にその文化的位置づけを改められるのだから。そう、どんな形式の音楽だって僕らは「楽しむ」ことができる。とりわけ歴史が政治的、美的にとんがった部分を丸くしてくれたあと(あるいは社会経験を積んだ結果そういうエッジが見えなくなった時)なら、ますます楽しめるだろう」
 昨今でいえばニューエイジ・リヴァイヴァルなどはその典型だ。文化的位置づけに関していえば、ニューエイジはいま旬な砂糖菓子といったところだろう。数年前のヴェイパーウェイヴにおけるミューザックもそうだし、1980年代では『RE/Search』という雑誌による「Incredibly Strange Music」特集もそうだ。60年代の他愛もないカクテル音楽をあらたな文脈で捉え直すこと、ザ・ケアテイカーによる1930年代の78回転盤のソフト・クラシックやジャズのサンプリング・ループもそうした試みである。来年そうそうにはライターの柴崎祐二がいま日本で起きているこうした音楽の読み替えによる文化のあらたなる、活気づいているボトムについてのコラムを書くことになっているのでお楽しみに。
 1月にはほかに、23日に松村正人の『前衛音楽入門』も刊行することになっている。磯部涼の『川崎』ではないが、音楽は地理的/社会的アイデンティティと結びつくことによって意味を成すことがおうおうにしてある。社会学はいまだに音楽を語るうえで多々用いられている。しかしながら、とうぜんのごとく社会学的でも砂糖菓子でもない音楽も存在する。いま現在ぼくたちは「アヴァンギャルド」「実験的」という言葉を、曖昧な意味(耳慣れなさ、ハーモニーの拒否、複雑、破壊的、ノイズ、とっつきづらいetc)で使っている。ジム・オルークは今年ele-kingで掲載したインタヴューで、「私は音楽を楽しみのために作っているわけではありません」と言い切っているが、『前衛音楽入門』とは社会学でも砂糖菓子でもない西洋の音楽の、複雑であり続けた歴史だ(もちろん、その複雑さが反転してミニマルへと発展したし、社会学的な説明だってできるだろう。たとえばシュトックハウゼンはアカデミシャンだがケージは在野であるとか、皮肉なことにパリ万博という資本主義の大波がサティにガムランを教えたとか)。
 西洋音楽が世界の音楽のなかでもとりわけ優秀であるという根拠はないし、むしろ西洋的な評価基準から離れることは大切だと思うが、西洋音楽がもっとも議論を重ねてきた音楽であることは事実だ。『前衛音楽入門』は、20世紀におけるその議論と結実の軌跡を描いている。
 ビートルズの『ホワイト・アルバム』の“レヴォリューション#9”を聴いて、最初は「なんてクソなんだろう」と思っていたのに、数年後には「これってじつは面白いんじゃないか」と思えてきたという経験を持っているひとは少なくないだろう。明らかにある種の音楽はぼくたちの感性を拡張するし、拡張することは悦びであり、それはきわめて音楽的な体験のひとつである。
 ましてや21世紀における前衛音楽〜実験音楽の遺産が、学究肌のための音楽ではなくなっていることは、エレクトロニック・ミュージックを聴いているひとにはわかる話だろう。誰もがかんたんにロバート・アシュレーを聴けることはポジティヴなことだろうし、音のカットアップなら、なんでもかんでもミュジーク・コンクレートと書いてしまうことも、まあニュアンスは伝わるから良いとしよう。現代音楽用語は氾濫しているし、シニカルにいえばちょっと利口そうに見られたいひとが乱用する。だからこそ(ぼくたちがブラック・ミュージックやロックンロールについて知っているのと同じように)知っておきたい歴史があるし、だれかの有名な言葉のように、歴史を知らずしてどうして前に進めるのかということだ。そもそも松村正人はアカデミシャンではなく、ひとりの在野の書き手であり、彼のような人間が「前衛音楽」について書くという行為そのものが21世紀的であるといえる。

 1月31日には、マーク・フィッシャー著(五井健太郎訳)の『わが人生の幽霊たち──うつ病、憑存論、失われた未来』を刊行する(予定)。『資本主義リアリズム』の著者の、生前のこした3冊のうちの1冊で、もっとも音楽について書かれているのがこの本である。「いつから時間は止まったのか」、そして21世紀がなぜ幽霊たちの時代なのか……。ジャック・デリダの『マルクスの亡霊たち』を活用しながら繰り広げるまったく素晴らしい「トリッキー論」「ジョイ・ディヴィジョン論」そしてBurialやザ・ケアテイカーのインタヴュー原稿もある。人文系の読者のためにぼくと坂本麻里子で註釈を加えて、さらに髙橋勇人に解説も書いてもらっている(現時点では未着)。

 「かつてないほどにいまこそジョイ・ディヴィジョンが問題になるのだとしたら、それは彼らが、われわれの時代の憂鬱な精神をとらえていたからにほかならない。いまJDを聴いてみると、このグループはわれわれの現在を、つまり彼らの未来にあたるものを、そのカタトニー的な症状をとおして伝えているのだという、そうした逃れがたい印象を受けるはずである。最初から彼らの作品は、ひとつの深い予兆に覆われていた。つまり未来は閉ざされ、あらゆる確かさは消滅し、向かう先にはただ暗澹たるものが広がるばかりなのだという感覚に覆われていた」(同書より)

 いまのような世知辛い時代に、よほど恵まれているひとでもない限り、2000円以上の出費にはそれなりの覚悟がいることは重々承知している。いま挙げた3冊は、少なくとも1日で読み終えてしまう500円の雑誌とは違って、まあ、1ヶ月以上は楽しめる中身の濃い本ではあることは自負できるけれど、3冊すべてを買うとなると5千円はゆうに超える。ただ、しつこいけれど、リスナー人生において大きなインスピレーションを与える本でもあるので、いつかは3冊とも読んでいただけたらとは思う。
 しかしね……、まずはなによりも、2019年もなんとかサヴァイヴすることが重要だよね。いっしょにがんばりましょう。なんとかね。

※なお、ele-kingではあいかわらず音楽について書きたいひと(ライター)を募集しています。ご興味のある方は、info@ele-king.netまで、件名「ライター」と記載のうえお問い合わせ下さい。どうぞよろしくお願いします。

vol.108:インディの行方 - ele-king

 12月も半ばになると、どこもホリディ・パーティ真っ盛りで、毎日のようにパーティがある。先週末アーティスト友だちのロフトスタジオのパーティに行ったら、40人ぐらい来ていて、バンドも3組出るという豪華なパーティだった。来ていた人は、ほとんどミュージシャン、アーティストで、隣で見ていた人が次々とステージヘ。ミュージシャンは機材を全て持ち込んでセットアップして、それが終わればまたそれを持ち出す。ドラムセットもスピーカーもだ。彼らは大変なのである。こう考えると、エンターテイメントをありがとう、とチップも弾みたくなる。
 私が好きだったのはアイルランドのコークに住む女の子、M.Sea。アルドス・ハーディングを思い起こす、力強く、表情豊かで、そして切なく美しい音楽。自分の祖母、ウィスキー、ガチョウなど身の回りの事を歌う彼女に、あっと言う間に引き込まれた。来月にはアイルランドに帰ってしまう彼女を見れたのは偶然。グリーンポイントのバーのオーナーがパーティに来ていて、早速3日後に、彼女のギグを組んでいた。NYマジック。
https://www.mseamusic.com

 週明けの月曜日には、〈カナイン(Kanine)〉のホリディ・パーティがあった。〈カナイン〉は2002年にスタートしたブルックリンを代表するインディ・レーベルで、『NY: Next wave』(2003)というコンピレーションで、NYのローカルバンドを紹介し、グリズリーベア、チェアリフト、サーファー・ブラッド、ビヴァリー、エターナル・サマーズ、ザ・ブロウ、グルームスなどをリリースしている。〈カナイン〉のバンドは、90年代のギターポップを引き継ぎ、この日のハニー・カフ、タリーズもハッピーでお行儀の良いギター・ポップ。エターナル・サマーズのニコルのソロは、ガイデッド・バイ・ヴォイシーズのメンバーがギターを弾いていたり、元ESのマネージャーがサックスを吹くなど豪華。ザ・ペインズ・オブ・ビーイング・ピュア・アット・ハートのキップの新しいバンドThe Natvralは、ジージャン、ジーンズという服装が90年代ギターポップを象徴していて、音楽も懐メロに聞こえた。
https://kaninerecords.com


Brooklyn vegan DJ (7 inch)


〈カナイン〉のパーティで踊るオーディエンス

 ライヴ・ショーは、レコードとは違う楽しみ方ができる。バンドやまわりからのエナジーを感じたり、何が起こるかわからない、ライヴ感がワクワクさせてくれる。いまどきレアなCDJを使ってギターポップで踊るという15年前にタイムスリップした気分にさせてくれる〈カナイン〉は、世間がどうであれ、自分の好きな音楽に徹底している。だからコアなファンがいるのだろう。


Honey cutt


Nicole Yan (eternal summers)


Tallies

 ライヴといえば、最近Mitskiをブルックリン・スティールという大会場で見た。2018年度のベスト・アルバムで多くのメディアの上位に入っている彼女は、DIYアーティストからメジャーに飛躍した、2018年旬のアーティストといえる。じっさいソールドアウトの会場は、シンガロング、声援をおくるファンで埋め尽くされていた。そしてMitskiは穏やかに「私の作品を評価してくれてありがとう」とファンに答える。


Mitski @brooklyn steel

 ライヴを見るとたいてい気分が高揚するものだが、Mitskiのショーでは心にポッカリ穴が空いたような気分になった。ショーは悪くなかったどころか完璧だった。メディアのバズ(ピッチフォークは2018年のベスト・アルバムに選んでいた)や、まわりの圧倒的な声援、DIYアーティストだと思っていた彼女の変化に自分がついていけなかっただけなのかもしれない。2018年の傾向として女性が強いという動き(me tooムーヴメントなど)があったが、Mitskiはバッチリハマった。ひとりのかわいいアジア人女性が「be the cowboy」という男性的なタイトルのアルバムを出し、孤独感やダークサイドを歌い(この時代ハッピー・ソングなんて誰も求めていない)、共感を得るのは納得できる。みんな不安で何かにすがりたいし、彼女を自分たちのロールモデル的に見ているのだろう。彼女を支持して自分も楽になりたい……たしかに一般ウケしそうなキャラではあるけれど、これってアメリカの選挙に似てませんか、と。少数派は都会で、大多数は田舎にいる。田舎の方が人口が多いから、それがアメリカ代表になる。


 2018年はメディアによって、ベスト・アルバムがバラバラだった。普通なら同じようなアーティストが上位になるのに、あるメディアで上位に入っているものが、別のメディアでは50位にも入っていなかったりする。それだけ情報は豊富で、選択の多い時代なのだろう。

前衛音楽入門 - ele-king

“アヴァンギャルド”とはなんだったのか!?
音楽の限界をめぐる20世紀の冒険
その後ポップ・ミュージックに応用される“前衛”から“実験”へのクロニクル

アヴァンギャルド・ミュージックとはいったいなんなのか!?
それはなんのために生まれ、そして何を遂げて、いまもなぜ重要であるのか?

長年、前衛音楽/実験音楽を取材し、論じ、考察してきた松村正人が書き下ろす、決定的な入門書!
しかも松村初の単著、満を持しての刊行!

松村正人(まつむら・まさと)
1972年、奄美生まれ。1999年より雑誌『STUDIO VOICE』編集部で音楽を担当。
2007年に『Tokion』編集長を、2009年4月号から休刊した09年9月号まで『STUDIO VOICE』編集長をつとめた。
現在 ele-king をはじめ、各所で精力的に執筆と編集を続ける。

目次

序 「前衛」の「共有」
一 「前提」の「共有」
二 「前衛」の「前提」

Ⅰ 前衛音楽はゆっくりと悩めるように──一九世紀末から二〇世紀初頭の作曲家たち
サティ、ドビュッシー
一 窓の外の印象派
二 再帰するサティ
三 ふたたび“再帰するサティ”
四 音響計測者のデザイン
五 おまけにもうひとつ

Ⅱ 無調の世界
シェーンベルクと新ウィーン楽派
一 「a」は最初の一歩
二 その前夜
三 そして当夜
四 表現主義的な、あまりに表現主義的な
五 十二の使徒たち

Ⅲ アメリカの録音(アメリカン・レコーディングス)──記録と再生
チャールズ・アイヴズ、ヘンリー・カウエル、ルー・ハリソン、ハリー・パーチ
一 ローマックスとバルトーク
二 多調多根~多調
三 多調多根~多根

Ⅳ 教師と教え子
オリヴィエ・メシアンとピエール・ブーレーズ、ヤニス・クセナキス
一 教師メシアン、二〇世紀の多面
二 教え子ブーレーズ、二〇世紀の結晶
三 教え子クセナキス、二〇世紀の建築

Ⅴ 電子の歌
カールハインツ・シュトックハウゼン、ピエール・シェフェールとミュジーク・コンクレートの音楽家たち
一 電子の夜明け
二 具体の音楽(ミュジーク・コンクレート)
三 電子の音楽(エレクトロニック・ミュージック)

Ⅵ 実験の誕生
ジョン・ケージと実験音楽
一 からっぽの世界
二 打楽器というノイズ・マシーン
三 ピアノを準備せよ
四 エレクトロ・アコースティックな心象風景(イマジナリー・ランドスケープ)
五 チャンス・オア・インディターミナシー ~偶然性か不確定性か

Ⅶ 不自然な即興
レニー・トリスターノ、オーネット・コールマンとフリー・ジャズ、デレク・ベイリーとフリー・インプロヴィゼーション
一 JAZZ
二 第三の波
三 ジャズの前衛革命
四 アウトサイダーのアウトオブキー
五 散種する前衛
六 純粋な即興
七 不自然な即興

Ⅷ ミニマリズムとその周縁
テリー・ライリー、ラ・モンテ・ヤング、スティーヴ・ライヒ、フィリップ・グラス
一 調性と持続
二 位相と加算

Ⅸ 譜面から録音物へ
サンプリングと音響派、九〇年代エレクトロニック・ミュージックと前衛音楽との関係
一 ポスト・エクスペリメンタル
二 デイヴィッド・グラブスとの対話
三 思考のサンプリング
四 「音響」の「前提」
五 前衛と実験の再生(リサイクル)
六 さようなら二〇世紀

あとがき
参考音源
参考文献

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