「K A R Y Y N」と一致するもの

AJ Tracey - ele-king

 ロンドンのストリートで生まれたラップ・ミュージック「グライム」が話題になっている。特に自主レーベルから発表されたスケプタの『コンニチワ』が、イギリスで最も優れたアルバムに対して送られるマーキュリー賞を受賞したのは、世界のインディペンデント・シーンに勇気を与えただろう。

 そんなシーンでフローとリリックで頭角を現してきた若干22才の新星MC、エージェー・トレーシーが来日し、日本初ツアーをおこなう。
 彼はこれまで4枚のEPをフリー・ダウンロードでリリース。今月もニューヨークのエイサップ・ロッキーとのコラボレーションから、Mumdanceとのモジュラー・シンセのセッションまで、ジャンル・国を超えて活動中だ。その勢いを証明するかのように、昨年ストームジーが受賞したモボ・アウォードで早くも「ベスト・グライム・アクト」にノミネートされ、今夏のフェスティヴァルでも引っ張りだこである。

 ツアー初日の大阪は10月15日(土)、大阪COMPUFUNK RECORDSにて行松陽介やグライムMC 140 + Sakanaなどが共演。東京は10月16日(日)夕方からSkyfish × DOGMA、DEKISHI + Soakubeatsらが迎え撃つ。
 彼の初ツアーは勢いづく「今」のグライムとローカルのストリート・ミュージックが共鳴するイベントになりそうだ。(米澤慎太朗)


10月16日 (日) 18:00 -
MO’FIRE @ CIRCUS TOKYO

https://circus-tokyo.jp/
¥2000 (ADV) / ¥3000 (DOOR) + 1d
前売り : https://jp.residentadvisor.net/event.aspx?881144

AJ Tracey
Skyfish × DOGMA
DEKISHI + soakubeats
Double Clapperz
Carpainter
Underwater Squad
Host : Onjuicy

10月15日 (土) 23:00 -
PCCP @ COMPUFUNK RECORDS

¥2500 (ADV) / ¥3000 (DOOR) + 1d

AJ Tracey
YOSUKE YUKIMATSU
YOUNG ANIMAL
140 + SAKANA
SOUJ
SATINKO
ECIV_TAKIZUMI


AJ Tracey プロフィール

ウェスト・ロンドン出身のAJ Traceyはおそらくここ一年のUKアンダーグラウンドのグライム・シーンの盛り上がりから生まれた最も才能あるMCである。万華鏡のような言葉選びとはっきりと聞き取れるフローはそのシーンにおいて誰にも比較できない独自さを持っている。AJ Traceyはその美声とフローで荒々しいクラブ・アンセムからスイート・ジャムまで器用に乗りこなす。

The Quietus – 彼はマイクでクリアにラップして、常に魅了出来る本当のリリシストだ。

昨年夏の「The Front」でデビューし、秋には“Spirit Bomb”、“Naila”がストリート・アンセムとなった。“Naila”はYouTubeで異例の50万回再生され、Rinse FM、Beats 1 Radio、BBC Radioでヘヴィプレイされた。2016年に入り、Tim Westwood Crib Sessionへの参加、Last Japanとの共作「Ascend」のリリースや2stepレジェンドとして知られるMJ Coleとのコラボレーション“The Rumble”を公開するなど、常に話題のMCだ。

東京 アンダーグラウンド 誰も知らない世界で戦う
Morning and Night 遊びつつまた Hustle, Deal Yen
S.L.A.C.K.“In The Day”『この島の上で』

 HIPHOPはGroundの音楽だ。Groundとはいま踏みしめている「地面」、生まれ育った「土地」、わたしが生きている「根拠」、そこから生まれる明確な「立場」、いま抱えている「問題」だ。しかし、同時にHIPHOPはGroundを内破する。HIPHOPはGroundから生まれ、踏みしめ、拠って立ち、その生まれによって固有の苦悩を抱える人間のGroundを内側から掘り崩し、再構築する。その担い手は、自らのGroundをDigることでGroundを愛し、ゆえに破壊し、再創造するのだ。そこにどんな楽しみがあるかは、やったことがねえやつにはわかんねえな。そこには俺たちだけの、かけがえのない夜があり、踊りがあり、分けもたれた孤独があるんだ。

* * *

  さて、前回の続きだ。S.L.A.C.K.のキーワードである「適当」は、日常的に使う悪い意味での「いいかげん」ではない。この「適当」は前回書いたように、クソみたいだけど、手放したくない、いずれ終わりのくる日常の中で、その限界を意識しつつ、緩く、タフに生き延びようとする思想から出た言葉だ。だからそれは、まず「良い加減」であり、「ちょうどいい」ことを意味している。しかし、それだけではないのではないか? この問いは、表記が5lackになってから、また震災の後、さらに強くなった。
 実際、5lackは震災以後初めてのロング・インタヴューで以下のように答えている。少し長くなるが引用する。

■うん。「適当」っていう言葉は当初は日本のラップ・シーンに対する牽制球みたいな脱力の言葉だったと思うんですね。もう少し気を抜いてリラックスしてやろうよ、みたいな。

スラック:はいはいはい。

■それが、より広くに訴えかける言葉になってたな、と思って。

スラック:漢字で書く「適当」の、いちばん適して当たるっていう意味に当てはまっていったというか。要するに、良い塩梅ということです。だから、いいかげんっていう意味の適当じゃなくて、ほんとの適当になった。まあ、でも、最初からそういう意味だったと思うんですけど、時代に合わせるといまみたいな意味になっちゃうんですかね。ちょっと前だったら、もうちょっとゆるくて良いんじゃんみたいな意味だったと思う。

■自分でも言葉のニュアンスが変わった実感はあるんですか?

スラック:オレがラップする「適当」を、気を抜いてとか楽天的にとか、ポジティブに受けとられれば良いですけど、責任のない投げやりな意味として受けとるのは勘違いかなって。

 ここにダブルミーニングが生じる。S.L.A.C.K.から5lackへ、震災後へ。恐らく5lack自身、また、この島に住む多くの人々が、あの揺れと、波と、何よりも底の抜けた圧力容器からの線によって、変容させられた。正体不明の不安を覆い隠すように、偽物の多幸感の影を追いながら、社会の問題に他人事でいられた冷笑家すら、いまや当事者となった。もはや、「いいかげん」だけではすまない。良くも悪くも、いや、最悪なことに、この「いいかげん」と「無責任」によってあの災厄はもたらされたのだから。「大人」たちのほとんどはこの責任を取ろうとしなかったし、責任を想像すらできなかったが、この時代が生んだ子どもたちは、3.11以後の想像力は、未来からの呼びかけに応答しようとしている。子どものように責任を回避し、駄々を捏ねる大人の代わりに、取れる限りの責任を取ろうとしている。歴史に残るほどの大きな出来事は、言葉の意味すら変容させるらしい。震災以後の日本人の切実さは、「適当」に新たな内実を与えた。それは無責任な「いいかげん」ではなく、「良い加減」だけでもなく、自分のやっていることを自覚し、責任を持つ、ある種の真面目さ、真剣さ、「適切」に近い、本来の語義を取り戻した。

 では、この責任を自覚した「適当」は、何に対して適当なのか? 適して当てはまるのは、何に対して当てはまるのか? 「良い塩梅」とはどのくらいのことを言うのか? その答えは、どこにあるのだろうか? 少し遠回りになるが、5lackに寄って考えていく。5lackは切迫した調子で問う。

モニターに足かけ 調子どうだ?と客に話しかけ 渦巻く種仕掛け 人生につきその耳に問いかける Yeah 分からないことだらけ 見えないが感じる今だけ このステージ上がお前のLife 本番さどうにも止まらない  5lack“気がつけばステージの上”『情』

 ニーチェが「神の死」を宣告してから100年が経つが、近代人はいまだに「私はなぜ生きているのか?」という問いに対する絶対的な答えを喪失し、病んでいる。ある人は、その喪失の中で自死を選択し、ある人は安易な答えを掴む、そして多くはそもそも問うこと自体をやめてしまう。しかし、5lackは真摯に問い、全うにも「分からない」、「見えない」と答える。この答えは答えになってはいないが、その代わりに、ある事実を伝える。感じろ、何にせよお前は生き、お前の人生という舞台に立っている。これは本番だ。「どうにも止まらない」。そして開き直る。

Kick Push 人生 賭けて Believe it あっちよりこっちが絶対いいなんて信じてもなあ そうでもないかもしれねえし いまから決め付けないでさ
 人生 正解などないと思っていいぜ ひでえ目にあったりする それもまあいいぜ Weekend (×5) We Can (×5) I Love My Life  5lack“Weekend”『Weekend』)

 最後のフックまでは、フックの最後、“I Love My”の後にため息や嘆きに似た声が入っているが、最後のフックでは“I Love My Life”と明確にラップしている。いや、歌詞カードがないのだからここでも明確ではないかもしれない。しかし、最後に、確かにそう聴きとれるのだ。人は必ず死ぬ。そして人生に答えはない。「ひでえ目にあったり」もする。だけど、自分の人生をそのまま愛し、肯定できればいい。困難かもしれないが、俺たちにはできる。何度でも言う。“We Can”“I Love My Life”。この開き直りこそ、前回書いた「緩いタフネス」の本質だ。そしてこの回答によって、5lackの哲学の核心に近づくことができる。それは初期からの5lackのスタイル、変化そのものの肯定だ。根本のところで自分を愛し、もはや自分を恥じることがなくなるとき、人間は本物の自由を手にする。自由は、なにものにも寄らず、変化し続けること、創造すること、そのプロセスそのものを可能にし、また肯定する。そういえば、シングル『Weekend』のB面、あるいはもう一つのA面でこう言っている。

変わり続けるのが俺らしい 変わらないものなんてまやかし  5lack“夏の終わりに”『Weekend』

 変化とは、破壊と創造のプロセス、ただいい音楽を作り、それを続けること。そこには、自由ゆえの不安と、孤独の夜が常に付きまとう。だけど、その一回限りの踊りの繰り返しには楽しみもあるだろう。そしてこの踊りによって5lackは、シーンだけでなく、5lackの音楽を聴くリスナーたちに、「強くあれよ」と自覚(コンシャスネス)を呼びかける。別に純粋に政治的なことを言うことだけがコンシャスラップではない。彼がやっているのは間違いなくコンシャスラップだ。それもズールー・ネーションから続いている、HIPHOP的に正統な。
 今回はここまで。詳しくはまた次回にしよう。次回以降も、5lackの踊りと哲学についてもう少し掘り下げ、では誰に対する「責任」を果たそうとしているのか、考えていきたい。

※歌詞は全て筆者が書き起こしたものなので、間違っていたらごめんなさい。

Zomby - ele-king

エスキーなストリート・ミュージックが再び鳴り始める米澤慎太朗

 2008年に〈Hyperdub〉からデビューしたZombyが、再び同レーベルからグライム、「エスキー・ビーツ」の影響を強く感じさせる最新アルバム『Ultra』をリリースした。彼はこれまで、常に新しいモードにチャレンジしてきた。ジャングルや90年代レイヴ・ミュージックを強く感じさせる『Where Were U In '92?』〈Werk Discs〉に始まり、〈4AD〉と〈Ramp Recordings〉から4枚のアルバムをリリースしてきた。その後もTwitter上での熱いツイートで話題を常に絶やさなかった彼だが、ビートレスのトラックをWileyのヴォーカルが引っ張る昨年のシングル「Step 2001」〈Big Dada〉が本作『Ultra』を方向づけたように思う。

 収録曲の中でソロで制作されたものは、Wileyが作った(*1)エスキー・ビーツのアイディアを借用し、サウンドを発展させている。例えば、“Burst”の最初の小節に挟まれる一音はWileyの“Ice Rink”に使われていたエスキー・クリックと呼ばれる音である。また、アルバムのオープニング3曲は「Devil Mix」または「Bass Mix」とWileyが名付けたドラムのないインストゥルメンタル・トラックである。しかし、ただエスキー・ビーツをなぞるだけでなく、ハイファイな音作りで現在にアップデートさせた音像を提示している。
 無機質なベース音と、繰り返すビデオ・ゲームの効果音のような音の隙間には、グライムMCの熱のこもったラップが聴こえてきそうだ。DJがセットに時折混ぜるデヴィル・ミックスの淡々としたトラックは、ドラムなしのビートにマイクを握り続けるMCと、「早くマイクをよこせ」と待っているMCの間に生じる緊張感をさらに高めていく。“Burst”からは、そんなロンドンのラジオ局の様子が想像できた。しかし、ZombyはMCと共作する代わりに、ヴォーカルをチョップすることで、ほんの少しだけ緊張感を和らげているようだ。

 なぜ、今エスキー・ビーツなのか? この2~3年の間で、2000年代前半のエスキー・ビーツの再解釈がイギリスのシーンのトレンドになっていることがあるだろう。その背景には、アメリカの「トラップ」と全く異なり、2000年代初期の「エスキー・ビーツ」(*2)のスタイルにイギリス・グライムのオリジナリティを感じ、インスピレーションを求めようとする新世代のプロデューサーがいる。例えば、LogosやRabit、Visionistなどはエスキー・ビーツの影響を受けているし、今年は、2003年リリースのワイリーの曲“Igloo”を下敷きにしたトラックに、人気MC Stormzyが乗っかった“One Take”がクラブ・ヒットした。それに呼応するかのように、〈Local Action〉や〈DVS Recordings〉など名の知れたものからアンダーグラウンドまで、さまざまなレーベルが、2000年代前半シーンの勃興期にDJの間のみで流通していたプロモ盤を再リリース。2000年代前半のローな音への「原点回帰」がトレンドになりつつある。Zomby自身は年齢非公表のため想像にすぎないが、Zombyはおそらくリアルタイムで2000年代初頭のグライムを経験し、このタイミングでグライムの原点の一つであるエスキー・ビーツを自分なりにもう一度消化してアルバムとして提示したのではないか。

 ソロで制作された粗い質感のトラックはアルバムの方向性を決定づけているが、Burial、Rezzett、Darkstar、Bansheeとコラボレーションしたトラックではフロア向けのトラックとは別のベクトルに音楽性を発展させようと挑戦している。特に、Darkstarとのコラボレーションはどのパートをそれぞれが担当したかわかりやすいという意味でも面白い曲。どのコラボレーションもZombyのサービスとして、また息の詰まりそうなエスキー・ビーツの間の休みとして楽しめる。アルバム通してハイファイながら粗いローな感覚に浸れる一枚だ。

(*1)TR.1“Reflection”、TR.2“Burst”、TR.3“Fly 2”、TR.10“Freeze”、TR.11“Yeti”。
(*2)矩形波のベース音やKORGのTritonのプリセット音を使うスタイル。

米澤慎太朗

Next 小林拓音

[[SplitPage]]

 デリック・メイかと思った。9曲目の“Quandary”のことだ。なぜそう感じたのかはわからない。何度か繰り返し聴いているうちに、別にデリック・メイではないよなと考えを改めるようになった。けれどその後もときどきデリック・メイのように聴こえることがある。なぜなのか、よくわからない。

 日常的に交わされる雑談の紋切り型のひとつに、「誰が誰に似ているか」という話題がある。「鈴木さんって、山田さんに似ているよね」という、あれだ。誰かの顔が別の誰かの顔に似ているなんていうのは実際よくあることで、特に驚くことでもなんでもない。けれど、改めて考えるととても奇妙な事態でもある。なぜぼくたちは、誰かの顔と他の誰かの顔とが似ていると思ってしまうのだろうか。
 じつはぼくはこの類の会話が嫌いじゃない。といってもそれは、本当に鈴木さんが山田さんと似ているかどうかが気になるからではない。そんなことはどうでもいい。そうではなく、そういう話題を通して、発話者が観測対象をどのようにデフォルメしているかが明らかになるのが面白いのだ。発話者は、顔のどの部分を拡大しあるいは逆にどの部分を切り捨てて、対象を眺めているのか。それは、発話者が顔というものを通してどのように世界を見ているかということでもある。だから特に、意見が分かれるときほど面白い。
 たとえば高橋さんは、鈴木さんが山田さんに似ていると思っている。けれど斉藤さんは、鈴木さんが山田さんに似ているとは思っておらず、むしろ佐藤さんに似ていると思っている。このとき、高橋さんの眼差しと斉藤さんの眼差しが、あるひとつの顔の表象をかけてぶつかり合う。その瞬間ほどわくわくするものはない。ひとつの世界ともうひとつの世界が、戦闘を開始するのだ。「誰が誰に似ているか」という雑談は、あるひとりの人間が世界をどのように眺め、どのように切り取っているかをあらわにするのである。
 同じことは、音楽の聴き方についても言える。

 盟友ブリアルと同じように匿名性を堅守し続けてきたゾンビーは、本人は隠しているつもりはないと言っているようだけれども、現代における顔の見えないアーティストの代表格である。顔を隠すという行為は一見、彼に向けられる多様な眼差しを拒絶するということのようにも思われる。だがそれは、ゾンビーという対象に対し固定的なたったひとつの見方をしてくれという要求では全くない。他の分野がそうであるように、音楽の分野も多かれ少なかれ視覚的なイメージによって支配されているが、彼が顔を隠すのは、見た目ではなくあくまでサウンドでその音楽を判断してほしいからだろう。ゾンビーというアーティストは、どこまでもそのサウンドをもって、唯一無二の世界の切り取り方を提示する。
 通算4作目、およそ3年ぶりとなるゾンビーのニュー・アルバムは、ダブステップのその後のさらにその後の地平を切り拓く。まず、冒頭の1曲目“Reflection”から2曲目“Burst”の流れが素晴らしい。もうこの出だしだけで本作が何か特別なものに憑依されていることがわかる。ベルのような上モノが美しい“I”や“Glass”といった中盤のトラックもただただ最高だとしか言いようがない。他のアーティストとコラボしたトラック群も面白い。バンシーとの共作“Fly 2”は吐息に幻惑されながらぶっ壊れたR&Bを鳴らし、10インチとして先行リリースされたブリアルとの共作“Sweetz”はゲットー・サウンドを取り入れつつエクスペリメンタリズムの荒野を走り抜け、ぼくがデリック・メイだと「誤聴」したダークスターとの共作“Quandary”は暗く薄汚れたダンスホールでバレアリックなステップを誘発し、ウィル・バンクヘッドが主宰する〈The Trilogy Tapes〉からのリリースで知られるリゼットとの共作“S.D.Y.F”はジャングルへの愛慕と呪詛を同時に響かせる。1曲1曲に発見があり、戦闘がある。
 ロンドンのワーキング・クラス出身の顔を持たぬアーティストが、サウンドによって切り取ってみせる世界──それはジャングル、グライム、ダブステップ、あるいはアンビエント、そのどれにも似ているようで、そのどれとも似ていない。間に合わなかったレイヴ・カルチャーへの憧憬もあっただろう。ダブステップに対するアンビヴァレントな思いもあっただろう。未だ鳴らされたことのないサウンドへの渇望もあっただろう。このアルバムでは、これまでのゾンビー、いまのゾンビー、そしてこれからのゾンビーが同時に「顔」を覗かせている。そしてもちろん、ゾンビーとは屍体のことだ。

https://youtu.be/YMi8pXOaR9M

 ぼくはこのアルバムを幽霊に似ていると思った。幽霊だから当然、一度は死んでいる。その幽霊の「顔」は、ブレグジットを経たいまのUKの「顔」とよく似ている。グライムからダーク・アンビエントまでを消化=昇華したこの亡霊のようなベースとシンセの狂騒は、奈落へと沈みゆくUKの姿そのものなんじゃないか。あるいはタイトルの『Ultra』が指し示しているのは、いまのUKのあまりに「極度な」状況なんじゃないか。このアルバムは、どこにも逃げ場のない世界で、それでもなんとか生き抜こうともがいている、どこにも属すことのできない者たちに、ひとつの「顔」を与えようとする。このアルバムは、2016年という時代のロンドン・アンダーグラウンド・シーンの意地だ。
 最初にデリック・メイのサウンドを連想したとき、もしかしたらぼくは、もともと顔を見せなかったデトロイトのシーンのことを考えていたのかもしれない。ご存じのように、いまのかれらにはしっかりとした顔がある。対してゾンビーは、いまだに顔を見せようとしない。それはたぶん彼が、顔がない方が「顔」を見せることができるということをよく知っているからだ。
 ぼくはこのアルバムを幽霊に似ていると思った。きみはこのアルバムを誰に似ていると思う?

小林拓音

Zamzam Sounds - ele-king

 ワールド・ミュージックの名作を再発する〈ミシシッピ・レコーズ〉や、アフリカ音楽の名門〈サヘル・サウンズ〉といったレーベルが拠点とするアメリカ北西部の都市ポートランド。多様で豊かな音楽的土壌を備えた同市で2012年から運営されている〈ザムザム・サウンズ〉は、ひとつのスタイルに捕らわれることなくダブの可能性を拡張してきた。その運営を手掛けるのはレーベルの前身〈BSIレコーズ〉の創立メンバーだったふたり、エズラ・エレクソンと彼の公私にわたるパートナーであるトレイシー・ハリソンだ。
 発足以来、〈ザムザム・サウンズ〉は7インチに特化したリリースを展開している。世界中から届けられるデモの中から、その製作者だけにしか成しえない個性を持ったものだけが選りすぐられ、ルーツ・レゲエ、ステッパーズ、ダブテクノ、ダブステップなどの少し斜め上に位置づけられるような異質で新鮮なサウンドが世に送り出されている。
 今回は、これまでに発表された40を超えるタイトルの中から、レーベルがカヴァーする領域の広さを感じ取れる5枚を選んだ。その多様な音楽スタイルもさることながら、ファインアートの学位を取得しているハリソンが手作業でシルクスクリーン・プリントを施すジャケット・デザインも同様に味わい深い。


RSD - World Hungry / Dub Pride (ZamZam Sounds)

開放感のあるステッパーズ“ワールド・ハングリー”と、エコーとリバーブによってさらなるうねりがグルーヴに加わる“ダブ・プライド”を収録。ロブ・スミス節炸裂のベースラインとブレイクビーツによるトラックは、まさに彼だけにしか成しえない個性に満ちている。

Deadbeat feat. Gregory Isaacs - Claudette (ZamZam Sounds)

以前からダンスホールとテクノを融合させたトラックを制作しているデッドビート。テクスチャーを豊かに加工したスネアや明瞭なミックス処理によって、これまでにない印象を生むダンスホールが実現している。このようなトラックをリリースするあたりにザムザム・サウンズらしさを感じる。

Beat Pharmacy - Beach Dub / Bowling Dub (ZamZam Sounds)

ダウンビートに乗せてダビーなエフェクトがセッションしているかのように絡み合う“ボーリング・ダブ”が面白い。近年のビート・ファーマシーは以前に増して特異なダブ・サウンドを探求するようになっている。

Compa - Shaka's Truth / Atha Dub (ZamZam Sounds)

ダブステップの総本山〈ディープ・メディ〉からもリリースしているコンパが超強力デジタル・ステッパーズをドロップ。ズシリと打ち込まれるキックと、擦り付けたように少し歪ませたハットによって堅牢なビートが構築され、フロアを熱く盛り上げる。

Hieronymus - Silk Road / Pound of Pepper (ZamZam Sounds)

ミニマルダブを制作していたころのキット・クレイトやポールがもっとルーツに接近していたら、こんなトラックになっていたのでは? と思わせられる多様な要素を含んだスローステッパーズ2曲を収録。エレクソンとハリソンの懐の深さがうかがえる1枚だ。

寺尾紗穂 - ele-king

 『青い夜のさよなら』から昨年の『楕円の夢』までしばらくまがあいたので、ときをおかず新作が出ると聞いたときは意外だった。『楕円の夢』にせよ『青い夜のさよなら』にせよ、その前の『愛の秘密』もそうだったけれども、寺尾紗穂のアルバムは聴く者の身を切るような鋭さがある一方で身にしみるやさしがある。ときに原発問題や貧困や格差を歌いながら、それらを観念にとどめず、暮らしと地つづきの場所に足を踏みしめた反動で飛躍する声とことばのひらめきをもっている。時事問題を道具立てにするのではなく、道具になりがちなそれをいろんな角度からためつすがめつする――、というかやはり「うた」なのだと思うのですね、ともってまわったことを言い出しかねないほど、寺尾紗穂の歌が説得的なのは彼女の歌を耳にされた方はよくご存じである。しかも近作では編曲や客演でも野心的な試みがなされていて、個々の歌の集まりとして以上にアルバムの作品としての印象がきわだっていた。ピアノを弾き語るシンガー・ソングライターのたたずまいをくずさずに、歌のつくる磁場がひきよせるひとたちとの関係は寺尾紗穂の音楽を実らせてゆくのを耳にしてきた私たちにこのアルバムはしかし、ここ数作とはちょっとことなる肌ざわりをもたらすかもしれない。
 というのも、『わたしの好きなわらべうた』と題したこのアルバムはタイトルどおり、日本各地に伝わる童歌を集めたもの。童歌を厳密に定義するのはいくらか紙幅がいるが、wikipediaにならって端的にいえば「こどもが遊びながら歌う、昔から伝えられ歌い継がれてきた歌」となる。作者不詳の伝承歌で民謡の一種であり、子どものころだれもが口ずさんだ「ちゃつぼ」「かごめかごめ」「とおりゃんせ」「ずいずいずっころばし」などの遊び歌、数え歌、子守歌などの総称であり、つまるところこのアルバムに寺尾の筆になる曲は1曲もない。というと、オリジナリティに欠けると早合点する方もおられるかもしれないし、この手のコンセプトにありがちな教条的な作品かもしれないとみがまえる方もいないともかぎらない。ところが『わたしの好きなわらべうた』はそのような心配をよそに飄々とゆたかである。歌とピアノ、ときにエレピを寺尾が担当し、『楕円の夢』にも参加した伊賀航やあだち麗三郎はじめ、歌島昌智や青葉市子や宮坂遼太郎らが客演した抑制的な作風は原曲のかたちを崩さず、いかに伝えるかに主眼を置きながらも、聴けば聴くほど、歌い手と演奏者の自由な解釈と発想がうかがえる仕上がりになっている。なかでも、多楽器奏者歌島昌智の活躍は特筆もので、スロバキアの羊飼いの縦笛「フヤラ」を吹き鳴らしたかと思えば、インドネシアのスリン、南米のチャスチャス、十七弦箏まで自在に操り、『わたしの好きなわらべうた』に滋味深い味わいを添えている。楽器のセレクトからうかがえる意図は、童歌というきわめてドメスティックな媒体にワールド・ミュージック的な音色を向き合わせる実験性にあるはずだが、新潟の長岡と小千谷に伝わる冒頭の「風の三郎」での歌島のフヤラが尺八を思わせるように、寺尾の狙いはおそらく異質なものの同居というより地理的な隔たりを超えた響きのつながりを聞かせることにある。地球の反対側の楽器なのにどこかなつかしい音色。その数々。
 「ノヴェンバー・ステップス」で尺八を吹いた横山勝也の師匠である海童道祖はかつて武満徹との対談で彼が望む音とは「竹藪があって、そこの竹が腐って孔が開き、風が吹き抜けるというのに相等しい音」だと述べた(立花隆『武満徹 音楽創造への旅』からの孫引き、p475)。「鳴ろうとも鳴らそうとも思わないで、鳴る音」こそ「自然の音」であり尺八の極意はそこにある――などといわれると禅問答っぽいというかもろそのものだが、子どもが適当に孔を開けた物干し竿でもいち音の狂いもなく奏したといわれる海童道祖の楽音もノイズもない音楽観は武満のいう「音の河」とほとんど同じものであり、武満の雅楽への開眼に大きな影響を与えたが、一方で西洋音楽の作曲家である武満は東洋と西洋はたやすくいりまじらないといいつづけた。ここで武満の考えの細部に立ち入るのは、毎度長すぎるとお小言いただく拙稿をいたずらに長引かせるのでさしひかえるが、武満のフィールドである西洋音楽と大衆歌では形式と独創性にたいする態度がちがう。大衆の音楽は混淆を旨とし伝播の過程で姿を変える。寺尾紗穂は童歌をとおし歴史と地理の裏のひとびとの交易と親交を音楽で幻視する。「ねんねんねむの葉っぱ」のマリンバはバラフォンのようだし、「いか採り舟の歌」や「七草なつな」は日本語訛りのブルースである。図太いベースとピアノの左手は齋藤徹のユーラシアン・エコーズを彷彿させるし、ペンタトニックが人類のDNAに刻まれているのは、エチオピアの例をもちだすまでもない。
 というと、いかにも気宇壮大だが聴き心地は質朴で恬淡としている。歌詞のもたらす印象もあるだろう。「ごんごん」と吹く風や「ねんねん」と子どもをあやす母親、「こんこ」と降る雪やあられの呪文めいたくりかえしを基調に、寺尾紗穂は歌詞の一節をリレーするように歌で北陸、山陰、山陽、東海、東北、関東、関西をめぐり、われにかえったかのようなピアノ一本の弾き語りスタイルによる「ねんねぐゎせ」で『わたしの好きなわらべうた』は幕を引く。
 寺尾紗穂はこれまでも童歌を舞台にかけてきたが、『わたしの好きなわらべうた』をつくるにいたった経緯を「WEB本の雑誌」の連載に記している。それによれば、子どもをもち母になり、子どもたちにYouTubeでみせた「日本昔ばなし」の山姥の話に興味をそそられ、調べていくうちに小澤俊夫氏が主催する季刊誌「子どもと昔話」で徳之島の民謡「ねんねぐゎせ」に出会ったのだという。寺尾紗穂が文中で述べるとおり、小澤氏はあの小沢健二の父であり、オザケンの「うさぎ!」の連載でこの雑誌をご存じの方もおられよう。寺尾紗穂はこの本が採録した「ねんねぐゎせ」の譜面の主旋律にたいして左手(和声)のとりうる動きの多様さに表現欲を駆り立てられた。単純な旋律と繰り返し、ヤマトのひとには意味のとりにくいシマグチの歌詞とあいまって、「ねんねぐゎせ」はおそらく童歌に憑きものの呪術性を帯びていたのではないか。
 私は両親とも徳之島の産の島の人間だから「ねんねぐゎせ」はそれこそアーマの、あまり上等とはいえない歌声で記憶の基底部に眠っているがしかし私の記憶では「ねんねぐゎせ」の歌詞は『わたしが好きなわらべうた』のヴァージョンとは似ても似つかない。ためしにアーマに歌ってもらったら以下のようであった。

ユウナの木の下で
ゆれる風鈴 りんりらりん
ねんねぐゎせ ねんねぐゎせ
ねんねぐゎせよ

なくなくな なくなよ
あんまがちぃから ちぃぬまさ(母さんがいったら乳をのませるよ)
ねんねぐゎせ ねんねぐゎせ
ねんねぐゎせよ

 1行あけて下はアルバム収録ヴァージョン。ユウナの木は和名をオオハマボウといい、徳之島町の町木であるが、町のHPにも「徳之島の子守唄にも登場する」とあるので、公式にも現在は上段の歌詞が一般的であることを考えるとアルバム収録の歌詞はかなり古いものだと断定してよいだろう。これはあくまでも仮説だが、大正終わりごろから昭和初期にかけての新民謡ブームが「ねんねぐゎせ」の歌詞の変形におそらくは寄与したのではないか。新民謡とは演歌のご当地ソングにそのなごりをとどめる、土地土地のひとびとの愛郷心が高めんと、名勝旧跡、物産名産を歌詞に織り込んだ歌で、田端義夫の「島育ち」(昭和37年)ももとは在奄美の作曲家三界稔による戦前の新民謡である。バタヤンの復活からほどなく三沢あけみと小山田圭吾の父三原さと志が在籍したマヒナスターズとの歌唱による「島のブルース」(吉川静夫作詞、渡久地政信作・編曲)もヒットを飛ばし、昭和38年の紅白に両者はともに出演。にわかに島唄ブームとなっていた、とはいえ、これは古来から歌い継がれたシマ唄ではない。話がまたぞろ長くなって恐縮ですが、シマ唄のシマは島ではなくムラ、共同体の最小単位を指す、ヤクザがなわばりの意味でつかうシマにちかい。方言を意味する「シマグチ」のシマも同義。おなじ島でもシマどうし離れていると言い回しがちがってくる。
 寺尾紗穂が準拠した歌詞も、私は聴きとりがどのような契機でなされたのか存じあげないが、私のシマでは母を「アーマ」と呼ぶが、歌詞では「あんま」と詰まっていることを考えるとおなじシマではない。それをふまえ、訛音を補いつつ採録した歌詞を読むと、どうしても一箇所私の解釈とはちがうところがでてくる。
 「ねんねぐゎせ」は四連からなる歌詞だが、その四連目、つまり最終ヴァースは以下の歌詞である。

ねんねぐゎせ ねんねぐゎせ
あんまとわってんや なぁじるべん
ねんねぐゎせ ねんねぐゎせ
ねんねぐゎせよ

 2行目の歌詞を寺尾紗穂は「母さんとお前は実のない汁だね」とヤマト口に訳している。「なぁじる」の「なぁ」は「No」にあたることばでそのあとにつづくものがないという意味であり、「なぁじる」だと「具のない汁」だし、頭を意味する「うっかん」の頭に「なぁ」をつけた「なぁうっかん」となればアホとかバカの意で、私が子どものころは友だちのあいだではラップでいうところの「ニガ」のニュアンスでもちいていた。「YOなぁうっかん」といった具合である。それはいい。私はちょっと不思議に感じたのは、「わってんや」の解釈で、資料では「お母さんとお前」となっているが、「わってん」のように「わ」系列の主格は単数にせよ複数にせよ「私(たち)=IないしWe」を指すことが多く、「お前(You)」はふつう「やぁ」か尊称では「うぃ」となる。言葉尻をとらえたように思われたくはないが、ここが「お前」であるか「私」であるかは歌詞の視点に大きく影響する。では歌詞のなかの「私=わん」とはだれか。おそらく母が水汲みや畑仕事で不在のあいだ幼子の子守を任された年長の姉ないし兄だろう(とはいえ、子守は当時女の子の仕事だったから兄の線はまずない)。つまり歌詞は子守をたのまれた姉の視点であり、姉はさぼりたいから第二連で「わんがふらんち なくなよ(私がいないからって泣くんじゃないよ)」というのであり、「なきしゃむんぐゎどぅ なきゅりよ(泣く子は泣き虫の子だよ)」には親が子をさとすのではなく、「泣くな」と赤ん坊の二の腕をつねるような調子がこもっている。「なぁじるべん」の「べん」は限定の助詞だが、ここにも「なぁじるばっかだな」という不満を私は聴きとってしまう。そもそも赤ん坊は第一連で歌うように「あんまがちぃから ちぃぬまさ(これも「母さんがいったら」となっているが「母さんが来たら」のニュアンスにちかい。つまり「ちぃ」を「Go」ととるか「Come」ととるかということである)」わけだから、わざわざなぁじるを啜らなくともよい(から赤ん坊はいいよなという含みもあるだろう)。
 年端のいかない少女たちに視点を定めると唄は生活苦におしつぶされそうな悲哀を歌ったというより生活の苦しさの理由を理解しえない幼子たちの直感的なそれゆえに反論のしようのないが微笑ましくもある異議申し立てに聞こえてくる。生活はたしかに苦しい。ワンのアーマの時代には水道は引かれていたらしいが、祖父母の代では水汲みは暮らしのなかの大切な仕事だった。それでも、この島の連中の気性を身につまされている私なぞは、ツメに明かりを灯すような生活であっても、灯した火で汁でもゆがいて食うか、なぁじるだけどな、というほどの意思を感じるのである。
 徳之島の秋津には「やんきちしきばん」ということばがあった。「家の梁がうつるほど(薄い)おかゆ」のことだが、それほど貧しくとも、子はきちんと育てあげるという意味がある。これは根拠のない連想にすぎないが「なぁじる」とそのことばは引き合ってはいまいか。私にとって「なぁじる」は具はなくとも反骨の出汁が利いている。
 私が高田渡の「系図」を聴くたびに涙するのはそのような理由からかもしれない。そして寺尾紗穂は高田渡の境地にちかづきつつある数少ないシンガー・ソングライターだろうというと寺尾さんはかぶりをふるかもしれないが、古今東西津々浦々の歌をかきあつめ、あらたな息吹を吹きこむのは歌手としてなまなかなことではない。私は彼女の歌がなければ島の歌をあらためて考えることもなかった。シマ唄では、とくにすぐれた歌い手は唄者と呼ばれるが、唄者にもっとも求められるのは、そのひとの唄を聴いた者がみずからのシマに帰りたくなるような気持ちをかきたてるような唄であること。シマ口でその感情は「なつかし」というのだが、「なつかし」にはヤマト口の「懐かしい」以上の、唄にふれた瞬間おとずれる情緒の総体の意をそこにこめている。
 数学者の岡潔はエッセーで頻繁に「情緒」にふれているが、昭和39年に書いたタイトルもズバリ「情緒について」と題した一文で絵画や禅や俳句における日本的情緒を検討した著者は文章の後半で不意に以下のように述べている。

この前もこういうことがあった。前田さんがしばらくぶりで家に見えて、やがてピアノを弾いた。私は何とも知れずなつかしい気持になった。そしてなつかしさの情操は豊かな時空を内蔵しているものであることがよくわかった。最後に私は子供の時正しくこの曲で育てられたのだと思った。これは世にも美しい曲であって、西洋の古典を紫にたとえるならば瑠璃色だといいたい感じであって、しかも渾然として出来上がっている。何ですか、と聞くと「沖の永良部島の子守歌です」ということであった。この曲はバリエイションを添えて売り出されているということであるが、もとのものを弾いて欲しいと思う。真に日本的情緒の人ならばこの曲は必ず「なつかしい」と思う
 (岡潔著、森田真生編『数学する人生』新潮社 p131)

 寺尾紗穂の「WEB本の雑誌」の原稿にあるように、徳之島を民謡音階の南限とすると、その南隣の沖永良部は琉球音階の北限となる。これは学説的にもよくひきあいに出され、私としては単純にその説にあてはまらない例も多々あると思うのだが、それはさておき、岡潔がヤマトの音階と琉球音階の境界に日本的情緒を見出したのはなぜか。岡潔がなにを聴いて「なつかしい」と感じたかはいまとなっては知るよしもない。この原稿が上述のバタヤンや三沢あけみの歌がヒットしたまさにそのときに書かれたことも考慮しなければならないだろう。とはいえ、岡潔はそこに日本的な情緒を聴きとった。私は柳田や折口が南の島に日本の原風景をみたことは、官僚であり国学の出身であった者たちのことばとしておいそれと賛同しがたいところもある。そんなものを押しつけるなよと思いもする。そこに誇りを感じずとも歌は歌であり、学術の対象となりはてるより日々歌われたほうが歌もよろこぶでしょうに。
 島には「なつかし」のほかにも多義的なことばがいくつもある。「ねんねぐゎせ」のような子守歌が感じさせるのは日々の営みへの慈しみではないだろうか。私はまたしてもながながと書き連ねたが、作中の人称の問題など些末なことにすぎないのである。それよりも、そこにある日々がどのようなものであるかであり、歌がなにをリスナーのなかにたちあげるか。考えるより先に無条件につつみこみたくなる感情をシマ口では「かなし」という。漢字をあてるなら「愛(かな)し」。『わたしの好きなわらべうた』がおさめるのは、ときと場所を問わず現代の私たちにうったえかける「かなしゃる歌ぐゎ」の数々である。(了)

Kan Sano - ele-king

 カン・サノ×七尾旅人といえば、「サーカスナイト」のリミックス・ヴァージョンが思い起こされるが、あのアーバン・メロウなトラックにやられちゃった方々に朗報である。カン・サノが七尾旅人をフィーチャーした久々の新曲、『C’est la vie feat. 七尾旅人』を10月30日にリリースすることが決定した。しかもアナログ7インチで、だ。

 ソロ名義でのフジ・ロック・フェスティバル2016出演やセイホー・バンドセットへの参加、そして藤原さくらのライヴ・サポート等、近年活動の幅を広げているカン・サノであるが、今回リリースされる『C’est la vie feat. 七尾旅人』では自身のキーボード・スキルを駆使した、昨今のR&Bシーンに呼応するようなエレクトロなアーバン・ソウルを聴かせてくれる。この7インチには浮遊感のあるエレクトリック・ピアノと七尾旅人の詞が印象的な「C’est la vie」と、カン・サノ自身がヴォーカルをとった「Magic!」の2曲収録されており、どちらの曲においても、更新し続ける彼のエレクトロ・サウンドを堪能出来るだろう。初回生産分のみの限定盤とのことなので、気になる方はお早めに。

 ちなみにカン・サノは、明日22日にWWW Xにて開催されるD.A.N.によるレギュラー・パーティー、「Timeless」にセイホー・バンドセットのメンバーとして出演する。チケットはソールド・アウトで、当日券の販売は未定のようだが、このステージではソロ名義のカン・サノとは違う一面を見せてくれるだろう。これからも、カン・サノから目が離せないようだ。

Kan Sano / C’est la vie feat.七尾旅人
発売日 : 2016年10月30日(日)
発売元 : origami PRODUCTIONS
価格 :¥1,389+税
試聴音源:https://soundcloud.com/kan-sano/cest-la-vie_magic


■Kan Sano

キーボーディスト/トラックメイカー/プロデューサー。
バークリー音楽大学ピアノ専攻ジャズ作曲科卒業。在学中には自らのバンドでMonterey Jazz Festivalなどに出演。
キーボーディスト、プロデューサーとしてChara、UA、大橋トリオ、RHYMESTER、佐藤竹善、Madlib、Shing02、いであやか、青葉市子、Seiho、韻シスト、Nao Yoshioka、Ovall、mabanua、須永辰緒、七尾旅人、Monday Michiru、羊毛とおはな、片平里菜、Hanah Spring、COMA-CHI、Twigy、アンミカ、Monica、ゲントウキ、Eric Lauなどのライブやレコーディングに参加。
また新世代のビートメイカー、プロデューサーとして国内外のコンピレーションに多数参加する他、LION、カルピス、CASIO、NTT、ジョンソン、日本管理センターのCMやJ-WAVEのジングル、AnyTokyo 2015の会場音楽など各所に楽曲を提供。
さらにSoundCloud上でコンスタントに発表しているリミックス作品やオリジナル楽曲がネット上で大きな話題を生み、累計40万再生を記録。
また、トラックメイカーとしてビートミュージックシーンを牽引する存在である一方、ピアノ一本での即興演奏でもジャズとクラシックを融合したような独自のスタイルで全国のホールやクラブ、ライブハウスで活動中。
“Kan Sano” の名は、様々なシーンに破竹の勢いで浸透中!
https://kansano.com/

Brian Eno × Dentsu Lab Tokyo - ele-king

何もかもが俗悪きわまる再版であり、無益な繰り返しなのである。過去の世界の見本がそのまま、未来の世界の見本となるだろう。ただ一つ枝分かれの章だけが、希望に向かって開かれている。この地上で我々がなりえたであろうすべてのことは、どこか他の場所で我々がそうなっていることである、ということを忘れまい。 オーギュスト・ブランキ『天体による永遠』浜本正文訳

 ブライアン・イーノ? ああ、なんか有名なじいさんね。アンビエントだっけ?──若いリスナーたちにとってイーノとは、もしかしたらその程度の存在なのかもしれない。しかし、実際の彼はそんなのんきなご隠居さんのイメージから最も遠いところにいる。2016年のブライアン・イーノは、たとえばアルカやOPNと同じように切実に、「いま」という時代のアクチュアリティを切り取ってみせようと奮闘しているアーティストのひとりである。いま彼が試みていることは、あるいはフランク・オーシャンが実践するような複合的な展開、あるいはビヨンセが体現するようなポリティカルなあり方、あるいはボウイの死のようなインパクト、そのどれにも引けを取らない強度を有している。
 4月末にリリースされたイーノの最新作『The Ship』は、歌とアンビエントを同居させるというかつてない音楽的実験を試みる一方で、そこに大胆に物語性をも導入するという、これまでの彼のどのアルバムにも似ていない野心的な作品であった。そしてそれはまた、タイタニック号の沈没および第一次世界大戦という出来事を「いま」という時代に接続しようとする、非常にポリティカルな作品でもあった。そのような複合性を具えた同作は、『クワイータス』誌が選ぶ2016年上半期のトップ100アルバムのなかで5位にランクインするなど、各所で高い評価を得ている。

 去る9月15日、『The Ship』のタイトル・トラックである "The Ship" の新たなミュージック・ヴィデオ「The Ship - A Generative Film」が公開された。
 とにかくまずはデスクトップのブラウザから、この特設サイトにアクセスしてみてほしい

トレーラー映像

 このヴィデオでは、イーノとDentsu Lab Tokyoとのコラボレイションによって開発された「機械知能(Machine Intelligence)」が、"The Ship" にあわせて自動的かつリアルタイムに、一度限りの映像を生成していく。あらかじめ20世紀の様々な歴史的出来事を学習させられた「機械知能」が、刻々と更新されていく世界中のトップ・ニュースを解釈し、それに類似した過去の出来事をピックアップして新たな映像を生み出していく、というのが本ヴィデオ作品の大まかな仕組みである。サイトへアクセスした瞬間に新しい映像が自動的に生成されるため、われわれはその時々でまったく異なる映像を視聴することになる。
 画面の左側では、ロイターやBBCの最新の記事がリアルタイムで更新されていく。画面の上部では、その記事の写真から「機械知能」が連想した過去の様々な写真が召喚され、ランダムに配置されていく。更新されるニュース写真とそれに基づいて召喚される過去の写真は、互いに何らかの関連性を有したものであるはずだが、必ずしも同じような出来事を記録したものであるとは限らない。要するに、「機械知能」が最新の写真を見て、それをあらかじめ記録された膨大なデータ=「記憶」と照合し、何か他のイメージを連想していくのである。したがって、そのプロセスには「誤認」の発生する余地がある。
 たとえば人は月を見たとき、そこに単に地球という惑星の衛星としての天体を認識するのではない。ある者はそこにウサギの影をみとめ、またある者はそこにカニの影をみとめる。それは、観測者が自らの所属する文化の体制に縛られて無意識的におこなってしまう、創造的な「誤認」である。では、はたして「機械知能」にもそのような「誤認」をおこなうことが可能なのか──それが本ヴィデオ作品のメイン・コンセプトである。

 このアイデアの一部は、すでに『The Ship』でも試みられていたものだ。表題曲 "The Ship" の二つ目のパートである "The Hour Is Thin" は、マルコフ連鎖ジェネレイターがタイタニック号の沈没や第一次世界大戦に関連する膨大な文書を素材にして自動的に生成したテクストを、俳優のピーター・セラフィノウィッツが読み上げていくというトラックであった。今回のヴィデオ作品はいわばその映像ヴァージョンであり、"The Hour Is Thin" で試みられていた偶然性の実験をさらに推し進めたものだと言えるだろう。
 イーノはこれまでも『77 Million Paintings』といった映像作品や、『Bloom』、『Trope』といったスマホ用アプリなどで、決して(あるいは、可能な限り)繰り返しの発生しない映像表現や音楽表現の探究を続けてきた。それは「ジェネレイティヴ(生成する)」と呼ばれる着想であるが、本ヴィデオ作品もそのような試行錯誤の径路に連なるものである。それは、ある何らかの制約のもとで能う限り偶然性や一回性を追求しようとする手法であり、あるいは、ある何らかの秩序のなかでいかにその秩序から逸脱するかを思考しようとする手法である。そのように「ジェネレイティヴ」な探究の最新の成果として公開された本フィルムは、何よりもまずブライアン・イーノという作家によって提出されたアート作品なのである。

 だが、このヴィデオ作品のポテンシャルはそこにとどまらない。本ヴィデオ作品が興味深いのは、「ジェネレイティヴ」という技術的な手法が、世界の報道記事とリアルタイムで関連付けられているというところである。つまりこのヴィデオは、極めて政治的な作品でもあるのだ。たったいま発生した出来事も実はすでに過去に起こったことの繰り返しなのではないか、いや、完全に同じ出来事が生起することなどありえないのだから、仮に繰り返しのように思われる出来事が起こったのだとしたらそれはあくまで「誤認」によって恣意的に過去の出来事が捏造されたにすぎない、いや、しかし「誤認」が発生するということは少なくとも過去の出来事と現在の出来事との間に何らかの類似点が存在するということではないか、いや、……。
 これは、まさに『The Ship』というアルバムが喚起しようとしていたことである。本ヴィデオでは「機械知能」による「誤認」を通して、たったいま人間がおこなっていることとかつて人間がおこなったこととの間に、強制的に回路が繋がれる。そのサンプルのひとつが、『The Ship』ではタイタニック号の沈没と第一次世界大戦であったわけだ。それに加え、一度として同じ画面が立ち上がることはなく、常に異なる映像が紡ぎ出されていくという趣向も、『The Ship』がかけがえのない「個性」の亡骸を拾い集めようとしていたことと呼応している。
 本ヴィデオ作品は、一度CDやヴァイナルという形に固定されてしまった『The Ship』を、再び偶然性や一回性の荒波のなかへと解放する作品なのである。

 さらにこのフィルムが興味深いのは、そのように「ジェネレイティヴ」な映像が、われわれを音楽へと立ち返らせる契機をも与えてくれる点だろう。次々と生成されてゆく映像に目を奪われていたわれわれは、しばらく時間が経った後に、ふとそこで音楽が鳴っていたことに気がつく。われわれが映像を見続け、「これは何の写真だろう?」、「これは最新のニュースとは何も関係がないのではないか?」などと思考している間、その背後ではずっと "The Ship" が鳴り続けていたのである。積極的に聴かれることを目的とせず、周囲の環境(この場合は、デスクトップの画面)への注意を促す──これは、まさにアンビエントの機能そのものではないか。

 このフィルムにはあまりにも多くのテーマが組み込まれている。テクノロジーの問題、アートの問題、音楽の問題、政治や社会、歴史の問題。このヴィデオ作品を通してわれわれは、それらの問題について「いま」という時間のなかで考えざるをえない。
 正直、『The Ship』という作品をここまで発展させてくるとは思っていなかった。イーノの探究は衰えるどころか、ますますその先端を尖らせている。今年われわれはボウイというスターを失ったが、まだわれわれはイーノという知性を失っていない。われわれはそのことに感謝しなればならない。(小林拓音)

BRIAN ENO

Dentsu Lab Tokyoとのコラボレーションが生んだ
「機械知能」が生成するミュージックビデオ
「The Ship - A Generative Film」を公開!
制作の裏側を紐解いたインタビュー記事も公開!

人類というのは慢心と偏執的な恐怖心(パラノイア)との間を行きつ戻りつするものらしい:我々の増加し続けるパワーから生じるうぬぼれと、我々は常に、そしてますます脅威にさらされているというパラノイアとは対照的だ。得意の絶頂にありながら、我々は再びそこから立ち戻らなければならないと悟らされるわけだ…自分たちに値する以上の、あるいは擁護しきれないほど多大な力を手にしていることは我々も承知しているし、だからこそ不安になってしまう。どこかの誰か、そして何かが我々の手からすべてを奪い去ろうとしている:裕福な人々の抱く恐怖とはそういうものだ。パラノイアは防御姿勢に繫がるものだし、そうやって我々はみんな、遂にはタコツボにおのおの立てこもりながら泥地越しにお互いと向き合い対抗し合うことになる。
- ブライアン・イーノ

アンビエントの巨匠、ブライアン・イーノが、最新アルバム『The Ship』のコンセプトでもあるこのステートメントを出発点に、テクノロジー起点の新しい表現開発に取り組む制作チーム「Dentsu Lab Tokyo」(電通ラボ東京)とともに、人工知能(AI)の可能性を追求する先鋭的なプロジェクトとして発足。最新楽曲「The Ship」に合わせて、映像が自動的かつリアルタイムに生成されるミュージックビデオを本プロジェクトの特設サイト上に公開された。

BRIAN ENO’S THE SHIP - A GENERATIVE FILM
https://theship.ai/

*特設サイトの視聴環境
携帯端末向けには最適化されておりませんので、ご覧いただくためには、下記パソコン環境でのブラウザーを推奨します。
Windows >>> Google Chrome(最新版)、Mozilla Firefox(最新版)
Macintosh >>> Safari 5.0以降、Google Chrome(最新版)、Mozilla Firefox(最新版)

トレーラー映像はこちら↓
https://www.youtube.com/watch?v=9yOFIStVuRI

本プロジェクトは、AIを「人間の知能」と対比し、その違いを際立たせるために「機械知能」(Machine Intelligence:MI)と名付け、機械が人間のようなクリエーティビティーを発揮できるかを模索するものとして発足。人類共有の外部記憶ともいえるインターネットから、20世紀以降のエポックメーキングな出来事を記憶として大量に学習させた機械知能を構築し、世界的な報道機関が運営するニュースサイトのトップニュースを見て、記憶と照らし合わせながら類似する事象を解釈し、どのような映像を生み出すのかを追求したプロジェクトである。

特設サイトにおいては、アクセスした瞬間に映像が生成されるため、来訪者ごとに視聴できるミュージックビデオが異なり、訪れる度に唯一無二の作品として、楽曲が持つ世界観とともに人々の感性を刺激し続ける。

またWIRED.jpにて制作の裏側を紐解いたインタビュー記事が公開中。
https://wired.jp/special/2016/the-ship/

The Shipについて
もともとは3Dレコーディング技術を使った実験から創案され、相互に連結したふたつのパートから成り立つブライアン・イーノ最新アルバム。美しい歌、ミニマリズム、フィジカルなエレクトロニクス、すべてを知り尽くした書き手が綴る物語、そして技術面での新機軸といった数々の要素を、イーノはひとつの映画的な組曲へと見事に纏め上げ、キャリア史上最もポリティカルな作品にして、過去の偉大な名盤たちのどれとも似つかない傑作である。ボーナストラック「Away」が追加収録される国内盤CDは、高音質SHM-CDを採用し、ブライアン・イーノによるアートプリント4枚が封入された特殊パッケージ仕様の初回生産限定コレクターズ・エディションと、紙ジャケット仕様の通常盤の2フォーマットとなり、いずれもブックレットと解説書が封入される。

Dentsu Lab Tokyoについて
新しいクリエーションとソリューションの場であると同時に、研究・企画・開発が一体となった“創りながら考えるチーム”でもあるDentsu Lab Tokyoは、2015年10月1日に始動。これまでの広告会社のアプローチとは全く違う、テクノロジー起点の新しい表現開発に取り組んでいる。
キーワードはオープンイノベーション。電通社内のみならず、社外の提携アーティストやテクノロジストとも協働しながら、広告領域にはとどまらない分野のクリエーションとソリューションを手掛ける。

https://www.beatink.com/Labels/Warp-Records/Brian-Eno/BRC-505/


 フランスの哲学者ジャック・ランシエールと『関係性の美学』の著者としても知られるキュレーターのニコラ・ブリオーとの間に交わされた論争について、美学者・星野太によって明快に論点整理がなされた「ブリオー×ランシエール論争を読む」という論考がある。それによると、ブリオーが称揚するリレーショナル・アートをはじめとした社会的諸関係を無媒介的に産出することを「作品」として提示する近年の芸術は、どれも多かれ少なかれ「芸術の再政治化」を目論むものであるとして、ランシエールは次のように批判する。すなわち、「芸術と政治の関係はそもそも二項対立ではなく、両者は『感性的なものの分有』を再配置するための二つの形式」なのであって、「〈芸術=虚構〉と〈政治=現実〉という等号を安易に措定し、前者から後者へと移行することを訴えるような態度」は、政治的なものの手前にあって「われわれの生を構成する感性的な基盤」を見えなくさせてしまう。それは「革新的であるどころか極めて凡庸で退行的」な芸術である、と。

 それに対してブリオーは、ランシエールのリレーショナル・アートの理解の仕方がそもそも不適切であり、それらの作品の本質を社会的諸関係の無媒介的な創出という側面に還元して捉えていることに問題があるとして反論している。詳細は省くが、さしあたりここではランシエールの芸術と政治の関係性の捉え方――それにはブリオーも暗に共感を示している――に注目したい。芸術と政治は対立するものではなく、どちらも感性的なものに基づいた虚構の形式なのだという捉え方に。

 そのように考えるとき、今年のフジロック・フェスティバルにおいて学生団体SEALDsの主要メンバーが出演すると知らされた途端に、アレルギー反応のように噴出した「音楽に政治を持ち込むな」という批判の声が、あまりにも表面的で浅薄なものに過ぎないということがみえてくる。ランシエールが述べるように「芸術と政治は、互いに関係づけられるべきかどうかが問題となるような、永続的で分離された二つの現実ではない」のだ。むしろ「芸術と政治は、虚構がまとう二つの形式の姿であり、『現実的なもの』は、それら虚構の効果によって生み出されもすれば、同時に変容させられもする」のである。ここでの「芸術」という言葉の意味は「既存の『感性的なものの分有』に異議を申し立てるための『行為=制作』」として解されたいが、さらに踏み込んで考えてみるならば、いまや日本の音楽フェスティバルの代名詞ともなっているイベントに向けて「音楽(虚構)に政治(現実)を持ち込むな」という批判が飛び交ったという事実からは、音楽フェスティバルというもの一般に対して聴衆がいったい何を求めてそこに足を運ぼうとしているのかを透かし見てみることもできるだろう。

 それを手短にいうならば、作り手・作品・受け手の関係の強固な安定性を虚構のうちに求め、政治的なるものをあくまで現実として虚構の安定性を揺るがすものであるとしてその場からできる限り排除しようとする聴衆の欲望ということになる。再度ランシエールの考えを引くならば、「作者の意図、作品の形式、受容者の視線という『あらかじめ規定された諸関係』を『宙吊り』にすること」、つまり「既存の支配関係の『中性化』」によってこそ、芸術から感性的なものを基盤としたもうひとつの虚構(=政治的なるもの)の潜勢力を見出すことができるのにもかかわらず。ようするに聴衆はフェスにおける音楽体験にふだんの生活や日常的な思考が揺さぶられてしまうような経験を求めていないし、ましてやそこで自身がもつ政治的意見に変更が迫られることなどもってのほかなのである。たとえ「政治的な音楽家」が出演するのだとしても、それは政治(現実)に対立するものとしての音楽(虚構)としての範疇にとどまる体裁をなしていなければならない。それは休日を「安全に」過ごすためのレジャーでなければならないのだ。

 以上のようにして見出されたように聴衆が音楽フェスを単なるレジャーとしてしか考えていない限り、たとえフジロック・フェスティバルが本来的に政治的な主張を掲げたものであったとしても、そのことをもって「音楽に政治を持ち込むな」という批判を批判することは虚しい作業とならざるを得ない。むしろそのように二項対立的に(「フジロックはそもそも政治(=現実)を持ち込んだ音楽(=虚構)なのだ」)しか捉えていないがゆえにこそ、そこでは現実と虚構の対立関係が求められるしかなく、そして聴衆にとってのその関係性の振り子が虚構としての「音楽」の方位へと振り切れることで、主催する側が考える対立関係のバランスとの間に齟齬をきたしたのだとさえいえるのではないか。いずれにせよここでは音楽=政治=虚構の基盤となるべき「感性的なものの分有」の「再配置」が全く省みられなくなっていると言っていい。それは音楽フェスティバルを、ひいては音楽文化全体を根源的に貧しくすることにはならないか。

 そしてこのような情況を鑑みたうえでこそ、昨年十一月に六本木スーパー・デラックスで二日間にわたって開催されたフタリ・フェスティバルのような音楽祭が、少なからぬ関心を集め静かならぬ興奮とともに終えたことは評価されなければならない。わたしはこのフェスティバルを紹介するにあたって、そこで「特殊音楽」なる言葉を用いたわけだが、その意味をアルノルト・シェーンベルクの音楽から「生を労働と余暇に分ける二分法」に対する批判を嗅ぎ取ったテオドール・ヴィーゼングルント・アドルノが、さらにシェーンベルクの音楽が「音楽を社会のただ中における幼児的行動様式の自然保護区として徴発する画一主義に絶縁を宣告する」ものとして聴衆につきつけた次のような要求を見て取ったことを想起しつつ考えるとき、それはランシエールが述べる「芸術」の潜勢力へと限りなく近づいてゆくことだろう。

すなわち、同時的進行の多重性に対するもっとも鋭い注意、次に何が来るかいつもすでにわかっている聴き方というありきたりの補助物の断念、一回的な、特殊なものを捉える張りつめた知覚、そしてしばしばごく僅かの間に入れ換わるさまざまな性格と二度と繰り返されないそれらの歴史を正確につかむ能力などを、それは要求する。(……)この音楽は聴き手がその音楽の内的運動を自発的に共同構築することを求める。そして単なる観照ではなく、いわば実践を聴き手に期待する。(『プリズメン』渡辺祐邦・三原弟平訳、筑摩書房)

 「ありきたりの補助物」を「断念」し「特殊なものを捉える」ということ、そしてそのことを要請するような音楽行為に立ち会うということ。「特殊音楽」に接することは出来事の追認ではなく出来事が生成する場それ自体への関与であり、「現実的なもの」に変容をもたらす虚構の不安定性に向かう聴衆が、「内的運動を自発的に共同構築する」必要に迫られるような音楽の余白に身を晒すことである。「特殊音楽」はジャンルではない。むしろそこにおける音楽行為はあらゆる囲い込み運動から逸脱し多方向的に逃走していくのであって、そして名づけようもないなにものかを目指すということにおいてそれは出来事の一回性を獲得することへと方向づけられてもいるのである。「特殊音楽」とはそうした逸脱と逃走と獲得のプロセスのことに他ならない。それはもしかしたらどこまでも受け身で臨む聴衆にとっては耐え難いほどの退屈でしかないのかもしれないし、どこまでも「安全」であることを望む聴衆にとっては許し難いほどの「危険」に満ちた音楽であるのかもしれない。しかし裏を返すならば、作り手・作品・受け手の関係性の「宙吊り」に能動的に参与する限りにおいて、これほど魅力的で他に代えがたい音の愉しみもないのだといえるだろう。以下ではそうした「特殊音楽」を体現する行為の一端を、フタリ・フェスティバルに見られた幾つかの試みを辿り直しながら、より具体的な様相のもとに探っていく。


鈴木昭男×ジョン・ブッチャー

 二日間のフェスティバルに続けて出演した鈴木昭男は、いまだ「サウンド・アート」なる概念あるいはジャンルが確立する遥か以前から、音楽としても美術としても捉えきれない特異な試みを続けてきた稀有な存在である。彼が提唱する「点音(おとだて)」は、なかでもその表現に対する姿勢が色濃く反映された実践だ。野外において耳を澄ませるための特定の場所を探る試みであり、場に潜在する響きとの出会いに捧げられたある種の儀式的な行為ともいえる「点音」は、フェスティバルでみられた彼のライヴ・パフォーマンスとも繋げて考えることができるだろう。ライヴでは主に細い棒状のものを手にしながら、金属や木製の板、段ボールのようなものなどの物体を叩いたり擦ったりして微弱な音を出し続けるという演奏が行われていた。日常的によく目にする物体やよく耳にする響きでも、このような機会でもなければその音を音楽として聴いてみることはほとんどないだろう。だがこれを身近な物体に潜む響きの豊かさとして片付けてしまってはならない。むしろそれらすべてを逃さぬように聴き取る共演相手が、恐ろしいほどの速度で反応をし続けることの触発材料を、次々と投擲する行為としても捉えられるからだ。それは彼が「点音」で場に潜在する響きを探り出していったのと同様の試みを、対人間の実践として行っていくかのようだ。すなわち、共演者の音の在り方にじっと耳を傾けて、それを触知するやいなやあの手この手で手繰り寄せていくのである。

 より直接的に場に潜在する響きを探り出す試みは、「非楽器・非即興・非アンサンブル」を掲げるスティルライフの「演奏」から見て取ることができる。向かい合って座りながらのパフォーマンスを行った彼らの行為は、それをより正確に言うならば、演奏するというよりもその場で聴取の共同作業を行うことから、結果的に立ち上がる音の場を音楽として提示していくものである。手元に用意された音具は聴かれるべき音の図を描くのではなく、そうした音の場を整調する役割を果たしていく。そしてそれは会場の環境に大きく左右されることにもなる。フェスティバルの日もスーパー・デラックスに特有の響きを聴き取っていった彼らは、しかし「演奏」の半ばあたりで客席から音の場を切り裂くような大きな音が聴こえたことが、彼らの演奏=聴取に不可逆的な特異点を設けてしまうこととなった。場所によって出来上がる音楽が大きく変わってしまう彼らのようなグループにとって、フェスティバルというひとつの場所になかば無理やりに様々な音楽と観衆を並べてしまう空間は不得手とするものなのだろう。あるいは「聴取」を掲げることはその場でしか起きない特殊な響きを捉えることでもあるが、その反面どのような不意の事故的な響きが闖入してこようとも、それをあるがままに受け入れるしかないことの「危うさ」がみられたというべきか。しかしたとえ受け手が直接的には何も介入しなかったのだとしても、場所そのものが音楽の体験を種々様々に導くようなものもある。


杉本拓『Septet』

 異なる楽器を用いた七人の演奏家によって奏でられていく杉本拓の作曲作品『Septet』は、昨年三月にベルリンで初演され、日本ではフタリ・フェスティバルで行われた演奏が初めての試みとなった。クラリネットとフルートの二菅楽器を中心にしながら、奏者はそれぞれ音程のほとんど変わらないひとつの音を出し続けていく。演奏者が入れ替わり立ち替わりすることで、引き延ばされた響きは楽器ごとの微妙な相違をみせていき、さらにモジュレートする共鳴のし合いを聴かせてくれる。劇的な変化は訪れることなく、それがそのまま四十分近く続く。あるいはそのように持続することが、聴き手の耳を集中と散漫の両極に引き裂き、微細な音響の変化を劇的に彩っていくといったほうがいいだろうか。『Septet』はフェスティバルの一週間後に、ベルリンでの初演を収録したアルバムがリリースされているものの、それをフェスで行われたパフォーマンスが追体験できるものとして捉えることはできないだろう。長時間にわたって演奏される微弱な「ひとつの音」は聴かれるべき図を描くとともに、地となって聴き手の知覚を他の領域へと差し向けもするのだ。注意深く聴取し続けることが集中から散漫へと反転した瞬間、その演奏の場における風景や匂い、あるいは温度のような皮膚感覚的な肌触りなど、「音楽」の外にあったものがするりと聴き手の体験のなかに滑り込んでくる。『Septet』を聴くことは場を知覚することでもあり、ライヴと録音物では大きく異なる体験になるのである。

 同じように録音物との距離を見定めてみることから、場の特異性をどのように引き出していくのかが捉えられるものとして、The International Nothingの演奏を挙げることができる。結成十六年めを迎えたこのグループは、ミヒャエル・ティーケとカイ・ファガシンスキーのふたりから成り、あくまで作曲作品を通してクラリネットの可能性を探求する活動を行ってきた。意外にもこのユニットとしてはこれが初めての来日となる彼らは、フェスティバルの前年にリリースされた三枚目のアルバムに収録されている楽曲を、二曲目から最後まで計五曲演奏してくれた。とてもふたりだけで演奏しているとは思えないような響きの数々を伴いながら、ふたつのクラリネットが対位法的に絡み合っていき、あるいは持続音同士がモジュレーションを生み出していく。そこにみられる音程の変化は旋律を生み出すためのものではなく、むしろ響きのヴァリアントとして提示されてゆくものだ。どこか物憂げなメロディが聴こえてきたかと思えば、それはメロディとして完成される前に響きの中へと溶解していく。そうした展開の不気味なほどの美しさ。ここでアルバムと同じ楽曲を演奏することは同一性の再現にとどまらず、眺める角度によってイメージを変えていく立体彫刻のように、音響の襞をどの角度から切り取るのかということが、むしろ彼らの演奏が行われる場所とそれを聴取するわたしたちの位置の特異性を引き立たせてくれるのである。


ユタカワサキ×ju sei×大蔵雅彦×ミヒャエル・ティーケ

 楽曲の演奏でありながらも、まったく異質なパフォーマンスをみせてくれたのがju seiである。あくまで「うた」を中心に活動を行うこのデュオ・グループは、これまでにも楽曲の構造を闊達自在に変化させていくことで、ライヴごとにまったく異なる演奏を見せてきた。今回のフェスティバルでもju seiの楽曲が演奏されていたものの、それは共演者たちが参加すべきただひとつの枠組みとしてではなく、音楽の場を更地から共有しようとする田中淳一郎とseiにとって、端的にそれがそこで可能な行為としてあったのだということなのだろう。彼ら/彼女らとともにアルバムを制作してもいるユタカワサキのアナログ・シンセサイザーは、まるでソロ・パフォーマンスを行っているかのごとく淡々と、だがしかし確実に合奏に影響を及ぼすかたちで奏されていく。同様に、大蔵雅彦とミヒャエル・ティーケによる二つの管楽器も、抑制されたフレーズを淡々と響かせながら、共演者の「次の一手」になんらかの作用を与える。それらはju seiの「うた」を装飾するのではなく、より深部にある楽曲の構造的な領域において伸縮作用をもたらしていくといえばいいだろうか。そこでの楽曲は演奏の同一性を担保するものではなく、むしろ非同一的な差異の産出を促す契機としてあるのだ。

 楽曲よりも強固に「同じもの」を再現することができる複製技術を取り上げたパフォーマンスも、フタリ・フェスティバルでは行われていた。スティーヴン・コーンフォードによる映像作品『Digital Audio Film』がそれである。中心で線香花火のような赤く丸いレーザー光が非常な速度感を伴って明滅する映像が壁面に投射され、しばらくすると両脇にカメラのような外観をしたモノクロの具象物が現れはじめる。よくよく目を凝らして見ると、それはカメラではなくCDプレイヤーのピックアップ・レンズのようだ。世界をどこまでも物質的に捉えて記録するカメラのレンズに対して、ピックアップのそれはむしろ記録された信号を読み取るための解釈装置としてある。レーザー光とレンズの対比からは、CDという音響メディアに潜む「読む行為」と「読む主体」との関係性が浮かび上がってくる。さらに映像の作者であるコーンフォード自身に加え、パトリック・ファーマーと河野円による会場の空間を自在に飛び交うサウンド・プロダクションが、CDプレイヤーそのものを用いた響きであるということを考え合わせれば、ここでのパフォーマンス全体が音響メディアの潜在性の顕在化へと向けられていたのだといえるだろう。それはいつ・どこでも「同じもの」を再現することができるはずのCDプレイヤーが、音響を再生産するためにはそのつど「読むこと」という一回的なプロセスを通過しなければならないという視覚イメージのなかで、さらにその技術それ自体から滲み出る非再現的な響きを明らかにしてくれるのである。


パトリック・ファーマー『Border』

 視覚に訴えかけるような試みは、要注目のイギリスの新しい世代の音楽家のひとり、パトリック・ファーマーの作曲作品『Border』から見て取ることもできる。石川高、田中悠美子、ロードリ・デイヴィス、村山政二朗の四人によって披露されたこの作品は、『家族ゲーム』式に並列になった彼ら/彼女らが、ファーマーのコンダクションを受けながら演奏を進めていくという内容で、それぞれの演奏者のふだんのライヴではなかなか見られないようなパフォーマンスも見受けられた。手元の物体を擦り続ける石川、三味線の調整を行う田中、エレクトリック・ハープに乾燥パスタのようなものを散らすデイヴィス(彼はこういったパフォーマンスを以前にも行っている)、うがいする村山……「慣れ親しんだ動作を」といった指示が書かれていたのかどうかは定かではないが、四者四様の行為がステージに奇っ怪なイメージを作り上げていく。極めつけは煎餅菓子を食べ始めた田中悠美子が、そのまま立ち上がって自身のスマートフォンで共演者の写真を取り始めた場面だろうか。固唾を呑んで耳を澄ませているだけでは見えてこない音楽世界が、あくまで音を介した不確定的なアクションを伴いながら演劇的に試みられた作品だった。さらに視覚に訴えかけるものとして、見たこともないような自作楽器の使用を複数の出演者が試みていたことも興味深い。


川口貴大×徳永将豪×ユエン・チーワイ

 自作楽器を用いることそれ自体はなにも今に始まったことではなく、むしろあらゆる楽器は原初的には自作でしかあり得ないとさえ言えることだろう。それは音具としての身体の拡張であり、人間が様々な音色を獲得していく過程でもある。しかしフタリ・フェスティバルで見られた自作楽器の使用は、単に響きの新奇さを獲得するためというよりも、既成の楽器を用いる際にまとわりつく演奏行為――それは音を予測させる「補助物」ともいえる――から、どのように自由でありながら音を介した表現をなし得るか、ということに焦点が当てられていたように思われる。スティーヴン・コーンフォードと大城真はライヴ会場を散策しながら手のひらサイズの自作楽器をそこかしこに設置していき、得体の知れぬ生き物のように楽器たちが騒めき「合奏」する特異な空間を現出する。ベテラン・サックス奏者としても知られる広瀬淳二は、なんとも手作り感満載な自作楽器から、まるで菜園にホースで水を遣るかのような気楽な仕草をみせながら、しかし強烈な電子的ノイズを響き渡らせていく。見た目のインパクトが最も印象深かったのは川口貴大のサウンド・オブジェクトだ。ステージ中央でムクムクと盛り上がる剥き出しの臓器のようなビニール袋、妖しく光る投げ置かれたスマートフォン、耳を劈く破裂音を発する幾つものラッパ群。それらは拡張された身体というよりも、複数の別の身体が無目的的にごろりと横たわっているかのようであり、もはや楽器と呼ぶことがあまり意味をなさないほどに異様な物体となっている。

 既成の楽器は他方では、音楽の成立を条件づける楽音を、洗練された予期し得る響きとして生成する役目も果たしてきた。制御不能なノイズを音楽の素材として用いることは、まずはこうしたイデオロギーに対する否定性の提示であり、さらには音楽が成立する条件をより柔軟にしていくための方途でもある。だが人間によって制御しきれない響きを素材として扱うには、制御不能な音の外側でサウンドをコントロールしていく必要が出てくるだろう。グラインド・コアにも似た轟音を聴かせるNAKASANYEの三人は、制御不能なノイズのコントロールをアンサンブルの編み目のなかに聴かせてくれる。あくまでアコースティックな響きを用いるヨエル・グリップのベースとアントナン・ジェルバルのドラムスが、ひたすら機械的な反復フレーズを出し続けることによって、同じように反復する吉川大地の機械でしかないフィードバック・ノイズに生きた揺らぎをもたらしていくのである。二日間のフェスティバルを通してもっとも大きな爆発的ノイズの海を聴かせてくれたのは、中村としまると秋山徹次、それにリュウ・ハンキルの三人によるセッションだった。だがそれは音圧レベルにおいて単に大きかったというだけではない。演奏の始まりにリラックスしたムードを漂わせていただけに、その振幅の深さが音の大きさというものをより強調していくような、サウンドの流れを巧みに構築していく手腕がみられたのである。それは制御不能な音をその外側からコントロールしていく一方で、どこまでも音のコントロールを手放すことなく予期し得ぬ響きへと賭けられた即興演奏でもあるのだといえるだろう。


ロードリ・デイヴィス×ジョン・ブッチャー

 即興演奏がその原理に従って非同一性の極北へと突き進むことが、必ずしも意想外であることの獲得を結論しないということの隘路から、そうした原理を抽出し、即興演奏であることに拘ることなく探求を推し進める試みを眺めてみることが、「特殊音楽」という言葉を持ち出した発端なのであった。だから「純粋な」即興音楽はその原理に最も近しいようでありながら、同時に解消し難い矛盾を孕んだ試みでもある。今回のフタリ・フェスティバルではどの出演者も他者との共同作業を行うことがパフォーマンスの起点になっていたが、それを即興演奏に当て嵌めてみるならば、編成の妙味によってそうした矛盾を切り抜けようとしていたのだと捉えることもできるだろう。

 島田英明を取り囲むようにして両脇でヤン・ジュンと康勝栄が演奏するという配置は、それぞれ独自のセッティングが施されたヤンと康によるノイジーなエレクトロニクス演奏を縦横無尽に駆け巡る、島田の電子変調されたヴァイオリンを用いた個性的なサウンドを際立たせ、弓で弦を様々なニュアンスで叩いたり擦ったりすることの自在さを聴かせてくれる。広瀬淳二のホワイト・ノイズが合奏の下地をなしていくところでは、カイ・ファガシンスキーの抑制されたクラリネット演奏がクラシカルかつモノクロームな響きを重ね、他方で生粋の即興演奏家・高岡大祐が様々な特殊奏法を駆使して彩り豊かな響きをチューバから紡ぎ出してゆくといったふうにして、対比的なサウンド・イメージが醸成されていた。あるいは川口貴大の鳴動する物体を音の風景に、それを縫って進むようにしてアルト・サックスの徳永将豪が音響的な即興演奏を試み、ユエン・チーワイはときおり何かを咥えながらのエレクトロニクス操作を試みていくというセッションからは、別の対比が浮かび上がってくる。会場全体を埋め尽くすような響きを轟かせていた川口のサウンド・オブジェクトがふと静まり返る瞬間に、生音と電子音という異質なふたりの演奏が前面に躍り出てくる面白さを聴かせてくれるのだ。

 こうした側面から見るならば、ジョン・ブッチャーとロードリ・デイヴィスによるデュオという、これまでに幾度となく共演してきている組み合わせは、編成の面白味を欠いているように映るかもしれない。だが別の角度から眺めてみると、この編成でなければなし得ない演奏の面白さが見えてくる。デュオ・ライヴにおいてエレクトリック・ハープに徹していたデイヴィスは、テーブルに寝かせたこの楽器から、複数の道具を駆使してサウンドの地となるような響きを生成していく。そこに降り立ったブッチャーは、独自に習得/開発してきたあらゆる特殊奏法や、さらにはマイクを用いたフィードバックをも駆使してサックスを自在に操っていく。共演を重ねることで徐々に形成されてきただろうこのようなサウンドの役割分担が、こうも見事に演奏されている様を目にすると、出会うべくして出会った最良の関係性がそこにあるかのようにも思えてくる。そこで賭けられているものは異質な個と個が出会うことの驚きだけでなく、ソロ・インプロヴィゼーションが自らの音楽語法を開拓するプロセスであるように、彼らの関係性それ自体を基盤とした語法の開拓へと向けられてもいるのだ。その語法は物質として捉え返された楽器の潜在性を、演奏のたびごとに異なる音楽として顕在化することになるだろう。


Far East Network

 即興演奏であっても、また別の見方ができるものもある。最後に紹介しておきたいのは、国籍がバラバラの東アジアの即興音楽家たちによる、継続的なグループ活動として突出した存在であるFENのパフォーマンスだ。フェスティバルでは大友良英が彼に特有のギター・フィードバック・ノイズを出し、徐々に音量を増大させていくというところがサウンドの底流をなしながら、リュウ・ハンキルとヤン・ジュン、それにユエン・チーワイがそれぞれ応答していき、爆音状態へと突入していく演奏を聴かせてくれた。アンサンブルズ・アジアのひとつの雛形ともいうべきFENを、単に「大友良英のバンド」として見ることは正しくないが、それでも結成のきっかけとなった彼が、この日のライヴのように、グループが演奏する音楽の流れにとりわけ重要な役割を果たしてきたことは否定できない。それはしかし国籍のみならず演奏方法も様々な四人をひとつにまとめあげる方途というよりも、そうした多様性をそのままに共に音楽を奏でることの可能性の契機として模索されたものなのだろう。四人が等しく共有するのはひとつの楽曲でもひとりのメンバーが主導する音でもなく、そこに流れる物理的時間ただそれだけしかないのであって、ここで即興演奏は音の場のみならず生きる場所をも分かち持つための、一回的な音楽的時間を紡ぎ出す手段としてあるのだ。演奏の強度もさることながら、そうした可能性を投げかけることが音楽の未来へと繋がるようなFENの実践は、露骨な政治性を掲げてアジアをひとつにまとめあげようとすることよりも、より根源的な共同の在り方を指し示してくれるのである。

 ここに取り上げてきた実践はフェスティバルのほんの一断面に過ぎないが、少なくともそこにおいて見られたのは作り手・作品・受け手の関係性が強固に規定され、それをただひたすら「安全に」受け入れるという出来事の追認ではなかった。「次に何が起こるかを正確に知っていることほどつまらなく、退屈なことはない」とはベン・ワトソンによるデレク・ベイリーの評伝の邦訳で強調されていた一節だが、まさに聴衆の一人ひとりが出演者の音楽行為に能動的に参与することによって、それぞれに異なる体験の愉しみを発見していくようなその関係性の流動的な在り方があったのだ。そこで聴衆が身を晒したのは「既存の『感性的なものの分有』に異議を申し立てるための『行為=制作』」であり、「『あらかじめ規定された諸関係』を『宙吊り』」にする音楽行為の数々にほかならない。それは一見すると政治と無関係に思えるかもしれないが、まさに政治的なるものの手前にある感性的な基盤に揺さぶりをかけるという意味において、どんな政治的音楽よりも「政治的」たり得ていたと言っていい。もちろん、どこまでも「安全な」フェスティバルというものがあり、それに余暇を費やすことそのものは別に否定されるべきことでもなんでもないだろう。そうではなく、あらゆる音楽フェスティバルがそこにのみ集約されてしまうことの貧しさに対する批判として、フタリ・フェスティバルがここでは称揚されているのである。現場報告を兼ねながら述べてきた実践の数々は、だから知覚するわたしたちがどのような「宙吊り」現象と立ち会うことになったのかについてのひとつの記録であり、さらにはレジャー化することで忘れ去られつつある音楽フェスティバルの潜勢力をいま一度思い起こすための糸口として提出するものでもある。

TOYOMU - ele-king

 驚きはいつも突然やってくる。カニエ・ウエストの新作が出たばかりの頃、おそらく世界の多くの人間がgoogleにそのスペルを入力し、検索エンジンをかけたのだろう。すると、そこには、ほとんど無名の日本人青年がでっち上げた『The Life of Pablo』が出たのだった。あるいは誰かがそれを発見して、ツイッターで瞬く間に広がったのかもしれない。
 『印象III : なんとなく、パブロ (Imagining "The Life of Pablo")』と題されたそれについて「悪ふざけの極みだった」とTOYOMUは述懐しているが、しかしその作品自体が(ジョークを含めて)魅力的作品だったことは、翌日即アップされた海外メディア(FACT、ピッチフォーク、BBCほか)の反応からも伺える。TOYOMUは、たったひとりでインターネットとサンプリングを利用するという最高にヒップなやり方で、一夜にして世界の耳を自分の音楽に傾けさせたのだった。
 こんな知能犯を放っておく手はない。〈サブ・ポップ〉や〈ミュート〉のライセンスで知られる〈トラフィック〉が、TOYOMUと契約を交わし、いよいよデビューEPをリリースすることになった。タイトルは『ZEKKEI』(絶景)。
 TOYOMUはトーフビーツと同じ世代で、彼と同じようにヒップホップを聴いてトラックメイキングをはじめている。つまり、彼のバックボーンはヒップホップなのだが、TOYOMUの音楽からはレイ・ハラカミ的な叙情性やコーネリアス的な遊び心とファンタジーが聴こえる。あるいはまた、彼の音楽は、OPN、ARCA、あるいはアッシュ・クーシャやハクサン・クロークともリンクしている(そう、いまの時代の響きを有しているってこと)。

 『ZEKKEI』は11月23日にリリース。この大いなる一歩、心地よく、喜びをもたらす作品集を逃すな!


yahyel - ele-king

 yahyel。なんとも不思議なスペルだ。このバンドのことが気になり出してからしばらく経つけれど、いまだにちゃんと綴ることができない。yahyel。
 ヤイエル。なんとも奇妙な響きだ。このバンドのことが気になり出してからしばらく経つけれど、いまだにうまく発音することができない。ヤイエル。
 この風変わりな名前と同じように、かれらが奏でる音楽もまた独特の雰囲気を醸し出している。すでに何もかもが出揃ってしまった感のあるこの現代に、かれらは「いやいや、そんなことはないですよ」とブルージーでオルタナティヴなサウンドを鳴り響かせる。もしかして、これからすごいことになるんじゃないか? おっ、メンバーにVJまでいるぞ、かれらは一体どんな野心を抱いているんだろう? そんな、リアルタイムで新しい音楽を発見したときの、わくわくしたりどきどきしたりする感じ──こういう感覚は久しぶりだ。
 来る9月28日、かれらは500枚限定の初CD作品『Once / The Flare』をタワーレコードにてリリースする。この日タワレコへ全力疾走した者だけが、かれらの未来を先取りすることができるだろう。
 さあ、きみはどうする?

今注目のyahyel、500枚限定の初CD作品『Once / The Flare』発売決定!

今年のフジロックフェスティバル〈Rookie A Go Go〉に出演し、日本人離れしたヴォーカルと最先端の音楽性、また映像クリエイターとしても活躍するバンド・メンバーが制作したミュージック・ビデオ「Once」が話題となるなど、今最も注目を集める新鋭yahyel(ヤイエル)が、初のCD作品となる500枚限定の2曲入りEP『Once / The Flare』(¥500+tax)をタワーレコードにて9月28日(水)にリリースする。

yahyel – Once

本作品にはiTunesにてジャンル別チャート3位を記録するなど、国内ポップ・シーンにその存在感を強く印象付けた「Once」と、新曲「The Flare」の2曲を収録。マスタリングは、エイフェックス・ツインやアルカ、ジェイムス・ブレイク、フォー・テット、FKAツイッグスなどを手がけるマット・コルトンが担当している。


label: Beat Records
artist: yahyel
title: Once / The Flare
ヤイエル『ワンス / ザ・フレア』

cat no.: BRE-55
release date: 2016/09/28 WED ON SALE
price: ¥500+tax

取扱店舗
タワーレコード札幌
タワーレコード仙台
タワーレコード渋谷
タワーレコード新宿
タワーレコード池袋
タワーレコード横浜
タワーレコード秋葉原
タワーレコード名古屋パルコ
タワーレコード名古屋近鉄パッセ
タワーレコード梅田丸ビル
タワーレコードNU茶屋町
タワーレコード難波
タワーレコード京都
タワーレコード神戸
タワーレコード広島
タワーレコード福岡
タワレコ店舗取り置き/予約はこちら


yahyel | ヤイエル

2015年3月に池貝峻、篠田ミル、杉本亘の3名によって結成。
古今東西のベース・ミュージックを貪欲に吸収したトラック、ブルース経由のスモーキーな歌声、ディストピア的情景や皮肉なまでの誠実さが表出する詩世界、これらを合わせたほの暗い質感を持つ楽曲たちがyahyelを特徴付ける。

2015年5月には自主制作の4曲入りEP『Y』をBandcamp上で公開。同年8月からライブ活動を本格化、それに伴いメンバーとして、VJに山田健人、ドラマーに大井一彌を加え、現在の5人体制を整えた。映像演出による視覚効果も相まって、楽曲の世界観をより鮮烈に現前させるライブセットは既に早耳たちの間で話題を呼んでいる。

2016年1月にロンドンの老舗ROUGH TRADEを含む全5箇所での欧州ツアーを敢行。無名にも関わらず噂が噂を呼び、各ライブハウスを満員にするなど、各地で熱狂的な盛り上がりを見せた。続いて7月に、デジタル・シングル「Once」をリリースし、フジロックフェスティバル〈Rookie A Go Go〉ステージに出演。現在制作中の1stアルバムに先駆けて、500枚限定の2曲入りEP『Once / The Flare』を9月28日(水)にリリースする。

https://www.beatink.com/Labels/Beat-Records/yahyel/BRE-55/

  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 80 81 82 83 84 85 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 100 101 102 103 104 105 106 107 108 109 110 111 112 113 114 115 116 117 118 119 120 121 122 123 124 125 126 127 128 129 130 131 132 133 134 135 136 137 138 139 140 141 142 143 144 145 146 147 148 149 150 151 152 153 154 155 156 157 158 159 160 161 162 163 164 165 166 167 168 169 170 171 172 173 174 175 176 177 178 179 180 181 182 183 184 185 186 187 188 189 190 191 192 193 194 195 196 197 198 199 200 201 202 203 204 205 206 207 208 209 210 211 212 213 214 215 216 217 218 219 220 221 222 223 224 225 226 227 228 229 230 231 232 233 234 235 236 237 238 239 240 241 242 243 244 245 246 247 248 249 250 251 252 253 254 255 256 257 258 259 260 261 262 263 264 265 266 267 268 269 270 271 272 273 274 275 276 277 278 279 280 281 282 283 284 285 286 287 288 289 290 291 292 293 294 295 296 297 298 299 300 301 302 303 304 305 306 307 308 309 310 311 312 313 314 315 316 317 318 319 320 321 322 323 324 325 326 327 328 329 330 331 332 333 334 335 336 337 338 339 340 341 342 343 344 345 346 347 348 349 350 351 352 353 354 355 356 357 358 359 360 361 362 363 364 365 366 367 368 369 370 371 372 373 374 375 376 377 378 379 380 381 382 383 384 385 386 387 388 389 390 391 392 393 394 395 396 397 398 399 400 401 402 403 404 405 406 407 408 409 410 411 412 413 414 415 416 417 418 419 420 421 422 423 424 425 426 427 428 429 430 431 432 433 434 435 436 437 438 439 440 441 442 443 444 445 446 447 448 449 450 451 452 453 454 455 456 457 458 459 460 461 462 463 464 465 466 467 468 469 470 471 472 473 474 475 476 477 478 479 480 481 482 483 484 485 486 487 488 489 490 491 492 493 494 495 496 497 498 499 500 501 502 503 504 505 506 507 508 509 510 511 512 513 514 515 516 517 518 519 520 521 522 523 524 525 526 527 528 529 530 531 532 533 534 535 536 537 538 539 540 541 542 543 544 545 546 547 548 549 550 551 552 553 554 555 556 557 558 559 560 561 562 563 564 565 566 567 568 569 570 571 572 573 574 575 576 577 578 579 580 581 582 583 584 585 586 587 588 589 590 591 592 593 594 595 596 597 598 599 600 601 602 603 604 605 606 607 608 609 610 611 612 613 614 615 616 617 618 619 620 621 622 623 624 625 626 627 628 629 630 631 632 633 634 635 636 637 638 639 640 641 642 643 644 645 646 647 648 649 650 651 652 653 654 655 656 657 658 659 660 661 662 663 664 665 666 667 668 669 670 671 672 673 674 675 676 677 678 679 680 681 682 683 684 685 686 687 688 689 690 691 692 693 694 695 696 697 698 699 700 701 702 703 704 705 706 707 708 709 710 711 712 713 714 715 716 717 718 719 720 721 722 723 724 725 726 727