「K A R Y Y N」と一致するもの

Various Artists - ele-king

 だいぶ前の話になるが、映画『アトミック・ブロンド』を観た。来年公開予定の『デッドプール2』の監督も務めるデヴィッド・リーチが作りあげたこのスパイ映画は、壁が崩壊する前夜のベルリン、年代で言えば1980年代末を舞台にしている。物語は、世界情勢に深く関わる極秘リストを奪還するため、MI6によってベルリンに送り込まれたロレーン(シャーリーズ・セロン)を中心に進んでいく。厳しいトレーニングを積んだうえで臨んだというシャーリーズ・セロンのアクションなど、見どころが多い内容だ。なかでも圧巻だったのは、スパイグラス(エディ・マーサン)を逃がすときにロレーンが披露する体技。ビルの階段を移動しながらおこなわれるそれは7分以上の長回しで撮られており、華麗に立ちまわるロレーンの姿がとても美しかった。
 アクションでよくある、ご都合主義的な綺麗さが見られないことも特筆したい。華麗に敵をなぎ倒していく様は映画的でも、戦うごとに体のアザは増え、それを手当てするシーンも随所で挟まれたりと、生々しい描写が際立つ。そうして傷だらけになるロレーンだが、被虐的な様子はまったく見られない。むしろ、スパイとしての凛々しい姿とプロ意識を観客に見せつける。その姿を観て筆者は、“カッコいい……”という平凡極まりない感想を呟いてしまった。

 『アトミック・ブロンド』は、劇中で流れる音楽も魅力的だ。ニュー・オーダー“Blue Monday 1988”、デペッシュ・モード“Behind The Wheel”、パブリック・エネミー“Fight The Power”といった、80年代を彩ったポップ・ソングが取りあげられている。しかも、ただ流すだけじゃない。MI6のガスコイン(サム・ハーグレイブ)が殺されるシーンでは、イアン・カーティスの死について歌われた“Blue Monday 1988”を流すなど、曲の背景と劇中のシーンを重ねるような使い方なのだ。ここに筆者は、デヴィッド・リーチのこだわりを見た。

 そのこだわりをより深く理解するため、映画のサントラである『Atomic Blonde (Original Motion Picture Soundtrack)』を手にいれた。本作は先に挙げた曲群を収録しておらず、そこは非常に残念だが、それでもデヴィッド・ボウイ“Cat People (Putting out Fire)”、スージー・アンド・ザ・バンシーズ“Cities In Dust”、ネーナ“99 Luftballons”など、劇中で使われた曲はだいたい収められている。
 とりわり目を引くのは、ボウイとの繋がりが強い曲を数多く起用していることだ。ボウイは1976年から1978年まで西ベルリンに住み、そこで得たインスピレーションを元に『Low』『Heroes』『Lodger』というベルリン三部作が作られたのは有名な話だが、このことをふまえて映画ではボウイが象徴的な存在になっている。
 面白いのは、それを少々ひねりが効いた方法で示すところだ。その代表例が、ニュー・ロマンティック期のエレ・ポップど真ん中なサウンドを特徴とする、アフター・ザ・ファイアー“Der Kommissar”。もともとこの曲は、オーストリアのファルコというシンガーソングライターが1981年に発表したシングル。重要なのは、このシングルのB面に収められた曲だ。“Helden Von Heute”というそれは、ボウイの代表曲“Heroes”へ賛辞を送るために作られた曲で、メロディーは“Heroes”をまんま引用している。こういう婉曲的な仕掛けを通して、ボウイの偉大なる影を匂わせるのだ。

 その影は、ピーター・シリング“Major Tom (völlig losgelöst)”でもちらつく。タイトルからもわかるようにこの曲は、ボウイが1969年に発表したアルバム『Space Oddity』へのアンサー・ソングだ。もともとの歌詞はロケット発射の様子を描いたもので、深い意味はない。だが、『アトミック・ブロンド』の中では冷戦時代の一側面を表す曲になっている。1980年代末のベルリンは冷戦まっただ中であり、そんな時代に米ソ間でおこなわれた熾烈な宇宙開発競争を連想させるからだ。こうした既存の曲に新たな意味をあたえるセンスは、退屈な懐古主義に陥らない同時代性を漂わせる。
 この同時代性は、映画のために作られたいくつかのカヴァー曲にも繋がっている。特に秀逸なのは、映画のスコアを担ったタイラー・ベイツがマリリン・マンソンと共作したミニストリー“Stigmata”のカヴァー。殺伐としたドライな音質が耳に残る激しいインダストリアル・ロックで、マリリン・マンソンの金切り声を味わえる。もちろん、このカヴァーも映画と深い繋がりがある。オリジナル版“Stigmata”のMVにはスキンヘッドのネオナチが登場するが、そこに映画の核であるベルリンという要素との共振を見いだすのは容易い。

 そうした綿密な選曲において、ひとつだけ気になる点がある。ザ・クラッシュ“London Calling”を選んでいることだ。この曲は1979年にリリースされたもので、80年代でもなければ現在の曲でもない。しかしそこには、他の曲以上に重要な意味を見いだせる。
 “London Calling”は、ザ・クラッシュから見た当時の社会について歌った曲だ。1981年のブリクストン暴動、セラフィールド、フォークランド紛争といった、80年代のイギリスで起こることを予見するような言葉が歌詞に並んでいる。
 そんな予見的な曲が、映画ではベルリンの壁崩壊後の終盤で流れる。決着を迎えてめでたしのはずが、〈すぐさま戦争が布告され 戦いがやってくる(Now war is declared and battle come down)〉と歌われるのだから、なんとも興味深い。ここまで書いてきた映画と曲の深い繋がりから考えても、かなり意味深だ。ロレーンの次なる戦いが始まるから……とも解釈できるが、過去の要素に同時代性を見いだし表現する『アトミック・ブロンド』の特性をふまえると、この映画はあなたたちの現状であるという暗喩を込めた選曲ではないか。そう考えると、冷戦時代のベルリンが舞台であるにもかかわらず、それにまつわる物語じゃないと否定するグラフィティーが映画の冒頭で挟まれるのも納得だ。“London Calling”が流れた途端、西ドイツと東ドイツの間にあった経済格差や、壁によってもたらされた抑圧といった映画の時代背景には、新冷戦(New Cold War)なる言葉も飛び交うようになった現在を表象する機能が付与される。

 ここまで大胆な音楽の使い方を前にすれば、客寄せパンダ的にヒット・ソングを使ったという揶揄も跪くしかない。

Nídia - ele-king

 コンピが出たらそこでもうおしまい、というジンクスをなんだかんだで信じてしまっている身としては、昨年リリースされたレーベル・コンピ『Mambos Levis D'Outro Mundo』の素晴らしさに触れて以来、〈プリンシペ〉の行く末がどうなるのか心配で心配でしかたがなかった。このまま同じことの繰り返しや水増しが続いてシーン自体が衰退していくのだろうか、それともジューク/フットワークのように他の要素を取り入れながら世界各地で独自の進化を遂げていくのだろうか、と。
 ともあれ永遠にシングルとEPだけで運営を続けていくのではないかと思われた〈プリンシペ〉が、重い腰を上げてコンピを制作したのである。となれば、次に期待されるのは単独アーティストによるフル・アルバムだろう。となれば、やはりまず同レーベルの首領たるDJマルフォックスに、がつんと気合いの入った1枚を投下してもらわねばなるまい……いや、その実験精神と独創性においてかのシーンで頭ひとつ抜きん出た存在であるDJニガ・フォックスが、まだ誰も聴いたことのない変てこなアルバムを送り出す可能性もある。じっさい、今年の頭にリリースされたニガ・フォックスの1トラック・シングル「15 Barras」は、喚声とアシッドがひたすらうねうねと続いていく珍妙な曲で、良いか悪いかの二者択一を迫られると返答に困るものの、インスタレイションのための付随音楽という側面もあってか、少なくとも方向性の上では〈プリンシペ〉の「次」が模索されていたように思う。

 しかしじっさいに先陣を切ったのはマルフォックスでもニガ・フォックスでもなく、かのシーンのもうひとりの立役者、ニディア・ミナージュだった。彼女の待望のファースト・フル・アルバム『Nídia É Má, Nídia É Fudida』は、残念ながらニガ・フォックスのように「次」を探究しているわけではなく、われわれが「リスボンのゲットー・サウンド」と聞いて思い浮かべる音の範疇に収まった内容ではあるものの、けっして出来が粗末というわけではない。ハウスを基調とした2015年のEP「Danger」よりリズム・パターンの幅は広がっているし、着々とシングルやEPのリリースを重ねてきたアーティストが必ずぶつかる、「アルバム1枚持たせられるか」という壁をさらりと乗り越えている点も評価に値する(1曲1曲の短さに助けられている面もあるが)。
 そんなニディアの矜持が示されているのが冒頭の“Mulher Profissional”と続く“Biotheke”で、そこから3曲め“Underground”まで針を進めたリスナーは自らの買い物に間違いがなかったことを確信するだろう。全体のバランスも考えられており、“Puro Tarraxo”のような実験的な曲だけでなく、“House Musik Dedo”のようなメロディアスで機能的な曲も収録されている。なかでも惹きつけられるのは、複雑なドラム~パーカッションと切り刻まれたピアノ音とが絶妙な揺らぎを形成する“I Miss My Ghetto”だ。

 このように充実したアルバムを聴くとやはり、では次に彼女や〈プリンシペ〉が向かう先はどこなのか、というのが気になってくる。それを探る手がかりになりそうなのが、ブラジルの大御所サンバ歌手、エルザ・ソアーレスが一昨年リリースしたアルバム『A Mulher do Fim do Mundo (The Woman At The End Of The World)』のリミックス盤、『End Of The World Remixes』である。
 オリジナルの『A Mulher do Fim do Mundo』は、エルザがサンパウロのアヴァンギャルドなミュージシャンたちとともに録音した実験色の濃い作品で(プロデューサーはギリェルミ・カストルッピ)、ポストパンクやマスロックなどの手法をアフロ・ブラジリアンに溶け込ませた素晴らしいアルバムだった。テーマの上でも人種差別やDVなど現代ブラジルの抱えるハードな問題を扱っており、『ガーディアン』『ピッチフォーク』といったメディアから非常に高い評価を受けている。そのオリジナル・アルバムに新たにリミックス音源を追加したのが、この『The Woman At The End Of The World + End Of The World Remixes』である(アナログ盤および配信版はリミックス音源のみの構成)。
 そのリミキサー陣には、リオのオムルやリカルド・ディアス・ゴメス、オリジナル盤の制作にも大きく関わったサンパウロのキコ・ディヌッチといった当地のプロデューサーたちに加え、ララージとジャイルス・ピーターソンというふたりの大物も名を連ねているのだけれど、その並びにひっそりマルフォックスとニディアも参列している。
 マルフォックスが、すでに確立された己のスタイルに強制的に原曲のパーツを組み入れる形でリミックスを施しているのに対し、ニディアの方は、リズミカルでありながらもエルザの声のエコーを最大限に活かした、ある意味で静謐を湛えるリミックスをおこなっている。ニディアは最近フィーヴァー・レイのアルバムにも参加していて、そちらではマルフォックス寄りのアゲアゲな側面を披露しており、たしかにそれも〈プリンシペ〉の世界各地への伝播の一例ではあるのだけれど、彼女自身のスタイルの幅を広げるという点においては、このエルザのリミックスの方が有意義な経験だったのではないだろうか。

 かくして〈プリンシペ〉の次なる可能性のひとつに、ラテンという選択肢が浮かび上がってきたわけだが、旧宗主国のゲットーと旧植民地のストリートとのこの出会い、すなわち第四世界と第三世界とのこの邂逅が、今後どのような成果を生み落とすことになるのか、今度はそのことが気になって気になってしかたがなくなってきた。

interview with Bullsxxt - ele-king


Bullsxxt
BULLSXXT

Pヴァイン

ProtestHip HopJazz

Amazon Tower HMV iTunes

 まずサウンドの変化が耳に飛び込んでくる。とりわけベースが豊かになった。UCDをフロントに据えた若きヒップホップ・バンド、Bullsxxtのファースト・フル・アルバム『BULLSXXT』は、IDM的な要素も聴きどころだった自主制作盤『FIRST SHIT』から一変し、ぐっとジャズやファンクに寄ったグルーヴィなアンサンブルを展開している。とはいえ生演奏の心地良さに安住してしまっているわけではなく、パキッとしたスネアの質感(ドラマーの菅澤によると、打ち込みっぽく響かせたかったのだそうだ)や、“Poetical Rights”のエレクトロニクスなど、いわゆるバンド・サウンドからの逸脱も厭わない。かつてのブラック・ミュージックの大いなる遺産を受け継ぎながら、近年のジャズの潮流も視野に収めた同時代的なアルバムと言えるだろう。まずはサウンド面で勝負をかける――それがかれらの意気込みなのだ。
 しかし、である。MCを擁したヒップホップ・バンドである以上、多くのリスナーが最初に注目するのはやはりUCDのラップだろう。「ブラック・ミュージックをやるなかで、体制にプロテストしていくという要素を無視して、音楽的な部分だけすくい取るということをしたくなかった」と菅澤が語るように、『BULLSXXT』を際立たせている特徴のひとつに、彼らの「コンシャス」なアティテュードがある。
 今回の取材で意外だったのは、UCDが「国家じゃない共同性のあり方だってある」という話をしてくれたことだ。僕は勝手にSEALDsにリベラルなイメージを抱いていたので、そして“Sick Nation”のリリックは「ニセモノの愛国に対してホンモノの愛国を提示する」というある意味では危険な構図をとっていたので、彼らは国家の存在自体は保留しながらそのなかで少しずつ情況を改良していく、というような方向を目指しているのかなと想像していたのだけれど、そしてじっさいUCDはそういう側面も否定はしないのだけれど、「国家じゃない共同性のあり方」という考えに影響を与えているのは、リベラルというよりもむしろラディカルな現代思想であり、そしてそれはアナキズム的な発想とも通ずるものだ。じっさい以下のインタヴューでもベンヤミンやルジャンドルといった思想家の名が挙がっているが、UCDがだてに研究をやっているわけじゃないことがひしひしと伝わってくる。それこそがラッパーとしてのUCDの魅力であり強みでもある、とドラマーの菅澤は言う。たしかに、そのような彼の思想とヒップホップ的なマナーとのせめぎ合いもまた『BULLSXXT』の魅力のひとつだろう。
 このアルバムで興味深いのは、直接的なメッセージ性を持った曲が意外に少ないという点だ。声高にプロテストを表明しているのは“Sick Nation”と“Fxxin'”くらいで、他は日常を描いたものや抽象的な思考を吐き出したもの、音楽への愛や大切な人への想いを綴ったものなど、リリックのテーマは多岐にわたっている。本作において直接的な政治性は、あくまで要素のひとつにすぎないのである。それ以上にこのアルバムには、「ひとり」の人間が抱くさまざまな想いや思考が凝縮されている。まさにそのようなあり方にこそUCDの考えるポリティクスや、Bullsxxtというバンドのコンシャスネスが体現されているように思われてならない。
 だからこそ、“Sick Nation”に登場する「ひとりひとり孤独に思考し判断しろ」という一節が鋭く胸に突き刺さる。たしかに、孤独なくして友情や恋愛はありえないし、共同性もまた孤独なくしては生起しえない。そういう意味で『BULLSXXT』は、濃密なバンドの「団結(band)」を示しているとはいえ、多分にUCDの「孤独」から生み落とされたアルバムなのではないかと思う。以下のインタヴューで語られる「自分の意見なんかゼロ」「器になる」という話も、まさにそのことを象徴しているのではないか。ここで僕は、かつてとあるMCが繰り出したパンチラインを思い出さずにいられない。
 「サイの角のようにただ独り歩め」。
 この『BULLSXXT』というアルバムは、これからやって来る世代、場合によってはまだ生まれてすらいない人びとに向けて作られていると、そうUCDは言う。僕は本作が10代の、とりわけ「孤独」であることに悩んだり引け目を感じたりしている人たちの耳に届くことを願っている。かつてUCDがBOSSのラップに突き動かされたように、いまUCDが紡ぎ出している言葉たちもまた、そんな誰かの人生を変えてしまうかもしれない可能性を秘めているのだから。(小林拓音)

直接ポリティカルなことを言っていなくても結果としてポリティカルなことになるというのはあると思うんですよ。例えばPUNPEEの今回のアルバムもけっこうポリティカルだと思うんですけど、そういうふうにもやってみたいと思ったんですよね。 (UCD)

=野田 ●=小林

もしこのCDが全然売れなかったとしたらBullsxxtはどうなるんでしょうか?

菅澤捷太郎(以下、菅澤):ああ、意地悪ですね(笑)。

UCD:はははは。僕は続けたいと思っていますけど、どうなんでしょう。

菅澤:次のアルバムがPヴァインさんから出ることにはならないかもしれないですけど(笑)。

(一同笑)

菅澤:出ることにはならないかもしれないですけど、Bullsxxtは別に売上のためだけにやっているバンドじゃないので、続けることになると思います。あとはメンバー同士のやりたい音楽が一致している限りはこのバンドは続くと思いますけどね。

UCD:そうですね。それで例えば無理やりポップ路線にいこうとか、そういうことは考えないと思いますね。

僕はこのCDが売れることを望んでいますけどね。万が一売れなかったときの話(笑)。

(一同笑)

菅澤:たぶん落ち込みますね(笑)。

UCD:でも売れなかったら逆に俺は調子に乗ると思う。

でもさ、結局10代の多くは自民党に票を入れるじゃない? 全然Bullsxxtの言葉が届いてないよねー。それが不満なんだよ。

UCD:本当にそうなんですよね。でもタイミング的に選挙ギリギリだったというのもあるんですけどね(笑)。出たばっかりなのでこれから浸透していくとは思うんですけど。あとはBullsxxtもそうですけど、SEALDsの声が届いていないとは思いますね。そもそも若者は政治に関心があるというイメージに反して、じつはSEALDsが超マイノリティだったという結論なのかなと思いますね。

枝野(幸男)さんはマイノリティじゃないと言っていたけどね。

UCD:そうですね(笑)。僕らもマイノリティじゃないぞとは言っていたんですけど、でも結局マイノリティだったということだと思うんですよね。

今回はBullsxxtが力及ばずってことか。

(一同笑)

UCD:全部僕らにかかっているんですね(笑)。

菅澤:背負わされてるね(笑)。でも本当に背負っていくしかないね(笑)。

だいたいさー、リリックで、こんな上から目線な表現で、「くだらねえ」とか「~じゃねえ」とか「抗え、もしくは闘え」とかさ、こういうのはいまも通用するの(笑)?

UCD:通用しないと思います(笑)。

ハハハハ。

UCD:いまだったらもうちょっと言いかたを変えると思いますね。

こういうのは初期の曲なの?

UCD:そうですね。メッセージが強い曲ほど最初のほうに書いた曲ですね。大学2、3年生のときの僕がただ怒って書いていたものなので、いまだったらもうちょっとやりかたを変えるかなとは思いますけど。

菅澤:この歌詞を書いてからもう4年くらい経っているよね。でもその4年前に言っていたことがいまでも通用するというのが恐ろしいですけどね。

Bullsxxtのアルバムをすごく楽しみにしていた人間のひとりとして言うと、“Sick Nation”みたいな曲をもっとたくさん聞きたかったなと思いますね。

UCD:なるほど(笑)。

Bullsxxtって「コンシャス」なイメージがあるのに、今回のアルバムは直接的なメッセージの曲が意外と少ないなと思いましたね。

そうなんだよ。それはちょっと不満だよな。

UCD:最初はもっとポリティカルな内容にすることを構想していて、(1st EP)『FIRST SHIT』の曲を過去の話としてアルバムの真ん中に置いて、例えば戦争後から見た『FIRST SHIT』の僕というのを未来から事後的に語っている曲を前後に置くとか、いろいろと考えていたんですけど、ちょっとそれも違うと思ってしまって。まずは普通の曲としてちゃんとしたものを作れるようになりたいなと思ったんですね。

菅澤:今回のアルバムのために作った新曲はあまり政治的な内容じゃないんですよね。

UCD:1曲共謀罪についての政治的な曲を入れようとしたんですけど、詞とトラックが合わないということになって入れなかったんですよね。

ブラック・ミュージックをやるなかで、体制にプロテストしていくという要素を無視して、音楽的な部分だけすくい取るということをしたくなかったというか。 (菅澤)

やっぱ牛田君には去年までのSEALDsでの経験があって、あの熱気はBullsxxtにも引き継がれているわけでしょう?

UCD:もうちょっと普遍的なことも言いたいと思って、別に直接ポリティカルなことを言っていなくても結果としてポリティカルなことになるというのはあると思うんですよ。例えばPUNPEEの今回のアルバムもけっこうポリティカルだと思うんですけど、そういうふうにもやってみたいと思ったんですよね。

PUNPEEのアルバムはどこがポリティカルだったんですか?

UCD:やっぱり日本に対する諦念みたいなものは確実にあって、「ニュースではひどいことばっかりだ」みたいなことをところどころで言ったりしているんですね。基本的には未来のPUNPEEが過去のアルバムについて言及しているという構成になっているんですけど、最後の曲ではおじいちゃん(未来のPUNPEE)が消えて、本当のPUNPEEが出てくるんです。PUNPEEが「友だち、兄弟ありがとう。でも大事なのはこれからだぜ」と言って最後の“Hero”という曲がはじまるんですけど、「過去には戦争があったけど、その犠牲者のなかにも偉大なアーティストがいたはずだ。そういう人の意思を引き継いで僕らはものづくりをしなくちゃいけないんだ。つくりだそうぜ、Hero」って内容なんですよ。ヴァルター・ベンヤミン(註:ドイツの思想家)の「歴史哲学テーゼ」かよ! って思いました。

デモでマイクを握っているときのほうがライヴ・ハウスでマイクを握っているときよりも迫力があるように感じてしまったんだけど、まだデモのときのエネルギーをライヴ・ハウスで出し切れていないんじゃない?

UCD:たしかにそうですね。

機動隊に囲まれているほうが燃えるんですか?

UCD:いや、むしろ逆でライヴ・ハウスのほうが気負っているんですよね。僕はコールを国会前でやっているときは基本的に自分をゼロにしようと努めていて、「自分の意見なんかゼロなんだ」というのが僕が一番やろうとしていることなんですよ。器になるというか、僕の後ろにいる何千、何万人という人たちの声の集約地点というか、その声が全部僕のなかに入ってきて語っているというイメージでずっとコールをしていたんですよね。だからもちろん僕の言葉でもあるんですけど、僕だけの言葉ではないというか。無意識のエネルギーを自分のなかに吸収して吐き出していたという感じですね。だから詞も本来はそうあるべきなので、ライヴ・ハウスでももっと周りの目線を吸収して吐き出さないといけないんですけど、正直言ってたぶんまだ僕にそこまでの力がないんだと思います。だから僕はこの1枚(『BULLSXXT』)は次に繋げるための1枚だと思ってます。やっぱり前のアルバムの出し直しということも含めてなんですけど。

そういう言葉でのスタンスと今回煮詰めようと思ったジャジーでメロウな音楽性はどういうリンクのしかたをしているの?

菅澤:今回のアルバムはメンバー同士で言葉にすることはなかったですけど、「ブラック・ミュージック」というものを意識しようという、テーマみたいなものがあって、それは集まったメンバーがもともとブラック・ミュージック系の音楽サークルに入っていたというのもあると思うんですけど。そうやってブラック・ミュージックをやるなかで、体制にプロテストしていくという要素を無視して、音楽的な部分だけすくい取るということをしたくなかったというか。

UCD:バンドだけでしかできないことを考えたときに、僕の主張だけならソロでもできるはずで、バンドだとみんなで作った演奏のトラックに沿うように歌詞を書くということがバンドでやるおもしろさだと思っているんですね。だから歌詞は曲からイメージされるものとして書いている感じではあったんですよね。“Sick Nation”みたいな曲は僕のなかではラップと曲が乖離していると思うんですけど、それが逆にいいというか。ATCQの最新アルバムもそんな感じになっていて、「右翼じゃなくて左翼になるときだ」ってフレーズからはじまるけど曲はオシャレみたいなことになっているからいいんですよ。だからもうちょっと僕がバンド全体を政治的に調教しなきゃいけないとは思いますね。

(一同笑)

問題発言が出た(笑)。ケンドリック・ラマーからの影響は?

菅澤:ケンドリック・ラマーの2枚目ですよね。3枚目もみんな聴いていましたけど、どちらかと言えば2枚目の影響のほうが強いと思いますね。

UCD:ケンドリックってデモとか批判していますよね。あとは投票も行かないとか、そんな感じじゃないですか。だから内側からのコンシャスのほうが大事だってことを言っていて、それは僕も共感するところではあるというか、段階的にはSEALDsや立憲民主党みたいな動きは必要だと思うんですけど、僕の根本的な思想で考えたときに別に国家がある必然性はないとは思うんですよね。ほかの共同性もありえるはずというか。

それほど国家にこだわりがないという話はおもしろいですね。というのも、“Sick Nation”は「俺のほうが本当の愛国だ」というニュアンスの曲ですよね。戦略的にこういうリリックを書いたのか、それとも4年前の時点では本気でそう思っていたのか、どちらなのでしょう?

UCD:いや、書いた当時も戦略的でしたね。戦略というか、いま言われているような右翼よりかは俺のほうが日本好きだよっていう思いは確実にあって、日本語というもの自体に対する愛とか、そこに生まれてしまっているから、自分の足場はそりゃ捨てられないというのはありますね。できるだけよくするしかないという気持ちはあります。そういうものとして捉えたときには愛国的な歌詞かもしれないですけど、半分は皮肉ですね。

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イメージ的には未来を見ている感じですね。これから来る世代、むしろまだ生まれてもいない世代にとって悪い世のなかにならないようにするということ。 (UCD)


Bullsxxt
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ProtestHip HopJazz

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だんだん怒りが薄まっているということはない?

UCD:(笑)。怒りの方向性が変わっているというのはたしかにありますね。もともと僕はヘサいんですよね。だからちょっと前に「お前ら俺が本気で怒っていると思うなよ」って書こうと思っていたんですけど(笑)。「俺をヒーローにするな、ふざけるな」みたいな歌詞を書こうと思ったんですよ(笑)。

恐ろしい自意識!

(一同笑)

UCD:いやいや(笑)。でもSEALDsをやっているとヒーローとして扱われちゃうんですよ。とくに地方に行くと「うわ~、UCDだ!」みたいな人たちがいたんですけど、「いやいや、俺は何者でもねえよ」っていう(笑)。

菅澤:ネットでもいるもんね。

UCD:ネットでも僕がツイートするたびに「ですよね!」って言ってくる人たちがいて。そういう人に対する怒りとか(笑)。あとは知識人に対する怒りですね。当事者性がない連中に対しての怒りはあります。怒りが薄まっているのかなあ。

サウンドが大人びた方向に行ったじゃないですか。それは演奏している側が牛田君の言葉を聴いて、こっちの方向が正しいと思ったわけでしょ?

菅澤:前はなんだかんだ言ってラップが引き立たないようなトラックもあったと思うんですよ。でも今回はトラック・メイカーのベーシストが入ったというのもあって、どうやってラップを引き立てていくかというのを考えたときにああいうかたちになったんですよね。

UCD:ラップ入れようとするとこいつ(菅澤)のドラムが邪魔で、邪魔で。

で、パチパチやり合っていた?

菅澤:けっこう火花は散ってましたよ。

UCD:練習の段階ではけっこうバチバチでしたね。

DJとか、サンプリングとか、そういうことは考えなかったの?

UCD:いや、考えたんですけど単純に周りにいなかったんですよね。本当にそれだけの理由ですね。本当はサンプラー使って女の人の声だけで作られているような曲のほうが好きなんですよ(笑)。女の人の歌声が不自然に出てくる曲のほうが好きですね(笑)。

じゃあMC+DJというかたちでやる可能性もある?

UCD:ありましたね。というかそれはやるつもりなので、今後もありますね。

菅澤:Bullsxxtができたのも、バンドをやっているやつしか周りにいなかったって理由なんだよね。

アルバムを聴いてすごく思ったのが、THA BLUE HERBからの影響がすごく大きいってことなんだよね。S.L.A.C.K.はあまり感じなかったね。

UCD:THA BLUE HERBは大きいかもしれないです。僕がS.L.A.C.K.(5lack)のことを好きなのは自分ができないからかもしれないですね。ああはなれないというか、タイプが違うというか。S.L.A.C.K.の影響があるとしたら、ただ日常を歌うというところですね。怒りも含めて日常であるということを歌うということですかね。
 とはいえ、ラップを書くときには意識していないんですけど。僕は最近だとC.O.S.A.が好きですね。C.O.S.A.は、ちょっと違うところもあるんですけど現代版THA BLUE HERBというか、ゴツッとした感じのラップで好きですね。

ちょっと任侠の世界が入っているような?

UCD:なんだコイツは! という感じにちょっと憧れますね。(自分の)キャラクターとは違いすぎるんですけど(笑)。

菅澤:牛君は任侠っぽくはないもんね。

UCD:心のなかではいつも任侠的な気持ちがあるけどね(笑)。「なめてんじゃねえぞ」っていう。

小岩が任侠的な街なんじゃないの(笑)?

UCD:たしかに僕は不良を目指してました(笑)。優等生なのに(笑)。

菅澤:不良に囲まれざるをえないからね(笑)。

UCD:たしかに粋がってるやつのほうがカッコいいでしょ、みたいな不良文化はありましたね。

アルバムを聴いて、1音1音に間が入るようなラップだと感じて、そこはそれほどBOSS的ではないなと思ったんですよね。もちろん曲のなかでラップが流れるようになるところもあるんだけども、全体的に言おうとしている言葉を優先しているという気がしたんですが、そんなこともない?

菅澤:詞先みたいなことですか?

モーラごとにほんの少し間があるというか、喋るようにスラスラ流れるというよりは、1音1音区切っているようなラップのしかただと思ったんですね。

UCD:たしかにそうですね。なにを意識しているのかはもうわかんないな。

「Bullsxxtのアルバム聴いた?」「聴いたよ!」というやり取りでの繋がりかたを作るという意味では音楽にしかできないことだと思いますね。〔……〕国家じゃないところでの人々の繋がりを作れるというところは大きいと思いますね。 (UCD)

10曲目(“Reality”)は2ヴァース目からそのラップが変わって、それがすごくおもしろかった。

菅澤:“Reality”こそ、このアルバムの曲のなかではS.L.A.C.K.に近いラップだと思うんですけどね。

UCD:正直自分ではなにっぽいのかよくわかんないですね(笑)。

とくに影響を受けた人がいるわけではない?

UCD:そうですね。いろんな人のラップを聴いて、こういうのもありなのかとは思うんですけど、とくに脚韻を重視する必要がないというのはいとうせいこうが“東京ブロンクス”とかでやっているんですよね。全然踏んでいなくてもいいじゃん、っていう割切りはしていますね。BOSS、S.L.A.C.K.、ISSUGI、仙人掌からの影響は大きいかなあ。

菅澤:ISSUGIさんからの影響は大きいんじゃない?

UCD:ISSUGIさんはデカいっすね。“Classix”はISSUGIさんのラップのイメージですね。

ISSUGIさんのどういうところが好きなんですか?

UCD:ノリですかね。言葉がたくさん埋まっているほうがノリを出しやすいんですけど、言葉が少ないのにノリを出すのは難しいんですよね。ISSUGIさんは言葉がそんなに多くなくて詰まっているのにノリが出ているんですよね。それがスゴいと思って、真似しました。

菅澤:レコーディングのときもビートに対して後ろでノるか、真ん中でノるかをいろいろ試したりしてたよね。

UCD:後ろでノるか、真ん中でノるか、前でノるかというのはけっこう悩みどころで、その日の体調によってどこになるかが決まっていないんですよ(笑)。なにが正しいのかは僕もよくわかっていないですね。ただ僕がノレてるなと思うときはノレていると思うんですけど。

アルバムのなかで1曲ラジオで流すとしたら、いまだったらなにをかけたい?

UCD:ラジオとなるとやっぱりキャッチーな曲に忖度したくなりますね(笑)。“Stakes”かな(笑)。

(一同笑)

菅澤:俺は“Poetical Rights”かなあ。けっこうラジオ乗りもよさそうだし。

Bullsxxtを紹介するための重要な1曲を選ぶとしたら?

菅澤:俺は“Poetical Rights”がすごくBullsxxtらしい曲だと思っているんですよね。そんなことない?

UCD:どうかなあ。

菅澤:“Poetical Rights”には、フックの「詩的権利の行使/理解してるぜ/これはギャンブル」とか、牛君らしいパンチラインが多い。この曲はパンチライン続出の曲だと思っているんだけど(笑)。「詩的権利の行使」ってフレーズはあれだよね?

UCD:(ピエール・)ルジャンドルだね(註:フランスの法制史家、精神分析家)。ルジャンドルの本を読んでいて、そのなかで「詩的権利」って言葉が出てくるんですよ。

ラッパーでルジャンドルなんて言う人、他にいないよ(笑)。牛田君にとって「詩」とはなんですか?

UCD:難しいですね。直接関係してないように見える比喩と物事を並べているのに、なぜかリアリティが出るものだと思いますね。それ(リアリティ)は仙人掌さんのリリックがスゴいなと思いますね。具象と抽象が交互に出てくるような感じで、具体的なものに焦点が当てられているのに、抽象的に聞こえたり、抽象的なことがリアルに描写するよりも現実味をもつということが詩的であることの条件だと思うんですけど、僕はまだまだですね。これからって感じです。でもそういうものが書けるようになったらいいなと。

音楽面では、無名時代から蓄積されてきたものを全部吐き出した感じ?

UCD:音楽の面ではそうですね。僕もどちらかと言うとグルーヴのほうを重視していたんですよね。グルーヴを出そうという方向性を重視していて、今回はバンドのノリとの関係でグルーヴを出せるようになったとは思いますね。ただ詩として見たときはまだまだかな。例えば“Poetical Rights”に関してもガースーは俺っぽいと言っていたし、もちろん頑張って書いたんですけど、俺のなかでは哲学者がラップしている感じがするんですよ。詩人じゃないなというか、哲学なんですよね。もうちょっと詩的に言いたいし、具体的なものをラップできるようにならないとダメだなと思いますね。それはすごく難しいですね。単純に苦手なんですよね(笑)。

聴き手の顔っていうのでまず見えるのは、やっぱり同世代の人たちになるのかな?

UCD:SEALDsのときもそうでしたが、イメージ的には未来を見ている感じですね。これから来る世代、むしろまだ生まれてもいない世代にとって悪い世のなかにならないようにするということ。だから集まりましょうということは全世代に呼びかけていたというか。だからこれは矛盾しているとは思うんですけど、Twitterではやっぱり同世代に向けているように見えるし、メディアでもそういうふうにしていましたけど。実際に周りの人とかに呼びかけたときに、陰で「牛くんってSEALDsのこと言ってきてめんどくさいよね」って言われたとしても、僕はしつこいしめげないんでやめないんですよ(笑)。最終的にはみんながデモに来るようになったということもあったし。それはみんなそれぞれ考えていたということもあるんですけどね。ただ基本的にはそういうことを言うと煙たがられるというか、地元の友だちにも「あいつは頭が狂った」とか「革命を起こそうとしている」とか、ヤバいやつだと思われたりしたんで(笑)。

(一同笑)

UCD:いちばん仲がよかったやつからも遊びに誘われなくなったりしたし、やっぱり誘えないですよね。そうとう難しい。

菅澤:俺でさえもそういうことはありましたね。SEALDsには参加してないし、Twitterで「デモに行きました」とかつぶやいているだけで、「お前最近左に行ってんじゃん」とか言われたりしましたね(笑)。

よく(日本は)同調圧力が強いと言われるじゃない?

UCD:そうだと思います。いま俺らの世代で政治的なことに関心をもっているやつがそれを一言でも発したら、その瞬間、いまいる偏りのないコミュニティのなかから排除されますよね。それはもう間違いないと思いますね。それが怖くてそのコミュニティの外に出られないというのはたくさんあると思います。それが普通になっているんじゃないかな。

だからこそ率先して馬鹿をやる人間が重要になってくる。

UCD:そうだと思います(笑)。反時代的というか。だから僕はラッキーだと思っていますけどね。みんな内輪でやっていることなので(笑)。僕も詩的レヴェルとしてはそんなに高くないと思うんですけど、だとしてもある程度は尖っているように見えるというか。

音楽だからこそできることってなんだと思いますか?

UCD:端的に層が違うというのはありますよね。僕らはデモも音楽としてやろうとしていたところがあって、やっぱり「特定秘密保護法、はんたーい!」よりも「特定/秘密保護法/反対」ってラップっぽくリズミカルにコールしたほうが引っかかりやすいですよね。それは音楽もデモも同じなんですよ。つまり演出されているということなんですけど、それに加えて音楽にしかできないこととなると……。うーん、デモを強制的にいろんなところに配信できるということじゃないですかね(笑)。

(一同笑)

触発させるということね。

UCD:デモという空間自体をいろんなところに拡散させることによって、いろんなところで勝手に蜂起しているという感じですかね(笑)。あとは国家という枠組みに囚われなくてもいいというか、それ自体が共同体を作りうるというか。国家という意味の共同性だけじゃなくて、「Bullsxxtのアルバム聴いた?」「聴いたよ!」というやり取りでの繋がりかたを作るという意味では音楽にしかできないことだと思いますね。とくにヒップホップはそういう要素が大きいと思うんですけど、国家じゃないところでの人々の繋がりを作れるというところは大きいと思いますね。

Bullsxxt、リリース・パーティの追加ゲストに入江陽、DJに高橋アフィ(TAMTAM)が出演決定!

10/18に1st Album『BULLSXXT』を発売したBullsxxtが、12/10に恵比寿BATICAでリリース・パーティを行う。本日、このイベントの追加ゲストを2組発表した。ライヴ・アクトに入江陽、また、DJには、TAMTAMの高橋アフィの出演が決定! これは見逃せないパーティになりそうだ。

すでにアナウンスがあった“In Blue feat. 仙人掌”でも共演した仙人掌、BullsxxtのNaruki Numazawa(Key, Syn, Vo)とPam a.k.a. Ecus Nuis(Ba, Syn)によるユニット「odola」がオープニング・アクトとして出演する。チケットの取り置きは、会場へのメール予約で受付中。お早めにどうぞ。

[イベント情報]
BULLSXXT RELEASE PARTY
日時:2017年12月10日(日)
場所:恵比寿BATICA
開場/開演:17:00
チケット前売価格:¥2,000(+2D)
予約先:batica@club251.co.jp

DJ:
高橋アフィ(TAMTAM)
tommy(Bullsxxt)
オークダーキ
Death mix

ライヴ:
odola(O.A)
入江陽
仙人掌
Bullsxxt

Ibeyi - ele-king

 キューバ出身の女性シンガーでは今春にセカンド・アルバム『キューバフォニア』を発表したダイメ・アロセナが知られるが、2015年にデビュー・アルバムを放ったイベイーもキューバの血を引く。イベイーはリサ=ケインデ・ディアスとナオミ・ディアスというフランスの双子の姉妹ユニットで、彼女たちの父親はキューバ出身の世界的なパーカッション奏者である故ミゲル“アンガ”ディアス。ミゲルはヨーロッパにも滞在して演奏活動や音楽教育などを行なったが、フランスでヴェネズエラ系のシンガーであるマヤ・ダニーノと結婚して生まれたのがリサ=ケインデとナオミである。2006年にミゲルは亡くなるが、当時11才だった姉妹はカホンの演奏などで父親譲りのキューバ音楽を受け継いでいた。キューバの宗教音楽のサンテリアは、その祖先であるナイジェリアのヨルバ族の儀式や音楽を受け継いでおり、彼女たちはそうしたヨルバ民謡も学んでいった。一方でR&Bやジャズやブルースなどいろいろな音楽も吸収し、歌唱だけでなく作曲技術も身につけた姉妹を母親のマヤがマネージメントし、2013年にイベイーが結成される。そしてリチャード・ラッセル主宰の〈XLレコーディングス〉と契約し、2014年にEPの「オヤ」をリリースした後、前述のファースト・アルバム『イベイー』を発表した。

 フランク・オーシャンからジェイムズ・ブレイクにも影響を受けたと述べる彼女たちで、『イベイー』にはオルタナティヴR&Bからベース・ミュージックなどを通過したサウンドも見られ、同世代であるFKAツイッグスからケレラなどに通じるところも見出せる。ただし、イベイーならではのオリジナルな要素も色濃く、それは彼女たちのルーツにあるキューバ音楽をはじめ、アフリカや中南米の民族音楽からの影響である。そうした民謡や土着音楽から、ジャズやブルース、クラシックや教会音楽など、彼女たちが吸収したさまざまな要素を現代的なサウンドの中にうまく融合させていた。ルーツ音楽を今までにない全く新しいやり方で聴かせており、イベイーの新世代たるところを際立たせたアルバムだった。リチャード・ラッセルはこれまでにも、ギル・スコット=ヘロンとジェイミー・エックス・エックスを組ませた『ウィアー・ニュー・ヒア』(2011年)を企画し、ボビー・ウーマックの遺作『ザ・ブレイヴェスト・マン・イン・ザ・ユニヴァース』(2012年)では、デーモン・アルバーンやクウェシらを起用して新しいソウルの見せ方を提示していた。ルーツ音楽に現代性を吹き込み、異種の音楽性を融合したという点では、『イベイー』もそうした作品の延長線上に位置するアルバムでもあった。

 アルバム・リリース後は世界中をツアーする中、ビヨンセの『レモネード』のショート・フィルムに出演し、アルヴィン・エイリー・ダンス・シアターの音楽に使われるなど多方面で話題を呼んできたイベイーだが、約2年半ぶりにセカンド・アルバム『アッシュ』が完成した。表題曲の“アッシュ”はアメリカの大統領選の期間に作曲した重々しい作品だが、灰という絶望や崩壊の象徴から新しい希望や命が芽吹くイメージで、アメリカの現状に対してポジティヴな方向性を見出そうというメッセージを投げかけている。この“アッシュ”がアルバム全体の根本的なテーマとなり、政治的声明や社会的メッセージを含んだ内容となっているのは、ビヨンセたちとの交流によるところも大きいだろう。“ノー・マン・イズ・ビッグ・イナフ・フォー・マイ・アームズ”ではミシェル・オバマのスピーチを引用し、女性たちへの意識の高揚を説いている。結果的にイベイーたちの望んだ方向とは異なる選挙結果となったが、ここでのメッセージは普遍的なものである。“ミ・ヴォイ”はイベイーがスペイン語で歌った初めての曲で、スペインの女性ラッパーのマーラ・ロドリゲスをフィーチャー。マーラはホームレスや女性の社会的問題などについて言及することが多いラッパーで、イベイーの歌にあるメッセージ性に賛同してこの曲へ参加した。女性ジャズ・ベーシストの大ヴェテラン、ミシェル・ンデゲオチェロが参加した“トランスミッション/ミカエリオン”では、母親のマヤがメキシコの女流画家フリーダ・カーロの著書『フリーダ・カーロの日記』の中の一説を朗読し、ジャマイカの女流詩人のクラウディア・ランキンのサンプルもフィーチャーされる。マヤはほかにもいくつかの作品で歌詞を書いており、アルバム全体が女性からの視点を大切にしたものである。

 “アイ・キャリード・ディス・フォー・イヤーズ”は前作のムードを継承するもので、ブルガリアン・ヴォイスをサンプリングしている。そうした神秘的な色合いは“アウェイ・アウェイ”のコーラスにも引き継がれる。この曲は前作に比べてよりR&B~トラップ・ソウル色が強いが、ヴードゥーに通じる土着的なドラム・ビートを絡ませている点がイベイーならでは。カマシ・ワシントンのサックスをフィーチャーした重厚で力強い雰囲気の“デスレス”は、リサ=ケインデの実体験をもとに、暴力や人種差別をテーマに歌っている。彼女たちも出演したこの曲のPVは、“アッシュ”と同様に死と新しい命の誕生をイメージさせるが、イベイーはPVやアルバム・ジャケットなどヴィジュアル面にも強い関心を寄せるアーティストで、“ナム”は映像作家のクリス・カニンガムにインスパイアされて作った曲。チリー・ゴンザレスのピアノをフィーチャーした“ホエン・ウィル・アイ・ラーン”は、ほとんどコンガ、ピアノ、ヴォーカル&コーラスのみを軸としたミニマムな構成で、イベイーの歌の力強さを訴える。チリー・ゴンザレスはこの曲と“ミ・ヴォイ”、そして“アイ・ワナ・ビー・ライク・ユー”にも参加。“アイ・ワナ・ビー・ライク・ユー”も基本的にミニマムなスタイルのイベイー流R&Bだが、彼女たちのルーツであるキューバのサンテリアが持つスピリチュアルなムードと通底している。“ウェイヴズ”など数曲にはUKのIDMCゴスペル・クワイアがフィーチャーされ、イベイーの歌の霊的なところを盛り立てる。『イベイー』でのアフロ・キューバ文化を通した現代的なR&Bをさらに発展させると共に、ビヨンセなどと同様に社会や政治問題などにもコミットし、女性からのメッセージ性を備えたアルバムとなったのが『アッシュ』である。

Matthew Herbert Brexit Big Band - ele-king

 先日、ブルーノートで行われたマシュー・ハーバートのライヴに行ってきた。銃弾の音や豚の生活音、コンドームの擦れる音まで、様々な音をサンプリングして楽曲制作することで知られるハーバートだが、今回のテーマは、Mathew Herbert Brexit Bigbandという名前の通り、「ブレグジット」だ。
 “イギリス(Britain)”がEUを“抜ける(Exit)”から“ブレグジット(Brexit)”──EU残留か離脱かを問う国民投票を行うとキャメロン前首相が発表したその数日後、新聞の見出しにあったこの語を見た時は、ずいぶん適当な造語だなと思ったものだが、結局、この語の名指す出来事はイギリスを大きく揺るがすこととなる。国民投票の結果、離脱派が勝利し、ブレグジットは現実のものとなったからである。
 世界中がこの前代未聞の政治的出来事に注目した。ブレグジットに向け、イギリス政府は今も活動中である。そんな政治的出来事をいったいどうやって音楽に落とし込むというのか? 全く予想がつかない。
 初めてブルーノートにコンサートを聴きにいくということで、「ドレスコードはあるのだろうか」とか細かいことばかり気にしながら、一応襟のついたシャツを着て会場に向かう。

 ビッグバンド編成だったが、演劇の舞台を見ているようでもあった。プロットがしっかりあって、曲ごとに登場人物の顔が見える。
 たとえば3曲目。冒頭でメロディを担うサックスやトランペットの奏者が、イギリスのタブロイド紙『デイリー・メール』を破いた。それを破いた音とともにゆったりとスウィングが始まる。
 『デイリー・メール』とはイギリスで発行されている大衆向けの新聞で、エロ情報が必ず載っている(紙面をめくると割と早い段階で薄着のセクシー姉ちゃんが出てくる)。
 EU残留派支持にはミドルクラスの知識層や左派の学者が多く見られたが、彼らはその大半が『デイリー・メール』に書かれていることなど読むに値しないと考えていた(以前、政治討論のテレビ番組で、レフトアクティビストが、的外れな発言をするインタヴュアーに向かって「This is Daily Mail!」と言い放ったのをみたことがある)。
 今回離脱派に入れた人びと、つまり『デイリー・メール』を読んでいるような人びとのことなど気にとめる必要などない……そんなミドルクラスの雰囲気を表現しているかのような曲だった。実際、残留派の人びとは「ブレグジットなど起こるわけがない」と静観していた。彼らはEUに不満を抱く人びとの声に耳を傾けることはなかった。

 4曲目、勢いよくブラス隊がかき鳴らすマーチのリズムに乗って、ボーカルのRahelが「take a step(一歩前へ)」「yes!yes!」と歌う。まるで聞こえのいい言葉でアジテーションしていくポピュリストたちの喚声のようだ。『デイリー・メール』を破いた前の曲が、大衆の声に耳を傾けることなく高みの見物をしていた残留派知識層を象徴していたとすれば、この曲は、日々の生活に不満を抱く人びとに向けられたポピュリスト政党のメッセージをモチーフにしたかのような音楽だ。
 曲を聴きながらある人物を思い出した。離脱派のEU議会議員、UKIP(イギリス独立党)党首のナイジェル・ファラージだ。彼は、EUを出てシングルマーケットになるメリットと、EU向けに使っている予算を国内の福祉に回すことができるということをいい 、離脱支持層を集めた。しかし、国民投票で離脱派勝利の数日後、ファラージはEUに払っていた予算を国内に回す事はできないと述べた。EU議会でファラージは他の議員たちに「You lied(あなたは嘘をついた)」と非難され、EU議員を辞職している。歌詞に出てきた「naughty sounds, naughty sounds」とは彼が言った、人びとに都合のいいような、甘い嘘のことなのかもしれない。

 5曲目で、ハーバートは自分の首にサンプリング機械をあてる。音楽ではリズムの速度を示すBPM(Beat Per Minute)という言葉は、医学では心拍数という意味で使われる。マシューの脈がうつビートと同時に、曲が始まる。彼の心拍数と曲のリズムが交差し、時々ずれながら、ヴォーカルのRahelが歌い上げる

You need to be here
あなたはここにいる必要がある

 ここでいうhereはEUではないだろうか。儚げに歌い上げる声に、まだ投票権を持たず、EUからの離脱に反対するティーンエイジャーの姿を重ねてしまった。EUの特徴に「EU加盟国間では、人、物、サービス、および資本がそれぞれの国内と同様に、国境や障壁にさらされることなく、自由に移動することができます」というものがある。例えば、スーパーでスペイン産の生ハムや、フランス産のパンなど、国内で作ったものと同程度の価格で購入できる。あるいは、イギリス人が就労ビザなしでイタリアやベルギーで働くことができる。
 EU内ではどこにでも行くことができるのだ。将来、子どもたちが享受できたはずの、暮らしたい街や働きたい場所を自由に選ぶ権利は、EU離脱によって狭まれてしまう。ハーバートの心拍の音は、音楽のリズムと時々重なるものの、ずっとズレを伴っている。このズレは、EUに留まりたいと思う子どもたちが、その気持ちを政治的に表現する権利を持たないことのもどかしさを表現しているかのようだった。

 6曲目ではタイプライターを打つ音をサンプリングし、それがすぐにビートに変えられる。ハーバートはドナルド・トランプのお面をかぶる。なぜブレグジットでトランプのお面だったのか。UKIPのナイジェル・ファラージはトランピスト(トランプ支持者)だそうだが、ここでの直接的な関わり方はわからなかった。
 エントランスで「ドナルド・トランプへのメッセージを紙に書いて、それを紙ひこうきにして、ステージに向かって飛ばす準備をしてください」というメッセージと色折り紙をもらった。それをトランプ扮するハーバートに向けて投げる。その紙飛行機は、ほとんどがステージに届かず客席に舞うだけだが、演奏をしながらハーバートは時々それを拾っては投げ返す。ツイッターが現実世界に可視化されるとすればこんな風だろうかと、演奏を聴きながら会場で起こったパフォーマンスに驚いてしまう(ちょうどブルーノートでライヴが行われた日、本物のドナルド・トランプが来日していた日だった)。
 2人目のお面は誰だかわからなかったのだが、3人目のお面はロンドン元市長のボリス・ジョンソンだった。ブレグジットキャンペーンで、ボリス・ジョンソンは離脱派として活動した。離脱派が勝利し、キャメロンは首相を辞任。その後、ボリス・ジョンソンは外務大臣として内閣入りしている。

 終盤、ハーバートは会場にいるオーディエンス全員の声をサンプリングして演奏に使う。曲のなかでは「we want to be human」と歌われる。残留か、離脱か。この選択を迫られたイギリスの人びとは、それぞれが抱える個人の生活、そして自分たちの社会のために、自分がいいと思った選択をしただけだ。離脱派も残留派も“人間らしくありたい”という点では同じである。

 最後の曲になった。曲は“The Audience”。歌詞の一部を引いてみよう。

Though the ending is not here
We are separate we are one
The division has begun
You are my future I am your past
Even music will not last

So move with me
With me removed

You and us together 
Together in this room
You will not remember
This passing moment soon

終わりだがここにはない
僕らは別れていて、僕らはひとつだ
分断が始まっている
君は僕の将来で、僕は君の過去だ
音楽でさえ続かないだろう

だから僕と一緒に行こう
僕抜きで

君と僕らは共に
この部屋に一緒にいる
君はいずれ忘れてしまうだろう
すぐ過ぎ去ってしまうこの出来事を

 このコンサートの2日前、DOMMUNEのインタヴューでハーバートは、シニア世代と若者世代のブレグジットに対するイメージのギャップについて話をしていた。もしかしたらここで出てくる「you(君)」は、EUを出た後のイギリスで、若者たちよりも先にいなくなってしまうシニア世代ことかもしれない。この曲を作った当時、ハーバートはブレグジットのことなどまったく考えていなかったに違いないが。
 離脱派も残留派も、結局はイギリスという同じ部屋にいる。“The Audience”はブレグジットの文脈で聞くととても悲しい曲に聞こえる。
 ブレグジットはおそらく、イギリス史に残る出来事だろう。しかし、歴史という大きな文脈のなかで、その時代を生きる大衆の意見は大きな出来事の影に隠れてしまう。ニュースで流れてくる政治の出来事や事件は、日々の生活に忙殺され、少しずつ忘れられていく。
 DOMMUNEの対談で、BBCの音響技師だった父親について質問を受け、ハーバートは、「ニュースを1枚のレコードにする作業が印象的だった」と答えていた。ハーバートは、ブレグジットを1枚の楽譜(スコア)にした。彼の父親がニュースをレコードにプレスしていたように、彼の楽曲はブレグジットについて皆がそれぞれの立場で語っていたことを記録している。ブレグジットが後に史実として歴史の教科書に登場するときには忘れ去られてしまうであろう人びとの声を忘れないために。

East Man - ele-king

 ビッグ・ニュースが舞い込んできた。これまでイマジナリー・フォーシズとして活動し、近年はベイシック・リズム名義で尖った作品を発表し続けている鬼才、アントニー・ハートが、新たにイースト・マン(East Man)という名義でアルバムを用意していることが判明。同作はグライム、ダンスホール、ドラムンベース、テクノのハイブリッドとなっているそうで、ほとんどの曲にロンドンの若きMCがフィーチャーされている。タイトルは『Red, White & Zero』で、発売日は来年2月16日。
 そして驚くべきことに、同作は〈Planet Mu〉からリリースされる。さすがはマイク・パラディナス、目の付け所が違うというか、今回のアントニー・ハートとの契約は、これまで果敢にグライムやジューク/フットワークを世に送り出してきた〈Planet Mu〉の、新たなる態度表明と言っていいだろう。
 そしてさらに驚くべきことに、今回のアナウンスに際して、カルチュラル・スタディーズの大家たるポール・ギルロイが紹介文を寄せている。彼はそこで今日のロンドンの若者が置かれている情況について記述しており、曰く、かれらは排除され周縁化された存在だが、まさにかれらのエナジーと想像力こそがロンドンの文化を駆動させている、云々。なんでもギルロイはアントニー・ハートと友人関係にあるそうで、今回の新作のライナーノーツも執筆しているという。
 このように二重にびっくりな告知となった『Red, White & Zero』だけれど、リリースに先駆け収録曲の“Look & Listen”が先行公開されている。これがまたかっこいいのなんの。ベイシック・リズム改めイースト・マン、年明け最初の台風の目となること必至である。

アーティスト:East Man
タイトル:Red, White & Zero
レーベル:Planet Mu
品番:ZIQ395
リリース:2018年2月16日

[Tracklist]
01. East Man - East Man Theme
02. East Man & Saint P - Can't Tell Me Bout Nothing
03. East Man & Darkos Strife - Cruisin'
04. East Man & Killa P - Mission
05. East Man - Stratford
06. East Man & Irah - War
07. East Man - Drapesing
08. East Man & Eklipse - Safe
09. East Man & Lyrical Strally - Mmm
10. East Man & Kwam - Tear Down
11. East Man & Darkos Strife - Look & Listen
12. East Man - And What? (Blood Klaat Version)

more information:
https://planet.mu/releases/red-white-zero/

interview with Okada Takuro - ele-king

 はっぴいえんどリヴァイヴァルでまずいなと思うのは、なんだかんだ言って結局は、なんとなく叙情的で、なんとなく口当たりのいいフォーキーなポップスを肯定するしかないというどん詰まり感だ。ああそういえば、ソフトに死んでいく──と言ったのは誰だっけ?
 岡田拓郎(そして増村和彦)の内には、そうした極めて表層的なはっぴいえんどリヴァイヴァルへの違和感があり、後期森は生きているのライヴにおける超越的な一瞬は、バランスを崩しながら、なにかしら彼らが乗り越えようとしていることの情熱のひとかけらだったとぼくは思っている。


岡田拓郎
ノスタルジア

Hostess Entertainment

Folk RockpsychedelicIndie Rock

Amazon Tower HMV

 どう来るのかとずっと楽しみにしていたところ、しかしながら彼のソロ・アルバム『ノスタルジア』は、自らの内に燃えるそうしたもの、ある種の熱狂を抑制し、メロウで口当たりのいいポップスとしての体裁を保っている、表向きには……。彼のことだから、考えに考えに考え抜いた結果、いまはこれなのだろう。まあ、コーネリアスが象徴的だったように、はからずともメロウなこの2017年らしい作品となった言えるのかもしれない。
 26歳の青年の最初のソロ・アルバム『ノスタルジア』は、あさい夢に浸っているようだ。3曲目の“アモルフェ”のように。そして圧倒的に素晴らしい、7曲目の“手のひらの景色”のように。このアルバムにもっとも似合わないのがデジタル社会で、『ノスタルジア』は、その意味ではまさしくポスト・インターネットであり、楽曲は、かつてあった物思いに耽る時間を取り戻そうとしているかのようである。
 せっかくなので、増村和彦も呼んで取材をすることにした。ele-kingのコラムでもお馴染みの偏愛的読書家のこのドラマーは、いうまでもなく岡田の音楽的同盟者である。

もっとフォーマットを置き換えて現代的なものにしたいと思ったんですね。それは日本語のフォーク・ロックとして新しいものにしたい、ということなんですけど。

今回の作品が出来るのに時間がかかった理由、時間がかかった理由はたくさんあるとは思うんですが、それも今作の内容や方向性に関わるもっとも重要な理由とはなんですか? 

岡田:単純に時間がかかった理由としては、森は生きているのときと完全に違うことをする意識のひとつとして、「フォーク」というフォーマットの音楽を新しいものとして落とし込みたかったというのがあります。それは森(は生きている)のときみたいに60、70年代の音楽の文脈はもちろんあるけど、それを全面に出すわけではなくて、もっとフォーマットを置き換えて現代的なものにしたいと思ったんですね。それは日本語のフォーク・ロックとして新しいものにしたい、ということなんですけど。
 じゃあ、「新しいものってなんだ?」ってことになると難しい話ですけど、この2年間くらいの音楽の流れがすごく早すぎて、自分のなかで消化した途端に別のものになっているというか。これはUSに限った話かもしれないですけど、ボン・イヴェールを消化したと思ったら、次にフランク・オーシャンがいて、みたいな。いままでの森のときにやっていたのはいつの時代であろうと“自分が作っていた音楽”だったとは思うんですけど、今回はソロになって、90年代に生まれた自分が新しいフォークを作ろうと意識したときに、そこの流れを汲むのが困難な時代に対してどうアプローチしていくのか、というのがすごく難しかったし、時間がかかった大きな理由ですね。だから1ヶ月ごとにアルバムができ上がって、それを増村に送って「いいじゃん」と言われた途端にみんなが新譜をリリースして、そうすると途端に自分のアルバムが良くなく聴こえてきてしまう、だからそれをまた壊して曲をボツにするというのを繰り返していたんですけど、こんな作りかたをしていたらそりゃ2年はかかりますよね(笑)。

(一同笑)

いまの話を聴くと、まあ2年でよくできたなって話ですけど(笑)。そもそも岡田君がフォーク・ロックをやるというのが面白くて、何故なら岡田拓郎とはアンダーグラウンド・シーンでは名の通ったインプロヴァイザーでもあるんですよね。新世代のね。そうしたラディカルな自分をどのようにポップとバランスを取っているんでしょうか?

岡田:僕のなかですべての音楽の中心になっているのはギターという楽器であって、それこそインプロを好きになったものは、(デレク・)ベイリーを初めに聴いて、高柳昌行とかもいたけど、一番好きなのは秋山徹次さんやローレン・コナーズなんですよね。あとは杉本拓さんのギターを全面に出したメロディックな響きのアルバムがあるんですけど、そういう音楽ってギター特有の牧歌的な音の響きがして、それはフォーク的な音楽に繋がりやすいんですね。そういうものと自分が作っているエクスペリメンタルなフォークというのはそう遠くないものというか、近いものではあるのかなと思いますね。
 これは脱線ですが、レニー・トリスターノが49年にリー・コニッツやウォーン・マーシュとかと“Intuition”という、ビートも旋律もない、ちょっとイレギュラーなフリー・インプロヴィゼーションの走りのような曲を録音しているのですが、その後フリー・ジャズが栄えるまで時間が空きます。リー・コニッツがそれについいて「楽理の決め事が無いというのは、とても自由で刺激ではじめの2、3テイクは聴いた事がない音楽が飛び出すけれど、その後は、何回録音しても同じものに聴こえたから、再び和声と旋律のなかでのインプロヴィゼーションに戻った」みたいなことを言っていて。これが、すごく言っている意味がわかるというか、普通のポップスを聴く耳で聴けば、たぶんデレク・ベイリーもアート・リンゼイ、フレッド・フリスもどっちがどっちかなんてわかんないし、たぶんどっちだって良い(笑)。けど、そこにはそれぞれの違いがもちろんあるわけで、そういった観点はポップスを作るときは大切にしたいという意識はあります。「何を聴くか」ということはもちろん大切ですが、「どう聴くか」ということは、また違うことだと思っています。

増村くんはこのアルバムを最初に聴いたときどう思った? でも、プロセスを知っているからね! いま岡田くんが言ったように、作っては壊してを聴いていたんでしょう?

増村:そうですね。やっぱり時間がかかった理由は単純にそこでしかなくて(笑)。普通はあんまりないですよね。

率直な感想は?

岡田:はははは。

増村:率直な感想は、よくひとつのかたちにしたな、ですね。個人的にもすごく好きな作品になったんですけど、一番いいと思うのはプロセスで、プロセス自体が作品になっているようなところがある気がしていて。というのも例えばコンセプトとか、なにかを目指してそこに向けて作っていこうということではなくて、プロセスをやっている最中の火花が散る瞬間が格闘している姿自体が音楽や歌詞に反映されているんですよね。

格闘している……それは一緒に作っていたからわかるんだろうね。

増村:そうですね。でもその瞬間が作品として残って、絶妙なカオスのなかでひとつ均衡を保っているところになんとか作り上げた、という感じがある作品ってけっこう少ないと思うんですよ。(森は生きているの)『グッド・ナイト』なんかもプロセスが大事ではあったんですけど、僕の歌詞なんかはもう見えていたところがあって、それをどうしようかというプロセスだったんですね。『ノスタルジア』はプロセスの最中にスパークしている瞬間がかたちをなしているというか(笑)、そこはおもしろいと思いましたね。

岡田:でも『グッド・ナイト』は俺には見えていなかったから、それは地続きかもしれない(笑)。

増村:地続きかもしれないね(笑)。それで音楽的なところだと、その瞬間瞬間にやりたいことがあると思うんです。だけどそれをまた壊すじゃないですか(笑)。壊して今度はどうするかっていう連続のなかでやっていて、最終的に出来たものにはやっぱりその瞬間瞬間が刻み込まれているというか。そういう感じがいまの時代の現代という意味ではなくて、彼のなかでいましか出来なかった作品じゃないかなという気はしましたね。これは勝手な解釈だけど(笑)。

岡田:ありがとうございます(笑)!

いまベストなものを作ったと。

増村:そうですね。

「森は生きているとは違うものをやる」ということを言っていたけど、例えば“手のひらの景色”という曲は、森は生きているとそんなに切れていないと思うんだけど、森は生きているから岡田くんのソロへの流れはどういう感じだったの?バンド活動が終わって、すぐにソロに切り替えられた?

岡田:切り替えられていたし、でも実際は(森は生きているの)3枚目が作りたくてしょうがなかったです。一応『グッド・ナイト』が出てから1年くらいはずっとライヴに回って、5曲くらいは新曲があったんです。“手のひらの景色”はそのなかの1曲で、次のアルバムに入れようとしていた曲だったんですね。イントロはいまのアルバムに入っているかたちで固まっていたんですけど、ただAメロ、Bメロ、歌メロ、歌詞は森のライヴをやっているなかでも2、3回変わっていて、最終的な落としどころが見つからないままバンドが解散しました。3枚目を作りたいという意識がすごくあったなかで、ただ『グッド・ナイト』を作ったはいいけど次にどうすればいいかわからなくなるくらい、作っているあいだの体験が強烈過ぎました。それは僕と増村は一緒だったと思うし、あれができたあとに次になにをするかというのが見つからなかったのがバンドを続けるのが難しかった要員のひとつだったんですよね。どう(笑)?

増村:いや、そうだと思います。

森は生きているは難しいバンドじゃないですか。

増村:そうですか(笑)?

岡田:そんなことないですよ(笑)。

自分たちが理想とするものと、現実で自分たちが出しているものとのズレみたいなものに対してすごく意識的だったし、言葉はよくないかもしれないけどあまりにもナイーヴというかね。

増村:まあ、わかります(笑)。

「これでいいんじゃない?」という落としどころの共有って、森は生きているの場合はとくに難しかったんだろうなぁと。まあ、ふたりのなかでは意思疎通できていたんだろうけど。

岡田:『グッド・ナイト』は僕と増村の密な関係で作ったアルバムだったし、演奏とかみんなのアイデアでアルバムを作ったとはいえ、やっぱりどういう音楽を作るかというよりは、どうしてこの音楽を作ったかというところがポイントでした。明確に目に見えないものをどう捕まえるかという作業を常にしていたんですね。僕と増村で今後あるかどうかわからないくらい削りあった作業だった(笑)……だから作っているうちに、そこが共同体としてやっていくうえでの意識の差みたいなものに出てきてしまったのはありましたね。

増村:だからもう1回やろうとしたときに、そのままだと難しくなるんですよね。もう1回ふたりでなにかをするというには『グッド・ナイト』は一旦やりすぎた。サードを作るんだったらちょっとヘルプが欲しかったところもあるし、6人もいるから誰かが新しい曲を書いたらよかっただけの話だったのかもしれないし(笑)。

森は生きているは、すごく甘くてメロウな音楽をやっていたんだけど、その音楽の背後には、演奏の技術もそうなんだけど、あと、すごくいろんな音楽を聴き込んでいるなっていう、リスナーとしてのスキルみたいなものもあるでしょ。だから、その両方から思考に思考を重ねながら作っている感じがあって……、本当にもう1枚作ってほしいと思っていたよ。ファンはみんな思っていたと思うよ。

岡田:でもあのバンドを引っ張るのはすごく辛かったし、後期のザ・バンドでロビー・ロバートソンだけみんな悪者扱いで叩くじゃないですか。ロビーの気持ちがすごくよくわかった(笑)。こいつらをどうケツを蹴ればいいんだろうと思って、ひとりでどうにか引っ張るには自分が前に出るしかないから、ライヴで40分くらいギター・ソロを弾いたりしていたんですけど。そんなのやりたくないけど、でもそうしないと引っ張れなかったから、最後は辛くて辛くてしかたなかったですね。

増村:悪循環みたいなものはあったよね。

岡田:だからいろんな要因が混ざり混ざって、やっぱりこのバンドのかたちではできないからいったん解体しなければならないということになったんです。でも案外その切り替えは早くて、最後のツアーのときには、バンドかソロかでは迷ってはいたんですけど、次の録音でやりたいメンバーとやりとりをしていました(笑)。薄情だとは思うんですけど、ツアー最後の広島に向かう車のなかで「来週のリハどうしよう?」みたいな電話を平気でできちゃうタイプではあったんですけどね。実際に制作に入ると、壁があまりにも多すぎて、『ノスタルジア』を作っているときにそういうのを思い返して辛くなってくるみたいなことはありましたね。

なるほどねえ。

増村:ちょっと思い返しちゃったんだね(笑)。

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森は生きているの3枚目が作りたくてしょうがなかったです。一応『グッド・ナイト』が出てから1年くらいはずっとライヴに回って、5曲くらいは新曲があったんです。“手のひらの景色”はそのなかの1曲で、次のアルバムに入れようとしていた曲だったんですね。

解散したのが2年前?

増村:そうですね。

岡田:けっこう経ってんだな。

増村:だから『グッド・ナイト』の発売からは3年ですね。

岡田:年間ベストに合わせたのに載らないっていう。

(一同笑)

解散をファンのかたはどういうふうに受け止めていたのかは気になりますね。

増村:それは僕らも気になるところだけど(笑)。どうなんですかね。

岡田:ポーンとやめたからね。

とはいえ、(『ノスタルジア』は『グッド・ナイト』と)違うものではあるけども、結果として(森は生きていると)メンバーは重なっているじゃないですか(笑)。そういう意味では、『ノスタルジア』は森は生きているの発展型としても聴けるんですよね。
 ただ、最初に今作のタイトルとなった『ノスタルジア』という言葉を聞いたときに、一瞬戸惑ったんですよね。「らしいな」とも思ったんだけど。というのも、ポップ・ミュージックの世界にはいろんなトレンドやスタイルがある。森は生きているがそうだったけど、そのなかにあって自分たちは常にトレンドとは違うところにいるみたいな感覚というか、言い方を換えれば居心地の悪さというか……

岡田:日本語詞は情念がないほうが好きなんですけど、このタイトルにはあまりにも情念がこもりすぎていて(笑)。言わないほうがいいのかなって(笑)。

ぼくも情念がこもっているのかなと思ったよ! 「ノスタルジー」という言葉のなかにはコマーシャルな響きと、アイロニーと、ある種の自虐性があるんじゃないかなと(笑)。

岡田:そこは誰も突かないんだけど、自虐性は意図していたかもしれないですね。

だから複層的な意味が込められている「ノスタルジー」なわけでしょ? 

岡田:コマーシャルでキャッチーな言葉、そして誰もが知っている言葉なぶん、イメージが人それぞれに浮かぶ言葉だと思ったんですね。いくつか要因はあるんですけど、自分は新しい音楽を作りたいと思うなかでも、やっぱり文脈的な音楽を作りたいとも思ったんです。それはフォーク・ミュージックがこれまであったような歌いかたを変えて更新されていく、楽器が変わって更新されていく、音響が変わって更新されていくポップスみたいなことへの「ノスタルジア」ですね。なぜならいまはそういう時代ではなくなっていて、とくに日本はそうであるという思いが強くあるからタイトルにしたということもあるし、もちろんやっていくなかでバンドに戻りたい「ノスタルジア」もあったと思う(笑)。
 今回は新しい音楽を作りたいと言っても、結局一番参照にしたものは2010年前後のブルックリンなんですね。森のときの音楽的な参照になったのが6、70年代のフォーク・ロックと、00年代のポスト・ロックだったんですけど、それは2013年に1枚目を出したときにはある意味でもう「ノスタルジア」だったという。でもそれが新しいものになりうる可能性を秘めていて、普遍的なものにも感じたということもあって。もちろんほかにもいろんな意味合いはあるんですけど。

増村:いっぱい(意味が)こもっているから、僕は「ノスタルジア」にしてはすごく強度があると思うんですよ。あんまり儚くないというか、壊れやすくもないというか。歌詞を見ても「こぼれ落ちていくような感覚、これはなんだ」っていう希求している精神だったり、「ただの霧さ」(“アルコポン”)と言ってもただの霧だと認めたくないような雰囲気だったり、そういうものを感じるんですよね。『グッド・ナイト』のときにかたちにならないものをどうにかしようとしてみたものを、もう1回ひとりでやってみた、ということもあるかもしれないんですけど、『グッド・ナイト』のときと違って、そういう音楽的な欲求も含みつつ、岡田がさっき「情念がこもっている」と言ったのがおもしろいと思いました。「ノスタルジア」だけど言いたいことが混ざっているように感じたんですよね。さっきも言ったけど、希求していたり格闘していたりするところが反映されていると思うんですよ。それはアルバムを聴いていていいなと思いますね。

岡田:すごく言葉にしづらいよね。こんなアルバムばっかり作っているね(笑)。

でもあんまりそこの部分はこれ以上説明しないほうがいいと思うよ。

(一同笑)

ぼくは今回のアルバムを本当にうっとりするように聴いたんですね。1曲目のギターのイントロを聴いたときに「なんていい音楽だろう」と思ったよ(笑)。このメロウな感覚がたまらないと思って最後まで聴いたんだけど、また最初から聴きたくなるんだよね。ネガティヴな思いが全然聴こえないんですよ(笑)。

岡田:それを表に出したらやっぱりJポップになっちゃうから、そういう表現はしたくなかったですね。「辛い辛い辛い」って言って、「ああ、辛いね」って聴かれてもしょうがないし、僕はそういう音楽は例外なく嫌いだし。

難しいことを難しいまま出さないよね。

増村:この人、その二点に関しては信じられないくらい敏感ですよ。

はははは、そうなんだ(笑)。

増村:その見せ方の作戦もうまい(笑)。

そうした作り手の苦労を考えずに、例えば普通に車のなかで聴いていたらすごく気持ちいい音楽だと思うんだよね。

岡田:あんまり難しくしたくなかったというのは意識としてありましたね。

ただひとつ思ったのは、ヴォーカルとトラックの音量のバランスで言うと、通常よりもヴォーカルが低いと思ったんだよね。

岡田:それは大瀧詠一の影響ですね。

はははは。

増村:大瀧師匠のやりかただよね(笑)。だけどはっぴえんどもそうとう小さいですよ。

岡田:はっぴいえんどはリヴァーブがかかっていないからけっこう前に出てくるけど、『ナイアガラ・ムーン』とかほとんど聴こえない(笑)。だから『ノスタルジア』をトラック・ダウンして半年経ったいまの自分がミックスをやるんだったらもっとヴォーカルを上げるんですけど、ただ恥ずかしがり屋というのがミックスのバランスにすごく関わっているんですよね(笑)。それとミックスをやりすぎて「自分の声が聴きたくない」と思って、だんだん小さくなっていったっていうシンプルな理由かもしれないですけど(笑)。

歌詞は自分で書いているでしょ? 増村くんも書いているけど。

増村:僕は1曲だけですね。

岡田:いや、1曲半ですね。

増村:あの半分はもうほとんど岡田くんが書いたというか、(“手のひらの景色”は)森のときにやっていた曲で、そのときの歌詞が残っているという意味で半々なんですよね。実質は1曲ですね。

ほとんど自分で書いているんだ?

岡田:そうですね。

最後の曲は増村くんが全部書いたの?

増村:そうですね。あれは全部僕です。

岡田:僕が電池切れになって書けなくなったから……(笑)。

歌詞に関してはどんなコンセプトがあったんでしょうか?

岡田:はっぴえんど特集をした『ユリイカ』が僕の日本語ロックのバイブルなんですけど、細野さんが「日本語ロックの情念を消したかった」ということを言っているんですね。僕がはっぴいえんどフォロワーや喫茶ロックと呼ばれている音楽にそんなに入れ込めなかったのは情念的なものが情報として多すぎて、自分のなかではトゥー・マッチに聴こえた。英語に比べて、日本語は音楽的な響きの語彙がすごく限られているように感じます。洋楽を聴く感覚で日本語の音楽を聴けないものかというのは常に考えています。

情念というのはどういうものなんだろう。演歌的なものってこと?

岡田:情念の違和感ってどう説明すればいいんだろう(笑)。

増村:松本隆が言っていておもしろかったのは、「なにを歌うかじゃなくて、どう歌うかで俺らはやった」という話で。「なにを歌うか」というところがみんな強すぎるというか、そういうところなんじゃない?

早川義夫じゃないってこと?

増村:そうそう、そうです。それではっぴえんどのときには日本のフォークのカウンターとしてあったんだとしたら、僕らにはJポップがあるんで、そうはなりたくないというのがひとつあるんじゃないんですか?

岡田:そうだね。

ぼくなんか10代の頃はRCサクセションだったからなぁ。清志郎の反抗的でわかりやすいラヴ・ソングを聴いていたからね。

岡田:意外っすね。

ライヴ行きまくって、“ようこそ”とか。ああいうので「うぉー」ってなっていたんだよ。

岡田:ああいうものが人の心を動かしたりするのはすごくわかるし、あれはあれで素晴らしい音楽だけど、僕はそれにただハマらなかったというだけの話であって。なにかが間違いということではないですね。うまく切り返せたかな(笑)。

増村:いいと思います(笑)

でもJポップと言ってもいろいろあるからね。Jポップと言われたときに一番に思い浮かぶのはなんなの?

岡田:Jポップが何かというか……それとカウンターになるような日本のインディ・ロック自体もJポップとなにが違うんだと言えば、どちらもある種の情念で同じ共感を生んで客商売をするようなものだと思う。ポップ・ミュージックの要素のひとつとして娯楽があるとしたら、全然ある要素だということはわかるんですけど、ただすべてのJポップやインディ・ロックが娯楽であるべきかと言ったらぼくは別にそうは感じない。
 そういう娯楽じゃない部分というのもやっていいはずなのに、そこは完全に売れないものとして流れ続けてきたのが日本のポップ・ミュージックの歴史として強く感じる部分なんですよ。USとかだったらインディ・ロックでたまにチャートに入ったりもするし、それは世界中にパイがあるからというのもあるとは思いますけど。じゃあそれで僕が好きな渚にてだったり、山本精一だったり、パドック(Padok)だったり、ランタンパレードが、向こうでファーザー・ジョン・ミスティーがポンとチャートに入ってくるような感覚で、強度があるから評価されるということは日本ではやっぱり少ないと思っています。

じゃあ今回はそういう意味で言ったら、アジカンの後藤正文さんのレーベル・マネジメントというのは大きいよね。

岡田:そこはひとつチャンスに思った部分でもあるし、逆にゴッチさんはインディ・ロックと日本の大衆的な意識をリンクさせようというところで意識的にぼくを拾ってくれたとも思う。実際にそういうものを紹介したいということを常にやっている人ですけど。

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最後のツアーのときには、バンドかソロかでは迷ってはいたんですけど、次の録音でやりたいメンバーとやりとりをしていました(笑)。薄情だとは思うんですけど、ツアー最後の広島に向かう車のなかで「来週のリハどうしよう?」みたいな電話を平気でできちゃうタイプではあったんですけどね。


岡田拓郎
ノスタルジア

Hostess Entertainment

Folk RockpsychedelicIndie Rock

Amazon Tower HMV

日本の音楽を進めたいっていう話で言うと、欧米でものすごい日本の音楽ブームじゃないですか。90年代はコーネリアスやボアダムスみたいなバンドが海外で評価されたわけだけど、ここ1~2年は海外の人たちがいよいよ山下達郎さんやはっぴえんどに気が付いてきて、細野さんの作品でも『Pacific』あたりやアンビエント作品が人気だったり、それこそ大瀧さんであったり……。DJカルチャー的なとらえ方ではなくて、欧米のインディ・ロックの価値観で動いている人間が辿り着くには、あのあたりはジャケットのアートワークはなかなか難しいものがあるじゃない?

岡田:難しいですね。『A LONG VACATION』はともかく、『EACH TIME』とかはすごく難しい(笑)ああいうジャケは例外なくバレアリック・アメリカン・ポップス(笑)。

だからバレアリックにしちゃえば簡単なんだけど。

増村:でも気づきはじめたという感じはいいですね。

そう、だからこれからの時代、ドメスティックな評価/聴かれ方というが旧来通りあるなかで、海外からの評価/聴かれ方ももっと顕在化してくると思うんですよ。そこもひっくるめて面白がれるかどうかで、日本の音楽のあり方も違ってくるんじゃないかって。
 話は戻るけど、増村くんは今回岡田くんが書いた歌詞をどう読んだの?

増村:話が戻るというか、繰り返しになっちゃうんですよね(笑)。

最初にシングルで「硝子瓶のアイロニー」が公開されたときに、増村くんに「この歌詞、岡田くんなんだね」ってメール送ったら「岡田らしいっすね」って返してきたじゃない。その「らしい」って部分がどういうことなのかと。

増村:そんなこと言ってました?!(笑) でも本当にその通りで全部「らしい」んですよ。さっき情念を消そうとか、いろいろな方法論でやろうとか、音楽はすごくいいかたちでやろうとかって格闘し続けるんですけど、やっぱり完全に情念は消えていなくて。Jポップ的な情念は消えていますよ。だけど「どうにかしたい」というか、わかりやすく言えば「時代を打破したい」というか。それと、もうひとつ言えば、目には見えないような感覚を大事にしたいというのを、それをそのまま気持ちいいと感じるんじゃなくて、「これはなんなんだ! 自分の言葉で見つけたい!」という感じがするんです。そこに情念じゃないけど、ちょっと熱さが入るんですよね。そういうところが“らしい”なと思いますね。「すましたふりは終わりさ」(“硝子瓶のアイロニー”)とかね。
 塩梅としてすごくいいと思うんですよね。もしかしたら僕が書くものとは、諦めているか諦めていないかの差だと思いますよ。僕の自分の歌詞だと「もういいや」とか言っちゃっていますしね(笑)。僕はわりと見えないものは見えないままでいいって感じなんですよ。あとは違うもので物象化したりして見つけたりあらわしていきたいなというところ。同じところを見ていたとしても、(岡田は)希求している感じが歌詞にあると思います。ぼくの「ノスタルジア」と彼の「ノスタルジア」の差はそこなんじゃないかな。

岡田:『グッド・ナイト』のときに(増村が)「もう俺は諦めているから」ってずっと言っていて、「俺は諦めていない」って話をずっとしていたんですよね。

増村:ぼくの場合は諦めて、同じところをグルグル回るようなところからなにか見えてくるんじゃないかということなんですよ。(稲垣)足穂じゃないですけどね。そういう意識があるんで、その差はあると思うんですよ。だから全体的に岡田くんの歌詞はそういう感じがある。

なんだかんだ言いながら、熱いものが根本にあると(笑)。

増村:熱いと言ったらまた情念っぽくて嫌ですけどね。

冷めてはいないと?

増村:冷めていないですねえ。でもぼくだって冷めてはいないんですよ(笑)。

ただ捻くれている(笑)。

増村:捻くれているんですかね(笑)。はははは。

まあそうだよね、これだけ強い思い持っているんだからね。1曲目の“アルコポン”ってどういう意味なんですか?

増村:それは亀之助だよね?

岡田:尾形亀之助の「アルコポン」って麻酔薬の言い違いみたいな詩から取りました。現代詩を読むのは好きですが、歌詞の影響となると僕は日本の誰よりも増村フォロワーかなあ(笑)

増村:はははは。友だちだからね(笑)。

ホント? 増村くんの影響を受けて?

岡田:影響はすごく受けていますけど、明確に違うのはさっき増村が言ったようなことですね。僕は足穂じゃなくで三島由紀夫が好きだし(笑)。そういう感覚はあるかな。

増村:けっこう音とハマっているんですよね。“アルコポン”の「ただの霧さ」とか、音楽に乗るとけっこういいんですよね。

岡田:意味はないもんね。あるけど(笑)

増村:とくにフワッとする感じがけっこうよくて。「こぼれ落ちていく」ことと「求める」ことがけっこう多い(笑)。「求めてはこぼれ落ちて」みたいな(笑)。過程が歌詞に反映されているところもあるじゃないですか。一緒に作業したとかじゃなくて、いちリスナーとしての感想はそういうところにあります。そもそも歌詞は一緒にやっていないですし。

岡田:だいたい全曲一緒だもんな(笑)。

増村:でもこの表題曲の“ノスタルジア”の「ガラスを透かして見るものは/いつかの夏の/ささやき」ってスパークする瞬間なんですよ。ちょっと見えちゃっている感じ。そういうところがグッとくるんですよね。

岡田:その視点で見ていう人はいないね(笑)。

増村:こいつ、一瞬掴んだなって。基本的にこぼれているのにこのときは一瞬掴んだなって、そこが「ノスタルジア」かもしれないじゃないですか。

岡田:意図していないけど(笑)。

(一同笑)

増村:例えばですけどね(笑)。僕の印象ですけど。

質問を変えますね。今作には「Side A」と「Side B」があるじゃないですか。これは『ノスタルジア』というタイトルとリンクして、わざとこういう古いことをやっているんですか?

岡田:いや、これはただ1枚のアルバムとして聴けるような作品にしたかったのが理由ですね。アナログ・レコードのいいところって曲が飛ばせないというところもあると思うんですけど、AとBに分けることで時間の区切りがつくじゃないですか。
 B面の1曲目はいい曲が多いし、やっぱり1枚のトータル・アルバムとして聴くというカルチャーが僕の世代から少なくなっていると思うし、そういうもののちょっとした遊びって感じで入れましたね。ソフト・ロックはA面の1曲目だけいいけど、あとは全部下がり調子になっていくという。

増村:A面1曲目とB面6曲目の最後だけ(がいい)ってときがある。

岡田:ソフト・ロックって曲が短いから、B面が6曲まで入るんですよね。

増村:それでも30分くらいです。12曲ってなるとだいたいが聴けないよね。

岡田:聴かないね。サンドパイパース12曲とか聴きたくないし(笑)。

増村:(A面B面に)分けることによってかたちになるよね。

森は生きているにしても岡田くんのソロにしても、ソフト・ロック的なものをうまく取り入れるじゃない? ソフト・ロックというのは、いわゆる名盤的なものから外されがちなジャンルでしょう?

岡田:まあソフト・ロックの名盤はミレニウム『ビギン』しかないですね(笑)。

デレク・ベイリーを好きな人がソフト・ロックのどういうところがおもしろいと思っているんですか(笑)?

増村:ソフト・ロックは……、反省の音楽かな(笑)。

反省?

岡田:だってあれはプロダクションとして高性能なブレーンたちがこぞって意図的に作った商品音楽じゃないですか。あれはカウンターというよりは、たぶんサイケ・カルチャーの流れに乗っとって職業作詞・作曲家、プロデューサーたちがとりあえず金を稼ぎたかったみたいな部分はあるというか。ワーナーのあの時代とか、ソフト・ロックはすごく単純な動機で始まった音楽の文脈だと思うんですけど。カート・ベッチャーとか、レオン・ラッセルも入っていたりするし、ヴァン・ダイクもそうですけど、ああいうソロでやったときにすごいアルバムを作るというのがその後に実証されてよかったなと思うんですね。そういう人たちが、やらされたのかも知れないですけど、ある種一攫千金を狙って作った音楽にも粗があるというか、そういうところを見つけるユーモアみたいなのがソフト・ロックを聴く楽しさのひとつでもあって。だから簡単に言うと、こうなるまい、みたいな(笑)。

そうなんだ(笑)!

増村:そうそう(笑)。

岡田:そうだし、でもA面の1曲目だけはどのアルバムもすごいというのがソフト・ロックのすごさだと思うし、おもしろいところだと思いますね。とりあえず頭出し3秒だけで、いかに人の心を掴むかとか21世紀的(笑)。

増村:そういうところは活かせるし、こうなっちゃいけないってところももしかしたら活かせるかもしれないんですよ。逆の発想であのダサいところを使ってみるとか、落とし込みかたを変えれば気持ちよく聴こえるんじゃないかとか、もしくは彼らは本当はこうしたかったんじゃないかっていう勝手な解釈とか(笑)。

岡田:それが音楽を聴くときの楽しいところというか、音楽を聴くときの遊びみたいなところというか、ぼくらが好きだったのは。ソフト・ロックからの影響みたいなものは、やっぱりリスニングする楽しさという根源的なところで、ソフト・ロックは遊びの多い音楽だと思いますね。

増村:ソフト・ロックを四六時中聴いているヤツは逆にちょっと厳しいっすね(笑)

(一同笑)

岡田:ソフト・ロックしか聴かないやつとかヤバいね(笑)。ハーパーズとか1枚通して聴いたことないもんな。

増村:俺はハーパーズはイケるよ。

岡田:ある意味ではミレニウムしか好きじゃないかもしれない(笑)。

増村:そりゃそうだね(笑)。

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細野さんが「日本語ロックの情念を消したかった」ということを言っているんですね。僕がはっぴいえんどフォロワーや喫茶ロックと呼ばれている音楽にそんなに入れ込めなかったのは情念的なものが情報として多すぎて、自分のなかではトゥー・マッチに聴こえた。

岡田くんは最近はどういうふうに音楽を楽しんでいるんですか?

岡田:すごくピンポイントで言うと、グリズリー・ベアーの新譜が久々にすごいと思った。なにがおもしろかったかと言うと、10年代のアフロ・ポップ文脈とは違うアフロ・ビートの感覚に。最近トニー・アレンのすごさを自分の中で発見して、フェラ・クティの何十枚ボックスとか聴いても、どれも同じ曲に聴こえるかもしれないけど、ビートのループの中でのスネアやキックの位置やパターンがどの録音も違う。ドラムという楽器の自由さを最も体現したのがトニー・アレンのビートだと思う。そういった自由度の高いドラム・パターンを再び抜き出してきて、それを完全にスクエアにグリッドさせる事で土臭さを現代的にして、ポップ・ミュージックに落とし込んでいるというところに感動しました。ドラム・パターンが自由というよりかは、ある程度ループになっていないと現代的に聴こえないと思うんですけど、2、4小節のループを繰り返しているところで、何箇所かに土臭いドラムのロールをパターンとして入れ込んで訛りっ気を出したり、けど全体はスクエアでやっているというのが聴いたことのないと思ったんですね。そういうものが過去にあったのかということを、案外ミーターズは近いと思いましたね。

つーか、めちゃくちゃマニアックな聴きかたですね(笑)!

岡田:でもそれは遊びとしてですよ(笑)。

普通はそんな細かく聴かないですよ。

増村:でもそれはポイントがあって、ここまで来た感があるんですよ。日本が気づかれはじめたって話があったじゃないですか。そういうのと同じで、アフロがアメリカに気づかれはじめた感があるんですよね。だからグリズリーがそれをやってというのはもちろんマニアックではあるんですけど、けっこう大事なことだと思うんですよね。みんなシンプルなビートのところに戻ってきているような感覚は正直あると思うんですよね。

岡田:ビート・ミュージックどうこうと言われたときに、グリズリーがやったのはわかりやすく訛る/訛らないの話じゃないですよ。もっとプリミティヴに、ビートを大きく捉えるかという所が気に入りました。そもそも歴史でみたらサンバもハイライフもルンバも日本人の感覚からしたらすでに訛ってる。たぶん訛りたくて訛ったのではなくて、踊れる気持ちよいポケットにたまたま入っちゃった、くらいなところかもしれない。ポストロックやフリー・フォークのときに、久しぶりにスネアの位置が変だったり、特殊なドラム・パターンみたいなのがロックの更新のひとつのやり方として取り上げられたように思えるけど、そうしたら行き着く先は特殊なパターンでありながら、そもそも気持ちよいビートみたいなハイブリットな所で、その手本にアフロやブラジルをひとつのファクターとして新しい引き金にしようとしているミュージシャンがいるのかなとは感じますね。そういう意味では、ブラジル的だったジョン・マッケンタイアのビート感と音響をアップデートさせるような感覚なのかなあ。

増村:うん、すごくあると思うね。

なるほどね。質問の意図するところとはちょっと違ったんだけどね(笑)。いまどきの子みたいに君たちみたいな時代錯誤的な若い人もやはりスマホで聴くのかってところだったんだけど(笑)。

(一同笑)

増村:超マニアックな話になっちゃった(笑)。

岡田:そうしたら案外僕はDJ的な聴きかたをしているのかもしれないですね。サンプリングできるポイントを探るというのは、もしかしたら近いのかもしれない。そういうものとアルバム1枚をソフト・ロックみたいに楽しむという、そこは両方あるポイントかなあ。

増村:アップル・ミュージックはけっこうデカいよね。

岡田:アップル・ミュージックはすごくデカい。スマホのアップル・ミュージックでいいと思ったものを、わざわざアナログの新品で買って、なおかつ音楽解析とかをするときはレコードだと面倒くさいのでアップル・ミュージックで再生するから、ぼくはすごくミュージシャンにお金を払っているんですよね。配信でも買っているし、物でも買っているし、さらに研究するために毎日100回くらいストリーミングで聴いているので(笑)。

すごいなあ(笑)。

増村:正直アップル・ミュージックに入ったあと、楽器がうまくなりましたもんね(笑)。

岡田:思った、思った(笑)。

ああ、そう(笑)。

増村:いままでだったら「今月はCD1枚しか買えない」というときにもどんどん聴けきちゃうから、やっぱり勉強になりますよ。

岡田:60点くらいの音楽は買わなくなりましたね。それはみんな言っているけど。

増村:結局アナログしか買わないしね。

岡田:「63点だ」と思ったアルバムをわざわざ2500円出して買わないですよね。

増村:そもそもお金がないからね。

では最後の質問。もし今回のアルバムのタイトルが『ノスタルジア』じゃなかったら、その言葉が使えないとしたら、なんてタイトルにしたと思う?

増村:意地悪だなあ(笑)。

岡田:意地悪ですねえ(笑)。

(一同笑)

岡田:僕がひとつやってみたかったのは、足穂の「六月の夜の都会の空」ってあるじゃん? 『グッド・ナイト』では見つからなかったから、そういうものを探してみようと思ったんですけど、足穂ってネーミングのセンスがめちゃくちゃうまいですよね。

増村:キラーフレーズ感はすごいね。

岡田:僕にはああいう語彙を生み出すような感覚がなかったから、使えなかったとしたらたぶん増村に一旦投げていましたね(笑)。

(一同笑)

増村:タイトル決めろと(笑)。重いなあ(笑)。でもタイトルって人に決めてほしいところはあるよね。

岡田:自分じゃ決められない。

でもぼくは『ノスタルジア』というタイトルはすごくいいと思ったよ。

(一同笑)

増村:ええーー!!

だってこれだけの博識をインタヴューで言う人のアルバムのタイトルにしたら、じつにあっけらかんとシンプルにまとまっているよ(笑)。

岡田:そうですね(笑)。これが一番的確な言葉だったと思います。

増村:そうだと思う(笑)。

(了)

Sugai Ken - ele-king

 電子音楽家スガイ・ケンの新作はシネマティックなムードを漂わすアンビエント/コンクレートの傑作であった。「シネマティック=映画的なアンビエント」とは何か。それは音楽/音響が、映画のサウンドをイメージさせるかのように「非同期的」(坂本龍一『アシンク(async)』)に構成された音響作品を意味する。「世界」の「豊穣さ」の音響・音楽表現でもある。
 『不浮不埋』おいても音楽、環境音、微細なノイズなどが非連続的に構成され、肉体的に慣習づけられた反復的なグル―ヴを解体するようにサウンドのエレメント(それは日本的であり、ミニチュアール/神的なものだ)が非反復的に編集・接続される。音による「光景」が生まれているのだ。

 1曲め“湧き祕”で滴り打ち落とされる水滴の音に導かれるようにはじまる2曲め“をちかえりと渦女”を聴けばわかるが、スティーヴ・ライヒ的なミニマリズム(反復性)は解体され、「和的」な具体音が非反復的/ステレオフォニックにコンポジションされている。やがてそれは時計の音へと変貌する。光景は消えて、時間だけが残る。そして、森の中の鳥の声と、その場所の音と、時計の針の音のような音が重なる3曲め“時鳥”への転換も、時間の経過を描写することで、映像作品のシークエンス転換のように耳の遠近法を変えてしまう。続く「「滝宮の念仏踊り」という郷土芸能から着想を得ている」と語る4曲め“桶楽”では、走るような足音と心の芯に響くようなドローン、微かな環境音などが非反復的/非同期的に連鎖し接続され、このアルバムのムードを聴き手の耳に浸透させる。

 2016年にオランダの〈ララバイ・フォー・インソムニアック(Lullabies For Insomniacs)〉からリリースされた『鯰上』でも追及されてきた緻密なコンポジションが、〈Rvng Intl.〉から送り出された『不浮不埋』ではより「深い」領域で表現されているように感じた。「深い」とは、スガイ・ケンは日本の伝統的な音楽や風習などをフィールドワークしつつ自身の曲を創作しているのだが、まずもって「音」と「世界」の方が先にあるのではないかと感じられたからだ。
 「音」が先にあること。「音と世界」を聴くこと。そのような世界=音への意識・態度が『不浮不埋』のシネマティックな音響空間の生成・構成に大きな影響を与えているように思えてならない。それゆえにスガイ・ケンの音楽は豊穣なのではないか、とも。

 ちなみに同じく〈Rvng Intl.〉からリリースされたヴィジブル・クロークス『ルアッサンブラージュ(Reassemblage)』も同様の響きと非連続性を感じた。『ルアッサンブラージュ』は80年代の日本産アンビエント/ニューエイジ・ミュージックという宝石を再発見し、それを現代的にコンクレートするアルバムであり、「ニューエイジ再評価の現代的アンビエント・サウンド」を象徴する傑作であった。むろん『ルアッサンブラージュ』とスガイ・ケンの『不浮不埋』では参照点や音楽のタイプは違うが、2作とも過去=未知の音への調査と探求を経たうえで、非連続的(非反復的)なアンビエントに解体/再構成する音楽作品という点では共通点がある。その意味で2017年の〈Rvng Intl.〉のキュレーションは同時代の潮流をとらえていた。

 私はスガイ・ケンの音楽を聴くと、ふと映画作家のジャン=リュック・ゴダールのソニマージュ実践や実験音楽家/美術家のクリスチャン・マークレーのターンテーブル・コラージュ作品を思う。コンポジションとエディットが同列に存在しているからだ。スガイ・ケンの楽曲には、どこか「作曲」という意識だけではなく、一種の音と記憶の「トラックメイク」を行っているという意志を強く感じるのである。音の接続による記憶の再構成とでもいうべきもの……。
 日本盤をリリースしているレーベル〈メルティング・ボット(melting bot)〉のサイトに、スガイ・ケン自身によるセルフ・ライナーノーツ的なテキストが掲載されているが、これを読むと彼が日本の伝統音楽を調査し体感していく過程で観た/聴いた/体験した「光景」を自身の音楽にフィードバックしていくさまが語られている。なかでも「京都の山中にある月輪寺を訪れた際、道中の林道がとても印象的な光景であった」ため、それをもとに制作された7曲め“堂尻”は、光景的かつ記憶的で、彼の音楽の本質を照らしているように思えた。

 調査と体験。体感と記憶。記憶と解体。解体から生成。彼は記憶と体験から「音の光景」を編集するように音楽を生成・構成する。そして、その「音=光景」の果てには「冥界」のイメージを強く感じる。「柳女のイメージ」で制作されたという10曲め“障り柳”に耳を澄ますと、現実の時間空間意識が消失し、冥界の淵に立っているような気分になるのだ。日本のさまざまな伝統音楽(のエレメント)が、21世紀の「耳」を通じて、新しいアンビエントとして生まれ変わったのである。

Mura Masa - ele-king

 UK出身のムラ・マサが通算2枚目、メジャー・デビューとなるアルバム『ムラ・マサ』をリリースした。

 3年程前にサウンドクラウドでよくチェックしていたムラ・マサのことを思い出したのは、今年の3月にロンドンのオールドストリートの人気クラブ、XOYOのグライム・パーティでKahn & Neekがプレイしたのを聴いた時だった。その時かかっていたのは、ムラ・マサのヒット曲“ロータス・イーター(Lotus Eater)”のジャロウ・バンダル(Jarreau Vandal)のエディットで、アジアンなフルートに客は合唱する大盛り上がりだった。盛り上がりに応えてKahn & Neekは4回リワインドした。

 Kahn & Neekだけでなく、ムラ・マサのリリース・パーティを〈ナイト・スラッグス〉マムダンスがサポート、自身はグライムMC、ストームジーのプロデュースをするなど、ロンドンのクラブ・カルチャーとの関わりも強いアーティストだ。

 ムラ・マサことアレックス・クロッサンは、イギリス海峡の島ガーンジー島に生まれた。音楽教育を受け、10代のはじめにはゴスペルやパンク・バンドでプレイしていたという。16歳でAbleton Liveを使って打ち込みを始め、サウンドクラウドから人気を広げた彼は、他のサウンドクラウドのプロデューサーが流行らせた「フューチャーベース」とは趣を異にし、こじんまりしていて音の粒を大切にするような空間づくりがユニークなプロデューサーであった。先述した“ロータス・イーター”が収録されているファースト・アルバム『サウンドトラック・トゥ・ア・デス(Soundtrack to a Death)』では、ストイックにメロディを聞かせるインスト曲がメインである。

 その後、自身のレーベルを立ち上げて、リリースしたEP「サムデイ・サムウェア(Someday Somewhere)」は、ベッドルームからスタジオへ拠点を移し制作されたのだろう、シンガーとのコーラスワークを特徴とするプロダクションへと成長していく。特に今作に再録されている“ファイヤーフライ(Firefly)”で歌っている、ライヴでのサポートシンガーも務めるナオ(NAO)のコーラスワークは、今作へ繋がる重要な要素である。

 今作は、ロンドンのバスがニュー・パーク・ロードへ到着するアナウンスから始まり、少し狂気じみたラヴ・ソング“メシー・ラブ(Messy Love)”から、マリファナをチキンナゲットに例えた“ナゲッツ”、そしてエイサップ・ロッキーを迎えた“ラヴシック(Love$ick)”へと流れていく。“ラヴシック”のイントロのタイトなドラムは、クラシックなヒップホップ・ブレイクスの質感を匂わせる。曲中のスチールパンのメロディに対して、エイサップ・ロッキーは「イビザにいるみたいな気分だ」と言ってリリックを書いたらしいが、自分にはむしろトリニダード・トバゴの祝祭をルーツに持つ、ロンドンのノッティングヒル・カーニヴァルが思い浮かんだ。

 チャルリ・XCXを迎え、ワンナイト・ラヴを歌う“1 Night”では、iPhoneの着信音「マリンバ」を彷彿とさせるメロディが印象的だが、チャルリ・XCXがサビで少しだけ高めに外れる声に、彼女の歌唱力の高さを感じられた。続く“オール・アラウンド・ザ・ワールド(All Around the World)”では、USのラッパー、デザイナー(Desiigner)が共演している。しかしこの曲については、オリジナルのテーマを生かしたUKのギャングスタ・ラップ・グループ、67(シックスセヴン)によるシックなリミックスの方が素晴らしかった。

ショーで前の晩酔っ払っても、朝の飛行機に乗り遅れない
海外のショーの方が多いけど、それはイギリスが退屈だから

I'm drunk from the show last night but I gotta catch a flight in the morning
More time we overseas doing shows 'cause the UK got boring

... Liquez - Mura Masa - All Around the World (67 Version) より

(67のラップ・ショーは大人気なのにも関わらず、「治安上の問題から」イギリスの警察によって弾圧され、イギリス国内ではショー自体が中止になってしまうことが多い。)

 後半の客演陣の中で、ジェイミー・リデルがプリンス顔負けの80sバイブスを披露する「ナッシング・エルス!(NOTHING ELSE!)」のポップネスが素晴らしく、ブラー(Blur)のヴォーカリスト、デーモン・アルバーンを客演に迎えたラスト・ソング“ブルー(Blu)”のコーラスには、ムラ・マサのルーツのひとつであるゴスペルを感じさせた。

 全体を通して漂うドライな雰囲気と空間の隙間は、ラウドで感情的なメインストリームの音楽とは真逆である。ひとつひとつの音はバランスが取れていて、ヘッドルームに余裕があり、ひとつひとつの楽器の音の粒までがきちんと聴こえる。こうした音像は、ヘビーな808ベースに則ることが「ルール」となってしまったエレクトロニック・ポップスの流行のなかでとりわけユニークに響くし、2018年以降のエレクトロニック・ポップスのルールを書き換えてしまうだろう。そして、808ベースに代わりコーラスとメロディが再び主役となる。しかし、コーラスによって曲がエモーショナルになりすぎぬよう、ファットな生ドラムやスチールパンのメロディ、そしてロンドンの街のフィールド・レコーディングが添えられ、全体に乾いたクールネスを醸している。

Quit Your Band! - ele-king

 日本人は、さんざん自分たちが海外文化をあれこれ好きに解釈してきたのに関わらず、海外人が日本の文化に口を出すことにまだあまり慣れていない。音楽界はとくにそうだ。オンラインマガジンをやって新たにわかったことのひとつ:海外からも読まれていること。当たり前だが、日本人が海外を見る、海外人も日本を見る。文化的内弁慶がなくなることはないかもしれないが、いずれ衰退はするだろう。パリの日本オタクに受けたことが真の意味での海外進出ではないし、海外とは韓国もインドネシアもそうであり、欧米だけのことではない。21世紀のデジタル・ネット時代を生きる音楽関係者にとってまず必要なことは、これまでドメスティックな評価だけで閉じていた日本の音楽に対して、海外からの解釈もあることを理解し、海外からの評価もまた同時に面白がれるぐらの寛大さを持つこと。

 ele-king booksからの今年最後の爆弾は、在日イギリス人ジャーナリスト、イアン・マーティンによる『バンドやめようぜ!』(原題:Quit Your Band! Musical Notes from the Japanese Underground)。
 本書は、広範囲にわたる日本ポップス・ロック通史と文化批評によって構成されている。通史のところには、解釈やニュアンスの違い、説明不足など重箱の隅を突かれるような箇所もある(その正確なところは北中正和『にほんのうた』や田川律『日本のフォーク&ロック史』などを読めばいい)。しかしながら裸のラリーズも松田聖子もスーパーカーもひとつの通史のうちに語る試みからは、ぼく自身も含めて日本の音楽メディアが分断を持ってこの国の音楽を語ってきたという事実が浮かび上がる。
 もっともこれは、メディアだけの問題ではない。日本の音楽産業界全体が批評性を求めていないし、我こそがこのアーティスト(ジャンル)の理解者であると言わんばかりのマウティングじみたレヴューばかりが無駄に増えていく。しかしこれでは結局は、産業以前の問題として、文化として脆弱になるのもむべなるかな……である。
 というわけにもいかないので、翻訳を刊行することにした。著者の好みもあろうが、日本ではまず批判されることのない大物の作品が批判され、悔しいが日本人ライターには言えないことを言っている。あるいは、日本音楽産業界では「当たり前」だと慣らされてしまっていることが、世界基準では奇妙に見えることをあらためて知ること。とくにアイドル論に関しては、セクシャリティ・ポリティクスに関する問題提起ないしは現代の日本文化批評にもなっている。
 日本では、ほとんど奇書扱いされたジュリアン・コープの『ジャップ・ロック・サンプラー』は、しかし海外において日本の音楽への注目の起爆剤になった(彼の妄想癖はともかく、せめてその成果は讃えるべきだろう)。マイケル・ボーダッシュによる『さよならアメリカ、さよならニッポン』は、はっぴいえんどの内なるアメリカへの憧憬とそのアンヴィバレンスを見抜きながら戦後ポップ史を分析した。さて、今回は、日本で10年以上暮らしているイギリス人ジャーナリストから見える日本のポップスおよびロック論である。高円寺をこよなく愛する著者は、おそらく日本でもっとも全国のライヴハウスに足を運んでいるライター。原書の副題はドストエフスキーの『地下生活者の手記』のもじり。あまりに構えたりせずに、愛情とユーモアの込められたその解釈を楽しんでいただきたい。(発売は11月25日)


イアン・F・マーティン(著)  坂本 麻里子(訳)
バンドやめようぜ!
──あるイギリス人のディープな現代日本ポップ・ロック界探検記

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■目次

プロローグ 

PART1 
僕はどんな風に日本の音楽シーンにたどり着いたのか、
そしてそこで僕が発見したのは何だったか 

序文 
ʼ97の世代 
日本の音楽について書くということ 

PART2 
総合的かつ完全に正確きわまりない日本のポピュラー・ミュージック通史

日本のポピュラー・ミュージックの初期展開 
ロックンロール、日本上陸 
ニュー・ロック 
ロックンロールとガソリンの臭い
薬物不法所持逮捕からニューミュージックまで 
成熟を迎えたポップと演歌の硬直化 
パンク 
ニュー・ウェイヴ 
アイドルと歌謡曲の死 
J‐ポップと現代日本音楽の誕生 
渋谷系、そしてインディを発見した日本 
日本音楽の歴史の終わりと永遠のナウの誕生 

PART3 
ライヴ・アクトたちを見舞う経済的、政治的、そして実際的な
危険の数々、もしくはバンドをやめずに続けるにはどうしたらいいか 
高円寺、東京にて 
海外へ 
日本の音楽は海外でどう受け取られているのか 
日本音楽の海外進出作戦 


愛のためでも金のためでもなく―ライヴ・ハウス事情 
シーン内の政治をさばくには 
シーンにある制約を克服するということ 
レーベルはくたばれ 
言い分は分かるけど、なんでCDの話になるの? 
言語と日本人らしさ 
すべてのアートは政治的である 
サブカルとアイドル
おがくずの詰まった操り人形、音を出す操り人形:―〝夢見るシャンソン人形〟 
ピンクのギター 
何だって好きなことを言うのも、何も言わないのも同じこと 
とは言っても、結局は…… 

補遺およびシーン観察記: 
この本のサウンドトラックとなった音楽とそれらが生まれた場所 
日本のレコード・レーベルと地方シーン 
オモチレコード 
関西アンダーグラウンド 
九州アンダーグラウンド 
名古屋アンダーグラウンド 
インディ・ポップ 
バウハウス/東京ノイズ 
テクノポップ/ポスト渋谷系 
東京ボアダム 
この他にどんなものが? 

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