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HOMETAPING IS KILLING MUSIC / UK / 2009.12.3
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HOMETAPING IS KILLING MUSIC / UK / 2009.12.3
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Boris Werner
Let's Boogie
Remote Area / Hol / 12/4
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Recomposed by Carl Craig & Moritz von Oswald
New Mixes by Francois Kevorkian
Deutsche Grammophon (Germany) / 2009/12/1
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「Cause Day n Nite / the Lonely Stoner Seems to Free His Mind at Nite / He's All Alone Through the Day n Nite / the Lonely Loner Seems to Free His Mind at Nite / at at at Nite(そう、昼も夜も/孤独なストーナーは夜に解き放たれる/いつだって独りぼっち、昼も夜も/孤独な狼は夜に解き放たれる/夜に、夜に、夜に)」("Day n Nite"より)。ダンス・ポップとアーバン・ミュージックの結び付きがより一層強くなった09年、その最悪の結果がThe Black Eyed Peasの"I Gotta Feeling"だとしたら、最高の成果はKid Cudiの"Day n Nite"だと言えるだろう。そのヒットに続き、Cudiが自身のレーベル〈Dream On〉とKanye Westの〈G.O.O.D.〉とのダブル・ネームでリリースするファースト・フルレンス『Man on The Moon:The End of Day』は、キッズが、ナンパでもしようとクラブに出かけたはいいが、爆音でかかり続けるイーブン・キックとEしか持ち合わせていないプッシャーにうんざりして、ひとり部屋に帰ってジョイントを吸いながら自己嫌悪と自己憐憫に浸って聴くのにぴったりのアルバムだ。そのサウンドは、彼がナイーヴな心をタイトなファッションで包んでいるように、エレクトロを取り入れてはいるものの、リリックは至ってコンシャスである。しかし、それはレイト80sの外向きなそれではなく、レイト00s仕様の内向きなコンシャスネスだ。
Kid CudiことScott Ramon Seguro Mescudiは84年、オハイオ州はクリーヴランドで生まれた。子供の頃から変わり者と呼ばれ、地元に馴染めず、20歳で大学をドロップ・アウトした後は、当時、00年代のソーホーと呼ばれ盛り上がりはじめていたブルックリンに移住、本格的に音楽活動を開始した。08年夏、A BATHING APEニューヨーク店のスタッフとして働きながら制作したミックス・テープ『A Kid Named Cudi』が、OutcastやN.E.R.D.、J-Dillaのビートを使ったスタイリッシュさで評判を呼び、Kanye『 target="_blank"』やJAY-Z『Blue Print 3』に参加、『GQ』誌ではLil WayneがサポートするDrakeやMark RonsonがサポートするWaleと共に09年度版「Men of the Year」に選出され、新たなコンシャス・ラップ・ムーヴメントを起こすに至った。こうして満を持してリリースされる『Man on The Moon』は、COMMONを水先案内人として、幼い頃に体験した父の死をきっかけに、月=自室に籠もってストーンしながら地球=世界をぼんやりと眺めているだけになってしまった内気な青年が、ゆっくりと重い腰を上げるまでを、"日没""恐怖""幻覚""躓き""出発"の5部に渡って描いている。
Kanyeは勿論、ホーム・グラウンドのブルックリンからあのギター・デュオ、RATATATまでが参加、彼等が手掛けたシンセサイザーが渦を巻くビートの上で、サイケデリックなライムを歌も交えながら紡いでいくこの作品は、USでは「ヒップホップ・ヴァージョンの『Tommy』、あるいは『The Dark Side of the Moon』」と称されており、それは、約10年前にANTICON等がアンダーグラウンドで試していたことが、長い時間をかけてゆっくりとポップ・フィールドにまで辿り着いた事を思わせる、来る10年代のヒップホップである。
「下から眺める 景色は最低だね」("MAKE MONEY TAKE MONEY"より)。日本のヒップホップ・シーンにおける所謂ハスラー・ラップ・ブームを牽引した川崎を拠点とするグループ、SCARSから、SEEDA、BAY4K、BESに続いて独り立ちするSTICKYは、記念すべきファースト・アルバムを、道端に唾を吐き捨てるような、そんな苛立った調子ではじめる。「彼女のウツ病と親の離婚/身内の不幸も重なりBAD/誰もいない場所 オレだけの世界/オレの帰る場所はどこ」(BES feat.STICKY"ネバギバ"より)。その名を好き者の間で一躍有名にしたのはBESの『Rebuild』に提供したこの救いようのないラインだった。果たして、それから1年強、完成したアルバムは大方の期待通り、ひたすらダークでダウナーなストーナー・ラップに仕上がっている。そこには、ハスラー・ラップのパブリック・イメージと違ってヴァイオレンスな描写もクライム・ストーリーもほとんどない。その代わりに鳴り響くのが、延々と続くバッド・トリップめいた世間に対する恨み辛みと、他人に対する勘ぐり、そして自己嫌悪である。「落ち着かねぇFUCK/金が戻ってくるのは何時になる/目を閉じると不安が襲うし/目を開けると現実となる」("MAKE MONEY TAKE MONEY"より)。「取り戻せない 時間と金/苦しむ また苦しむ/穴埋めの為の労働/苦しむ また苦しむ」("LOST"より)。「見たい夢がある/現実は社会の底辺に」("タマには..."より)。「誰も信用できねぇよ/誰かを信用したいよ でも」("FEEL MY PAIN"より)。その通層低音となっているのは、『Where's My Money』というタイトルが象徴しているように、自分は搾取されているという感覚であり、それは今、この国の階層の2極化が進むと共に増えつつある被害者意識を持った若者たちの無言の叫びをはっきりと代弁している。しかし、このアルバムが、和製フーリガン=所謂ネット右翼の連中とは違って少しだけ救いがあるのは、そのストレスを発散するために自分より弱い人間を叩くのではなく、夢と仲間をもう一度、信じてみようという素朴な価値観からやり直そうとしているところだ。鬱々としたこの作品は、後半、地元川崎の荒れた光景を描いた"同じ環境 違う場所"、崩壊した家庭に育った少年時代を振り返る"FEEL MY PAIN"、ハスリングの果てに入れられた堀の中での瞑想"終わりなき道"といった流れで底の底まで辿り着き、ラスト・ソング(そいつは、奇しくもUSのストーナー・ラッパー、Kid Cudiのヒット曲と同じタイトルを持っている)で音楽とホーミーに導かれるようにゆっくりと浮上しはじめた瞬間、バッサリと終る。「この苦しみから抜け出す/THUG MANSIONから抜け出す/MY BLOCK 苦しみで病む/THUG MANSION オレなら抜け出せる」("DAY-N-NITE"より)。それは、決意のようにも、気休めのようにも聴こえるが、STICKYがこの言葉にまで辿り着いた過程を思うと感動せざるを得ない。
2009年も様々な場所でいろいろな趣向のレイヴがたくさんあった。何百という中小のレイヴが濫立し本当にサード・サマー・オブ・ラヴといっても過言ではない。そこには、マスコミに取り上げられた"悪しき若者文化"を象徴するようなものから、DIYの精神と音楽への純粋な欲求から生まれた素晴らしい試みまで含まれる。いろいろ行きたかったが、日々の労働やなんやらで、結局僕がそのなかで唯一行けたのが9月19日〈タイコクラブ川崎〉だった。
今回〈タイコクラブ〉が選んだ会場は川崎の東扇島東公園、そのすぐ近くで、僕は1日12時間以上の肉体労働を強いられている。毎日、目の前に与えられた仕事を黙々とこなす。あるのはただ労働のみ。島には流通系の倉庫と食品会社の冷蔵庫それ以外にはコンビニがふたつあるだけ。普段は日雇いの派遣労働者や主に中国人を中心とした出稼ぎの外国人、愛国精神にあふれた運送会社の兄貴たち、保守的な体育会系の人間が多く、僕のような人間には少々息苦しい場所だ。付近には石油化学工場があるため、風向きによっては島全体がナイロンの焼けた匂いで覆い尽くされる。僕はそれを肺に送り込みながら通勤し、そして帰路に着く。お世辞にもいい所だとは言えない。
2009年の〈タイコクラブ〉は、そんな埋立地で開かれるレイヴ・パーティだ。たぶん、ここに遊びに来る連中のほとんどが、幻想としてのゲトーを一時的に消費するだけなのかもしれない。しかし、僕にとってこの島はリアルだ。生活を支える、労働の場だ。工場萌え? くそったれ。とってつけたようなデトロイト勢のブッキングには素直に喜べず、心境は複雑だった。ただ都心から1時間足らずでアクセスできるこの会場は、連休が取れない僕のような人間でも容易く足を運べる場所だった。なによりも場所の近さが僕の欲求に答えてくれたのだ。
〈メタモルフォーゼ〉がオリジナル世代たちの築いたパーティだとしたら、〈タイコクラブ〉は僕らの世代によるパーティと言えるかもしれない。僕らは、あらかじめレイヴという文化が存在して、それを選択することができて、ダンス・ミュージックを聴いて育った世代だ。「自分たちが行きたいパーティをやっていたら次第に大きくなっていった」とオーガナイザーのひとりの森田さんは語っていたが、シンプルなコンセプトと現場目線での人選のもと、〈タイコクラブ〉は着実な支持を集めている。地域と連携を取りながら、さまざまな現場で見てきたものを、自分たちに合ったやり方に上手く当てはめているようだ。商業ベースのパーティが増えているなか、〈タイコクラブ〉のチケット代はそれほど高くない。今回のパーティでも20代半ばの、比較的若い、純粋に音楽を楽しみに来た客層を中心に数千人を集めていた。
原田知世はムームを従えマイペースに自分の音楽を楽しんでいるようだった。アイドルからアーティストへここまできれいに転身した例も少ないだろう。もし"のりピー"のまわりに金ではなくて音楽好きの友人がたくさんいて、彼女がザ・KLFの『Chill Out』やフェネスの『Endless summer』を聴いていたら話は違っていたかもしれない。
ムームのライヴも素晴らしかった。会場全体が独特の温かい空気に包まれた。声高にフェスでの連帯を強調するロック・バンドとは趣は違う。ぎこちない演奏ながら、音響を通じてじわじわと観客を引き込んでいった。"Green Grass Of Tunnel"――いい響きではないか。
00年代以降の代表的なライブ・バンドとして彼らはもっと評価されてもよいのでは。相対性理論のブッキングは若い世代に訴えかけるのには充分だったかもしれない。が、正直僕にはそのライヴは酷いものに思えた。とてもこうした野外でグルーヴが出せるようなバンドだとは思えなかった。メンバーのひとりが病欠だったためかもしれない。ただ、どうしても足を止めて聴いてしまう彼らの音楽は、今回のこの会場にも合っていなかったようにも思う。
4チャンネルのシステムによるモノレイクのライヴは強烈なものだった。グルーヴはより柔軟になって、ダブステップまでも吸収して、さらなる展開を遂げていた。やっぱりこういった会場にはなによりもぶっといベースが必要だ。自分の体に染み付いているだけかもしれないが。
僕にとってのベスト・アクトはカール・クレイグだった。"Movement 3"と同時に彼のブースから海に向かって発せられたレーザーは本当に美しかった。当初は、地元ってことでディスってやろうと思っていたが、新旧のクラシックを織り交ぜながら力強いDJには説得力があった。やっぱりテクノはSF的なヴィジョンが似合う。僕もいつしか自分のルサンチマンなど忘れて、すっかりレイヴを楽しんでいた。まあ、そんなもんだ。
もちろん、朝方のセオ・パリッシュとジェームス・ホールデンのダンス対決もパーティ・アニマルにはたまらないものであった。
会場では思いがけないほどたくさんの友人に会った。普段良く会う仲間からクラブやレイヴ会場でしか話したことがない連中まで、たくさんの友人や知り合い。こんな場所でこんなレイヴが開かれたおかげだ。
一緒に〈NYE〉というパーティをオーガナイズしている弓J、〈ポテ恋ディスコ〉のクロ君、週末はお店で働いているから、パーティにはめったに顔を出さないショウ君、カール・クレイグの時間にはケンゴさん、そしてかつて〈YELLOW〉などでよく見かけた名前も知らない彼らにも。そのなかのひとりのリョウ君は横須賀で〈SHELL〉という名のDJバーをはじめたという。彼とは昔、〈メタモルフォーゼ〉で知り合った。大きなパーティでよく見る"アイツ"だった。彼のオーガナイズするパーティの噂は聞いていたが、遂に店を構えるまでになった。同じ時代に同じフロアで育った彼の話しは、まるで自分のことのように嬉しかった。久々の再会がたくさんあった。僕らのまわりは、かつてはあった集合の場所――つまりみんなで遊ぶ場所を失っていたのだろう。
この時代、自分らが楽しめる場所を確保することは容易ではない。好きな音楽を大きな音で聴きたいというそれだけの欲望だが、それはそう簡単に許されるものではない。狭い国だ、仕方がない。そう考えると、今回〈タイコクラブ〉がみつけた川崎という場所には意外にも可能性があるかもしれない。僕自身も向ヶ丘遊園という場所でパーティをはじめた。これからだ。うまくやることは難しいが、やめるつもりはない。
かつて〈キーエナジー〉で踊っていた先輩は、あるとき僕に向かってこう言った。「かつて、うちらには世界市民だという自覚があった。この文化が世界を変えると思っていた。いまこの文化をカウンターだと思っているやつなんているんだろうか?」
たしかにカウンターだと思っている人間は少ないだろう。雑誌『ele-king』の創刊からはや15年、テクノやレイヴはもはや珍しくも新しくもない。ある意味ではレジャーのひとつだろう。どの町にも箱やDJバーがある。15年前にはそんなこと想像できなかったはずだ。それを思えば、この文化の裾野は着実にひろがっている。
音楽会社や雑誌がつぶれこの文化の先行きに不安を感じている人もいるだろう。が、それほど騒ぐことでもないようにも思う。社会がいま難しいのだ。ちなみに2008年の中小企業の倒産率は過去最大。アメリカやイギリスと同じ社会状況になってこそ、ようやくこの文化の本質が考えられるようになったとも言えるんじゃないか。あの夏は本当にクソったれだったのだと、骨身に沁みて感じる。
そして、僕は思う。この文化はいったいどれほどの金のない若者を救ってきたのだろう。大切なのは歩みをやめないことじゃないか。手を変え品を変え、あれこれ考えることだ。ある人はパーティをオーガナイズし、ある人は店をはじめ、僕はDJをする。世界を回すことによってじょじょに世界が変わっていくんじゃないかと思っている。あと15年したらきっとわかるんじゃないかな。
20年前にアンビエント・ハウスを開拓したアレックス・パターソン、それから20年後に『アンビエント・ミュージック 1969―2009』を上梓した三田格、そしてパターソン博士によって人生を変えられたホワイ・シープ?が一堂に会する。
トーマス・フェルマンも同席するとは聞いてなかった。なんだよ。頭の中では「スキゾフレニア」が流れはじめる。はじめましての握手をすると、パレ・シャンブール「ヴィア・バウエン・アイネ・ノイエ・シュタット」を口ずさみたくなってくる。いや、そうと知ってれば、あの不可解な『ロウフロウ』(04)をもう一度、聴いてから来たのに。ダブリーと組んで西海岸のアンダーグラウンド・ヒップ・ホップにアプローチしようとしたのはなぜだったのか。翌年にリリースされたジ・オーブ『オーキー・ドーキー』とはあまりにも明暗が逆で、何がどうしてどこがどうなっていたのか、気になって仕方のないアルバムだったというのに。
そして、対談の相手であるホワイ・シープ?がやって来ない。もう、かれこれ30分近く待たされている。まったく偉くなったものだよな。ホワイ・シープ?がジ・オーブを待たせるなんて。民主党が政権を取ったんだなと実感する時はこんな......いや。
時間つなぎに僕はたまたま持っていた『アンビエント・ミュージック 1969―2009』をフェルマンにプレゼントする。在庫が少なくなっているので(つーか、版元は2週間で品切れです)、無闇と渡せる数はないのだけれど、こういう時にはやっぱり役に立つ。僕が持っていたレコードの袋を指差して何を買ったのか見せてというような人である。アレックス・パタースンは自分の写真を見て笑い転げているだけだったけれど、熱心にページをめくっていたフェルマンはハットフィールド&ザ・ノースを見つけて「これ、好きなんだよ」という。ああ、なるほど。モーリツ・フォン・オズワルドがイーノ/ハッセルなら、トーマス・フェルマンは帽子畑。ある意味、とてもわかりやすい。
ホワイ・シープ?がついに駆け込んできた。入ってくるなりジ・オーブ『バグダッド・バッテリーズ』に収録されている「サバーバン・スモッグ」を聴きながら走ってきたと皆にアピールする。
「これは走るのにピッタリの曲ですね」
「ありがとう」とフェルマン。
「はあ、はあ、はあ......」
最悪のスタートである。
気を取り直そう。
「ラヴィン・ユー」の通称で親しまれたジ・オーブのデビュー・シングルがリリースされたのは1989年。「20周年、おめでとうございます」と僕がいうと、ご機嫌になるかと思いきや、アレックス・パタースンは頭痛薬を飲みはじめる。昨日、ステージから転落して足が痛い上に歯も痛むらしい。そして、しみじみと「よくここまでやってこれたと思うよ」と感慨深げに頷いている。ジ・オーブのファースト・アルバム『アドヴェンチャーズ・ビヨンド・ザ・ウルトラワールド』を聴いて「僕の人生は変わりました」とホワイ・シープ?がいうと「僕の人生もだよ」とパタースンが切り返す。「こんなことがポップ・ミュージックでできるとは思わなかった」とホワイ・シープ?が続け、しばらくは思い出話。「レーベルに2万ポンドやるから2週間でつくれといわれたんだ」とか、パタースンがその頃、働いていた〈EGレコーズ〉が関心を示さなかったから自分たちで〈ワウ!ミスター・モドー〉を立ち上げたというような話。詳しくは『アンビエント・ミュージック 1969―2009』を立ち読みでもして下さい。
そして、一気に20年後の世界。
「『オーブセッション』は過去の発掘音源をリリースするためのシリーズだと思っていた」と僕がいうと、フェルマンが得意げに「ルールは破られるためにあるんだよ」という。『バグダッド・バッテリーズ』は新録にもかかわらず「オーブセション」の3作目としてリリースされている。「じゃー、次にどんなルールを破るんですか?」と訊ねると、フェルマンは「次はオペラに取り組むんだ」という。その時は冗談だと思っていたが、実はこれは本当のことで、すでに作業にも取り掛かっているらしい。「昨日の夜もテレビでオペラを観ていたんだ」
「『バグダッド・バッテリーズ』はいつになくシリアスですよね?」と僕が続けると、パタースンはやや困ったような面持ちで「『プラスティック・プラネット』という環境映画のためにつくった曲はそうだね。映画の性格に由来しているところはあると思う」といって、『オーブセッション ヴォリューム2』を指差し、「これはジャケットが紙」、『バグダッド・バッテリーズ』は「これはプラスティック」とだけいった。『プラスティック・プラネット』は人類がプラスティックをつくりはじめてから人間の精子が減りはじめているということを報告するドキュメンタリー映画で、このまま行くと人類は......という内容のものらしい。「必ずしも映画を観る必要はないよ。映画には使われているけれど、サウンドトラックというわけではないから」
オープニングとエンディングはベイシック・デャンネル風。みんなでジャム・セッションをやっている最中にキリング・ジョークのポール・レイヴンが亡くなったという報せが入り、そのまま彼の追悼曲になったものもある。「レイヴンズ・リプライズ」である。
「バグダッド・バッテリーズ」というのは3000年前につくられていた電池のことで、でも、「この時期にバグダッドという地名を使うということは、やはり戦争のことが頭にはあったんでしょう?」と訊くと、パタースンは「ジ・オーブはユーモアを大切にするグループだからね。そうだとは言いたくないけれど、そんな昔から文明を持っていた地だということを知ってもらうことで何かしら考えてくれたらとは思うよね」と、積極的には話したがらない様子。「20年前にも『ピース・イン・ザ・ミドル・イースト』というシングルを変名でリリースしていましたよね?」と深追いすると、「ああいうことは変名でやるんだ。あの時は湾岸戦争だった」と、これも口数は多くない。そう、メッセージの投げ方は婉曲的だけど、「バグダッド・バッテリーズ」や「ウッドラーキング」はとてもファンタスティックな曲で、それゆえにとても考えさせられる。ちなみに最近の遺跡調査の結果、チグリス・ユーフラテス文明はかなり高度な民主主義のシステムを有していたこともわかっている。
後半はホワイ・シープ?との対談で僕はほとんど口を挟まなかった。そちらの方は動画でご覧下さい。ヴォイス・サンプルにこだわるホワイ・シープ?は真面目な顔で「ユーモア、ユーモア」と繰り返し、ジ・オーブはユーモラスな語り口で真面目な話をしてくれたという感じだろうか。そして、アレックス・パタースンは収録が終わってからどんどんユーモラスなキャラクターに変身し、1時間後には手のつけられない怪物と化していた! どこが歯が痛いって! ごぼう! ごぼう! ...って、そう叫んだかと思うといきなり観はじめたユーチューブがもはやなんだかさっぱりわからないし!
2009年11月15日、DMBQの演奏が終わった〈新代田フィーヴァー〉のフロアから数十人の客が押しだされるようにエントランスにあふれ、場内の熱気がここまでたちこめた。DMBQのステージを饒舌に語り、その前に演奏したインキャパシタンツとサーファーズ・オブ・ロマンチカに言及したかとおもえば、久しぶりに会った友人と肩を叩きあい近況を語りあう彼らの上気した顔はフットサルを一試合終えたかのように上気していて、汗の匂いの混ざった人いきれはライヴハウスよりもスポーツ会場のそれにちかいと思ったのは、私がビザの問題で中止になった3年前の来日公演の2年前に渋谷の〈O-NEST〉で見たライトニング・ボルトのライヴの印象をそこに重ねていたせいだろう。
00年代のオルタナティヴ・シーンはその前半は90年代の圏域にあって、テクノからエレクトロニカへの生成変化をダンス・ミュージック・シーンのトピックだとすると、誰もが当時はサブジャンルの増殖が音楽史の要請というかリニアな歴史の必然(?)だと思っていたが、小泉政権下の平板化した価値観と対立したサブカルチャーに、どこかゆっくりと停滞していく感を抱いていていなくはなかったか? オルタナティヴ・ミュージックも例外ではなく、ライトニング・ボルトは94年に結成した私と同世代のバンドだから、97年のファースト『Lightning Bolt』のサイケデリックなトリップ・ミュージックには90年代のジャンクやノイズの残像がつきまとっていたし、ドラムとベースのアクロバチックな対比をコンポーズしたセカンド『Ride The Skies』(00年)からもメルト・バナナやルインズと似たコンビネーションが透けて見えて、スリリングだが完全に新しいとは思えなかった。私は当時の彼らの音楽はテンション――緊張感という意味とともに楽音と雑音のボーダーを志向するテンション・ノートの含意もある――があふれていて、彼らは即興演奏と同じスタンスで演奏に向きあっていたのではないかと思う。フリー・ジャズかフリー・インプロヴィゼーションかという問いの繰り返しになる気がするが、丁々発止の演奏の弁証法は意外にクセモノで、最後にはカタルシスに昇華する演奏は類型化しがちだったりする。それを回避するためにデレク・ベイリーはノン・イディオマチックなフレーズをノン・エフェクトで演奏する方法を選んだわけだし、ノイズ・ミュージックは五線譜をトーンクラスターで塗りつぶすことであらがった。ライトニング・ボルトはファースト以降、「即興的」なメソッドから切りかわった印象をもたせながら、ブライアン・チッペンデイルとブライアン・ギブソンには00年代にはいってしばらくはまだ引き出しがあったはずだ。それはなにを指すかといえば、プレイヤーに染みついた手クセ......といって悪ければフレーズやリズムのストックみたいなもので、互いに手札を切り合うふたりの関係がライトニング・ボルトのテンションに担保していたのではないかと彼らのキャリアを振り返ると思える。批判でなくそれはアートスクールの学生バンドだった彼らがどうやってライヴにインパクトをもたせるか直感的に導き出した道だったはずで、四の五のいわず彼らのライヴに足を運んだ誰もが体感することだと、二度目の来日公演(04年)でできたモッシュ・ピットのなかにいた私は思う。そのときもフロアでうねる人の波の中央でライトニング・ボルトは汗を飛び散らせて演奏していた。彼らの様子をこの目におさめるにはモッシュのうねりに踏みこまなければならない。そこにはダンス・ミュージックとハードコアの邂逅が起こったこの国の00年代DIYカルチャーへの米国からのアンサーの趣さえあった。
数年前のライヴは90年代から00年代へのシフトを印象づけた――彼らは結成当初からずっとそんな感じだから自覚なんてないだろう――けど、一方で反論の余地のない圧倒的な肉体性はそこに注視するあまり音楽性の移り変わりに向ける目を曇らせた。私は『Earthly Delights』のライナーで「高いピッチにチューニングしたドラムスと、トリッキーなベースによるリフでストップ&ゴーをくりかえす構築方法に作品ごとの異同はない」と書いた。私は今回のライヴでそれを追認するだろうと高を括っていた節がなくもなかった。エントランスからライヴ・スペースに戻るとフロアにしつらえられたドラム・セットのまわりには人垣ができていた。人垣はすでに前のめりだった。私は今回は後方に構えていた。演奏がはじまると、客同士は肩をぶつけあいモッシュがはじまった。彼らの姿はここから見えない。私はしずかに演奏に聴き入っていたが、そのうち身体を揺する衝動に勝ってドラムスとベースの最小単位のユニットが繰り出す音の重なりに耳を奪われた、むかし(?)のいい方でいうとロックされたっていうの? 平面だと思っていた絵が立体にみえたというか、演奏の奥行きは肉体性の発露と拮抗したインナーなトリップ感をもっていた。前方の人壁を眺めていた私の視界の右から左へ塩田正幸が担ぎ上げられ横切っていった。私は終盤にむかう演奏を聴きながら、彼らはライヴ・バンド然としたパフォーマンスの土台にある音楽性を進化させ、リフ(レイン)の組み合わせで構築した楽曲に演奏の成熟度が垂直のレイヤー構造とも和声的な厚みを加えてきて、4作目の『Hyper Magic Mountain』(05年)で音が変わったと思ったのは音質がよくなったせいだけでなく、両ブライアンの音楽に向かうスタンスが変わったせいじゃないかと自問しはじめた。そこにはスポーティなまでのテクニックのせめぎあいから音楽の有機的な結びつきへのたしかな「異同」があり、『Hyper~』を経て、『Earthly Delights』で彼らはオルタナティヴ・ミュージックの90Sから00Sへの微細だがしかし見過ごせない変化を推し進めてきた。
スコットランドはグラスゴーのターンテーブリスト、マイケル・ハンターによるデビュー・アルバム(CD2枚組)で、地元の硬派レーベル〈ソーマ〉からのリリース。ハンターは、マニアのあいだではそれなりに名が通っていて(しかし......どう考えてもこれはジャズ・ヒップホップじゃないでしょ!)、すでにヨーロッパでは、13年前のDJシャドウによる『エンドトロデューシング』を引き合いにバズが起きている。実際の話、ハンターはシャドウのように、ピーナッツ・バター・ウルフのように、古いソウルやジャズ、あるいはサウンドトラックを蒐集してはリサイクルする。ジ・アヴァランチーズのように、ナールズ・バークレーのように、それらを機械に通してノスタルジック・ポップスへと変換する。
"Sing"のようなアップビートなジャズを聴いていると、ぐるぐる回る7インチ・シングルが目に浮かぶ。"Fairchild "のようなグルーヴィーなファンクを聴いていると、70年代のアメリカにトリップしたような気分になる。"Sky Is High"はナイトメアズ・オン・ワックスのソウルフルなダウンテンポだ。"'The Story Of Sampling"は、この手の音楽のテーマ曲である。ラッパーは、その曲名の通り、サンプリング音楽における講釈をたれる。言葉がわかれば相当面白いらしいが、仕方ない。
CD1枚目の最後に収録されている"High Jazz"は、いまのところこの人の最大のヒット曲で、このアルバムのハイライトでもある。美しいジャズ・ピアノを、アルト・サックスの音色を、20年前のコールドカットのようにカット&ペーストする。エレガントなこのトラックは、60年代/70年代のアメリカのブラック・ミュージックへの憧れの旅を締めくくるのに相応しいと言える。
そんなわけで、心配しなくて大丈夫、あなたはすっかり時間の経過を忘れるでしょう。ディス・イズ・ア・ジャーニー......。