「K A R Y Y N」と一致するもの

world’s end girlfriend - ele-king

 命を賭して音楽に向き合っている人が好きだ。ここで言う命というのは、埃や小銭にまみれた決してきらびやかではない、暮らしそのものを指している。「命を懸ける」というのは刹那的に燃え尽きることではなく、ひたすら続く人生のすべてを費やすということで、人生を薪にくべて音楽を生み出すようなある種の狂気性に裏打ちされた行動をひたすら取り続けることだと僕は考えている。

 そういったことを粛々と遂行し続けられるアーティストは、いつか歴史に対し垂直に立ち、記念碑的な作品をたびたび生みだす。2023年9月9日、7年ぶりのフル・アルバムとして満を持して世に放たれたworld’s end girlfriendの新作『Resistance & The Blessing』はその条件を満たしていると確信できる内容だった。たとえ YouTubeの有名音楽レヴュアーが本作に最低点の1点を与えようと、その素晴らしさは揺るがない。もちろん好みや時代の要請によって、本作をどう捉えるかは大きく変わってくるだろうけれど。

 ショート・レングス全盛の、わかりやすさこそ正義とされる時代と相反する約144分、35曲入、LP4枚組/CD3枚組の大作というパッケージングもさることながら、(2020年代にまったく異なる形で復権を果たした)ブレイクコア、(こちらも姿化を変えて復活した)トランス、ボーカロイド、グラニュラー・シンセシスといったトレンドを包摂しつつも、それらとは相反するプログレッシヴ・ロックやシンフォニック・メタル、モダン・クラシカルといったような、現行のヴァイラル・チャートとは距離のあるジャンルが本作の美学を主柱として支えている。

 そう、本作『Resistance & The Blessing』のサイズは、2020年代のインディ電子音楽の地平にとってあまりにも巨大である。とてもカジュアルには向き合えそうもない(だから、最低得点?)。けれど、『Resistance & The Blessing』にはworld’s end girlfriend=前田勝彦氏の命が込められているはずだから、作品が重さを帯びるのは当然のことだ。なにしろ、7年もの間ライヴ活動を休止し、ひたすら作り続けられたアルバムであり、本人をして “最高傑作” と断言する大作である。怪作と受け取る人が出現するのも無理はないだろう。本作は隙間なく敷き詰められたひとりの音楽家の美学と全身で向き合うことを余儀なくされるような作品なのだ。もちろん、そのような要素を抜きにしても、音像そのものを遺跡を見にいくような感覚で誰もが楽しめるはずなのだけど。

 サウンドデザインの面に目を向けると、本作にはジャンル/美学を含む、広範にわたる要素が散りばめられている印象を受ける。それはまるでworld’s end girlfriendが辿ってきた足跡すべてを回想するように。とはいえ、僕の「WEG体験」は非常に断続的で、ずっと追い続けてきた人々のそれと比べて乏しいものだ。どちらかといえば、world’s end girlfriendそのものより、ひとりの愛好家のCD棚を見せてもらうような感覚で〈Virgin Babylon Records〉のリリース作をバラバラにダウンロードしていくうちに、たびたび現れるオーナー本人の作品、といったような距離感で接していた。最初に触れたのは、BandCampでName Your Price配信されている『dream's end come true』(2002)と『Hurtbreak Wonderland』(2007)あたりだったろうか。ブレイクコア~ポスト・ロック~アンビエントをシームレスに繋ぐようなそのサウンドスケープを、コロナ禍で沈みきっていた時期にたびたび求めた。

 だから、「そういう人間がWEGのすべてが込められた『Resistance & The Blessing』を評してよいものか?」という葛藤があり、それが9月発売の本作をこうしていま取り上げている一因になっている。本作と向き合うことの難しさに大きなプレッシャーを覚え、心中の感想はどれも独立してまとまらない。それでも何度も振り返り、整理を続けていくと、「エピック・コラージュ」とされるジャンル群との結びつきが徐々に浮かび上がった。

 「エピック・コラージュ」とは、デコンストラクテッド(脱構築)・クラブから派生した非クラブ・ミュージック的なサンプリング・ミュージックを指すジャンル定義であり、数多のサンプルを文脈から切り離し新たな文脈を創り出すような音楽性を持つ作品群に適用されるものだ。そこにはたとえばアンビエント、グリッチ、ノイズ、映画音楽、ニューエイジ、非音楽などさまざまな文脈を持つものが重層的に重なり合っており、そして「エピック」という語句が指すようにしばしば壮大なスケールを感じさせる。

 また、近いものに「プランダーフォニックス」と呼ばれるジャンルがあり、こちらも成立こそ1980年代ごろまで遡るものの、2023年現在はサンプリングを主としたその技法(もしくは精神性)だけが取り残され、また新たな枠組みができあがりつつある(デスズ・ダイナミック・シュラウド.wmvやウラ、そして日本からは冥丁やMON/KUといったアーティストの作品が、音楽レヴュー・フォーラムのRate Your Musicにより分類されている)。こういった定義に本作『Resistance & The Blessing』を当てはめてみると、アプローチ的にはかなり近しいものを感じた。プランダーフォニックスはその名称に、Plunder(略奪)とPhonics(音声)という「剽窃的サンプリング」といった負のニュアンスを帯びているジャンルであり、もちろん『Resistance & The Blessing』にそのすべてが当てはまるというわけではない。けれど、2016年末のウェブ・インタヴューにて「world’s end girlfriendを変えた5枚の音楽アルバム」として、プランダーフォニックスの先達とされるDJ シャドウ『Endtroducing.....』が紹介されていたりと、(おそらく)WEGの音楽を構成する一要素として考えられるはずだ。

 メタルやプログレッシヴ・ロック、エレクトロニカ、ブレイクコア、シューゲイザー、グリッチ、脱構築、そういった物事すべてを通過して向かった先がどこであったのかはいまだ結論が出ないというのが正直なところだ。けれども、本作が我々に与える音と奔流は、インスタントな喜怒哀楽を超えたなにかを心の奥底に焼き付けようとする。クラシカルなピアノの演奏に始まり轟音のスーパーソー(トランス・ミュージックの肝であるシンセサイザー・サウンド)に終わる “FEARLESS VIRUS” から “Dancing With me” のグリッチ・ベースとも呼ぶべき脱構築的サウンドに突き落とされる中盤の流れや、“Ave Maria” のラスト1分の痛いほど耳を刺す轟音のフィードバック・ノイズはもはや快楽というより苦悶に近い。しかしその先にはたしかな解放感が待っている。

 なお、この作品の基本設定は

「人間がこれまで幾千幾万の物語で描いてきたふたつの魂、それらの物語が終わったその先の物語」
「ふたつの魂が何度も何度も輪廻転生し続ける物語」

とworld’s end girlfriend本人より説明されている。そして、

「これらの魂は男女、同性、親子、友人、敵、様々な姿で、様々な時代と土地を生き、出会いと別れ、生と死を繰り返し、物語は続きます。」

とも明言されている。だから1曲目は “unPrologue Birthday Resistance” で、35曲目は “unEpilogue JUBILEE” なのだろう。誕生を喜ぶことも、終わりを迎えて救済されることも両方拒んでいるアルバムというわけだ。人にも音楽にも、続きがあるということだろうか。苦悶に近い陶酔の果てに現実へと突き放されるような本作の視聴体験を、厳しさと捉えるか優しさと捉えるかでまた、聴いたあとに見えてくる景色や考える物事も変わるような気がする。僕はこの大作を前に、結局音の先に人を見出してしまった。エピックな大作でありながら、個々人の持つ美意識や感情=つまりは生に訴えかけるパーソナルなメッセージを独り発信するworld’s end girlfriendのことが、さらに好きになった。

みんなのきもち - ele-king

 東京の若きトランス・パーティー・クルー〈みんなのきもち〉が、環境音楽とアンビエントに特化したレイヴ・シリーズ〈Sommer Edition〉の第三弾を新年1月3日に東京・新木場某所の倉庫を舞台に開催する。

 〈Boiler Room Tokyo: Tohji Presents u-ha〉への出演も話題となったが、活動の主軸は完全自主で不定期開催するレイヴである。匿名通話アプリを用いたシークレット開催(〈Sommer Edition〉のような特定の催し以外、今後の開催は地下化するともアナウンスされている)や、今回のようなアンビエント・レイヴなど、その内容は決して「ハイパー」という惹句ではひとくくりにできない2020年代以降の電子音楽の可能性を提示するものだ。

 〈Sommer Edition〉はトランス、ヒップホップ、ポスト・クラブ(デコンストラクテッド・クラブ以降の脱構築的・実験的なクラブ・ミュージック群)など様々なジャンルをアンビエント/環境音楽というフォーマットに落とし込む実験的なレイヴ・パーティー。クラシックのコンサートから着想を得て、ダンス・ミュージックやクラブという文脈から離れた場で新たな音楽鑑賞のスタイルを提案することを目指しているとのこと。寝ても座ってもいいし、踊ってもいい。個々人がサウンドスケープの膜に包まれながら、気ままに過ごせる集いの場を日の入り/日の出の時間にあわせて提供する。現在ベルギーより来日中のポスト・クラブ・アーティストBugasmurf(f.k.a buga)のほか、ヘッドライナーとなるアーティストの出演もアナウンスされている(こちらは1月1日に追加解禁)。

 目まぐるしいスピードで移り変わり続ける世の中だからこそ、速度のベクトルには回収されない音楽が自然と求められる。ユースの熱意と感性が新たに掴み取ったアンビエント・ユートピアに興味を抱いた方は、新年のはじまりを彼らに委ねてみてはいかがだろうか?

〈みんなのきもち〉Sommer Edition Vol.3
Wednesday January 3rd, 2024 3PM
東京都江東区新木場3-4-7 / 3-4-7 Shinkiba, Koto-ku, Tokyo-to, Japan
ADV ¥3,000 / DOOR ¥4,000
Ticket link: https://0103se3.peatix.com

Lineup (A to Z)

Secret Guest (1月1日公開)
ast midori
Bugasmurf (BE)
botsu vs nul
gpu Angel Nyx
堀池ゆめぁ
LSTNGT
Shu Tamiya
VIO-SSS

※このイベントは違法に、またはその可能性がある上で開催されるものではありません。安心して参加してください。
※開催後の中断/中止があった場合の返金対応はいたしません。ご了承ください。開催前の中止については返金対応を行います。
※薬物、その他違法性のあるものの持ち込み禁止。見つけ次第警察に通報します。
※会場、および周辺での事故、事件には責任を負いかねます。
※未成年の入場可。

〈みんなのきもち〉

東京を拠点に活動するレイヴ・クルー。実験音楽からヒップホップ、ボーカロイドまでをもルーツに持ち、トランス・ミュージックを主軸としたさまざまな要素を取り入れ新しいスタイルを確立。イベント・オーガナイズの他に、DJや照明演出も手掛ける。2021年の発足以来、ブリュッセルやベルリンのインディペンデント・レーベルとのコラボ・ショーケースや、シンガー・松永拓馬のリリース・パーティーなどを開催。またDJユニットとしても様々なイベントに出演し、〈Boiler Room〉からアンダーグラウンドのパーティーまで幅広い場所に出演。

□Peace Is Not The Word To Play

山崎:前回の続きになりますが、まずB面の1曲目から。

水谷:このネタはMFSBの「T.L.C. (Tender Lovin' Care)」ですね。

山崎:これもカッコいい使い方をしていますね。イントロの部分を分割してる感じはすごいですね。

水谷:ゆったりした部分を使っているのにこんな疾走感のある曲に仕上げている。

山崎:イントロのビートはMilly & Sillyの「Getting Down For Xmas」を使ってます。
原曲もめっちゃカッコいいクリスマス・ソングですね。

水谷:この鈴の入ったビートの感じはラージ・プロフェッサーはよく使います。

山崎:この鈴が入ると疾走感が倍増するというか、勢いが出ますね。

水谷:話が『Breaking Atoms』から脱線しますが、彼の手掛けたNASの「Halftime」でもこの感じを出してますね。そっちはAverage White Bandの「School Boy Crush」のビートですが。

山崎:De La Soulは「D.A.I.S.Y. Age」で同じ曲のギターのフレーズ入りを使ってますが、ラージ・プロフェッサーはよりネタ一発にならないような部分を使用し、そこに『Hair - The Original Japanese Cast Recording』の「Dead End」にフィルターをかけて重ねている。ここではベースラインを使用してますが、当時のサンプラーでできることを120%駆使してまとめる技がすごいですね。一つのトラックとして調和が取れています。

 

水谷:これはNASのデビュー・アルバム『Illmatic』リリース前の曲ですね。『Illmatic』にも入っていますが、『ゼブラヘッド』という映画のサントラに収録されている曲です。『Illmatic』についての解析もまたどこかでしましょう。

□Vamos A Rapiar

山崎:曲名はスペイン語ですね。意味は「ラップをしよう」です。

水谷:これはピート・ロックとの共作なんですよ。ピート・ロック主導のせいなのか、ネタをあまり重ねていないですが、ピート・ロックが活動を始めた初期の仕事です。

山崎:これはThe Three Sounds一発ですね。一番単純なサンプリング方法を使用した曲かもしれません。

水谷:ラージ・プロフェッサーは有名なネタであればあるほど原曲の形跡を残さないのですが、“分かりやすい”ネタをそのまま使っているのはこのピート・ロックとの共作だけ。でもピート・ロックもここでラージ・プロフェッサーから学びを得て、その後SP-1200(初期サンプラーの名機)の操作技術が向上するんですよ。

□He Got So Much Soul (He Don't Need No Music)

水谷:これはラージ・プロフェッサーにしては珍しい、ネタ一発な使い方の曲ですが、Lou Courtneyの「Hey Joyce」、1967年に7インチでリリースされた作品です。同時代ではこのネタを他に使っている人はいませんし、チョイスはずば抜けていますね。ここでも60年代ソウルをサンプリングしています。Main Sourceの特徴的な部分です。

山崎:確かに前述の「Vamos A Rapiar」と違って切り取り方にセンスを感じます。

□Live At The Barbeque

水谷:Melvin Van Peeblesの『Sweet Sweetbacks』のスキットのイントロからVicki Andersonの「In the Land of Milk and Honey」で始まる。

 

山崎:この始まり方も違和感がなく、スムースに切り替わる感じが印象的ですね。

水谷:この曲はもちろんこのイントロの使い方も凄いのですが、もっと衝撃的だったのはビートが実はBob Jamesの「Nautilus」だったって事なんです。

山崎:サンプリング・ネタとしては古くから有名な曲ですよね。

水谷:そうなんですが、普通はあの有名なイントロを使いますが途中のブレイクを使用しています。ここでも他の人のやっていることとは違う事をあえてやっている感じがある。ラージ・プロフェッサーのプライドが垣間見えます。

山崎:これは全然Bob Jamesってわからないですね。けど確かにこのブレイクはかっこいい。そこに目をつけるのはさすがです。

□Watch Roger Do His Thing

山崎:この曲はベースとオルガンは演奏していますね。ドラムはFunkadelicの有名なネタ曲、「You'll Like It Too」です。

水谷:このベースを弾いているアントンていう人がキーマンでして、本名、Anton Pukshanskyって言うんですけど、白人のロック系のエンジニアでレコーディング・スタジオの人だと思うんですけど、HIP HOP系では馴染みの深い人ですね。

山崎:確かにレコーディングのクレジットにも入っています。

水谷:この曲はアルバムリリースの前にシングルで出ているんですよ。その前に「Think」と「Atom」という曲のカップリング・シングルが89年にリリースされていて、これはわりとランダムラップに近いサウンドなのですが『Breaking Atoms』には収録されていません。で、90年にでたこの曲が2ndシングル(B面は「Large Professor」)で、これらは全てActual Recordsからリリースされています。このレーベルは Sir ScratchとK-Cutのお母さんが経営しているレーベルです。Main Sourceの活動はこのお母さんがかなり主導権を握っていたようで、息子でないLarge Professorはその部分で揉めたことが原因で脱退したようですが。

 

山崎:駆け足でBreaking Atomsの収録曲のサンプリングを解析しましたが、総じて言えるのは仕事が細かいってところですね。

水谷:ラージ・プロフェッサーはチョップ・サンプリングの先駆けかもしれません。チョップで有名なDJプレミアは、誰もラージ・プロフェッサーから影響を受けたって言っていないですが、時代を遡ると、この刻んだ感じはラージ・プロフェッサーが最初だと思います。そして重ねる技術や展開も上品で、音楽的です。

□Fakin' The Funk

水谷:それとラージ・プロフェッサー脱退前の超重要曲は「Fakin' The Funk」です。

山崎:映画『White Men Can't Jump』のために作られた曲ですね。レコードはそのラップだけを集めた『White Men Can't Rap』に収録されています。

 

水谷:『Breaking Atoms』のリリース後に(シングルも)出たのですが、メイン・ソースの到達点は前述のNASの「Halftime」とこの曲かもしれません。

山崎:メイン・ソース・ファンにも人気の曲ですね。

水谷:そうですね。この曲、Kool & the Gangの「N.T.」のサンプリングから始まりますが、「N.T.」の原曲を聴くとすごいところから取っているのがわかります。

山崎:普通に「N.T.」を聴いていてもそのまま流してしまいそうな部分ですが、ここをサンプリングしてループするとこんなにかっこいい。しかも一瞬使ってすぐに次のサンプル、The Main Ingredientの「Magic Shoes」に展開している。サンプリングって言わば既存曲のコラージュだと思うんですが、ひとつの曲として完成している。

水谷:常人ではできない組み合わせですよ。デタラメに組み合わせてもこんな曲は生まれない。この2つの組み合わせは簡単なようで、とてもハイレベルだと思います。もはや魔法です。

山崎:そして「Looking At The Front Door」でも触れましたが、やはりコーラスの使い方がうまい。

水谷:ラージ・プロフェッサーはこの後、メイン・ソースを脱退してしまうのですが、その直前に手掛けたのが『The Sceince』です。1992年の『The Source』に2ndアルバムのリリースについての記事が出たんですね。それを当時見て、気持ちが昂ったことを覚えています。でもお蔵入りになってしまった。

山崎:2023年のヒップホップ50周年に『The Sceince』がようやくリリースされた事は大きな話題になりました。そしてここでは「Fakin' The Funk」の別テイクが収録されていますが、ここではESGの「UFO」のイントロを使っています。この曲、ヒップホップのブレイクの定番曲で、回転数を45RPMから33 1/3RPMに下げて使用するのが、ヒップホップのセオリーですがその通りに使用しているのも良いですね(Ultimate Breaks & Beatsにもその回転数で収録されていることは有名)。

水谷:これを最初に聴いたときはテンションが上がりましたね。

山崎:シンプルな使い方ですが、その分ラップが前に出て、彼らはラップも素晴らしいことがよくわかります。

水谷:やはり全方位でレベルが高いんですよ、この頃のメイン・ソースは。もう後にも先にもこんなグループは出てこないかもしれません。

山崎:VGAでは『The Sceince』のテスト・プレスもごく少量ですが販売中です。このアルバムのサンプリング・ネタの解析も、いつかこのコーナーでしたいと思います。お楽しみに。


Main Source / Breaking Atoms
https://anywherestore.p-vine.jp/en/search?q=main+source


MAIN SOURCE / THE SCIENCE Limited Test Pressing
https://vga.p-vine.jp/exclusive/vga-5012/

Waikiki Champions - ele-king

 街。ポップ・ミュージックと街は切っても切り離せない関係なのではないかと思う。新しいバンドを知らせる紹介文に躍る文字、そこには必ずといってもいいくらいに街の名前が記されている。ロンドン、ブリストル、ベルリン、フィラデルフィア、アムステルダム、ソウル、パリ、音楽を聞く前、聞いた後、限られた情報の中で僕らは街の匂いを思い浮かべ、そこで生まれたバンドの姿を想像する。もちろんそれが全てではないというのはわかっているけれど、その音が鳴っている場所はどんなところなのかと考える。それはきっとポップ・ミュージックの楽しみの一部だ。いつの間にか積み重ねられてきた歴史がそこらかしこに刻み込まれた街の空気が反映されて、そうして音楽が生み出されていく。スポーツ・チームに冠される都市名だってそれはきっとただの記号ではないはずだ。

 仙台を拠点に活動するバンド、Waikiki Champions の新しいアルバム『街~Machi』を聞いてそんなことをぼんやりと考えた。得体のしれない路地の前に立つ不安と好奇心が入り交じった心を現したようなサウンドスケープ、タイトなドラムとベースが作り出すグルーヴ、暗く細い道に手招きし誘いかけるようなギターのリフ、遠くで遊ぶ子どもの声のような不明瞭でそれでいて確かなイメージを残すヴォーカル、不安に絡みつき好奇心をあおるサックス、オープニング・トラック “Jusco” を再生した瞬間に小さく胸が高鳴っていく気配を感じた。Jusco とはおそらくスーパーのジャスコ(あのピンク色の看板の店)のことであり、もちろんいまは存在していないイオンによって塗り替えられた店の名前でもある。そこにノスタルジックな思いを抱くかといえばそうではなく、曲を聞いて感じるのは失われてしまった店が持つ怪異が起こりそうな雰囲気だ。そこはかとなく恐ろしく何かが起こりそうな予感がしてワクワクする。だから危険だとわかっていても足を踏み入れる。そう、この音楽はまるで誘いかけるように恐ろしげで楽しげなのだ。ドラムとベースのグルーヴを中心に組み立てられるどことなくアンダーグランドの匂いが漂ってくる音楽にニューヨーク、ブルックリンのバンド P.E の2022年のアルバム『Blue Nude(Reclined)』やカナダのル・セキュリティが今年23年に出したアルバム『Stay Safe!』が頭によぎったが、Waikiki Champions はそれらよりももっとずっと湿気があっておどろおどろしい。祭りばやしという言葉だって浮かんでくる。これを地方性という言葉で片づけるのは短絡的だけれど、国や街、培われてきた場所の歴史や空気が影響しているのは間違いないだろう(心地よく感じるスィートスポットとは相対評価のコントラストで生まれるものだろうから)。
 そして Waikiki Champions はひとつの場所にとどまることはなくステップを踏み練り歩く。仙台を拠点とするMC、Misz をフィーチャーした “Miserarete” でどこにでもあるような、しかしだからこそ特別な街の情景をオレンジ色したベッドルーム・ミュージックのマナーで描き、“Katateni Syuryudan” を冷たいノーウェーヴの空気で突き抜けたように、Waikiki Champions は雑多に交わり、ふとした瞬間に浮かび上がってくる街の違った側面、漂う空気を描き出すのだ。

 そうしてこの街にはサウナがある。Bo Ningen の Taigen Kawabe がフィーチャーされ紡がれる “Neppa”(これはおそらくサウナの歌だ)においての 言葉はサウナの熱波の中でボーとした頭に次々に浮かんで消えるイメージのように感じられる。緩やかにゆがむシンセ・ベースの音と交わり意味があいまいになり、ボーとした頭に浮かびあがり伝わってくるような感覚としての言葉。冗談の雰囲気で大まじめなスタンスだからこそ伝わってくる感覚というものがあってそれにまったくやられてしまった。はっきりとした物事じゃないからこそ真理に近づく(かもしれない)ような、ふざけていて、だからこそ繰り返せ、そこに意味を見つけることができるようなスタンス、大げさかもしれないけれどポップ・ミュージックの魅力のひとつはこういう部分にもあるのではないかとかと思う(それと同時にいきなりしゃんとしたようにギターがかき鳴らされ、あぁここで水風呂に入ったんだな、なんて考えられたりもする。こうしたユーモアと格好良さが交じり随所に織り込まれているのもこのバンドの魅力のように思える)。ギターのフレーズがループして、サックスの音と共にうねりそしてサイケデリアにたどり着く素晴らしい最終曲 “Vibes” は心地の良い抑圧とそこから解放され広がっていく感覚があって、それがなんとも気持ち良い(根底にあるのは “Neppa” と同じものなのではないだろうか)。食品まつりのリミックスもまた違った角度で新たな朝へ向かっていく “Vibes” を感じられアルバムのエピローグみたいに思えた。

 場所、歴史、人、記憶、文化の集まり、Waikiki Champions の『街~Machi』は整然としたものではなく、いろんな匂いが混じってそこらかしこから漂ってくる。角を曲がり、違った通りに出ればそこに何か面白いことが待っていそうな、そんな感覚がなんともワクワクさせてくれるのだ。

Squid - ele-king

 ロックの死については、勝利のときも、嘆きのときも、度々宣言がなされてきたが、それはまだ死んではいない。何が起こったかといえば、ロックは、ポピュラー・カルチャーの中心としての立ち位置を失い、ジャズやカントリーのように、音楽の多数のニッチのひとつに落ち着きはじめ、ブランド志向のポップ・スターが利用する一連の記号や象徴となってはいるが、もはやスターたちが煌めく星座の中心に位置するものではなくなったのだ。

 これには多くの含みがあり、そのひとつが、威張って闊歩するようなロック・スターの伝統的な感覚は、ますます不条理に見えはじめていることだ。死んだ時代の寂しい遺物は、手に入れたパワーとシンボリズムにしがみつくが、それらが自らの指の間からこぼれ落ちるのを目にしながら、過去へと遠ざかっていく。

 スクイッドは、この立派で新しい世界には理想的なバンドなのかもしれない。ステージ上では5人がフラットな形で一列に並び、フロントマンにもっとも近いのは、歌うドラマーのオリー・ジャッジだが、その玉座は他のバンド・メンバーと同じ高さにあってそれ以上には上昇せず、どのメンバーも真の中心的な存在であることを示そうとはしない。ジャッジはロック・スターとしての存在感を、フリックするような軽いたたきや、華麗な身ぶりで表現するが、それも音楽の絶え間なく変化するダイナミクスに気を引かれて観客の意識がステージ上を行ったり来たりする瞬間に、通り過ぎてしまう。

 たまに音楽家が口にする、「音楽だけがすべてだ」という、用心深さからくる、回りくどい主張がある。それは決して真実ではないし、達成するのが不可能で矛盾した純粋さであるかもしれないが、おそらくスクイッドは、誰よりもこの主張が似合うバンドではないだろうか。彼らのライヴ・セットは、5人のメンバー全員がリズムを奏でることからはじまり、ベース、ドラムスとパーカッションに何層にも重なる強烈な焦点が当てられることで、観客の注意を、彼らが音響的にどのようなことをしていて、次の70分ほどをどう設定するかの役割を担っていることに向けさせる。徐々に役割分担が変わっていき、ひとつのセットでひとつの楽器に留まる者はおらず、ときには1曲中に2回、3回と楽器を持ち替えることもある。彼らは皆、自らをマシンの交換可能な部品として、ステージ上でのエゴよりも音楽に奉仕するのだ。

 絶えず繰り返される役割分担の変化による副次的な影響として、バンドにはもったいぶったロック・スターのフロントマンや、名人芸を披露するギター・ヒーローも存在しない。それは決して、このバンドが緊密なプレイをし、必要なときには爆発的な力を発揮することができないというわけではない。彼らは、その音楽性を売りにしているわけではなく、その激しさと、完全無欠に訓練された編成による、絶妙なバランスを売りにしているのだ。

 このことが、スクイッドを冷血なマス・ロックの音楽エンジンのように見せているとしても、UKで過剰なほどの宣伝がなされ、〈Warp〉のようなレーベルがバックにいるバンドにしては、限りなくクラブに近い体験ができるほど小さな会場に詰め込まれた観客からは、そのような反応は感じられない。オープニングでの強烈なリズムで観客を魅了したバンドは、一度も彼らに直接呼びかけることなく、ほぼセットを通して、彼らを乗せていく。かわりに、ダイナミックな変化とギア・チェンジを頼りに、錯乱したカーディアックスのヒステリックなプログ・パンクから、恍惚としたアンビエント・ウェーヴまでの広い範囲の先端に触れていく。スクイッドに、いわゆるロック・ヒーローのような役回りの者がいないことが、複雑で絶え間なく変化する音の波の中で、私たち全員を彼らとともに音楽に乗せていくのに役立つのかもしれない。ステージ上での集団的なダイナミズムは、私たちをロック・スターのキリストのような人物の受け身なフォロワーへと導くのではなく、ギャングとしてプレイしているゲームの中へと誘い込むのだ。

 もちろん、彼らのバンドとしての成功もその助けになっている。デビュー・アルバム『Bright Green Field』が、爆発するようなアイディアと音楽的な野心との間の、鋭さと厳しいコントラストの中で、自分たちのコントロールが効かないことを楽しむ若いバンドのサウンドだったのに対し、ニュー・アルバム『O Monolith』は、自分たちのツールをよりよく使いこなす(楽器とソング・ライティングの両方で)アーティスト集団であることをさらけ出している。ステージ上では、それが音楽の両極間で、そのつなぎの部分をほぼ感じさせずに観客を翻弄するというパワフルな才能へと転化される。曲たちは融合し、キャッチーなヴォーカルのリフレインは、実験的なシークエンスから飛び出し、インダストリアルな激しい鼓動の中からフックが立ち現れて、馴染み深い曲の到来を告げる。

 とはいえ、スクイッドは、いまでも全く “音楽だけがすべて” というわけでない。重要なのは、音楽が何をするかであり、彼らの場合は、衝撃的で、眩暈を起こすほどの強烈な、フィジカル(身体的)な体験を生み出すことなのだ。そして、スクイッドのメンバーが、派手なプレイをするのを控えたとしても、彼らは舞台裏に隠れて見えないような操り人形的なグループからはほど遠い。むしろ、彼らのパフォーマンスの多面的な相互作用は、マシンをより人間的で、歓迎され、より楽しく、孤独ではないものにしていく。それは、現代のロック・スターをも嫉妬させてしまうかもしれない。

Squid at Shibuya WWWX
on 27th November 2023

written by Ian F. Martin

The death of rock music has been proclaimed many times, either in triumph or lament, and it’s not happened yet. What has happened is that rock has lost its position at the heart of popular culture and started to settle into position as one of music’s many niches, like jazz or country — a set of codes and symbols for the brand-driven pop stars to draw from, but no longer a core part of that constellation of stars.

This has many implications, but one of them is that the idea of the rock star in the swaggering, traditional sense begins to look more and more absurd — a lonely relic from a dead age, grasping for a power and symbolism that is visibly slipping between his fingers, away into the past.

Squid might be a band ideally suited to this brave new world. Lined up onstage in a flat row of five, the closest thing they have to a frontman is singing drummer Ollie Judge, raised up on his throne only to the same elevation as his bandmates and no higher, and no individual member presents as a true focal point. Judge communicates his rock star presence, such as it is, in flicks and flourishes that blink past in a vanished moment as your attention flickers back and forth across the stage, tugged this way and that by the music’s constantly shifting dynamics.

There’s a cagey and circular claim that musicians sometimes make, that “it’s only about the music”. It’s never true, and might be an impossible and contradictory sort of purity to achieve, but Squid could perhaps make as good a claim as anyone. Their set opens with each of the band’s five members on rhythm, the intense and layered focus on bass, drums and percussion forcing the crowd’s attention onto the what they’re doing sonically and the role it plays setting up the next seventy minutes or so. Gradually, they begin to shift roles, no one sticking to a single instrument for the whole set, sometimes changing two or three times within a single song. They make themselves interchangeable parts of the machine, serving the music ahead of any onstage ego.

One side-effect of this constant shifting of roles is that, just as there’s no strutting rock star frontman, there’s no virtuoso guitar hero either. That’s not to say that the band aren’t tight, and explosive when needs arise, but it means that they don’t sell themselves particularly on their musicianship but rather on this fine balance of intensity and immaculately drilled organisation.

If this makes Squid seem like a cold-blooded math-rock musical engine, it doesn’t feel like that from the crowd, packed into a venue small enough to provide something as close to a club experience as you can get — at least for a band with such UK hype and a label like Warp behind them. Having hooked the audience in those opening, intensely rhythmical moments, the band carry them along for nearly the whole set without once stopping to address the crowd directly. Instead they rely on the dynamic changes and gear shifts, ranging from hysterical prog-punk that touches the deranged peaks of the Cardiacs to blissed-out ambient waves. Squid’s lack of anyone in any of the obvious rock hero roles might even be what helps them bring us all along with them through such complex and constantly-changing sonic tides, the collective onstage dynamic inviting us into a game they’re playing as a gang rather than leading us as passive followers of some rock star Christ figure.

Their own growth as a band surely helps too, though. Where debut album “Bright Green Field” was the sound of a young band delighting in the edges and harsh contrasts between their exploding ideas and musical ambitions, luxuriating in their own lack of control, new album “O Monolith” reveals a group of artists with greater command of their tools (both in instruments and songwriting). Onstage, that translates into a powerful ability to tease the audience between the music’s extremes while barely seeing the join. Songs merge together, catchy vocal refrains bounce off experimental sequences, and hooks emerge out of throbbing, industrial pulses to announce the arrival of familiar songs.

That said, Squid are still far more than “just about the music” because what matters is what the music does — in this case create an electrifying, dizzying and intensely physical experience. And while Squid’s members might shy away from showboating, they’re far from a group of puppeteers, invisible behind the scenes. Rather the multifaceted interplay of their performance makes the machine more human, more welcoming, more fun, and less lonely. A modern day rock star might even be jealous.

interview with Meitei(Daisuke Fujita) - ele-king

  併し、僕のお話は、明るい電燈には不似合です。あなたさえお構いなければ、ここで、ここのベンチに腰かけて、妖術使いの月光をあびながら、巨大な鏡に映った不忍池を眺めながら、お話ししましょう。
江戸川乱歩「目羅博士の不思議な犯罪」

 冥丁の音楽はワームホールである。古びた記憶に通じる小径、商店街にひっそりと佇んでいる骨董品屋の畳のうえから繋がる夢……我々が日本で暮らしながらときに目にすることがある、いざ幻想的なところへと、100年前のかすんだ風景へと、冥丁の音楽は時空を抜ける道に通じている。アンティークな夢、誰にも教えたくはない風景へと。
 それともこういうことだろうか。世界は同じ時期に同じような夢を見るという。ユング的な同時性の話ではない。「人間社会という一匹の巨大な生物が、何かしらえたいの知れぬ急性の奇病にとりつかれ、一寸の間、気が変になるのかも知れない。それ程常識はずれな、変てこな事柄が、突拍子もなく起ることがある」と、1930年に江戸川乱歩が書いているように、英国怪奇小説の巨匠、M・R・ジェイムズを愛するBurialが登場してからというもの、古書・古物趣味に彩られた怪奇性は、2010年代前半のアンディ・ストットや〈Blackest Ever Black〉や〈Tri Angle〉といったレーベルの諸作品に引き継がれ、ゴシック/インダストリアルの数年間を演出した。合理性よりも神秘、世界がテクニカラーで記録される以前のものたち、超越的かつ不可解なるものへの誘惑は、それから数年後の2018年、日本から冥丁を名乗るアーティストのデビュー・アルバム『怪談』にも見て取れる。欧米が冥丁を評価した背景に、この文脈がまったくないとは思えない。が、しかし当人にとってそれは意図したことではなく、ある意味偶然でもあった。

 「広島の地元の本屋に入ったとき、たまたま目の前に小泉八雲の『怪談』があって、その瞬間、これだと思ったんですよね」と、冥丁こと藤田大輔は述懐する。この取材がおこなわれたのは12月の上旬のこと。最新アルバム『古風lll』のリリースを控えていた彼は、東京でのライヴがあった翌日の午後、ひとりで編集部までやって来たのだ。サッカーをやっていたら間違いなくゴールキーパー(もしくはセンターフォワード)を任されたであろう長身の彼は、当然のことながら、彼の作風から空想できるような怪人でもなければ、もちろん『文豪ストレイドッグス』でもなく、明朗な人柄の、質問に対してきびきびと答えてくれる人だった。彼には事前に、今回の取材依頼をした際に、バイオグラフィー的な質問がメインになる旨は伝えてあった。そして以下、彼はすべての質問に対して正直な話をしてくれているように思う。
 それは新しい風景を視界から消し去り、古きものに目を凝らしながら日本を探求する旅であり、自己回復の旅でもあった、世のなかまだまだ捨てたものではない、という話でもあるかもしないし、いま自宅で音楽を制作中の人がこれを読んで励まされたら幸いだ。というのも、藤田大輔のここまでの道のりは決して平坦ではなかった。
 彼が冥丁の名で完成させた最初のアルバム『怪談』をBandcampにアップしたのは2018年1月1日。そのとき藤田は32歳。京都での8年におよぶ音楽制作に集中した生活を終えて作り上げた自信作は、〈Warp〉や〈Ghostly International〉をはじめとする20軒以上のレーベルにデモを送ったものの、どこからも返事はなかった。唯一リアクションがあったのはBandcampで、『怪談』はそこで公開されると、同サイトの「マンスリー・アルバム」に選ばれた。藤田の元に10軒を超える問い合わせが舞い込んで来たのは、同年、ピッチフォークが『怪談』を取り上げてからだった。彼の音楽は、土壇場で、この世界から忘れられることを許されなかったのだ。その広がりを話す前に、まずは彼の故郷の話からはじめよう。

 藤田大輔が生まれ育ったのは広島県尾道市、本州からは離れた小さな島だという。「実家とは別にスタジオというか作業用の家があって、そこで暮らしながら作っています」。瀬戸内海に面し、文豪たちを虜にした、多くの寺院が点在する古い街並みは、そのまま彼の音楽に直結していると誰もが考えてしまう。「すごくノスタルジックなところですね。とくに朝は霧がかかっていて、幻想的です」、と彼もなかば同意する。
 とはいうものの、生まれてから高校を卒業するまでのあいだの彼は、格別音楽に関心があったわけではなかった。「小さい頃は、地味な子でしたね。親が絵画教室を勧めてくれて、たぶん8年くらい絵画教室に通って、アクリル画と日本画を学んでいました。両方とも良き経験として体に残っているのですが、日本画の経験については音楽性に濃く出ていると思いますが、当時は絵が好きという意識よりも、行けって言われたから行っていたみたいな感じで」

世のなかは、言葉にならないものだらけじゃないかって思うことがありますね。いまでも誰もいないような場所に行くのが好きなんです。ひとりで、山のなかの道もないような奥のほうに行ってみるのが好きで、そうするとそこで感じるものって、やっぱ言葉にならない。だから音にしようって。

では、子どものころとくに好きだったことって何でしょう? 趣味というか。

藤田:趣味かぁ。無趣味だったかもしれないです。中学生までだと、やっていたのは絵を描くことくらい。他のことは長続きしなかった。

読書は?

藤田:本が好きになったのは20代後半からでした。それまでは全然本を読まなかった。

どっちかっていうと外で遊んでいたりとか?

藤田:いや、それもなく、これといって突出しない子どもだったような気がします。

音楽に目覚めるのは高校になってから?

藤田:いや、そうでもないんです(笑)。音楽に目覚めるのは、もっと後ですね。高校のころは自分が音楽やるなんて思ってもいなかったです。

じゃあ、冥丁さんにとっての10代ってなんだったのでしょう?

藤田:いやー、なんだったんだろうな。

広島であったりとか尾道という土地は、歴史的な意味もあるし、そもそも景色からしてほかとは違うわけで、やっぱ大きいでしょ?

藤田:大きいと思いますね。不思議なこと言っちゃうんですけど、親戚の家に行った帰りに頭のなかに音楽が流れてくる現象っていうのがよくあって。いまでもそういうメロディがあるんですけど、いつか曲作ってみようかな、それでとか。そういう辻褄がないことがぼく多かったんですよね、なにかが好きだからっていうよりは、パッとくる感じの。

空想が好きだったとか?

藤田:空想かぁ、好きだったのかもしれないですね。

高校生までの楽しみってなんだったんですか?

藤田:いやそれが、日々の楽しみが無くて。いま思い出しました、それ訊かれて(笑)。だから友だちにお前何しに学校来てるの? って言われたことがあったなっていうのを。寝に行ってるような感じのときもあったと思います。何もやることがなくて。だから、普通でした。ダメでもなく良くもなくみたいな感じで。本当に、目標もとくになにもなかったです。

 卒業後すぐに故郷を離れ、京都の大学に進学するも半年で退学、それから、東京の服飾の専門学校に通うことにした。意外な事実だが、音楽を好きになったきっかけは、その頃たまたま見た映像から耳に入ってきたジョン・フルシアンテだったという。

こう言ったらなんだけど、ジョン・フルシアンテと冥丁とはまったく結びつかないんですけど(笑)。

藤田:これはぼくにしかわからないことですけど、今回の『古風Ⅲ』にはその影響が入っているんです。とにかく、ジョン・フルシアンテからですね、めちゃめちゃ音楽聴くようになったのは。最初はロックばかりを聴いていたんですけど、やがてプログレも聴くようになって、ファンクも聴いたり、で、テクノも聴くようになって、結局いろんなものを聴いていった。ジョン・フルシアンテを聴いたばかりの頃は、友だちにギターを借りて寮で弾きまくっていたんですよ。で、2分くらいの演奏をちっちゃいガラケーに録音して「曲ができた!」って喜んでいましたね(笑)。

最初はロックだったと?

藤田:最初はバンドを組んだんですけど、どうもこれは自分に向かないなとすぐに気がついて、わりとすぐにエレクトロニック・ミュージックに向かっていきましたね。

コンピュータとか使って?

藤田:いや、ギターを使わずに作曲をしようと、何を思ったのかまずはMTRを買って。カセットテープのものです。

時代に逆行してますね(笑)。

藤田:それも、結果3台も買ったんです。4トラックのMTRとヤマハの8トラックのMTR、それからTASCAMのやつ。ジョン・フルシアンテが使っていたんで(笑)。

あれは1台あればいいものじゃないですか。

藤田:いや、たぶん同時再生させたかったんだと思いますよ。

音源としてシンセサイザーとか、あるいはサンプラーとかは?

藤田:ずっと買わなかったです。卑怯な気がするなって。

はははは。卑怯ではないけど。(編註:2018年のデビュー作『怪談』に収録された“塔婆”という曲中にある物語の朗読は本人によるものであって、古い記録からのサンプリングではない。彼のサンプリングが聴けるようになるのは、たとえば2020年の“花魁ll”のころである)

藤田:ボーズ・オブ・カナダがやっていることにちょっとインスパイアされて、オープンリールのデッキも買いましたね。重すぎてびっくりしたことを覚えていますね

それはいくつのときですか?

藤田:えっと、いまぼく38なんで、それやってたの24くらですね。24歳くらいから(人生が)一気に変わったんです。27歳まで付き合っていた彼女がいて結婚するかしないかみたいな状況になってきたんですよ。8年も付き合っていたから。でも音楽をどうしてももっと極めてみたいと思うようになってきたんです。で、結婚はせずに音楽をやろうと京都に一人で住むことにしたんです。

それはまた極端な(笑)。

藤田:いつも雷で打たれるかのように変わっていくタイプなんです(笑)。

なぜ京都に?

藤田:京都には以前住んでいたし、また住んでみたいなと思っていました。あの場所で音楽作ったらいいものを得られる気がするという直感もあったし、気合入れてやろうと思って。そこからものすごい貧乏な生活がはじまりましたけどね。

かなり籠もった生活だったそうですね。

藤田:そうなんですよ、すごかったですよ。誰ともつるんでなかったし、孤独でした。月に一度くらい、他県にいる友だちが訪ねてくるくらいで、ずっとひとりでした。京都にはメトロみたいなクラブもあって、一回だけ行ったこともありましたけどね、Ovalが来日したときに。いろんな人と仲良くしたいという気持ちは実はあったんですけど、仲良くなってしまうとそういう音楽になるだろうなと思って、ひとりで居ようと。誰とも仲良くしないほうが、より現代の日本を客観的に見つつ、音楽でコメントできると思ったんです。孤独でやったほうが自分の音楽に嘘がないし、それに納得できると。ほんとに音楽一本でした。

じゃあもう、かなりストイックな?

藤田:そうしているつもりはないんですけど、そう言われますよね。風貌も全然違いましたし。ご飯を食べるお金もろくになかったので。最初はバイトをやっていたんですけど、途中でバイトも辞めましたね。ところが救いの神様みたいのがいて、まだ全然音楽の仕事を経験してなかったんですけど、自分の友だちが舞台をやってて、舞台の音楽の依頼があったんです。それが音楽での初仕事でした。それ以降も、お店の音楽を作ったりとか。だんだんとそんな感じではじまりました。未経験だったし、最初は胃が痛かったですね(笑)。

エレクトロニック・ミュージックをやるうえで、インスパイアされたという点で、もうひとり名前を出すとしたら誰になりますか?

藤田:本当にいろんな人たちから影響を受けている部分もあると思いますね。だからひとり挙げるのは難しい。あ、でも、ホルガー・シューカイはむちゃくちゃ聴きましたね。『ムーヴィーズ』。なんでこういう音が出せるんだろうって、研究しました。リスナーとして聴いたっていうよりは、制作するうえでの教材みたいな感じで研究していましたね。

ヒップホップの影響があるって聞きましたが。

藤田:ありますね。

フライング・ロータス以降のインストゥルメンタル・ヒップホップ、たとえばノサッジ・シングとか、ティーブスとか? 

藤田:……。

クラムス・カジノやホーリー・アザー?

藤田:聴いてないです。

〈Blackest Ever Black〉は?

藤田:聴いてないですね。

Burialやザ・ケアテイカーは?

藤田:それは、最初のころ海外メディアから取材される度に訊かれましたね(笑)。好きでしょ? って。それで知ったんです。

じゃあ、同時代の似たような志向をもった音楽からの影響がとくにあったわけではないんですね。

藤田:ぼくは、京都住んでいたときに何を作ればいいのかなって、自分の音楽をずっと模索していたんです。クライアント・ワークをやりながら、自分では満足できていない、低レヴェルな音楽にお金払ってもらっているのが苦痛で苦痛で仕方なかった。毎日の生活のなかで夕方になるとよく嵐山までランニングしていたんですが、川に出たところの人気のない裏側になんかこう良い場所があって、この瞬間を音楽にできないだろうかという場所があったんですね。それをただの音の風景描写にしたくはない。なんか別の形にできないかって。

その場所のムードであるとかアトモスフィアを捉えたいと。そこは、アンビエント的な発想ですね。

藤田:そうかもしれないですね。あとは、京都は古いものと新しいものが合わさっている町で、そのハイブリッドな感じもヒントになったと思います。

それでなんか答えは見つかったんですか?

藤田:何か答えを出すってわけじゃなかったんですが、そんな風に彷徨っているときに本も読みはじめたんです。図書館に行って、文学や歴史の本を読みましたね。読書をしながら、何のために音楽をやるのかっていうこともずっと考えていて、ただ好きだからっていう理由だけでは(表現者として)もたないと思っていたんです。いまのこの時代に何を作ったらいいのかと考えていて、そして考えて末に、あるとき点と点が繋がったんです。

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 彼のコンセプトにおける重要な礎となったのは、服飾の専門学校で出会ったフランス人の教師の言葉だった。彼の作品を見たその教師は、英語の題名と西欧化された彼のデザインに対して、「なぜ日本らしさがないのか」というクリティックを投げた。この言葉は、音楽の世界においても、古くは三島や川端、はたまたきゃりーぱみゅぱみゅへの賞揚さえ抑えきれない、西欧知識人のなかの反白人至上主義から来る常套句のひとつではあるが、現代を生きる日本人にとっては話せば長い、じつに複雑でやっかいなアジェンダなのだ。とにかくまあそんなわけで、以降、「日本らしさ」なる漠然とした問いは、藤田のなかで何度も反芻され、京都での創作にひとつの方向性を与えた。
 とはいえ、京都での苦心惨憺たる生活は、いよいよ彼の精神を追い詰め、結果、8年で終わりを迎えた。医師からADHDという診断を下され、カウンセラーからは「音楽をもっと本気でやる方がいい」とも告げられたという。「(ADHDだから)才能を開花できるはずだ」と励まされもしたが、鬱も発症し、それまでの生活でやれていたことがじょじょにできなくなり、彼はすっかり自信を失ってしまった。さらにはパニック障害も併発し、人口の多い都会での生活は困難になり、療養のために一旦広島の実家に身を置くことにした。そして、ここから冥丁がはじまり、『怪談』は、この窮地から生まれたのだった。

そんな風に彷徨っているときに本も読みはじめたんです。図書館に行って、文学や歴史の本を読みましたね。読書をしながら、何のために音楽をやるのかっていうこともずっと考えていて、ただ好きだからっていう理由だけではもたないと思っていたんです。

『怪談』が完成したのは?

藤田:32歳のときでしたね。人生のなかで、ようやく「これが俺だ」と思うものができたって思えたのは。それで手当たり次第にレーベルに曲を送ったけれど、なんの返事もない。さすがにこのときは挫折を覚えました。もうダメだ。自分はこれだと信じてやってきたけれど、通用しないことが世のなかにあるんだということを初めて、遅いんですけど、32歳の時に知って。もう、すごい惨めな気分になりました。何のために貧乏やっていたのかわからないから、これからは金を稼ぐ仕事をしようとか、真剣に株の勉強をしようと思いました。そうしたら、2017年の年末に近づくにつれて、Soundcloudでだんだんとリアクションが来るようになりました。ならば駄目もとでと、自ら配信サイトで価格を決めて売ってみたほうがいいと思いはじめたんです。

 日本は怪談の産地だ。『今昔物語』、ずっと時代を進めて鶴屋南北の『東海道四谷怪談』や上田秋成の『雨月物語』、人間の報われなさや邪悪な内面は物語として語られ、あらゆる階級にとってのダーク・ファンタジーとして享受されてきている。日本趣味を嫌っていた武満徹が雅楽の楽器を取り入れたのは1964年の『怪談』のサウンドトラックだった。そして藤田は、日本の古きポップ・カルチャーの人気ジャンル「怪談」を自由形式のエレクトロニック・ミュージックに変換した。
 『怪談』が全曲聴けるようになったのは、冒頭で書いたように2018年1月1日だったが、その翌年冥丁は早くも次作をリリースする。『怪談』の評判をもって連絡をしてきたいくつもレーベルのなかで、もっとも情熱を感じたという、UKの〈Métron〉レーベルから『Komachi』がリリースされたのは2019年3月。このセカンド・アルバムによって彼の自己イメージはある程度固まり、冥丁の折衷的なエレクトロニカはより広く届けられることになった。
 スリーヴアートに古い浮世絵をモダンにデザインするというアイデアもまた、「日本らしさ」の表現に思考を巡らせた京都時代に温めていたものだった。浮世絵とは堅苦しいアートではなく、江戸時代に爛熟した庶民文化の象徴だ。藤田は、彼の地で観光客相手に売られている浮世絵をプリントしたTシャツを横目に、「あんな安直な発想ではなく、もっとしっかりデザインしたものがここ日本にあったらいいのに」と思いながら、いつか自作のなかで使いたいと考えていた。「著作権が切れている浮世絵はたくさんあって、ネットを使って、面白いものを探したんです。そのなかで、これ(『Komachi』)の絵を見つけましたね。可愛いし面白いし、これは音楽にも合っているだろうと思いましたね」、と彼は当時を回想する。

『怪談』と『Komachi』によって冥丁のイメージは固まったという印象ですが。


『怪談』(2018)


『Komachi』(2019)

藤田:時系列的なことで話すと『Komachi』の前に「夜分」というシングルもあるんですが、これもほとんどが京都で作ったもので、『怪談』を出してから、ほかにも曲があることを思い出して、そのなかのいくつかをEPとしてまとめました。

京都時代に、すでにけっこう作り溜めていたんですね。

藤田:そうですね、(すでに曲は)ありましたね。「夜分」のなかに“宇多野”という曲があるんですが、京都時代に、ぼくはよくそこに夜自転車を漕いで探検しに行っていたんです。そこには、木々の香りや水面の香りが漂っている、ちょっと怪奇的な池があるんです。ひとりでそこにいると、なにか創造的な空気感を感じるんです。まるでこう、日本の昔の民間伝承の雰囲気というか、空気感というか。それを音で捉えられるんじゃないかと思って。

さっきも話した、場のアトモスフィアみたいなものを表現できないかということですね?

藤田:そうですね。それはやっぱり日本独特のものなんですよね。京都のああいう感じ、あの池の感じとか。これを音楽にしないとダメだろって。

なるほどね。

藤田:まだ『怪談』を作る前ですけどね。なんか、学びに行っていたというか。「夜分」に入っている“池”とか“提灯”のような曲はそうやってできていきましたね。

日本にも面白い場所はたくさんありますよね。ぼくも子供の頃は、大きなお寺の裏にある墓地のなかの小さな池で遊んだりしました。そのとき感じた神妙さを思い出しては、いまでも帰省したときそこに行ったりします。

藤田:そういう、何か違う空気感が漂っているような場所が日本にはあるんです。ぼくはその雰囲気や、もっというと世のなかの印象をなんとか音にしたいと思っているんです。

Burialをはじめ、UKのいろんなアーティストが19世紀のゴシック的な、あのくすんだ英国を表現していますが、日本の文脈でそれをやったのが冥丁ですよね。藤田君はトビラを開けたんだと思います。

藤田:開けたかったと思ってやりました。

『古風』がやっぱいちばん受けたんですか?


『古風』(2020)

藤田:いや、どのアルバムがいちばん受けたのかはぼくはわからないです。

だって、これは三部作になったわけだし、とくにリアクションが大きかったのでは。

藤田:いや、当初は三部作にするつもりは毛頭なくて(笑)。最初の『古風』を出して終わる予定だったんです。そもそも最初の『古風』は「l」だと思って作っていないですから。だから、あのアルバムを出して終わるつもりだったのが、出した途端、コロナになってしまった。ぼくもいろいろライヴのスケジュールがあったんですけど、すべてキャンセルになってしまって。だから自分がこれまで作っていて、発表していない曲を整理しようと思ったんです。そのなかで、『古風ll』ができた。『古風』を作ったころに作った曲で未発表がたくさんあったんです。


『古風II』(2021)

なるほど。コロナがあったから生まれたのが続編だったんですね。

藤田:そういうことなんですよ。

話は変わりますが、初ライヴはいつだったんですか?

藤田:いやー、これもすごい、最近の話で、35歳のときだったと思います。たしか、3年前ぐらいだったんです。和歌山の〈Bagus〉というライヴハウスが呼んでくれたんですけど、そもそも自分にはライヴをやるという発想がなかったから、そのときは、いったいどうしたらいいものかと。

『怪談』のころですか?

藤田:そうです。洞窟のなかにあるライヴハウスでしたね。突然連絡があって、「冥丁さんライヴやられたことあるんですか?」と言われて「いや、ないです」と。「じゃあちょっとやってみませんか?」っていうので「マジですか!?」って。そんな感じでしたね。

(笑)

藤田:(笑)むちゃくちゃ緊張して、吐きそうでした。「俺人前に立つタイプじゃないもん」って思っていたんで。

ライヴを想定して機材も揃えていなかっただろうし。

藤田:いまでもそうなんですけど、ぼくは自分のことをミュージシャンだって思っていないです。たしかに作曲はしていますが、世にいうミュージシャンって、ぼくは音楽と握手をしているようなところがある気がする。ぼくは音楽を握手しているというより、ちょっと野蛮な向き合い方もしているような気がするんですよね。

アーティストや表現者といったほうがしっくりきますか?

藤田:たとえば、ぼくが興味があるのは、あそこに積んである段ボール(編註:取材場所の窓際に積んであった)の、あの雰囲気を音でどうやったら表現できるのかとか、段ボールのテープの部分のあのカサカサした感じはどうやったら出せるのかとか、そういうことなんですね。ジョン・フルシアンテのインタヴューを読むと、彼はミュージシャンが誰々であれが良かったなんとかなんとか(詳説している)。だから彼はすごいファンなんですよね、音楽の。ミュージシャンの人たちとの横の関係みたいなものもあると思うんです。でも、ぼくはひとりでやっているし、同じ音楽が作っているけどアプローチが全然違いますよね。

よりコンセプチュアル?

藤田:冥丁はそうですね。

「Tenka」名義での作品は?

藤田:あれは趣味ですね。何も考えずにただ作っていたっていうだけです。

「奇舎」の名義でもやっているんですね。こないだ送ってくれた……。

藤田:先日、野田さんに送った「江戸川乱歩 × Jan Svankmajer」ですよね。あれも初期のもので、まだ、作品がまとまっていない頃に作ったものですね。

江戸川乱歩に関しては、新作の『古風lll』にも“Ranpo”という曲がありますが、どんなところが好きなんでしょう?

藤田:なんだろう、あの怪奇性ですかね。小学校のときに図書室にあった『夜行人間』をよく憶えていて、挿絵の感じも好きだったし。それで『怪談』を作っていたときに、音で怪奇な感じをどうやったら出せるのかを考えていて、その制作の過程で「傑作選」を読みました。「屋根裏の散歩者」みたいな代表作が入っている文庫本です。チェコスロバキアのヤン・シュヴァンクマイエルという人形劇作家がいて、この人の作品もぼくは大好きなんですが、展覧会では、ヤン・シュヴァンクマイエルが表現した江戸川乱歩というのもあって、その解釈(「人間椅子」の挿絵をやっている)がとても面白かったんです。それで、自分も音で江戸川乱歩をやってみようかって思って最初にやったのが奇舎の名義で発表した「江戸川乱歩 × Jan Svankmajer」でした。

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 ここで個人的な趣味をひとつ吐露させていただくと、ぼくは江戸川乱歩のほぼすべての作品(子ども向けのもの以外の全作品)を読んでいる大ファンのひとり。夜に細長い三日月を見るといまだにそれが黄金仮面の口に見えるし、上野の不忍池を見る度に「目羅博士」のことを思い、いまや外国人観光客だらけの浅草の人混みに紛れれば「かつてはこの雑沓のなかに潜んでいた怪しき者たちはいまは何処に」などと憂いもするほどに。だいたい再開発された小綺麗な街になんぞ、怪人たちが身を潜める場もない。
 そんな、いまは失われつつある愛しき妖気を藤田大輔は冥丁の作品によって魔術師さながら蘇らせている。「乱歩をやっていくなかで、言葉にならないイメージ、たとえば明治、大正の感じを自分なりに掴んで出せるようになった」と彼は言い、「乱歩はぼくのなかでセクシーなんです」と自分の解釈を加える。
 そして「ぼくはめちゃくちゃ性格明るいタイプなんですけど」と断った上で、「孤独も好きなんだと思います」と話を続ける。もっとも彼に言わせれば「孤独」は「冬場のすごいあったかい場所から外に出たとき最初に感じる風の冷たさぐらいのちょっとした心地よさ」だったが、自分の人生のどん底だった京都時代のそれはまた意味が違っていたともいう。そんなときに彼を抱きしめてくれたのが、彼が見た日本の風景であり、江戸川乱歩であり、あるいは(これは意表を突かれたが)福沢諭吉だった。『学問のすゝめ』は何回読んだからわからないほどに読んだそうだ。「ぼくにはリアルな世界で自分を救ってくれるような人がいなかったけど、想像的な世界や本に、ぼくは背中を押してもらった気がしたんです」

ぼくのなかでこの冥丁というプロジェクトに関して、イメージを作ってきた部分があって、だからその雰囲気に合わない曲はボツにしていったんです。『古風』に入れるときは重たい曲とか、理解されないかもしれない曲とかは省いていった。だから『古風III』には、選ばれなかった曲のなかで、いまでも自分が好きな曲を選んでいきました。

冥丁の音楽を聴いていると、ノスタルジアというのではなく、現代の価値観では忘れら去られたものたちの気配というか、そんなものを感じるんですよね。

藤田:世のなかは、言葉にならないものだらけじゃないかって思うことがありますね。いまでも誰もいないような場所に行くのが好きなんです。ひとりで、山のなかの道もないような奥のほうに行ってみるのが好きで、そうするとそこで感じるものって、やっぱ言葉にならない。だから音にしようって。

瀬戸内海もある意味ではマジカルな場所というか、歴史もあるし。

藤田:(海賊の)村上水軍の歴史もあります。ぼくは歴史や民俗の資料館に行くのも好きで、気持ちが落ち着くんですよね。そこで見たものと現実の瀬戸内海の空気感を重ねてみたり、だから、その言葉にならない感覚を音にして出そうと思ていますね。

 彼の音楽を聴いていると、ときにリュミエール兄弟の「シネマトグラフ」をサウンドに変換したかのような、つまりコマ数の粗い映像を見ているような錯覚を覚えるが、それら楽曲は必ずしもひとつのスタイルに固執して作られたものではない。まずは彼が表現したい、言葉にならない感覚的なものやアトモスフィアがあって、さてそれをどう表現するのかという手法的なことは後からついてくるのだ。それがゆえに彼の音楽はイーノの『On Land』めいたダーク・アンビエントからJディラ風のビート、コラージュめいた実験作からメランコリックなエレクトロニカ、亡霊たちのホーントロジーなど、さまざまなスタイル/表情を見せている。

最後に『古風III』について質問させてください。

藤田:これも、『ll』と同じように、最初の『古風』を作ったころに作った曲がたくさん入っています。だいたい1曲を目指すと、その過程で10曲くらい作っているんで。あと、2年前に作った曲もあるし、最後に入っている“廣島”という曲がそうなんですけど。

“廣島”は『古風III』のクライマックスと言える曲ですが、2年前の曲だったんですね。

藤田:そうなんですよね。“廣島”と“惣明”が2年前の曲です。

『古風III』は、これまでの作品のなかでもっとも実験的で、エッジが効いているじゃないですか。だから、ぼくはあらためて作ったものだとばかり思っていました。しかもいままでの作品のなかでもっともエキゾティシズムを売りにしていない。近年、ちょっとそれは流行っていますからね。

藤田:そう言ってもらえるのは嬉しいです。というのは、ぼくのなかでこの冥丁というプロジェクトに関して、イメージを作ってきたところがあって、だからその雰囲気に合わない曲はボツにしていったんです。『古風』に入れるときに重たい曲とか、理解されないかもしれないと思った曲は省いていった。だから『古風III』には、選ばれなかった曲のなかで、いまでも自分が好きな曲を選んでいます。というか、最後にそうした曲を出すことになるとは、まったく思いもしなかったです。

これは、なにかの節目というか?

藤田:ぼく広島に帰って、もう7年も経つんですね。曲を作っているときは良いんですが、そうじゃないときに広島にいることに飽きているところもあるんです。そもそも、京都で精神的に不調になって戻らざるを得なかったから広島にいるだけだったし。ぼくは都会が嫌いなわけじゃない。むしろ好きなんです。

それはわかります。なにせ、(モダニストたる)江戸川乱歩だもんね(笑)。たしかに、冥丁の音楽も自然の描写ではなく、「池」であったり、「万華鏡」であったり、人工物だったりするし。

藤田:そうなんです。だいたいぼくが好きな広島は、線路の焦げた茶色く錆びた鉄だったり、昭和や大正の雰囲気がまだ残っている建物だったりで、(手つかずの綺麗な)自然ではないんです。だからもういちど都会に住むのもいいかもなと思っています。

それもあって、今回でその広島時代の終止符というか、“廣島”もあると。

藤田:でもあれは、最初は“赤とんぼ”という曲名だったんです。ぼくにとって広島に感じる郷愁に赤とんぼがあって……、しかしそれでは副題に「広島への郷愁」がないと意味がわからない。だったらずばり“廣島”にようと。

なぜ“広島”でなく“廣島”なんですか?

藤田:やっぱ戦前の雰囲気を出したいというのがひとつと、広島の道路走っているデコトラの人たちがみんなそっちの「廣島」と描いているんです。あ、ぼく個人はデコトラが好きなわけじゃないんですけど(笑)。

あ、でもそれ、いい話ですね(笑)。デコトラの「廣島」。ぼくと編集部の小林は、戦前表現の「廣島」にしたというのは、今回は“平和”という曲も入っているので、現在カザで起きていることへのメッセージが含まれているんだろうなと推測したんですが。だいたい「広島」は、国際舞台のこと音楽シーンに関して言えば、有名な都市名です。広島と長崎は、ポストパンク時代の曲名にもなっているし。

藤田:(広島の)平和記念資料館のサイトで見られますけど、いろんなアーカイヴ映像がありますよね。それを見ながら、この映像にはこの音楽だろうなと想像したりして、それでサウンドを作っているところもありますね。こないだの10月、台湾に行ったんですけど、空港で広島行きの帰りの飛行機の表示を見たら、「廣島」になっていました。じっさい、台北という街はロスト・ジャパニーズ・ムードなところで、いまの日本にはない日本がこの街にはあるなって思っていたんです。ぼくなんかが、ちょっとグッときてしまうような。

ああ、それはわかります。歴史と現在が交差する感覚ですね。ところで、海外ツアーはこれまで何回行ってるんですか?

藤田:最近は、台北とシンガポールに行きました。ヨーロッパはフェス含めたら2回行ってますね。

最初に行ったのは?

藤田:バルセロナのミューテック・フェスティヴァルでしたね。2020年のことです。ちょうどコロナがはじまろうとした頃です。ぎりぎりでした。

ひとりで?

藤田:はい。ひとりで、初めての海外のライヴがスペインで。

しかもフェスティヴァルだし。

藤田:もう、緊張しましたね。でも、ミューテックの人たちがすごくちゃんとしていて、空港には高級車で迎えに来てくれたので(笑)。

(笑)しかし、スペインでライヴがあっても、すぐコロナで外に出られない状況になってしまったと?

藤田:次が2年後の2022年ですからね。ヨーロッパ・ツアーで、パリとベルリン以外はだいたい行きました。アイスランドにも行ったし、アイルランドも行ったし、アイスランドはフェネスといっしょでした(編註:今回、提供してもらった写真はアイスランドで撮影したもの)。ほかにスコットランドも、アムステルダムもベルギーもロンドンも……。アイルランドはダブリンだったんですけど、なぜかすごく受けたんですよ。

へー、なんか良いですねぇ。

藤田:アイルランドはフェスだったんですけど、ほかに出演していたのがOPNとかで。OPNは好きだったんで、廊下で彼と会ったときは嬉しかったですね。ちゃんと挨拶して(笑)。あとね、マンチェスターも良かったんですよ。あそこは熱かったです、音楽カルチャーそのものが……もう熱い。ロンドンはジャズ・カフェで、アナ・ロクサーヌといっしょでしたね。

共演した人で、とくに印象に残っているのは誰ですか?

藤田:ロレイン・ジェイムスですかね。ミューテックでいっしょの会場だったんですけど、格好いいと思いました。それから2年後に行ったヨーロッパは、だいたい会う人会う人、みんないい人たちで、楽しかったです。すごいなと思ったのは、どの会場も音が完璧なんですよ。エンジニアの人のスキルがすごい。たとえばロンドンのジャズ・カフェでやったっときは、飛行機が遅れたので、会場に到着したのがもう、開演の10分前とかだったんです(笑)。だから、リハーサルなしのぶっつけ本番。それでも音が完璧でした。『古風』のセットは、けっこう難しいんですけどね。

それはすごいですね。ヨーロッパは、エレクトロニック・ミュージックの社会的地位も芸術的な評価も人気も、日本よりもぜんぜん高いですからね。

藤田:あと、ぼくのリスナーも、ぼくがいっしょに仕事をしている人たちも若いんですよ。『怪談』を出したシンガポールのレーベルの人たちは20歳くらいだったし、ロンドンの〈Métron〉も20代の人たちがやっていたし、ぼくはもう30代だったけれど、まわりが若い。

 そして彼は最後に、この取材で何度も使っている言葉を繰り返した。「ぼくはずっとひとりでやっていて、どこかのシーンに属していたわけじゃなかった。だから、小さなシーンのなかで誰かに聴かせていたわけでもないし、自分の音楽がどんな風に聴かれるのか、まったくわかっていなかったんです。それが、出してみたら、自分がまったく接していなかった人たちがこんな風にいろいろ聴いてくれて、なんか、面白いですよね」
 おそらくは、ほとんどの海外のリスナーには日本が「怪談」の国であるという歴史どころか、「冥丁」という名前のニュアンス(すなわち冥界の使者)もわからないわけで、そうなるとほとんどサウンドのみを頼りに藤田大輔の世界を楽しんでいることになる。だが、これは重要なことだ。自国の文化を素朴に愛することが、ナショナリズムや排外的意識との暗い共鳴関係にあるとは限らないし、そもそも藤田大輔がやっている音楽はこのうえなくコスモポリタンで、いとも簡単に国境を越えることが可能なエレクトロニック・ミュージックだ。
 それにしても、アメリカやイギリスのとくにフォーク/ロック音楽には自国の歴史や愛すべき記憶を題材としたものが多いのに対して、日本にそれがないのは、懐かしむべき過去などないと未来に集中するアフロ・フューチャリズムとは別の理由の、中途半端に西欧化された内面、そして良くも悪くも、過去を思い出せるものならさっさと捨ててしまえという感情を潜在的に持っているからなのだろうか。ことにフォークからロック、テクノにいたるまで(たとえそれが異教徒的なるものだとしても)古物商的情熱に溢れているイギリスの音楽を聴いていると、我に返ったときにそうしたもやもやとした思いを抱いてしまうことがある。
 ぼくは冥丁の、セピア色のエレクトロニカを聴きながら、いまからおよそ40年前のゲルニカおよび戸川純、細野晴臣、坂田明、土取利行、あるいはボアダムスの一部の楽曲のことを思い出していた。これらの楽曲のなかにも、日本において、巨大な何者かに奪われた無垢なる記憶を奪い返そうとするかのような、冥丁とも通じる過去と未来のハイブリッドがあったように思う。冥丁の音楽は、いまの日本の奇妙な風景を捉えつつも、昔の日本とのタイムトラベルの入口でもある。
 「奇妙な」に相当する英語の「weird」は、その語源を辿っていけば「wind」があり、「weird」は、1960年代に、自国のなかに理想郷を作ろうと夢想したヒッピー世代が、正当性に対する他者性を肯定するニュアンスとして使った言葉でもある。グリール・マーカスはアパラチア山脈にこだまする伝承音楽と接続したザ・バンドとボブ・ディランから見えるミステリアスな過去を「weird America」と形容し、今日でもその呼称は、基本的には自国のフォークロア(すなわち歌)に根ざした音楽を指している。いまのところ冥丁の楽曲にフォークロアはないし、その基盤は欧米からの影響を元に発展させたものではあるが、彼の音の蜃気楼は、日本の風景や記憶がなければ成立しないこともたしかだ。
 かつて明治政府は浮世絵を、それがゴッホをはじめとする西欧の芸術に影響を与えていたことを知らず、低俗な文化として、すなわち「weird」な日本を処分した。冥丁の音楽は、海外ファッション・ブランド店が建ち並ぶ渋谷/原宿が周縁化した日本や、政府が支援しているcool Japanでもない、もうひとつの日本、weird Japanを発掘し、上書き、改良する。誰かがやるべきことだったし、それを彼がやったのだ。

『古風』完結篇 Tour 〜瑪瑙〜

2/23(金・祝)豊田・VINCENT
2/24(土)大阪 ・CIRCUS
2/25(日)和歌山・あしべ屋妹背別荘
3/3(日)岡山・玉野 東山ビル
3/9(土)前橋・臨江閣
3/16(土)札幌・PROVO
3/22(金)熊本・tsukimi
3/23(土)福岡・UNION SODA
3/24(日)別府(会場:TBA)
※東京公演ももちろん開催します!日程は年明けに発表予定。
冥丁の体調不良のためツアーの開催延期をさせて頂くことになりました。本人の体調が回復次第、新たな日程を発表させていただきます。[2024年1月11日追記]

Massive Attack, Fontaines D.C., and Young Fathers - ele-king

 マッシヴ・アタック、フォンテインズDCヤング・ファーザーズが限定盤ヴァイナルを制作すべく一致団結している。3組の曲が収録されるそのEPは「Ceasefire(停戦)」と題されており、ガザおよびヨルダン川西岸で活動している国境なき医師団を支援するための資金を稼ぐ目的でリリースされる。スリーヴ・デザインは3D、ジャケ裏には国境なき医師団の医師 Mahmoud Abu Nujaila のメッセージがあしらわれる。発売は来年3月1日、すべての収益は同団に寄付されるとのことで、総額15万ポンド(2,700万円強)が見込まれている。現在、バンドキャンプから予約が可能です。

https://fontainesdc-massiveattack-youngfathers.bandcamp.com/album/ceasefire

 以下、3Dからのメッセージ。

病院や学校が爆撃され塵と化し、言いあらわせないほど膨大な数の無実の市民やジャーナリスト、医師たちが殺され、10週間以上にわたるひどい政治的失敗によりガザの惨状は毎時悪化の一途をたどりつづけています。わたしたちは、ガザの無実の市民を救うべく前線で命を危険にさらしている国境なき医師団の医療従事者たちに畏敬の念を抱いています。「停戦EP」は彼ら自身と、彼らがほんとうに筆舌に尽くしがたい状況のなかでつづけている信じがたいほどすばらしい仕事へのトリビュートです。わたしたちはパレスティナの人民と連帯します。

マヒトゥ・ザ・ピーポー×下津光史 - ele-king

 GEZANのマヒトゥ・ザ・ピーポーと踊ってばかりの国の下津光史によるコラボレーション・シングルがリリースされている。題して「WISH」。クリスマス・ソングとのことだが、イスラエル軍の侵攻により被害を受けたガザ地区の、子どもたちやその家族への支援を目的としたものだという。寄付金を受けつけており、経費を除いた全額が送金される予定。詳しくは下記より。

Moritz von Oswald - ele-king

 ニュー・アルバム『Silencio』を完成させたばかりの、ベルリン・ミニマルの巨匠で、ダブ・テクノの創始者のひとり、モーリッツ・フォン・オズワルド、近年では、ローレル・ヘイロー、トニー・アレン、ホアン・アトキンスらとの共同作業も記憶に新しい、エレクトロニック・ミュージックの第一人者が年明けの2月、久しぶりに来日する。これは見逃せないです。

MORITZ VON OSWALD JAPAN TOUR 2024

2024.2.16 FRIDAY @ 京都 CLUB METRO
Platform × Moritz Von Oswald
Guest: MORITZ VON OSWALD - Hybrid Set (DJ / Live)
DJ: AOKI takamasa, KAZUMA
VJ: CRACKWORKS
Open / Start 23:00
¥3,500 (Early Bird) ★5日間限定!枚数限定!★受付期間:12/22(金)18:00 ~ 12/26(火)23:59 迄
¥4,000 (Advance), ¥4,500 (at Door)
Total Information: https://www.metro.ne.jp/schedule/240216/

【Ticket Outlets】 e+, ZAIKO *12.27 on SALE!!
*別途1ドリンクが必要となります。
*早割チケットお申し込み方法:メール件名に「2/16 Moritz Von Oswald 早割希望」と記載いただき、お名前と枚数を明記して、METRO(ticket@metro.ne.jp)までメールをお送りください。

2024.2.17 SATURDAY @ 東京 VENT
MORITZ VON OSWALD - Hybrid Set (DJ / Live)
More Acts to be announced…
Open / Start 23:00
¥3,000 (Advance / Limited / Priority Admission), ¥2,500 (at Door / Before 0AM), ¥3,500 (at Door / SNS Discount), ¥4,500 (at Door)
Total Information: http://vent-tokyo.net

【Ticket Outlets】 https://t.livepocket.jp/e/vent_20240217
*VENTでは20歳未満の方や写真付身分証明書をお持ちでない方のご入場はお断りさせて頂いております。ご来場の際は必ず写真付身分証明書をお持ち下さいます様お願い致します。尚、サンダル類でのご入場はお断りさせていただきます。予めご了承下さい。
*Must be 20 or over with photo ID to enter. Also, sandals are not accepted in any case. Thank you for your cooperation.

【FB / RAイベント参加, IGいいね】でディスカウント実施中!
参加ボタンでディスカウントゲスト登録完了です。
*当日エントランスにて参加画面をご提示ください。
*前売り券をお持ちのお客様からの優先入場となります。


MORITZ VON OSWALD (BASIC CHANNEL, RHYTM & SOUND - DE)

80年代末のテクノ・シーン黎明期から現在に至るまで、モーリッツ・フォン・オズワルドは最も重要なプロデューサー/アーティストの一人として、エレクトロニック・ミュージック・シーンの中枢で様々なスタイルの作品を発表し続けているリヴィング・レジェンドである。80年代には伝説のニュー・ウェーヴ・バンド、パレ・シャンブルグのパーカッショニストとしてトーマス・フェルマン(The Orb)等と活動。90年代から完全にエレクトロニック・ミュージックへと移行、3MB(トーマス・フェルマンとのユニット)では、デトロイト・テクノのオリジネーター、ホアン・アトキンス、エディー・フォールクス、ブレイク・バクスターなどと共同作品を発表している。その後、ミニマル・テクノの礎を築くプロジェクト、ベーシック・チャンネルをマーク・エルネスタスとスタートさせる。同じフレーズが執拗に繰り返される奇怪なミニマル・サウンドは、当時のテクノ・シーンに大きな衝撃を与える。ベルリン/デトロイトの架け橋としてミニマル・テクノは、ロバート・フッド、ジェフ・ミルズ、URのような代表的アーティストによって更に進化していった。ベーシック・チャンネルが経営に携わったハード・ワックス(レコード店)と同様に、当時のベルリンを代表したクラブ、Tresorとそのレーベルの周辺を含む、まさにテクノ・シーンの中心として世界的に知られることになった。12枚の傑作を発表したBasic Channelは、複数のプロジェクト/レーベル(Chain Reaction、Main Street、Burial Mix、Rhythm & Sound)へと派生/移行した。モーリッツ・フォン・オズワルドの果敢な実験精神は、ニュー・ウェイヴ時代から現在まで脈々と息づいている。また、伝説的なDubplates & Masteringのマスタリングそしてカッティング・エンジニアとして、シーン全体にその絶大な影響を色濃く残している。2008年、カール・クレイグとの共作として1987年に録音されたカラヤン指揮のベルリン・フィルによる音源、ラベルの「ボレロ」と「スペイン狂想曲」やムソルグスキーの「展覧会の絵」などをエディット/リ・プロダクションを施したアルバムを発表する。2013年には、ホアン・アトキンスとの共作アルバム『Borderland』とノルウェーのジャズ・トランペッター、ニルス・ピーター・モルヴェルとの共作『1/1』を発表。2008年からスタートした自らの名を冠したモーリッツ・フォン・オズワルド・トリオは、ヴラディスラヴ・ディレイ(Luomo)の離脱を経て、2015年には結成当初から活動を共にするマックス・ロダーバウアー (ex. Sun Electric) に加えてフェラ・クティのドラマー、アフロ・ビートの始祖であるトニー・アレンを迎えて『Sounding Lines』を発表。2016年、ホアン・アトキンスとのプロジェクトBorderlandの二作目となるアルバム『Transport』、2021年にはモーリッツ・フォン・オズワルド・トリオを更に刷新、当代きっての才媛ローレル・ヘイローとジャズ・ドラマーのハインリッヒ・ケベルリングを配して『DISSENT』とそのリミックス・アルバムを翌年リリースしている。そして2023年11月、ベルリン・テクノ・シーンの礎を築いた老舗・名門レーベルTresorより初の本人名義アルバム『Silensio』をリリース。ヤニス・クセナキス、エドガルド・ヴァレーズ、ジェルジ・リゲティといった現代音楽家からインスピレーションを受けて、ヴォーカルコンソート・ベルリンの協力を得て、古典的なシンセサイザーを駆使して光と闇が交錯する幻想的な不協和音が往来ずるポスト・エレクトロニカ、アンビエント作品へと昇華させている。本国ドイツはもとより全世界のテクノ〜エレクトロニック・ミュージック・プロデューサー及びファンからリスペクトされる偉大な音楽家モーリッツ・フォン・オズワルドから未だに目が離せない。

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