はい、彼女たちこそまさに"ウィッチ"系。アルバムの黒いケースのなかにはタロットカードまで入っている。なるほど、たしかにおっしゃるとおり。
"ウィッチ"とは、そう、先日みんなで"ビッチ"について話していたら出てきたキーワードで、スクール・オブ・セヴン・ベルズはポップにおけるその代表格だと言えよう。アンダーグラウンドでは、以前レヴューしたフューネラル・フォークの妖星、シルヴェスター・アンファングがまさにそれだ。まあ、考えてみればビョークの『メダラ』もジョアンナ・ニューサムの『ハヴ・ワン・オン・ミー』も魔女的だっと言えなくもない。ヒップホップ/R&Bの"ビッチ"が幅を利かせるそのかたわらで、いつの間にか"ウィッチ"はやって来たのだ。
伝説的な南米のスリ養成学校の名前をバンド名にしたスクール・オブ・セヴン・ベルズは、コクトー・ツインズとケヴィン・シールズのほうを向きながら、潔癖性的なエレクトロニカに片足を突っ込んでいる。シークレット・マシンのドラマーだったベンジャミン・カーティスとオン!エアー!ライブラリーのクラウディア&アレヤンドラの双子姉妹を中心に、2007年のニューヨークで誕生したこのバンドは、その年〈ワープ〉からリリースされたプレフューズ73のシングル「ザ・クラス・オブ・73ベルズ」にフィーチャーされたことで注目を集めているが、それはまるで......イースター島のモスラを目覚めさせるために歌うザ・ピーナッツのIDMヴァージョンだった!
タロットカードが入った本作『ディスコネクト・フロム・デザイアー』は彼女たちのセカンド・アルバムで、ポップ・メロディへの挑戦作となっている。シューゲイズとエレクトロニカの撹拌は、水晶の上を軽やかに滑り、そして妖しい光を放ちながらエレガントに展開する。いまこそ魔女の時代、そう言わんばかりの迫力だ。シングル・カットされた1曲目の"ウィズダム"はキュートなポップ・ソングで、彼女たちは歌のなかで暴風や炎を夢想する。10曲目の"ザ・ウェイト"はエレクトロニカをバックに展開する優美なバラードだが、彼女たちは現実感の喪失をきまぐれな絶望感とともに歌う。収録曲のいくつかにはチルウェイヴとも共通するディスコ・ビートがあり、それもまた『ディスコネクト・フロム・デザイアー』を特徴づけている。
魔女の時代は実は、1980年代にもあった。ザ・スリッツやザ・レインコーツのようなポスト・パンクの男女同権主義の熱が下がるのを待っていたかのように、黒い服を着た彼女たちはやって来た。僕のまわりにも多くの魔女がいたし、夜となく昼となくタロット占いをされたものだった......が、初めて心を揺さぶられたのはティム・バートンの『ビートル・ジュース』に登場する若きウィノナ・ライダーだった。
「K A R Y Y Nã€ã¨ä¸€è‡´ã™ã‚‹ã‚‚ã®
自分が生まれた頃のL.A.が舞台になっていると記してあったので、それだけの理由で映画『シングルマン』の試写会に行き、帰りがけに買った小説『俺俺』(新潮社)の作者紹介を見ていたら「1965年ロサンゼルス生まれ」とあり、それを読みながら聴いていたCDが偶然にもハイ・ウルフの日本独自編集盤『シャングリ L.A.』だった。ライナーでは『シャングリ・ラ』となっていたけれど、末尾の「A」が大文字になっているので、見た感じは「シャングリ・ラ」でも、発音的には『シャングリ・エル・エー』と読ませるのが正しいのではないだろうか。いまやマリファナを合法化し、それを税収に当てるという法案が検討されているほど財政が破綻したL.A.を「シャングリ・ラ」(*キャンディ・クローズ『ヒドゥン・ランズ』のレヴューを参照)とダブらせるなんて、よほどアメリカが嫌いなミュージシャンなんだろうと思っていたら「マイ・スペースのプロフィールではブラジルのアマゾニア奥地で生活していると書いてあるが、一説によるとフラン在住らしい」と記してあった。さも、ありなん。ちなみに『シングルマン』は途中までは『ベニスに死す』のリメイク風で、星野智幸『俺俺』は、結論以外は中原昌也が花沢健吾『アイ・アム・ア・ヒーロー』をノヴェライズしたような小説だった(途中までは若い人が書いているのかと思うほど絶望的な小説だったので、思わず作者紹介を見たわけですね)。
「奇怪な覆面アーティスト」ということになっているハイ・ウルフことマキシム・プリモールトは、実はアストラル・ソシアル・クラブのニール・キャンベルとも別プロジェクトを展開するなど例によって多面的なミュージシャンであり、アンファ・ボレアルの名義でも数え切れないリリースがあるものの、煩雑になるのでここでは割愛。ハイ・ウルフとしては〈ノット・ノット・ファン〉(以下、NNF)から『アニマル・トーテム』で09年にカセット・デビュー、続いて『エッセンシャル・エレメンツ』やセルフ・レーベル(wingedsun.blogspot.com)から同じくカセットで『ガボン』やほかに2枚のRをリリースした後、NNFに戻って『アセンジョン』でこの夏にアナログ・デビューを果たしている。
『シャングリ L.A.』は『ガボン』をエディットし直したり、新曲を加えたものを日本で独自に編集したもので、なるほど「シャングリ・ラ」とひっかけたくなるような天国的なアンビエント・ドローンが次から次へと並ぶ。その理由のひとつとしてトライバル・リズムが使われていることがまずは挙げられる。いわゆる都会的なドローンの大半は荒廃したムードになりやすく、サン O)))でもナジャでも切羽詰ったような緊張感が基本になっているところをハイ・ウルフはあえてトロピカルなイメージを前面に出し、そのメッセージも「アマゾンからアフリカを見つめている。アマゾンとアフリカのジャングルに違いはない。我々は同じなのだ」ということになるらしい。ヒプノティックなループ・サウンドや美しいシンセサイザーが印象的な「バマー・オブ・ビューティー」などストレートに快楽的な面と、2部作からなる『ザ・シーパーズ』ではジャングルの魔境的なイメージも表現。ギターの音色はどこかスティーヴ・ヒレッジを思わせる。
正式デビューといえる『アセンジョン』は『シャングリ L.A.』と較べていささか屈託があり、「上昇」というタイトルの意(「the」がつくとキリストの昇天の意になる)を裏切ることはないけれど、そのプロセスはそれなりの葛藤も含みつつ、トリップ・ミュージックとしては少し凝ったものになっている(この2作の変化は最近ではエメラルズのそれを思わせる)。ゆっくりと左右に揺さぶられるような"ディエゴ"、ゆっくりとしか上に向かって進めない"クラウド・ヘッド"、12分を越す"ファイアー・イン・マイ・ボンズ"では上昇しているのかどうかももはやよくわからない......。音楽的には少し手の込んだものになったのかもしれないけれど、イメージ的には突き抜けないこともたしかなので『アセンジョン』の最後から『シャングリ L.A.』のオープニングまで逆に聴いていくのがいいのではないかと。そのほうが話がL.A.でまとまるし。
ネット上で他人になりすましたり、他人のプライバシーに立ち入る、デマを流す、ネット詐欺といったIT技術の誤った使い方も氾濫している。思うに、社会の成熟が科学技術の進展の速さに追いつくことはないだろうから、こういったモラルの問題はどんどんおこるだろう。
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シェラード・イングラム、またの名前をDJスティングレー、より多くの音楽ファンのあいだではアーバン・トライブの名で知られる男......それはホアン・アトキンスからはじまるもうひとつのデトロイト・テクノである。それは地上を呪ったドレクシアであり、アメリカを"ファシスト・ステイト"と定義したドップラーエフェクトであり、そして"モダン文化の崩壊"をデビュー・アルバムのタイトルにしたアーバン・トライブ、すなわちオリジナル・ドレクシアの3人のメンバーであり、そのうちのひとりがシェラード・イングラムというわけだ。
ドレクシアの死後、つまりゼロ年代以降、これら"もうひとつのデトロイト・テクノ"は、主にUKの〈リフレックス〉、ベルリンの〈トレゾア〉、ミュンヘンの〈インターナショナル・ディージェイ・ジゴロ〉、あるいはオランダの〈クローン〉によってプロモートされている。〈リフレックス〉はドレクシアの変名トランスリュージョンやアーバン・トライブ、〈ジゴロ〉はドップラーエフェトやジャパニーズ・テレコム、〈トレゾア〉はドレクシアとその変名のシフテット・フェイシズ、〈クローン〉はジ・アザー・ピープル・プレイス、ラブ・ラットXLなどといったドレクシアの変名......を出している。これらデトロイト・テクノにおける奇妙なダーク・エレクトロはヨーロッパにおいてそれなりの高い評価と人気があったのである。
シェラード・イングラムによるアーバン・トライブは、1998年に〈モワックス〉から最初のアルバムを発表している。それから〈リフレックス〉で2枚のアルバムを残し、2010年の夏には4枚目のアルバム『アーバン・トライブ』を〈マホガニー・ミュージック〉から発表している。
そしてこの9月、デトロイトとヨーロッパでのみ知られているアーバン・トライブとしてのライヴPA、そしてDJスティングレーのプレイ(筆者の知る限りでは、より深いアンダーグラウンドなフィーリングを持っている)がようやく日本で聴けるわけだ。以下、来日を控えたシェラード・イングラムへのメール・インタヴューである。
■あなたが1998年に〈モワックス〉から発表したアルバム・タイトルが『The Collapse Of Modern Culture(モダン文化の崩壊)』でした。それから10年以上経った現在、あなたは"collapse"をどのように捉えていますか?
シェラード:資源の奪い合いや文化や宗教の違いによる衝突といったことは昔からあることだけど、最近の科学技術の急速な進歩は社会的・経済的な不確実性を世界規模でもたらしたと、多かれ少なかれ言えるのではないかと思っている。科学技術というのもは両刃の剣のようなものだ。30億塩基からなるヒトゲノムが解読されということは、何千年も人類を苦しめてきた疾患の治療にたしかにつながる。が、しかし、その新しい治療法は誰でもすぐにうけられるわけではないし、お金もかかるし、実際に臨床でつかうにはいろいろと技術的な整備も必要であるし、なによりも人体で(実際に効くかどうか)実験しなければならないという問題もまた生じる。また、いわゆるIT革命は、インターネットがないような地域は除いて、いろいろな人たちと情報を共有したり交流したりするのを可能にした。が、そのいっぽうで、ネット上で他人になりすましたり、他人のプライバシーに立ち入る、デマを流す、ネット詐欺といったIT技術の誤った使い方も氾濫している。思うに、社会の成熟が科学技術の進展の速さに追いつくことはないだろうから、こういったモラルの問題はどんどんおこるだろう。
■当時、あなたは何故、どういう理由からあの言葉をアルバム・タイトルにしたんですか?
シェラード:当時の世界や1990年代初期、中期の出来事を自分の視点から見たものに基づいている。都会のスプロール現象、政治的動揺、犯罪率の上昇、モラルの欠如や欲深さが世界の生命体を消耗していると思っていた。
[[SplitPage]]ミスター・オバマの選出は国の選挙や社会構成の信頼性を再生したと思うが、直面する国家の急務のために、一般的には都市の大きな変化に影響を与える充分な時間はなかった。人はみんなもう少し辛抱して、過程を見守るべきだと思う。
■オバマ大統領になって時間が経ちますが、デトロイトに変化がありましたか?
シェラード:アメリカ国民のある階層の人たちのあいだには、ミスター・オバマの選出は活気のある影響力があり、国の選挙や社会構成の信頼性を再生したと思う。これはデトロイトにも同じく広がった。正直にいうと、直面する国家の急務のために、一般的には都市の大きな変化に影響を与える充分な時間はなかった。人はみんなもう少し辛抱して、過程を見守るべきだと思う。
■あなたの名前を最初に知ったのは、〈レトロアクティヴ〉のコンピレーションに収録された"Covert Action"でしたが、あなたにとって公式に発表された最初の作品は何ですか? NASA名義で1987年に出した「Time To Party」?
シェラード:ははは! そうだ! 「Time To Party」は私の最初のレコードで、〈Express Records〉からリリースされた。
■ホアン・アトキンスとはどういう風に知り合ったんですか? 彼があなたの音楽活動のきっかけだったんですか?
シェラード:ホアンとは私が〈Buy Rite Records〉(ケニー・ディクソン・ジュニアもリック・ウィルハイトも働いていたことがある)で働いていたときに出会った。我々(リック・ウィルハイト、スキャン7、ドネル・ウィリアムス)はホアンのスタジオでレコーディングをし、ホアンがミックスをした。
■あの当時のあなたはどんな風に生活をしていたのですか? 音楽活動はしていたんですか?
シェラード:「Covert Action」は1990年に〈レトロスペクティヴ〉(カール・クレイグとデイモン・ブッカーのレーベル)からりリースされた、1990-1998年のあいだは〈MASS〉というデトロイト・ベースのレーベルから12インチを1枚出したり、レーベル〈KDJ〉の1枚の12インチ(Emotional Content。KDJ002とミスプリントされているが実は001)のミックスをやった。またNFDというプロジェクトの1曲をミックスした。バイカーズ・クラブみたいなところでDJもやってたよ。
■DJスティングレーとしての活動が最初だったんですか? また、どのようにドレクシアと関わりを持ったのでしょうか?
シェラード:ジェームズ・スティンソンとジェネラル・ドナルド(ドップラーエフェクトほか)とは〈Buy Rite Records〉で出会った......。
■1998年の『The Collapse Of Modern Culture』から2006年の『Authorized Clinical Trials』までのおよそ8年間は何をしていたんでしょうか?
シェラード:音楽は続けてずっとやっていたが、無意味なプロジェクトに巻き込まれて、くだらない問題で気が動転してたんだ。いまはもう克服したけどね。
■Mystic Tribe A.I名義では〈クローン〉レーベルからの1枚だけですか?
シェラード:そうだよ。ジェームズ(ドレクシア)とサージ(〈クローン〉の主宰者)のおかげだ。あの曲は『Collapse~』LPに収録されるはずだったんだが、外れて、ジェームズに聴かせると彼が気に入ってくれてね......。
■音楽シーンから身を引こうと考えたことはありますか?
シェラード:その日が来るのは我々アーティストの情熱が無くなってしまったときだと思う。自分にはまだまだ提供したいモノがあるし、みんなに聞いてもらいたいモノがある。
■当時、いきなり〈リフレックス〉からあなたの作品が出たときはびっくりしたものでしたが、〈リフレックス〉とはどうやって出会ったんですか?
シェラード:〈リフレックス〉のグラントとは〈ワープ〉の「Magic Bus Tour」にDJスティングレーとして参加したときに出会った。そして忘れてしまったが、どこかの空港で彼と会ったときいろいろと話し込んで、その2年後コネクトしたわけだ。
■2006年に〈リフレックス〉から『Authorized Clinical Trials』を発表し、続いて翌年の2007年にもサード・アルバム『Acceptable Side Effects』を出しています。12インチ・シングルも〈リフレックス〉や〈プラネット・E〉、そして昨年は〈トラスト〉から出しています。今年に入ってからも〈プラネット・E〉からシングルを切っていますね。なぜ最近になってから堰を切ったようにリリースが続いているのでしょうか? 過去の20年よりも、ここ数年になって、あなたはますます熱心に音楽活動をしているように見えるのですが。
シェラード:気持ちが変わって、ネガティヴなところがなくなったんだと言っておこうか。またラップトップとAOLのアカウントも取得したしね! 機材もアップロードしてもっといろいろと表現できるようになったし、他の人やスタジオに頼ることなく、もっと時間をかけて、プロジェクトを完成できるようになった。
[[SplitPage]]デトロイトの人たちは逆境に強く、また用心深いが、メディアの差別的な要素が違うイメージにデトロイトを塗り替え、バランスの取れた報道を正直に試すことなく、ネガティヴなことだけを引き出した。
■あなたの音楽の背景からは、ジャズやソウルなどからの影響も感じますが、やはり根底にあるのはエレクトロじゃないかと思います。ホアン・アトキンス、ドレクシア、ドップラーエフェクトといったデトロイト・エレクトロの系譜にいるんじゃないかと思うのですが、もしそうだとしたら、あなたにとってエレクトロが特別である理由はなんでしょうか?
シェラード:1980年代、1990年代当時"electro"という言葉に出会ったとき、"electro"は自分にとって他と違う何かを意味した。「自分はエレクトロのトラックを作ろう」と思ってやったわけでなく、いまのカテゴリーでは自分の音楽はそうはめこまれた。キミの言うグループや音楽ジャンルだけでなく、産業や自分の環境から結論を出している。自分自身をエレクトロのアーティストだとは思っていないし、もし自分の作品の全体像を聴いてもらえればわかってもらえると思う。けれども、自分は自由さを好むし、良いエレクトロという意味合いでの公然上のアプローチでなら大歓迎だ。個人的には4つ打ちでなく、フィルターのかかったシンセラインがあるものならなんでもエレクトロという言葉が使われているような気がするけどね。
■あなたの音楽にはダークでメランコリックな要素があります。優美さや躍動ばかりではなく、悲しみ、怒り、醜さ、汚さのようなものも表現しているように思いますが、そうしたダークサイドは純粋にデトロイトという環境から来るものなのでしょうか? あるいは、具体的に影響を受けた作品がもしあるようであればぜひ教えてください。
シェラード:デトロイトはならずものや犯罪者によって動かさせていると認識されていると思うが、それだけではないと言わせていただこう。デトロイト市民の多くは勤勉で、家族を愛しており、彼らは税金もちゃんと払って、町を愛している。政治的な立場にいる人のなかには欲深く、町を改善するための資源(富)を分配しない人もいる。"醜さ"は都市圏を作り上げたコミュニティのいち部の人たちの差別や冷酷さであって、"汚さ"は町があまりにも急速に改善されると利益が無くなり困るいち部の人たちがいるからだ。こういった事柄が自分のサウンドに衝動を与えている。犯罪で支配されていて、仕事もなく、ここに住むのを拒んでいる、みたいな典型的なありきたりの見方ではなく。デトロイトの人たちは逆境に強く、また用心深いが、メディアの差別的な要素が違うイメージにデトロイトを塗り替え、バランスの取れた報道を正直に試すことなく、ネガティヴなことだけを引き出した。
■"Low Birth"がとても好きなんですが、あれはどんな思いが込められているのでしょうか?
シェラード:ありがとう! スペルは正しくは"Low Berth"なんだけど、(注:〈モワックス〉からのシングルには"Low Birth"、アルバムには"Low Berth"とある)。社会的に不利な立場にいて、絶えて頑張ってそこから這い上がろうとする人を意味する。リスナーにインスピレーションを与えつつ哀愁の漂ったムードを沸き立たそうとした。
■もうすぐ〈マホガニー・ミュージック〉から4枚目のアルバムが出るそうですね。すべて曲名が"Program"という言葉で統一されているらしいですが、コンセプチュアルなアルバムなのでしょうか? それはどのようなコンセプトのアルバムなのでしょうか?
シェラード:このLPはリスナーに音楽に集中してもらうのが目的だ。
■いままでのどのアルバムとも違ったものになったと思うのですが、参加メンバーはカール・クレイグ、アンソニー・シェイカー、ケニー・ディクソン・ジュニア、そしてあなたの4人でいいんですか?
シェラード:私自身、アンソニー・シェイカー、ケニー・ディクソン・ジュニア、カール・クレイグ、それから何人かの新人も参加しているよ。
■素晴らしい女性ヴォーカリストも参加していますね?
シェラード:これは機密情報。悪いね。
■とても素晴らしい音楽だと思うのですが、1曲がすべて3分未満で、レコードでは片面に6曲ずつ入っています。これはどんな理由からですか?
シェラード:伝統を踏襲した分割とでも言おうか。
■ケニー・ディクソン・ジュニアとはどんなところで気が合うんですか?
シェラード:自分と同じデトロイトウェストサイド出身の長年の友だちだよ!
■来日でのライヴを楽しみにしています。どんな感じのショーになりますか? あなたの音楽のように、ハードで、ダークな演奏になるのでしょうか?
シェラード:今回は初来日なのでとてもエキサイトしているよ! 忘れられないsonic experience (音響体験)をしてもらえるのを楽しみにしているよ。
デトロイトのシーンに25年もの間関わり続けており、またデトロイトテクノ/エレクトロのカルト的存在であるDrexciyaのDJ、DJ Stingrayとしての活動歴をもつ。Urban Tribeとしても知られ、〈Mo Wax〉からリリースされた「Eastward」、アルバム『The Collapse Of Modern Culture』、また〈Retroactive〉からリリースされた「Covert Action」はUrban Tribeの代表作である。Aphex Twinのレーベル〈Rephex〉からは、よりエレクトロな作風で2枚のアルバム『Authorized Clinical Trials』と『Acceptable Side Effects』をリリースしている。2008年、自主レーベル〈Micron Audio Detroit 〉を始動。今年夏には、Anthony Shake Shakir、Carl Craig、Kenny Dixon Jr(Moodymann)が参加したUrban Tribeとしての最新アルバム『Program 1-12』を〈Mahogani Music〉からリリースしている。またその素敵なアルバムアートワークは『Wax Poetics』のアートディレクターJoshua Dunnによるもの。さらに今後は、Heinrich Mueller (aka Gerald Donald/Dopplereffekt)、Nina Kraviz (Underground Quality/Rekids)らが参加のUrban Tribeのアルバムをリリース予定とのこと。
https://www.myspace.com/djstingray313
https://www.myspace.com/micronaudio
https://planet-e.net
https://www.mahoganimusic.com
https://www.myspace.com/mahoganimusic313
DJ Stingray DJ MIX
(AT THE CAID DETROIT W/EGYPTIAN LOVER NOVEMBER 4, 2006 MEMBERS ONLY DETROIT/MICRON-AUDIO)
https://soundcloud.com/futurityworks/dj-stingray-c-a-i-d-stereotype-mix
DJ Stingray RA Podcast
https://soundcloud.com/futurityworks/dj-stingray-ra-podcast-190
石野卓球という存在をはじめて知ったのはたしか92年か93年、僕がまだ小学3~4年生の頃だ。機械をいじるのが好きだった僕は、ある日父親からラジオのタイマー録音の方法を教えてもらった。当時、自分が眠っているあいだに世のなかでは何が起こっているのか? という、子供なら誰しもいちどは考える疑問を抱えていた僕は、これ幸いと手当たり次第に深夜のラジオ放送をエアチェックしまくった。そしてある日、たまたまテープに収められていたのが『電気グルーヴのオールナイトニッポン』だった。いちぶのギャグ(風俗ネタなど)は、何を言っているのか当時の僕にはイマイチわからなかったけれども、なんだかイケナイ世界を覗き見しているようでドキドキしたし、何よりそこでかかっていた聴いたことも無い音楽の数々には瞬く間に魅了されてしまった。
この番組には毎週石野卓球がセレクトしたお薦め曲を紹介するコーナーがあって、当時バリバリの新譜だったオービタルの"ラッシュ"や、デリック・メイの"アイコン"なんかが取り上げられていた。あのオールナイトニッポンで、当時J-WAVEなどのFM局でもほとんど取り上げられていなかったアンダーグラウンドなダンス・ミュージックをガンガン流しまくっていた。ミニマル・テクノを流すときには「これはラジオの故障じゃないよ」というエクスキューズ入りだった。オールナイトニッポンというメディアなわけだから、当然聴いているのは熱心なクラバーや音楽マニアだけではない。深夜に受験勉強をしている中高生やタクシーの運転手、はたまた当時の僕のような小学生まで聴いているメジャーなメディアだ。加えてインターネット前夜である。ラジオはいまの中高生が思っている何倍も影響力があった。そこでハードフロアやらユーロマスターズやらを流しまくるというのは、当時は幼かったせいでなんとなく受け止めていたけど、相当パンクでラディカルな行為だ。石野卓球は、"シーンの種"を撒きつづけていた。
いまでこそ多くの音楽の情報はインターネット上に並列的なアーカイヴとして存在していて、関心さえあればどこに居てもアクセスすることは容易い。しかしこの頃は、海の向こうのアンダーグラウンドな音楽シーンで何が起こっているのかを知るのは、そう簡単なことではなかった。そもそも、国内にしたっていまでは考えられないくらい情報的にも、物質的にも格差があった。東京のリスナーは放送の翌日にシスコやウェイヴまでレコードを買いに行くことが出できたが、僕のように地方で聴いていた人間はなす術も無かったわけだ。当時アンダーワールドの"REZ"が取り上げられたときに、この曲がどうしても欲しくて小学生ながら街のCDショップに買いに行ったことはいまでも忘れられない。結果はもちろん、けんもほろろにあしらわれておしまいだった。ビートポートで何処に居ても品切れも無く買い物出できることがどんなに幸せなことか! 僕にとっては"今週のおすすめ曲"だけを抜き出してダビングしたカセットテープがバイブルだった。気づいたときには、この音楽から完璧に逃れられなくなっていた......。けっして悪い意味じゃなく、完全に「踊らされて」いた。
そしてそのままときは過ぎて、10数年たったいま、DJをしたり、音楽を作ったり、こんな文章を書いたりしている。僕も無数に居る"石野卓球に扇動された人間"のひとりだ。そして、世代的には僕より上の世代、つまりオールナイトを聴いて直ぐに行動を起こすことができた世代たちは、思い思いの手段で石野卓球の撒いた種を芽吹かせようとしていた。ある者はミニマル・テクノを......、またある者はトランスを......、ユーモア・センスとサンプリングという手法に感銘を受けた者はナードコアを......、ロッテルダム・テクノやユーロマスターズのサウンドに衝撃を受けた者は、現在J-COREと呼ばれているようなシーンに繋がるような活動をはじめた。石野卓球の撒いた種はもしかしたら本人の思う以上に広範囲に広がっていたのかもしれない。
その後もソロ・ワークスや〈WIRE〉のオーガナイズなどを通じて、石野卓球がテクノ・シーンの発展のために尽力したきたのはご存知の通りだ。そこにはつねに、シーンの開拓者としての意識や気概のようなものを強く感じることができた。もちろん、そういう意識はいまも持ち続けているとは思う。
しかし、前作から6年ぶりのソロ作である本作からは、いままでに無く肩の力が抜けた感じというか、リラックスしたムードが漂っている。それは本作がミニ・アルバムというフォームだからというだけではないだろう。そこには、この10数年で日本におけるテクノ・シーンがだいぶ成熟したことが関係していように思う。ベルリン発のニュ・ーハウスやミニマル的な感触のビートに、どこか『ベルリン・トラックス』の頃を思い出させる質感のパーカッションやシンセが重なる"Feb4"や、シンプルながらもオールドスクールなレイヴ感のあるシンセリフが印象的な"SpinOut"、跳ねたビートにチョップされたサックスのサンプルと「ポンポンポン、イヨォー!」というヴォイス・サンプルがエラく陽気な"Hukkle"など......、どれをとっても音から透けて見えてくるのはリラックスしてブースに立つ、シーンのなかのいちDJとしての石野卓球の姿だ。自らが種をまき、そしていまやしっかり根を張ったシーンと慈愛をもって対峙し、そして戯れているような印象も受ける。併せて感じたのが、いままでの作品と比べてもとりわけ石野卓球のドメスティックな部分、いうならば染み付いた手癖のようなものが音楽に反映されていることだ。いままではどこかに、海の向こうで起こっていることを咀嚼して伝えるという部分があったように思えるが、今作からそういうところはあまり感じられない。
この後にもアルバムの予定が控えているらしいが、それが今作のように、ある種肩の荷が下りた状態の作品になるのか? はたまた新しく何らかの道標になるような作品になるのか? 現状ではまったく予想もできないが、僕としては楽しみでならないし、身体的にも精神的にも「踊らされる準備」はできているつもりだ。
セミの鳴き声を聴いていると少年時代を思い出す。毎日のように泳ぎ、海を眺め、虫捕りや釣りに夢中になっていた日々。遊び疲れて、夕食前に布団の上でうたた寝をしては親に起こされていたあの日々である。
やけのはらのソロ・デビュー・アルバムからはセミの声が聴こえてくる。が、彼のそれは少年時代の郷愁ではない。現在進行形の夏であり、そして青春なるもののいちぶである。それは切なくも曖昧な、とらえようのない埃っぽい路上の話へとつながっていく。
やけのはらとの出会いは、4年前の夏だった。時間つぶしにたまたま入った、静岡市の中心街からはずれにある服屋に置いてあった音楽イヴェントのフライヤーの1枚を手にとって、僕は店番をしていた女性に「これ、面白そうですね」と言った。「私も行きたいんですよ~」と彼女は言った。そしてこう続けた。「やけのはらを聴きたいんです」
その音楽イヴェントには、やけのはらよりも有名な人たちの名前が並んでいた。それでも彼女は、清々しい笑顔で「やけのはらを聴きたいんです」と言ったのだ。これが僕が、やけのはらを意識するようになったきっかけだ。やけのはら......なんていう名前のMCだ。その名前は、地方都市のこんな辺鄙な場所にある服屋の店員にまで響いているのだ。
実を言えば、最初にやけのはらを教えてくれたのはブッシュマインドとSFPだった。その夏の半年前の冬、僕はSFPの最初のアルバムのためのマスタリングに付き添ってデトロイトに行った。スタジオに入って、そこで初めて"Summer Never Ends"を聴いたのだ。やけのはら......なんていう名前のMCだろう。その名前はハードコアのもっともラディカルなシーンにも届いているのだ――そのときもそう思ったものだった。
『ディス・ナイト・イズ・スティル・ヤング』は夏ではじまり、夏で終わる。甘さと苦々しさが混じったポップなラップ・アルバムで、それは初期のRCサクセションや初期のフィッシュマンズ、最近で言えばS.L.A.C.K.のデビュー・アルバムにも通じる感性を有している。つまり、社会が用意したレールの上からはぐれてしまった青春が活き活きと描かれているのである。それは『オリジナル・パイレート・マテリアル』をはじめとする、ゼロ年代以降のポップ・カルチャーでたびたび登場する小さな......しかしより親密なコミュニティの話、この厳しいご時世を生きている新世代のボヘミアンたち、やけのはらの言葉で言えば「夢も希望も砂まみれな」連中......の物語となって展開する。
磯部涼がやけのはらに取材する前に、レコード会社で担当者がPVを見せてくれた。それは江ノ島で撮影した映像で、複数の男女が屈託なく嬉しそうにはしゃいでいる。なんとも楽しそうな若者たちだ。友だちがたくさんいて、何人かの水着姿の女性や、スケボーが上手な子供までいる。「いいな~」と思う。自慢ではないが、僕の20代なんてこんな格好いいものではなかった(ま、それはおいておいて)。でもそれが、やけのはらの"俺たち"というリアリティなのだ。「俺たちが見ている景色が夢だとしたら 最高にアホらしく笑えて スリル満点の夢にしよう 一瞬のまやかしだとしても 錯覚や幻想だとしても 信じていたいと思える何かを見つけたんです この夏はきっと終わらないって なんとなくそう思った」(Summer Never Ends)
「最高にアホらしく笑えて スリル満点の夢」を共有できる"俺たち"、SFPの12インチ・シングルにそのいちぶが収録された"Summer Never Ends"は、アルバムの入口としては最高の選択だ。この短い曲には、やけのはらの得意とする甘く切ない叙情主義がよく表れている。僕の計算が正しければこれは5年前の夏に書かれた曲だ。
2曲目の"ロックとロール"は〈ローズ・レコーズ〉のコンピレーションに収録されていたキャッチーな曲で、彼のロックンロールへの想いが語られている。つまり、ラップによるロックンロール賛歌だ。続く、粗大ゴミを宝に変えようと繰り返す"SUPA RECYCLE"は消費社会への批評だが、曲調はポップで、アッパーなパーティ・チューンとなっている。この展開には、シリアスなテーマをシリアスに語らないという、やけのはらの特徴がよく出ている。
4曲目の"自己嫌悪"はやけのはらが影響をうけたキミドリのカヴァー曲だ。彼のぶっきらぼうなラップはクボタタケシからの影響だと思われるが、これもまた、お涙頂戴の歌謡ラップにも、あるいはラップの厳めしいマッチョイズムのどちらにも与しない彼のスタンスが表れている。
クライマックスはアルバム後半にある。"DAY DREAMING"から"Rollin' Rollin'"、そして七尾旅人がリード・ヴォーカルを務めるR&Bソングの"I REMEMBER SUMMER DAYS"にかけてがそうだ。"DAY DREAMING"はブッシュマインドの『ブライト・イン・タウン』(2007年)に収録され、〈セミニシュケイ〉からもシングル・カットされている曲だが、アルバムではよりメランコリックな曲調に変換されている。これもまた"Summer Never Ends"と同様、やけのはらの叙情主義が貫かれた曲で、日本のハードコア・シーンとそのアンダーグラウンドなフリー・パーティへの深い思いが綴られている。そして"Summer Never Ends"に続く"Rollin' Rollin'"のジャジーなヴァージョンがまた良いのだ。それはPPPクルーとも共通するあか抜けたアーバン・ソウル・サウンドで、オリジナルとは違った魅力を放っている。もちろん七尾旅人の甘い歌がこのアルバムに親しみやすさを与えていることは言うまでもない。だが、それにも増して興味深いのは、やけのはらが、アルバムにおいてある種のあか抜け方、つまりファッショナブルな響きを強調している点だ。青春音楽とはスマートでなければいけないとでも言いたげなまでに、やけのはらは洗練されたR&Bスタイルを注入している。一瞬......、まあほんの一瞬だが、シュガーベイブ流のシティ・ポップスかと錯覚するかもしれない、が、しかしやけのはらの抑揚のない声とぎこちなさが奇妙な軋みを発している。その微妙なズレが彼の音楽の味なのだ。
そして......アルバムからセミの声が聞こえると、最後の曲"GOOD MORNING BABY"が待っている。美しいなエレピの音と優しいストリングスからはじまるこの曲で、やけのはらは最後の最後まで自分の前向きさを強調する。「上手くいくさ大丈夫だぜ」、リスナーにそう話しかける。「大丈夫だぜ」の根拠について、このアルバムだけでは説明不足でもある。それでも彼は「大丈夫だぜ」を言う。悲観しようが楽観しようが自由なんだし、なんだかよくわからないけれど、「大丈夫だぜ」、そう思っていたほうが精神の健康上よろしい。『ディス・ナイト・イズ・スティル・ヤング』はそういうアルバムである。
僕がセミの声を聞いても自分の20代を思い出せないのは、自分の青春が『ディス・ナイト・イズ・スティル・ヤング』とは真逆だったからだ。だいたい80年代に複数の男女で海に遊びに行くなんて......いや、これ以上は止めておこう(とにかく僕自身は、どう考えても格好悪い青春派だったのだ)。
『ディス・ナイト・イズ・スティル・ヤング』は、ブッシュマインドが『ブライト・イン・タウン』で表現したゼロ年代におけるストリート・カルチャーの真実をポップな次元で試みようとしているとも言える。アルバムからは「街に出よう」という呼びかけも聴こえる。シンプルな呼びかけだが、これがまた、80年代のある種の裕福さとは真逆の時代における青春の、かけがえのない自由を主張しているようにも聴こえる。と同時に、それは必要以上に携帯やパソコンに依存してしまった今日のライフスタイルへのアンチテーゼでもある。あるいはまた、"外で遊ばなくなった若者"という大人の決めつけに対する反発でもあるかもしれない。だとしても、やけのはらはケチなことは言わない。ネガティヴな感情への共感を忌避するように、そのうえでの前向きさを、耳にタコができるほど繰り返すのである。そしてボロボロの服を着たサンダル履きのラッパーは、この国のいたるところに溢れているドロップアウターたちに向けて(もちろんこの僕も含まれる)、心を込めてこう言うのだ。もっと音楽を聴こう。
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ピンク・フロイドを作ったシド・バレットがソロ活動が間遠になり、死んでようやく思い出されたようになると思っていたロキー・エリクソンの、たぶん94年の『All That May Do My Rhyme』以来の新作を、私はひさしぶりにいった渋谷のレコード店でみつけたとき、死人に会ったとはいわないにしても、渋谷の真んなかでシマにいるはずの父親に出くわしたくらいにはメンくらった。いや、私の父親はもう死んだからそれでも死人にはちがいないが、それくらいには驚いた。数年前、メイヨ・トンプソンに取材したとき「ロキー・エリクソンはどうしてるんですか?」と訊いたとき、彼は「彼はね......」と言葉を濁したが、その口中で噛みつぶした語尾は取材陣にあたりまえの想像をさせた。彼の音楽はもう聴けないだろうと。
終戦の前年に生まれたメイヨ・トンプソンと、3歳下のロキー・エリクソンはそれぞれヒューストンとオースティンに生まれたが、どちらもテキサスの都会である。20代の彼らはおりからのフラワー・ムーヴメンの波に洗われ、アシッドを摂っては演奏する生活をつづけ、音楽でトリップするのかトリップが音楽なのかわからなくなりかかった60年代も押し詰まったころにレコード盤を出すことになった。地元テキサスが世界に誇る(?)サイケデリック・レーベルである〈インターナショナル・アーティスツ〉のカタログ番号1番が、13thフロア・エレヴェーターズの『ザ・サイケデリック・サウンズ・オブ・サーティーンス・フロア・エレヴェーターズ』であり、66年の暮れにあたる。13thはすでにローカル・バンドとしての地位を確立しており、その年の1月に出したファースト・シングル"ユア・ゴナ・ミス・ミー"はアルバムをリリースする直前の10月にはビルボードで55位を獲得するまでになっていた。この曲はいまでもロキー・エリクソンの代表作といわれる、単純なコード進行のガレージ・ロックだが、つっかかるようなコード・リフにくらべ、演奏はトミー・ホールの吹くエレクトリック・ジャグ(壺)の「トゥクトゥク」いう音に顕著な滑稽さと、どこか余裕をもった軽さを帯びている。ドラッグのせいとばかりいえない、どこか人事の感がある。ロキー・エリクソンのシャウトには感情の爆発というより空洞を吹き抜ける風のような中心を欠いた喪失感に似たものがあるがしかし、その喪失感には快楽と笑いが張りついている。そしてその曲はみずからのを「サイケデリック」と宣したファーストの1曲目にも収録したが、現在の記号としてのサイケデリックとはかけ離れているかにみえる。たしかにトミー・ホールが主導したというサイケデリックな意匠(ドラッグ、歌詞、補色を使ったジャケットはとくにすばらしい)はあるにしても、彼らはヴェルヴェッツのように東海岸のアート志向を体現したバンドではなく、デッドがそうしたようにステージで延々とフリー・インプロヴィゼーションを行わず、ブルー・チアー的な70年代のブルーズ・ロックの兆しもない。
『トゥルー・ラヴ・キャスト・アウト・オール・イーヴィル』のウィル・シェフの詳細なライナーノーツを引用すると、「いかがわしさたっぷりのボ・ディドリーや、同じテキサス出身で甘いラヴ・ソングの名手バディ・ホリー、そして何より、調子を外したようなリトル・リチャード(今日に至るまでのロキーのいちばん好きなシンガーだ)の叫びなどを聴いていた」10代に培ったシンプルでキャッチーで古典的なソングライティングのセンスをロキー・エリクソンは13thで無邪気に実践したが、当時の最新のトレンドだったサイケデリック・カルチャーとの出会いは、シンコペートした70年代と永遠につづくようだった"愛の夏"にはさまれた60年代末をシングル盤の片面の3分間に凝縮し、そのなかに立ち往生したかのようである。ヒキコモルほどの積極的な気持ちさえなかったと思われる。むしろストーンするかのごとくだった。裸のラリーズが生まれた67年に〈インターナショナル・アーティスツ〉の第二弾で出したファースト『ザ・パラブル・オブ・アラブル・ランド』で無定型の音楽形式"フリーフォーム・フリークアウト"を標榜したレッド・クレイオラが13thと同じく曲の副題でアシッド・カルチャーとの関わりをほのめかしながら音楽的実験を意識していたのとちがい、ロキー・エリクソンはサイケデリックにまわりつづけるレコードに運ばれ、パンクとニューウェイヴとグランジとポスト・ロックと、そのほか些末なトピックを素通りした。その間、70年に傑作ソロ『コーキーズ・デット・トゥ・ヒズ・ファーザー』をだしたメイヨ・トンプソンはニューヨークに移り、のちに英国で〈ラフ・トレード〉のプロデューサーとなり、野田努が数日前のレヴューで書いたローラ・ロジックらと『ソルジャー・トーク』や『カンガルー?』を残し、ポスト・パンクの音楽的支柱に転身し、90年代にはジム・オルークやデイヴィッド・グラブスをメンバーにしたクレイオラをはじめたが、当時13thは90年代にストゥージズらと同列にパンクの始祖としてわずかに語られただけだった憶えがある。私はもうほとんど忘れてしまったが、当時(もいまも)現役のイギー・ポップはささくれた音楽性と身体性を通じユース・カルチャーとしてパンクを象徴したのに対し、13thはガレージ・ロック調の楽曲がパンクと結びつけてられていたはず。しかし私はロキー・エリクソンの書く曲はラモーンズのロックンロールのバブルガムな側面に、つまり空虚(Vacant)にひきつけるべきである。パンクは、バンド内のドラッグ禍とメンバーの逮捕で空中分解状態にあった13thがステーシー・サザーランドほぼひとりの手で最後のアルバム『ブル・オブ・ウッズ』をしあげた69年に登場したキング・クリムゾンのファーストを嚆矢とするプログレに代表される音楽が重くしたロックの装飾を剥ぎとる役目があった。ロックの原始性の復権といえばかっこいいが、たんにスリー・コードへの先祖返りともいえなくはなかった。しかしパンクの音楽形式ではない、言葉やファッションや言動は、ネオリベラリズムが覆った70年代後半の都市に踏みとどまっていた。そのアンビバレンスはサマー・オブ・ラヴの渦中にあって――無意識にせよ-―50Sを憧れたロキー・エリクソンとどこか似たものがあり、ロキー・エリクソンとメイヨ・トンプソンという、アメリカの巨大な地方出の同世代のふたりがパンクとポスト・パンクに影日向に、あるいは暗喩として働いたのを暗喩するかのようである。
『トゥルー・ラヴ・キャスト・アウト・オール・イーヴィル』は、ロキー・エリクソンのスタジオ最新作だが、オクラ入りした曲を録り直したもののようだ。曲ができた正確な年代はわからないが、テキサスのラスクの刑務所に触法精神障害者として収監されていたときに書かれたものが多いという。ゆったりと歌いあげる様子から弾き語りをベースにしたものと想像できるし、じっさい全編フォーク・ロック調である。プロデュースを担当したのは前述のライナーを執筆した同郷のウィル・シェフで、彼のバンド、オッカーヴィル・リヴァーがバックをつとめ、名義も連ねている。私は恥ずかしながら、オッカーヴィル・リヴァーは聴いていないが、アルバムを聴く限り、当世の音楽トレンドとはやや距離を置いた歌心を大切にしたバンドだとわかる。センセーショナルなものはなく、歌を実直に聴かせるバンド・アレンジが施されている。正直私は最初、「大人のロック」という禍々しい呼称さえ口にしそうになったが、何度かくりかえすと、すでに伝説の範疇に入れられた彼とともに音楽を作るにあたり、先入観をもたず生身の姿をみようと、ウィル・シェフはしたのだと想像した。
さらに二度三度くりかえした。神への確信を歌った1曲目の"デヴォーショナル・ナンバー・ワン"は刑務所で録ったテープの音源が使われている。ラッパーでもパンクスでも刑務所では悔いあらためなくともある種の悔恨には襲われる。共和党の票田の中南部に生まれ、熱心なキリスト教徒の母親に育てられたロキー・エリクソンが、神への確信からその遍在を歌った幕引きの"ゴッド・イズ・エヴリシング"に至るこのアルバムを"True Love Cast Out All Evil"と題したのは前後関係を考えるとまことに腑に落ちる。一方で、"ビー・アンド・ブリング・ミー・ホーム"や"ブリング・バック・ザ・パスト"では故郷(Home)や過去の喪失がテーマになり、チーフタンズをバックにしたヴァン・モリソンをたわませたような前者で彼は以下のように歌っている。
「おれを家に連れて帰ってくれ
おれを家に連れて帰ってくれ
うろうろしないで
おれを家に連れて帰ってくれ」
ディランであれば"Bringing It All Back Home"というべきところを彼は顔のみえぬ誰かに訴えている。誰かとは神だろうか? そうかもしれない。しかしその神は啓示のかわりにドラッグにしろ、刑務所にしろ、過酷な情況をあたえてきた。されるがままだった彼には、犬のように殺された小説の作中人物に似た受動性が身についており、じじつ犬のように死にかけもしたが、結局は生きつづけ、生き残ったことが歌になった。忘れてはならないことだが、そこには詩人の女々しさはなく、ただ私たちがあたりまえに享受している生(Life)や故郷(Home)へ不意に跪きそうになる無垢さがある。そう考えたとき、当初はヤボッたいとさえ思った『トゥルー・ラヴ・キャスト・アウト・オール・イーヴィル』はこのジョン・フェイヒィの風貌をしたレナード・コーエンのような男のホームシック・ブルースとなり、聴く数だけ滋味を増すのだと思える。
彼は現在、最初の妻と所帯をかまえ、マネージャーは幼少期に生き別れ、のちに再会した彼の息子だという。
マルティナ......といえばトリッキーのデビュー・アルバムのパートナーで、シングル「オーヴァーカム」のジャケットを思い出す人もいまだに多いだろう。化粧をして女装したトリッキーの隣に座っていたチャップリン姿の彼女――デヴィッド・リンチの映画に憧れているような、ブリストルのエキセントリックでちょっといかれたカップルを気取ったあの写真だ。
良くも悪くも、マルティナのキャラクターは、『マキシンクェーイ』で決定している。彼女はトリッキーが演出した残酷劇場のヒロインであり、暗い回廊の怪しげな案内人で、彼女はその役を見事に演じ、そしてトリップホップのファーストレディとなった。ビョークが太陽だとしたら彼女は月で、怪物に恋をする女だった。あのパーティの時代、女性シンガーはたびたび夢の世界のガイドを務めていたものだが、陽気な笑い声に飽きた連中が選んだのが、マルティナ・トプレイ・バードだった。
あれが1995年だから、15年後の、そして彼女にとっての3枚目のソロ・アルバムがロンドンの〈オネスト・ジョンズ〉から出ることになった。『サム・プレイス・シンプル』は、マルティナが初めてトリップホップの呪縛から逃れた作品である......といってもこれは過去2枚――主にデンジャー・マウスと作ったセカンド・アルバム『ザ・ブルー・ゴッド』から選曲した11曲の新ヴァージョンと4つの新曲による、いわば編集盤である。そして、『サム・プレイス・シンプル』というタイトルが示しているように、トラックは彼女の歌と声を際だたせるためにいたってシンプルな構成へと差し替えられている。これは世話好きのデイモン・アルバーンのアイデアで(マルティナはザ・ゴリラズの『デイモン・デイズ』、マッシヴ・アタックの『ヘリゴランド』にも参加している)、彼のスタジオで1週間かけて録音しなおしたという話だが、実際この路線は素晴らしい結果を生んでいる。
耳障りなエレクトロニック・サウンドは控えめな生楽器に差し替えられている。ウクレレ、オルガン、エレクリック・ピアノ、タンバリン......音楽から肉ははぎ取られ骨と彼女の声だけが残されている。そしてサッドコアの女王と呼ばれたキャット・パワーもしくはポーティスヘッドのような"悲しい女"の感覚はより美しく研ぎ澄まされている。ウクレレで歌われる"ベイビー・ブルー"、オルゴールの音色とスキャットの"ダ・ダ・ダ"、物憂げなワルツ"オーキッズ"、エレガントでジャジーな"ヴァレンタイン"、ピアノの伴奏のみで歌われる"キス・キス・キス"......アルバムは支離滅裂だが、何度でも最後まで繰り返し聴いてしまう。どこにも到達することなく宙づりにされたマルティナは、しかし歌うことで呼吸しているようである。そしてリスナーは彼女がなぜ『マキシンクェーイ』のヒロインとなったのかをあらためて理解する。