「K A R Y Y N」と一致するもの

PAS TASTA - ele-king

「終わりでいいんじゃないですか?」
「とりあえずね」
「(笑)」
──PAS TASTA “zip zapper” アウトロより

 hirihiri、Kabanagu、phritz、quoree、ウ山あまね、yuigot──それぞれがDAW(デジタル・オーディオ・ワークステーション)の可能性を拡張するかのような先進的なシグネチャー・サウンドを携えた新鋭プロデューサーたち──が集い始動した次世代型スーパー・グループ、PAS TASTA 待望の 1st アルバムは、先行シングル群が高めた期待値を軽々しく超える秀作として世に放たれた。

 文頭に引用した会話の欠片でアルバムが締め括られるユルさ、スーパーフラット以降の価値観が結実したかのようなソリッドなアートワーク、それらとは対照的に極端なマキシマリズムとクオリティへの飽くなきこだわりを感じさせるトラック・メイキング、ストレートな自己表現を飄々と回避するスタンス。すべてにおいて2020年代以降の価値観が表出して生み出されたのが、本作『GOOD POP』だろう。既存の秩序立ったサウンド・メイキングの枠組みを無自覚的に飛び越える自由さ、精緻かつハイファイな音作りとメンバーひとりひとりの強烈な個性。それらが巧みに調和しており、一聴するとカオティックな作風に思えるものの、あくまでも更新する対象は「J-POP」であるという類を見ない作品だ。

 さらにいえば、バンドやユニットではない共同体がコライト(共作)によって個々の個性を活かしつつ作品を一本の線にまとめ上げる、というスタイルも日本国内ではいまだメジャーな手法とはいえず、近しい活動として浮かぶのは six impala、FROMTHEHEART などのハイパーポップ文脈に位置するオンライン・コレクティヴ程度だろう。サウンドはもとより、そのスタンス自体もフレッシュな新規性に溢れている。
(もっとも、いわゆる「ハイパーポップ」自体がプレイヤー側からはすでに過去のものとみなされつつあり、クリシェとして扱われているのが現状である。インターネット・ミームがバズを獲得した瞬間に色褪せるのと同じく、トレンドの消費サイクルは加速を続けており、それは登場からほどなくして「Vaporwave is dead」というジョークが共有された2010年代中頃から続く流れである。天災のようなアンコントローラブルさこそが現時点でのポップ・カルチャーの姿だろうか?)

 そんなポスト・パンデミック的ムードを表明し自由闊達な活動のもとスターダムを駆け上がっている先例には Peterparker69 『deadpool』が挙げられる。
『GOOD POP』と『deadpool』の2作にある種のベンチマーク的な機能を持たせてみて、2023年以降の国産オルタナティヴ・電子音楽シーンを俯瞰することで見える景色もあるだろう。それは本作の客演に Peterparker69 がクレジットされていること、双方のリリース・パーティにて両者が交わりあっていることからも見て取れる。
 オンライン上のデジタルな交感をもとに立ち上がったブランニューなサウンドが、じつは中小規模のパーティの数々や “zip zapper” の制作合宿といったオフライン上での密なコミュニケーションによって再強化されているのも興味深いポイントと言えよう。現場主義的でも、反現場主義的であっても見えないものがたしかに存在している。

 さて、話題を改めて作品に戻そう。『GOOD POP』は全8曲・計21分56秒からなるファースト・アルバムで、全トラックは PAS TASTA メンバー6名によるコライトで制作されている。客演には Cwondo(No Buses)、ピーナッツくん、鈴木真海子(chelmico)、崎山蒼志、Peterparker69(Jeter+Y ohtrixpointnever)といった、それぞれが異なるスタイルでありながらも飛躍を遂げつつあるアップカミングな面々を迎え、すでにありそうでどこにも存在しなかった連帯を表現した。
 その連帯感を支えるものは何だろうか? それは「J-POP」ないしはポップスの更新を無意識的に各々が目指している、というヴィジョンの共有だろう。「ハイパー」に囚われることなく、EDMやフューチャー・ベースといった新規性を帯びつつもすでに完成されてしまったジャンル群に拘泥することもせず、良質で新規性に富んだポップスの新たな形をつくる、という目的に対し、共同体主義と個人主義の境界線上を走りつつリーチしようとする。
 M1 “intro impact” では PAS TASTA の下地となった phritz, hirihiri, Amane Uyama & Kabanagu “all night” (2021、〈FORM〉)のメロディラインがサンプリングされ、続く各曲においても稚気に富んだサウンド・コラージュ的展開の数々が視聴者の固定観念を揺さぶる。
 この「予測不能な面白さ」というのもバブルガム・ベース以降の電子音楽において共通する要素であり、それはエピックな展開の様式美を楽しむEDMカルチャー発とは思えない価値観でもある。

 なお、『GOOD POP』全体に共通するサンプリング・コラージュ感覚の一端を築いたのは SoundCloud に代表されるSNS型のプラットフォームに通底する空気感であろう。言うまでもなく各人の肥沃な音楽遍歴が下地になっているのだが、作風全体に通ずる「ノリ」は SoundCloud 直系のもので、それこそがドメスティックな小さいまとまりではなく、世界中の実験精神と呼応した作風に繋がっているといえるだろう。
 たとえば現在 Hyperflip と称される「dariacore」ムーヴメントとそれに関連するナイトコア再評価や SoundCloud アカウント「Twerknation28」発の変造ジャージー・クラブ、タイプビート以降のリファレンス感覚、SYNC機能の実装以降完全に楽器化したDJ機器の存在、著作権意識を宇宙の片隅に追いやるようなマッシュコア的視点などが各楽曲のエッセンスやニュアンスと結びついている、ということ。そこに滑り込む、ポーター・ロビンソンやスクリレックス、ソフィー、A・G・クックのような存在に代表される、2010年代のオリジネーターが打ち立てた新たなる音像。心惹かれるサウンドを見つけたら、とりあえずDAW上に落とし込んで分解し、混ぜて、変形させ、まったく別の姿を発見しようとする。そのような無邪気な実験精神の現れこそが「いま」の音楽、少なくとも2010年代以降の「ポスト・インターネット」的芸術運動の流れを汲む音楽の姿といえる。

 すっかり加速しきった生産と消費のサイクル、絶えず繰り返されるスクラップ&ビルド的アプローチは、デジタル・ネイティヴ世代にとって当たり前の創作感覚である。そして、それこそが良きポップ・センスの拡張と更新、つまりは『GOOD POP』な音像を希求する純真な探究心の現れなのだ。遊び心とプロフェッショナル精神が同居した表現の形が今後さらなる飛躍を遂げていき、まったく未知の姿にトランスフォームしていく未来への希望を抱かせる。

……といったところで、終わりでいいんじゃないですか? とりあえず、ね。

Pantayo - ele-king

 パンタヨとはタガログ語で「わたしたちのために」という意味だそうだ。わたしたち、とは誰か。カナダはトロントのフィリピン系のクィア5人組。パンタヨはマイノリティである自分たちのアイデンティティを探るためにフィリピン南部の伝統楽器クリンタンを叩きつつ、思いきりポップなインディ・ポップをやっている。それはもう、一度聴いただけで覚えてしまえそうなキャッチーさで……はじめてパンタヨを聴くというひとは、本作のオープニング・ナンバー “One More Latch (Give It to ’Ya)” を。R&B風の色気のあるメロディを持った一曲だが、そこで妙に人懐こく響く金属音が連打されれば、不思議なトリップ感覚が発生する。なじみ深いようで、同時に聴いたことのない音楽だ、と思う。

 クリンタンの音色と旋律を現行のポップ・ミュージックとミックスするパンタヨのスタイルは、デビュー・アルバム『Pantayo』ではまだアイデア一発勝負という感じだったが(それはそれですごくチャーミングだったのだが)本作ではよりポップ・ソングとしての完成度を高めた曲が目立つ。思いがけずメロウなソウル・テイストがある “Must've Been A Fool"、爽やかなギターがたっぷり鳴るものだからまるでただの北米インディ・ロックのような “Mali”。フィリピン系である彼女たちも(当たり前だが)現代のカナダでは西洋文明や西洋文化の支配下で暮らしているわけで、パンタヨはそのありのままの姿を隠すことはないが、自分たちのルーツを探ることで音楽をオリジナルなものにしてきた。テクノ風のシンセ・リフが聞こえてくる “Dreams” や “Masanguanan”、インディ・ロック風のイントロで始まりつつすぐにクリンタンがメロディを先導する “Sapa(n)ahon” といったインスト曲では西洋のスケールを外れていることがわかりやすく、フィリンピン由来のアイデンティティを言葉よりも音楽のなかから追求している。OKI DUB AINU BAND にとってアイヌに伝わる伝統楽器トンコリがもっとも重要であるように、パンタヨにはクリンタンを鳴らすことが自己表現の発露なのである。
 僕がひとつ気になるのは、イスラム文化と関わりの深い楽器であるクリンタンをクィア・バンドだと公言しているパンタヨが鳴らしていることの意味だ。イスラム圏でも近年は変わってきているとの話も聞くとはいえ(それに、非イスラム圏における多地域でのクィアへのバックラッシュを見ていると、文化や宗教以上に政治的陣営の問題だと感じられることも多い。が、)イスラム文化がクィアに対して厳しい態度を歴史的に示してきたことは否定できない。民族的マイノリティとして、あるいは性的マイノリティとしての経験を歌っているというパンタヨがミックスしているものは、単純にスタイルとしての伝統とモダンよりも大きなものなのかもしれない。
 とはいえ、パンタヨの音楽はアイデンティティ政治が最優先されたものではないと思う。初期パンクのように徹底してDIY精神が貫かれているため聴いていると晴れ晴れとした気持ちになれるし、その上でいろんな音楽にアクセスする身軽さが気持ちいい。パンタヨの愉快な音楽は、個性と呼ばれるものがどこからやって来るのかを僕に考えさせる。少数派としてのルーツとつながることもできるし、必ずしもルーツに縛られなくてもいい。その間を行き来しながら、何よりもアイデアを生かして自分たちにだけ作れるものを目指せばいいのだ。

 1961年8月ニューヨークはヴィレッジ・ゲイト、ジョン・コルトレーン・セクステット(エリック・ドルフィー含)完全未発表ライヴ音源発掘。そんな令和一大ジャズ・ニュースに触れて「待ってました」と色めき立つ人が、はたしてどれくらいいるだろうか。狂喜する往年のジャズ・ファンを横目に、それがいったいどれほどの意味を持つことなのかよくわからぬまま、とりあえず様子を見るか、あるいはすぐに忘れてしまうか、ようするに大して関心を持たない人たちが大勢目に浮かぶ。そんな諸兄諸姉に対して説得力のある何事かを訴えるのはなかなか難しそうであるし、かといって往年のジャズ好事家諸賢にとり為になるような何事かを私なんぞが書けるはずもなく、さて。


John Coltrane with Eric Dolphy
Evenings at the Village Gate

Impulse! / ユニバーサル

Jazz

■通常盤(SHM-CD)
Amazon Tower HMV disk union

■限定盤(SA-CD~SHM仕様)
Amazon Tower HMV disk union

配信

 ともあれいまさら基本的な情報は不要であろう。なにしろいまや岩波新書の目録にその名を連ねるほどの歴史的偉人である。その岩波新書赤版1303『コルトレーン ジャズの殉教者』の著者であり世界有数の “コルトレーン学者” たる藤岡靖洋は、『The John Coltrane Reference』(Routledge, 2007)というコルトレーン研究の決定版と言うべき巨大なディスコグラフィーの編纂にも関わっている。コルトレーンの足取り・演奏データを詳細に記したこの本を眺めていると、「when you hear music, after it’s over, it’s gone in the air, you can never capture it again(音楽は聴き終わると空中に消え去り、もう二度と捕まえることはできない)」という呪文のようなエリック・ドルフィーの言葉を思い出す。ようは録音されずに空中に消えた演奏のほうが録音されたものより圧倒的に多いという当たり前の事実に改めて直面するわけだが、したがって録音されているという事実だけを根拠に、今回発掘された1961年8月ヴィレッジ・ゲイトでの演奏に何か特別な意味を持たせる理由はないこともまた、肝に銘じておくべきことなのかもしれない。ごく一部の(ほぼ関係者に近い)人を除けば、「待ってました」というわけではなく不意の棚ぼた的サプライズ発掘音源であり、つまりコルトレーンが日常的に行なっていた数あるギグのほんの一コマが、当時たまたま新しい音響システムのテストの一環としてリチャード・アルダーソンによって録音されており、永らく行方不明になっていたそのテープが近年たまたまニューヨーク公共図書館に眠る膨大な資料のなかから発見されただけの話である。発掘音源をめぐるいたずらな伝説化を避けるなら、そういう物言いになる。

 ジョン・コルトレーン(ss, ts)、エリック・ドルフィー(fl, bcl, as)、マッコイ・タイナー(p)、レジー・ワークマン(b)、アート・デイヴィス(b)、エルヴィン・ジョーンズ(ds)のセクステット、つまりこの時期数ヶ月間にわたって実験的に試みていたツー・ベース編成による全5曲。“My Favorite Things”(①)、“When Lights Are Low”(②)、“Impressions”(③)、“Greensleeves”(④)といった定番のレパートリーが並び、ドルフィーが編曲したことで有名な『Africa/Brass』(1961年5月録音)収録曲 “Africa” のライヴ録音(⑤)は他のどこにも残されておらずこれが唯一の記録である。すべての曲が10分を超え、“Africa” に至っては22分。この時期に顕著となるこうした演奏の長尺化は、コルトレーンの音楽の発展にとって不可避の事態であり、従来のコードチェンジに縛られずにひとつのハーモニーを延々と展開し続けることの可能性を示していた。とりわけライヴ演奏は一種のトランス状態の渦を作り出すかのごとき様相で、当時は「ジャズの破壊」とまで言われたコルトレーン=ドルフィーの剥き出しのソロがここでは存分に堪能できる。

 ふいと個人的な話になるが、私が初めて買ったコルトレーンのアルバムは、『That Dynamic Jazz Duo! John Coltrane – Eric Dolphy』(1962年2月録音)と題された見るからにブートレグ感が漂うレコードだった。実際おそらく1970年頃につくられたブート盤である。中古で確か500円。安っぽいモノクロ・ジャケットの裏面にはなんとコルトレーンの直筆サインが油性のマジック(つまり魔術的な力)で書き込まれており、すわ!歴史がねじれる不思議!とひとりひそかに喜んだ。私が高校生の頃なので2003年とかそのあたりの話であるが、当時巷では「スピリチュアル・ジャズ」と呼ばれる古い=新しい潮流が盛り上がっていた時代である。クラブ・ジャズ/DJカルチャーのシーンが発端となったスピリチュアル・ジャズなる言葉が指し示していたのは、簡単に言うと「コルトレーン以後のジャズ」だった。どことなく神秘的だったり民族的だったりアフロセントリックだったり、場合によっては宇宙的だったりする崇高なムードを纏ったグルーヴィーな黒いジャズが対象で、代表格はファラオ・サンダースアリス・コルトレーンアーチー・シェップ、そして〈ストラタ・イースト〉や〈ブラック・ジャズ〉、〈トライブ〉などといったレーベル、またはそのフォロワーが定番のネタであり、スピリチュアルを合言葉に一気に再評価が進んだ。コルトレーン「以後」ということは当然ジョン・コルトレーンその人も含まれる、というよりまさにコルトレーンこそがスピリチュアル・ジャズの “元祖”、“伝説”、“永遠のアイコン” であるとして崇められてはいたが(参考:小川充監修『スピリチュアル・ジャズ』リットーミュージック、2006年)、実際の主たるところはその「後」のほう、コルトレーンの「子どもたち」だった。なぜならコルトレーンはとうの昔からビッグネームであったし、一部のDJにとってはグルーヴがレアであることのほうが音楽やその歴史的文脈より優先されたからである。

 個人的な話を続けると、歴史捏造油性マジカル・ブート盤の次に買ったのが『Olé』(1961年5月録音)だった。表題曲におけるコルトレーンのソプラノサックスが「アンダルシアの土埃のなかで舞っているジプシーの肉体感覚に近いように聴こえる」と書いたのは平岡正明だが(『毒血と薔薇』国書刊行会、2007年)、このジプシー的感覚あるいはアラブ的感覚はスペインめがけて地中海を3拍子で突破することによって培われ、おそらくその後のコルトレーン流の高音パッセージをかたちづくる最も重要な要素であるはずだ。螺旋状に延びていく並外れた旋律=フレージングは、隣にエリック・ドルフィーを擁することでより際立ち強化・装飾される。コルトレーンのグループにドルフィーが加入していたのは1961年5月から翌62年3月までの約10カ月間。『Olé』の他に『Africa/Brass』、『Live At The Village Vanguard』、『Impressions』などがあり、ライヴ録音のブート盤を含めるとそれなりの数が残されている。この頃の “中期” コルトレーンはスピリチュアル・ジャズ隆盛の時代にあってはあまり顧みられていなかったようにも思うが、“Olé” や “Africa”、また “Spiritual”(『Live At The Village Vanguard』収録)といった比較的長尺の楽曲は、モーダルな “単調さ” ゆえの “崇高さ” があり、明らかに後のスピリチュアル・ジャズを預言している。『A Love Supreme』(1964年12月録音)や『Kulu Sé Mama』(1965年6、10月録音)を差し置いて、どうやら私はこのどちらに転ぶかわからない危うさ、神に対する卑屈と人間的な尊厳を兼ね備えた “中期” コルトレーンがいちばん好きだった。「ファンキーズムから前衛ジャズにジャズ・シーンがきりかわった前後から、卑屈さや劣等感を額のしわにほりこんだ黒人くさい黒人がジャズの世界から減り、人間的な尊厳にみちた人物が数多くあらわれた」(平岡正明「コルトレーン・テーゼ」『ジャズ宣言』イザラ書房、1969年)。言ってみればコルトレーンはその中間のような、というより明らかに相反するふたつの性質を有しており、かの有名な「笑いながら怒る人」ならぬ、キャンディーをペロペロ舐めながら神妙な面持ちの人、導師の顔をした弟子キャラ、といった具合の、まるでレコードにA面とB面があるような二面性である。それならコルトレーンの毒血はAB型か。

 にもかかわらず片面をなきものとされ、生前より聖人的尊厳を投影され、死後さらに伝説とされ、まるで神様のように祀られている状況について、コルトレーン本人は少なからず戸惑いを感じているようだ。「自分でも考えられねごどだ」──1975年、恐山のイタコに “口寄せ” されて地上に舞い降りたコルトレーンは津軽弁でそう語った。FM東京「ジャズ・ラブ・ハウス」という番組で放送されたこのときの口寄せ実況はなかなか傑作で、しまいにはコルトレーンの親父さんまで降霊してくる始末(「まさかあのようにジョンが有名になるとは思わなかった」云々)。書き起こしが『季刊ジャズ批評』誌46号(阿部克自「宇宙からきたコルトレーン(恐山いたこ口寄せ実況)」)に掲載されているので、ご興味のある方はぜひ。

 口寄せは英語だと necromancy に相当するか、あるいは conjure でもいいかもしれない。たとえば『マンボ・ジャンボ』で知られる作家イシュメール・リードにとって最重要キーワードのひとつが conjure であったことを考えると、(ジャズの下部構造としての)ブルース衝動は死の概念と不可分であり、そこにはすでに何らかの魔術的な力が内在していることに気がつく。黒人霊歌以前のニグロ・スピリチュアルすなわちヴードゥーの精霊か、それこそ奇病ジェス・グルーの発症を促す何らかの魔法か。かくして、キャプチャーされることなく空中に消えた無数のサウンドに、大西洋に沈んだ無数の死のイメージが重なる。まずはレコーディングされていた奇跡を真摯に受け止めるべきなのだろう。録音は呪文であり救済である。1961年8月ニューヨークはヴィレッジ・ゲイト、ジョン・コルトレーン・セクステット(エリック・ドルフィー含)完全未発表ライヴ音源発掘。アフリカ大陸へ延びるテナーサックスのミドル・パッセージに、いまだ見ぬ過去と失われた未来が立ち現れる。もうしばらく、ジャズは「コルトレーン以後の音楽」でしかありえないことを確信する。

world’s end girlfriend - ele-king

 この春お伝えした world’s end girlfriend の新作情報ですが、ついにリリースが実現することになりました。9月9日発売、LPは4枚組、CDは3枚組の大作です。全リミッター解除で挑んだアルバムとのことなので、そうとうすごいことになっていると思われます。抵抗と祝福──。買って、聴いて、その全貌をつかみましょう。

https://linkco.re/Xuq6T5Cx

world’s end girlfriendが全てのライブ活動を停止し、
全てのリミッターを外して制作された
7年ぶりの新作アルバム「Resistance & The Blessing」
2023年9月9日リリース決定。
全35曲145分収録、LPレコード4枚組(99ドル)、CD3枚組(54ドル)で限定発売。
Bandcampにて先行予約受付開始(7月14日0時より)。
https://virginbabylonrecords.bandcamp.com/album/resistance-the-blessing

ジャケットアートワークを担当したwilquitous による、
この世に咲く花の最終形態のような美しい混沌に満ちた
「IN THE NAME OF LOVE」MUSIC VIDEOも同日公開(7月14日0時公開)。
https://youtu.be/81WkubIWSMs

アルバム「Resistance & The Blessing」は2つの魂が
男女、同性、親子、友人、敵、様々な姿で様々な時代と土地で
出会い、別れ、誕生と死を繰り返し続ける物語であり、
自らの音楽アルバムという表現を極限まで追求した作品でもある。

ゲストに
詩に戸田真琴、
朗読にsamayuzame,
歌にSmany、Itaru baba、
音にarai tasuku, CRZKNY,
ギターに青木裕、
アートワークにwilquitous
等が参加。

world’s end girlfriend “Resistance & The Blessing”

トラックリスト
01. unPrologue Birthday Resistance
02. Reincarnation No.9 - Fire,walk with me.
03. Slaughterhouse (feat. samayuzame)
04. MEGURI
05. IN THE NAME OF LOVE
06. Odd Joy
07. Orphan Angel
08. GODLESS ALTAR Part.1
09. GODLESS ALTAR Part.2
10. Petals full of holes (feat. samayuzame)
11. Eve (feat. Smany)
12. Reincarnation No.9 - More tears are shed over answered prayers than unanswered ones.
13. RENDERING THE TWO SOULS
14. Cosmic Fragments - A.D.A.M.
15. Questions
16. FEARLESS VIRUS
17. Dancing with me
18. Blue / 0 / +9 (feat. arai tasuku, Itaru Baba, Aoki Yutaka)
19. Black Box Fatal Fate Part.1 - MONOLITH (feat. CRZKNY)
20. Black Box Fatal Fate Part.2 - SEVEN SIRENS (feat. CRZKNY)
21. Trash Angels
22. The Gaze of Orpheus (feat. samayuzame)
23. Sacrifice
24. Torture in heaven (feat. samayuzame)
25. Fire on the Lethe
26. Möbius (feat. samayuzame)
27. Before and After Life
28. himitsu (feat. Smany)
29. Cosmic Fragments - Moon River
30. Glare (feat. samayuzame)
31. Tu fui, ego eris.
32. Ave Maria
33. Two Alone (feat. samayuzame)
34. SEE YOU AGAIN
35. unEpilogue JUBILEE

Black Dog Productions / The Black Dog - ele-king

 今年は〈Warp〉の「Artificial Intelligence」シリーズ30周年。つまりポリゴン・ウィンドウオウテカB12などのアルバムが軒並み30周年を迎えるわけだけれど、なかでも屈指の名盤がブラック・ドッグ・プロダクションズの『Bytes』である。ケン・ダウニー(ザ・ブラック・ドッグ)およびプラッドとして知られるふたり、エド・ハンドリー&アンディ・ターナー(先月の来日公演@VENTも相変わらずよかった)がさまざま名義で参加、一見コンピ風の体裁をとった歴史的名作、問答無用の1枚で、このたびめでたくヴァイナルでリイシューされることになった。オリジナル・リリース時以来、ヴァイナルでは復刻されてこなかったようなので粋なはからいといえよう。あわせてザ・ブラック・ドッグ名義の『Spanners』(1995)もオリジナル・プレス以来初めて、ヴァイナルでリイシューされる。こちらも『Bytes』にひけをとらない、3人のオリジナリティを堪能することができる1枚。ぜひに。


●Bytes
https://www.beatink.com/products/detail.php?product_id=13491


●Spanners
https://www.beatink.com/products/detail.php?product_id=13492

ANOHNI and The Johnsons - ele-king

 ぼくの場合、マーヴィン・ゲイの『What's Going On』をちゃんと聴いたのはけっこう遅くて、80年代も後半、ぼくは20代のなかばだった。熱心に追いかけていたポスト・パンク以降がすっかりつまらなくなってしまい、だからレゲエやワールド・ミュージックを聴いてみたり、あるいは、それまでずっとリアルタイムの音楽しか聴いていなかった自分が、過去の黒人音楽を聴いてみようと自分なりに追求していた頃のことだ。
 『What's Going On』の説明文には必ず「戦争」や「公害」や「貧困」といった言葉が挿入され、これはプロテスト・ミュージックとされている。ところが、買ったそのレコードは輸入盤だったので、というかまあ、正直に言えばいちいち歌詞まで分析するのは面倒なので、サウンドのみに集中し、だからぼくはただただそのサウンドの優雅さに惹かれたのである。マーヴィン・ゲイは嘆き、憤り、哀しみ、辛辣で、抵抗している。60年代の革命は失敗に終わり、抵抗勢力は片っ端から取り締まられ、ヤッピー時代の到来とともにブラック・コミュニティに暗い風が吹きはじめている。現実は極めて厳しかったろう。だが、そのサウンドは寛容で、温かく、優しい。ロマンティックな思いにさえもリンクする。これと同じような感想を、スピリチュアル・ジャズと呼ばれる音楽にも感じたことがある。あれも黒人の闘争を起点に生まれた音楽だが、出てくるサウンドには「愛」がある。あの時代の、文化のモードがそうさせたのだろう。
 
 アメリカのテッド・ジョイアというジャーナリストの分析によれば、1950年代なかばから1960年代のなかばにかけてのアメリカにおいて興行成績が良かった映画は『サウンド・オブ・ミュージック』や『スイスファミリーロビンソン』のような作品だった。ところが近年のヒット作は、おしなべて戦闘ものが多く、間違ってもミュージカルやコメディではないそうだ。まあ、50年代のアメリカに関しては戦後の好景気ということが大きかったと思うけれど、なんにせよ、文化の根幹に楽天性があったことはたしかで、そのモードはおそらくはビートニクやヒッピー、パンクからレイヴ・カルチャーにまで通底していたと言えるのではないだろうか。たとえば、そのクライマックスにおいてベトナム戦争と反戦運動があったとしよう。しかし同時にそこにはしつこいくらいに「愛と平和」があった。陳腐な側面も多々あったと思う。だが、それはたしかにあったし、それを理解できる世代とできない世代とに分かれてもいた。そしていま、ぼくの両親の世代が「愛と平和」(ビートルズからレイヴまで)のセンスを理解できなかったのと同じように理解できない新しい世代が台頭しているのかもしれない。そんな見立ても通用するんじゃないかと思えるほどに、文化のモードは『What's Going On』の頃とは変わっている。
 リベラルだろうがネトウヨだろうが好戦的で、政治家も政党もアニメも漫画もラップにおいても戦いが人気を博している。人はカラフルな服よりも白黒を好み、自分の個性を表現することよりも、なるべく目立たない(空気を壊さない)服装を好むようになった。インターネットには怒りと対立、憎しみと不寛容、攻撃と嫌みが溢れている。明治中期のロマン主義から大正ロマンに象徴されたモードが100年前の関東大震災を境に変化したのだとしたら、3.11が(ないしは安倍政権が)この変化の起点になったと言えやしないだろうか。良い悪いの話でも、好き嫌いの話でもない。ぼくだって少なからず、今日の文化のモードの影響下にいる。本当はスマイリーのTシャツを着たいけれどジョイ・ディヴィジョンで我慢している人だっているかもしれない。
 とくに検証したわけではないのだが、漠然と、そんなことを考える/ことさら感じるようになったきっかけのひとつが、『Selected Ambient Works 85-92』だった。昨年は、エイフェックス・ツインのこの傑作がリリースから30周年ということで、ぼくは家でじっくり聴いたことがあった。30年前に渋谷のWAVEで買ったレコードを取り出し、聴いて、そして、あらためて驚嘆した。こんなにも、アホらしいほど楽天的でラヴリーな音楽が30年前の世界では、特別な宣伝もロック雑誌の煽りもなかったのに関わらずがちで必要とされ、多くの若い世代に享受されていたのだ。あの頃だって湾岸戦争はあったし、社会にはいろんな軋みがあったというのに。

 歌詞や資料など読まずに、まずはサウンドのみに集中する。アノーニ・アンド・ザ・ジョンソンズの新作にもそのように臨んで、1曲目 “It Must Change” を聴いて微笑んでしまい、3曲目 “Sliver of Ice” を聴いてこれは素晴らしいアルバムだと確信した。なんて美しいソウル・ミュージックだろうか。ドラマティックに展開する “Scapegoat” は彼女の代表曲になるだろう。前作ほど露骨な政治性はないものの、作品の背後には、理想を諦めないアノーニの、不公正(トランス嫌悪、資本主義etc)をめぐっての嘆きがあることはつい2日前に知った。もっとも、このサウンドが醸し出すモードそれ自体が反時代的で、プロテストではあるが好戦的ではないし、さらに重要なのは、こうした過去のソウル・ミュージックを引用する際に陥りがちなたんなる反動=後ろ向きの郷愁をこのアルバムが感じさせないことだ。今日の文化のモードを引き受けながら、しかしその範疇では表現しきれないものを表現するために過去のモード、愛と寛容の時代のモードを使っている。これは言うにたやすく、説得力を持たせるにはそれなりの力量を要する。なぜなら、今日のモード外でやることは陳腐になりかねないリスクが大いにあるからだ。

 アノーニは、『Age Of』制作中のダニエル・ロパティンの環境問題を諦めている態度に怒ったほどの人である。本作に、彼女のそうした現実を直視したうえでの理想主義と辛辣さ、叙情詩と個人史が散りばめられていることは先にも少し書いた。ストーンウォールの反乱から54年、彼女はクィアの人生を、たとえそれが孤独であろうと美しく描き、ギル・スコット=ヘロンではないが闘いを詩的に見せている。だからこのアルバムには、極めて今日的なトピックを持ちながらもタイムレスな魅力があり、未来の誰かの部屋のなかで再生されてもサウンドの香気が失われることはない。音楽(サウンド)でしか表現できないことがあって、それを『私の背中はあなたが渡る橋でした(My Back Was a Bridge for You to Cross)』という長ったらしいタイトルの本作はやっているという、そのことをぼくは強調したい。彼女の、みごとな表現力を携えた歌唱を支えている演奏には、電子音楽家のウィリアム・バシンスキー、イーノとの共作者で知られるレオ・アブラハムスも参加している。アートワークには「いまこそ本当に起きていることを感じるとき」という手書きの文字がある。「本当に起きていること」を人が本当に感じることは容易ではない。しかし、それでもポップ・ミュージックがその手助けになるのだとしたら、『私の背中は〜』は、愛を語ることが疎外されていることを感じさせ、そしてこの音楽が堂々と愛を語っていることを感じないわけにはいかないのだ。

Laurel Halo - ele-king

 みなさんお待ちかね、すばらしいニュースの到着です。2010年代を代表するエレクトロニック・ミュージシャンのひとり、ローレル・ヘイローがひさびさのアルバムを発表する。ミックスやサウンドトラックをのぞけば、じつに5年ぶりだ。新作のタイトルは『Atlas』、発売は9月22日、レーベルは〈Awe〉。
 ゲスト陣もポイントを押さえているというか、サックス奏者ベンディク・ギスケ、ヴァイオリン奏者ジェイムズ・アンダーウッド、チェロ奏者ルーシー・レイルトン、ヴォーカリストとしてele-kingイチオシのコービー・セイと、いま注目すべき面々が集合している。
 アルバムごとに作風を変える彼女、今回はどんな新境地を見せてくれるのか──新曲 “Belleville” を聴きながら、妄想をたくましくしよう。

 ちなみに7月後半から11月にかけ、世界各地をDJしてまわるようです。

Baxter Dury - ele-king

 バクスター・デューリーの音楽を最初に聞いたきっかけは2018年かそのあたりの時期にインスタグラムでサウス・ロンドンのインディ・バンド、ソーリーやスローダンス周辺の人たちがあげているのを見たからだった。そのとき一緒にイアン・デューリーの息子であると知ったけれど、当時はそうなんだというだけで特に気にとめるようなことはなかった。それよりも気になったのは10代、もしくは20代になったばかりの音楽を志している若者とその若者たちをプッシュして既存の音楽シーンから距離を置いた新たなコミュニティを作り上げようとしている新進気鋭のメディア(『ソー・ヤング・マガジン』)が同時に40代後半のソロ・アーティストをOKだと判断しているということだった。その二者が共通して好意を示しているファウンティンズD.Cシェイムと比べるとバクスター・デューリーはずいぶん違うように思えたし、こういったシーンが巻き起こりそうになっている渦中にあるバンドは上の世代の人間を否定するものなのではないかという思い込みもあった。
 そんな風に気になって2014年の4thアルバム『It's a Pleasure』を聞いたのだが、それで即座に合点がいった。そこでバクスター・デューリーが奏でている音楽はサウス・ロンドンのインディ・シーンのバンドたち(中でもシェイムやゴート・ガール)が手本とし憧れたというファット・ホワイト・ファミリーをもっと穏やかにしたものだったり、あるいはそのメンバーのサウル・アダムチェウスキーとチャイルドフッドのベン・ロマンス・ホップクラフト(彼はWu-Luの双子の兄弟でもある)のインセキュア・メンの現実世界のヴァージョンの音楽みたいに聞こえた。つまりはこのインディ・シーンにしっかりとフィットしたもので、こうした動きからそこに関わる人たちにとって年齢や出自は重要ではなくただコミュニティとしての感覚が合うか合わないかで判断されているのだと感じられたのだ。果たしてバクスター・デューリーは2019年のファット・ホワイト・ファミリーの傑作3rdアルバム『Serfs Up!』の中の1曲 “Tastes Good With The Money” に参加しその感覚が正しかったのだと証明してみせてくれた。もともとサウル・アダムチェウスキーが在籍していたザ・メトロスのプロデュースをしていたという縁があったのかもしれないが、しかし時を経てのここでの邂逅はロンドンのインディ・シーンのなかでのバクスター・デューリーの存在を確かに感じせるものだった。

『It's a Pleasure』以降、2017年の『Prince of Tears』でバクスター・デューリーは囁くような低音のスポークン・ワードを用いるようになり20年の『The Night Chancers』では楽曲も一気にムーディーなものになった。その音楽は現代のロンドンの街をうろつくセルジュ・ゲンズブールの姿を頭に浮かばせるようなものであり、スーツに闇がまとわりつきタバコの臭いが香り、心地の良い気だるさがアルバムの最後までずっと続いていた。バクスター・デューリーの7枚目のアルバム本作『I Tjought I was Better Than You』もその路線を引き継いだものであり、映画のような物語仕立ての音楽の中でバクスター・デューリーはムードたっぷりにこちらに語りかけてくる。
「Hey mummy, hey daddy Who am I?」という問いかけからはじまるこのアルバムは明らかに父・イアン・デューリーを意識したものであり、21年に出版された回顧録『Chaise Longue』のサウンドトラックとしての側面を持ったアルバムなのだろう。しかし音楽単体としてもバクスター・デューリーの魅力は十分に伝わってくる。彼はウエスト・ロンドンに育ち、都会的で、多文化だった子ども時代に抱いていた感情をヒップホップのやり方と流儀をインスピレーションにし自身の音楽を混ぜ合わせこのムードたっぷりの短編映画のような音楽を作りあげたのだ。“Aylesbury Boy” ではケンジントンの高級学校で過ごした時代の退廃的な思い出が、ウージーなプロダクションにピッチを上げたヴォーカルを加えフランク・オーシャン風に仕立てあげた “Celebrate Me” では父の成功といまの自分の姿を照らし合わせ自らの自尊心とそして痛みを確かめるような姿が描かれる。メロウで柔らかなトゲがあり、情けなく逡巡するこのアルバムのバクスター・デューリーのキャラクターは楽曲と相まってどっぷりと緩やかに沈むビートの世界に浸らせてくれる。

 センセーショナルにエピソードを飾り立てることをせずに、2分台、3分台のポップ・ソングとして自身の思い出をテーマにした世界を作り上げるこの美学とも言えるセンスがバクスター・デューリーの最大の魅力なのではないだろうか? 「彼らはあなたを現代のゲンズブールと呼ぶ」「フランク・オーシャンのようになりたいと思っても/でも彼のようには聞こえない/ただイアンのように聞こえるだけ」“Shadow” の歌詞にはそうあるけれど(これを自分の声で歌わないというのがミソだ)僕にはこのアルバムの音楽こそがバクスター・デューリーのスタイルに思える。いくつかの要素を加えかき混ぜて余白を作るかのように七分で止めるスタイルがその世界に浸らせてくれそれが非常に心地よく感じるのだ。
 たとえば “Pale White Nissan” には個人的にも思い出深いフィッシュマンズの “LONG SEASON” がサンプリングされていて、それを中心に組み立てられているのだが、曲の中でそこに存在しないオリジナルの「バックミラーから落っこちていくのは~」という声が浮かびあがり見事に白い日産の車で走る若きバクスター・デューリーの姿と重なる。恵まれた都会での生活といつまでも抜け出せずまとわりつく喪失感、時の流れ、どこまで意識しているのかはわからないが、しかしバクスター・デューリーのこの詰め込まず想起させるスタイルの音楽が想像の余地を生み、組み合わせの中に意味を漂わせる。足りないからこそ継ぎ足せる、好奇心を持って物事に向かい合い、そうして強く主張をせずにムードとして滲み出すことを選択する、僕はそんなバクスター・デューリーの姿に魅力を感じているのかもしれない。彼の近作はどれも素晴らしいのだけど、よりコンセプチュアルとなったこのアルバムはその中でも特にお気に入りのアルバムになるのではないかとそんな予感がしている。

 私はノエル・ギャラガーには我慢がならない。

 私はかれこれもう30年近く彼のことを嫌ってきたが、自分でもそのことが少し引っかかっている。長い間、尋常ではないほどの成功を収め、愛されるソングライターとして活躍し続けているということは、彼は実際、仕事ができるのだろう。かなり個人的なことになってしまうが、これほど長期にわたって、自分がひとりのミュージシャンを嫌ってきた理由を自分でも知りたいのだ。

 1990年代半ばのティーンエイジャーだった私にとって、その理由は極めて単純だった。ブラーとオアシスのどちらかを選ばなければならないような状況で、私はブラー派だった。それでも、『NME』のジャーナリストたち──当時、いまの自分より若かったであろうライターたち──の安っぽい挑発で形成された見解に、大人、しかも中年になってまで引きずられるべきではないだろう。私も少しは成長しているはずだし、大人になるべきだよね?

 当時、私が最初に言ったであろうことは、彼の歌詞がひどいということだ。振り返ると、ノエルの歌詞は、デイヴィッド・バーマンやモーマスが書くような種類のよい詞ではなかったし、そもそもそれを意図していたわけでもなかった。彼らはパンク・ロックな、私のようなミドル・クラスのスノッブや評論家はファック・ユーという立ち位置で、「彼女は医者とヤッた/ヘリコプターの上で」のような狂乱状態とナンセンスな言葉が飛び交う、韻を踏む歌詞で注目を集め、面白がられた。その核心は、おそらく曲の魂が歌詞ではなく音楽に込められていたということで、それが理解できないのは心で聴いていないということなのかもしれない。

 そんなわけで、私が不快感を覚えたのが「心」の部分だったのではないかと思うようになったのである。つまり、ノエルの曲の感情的な部分が安っぽく安易に感じられ、バンドに投影され自信に満ちた威張った態度が、十代を複雑な迷いや疑念のなかで過ごした人間には響かなかったのではないだろうか。

 これは、現在のノエルの音楽に対しては不公平な批評だ。そもそもあの威勢の良さは、リアムと彼の嘲るようなロック・スターのヴォーカルに起因するものだった。ノエルは、ロック・スターとしての存在感がはるかに薄く、声も細くて脆弱な楽器だ。興味深いのは、ノエルとかつてのライヴァル、デーモン・アルバーンの音楽的な野心が大きく乖離するなかでも、彼らのポップ・ソング作りには、むしろ類似性が見られたことだった。二人の、シンガーソングライターたちの小さめで疲れ気味の声が、中年期の哀愁の色彩を帯びるのは容易なことだったから。ノエルの「Dead to the World」を聴くと、デーモンの声で“And if you say so / I’ll bend over backwards / But if love ain’t enough / To make it alright / Leave me dead to the world” (もし君が言うなら / 精一杯努力するよ / でも愛が足りないなら / 上手くやってくれ / 僕にはかまわないで) が歌われるのが、容易く想像できる。

 さらに、ノエル・ギャラガーはハイ・フライング・バーズの新作『Council Skies (カウンシル・スカイズ)』 では以前に比べて謙虚で、少なくとも思慮深い人物であるように感じられる。レコードを通してある種の喪失感に貫かれており、“Trying to Find a World that’s Been and Gone” では、「続ける意志」を持つことについてのお馴染みのリフレインが、たとえそれが無益な戦いであっても意味があるというメランコリックな文脈で描かれている。タイトル・トラックでは、1990年代の野心的な威勢の良さが、ぼんやりとした脆い希望へと変化している。それはおそらく、大富豪となったノエルがハンプシャーの私有地にいても、未だに思い出すだろう公営住宅地の空の下での、存続する誓いにほかならない。

 しかし、必ずしもその内省的な感覚が、歌詞としてより優れているとはかぎらない。初期のオアシスのパンクな勢いなしには、陳腐なものが残るだけだ。アルバムのタイトル・トラックは、“Catch a falling star” (流れ星をみつけて) という名言で始まり、すぐに“drink to better days” (より良い日々に乾杯) できるかもしれないという深淵なる展望が続く。だが、曲はそれでは終わらず、次々と天才的な珠玉の詞が火のように放たれる。“Waiting on a train that never comes”(来ないはずの電車で待つ)、“Taking the long way home”(遠回りをして帰る)、“You can win or lose it all” (勝つこともあれば、すべてを失うこともある)。ノエルの詞に対する想像力のあまりの陳腐さに、私が積み上げてきた彼のソングライティングに対する慈愛にも似た気持ちが、すべて消え去り、苛立ちだけが募り始める。“Tonight! Tonight!” (今夜! 今夜こそ!)、“Gonna let that dream take flight” (あの夢を羽ばたかせるんだ)というライムで、退屈なタイトルがつけられたクロージング・アンセムの“We’re Gonna Get There in the End”にたどり着く頃には、もう自害したくなっている。ノエルの愚かさ(インタヴューでのノエルは、私の反対意見をもってしても、鋭く、観察力があるようにみえる)ではなく、彼がリスナーを愚かだと見くびっているところに侮辱を感じるのだ。

 私は自分のなかに募るイライラを抑制し、少しばかり視点を変えてみる必要がある。

 ノエル・ギャラガーについてよく言われるのは、彼が料理でいうと「肉とポテト」のようなありふれた音楽を作るということだ。これは話者によっては、批評とも賞賛ともとれるが、いずれにしても本質を突いているように感じられる。メロディが次にどうなるのか、5秒前には予測できてしまうのが魅力で、一度歌詞が音楽の中に据えられると、摩擦なく滑っていき、漠然とした感情がそこにあることにも気付かずに通り過ぎてしまいそうだ。これは、細心の注意を払って訓練され、何世代にもわたり変わることのなかった基本的な材料を使って作られた、音による慰めの料理なのだ。 “Love is a Rich Man” を力強く支える同音反復するギター・フックは、ザ・ジーザス&メリー・チェイン(2017)の “The Two of Us ” と同一ではないのか? あるいはザ・ライトニング・シーズ(1994)の “Change” か? ザ・モダン・ラヴァーズ(1972)の “Roadrunner” なのか? それは、それらすべての未回収の記憶であり、蓄積されたロックの歴史のほかの100万ピースが半分だけ記憶された歓喜の生暖かい瞬間にチャネリングされるようなものだ。

 別の言い方をすれば、そこに驚きはない。これは、いつまでも自分らしく、変わる必要はないと教えてくれる音楽なのだ。この音楽は、自分の想像を超えてくるものを聴きたくない人のためのものだ。そして、ここで告白すると、私のある部分は、ノエル・ギャラガーのことが好きなのだ。オアシスとノエル・ギャラガーズ・フライング・バーズ両方のライヴもフェスで観ているし、私の意志とは裏腹に、飲み込まれて夢中になってしまった。九州で友だちとのドライブ中に、彼のカーステレオから “Be Here Now ” が流れてきた時も、20年ぶりに聴いて、それまでそのアルバムのことを考えたことすらなかったのに、すべての曲と歌詞を諳んじていたのを思い出した。結局のところ、決まり文句のように陳腐な表現は、その輪郭が脳裏に刻みこまれるほどに使い古されたフレーズに過ぎない。自分の一部になってしまっているのだ。

 そういう意味で、ノエル・ギャラガーに対する私自身の抵抗は、音楽的な癒しや保守性に惹かれる自分の一部分への抵抗ということになる。何故に? この私のなかの相反する、マゾヒスティックな側面はいったい何なのだろう。なぜ、ただハッピーではいられず、聴く音楽に緊張感を求めずにはいられないのだろう?

 基本的に、芸術作品のなかのささやかな緊張感は刺激的だ。ザ・ビートルズの “ストロベリー・フィールズ・フォーエバー” の冒頭がよい例で、ヴォーカルのメロディは本能が期待する通りのG音できれいに解決する一方、基調となるコード構成の、突然のFマイナーの不協和音に足元をすくわれる。リスナーの期待と、実際に展開されるアレンジの間の緊張感が、聴き手を楽曲の不確かな現実の中へと迷いこませ、馴染みのないものとの遭遇がスリルをもたらすのだ。

 オアシスが大ブレイクを果たしていた頃、ロック界隈で起こっていたもっとも刺激的なことは、ほぼ間違いなくローファイ・ミュージックという不協和音のような領域でのことだった。オアシスのデビュー・アルバム『Definitely Maybe(『オアシス』)』が初のチャート入りを果たした1994年の同じ夏、アメリカの偉大なロック・バンド、ガイディッド・バイ・ヴォイシズがブレイクのきかっけとなったアルバム『Be Thousand』をリリースしていた。彼らもまた、オアシスと同様にブリティッシュ・インヴェイジョンにより確立された、ロック・フォーメーション(編成)の予測可能性をおおいに楽しんでいたが、GBVのリーダー、ロバート・ポラードは、自身が“クリーミー”(柔らかく、滑らかな)と“ファックド・アップ”(混乱した、めちゃくちゃな)と呼んでいるものの間にある緊張感について主張した。彼が“クリーミー”すぎると見做したメロディは、リリースに耐えうるように、なんらかの方法でばらばらにして、曲を短くしたり、やみくもにマッシュアップしたりして、不協和音的なサウンドエフェクト、あるいは音のアーティファクト(工芸品)を、DIYなレコーディング・プロセスから生みだし、馴染みのある流れを遮るように投入するのだった。

 アメリカ人音楽評論家で、プロの気難し屋の老人、ロバート・クリストガウは、『Bee Thousand』を「変質者のためのポップス──上品ぶった、あるいは疎外された、自分がまだ生きていることを思い出すのに、痛みなしには快楽を得ることができないポストモダンな知識人気取りの者たち」と評した。そのシニカルな論調はともかく、クリストガウのGBVの魅力についてのアプローチは功を奏している──そう、快楽は確かに少し倒錯的で、これは音による「ツンデレ」なフェティッシュともいえる。そしてその親しみやすいものと倒錯したものとの間の緊張感が、リスナーの音楽への求愛のダンスに不確かさというスリルを注入してくれるのだ。

 ノエル・ギャラガーがかつて、退屈で保守的だと切り捨てたフィル・コリンズのようなアーティストの仕事にさえ、緊張感はある。ノエルに “In The Air Tonight ” のような曲は書けやしない。ヴォーカルは緩く自由に流れ、音楽の輪郭は耳に心地よく響くが、常にリフレインへと戻ってくる。曲に命を吹き込むドラムブレイクは、繰り返しいじられるが、長いこと抑制されてもいる。ソフト・ロックへの偏見を捨て去れば、フィル・コリンズのサウンドに合わせて、ネオンきらめく映画のなかのセックス・シーンを想像して、深い官能で相互にクライマックスに達することができるだろう。ノエル・ギャラガーの音楽で同じシーンを想像してみても……いや、やはりやめておこうか。私はたったいま、 “Champagne Supernova” を聴いて同じことを想像してみたが、非常に不快な7分半を過ごしてしまった。上手くはいかないのだ。

 ノエルの歌は、ある種の集団的なユーフォリア(強い高揚感)を呼び起こすことに成功しているが、それがほとんど彼の音楽のホームともいえるところだ。彼の歌詞とアレンジの摩擦の少なさは、社交的な集まりの歯車の潤滑油には最適で、リスナーにそのグループの陽気なヴァイブスに身をゆだねること以外は特に何も要求しない。おそらく、アシッド・ハウス全盛期のノエルの青春時代と共通項があるが、その違いはジャンルを超えたところにある。アシッド・ハウスには、「あなたと私が楽しむこと」を望んでいない体制側(スペイスメン3の言葉による)と、我々と彼らとの闘争という独自の形の緊張感が存在した──それはより広い意味でいうと、過去(トーリー党=英国保守党)と未来(大量のドラッグを使用して使われていない倉庫でエレクトロニック・ミュージックを聴くこと)との間の闘争だった。ノエルは明らかにそういった時代と精神に多少の共感を示しつつ、たまにエレクトロニック・アクトにもちょっかいを出しながら、彼自身の音楽は、常に未来よりも過去に、反乱者よりもエスタブリッシュメント(体制派)に興味を示してきたのだ。そして、時折公の場で繰り出す政治や他のミュージシャン、あるいは自分の弟に関するピリッと香ばしい発言には──哲学的、性的、抒情的、あるいは“ポストモダンな知識人ぶった”アート・マゾヒズムであれ、直感的なある種の緊張感は、ノエル・ギャラガーの音楽には存在しないのだ。

 もちろん、このことに問題はない。彼は音楽とは戦いたくない人のために曲を作っているのだし、それを上手にやってのけるのだから。

 この記事を書き始めた時、自分とはテイストの違いがあるにせよ、過去にノエルに対して公平性に欠ける態度をとっていたことを反省し、ソングライターとしての彼の疑いようのない資質を成熟した大人として受け入れ、融和的な雰囲気の結末に辿り着くのではないかと思っていた。しかし、それは彼と彼の音楽にとってもフェアなことではないと思う。平凡さはさておき、彼の真の資質のひとつは、感情をストレートに表現するところだからだ。

 だから、本当のことをいうと、私はいまでもノエル・ギャラガーの音楽が嫌いだ。私のなかの一部分が、彼の音楽を好いているから嫌いなのだ。彼は、私のなかにある快感センサーを刺激する方法を知っている。不協和音のスリルを忘れ、彼の音楽に没入する自分を許してしまい──本気で耳を傾けることを思い出した後に、6分間死んでいたことに気付かされるのだから。


The problem with Noel Gallagher (and why he’s good)written by Ian F. Martin

I can’t stand Noel Gallagher.

I’ve disliked him for nearly thirty years, and this bothers me a little. To have been an extraordinarily successful and well loved songwriter for so long, he must in fact be good at his job. More personally, for me to have hated a musician like that for so long, I want to know why.

As a teenager in the mid-90s, the reason was pretty simple: you had to choose between Blur and Oasis, and I chose Blur. Still, I probably shouldn’t carry into adulthood and middle age musical opinions that were moulded by the cheap provocations of NME journalists — writers who were probably younger at the time than I am now. I should be more mature than that, right?

At the time, the first thing I would probably have said was that his lyrics were bad. Looking back, they certainly weren’t good lyrics of the sort a David Berman or a Momus might write, but they were never meant to be: they were a punk rock fuck-you to middle-class snobs and critics like me, and the way lines like “She done it with a doctor / On a helicopter” jump deliriously and nonsensically from rhyme to rhyme is attention-grabbing and funny. The core of it, perhaps, is a sense that the soul of the song is carried by the music, not the lyrics, and if you can’t get that, you’re not listening with your heart.

So I start wondering if maybe that “heart” is what I found off-putting — that the emotions in Noel’s songs felt cheesy and facile, that the confident, swaggering attitude that the band projected didn’t speak to someone who spent their teens lost in complexity and doubt.

This is an unfair critique to bring to Noel’s current music. For a start, so much of that swagger was down to Liam and his sneering rock star vocals. Noel has far less of a rock star presence and his voice is a thinner, more vulnerable instrument. It’s interesting that even as Noel and former rival Damon Albarn’s musical ambitions have widely diverged, their pop songwriting has also revealed more points of similarity: two singer-songwriters with small, weary voices that easily carry the melancholy tint of middle age. Listen to Noel’s song “Dead to the World” and it’s easy to imagine Damon’s voice singing the lines “And if you say so / I’ll bend over backwards / But if love ain't enough / To make it alright / Leave me dead to the world”.

There’s a sense, too, that Noel Gallagher is a more humble, or at least thoughtful figure than he used to be on his new High Flying Birds album “Council Skies”. A sense of loss runs through the record, with the song “Trying to Find a World that’s Been and Gone” placing a familiar refrain about having “the will to carry on” in the melancholy context of a struggle that’s worth it even though it might be futile. In the title track, meanwhile, the aspirational swagger of the 1990s seems to have faded into a duller and more fragile hope that persists in the promise of the council estate skies that Noel can still presumably remember from his millionaire Hampshire estate.

That greater sense of reflection doesn’t necessarily mean the lyrics are any better, though. Without the punk swagger of early Oasis, all that’s left is cliché. The album’s title track opens with the words of wisdom “Catch a falling star”, swiftly followed by the profound observation that we might “drink to better days”. The song isn’t done though, firing nuggets of poetic genius one after the other: “Waiting on a train that never comes”; “Taking the long way home”; “You can win or lose it all”. The sheer banality of Noel’s lyrical imagination banishes every charitable thought I’ve been building up about his songwriting, and my irritation begins to rise. By the time he rhymes “Tonight! Tonight!” with “Gonna let that dream take flight” on the insipidly titled closing anthem “We’re Gonna Get There in the End”, I want to kill myself. I feel insulted not by how stupid Noel is (he comes across as sharp and observant in interviews, even when I disagree with him) but how stupid he thinks his listeners are.

I need to dial back my annoyance and get a bit of perspective.

An common remark about Noel Gallagher is that he makes “meat and potatoes” music. It’s a comment that’s either criticism or praise depending on the speaker, but it feels true either way. The appeal is that you always know what his melodies are going to do five seconds before they do it, and once placed inside that music, the lyrics glide by frictionlessly: vague sentiments that you barely recognise are even there. This is sonic comfort food made with practiced care from basic ingredients that have remained unchanged for generations — is the chiming guitar hook that anchors “Love is a Rich Man” the same as “The Two of Us” by The Jesus and Mary Chain (2017)? Is it “Change” by The Lightning Seeds (1994)? Is it “Roadrunner” by The Modern Lovers (1972)? It’s the accrued memories of them all, and of a million other pieces of rock history channeled into a warm moment of half-remembered exultation.

To put it another way, there are no surprises: this is music that tells you it’s OK to be yourself forever and never change. It’s music for people who don’t want to hear anything that challenges their expectations. And a confession: a little piece of me does like Noel Gallagher. I’ve seen both Oasis and Noel Gallagher’s Flying Birds live at festivals and both times got swept up in it despite myself. I remember driving with a friend through Kyushu as “Be Here Now” came on his car stereo, and I knew all the songs, all the words, more than 20 years after the last time I heard or even thought about the album. After all, what is a cliché but a phrase so well worn that it’s contours are carved into your brain? It’s part of you.

So my resistance to Noel Gallagher is really a resistance to that part of myself that’s drawn to musical comfort and conservatism. But why? What is this contrary, masochistic side of me that can’t just be happy and needs some tension with the music I listen to?

Fundamentally, a bit of tension in a piece of art is exciting. The opening of The Beatles’ “Strawberry Fields Forever” is a great example, with the vocal melody resolving cleanly on the G note where instinct tells you to expect it, while the underlying chord structure pulls the rug out from beneath you with a dissonant F minor. The tension between the listener’s expectation and what the arrangement actually does sends you tumbling into the song’s uncertain reality and there’s a thrill in this contact with the unfamiliar.

Around the time Oasis were breaking big, arguably the most exciting thing happening in rock music was in the dissonant sphere of lo-fi music. In the same summer of 1994 that Oasis’ debut “Definitely Maybe” first hit the charts, America’s greatest rock band Guided By Voices were releasing their breakthrough album “Bee Thousand”. While they, like Oasis, revelled in the predictability of the same established British Invasion rock formations, GBV leader Robert Pollard also insisted on a tension between what he called “creamy” and “fucked-up”. For him, a melody deemed too “creamy” would need to be mutilated in some way to make it acceptable for release: songs cut short or mashed together in haphazard ways, discordant sound effects or sonic artefacts emerging from the DIY recording process thrown in to interrupt the flow of the familiar.

American music critic and professional grumpy old git Robert Christgau described “Bee Thousand” as “pop for perverts — pomo smarty-pants too prudish and/or alienated to take their pleasure without a touch of pain to remind them that they're still alive”. The cynical tone aside, Christgau nails the appeal of GBV’s approach: yes, the pleasure is a little perverse — the sonic equivalent of the “tsundere” fetish — but that tension between the familiar and the oblique injects the thrill of uncertainty into the courtship dance the listener does with the music.

Even with an artist like Phil Collins, who Noel Gallagher has in the past dismissed as boring and conservative, there can be tension at work. Noel could never write a song like “In The Air Tonight”. The vocals flow loose and free, caressing the contours of the music but always locking back in for the refrain; the drum break that kicks the song into life is teased repeatedly but held back for so long. Get over your soft rock prejudices and you can imagine a deeply sensual, neon-bathed movie sex scene that reaches a mutually satisfying climax to the sound of Phil Collins. Imagine the same scene set to the music of Noel Gallagher… or maybe don’t. I just spent an uncomfortable seven and a half minutes listening to “Champagne Supernova” while trying to picture it, and it just doesn’t work.

What Noel’s song does succeed in evoking, though, is a sort of collective euphoria, and that’s where his music is most at home. The frictionlessness of his lyrics and arrangements work best lubricating the gears of social gatherings without demanding anything much from the listener other than that they submit themselves to the buoyant vibe of the group. It shares something, perhaps, with Noel’s youth during the height of acid house, but the differences go further than genre. Acid house had its own tension in the form if an us-and-them struggle with an establishment that didn’t (in the words of Spacemen 3) “want you and me to enjoy ourselves” — which is to say more broadly between the past (the Tory party) and the future (taking massive amounts of drugs in a disused warehouse while listening to electronic music). While Noel clearly has some sympathy with that era and ethos, and has flirted with electronic acts on occasion, his own music has always been more interested in the past than the future, more establishment than insurgent. And for all his occasionally spicy public remarks on politics, other musicians or his brother, a visceral sense of tension — whether philosophical, sexual, lyrical or “pomo smarty-pants” art-masochism — has no place in Noel Gallagher’s music.

This is fine, of course: he makes songs for people who don’t want to fight with their music, and he is very good at it.

I thought, when I started to write this, that I might end there, on a conciliatory note, with the realisation that I’d been unfair on Noel in the past and with a mature acceptance of his undoubted qualities as a songwriter, despite my differences in taste. But I don’t think that would be fair to him or his music either: for all his banalities, one of his genuine qualities is that he is a straight shooter emotionally.

So in truth, I still hate Noel Gallagher’s music. I hate it because a part of me likes it. Because he knows how to work that little part of me and stimulate those pleasure sensors. Because I let myself forget the thrill of the dissonant and sink into it — until I remember to really listen, and then I realise I’ve been dead for six minutes.

Ryuichi Sakamoto - ele-king

 2000年代以降の坂本龍一は、この時代だけでひとつの物語だ。『async』をはじめとする彼の大胆な挑戦は、これからさらに語られていくことだろう。そんな坂本の、音楽的冒険の契機のひとつとなったのは、アルヴァ・ノトやニューヨーク〈12K〉との出会いだろう。
 
 今週木曜日、7月13日から10月15日までの3ヶ月のあいだ、〈12K〉のレーベルメイトが中心となって完成した坂本龍一追悼盤がリリースされる。計41人のアーティストによる5枚組。まずはそのメンツを見て欲しい。そしてぜひ聴いて欲しい。
 

坂本龍一追悼盤 『Micro ambient Music』

小さなものにこだわり続けた坂本龍一の音に呼応した
41名の音楽家たちによる追悼

全未発表39曲。3ヵ月間の限定公開。

「アンビエントは僕の手を離れた」とブ゙ライアン・イーノが言うほど、アンビエント・ミュージック(環境音楽)の解釈は広がっている。その中で坂本龍一が求めた「環境、音楽、音」は何であったのか。坂本が所属していたニューヨーク「12K」のレーベルメイトが中心となって集められたこの追悼盤で、その一部が解き明かされる。

ここからもまた、坂本の「音」は広が゙り続ける。

公開期間:2023年7月13日(木)~2023年10月15日(日)

特設サイト:http://microambientmusic.info/
*Bandcamp 販売のみ 1タイトル 1,800円 5枚セット 5,500円
※収益金の一部は Trees For Sakamoto に寄付されます。

参加アーティスト
Alva Noto, AOKI takamasa, ASUNA, Bill Seaman, Chihei Hatakeyama, Christophe Charles,
Christopher Willits, David Toop, Federico Durand, hakobune, Hideki Umezawa,
Ian Hawgood, ILLUHA, Kane Ikin, Kazuya Matsumoto, Ken Ikeda, Lawrence English,
Marcus Fischer, Marihiko Hara, Miki Yui, Nobuto Suda, Otomo Yoshihide,
Rie Nakajima and David Cunningham, Sachiko M, Sawako, Shuta Hasunuma,
Stephen Vitiello, Stijn Hüwels, SUGAI KEN, Takashi KOKUBO, Taylor Deupree,
Tetuzi Akiyama, The Factors, Tomoko Sauvage, Tomotsugu Nakamura, Tomoyoshi Date,
Toshimaru Nakamura, Tujiko Noriko, Yui Onodera

  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 80 81 82 83 84 85 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 100 101 102 103 104 105 106 107 108 109 110 111 112 113 114 115 116 117 118 119 120 121 122 123 124 125 126 127 128 129 130 131 132 133 134 135 136 137 138 139 140 141 142 143 144 145 146 147 148 149 150 151 152 153 154 155 156 157 158 159 160 161 162 163 164 165 166 167 168 169 170 171 172 173 174 175 176 177 178 179 180 181 182 183 184 185 186 187 188 189 190 191 192 193 194 195 196 197 198 199 200 201 202 203 204 205 206 207 208 209 210 211 212 213 214 215 216 217 218 219 220 221 222 223 224 225 226 227 228 229 230 231 232 233 234 235 236 237 238 239 240 241 242 243 244 245 246 247 248 249 250 251 252 253 254 255 256 257 258 259 260 261 262 263 264 265 266 267 268 269 270 271 272 273 274 275 276 277 278 279 280 281 282 283 284 285 286 287 288 289 290 291 292 293 294 295 296 297 298 299 300 301 302 303 304 305 306 307 308 309 310 311 312 313 314 315 316 317 318 319 320 321 322 323 324 325 326 327 328 329 330 331 332 333 334 335 336 337 338 339 340 341 342 343 344 345 346 347 348 349 350 351 352 353 354 355 356 357 358 359 360 361 362 363 364 365 366 367 368 369 370 371 372 373 374 375 376 377 378 379 380 381 382 383 384 385 386 387 388 389 390 391 392 393 394 395 396 397 398 399 400 401 402 403 404 405 406 407 408 409 410 411 412 413 414 415 416 417 418 419 420 421 422 423 424 425 426 427 428 429 430 431 432 433 434 435 436 437 438 439 440 441 442 443 444 445 446 447 448 449 450 451 452 453 454 455 456 457 458 459 460 461 462 463 464 465 466 467 468 469 470 471 472 473 474 475 476 477 478 479 480 481 482 483 484 485 486 487 488 489 490 491 492 493 494 495 496 497 498 499 500 501 502 503 504 505 506 507 508 509 510 511 512 513 514 515 516 517 518 519 520 521 522 523 524 525 526 527 528 529 530 531 532 533 534 535 536 537 538 539 540 541 542 543 544 545 546 547 548 549 550 551 552 553 554 555 556 557 558 559 560 561 562 563 564 565 566 567 568 569 570 571 572 573 574 575 576 577 578 579 580 581 582 583 584 585 586 587 588 589 590 591 592 593 594 595 596 597 598 599 600 601 602 603 604 605 606 607 608 609 610 611 612 613 614 615 616 617 618 619 620 621 622 623 624 625 626 627 628 629 630 631 632 633 634 635 636 637 638 639 640 641 642 643 644 645 646 647 648 649 650 651 652 653 654 655 656 657 658 659 660 661 662 663 664 665 666 667 668 669 670 671 672 673 674 675 676 677 678 679 680 681 682 683 684 685 686 687 688 689 690 691 692 693 694 695 696 697 698 699 700 701 702 703 704 705 706 707 708 709 710 711 712 713 714 715 716 717 718 719 720 721 722 723 724 725 726 727