「K A R Y Y N」と一致するもの

Federico Madeddu Giuntoli - ele-king

 イタリアのピサ出身、現在はバルセロナ在住のフェデリコ・マデッドゥ・ジュントリは、音楽のみならず、美術や写真など複数の分野で横断的に活躍するアーティストだ。00年代にはイタリアのエレクトロニックなバンド、DRMの一員としてアルバム『Haiku』を発表してもいる(ベルリンのトゥ・ロココ・ロットや、〈Hefty〉に作品を残すナポリのデュオ Retina.it が参加)。
 そんな彼のソロ・アルバムが日本の〈FLAU〉からリリースされている。ゲストとして、〈12k〉からの作品で知られる日本のアンビエント/エレクトロニカ・アーティスト Moskitoo や、ドイツのプロデューサー AGF(ヴラディスラフ・ディレイことサス・リパッティのパートナーでもある)が参加、それぞれをフィーチャーした曲のMVが公開中だ。注目しておきましょう。

神経科学の博士号を持ち、美術、写真、言語学と様々な分野で活躍するバルセロナ在住のイタリア人アーティストFederico Madeddu GiuntoliがAGF、Moskitooらをゲストに招いたファースト・アルバムをリリース。11のミニマルで親密な小さな曲で構成された本作には、寂寞感漂うピアノの断片、密やかに爪弾かれるギター、絶妙にコントロールされたドラム・パーカッション、柔らかで繊細なスポークンワード/ボーカルが、加工されたマイクロ・サウンドとフィールド・レコーディングと共鳴し、ロマンスとミステリーへの簡潔で、深遠な旅を作り出しています。

「このアルバムは、洗練とレイヤリングの緩やかなプロセスに従って形作られ、10年以上にわたる長い間、邪魔されることなく、しばしば自分の意志に反して、最終的な形に到達するために組み立てられたものです。この作品に関連性を見出すことができるとすれば、それは、稀な脆弱性、憧れ、生き生きとした感覚、即興性と脆さの芳香が、説明しがたい完璧な印象と混ざり合ったものを提供する能力にあると言えるでしょう」

about Federico Madeddu Giuntoli
イタリア・ピサ出身、バルセロナ在住のサウンド・アーティスト。To Rococo RotやRetina.itとコラボレーションを果たしたイタリアのエレクトロニック・バンドDRMの一員として活動後、バルセロナに移住し、写真家として、写真集「Nuova gestalt」を出版、彫刻作品の制作や国際的なランゲージ・トレーナーとしても活動している。

■Federico Madeddu Giuntoli - The Text and the Form

タイトル:The Text and the Form
アーティスト:Federico Madeddu Giuntoli
LP発売日:2022年12月7日
フォーマット:LP/DIGITAL

tracklist:
01 lolita
02 text and the form (feat. Moskitoo)
03 #8
04 you are (feat. AGF)
05 flow
06 inverse
07 our Bcn nights
08 unconditional
09 h theatre
10 unconditional (reprise)
11 grand hall of encounters

Ellen Arkbro & Johan Graden - ele-king

 レベッカ・ゲイツの『Ruby Series』を覚えている方はいるだろうか。2001年にリリースされた『Ruby Series』は、トータスのジョン・マッケンタイアのプロデュース・録音のもと、ザ・シー・アンド・ケイクのメンバーが参加したことで知られる静謐で清潔な印象のSSWアルバムである。
 『Ruby Series』に限らずだが、90年代末期~00年代初頭に、「シカゴ音響派」の音楽家たちがヴォーカル・アルバムを手掛けていく潮流があった。なかでも一際深く印象に残ったのが、『Ruby Series』であったのだ。透明な歌声と簡素だが繊細でミニマルな演奏/編曲にとても惹きつけられたことを覚えている。
 そして2022年。〈Thrill Jockey〉からリリースされた『I get along without you very well』を聴いたとき脳裏に浮かんだのが『Ruby Series』だった。なんというか、極めて曖昧にだが、かつての(後期)「シカゴ音響派」との近似性を強く(勝手に)感じてしまったのである。洗練されたミニマリズムな演奏と歌声のアンサンブルの妙ゆえだろうか。何より実験とポップの領域が溶けていくような風通しの良さが気持ちよかった。

 スウェーデン・ストックホルム出身のサウンド・アーティスト/パフォーマーでもあるエレン・アークブロは、〈Subtext〉からリリースされた硬派なドローン・アルバム『For Organ And Brass』(2017)、『Chords』(2019)などでエクスペリメンタル・ミュージック・マニアから知られていた音楽家だが、『I get along without you very well』では楽器演奏はもとより、アークブロはその美しい歌声を披露している。
 そしてこの作品にはコラボレーターがいる。スウェーデンのマルチインストゥルメンタリスト、ヨハン・グレイデンである。1991年生まれの彼はどちらかといえばオーセンティックなジャズの領域で活動しているようだが、彼の技巧的な演奏や編曲は、アークブロのクラシカルで実験性と非常に良い対称性を描いていて、素晴らしいコラボレーションだと思う。
 彼と共に作り上げた本作は、アーティストとプロデューサーという関係ではないのだろう。アークブロとグレイデンはおそらく対等の立場で曲を作りあげているのだ。ふたりは作曲・編曲のみならずミックスも手がけている。まさに協働作業といえよう。
 じっさい一聴してみると分かるが、『I get along without you very well』は、アークブロの滋味に満ちた歌声を聴くことができる「うたもの」としての魅力に加えて、音と音のタペストリーのような演奏と編曲による豊穣な音世界を展開している。
 声と音。声と楽器。それらが溶け合っていくことで、慎ましやかで、繊細な音楽が立ち現れる。そのアンサンブルの構築に、グレイデンの技巧的な編曲の構築が非常に重要だったのではないか。聴き込んでいくとわかってくるが、楽器と楽器の層によって生まれる音響には、どこか鳴っていないドローンがうっすらと響いているような錯覚をしてしまう。アークブロは「うたもの」である本作に、そのような鳴っていない「ドローン」の存在を紛れ込ませたのではないか。そんな妄想さえ抱くほどに、このアルバムの演奏/編曲は洗練されている。じじつ、収録されている楽曲は、静謐な響きを持続させながら、静かに、しかし緊張感を持って持続する曲ばかりである。
 アークブロの「声」という意味では2015年にリリースされた Hästköttskandalen『Spacegirls』を思い出すマニアの方も多いだろう。いまや人気ドローン作家のひとりでもあるカリ・マローンらとのユニットである Hästköttskandalen は、『I get along without you very well』以前にアークブロの声を記録した貴重なアルバムともいえる。
 もちろん『I get along without you very well』の方がよりヴォーカリストとして成長(?)している。少なくとも彼女の声が楽曲の重要な部分を占めているし、ある意味、アルバムに収録された曲の要ともいえるのだから。
 全8曲収録されているが、個人的にはアルバムの最初のハイライトは3曲目 “All in bloom” と4曲目 “Never near” だ。特に “All in bloom” に静かにレイヤーされていく管楽器の響き/持続には、どこかジム・オルークの『ユリイカ』を思い出してしまった。この曲だけではないが聴き込むほどに細かな仕掛けやアレンジ、サウンドの妙に気がついくる。たとえばザ・ビーチ・ボーイズ/ブライアン・ウィルソン『ペット・サウンズ』からの引用(ある曲のベースラインだが)にも気が付くだろう。ポップ・ミュージックの歴史への意識(参照)も忘れていない点に、90年代のシカゴ音響派的な歴史意識も強く感じることができた。

 ともあれ、このアルバムは素晴らしい。何回でも聴きたくなるし、特に疲れ切った日の深夜に聴くと(耳を傾けると、というべきかもしれない)、本当に心身に染み込む。卓抜だが慎ましやかな演奏が音の層を生み出し、そこにアークブロの素朴にして美しい歌声のアンサンブルが大きな波を描くように響く。聴き手はただその波に身を委ね、音楽の直中を浮遊するように漂っていけばいいだけだ。なんて「贅沢」な音楽体験だろうか。まさにタイムレスなアルバムである。

不気味なものの批評を超えて - ele-king

 イギリスの批評家マーク・フィッシャーの『奇妙なものとぞっとするもの』の日本語訳が、先日 ele-king books の一冊として刊行された。本書は日本語に訳されたフィッシャーの著書としては『資本主義リアリズム』、『わが人生の幽霊たち』、『ポスト資本主義の欲望』に続く四冊目に当たる。これらのうちでおそらく最も有名な『資本主義リアリズム』は、ドナルド・トランプのアメリカ合衆国大統領就任と著者フィッシャーの自殺がほぼ同時期に起きたあの悪夢のごとき2017年の翌年である2018年に邦訳が出版され、資本主義とは異なる社会的組織化の原理をもった世界を想像することさえ困難になってしまった現在の私たちを取り巻く生と思考の諸条件をクリアに描き出してみせた絶望的なまでにリーダブルな書物として、日本でも大きな話題となった。それゆえ多くの人にとってマーク・フィッシャーの名は、『資本主義リアリズム』の著者として、同書における怜悧で核心を突くような政治的社会的考察の数々とともに記憶されているに違いない。彼の晩年の講義録であり最近邦訳が刊行されたばかりの『ポスト資本主義の欲望』は、2010年代に入ってからのフィッシャーがゼロ年代後半にみずから提示した暗鬱たるヴィジョンからの逃走線を、いやむしろ構築線とでも呼ぶべきものをいかにして引こうとしていたかを生々しく物語るものとなっており(ジェルジ・ルカーチの『歴史と階級意識』とヘルベルト・マルクーゼの『エロスと文明』があのような仕方で再評価されるなどといったい誰が予想できただろうか)、『資本主義リアリズム』に感銘を受けた多くの読者の期待に応えるものとなっている。「出口なし」の状況、個人主義的な快楽主義の規範のなかで見失われる集合的な享楽の可能性、「新しいもの」や実験への欲望に対して絶えず加えられる新自由主義的な抑圧──そのような条件のもとで実存的に窒息しかけながら、打開策を求めて必死で手探りし続けている人々に、翳りを帯びた表情で、しかしユーモアを忘れずに内在的な救いの手を差し伸べる。マーク・フィッシャーとはそのような人だった。現代大陸哲学の確かな知識にもとづき政治と社会を縦横無尽に論じてゆく左派のブリリアントな「理論家」としてのフィッシャーの姿が、そこには明瞭に記録されている。
 他方で、『わが人生の幽霊たち』と『奇妙なものとぞっとするもの』の二冊にはフィッシャーの別の相貌が映し出されている。すなわち、「理論家」としての政治的フィッシャーに完全に統合されているとは言いがたい、「批評家」としての美学的フィッシャーである。周知のとおりフィッシャーは90年代にウォーリック大学の哲学科で学び、博士号を取得している。当時そこでは異端のドゥルーズ&ガタリ派哲学者ニック・ランドが教えており、レイ・ブラシエやイアン・ハミルトン・グラントやロビン・マッカイといった、思弁的実在論と呼ばれる大陸系哲学運動の中核をのちに担うことになる人々も学生として籍を置いていた。フィッシャーは彼らと晩年まで友人であり続ける。彼が一見すると『資本主義リアリズム』での自身の立場と正反対に見えるもの、すなわち加速主義──イギリスではランドを通じて広められた、資本がもたらす認知的かつ技術的な生産のプロセスを徹底的に加速させることで資本主義そのものを内破させることができるとする立場──に積極的にコミットする姿勢を見せたのにもそのような背景がある。しかしフィッシャーは初めからウォーリック大学にいたわけではない。ランドとともにあの伝説的な CCRU(Cybernetic Cultural Research Unit)を立ち上げたセイディー・プラントが96年に同大学に移ってくるまでは、70年代以来カルチュラル・スタディーズの牙城であったバーミンガム大学で学んでいた。つまり彼はもともと、スチュアート・ホールやポール・ギルロイの系譜に属するカルチュラル・スタディーズの研究者(の卵)だったのである。94年には雑誌『ニュー・ステイツマン』にオアシスやブラーに代表されるブリットポップの反動性を批判した記事を寄稿する傍ら、D-Generation という「パンクの幽霊に取り憑かれたテクノ」をコンセプトとしたグループで「Entropy in the UK」というEPを発表し、音楽批評家サイモン・レイノルズの目に留まったりもしている。したがってフィッシャーの活動の中心には当初から音楽が、それも文化全体への批判的視点に貫かれたものとしてのパンク(もしくはポストパンク)があったのだと言われねばならない。
 以上のとおり「批評家」としてのフィッシャーは、ポピュラー文化が生み出した諸々の作品、あるいはより正確に言えば「文化的生産物」のうちに、解放的未来への政治的想像力を活気づけるようなエッジの効いた美学的ポテンシャルを探ろうとする立場をとっていた。資本主義リアリズム(サッチャー的な「この道しかない=オルタナティヴなど存在しない」)への政治的批判と、加速主義(パンク的な「未来などない=未来の幽霊の声を聴かなければならない」)への美学的コミットメントという二つのパースペクティヴの不安定な総合を試みるルート、抑鬱への傾斜をも含んださまざまな危険に満ちたルートを歩みつつあった彼の姿は、2000年代の前半から彼が自身のブログ K-Punk や『The Wire』などの雑誌に発表してきた音楽、小説、映画、テレビドラマといった多彩なジャンルの生産物を取り扱うテクストからなる『わが人生の幽霊たち』(原著は2014年に出版)においてとりわけはっきりと確認することができる。そこでフィッシャーは、ザ・ケアテイカーブリアルといったミュージシャンたちを「アンイージー・リスニング」の実践者、失われたユートピア的未来の亡霊を絶えず回帰させるような「憑在論」(哲学者ジャック・デリダの用語)の美学の実践者として、力強く支持することになる。この「憑在論」の美学に関して強調されねばらないのは、そこで念頭に置かれている聴取のタイプが、80年代リバイバルやヴェイパーウェイヴなどに見られるような明らかに自己慰撫的な「ノスタルジー・モード」(批評家フレドリック・ジェイムソンの用語)の聴取のそれとはまったく似て非なるものであるということだ。幽霊や亡霊の形象を動員することでフィッシャーが試みているのは、私たちの眼と耳を私たちの慣れ親しんだ世界のイメージから引き剥がして、見慣れないもの、よそよそしいもの、異邦的なもの(the alien)のほうへと向けなおさせることである。フィッシャーの美学的格率が述べるのは、私たちは自身の思考をつねに「外部(the outside)」へと方向づけておかなければならない、ということだ。
 『わが人生の幽霊たち』と同じく五井健太郎によって日本語へと訳されたフィッシャー生前最後の著作『奇妙なものとぞっとするもの』は、何よりもそのような「外部」の概念の具体的な練り上げを試みたものとして読むことが可能な書である。本書では、ホラー小説とSF映画と(広義の)実験音楽とが同じ概念的道具立てによって論じられるが、そこで基軸となるジャンルはホラーだ。このことは、ダルコ・スーヴィンの『SFの変容』が典型的であるように、批評的評価の観点からは伝統的にSFのほうがホラー(ファンタジー)よりも意義深いものだと見なされてきたことを踏まえるならば意外に感じられるはずである。さらにフィッシャーは、本書の序でみずから定義する「奇妙なもの」と「ぞっとするもの」という二つの概念を用いることによって、ホラーやSFをめぐる批評的言説の世界でこれまで覇権的な地位を占めてきた「不気味なもの」という精神分析的な概念を乗り越えることを企てる。「奇妙なものやぞっとするものを「ウンハイムリッヒ」なもの〔=不気味なもの〕の一部と見なすことは、外部から世俗的なものへの撤退の徴候である。広範に見られる「ウンハイムリッヒ」なものにたいする偏重は、ある種の批判〔critique〕へと向かう衝動に対応するものであり、そしてこの批判はつねに、内部の穴〔gaps〕や行き詰まりを通じて外部を処理することによって作動する。だが奇妙なものやぞっとするものはこれとは反対の動きをおこなう。すなわちそれらは、外部の視点から内部を見ることを可能にするのだ」(邦訳、14頁)。外部を内部化し、幽霊をドメスティケートしてしまう精神分析および「不気味なもの」の概念を拒絶したうえで、内部をいかなる意味でもその相関項ではないような外部の視点から掴み返し、幽霊をオイディプス的三角形から解放して猛り狂わせるような戦略をフィッシャーはとる。これは批判/批評への反逆でもあるのだ。また、ここでのフィッシャーの「不気味なもの」概念の批判(あるいはむしろ「批判の批判」)には、先述した通り彼と近しい間柄であった思弁的実在論の哲学者たちが「相関主義」──カント以来の、したがって「批判/批評哲学」以来の大陸哲学に支配的であった傾向──への批判として展開した議論とよく似た点があることも指摘されるべきだろう。ホラーの概念的ポテンシャルを展開することで、外部を内部と相関させることなく、しかもあまりに難解な表現に頼ることなく、素面で思考する方法を彼は開発しようとしたのだ、と言ってもよい。本書におけるグレアム・ハーマンやレザ・ネガレスタニやベン・ウッダードへの参照は、フィッシャーが友人たちのそうした哲学的思弁の冒険に対してある種の親近感を抱いていたことの証左を与えている。
 さて、しかしそうなってくると問題は──なお、本書の訳者である五井が原語の多義性に配慮して「奇妙なもの」という包摂度の高い訳語を充てた “the weird” は、H・P・ラヴクラフトのクトゥルー神話や日本における怪談に相当するゴシックとの結びつきがはっきりと意図されている概念である以上、私個人は「怪奇なもの」あるいは「奇怪なもの」と強く訳すのが妥当ではないかとやはり思ってしまうのだが、それはともかく──「不気味なもの」の「批評/批判」を超えるための概念がなぜ二つあるのか、ということになりそうである。もっと踏み込んで言うなら、「外部」はなぜ二つ存在しなければならないのか、ということだ。それに関連することとして、フィッシャーが「奇妙なもの」と「ぞっとするもの」を恐怖(horror / terror)の情動に必ずしも結びつくものではないとしている点も注目に値する(邦訳、10頁参照)。この二つの「外部」の存在様態は、恐怖へのゲートとしても十分に機能するが、そうならないように機能することもできる──それはなぜなのか。このような問いに納得のいく答えを与えることは、この短い紹介記事ではもちろん到底なしえない。しかし、「何にも属していないもの(that which does not belong)」というフィッシャーによる「奇妙なもの」の定義が、アラン・バディウの哲学における「出来事とは状況へのその所属〔appartenance; belonging〕が決定不可能であるような多のことである」という主張を思い起こさせるという事実から、少なくとも彼がどのような狙いのもとで、「奇妙なもの」は「モダニズム的な作品や実験的な作品」にしばしば見出されるものであり、「新しいもの」の指標となるものだと述べているのかを推測することはできる(邦訳18頁)。それは「理論家」フィッシャーの関心事であるポスト資本主義的世界の実現可能性という問題に、おそらく深く関わっている。すなわち、その世界は、いまだ資本主義的世界の想像力のなかに生きる私たちにとってはたいへん「奇妙なもの」と感じられるに違いないが、にもかかわらず、私たちはそれを享楽しようとするポジティヴな感情をもつことができる──そのような含意が、「奇妙なもの」に関するフィッシャーのさまざまな記述からは浮かび上がってくるように思われるのだ。
 他方で、「不在の失敗や現前の失敗によって」構成されると言われる「ぞっとするもの」が、運命論(fatalism)と行為主体性(agency)に関わるとされているのは、これもやはり『ポスト資本主義の欲望』における「資本には媒介する力(エージェンシー)があります」(邦訳174頁)という発言と関連づけて読まれるべきであろう。『奇妙なものとぞっとするもの』では資本自体がそもそもあらゆる点で「ぞっとするもの」であることが述べられている(邦訳15頁)。「ぞっとするもの」の概念は、いるはずなのにいない誰か(現前の失敗──遺跡)やいないはずなのにいる誰か(不在の失敗──幽霊)への回路を開く「ケア」的なニュアンスをもつものと解釈することもできるが、他面では、徹底的に非人称的で脱中心化された運命の車輪──私たち自身が始めたものであるはずなのにその終わりを想像することができなくなってしまったもの──としての資本主義という恐ろしいイメージに通じているものでもあるのである。「ぞっとするもの」という情動はそれゆえ、「外部」のネガティヴな存在様態としての側面をもつと言っていいだろう。むろん、ネガティヴであってもこの情動を通して私たちは、「外部」としての世界についての認知地図を拡張する機会を手に入れられることに変わりはないのだが。
 必ずしも恐怖に結びつくわけではないとはいえ、それでもジャンル・フィクションとしてのホラーとの結びつきが強固な二つの「外部」概念である「奇妙なもの」と「ぞっとするもの」をどのように読み解いていくかは、読者に委ねられている。ここまでの紹介で誤解させてしまっていないことを願うばかりだが、本書『奇妙なものとぞっとするもの』は、難解な哲学書の類いではまったくない。取り上げられる作品や作家は具体的かつポップであり、フィッシャーの筆致はつねに明快でありヴィヴィッドでさえある。にもかかわらず、ここまでの紹介が示してきたとおり、フィッシャーの「理論家」的テクストと「批評家」的テクストを今後私たちが総合的に読もうとする際には、『奇妙なものとぞっとするもの』は間違いなく鍵となるような内容を含んでいると判断される書物なのである。「批評/批判」が前提とするようなジャンル間ヒエラルキーを疑いつつ、「不気味なもの」によってドメスティケートされない「外部」を思考すること、そのような普遍的(でおそらくは集合的)な理論的課題に取り組みつつも、個体的で特異的な作品や作家と向きあい、そこに表現されている幽かな行為主体性を言葉で掬いとることを、たとえその行為が淡々としすぎていてほとんど淡白に近いものになる瞬間があったとしても、本書においてフィッシャーは一切怠っていない。そこで賭けられているのは、自己の行為主体性を信じるのと同じくらい、運命の奇怪な力、あるいはむしろ運命のなさの不思議な力を感じつつ、世界そのものの行為主体性を信じることだ。それは決して簡単なことではないだろう。だからこそ、そのようなことが目論まれた書物は──ラヴクラフトが作り上げた架空の/ハイパースティショナルな書物『ネクロノミコン』がそうであるように──千年でも二千年でも、永遠に、読まれそして読みなおされることができてしまうのである。本書「も」また、そのような呪われた書物の一冊、ぞっとするほどにポップで、怪奇/奇妙なまでに希望に満ちた書物の一冊なのだということは、もちろん、言うまでもない。

Katatonic Silentio - ele-king

 LGBとTの間に大きな溝ができるなど性自認をめぐる議論が急拡大するなか、性自認の上位概念にあたる「自認」、つまりは自分は何者かという問題意識がかつてなく高まっている。アイデンティティという言葉にしてしまうと古臭い議論のように思われがちだけれど、既存の社会が多様性を受け入れられるかという最新のコンフリクトが背景にあることを考えると、アイデンティティの着地点はかつてなく複雑で、見たことのないものを探り出す作業に近くなっている。この問題に現在、思春期の課題として未曾有の経験をしている人たちにノンバイナリーとアンドロジーニアスの区別もついていないような年長者が口を出すのは不可能だと思えるほど環境や前提が異なっていることは僕も自覚しているつもり。アンビエント・ミュージックの思想的な背景にアイデンティティが大きなファクターとなっていると最初に気づいたのは、しかし、ジョニ・ヴォイドの作品を初めて聴いた時だった。3年前、自分自身をテーマにしたアンビエント・ミュージックというのはかつてなかったのではないかと僕は思い、彼の『Mise En Abyme』を「昔の自分を再構築する作品だと解釈した。その後、彼と同じようにアイデンティティをテーマにしたアンビエント・ミュージックにはいくつか出会うようになり、年末号のエレキング本誌で少し整理してみた。最近ではナタリー・ベリツェ『Of Which One Knows』が素晴らしい作品だったと思っている。『Mise En Abyme』の1年前に、そして、イタリアのミラノで、グリエンコというプロデューサーがそれまで手掛けていたテクノ作品とはかけ離れた作品をリリースするために〈CyberspeakMusic〉というレーベルを立ち上げ、『Reprogramming Identity(アイデンティティをプログラムし直す)』というコンピレーションを編んでいる。〈CyberspeakMusic〉のコンセプトはちょっと難解で、言語が確立されたことに対して感じる反抗や順応、魅惑と失望、そして新しい言語の魅力とフラストレーションが彼らを構成する原理だと謳っている。人間が言語を習得することをフロイトは去勢といい、それによって失われるものがあるという議論を引き継いだものなのか(音楽家には常に大きな課題だろう)、それとも言語の意味がもっと限定されて使われているのかはわからない。いずれにしろ、そのような高度ながら切実なテーマを叩きつけたコンピレーションに参加していたのがカタトニック・シレンシオことマリアキアラ・トロイアニエロだった。トロイアというのはイタリア語で売春婦を罵る言葉なので、これが本名というのはちょっと驚きつつ。

〈Bristol NormCore〉からリリースされたトロイアニエロのデビュー・アルバムは『Prisoner Of The Self(自分自身の囚人)』(20)と題され、ブレイクコアやインダストリアル・ブレイクビーツで固められていた。ベース・ミサイルにドラム・シャウトが炸裂するテクノロジーの反逆と喧伝されているように、なかなかに不穏な雰囲気が充満し、彼女がフラストレーションの塊なのはいやでも伝わってくる。ユニット名として採用されているカタトニック・シレンシオとは「緊張で体が固まった沈黙」を意味し、彼女が社会にうまく溶け込めていない状態も容易に想像できる。同じイタリアのジネーヴラ・ネルヴィがルッキズムを俎上にあげ、同じように社会との軋轢を表現していることにも通じるものはあるだろう。トロイアニエロの場合、デビュー・アルバムの時点では無理やり体を動かした結果がこうした音楽性を呼び込むことになり、動けない体から暴力衝動への飛躍はまさに「アイデンティティをプログラムし直」したという意味にも取れる。100ゲックスやリョウコ2000などブレイクコアは思春期の表現として完全に定着した感があり、殻を破りたいという衝動がそこには投影されているのだろう。ズリやエルヴァを起用した同作のリミックス・アルバムを経て、トロイアニエロが〈Ilian Tape〉から21年にリリースしたミニ・アルバムは『Tabula Rasa(白紙)』と名付けられ、囚人という状態からは抜け出せたのかなということもなんとなく窺わせる。そして、「白紙」の次に彼女が描いたのは同じく〈Ilian Tape〉から『Les Chemins De L'inconnu(未知の道)』という前向きなヴィジョンであった。実は彼女の作品で僕が最初にいいと思ったのは〈CyberspeakMusic〉からリリースされた「Emotional Gun」(19)というシングルで、『Les Chemins De L'inconnu』はまったくの未知に切り込んだわけではなく、彼女の作品には整然とした連続性があり、『Les Chemins De L'inconnu』は「Emotional Gun」を下敷きにした発展形にあたる。嫌がらせのような音を集めているようで、しかし、どことなく安心感もある “Tundra” が安心そのものをモチーフにした “Dans Le Cadre Du Relief” に、ライムやペシミストを受け継ぐ “Sub_Versive” や “Path Of Uncertainty” が “Le Réveil Du Combattant” や “Fluctuation Languide” にスケール・アップ。ゴシック沼にはまった “Hypothèse D’Hypnose” などは新たな傾向だろう。「Emotional Gun」に漲っていた奇妙な熱は少し冷めたものの、『Les Chemins De L'inconnu』は全体にアブストラクト度を強め、奥行きのある世界観に掘り下げられている。呪術的で、包み込まれるような感じはヘルムがマッシヴ・アタックをリミックスしたら……というか。

 LGBとTの間に大きな溝ができたことでクィアという単語が死語みたいになってしまうとは数年前は思いもよらなかった。エマ・ワトソンがJ・K・ローリングの発言にエクスキューズを挟んだのが2年前。トランスジェンダーに対するバックラッシュはいまや国連決議にも及び、世界初の性適合手術を扱った『リリーのすべて』(15)を観直したら果たしてどう感じるのかまったく見当がつかない。クィアという単語が今年に入っていきなり逆噴射のように使われだしたのはビヨンセ『Renaissance』のアルバム評で、それではまるで『Renaissance』をノスタルジーに沈めようとするも同然ではないかと思い、サンプリングのことだけを言うならまだしも全体としてはそんな作品ではないと思った僕は1回も使わなかった。でも、それは間違っていたのかもしれない。『Renaissance』にはクィアという言葉が表していた時代を懐かしむ面もあり、現在だけがすべての作品ではなかったのだろう。ビヨンセでさえ、自分が何者であるかと戸惑う曲を冒頭においていたことが、こうなってくると、これがアイデンティティに苦しめられる時代なのだと観念するしかない。多様性の副作用。そういえば「ナンバー・ワンよりオンリー・ワン」という価値観に苦しめられた時代が日本にもあり、あの時とはレヴェルが違う騒ぎが欧米を中心に巻き起こっていると考えればいいのかも。

DOMi & JD BECK - ele-king

 年末は今年リリースされた作品を振り返る時期で、『ele-king』誌でも今年の年間ベスト・アルバムのジャズ部門を選出した。そのなかにはいろいろタイミングがズレてしまってレヴューで取り上げなかった作品があり、リリースは夏頃となるがドミ&JDベックのデビュー・アルバムもその一枚だ。ジャケット写真を見てもおよそジャズ・ミュージシャンらしからぬ2人組で、とにかく若い。
 ドミ・ルーナことドミティーユ・ドゴールはフランスのメス生まれの22歳で、フランス国立高等音楽院卒業後にボストンのバークリー音楽院に留学。そのままアメリカへ移住して活動しているが、3歳でピアノ、キーボード、ドラムスの演奏をはじめ、5歳でナンシー音楽院に入学してジャズとクラシックを学びはじめたという才女だ。
 JDベックはテキサス州ダラス生まれの18歳で、5歳でピアノをはじめた後に9歳でドラムスに転向し、12歳のときには楽曲制作を開始している。10歳の頃にはエリカ・バドゥのバンドでドラマーを務めるクレオン・エドワーズや、スナーキー・パピーのドラマーのロバート・シーライト、ソウル・ミュージシャンのジョン・バップなどと共演し、その教えを受けているという早熟ぶりだ。共に幼い頃からその天才ぶりを謳われた神童である。

 ふたりは2018年にロバート・シーライトの誘いで、アメリカ最大の音楽イベントであるNAMMに出演する。最初の出会いとなったそれ以降も連絡を取り合うようになり、1ヶ月後にはエリカ・バドゥのバースデー・パーティーで再び共演し、ふたりは音楽制作と定期的な演奏活動をスタートする。カリフォルニアを拠点とする彼らは、2019年はサンダーキャットアンダーソン・パークなどのバック演奏に抜擢され、プログレッシヴ・ロック・バンドのチョンと全米ツアーもおこなった。ふたりの才能が認められるのにさほど時間は掛からず、ハービー・ハンコック、フライング・ロータスルイス・コール、ザ・ルーツといった名立たるアーティストとの共演が続く。
 YouTube上にも数々の動画をアップし、なかでも2020年に急逝したMFドゥームの『マッドヴィレイニー』へのトリビュート動画が、その凄まじい演奏テクニックもあって話題となる。2020年にはアリアナ・グランデ、サンダーキャットと一緒に出演したアダルト・スウィム・フェスティヴァルで、サンダーキャットの “ゼム・チェンジズ” の演奏が大きな反響を呼び、ブルーノ・マーズとアンダーソン・パークが組んだブギー・ユニット、シルク・ソニックのシングル曲である “スケート” を共同で作曲。こうしてアルバム・デビュー前からドミ&JDベックは大きな話題となっていた。

 そして2022年の4月、アンダーソン・パークが〈ブルーノート〉傘下に設立した新レーベルの〈エイプシット〉から、ファースト・シングルの “スマイル” をリリース。続いてアンダーソン・パークをフィーチャーした “テイク・ア・チャンス” や “サンキュー”、“ワッツアップ” などシングルを次々発表し、ファースト・アルバムの『ノット・タイト』をリリースと、2022年はドミ&JDベックにとって怒涛の進撃となった。
 『ノット・タイト』はドミ&JDベックが自身でプロデュースをおこない、アンダーソン・パーク、サンダーキャット、ハービー・ハンコックとこれまで共演してきた面々に加え、スヌープ・ドッグ、バスタ・ライムズというラッパー陣、カナダのシンガー・ソングライターのマック・デマルコ、現在はドイツのベルリンを拠点に活動するジャズ・ギタリストのカート・ローゼンウィンケルなど、多彩なゲストを招いた作品となっている。ドミはキーボード、ヴォーカル、JDはドラムス、ヴォーカルを担当するほか、ミゲル・アトウッド・ファーガソンがストリングスとそのアレンジで参加する。

 アルバムはクラシックの室内楽を思わせる “ルーナズ・イントロ” で開幕し、そのままJDのテクニカルなドラミングが圧倒的な “ワッツアップ” へと繋がっていく。“ルーナズ・イントロ” はクラシックの素養もあるドミならではの楽曲だ。“スマイル” はJ・ディラ以降のヨレたビートによるヒップホップ感覚、スクエアプッシャーエイフェックス・ツインなどのドリルンベースなどの要素を注入したフュージョン作品で、ロバート・グラスパー以降の新世代ジャズをさらに更新した、言わばZ世代のジャズ。
 サンダーキャットの歌とベースをフィーチャーしたAORジャズの “ボウリング” は、ほのかに漂うブラジリアン風味がパット・メセニーとトニーニョ・オルタの共演を彷彿とさせる。“ナット・タイト” でもサンダーキャットはベースを演奏し、ミゲル・アトウッド・ファーガソンのストリングスも加わる。JD、サンダーキャット、ドミのドラム、ベース、キーボードのソロの応酬が聴きごたえ十分。全体的にはとてもテクニカルでプログレ的な楽曲なのだが、不思議と難解さはなくてどこかポップでさえあるところがドミ&JDベックの持ち味である。

 マック・デマルコが歌う “トゥー・シュリンプス” は、クールで抑えたヴォーカルに幻想的なドミのコーラスがまとわりつく。チック・コリアのリターン・トゥ・フォーエヴァーを現代にアップデートしたようなナンバーだ。“ユー・ドント・ハフ・トゥ・ロブ・ミー” はドミとJDがデュエットするナンバーで、浮遊感のある不思議なメロディ・ラインが印象的。アメリカのジャズっぽくもなく、かといってイギリスやヨーロッパのジャズでもなく、通常のジャズの文脈から外れた個性的な作品。フライング・ロータスの〈ブレインフィーダー〉周辺らしい楽曲かもしれない。
 ハービー・ハンコックがピアノとヴォーコーダーで参加する “ムーン” は、およそ60歳もの年齢の開きがある両者による夢のような共演が実現。ハンコックがこうした若い世代と難なく共演するところが凄く、そんなハンコックと対等に渡り合える技術や感性を持つドミ&JDベックの才能の証でもある。“テイク・ア・チャンス” ではアンダーソン・パーク、“パイロット” ではアンダーソン・パーク、バスタ・ライムズ、スヌープ・ドッグらと共演し、ジャズの枠に収まらないドミ&JDベックの音楽性の広がりを表現。カート・ローゼンウィンケルと共演する “ウォウ” は、ジャズというより限りなくプログレに近いような超絶技巧のフュージョン。“スペース・マウンテン” や “スニフ” も同様で、アドリブの発想が自由で天才的。ファースト・アルバムでこの完成度、20歳前後という若さや伸びしろがあるふたりがこの先どんな進化をしていくのか、末恐ろしさを感じさせる。

Watson - ele-king

 日本語をいかにリリックとラップで操るか──その一点の革新性において、日本語ラップが大きな転換期を迎えた。これは、KOHH 以来となる大きな変化と言えるだろう。『ele-king vol.30』掲載、2022年ベスト・アルバムについてのテキスト(12月27日発売)で、私は次のように記した。「2022年は、Watson の年だった。雑多なサウンドがひしめくフェーズへとシーンが突入しているからこそ、圧倒的な強度のリリックとラップを矢継ぎ早にドロップし続けた彼が、シンプルに勝者である」と。先日、早くも今年2枚目となるアルバム『SPILL THE BEANS』を発表したばかりの Watson だが、そもそも春にリリースされた『FR FR』すらいまだ十分に語られていない。すでにヘッズの間では確固たるプロップスを築き上げているこのラッパーに対し、尽くされるべき言葉はあふれている。

 以前から “18K” といった曲で垣間見えていた彼のクリエイティヴィティがいよいよ結実した『FR FR』は、次々に繰り出されるラップの集積が、カットを積み上げ延々とフィルムを回し続ける映写機のような技巧で生み出されている。この忙しなくオーヴァーラップし続ける映像的なラップこそが彼のオリジナリティだ。と同時に、映画のごとく移りゆくその描写には、日本語ラップに脈々と受け継がれてきたあらゆる断片も観察できる──RHYMESTER の鋭い一人称、キングギドラの体言止め技法、BUDDHA BRAND のナンセンスな言語感覚、 SEEDA のユーモア──それらすべてを。

 1曲目の “あと” から、センスが猛威をふるっている。「金と/あと/知名度/あと/お化粧/加工/が上手い女の子」というリリックから「あと」をタイトルに抜き出す感覚が斬新だ。めくるめくラップを次々に発していくスタイルを、「あと」という一言でサクッと象徴させる軽やかさ。一方で、「踵踏まない大事に履く靴/靴 今トヨタ プップ/No new friends 今ので十分/あの子気になるおれのクリスマス/その日も見えない所skill磨く」というお得意のリズミカルなリリックによって「毎日磨くスニーカーとスキル」(Lamp Eye “証言”)といったクラシックへさり気なくオマージュを捧げることも忘れない。

 映写機のごとく回り続ける技巧が最も機能したのは “BALLIN” である。言葉をころころ転がすような早口と叙情的なメロディが同時に奇襲するこの曲は、「辞めたタバコ好きだったナナコ/徳島サッカーのみな産む赤ん坊/ピカソじゃないパブロの真似/古着買ったTommy/そからballin黒髪でもballin/簡単に思い浮かぶ絵/最終は俺が勝つgame」というラインで、パラパラ漫画を彷彿とさせるシーンの転換が見事になされる。さらにはそのような場面展開が、ただことばの次元に留まるのではなく運動となってイメージを喚起する点が Watson の独自性であろう。たとえば、“DOROBO” の「夜書く汗と けつ叩く歌詞を/前行く為でしょ 人間足ついてる2本/関係ないパンパン膨らませるお下がりの財布も/プレ値がパンパンついた服着るおれ丁度いいサイズを」というライン。ここで「人間足ついてる2本」という映像的なリリックを差し込んでくる才能には、ひれ伏すしかない。この2本の足は “I’m Watson” で「金なくって乗れないタクシー都合いいよ俺には/歩きながら書いてるリリック1年前の俺21」というリリックに接続され、見事なモンタージュを見せる。“Living Bet” における、「持つペンが手首につける腕時計」や「枯れる事知らないタトゥーの薔薇」というラインも同様である。耳にするすると飛び込んでくる発音が「腕時計」や「薔薇」というイメージとして立ち上がり視覚へと昇華されるさまは、極めて立体的な視覚性に満ちている。

 そもそも、ラップのスキルが桁違いではないだろうか。ハッキリとした活舌が基盤にあるのはもちろんだが、“DOROBO” での「ZARA menのジャケット」「PRADA」など、炸裂する巻き舌が楽曲を随所でドライヴさせる。音程を上げることで高揚感を効果的に演出する技も見事で、同じく “DOROBO” での「なけなしの金」や “I’m Watson” での「チョップ」「パーティ」など、メロディアスなラップのなかでもさらに強弱をつけることで各シーンを映し出すカメラが躍動し続ける。

 群雄割拠のラップ・シーンにおいて、いま、高い技術を持ったラッパーは数多くいる。しかし、ここまでスキルフルで独創的でありながらも模倣を促すようなチープさを感じるラップは、それこそ KOHH 以来と言えるだろう。もちろん、その間に LEX や Tohji といった素晴らしい演者もいた。ただ、LEX のラップの新規性はフロウの多様さにあり、Tohji のラップの革新性はラップというフォーム自体の解体作業に宿っている。一方で Watson のラップは、「誰もが真似しやすくゲームに参入しやすい」民主性に則っており、その点で KOHH が『YELLOW T△PE』とともに現れた2012年以来、約10年ぶりにゲーム・チェンジャーとして抜本的にルールを変える力を秘めている。

 私は『FR FR』を聴き、随所に用意されたユーモアへ宿る哀愁についてチャールズ・チャップリンを連想せずにはいられなかった。この徳島の若きラッパーが膨大なカットを積み上げ延々と回し続ける映写機によって映し出すのは、「裁判所で泣くママ治すZARA menのジャケット/先輩かばってももらえない約束のお金/これで稼いで贅沢させるマジ/友達にvvsあげたい」といった、哀しみに支えられたユーモアである。ここには、チャップリンの『街の灯』のような、普遍的なドラマ性を支える必死の運動がある。

 Watson の時代が来た。日本語ラップの新たなスクリーンが幕を開けたのだ。

Johnnivan - ele-king

 考えてみるともうほとんど洋楽/邦楽という言葉を使わなくなったしあまり意識もしなくなったのかもしれない。
 THEティバのアルバムを聞いてそのままにしていた僕の Spotify のアルゴリズムは続けてサウス・ロンドンのダンス・ロック・バンド、PVA の曲を流して、そしてその後に東京のインディ・バンド、Johnnivan の曲を流すようなそんな提案をしてくる。サブスク時代になりジャンルの仕切りも場所の境界線も曖昧になっていっていろいろな国で活動する人たちの音楽がなんとなく地続きというか隣にあるようなそんな感覚になってきているようにも思える。アーティストへの還元率の問題など、輝く未来がはたしてそこに広がっているのかと考えなければいけない部分もあるが、テクノロジーの発達によって手段が増えて音楽を聞くという行為がまた少し変わりつつあるのではないかと感じている。過去のバンドの曲とも容易に比較できるようになって、だからこそその違いや共通項がより一層気になるのかもしれない。共通した空気を持ちながらもどこか違って、その違いがその時々でことさら魅力的に思えたり心をくすぐるスウィートスポットに入ったり。そんなことをぼんやりと考えながら間に挟まった自動再生をそこで止め、今度は自ら操作して何日か前に聞いて良いと思っていた Johnnivan の2ndアルバム『Give In!』をまた最初から聞く。

 Johnnivan は東京の大学で出会い結成された日米韓のメンバーからなる多国籍なバンドだ。2020年の 1st アルバム『Students』から2年のインターバルを置いてリリースされたこの『Give In!』は前作から進んだ Johnnivan の新たな形が詰め込まれている。トーキング・ヘッズやLCDサウンドシステムのようなバンドに影響を受けたというルーツは健在だけど、このアルバムには前作よりも懐が深くなりガチガチに固めずにリラックスしているような、聞いていてその音楽のなかに浸り漂うことができるような遊びがある(狭い部屋での出来事からより広いスペースを持った木々に囲まれた湖畔に出たようなそんな印象だ。ジャケットの青に引っ張られているのかもしれないが水の上に浮かんでいるようなそんな感じもしている)。同じく〈DFA〉に所属するバンドに強く影響を受けていると思しき PVA のデビュー・アルバムと比べるとだいぶ柔らかく、あるいは〈Heavenly〉のウェスト・ヨークシャー出身のバンド、ワーキング・メンズ・クラブの 2nd アルバムと比較してもどこか祝祭的でユーモアも感じられる。これは Johnnivan がシンセサイザーをメインのアクセントとして使い組み合わせ、軽やかに揺れるこのアルバムの雰囲気を作り上げているからなのではないかと思うのだけど、ダンス・ミュージックとギター・バンドを混ぜたような音楽を一様に指向しつつもそれぞれアウトプットが異なっているのが面白い。
 『Give In !』に収録されている “Spare Pieces” やその後の “Table for Two” の流れは〈DFA〉のバンドというよりむしろ00年代後期に活躍したスウェーデンのエレクトロ・ポップ・ユニット、タフ・アライアンスのことが頭に浮かぶくらいだ。祝祭感を生み出す音像にひねりを加えたポップでユーモラスな展開、それでいながら影を抱えたバランスとニュアンスが絶妙で、この表現の仕方が Johnnivan の 2nd アルバムの特徴なのではないかと思う。80年代のポップ・ソングを感じるシンセの音とギターで引っ張る “No One is Going to Save You” ですらもその裏で孤独や焦燥、自傷というネガティヴな感情を抱え込んでいて、それらの重い感情がポップ・ソングのなかに混ぜ込まれている。アルバム終盤の “Forever”、“Otherwise” などは音楽的にも暗さを残しているけれどそのビートでもってゆるやかに体を揺らす。そこにあるのは絶望ではなくて過去に起こったことを見つめる視点だ。悲しみの強い発露ではなく現状に対する大きな怒りでもない、だからこそ音楽に体をゆだね思考を漂わせることができるのだ。これこそが Johnnivan のこの 2nd アルバムの魅力なのではないかと思う。そしてこの感覚が新鮮に心地よく響く。

 次の曲に繋がる誰かの曲、そして行動、地続きのようにも感じることのできるインターネットの世界のなかで、こんな風に比較が簡単にできるようになったからこそより一層何を見、何を受け取り、それをどう表現しているのかというのが気になるようになってきた。そこからどう変わっていくのかが気になるし、その周辺でどんなことが起こるのかと考えてワクワクする。これは半年前にオランダのバンド、ア・フンガスのレヴューにも書いたことだけど、それと同じことがここ日本でも起きているのではないかとそんな気配を感じている。UKやUSのインディ・シーンと接続するような違った国のバンドたち、その共通した部分と異なった部分が性質を変える差異を生みだし、刺激し、空気を作り、それが自然と心を躍らせるのだ。

ele-king vol.30 - ele-king

■特集:エレクトロニック・ミュージックの新局面

表紙・巻頭インタヴュー:Phew
インタヴュー:ロレイン・ジェイムズ

コロナ以降激変するエレクトロニック・ミュージックの新たな動向を追跡、
今後10年の方向性を決定づけるだろう音楽の大図鑑!

シーン別に俯瞰するコラム、ディスクガイド、用語辞典、日本の電子音楽の新世代、ほか

■2022年ベスト・アルバム特集
20名以上のライター/DJなどによるジャンル別ベスト&個人チャート、編集部が選ぶ2022年の30枚+リイシュー23枚で2022年を総括!

目次

特集:エレクトロニック・ミュージックの新局面──2020年代、電子音楽の旅

インタヴュー Phew (野田努)
Phewについて──生きることを肯定する、言葉の得も言われぬ力 (細田成嗣)
インタヴュー ロレイン・ジェイムズ (ジェイムズ・ハッドフィールド/江口理恵)

ディスクガイド
2020年代エレクトロニック・ミュージックの必聴盤50
(髙橋勇人、三田格、河村祐介、yukinoise、デンシノオト、ジェイムズ・ハッドフィールド、野田努、小林拓音)

2020年代を楽しむためのジャンル用語の基礎知識 (野田努+三田格)

コラム
ジャパニーズ・エレクトロニック・ミュージックの新時代 (ジェイムズ・ハッドフィールド/江口理恵)
ベース・ミュージックは動いている (三田格)
2020年代を方向づける「ディコロナイゼーション」という運動 (浅沼優子)
音楽は古代的な「魔法」のような存在に戻りつつある (ミランダ・レミントン)
暴力と恐怖の時代 (三田格)

2022年ベスト・アルバム30
2022年ベスト・リイシュー23

ジャンル別2022年ベスト10
エレクトロニック・ダンス (髙橋勇人)
テクノ (猪股恭哉)
インディ・ロック (天野龍太郎)
ジャズ (大塚広子/小川充)
ハウス (猪股恭哉)
インディ・ラップ (Genaktion)
日本ラップ (つやちゃん)
アンビエント (三田格)

2022年わたしのお気に入りベスト10
──ライター/アーティスト/DJなど計23組による個人チャート
(青木絵美、浅沼優子、天野龍太郎、大塚広子、岡田拓郎、小川充、小山田米呂、河村祐介、木津毅、柴崎祐二、杉田元一、髙橋勇人、つやちゃん、デンシノオト、野中モモ、ジェイムズ・ハッドフィールド、二木信、細田成嗣、Mars89、イアン・F・マーティン、Takashi Makabe、三田格、yukinoise)

「長すぎる船旅」の途上で歌われた言葉──2022年、日本のポップ・ミュージックとその歌詞 (天野龍太郎)
2022年は大変な年でした (マシュー・チョジック+水越真紀+野田努)

Cover portrait: Masayuki Shioda
Collage: Satoshi Suzuki

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Jeff Mills - ele-king

 ジェフ・ミルズがなんと、ディオールの音楽を手がけている。12月4日に発表された「2023年フォール メンズ コレクション」は、「Celestial」と題され、ギザの大ピラミッドを背景に近未来的に演出されているのだけれど、デザイナーのキム・ジョーンズがセレクトしたミルズの楽曲群がアフロフューチャリスティックな要素をつけ加えている(最初のみサバーバン・ナイト“The Art of Stalking”)。トラックリストは下記よりご確認を。

Tracks include:

Suburban Knight / The Art Of Stalking *
X-102 (Jeff Mills) / Daphnis (Keeler’s Gap)
Jeff Mills / Microbe
Jeff Mills / A Tale From The Parallel Universe
Jeff Mills / Gamma Player
Jeff Mills / Resolution
Jeff Mills / Step To Enchantment (Stringent Mix)
Jeff Mills / The New Arrivals

*The Art Of Stalking by Suburban Knight courtesy of Transmat Records

 ちなみにミルズは11月25日に新作EP「Extension」をリリースしたばかり。そちらもチェックしておきましょう。


Label: Axis Records
Artist: Jeff Mills
Title: Extension

Format: EP
Release Format: Vinyl & Digital
Release Date: November 25, 2022
Cat. No. AX109
Distribution: Axis Records

TRACKLIST
A: Rise
B1: The Storyteller
B2: Entanglement

axisrecords.com/product/jeff-mills-extension-ep/


 このNY連載も早いもので(パンデミックの間はお休みしましたが)134回目。ボツもあるので150回ぐらいコラムを書いているが、そのなかにはなんどか同じ話題を書いたこともある。6年前、私はVol.83にてNYのあるレコード店が閉店する話を書いた。そのお店、〈アザー・ミュージック〉のドキュメンタリーが先日、日本でも公開された。
 私はコラムにも書いたように、お店が閉店する日のインストアに行って、一緒に街をセカンドラインのごとく練り歩いた。そして、バワリー・ボールルームで小野洋子さんとヨ・ラ・テンゴ、サイキック・イルズを見るという素晴らしい1日を共有することができた。そのときは将来ドキュメンタリー映画ができるなどとは思っていなかったけれど、このレコード・ストアが存在したことは次世代へと伝えていくべきだとは思っていた。つい最近は、エレファント6(2022年11月10日リリースThe Elephant 6 Recording Co.)のドキュメンタリー映画も完成している。〈アザー・ミュージック〉もそうだが、こちらも00年代のUSインディ・ミュージック・シーンの貴重な記録となっていることだろう。

 さて、〈アザー・ミュージック〉が存在した90年〜2000年代は、今日のようなデジタル社会ではなかった。まだアナログ時代なので、アメリカに不慣れだった私も紙の地図を片手に街を歩く日々だった。そんな私は、初めてNYに到着すると空港から直行で〈アザー・ミュージック〉に行ったものだった。なぜならレコード店には、私に必要な情報が揃っている。どんな街でもそれは同じだ。店にあるフライヤーでその日の夜のライヴ情報を得て、店員が推薦する音楽を聴いたり、おいしい食べ物やおすすめのお店などその土地の情報を教えてもらったりする。
 ちなみに私が初めて来たアメリカの都市は、ボルティモアで(アニマル・コレクティヴ、ダン・ディーコンの出身地ですね)、初めて見たショーがカーディガンズとパパス・フリータスのショーだった(その時期日本はスウェディッシュ・ポップが大流行)。たまたまその日に入ったレコード店にフライヤーがあって、店員に「このショーに行きたいんだけどチケットはここで買える?」と聞いたら、「直接会場へ行け」と言われた。行ったらチケットは売り切れで、結局そこにいたダフ屋から買った。正規の値段は$5だったが、ダフ屋は$10(千円ちょっと)。許せる範囲だった。
 しかもその晩見たショーは感動の連続だった。パパス・フリータスとは直接話すことができたし、レコード店で買った7インチにサインももらった。カーディガンズのニーナ嬢には、「良かったよ!」と言ったら「サンキュー」とスマイルを返してもらった。憧れのバンドを見れたし、話せたし、うれしさで舞い上がってしまい(そしてショーの安さに驚き)、アメリカに引っ越すことを決めてしまった。その日、レコード店に行ってなかったらショーには行かなかった(あることも知らなかった)。やはり、レコード店にはマジックがある。

 話は前後するが、私が初めてひとりで行った街はロサンゼルスだった。日本から近いし、ショーがたくさん見れると思った。LAが歩いて移動できないことなんて知らなかったほど、無謀ではあったが。しかし、たまたま取った安いホステルがハリウッドにあって、そのホステルから歩いて5〜10分のところに〈ノーライフ〉というレコード店があった。滞在中はずっとそこに通った。フライヤーをチェックして、コーヒーを飲みながらソファーに座ってたくさんのCDを聞いた。店員も毎日来る日本の女を覚えてくれたようで、向こうから「今日はこのショーがあるよ(自分のバンドだったりする)」とフライヤーを渡してくれるようになった。やがてビーチ・ウッド・スパークのメンバー(当時ストリクトリー・ボールルーム)と仲良くなって練習に連れていってもらったり、ブライアン・ジョーンズ・タウンのメンバーの家に遊びに行ってミンストレルズというバンドを紹介してもらった(彼らはLAショーのコーネリアスのオープニングでプレイした)。〈ノーライフ〉には多くのLAローカルなバンドを教えてもらった。たくさん知りすぎてレーベルを立ち上げるまでになった。ミンストレルズも私のレーベルからも作品をリリースしている。
 こんな風に、レコード店がなかったら私はレーベルをやらなかったし、そもそもアメリカに引っ越すこともなかった。私はアセンス、ミネアポリス、シカゴ、シアトル、ポートランド、サンフランシスコ、プロヴィデンス、ボストン、オースティンなど、アメリカの小さな大学街を5年ほど放浪していたが、初めてその街に着いたら最初に行くところは決まってレコード店だった。そこで地元の情報、おすすめのレストランや洋服屋、別のレコード店、音楽会場やバンドまでたくさん教えてもらったし、友だちも増えた。

 〈アザー・ミュージック〉は1995年、タワー・レコードの向かいに開店した。タワーにはない「他の=other」ミュージックを扱うということで店名は決まった。私の〈アザー・ミュージック〉の過ごし方は、まずは入ってフライヤー・コーナーでショーやイベントをチェックする。そして、どんなCDやレコードが面出しされているのか店内をぐるっとし、スタッフのお勧めコーナーを見る。雑誌コーナーもむらなくチェックしたり、こんな感じで長い時間を過ごした。自分の執筆していた雑誌やレーベルのCD、レコードなどを置いてもらったりもした。このレコード店では、本当に多くの時間を過ごしたものだった。私のレーベル〈コンタクト・レコーズ〉の最初のコンピレーションCDのカヴァーは〈アザー・ミュージック〉の店内だった。反射鏡(防犯鏡?)が店内にあり、そこに写った画像だが、インディ・ミュージックのコンピレーションのカヴァーとしてばっちりに思えた。
 私は、人が少ない朝の時間に行くようにしていた。あるとき店員が音楽をかけていて「これは誰?」と聞くと、自分の音楽やレーベルの音源を試し聞きするためかけていただけだったこともあった(笑)。〈アザー・ミュージック〉の店員はみんなクリエイティヴな活動をしていたし、お店は、いろんなプロジェクト誕生の土壌にもなっていた。ドキュメンタリー映画を作ったのも元お客さんだ。ディレクターの2人はここで出会って結婚して家族を築いている。オーナーのジョシュの奥さんもここの店員だった。私の担当者は、最初はフィル(現デッド・オーシャンズ)、スコット(パンダベアとJaneというバンドをやっていた。DJ)、ジェフ(ヴィデオ・グラファー)、ダニエル(アーティスト)だった。
 〈アザー・ミュージック〉はジャンルの分け方も独特だった。レコードやCDは、ただ「IN」と「OUT」のふたつだけに分かれていた。「IN」がインディで「OUT」がそれ以外。「OUT」のなかにはジャズやアンビエント、グローバル。ミュージックなどがあった。

 デジタルな現代ではレコード店に行かなくても地元の情報はすぐに手に入るようになった。欲しいレコードがあればインターネットで検索すればいいし、たくさんの情報が瞬時に手に入る。しかし、それでもレコード店はなくならない。この連載のVol.132「NYではレコードのある生活が普通になっている」でも書いたが、〈アザー・ミュージック〉がクローズしてからもNYにはたくさんのレコード店がオープンしている。ただ、〈アザー・ミュージック〉の時代はデジタル社会の現代では体験できない、特別なアナログな一体感があった。仕事が終わったらレコード店に行って休みの日もレコード店に行く。たわいもない話をし、友だちがいたら紹介しあい、新しい音楽に出会える可能性があることにわくわくした。地元の人が集まってのデジタル上では味わえない体験、私たちが〈アザー・ミュージック〉から学んだこうしたコミュニティ感は、この先も継承されていくべきものだ。

 私は最近、1か月に1回ブッシュウィックのミードバーで「たこ焼き」を焼きながら音楽イベントをオーガナイズしている。面倒な手続きはなくライヴ・ミュージックやDJができるので、若い人から年配までやりたい人が自由に参加するイベントになっている。友だちが友だちを呼んで、たくさんのミュージシャン、アーティスト、ファッション・デザイナー、ヘアドレッサー、アニメーター、ダンサーなど参加してくれている。次回で63回目、3月で6周年を迎えるが、レギュラーも増えているし、とりあえず来る人も増えているのでブッシュウィックのなかでひとつの小さなコミュニティを築いていると感じられるようになった。
 こうした小さなイベントのようなものは他でもあるはずだ。オンライン上にもあるかもしれない。好きな音楽の話だけで仲良くなれる。このコミュニティ感は〈アザー・ミュージック〉から引き継いだものだ。かつては、〈アザー・ミュージック〉がNYインディの大きなコミュニティの代表だったが、今日では小さい〈アザー・ミュージック〉型コミュニティがたくさんあるのではないだろうか。

 〈アザー・ミュージック〉が閉店して6年が経った。いま私たちはコロナ時代を生きている。仕事もなくなり、野菜や卵、スーパーマーケットにあるものの値段が上がり、外食もチップの率が18%から25%が平均になるなどお金がかかる世界になった。NYはそのせいで精神状態が不安定な人が多くなって、治安が悪化している。未来はいったいどうなるのかと不安が多い今日この頃だ。〈アザー・ミュージック〉のドキュメンタリーを見ると、しかし大事な物はそこにあると改めて確認することができる。こんなに幸せな気持ちになれるドキュメンタリーを見ない手はないというのが私の意見です。
 ご存じのように、〈アザー・ミュージック〉は実店舗は終わったが、オンライン・ストアはあるカム・トゥギャザーというレコード・フェアを1年に1回開催してもいる

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