「K A R Y Y N」と一致するもの

Chimurenga Renaissance - ele-king

 3月末に首相官邸で行われたアベとムガベの握手がまるで独裁政権の契り合いに見えてしまったからではないけれど、ムガベ大統領が30年以上も牛耳るジンバブエにルーツを持ち、父親がンビラ(親指ピアノ)奏者としてマリンバ・アンサンブルを率いていたテンダイ・マレーアと、コンゴに起源を持つらしきフセイン・カロンの2作目を。マレーアはディゲブル・プラネッツのシュマエル・バトラーとスター・ウォーズ由来らしきシャバズ・パレシィズとして〈サブ・ポップ〉からも2枚のアルバムをリリースしてきた成長株。ユニット名に使われているチムレンガとは戦いとか抵抗といった意味らしく、近年は人権や社会正義を示すようにもなっているという(タイトルの「銃を持った女たち」とは橋元さんのことだろうか?)。

 2年前のデビュー・アルバムはそれこそシャバズ・パレシィズに作風も近く、マルカム・マクラーレンを思わせるシャンガーンなどもありつつ全体としてはヒップホップの範疇に留まるものではあった(映像も楽しめる→https://www.youtube.com/watch?v=2ChY5_uSR-8)。それが、ここではジャケットに貼られたステッカーでも強調しているようにジンバブエのビートとコンゴのギター奏法が前面に押し出され、US風のヒップホップはかろうじて殻を残しているだけに過ぎない。セネガルのヒップホップなどはあまりにもアメリカのコピーでしかなく、アフリカの遺伝子がむしろ移民先で花開くという図はダンス・ミュージック全体に見通せることとはいえ、これだけ面白い例はなかなかないかもしれない。レーベル・サイドはこれに「アフロ-フューチャリスト・ヒップホップ」というレッテルを与えている。

 透明度の高いギター・サウンドが終始、明るいムードを呼び込むのに対し、歌詞はかなり政治的らしく(それはムガベに対するもの? それともアメリカ?)、「およげ!対訳くん」とかで取り上げてくれないかなーと。前作同様、宇多田ヒカルが絶賛していたジーサティスファクションからサッシー・ブラックもMCで参加。アナログ・オンリーのようで、ダウンロード・コードが付いてます。

 アフリカついでに、ドミューンでもけっこう受けたゴールデン・ティーチャーのメンバーが参加したグリーン・ドアー・オールスターズのデビュー作も。これはグラスゴーとガーナ、そして、ベリーズ(旧英領ホンデュラス)から複数のグループが混在としたセッション・バンドで、どうやら主導権を握っているのはグラスゴーのグリーン・ドアーというスタジオ(〈ZEレコーズ〉からマイケル・ドラキュラの名義でアルバムをリリースしていたエミリー・マクラーレンがプロデュース)であり、同じくグラスゴーのハントリーズ&パーマーズ(『クラブ/インディレーベル・ガイドブック』p.55)から主宰のアウンティ・フローやオプティモのJ・D・トウィッチが最終的に宅で仕上げているという過程はどうしてもエイドリアン・シャーウッドのニュー・エイジ・ステッパーズを想起させる。ただし、レゲエではなくアフリカ。アリ・アップの役回りはやはりゴールデン・ティーチャーのキャシー・オージでしょうか。

 オープニングからしばらくはイメージ通りのアフリカ音楽が続き、だんだんダブを多用したり、クラブ的なスキルが比重を増してくる。エンディング近くになってくると、パーカッションの刻み方だけでアフリカ音楽を感じさせるだけで、チムレンガ・ルネッサンス同様、形式性はどんどん希薄になっていく。どこまでやったらレゲエとは呼ばれなくなるかという問いがニュー・エイジ・ステッパーズに存在していたとしたら、同じことがここではアフリカ音楽によって行われていることは間違いない。時にハンドクラップだけ、ハットとコーラスだけでアフリカがそこに立ち現れてくる。

 ハドソン・モホークやラスティといったベース系だけでなく、グラスゴーといえばメアリ・スチュワート人気といい、スコットランドの独立騒ぎであれだけ高揚したんだから、面白い音楽が出てこないほうがおかしいともいえるけれど。

Washington square park 4/13 - ele-king

 選挙キャンペーン #BerninUpNYC - Get Out the Vote (GOTV) Party & more
 以下、ワシントンスクエア・パークのバーニーショー(サンダース応援コンサート)の模様です。ヴァンパイア・ウィークエンドとダーティー・プロジェクターズが演奏、ものすごい人です。ヴァンパイア・ウィークエンドはバーニーショーに出るのはこれで3回目。

PHOTOS:via Brooklyn vegan



Dirty projectors


Vampire weekend & dirty projectors


Vampire weekend






スポットライト 世紀のスクープ - ele-king

 今年のアカデミー賞のステージに、クリス・ロックは白いタキシードを着て現れた。#OscarSoWhite――「白すぎるオスカー」は何もいまに始まった話ではない。少なくとも去年も話題になったが、今年騒ぎになったのはやはり2015年がはっきりと政治の年だったからだろう。クリス・ロックが司会者に選ばれた時点でそれはスーパーボウルのビヨンセやグラミー賞のケンドリック・ラマーから続くパフォーマンスだったと言えるし、ボイコットも続くなかアカデミー賞側も何かしなければ格好がつかなかったわけだ。が、その「何か」はなかなか見応えがあった。クリス・ロックがあっさりと「司会もノミネート制だったら僕は選ばれなかったね」と言ってポリティカル・コレクトネスを皮肉ったように、ガチガチに正しいことからは外れようとする態度があったのだ。授賞式の間では人種ネタ――ほとんどはブラック関係だった――のジョークがしつこく挟まれ、そこに集まった白人のスターたちの表情を固くさせていた。「今年の追悼映像は、映画館に行く途中で警官に殺された黒人を集めた」というジョークなどはたしかに重いものがあったし……。あるいは、「黄色くて小さいひとはノミネートされてないよね? ……ミニオンズのことだよ」と言ったサシャ・バロン・コーエンもなかなかに光っていた。
 いまドナルド・トランプのようなひとが面白がられているのは、強固になっていくPCに対する反発だという見方もある。たしかにアメリカン・カルチャーからきわどいジョークが減ったなというのは僕も感じていたところで、そういう意味ではレオナルド・ディカプリオが環境問題について語ったり、サム・スミスがLGBTライツについて訴えたり、あるいはレディ・ガガがレイプの被害者たちを連れてステージに立ったりしたことは、非常に2016年的な振る舞いに見えた。何か社会正義を訴えなければならない空気がアメリカのポップ・カルチャーにはいまあるのだろう。だからこそ、社会的意識を持ったままそのような堅苦しさからどのように脱却するのか、が課題であるように感じられるのである。

 そうした観点からすると、誰もが認める大物黒人俳優であるモーガン・フリーマンがプレゼンターとして作品賞を『スポットライト 世紀のスクープ』に渡したのは象徴的な一幕だった。同作は膨大な人数のカトリック神父が児童に性的虐待を行っていたことを暴いたジャーナリスト・チームを描いたものであり、とても正しく、骨太で、リベラルな政治的主張があり、そしてとても白い映画である。マッカーシー監督の代表作『扉をたたく人』(07)のように義憤があり、真面目な作品だ。個人的にどの作品を評価するかを別とすれば、本作が今年のアカデミー賞作品賞を獲得したのは妥当なところだと思う。
 ただ、では『スポットライト』が退屈な作品かと言えばそうではないのが、アメリカのエンターテインメント産業の足腰の強さなのだろう。品行方正すぎるという向きもあるだろうが、それでも社会派エンターテインメントとしての完成度は非常に高く、ひとつの極としてこうしたものが絶対にあったほうがいいと思わされる。とくに被害者の感情に捕まり過ぎることなく、現場で明らかになっていくこと自体をエンジンとしてドライヴしていく様はなかなかにスリリングだ。何よりも「メディアは何を報道するべきか?」というごく真っ当な問いがある。ボストン・グローブ誌のコラム<スポットライト>チームはある種のふるき良きジャーナリズムとして描かれており、全員がヒーローのように映される。俳優陣が渋めなのもいい(しかも一番いい役がリーヴ・シュレイヴァーという地味さ)。そもそも冒頭の場面が1976年から始まる時点で、ロバート・レッドフォード『大統領の陰謀』との繋がりを強調したかったのだろう。

 来年アカデミー賞はどうなるのだろう? わざとらしい配慮がされたノミネートになったら、それこそ炎上するのではないか? ボストン・グローブのジャーナリストたち、ひいては『スポットライト』が暴いたのは一部の悪人の行いではなくて、組織的な腐敗そのものだった。#OscarSoWhiteにおいても同じように、ポップ・カルチャー産業の構造自体が歪なものであることがあらためて浮き彫りにされたわけであって、多様なカルチャーに根差した作品が作られていくことこそがこれから求められていくことだろう。授賞式はたんなるお祭に過ぎないのである。
 大統領選を見ていても思うが、政治がポップ・カルチャーのなかに否応なく食いこんでくるアメリカという国には呆れつつも感心してしまう。アカデミー賞の最後、『スポットライト』チームが授賞に喜ぶなか出てきたクリス・ロックが最後にあのにやけた顔で放った言葉はもちろん、「Black lives matter!」だった。

予告編

 日本で優雅に桜を見て、4/5にNYに戻ると、周りは選挙モードがいっきにヒート・アップしていた。
 ご存知の通り、2016年はアメリカ大統領選挙の年。民主、共和両党の候補者指名争いが佳境を迎え、3/1の「スーパー・チューズデー」で民主党はクリントン氏、共和党はトランプ氏がリードした。7月の全国大会で両党の候補者が決まるが、その前、4/19は、NY州での予備選挙(プライマリー)がある。
 ニューヨーク州上院議員を務めたヒラリー氏(お住まいはNYのアップステイト)、NY市のブルックリン生まれのサンダース氏(以下敬称略)、どちらにも所縁のあるNYで、両方の民主党のキャンペーンがピークに達している。

 私はインディ・バンドを追いかけているので、どうしてもバーニー寄りになるのだが、4/1からバーニー・サンダーズのNYラリーが始まった。
https://berniesanders.com/new-york-rallies/
 上のリンクはオフィシャルで、細かいNYCラリーが沢山ある(ワシントン・スクエア、パーク・スロープ、ロングアイランド・シティなど)。4/1にはブロンクス(18,000集客!)、4/8のお昼には、彼の生まれたミッドウッド、そして5時からグリーンポイントのトランスミッター・パークでラリーが行われた。グリーンポイントには寒い中、1000人以上のオーディエンスが集まった。


Supporter at greenpoint (Photo via gothamist )


Crowd at transmitter park greenpoint (Photo via gothamist )


Supporter in mid wood (Photo via gothamist )


Sarandon & Sanders (Photo via gothamist )


Kid at transmitter park(Photo via gothamist )


BerninUpNYC event Outside

 女優のスーザン・サランドンが「あなたは今、歴史の一ページにいます。誇らしいことです」と、バーニーを紹介し、NYの選挙が彼にとってどれだけ大切か、みんなのサポート、エネルギーで、勝利を勝ち取りたいと力強く呼びかけ、オーディエンスから拍手喝采を浴びていた。
 ラリーは引き続き我がブルックリンでも続いていて、4/19まで、いろんなところでバーニー・パーティが開催されている。4/12にはブシュウィックのlot45というインディ・バンドが良くショーをするスペースで「#BerninUpNYC - Get Out the Vote (GOTV) Party」が行われた。伝説の(テイトウワが在籍したことでも知られる)deee-liteのレディ・ミス・キアがDJ、ほかにも多くの心に響くスピーカー、ゲスト、選挙キャンペーン・チームなどが参加した。
 外は、大勢の警察が動員されセキュリティを管理。IDを見せると、バーニーの似顔絵の入ったオリジナル・スタンプを押してくれる。手前のラウンジは、ボランティアを呼び掛けるテーブル、バーニー・グッズの販売、フォトブース、寄せ書き、ポスターなどで投票を呼び掛け、スタッフも参加者も、思い思いのバーニー・コスチュームを身につけている(ハロウィン状態!)。

 ダンスフロアではスピーチが行われ、オーディエンスに自分たちのアメリカを変えよう、と訴えかけ、その度に拍手喝采や野次が飛び、ふと、スーパーボウルを思い出した。この団結力が、アメリカなのだ。
 「#BerninUpNYC」、「#FeeltheBern」, 「#GOTV」などのハッシュタグを使ってソーシャルメディアで拡散して、と呼びかける。
 ダンス・パーティも抜かりない。DJが良いのはもちろん、思わずダンスしたくなる選曲で、みんなをチアアップする。そして後ろに流れる、ビジュアル・ミックスの素晴らしさ! バーニーの演説やヒラリーとの絡みの映像はもちろん、バーニーのイラストをぺーパーラッド(https://paperrad.org)が加工したのか?、というカラフルな映像や、バーニーの顔だけが本物で下半身がヒゲダンスしているなど、詳細ミックスも凝っていて、この日来ているみんなはかなり熱かった。
 また、バーニーの支持者にはヒップスターが多く、ヴァンパイア・ウィークエンド、TVオン・ザ・レディオ、グリズリー・ベアなどのインディ・バンドも、バーニーのためにショーをする。

 とは言っても、ヒラリー支持者もいるわけで、こんなバーニーなNYで、ヒラリー支持者は肩身が狭いが「それもあり」と支持者を釣る「chillarynyc 2016」(https://www.facebook.com/events/531816170312368/)というイヴェントもある。
 4/19がどうなるか、今週末も選挙イベント満載なNY、私は今からヴァンパイア・ウィークエンド。、ダーティー・プロジェクターズ、スパイク・リー、グレアム・ナッシュなどが出演する、ワシントンスクエア・パークのラリーにいってきます。


ChillaryNYC event poster (Via Bedford & bowery)

Yoko Sawai
4/13/

Frankie Cosmos - ele-king

 ああ、短い。1分、2分たらずのポップ・ソングが15曲。気がつけばすべて終ってしまっていて、しかしその終ってしまった時間のなつかしいこと……。

 いわゆる2ミニット・ポップというのとはニュアンスがちがう。楽天的でキャッチー、かつ鉄壁のポップ・フォーマットを持っている、というのではなくて、それはさながらため息のような、笑い声のような、問いかけであり独白であるような、とりとめのない一筆書きの感情の束というのに近い。「曲」という単位がふさわしいのかどうかもわからない。メモ紙が風に飛ばされるようにわっとこちらにやってきて、その白い残像を網膜にやきつけてどこかへ消えていく。なんと軽やかで、しかしなんという質量をもっていることか。

 ああ、いまのあれは何だったのだろう……心地よい渇きとともにあらためてわれわれはその名を記憶する。フランキー・コスモス。ニューヨークのシンガーソングライター、グレタ・クラインのプロジェクト。齢20歳ちょっと。2014年の『ゼントロピー(Zentropy)』をご存知のかたも少なくないはずだ。しかし彼女を聴くのに順序やバイオは関係ない。どこを切ってもそのままのフランキー・コスモスが姿をのぞかせるし、彼女に触れることがそのまま彼女を聴くことになるということを私たちはすぐ知ることになる。

 ローファイでシンプル。ギター主体のバンド・アンサンブルが基本だが、楽曲をつくるのは彼女であり、あくまでクラインのプロジェクトとして成り立っている。素朴ではあるが、それを天然と呼ぶにはあまりに聡明かつ理性的、そしてヘタウマというにはあざとさがない。ビート・ハプニングを思わせる。キャルヴィン・ジョンソンのあり余るタレント性の中から、ちょっとした露悪性というかクセの強さを差し引くイメージだ。あるいはそのキャルヴィンによる〈Kレコーズ〉のタイガー・トラップの自然体を思い出す。旋律のひとつひとつが生き生きとして、風のように力が抜けている。かつ構成的でも様式的でもない。音楽でなくてもよかったのではないかという普遍性と、音楽でなくてはならなかった特別なよろこびに満ちている。

 歌われていることは、基本的には一人称の、クライン自身の生活に根差すことがらのようだ。物語性や詩的な飛躍が強いわけではないが、体験を生々しくつづるというのでもない。まだとても若いのに、どことなくものを儚み、倦んでいるような調子があるのがとても印象的だ。いまは離別したとおぼしき思い人の町をひとりで歩き、いろんなものに相手の気配を感じとっていくというかわいらしい心情の歌われる"O・ドレッデッド・C・タウン"も、最終的に耳に残るのは「I don't know or care to know」という諦めのニュアンスばかり。バンドには彼氏さんだというポーチズのアーロン・メインも参加し、彼のポーチズにもクラインが参加していて、昨年はふたりで制作したEP『フィット・ミー・イン』もリリース、ポーチズに寄った柔らかいシンセ・ポップが収められているばかりか、ジャケットのアートワークにもふたりを思わせる男女のドローイングを用いていて、とてもよい関係の中に音楽が紡ぎ出されていることはわかるが、恋にはじけ夢中になるというテンションはまるでない。

 若いことは華やいだことでなくていい──クラインのみずみずしさはティピカルな若さのモチーフを解体してくれる。そう気づいたとき、彼女の感じているはずの風や光が、生々しい量感を帯びて肌に触れてくる。それは筆者にとっても「ニュー・シング」とよぶべき瞬間だった。

interview with Hiroshi Watanabe - ele-king









Hiroshi Watanabe

MULTIVERSE


Transmat/UMAA Inc.

TechnoHouse



Amazon


 人生には何が待っているかわからない。当人にとっての自然な流れも、はたからは意外な展開に見えることがある。ヒロシ・ワタナベといえばKaito、KaitoといえばKompakt。Kompaktといえばドイツのミニマル・ハウス、ポップ・アンビエント、水玉模様……ヒロシ・ワタナベといえばKaito、Kaitoといえば子どもの写真、美しい風景、クリーンな空気……。

 しかしヒロシ・ワタナベのキャリアは──90年代半ばのNY、DJピエールのワイルド・ピッチ・スタイル全盛のNY、エロティックでダーティーなNY、それは世界一ハードなクラバーのいるNY──そこからはじまっている。

 そして2016年、彼はデリック・メイのレーベル、──デトロイトの名門中の名門とでも言っておきましょうか──、〈Transmat〉から作品をリリースする。アルバムは『MULTIVERSE(マルチヴァース)』というタイトルで、12インチEPはすでに出ている。EPのほうは〈Transmat〉からの初の日本人作品という話題性もあって、あっという間に売れたし、好評だった。アブドゥール・ハックによるアートワークも良かった。

 それで『MULTIVERSE』だが、これはヒロシ・ワタナベらしい繊細さをもちながら、じつにパワフルで……というか寛容さと力強さを兼ね備えていて、些細な瞬間に大きな喜びを見いだすことさえ可能な、前向きな心によって生まれた作品であることは間違いない。人生に挫折した男も女もふと空を見上げ、ひょっとしたらこの苦境を乗り越えられるかもしれない、そう思うだろう。

 これを〈Transmat〉サウンドと呼ばずして何と言おうか。初期ヒロシ・ワタナベが荒々しいダンスの渦中で生まれた音楽なら、Kaitoはダンスフロアに草原の清々しさを吹き込む音楽、そして『MULTIVERSE』は……こうも言えるだろう、デリック・メイとの二人三脚で生まれた音楽であると。

 このインタヴューではヒロシ・ワタナベの20年以上のキャリアを振りながら、彼のダンス・ミュージック/電子音楽への考え方を紹介している。長い話だが、初めて聞けることばかり。デリック・メイとの熱い(!)やり取りのところまで、どうぞお付き合い下さい。


2016年正月の神戸公演にて。

理論上のことだったり、テクニカルな部分は、自分がやりたい音楽にはほぼほぼ当てはまらない感覚がずっとあったんですね。だからこそダンス・ミュージックを聴いたときに、「もう自分にはこれしかないじゃん」という気持ちに駆られましたね。

今回の新作、表面的には「〈コンパクト〉から〈トランスマット〉へ」──という風に見えると思うんですよ。やっぱりカイト名義の〈コンパクト〉からの作品は、ある時代(2000年代の最初)を象徴するものでもあったし、その印象がまだ強いんじゃないでしょうかね。

ヒロシ・ワタナベ(以下、HW):たしかに、長い期間やってきましたからね。

〈トランスマット〉から日本人が出るらしい、それがヒロシ・ワタナベって知ってびっくりする人は少なくなかったと思いますよ。

HW:でしょうね。

ただ、ちょうど2000年代に入ったばかりの頃、ぼくがデトロイトに行ったとき、車のラジオから〈コンパクト〉が流れてきたことがあったんですよね。ラジオのDJが「コンパクトからの新譜で〜」みたいな紹介の喋りがあって、あのミニマル・ハウスがかかるみたいな。

HW:意外というか、オープン・マインドというか。

そういう意味でいうと、今回のヒロシ・ワタナベの〈トランスマット〉リリースも、ヨーロッパ経由なわけでデトロイトと繋がらなくはないんですよね。だって彼らはヨーロッパ大嫌いで大好きじゃん。

HW:ヨーロッパのひとたちも、アメリカのシーンに絶対に興味を持っているけど、アメリカという国に対してはめちゃめちゃアンチだったりする。
 ぼくが結果的にデトロイトの〈トランスマット〉からのリリースにたどり着いた経路にも、不思議で面白いところがあるんです。ぼくは、もともとはボストンで大学に通いながらダンス・ミュージックを作りはじめたんですね。メインストリームも消化しつつ、自分なりの音を探っていたんですが、それがのちのちクァドラ(Quadra)というプロジェクトになっていきます。で、卒業後にボストンからニューヨークに行って、当時もっとも衝撃だったDJピエールやジュニア・ヴァスケス 、ジョニー・ヴィシャスなどのハード・ハウスのスタイルに影響を受けました。ゲイ・カルチャーに根ざしながら、ゲイ・シーンだけではないものを一生懸命に聴いていましたね。

90年代のニューヨークにとってハウスは本当に大きかった。ヒップホップも大きかったけど、ハウスもすごかった。ジャネット・ジャクソンのようなポップ・スターも、みんなハウスをやっていたよね。

HW:あのマンハッタンと狭いその近隣のエリアにガッツリ組み込まれていたハウス・シーンに、ぼくもドップリ入っていたわけです。

どのような経緯で?

HW:1990年にボストンに渡って音楽の学校(バークリー音楽大学)へ通って、1994年に卒業したあとにニューヨークで曲を作りはじめました。学校でかぶってはいないんですけど、DJゴミ(DJ GOMI)さんがぼくの先輩なんです。ゴミさんがバークリーに遊びに来ていたので、ちょっとお会いして挨拶したりとか、ニューヨークのシーンについて伺ってみたりしました。卒業する間近にゴミさんの家に泊まらせてもらって、ニューヨークをいろいろ案内してもらったり、いろいろお世話になったんです。「じゃあ、これからがんばってね」と言われて、ぼくはニューヨークへ渡るんですけど。

なんでハウス・ミュージックにそこまでのめり込んだんですか?

HW:ボストンで楽曲を作りはじめたときは、基本的にテクノなサウンドの方が好みだったんです。中学のときはYMOも聴いていたし、レコードもほとんど持ってました。とにかく、シンセサイザーを使って打ち込みが盛り込まれている音楽が、ひと通り好きだったんです。でもクラフトワークはあんまり聴いてないんですよね。アンダーグラウンドの音楽に対する自分の着目点は、王道のクラフトワークまで遡らずに、当時流行っていたブレイクビーツ系のテクノや〈XL〉のものでしたね。ドイツの〈EYE Q〉なんかもも聴いていました。学校には、打ち込みをやっている仲間がいっぱいいたんです。

お父さんが作曲家で、お母さんがジャズのピアニストなんですよね。

HW:そうです。

ご両親に対する反発心からテクノへ行ったんじゃないかと(笑)。

HW:ははは(笑)! 反発心からじゃないんですよね。

テクノって、音楽をちゃんと学んだひとからするととんでもない音楽でしょう?

HW:ぼくはとんでもないスタイルで作られた音楽に完全に魅了されたんです。高校は東京音楽大学の付属へ通ってクラシックも勉強したし、バークリーではジャズや音楽理論も多少なりとも勉強しました。でも自分が音楽を作って放出するときに、そういうアカデミックなものとはどうも違う。オーケストラでのコントラバスの経験ももちろん肥やしになっていますけど、理論上のことだったり、テクニカルな部分は、自分がやりたい音楽にはほぼほぼ当てはまらない感覚がずっとあったんですね。だからこそダンス・ミュージックを聴いたときに、「もう自分にはこれしかないじゃん」という気持ちに駆られましたね。

テクノって、多くが感覚で作られているし、単純じゃないですか? クラシックを学んでいると、その辺が逆に新鮮だったりするの?

HW:それで間違いないと思いますよ。理論やテクニックの部分を取っ払ったとこでどこまで勝負できるかという点において、テクノってすごく素敵な音楽なんです。ただ、もっと幼少期にさかのぼると、うちの父親が当時アナログ・シンセサイザーを多用して、マルチ・レコーディングやフィールド・レコーディングをした音を組み合わせて、夜な夜な楽曲を作っていたのを見ていた体験があるんです。

お父さんの影響が大きんだ。

HW:大きいです。かつ、当時はニューエイジ・ミュージックと呼ばれていた、いまでいうアンビエント・ミュージック、それこそアンビエントの原点というか。

UKのある有名なテクノのアーティストが、なんでテクノを好きになったのかという話をして、それは5歳の頃、オーディオ好きの父親に、部屋を真っ暗にして冨田勲を聴かされたことがきっかけだったと。そのとき、自分が本当に別世界へ行ってしまった感覚を覚えてしまったと言っていたんだけど、そんな感じですよね?

HW:それにほぼ近いですね。当時小学生のころ住んでいたのは平屋の木造民家だったんですけど、父親がバンドの練習をするためにひと部屋を手作りでかなり強力な防音室にしたんですよ。その防音室にぼくは忍び込んで当時全盛だった『スター・ウォーズ』の2枚組LPを真っ暗にして大音量で聴いていたんですよね。するともう、そこは宇宙になわけですよ。右も左もわからない状態で音だけに浸るって、その体験とまったく同じなんですよ。

しかしヒロシ・ワタナベをその気にさせた音楽って、〈XL〉であり、レイヴ・カルチャーであり、ダンス・ミュージックなわけですよね。

HW:サンプラーとブレイクビーツに興味があったんですよね(※レイヴ・ミュージックは基本、ブレイクビーツだった)。
 当時はアカイのサンプラーが一世を風靡していたんですけど、ヒップホップのスタイルはかっこいいけど自分が作る音楽ではないなとずっと思っていたんです。ヒップホップのスタイルは自分が経験してきた文化と違うし、最初はサンプリング・ミュージックを作ることには前向きにはなれなかったんです。でも、〈XL〉やオルタン8などブレイクビーツのサンプルは、ヒップホップとはまったく別のやり方でしたね。ヒップホップは無理だけど、こっちは全然いけるじゃんって思った(笑)。

その手のダンス・ミュージックは、どうやって知ったんですか?

HW:最初は、学校のシンセサイザー科の友人から教えてもらいましたね。彼はテクノを聴いて、自分でも作っていたんですけど、そこからテクノの仲間がどんどん増えていきます。学校外にも仲間がたくさんいることがわかって、いろんな人たちと出会うんですけど、そのうちのひとりがいま大阪にいるエニトクワ(Enitokwa)で、彼は同じ時期にボストンにいました。

レイヴに行って踊ってました?

HW:最初は聴いてるばかりでした。音楽と出会ってしまい、音楽を聴きまくる感じでした。クラブにも行ってないですし。

じゃあベッドルーム・プロデューサーとしてスタートしたわけですね?

HW:最初はそうです。ただ、そのあとボストンに808ステイトやエイフェックス・ツインなどがボストンに来ているので、見に行ったんです。そこでクラブ・サウンドの凄さを体感して、「DJをしないと、ダンス・ミュージックは作れないんじゃないの?」くらいに思いはじめました。
 作品もリリースしていないときに、何曲も作って自分で聴くんですけど、やっぱ何か足りないわけですよ。こんだけ頑張って作って、音もいいし質感もよくなってきている。しかし、何が足りないんだろうと考えてみたら、「これは俺が踊ってないからだ!」って思ったんです(笑)。
 それで、踊るんだったら躍らせる側に回った方が早いじゃないかと。それで中古の機材を集めてDJをはじめたんですが、そのころに知り合ったDJの友人がニューヨーク・ハウスのレコードを持っていたんです。それを自由に使っていいと言ってくれたので、わけもわからないままレコードを漁って、いいなと思ったものを友人のところでかけていたんですよ。そこでDJピエールのワイルド・ピッチ・スタイルを聴いちゃって、「これ何!?」みたいになって(笑)。

DJピエールで4つ打ちの良さに目覚める。

HW:ブレイクビーツを聴いていると、シンプルな4つ打ちがスカスカに思えてしまうんですね。だけどDJピエールは、普通の4つ打ちなのに、なんでこんなにかっこいいんだろうと。そこからハウス・ミュージックに興味を持つんです。ニューヨークへ行ったきっかけもDJピエールでしたね。


いきなりニューヨークという、その行動力はすごいです。

HW:若いエネルギーがすごいなと思うのはそこですよね。若さゆえに何にも考えずに、どんどん入っていけちゃうじゃないですか。これはもういても立ってもいられないから、ニューヨークへ行くしかないと。それ以前の歴史やアンダーグラウンド・シーンの流れをあまりわかっていないまま、いまその街で起こっていることに夢中になって追っかけていくんですね。
 それでぼくはサウンドを追い求めてニューヨークへ行くんですけど、実際はこんなにゲイ・カルチャーなんだと。

カルチャー・ショックでしたか?

HW:ぼくはけっこうすんなり受け入れましたね。彼らが巻き起こしているシーンがこれなんだって、サウンド・ファクトリーへ行ったとき、そう思いました。あまりにも強烈なサウンドシステムと、すさまじい盛り上がり方。そこではジュニア・ヴァスケスが延々とプレイしている……セットのなかで、ドープな時間だったり歌物の時間だったりハッピーだったりと展開していくわけだけど、そのシーンに触れたときに、「このために音楽が生まれているんだな」というのも思い切り体感して。ここでかかるような音楽を作って勝負したいと思いましたね。

ニューヨークではどんな生活だったんですか?

HW:最初はゴミさんの紹介で、〈Dr.Sound〉というところに勤めていたんです。クロサワ楽器系列で、経営は日本人だったんですね。その楽器屋さんには、DJデューク(※90年代のNYハード・ハウスの中心人物のひとり)が遊びに来たりとか、いろんなDJが来たので、用意していた自分の新作デモカセットをすかさずデカい音でかけていました(笑)。「これ誰の曲だ? お前のか?」とか、そう言われるのを待って(笑)、それで知り合いになってオフィスに呼んでもらって、デモ・テープを渡しまくりました。もちろんデュークのところ(※〈セックス・マニア)レーベル〉からも出したかったんだけど、ぼくはあそこまでダーティ・ハウスじゃなかったから(笑)。


働いていた楽器店の入口にて。

ヒロシ・ワタナベがDJデュークや〈セックス・マニア〉といっているのが面白いんですけど、カイトのイメージとは真逆だよね(笑)。

HW:カイトのサウンドは、小中学校のときに触れたニューエイジ・ミュージックにまで遡れる。あるいは映画音楽だったりとか。音でイメージが空想できるようなスタイルというか。クアドラの音楽はそのイメージに自分が解釈したテクノを融合させたイメージだったんです。クアドラ名義では1995年に〈フロッグマン〉から1枚目を出しました。その前にはコンピレーションにも参加していたんですよね。あの曲は、ボストンで学生だったときに作った曲です。ああいう、クアドラのイメージはとっておきながら、それとは別にニューヨークで自分が勝負したいと思うものを探求していくと、ハード・ハウスのスタイルだったんですね。

なるほど。面白いね。

HW:ぼくはニューヨークにいたけど、ガラージみたいなものにはいかなかったんですよ。さっきのヒップホップといっしょで、ガラージは日本人が勝負をかけても無理だろうと思っていたんですよね。あのグルーヴ感は、真似て作るものではないと。自分が勝負できるのはハード・ハウスだと。とにかく、ピエールの、じわじわ構築していくようなワイルド・ピッチ・スタイルが大好きでした。当時、ヒサさんのレーベル(〈キング・ストリート〉)からも、あの手法を取り入れた作品がリリースされていました。

しかし、DJデュークなんか、ポルノみたいなハウスじゃないですか(笑)。

HW:ラベルとかもひどいし(笑)。



ヒロシ・ワタナベのイメージとは著しく異なっている(笑)。

HW:現場でぼくが追い求めていたハードで熱いシーンと、ぼくがオリジナルで作品を出し続けた自分のイメージはけっこうズレているんです。

90年代半ばは人気がすごかったもんね。

HW:そうなんです。音はすごく良いんです! 

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作品もリリースしていないときに、何曲も作って自分で聴くんですけど、やっぱ何か足りないわけですよ。こんだけ頑張って作って、音もいいし質感もよくなってきている。しかし、何が足りないんだろうと考えてみたら、「これは俺が踊ってないからだ!」って思ったんです(笑)。


Hiroshi Watanabe
MULTIVERSE

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DJは、どんなふうにはじめるんですか?

HW:楽器屋さんに来てくれるお客さんでDJもしていた大事な旧友と知り合うんです。最初は、彼といっしょにDJができる場所を探すことにしたんですよね。彼はイースト・ヴィレッジに住んでいて、ぼくはクイーンズのグリーンポイントというところにはじめはいたんですけど。で、マンハッタンのイースト・ヴィレッジにあったセイヴ・ザ・ロボッツ(Save The Robots)という、めちゃめちゃアンダーグラウンドでアフターアワーズ・パーティが盛んなクラブがあったんですね。アヴェニューB沿いの、かなり危険な区域なんですけど。


Save the robotsでのDJシーン。

90年代には、まだ70年代のニューヨークが残っていたんですね。

HW:そうなんです。アヴェニューA、B、Cとかにいっちゃうとヤバいんですよ。ジャンキーやフッカーだらけの怪しくて危ない場所でしたね。でもそこにかっこいいクラブがあるから行こうぜ、と。レコードを持ってお店が開いたら直ぐに入って、「DJやりたいんだけど、やれないかな?」とオーナーに直接訊いてみたんです(笑)。そしたら「お前ら上のラウンジの方でちょっとかけてみろよ」と言われて、ふたりで一生懸命かけるんですよ。

すごい強引な(笑)。

HW:はい(笑)。でも、そうしたら運良く、「空いてる曜日があるから、お前たち上でよかったらいいよ」って誘われて、毎週そのクラブでふたりで時間をわけてDJをやるんです。で、上のフロアなのに、がっつり盛り上げてハードに攻めていたら、お店のひとが面白がってくれて、「お前ら、下のメインフロアでやっていいよ」となったんです(笑)。そこで実験がはじまるんです。
 ある日、あるパーティにヒサさんが遊びに来ていて知り合いになるんですね。それで、早速次の日にすぐヒサさんのところに自分のトラックを持っていきました。そうしたら「アーバン・ソウル(Urban Soul)とサンディー・ビー(Sandy B)の“バック・トゥギャザー(Back Together)”をリミックスしてみないか?」と言われて、「DATをくれて好きにやっていいよ」と。それでもう、必死になって作ったら、それが出たんですよ。

ヒサさんも知名度ではなく、音で選んだんですね。

HW:はい! 音でいけました。セイヴ・ザ・ロボッツでDJ をしていて面白かったのは、わけのわからない日本人がDJをしているわけじゃないですか? でも曲やプレイがすごいと「お前何てやつだよ?」って訊いてきてくれるし、ガンガン踊ってくれるから、その反応を素直に体感できたというか。作ったばっかりの楽曲をDATでかけたりとか。アセテート盤を作ってかけてみたりとか。

ニューヨークには何年いたんですか?

HW:丸5年ですね。1999年の夏に帰ってきているんで。

ある程度ニューヨークで活動しながら、帰ってきたのはなぜだったんですか?

HW:アーティスト・ビザを取っていたので、半永久的にいれたんです。だけど、ぼくは目的があってニューヨークにいたわけで、ただアメリカ生活がしたかったわけじゃないんですよね。音楽に魅了されてニューヨークまでやってきたので、自分の音で勝負しないと何の意味もないと思っていました。
 当時はジュニア・ヴァスケスが頂点の時代で、みんながジュニアがプレイしている晩に自分のレコードやDATを持って、ジュニアのブースまで行くわけですよ。ぼくもほんの数回それをやりました。でも、自分がジュニアのところまでわざわざ音源を持って行ってもかけてくれないんだったら、なんか嫌だなという違和感もあって、それよりジュニア本人がレコード屋さんで選んだものが自分の音楽だったら、そんな最高なことはないじゃんと思ったんですよ。目標はそれだと。それで、まずはいろんなハウスのレーベルに作品を持っていって、自分の作品をリリースしようと思ったんです。

初めてのリリースは、1996年に〈Nite Grooves〉から出した「Bad House Music」?




HW:それはニューヨークで出したオリジナルの最初で、その前に“Back Together”リミックスが先に出るんですよ。

盤としては、ひょっとして〈フロッグマン〉から出た「SKY EP」が最初だったりして。

HW:レコードとしては〈フロッグマン〉からの方が早いです。でも、いちばん最初はクアドラが入ったコンピレーションですね。続いてイエロー(Yellow)が出した『East Edge Compilation 2』にDefcon 5という名前で参加しました。それが95年で、ほぼ同時期。

1996年にはジョニー・ヴィシャスの〈Vicious Muzik〉からもシングルを出していますね。

HW:ニューヨークへ行っていろいろ模索しているうちに、クラブでジョニー・ヴィシャスにも出会うんですよ。ジュニアもかけていたジョニーの曲があって、それを聴いて「やべーな、こいつとは会うしかない」と。かつてトンネルでDJをしていたヤング・リチャードが HouzTown 名義で、先にそのレーベルから「Brooklyn A Train」という曲を出したんです。それもすごくドープな曲で。それからぼくもナイト・システム(Nite System)名義で出すんです。

なんでそんなに名義を使い分けていたんですか?

HW:ひとつには色分けですよね。全然コンセプトが違うからクアドラでやるわけにもいかないし。言ってしまえば、ハードハウスはぼくにとっては実験だったので、それで生きていきたいというよりもニューヨーク・シーンに対しての自分なりの挑戦というか。

ハード・ハウスは、もう、とにかくクラブでダンスするための音楽だよね。トランスさせる音楽というか。

HW:さっきも言ったように、音楽の学校へは行ったけど、ぼくが求めている音楽にはいっさいがっさいそれが必要なかったんだなと気づいてしまった(笑)。

とにかく、ハウスのアンダーグラウンドな世界に入って、順調な活動ができていたんですね?

HW:DJもやっていてネットワークもできていたので、週末の金曜日にトンネルで回せたりとか。サウンド・ファクトリーがトワイロ(Twilo)という名前に変わったときも、友人がオーガナイザーになってイベントを立ち上げたとき、メインフロアでDJができましたね。いろんなクラブでDJができるようになった。レコードも出せて活動の幅の広がった。

すごいですね。

HW:ただ、ぼくは、デモを渡さずにジュニアがいつ自分の曲をかけるのかという一点だったんです。それであるとき、友人から電話がかかってきて「ジュニアが先週ヒロシの曲をかけたよ!」って教えてくれたんです。次の週に急いで駆け込んで、ずーっとかかるか何時間も見ていたんです(笑)。

フロアで(笑)?

HW:そう、ずーーーっと。そしたらかけてくれたんですよね。スタジオでちまちま作った音楽がレコードとなって、そしてジュニアが見つけてくれて、そしてフロアでかけてくれて。

なんていう曲だったんですか?

HW:〈Deeper〉からナイト・システム名義で出した曲です。

嬉しかったでしょぅ、それは。

HW:はい。と同時に、ニューヨークでのミッション・コンプリートみたいな感じになっちゃったんです。当時ぼくはもう結婚していました。籍入れたのは1996年の終わりころ! なので新婚生活真っ只中だったんです。DJと曲作りが基本だったからお金が全然なくて本当にひどい生活だったんだけど……。

早い!

HW:本当にただ一緒にいたくて。若くて熱かったっすね。

息子さんのカイトくんはまだ生まれてないわけでしょう?

HW:生まれてないです(笑)。






NY時代の自宅スタジオの風景。


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アーティスト・ビザを取っていたので、半永久的にいれたんです。だけど、ぼくは目的があってニューヨークにいたわけで、ただアメリカ生活がしたかったわけじゃないんですよね。音楽に魅了されてニューヨークまでやってきたので、自分の音で勝負しないと何の意味もないと思っていました。


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話を戻すと、ジュニアがヒロシ君の曲をかけて?

HW:嬉しかったと同時に、目標を果たしてしまったというか。自分の気持ちがそこで変わっていくんです。 当時はお金がなかったから、マンハッタンからクイーンズへ引っ越して、住んでいたアパートは屋根に上がれたんですけど、そこに寝そべって星空を見ていたときに、ふっと「俺、日本帰ろう」と思ったんです。奥さんにもその気持ちを伝えて、日本に帰る決断ができて、帰国を決めて段取りを整えているときに、奥さんのおなかに赤ちゃんがいることがわかったんです。このタイミングにはある意味運命を感じた。それがカイトなんですけど。日本に帰ってきて1月後に生まれるのかな。
 だから、子供が生まれるから帰ってきたのねってみんなに言われてたんだけど、全然そうじゃなかったんです。ある意味アメリカでのミッションをクリアし、高校を出てから日本の社会にも触れてなかったから。頭も高校生のまま! で、音楽を作ってきて、ちょっと社会的にまずいんじゃないかとも思ったんです。日本を知らなさ過ぎていたし、日本で社会人の経験がないのがまずいんじゃないのかと。それで戻ったんです。

ニューヨークでは、DJやって、EPを出しているぐらいでは、食っていけない?

HW:ギリギリです。1タイトルを売ると、当時多くて2000ドルくらい。少ないと1300ドルくらい。

それを毎月出すわけでもないしね。

HW:それをコンスタントに繋げて、あちこちでDJをしながら小さなお金をかき集めるって感じでしたね。それでギリギリです。結果的に自分の修業の場になってやれてよかったですけど。
 イースト・ヴィレッジのアヴェニュー・A沿いに、ものすごくハイプなアヴェニュー・A・スシ・バーというのがあったんですよ。やばくって、内装もいっちゃってるんですけど、ニューヨーク中のクラバーが日本食を食べに来るヒップな場所なんですね。入ってすぐに席とDJブースがあって、その奥にまた席があって、さらに奥に寿司を握る場所があるんです。そこに毎日入れ替わりでDJが入っていて、そこに勤めていた友人がやめちゃうんですけど、「ヒロシくん、よかったらやる?」と話をくれて毎週木曜日に回すことになったんです。そこのお客さんは耳が肥えているから、スシ・バーなんだけど本気でDJをしてないといけない。しかも時間も長くてロングセットなんです。そこでいいDJをすると、お客さんが帰るときに名前やスケジュールを聞いてくれるんですね。「ここでご飯を食べている連中を踊らせてやるぞ」くらいな感じで、毎週そこでDJをやってました(笑)。

当時のニューヨークって、いまのベルリンじゃないけどさ、クラブ・カルチャーの中心地だったものね。

HW:その通りですね。そこにテイ(・トウワ)さんとかもいたんですよね。

90年代末は、でも、ちょうどひとつの時代の終わりでもあったよね。それを肌で感じたということもあるんですか?

HW:あります。

ワイルド・ピッチ系のニューヨークのハード・ハウスの流れも、そのころにはピークに達していたもんね。

HW:成熟しきっちゃっていて。言ってみれば、それ以上先はルーティン・ワークになって飽きちゃうギリギリのところで、ぼくはニューヨークから引き上げたんです。ぼくが帰国した2年後にテロがありますよね。それでニューヨークは一気に変わってしまう……。

当時は、日本の状況を何も知らないわけでしょう?

HW:そうです。ニューヨークにいたとき、3ヶ所くらいツアーで日本を回らせてもらったことがありましたけどね。マニアック・ラヴと沖縄のヴァンプと福岡のO/D。マニアック・ラヴやイエローが盛り上がっていたのは知っていました。
 それに、アメリカに10年いようが、日本人は日本人じゃないですか。だから日本で起きているテクノ・シーンのことを、ぼくはすんなりと受け入れられたんですよね。「こんな面白いことをやっているのか!」って見れたんです。日本のシーンがうごめくすごさに関しては、とてつもないものがありましたからね。


Kompaktの昔のレコ屋さん内でDJ中のヒロシ。

しかし当時は多くの日本人はニューヨークに学ぼうとしていたわけですよ。

HW:ただ、ぼくはニューヨークでドラッグ・カルチャーもモロに見てしまったんです。ぼくは正直一切ドラッグはやらなかったので、葛藤はありましたよ。ぼくは音楽でぶっ飛んで欲しいと思っていましたからね。

そこはデリック・メイと同じスタンスですね。

HW:おこがましい話だけど、ぼくはデリックに強いシンパシーを感じるんですよね。ぼくは自分が持っている感覚をフルに使って「さらにぶっ飛ばせる音楽を作ってやろうじゃん」と決意をあたらにしたんです。

帰国して、それからカイトをやるわけですが、その経緯を教えて下さい。

HW:日本に戻って子供が生まれて、家庭を持つことになり、日本の社会に揉まれるんですよね。最初は日本についていくのが大変でした。
 そういう時期、EMMAくんが〈NITELIST MUSIC〉を立ち上げたばっかりで、曲を集めていたんです。ぼくの作った曲の半分はニューヨークくさいもの、半分は日本に戻ってきてもう一度構築しようと実験していたものでした。〈NITELIST MUSIC〉からは、ヒロシ・ワタナベとナイト・システム名義で作品を出してもらうんですけど、ニューヨークでやってきたことを踏まえながら、新しいことをやりたいなとも思っていたんです。ちょうどその頃に、のちにいっしょにトレッドというユニットを組んでアルバムを出すことになる、グラフィック・デザイナーのタケヒコ・キタハラくんに会うんです。彼はヨーロッパの音を当時僕より断然追っていて、とくに〈コンパクト〉レーベルという存在を意識していましたね。彼から「ヒロシくん、〈コンパクト〉にデモを送った方がいいよ」と言われたんです。で、曲を送ったら、1週間後くらいにウルフガング・ヴォイトからメールで連絡が来たんですよ。
 ミヒャエル・マイヤーが言うには、送ったタイミングもすごくよかったみたいです。〈コンパクト〉は、1998年にレーベルがはじまってから、ひと通り出し切っちゃった感があったみたいで、自分たちがどこに向かうべきか話し合っていたときらしく。そこにぼくのデモテープが送られてきた。オフィスでかけてみたら、みんなが反応したそうです。メールには、「ちょうど新しいものを探していたんだよ。お前の音はバッチリだから出そう!」と書かれていましたね。

デザインもよかったですよね。〈セックス・マニア〉の猥雑さとは真逆でしょ。いかにもドイツ的なデザインで。なぜカイト名義にしたんですか?

HW:自分の本名でもよかったんですけど、ヒロシ・ワタナベだと印象がニューヨークすぎるんじゃないかと。でも彼らは日本語名がいいと言っていたんです。日本語名って難しいじゃないですか。日本人にとって日本語名プロジェクトがダサく感じることもあると説明していたんですよ。なかなか良い案が出なかったんですけど、「ちょうど生まれて間もない息子のカイトの名前はこういう漢字で、こういう意味(宇宙の謎を解く)があるんだよ」って伝えたら、「もうそれしかねぇよ!」と決まったんです(笑)。そうやってカイトのプロジェクトが生まれたわけです。だから最初に曲を作っていたときに、息子をイメージしていたわけではないです。

親バカからきたわけじゃないんですね(笑)。

HW:全然違います(笑)! ゼロからはじめて、日本で暮らしながら生まれる音楽ってなんだろうという模索の中から作ったのがカイトです。で、セカンド・シングルの「Everlasting」にジャケをつけることになって、子供の写真を送ったらあのジャケになってたんです。



あれがカイトのひとつのイメージを作ったもんね。

HW:自分が意図的にそのイメージを作り上げたわけじゃないけど、一度出した以上はそれでプロジェクトは走っていく。あの当時はダンス・ミュージックにあんな子供がドーンと露骨に出ちゃうって、なかった。だから自分でも面白いかなと思ったんですね。

当時売れたでしょう?

HW:かなり売れましたね。

だって、2000年代からは、ヒロシ・ワタナベといえばカイトですよ。

HW:自然とそうなっちゃいましたよね。


Kaito Live at Studio 672 in 2002

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デリック・メイと一緒に。

日本でデリックに会ったときに、「お前のサウンドは、俺がデトロイトで追い求めていたものと、はっきり言ってまったく同じものだと思っている」と言ってくれたんです。言っていることが飛びすぎていたから、信じられなかったんですけど、「本当だぞ」って言うんですよ。









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ニューヨークのハウスは、12インチ・カルチャーですよね。しかし、ヨーロッパのテクノにはアルバムを出すというスタンスがある。結果、カイト名義では6枚以上のアルバムを出すことになりますよね。

HW:2002年、最初のアルバムを作り終えたあと、〈コンパクト〉がぼくのライヴ・ツアーを組んでくれたんです。そのとき、ケルンのまだ小さかった頃のオフィスに行ったんです。そこで、カイトの音楽のもとになったビートレス・ヴァージョンをミヒャエル・マイヤーに聴かせたんです。そしたらビートレス・ヴァージョンもこのまま出そうって、その場で決まったんです!

ああ、それが有名な『ポップ・アンビエント』シリーズにも発展するのかぁ。ヒロシ君の曲の特徴のひとつは、メロディだから、ビートレスの作品というのはすごくわかります。また、〈コンパクト〉というレーベルにすごく勢いがあった時代だった。クラブだけではなくて、アメリカのインディ・ロックの連中も、〈コンパクト〉と〈WARP〉はチェックしていたでしょ?

HW:ジェラルド・ミッチェルが「俺はカイトのビートレス・アルバムが大好きで、毎朝起きると聴いてんだぞ。本当だぜ」と言ってくれました。「デトロイトの連中はみんなお前の曲好きだよ」って(笑)。本当なのかなぁと思ってたんですけど、デリックも「デトロイトの奴らはお前の音楽をずっと追っかけてるぞ!」って教えてくれたんです。それって、お世辞じゃなかったみたいで、ぼくは正々堂々と自分の音楽で彼らとつながることに自信が持てたというか。
 そういう人たちって、ぼくにはレジェンド過ぎるので、会うたびに緊張していたんです。デリックとも最初は全然話せなかったんですよ。イエローが閉店する週の同じ日に、デリックがDJでカイトがライヴというときがあったんですね。そのとき初めて話ができたんです。ちょうどデリックの子供が生まれたばかりで、ぼくも三男が生まれたばかりで、子供の話で盛り上がりましたね(笑)。
 それから数年後、日本でデリックに会ったときに、「お前のサウンドは、俺がデトロイトで追い求めていたものと、はっきり言ってまったく同じものだと思っている」と言ってくれたんです。言っていることが飛びすぎていたから、信じられなかったんですけど、「本当だぞ」って言うんですよ。

2003年に〈Third-Ear〉から出た12インチ「Matrix E.P」は、たしかにデトロイティシュでした。メロディの作り方は、いま思えばデリック・メイの好みだったのかな。






「いいかヒロシ、〈トランスマット〉の称号を手にするのはとんでもないことなんだぞ?」と返信が来まして(笑)。「その称号をお前が手にするには、こんなレベルじゃダメなんだ」って(笑)。


HW:デトロイト・テクノって、メロディアスで、哀愁的な感覚も入ってますからね。マイク・バンクスにはジャズやいろんな要素が入って、音楽のアカデミックな部分が盛り込まれてくるけど、旋律的な部分ではみんなに共通項があると思うんです。

なぜいまデトロイトなんでしょうか?

HW:いままでにもいろんな出会い/出来事がありましたけど、今回の一件は強烈でした。ただ、極めて自然な流れだと思うんです。2004年あたりにぼくはギリシャのレーベルからいろいろ出しているんですけど、そのときに出した数枚のアルバムがデリックの手に渡って、DJで使っていたんですね。

そうだったんですね。ギリシャとのネットワークはどうやってできたんですか?

HW:ギリシャの〈Klik Records〉の元A&Rだったジョージっていう最高な友人がいてリアルタイムに「Matrix EP」をレコード屋さんで見つけてくれたんです。あの曲を聴いて、ぼくに直接連絡をくれた。「この音楽を見付けてからもう何回もリピートして聴いてるよ、うちのレーベルから何か出さないか?」と。ちょうど、アテネ・オリンピックが終わった後ぐらいでしたね。




アテネで開催されたBig In Japanの模様。野外の映画館が会場となり2000人以上動員した。2007年6月


2006年、ギリシャでのポスター。

ギリシャって、経済破綻しながら、なんで音楽は廃れないんだろう。いまでもレーベルがあるしね。

HW:しかもいまでもたしかにパーティ・シーンはあるんです。あそこは国柄、人間性がなんというか、すごくあっけらかんとしているんですよね。イタリアやスペインとも似ていますね。暖かくて、国のどこに行ってもオリーブの木があってっていう、そういう土地柄で、ものすごくオープンな人柄という印象です。
 それから、クラブ・ミュージックをボディではなくてマインド・ミュージックとして捉えているんじゃないかと感じます。ぼくの音楽に対しても、グルーヴもそうなんだけれど、その上に乗っかっているものにシンパシーを感じているといつも行く度に思うんです。

ギリシャはけっこうまわってますよね?

HW:アテネを中心にツアーしていますね。多くのDJは、ギリシャに行くと、だいたいミコノス島にあるカヴォ・パラディソという一番コテコテな有名なクラブでやるんです。観光客ばかりで羽振りがいいんで、有名なDJはみんなそこへ行くんですけど、ぼくはギリシャ全土にある、現地人しか来ないような小さいバーから大きなクラブまで回りました。車やフェリーを使って。それを2005年から毎年2回くらいやったんですよ。
 〈Klik Records‎〉が仕掛けたプロモーションも功を奏しました。発行部数が多い一般紙にぼくのCDをフリーで付けたこともありました。だから、一般のひとにもウケたんですよ。あるツアーでアテネのホテルに滞在していて、ちょっとお腹が空いたから何か買いに行こうと思ってホテルを出て、信号のない大きな道路を渡ったんです。そしたら近くに警察がいて「ヘイ!」って言われたんですよ。渡っちゃいけないところだったのかなと焦って立ち止まったんです、そしたら「アー・ユー・ヒロシ?」って警察が言ってきたんです(笑)。

それはありえないよね(笑)。

HW:本当なんです。「アイ・ライク・ユア・ミュージック」って。




なるほど。90年代はニューヨーク、そして2000年代はヨーロッパのシーンとリンクしているんだけど、2000年代に入ってクラブ・カルチャーも変化するじゃない?

HW:〈コンパクト〉はウルフガング・ヴォイトが社長の座を降りた頃から変わったんですよ。小さなレコード屋さんから大きなオフィスに移って、ビジネスやディストリビューションを大きくしていった。しかし、シーンはデジタルに移行していったので、運営が当時一度難しくなっていってしまった様子でした。

そうだよね。インターネットが普及していったのと反比例して、アナログ盤は減った。

HW:マーケットがデジタルへ移行していくことに関しては、僕も抵抗があったんですけど、ぼくはもともと曲作りから入っているんで、DJソフトのトラクターも早い段階で導入したんですよね。コンピュータを現場に導入する感覚って、楽曲を作っている人間にしてみれば、普通なんです。むしろパソコンがあったほうが安心できるというか。だけどよりDJという側面で強く音楽に接してきた人には、けっこう抵抗があったと思います。パソコンの状態の保ち方とか、データの整理の仕方とか、そういう基本的なところから話がはじまっちゃうから。

そういう意味では、なおさら、なぜいま〈トランスマット〉なのかと思いますね。デリックとの対談で「40代のゼロからのチャレンジ」みたいなことを言っているでしょう?

HW:20数年のキャリアを振り返ったときに、いまという現在を通過できるかできないかのチャレンジをしているってことなんです。ニューヨークでジュニア・ヴァスケスがぼくの曲をクラブでかけるか、というチャレンジと同じくらい大きな試練がやってきたというか。デリック・メイが〈トランスマット〉に求めるものを、ぼくが作れるか作れないかって、とてつもなくハードルが高いことなんですよ。

しかも〈トランスマット〉は〈コンパクト〉みたいにコンスタントに動いているレーベルじゃないからね。

HW:デリックは出したいものしか出したくないし、タイミングなんかどうでもいいわけですよ。自分が出してきたどのレーベルでもそうなんだけど、まず自分が作った音楽があって、出来上がったものを渡すのが自然の流れじゃないですか? でも今回のリリースに関してはそうじゃない。数年前ぼくはデリックに「〈トランスマット〉から出せる機会があれば光栄だし、そんな光栄な時を願わくば待っているよ」ってデリックに言ったんです。そのときは「もちろんそのチャンスがないわけじゃないぜ」って答えたんですけど、ぼくはそれをずっと覚えてたんですよね。
 それであるとき、ふたりで熊本にDJをしに行ったんです。そのときに、カイトとしての自分の今の環境や状況の相談みたいな話をしてて、ものすごく親身になってくれたんです。「もちろん俺はカイトの音楽自体ももっと世の中に認知されるべきだし、お前はカール・クレイグと同じような存在であるべきなのに、なぜもっと世界で認知されていないのか俺には理解できない」、「デリック、嬉しい言葉だけど俺もわかんねぇから、理由を教えてくれ」と(笑)。そうやって個人レベルでのやりとりが密にはじまるんですよね。

そのやりとりが面白いんですよね。そういうやりとりはいつぐらいから?

HW:震災あたりからだから、5年前くらいです。

そのときから自分のデモを聴かせていたんですか?

HW:デモを聴かせているというよりも、当時は純粋にぼくが出している曲を聴いてくれていたんです。彼がぼくの曲をDJで使っているのを知ることで、そんな嬉しいことはないと思いながら、ぼくもデリックにしっかり話していいんだなと思えてきて、あるときに、「お前はデトロイトに来てフェスに出るべきだ!」って言われたんです。そりゃいつでも出たいけど、どうしようもないじゃないですか。そしたら「俺が話をつけてやるから、ちょっと待ってろ!」と。それでしばらく経って、また会ったときに「ヒロシ、ごめんな。俺はプッシュしたんだけど、イベントの体制が純粋に音だけで選ぶような今は状況ではなかった。ごめんな」と。そういう見方をしてくれていたんですよね。
 それでデリックは、彼なりにぼくに対してできる最善のことは何かと、考えてくれるようになったんでしょうね。そこまで関係性ができたときにぼくはデリックに曲を渡すんです。忙しいだろうし返事もすぐには来ないだろうなと思ってたんですけど、「いいかヒロシ、〈トランスマット〉の称号を手にするのはとんでもないことなんだぞ?」と返信が来まして(笑)。

はははは(笑)!

HW:「その称号をお前が手にするには、こんなレベルじゃダメなんだ」って(笑)。

すごいね(笑)!

HW:「そこにたどり着く方法は自力で見つけろ。お前には絶対できる。本当に出したかったら、次の〈トランスマット〉からのリリースはヒロシだ」と。デリックがそんなこと言うなんてすごいじゃないですか? 

まあ、すごいですね(笑)。

HW:だけどそれと同時に、いままでにないプレッシャーを感じたんです。いいものができたら曲を出すって言われている以上、作らなきゃいけない。でも作っても「ヒロシ、これじゃない」と返信し続けられたら、ぼくは生きた心地がしないわけです。ずーっと自信をもって音楽を作ってきているし、自分の音楽を感じながらやってきたものの、そこで作れども作れども、もしOKが出ないなんてことが起きたら、デリックの言うポイントに到達できてないってことになる。それは自分の音楽人生であっちゃいけないし、ありえないことだと思ったんですね。

しかしデリックも直球な言葉ばかりを言ってくるんだね。

HW:だから、20年以上のキャリアを積んできたにも関わらず、もう一回ゼロから自分がチャレンジする機会をデリックがくれたとも言えるんですよ。ニューヨークで無心になって作っていた当時の自分がいま新たに蘇ったというか。デリックに「これだよ!」って言われなかったら、俺の20年間はなんだったんだろうと、そのときに思ったんです。そこからはもう、徹底的に作り続けました。

「あの山を登るのに、他の連中はこの平坦な綺麗に舗装された道を行く。しかし、お前は一人きりで裏の崖からロープ一本で登ってるんだ」とか言われたらね(笑)。

HW:「お前は荒野のなかの一人たたずむ侍だ、自身の中に潜む何かを掴むために一人きりでいるんだ」(笑)とか。

そうやって火をつけるのが彼のやり方なんだろうけど、すごいものがあるよね。

HW:最初に送った楽曲は〈トランスマット〉へというつもりではなかったにせよ、しょっぱなが「これじゃない、もっと〈トランスマット〉に相応しいものを作れ」って言われたわけじゃないですか。(笑)だから簡単には曲は送らないと決めたんですけど。なんでもいいわけじゃなくて、自分で彼のいうポイントに到達できたと思えるものでないと送っちゃいけないと思ったし、深く考えると、自分がいいと思ったものに対して「お前はこんなものをいいと思ってんのか?」と反応をされたとしたら信頼も失うことになる。だからそのときに自分は何を作るべきなのかを、いろいろ深く改めて探るようになったんです。

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カール・クレイグやケニー・ラーキンのような不動で唯一無比なデトロイト作品はすでにあるわけだし、DJでもかけてきました。でも過去に曲を作る上でデトロイトを意識したことは一度もなかったんですよね……。









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ニューヨーク時代にハウスを追求し、カイトではアンビエント的な要素もいれつつ、より多様なエレクトロニック・ミュージックをやっていたと思うんですけど、それとは別のコンセプトが必要になってきたときに、何をどうやって考えたんですか?

HW:〈トランスマット〉で選ばれてきた音楽もしっかり一通り聴き返したんです。純粋に改めて「デトロイト・サウンドって何だろう?」という観点から作っても、ヒップホップやガラージ・ハウスを真似するのと結局同じことになってしまう。そんなことでは絶対にダメだし、そんな方向をデリックが求めていないことはハナっからわかってたんです。とはいえ、カイトのまんまやることはぼく自身が納得できなかった。それは〈コンパクト〉や他のレーベルでやればいい。やっぱり〈トランスマット〉から出すのであれば、その歴史の名に恥じないものを作らなきゃいけない。ぼくが好きなカール・クレイグやケニー・ラーキンのような不動で唯一無比なデトロイト作品はすでにあるわけだし、DJでもかけてきました。でも過去に曲を作る上でデトロイトを意識したことは一度もなかったんですよね……。
 例えばグレッグ・ゴウ(Greg Gow)やステファン・ブラウン(Stephen Brown) とか、マイクロワールド(Micro World)、特にジョン・ベルトランなんかはめちゃめちゃメロディアスで、ディープで綺麗で繊細だし。デリックのすごくホットなDJプレイのシーンだけじゃなくて、彼自身の音楽の好みや〈トランスマット〉が歩んできたルートを紐解いていけば、そもそもなんでカイトにシンパシーを感じてもらえ、DJでも使ってくれている理由とかもより明確にわかってきたんですね。

自分の武器が何なのかがわかってきたということ?

HW:そういうことです。ぼくが何かに合わせるということよりも、自分が本来持っているものの何をデリックは見ていたのかを、自分でもう一度探し求めたといいますか。

今回のアルバムは、いままでのヒロシ・ワタナベ作品のなかではもっとも感情に訴える音楽ですよね。それが大局的な意味で言うところのデトロイティッシュなものですよね。ブレインでもボディでもなく、エモーションに行くっていうね。

HW:タイトルや曲の情景が出来上がるにつれて、自分が導かれていく場所はタイトルが示しているものだってわかっていきました。生きている意味だったりとか、自分が生かされている場所だったり、そんなところまでさかのぼって音に気持ちを込めざるをえなかったんです。もちろんアルバムの2曲目を聴いてみると、自分がニューヨークで体験したことが現れていたりするんです。野田さんのライナーにも書いてくれていましたけど、逆に“Heliosphere”なんかはデリックが好きなカイトのテイストだと思うんです。アルバム全体には自分のいろんな部分が散りばめられているんですよね。

そういう意味でいうと、ヒロシ・ワタナベがいままでやってきたことが集約されているんだけれども、やっぱりデリック・メイに火をつけられた部分というか……

HW:40半ばで心が少年になっちゃったんですよね。一度もレーベルから出したことのない時代にさかのぼって、気持ち的には本当にあの頃に戻っていたというか……。あの頃って、本当に血眼になって楽曲を作っていたというか……。

デリックとヒロシくんの関係がはまったんだと思います。たとえば“The Leonids”という曲は、本当に素晴らしい曲ですね。

The Leonids (ele-king exclusive preview)
https://soundcloud.com/kaito/the-leonids-eleking-exclusive-preview/s-wpIVz

デトロイティッシュであなりながら、ヒロシ・ワタナベらしい繊細さ、ソウルフルな展開……。

HW:人種を飛び越えたところでのソウル・ミュージックって何だろうって考えましたね。「特定の生まれもったルーツがないとソウル・ミュージックとは言えないのか?」と。言葉がないダンス・ミュージックってそういうところを越えていけるような、ものすごく特殊な音楽だと思うんです。本当の意味で魂や人種を飛び越えることが、どのように音が変換されていくのかを見てみたかったんですよ。

それもデトロイト・テクノの重要なコンセプトでですね。例えば、ケンドリック・ラマーというヒップホップのひとがいて、ぼくはいま大好きなんですけど、彼はソウルやファンクもちゃんとわかっていて、ジャズやフライング・ロータスのような最新のエレクトロニック・ミュージックも取り入れている。なによりも弱き者たちへの力強いメッセージもある。しかし、そこで主に参照されるのは、やはり自分たちの内なる文化、アフリカン・アメリカンの文化なんですね。
 デトロイト・テクノのすごいところは、彼らは自分たちの内側だけを参照しないところなんです。ヒロシ君もよく知っての通り、自分たちの内なる文化を誇りとしながら、ヨーロッパであるとか、他の文化にどんどんアクセスする。90年代にぼくが初めてデトロイトへ行ったときに、友だちの車で最初に流れたのがエイフェックス・ツインだったんですね。ぼくにはものすごい先入観があったんですね。黒人はエイフェックス・ツインを聴かないだろうっていう。しかし、真実はそうではなかったんです。デトロイト・テクノは、アフリカン・アメリカンであるということだけでは完結できないんです、そして、それを彼らは“未来”と言ったんですよね。
 どこまでデリックが意識しているのかわからないけど、〈トランスマット〉は早くから、アラブ系とか、中国系とか、アメリカ人でも主要ヨーロッパの人たちでもない人たちの曲を出していますよね。しかも彼は、日本のことが大好きだから、もっと早くに日本人の作品を出したかったかもしれない。だから、ヒロシ・ワタナベの作品を出せたことは、彼自身も嬉しかったんじゃないのかな。あるいは彼は気まぐれな男だし、商業ベースでレーベルを運営していくタイプでもないんで、出会いのタイミングもあったとは思うけどね。ちなみにこの「マルチヴァース(Multiverse)」というタイトルですけど、これは人種を超えた何かを表しているんですか?

HW:そうです。次元を飛び越えたところで、自分たちが存在する意義とは何かと。音や自分が生きてきた証のなかで、しっかりと正々堂々と繋がってこれた関係性でもあるわけじゃないですか。そういうなかで、もっと飛び越えた次元で自分が生きていることが最終的にどんな証になるのか、この機会に自分の気持ちを盛り込まなきゃと思ったんです。

どこで意識されたのかわからないですけど、世界情勢をみると、それはタイムリーなメッセージですね。アメリカもヨーロッパもすごく難しい時期にきていますね。もちろん日本も。

HW:本当はもっと飛び越えていかなきゃいけないんですよね。みんな本当のところはわかっているんだから。

DJカルチャーの重要さもそこにありますよね。さっきのギリシャの話もそうだけど、ぼくたちは日本に住んでいるけど、ムーディーマンのDJを通じてデトロイトのインナー・シティのソウル・ミュージックを聴くこともできる。南ヨーロッパの辺鄙な街で生まれたハウス・ミュージックを聴くことができる。大げさに言えば、普段は出会うことがない文化にDJを通して触れることができる。DJはある意味では文化の運び屋なんだけど、同時に文化をミックスすることもできるんですよね。

HW:音楽というところで繋がっているひとたちは、DJに限らずいろんな国や人種にふれたときに、問答無用にひとつになれることを体感しているわけじゃないですか。それこそ僕たちが地球全体で抱えている問題って実はすごくシンプルで、人種なんか関係ないはずです。ところが、国が大変になってくると、政治や宗教が原因でいろいろな事件が起きる……そういう意味では、ぼくがいま感じられることは注ぎました。野田さんの素敵なライナーもありがとうごいました! ぼく自身のメッセージもあえて添えましたし、きっとトータルで音や言葉からそれらを感じてもらえると思います。

OPNとFKAツイッグスがコラボ!? - ele-king

 どこまで交友の輪を広げるつもりなのでしょうか。「ともだち100人できるかな」とでも言わんばかりに、またしてもOPNが新たなコラボレイションを仄めかす映像を公開しました。お相手はなんと、FKAツイッグスです。ふたりはそれぞれ、同じ2秒ほどの短い動画をインスタグラムに投稿しています。今後のふたりの動向に注目です。

https://www.instagram.com/p/BEG-PMYDhxq/

https://www.instagram.com/p/BEG-bpSC-rv/

@eccojams_が投稿した動画 -

RYKEY - ele-king

 これはまだ十代のころ、すこし年上の夜の女のひとに教えてもらったことなのだけれど、人間の意志は目に、自信は声に表れるんだそうだ。それで、どっちがより大事かといえば、目だということ。
 なぜなら強すぎる自信は必ずしもよいものとは限らないし、でかい声というのはときには馬鹿さ加減の証明になる。だけど、意志というのはいくら強くてもけして過剰になることはない。つまり、目の力は強ければ強いほどいい。それはそいつがヤクザだろうがカタギだろうがおんなじ。もちろん世の中には目の見えない人も喋れない人もいるから、その場合はもっと別のしるしを探す必要があるけど、それでも目と声、とくに目は人をみるときにいい物差しになるよ、とのことだった。

 そんな話を思い出したのは、RYKEYの目を見たからだ。すごい目をしている。大きく見開くと黒目が瞼の縁から完全に離れて、強烈な眼光を放つ。でも彼はその目をぎゅっと細め、まるでガキみたいに破顔して笑いもする。じゃあその声はというと、芯があって、ときに優しく、ときに突き刺すようだ。歌えば意外にも美声なのに、RYKEYはいつもがなり立てるような調子で絶唱する。ラッパーなんて自信があって当たり前だけれど、これはアーティストとしてのペルソナなんかじゃなく、虚勢まじりの不遜な自信だけを頼りに生きてきた人間の声だ。
 日本の父とケニアの母を持つ、東京最西部、八王子エリア出身の元ギャングスタ。八王子はかつての暴力団の抗争事件で有名で、隣接する町田と競って「西の歌舞伎町」との異名で呼ばれる東京の西の拠点だ。本人のエスニシティについては印象的なタイミングでときどき口にされるだけだし、八王子クリップスの元メンバー、というそのプロフィールも、懲役帰りや現役の売人のラッパーが珍しくなくなった現在ではとくに目を引くものではない。彼自身も赤裸々なライフ・ストーリーを切り売りするわけじゃない。RYKEYの謎めいた言葉にリアリティを与えているのは、彼の声と、目だ。天性のカリスマティックな雰囲気と、そのせっかくのギフトを自分で台無しにしてしまいそうな危うさ。役柄は選ぶだろうけれど、ヴァイオレンス映画にでも出れば、きっといい演者になるだろう。

 フリーのミックステープで着実にプロップスを獲得してからデビュー・アルバムをドロップ、といった昨今のプロモーションのセオリーを覆して、RYKEYは2015年に立てつづけに2枚のフィジカル・アルバムをリリース。1枚目はオーセンティックでポップといってもいい『PRETTY JONES』、そして2枚目が去年の初冬にドロップされたこの『AMON KATONA』。内容は……本領発揮って感じだ。
 まくしたてるようなヘヴィ級のラップと魔術的なストーリーテリングによるサイエンス・フィクションは、初期のブルーハーブか東海岸アンダーグラウンドの雄、カンパニー・フロウを彷彿とさせる。けれど言葉選びとライミングはよりラフで、荒削りだ。サウンドの感触もざらつき、混沌としている。ドスのきいたサンプリングのビートに、しつこく連打されるハットとエグいベースが獰猛さを注入し、そこにブルージーなピアノやギターの叙情までかぶさってくる。前作のラップがオーソドックスなモダン・ジャズだとすれば、このアルバムはインプロヴィゼーションによるフリー・ジャズ。東京の黒社会を生き抜いた27歳の青年が、神話的なマジック・リアリズムを駆使して産み落とした怪作だ。

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 冒頭一発ですべての印象を決定づけてしまう“氷のさけび”。通常の意味でのグルーヴをまるで感じさせない、逆に聴く者の両膝を撃ち抜いて動けなくさせる極北のビート。ヒップホップに限らず、打楽器のビートというのはよく心臓の鼓動に喩えられるけれど、その比喩でいえば、この鼓動は不整脈だ。酒でもコデインでもなんでもいい、オーヴァードーズ寸前までなにかに溺れたことのある人間ならわかる。手脚の感覚がなくなり、意識が朦朧とし、暴れていた心臓がゆっくりと不規則に脈打ち始めると、やがて見える景色が一変する。最初は快楽を与えてくれたはずのものが悪夢の象徴に変わる。抽象と具象を行き来するリリックは、あることを理解しなければまったく意味をなさない。「氷」という言葉を英語にして、それがこの国の路上のスラングでなにを指すのかを知らなければ。地獄の季節をめぐるこの詩は、冷たく光るその結晶の一人称で書かれているのだ。

 自分にはまだ誰にも話してないことがたくさんあって、だけどそれを言葉にしてしまうと自分の命はなくなる。そんな笑えない告白で始まる“東京ナイチンゲール”。さんざんっぱら悪事を働いた大都市を架空の女の名で呼ぶこのリリシズムは、けして美辞麗句の言葉遊びではない。余韻をたっぷりと持たせたライミングで吐き出される、どうにもならない恐怖と覚悟。叙情(Lyricism)とは本来こうやって、言葉にできないことを口にするために、宿命的に召還されるものなのだ。静謐なシンセのイントロと、泥酔したチンピラが路上で絶唱しているようなフックのコントラスト。「アスファルトに咲く薔薇」というフレーズは、2PACのあの「コンクリートに咲く薔薇(The Rose That Grew From Concrete)」の変奏だろう。囚われの檻でひとり涙を流す自業自得の孤独は、罰あたりにもアンネ・フランクの面影に重ねられる。ふつうなら鼻白んでしまうそのナルシシズムを、けして冗談にはさせない熱量がこの歌声にはある。

 沸騰寸前の熱がついにマジック・リアリズム的なサイエンス・フィクションに達するのは、独房の囚人が銀河鉄道の夜を渡る“AMON KATONA”。ヒップホップの醍醐味はビートとラップの殺し合いだけれど、この曲はそのふたつが互角に拮抗している。金がなくなればハッパを売ってグラムのあがりが1500円。そんな生活で月額30万もべつに怖くねえ。鏡に映ったオルター・エゴに悪魔の名前をつけ、そいつを通して自分自身に叩きつける言葉。なかば自暴自棄なその虚勢を、めちゃくちゃな音圧のベースがあとずさりできない地点までドライヴしていく。オーヴァードーズして痙攣を繰り返すハットと、囚人の背中を打つ鞭のようなスネア。まっさかさまに落ちていく墜落感に溺れ、絶唱フックの酩酊を何度かくぐり抜けると、驚くことに、このストーリーは宇宙にまで辿りつく。
 なぜなのかはわからない。拳銃をポケットに急ぎ足で駆け抜ける路上のリアリティが、なぜ遠い銀河の別な惑星に接続するのか、そこにはなんの理由も説明もない。とにかく囚人は、晴れていた空が曇り、奇妙なかたちの宇宙船が飛び交うのを目撃する。この時空を超えた悲痛なスペース・トリップを幻視させているのは、ドラッグではなく、あまりにも強い懺悔と後悔だ。もしも裏切ってはいけない誓いを裏切ってしまったら? もしも切れないはずの絆が切れてしまったら? 時間と重力の法則が乱れ、森羅万象が逆転し、けして起きるはずのないことが起こる。これはあってはいけないことが現実になってしまった先の、そのもしもの話だ。

 壮絶なオープニングで幕を開ける地獄のサウンド・スケープは、禁断症状的な幻覚とダークな内省を往復しながら凶暴なアグレッションをぶちまけ、やがてボーナス・トラックの手前の終盤の3曲、珠玉のブルーズのロマンティシズムに慰められる。いまのトレンドを追いかける音ではけしてないけれど、じゃあいつの時代の音だと言われても正直困る。たぶんどんな時代にリリースされても違和感があるだろう。未来の遺物というか、オーパーツ的な感覚。
 それにしてもやはり危険なのはリリックだ。「僕」と「俺」という一人称をランダムに使いわけ、やけに文学的な言いまわしや敬語表現とラフで口汚いスラングが混在し、過去形と現在形が食い違いながら衝突して時系列をズタズタに引き裂く。時空がゆがむ感じ。文章になったものを読めば文法的には間違っているし、矛盾や齟齬もたくさんあるのに、押しよせる膨大な言葉の連鎖を追っていくうちに、ドス黒い感情の毒液にやられてフラフラになる。「ドープ(Dope)」ってのは、こういうことだ。最近じゃすっかり陳腐な褒め言葉になってしまった感はあるけれど、得られる感覚がドラッグそのものじゃなければ、本当はこの言葉は使ってはいけない。

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 ライミングの水準はフリースタイル・バトルの盛り上がり後の高度化した感覚からすれば突出しているというほどじゃないし、ストレートに突き刺すラップのスタイルも、トラップ以降のフロウのトレンドとは無縁だ。それでも、ここにはそんな技術的な分析をふっ飛ばしてしまう力がみなぎっている。スキルを磨くのはもちろん大切なことだ。だが勘違いしちゃいけないのは、ラップはスポーツじゃないってことだ。リズム・キープのためにRYKEYが発する獣じみたうなり声は、小細工的なフロウやライミング以上に、その言葉の核にある熱を伝えてくる。いくら韻の科学を研究しようが、最新のフロウのトレンドをチェックしようが、その熱をトレースすることはけしてできない。今後ヴォーカロイドの技術がどれだけ発達しようと、この熱病の息吹だけは、ラップ・アートの真髄として永遠に残り続ける。

 不良であること、不良あったこと、それ自体にはなんの価値もない。問われるのは、そこからなにを持ち帰ったか、だ。きみは番号で呼ばれたことはあるかい? ドラッグ・ディールにのめりこんだこと。アフリカのマフィアに拳銃をつきつけられたこと。両腕に手錠をかけられ、塀の中で悔恨の涙に頬を濡らしたこと。それは彼だけのパーソナルな経験だ。けれど、たとえそんな路上のリアリティとは無縁の人間がこのアルバムを聴いても、きっとそこに何度も自分自身の顔を発見するだろう。それはRYKEYがみずからの経験を錬金術的に精製し、まるでおとぎ話か神話のような、無限に解釈可能なストーリーにまで昇華しているからだ。死ぬほど後悔しているのに、たとえその日その場所に戻れたとしてもきっと同じことを繰り返してしまうだろう、というタイプの悪事はこの世界にたしかに存在する。乱暴に女を抱いた後にその髪を優しく撫でてやるこの男の身勝手な指先は、そんな普遍的な罪の手ざわりをしっかりとつかみとっている。

 悪いことはしちゃいけない。シンプルなことだ。だけどそんな戒律がいつどこでも律儀に守られるんなら、西暦2000年を超えて、とっくの昔にこの地球には地上の楽園が出現しているはずだ。『AMON KATONA』というタイトルは、古代エジプトの神であり、ヨーロッパの民間伝承では悪魔でもある「アモン(AMON)」に、RYKEYのケニアの母方の名「カトナ(KATONA)」をくっつけたものらしい。古い悪魔学のグリモア(奥義書)の辞典によれば、アモンはフクロウの頭とオオカミの胴体、蛇の尾を持つ強力な悪魔の君主で、召還者に未来と過去の知識を与え、ときに人間同士の争いや和解をもたらすそうだ。なるほどこのラップは、聴く者の心臓を舐めまわす悪魔の舌によって奏でられている。『AMON KATONA』は、東京の地下社会をサヴァイヴしたひとりの青年の実録でありながら、同時にあらゆる文明をまたぐ、人類共通の闇をめぐる寓話でもあるのだ。

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 とても魅力的なアルバムではあるけれど、これがRYKEYの最高傑作だとは思わない。フリースタイルを再構築したという本作のラフでドープなラップと、前作の王道的なソング・ライティングを高いレベルで融合させられれば、たぶん彼は唯一無二のラッパーになるだろう。なにか表現しようなんて思い立つ連中は、かならず自分の中に得体の知れない別の生き物を飼っているものだ。アーティストはそこから2つのタイプにわかれる。その生き物を器用に飼い馴らす奴と、制御不能なそいつをもてあまし、その獰猛な衝動と殺し合いながら創作し続ける奴だ。本物のアーティストはだいたい後者だし、RYKEYもあきらかにそうだ。
 
 気に入らねえ奴には誰だろうが中指を立て、親しい相手にさえ愛情の裏返しの挑発をふっかけ、クソみたいにやられた夜に次の仕返しを思いめぐらせて血をたぎらせる。アルバムにあわせて公開されていたショート・ドキュメンタリー『TOKYO N*GGA DOCUMENTARY』を観る限り、このでたらめでどこか愛嬌のあるキャラクターは、間違いなくプロモーションのための演出ではないだろう。ビッグ・ネームとのコネクションにうわつくような雰囲気もまるでない。実際に周りにいる人間はかなり大変だと思うけれど、有り金を思わずすべてベットしたくなる破天荒な引力がこの男の目にはある。東京のリアリティ・ラップはハードボイルドの袋小路を抜け出し、さらなる高みに駆け上がろうしているようだ。氷点下近くまで気温が下がる冬の夜、マンホールから立ちのぼる蒸気のように、その熱の痕跡は目の高さまでくれば跡形もなく消えてしまうけれど、ともかくそれは宇宙を目指しているのだ。

 プロのトレーナーにヴォイス・トレーニングをうけ、事務所からインタヴューの受け答えまで演技指導されているようなアーティストが好みなら、このアルバムを手にとる必要はない。ノワールの巨匠、ジェイムズ・エルロイのロス四部作のサウンド・トラックになる狂犬の音楽だ。たしかに好き嫌いはわかれるだろうが、そんな言葉でお茶を濁すつもりはない。相手が誰だろうと、人間を計りたかったらまずはそいつの目を見ること。目はけして嘘をつかない。そして声は噓さえ交えて、その人間の腹の底の自信を語る。If This Isn't the RAP, What Is? これがラップじゃなかったら、他のなにがラップだっていうんだ?


Secret Boyfriend - ele-king

 シークレット・ボーイフレンドは、〈ホット・リリース〉〈アイ・ジャスト・ライヴ・ヒア〉などから多数のカセット作品をリリースしてきたノースカロライナの異邦人、ライアン・マーティンのソロ・プロジェクトである。
 今年2016年に発表された彼の新作は、レイム、トロピック・オブ・キャンサーなどのリリースで知られるUKの〈ブラッケスト・エヴァー・ブラック〉からのリリースで、同レーベルからは2014年の『ディス・イズ・オールウェイズ・ホエア・ユーブ・リブド』以来、2年ぶりのアルバムとなる。聴いてみて驚いた。新作『メモライズ・ゼム・ウェル』は、彼のボヘミアン的美意識が、旅人の記憶のような淡い音像の中に、これまで以上に自然に融解/結晶しており、まさに最高傑作といっても過言でない作品であったのだ。ダーク・アンビエント、シューゲイザー、サイケデリック、ニューウェイヴなどの音楽的なエレメントが、柔らかく霞んだ音響の中に、見事に溶け合っている。

 レーベルは本作のことを「孤立するマシン・ミュージック」と評しているが、まさに言い得て妙である。コンピューターではなく、マシン=機械であること。そして孤立とはライアン・マーティン自身のことでもあるのだろう。たしかに本作には、これまでのライアン・マーティン=シークレット・ボーイフレンドの作品に内包されていた「旅人の孤独さ」のような雰囲気、つまりは自ら進んで故郷から離れながらも記憶の中でかつて観ていた風景を希求しているようなノスタルジアが濃厚に漂っている。
 
 たとえば、どこか最近のマウリツィオ・ビアンキを思わせもするノイズ・アンビエント・トラック“ザ・シンギング・バイル”などは、まさにそのような曲だ。機械。光景。記憶、追憶。不可能。その交錯と融解。もしくは〈モダン・ラブ〉からリリースされたザ・ストレンジャーのような孤独な都市生活者のサウンドトラックとしてのインダストリアル/アンビエントとでもいうべきだろうか。その暗く霞んだ音の中で、夕暮れから夜の光景を想起させるようなノン・ビートのアンビエント曲が展開するのだ。

 また、ライアン・マーティン=シークレット・ボーイフレンドの音楽は、ダーク・アンビエントとサイケデリックでフォーキーなヴォーカル曲に分けることが可能だが、本作においては、ヴォーカル曲とダークなアンビエントサウンドは境界線を喪失するように共存している点も特徴的である。とくに“リトル・ジェミー・セントル”は、当初は簡素なリズム・トラックが入ったアンビエント・テクノイズなトラックとして展開するが、終盤近く、溶け合う記憶の層に侵食するかのように幽玄なヴォーカルが入ってくるのだ。この不意を突くような構成がじつに見事。また“ストリッピング・アット・ザ・ネイル(Stripping At The Nail)”は、壊れたスロウダイヴを思わせるシューゲイズな雰囲気が濃厚な曲で、どこか狂気の淵に佇むような印象を残サイケデリック・フォークな楽曲に仕上がっている。

 そして、アルバム中、もっとも深いノスタルジアの芳香を放つ楽曲は“ピアン・デッレ・パルム”だろう。16世紀の教会音楽を思わせる多声的な音響空間に、モノクロームでメタリックな音が微かな旋律を奏でる。いくつもの音の層はやがて溶け合い、ダーク・アンビエント/ドローンへと変化を遂げていくわけだが、それはまるで失われてしまった故郷への消えかけた追憶のように耳に浸透していくだろう。そして遠くの踏み切りを通り過ぎる列車を思わせる音の反復を残して、この曲は終わりを迎える。そのもの悲しさは、本作のムードを決定付けている大切な要素であり、アルバム最終曲“メモライズ・ゼム・ウェルl”においては、よりドラマチックに展開されていくだろう。

 そう、どの曲も簡単には癒されないほどの深い「孤独さ」が息づいているのだ。霧の中に降り注ぐ星空のようなネオ・サイケデリック/ネオ・ニューウェイヴとでも称したい本作は、このポスト・インターネット時代において、特異なほどに心を強く揺さぶるような孤高のノスタルジアを生成しているように感じられたのだ。ここには初期〈クレプスキュール〉のようなヨーロッパ審美主義的なものを小さな記憶に封じ込めていくようなアトモスフィアがある。

 まさに21世紀における孤立主義とロマン主義的電子音楽。もしくは霞んだテープ録音によるフランツ・シューベルト的なボヘミアニズムか。または初期ル・クレジオ的な物質的恍惚か。その不安定な音の揺れは、世界が不穏に揺れ動く時代を生きる、われわれの「実存」そのものだろうか。ライアン・マーティンの音楽は、不安で、不穏で、曖昧で、しかし、だからこそ美しい。2016年だからこそ聴いておきたいアルバムである。

Toyomu - ele-king

 京都のビートメイカー、Toyomuがbandcampにアップした、想像上のカニエ・ウェストのニュー・アルバムが海外でものすごく話題になっている。とにかく聴いてみて。コンセプト(ヒップホップmeetsヴェイパーウェイヴ!)、楽曲、ユーモア、じつに面白い! ナイスです。なお、この若きビートメイカーは、昨年12月にchartを寄せてくれています(thanks RILLA)。

 https://toyomu.bandcamp.com/album/iii-imagining-the-life-of-pablo

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