「K A R Y Y N」と一致するもの

Jimi Tenor & Tony Allen - ele-king

 トニー・アレンに関しては2006年にロンドンの〈Honest Jon〉が出した『Lagos No Shaking』が素晴らしかったが、昨年の『Lagos Shake: A Tony Allen Chop Up』も面白かった。話題となった"Ole"のモーリッツ・フォン・オズワルドによるリミックスや"Fuji Ouija"のディプロによるリミックスをはじめ、マーク・エルネストゥスやカール・クレイグならまだしも、なんとリオデジャネイロのバンド、ボンジ・デ・ホレのリミックスまで聴けるし、アレンと最近のクラブ・カルチャーとの親密さがよく表れていた。もっともアレンを再評価しているのはクラブ界隈だけではない。アフロビートの父は、この10年かなりの売れっ子で、デイモン・アルバーンからシャルロット・ゲンズブール、エールからジェイヴィス・コッカー、あるいはポール・サイモンまでとその交友関係は異様に幅広い。10年前くらいだろう、僕はこの偉大なドラマーのライヴを、フランスとベルギーの国境沿いで開かれた、リッチー・ホウティンやカール・クレイグなんかが出演するようなフェスティヴァルで観ている。

 何故この10年、アフロビートは求められたのだろうか。フェラ・クティが1997年に他界したことで今年69歳になるドラマーは再評価されたのだろうか。はっきりわからないけれど、結論を言えば、ヨルバ族のリズムとアート・ブレイキーとの結合によって生まれたアレンのビートは、ダンスの時代においてもっとも偉大なドラミングとなった。しかも......、ここ数年アレンを引っ張り回した連中の顔を見ればわかるが、揃いも揃ってインテリはアフロで踊ったというわけである。たしかにアルバーンのように政治的にも、われわれはアフリカを注視すべきなのだろうが......。

 ワールド系やブラック・ミュージックを得意とする〈K7!〉傘下のサブレーベル〈ストラト〉の"Inspiration Information"シリーズの第4弾は、アレンとフィンランドのアーティスト、ジミ・テナーとのコラボレーションになった。ちなみにこのシリーズは昨年、デトロイトのアンプ・フィロラーとスライ&ロビーとのコラボレーション作を出しているが、はっきり言ってパッとしない内容だった。買って損した気分なって、中古屋に売った。そういう苦い経験から、今年の春に出たエチオピアのドラマー、ムラトゥ・アスタトゥケとザ・ヘリオセントリックスとの同シリーズは見送ったし(評判は良いですけど)、今回もまた疑りながらこのアルバムも聴かなければならなかった。ジミ・テナーというのも微妙だったりする。この男は、ハウス、エレクトロ・ポップ、フリー・ジャズ、いろんなことに手を染めすぎている。......が、世界でもっとも偉大なるドラマーがその窮地を救ってくれた。
 70年代から80年代にかけて、アレンの創出したリズムを史家たちは「アフロファンク」と呼ぶが、本作はまさしくアフロファンクの作品だ。ジミ・テナーとテナーが関わっているベルリン在住のバンド、カブ・カブのメンバーたちがこの巨匠を迎えての録音で、アレンのパワーと共振しながら迫力ある演奏を展開する。驚いたのは、ジミ・テナーがベースを演奏してアレンとともにアフロファンクの一部となっていることだ。それは確実にこのダンス・ミュージックのグルーヴを強調している。が、それはお決まりの"アフロ"ではない。サン・ラーめいたオーケストレーションもあれば、ラロ・シフリンかと思わせる洒落た展開、あるいはジャジーでドリーミーなノスタルジア......かと思えばギル・スコット・ヘロンのようなMCも登場する。テナーは歌い、ほとんどのメロディー楽器(フルート、テナー・サックス、キーボード、カリンバ、、マリンバ等々)を操り、この出会いに色気を与えている。
 アレンとテナー、この意外な出会いによって、そして目もくらむような音楽が生まれたというわけだ。

Hudson Mohawke - ele-king

 春先の6曲入り「ポリフォーク・ダンス」に続くエレクトロニック・アブストラク・ヒップホップのファースト・フル・アルバム。これまでにリリースしてきたヘラルズ・オブ・チェインジ名義のEP群やルーキッドなどに提供したリミックス・ワークなどをまとめて使いまわしたような仕上がりで、いささか新鮮味には欠けてしまったものの、「プリンス+エイフェックス・ツイン」ともいえる音楽性は方向性も定められて、ひとつの終わりとして聴くには充分ではないかと(プリンスに寄ったプロジェクトとしてはオリヴィエ・デイ・ソウル『キロワット』、エイフェックス・ツインに寄ったものとしてはヘラルズ・オブ・チェインジ「シークリッツEP」がグー)。そういう意味ではフライング・ロータスをスラップスティックに解釈し直したクップ・ケイヴ『ガーベイジ・ペイル・ビーツ』(08)と共有しているものは多く、ブラック・ミュージックとヨーロッパ的なディスロケイション趣味が結びつこうとする衝動には一種の高まりが感じられる(シングル単位でいうとドリアン・コンセプトは控えめな方で、ショートスタッフやスターティング・ティースはあっという間にクルクルパー。ジェイミー・ヴェクスドによるスターキーのリミックスもいい線行ってます)。

 グラスゴーという土地柄とはどうも結びつかないので、グローバルな気運を体現してると考える方がよさそうだし、昨年、実際に粉川哲夫氏がグラスゴーに行くというので彼のライヴがあったら観て下さいとサジェスチョンしたところ、土地の人でモーホークの名前を知っていた人はひとりもいなかったそうだ(氏は同地で行われた音楽イヴェントのために渡英している)。つまり、どこからどこへ向かう音楽なのか全体的にはまだ把握しきれていないということですね。必要なのはリアクションという時期だということでしょう。前述「ポリフォーク・ダンス」とのダブりはなし。オール・シティからリリースされて、すぐに売り切れたハドスン・モー名義の7インチ・シングル「スター・クラックアウト」は再録(これはドローンとはいわないけれど、プリンスともエイフェックス・ツインとも違う賛美歌風チル・アウト)。オリヴィエ・デイ・ソウルも2曲でヴォーカル参加。

センコロール - ele-king

 音楽の世界ではもう80年代末くらいから自分ひとりの手でベッドルームの自宅スタジオにこもって作品を完成させることは夢ではなくなったし、そのころに比べてもコンピュータや録音用のソフト、機材が格段に安くなった現在では、もはやかつてのように豪華なスタジオでミュージシャンを呼んで何ヶ月もかけて録音することのほうがレアで贅沢な手法になってしまった感もある。映像の世界だって、昨今のハリウッド映画を観たらもはや"実写"と呼ぶのさえ憚られるようにデジタル合成やCGのオンパレード、かつては表現できなかったことがほぼ何でも実現可能になってポストプロダクションと制作者の創造力にかかる重要性が増している。

 しかし映像の制作は音楽とは比べものにならないくらい金がかかるから、普通は労働集約産業化する。日本のお家芸、セルアニメなどは一枚一枚絵を描いて(フルアニメだと1秒で24枚)動かさなければならないわけで、膨大な人手が必要だ。本作、『センコロール』は、新海誠『ほしのこえ』(02年)など、近年少しずつ増えてきたインディー・アニメの最先端に位置する作品で、マンガでの受賞歴もある宇木敦哉が監督・脚本・作画と制作の主要部分をすべてひとりで行っている。

 正直に言うと、新海誠が彗星のごとく世に出て、高性能のPCと才能、根気さえあれば、アニメだってひとりで作れる時代になったと騒がれても違和感が拭えなかった。たしかに、『ほしのこえ』や『雲のむこう、約束の場所』(04年)は美しい美術(背景)や光の表現、それに作り手の目が行き届くゆえの一貫性が素晴らしい。しかし、セカイ系を地でいくストーリーや設定、もしくはフォークやニューミュージックかという古くさい感覚は、「革命的」というタームが似合わないと感じていた。一方、07年にパイロット版公開と制作発表があり、その後2年半をかけてできあがった約30分のフィルムが09年8月に劇場公開となった本作は、その長い制作期間中に古びることもなく、斬新な感覚でインディー・アニメの基準を大幅に更新した。

 「街に巨大な怪獣が突如現れた」という事件をきっかけに、好奇心旺盛な女子高生ユキのもとにまるでペットのように同様の謎の生物を操る少年たちがあらわれて......と、制服姿のまま話が展開していく『センコロール』。ヘリや戦車、軍人のシルエットは出てくるが、主要キャラ以外の人物は登場せず、かつての怪獣映画ほどには街も破壊されるのに、生活や社会は一切描かれない。短い尺の中で何を描写するのか取捨選択するなか、宇木監督のフォーカスは少女と謎の生物"センコ"との交流、そしてアニメ的な動きの気持ちよさに集約された。その潔い割り切りは鑑賞後の充足感はもたらさないかもしれないが、逆に繰り返し見ても胃もたれせず、テンポやリズムにおいて功を奏している。非常にナラティヴなものや120%伏線も何も説明しきるものばかり見ている一般のアニメファンからは内容に関する不満もあるようだが、ポンっと放り出されるように終わる作りはショートフィルムとしてはむしろセオリー通り。それをいかにもアートな志向でなく、商業作品並の絵柄や動きで実現させたのが、この作品の肝なのだ。トレーラーを見てもらえればわかるように、その独特のセンスのモンスター・デザインと、ひとりで描いたとは思えないすごい動きのアニメーションは、天才の登場を予感させるに十分なものだろう。

 もうひとつ付け加えると、パイロット版のときからテクノっぽい打ち込みの音楽が使われていた『センコロール』は、最終的にニコニコ動画や初音ミクの界隈では超有名な音楽ユニットsupercellのryoが担当している。一般的にはほとんど馴染みがないアーティストだろうが、彼も完全にインディーの出自であり、無理矢理たとえるならギーク/ハッカーの集まりだったブラック・ドッグがプラッドになっていつのまにかビョークと共演したり映画音楽を書いていたみたいなものだろうか。最初は、この音楽がずっと鳴ってPV的な仕上がりかもと心配したが、4つ打ちのダンストラックは重要な一箇所でしか使われず、エンディングのヴォーカル曲も最近の邦画のとにかくタイアップで内容とはイメージあわなくても売れ線歌手を使わせるみたいなものにはない自然なマッチングだ。サラウンド環境のあるひとには、ふつうの映画よりかなり自由に音楽も効果音も配置した5.1chサウンドも楽しみのひとつだ。アニメは所詮全部虚構なのだから、このくらい思い切ったサウンドデザインをしてもいいと思う。

 シナリオ監修で本作に参加した作家の山下卓は、コメントで宇木監督と細田守を比較しているが、斬新なフィールや卓越した作画力を擁しながらも極めてオーソドックスな世界を描こうとしている『時をかける少女』(06年)や『サマーウォーズ』(09年)と本作は、たしかに類似点があるかもしれない。しかし、細田監督のフィルムが貞本義行という強力な絵描きの力で結実しているのと違い、宇木は自らキャラやメカを描き、動かしてしまうという点で別次元の可能性を秘めているとも言える。ベッドルームのクリエイターが大資本や大プロダクションと組んで急にスポイルされてしまうという事例もたくさんあるが、『センコロール』はさらなる革命の第一歩にすぎないと、そんな予感がするのだ。

パイロット版

トレーラー

 仕事の場面で誰かを誰かに紹介することは多い。このところ、そのような場面でいきなり自分のことを克明に「説明」する人が増え、いささか面食らっている。え、なんで、それ、いま、必要? ......と思った時にはもう遅い。それは売込みとも違うし、本人に自覚があるのかすら怪しい。とにかく僕からしてみれば突拍子もなく、リアクションがまったく思いつかない。困ったとしかいいようがない。

 菊地成孔がフロイトを持ち出した辺りからそれははじまっていたのかもしれない。僕の記憶ではECDがまずはそれを新たなステージに上げ、海猫沢めろんや香山リカがその後に続き、『モーニング・ツー』ではじまった新連載を読むと、西島大介も同じことをはじめようとしているように見える(雨宮処凛や吉田アミもそうなのかな?)。そう、00年代に人気が出た人たちは、なぜかこぞって「自分語り」に手を染めている。西島の連載を指して僕がそういうと、NUの戸塚くんは「そういえば佐々木敦の新書も自伝に読めなくもない」といい、それを聞いていたタキシムが「実際に、次は自伝を書いているようですよ」と会話に割り込んできた。本当かどうかは知らない。すでに自伝として読めなくもない本が書かれているというのだから、それで充分だろう。僕たちはその時、クアトロにいた。31年ぶりに聴いたフューの演奏が終わり、初めて聴く前野健太のステージがはじまる直前ではなかったかと思う。自分探しの90年代から自分語りの00年代へ。『SPA!』の中吊り広告じゃないんだから。

「自分はない」というのが80年代の流行りだった。蓮見重彦の文章からは主体を指し示す指示代名詞が消えてなくなり、思想界というところでは「私は」とか「僕は」と書く人は跡形もいなくなった。例外は粉川哲夫と栗本慎一郎だけで、僕はこの2人にフィリップ・K・ディックについて書いてもらうことにした(『あぶくの城』)。フィリップ・K・ディックの小説もまた主体がはっきりしていないものが多い。『ヴァリス』が4重人格の話ではないかと思うようになったのは、だいぶ後のことだった。

 自分について語る人は、だから、あまりいなくなってしまった。それまでは全共闘の昔話が主流だった。その代わりにモノについて語る人が増え、10年も経たないうちに「おたく」というタームが広まった。それもまた異常なことだと認識されることになっても、自分の話をする人が戻ってきたわけではない。合コンで自分のことばかり話す人が嫌われるのと同じようなものだろう。ジャック・ラカンやマリリン・モンローの「自分語り」なら聞きたかった人たちもそれなりにいただろうけれど、どう考えても一般にその流れが戻ってくるとは思えない。自分の話をひとつの例として、ある種の普遍性に還元するんだという意気込みがある場合もあるだろう。マイケル・ジャクスンや『ベンジャミン・バトン』のようにあまりにも特殊な話なので、単なる自分語りとは違うんだと主張する向きもあるだろう。それぞれの動機というものはわからないし、そこまで踏み込む気はない。しかし、それは同時多発的に増え、いまや、僕の会議の席にも押し寄せてきている。少しばかり辟易とさせてもらうことは許してもらえるだろうか。

 ECDも海猫沢めろんも香山リカも西島大介も佐々木敦もすべてに目を通して共通していえることがあれば、この文章も締まったものになるはずだったけれど、しまった......どれも読んでいなかった。とくに友だちのことはあまり詳しく知りたくないということもある。クラブで知り合った人たちとは、いつも、そのように付き合ってきたし、その方がいざとなったら助け合うことは容易だから(ほかではどうなのか知らないけど、クラブで知り合った友人たちはよくわかっていないからむしろ助け合っているとしか思えないことが多い。よく知っていたらとても助ける気にはならないとでもいうように)。そういえば、クアトロのライヴで前野健太がMCで話していた『ライヴ・テープ』を観て、彼が吉祥寺の街を歌いながら歩き続けるシーンはとてもよかったのに(それだけの映画なんだけど)、エンディング近くになって監督が前野健太に歌をはじめた動機を尋ねることですべてが台無しになってしまったような気がした。

彼が歌いながら歩いているシーンはさながら「ひとりサウンドデモ」で、誰ひとり彼のことを振り返らないことや、誰も彼の歌を聴こうとしないために、外に出て大声で歌っているのに引きこもりのように見えてしまうということが世の中との距離感をはっきりと印象付け、それこそテロリストにさえ見えかねなかったのに、彼の個人史がそこで顕わにされることで、その辺にいた人たちとあまり変わらないものに思えてきたのだ。街のなかにあって宙に浮いていた彼の歌を世の中に接着させるもの。それが彼の(強制された)「自分語り」だとしたら、いま、自ら進んで自分語りを行うということは、この世界で無条件に浮いていることに辛さを覚えるようになった人気者たちがどこかに接着されたくて......ま、やめときましょう。どれも読んでもいないし、多分、間違っているし。

Lindstrom & Christabelle - ele-king

 東京では2004年、ドクター西村の影響力によって「There's A Drink In My Bedroom And I Need A Hot Lady EP」がカルト・ヒットしたことで、たぶんイギリスよりも早く名が知れたノルウェーのリンドストロームだが、ロンドンを中心に2008年から広まったコズミック・ディスコ・ブームのおかげで、欧米ではむしろいま時の人となっているようだ。今年の初頭は『ガーディアン』がその広がりをレポートし、ロック・バンドはシングルのクラブ・ミックスを北欧のプロデューサーに依頼する。コズミック・ディスコのディーヴァとばかりにリトル・ブーツはデビューし、USオルタナ文化の支柱となっている『ピッチフォーク』でさえも、この新作に色めき立っている。そう、巷では"キング・オブ・コズミック・ディスコ"なる称号で呼ばれるリンドストロームの新作に。

 僕は実は、つい先日、初めてリンドストロームと会って話を訊く機会を得た。オスロからやってきた細身の青年は、彼の宇宙級にトランシーな音楽とは裏腹に、なんとも頼りなく、地味だった。昼間からビールをがぶがぶ飲んでいる僕の目の前で、彼はコーヒーとオレンジジュースを飲みながら、何度も「いやー、僕は退屈な男だから......」とイクスキューズを入れるのだった。で、実際、たしかに退屈そうな男だった。自分でも認めていたが、間違ってもクラブに行くような類の人間ではない。そしてだからこそ、彼は音楽のなかでもうひとつの自分(オルタエゴ)を解放して、宇宙ディスコに飛び出すのかもしれない。ロケットのように......。僕は初めて、「There's A Drink In My Bedroom And I Need A Hot Lady EP」を聴いたときは、北欧のタチの悪い妄想狂の仕事だと勝手に妄想していたほどだった。

 さて、旧友クリスタベルをヴォーカルに迎えてのリンドストロームの新作は、彼にとって初めてのポップス・アルバムとなった。2003年のヒット・シングル「Music (In My Mind)」以来のコンビで、古いファンにしてみたら待望のコンビ復活となる。アルバム全体の印象を言えば、ドナ・サマーというよりも80年代のダンス・ポップスの今風解釈による作品だ。"Lovesick"や"Let It Happen"や"Keep It Up"、あるいはソウルフルな"Baby Can't Stop"など、細部に実験的だけどおおまかなところでは実にキャッチーな曲が並んでいる。それらのキャッチーさは、彼の本質でもある。リンドストロームと話して驚いたのが、彼が真性の80年代ポップス信者であるということだ。信者......そう呼んでも良いだろう、それほど彼は80年代のポップスこそ最高だったと、何度も繰り返していた。たとえばプリンスのような音楽を。

 もっとも重要なことは、"宇宙ディスコの王様"が、本当にファンタスティックなアルバムを完成させたことである。『Real Life Is No Cool』は華麗なアルバムだ。そしてこれは、忘れるためのアルバムである。楽的的で、気がつけば頭のなかではミラーボールがくるくると回っている。何よりもアルバムのタイトルがこの音楽の意味を暗示しているじゃないですか。『Real Life Is No Cool』――現実は惨めである。現実から逃げて、夢や幻想のなかでこそ、人はクールになれる。

Dinky - ele-king

  チリ出身(で、現在はNY在)のディンキーことアレハンドラ・イグレシアスの4作目。手法や雰囲気がどんどん変化していて、マシュー・ジョンスンのレーベルからはミニマルをメインにしつつ、南米の高地を思わせる乾いた民族音楽の破片が(南アのポータブルと同様)そこはかとなく、あるいはあからさまに散りばめられている。その処理の仕方に象徴的に顕れているように、彼女の音楽は非常に洗練され、新しい服に袖を通すような気分でさらさらと耳に入ってくる。潜水で泳いでいるような"ロマニクス"にはじまり、アルバム・タイトル曲ではデリック・メイを思わせる細かい音のループが冴え、ベイシック・チャンネルとカール・クレイグに影響されたというセンスもそのまま健在。ヴォーカルにアップデイツをフィーチャーした"ウエストイド"では頽廃的なムードを漂わせた『ブラック・キャバレー』(03)も鮮やかに甦る(音楽性に変化はあってもスタイリッシュという意味では一貫していたといえる)。元々、微妙な感性に訴えかけてきた人だけに、破片と破片が手を取り合って曲のイメージを押し上げている時にはその効果は無限大の威力を発揮する。ミニマルには、そして、ダパイク&パドバーグやトウアネなどファッショナブルなデザインの作品が多くなっている。それらはゲットーやそれに関心を持つ人たちではなく、明らかにスノッブな層を惹きつけようとしているし、実際、この辺りの音はクラブの外部にもじわじわと波及しているのだろう。リスニング・ミュージックとしても楽しまれてしかるべきというか。曲数がたくさん聴きたい人はCD、おっぱいの谷間が気になる人はアナログがお奨め(つーか、デザイン的には圧倒的に後者ですよね。トリミングが違うだけなんだけど、シャンデリアーズのセカンドとかついついデザイン・ワークで買ってしまいます......)

King Midas Sound - ele-king

 これは、ダブ好きには避けては通れない1枚。いつまでもルーツにしがみついているダブ好きではなく、時代とともに更新されていくダブを積極的に受け入れていくことができる、耳と心が広く開かれたリスナーにとってのマストな1枚である......とはいってもデッドビートなんかに比べればそれなりにルーツに敬意を払っているのだが......。
 キング・ミダス・サウンド(英語読みすれば、キング・マイダス・サウンド)はケヴィン・マーティン(ザ・バグ)と、作家であり詩人のロジャー・ロビンソンによるプロジェクトだ。作家といってもロジャー・ロビンソンのことなぞ僕は知らなかったけれど、調べてみるとなかなか興味深い男で、彼はロンドン在住のトリニダード系イギリス人で、詩人であり、作家であり、音楽家であり、パフォーマーで、イギリスのブックアワードにて「影響を与えた黒いイギリス人作家の50人」のひとりに選出されている。2001年に『Adventures in 3D』、2004年に『Suitcase』といった本を発表している。いわばディアスポラである。彼はシンガーとして、詩人として、アッティカ・ブルースのアルバムに参加したり、あるいはビーンズ(アンチ・ポップ・コンソーシアム)をゲストに迎えて自費でレコードを制作したりとか、地道に音楽活動を続けている。2001年にはテクノ・アニマルのシングルにも参加しているし、〈リフレックス〉から出たザ・バグのセカンド・アルバムにも参加している。2007年の『Box Of Dub』でキング・ミダス・サウンドを名乗る以前から、マーティンとはすでに顔見知りなのだ。
 そしてマーティンは、昨年のザ・バグの『ロンドン・ズー』によってこの20年の苦労が報われたというか、ようやく初めて大々的に評価された人で、だから彼のこのダブ・プロジェクトであるKMSを出すにはいまが最高に良い時期でもある。幸先の良いことに、KMSは昨年の最初のシングル「Cool Out」によってすでに好き者たちのあいだで評判となっていた。今年の夏前は〈ハイパーダブ〉からの2枚目のシングル「Dub Heavy ― Hearts & Ghosts」を発表して、ファンの期待をさらに煽っている。何よりもその重量級ベースラインの震動によって(挑戦してるんだろう、どこまで出せるか)。
 ヒット・シングルのタイトル曲"Cool Out"ではじまる待望のアルバムは、その立派なプロジェクト名とは裏腹に、亡霊のような音楽だ。風が吹き、霧雨が立ちこめるとき、真っ暗闇を歩いているような気分にさせてくれる。すべての輪郭がぼやけ、重低音が響いている。眼鏡を外して夜の散歩をしているような感覚だ。タイトル曲の"Waiting For You"はベストトラックのひとつで、いわば電子ノイズのシャワーが降り注ぐマッシヴ・アタックである。〈ハイパーダブ〉のコンピの1曲目に選ばれた"M eltdown"や"I Man"もキラーだ。アンドリュー・ウェザオールのゴシック趣味が暗い雨の日のカリブ海の路上で再現されたかのようである。"Goodbye Girl"ではトリッキーのパラノイヤが憑依したかのように、不気味なスペース・ダブを展開する。"Outer Space"は強烈なアフロビートが響くダンサブルな曲だが、最後から2番目のこの曲が流れる頃には、リスナーはすっかり動けなくなっているかもしれない。
 もしこのアルバムでひとつ大きな不満があるとしたら、ロビンソンの言葉が僕の英語力では理解できないということである。わかったらものっとハマれるんだろう。

Beak> - ele-king

 はははは、最高。1曲目の"Backwell"、思わず笑ってしまう、これはまったく......カンだ! 2曲目の"Pill"もカン。アルバムにヤッキ・リベツァイトが参加しているんじゃないか、と疑ってしまうほどだ。クラウトロックのポスト・パンク的解釈といえばPILが有名だが、3曲目の"Ham Green"や10曲目の"The Cornubia"はまさにそれ。4曲目の"I Know"はカンの"マザー・スカイ"そのもの......そしてこうしたクラウトロック・スタイルが見事に格好いいから始末が悪い。ザ・ホラーズのプロデュースもそうだったし、ポーティスヘッドの『サード』にもその影響を取り入れていたけど、ジェフ・バーロウによるソロ・プロジェクト、ビーク>は彼のクラウトロック趣味が爆発している。
 この3人組のバンドの他のメンバーは、ベーシストのビリー・フラー(Team Brick)、マルチ演奏家のマット・ウィリアムス(Fuzz Against Funk)。僕は彼らについてまったく知識がないけれど、とてもセンス良く、このミニマル・ロックの重要なパートとなっている。7分以上にもおよぶ"Battery Point"はアルバムのなかでもずば抜けて美しい曲で、厄介なほどドラマチックな曲でもある。ポーティスヘッドの面影を感じることもできるが、それもほんのわずか。次の曲"Iron Acton"になると、こんどはカンのベースラインにノイ!のモータリック・サウンドのお目見えとくる。電子ノイズが流れ、クラウス・ディンガーばりのドラムが疾走する。ザ・ホラーズの"Sea Within A Sea"で試みたことの焼き直しだが、こちらのほうが言葉はより不明瞭で、ぼんやりとしていて、大人っぽいと言えば大人っぽく......しかし、"Barrow Gurney"なんかは初期のクラスター(エレクトロニック・ドローン・ノイズ)だし......いったいバーロウという人は......。
 彼がポーティスヘッドの『サード』でやろうとしたことは、マッシヴ・アタックが『メザニーン』でやろうとしたこととある意味似ている。そこ意地悪いほど、時代の恐怖が描かれているのだ。最後から2番目の"Dundry Hill"や最後の曲"Flax Bourton"のドローンめいたダーク・アンビエントを聴いていると、昨年、『SNOOZER』でやらせてもらったバーロウに取材を思い出す。
 彼は反戦活動など個人的な政治活動を通して、むしろ孤独を感じているようだった。「僕が言いたいのは、『政府を粉々になるまでぶち壊してしまえ』ってこと。できればそうして、またはじめたほうがいい。現代社会ではもう何もかも、ちょっと手遅れなのかもしれない、もう行き過ぎてしまったのかもしれない、と思う。僕らは本当に慣らされてしまってる」――これがバーロウという人なのだろう。そういう意味で、ビーク>の異様な暗さとクラウトロックのアイデアを借りた疾走感との奇妙なバランスは、僕にはなかなか興味深いものに思える。とはいえ、僕のようにカンのカタログをすべて揃えているリスナーを困惑させるのは、冗談じゃないかと思えるほど、ベースとドラムがベタであるということ。繰り返すが、それがしかも見事に決まっているのである。
 そして、彼はそのときの取材でこうも言った。「もしブリストルから非商業的で、反逆的で、エクストリームなものが出てきたとしたら、僕は基本的に100%支持する。たとえ好きじゃなくても支持するね」、はい、ビーク>がまさにそれです。

RUMI - ele-king

 『Hell Me Tight』『Hell Me Why?』に続く、Hell Me三部作の最終章だという。ポップになった前作は踏襲され、詩の内容は、周囲から社会全体への批評性に富んだ前作をさらに深化させている。テーマはそうした批評性に加え、表題のNATONを冠した「RUMINATION」というタイトルがほのめかすとおり、MC、RUMIのアイデンティティ宣言が印象深い。
 はじめに急いで言っておきたいのだけれど、"RUM"Iだのヒップホップというカテゴリーやイメージを越えるようなものすごい名曲も複数含まれている!(詳しくはまたあとで)

 トラックはKaoru Miura、YOUICHI、DJ MARTIN、SKYFISHらが作り、SHINGO☆西成、MACDDY、漢をフィーチャーしたものもあり、スタンダードなヒップホップが中心だがバラエティに富んでいる。が、どの曲も、とくに歌詞がすばらしい。高校時代に音楽キャリアをスタートさせ、"OL生活"をしながら音楽活動をしてきたRUMIも三十路を越え(というフレーズもちゃんと出てくる)た。というわけでいま一度、音楽で生きて行くことを選びなおし、そういう自分はどんな人間であるのかを、シリアスさと茶目っ気の絶妙なバランスで告白している。

 前作がリリースされた04年というのは、終わったといわれた戦争が泥沼への一歩を踏み出し、国内では集団ヒステリーのような小泉フィーヴァー収まりやまず、戦場で誘拐された若者たちの"非国民ぶり"を政府もマスコミもあげて攻撃していたころだ。合言葉は「空気を呼んで勝ち馬に乗ろうぜ!」で、それが「熱意と能力」の必須条件だった。しかし時は過ぎ。
 当時のすべてが否定的評価を受けていよいよ政権交代が起きた"チェンジの秋"に新作をリリースする(制作はそれ以前である)ということはある種のリスクが伴うかもしれない。この数年、30代を中心に批判してきた日本社会のある面と、40代後半以降の逃げ切り世代が懐古し始めた社会像とのギャップが切なくも微妙な瞬間的共闘を結んだ結果にも見えるこの政権交代は、中期的にはともかく短期的には、昨年までの常套的な批判的言説を陳腐に感じさせるだろうから。
 けれども、RUMIの社会批評はその陳腐化をまったく免れた。
 「成果には報酬を」を一つ覚えにした小泉政権が確信犯的に推進した政策に疲弊した社会では、「真面目に働く人に人間らしい生活を!」という"要求"が最大の項目に成り果てている。ずいぶん謙虚な願いだ。「真面目に働かない人間にも人間らしい生活を! 真面目に働いたらそれ以上を!」と、それが20世紀の"先進国"がようやく到達したシュプレヒコールだったというのに。
 RUMIの宣言は、ある意味で00年代の"要求"を超えている。ハローワークの窓口で啖呵切ってるような「公共職業安定所」という曲では、「年齢制限越えてるけど心は19」だのと求人条件不適合の自分を売り込みながら、「ツアーに出るから長期休暇が必要」などとこっちから条件を突きつけはじめ、ついには「職安にないわ、私の職業」という結論にたどり着く。安定も儲けもない、未来なんて何も見えないけど、「限りない自由」だけを求めて、あたしはマイクを選ぶんだと宣言する。
 自己責任? そうじゃない。RUMIは社会にたくさんのことを要求する。社会が、自分のやり方、生き方で生き易いところになるようにたくさんのことを提案して、社会(の人たち)に変われば?、とアジってる。自由と引き換えに不安は引き受けるけど、それ以上のこと――たとえば空気を読んではみ出さないようにすることや他人の価値観を素直に受け入れることなんか――を強要されるのははっきりと拒絶する。それどころか、そんな生き方つまんないよと、「生きづらい」と縮こまる人たちを鼓舞して、巻き込んでいく。
 けれども彼女の煽りが素朴な「励ましソング」にはならないのは、彼女の自意識のクールさゆえだろう。「RUMINATION」というアルバム・テーマでもある自己認識、自意識への距離感がとても成熟している。

 子どもは生まれる場所、生きる場所を選ぶことは出来ない。どんな子どもも与えられた場所から生来的に生まれる苦痛を訴える。おとなになるということは、自分の立ち位置を自分で選びなおすことができるようになるということだ。経済的階層のことではなく、価値観というものを自分の意思で選んだという意識が人を大人にしていくのだと思う。自意識との対峙はその過程で試行錯誤され、自分にとっても周囲にとっても適正な距離感をとることができていくのではないか。その意味でRUMIの成熟はその可愛らしさにもかかわらず大人びている。分別ぶったり正論に屈したりするわけではなく、ポップと茶目っ気と他者への思いやりあるまなざしを発揮することで、結果的に自身を最大限に主張するといった巧妙さといえばいいのか。
 どの曲も捨てがたくリピートしたいが、「傑作!」と唸らされたのは"ゆけむり風呂ダクション"。妙齢の女が、妙齢ならではの疲れを癒しに行った風呂屋の大きな鏡の前でお腹をへこませたり、体重計に乗ったり、癒されたり文句言ったりしているんだが、スチャダラパーもかくやの多層なイマジネーションを喚起させる。
 もう字数制限を越えてるぞ、もう一つだけ、といわれたら"迷子"を挙げようと思う。自分で選んだ道でだって人は迷子になることがある。むしろ自分で選んだ道だからこそ迷うんだ。弱気にもなるし、引き受けたはずの不安や孤独だって放り出したくなることもある。そんな覚えのある女の子なら泣いちゃうよね。

鎮座DOPENESS - ele-king

 2009年の日本のヒップホップの重要作を挙げろと言われれば、僕は迷うことなく鎮座ドープネスのファースト・アルバム『100%RAP』を挙げる。なぜか? そんなことを考えながら、MSNニュースを何気なく眺めていると、興味深い記事を見つけた。鳩山首相がシンガポールの新聞社のインタヴューに、「(日本が)中国に経済力で抜かれることは人口のサイズから言っても当然だ。体のサイズに合った形の経済の展開をすればいい」と応じたという。中国との比較云々よりも、日本がすでに飛躍的な経済成長の夢を抱けるような国ではないという事実を首相が認めたことのほうが重要だろう。だから、経済の"成長"ではなく、"展開"と表現した点は実に正しいと思う。庶民は誰も飛躍的な経済成長なんてもはや期待していないのだから。そんなことは随分前から町では常識だ。我々は金がなくても少々度が過ぎるほど陽気に、ダラダラと勝手にやるしかないのだ。そのほうがいまを生きるためにずっと切実なテーマなのだよ。だから、僕は鎮座ドープネスを聴いて怠け心を飼い育てている。

 少々逸れたが、僕はここで政治や経済の話ではなく、音楽の話をしようとしている。鎮座ドープネスというアーティストの話を。

 1981年東京都調布市生まれの鎮座ドープネスは、スチャダラパーやノートリアスB.I.Gをきっかけに高校から本格的にラップをはじめている。2003年、2DJ5MCのカップス・オブ・チャイというグループで『Seven Cups Of Chai EP』を発表、解散後、残ったメンバーとコチトラ・ハグレティック・エィムシーズを2004年に結成する。コチトラは現在、鎮座ドープネス、サボ、カトマイラの3MCに落ち着き、昨年リリースしたデビュー・アルバム『HAGU LIFE』は、日本語ラップ・シーンで反響を呼んでいる。鎮座ドープネスはそして、今年9月、満を持して〈EMI MUSIC JAPAN〉から『100%RAP』をリリースしている。

 アルバム・タイトルは、ヒップ・ハウス、R&Bからユーロ・ビートまでをラップ物としてパッケージしたUSのコンピ・シリーズが元ネタで、鎮座ドープネスは、ラップが本来持つそんな自由を、ハイファナ、DJヤス、エビスビーツ、スカイフィッシュといった一癖も二癖もあるプロデューサーが制作した多彩なトラック(エレクトロ、Gファンク、ダンスホール、メロウ・ソウル)に乗って謳歌している。その並外れた身体能力を武器にした変幻自在なラップの巧さは、現在の日本のラッパーのなかで間違いなく上位5位に食い込むはずだ。
 アルバムはいまは亡き流浪のフォーク・シンガー、高田渡が1971年に発表した"ごあいさつ"のカヴァーからはじまる。慌しい時代の流れをやり過ごすように、のらりくらりと......。「どうもどうもいゃーどうも/何時ぞや色々この度はまた/まあまあひとつまーひとつ/そんな訳でなにぶんよろしく/ナニの方はいずれナニして/そのせつはゆっくりいゃどうも」"ごあいさつ"
 白いタキシードや腹巻き姿ではしゃぎまくる、バウンシーな酒飲みチューン"乾杯"のヴィデオ・クリップは植木等へのオマージュだ。植木等が在籍したクレイジーキャッツによる1961年の"スーダラ節"――高度経済成長真っ只中におけるサラリーマンの能天気な様子をコミカルに描いたその歌詞とスウィンギーなリズムに特徴を持つそのヒット曲がサンプリングされている。「嬉し恥かし/野放し飲んべ~/道端寝そべる/分かっちゃいるけど!」と、こんな感じ。そういえば、『ブラック・ノイズ』の著者、トリシア・ローズはサンプリングを"音楽的タイムマシン"と巧く言ったものだけど、鎮座ドープネスは埃を被った高度経済成長期の日本の大衆音楽に新しい息吹を吹き込んで、底がすっぽりと抜けてしまった時代の酔狂なサウンドトラックとして再生させているようだ。そして、"ドンスタ"では、跳ね上がるファンキーなビートの上で「現代社会頑張りすぎ~/生産工場止まらない~」と、窮屈な日本社会を揶揄する。ちなみに、忌野清志郎が彼に大きなインスピレーションを与えていることも付け加えておこう。

 ニヒリズムを出発点としたハードコア・ラップ(あるいはギャングスタ・ラップ)のストリート・リアリズムもそうだが、あまりに中身のないポップ・チャート・ラップとも異なるリアリティが日本のヒップホップに息づいていることは喜ばしいことであり、貴重でもある。このテーマについて詳しくは今後の原稿に譲るが、何はともあれ、鎮座ドープネスのあっけらかんとした陽気さや怠惰を抱擁する余裕を僕らはいま必要としている。まあ、大変だけど肩の力を抜いてやろうやと。ということで、『100%RAP』は2009年、ベストの1枚である。
Everything's Gonna Be All Right.

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