「K A R Y Y N」と一致するもの

いまやキャラクターとして全国の音楽ファンで知らぬ者なき『レコスケくん』を生み出した本秀康、待望の最新画集発売決定!


『WORLD RECORD』のジャケを、どうしても本さんに描いてもらいたくて会いに行った。(本誌対談より)
──髙城晶平(cero)

本さんが僕に気づいてくれて、「おお、なんか始まったぞ」って感じがした。(本誌対談より) ──前野健太
本さんはめっちゃわたしのなかにバーン!っていますよ。(本誌対談より) ──カネコアヤノ


ファースト画集『ハロー・グッドバイ』から20年、セカンド『MOTO book ~本本~』から12年(干支ひとまわり)。

そして今回のサードは、ルーツロックからアジアン・ポップス、日本インディーまで、古今東西の音楽をこよなく、かつ偏愛し続けてきた本秀康ならではの「ミュージシャンと音楽」に徹底的にこだわったセレクト!

自身で主宰する7インチ・レーベル、雷音(ライオン)レコードのジャケットの原画をはじめ、この12年に本秀康が手がけた数々のジャケット、表紙、グッズデザインなどに使用された作品の原画をほぼ初出しで掲載します!

カネコアヤノ、前野健太、髙城晶平(cero)との特別対談も掲載!

本秀康、初めての全部音楽の画集!

デザイン:岡田崇

本秀康 (MOTO, Hideyasu)
1969年(ロックの年)京都生まれ。イラストレーター/漫画家/7inchレコードレーベル「雷音レコード」主宰。著書に『レコスケくん』(ミュージック・マガジン)、『あげものブルース』(亜紀書房)、『ワイルドマウンテン』(小学館)、『たのしい人生 完全版』(青林工藝舎)などがある。


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R.I.P. Krzysztof Penderecki - ele-king

  クラスターなる文言をはじめて意識したのはもちろんこのたびのコロナ騒動ではなく、じつはメビウスとレデリウスによるクラウトロックの大看板であるあのクラスターでもなく、ペンデレツキだった──かもしれない、といささかぼんやりした文末になったのは私は音楽にのめりこみだしたのは十代のころ愛聴したNHK FMの『現代の音楽』だったのは以前にも述べたが、ある日いつものように夜更かしの友のラジオに耳を傾けているとスピーカーのむこうから耳慣れない単語が聞こえてきた。現代の音楽にはトーン・クラスターと呼ばれる技法があり、切れ目なく、五線紙上の一定の領域をぬりつぶすかのような音(トーン)の塊(クラスター)は聴感上つよいインパクをのこすと番組司会者は述べられ、例にあげた作曲家のなかにペンデレツキの名前もあった。記憶はさだかではないが、おそらく東欧の作曲家を特集していたのであろう、ペンデレツキというツンデレした名前とともに消えのこったトーン・クラスターのことばの響きのかっこよさに中学生だった私はころりとまいった。前衛的な音楽に興味はめばえていたとはいえ、譜面上でくりひろげる難解な方法を理解できるはずもなく、そもそも譜面どころかその手のレコードが入ってくる気配さえないシマの一画にあってはトランジスタラジオがキャッチするヒットなナンバーがたよりで、それとて音の断片や片言隻句を跳躍台に想像の翼を広げなければ歴史に眠る音楽の鉱脈の尻尾はつかめない、そのような環境でトーン・クラスターの方法は名は体をあらしてわかりやすく、ロックもジャズも、1980年代なかごろだったので当時すでにラップもチャートにあがっていたが、雑駁にそれらを聴取する中坊には訴えかけるなにかがあった。
 ブレスのない稠密な音の帯はつよさにおいてはノイズを、時間のながさではドローンを想起させ現象する音楽の前衛性を担保する。私ははじめてトーン・クラスターを認識したのは80年代なかばだったと書いた。当時の楽壇の趨勢はさておき、ミニマリズムをひとつの境に、このときすでにモダニティを体現するものとしての前衛はその歴史的役目を終えた観なきにもあらず、前衛らしい前衛といえば、万博のパビリオンがそうであるようにおおぶりでそのぶんかさばる感じがあった。そのような印象は作品に重厚なオーラをまとわせる反面音楽の顔つきをいかめしくもする。西ヨーロッパと北米という西洋音楽の中心地では音楽の前線の担い手は前衛から実験へと移っていた。前衛と実験の相違点については、私は幾度となく述べ、単純に腑分けできない両義性を前提に、作品の結果が予測できるか否かという基本的見地ひとつとっても、楽理の領域をひろげるほど新しくありながら細部までコントロールの利いた(結果が予測できる)音楽作品、いうなれば「全体音楽」としての前衛は、私がはじめてペンデレツキの音楽にふれたころには機能不全におちいりかけていた。とはいえときはいまだ1980年代なかば、共産圏と資本主義が対立した冷戦構図は人々の世界認識の土台をなし、ペンデレツキの故国ポーランドは東側の大国だった。むろんそこには歴史的な経緯がある、ポーランドのたどった数奇な命運はおのおので調べられたいが、前世紀二度の大戦に翻弄されたかの国の歴史は1933年生まれで、3歳年長の野坂昭如いうところの焼け跡世代にあたる作曲家の作品にも消せない影をおとしている。ポーランドでは戦後、ペンデレツキのみならず、ポーランド楽派の始祖ルトスワフスキをはじめ、作曲家集団グループ49の面々や同世代のグレツキをふくむ前衛派が台頭するが、その趣きは独仏伊と英米をのぞく欧州周辺およびスラブ地方に散発的に興った往年の国民楽派とかさなるものがあった。民俗と風土、すなわち国民国家を背景におくものとしての音楽。20世紀中葉のポーランドの作曲家たちの肥沃な作品の数々をこのことばに集約するのは乱暴だとしても、私が彼らに惹かれた理由のひとつにはピカピカにポストモダン化した西側諸国の失った翳りのようなものにあったのはまちがいない。それこそレトロスペクティヴの記号ではないかとおっしゃられると返すことばもないが、モダニズムの旨味も往々にしてそのような影の下にかくれているもの。前衛とは王道の影であるからこそ、ときに彼方まで伸張するのである(逆に短くもなったりするが)。
 2020年3月29日日曜日、ポーランド南部のクラクフ、生地でもあるこの町の近郊で86年の天寿をまっとうしたクシシトフ・ペンデレツキがその前衛ぶりを歴史に刻印したのはなんといっても他界する60年前、26歳のころの“広島の犠牲者に捧げる哀歌 Tren ofiarom Hiroszimy”であろう。この10分にみたない激越な哀歌は冒頭で述べたトーン・クラスターのお手本でもある。
 編成はヴァイオリン24艇、以下ヴィオラ10、チェロ10、コントラバス8の52の弦楽器群。それらがそれぞれの最高音や最低音を爪弾き弓で擦り叩き、場合によっては駒の後ろ側を弾いたりボディを打ちつけたりする、ペンデレツキはそれらの音を審美艇に空間に配置するというより一本の糸のように撚り合わせ、すると密集する音は塊(クラスター)となり意思をもつかのようにうねりはじめる。各楽器群は少数の班にわかれ、冒頭ではそれらにより音響をつみあげる書法をとるが、数秒後には退潮し、弱音から音の遠近を強調した空間性の高い表現へ、さらにまた音塊化した音まで、自在に闊達に変化する、にもかかわらず、全体に重力のようなものを感じるのは束になった弦の音がくっきりした輪郭を空間に描くからであろう。アヴァンギャルドクラシック──というのも語義矛盾だが──の名に恥じない名曲であり、未聴の方はなるたけ大音量でお聴きいただきたいが、“広島の犠牲者に捧げる哀歌”はペンデレツキという作家のもうひとつの特徴もひじょうにうまくいいあらわしている。ご承知のとおり、この曲の題名は第二次世界大戦時の広島への原爆投下による犠牲者を哀悼する曲であることを意味している。ところがペンデレツキがこの曲をわずか2日(!)で書きあげたとき、最初につけた題名は曲の長さを示す“8分37秒”とそっけないものだった。ケージの代表曲(?)“4分33秒”の向こうをはるかのごときそこはかとない野心も感じさせる題名だが、それが数度の国際コンクールへの出展を経て、私たちがよく知る当のものになった。その理由を、ペンデレツキは広島の原爆投下にまつわるドキュメンタリーをみたことにもとめ、そこに彼自身の戦争体験と共鳴するものをみとめたがゆえの変更だったと述べる一方でかならずしも政治的な見解を示すものではないと注意もうながしている。このことは“広島”がなんらかの言語的な主題(文学性)をもった標題音楽ではなく、真逆であることを意味する。と同時に、いちどでも意味を付与したものはもはやそれなしで語れないということばと事物の意味作用における厄介な関係性を暗示する好例でもある。むろんそこにはペンデレツキの音楽の映像を喚起する力をみなければならないのだが。あるいは大きな物語を記しうる最後の時代の国民作曲家が代弁する集合無意識とでもいえばよいか、いずれにせよこのような音楽とイメージのポジとネガが反転するような関係はポーランド楽派の重鎮にもうひとつの顔をあたえもした。
 すなわち映画音楽の分野である。彼の名をサウンドトラックをとおして耳にされた方もすくなくないであろう。フリードキンの1973年の『エクソシスト』はじめ、キューブリックの『シャイニング』(1980年)、リンチ作品では1990年の『ワイルド・アット・ハート』や2017年放映のテレビ版『ツイン・ピークス』にも、名だたる監督の歴史的名作がサウンドトラックにその楽曲を収めている、その点でペンデレツキは映画音楽の作曲家でもある。もっともスクリーンにながれる彼の音楽はもともと映画のために書きおろしたものではない。たとえばキューブリックの『シャイニング』、ジャック・ニコルソン演じる主人公ジャックが冬のあいだホテルの管理人の職にありついたのを妻に電話で知らせるシーン。超能力をもつ息子ダニーはやがてむかえる惨劇を予知し、ホテルのエレベーターホールを血の海が満たすヴィジョンをいだく。この映像にキューブリックはペンデレツキの1974年の“ヤコブの夢/ヤコブの目覚め”をあわせるのだが、題名からおわかりのとおりこの曲の材料は聖書である。むろん教典はかならずしも現代人の人倫にかなうことばかりではないのでこれをもって瀆神的とはいえないし、禍々しさは美しさの陰画なのかもしれない。オラトリオの一種だとすると、1965年の合唱曲“ルカ受難曲”の緊張感の高さ、調性感の薄さこそ、ペンデレツキの作品にあらわれる宗教観なのではないか。そもそも私たちは“広島”について述べたさいに標題がもたらす錯覚に留意すしといっていなかった——などといった堂々めぐりにおちいりがちなのも、ペンデレツキの音楽の多面性に由来するであろう。『エクソシスト』のサウンドトラックがおさめる名曲「オーケストラとテープのためのカノン」(1962年)になぞえらえるなら、ペンデレツキは音と意味(言語)のカノンが通用した時代、モダニズム(前衛)の最良の時代を体現したひとりであり、70年代後半以の保守化の波にのみこまれた点でも前衛らしい道行きたどった作曲家だった。晩年は病の床に伏せていたというが、YouTubeには「Polymorphia」(この曲も『エクソシスト』のサントラに入ってます)をみずから振る元気なペンデレツキの動画があがっている。ご覧いただくと、作曲家がいかにして弦楽器から多様な響きをひきだしたか、苦心の一端がかいまみえよう。“広島”のころはこんな弾き方すると楽器がいたむからと楽団に演奏を拒まれたこともあったという。いまではそれが現代の音楽を代表する一曲となり、世界各地の舞台にかかりつづけている。私は読者諸兄には機会があれば“広島”の譜面を手にとっていただきたい。音楽があらわすものの奥行きと広がりを視覚的に理解するとともに、そこにいたる課程に思いを馳せれば、前衛とは発明の異名でありその道ははてしないとおわかりいただけるであろう。ざんねんながら、クシシトフ・ペンデレツキの前衛の道は2020年3月29日をもって途切れた、いや途切れたかにみえて、20世紀音楽の歴史のピースとして、恐怖をよびおこすフィルムのいちぶとして私たちの日々に潜在し、凡庸な響きにあきあきした耳を未聴の領野や誘いだそうと働きかけることはおそらくまちがいない。

Werner Dafeldecker - ele-king

 インプロヴィゼーション・グループ「POLWECHSEL」のメンバーで、ウィーンのベース奏者/作曲家のヴェルナー・ダーフェルデッカーの電子音響/音楽アルバム『Parallel Darks』が、ローレンス・イングリッシュが主宰するエクスペリメンタル・ミュージック・レーベル〈Room40〉よりリリースされた。

 ダーフェルデッカーには控えめで思慮深い印象の音楽家・演奏家の印象がある。いつも物静かに誰かの傍に佇んでいる、というような。じじつソロのリリースは、優れた演奏家・音楽家とのコラボレーションがほとんどだった。例えるならウィーンの音楽家・音響作家のキーパーソンのような役割か。じっさい私もフェネスやマーティン・ブランドルマイヤーとの競演作『Till The Old World’s Blown Up And A New One Is Created』やヴァレリオ・トリコリとジョン・ケージの「ウィリアム・ミックス」をリアライズした『Williams Mix Extended』などのアルバムを愛聴していた。どれも自分の聴きたい音が鳴っていた。

 この『Parallel Darks』は、そんなダーフェルデッカーのソロ・アルバムの2作目である。ソロ1作目『Small Worlds』は、ジョン・ティルバリーやクラウス・ラングが参加したインプロヴィゼーション/エクスペリメンタル・ジャズ作品だったので、電子音響作品としては本作が最初のソロ作品となる。つまりは30年という長いキャリアを誇る彼の「電子音楽家」としての側面を象徴する重要なアルバムなのだ。じじつ非常に高密度な音響の集積によって、まるで森の中を漂う濃厚な霧のようなアトモスフィアを放つ音響作品に仕上がっていた。カラカラと乾いた音が鳴り、霧のようなドローンがレイヤーされる。そして遠くから聴こえるような鐘の音が鳴る。暗く、硬質。ときに柔らかい。何より不穏で美しい。

https://www.youtube.com/watch?v=Ai9VAP229Ck

https://www.youtube.com/watch?v=KMnfAXhySfI

 アルバムはデータ版では “Parallel Dark Part One” から “Parallel Darks Part Six” まで6トラックに分かれているが、LPにはA面とB面で “Parallel Dark I” と “Parallel Dark II” というつながった2曲構成だ。いずれにせよアルバム全体で「Parallel Dark」という音響世界を形成しているのだろう。録音は2018年と2019年に渡っておこなわれたという。
 サウンドは環境録音や電子ノイズが幾重にも重ねられていく手法で組み上げられていた。この手法自体は電子音響作品ではオーソドックスな方法論かもしれないが、ダーフェルデッカーならではの演奏家・音楽家としての鋭い感覚によって、音によって世界の気配を探るような音響空間が生成されていく。音と音が交錯する。衝突し、やがて融解する。それぞれの音を存在と対立を静かに演出し、しかしすべては世界の中に呑みこまれ、溶けていく。

 音の存在に敏感になるとき、人の神経は緊張し、世界の些細な変化を敏感に感じ取ろうとする。音響作品の聴取において、聴き手の耳は世界の不穏さを聴きとるように緊張している。だが同時にひとつひとつの音(ノイズ、電子音、環境音)に恍惚になってもいる。優れた音響作品は、聴き手に緊張と恍惚という引き裂かれた状態を与えてくれるものだ。それこそが音響作品が「音楽」である理由でもある。なぜなら「音楽」とは音響による緊張と恍惚の持続と反復だから。
 『Parallel Darks』は、音、ノイズ、環境音などのいくつものサウンド・レイヤーが「ここではない別の場所」を思わせる音響空間を生成することで、緊張と恍惚の瞬間を持続させている。個々の音の存在感が際立っているからだろうか、静かに燃える炎と降り続ける雨のようなチリチリとした乾いた音に耳を澄ますと聴き手の意識は別の世界へと飛ばされる。そこは暗い森の中を一歩一歩、周囲の音に耳を澄ましながら歩き続けるような聴取体験でもある。暗い森の中を彷徨するような感覚が横溢する。まさに「パラレル/ダーク」な一作だ。

ディエゴ・マラドーナ 二つの顔 - ele-king

 ぼくの記憶では、史上何人かの天才に類するであろうずば抜けたサッカー選手のなかで、マラドーナほどその転落が望まれた選手はいない。1994年のワールドカップ開催中のドーピング検査で陽性となったとき、ほらみたことかという空気はあった。1990年のイタリア大会のときもマラドーナには悪い評判があったようだし、じっさい大会中は彼がボールを触っただけで激しいブーイングが起きている。当時、彼はイタリアのセリエAで活躍していた、いや、していたからこそ彼は大衆の憎悪を浴びた。そして卑しい人たちはドラッグ・スキャンダルによる彼の転落劇を心密かに喜んだ。が、それもこれも彼が超越的なサッカー選手であったことの証でもある。

 エイミー・ワインハウスのドキュメンタリー映画『AMY エイミー』の監督をはじめ、オアシスのドキュメンタリー映画『オアシス スーパーソニック』の製作総指も務めたアシフ・カパディア監督による『ディエゴ・マラドーナ 二つの顔』を見ると、あらためてマラドーナが最強の選手であったことが確認できる。彼はあまりにもスーパーだった。
 子どもの頃にサッカーをやったことのある人間なら、誰もが最初に夢見ることがある。それは自分がひとりでボールをドリブルして、前に立ちはだかる相手をかわして、かわして、そして最後にゴールを決めるという夢だ。が、年齢を重ねるなかでそれはファンタジーでしかないという現実に気づかされる。中学にでもなれば、そこそこ上手い子たちも持ちすぎればコーチから怒られるし、そもそもドリブル自体が簡単なプレイではない。彼の時代はいまほど戦術的にコンパクトな陣形ではなかったので現代よりもやりやすかったということはあるにせよ、とにかくマラドーナはそれをプロのレヴェルでやってのける選手だった。誰もが子ども時代に夢見るプレイを彼はやる──それこそがマラドーナが犯した最大の罪だった。コカインなど関係ない。そんなものはこの天才にとってつかの間の気晴らしでしかなかっただろう……などと書いてしまうぼくはいまもなお重度のファンである。

 組織重視で、スポーツマン精神重視の欧州サッカーの伝統においては、マラドーナはムカツク南米野郎の典型だ。かつてマンチェスター・ユナイティッドを率いて黄金時代を築いたファーガソン監督は、市のすべてのナイトクラブに連絡を入れて、選手が夜遊びしたら通報するという徹底的な規律のもと選手を管理したというエピソードがあるように、夜な夜ないろんな種類のダンスに高じるマラドーナのような選手が歴史ある欧州サッカーにおいて成功することは、決して多くの人たちから歓迎されることではない。が、水道どころか下水すらないアルゼンチンの貧困エリアで生まれ育ったマラドーナは、彼の左足によって、階級も伝統も超越し、彼を見下したすべての連中の鼻をへし折ってやった。ブラック・ミュージックやロックのイディオムでいえば、それはスッタガリー的な格好良さだ。小さいものが大きいものを混乱させ、やっつけ、あっと言わせるという。

 ぼくはマラドーナの映像を2本、本(自伝/評伝)を2冊所有している。VHSで持っているドキュメンタリーは、貧困エリアでリフティングする少年時代の映像からはじまり、彼のキャリアがざっと紹介され、冒頭の映像で終わる。もう1本はDVDで、少年時代の映像はなく、まあ決まりの彼の物語──86年のメキシコ大会における対イングランド戦の神の手と5人抜き、そしてドラッグ・スキャンダルが語られている。
 本(自伝/評伝)のほうも、当たり前だが2冊の描き方は違っている。アマゾンレビューで評価の高い『マラドーナ自伝』よりも、じつはそれより先にベースボールマガジン社から出た『ディエゴ・マラドーナの真実』のほうがだんぜん面白い。後者はマラドーナの出自についても、アルゼンチンの社会状況についても詳述しており、また本人にとって都合の悪い話しもずばずば書いているがゆえの評伝ならではのジャーナリズム性と内容の濃さがある。まあいずれにせよ、マラドーナはすでに映像でも評伝でも多く語られている。ゆえに『AMY エイミー』の監督がマラドーナのドキュメンタリーを作ったと聞いても、主題としてそれほど新鮮みがあるわけではない。すでに彼の物語は広く知られているし、描き方もすでに複数あるからだ。だが、そういった不利な条件を前提にして言っても、これはよくできたドキュメンタリーで、5点満点で4点以上は付けたい作品である。

 まず『ディエゴ・マラドーナ 二つの顔』の見所は、──これはサッカーファン的で近視眼的な意見かもしれないが──、イタリアのセリエA時代の映像にある。イタリア南部のチームの水色のユニフォームを着たマラドーナがたくさん見れるという、映像的にも貴重だが、それはカパディア監督による隠喩としての“マラドーナ”においても重要な意味を持っている。アルゼンチンの名門ボカ・ジュニオールズでの活躍によって世界的な超ビッグ・クラブのバルセロナFCに移籍したマラドーナだが、スペインでは相手に削られ、削られ、ケガをして、彼の良さを発揮できずに過ごした。そして次に移籍したのがイタリアのナポリというチームだった。マラドーナは、プロなら誰もが憧れるイタリア北部の金満ビッグ・クラブではなく、タイトルにはさっぱり縁のない貧しい南部の弱小チームを選んだ。
 そして北部のビッグ・クラブは、南部の弱小チームをここぞとばかりに差別する。「ナポリの人間は石けんをつかわない奴ら/ナポリは病気で、クソで、イタリアの恥/マラドーナのためならケツも出す」、これはユベントスのウルトラ(※熱狂的なサポーター)が歌っていた歌だが、ほかにも「風呂に入れ/アパルトヘイト/ビョーキもち/イタリアの下水」などと書かれた横断幕がスタジアムを囲むという……まあほとんど子ども同士の喧嘩だが(笑)、「ナポリっこはイタリアのアフリカ人だ、差別されている」とマラドーナが語っているように、容赦ないヘイトを彼とナポリは浴びまくる。が、しかし、こうした罵詈雑言もマラドーナの叙情詩においては引き立て役に過ぎなかった。怒りと逆境をバネに、彼はナポリの順位を上げるどころか、当時のヨーロッパにおいてもっともレヴェルの高かったリーグの優勝チームにまでするのである。それが映画のひとつのクライマックスだ。
 しかしながらこの天才は、彼が“マラドーナ”になったときから脊柱に故障があった。夜も眠れないほどの痛みがあったというが、それでも“ディエゴ”は“マラドーナ”であることを自らに強いた。ナポリでは神のように崇められ、いっぽうTVのレポーターから着ている服さえ皮肉られるほどの田舎の成金として扱われ、また他方では弱者が勝つという番狂わせを好まないファンからは徹底的に憎まれる。さらに皮肉なのは、彼はピッチで無心にボールを追っているときにだけ解放されるのだ。こうした紙一重の矛盾のなかで20代の“マラドーナ”はいま見ても呆れるほどのスーパーなプレイをする。小さい身体と短い足を使った曲芸であり、予測や計算をものともしない超人である。

 基本的にスポーツは大衆的で、たいていの人が見ても楽しめる。ぼくは子どもの頃からプロスポーツが大好きで、小中高までは、見れるものはほとんど見ていたと言ってよい。そしていま、こうしてスポーツ観戦ができない生活を送っていると、自分がいままでいかにプロスポーツとともに生きてきたのかをあらためて思い知る。スポーツ観戦は、音楽や文化よりもぐっと敷居が低いので、そこにはいろんな人間がいる。思想的にも、趣味的にもまったく合わない人間と隣の席になって、しかしいっしょに喜ぶということはスポーツ観戦にしかできない素晴らしい瞬間である。はやくこの世界でまたスポーツ観戦ができることを祈るばかりだ。『ディエゴ・マラドーナ 二つの顔』は6月5日からの上映が予定されているが、本当にその頃には映画館にも行けますように。

 そういえば、この映画では描かれていないが、マラドーナにはもうひとつ、ゲバラとカストロの入れ墨を入れていることや、そしてチャベスの支持者でもあったことからもわかるように反米主義者であり、反貧困という顔もある。マラドーナは簡単そうに見えて、奥が深いのである。とはいえ、『ディエゴ・マラドーナ 二つの顔』がいいのは、監督が主観を述べずに、見た人が自由に解釈できる点にもある。


Guided By Voices - ele-king

 ガイデッド・バイ・ヴォイシズはもうアルバムを作らなくなっている。というか、少なくとも一般的な意味での「アルバム」は作らない。だが、ガイデッド・バイ・ヴォイシズはそもそも通念的な「ロック・バンド」ではないわけで、したがってそうなっても不思議はないのかもしれない。
 いつ頃からこの状態になったかははっきりと特定しにくい。1980年代のオハイオ州デイトンで、中心人物にして全活動期間通して参加している唯一のメンバーであるロバート・ポラード宅の地下室にふらりとやって来たほとんど雑多と言っていい顔ぶれからはじまった彼らは、ある意味普通に言うところの「バンド」だったためしはなかったのだから。そこから彼らの生み出したボロくくたびれたローファイな傑作群は、USインディ界のオリジン・ストーリーのひとつに型破りでときに困惑させられもする奇妙な背景をもたらしていった。それでも、バンド初期にあたる80年代からもっとも長い散開期に入った2004年までの間に彼らの放出した作品の多くは、ユニークかつしばしば特筆に値する内容を誇る一連の作品群として熱く聴きこめる。これらのアルバムは、ひっきりなしに変化を潜っていたこのバンドがそのときそのときの状況に応じて発した反応をくっきり刻んだものとして理解し消化できると思う。

 そうなった理由として、レコード・レーベル側のプロモーションおよび作品流通スケジュールという縛りは部分的に影響していたかもしれない。ゆえにガイデッド・ヴォイシズというブランド名が発する作品は1年か2年に1作程度に絞られることになり、ポラードは氾濫する膨大なソングライティングの流れをソロ作や数多のサイド・プロジェクトへと向けることになった。実際、2004年に起こったガイデッド・バイ・ヴォイシズの「終結」以来(註1)、ポラードは自らのレーベルを通じ、復活したガイデッド・バイ・ヴォイシズのふた通りのラインナップも含む多種多様な自己プロジェクトで実に50枚以上(数えてみてほしい!)のアルバムを発表してきた。折りに触れてでたらめにすごい勢いで時間の裂け目から流れ出し現在に漂着する、忘れられていたガレージ・パンクの古いヒットやレア曲の尽きることのない泉か何かのように。
 では2020年のいま、ガイデッド・バイ・ヴォイシズのようなバンドをどうとらえればいいのだろう?
 1994年に丁寧に歌の形で提示してくれたように(註2)、ロバート・ポラードにはじつは4つの異なる顔がある。まず彼は、作品を通じて自らを検証し理解するという意味で科学者だ。また彼はロック・ヒストリーに対する意識が非常に強く、ゆえに彼の音楽はよくロックの伝統やインディ音楽ファンのライフスタイルに対する一種の間接的な解説になってもいて、その意味では記者ということになる。自分自身のために音楽を作っているだけではなく、それが聴き手のくそったれな日常への癒しを処方薬のように振り出すことになってもいる意味で、彼は薬剤師でもある。そして彼は迷える魂でもある――彼に自由をもたらす唯一の径路を約束してくれるものの、やればやるほど彼をつまはじきにしていく、このインディ・ミュージック界というものにますます深くはまって自らを窮地に陥れているという意味で。もっと平たく言えば、ポラードの音楽は常に内省とポップ感覚とのバランスをとってきたし、かつそのオタクな起源に対する自覚とひたむきな傾倒とのつり合いも見事に保ってきた、ということだ。
 さまざまな要素が複雑に絡まったこれと同様のバランスは、ガイデッド・バイ・ヴォイシズのファン連中がなかば皮肉混じりに、しかし同時に心底からの思いで彼らを「現代最高のロック・バンド」だのそれに近い表現で賞賛する様にも表れている。そうした形容は、バンドの誇る否定しようのないパフォーマンスおよび作曲技巧の熟練ぶりを褒め称えるとともに、じつにマニアックでニッチな居場所におさまって満足している何かに対してそれこそスタジアム・ロック・バンドを祭り上げるような大袈裟なフレーズを投げかけている、彼らファン自身を自ら笑い飛ばすものでもある。その意味で、ガイデッド・バイ・ヴォイシズはオルタナティヴとインディの気風に内在する、直観に反するあまのじゃくな核を代表するバンドと言える。パワフルな共有体験で人びとをひとつにしようとする一方で、彼らはまたメインストリーム側に定義された「普遍的な体験」なる概念をあえて覆そうとしてもいるのだから。
 というわけで、『Surrender Your Poppy Field』に話を移そう。ローファイな地下室レコーディングの美学とプログレのスケール感、崇高なポップ錬金術とガタついたポスト・パンクの無秩序とが楽しげにぶつかり合うこの作品は、それらすべてをドクドク鼓動するロックンロールのハートに備わった救済のパワーに対する真摯で子供のように純真な、衰え知らずの情熱的な信頼でもって演奏している。
 ここでまた、ガイデッド・バイ・ヴォイシズから滔々と流れ出す音楽を果たして「アルバム」のように不連続なフォーマットで区切ることはこれ以上可能なのだろうか? という本稿冒頭の疑問が頭をもたげてくる。現行ラインナップになってからわずか3年の間に、彼らは既にアルバムを7枚発表し(うち2作は2枚組)、3枚は2019年に登場している。読者の皆さんがこのレヴューを読む機会に行き当たる前に、また別の作品を発表してしまっている可能性だって大いにあり得る。そうした意味でこの最新作のことは、彼らにとっておなじみのさまざまな影響群・テーマ・創作アプローチの数々をミックスしたものを再び掘り下げ調合し直す、その休みなくえんえんと続くプロセスのもっかの到達点として理解した方がいいだろう。いずれにせよ、本作は見事な名人芸を聴かせてくれる。『Zeppelin Over China』(2019)での威勢のいいガレージ・ロック、『Warp and Woof』(2019)の抑制されたローファイな実験性および脱線ぶり、『Sweating the Plague』(2019)でのプログレへの野心を組み合わせた上で、それらすべてが1枚の誇らしく、タイトに洗練されたレコードとしてまとまっている。1990年代および2000年代初期の〈マタドール・レコーズ〉在籍時以来、ガイデッド・バイ・ヴォイシズの最良作かもしれない。

 “Physician”やアルバム1曲目“Year of the Hard Hitter”のような曲はまったく脈絡のなさそうな別の曲の断片の合間をきまぐれかつスリリングに行き来するが、そのどれもにロックなリフの生々しい調子がみなぎっている。この点に関しては、1997年から2004年までの間(この時期のハイライトとして『Mag Earwhig!』、『Isolation Drills』、『Speak Kindly of Your Volunteer Fire Department』、『Half Smiles of the Decomposed』がある)ポラードとともにバンドを牽引した後、現在の新体制ガイデッド・バイ・ヴォイシズに返り咲いたギタリストのダグ・ギラードの貢献が大きいのはまず間違いないだろう。彼が顔を出すと必ずと言っていいほどキャッチーでヘヴィなハード・ロック/グラム・ロック調のギター・リフが前面に出てくるし、ここでそのリフはポラードのもっとも喜びに満ちて楽しげな、ゴングやジェネシスが残響したかと思えばXTCやワイアーを彷彿させることも、という具合に敏捷に変化するソングライティングとの対比を生んでいる。
 ガイデッド・バイ・ヴォイシズのベストな作品がどれもそうであるように、バンドがロックの伝統相手に繰り広げる支離滅裂かつアナーキックなおもちゃの兵隊ごっこの全編を通じて、このアルバムにもアンセミックで思わずこぶしを突き上げたくなるロックな歓喜のピュアなハートが脈打っている。それがもっとも顕著なのは途方もなくビッグな2曲目“Volcano”であり、ガレージ・ロックの金塊(ナゲッツ)を凝縮したような一聴カジュアルな響きの“Cul-De-Sac Kids”や“Always Gone”、“Queen Parking Lot”にも繰り返し浮上する。聴いていると、1990年代に極まった、ガイデッド・バイ・ヴォイシズのローファイな壮麗さという混沌の中に混じっていた“My Son Cool”や“Gold Star for Robot Boy”といった名曲を発見した際の思いがけない喜びが再燃する。
 ガイデッド・バイ・ヴォイシズのようなバンドの体現する、途切れなく続く爆発的なクリエイティヴィティから受け取るめまいのするほどの歓喜。それをその果てしない作品の流れを感知していない人間相手に伝えようとすると、どうしたって狂信的なファンのように思われてしまうのは仕方がない。とはいえ結局のところ、いちばんのアドヴァイスとしては、ピッチフォークのアルバム評がやるような理性派もどきで冷静なアート・ギャラリー型の言葉(とレヴューに科学的/客観的な気取りを添えている例の採点システム)で新しい音楽を考えようとしてしまうあぶなっかしい思考回路の一部を、まずいったん振り捨ててもらうことだろう。そうしたところでこの変化し続け、つねに歩調がずれている、いつ果てるとも知れない恍惚に満ちたカオスに悔いなく身を投じてみてもらいたい。あなたの内に潜んでいるマニアックな面を受け入れよう。僕らの仲間に加わろうじゃないか。

訳註1――ガイデッド・バイ・ヴォイシズは2004年にいったん解散したことがあり、同年正式に「さよならツアー」もおこなった。
訳註2――以下に続く「Scientist/Journalist/Pharmacist/Lost soul」は“I Am a Scientist”の歌詞の引用。同曲はガイデッド・バイ・ヴォイシズのもっとも有名なアルバム『Bee Thousand』(1994)収録。

Ian F.Martin


Guided By Voices don’t really make albums anymore. At least not in a conventional sense. But then Guided By Voices aren’t really a rock band in a conventional sense either, so maybe that’s to be expected.
Since when this has been the case isn’t entirely clear. In a sense, they’ve never been a normal band, with their roots as an almost random collection of people drifting through the band’s central figure and sole consistent member Robert Pollard’s Dayton, Ohio basement in the 1980s, creating ragged lo-fi masterpieces that formed an offbeat and sometimes bewildering background to the origin tale of indie rock in the United States. Still, much of their output, from their early days in the ‘80s through to their most extended split in 2004, can be absorbed as a series of unique and often striking works — albums that can be understood and processed as distinctive responses to their own unique circumstances at a rapidly changing time for the band.
Partly, this might be down to the restraining influence of record label promotion and distribution schedules, limiting the Guided By Voices brand to one release every year or two, with Pollard directing his songwriting overflow into solo releases and side projects. Indeed, since the 2004 “end” of Guided By Voices, Pollard has used his own labels to release more than 50 (count them!) albums from various of his projects, including two resurrected Guided By Voices lineups, like an endless stream of lost garage-punk hits and oddities flowing through cracks in time and landing in haphazard, explosive bursts in the here and now.

So how do we make sense of a band like Guided By Voices in 2020?
As he helpfully laid out for us in song form back in 1994, Robert Pollard is four different things at heart. He is a scientist, in the sense that he uses his work to examine and understand himself. He is a journalist in the sense that he is extremely conscious of rock history, and his music often forms a sort of oblique commentary on rock’s own traditions and the indie music fan lifestyle. He is a pharmacist, not only making music for himself but also packaging out morsels of comfort to ease his listeners’ fucked up lives. And he is a lost soul: digging himself ever deeper into this indie rock world that only isolates him ever further, even as it promises his only route to freedom. Put more simply, Pollard’s music has always balanced introspection and pop sensibility, as well as self-awareness of and deep dedication to its geeky provenance.
The same interrelated balance of elements is expressed in a way by Guided By Voices fans’ half- ironic yet at the same time deeply sincere celebration of them as “the greatest rock band of the modern era” and similar praise — lines that celebrate the band’s undeniable mastery of performance and song-craft at the same time that they laugh at themselves for piling such stadium rock superlatives on something so comfortable in its maniac niche. In that sense, Guided By Voices represent the counterintuitive core of the alternative and indie ethos: they seek to bring people together in a powerful shared experience, while at the same time deliberately seeking to undermine the notion of a universal experience as defined by the mainstream.
Which brings us to Surrender Your Poppy Field: a joyous collision of lo-fi basement recording aesthetics and prog rock grandeur, sublime pop alchemy and fractured post-punk anarchy, all delivered with the earnest, wide-eyed and ever-passionate belief in the power for salvation that lies in the beating heart of rock’n’roll.
It also brings us back to the question of whether it is even possible to divide the flow of music that comes out of Guided By Voices into something as discrete as an album anymore. The current lineup of the band has only been together for three years and has already released seven albums (including two double-albums), with three of them coming out in 2019. It’s entirely possible that the band will have released another before you even get a chance to read this review. In that sense, this latest is better understood as a progress marker in a process of constant re- exploration and re-formulation of the band's familiar cocktail of influences, themes and creative approaches. Either way, it’s a masterful one, combining the garage rock swagger of Zeppelin Over China (2019), the pared-down lo-fi experimentations and excursions of Warp and Woof (2019) and the progressive rock ambition of Sweating the Plague (2019) in a way that melds them all into one glorious, tightly-refined record — possibly Guided By Voices’ finest since their Matador Records days back in the ‘90s and early 2000s.

Songs like Physician and the opening Year of the Hard Hitter ricochet capriciously and thrillingly between what feel like fragments of entirely different songs, all equally rich in raw veins of rock riffage. For this, a lot of credit must surely go to guitarist Doug Gillard, returned to this new GBV fold after co-navigating with Pollard the years 1997-2004 (highlights include Mag Earwhig, Isolation Drills, Speak Kindly of Your Volunteer Fire Department and Half Smiles of the Decomposed). Gillard’s presence always flags up the presence of catchy, heavy, hard rock/glam riffs, which here are set against Pollard’s songwriting at its most joyously playful, skating between echoes of Gong and Genesis just as easily as it recalls XTC and Wire.
Like all Guided By Voices at their best, there is a pure heart of anthemic, fist-pumping rock elation running through the whole scrappy, anarchic game of toy soldiers with rock traditions that the band are playing. Most obviously on display in the monumental second track Volcano, it also surfaces again and again in casual-seeming miniature garage-rock nuggets like Cul-De-Sac Kids, Always Gone and Queen Parking Lot, in a way that rekindles some of the unexpected joy of discovering tracks like My Son Cool or Gold Star for Robot Boy bursting out of the chaos of Guided By Voices’ at the peak of their 1990s lo-fi pomp.
Communicating the dizzy joy of the constant, explosive creativity a band like Guided By Voices embody to anyone not plugged into the endless stream without coming across as insane is always a challenge. In the end, though, the best advice is to throw off that treacherous part of your mind that thinks of new music in the faux-rational art gallery terms of a Pitchfork album review (complete with the scientific affections of a numerical grade) and cast yourself into the ever-evolving, always out-of-step, never-ending ecstatic chaos without regrets. Embrace your inner maniac. Join us.

Mura Masa - ele-king

 いつの時代を語るにも、その時代を象徴するアーティストの存在は欠かせないものだ。クラシック界の巨匠、誰もが憧れるロックスター、カリスマ的歌姫、伝説のラッパー……と、様々なアーティストたちの功績が時代とともに語り継がれている。そんな彼らの存在はかつての時代だけでなく、来るべき時代にも多くの影響を与えていった。そして2020年という新時代を迎えたいま、これからの時代を象徴するアーティストになりゆく存在のひとりとして挙げたい人物が Mura Masa だ。

 自身の名を冠したデビュー・アルバム『MURA MASA』で、新進気鋭の若手トラックメイカーからトップ・アーティストとしての地位を確立した Mura Masa。イギリス海峡の孤島出身ながらも、多彩なかつキャッチーなサウンドで世界中を魅了し、確固たる人気を獲得した。わずか3年ものあいだに一躍有名となった彼が、2020年の幕開けとともに発表したセカンド・アルバム『R.Y.C』はリリースから約2か月経ったいまでも記憶に新しく、鮮烈な印象を放ち続けている。

 ポップでトロピカルなエレクトロニック・サウンドが詰まった前作とは一転、本作にはノイジーで歪んだギター・サウンドが取り込まれている。まるでぼんやりと世界中を覆っている混沌のようなグレーカラーの塗りつぶしに、タイトルを模したオレンジのスマイルマークと前作とは対照的なデザインのアートワークも印象的だ。本作の布石としてシングル・リリースされた収録曲 “I Don’t Think I Can Do This Again” では、VSCO ガールのアイコンとしても人気を誇るベッドルーム・ポップ・アーティスト Clairo のフィーチャリングと作風の変化で話題を呼んだ。

 その後、“Deal Wiv It” “No Hope Generation” などアルバム収録曲の一部先行リリースが続いた。A$AP RockyCharli XCXDemon Albarn など前作でも燦燦たる顔ぶれのアーティストが客演に参加したが、今回は前述の Clairo をはじめ、slowthai、Wolf Alice の Ellie Rowsell など話題のアーティストを起用。期待値をじわじわと高めたのち、2020年1月17日に待望のフル・アルバムをリリース。アルバムのタイトルと同名の楽曲 “Raw Youth Collage” から順々と、すでに先行リリースで注目を集めた楽曲が前半に並び、“Vicarious Living Anthem” で興奮はピークを迎える。そして後半の “In My Mind” “Today” ではだんだんノスタルジーを醸し出し、“Teenage Headache Dreams” では、清々しいフィナーレのような高揚感とどこかザラついた切なさを彷彿させる。これまでのイメージを覆した『R.Y.C』は、最高潮まで高まったリスナーの期待を裏切ることなく、彼の多面性を提示する一作となった。

 現在23歳の Mura Masa は、希望のない時代を歩んできた若者だ。彼と同じ1996年生まれはわりと悲惨な世代である。物心がつく前にミレニアムを迎え、少しずつ世界を捉えられるようになった頃に 9.11 が勃発。小学校に通い社会は何たるかを学び始めた矢先にリーマンショックが起き、将来に希望を抱くことは無意味であると悟った。日本ではこの世代を「さとり世代」と揶揄し、バブル時代の恩恵を受けたテレビのコメンテーターが「もっとしっかりしろ、車を買え、年金を払え、俺らを敬って社会の発展に貢献しろ」と皮肉った。高校入学前には東日本大震が発生、成人するタイミングで選挙権の年齢引き下げが施行。ひとりの人間として社会に羽ばたきはじめると同時に増税を喰らい、若者の未来はますます暗くなった。そして現在、新型ウイルスのパンデミック対策により世界は分断され、ついに人びとは踊ることすら許されなくなってきている。

 世界中から希望が薄れていくなかリリースされたこのアルバムは、ただの悲惨な若者が世を憂いているだけの作品ではない。“No Hope Generation” では「I need help (助けが必要)」と繰り返し、「Everybody do the no hope generation (誰もが希望のない時代を生きている)」と歌っているが、決して希望を持つことを諦めたわけではないのだ。同作品のMVに出演する人々は目が死んでいるものの、全員が色鮮やかなハイテクウェアに身を包み、踊ることを諦めない。軽快でありながらもメッセージ性の強いリリックからは、混乱に陥った世を糾弾するわけでも冷笑するわけでもなく、若者のみならずいまの時代を生きるすべての人が直面している問題と未来に向き合っていく意志を表しているように感じられる。

 昨年末、来日公演の直前インタヴューで Mura Masa は「ツァイトガイスト(Zeitgeist、ドイツ語で時代精神)」を本作で表現していると語っている。時代精神とは、ある時代を特徴づける共通理念や意識のことだ。これらはその時代の普遍的な意識のみを表すだけでなく、過去の文脈と新たに生まれた要素が混ざり合って形成される。その発言通り、かつての時代の懐古に浸るだけでなく、憂いがちな現在から未来をどう見据えていくかという姿勢を、ノスタルジックながらもクロスオーバーしていく昨今のシーンを混ぜ込んだサウンドに映しだした。まさに2020年を代表する時代精神のひとつとしてリリースされたこのアルバムは、Mura Masa が時代を象徴するアーティストになりゆく道への一歩と言えるであろう。

“また、おまえの中では、立琴をひく者、歌を歌う者、笛を吹く者、ラッパを吹き鳴らす者の楽の音は全く聞かれず、あらゆる仕事の職人たちも全く姿を消し、また、ひきうすの音も、全く聞かれない” - ヨハネの黙示録18章22節

 雨が降っている。
 屋根を叩く雨の音がスピーカーから流れる Throbbing Gristle の乾いたサウンドに潤いを与えている。飯島直樹Genesis P-OrridgeGabi Delgado が立て続けにこの世を去り、私の精神からは渇きも潤いも少しだが確実に失われた。巨人たちの喪失に加え出演予定だったイベントは立て続けにキャンセルになり、先の見通しが全く立たたない中で私は日々精神をすり減らしていた。そんな中、ele-king編集部から連絡をもらい、このコラムを始めることにした。タイトルは宇川さんの言葉を借りて「Post-Pandemic Memories」に。月に一度ぐらいのペースで書くことを目指そうと思う。このコラムはパンデミック後の世界を生きる一人のミュージシャンの手記となるだろう。

 今日は2020年の4月1日。自主隔離に入ってからおおよそひと月が経過した。もともと自主隔離のような時間を好む性格だった私は日々の過ごし方について大して心配はしていなかったが、いまは友人の存在や、大音量の音楽に包まれるという事、そしてそれらが完備されたパーティーという場のことを思い出しては、それが日常から失われたことに憂鬱になる日々を送っている。なぜかウエルベックの『ある島の可能性』の世界が頭をよぎってそんな気分に拍車をかける。ダニエル並みに寝起きは悪い。ベッド脇に情調オルガンがあるリックが羨ましい。毎朝とりあえず NTS をつけて、ロンドンから届いた音楽が身体にベッドから離れるための推進力を与えるのを待っている。(Sade が流れてきた! 最高だ。起きよう!)そして巨大サウンドシステムでステッパーをかけてオーディエンスの体毛や眼球を震わせる白昼夢を見ながら周りに転がる雑多な仕事を片付けている。

 その白昼夢を再び現実のものとするべく、私は有志数名と共に #SaveOurSpace という運動を始めた。COVID-19 の感染拡大を防いでなるべく早く収束させるために全ての人が集まる場所を閉鎖し、クラスタとなるのを防ぐために助成金を求めるアクションだ。助成金がなければ閉鎖の先には経済的な死が待っていて、閉鎖しなければバッシングと感染リスクが待っている。助成金が出れば経済的な死も、感染リスクになることも防ぐことができ、多くの命が救われる。先週末にこれを始めてから5日。本当にめまぐるしい日々だった。結果的に30万人を超える署名が集まり、現在の文化施設が置かれている状態に危機感を感じている人が多数いることが可視化された。しかし、情報は伝播すればするほど子細な部分が失われ意図が伝わらなくなってしまう。メディアが切り取るという声をよく聞くが、それ以上に人は文章を読まない。案の定、広がりに比例して誹謗中傷の数も増えていった。
 安倍のことを呼び捨てにするような人がやってるからダメだ。というようなコメントも送られてきた。キリストもニーチェも呼び捨てにしている私が安倍を呼び捨てにしない理由はない。まあ私の地元では芋に敬称をつけるが。ここで Slowthai の “Nothing Great About Britain” の歌詞から次の一節を送ろうと思う。

“I'd tell you how it is, I will treat you with the utmost respect. Only if you respect me a little bit, Elizabeth, you cunt.”

 Elizabeth のところを適当な名前に変えて読んでもらいたい。私のこういうアグレッシブな性格が褒められたものではない事はわかっているし、#SaveOurSpace で動いている他の人たちの中にこんなクソ野郎はいないハズだから安心してほしい。

 そういえば今日はエイプリルフールだった。
 今日に限った話じゃないが世間に目を向ければ悪い冗談としか思えないようなことで溢れている。思わず頭脳警察の “ふざけるんじゃねえよ” を再生したが、再生後に流れる広告がこの虚無感をより一層深いものにしてしまった。ふざけるんじゃねえよ。この奪われた余韻とブラウンの電動シェーバーのCMは全く釣り合わない。

 アカウントの性別や年齢と紐づいたターゲティング広告だろうが、私はこのターゲティング広告というものが反吐が出るほど嫌いだ。ターゲティング広告によって人々は選択の自由を奪われ、放棄し、肥え太った巨大資本に餌をやり続けている。無意識のうちに選択の幅を限定され誘導されてゆく事はとても恐ろしい。しかし、思考し選択する行為そのものを放棄する事で楽になれるのもまた確かだ。その安楽死を求める人は多いだろう。
 そしていまこのウイルスの恐怖に包まれた世界で、その安楽死を選択する人々は確実に増えている。権力が恐怖を利用し、人々が思考することを放棄した時、そこに広がるのがどういう世界なのか、私たちは歴史から学んで警戒し続けなければならない。

 ラップトップに向かってこのコラムを書いているうちに随分と体温が下がってきてしまった。体が冷えている。これは窓を打つ雨のせいだけではないだろう。そしてこの精神的に隔離された日々を凍えながら過ごしているのは私だけではないだろう。大音量でお気に入りの音楽をかけろ。鍋いっぱいに湯を沸かせ。パスタを茹でてソースを温めろ。食後にはお茶かコーヒーをつけろ。心と身体を養え。君/私という存在をかけた戦いのフロントラインに君/私は立っている。


荻窪ベルベットサン - ele-king

 4月1日より、荻窪のライヴ・スペース「ベルベットサン」が動画配信サービスをスタートしている。新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、続々とイベントが中止になるなか、YouTubeの公式チャンネルを通して無観客ライヴというかたちでイベントの模様を配信していくという。同チャンネルには、過去の公演のアーカイヴ動画も多数アップロードされている。

 荻窪ベルベットサンといえば、ジャズをはじめ実験的な即興セッションやトーク/レクチャーなど、ユニークでエクストリームなイベントを数多く開催してきた都内でも有数のスペース。全面改装を経て昨年8月にはリニューアル・オープンしている。今回の動画配信サービスでは、YouTubeの投げ銭システム「Super Chat」を使用するために、チャンネル動画の再生時間がまだ足りていないとのこと(4月6日現在)。気になった方はぜひチェックしてみよう。 (細田成嗣)

https://www.youtube.com/channel/UCM9WGJCep1DtHe9-SpVqKSg/videos

ベルベットサンからチャンネル登録、動画再生のお願い

日頃のご愛顧ありがとうございます。
ベルベットサンスタッフは、イベント自粛が要請される昨今の状況下で、
今後アーティストと共にどうやってライブハウスの文化を存続させていくのかを日々考えてまいりました。
そこで、ひとつのチャレンジとして4月から動画配信サービスをスタートいたします。
その収益化に向けて、YOUTUBE課金投げ銭システム「Super Chat」使用を目指しています。
しかしながら未だ使用要件(チャンネルの登録者数1000、動画再生4000時間)を満たしておりません。

皆様にお願いがあります。

『VS cast and Archives』のチャンネル登録、動画再生に是非ともご協力を願いいたします。
チャンネルはこちら(現在のチャンネル動画は当店の過去の配信サービスがアーカイブされています。) https://m.youtube.com/channel/UCM9WGJCep1DtHe9-SpVqKSg/videos?view_as=subscriber

既存のライブ公演はもちろんのこと、新しいコンテンツの配信にも挑戦していければと考えております。
投げ銭で得た収益はアーティスト、店舗、スタッフの運営費として分配し、イベント開催が難しいこの状況を乗り切り、
これまで以上に、文化の継続的発展に微力ながら貢献していきたいと思っております。

皆さまのお力を貸してください。
どうぞよろしくお願いいたします。

https://www.velvetsun.jp

Nnamdï* - ele-king

 2面性のある人は紹介の仕方が難しい。悲しいのか、おかしいのか。どちらでもあるし、どちらかが強調されていれば、どちらもとは思えないだろうし。たとえばンナムディ・オグボンナヤ(Nnamdi Ogbonnaya)の“Wasted”は「どんな音楽を聴きたいの?」「時間を無駄にはできないよ」「君の話が聞きたいな」「すべての耳はダンボのように閉じている」といった歌詞ながら、そこから想像できる雰囲気をヴィデオから感じ取ることはできない。

 どうだろう? エイフェックス・ツイン”Windowlicker”は曲だけ聴いていれば悲しいムードなのに、ヴィデオを観ると笑ってしまうのに似ていませんか? シカゴ(生まれはLA)のンナムディ・オグボンナヤはそれに加えてロックなのか、ヒップ・ホップなのかという難しさも加わってくる。どちらでもあるし、どちらかが突出していれば、どちらにも思えないだろうし。彼のキャリアはマス・ロックから始まっている。2006年にバトルズを思わせるマス・ロックのパラ・メディクス(The Para-medics)としてデビューしたオグボンナはインディ・ロックのアルバトロスやパンクのナーヴァス・パッセンジャー、ハードコアのリチャード・デフ&ザ・モス・プライオーズなど10以上のバンドを掛け持ち、現在のところメインのように見えるモノボディやイットー(Itto)ではドラムス、ナーヴァス・パッセンジャーやティーン・カルトではベースを担当しつつ、ンナムディズ・スーパー・ドゥーパー・シークレット・サイド・プロジェクトとスーパー・スワッグ・プロジェクトではラップをメインに活動してきた。さらにンナムディ・オグボンナヤ名義では音楽性にまったく囚われず、気ままにミクスチャー・サウンドを展開している。これがこのほど名義をンナムディと短くし、『BRAT(ガキ)』と題されたアルバムでは独特のポップを創出したといっていい境地を見せる。オープニングはしれっとアコギの弾き語り。「Flowers To My Demons(我が悪魔に花束を)」と題され、ゲイの立場から「僕はリル・Bを尊敬するバラ色のプリティ・ビッチ」「でも、この街が僕を必要としていないことは理解してる」「お前らのことが嫌いだ」「花を贈るよ」とチーフ・キーフやドリルではないかと思える勢力に対して違和感を吐き出し、「君が必要だ」「新しいものが必要だ」と何度も繰り返す。リル・Bというのは2010年にリリースした『Rain In England』でクラインやマイサに受け継がれたドローン・ラップを創始したMCで、最近のラップ・アルバムには1曲ぐらいはドローンをバックにラップする曲が収録されているほどいまだに影響力を持った存在。ちなみに『BRAT』にもドリルやトラップを断片的に感じさせる“Semantics(意味論)”のような曲も散見できる。

 ンナムディ・オグボンナヤが様々なサウンドをミックスするようになったのは高校生の頃にジャズ・バンドに入ったはいいけれど、練習するのが嫌いで、楽器は他人の演奏を「観る」ことで覚え、とくにゴスペルのドラムはなんでもアリなんだなと思えたからだという。モノボディでは時にスティーヴ・ライヒを思わせるような曲もあり、イットーではスラッシュにも邁進するなど、沢山のバンドを掛け持っているのはそもそもひとつのことばかりやりたくないからで、要するに音楽を始めてから『BRAT』までまっすぐ進んできたわけである。幸せな男である。白状すると僕はンナムディ・オグボンナヤの多面的なスタイルではなく、まずは笑いに耳が行ってしまった。『BRAT』というのは、しかし、恐ろしいアルバムで、最初は笑いを誘ったはずなのに、同じ曲を何度も聴いているうちに、だんだん悲しくしか聞こえなくなってしまう(と、この文章を読んでしまった人には先入観が芽生えて同じ体験は不可能かもしれないけれど)。ある時期からは、だから、ンナムディ・オグボンナヤの悲しみを反芻するような聴き方しかできなくなり、気がつくと彼の感情の波に飲み込まれていることがわかる(ここでもう一度、冒頭の“Wasted”を聴いてみてほしい)。以前の作品はそうではなかった。『West Coast Burger Voyage』(13)や『FECKIN WEIRDO』(14)は笑いは笑いでしかなかった。もしくは悲しい曲と楽しい曲は同じアルバムに同居はしていても役割は分かれていた。『BRAT』はそして、“Glass Cracker“のように悲しい曲は本当に悲しく染み渡る。そして、そうした曲から今度は予期せぬ優しさが滲み出してくる。なんということはない、様々な音楽をミックスした果てにあったものは非常にオーソドックスな「ポップ・ミュージック」だったのである。彼はおそらくゴスペルのドラムを「観ていた」時に音楽が伝える非常に本質的な魅力も理解していたのだろう。おそらくは彼が初めからオーソドックスなポップ・ミュージックを実践していたら、このような重層性はつくり出せなかった。「放蕩息子の帰還」とはよくいったものである。

vol.125 NYシャットダウン#3 - ele-king

 QUARANTINED=毎日やることもなく、家に閉じこもっていなくてはならない。朝起きて、まずニュースに目を通し、今日もコロナヴィラスの話題だらけだなと思いながら朝ごはんを食べる。ニューヨーカーの40〜80%は感染するや、この状況は夏まで続くやら、何人が死んで何人感染したか、など明るいニュースはないので、やれやれ、といった感じだ。


もののみごとに人影もないブッシュウィックの風景。

 シャットダウンしてからオースティンやアップステイト、プロヴィデンスなどに避難し、NYにいなかったので、戻ってきたいま、どうしてよいかわからない。普段は仕事をして、ショーに行って、イヴェントを企画して……それがすべてなくなってしまった。
 さて、他のミュージシャンはどうしているのだろう、と気にかかった。プレスの人に訊くとリリースは延期もあれば、そのままリリースもある。リリース・パーティなどはできないが、この時期みんな時間だけはあるので、聞いてもらう良いチャンスかもしれない。ショーはできるときにしようということだが、いつになるやら。
 音楽会場のオーナーやオーガナイザーは従業員を救おうとファンドレーザーを立ち上げたりしている。従業員に仕事がなくなったので、寄付してくれということなのだが、仕事がなくなったのは、彼らだけではなくみんななので、逆に寄付してほしいくらいと思っている人がほとんどだろう。
 レストランやバーはテイクアウトとデリバリーをはじめた。レストランはわかるが、さすがにアルコールのテイクアウトは難しい。バーに行くのはそこで飲みたいからで、家で飲むなら、その辺のボデガで買っても同じだからだ、そしてそちらの方が断然安い。誰が家で凝ったカクテルなどを飲みたいか。ただ、ボトルのミードや酒などはわかる。なかなかボデガでは買えないからだ。という感じで、スモール・ビジネスは奮闘しながらも営業を続けている。購入するときもカードのみで、ピックアップは外に置いてあり、勝手に取るシステムがほとんど。買いに来ても誰とも顔を合わせないのだ。

 人に会えないので、オンライン飲み会がまわりで流行っている。何人かでFaceTimeで顔を見ながら飲み会するというやつだ。うちらバンドも週に2回くらいはヴィデオチャットで近況(と言ってもそんなに変わりはないが)報告する。インスタライヴなどでオンラインショーなどを企画したり、ライヴのオルタナティヴ。ヴァージョンをレコーディングしようとしているが、なんだかなー、という感じである。

 私のまわりのニューヨーカーは故郷に帰った人もいるが、だいたいは残っている。逆に故郷に帰って年老いた両親に迷惑かけたくない、ということもあるようだ。まったく症状が出ない人もいるわけだから、みんな動きたくても動けない。例えばロードアイランド州に行くと、ニューヨークナンバーはチェックされるし、バスもほとんど止まってしまった。ニューヨークにいるしかないのである。この状況でどこまでいけるか、もう何も通常ではないので怖いものもないと思える自分がいる。


いまトレンドなハードセルツァー、そしてコロナブランド。

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