「K A R Y Y N」と一致するもの

一体奴らは誰なんだ!? - ele-king

 先日行われたジョイ・オービソンとウィル・バンクヘッドの来日イベントで、ステージのスクリーンに映しだされた謎の映像に目を奪われた方は多いハズ。あれを作っているひとたちはもっと謎です。本サイトでも過去に取り上げてきた、インターネットを拠点とする集団BACON。ここでは多くは語らないので、ご存知ない方は拠点のサイトを見てきてください。(これが話題の「ポスト・インターネット」ってやつか!?)
 強烈なヴィジュアルを作り出す「彼ら」が、意外にも今回初となる展示会を開催します。今週6月19日金曜日より、場所は神保町のSOBOにて開催! 画面の外でBACONは何を繰り広げるのでしょうか?

BACON EXHIBITION「unknown dào fú」
会期:
2015年6月19(金) ~ 7/1(水)
時間:
12:00 ~ 20:00
※ 月・火休廊
特設ウェブサイト:
https://bacon-index.tumblr.com/unknowndaofu

会場:
SOBO
住所:
〒 101-0054
東京都千代田区神田錦町3-20
アイゼンビル 2F/3F
TEL:03-5244-5297
URL:https://sobo.tokyo

BACON
BACONはインターネットを活動拠点とする集団で、Tシャツやナップサック、靴下、ステッカーの制作、クラブイベントの主催、映像のディレクションを行う。昨年のMercedes-Benz Fashion Week TOKYOにおいて、ファッションブランド「C.E」が渋谷ヒカリエで開催しましたプレゼンテーション(https://vimeo.com/113405346)でも同ブランドと共に映像をディレクションするなど、多岐にわたる活動で知られる。


interview with KGDR(ex. キングギドラ) - ele-king


キングギドラ
空からの力

Pヴァイン

Hip Hop

20周年記念
デラックス・エディション

Tower HMV Amazon

20周年記念エディション

Tower HMV Amazon iTunes

 80年生まれのサイプレス上野と79年生まれの東京ブロンクス a.k.a SITEが日本のラップ・ミュージックの名盤を解説した単行本『LEGENDオブ日本語ラップ伝説』(リットーミュージック、2011年)の、キング・ギドラ(現・KGDR)『空からの力』の回には、「やっと渡されたラップ教科書」というタイトルが付けられている。95年12月10日に同作が発表された頃には、日本のラップ・ミュージックはすでに10年以上の歴史を持っていたが――たとえば、黎明期の重要作である、いとうせいこうがラップを、ヤン富田がプロデュースを担当した楽曲“業界こんなもんだラップ”収録作『業界くん物語』は、そのちょうど10年前にあたる85年12月21日に発表――言わば、長い試行錯誤の時代に終わりを告げ、初めて表現の定型を提示し得たのが『空からの力』だったのだ。

 くだんの回において、東京ブロンクスは「オン・ビートで、韻は固く踏むっていう、誰でも真似できる基本スタイルをギドラはハッキリ打ち出した」「これが日本語ラップの骨格になってるのは間違いね」と振り返っている。そして、サイプレス上野は言う。「だからギドラは教科書でしたよね。〈やっと渡された教科書〉って感じ」。しかし、単純だが重要なのは、同作が教科書に喩えられるとしても、それは、押し付けられるものではなく、キッズが自ら進んで学びたくなる格好良さに満ちあふれていたということだ。

以後、20年。『空からの力』に感化された高校生が、〝サイプレス上野とロベルト吉野〟として5枚のオリジナル・アルバムを発表し、ベテラン・ラッパーとして認知されているように、日本のラップ・ミュージックの歴史を変えた同作は、そこからまた長い歴史を紡いできた。もしくは、『空からの力』に、戦後の歴史観が変容しつつあった90年代半ばという時代の空気が影響を与えていることについてはもっと検証されなければならないだろう。『20周年記念デラックス・エディション』のリリースを機にKGDRの3人――Kダブシャイン、Zeebra、DJ OASIS――に、グループ及び日本のラップ・ミュージックの、また、彼らが青春時代を過ごした80年代から彼らが世に出た90年代までのこの国の、歴史を振り返ってもらった。

■KGDR(ex. キングギドラ)『空からの力:20周年記念エディション』
Kダブシャイン、Zeebra、DJ OASISによって1993年に結成され、日本のヒップホップ・シーンにおいて大きな影響力を示してきたグループのひとつ、キング・ギドラ。その「日本語ラップの金字塔」とも称えられる95年のデビュー・アルバム『空からの力』が、リリース20周年を記念したリマスタリング盤となって登場。リマスタリングを施されたレアなリミックス音源やデモ音源、また当時の映像作品「影 The Video」のDVDがカップリング(DVDはデラックス盤のみ)されるばかりでなく、リマスタリングをトム・コイン(ビヨンセ、サム・スミスなどを手掛ける)が担当するなど、名盤を祝福するメモリアルな仕様になっている。

オレが〈ジャクベ〉に溜まり出したのは中2で、ディスコに行くようになったのもその頃。そこに、当時の中学生とか高校生とかが溜まってたんだよ。(Zeebra)

まず、3人の出会いからうかがいたいのですが、Zeebraさんは著作『ZEEBRA自伝』(ぴあ、2008年)で、中学生のときに渋谷で出会った3歳上のKダブさんについて「Kダブはいつもチャリで現れた」と書いていましたね。

Zeebra(以下Z):うん。いつもチャリだったね。

「チャリで現れた」っていうのは、要するに、地元だったと。

Kダブシャイン(以下K):そうそう。公園通りの〈ジャクベ〉を覗くといつもヒデ(Zeebra)たちがいて。

〈ジャクベ〉?

K:〈ジャック&ベティ〉。

Z:いま、〈ディズニー・ストア〉が建ってるとこにあったカフェ・テラス。

K:セルフ・サービスのね。

Z:そこに、当時の中学生とか高校生とかが溜まってたんだよ。オレが〈ジャクベ〉に溜まり出したのは中2で、ディスコに行くようになったのもその頃。まだ慶應(義塾普通部)に通ってて、一個上について遊び回ってた。

K:ということは、オレは17だね。一回、アメリカに留学して、帰ってきたときぐらい。〈ジャクベ〉には同じ学年の女子が溜まってたから覗きにいったら、ヒデたちもいて、「中学生なのにすげぇチャラいなぁこいつら」みたいな感じで見てた。

Z:ははははは。

そして、ZeebraさんとOASISさんは幼馴染み。

Z:小学校からずっといっしょで。

DJ OASIS(以下O):知り合ったのは5年ぐらいだったかな? それから遊ぶようになって……。

Z:6年とか中1とかの頃にはずっといっしょにいるっていう感じになってた。ほら、小学生って、はじめのうちは自分のクラスの奴としか遊ばないけど、高学年になってくるとクラスを跨いで趣味の合う奴と遊ぶようになるじゃん。オア(OASIS)とも、もともとはクラスがちがって。

遊んでいるうちにクラスを越境し、学校を越境し、地域を越境し……そして、いまにいたるまで仲間が増えているわけですよね。

Z:そうだね。その越境していく過程の最初の頃にオアと知り合ったのかな。

O:ガキの頃、オレはメタルが好きで。エレキを買ったりもしてたし、その頃から「音楽をやりたい」ってぼんやりと思ってたんだけど、明確になったのが5年の頃で、そこから、クラスを跨いでレコードの貸し借りをするようになったんだ。それで、ヒデとも仲良くなったんじゃないかな。

Kダブさんと、Zeebraさん、OASISさんは3歳ちがうわけですが、それぐらい空いていると世代がちがうという感覚なのでしょうか?

K:出会ったときは高校生と中学生だからね。その頃はだいぶギャップがあったと思う。でも、あとで話してみると『ベストヒットUSA』(テレビ朝日/81年~87年)とか、音楽の情報ソースは同じだったし、聴いていたものもそんなに変わらなかったんじゃないかな。

Z:まぁ、オレたちもちょっと早熟だったっていうか。

O:オレはコッタくん(Kダブ)と同い年の兄貴がいたから。もともと、音楽はその兄貴に教えてもらって。

Z:オレも親が家でそういうアメリカのヒット・チャートものをかけてたし、5、6年になるとクラスで目立つやつはみんなわっと洋楽を聴き出す感じもあったよね。その流れで、“スリラー”や“ロック・イット”のヴィデオを観てムーン・ウォークやブレイク・ダンスを真似てみたり、ヒップホップにもハマっていった。

〈ジャクベ〉ではまだ音楽の話にはなってないですよね?

K:そのときはまだ。でも、それから1、2年する間にラップ好きだっていうことがわかって。ヒデはオレの後輩だったライムヘッド(現・T.A.K THE RHHHYME)とツルんでたから、あいつに「ヒデもラップ好きなんですよ」みたいな話は聞いてたんだよね。

Z:オレはオレで、「コッタくん家にR&Bのレコード、すげぇいっぱいあるよ」「マジで? 行ってみたい!」みたいな感じで遊びに行って、「すげぇすげぇ、これ何? 聴かして?」って感じで仲良くなった。

渋谷によく溜まっていたビルがあったんですよね。

Z:あぁ、〈Rビル〉? コッタ君の一個上にとんでもなく悪い先輩がいて(笑)。オレがそのひとに会いに行くとコッタくんもいて、みたいな感じだったかな。〈Rビル〉に溜まってたから「Rズ」って呼ばれてたもん。

K:自称でもあるんだけどね。最初は〈Rビルディングス〉だった。

Z:それは初めて知った(笑)。


イタロ・ディスコなんかは、やっぱり、遊びながら知っていったし、そういった中で「音楽はディグるもの」っていう感覚が身に付いていったよね。先輩のテープが回ってきて、「格好いい!」と思った曲を自分でも必死で探すみたいな。(Zeebra)

当時の渋谷は、いわゆる「チーマー」文化の前夜と言っていいですよね。90年代に入って、チーマーがマス・メディアに取り上げられ、暴力的なイメージが再生産されていきますが、『渋谷不良20年史~Culture編』(少年画報社、2009)で、Zeebraさんに、それ以前のチーマー文化は、流行に敏感な私立校生を中心としたムーヴメントだったというようなことを語ってもらったことがありました。

Z:エイティーズのチーマーはそんなに暴力的ではなかったよ。もちろん、たまに喧嘩はあったけど、そんなに大事には至らなかった。

K:まぁ、遊び人の集まりだよね。

興味深いのは、いま、遊び人の若者が新しい音楽を聴いているとはかぎらないと思うんですけど、初期のチーマーは音楽にも詳しかったということで。

Z:それは、まず、当時は「ディスコでしかかからない音楽」っていうのがあったじゃん。それこそ、ユーロ・ビートにしてもハイ・エナジーにしても、普通に生活してたら聴くことがないような曲。デッド・オア・アライヴとかニュー・オーダーとか、ディスコでかかる曲がチャートに入ったりもしてたけど、イタロ・ディスコなんかは、やっぱり、遊びながら知っていったし、そういった中で「音楽はディグるもの」っていう感覚が身に付いていったよね。先輩のテープが回ってきて、「格好いい!」と思った曲を自分でも必死で探すみたいな。

遊び場に足を運ばないと聴くことができない音楽があったからこそ、遊び人の若者たちが音楽に詳しかったと。

Z:格好もそうだよ。遊んでいる奴らなでらはのコードみたいなものがあって、たとえば、みんなブーツを履いてたりとか。チームでスタジャンをお揃いで着たりとか。あと、スタジャンの下にジージャンを重ね着したりとかさ。

K:はいはい。ジャケットの下にジージャンを着たり、とにかく、ジージャンを重ね着してたよね(笑)。

Z:ポケットからバンダナを垂らしたりね。

そのコードの中で、いかに着こなすか、着崩すかが重要なわけですよね。

Z:そうそう。そのために、服もディグるし、音楽もディグるし。で、ディグりきれてないやつは浅いやつ、ダサいやつって感じで見られてた。

そうやって、街の中で遊んでいるうちに、3人は出会っていった。

Z:ここ(Z)とここ(K)はそうだね。

O:オレとコッタくんが会ったのは、ギドラを結成するちょっと前ぐらいだから。

なるほど。では、キャリアに関して、順を追って訊いていきたいと思います。


とりあえず、弦巻(世田谷)だよね。「ふたりで曲をつくろう」って話をして、実際にやりだしたのは。(DJ OASIS)

ZeebraさんとOASISさんはキング・ギドラの前に「ポジティヴ・ヴァイブ」というラップ・グループを組んでいましたが、『ZEEBRA自伝』には「ポジティヴ・ヴァイブという名前をいつ、どうしてつけたのか。はっきりは覚えてない」と書かれていますね。だいたい、いつぐらいの話なのでしょう?

Z:17、8だから、88年、89年ぐらいなのかな? そこから、2、3年はやってたと思う。

O:とりあえず、弦巻(世田谷)だよね。「ふたりで曲をつくろう」って話をして、実際にやりだしたのは。

Z:オレが17ぐらいから弦巻でひとり暮らしをしだして、88年の暮れにニューヨークに行った後、リリックを書き出したんで、正確には結成は89年か。

ポジティヴ・ヴァイブでは英語でラップをしていたんですよね?

Z:そう。ただ、ラップも、並行してやっていたDJも、20歳ぐらいでいったん、止めちゃうんだよね。ニューヨークに行って帰ってきて、89年の1月か2月ぐらいから〈六J〉(ディスコ〈J TRIP BAR〉の通称)でDJをはじめることになったんだけど、オレは89年の4月で18だから、本当は駄目で、ただ、店の方も「まぁ、もうすぐ18だから平気だろう」って感じで採用してくれたんだ。ところが、20歳でガキができて、向こうの親から「水商売の奴にうちの娘はやれねぇ!」って言われちゃって。当時、DJは水商売だったのよ。それで、ちゃんと9 to 5の仕事に着かなきゃいけなくなって、一回、DJもラップも諦めた。その頃って、ZOOの影響でヒップホップが盛り上がりはじめてたし、もったいなかったよ。オレは〈六J〉の火曜日をひとりで任されてたんだけど、そこも誰かに継がなきゃいけないっていうことになって、当時、オアもDJを本格的にはじめてたし、「代わりにやってくんない?」って頼んだんだ。

O:でも、〈六J〉ではヒップホップをかけてたといっても、客はBPMが早い曲にしか反応しなかったね。

Z:そうだね。オレらとしては、もっと遅い、カンカンタッ(BPM90)みたいなのが大好きだったんだけど、それはさすがに……。

O:好きなんだけどかけられない曲がたくさんあった頃だったな。現場では普通にハウスとかもかけてたし。

Z:ニュージャック(・スウィング)とかね。ある程度、音が固くないとノってくれない。ジャンブラ(ジャングル・ブラザーズ)でも反応があるのは“アイル・ハウス・ユー”(88年)だけみたいな。

一方、Kダブさんがリリックを書きはじめたのは?

K:英語で、真似事みたいな感じでやりはじめたのは、オレも、88年の終わりとか、89年の頭とかなのかな。もちろん、その前からラップは聴いてて、ラン・DMCとかLL・クール・Jとかが好きだったんだけど、(LLの)“ゴーイング・バック・トゥ・キャリ”(88年)を聴いて、「よし、オレもやってみよう」って英語でライムを書きだした。

やはり、ZeebraさんとKダブさんの重要な共通点として、まずは英語でリリックを書きはじめたということがあると思うんですが。

K:まぁ、正直、日本人でヒップホップをやれてる奴がいるとは思ってなかったから、アメリカのシーンだけを見てたし、向こうで人気のあるラッパーを好きだったしね。


要するに、当時の日本のヒップホップにはストリートを感じさせるものがなかったんだよね。(Kダブシャイン)

Kダブさんは著作『渋谷のドン』(講談社、2007年)で、「1980年代後半から世界中で隆盛していったヒップホップだが、果たして日本はどうだったか。藤原ヒロシや近田春夫、いとうせいこうら、ロンドン経由の軟弱なアパレル系のものしかなく、それはファッションのひとつとして紹介された」と書いています。また、Zeebraさんも『ZEEBRA自伝』で、「1988年にはメジャー・フォース(高木完、藤原ヒロシ、屋敷豪太などが参加したヒップホップのインディーズ・レーベル)ができた。/その前にも近田春夫さん、いとうせいこうさんがヒップホップを取り入れたりはしていた。/ただ、それはあくまでもミュージシャンが新しいジャンルを取り入れているというスタンスだったと思う」「自分のやりたいものとはちょっと違う。向こうのとっぽいヤツらとは確実に雰囲気が違う」と、日本語ラップ第一世代の表現に対して、違和感を感じていたことを振り返っています。2人がラップをするにあたって英語を選択したのは、彼らに対するカウンターの意味もあったのでしょうか?

Z:そもそも、当時の日本で、ラップでビッグになるってことなんて想像もつかなかったし、「日本の奴らにヒップホップが伝わるのはいつのことなんだろう?」ぐらいに思ってたからね。というか、はっきり、「伝わらないだろう」と思って、向こうでデビューしたいって考えてた。だから、英語でやりはじめたってことなのかな。

87年には〈ヴェスタックス・オール・ジャパン・DJ・バトル〉が、翌年には〈DJ・アンダーグラウンド・コンテスト〉がはじまり、前者ではECDが優勝、後者ではスチャダラパーが入賞するなど、日本語ラップ第2世代が登場しはじめていた時期でしたが、そういったシーンとは関わるつもりがなかった?

Z:まぁ、結局、オレらが日本のラッパーをどこで観ることになるかっていうと、外タレが来たときの前座で、ただ、そのパフォーマンスがどうにも「うーん……」っていう。

K:オレも〈メジャー・フォース〉のレコードを買ってみたりしたけど……。

O:オレも買ったよ。

Z:オレだって(タイニー・パンクスの)「ラスト・オージー」(88年)を買ってみて、プロダクションに関しては、DJ的観点でつくってあっておもしろかったんだけど、ラップに関しては「もうちょっと格好良くならないもんかねぇ」と思ってしまって。都々逸みたいに聴こえたっていうか。(高木)完ちゃん、いますげぇ仲いいからこういうこと言うのは気まずいんだけど(笑)。正直、当時はそう感じちゃったからさ。「いやいや、いまのヒップホップってもうちょっとフリーキーなフロウもあるし」って。だから、ラップに関しては、オレがやりたいと考えてたことの2歩ぐらい手前の感じがしたし、「これはちょっとちがうかなぁ」と思ったっていうところかな。

たとえば、いとうせいこうや近田春夫、タイニー・パンクス等にとっては、80年代半ばのラン・DMCに感化された部分が大きかったと思うんですよね。ただ、80年代も後半になるとラキムが出てきたり、ラップという表現がより進化していきましたよね。そういった現行のラップ・ミュージックを熱心に追っていただろうZeebraさんやKダブさんにとっては、ラン・DMCを引きずり続けているような日本のラッパーたちが古臭く思えたんじゃないでしょうか?

Z:もちろんそれはあったよね。話がいきなり飛ぶけど、『ソラチカ』(『空からの力』)でやっているデリヴァリー、ラップの譜割に関して言えば、収録曲のほとんどをつくった94年当時、向こうで流行っていた韻を置く場所を予測させないようなスタイルをすごく意識した。たとえばジェルー(・ザ・ダマジャ)とか、ケツ・ケツで踏まずに、ランダムに踏むっていう。そういう視点は英語でラップしていた80年代末から変わってない。

K:オレは85年にアメリカに留学して、地元の黒人と友だちになって。彼らと遊ぶ中で、アメリカにおける黒人の歴史や現在置かれている状況を知ったし、ブラック・ミュージックがそれに影響を受けていることも肌で感じて。それで、日本に帰ってきて日本人のラップを聴いたら、やっぱり、ブラック・ミュージックとしては物足りないと思っちゃったよね。

Z:本当にその通りだね。

K:そこに不満を感じて、日本でヒップホップをやることっていうか、日本語でラップをやること自体、不可能なんだなって決めつけちゃったんだ。英語もわかりはじめてたし、そもそも、文法がちがうじゃんって。80年代はそんな感じだったな。

Z:オレが思うに……当時、日本のヒップホップには2ラインあったじゃない? ひとつは、〈メジャー・フォース〉に代表される、ヒップホップにたどり着くまでにパンク/ニュー・ウェーヴを経て来たタイプ。もうひとつは、ユタカ君(DJ YUTAKA)たちみたいなブラック・ミュージックを経て来たタイプ。かたやファッション誌やカルチャー誌みたいなメディアに頻繁に登場するような華やかな世界で。片やディスコが現場で、客は基地のブラザーだったりして、いなたさもあって。オレにとっては、前者はコッタくんが言うようにブラック感が足りなかったし、後者はちょっと〝いま感〟が足りなかった。

そのどちらにも馴染めなかったと。

K:別の言い方をすると、当時、ヒップホップをカウンター・カルチャー的なものとして捉えるか、ポスト・モダン的なものとして捉えるかっていうちがいもあったと思うんだ。〈メジャー・フォース〉は後者だけど、オレはさっき話したようにアメリカでルーム・メイトの黒人からいろいろと聞かされたからさ。それで、ヒップホップのカウンター・カルチャー的な部分に共感するようになったし、ポスト・モダン的な見方っていうのはあまり好きじゃなかったんだよね。

Z:あとはあれだな。デ・ラ・ソウルの“ミー、マイセルフ・アンド・アイ”(89年)のPVがあるじゃん。学校でイジメられるやつ。あれのイジメる側だったからさ、オレらは(笑)。だから、スチャダラパーとかがステージに上がってるところの最前列でこう(煽るジェスチャー)やってるのがオレらの立ち位置だったの。どっちかっていうと。あと、当時、渋谷だの六本木だのでふらふらしてると、気がつけばひと回り上の先輩と知り合ってたりするじゃん。それで、そのひとたちは、車屋とかやってて、儲かってて、派手に遊んでるわけ。でも、日本のヒップホップの現場に行くと、そういう、悪い先輩と繋がってるひとはいないっていうか、こっちもとにかく若くて、何も知らないから、「お前ら誰なんだよ。オレはもっとヤバいひとたち知ってるし」みたいな感じもあったよね。

K:要するに、当時の日本のヒップホップにはストリートを感じさせるものがなかったんだよね。

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日本は日本の……いまで言うガラパゴス的なシーンで、そこに「ちゃんと本物を持って帰って来る」みたいな使命感はあった。(Kダブシャイン)

日本では〈メジャー・フォース〉のように、本来、オルタナティヴであるはずのものがメインになってしまっていたということでしょうか?

Z:イメージとしては、やっぱり、ファッションな感じがしてたかな。たとえば、オレがどーしても受け入れられなかったのが〈ヴィヴィアン・ウェストウッド〉。だから、あれがイイと言っているひとたちとは感覚がちがうわっていうのはあった。オレは〈ヴィヴィアン・ウェストウッド〉だったら、〈フットロッカー〉のほうが好きだったから(笑)。

タイニー・パンクス時代の藤原ヒロシはヴィヴィアンにアディダスを合わせたりしていましたよね。

Z:オシャレだとは思うけど、オーセンティックな、ストレートなヒップホップではないっていうところが自分の好みとはちがったな。

K:クイーンズ・ブリッジじゃそんな格好してるやついないよ、みたいなさ。

〈メジャー・フォース〉系には「ブラック感」が足りない。ディスコ系には「いま感」が足りない。自分たちがど真ん中だと思うもの〝だけ〟が日本のラップ・ミュージックからは欠けていたと。

K:ただ、オレはいとうせいこうさんがCMでやってた「ネッスルの朝ごはん」のラップ(87年)、あれは許容範囲だったんだよね(笑)。あと、88年か89年の年末に、横浜にあった〈グラン・スラム〉ってプリンスがプロデュースしたディスコでB-FRESHのライヴを観て、「こっちは〈メジャー・フォース〉よりはありだな」と思ったな。立ち居振る舞いとかも含めて。

Z:ちょっと悪そうだったもんね。

K:ブラザー感出てるっていうか、ファンキーな感じがして、可能性を感じた記憶がある。

Z:それで言ったら、オレは『ダンス!ダンス!ダンス』(フジテレビ、90年)を観てたらクラッシュ・ポッセが出てきて、オケが“ワイ・イズ・ザット?”(ブギー・ダウン・プロダクションズ、89年)か何かを使ってたのかな? 「おー、こういうやつらいるんだ!」ってアガったな。

K:実際には、いろいろなタイプのラッパーが出てきてたんだろうけど、自分のことで精一杯だったから目がいってなかったのもあるのかもしれないね。

ただ、〈メジャー・フォース〉は日本ならではのヒップホップの形を模索していたようなところもあったと思うんですよ。また、『ZEEBRA自伝』には、80年代のことを振り返る、「一時期、黒人になりたくて、なりたくて、しょうがなかった/もちろん無理なんだけどさ」という一節がありますが、ZeebraさんもKダブさんも、当初は英語でラップしていたのが、ある時期から日本語にスウィッチして、独自の表現を目指していきますよね。

Z:もちろん、それはいちばんはじめからわかっていたことであって、オレもブレイクダンスからヒップホップに入ってるし、「黒人ばかりじゃねぇよな」って印象はあって。「プエルトリカン、多いな」とか、何だったらアジア人のブレイカーだって、白人のブレイカーだっていたわけだし、オレは、もともと、この文化を黒人だけのものとしては捉えてない。だからこそ、「日本人の自分だって入っていけるはずだ」と思ってたっていうか。デカかったのは、88年に初めてニューヨークに行ったときに、ボビー・ブラウンとニュー・エディションとアル・ビー・シュアの3組がいっしょにやるっていうんで〈マディソン・スクエア・ガーデン〉に観にいったんだけど、真ん中のPA・ブースはエリック・Bをはじめヒップホップ・スターだらけで、「わー、ハンパねー」って感じで。それで、フロアは見渡す限りシスター。しかも、いまのビヨンセみたいな感じじゃなくて、みんな、格好が小汚いんだよ(笑)。そんな中で本編がはじまる前にビースティ・ボーイズがかかったら、どーん! どーん! って超盛り上がって。しかも、“ファイト・フォー・ユア・ライト”(87年)とかじゃなくて、“ポール・リヴェア”(86年)とかだよ? そのときに、「あ、ビースティ・ボーイズはちゃんと受け入れられてるんだ? ……ほう」と思った。オレはそれにだいぶ、背中を押された感じがある。

なるほど。つまり、名誉黒人になりたかったから英語でラップすることを選んだわけではなく、アメリカのヒップホップ・シーンは人種を問わず参戦可能だと思ったからこそ、共通言語である英語でラップすることを選んだのだと。

K:オレなんかは、高校の頃からアメリカで黒人とつるんでたし、なんとなく自分はもうアメリカ人だって気分でヒップホップを聴いてたんだよね。

Z:オレもそうだったな。

K:だから、キング・ギドラにしても、アメリカのヒップホップから枝分かれした存在というイメージで、対して日本は日本の……いまで言うガラパゴス的なシーンで、そこに「ちゃんと本物を持って帰って来る」みたいな使命感はあった。

O:ふたりの話を聞いてて思ったのは、『ソラチカ』をつくる上で、もちろん、刺激を受けた音楽が同じだったっていうのも重要なんだけど、昔の日本語ラップを聴いたときの違和感が同じだったっていうのもデカいのかなって。


キングギドラ
空からの力

Pヴァイン

Hip Hop

20周年記念
デラックス・エディション

Tower HMV Amazon

20周年記念エディション

Tower HMV Amazon iTunes

『空からの力』は、いまでこそ「名盤」だとか「教科書」だとか「王道」だとか言われますけど、やはり、リリース当時は日本のシーンに対するカウンターとしての側面も持っていたということですよね。

K:うん、そうなんだよね。


黒人の友だちに英語のラップを聴かせると、「まぁ、それはそれでいいけど、なんで日本語でラップしないの?」みたいなことを言われたしね。(Kダブシャイン)

Kダブさんが、「日本語でラップをやること自体、不可能なんだなって決めつけちゃったんだ。英語もわかりはじめてたし、そもそも、文法がちがうじゃんって」というところから方向転換をしたのはどうしてだったのでしょうか?

K:やっぱり、アメリカのラップを聴いてると、みんな、メイン・ターゲットが自分のコミュニティの人たちなんだよね。ブルックリンの奴らはブルックリンに向けて、クイーンズの奴らはクイーンズに向けて、サウスブロンクスの奴らはサウスブロンクスに向けてラップしている。西じゃ「ウェッサーイ!」とかさ。そういうふうに、自分の地域をレップして、その地域の奴らに聴かせるっていうのが基本なんだなっていうことがわかってくると、「〝日本から来て、アメリカに住んでいる日本人〟みたいなアイデンティティでは限界があるなぁ」と思いはじめて。あと、黒人の友だちに英語のラップを聴かせると、「まぁ、それはそれでいいけど、なんで日本語でラップしないの?」みたいなことを言われたしね。その意見が、自分の中で「どうするんだ、お前は?」っていう自問自答の声になっていってさ。それで、ある日、「じゃあ、日本語でやってみようかな」ってリリックを書きなぐってるうちになんとなく原型になるものができて。「あ、こういう感じで続けていけばいいのかな」って気づいたときにはもう夢中になっていて、半年とか1年とかひたすらやりつづけてたっていう感じかな。

つまり、先ほど、Zeebraさんが言っていたようにラップはマルチ・エスニックな、あるいは、グローバルなカルチャーでもあるわけですが、同時にローカルなカルチャーでもあって、それについて考えている中で、「やはり、日本語でやるしかない」という動機づけがされていったと。

K:そうだね。あと、やっぱり、アメリカに長くいることで、望郷の念みたいなものも膨らんでいってさ。日本人でいることを意識するようになったし、もちろん、アメリカにもいいところはいっぱいあるけど、「こういうところは日本のほうが良いよなぁ」と思うことも多くて、より日本を好きになっていったわけ。一方で、日本に帰るたびに、友だちがジャンキーになってたり、パクられてたり、死んじゃってたり、「ええー? 日本、大変なことになってるじゃん」って感じて。「いま、渋谷でこうなってるってことは、そのうち、全国的にこうなっていくんだろう」と思ったし、あるいは、アメリカでスラムを見て、「日本がこうなったらどうしよう」っていう危機感も持つようになった。そういうふうに、変わっていく日本に対して自分ができることはなんだろうって考えはじめた時期と、日本語のラップに取り組みはじめた時期がちょうど重なったんだよね。

アメリカがある種のディストピアに思えた。日本がこれから向かっていくような。

Z:当時、「日本が危ない感」みたいなものはいろんなところに感じてたよね。


当時、「日本が危ない感」みたいなものはいろんなところに感じてたよね。(Zeebra)

『空からの力』に顕著な雰囲気ですよね。

Z:それと、賛否両論はあると思うんだけど、当時、『ゴーマニズム宣言』(小林よしのり、92年~)とか、実際、おもしろかったし。

K:あぁ、オウムとか薬害エイズについて描いてたころだよね。

Z:隠されている真実をあからさまにするっていうことを、ヒップホップではパブリック・エナミーだったりがやってきたわけだけど、当時、『ゴー宣』にはそれに近い感覚があると思ったし、日本でもそういうものがパブリッシュされることで、そういう目線で物を見るひとが増えてるってことは、逆に言えば、「いま、パブリック・エナミーみたいなことを日本でやってもいけるんじゃねぇの?」って思わせてくれたし。

K:本当のことを言ったり、言いたいこと言ったりするのは当たり前だろうっていう。

『空からの力』をつくるにあたって、『ゴーマニズム宣言』に刺激を受けたようなところがあった?

Z:すごいでかいなぁと思って。たとえば、自虐史観みたいなことに関しても、「本当のことに気づかせてくれたな」っていう感じが、正直、オレはしたし。どこまでが真実で、どこまでが誰かがつくった虚構なのかっていうことはわからないけど、100%悪くないわけじゃないし、100%悪いわけじゃないしってことを知るだけでも、本当に意識が変わった。台湾のひとたちが日本をリスペクトしてるんだって知ったのも『ゴー宣』だったりするから。「あぁ、こういうことを、エンターテイメントとして世の中に伝えていくやり方があるのか。だったら、オレらもラップでそれをやればいいんじゃないか」っていうことは、当時、すげぇ思った。

なるほど。では、日本語でラップをはじめた頃に話を戻すと、『ZEEBRA自伝』には、「T.A.K THE RHHHYMEの家にたまに遊びに行った時に、(略)/「そういえば、この前、コッタ君(Kダブ)から電話あってさ」みたいな話になった。/「コッタ君、ラップ始めたらしいよ」/「しかも日本語でやってて、結構ライムがちゃんとしてたんだよ」って。/(略)その当時、Kダブはオークランドに住んでいたから、国際電話でラップを聴いたのかな。/あっ、これはこれまでの日本語ラップとは違うな。/聴いた瞬間に、そう思った」というエピソードが書かれています。そして、感化されたZeebraさん自身も日本語のリリックを書きはじめるという流れですよね。

Z:そうだね。(Kダブのラップは)ライムヘッド邸で聴いたんだと思う。

それって具体的に何年だったか覚えていますか?

Z:たぶん……92年くらい?

K:アメリカで黒人の友だちに聴かせて「何言ってるかわからないけど、いい感じだよ」みたいなことを言われたりとか、アメリカに住んでる日本人や、日本の友だちにも感想を求めたりとか、そういうふうにして、試行錯誤しながら自信をつけていってたんだよね。その流れでヒデにも聴かせたんだと思う。

ちなみに、『渋谷のドン』には、「次第にアメリカでオレの日本語ラップが認められるようになり、帰国した際にも、それを友だちに披露していたりした。その頃、汐留のレイブパーティでヒデ――Zeebraと再会」という記述があります。この、〝レイブパーティ〟とは?

Z:えー、何だっけそれ?

K:ああー、その電話のあとで偶然会ったのが、汐留っていうか、新橋の線路の下みたいなところでやってたレイヴで。

Z:はいはい。日本ではレイヴがまだこれからっていう頃だったんだけど、それはゲスト・リストに載ってないと入れないようなクローズドのパーティで、オレは友だちがみんな行くっていうからついていったら、たまたま、コッタくんに会って。

K:オレがうんざりして、「アメリカから帰ってきたばっかりなのに、こんな音楽聴くのエグいんだけど」って言ったら、「車の中でヒップホップ聴こうよ」みたいな話になったんだ。

いい話ですね!

K:当時、オレはオークランドの地元のファンク・バンドとかラッパーと交流があって、ちょうど、ベイエリアのシーンが目立ちはじめていた時期だったから、その車の中で、「とりあえず、日本よりはおもしろいことになってるよ。ラップやるなら、オークランドに来れば?」みたいに誘ったんじゃないかな。あと、同じ頃、友だちの結婚式の二次会で、ヒデとノリでワン・ヴァースづつラップしたらすげぇ場が盛り上がって、いいケミストリーだなっていうのを感じたこともあった。


オレは韻をハメて気持ちよくさせることがラップの愉しさなんだって考えながら、92年からリリックを書いてるんで、言いたいことをとりあえず言って、後から韻を踏んで聴こえるように細工してるものとはレヴェルがちがう。(Zeebra)

ところで、ZeebraさんがKダブさんのラップで惹かれたのはどんな部分だったのでしょうか? 『ZEEBRA自伝』には、Kダブさんにラップを聴かされた当時、「RHHHYMEは3Aブラザーズっていうグループを組んでいて、UBG(アーバリアンジム)のINOVADERと1-Low(イチロウ)というMCと一緒に日本語のラップをやってたんで、たまに聴かせてもらったりしてた。/でもライムに関しては、もっと違うやり方があるんじゃないかって思っていた」という一文があるように、周囲でも同時多発的に日本語による新しいライミングの仕方が模索されていたと思うのですが。

Z:当時のライムヘッドたちはまだ最後の1文字を合わせるぐらいで。それに対して、コッタくんが聴かせてくれたのは、単語単位で、3文字とか4文字とかで踏んでたから、「あ、ちゃんと韻として成立してるじゃん」と感じた上に、「これだったらオレにもできるじゃん」と思わせてくれたんだよね。

ただ、それまでの日本にも、単語で踏んでいたラッパーはいましたよね。たとえば、いとうせいこうのアルバム『MESS/AGE』(89年)に付属されていた、〝福韻書〟と題したアルバムの中で使ったライミングのインデックスには、単語がずらっと並んでいます。

Z:いや、それまで、3文字、4文字の単語で、すべて母音を合わせるってことをやってたひとは、そんなにはいなかったんじゃないかな。4文字の単語で、最後の2文字が合ってるとかはあったかもしれないけど。たとえば「~の剣幕」と「~が開幕」とか。

K:「逆境」と「東京」とか。

Z:でも、「剣幕」と「円卓」みたいな踏み方はあまりなかった。

K:オレは、それまでの日本語ラップは、語尾を毎回、「あ~」とか「わ~」とか「ど~」とか延ばして響きを似せることを韻と定義しているという印象があって、ただ、それは韻じゃないって英語のラップを聴いてわかっていたから、自分としては英語の韻の構造を日本語に当てはめたみたんだよね。

Z:オレたちとそれまでのひとたちとは韻に対する考え方がちがったんじゃないかな。オレたちにとっては踏むことがメイン。だから、それまでのひとが「ここは踏めないけど、言いたいことがあるからいいか」ってスルーしちゃうのは、オレらにとってはおもしろくも何ともない。そこをなんとか踏んで、なんとか意味を通すことがアートだって考えてるから。

K:それまでの日本のラップは、作文の途中に韻を踏む言葉が入ってたりするぐらいの感じだったと思うんだよ。

Z:以前、ラキムが「ラップのデリヴァリーは、ジャズでトランぺッターやサキソフォニストがソロを吹くときのパターンと同じだ」っていう話をしてたんだけど、まったくその通りで、たとえば、パララ♪、ツッタタッタ、パララ♪、ツッタタッタ、パララ♪の〝パララ♪〟ってところがラップにとっては韻なんだ。そういうふうに、オレは韻をハメて気持ちよくさせることがラップの愉しさなんだって考えながら、92年からリリックを書いてるんで、言いたいことをとりあえず言って、後から韻を踏んで聴こえるように細工してるものとはレヴェルがちがう。

ライミングをひとつの演奏として捉える。

K:欧米で詩を書くときに使う思考法を、それまでの日本人が持ち合わせていなかったのに対して、たまたま、アメリカに行って、英語でものを考えるくせがついていた若者がその思考法をパッと日本語に置き換えたのが、当初のオレのラップだったと思うんだよね。

『渋谷のドン』には「日本語のラップが成立するかもしれない。そう思い、ひとりで研究をはじめた。そして、中国の漢文が韻を踏んでいることを思い出す。漢文にならって音読みを用い、倒置法や体現止めを試してみた」とも書かれていますね。

K:うん。大学生のときに、日本語って「~です」とか「~でした」とか「~ました」とか、いわゆる韻ではないけれど、韻律を合わせた語尾で終わるようになっているから、そもそも、韻を踏む必要がない言語だっていうことに気づいたのね。でも、新聞の見出しみたいに体現止めにして、漢文みたいに熟語で踏んで行けば、日本語でも韻のおもしろさがわかりやすく伝えられるんじゃないかと思ったんだ。ただ、研究しているうちに、「~なった」と「~あった」でも踏めるとかさ、「有り触れた言い回しでも、しっかりしたラインだったらOK」とか、自分の中でのルールができていって。だって、“スタア誕生”の「スターになる夢見育った/素直でかわいい女の子だった」とか、ぜんぜん、体現止めでもないし、普通の1ラインじゃない。だから、体現止めや熟語で踏むことにこだわってると思われがちだけど、そうではなくて。

Z:でも、「育った」と「子だった」って、ちゃんと、「そ」と「こ」から踏んでるんだよね。

K:そうそう。そこが気がきいてるのを汲み取ってよ、みたいなさ(笑)。


大体のやつが「I Rhyme」って言うわけ。だから、オレは「ラップしてる」って言い方はあまり格好良くないんだなと思って。「I Rhyme」っていうのは、要するに、韻踏んでなきゃラップじゃないってことでしょう。(Kダブシャイン)

『空からの力』のいちばんのメッセージは「韻を踏むことがモラルである」ということだと言っていいと思うんですけど、それが、日本のラップ・ミュージックを変え、ひいては日本語を変えていったわけですよね。

K:オレがアメリカに行った頃、ラップしてるらしきやつに会うたびに、当時の拙い英語で「Do You Rap?」って訊いてたのよ。そうすると、大体のやつが「I Rhyme」って言うわけ。だから、オレは「ラップしてる」って言い方はあまり格好良くないんだなと思って。「I Rhyme」っていうのは、要するに、韻踏んでなきゃラップじゃないってことでしょう。実際、向こうのラップを聴くと、「Rhyming」「Rhyming」「Rhyming」ってみんな言ってるからさ。それで、オレの中で韻を踏むっていうことが大前提になっちゃったんだよ。

OASISさんは、最初にKダブさんとZeebraさんのラップを聴いたときどう思いましたか?

O:まず、「日本語でもこういうふうになるんだ」と思ったし、同時に「ラップってこういうことなんだ」とも思った。それまで、パブリック・エナミーのラップを聴くにしても、対訳を読んだり、辞書を引いたり、理解しようとはしてたんだけど、やっぱり、ちゃんとは理解できてなかったし、どうしても、音として聴いてるようなところがあって。でも、コッタくんとヒデのラップは、向こうのラップがそのまま日本語になっているような感じで、それを聴くことによって、ヒップホップっていうものをより深く理解できたし、もっとヒップホップを聴きたいって欲が出てきた。そういうことは、それまでの日本語ラップではなかったよね。

そして、OASISさんもラップを始めます。

O:うん。『ソラチカ』を聴いて「ラップをやりたい」と思ったひとがたくさんいたのと同じように、オレはリリースの1年前とか2年前にそれを体験していて。ふたりのラップを聴かなければ、自分がマイクを持つようなことにはならなかったんじゃないかな。

Z:オレらも、その後、先人たちがやってきたことを振り返って、「あぁ、もうこの段階でこういうことをやってるんだ」「あぁ、こういうこともやってるんだ」って気づいたし、ただ、当時のオレらにそれが届かなかったのは、たとえば〈ヴィヴィアン・ウェストウッド〉を着てたからとか、フロウがちょっと古かったとか、それだけのことだったのかもしれない。あるいは、彼らが試行錯誤を公開してくれたからこそ、オレらは同じ轍を踏まずに済んだし、オレらは試行錯誤を公開せずにスタイルが完成した後、『ソラチカ』として世に出したからこそ、あのアルバムがラップの教科書として機能したのかもしれないよね。

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日本のシーンはシーンで、ある程度動きはじめてたから、「その中でやっていった方がいいんじゃないか」っていう話はしてたよね。(Zeebra)


キングギドラ
空からの力

Pヴァイン

Hip Hop

20周年記念
デラックス・エディション

Tower HMV Amazon

20周年記念エディション

Tower HMV Amazon iTunes

95年12月18日刊行のヒップホップ専門雑誌『FRONT』(シンコーミュージック)6号に掲載されたキング・ギドラのインタヴューの聞き手は佐々木士郎(現・宇多丸/ライムスター)で、リードにはこう書かれています。「そのデモ・テープが東京のヒップホップ・シーンを駆け巡ったのは、今からちょうど2年前のことだ」「一聴した者はその瞬間から、実体すらはっきりしないこのグループの名前をしっかりと記憶せざるを得なかった。カセット・レーベルにはこう印刷されていたのだ。「KING GIDDRA 見まわそう/空からの力」」「彼らのファースト・アルバム『空からの力』は、あらかじめジャパニーズ・ヒップホップの新たなクラシックとなるべく義務づけられた作品だったと言っていい」。つまり、日本のシーンの中では、93年末頃から出回りはじめたデモ・テープによって、すでに『空からの力』の方向性は周知されていたということですけど、その「デモ・テープ」というのが、今回、ボーナス・トラックとして収録される音源なのでしょうか?

Z:そう。93年の3月にオークランドに行ってギドラを結成して、日本に帰ってきてから録ったデモだね。当時、UZIのお兄さんが練習スタジオをやってて、ひと部屋だけレコーディングもできるところがあって、そこを借りて。

キング・ギドラ 『空からの力:20周年記念エディション』 Trailer

なるほど。では、そのデモについて訊く前に、オークランドでギドラ結成に至った経緯を教えてください。

K:ヒデがオークランドに着いて、何日かいっしょにヒップホップ活動をしている内に、「グループになろうか?」っていう話になって。それまでは、お互いにひとりでやってたし、ソロMCっていう自覚もあって、ソロのヴァースも書いてたんだけど、ちょうど、ラン・DMCが『ダウン・ウィズ・ザ・キング』(93年)でカムバックした頃で、「やっぱり、2MCのライヴって1MCより迫力あるなぁ」と思ってたところだったんだ。あと、なんとなく、「オレたちだったらうまくいくんじゃないかな?」っていう予感もあって。そうしたら、ヒデが「もう1人いいやつがいるんだよ」ってオアの名前を挙げて、その2ヶ月後ぐらいに会ったのかな?

そのときにはすでに、日本でリリースするということは決めていたんでしょうか?」

K:うーん、とにかく「つくる」ってことしか考えてなかったかな。もちろん、日本の皆に聴かせたいけど、具体的に日本での音楽活動の仕方をイメージしてたわけではなく。オレが向こうで仲がよかったエレメンツ・オブ・チェンジってラップ・グループの片割れの彼女が『ギャビン』って雑誌で働いてて業界に詳しくて、「ショッピングしてみるわ」って言うから任せたら、1個か2個いい話を持ってきたりして。

〈デフ・アメリカン〉からデビューするという予定もあったみたいですね。

K:もう1個あったんだけど、何だったっけ? あぁ、〈イモータル(・レコーズ)〉って〈エピック〉系のレーベルかな。でも、やっぱり、ターゲットはなんとなく日本って決めてたから。

Z:もうその時点で、日本のシーンはシーンで、ある程度動きはじめてたから、「その中でやっていった方がいいんじゃないか」っていう話はしてたよね。

『空からの力』は、もちろん、傑作なんですが、必ずしもその時期における異端的な作品ではなくて、同じ年の6月にはライムスターの『エゴトピア』が、10月にはコンピレーション『悪名』がリリースされていますし、ギドラとライミングの方法論が近いラッパーたちが集まりはじめていたという印象があるのですが?

Z:たとえば、(『悪名』に収録されたラッパ我リヤの)Qなんかは「ギドラのデモ・テープを1000回ぐらい聴いた」と言ってて、そこから、あんな韻フェチが生まれたってことだと思うし。

K:三木道三も同じようなことを言ってたよね。

つまり、ギドラのデモ・テープとアルバムの間が2年空いたことで、デモ・テープの影響が表出するのと、アルバムのリリースとが重なり、ギドラとライミングの方法論が近いラッパーが同時多発的に現れたように見えた側面もあったと。

Z:そうなんじゃないかなって気はするんだけど。あと、それだけデモ・テープが広まったのは、(DJ)KEN-BOがオレらのプロモーションをやってくれたからでもあるんだよね。「とにかく、韻がヤバいんだよ」みたいな説明をしながらデモ・テープを配りまくってくれて。

K:あと、『Fine』(日之出出版)としっかり組んだのも大きかったよね。あの雑誌は、マニアックなラップ好きとか音楽好きだけじゃない、遊び人の子たちが読んでた雑誌だったから。

Z:それこそ、ギャル全盛期でさ。みんな『Fine』読んでますって時代だったし、あの雑誌に載ったり、〈Fine Night〉に出ることによってファン層も幅広くなった。


だからこそ、「これ(『空からの力』)を聴いたら変わるよ」ぐらいに思ってたし。(Kダブシャイン)

一方、『FRONT』の、ギドラのインタヴューが掲載されたのと同じ号では、佐々木士郎が連載「B-BOYIZM」において、「日本のヒップホップ・アーティストを取り上げるのを快く思っていない層」に対する反論を書いていたりと、遊び人の中で、日本語ラップに対するイメージはそこまでよくなかったのかなとも思うんですが。

Z:士郎くんが言ってたのは、おそらく、遊び人っていうよりは、いわゆる〝ブラパン〟みたいな層に対してだね。当時、「ブラック・ミュージックが好き、ヒップホップが好き、だけど、日本語ラップは……」っていう奴がけっこういたんだ。

K:いや、気持ちはわからなくもないんだよ、オレらだってそうだったんだから(笑)。だからこそ、「これ(『空からの力』)を聴いたら変わるよ」ぐらいに思ってたし。

Z:外タレのフロント・アクトに出まくったのも、「っていうか、オレらのほうがぜんぜん格好よくねぇ?」ってことをわからせたかったからだしね。

K:まぁ、エリック・サーモンにしても、ショウビズ&AGにしても、みんな、「何言ってるかわかんないけどイイよ」「これならぜんぜん行けるよ」って言ってくれたからね。

80年代末に、Zeebraさんは外タレの前座をやっていた日本人ラッパーたちに違和感を感じてたいたという話がありましたが、そこで、ギドラがUSと日本の差を埋めたとも言えますよね。

Z:そうだね。エド・O.G.に至ってはオレらが完全に食っちゃたし。あと、その頃のことで印象に残ってるのが、グレイヴディガズが〈ジャングルベース〉(六本木のクラブ)でライヴをやったとき、オレはバーカウンターに寄っ掛かって観てたの。そうしたら、途中でプリンス・ポールが「この中でラップできるやついないのか?」みたいなことを言って、前のほうにいた基地の奴が、まぁ、どうってことのないラップをしだして。だから、「しょうがねぇな」ってオレがマイクを持ったらフロアも盛り上がったし、グレイヴディガズも「おー」みたいな感じになってさ。それで、ステージから降りたら、黒人に後ろから抱きつかれてるブラパンが「やるじゃーん」って言ってきて。そのとき、「ついに勝ったぜ、ブラパンに」にと思ったよね(笑)。

K:そういう意味では、〈Pヴァイン〉からリリースしたのもよかったよね。ブラック・ミュージック好きに認められてたレーベルだからさ。

そして、ライムスターの『エゴトピア』で「口からでまかせ」にソウル・スクリームとともにフィーチャリングされたあと、95年7月にリリースされたコンピレーション『THE BEST OF JAPANESE HIP HOP VOL.2』収録のSAGA OF K.G.名義「未確認非行物体接近中」のアウトロでは「ライムスター、メロー・イエロー、イースト・エンド、ソウル・スクリーム、マイクロフォン・ペイジャー、ランプ・アイ、ユー・ザ・ロック&DJベン、雷クルー、ECD、キミドリ、ガス・ボーイズ、クレイジーA、DJビート、DJ KEN-BO、ライムヘッド」といったアーティストたちにシャウトアウトを送っていますね。

K:うわ、そういえば、言ったね~!

Z:うん。この頃には、皆でやっていこうという意識の中で動いてたから。

『空からの力』をレコーディングしはじめたのもその頃でしょうか?

K:95年の夏からスタジオに入ったんじゃなかったかな。暑かった記憶がある。

アルバムには、それまでデモ・テープに収録していた曲は全部入ってる?

Z:いや、入ってない曲もある。


「いくら日本で悪い子ちゃんだって言っても、ガンを持ってるわけじゃないし、ひとを殺したわけでもないし、向こうに行ったら普通だよ」と思ったら、ファーサイドの具合がちょうどいいなって感じたんだよね。(Zeebra)

今回、「見まわそう」のデモ・ヴァージョンだけ、事前に聴かせてもらったんですけど、Kダブさんがアルバムとあまり変わらないのに対して、Zeebraさんの発声はぜんぜんちがいますよね。

Z:そうなんだよね。まったくちがう。

Zeebraさんは、その時代その時代の、ラップのモードに合わせてスタイルを変化させてきたと思うのですが……。

Z:ただ、そのデモの頃は、それこそ試行錯誤している最中だったかな。自分のラップ・スタイルはどれがベストなのか探ってた感じ。あと、ファーサイドの影響がモロに出てる。いま振り返ると、自分たちとしては、不良っぽかったり、ストリートっぽさを持ってたりっていうのは大前提だったんだけど、もともとはUSでやろうとしていたので、「いくら日本で悪い子ちゃんだって言っても、ガンを持ってるわけじゃないし、ひとを殺したわけでもないし、向こうに行ったら普通だよ」と思ったら、ファーサイドの具合がちょうどいいなって感じたんだよね。

あの声の高さはファーサイドですか。

Z:ファーストの『ビザール・ライド・トゥ・ザ・ファーサイド』(92年)が出て、「パック・ザ・パイプ」って曲もあったり、楽しそうだったり、ドロドロしてたり、「何かおもしろいなぁ」と思ったのが、まさに、デモ・テープをつくる半年前ぐらいだったんだよね。でも、「日本のシーンの中でやる」っていうことを考えるんだったら、もっとストリート性みたいなものを出した方がいいかなと思って、だんだん、声のトーンも下がっていった。だから、デモ・テープから、ソロのセカンドの『BASED ON A TRUE STORY』(2000年)までをひとつの流れとして見ると、オレのラップがどんどん男っぽくなっていくのがよくわかるんじゃないかな。

なるほど。ちなみに、『空からの力』は、リリース当時、どれぐらい売れたんでしょうか?

Z:気がついたら、20000枚か30000枚ぐらいは売れてたよね。

では、長い時間をかけて浸透していったという感じではなく。

K:うん、最初の2、3ヶ月でけっこう売れたんじゃないかな。HMV渋谷店のチャートでは6週ぐらい連続で1位になったり、大騒ぎになってたって言ったら大袈裟かもしれないけど……。

最初に影響を自覚したのはいつですか?

K:やっぱり、〈さんピンCAMP〉(96年)のときは、あの大雨の中、満員の客が盛り上がっていて……もちろん、自分たちだけが出てたわけじゃないけど、「あぁ、日本でもヒップホップがここまで影響力を持つようになったんだな」と思ったよね。ちょっと怖いぐらい熱狂的な感じ。

『ZEEBRA自伝』では、「あの頃はデカいイベントが月に1回くらいのペースであったんで、いつものルーティンな感じだった」とも書いてありましたが。

Z:いや、それは、〈さんピンCAMP〉だけのおかげで日本のヒップホップが盛り上がったわけではなく、〈(クラブ)チッタ〉でやっていたようなオムニバスのイベントだったり、〈イエロー〉や〈ゴールド〉でやっていたようなパーティだったりの積み重ねでシーンが出来上がったってことを言いたかったんであって。ただ、〈さんピンCAMP〉のキャパがそれまでで最大だったのはたしかだから。それこそ、“未確認非行物体接近中”のイントロが鳴り出して、ぐわーって歓声が上がったときはゾクゾクッときたよね。「よっしゃー!」って。

K:オレはどのアーティストも同じぐらい盛り上がったっていう印象だったんだけど、ひとによっては、「ギドラのときがいちばんだった」って言ってくれるのはうれしいよね。それだけ、アルバムが受け入れられてたんだなって思った。

ただ、そのステージにOASISさんはいませんでしたよね。

O:あのときはKENSEIがDJをやったんだっけ?

K:KENSEIとKEN-BO。

O:あぁ、ダブルDJだったんだ。オレは現場にすらいなかったから。あとから映像で観た。

K:当時、オアは音楽から身を引こうとすら思ってたみたい。


アルバムの中では自分の役割を果たせたと思ってるし、やりたいことができてるなって、今回、聴き直して感じたね。(DJ OASIS)

当時の文字情報……たとえば、『HIP HOP BEST100』(Bad News、96年)を読むと、「もともとあまり表舞台に出ることは少なかったトラック・メーカーのDJ OASIS」というふうに書かれています。

O:うん。ほぼ、表舞台には出てないかな。アルバムを出した年に結婚もしたし、生活を取ったっていう感じで。音楽で金を稼ぐっていうことにまだピンときてなくて、バイトもしてたからね。

自分が参加していないうちに、キング・ギドラがどんどん大きくなっていったことに対して、何か感じることはありましたか?

O:やっぱり、すごい感じてたよ。音楽雑誌に出ることは当たり前かもしれないけど、その頃から、一般誌にも出るようになってたからね。何気なく雑誌をパラパラめくってて、パッとふたりの写真が出てくると、「あぁ、オレも本当だったらここにいたんだよな」っていうことは思ったし。だからと言って、自分が選んだ道は後悔してなかったから、日々の仕事を淡々とこなしてたけど、ギドラがでかくなっていく一方で、いつまでも変わらない自分には違和感を感じてたね。「悔しい」とか「クソ!」みたいな感じではなく、心にポカンと穴が空いてるような……。

なるほど。

O:ただ、たしかにライヴに関しては何年も参加できなかったし、『ソラチカ』に関しても仕事でスタジオに行けなかったときもあったんだけど、アルバムの中では自分の役割を果たせたと思ってるし、やりたいことができてるなって、今回、聴き直して感じたね。

一方で、ZeebraさんとKダブさんは、後年、『空からの力』のレコーディングの時期を、グループとしてはあまりいい関係ではなかったと振り返っていますね。たとえば、『渋谷のドン』には「空中分解の状態」だったと、『ZEEBRA自伝』にはKダブさんに対して「うーんと思うことも増えてきた」と書かれています。

K:うーん……蜜月が終わったというか……。最初は一気に近づいていっしょにやるようになったわけだけど、そりゃあ、時間が経つごとに意見の相違も出てくるし……。

名盤と言われている作品の裏では、じつは、OASISさんが音楽から離れようと考えていたり、KダブさんとZeebraさんの関係がよくなかったりしたというのは、リスナーとして興味深いです。

K:たぶん、オレもヒデも本能的に「これを出さないと次につながらない」ってことがわかってたから、アルバムに関しては「ビジネス・ネヴァー・パーソナル」でとにかく完成させようと。ただし、その後は袂を分かつことにはなるんだろうな……みたいな予感はしつつ、レコーディングは無我夢中だったよね。もし、完成させられなかったら、それまで積み重ねてきた努力も台無しになるし、他の奴らにもデモで影響を与えたんだとしたら彼らにも申し訳が立たないし。『エゴトピア』の「口からでまかせ」は言わば予告編みたいなものだったので、その後、本編が幻になっちゃうようなことだけはやっちゃいけないなっていうのもあって。そこは、〈Pヴァイン〉もよくサポートしてくれてたと思うよ。

(『空からの力』のブックレットを熟読しているZeebraに対して)当時、Zeebraさんはどんなことを考えていましたか?

Z:……いま考えてたのは、この写真を見ると、オアがいちばん顔が変わったかなって(笑)。

K:あー、たしかに。

O:……わかんないけど、2人がぶつかった時期があったんだとしたら、それは、たぶん、オレがいない時期で。だから、もしかしてオレがいたら、和らいだりもしたのかなって思うことはあるね。

Z:もしかしたらそれはあったかもしれないね。

K:そうだね。

Z:ただ、オレが、正直に思うのは、ギドラ以降もいろんなアーティストと友だちになったけど、いま話してたようなことは、アーティストは誰しもが持つ問題だと思う。

K:うん。

Z:やっぱり、エゴじゃん、アートって。自分が表現したいものを100%表現したいと思うのがアートだから。もちろん、ギドラみたいに3人でひとつのアートを完成させるっていうことも大事なんだけど、それと同時に、「オレはこういうことをやってみたい!」っていうエゴもあって、「ただ、それにはコッタくんは合わないかも」って思うかもしれないし、コッタくんはコッタくんで「ヒデは合わないかも」って思うかもしれないし、オアはオアで思うかもしれない。そういうエゴのぶつかり合いは、アーティストが集まれば必ず起こることで、だから、すごく健康的なことなんじゃないかな。その後、『最終兵器』(キング・ギドラのセカンド・アルバム、2002年)もつくって、いま、こうしていい関係になってるわけだし。


たとえば93年にはウータンのアルバムが出てるわけで、オレたちにしても、全員がソロというスタンスを守りながらユニットとしてやっていくっていうのは、最初から何となく決めていたことではあったんだよね。(Kダブシャイン)

そのぶつかりあいこそがケミストリーを生んだのかもしれないですよね。

O:ふたりとも、性格もちがうし、表現したいこともちがうんだけど、ヒップホップの意識レヴェルみたいなものは同じ高さで。だからこそ、どんなに喧嘩しても「もう絶対会わねぇ」みたいなことにはならない。たぶん、ヒップホップに関して、いちばん刺激的に反応してくれるのがお互いなんだよ。なので、当時も、いろんなひとがふたりの関係のことを訊いてきたけど、「ふたりは根底では同じだから、最終的には割れないだろうな」って思ってたよ。

Z:それこそ、「あれ聴いた?」とかいう話をするときに、いちばんオン・ポイントで意見を交換できるのがコッタくん。以前、Twitterでもつぶやいたけど「俺とコッタくんはヒップホップに対して持ってる尺度がちょっと違うからたまに相反するんだけど、根っこは一緒」みたいな。本当にそういうところはすごいあって。

K:あと、さっきのオレの言い方はちょっとネガティヴに聞こえたかもしれないけど、たとえば93年にはウータンのアルバムが出てるわけで、オレたちにしても、全員がソロというスタンスを守りながらユニットとしてやっていくっていうのは、最初から何となく決めていたことではあったんだよね。その方がお互いに依存しなくなるし、そもそも、それぞれに才能があるし。だから、このアルバムにもふたりともソロが入ってるわけじゃん?

Z:だって、デモの段階でコッタくんのソロが入ってたんだもん。この、『空からの力』を出すまでは、オレらにとってはギドラしか表現する場所がなかったから、どうしても、エゴのぶつかり合いにもなったんだよね。でも、その後、ソロで3者3様の表現をしたから、もうぶつかり合うことはなくて。『最終兵器』で「じゃあ、キング・ギドラでまた1枚つくりましょうか」ってなったときは、もうノー・エゴで、100%、グループとしてのアルバムをつくることに集中できた。


『最終兵器』はいろいろと物議も醸したわけだけど、それも、「パブリック・エナミーのようなグループを日本でやりたい」っていう、『空からの力』の頃の目標が、ようやく、達成できたんだとも言える。(Zeebra)

『ZEEBRA自伝』には「『最終兵器』は『空からの力』完成版という意識でつくった」とあります。

Z:そういう意識はものすごくあったね。

O:オレもようやくがっつり参加できたし。

K:ヒデがフィーチャリングされたドラゴン・アッシュ(『Grateful Days』、99年)のヒットの余波もあったりとか、映画(『凶気の桜』、2002年)も巻き込んだりとか、レーベルの〈デフ・スター〉が本気で金を使ってくれたりとか、大きいプロジェクトにできたし、やっぱり、あのときの達成感は何ものにも換えられないものがあったね。

Z:オレだって、セールス・レヴェルの話で言ったら、いちばん売れてるのはあのアルバムだし。あと、『最終兵器』はいろいろと物議も醸したわけだけど、それも、「パブリック・エナミーのようなグループを日本でやりたい」っていう、『空からの力』の頃の目標が、ようやく、達成できたんだとも言える。

K:だから、ここで『最終兵器』の話をするのは変かもしれないけど、あれがなかったら、この20周年記念盤も出せてなかったかもしれないから。

O:それはそうだね。

Z:「あー、20年経ったかぁ」なんて言って、そっぽ向いてたかもしれない(笑)。

K:『空からの力』をクラシックとして確実なものにしてくれたのは、じつは『最終兵器』なんだよね。というわけで、7年後にはまたインタヴューをお願いします。

えっ、『最終兵器』20周年記念盤? それも論じがいがありそうですね……。ちなみに、3人とも表現を更新しつづけているアーティストであるわけですけど、今回、『空からの力』という20年前のアルバムをあらためて聴き直してみてどう感じたのでしょうか?

Z:まぁ、可愛いな、よくやってるな、頑張ってるな、って感じ。これをつくってた24歳のオレに向けて「けっこう、頑張ってんじゃん」って思う。

K:10年前は子供の頃の写真みたいで恥ずかしいから閉まっときたい感じだったけど、それからまた10年ぐらい経って、「あぁ、ここが原点だったんだな」って思うし、本当に感慨深いよね。

O:昔からクラシックだって言ってくれるひとは多かったけど、自分としても20年経って初めて「すごいことやってたんだな」って認められるようになったね。

Z:それにしても、デラックス・エディションを出してもらえるっていうのはものすごい誇らしいよ。だって、そんなアーティストなんてほとんどいないし。オレは王道のアーティストが大好きだから、R&Bにしたって、マーヴィン・ゲイやスティーヴィー・ワンダーの「○○周年記念盤」とか「○○周年ボックス」とかよく買ってたもんね。自分たちがそこに並ぶことができたのは本当にうれしい。


■KGDR(ex.キングギドラ) 〜「空からの力」20th Anniversary〜

7月18日(土) 「NAMIMONOGATARI 2015」 @ Zepp Nagoya
https://www.namimonogatari.com/

8月15日(土) 「SUMMER BOMB produced by Zeebra」 @ Zepp DiverCity TOKYO
https://summer-bomb.com/

9月6日(日) 「23rd Sunset Live 2015 -Love & Unity-」 @ 福岡県・芥屋海水浴場
https://www.sunsetlive-info.com

CARRE - ele-king

 NAGとMTRというイカしたネーミングのふたりによる日本屈指のインダストリアル・ミュージック・デュオCARRE(ケアル)が、画家である近藤さくらに「絵を描くとき用にミックスを作ってほしい」と依頼されたことからはじまったという〈GREY SCALE〉なる試み。結果、ミックスではなくケアルの新曲が用意されることになったこの試み──いや、「試み」と呼ぶには両作家の表現にはあまりにも秘めたる共通点が多く、近藤のモノクロームの平面作品からゆるやかに見えてくる/聞こえてくる光沢のある陰り、冷たく熱狂する軋みは、まさにケアルの音楽そのものである。
なので、ここに摩擦と衝突のくり返しを期待するのは野暮な話であって、あるのは音の肌ざわり、そして、線と形の膚ざわりにこだわり抜いたケアルと近藤の意識の落ち合い。それが解体するのではなく伸び縮みしながらブレンドされ、目的を追い越してずるずるズレながら行ったり来たりする屈曲の連続にスリリングな醍醐味があるのだ。

 4月に恵比寿のKATAで開催されたエキシヴィジョン〈GREY SCALE〉展オープニング(なんと6時間にも及ぶライヴ+ペインティングを決行!)でのあれこれは倉本諒氏のライヴレヴューに詳しいので割愛させていただくが、いよいよケアル待望の新作であり、この展示の音楽をまとめた作品『GREY SCALE』がリリースされた。もちろんアートワークは近藤さくらによるものである。

 1曲め“Tin Reverb”から堂々たる金属的エレクトロニクスが打ち鳴らされ、ぬーっと目の前に灰色の光景が広がる。つづく“LFTM #1”ではうねるベースマシンの上を不穏なシンセが木霊しながらゆらり行き交い、まるでスロッビング・グリッスルの“20 ジャズ・ファンク・グレイツ”なんかを彷彿とさせる。そして3曲めの“Open”では、モジュラーシンセによるコズミックな音の粒が弾けてポコポコと転がり回り、その艶っぽいユーモアにこちらの耳も悦びの手をたたくではないか。

 ケアルと近藤さくらによる音と絵画の共同作業は、往復書簡という形でやりとりが行われ、3年もの時間を費やして完成されたというが、ここにある線の痕跡と騒音の記録にはその長き時間によって磨き抜かれた美しさと硬度がある。そして、そのインテンシティはアルバムの後半からますます顕著になる。リズムボックスとマシンの空っぽなビートによる立体的な折り重なりに膝をカックンとされる“Tepid Liquid”、カルトでカオティックな音響が妖しくプリミティヴな生命エネルギーを感じさせる密教音楽のごとき“Vertigo”、そして、本作のハイライトである“LFTM #2”では、低周波エレクトロニクスの快感に耳を揉みほぐされてとろとろになるところを、ピントを合わせるようにいぶし銀な旋律が立ち現れ、エッジーなミニマル運動が駆動する。ああ、機械になりたい……。

 ここには、まるで彼らが敬愛するドーム(ワイヤーのブルース・ギルバートとグレアム・ルイスによって創設されたポストパンク〜音響〜インダストリアル・デュオ)を偲ばせる辺境最先端の音楽を奏でつつも、古きよきインダストリアル・ミュージックの焼き直しに終わらない新しさがある。誤解を恐れずに言うと、音の質感こそ金属に付着した赤錆のようにざらついて不適でストレンジだけれど、組み立てられた音楽はまるで流麗なシティ・ポップを聴いているかのようにパーンと抜けがよいのだ。

 かつて、消費社会から産まれた都市の生理のいびつさを象徴した(とかなんとか書くとたちまち文章が大げさになりますよね)インダストリアル・ミュージック。日々アップデートを重ね(都合良く利用され?)、アンチテーゼであったはずの言葉そのものが大量消費されてしまい、いまやその実態を細かく把握することは至難の技である。でも、ケアルの音楽を耳にすると使い古された「インダストリアル」という言葉に、深くて重みのある灰色の光輝が甦るのを見とることができる。そして、どくどく胎動する即物的な機能美と筋の通った電気美学(彼らのステージ中央には、ルイジ・ルッソロのイントナルモーリよろしくメガフォン型の巨大スピーカーがそびえている!)──その粋な風情を漂わせるちゃきちゃきのインダストリアル気質に、退廃的ロマンティシズムの明るい未来を感じとることができるはずだ。

interview with Hudson Mohawke - ele-king

 ハドソン・モホークがシーンに華々しく登場したときのことはよく覚えている。プレステで12歳のときからビートを作っていたとか、その数年後にはDJチャンピオンになっていたとかいうエピソードや、まだ少年っぽさを残す風貌もあって、若くして登場することの多いビート・メイカーのなかでもとりわけ神童めいた扱いを受けていた。「すごい子どもがいる!」というような。当時熱い注目を浴びていたグラスゴーのシーンのなかでも、ジャンルを無邪気に無視してのみ込む様は「ウォンキー」(くらくらする)なんて言葉で無理矢理言い表れされたものだ。
 それからは引っ張りだこの活躍を見せていたことは周知だが、ソロ・アルバムとしては5年以上のブランクが空いたため彼の近影を久しぶりに見て思わず口をついて出た言葉は「痩せたなー!」だった。もとい、ずいぶんシャープになった。ルニスと組んだTNGHT(トゥナイト)やカニエ・ウェストに抜擢されたことは見聞きしていたつもりだったが、その経験は佇まいまで神童から世界的なプロデューサーへと変えてしまったことを思い知らされたのだった。


Hudson Mohawke
Lantern

Warp / ビート

ElectronicIDMHip-Hop

Tower HMV Amazon iTunes

 そして彼の新作『ランタン』は彼のアメリカでの成功体験がよく反映されたものとなっていて、とくに前半でメジャーなヒップホップやR&Bを思わせるプロダクションが目立っている。いや、そうではなくて、その近年のトレンドに関与したのがハドソン・モホークそのひとであったことの証明だろう。イアフェインがシンセ・サウンドとともに派手にブチかます“ヴェリー・ファスト・ブリーズ”、ラッカゾイドがゴージャスなコーラスを引き連れるような“ウォリアーズ”、そしてミゲルが切なく歌い上げる“ディープスペース”と、ポップスとしての強度を備えたトラックが並ぶ。そのなかでもアブストラクトかつウォームな質感のトラックの上でアントニー・ハガティが例の深い声で歌う“インディアン・ステップス”はアルバムのなかでももっとも美しい瞬間を演出しているし、インタールード的なトラックとはいえオーケストラを導入した“ケトルズ”など、いままで聴いたことのないハド・モーもここにはある。インタールード的、というのは要するにアルバムの構成も凝っているということで、通して聴いたときの起伏とストーリー性にも富んでいる。ソウル、ゴスペル、R&Bにチップチューン、フュージョン、それにトラップ……と雑食性は相変わらずだが、ハチャメチャさが魅力だった『バター』よりはるかにうまくコントロールされている。

 そう思うと、ラスト・トラックのタイトルが“ブランド・ニュー・ワールド”というのはなんとも清々しい。そのシンセ・トラックの無闇な高揚は、ハドソン・モホークらしい根拠なき無敵感を放っている。それは彼のトラックを聴くといつも感じずにはいられない、自由であることの喜びそのものだ。

グラスゴーを拠点とするプロデューサー。2007年に〈ユビキティ・レコーズ〉のコンピ『チョイセズ・ヴォリューム1』に"フリー・モー"が収録されたことにはじまり、翌2008年には〈ラッキー・ミー〉などからたてつづけにシングルをリリース。2009年には〈ワープ〉からデビュー・アルバム『バター』が発表された。その後はTNGHT(トゥナイト)での活動や、カニエ・ウェストのレーベル〈GOOD Music〉とプロデューサー契約を経て、プロデューサーとしてカニエ・ウェスト、ドレイク、ジョン・レジェンド、R・ケリー、ビッグ・ショーン、2チェインズ、プシャ・T、リック・ロス、フレンチ・モンタナ、フューチャー、ヤング・サグ、トラヴィス・スコットなどUSメインストリームの錚々たるビッグネームと関わり活動を展開。2015年に6年ぶりの2枚めとなるフル・アルバム『ランタン』をリリースする。

だからなんだよ、今回のレコードにおいて僕が意識的に……自分自身のソロ・プロジェクトに立ち返ろう、焦点をそこに戻そうって決断を下さなくちゃいけなかったのは。

前作『バター』から6年経ちましたね。もちろんその間にEPもありましたし、他のミュージシャンとのコラボレーションやリミックス、それにTNGHTのヒットもありましたので活躍はつねに見ていたようにも思えますが。あなた自身にとって、この6年でもっとも大きかったトピックは何ですか?

ハドソン・モホーク(以下HM):そうだな……まあ、もっとも大きいプロジェクトって意味では、やっぱりTNGHTになるかな。

6年と言っても、いま言ったようにあなたは活動を続けていたわけで。

HM:ああ、そりゃもちろん! 思うに、いま言われた時期の間もツアーは続けていたんだし……とは言っても、必ずしも自分のソロ・キャリアだけに純粋にフォーカスしていた、そういう期間じゃなかったっていう。っていうのも、コラボレーション仕事を多くこなしていたし、それに「ハドソン・モホーク」ではなく、TNGHTとしてのツアーをかなりやったわけで。でまあ、そうやってこの期間中はハドソン・モホーク名義のショウをあまりやらなかったために、なんというかなあ、もしかしたら人びとに……僕はもうツアーしてないんじゃないか、活動をやめてしまったのかも? そういう印象を与えてしまったんじゃないかと思うんだよね。だからなんだよ、今回のレコードにおいて僕が意識的に……自分自身のソロ・プロジェクトに立ち返ろう、焦点をそこに戻そうって決断を下さなくちゃいけなかったのは。
で、思うに、この6年間って歳月は……自分にとってはなにも「6年も経った」って感覚じゃないんだよね。ってのも、その間も自分は休みなく働いていたし、ノンストップで活動していたわけで。ただまあ、他のひとたちの観点に立って考えてみれば、「6年ものギャップとは、長い!」ってふうに受け止められるのも、わかるんだけどさ(笑)。うん、っていうか、そうなんだろうね。ソロ・アルバムの間に6年も間を置くのってきっと長いんだろうけども(苦笑)、でもその間も、2枚のソロの間も、僕はノンストップで動いていたっていう。

今回のアルバム制作に取り掛かったきっかけ、スタート地点はどういったものだったのでしょうか?

HM:そうだね……、作品のはじまりは、とにかくいろんなアイデアの集合体からだった。だから、とくに「これはアルバムのために」ってふうに……「このトラックは自分のアルバム用に残しておこう、それからこのトラックも、それにこれも」なんて前もって考えながらやっていたわけではなくて、僕はただまあ、いろんなアイデアを思いつく端からひとつのフォルダに保存していたっていう。ほんと……たしか去年の半ばくらいだったと思うよ、やっと腰を落ち着けてそれらのさまざまなアイデア群をひとつにまとめてみて、そこから一枚のアルバムを作り出そうとトライしはじめたのは。
 で、まず、このアルバム全体のなかでは必ずしもよく響かないだろうってふうに自分が感じた、そういったトラックを省いていくことにして……それはどういうことかといえば、要するに、あたかも自分が「クラブ・ヒットだらけのノリのいい曲ばかりが詰まったアルバム」だけを目指したような、そういう選曲はしないってことで。だから、あのふるい落としの作業は間違いなく、「一枚のアルバムとしてひとつにまとめることによって、トータルで聴くことで機能する楽曲群を選ぼう」みたいな……ヒット向けの曲だけを選ぶのではなく、むしろいっしょに並べてアルバムとして通して聴くのに向いている、そういう観点で楽曲をセレクトするプロセスだった。だから、今回のアルバムにこそ入れなかったけど、これから先のレコードで日の目を見るかもしれない、そういう未収録曲もいくつかあるんだよ。

どこかの誰かがラップトップとにらめっこしながらひとりで作ってる、そういう響きの作品にしたくなかったっていう。

ではアルバムについて訊かせてください。これまでも多彩な音楽を吸収しているのがあなたの楽曲の特徴でしたが、今回はさらに広がっていて驚きました。まず、音色が非常に多様ですが、機材の環境というのもかなり変わったのでしょうか?

HM:うん、ちがうね。思うに、とにかく僕は……今回のレコードの多くに関して言えるのは、僕としてはこう、エレクトロニック・ミュージックによくある手法というよりも、むしろトラディショナルな音楽の作り方を用いたかったんだと思う。だから、どこかの誰かがラップトップとにらめっこしながらひとりで作ってる、そういう響きの作品にしたくなかったっていう。

(笑)なるほど。

HM:というのも、もちろん以前の僕はそういうやり方で多くの音楽を作ってきたわけだけど、今回のレコードではもっともっと……生楽器をたくさん使っているし、そうだね、間違いなく(ソフトウェア・シンセではなく)ハードウェアもいろいろと使って、いくつもの機材を用いて作業を進めた。だから、とにかく僕としては、ただラップトップを使って作るのではなく、より幅広く、バラエティに富んだ機材やサウンドなどを一体化させた、そういうプロジェクトをやってみたかったんだ。そういうわけで、今回はちゃんとしたスタジオ環境で作りたかったんだよ。

はじめにできた曲は?

HM:そうだなあ、んー(軽く息をついて考える)……このアルバムの曲で最初に出来上がったのは、“スカッド・ブックス”だったんじゃないかと思う。というのも、じつはあの曲は2、3年前から存在していた曲で、ただ、いままで正規な形で発表したことがなかったっていう。いやまあ、過去にあの曲をラジオ・ミックスか何かの場でプレイしたことは何度かあったんだけど、曲の正体は誰にも明かさなかったから。

長いこと「謎の曲」のままだった、と。

HM:(苦笑)そう。だから、聴いた人たちは「これはなんて曲だ?」と探ろうとしたし、「この曲はいつリリースされるのか?」なんて、いろいろと訊かれることになったよ。で……うん、そうだな、あの曲がいわば、僕にとっての「このレコードをどういうサウンドにすべきか」という基盤、あるいはスタート地点になったってことなんだろうね。

僕たちはさんざん長いこと“何かやろう、やろう”と話を続けてきたわけだけど、ただ話してるだけじゃなく実践に移そうぜ!」と(笑)。

今回のアルバムでは、コラボレーションしたヴォーカリストたちの人選はどのようにしたのですか?

HM:まあ、基本的には……ここでのアーティストたちはみんな、僕が長いこといろんな形で連絡をとりつづけてきた、いっしょに何か音楽をやろうよって話し合ってきた、そういうひとたちなんだよね。ところがお互いのスケジュールの調整がつかなかったり、あるいは他の仕事との兼ね合いがあったり、いままでどうにも共演が実現しなかった、と。僕みたいにロンドンにいるアーティストだとなおさらそうで、今回のように全員がアメリカ在住のゲスト勢とコラボレーションをするのは楽じゃないってこともあるわけで──とくに、同じスタジオ空間で顔を突き合わせていっしょに作業をしたいと思ったら、双方のスケジュールを合わせるのが難しかったりするよね。だけどまあ、彼らは全員、しばらくの間「ぜひいっしょに何かやろう」と話し合ってきた間柄な人たちだし、だからとにかく今回というのは……「オーケイ、最初のポイントに戻ろうじゃないか。僕たちはさんざん長いこと“何かやろう、やろう”と話を続けてきたわけだけど、ただ話してるだけじゃなく実践に移そうぜ!」と(笑)。

(笑)

HM:ラッカゾイドにアーフェインとはそうやってずっと話してきたし……アントニーにミゲル、ジェネイ・アイコもそんな感じで……そうだね、ゲストと僕のお互いが「これはぜひ実現させたい」と本腰を入れないかぎり、まず実現しっこないだろう、そういう共演だったというか。だからこっちとしても「もうじゅうぶん長いことコラボレーションを話し合ってきたんだし、口先だけじゃなくて今回こそ実際にやることにしよう」みたいな調子にならざるを得なかったんだよ。っていうのも、今回フィーチャーしたゲストの多くとはかれこれ2年くらい前から「いっしょに音楽をやろう」と会話をつづけてきたわけだけど、(レコードを作りはじめた)去年の半ばくらいまで、実際は何も手をつけてこなかったから。

だからまあ……要は「ソウル」のある音楽ってことじゃない?

なかでもアントニー・へガティの名前ははじめ意外でした。彼女の新作でもあなたはトラックに参加しているそうですが、もともと彼女の音楽はお好きだったのでしょうか?

HM:うんうん、ずっと大好きだったよ。アントニーは……それこそ初めてあの声を耳にしたときから、僕はなんというか、声に驚嘆させられたっていう。で、おもしろいことに……僕は自分自身の音楽のなかにおいて、あのヴォーカル・サウンドをどうやったら活かせるだろう? ってふうに試したり実験してみたかったんだよね。そうしたらこれまたおもしろいことに、それと同じ頃にアントニーもまた、「もっとエレクトロニック寄りのプロダクションや、あるいはハウス・ミュージックで実験してみたい」という旨の話をしていて。うん、それってふたつにひとつというか、まったく悲惨な結果に、ぜんぜんうまくいかないことになる可能性もあっただろうけども、アントニーとのコラボレーションはいいものになってくれたと思ってる。アントニーのヴォイスのトーンやサウンドを自分の音楽的なスコープの範疇で使ってみるっていう、それは僕にとってはとにかく実験してみたい事柄だったし、かつ、それと同時にアントニーの側でもまた、僕がやっているようなタイプのサウンドにトライしてみたいという思いがあったっていう。だから、僕たちはじつは何曲もいっしょにやってみたし、アントニーの次のアルバムには僕の書いた曲もいくつか含まれることになっているんだよ。

アントニーもソウル・ミュージックをやってきたと言えますが、先行して公開された“ライダーズ”ではウォームなソウルのサンプリングが聴けますね。あなたにとってよいソウル・ミュージックというのはどういったものですか?

HM:うーん……それって言葉で説明するのはかなり難しいものだなあ……。だからまあ……要は「ソウル」のある音楽ってことじゃない? うん、ソウルだよね。ソウルがある音楽ってことだし、だからこそ、それを聴いた人間も聴いてすぐに内側で感じることができるものであるべきだし、たとえばあの曲――“ライダーズ”のサンプル箇所を僕が耳にした時だって、あのパートを5秒ほど聴いただけでもう、僕には「これだ! 100%間違いない、絶対にこのサンプルは使おう!」ってわかったっていう。っていうのも、聴いてたちどころにざわっと鳥肌が立ちはじめるとか、そういうリアクションを生むのがソウル・ミュージックなんじゃないかな。要するに、聴く人間の内面に、魂に反応を引き起こす音楽、というか(笑)。うん、僕なりに説明すればそういうことになるよ。

DJ mew - ele-king

ここ最近のbass music10選

bass musicのミックスCDリリースしましたので「ここ最近のbass music10選」です。
この10選に入っている曲もいくつか収録されているミックス"BANGER"発売中です。
気になった方はお近くのレコード屋さんなどで聴いてみて下さい!!!
取り扱い店舗などはこちらのブログからどうぞ。(随時更新中)
https://djmew.exblog.jp/21301999/

Yasuyuki Suda (inception records) - ele-king

Satomimagae - ele-king

 うっとおしい梅雨ですが、曇った空や雨降りを味方につけてしまいそうな音楽もあります。しかも、日本のお寺でそれを聴くことは、
まるでトラベルマシンです。いつも利用している電車から降りて歩くいつもの風景だというのに、そこは異次元の入口です。
 昨年、USのグルーパーに匹敵する作品をリリースしたサトミマガエが、その作品『koko』のリリース・ライヴをやる。場所は、東京は大田区大森の成田山圓能寺。
 共演者は、ele-kingではお馴染みですよ。Family Basikの加藤りま、34423=ミヨシ・フミ、そして畠山地平伊達先生オピトープです。
 そう、これ、かなかり良いメンツなんですよ。しかも、何度も書いているように、お寺でのライヴは、本当に気持ちいいです。


■開催日時場所■
2015年7月4(土曜日)
open 15:30 / Start 16:00
入場料:AD:2,500 Door 3,000
会場:大森 成田山圓能寺 Ennouji (Omori St JR)
住所:東京都大田区山王1丁目6-30
1-6-30 Sannou Ota-Ku Tokyo
 JR京浜東北線大森駅北口(山王口)より徒歩3分
ホームページ https://ennoji.or.jp/index.html
(当イベントについて圓能寺へのお問い合わせはお控え下さい)


■前売り応募方法
下記メールアドレスまでお名前、人数を書いて、メールを送ってください。
katsunagamouri@gmail.com


■Live■
Satomimagae
加藤りま (Rima Kato)
34423
Opitope + 智聲(Chisei)


■Satomimagae
Satomimagae は1989年に生まれ、2003年から現在まで作曲を続けています。東京を中心に活動中です。2012年3月に初のアルバム「awa」をリリース、11月に映画「耳をかく女」の音楽担当。2014年12月にセカンド・アルバム『koko』をWhite Paddy Mountainよりリリース。現在精力的にライヴ活動を展開中。

■加藤りま Rima Kato
2009年よりライヴ活動を始める。ローファイ・ポップを通過しフリー・フォークを経たような哀愁を帯びながらも透明感のある歌声は、ぽつぽつと進むシンプルなアレンジの楽曲によって際立って響く。2010年ASUNA 主宰のカセット・テープ・レーベル WFTTapes から2本の作品をリリース。2012年同氏による3インチCDレーベル aotoao からミニ・アルバム 『Harmless』をリリース。2015年1月、フル・アルバム『faintly lit』をflauよりリリース。2月から5月にかけて日本各地、韓国と断続的に続いたツアーを無事終える。2014年11月に実兄とのユニット Family Basikのファースト・アルバム『A False Dawn And Posthumous Notoriety』をWhite Paddy Mountainよりリリースしている。

■34423
愛媛県出身、東京都在住のサウンドアーティスト。幼少より録音機器や楽器にふれ、音創りと空想が生活の一部となる。 切り取られた日常はサウンドコラージュによって独自のリズムを構築し、電子音に混ざり合い、より空間の広がりを感じさせる。 過去7枚の作品発表し、容姿と相対する硬派なサウンドと鮮烈なヴィジュアルイメージで注目を集め、2013年7月17日に待望の世界デビュー盤"Tough and Tender"(邂逅)をリリースし話題をさらった。その後も都内の大型フェスなどの参加や、ビジュアル面を一任するアートディレクターYU­KA TANAKAとのコラボ作を発表するなど勢力的に活動を重ね、2015年2月に最新作”Masquerade”(邂逅)をリリースした。
また、今夏上映、鈴木光司原作のホラー映画「アイズ」などをはじめ様々な映画の劇伴をつとめている。

■Opitope
Opitope は2002年の秋に伊達伯欣と畠山地平により結成。伊達伯欣はソロやILLUHA、Melodiaとして活動するほか、中村としまる、KenIkeda、坂本龍一、TaylorDeupreeとも共作を重ね、世界各国のレーベルから14枚のフルアルバムをリリース。 西洋医学・東洋医学を併用する医師でもある。漢方と食事と精神の指南書『からだとこころと環境』をele-king booksより発売。畠山地平はKranky、Room40, Home Normal, Own Records, Under The Spire, hibernate, Students Of Decayなど世界中のレーベルから現在にいたるまで多数の作品を発表。デジタルとアナログの機材を駆使したサウンドが構築する美しいアンビエント・ドローン作品が特徴。ヨーロッパ、オーストラリア、アメリカ、韓国など世界中でツアーを敢行し、2013年にはレーベルWhite Paddy Mountainを設立。

Celer & Hakobune - ele-king


 音を流しはじめた瞬間に時間の流れが変わる。そんなアンビエント/ドローンがごく稀にある。まるで空気を変えてしまうような音響。そのような音を聴くと、体調も変わってくる気がする。体に効くアンビエント・ミュージック。

 この『ヴェイン・シェイプス・アンド・イントリケイト・パラペッツ (Vain Shapes and Intricate Parapets)』は、まさにそんなアンビエント/ドローンである。アルバムには長尺のトラックが2曲収録されており、ふと耳をかたむけるだけで、わずらわしい世界のあれこれを忘れさせくれるほど。聴き込むほどに耳と体に効く。そんな印象だ。
 このアルバムは、いうまでもなくセラーとハコブネという世界的なアンビエント・アーティストによる共作である。ふたりともカセットからレコード、CDまで、いくつものメディアを横断・駆使し、膨大な数のアルバムや音源を世に送り出している。どの作品も高品質で、世界のアンビエント・マニアの耳を捉えてはなさない。まさにアンビエントの「匠」ともいえるアーティストだ。
 セラーは日本在住のアメリカ人、ウィル・ロングのユニットである。2000年代中盤より活動を初めており、現在はソロ・ユニットとして活動している。ソロ作品のみならず、コラボレーション作品も多数をリリースしており、小野寺唯との『ジェネリック・シティ』がよく知られている。また、ソロの近作では2014年に〈スペック〉からリリースされた『ジグザグ(Zigzag)』を強くおすすめしたい(バンドキャンプで氏のさまざまなアルバムの試聴・購入が可能となっている。https://celer.bandcamp.com/music)。
 ハコブネこと依藤貴大も数多くのリリースを行っているが、そのどれもが大変に質が高く、アンビエント・マニアから絶大な信頼を得ており、そのリリース作品がリリースされるとマニアの争奪戦(?)が起きるほどだ(氏のバンドキャンプでも作品を試聴・購入ができる。https://hakobune.bandcamp.com/)。2014年に〈ホワイト・パディ・マウンテン〉(〈White Paddy Mountain〉)からリリースされた畠山地平とのコラボレーション・アルバム『イット・イズ、イット・イズント』も名盤であった。また6月末に、福岡のカセットレーベル〈ダエン〉よりダエンとのスプリット作品『スプリット』がリリースされるという。こちらも要注目だ。

 さて、本アルバムは、もともとは英国の〈ケミカル・テープス〉(〈Chemical Tapes〉)から2013年に限定リリースされたカセット作品である。アンビエント界の「匠」ハコブネとセラーのコラボレーション作という「音の旨み」に満ちた作品をマニアたちが見逃すはずがなく、あっという間に完売になったという。
 そして今回、その「幻」の名作を復活させたのが日本の〈ピュール・グーン〉(〈PURRE GOOHN〉)だ。〈ピュール・グーン〉はAORやハチスノイトなど、傑作のリリースを立て続けに行っているレーベルである。現在リリース数は本作をいれて4作品ほどで、そのどれもが圧倒的にすばらしい。まさに現在注目のレーベルなのだ。本作は、その〈ピュール・グーン〉が世に送り出す初のアンビエント/ドローン作品である。当然、悪いはずがない。今回のリリースにあたってリマスタリングがなされている。

 じっさい、この作品を聴きはじめたリスナーは、1曲め“マージズ・オブ・ヒステリカル・エクスヒラレーション(Merges of Hysterical Exhilaration)”の冒頭から静かに音響世界に引き込まれていくはずだ。どこか芯のある持続音。それが凍結された記憶の中に眠るイメージを刺激し、そして解凍するように静かに鳴る。かすかに揺れ動く音響が、耳に触れるように震える。ときに静寂になり、いくつもの音響が、ひとつの波のように生成と変化を繰り返す。19分28秒に及ぶ音響の持続は、ノスタルジックな記憶を再生し、同時に、世界を反転させて、時の流れを変えてしまうアンビエンスを形成している。それはどこか日本の雅楽を思わせる響きだ。
 続く2曲め“コンプリート・ポゼッション・オブ・フル・タメリティ(Complete Possession of Full Temerity)”は、“マージズ・オブ・ヒステリカル~”よりもやわらかな持続音で幕を開ける。前曲の芯のある音にくらべ、まるでサウンドのカーテンに触れているような感触。そのシルキーな持続音に、高音域の持続がレイヤーされていくさまは、まるでロマン派のアダージョのような美しさ! 1曲め“マージズ・オブ・ヒステリカル~”が時間の凍結ならば、この曲は時間が溶け出すような感覚か。
 2曲とも「硬質」と「柔らかさ」という正反対の質感でありながら、時間の流れを変えてしまうという点においては共通している。ふたりの個性はときに拮抗し、ときに溶け合う。まどろみのように。時間の融解のように。さすがとしか言いようがない。

 セラーもハコブネはすでに膨大なリリースをおこなっており、これからも多くのアンビエント/ドローンの傑作を生み出していくだろう。だが、この「時間の結晶」のような全2曲39分のアルバムは、彼らのディスコグラフィのなかでも、美しい記憶のように、大切な記憶のように、やさしく、やわらかく、そして強く輝きつづけるはずだ。その幽玄で繊細な音のつらなりは、まさに環境音楽の結晶である。未聴のアンビエント・マニアならば絶対必聴、もちろん、アンビエント・マニアならずともぜひとも聴いていただきたい作品。豊穣な音響的時間がここにある。

OUTLOOK FESTIVAL 2015 JAPAN LAUNCH PARTY - ele-king

 夏に入る直前のなんとも言えないこの時期に、恐ろしいまでに最高な低音を浴びせてくれるOutlook Festival。あのサウンド・システムは健在のまま、今年は会場を新木場から渋谷の〈VISION〉に移しての今週末開催されます。過去に開催された日本独自のラインナップやサウンドクラッシュの組み合わせを見ていると、このOutlookが数少ない「日本でベースを鳴らす意味」を教えてくれるパーティだと実感します。そして何よりもベース・ミュージックの面白さに触れることができるまたとないチャンス。デイ・イベントなので普段はクラブへ行けない10代の君もこの機会を見逃さないでほしい。
 本場クロアチアでのOutlookにも出演しているPart2Style SOUNDやGoth-Trad。UKベースの生き字引Zed Bias、香港のDJ Saiyan、若手グライム・ユニットのDouble Clapperzなど、本文には書ききれないほどの重要プレイヤーが6月14日に渋谷を低音で揺らします。それでは当日、巨大なサブ・ウーファーの前でお会いしましょう!

OUTLOOK FESTIVAL 2015 JAPAN LAUNCH PARTY

開催日時:2015.6.14 (SUN)
開催時間 : 14:00 - 22:00
料金 : ADV 4,000 / DOOR 4,800
会場:SOUND MUSEUM VISION , Tokyo
www.vision-tokyo.com
03-5728-2824(SOUND MUSEUM VISION)
OUTLOOK FESTIVAL 2015 JAPAN LAUNCH PARTY WEB
https://outlookfestival.jp

出演:
ZED BIAS (from UK)
MC FOX (from UK)
IRATION STEPPAS (from UK)
Hi5ghost (from UK)
JONNY DUB (from UK)
CHAZBO (from UK)
PART2STYLE SOUND
KURANAKA a.k.a 1945 (Zettai-Mu)
GOTH-TRAD (Deep Medi Music/Back To Chill)
LEF!!! CREW!!! & BINGO (HABANERO POSSE)
$OYCEE(CE$+tofubeats)
BROKEN HAZE
BLOOD DUNZA (from HK)
CHANGSIE
CLOCK HAZARD
Cocktail Boyz (INSIDEMAN&KENKEN)
CRZKNY
DJ Doppelgenger
DJ DON
DJ Saiyan (from HK)
DJ Shimamura + MC STONE
DJ YAS
Double Clapperz
G.RINA
hyper juice
JA-GE
Jinmenusagi
KAN TAKAHIKO
KILLA
MAXTONE Hi-Fi
MIDNIGHT ROCK
MISOИКОВ QUITAВИЧ
NUMB'N'DUB
PARKGOLF
QUARTA330
RUMI
SHORT-ARROW & Ninety-U
SKY FISH + CHUCK MORIS
TAKASHI-MEN
環ROY
TREKKIE TRAX
Tribal Connection
VAR$VS
YOCO ORGAN
ZEN-LA-ROCK

:: SOUND CLASH ::
XXX$$$(XLII&DJ SARASA) vs
DJ BAKU vs
GRIME.JP

:: SOUND SYSTEM ::
eastaudio SOUNDSYSTEM
MAXTONE Hi-Fi

:: VJ ::
MYCOPLASMA ( TREKKIE TRAX )

:: 主催 ::
PART2STYLE with ZETTAI-MU

WHAT IS OUTLOOK???

OUTLOOK FESTIVALとは? 毎年9月にクロアチアで開催される世界最大の“ベース・ミュージックとサウンドシステム・カルチャー”のフェスティバルである。UKではフェスティバル・アワードなどを受賞する人気フェスで、オーディエンスが世界各地から集まり、400組以上のアクトが登場。このフェスのローンチ・パーティは、世界各国100都市近くのクラブ/パーティと連携して開催され、その中でも本場UKまで噂が轟いているのが、日本でのOUTLOOK FESTIVAL JAPAN LAUNCH PARTYである。 

OUTLOOK FESTIVAL JAPAN LAUNCH PARTYは 日本を代表するベース・ミュージックのプレイヤーが集結し、アジア最高峰のサウンドシステムでプレイする、いわばアジア最強のベース・ミュージックの祭典である。さらに世界中で話題沸騰中の「Red Bull Culture Clash」の日本版ともいえる「OUTLOOK.JP SOUNDCLASH」も見どころのひとつであり、他のクラブ・イベントでは見れない企画が満載。日曜の昼間から開催することで幅広い年齢層が集い、今回の開催地「SOUND MUSEUM VISION」はアクセスの良い渋谷にあり気軽に遊べる“アジア最強の都市型ベース・ミュージック・フェス”だ。

PART2STYLE SOUND

世界を暴れ回るベース・ミュージック・クルー = PART2STYLE SOUND。ダンスホール・レゲエのサウンドシステム・スタイルを軸に、ジャングル、グライム、ダブステップ、トラップ等ベース・ミュージック全般を幅広くプレイ。独自のセンスでチョイスし録られたスペシャル・ダブプレートや、エクスクルーシブな楽曲によるプレイも特徴のひとつである。2011年よりは、活動の拠点を海外にひろげ、ヨーロッパにおける数々の最重要ダンスはもちろん、ビッグ・フェスティバルでの活躍がきっかけとなり、ヨーロッパ・シーンで最も注目をあびる存在となっている。海外のレーベル(JAHTARI、MAFFI、DREADSQUAD等)からのリリースやセルフ・レーベ ル〈FUTURE RAGGA〉の楽曲は、ヨーロッパ各地で話題沸騰、数々のビッグ・サウンドやラジオでヘビープレイされ、世界中のダンスホール・セールス・チャートにてトップを飾った。2013年には、日本初のGRIMEプロデューサー・オンライン・サウンドクラッシュ<War Dub Japan Cup 2013>で見事優勝を勝ち取り、国内においてもその存在感を示した。

Goth-Trad

ミキシングを自在に操り、様々なアプローチでダンス・ミュージックを生み出すサウンド・オリジネイター。2001 年、秋本"Heavy"武士とともに REBEL FAMILIA を結成。ソロとしては、2003 年に 1st ア ルバム『GOTH-TRAD I』を発表。国内でソロ活動を本格的にスタートし積極的に海外ツアーを始め る。2005 年には 2nd アルバム『The Inverted Perspective』をリリース。同年 11 月には Mad Rave と 称した新たなダンス・ミュージックへのアプローチを打ち出し、3rd アルバム『Mad Raver's Dance Floor』を発表。ヨーロッパそして国内 8 都市でリリース・ツアーを行なう。このアルバムに収録され た「Back To Chill」が、ロンドンの DUBSTEP シーンで話題となり、2007 年に UK の SKUD BEAT か ら『Back To Chill EP』を、DEEP MEDi MUSIK から、12”『Cut End / Flags』をリリース。8 カ国に及ぶ ヨーロッパツアーの中では UK 最高峰のパーティーDMZ にライブセットで出演し、地元オーディエン スを沸かした。以降、国内外からリリースを続け、ヨーロッパ、南北アメリカ、オセアニア等、世界中 でコンスタントにツアーを重ねる中、2012 年にはアルバム『New Epoch』をリリースし Fuji Rock Fes 2012 に出演。2011 年~2014 年にかけては、欧米のビッグ・ フェスにも出演してきた。2006 年より開始した自身のパーティーBack To Chill は今年で 8 年を迎え、ついにレーベルを始動する!

Zed Bias

数知れずの謎めいた変名を駆使する90年代後半を引率した、 Zed Bias aka DAVE JONESの活動履歴はそのままUKのダンスカルチャーそのものといえる。 2000年にUKチャートに送り込んだ2STEPの金字塔を打ち立てた彼の作品が 世代をこえてその重要性を再定義したROSKAにリミックスで去年再リリースまでされた。そんなアンダーグラウンドダンスミュージックの先駆者は常に動きを止めない、自宅スタジオで作られたあらゆる名義のサウンドは常にBBC1のスターDJによりプレイリストに加えられ、KODE9、ONEMAN、BENGA、Plastician、そしてSkreamによって瞬く間に広がっていった。 2002年に、より実験性をもったサウンドを目指すMaddslinky名義アルバムではWill White(Propellerheads)Kaidi Tathem,Luca Roccatagliati等をフューチャーしたDUBSTEPの礎を築くサウンドを展開、また2010年にはMr Scruff、Skream、Genna G、Omar等をゲストに”Make a Change”を発表。ジャイルスピーターソンが選ぶワールドワイド・アワードで”Further Away”が3位に入るなど、常に実験性を保ちながらも、UKチャートに食い込むようなビッグチューンを送り込むバランス感覚の優れたプロデューサーである。


Eccy - ele-king

The 10 Best Hudson Mohawke Productions

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