「K A R Y Y N」と一致するもの

Archy Marshall - ele-king

 キング・クルールは16歳でデビューしたが、ギターをかき鳴らしながら喚く皺がれて調子外れの歌声、シンプルなロックンロールを軸にブルースやフォークの香り漂うサウンドから、イアン・デューリー、トム・ウェイツといったアーティストを思い浮かべた人は多い。デューリーは身体障害者ということをさらけ出し、体を捩ってツバを吐きながらパフォーマンスした。ウェイツもアル中で浮浪者のような風体だけれど、そんなやさぐれたところが味だ。キング・クルールの歌はティーンエイジャーならではのナイフのような鋭さ、ガラスのような脆さを感じさせる一方、彼らのような汚いオッサンに通じる不格好さ、人生を諦観したような雰囲気があった。ウェイツとも親交が深かった酔いどれ詩人・作家、故チャールズ・ブコウスキーの作品を愛読するこの赤毛でソバカスだらけの青年は、その外見やサウンド、歌声からできるだけ装飾を排し、人間のいびつさやだらしなさ、弱さ、人生の不条理さを綴っているようだった。

 キング・クルールことアーチー・マーシャルは、最初はズー・キッドやDJ JDスポーツといった名義を使い、その後キング・クルール名義で2011年にEP、2013年にファースト・アルバム『月から6フィート下(6 Feet Beneath The Moon)』を発表してきた。ジーン・ヴィンセントのようなロックンロール、ジョー・ストラマー(ザ・クラッシュ)、モリッシー(ザ・スミス)のようなパンク~ポスト・パンク、ジョイ・ディヴィジョン、コクトー・ツインズのようなニュー・ウェイヴ~ダーク・ウェイヴ、ジョン・ルーリー(ラウンジ・リザーズ)、ジェイムズ・ホワイト&ザ・コントーションズのようなパンク・ジャズ~ノー・ウェイヴ、ギャングスターにJ・ディラをはじめとしたヒップホップ、ルーツ・マヌーヴァからワイリーと連なるUKのラップ~グライム、さらにチェット・ベイカー、フェラ・クティからペンギン・カフェ・オーケストラなどいろいろな音楽の影響を受け、そのダウナーなサウンドにはトリッキーのようなブリストル・サウンド、ブリアルのようなダブステップも透けて見える。『月から6フィート下』はジェイミーXX、ジェイムズ・ブレイクら同時代のアーティストの作品と同じ土俵に並べられ、「新世代のビート詩人」というような評価を得た。そして、セカンド・アルバムとなる本作では初めて本名のアーチー・マーシャルを使っている。

 本作は少し変わった体裁で、いままでもキング・クルール作品のアートワークを手掛けた実兄のジャック・マーシャルとの共同制作による208ページに及ぶアートブックが付けられ、そこに散りばめられたイラスト、写真、詩などから南ロンドンでの彼らの日常風景を垣間見ることができる。音楽はそれに対する一種のサウンド・トラックという位置づけだ(いまのところリリースはデジタル配信のみ)。SEやTVから取ってきたようなナレーションを随所に挟み、きっちりと作り込んだ楽曲集というより、いろいろな素材の断片を繋ぎ合わせたミックステープという色合いが強い。『月から6フィート下』は根本的にはシンガー・ソングライター的な資質を打ち出したロック・アルバムだったと思うが、本作のサウンドはよりダビーでエクスペリメンタルな傾向が強まり、“ダル・ボーイズ”などはディーン・ブラントの作品のようでもあるし、場面によってはアンディ・ストット、シャクルトンあたりを彷彿とさせるところもある。“アライズ・ディア・ブラザー”“アイズ・ドリフト”“エンプティ・ヴェッセルズ”のようにヒップホップ的なビート感覚がより前に出ている点も特徴だし、“ザ・シー・ライナー・MK1”のようにポスト・ダブステップ色が濃厚な曲もある。たしかに『月から6フィート下』にもそうした彼のサウンドの下地を匂わせる部分もあったが、それよりも前面に出た歌の強烈さが勝っていた印象だ。もちろん本作でもその独特の歌声は大きな要素となるが、それよりもちょっとしたノイズやSE、音響も含めたサウンド全体のコマのひとつとして表現する傾向が強い。そんな違いもあって、今回はキング・クルールではなくアーチー・マーシャルの名前で発表し、キング・クルールとしてはまた別の形でアルバムを作っていくのだろう。そう考えると、キング・クルールとはあるひとつの人格を借りて表現したプロジェクトであり、じつは本作の方がアーチーの素の部分が出ているという見方もできるが、果たしてどうだろうか。

 バンクシーが発表したグラフィティーがまた話題になった。
 それはフランスのカレイにある移民・難民キャンプの壁に登場した、スティーヴ・ジョブズが難民になってアップルのコンピュータを片手に歩いている絵だ。
 ジョブズの実の父親は政治的理由でシリアから米国に渡った移動民だった。
 で、皮肉だと指摘されているのは、現在の欧州への移民・難民の大移動をもたらせた原因の一端はi phoneに代表されるスマートフォンにあると言われていることだ。移民・難民は皆スマートフォンで情報を入手し、連絡を取り合う。

 「綺麗でクール」と観光者が言う英国に、見捨てられ、荒廃したアンダークラスの街がポケットのように存在しているように、世界にもずず暗いポケットがある。その紛争や暴力が終わらない地域の若者たちが、ネットを介して世界にはもっと豊かで平和で自分が能力を発揮できそうな場所があることを知る。そして大移動が起こる。難民になって移動しているジョブズの絵は、まるで「だよね。僕でもそうするよ」と言っているようだ。

 例えばUKの大衆音楽である。ビートルズ、セックス・ピストルズ、ザ・スミス、オアシス。英国ロックのレジェント、これぞブリティッシュ、と思われているバンドはすべてアイルランド移民の子供たちが率いたバンドである。ジョン・レノンも、ジョン・ライドンも、モリッシーも、ノエル・ギャラガーも、経済移民がいなければUKには生まれなかった。

 人道の側面から難民受け入れは大事、とか、少子高齢化社会の労働力を補うために移民が必要、とか言われているようだが、わが祖国ではもっとも肝要な点が議論されていないと思う。
 厳粛なファクトとして、移民は一国の文化や思想や経済や技術開発に国内の人間にはないDNAや考え方を吹き込んで、その国を進化させる。
 閉塞感、閉塞感と何十年も言い続けている国は、治安の良さと引き換えにスティーヴ・ジョブズやビートルズを生み出すチャンスを捨てている。

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 話は変わるが、ジュリー・バーチルという女性ライターがいる。
 17歳でNMEの名物ライターになり(『Never Mind The Bollocks』の伝説の新譜レヴューは彼女のものだ)、その後は数々の高級紙・雑誌で政治、文化、ファッションなど広範な分野でコラムを書き続け、英国の女性ライターで最高の執筆料を誇る書き手になった人でもある。
 この言いたい放題、やりたい放題のビッチ系フェミニストは、2度結婚して2人の子供をそれぞれの父親のもとに残して離婚した。「英国最低の母親」を自ら名乗るバイセクのアナキーなライターだが、根底には古き良き時代の英国のワーキングクラス・スピリットがある。というのが、わたしが2冊の拙著で書いたところだった。

 が、今年、そんなバーチルの人生に異変が起きた。
 彼女の息子が、6月に自殺したのだ。
 「英国最低の母親」は、次男ジャックの死後、The Stateman誌にコラムを発表した。
 二番目の夫との離婚は、彼と一緒に立ち上げた会社の女性社員とバーチルが恋に落ちたのが原因だったため、夫はそのことを裁判で強調し、バーチルは「母親失格者」の烙印を押されて息子の親権を夫に奪われた。「子供を産んでは捨てる女」と呼ばれてきたバーチルは、実は親権争いで戦って負けたのだった。
 が、週末や学校の休みには息子に会うことを許されていたそうで、バーチルは、故郷ブリストルの近くにあるリドに息子を連れて行ったらしい。
 英国のリドとは屋外プールのことだ。イタリアの湖畔のリゾートに憧れてもそう簡単には行けなかった時代の英国の人々がそれっぽい雰囲気を味わうために作ったレジャー施設である。1930年代には英国各地に多くのリドが作られ、戦後も労働者階級の憩いの場として愛されたが、時代の流れと共に廃れ、閉鎖が続いた。

 バンクシーが今夏ディズマランドを開いたのも、そんな老朽化したリドの一つだった。
 そこには「パンチ&ジュディー」をもじった「パンチ&ジュリー」という展示物があった。これはジュリー・バーチルに捧げられた展示物であり、バンクシーから協力を要請されたとき、彼からバーチルに送られてきたメールにはこう書かれていたそうだ。
 「あなたは、僕にブリストル出身だということを誇りに思わせた最初の人物です」

 バーチルは息子が自殺した3カ月後、ディズマランドを見に行った。
 その場所こそが、実は彼女が幼い頃の息子を連れて来ていたブリストル近郊のリドだった。
 バーチルはこう書いている。
「一つ一つアトラクションを見て回った。死にかけたおとぎ話のプリンセスからカモメに攻撃される日光浴中の人々まで。私の現代版「パンチ&ジュディー」(バンクシーはそれを「パンチ&ジュリー」と呼んでいた)では、パンチが、ソロモンの審判のグロテスク・ヴァージョンのように自分たちの赤ん坊を真っ二つにちょん切ってやろうと提案していた。本当に、そこは私の夢を現実にしたような場所だった。こうして私の人生の夏は終わった」

 バーチルは、サンデー・タイムズに寄稿した記事で、息子が十年ほど前からメンタルヘルスの問題を抱え、うつ病と薬物依存症と闘っていたということを明かした。そしてブライトンで息子と一緒に暮らしていた時期もあったことを明かし、こう書いている。
 「メンタルヘルスの問題を抱えた人間のケアは、足を骨折した人の世話をするのと同じではない。足の骨が折れた人の世話をしたからと言って、自分の足も折れることはない。だが、メンタルヘルスにはリスクが伴う。自分もそれを貰ってしまうのだ」
 「生涯を通じて彼のライフ・コーチであり、キャッシュマシーンであり、専属メイドであり続けることに私はもう耐えられなかった。ついに私は、自分自身を守るために、溺れそうな人間が自分にしがみついている指を剥ぎ取った。彼が自殺を選んだ時、私は彼にはもう何年も会っていなかった」

 バーチルは自分の息子について、7年前に「私には2人の息子がいます。1人とは交流はありませんが、もう1人とは一緒に住んでいます。ジャックといいます。彼は私のよろこびであり、アキレス腱です」とインタヴューで語ったことがあった。

 少しでも物を書く人なら知っているだろう。
 自分の生活をすべて晒して書いているように見える物書きにも、絶対に書かないことがあり、実は本人にはそれが一番大きなことだったりする。自分を本当に圧迫していることは、勇ましくキーを叩くネタにはならない。

 バーチルがそれを書けるようになったのは、それが終わったからだろう。
 彼女の人生が秋に突入したというのは、そういうことだ。

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 2015年は秋も終わり、冬が来て、もうすぐ終わろうとしている。
 わたしの世界は老いているのだということを、亡くなったあの人とこの人にも今年はクリスマスカードを書く必要はないのだと気づくとき、思い知らされる。
 それに、わたしの世界もいよいよ病んできた。が、これはたぶんわたしだけではない。今どきの先進国に生きて、メンタルヘルスの問題で溺れそうな人間がしがみついてくる指の1本や2本、引き剥がしたことのない人のほうが珍しい筈だ。

 今年、緊縮託児所(ex底辺託児所)の子供たちを見ていて痛切に思ったことがある。
 今ではマイノリティーになった地元の英国人の子供たちより、マジョリティーになった移民・難民の子供たちのほうが生き生きとして伸びやかなのだ。
 同じ貧乏人でも、移民の子のほうが精神的にも家庭環境的にも健康で、地元の貧民街の子供のように病んだ部分がなく、明るく溌剌としている。彼らは明日を信じている。

 オックスフォード大学の人口統計学の教授によれば、2066年までには英国人は英国におけるマイノリティーになっているそうだ。
 老いて、病んで、減って行く人々と、若々しく、エネルギーに溢れ、増えて行く人々。
 その数のバランスが大きく変動している時なのだから、2015年がしっちゃかめっちゃかだったのも道理である。

 2016年は「UNCERTAINTY」の年だとジャーナリストがニュース番組で予測していた。
 つまり、さらにしっちゃかめっちゃかということである。アナキー・イン・ザ・UKどころか、アナキー・イン・ザ・ワールドだ。確実とか平穏とか秩序とか、そんなものはもう戻って来ない。

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 大空をたゆたう雲よりも、わたしは地に根を張る草になりたい。

G.RINA × Dam-Funk - ele-king

アメリカ西海岸/LAが誇るモダン・ファンク・シーン最強アーティスト、デイム・ファンクが6年振りとなるフル・アルバム『Invite The Light』をリリース。2年ぶりのJAPANツアーがおこなわれ話題を呼ぶなか、5年ぶりとなるフル・アルバム『Lotta Love』を発表したG.RINAとのスペシャル対談が実現。どうぞ、お楽しみ下さい。

ベッドルームスタジオはある意味、最善の方法だと思ってる

G.RINA「Lotta Love」ダイジェストMV


G.RINA
Lotta Love

TOWER RECORDS

Amazon


Dam-Funk
Invite the Light

Stones Throw

Amazon

G.RINA(以下、RINA):G.RINAです、はじめまして。これはわたしのアルバムなんですが、話している間アルバムを聴いてもらえますか?

DaM FUNK(以下、D):もちろん、どんなスタイルなの?

RINA:ファンク、ディスコ、ヒップホップの要素があって、そしてわたしなりのソウル音楽です。

D:いいね、聴いてみよう。日本生まれなの?

RINA:はい。

D:『Lotta Love』G.RINAね。プロデューサーも日本のひとなの?

RINA:あ、これはわたし自身がプロデュースしてるんです。

D:そうか、いいね! 聴こう聴こう。リリースしてどれくらい経つの?

RINA:1ヶ月前にリリースしたんです。

D:曲も作ってるの?

RINA:はい、曲を書いてプログラミングもしています。

D:音を最大にしよう。……クールだね。演奏もしているの?

RINA:はい、バンド・メンバーと一緒に。

D:ドープ! そしてすばらしいね。

RINA:わたしはディスコ・ファンクやソウルやヒップホップが大好きでしたが、その影響を自分のやり方で消化するのにとても時間がかかりました。自分自身のファンク・ミュージックをつくるときにとくにどういう部分に気を遣っていますか?

D:ハートだよ。自分に対して誠実に、心をこめてやるってことが大事なんだ。それに尽きる。俺は夜中の12時から制作を始めるんだ。キーボードに向かって、自分のヴァイブスを探していくんだよ。……この曲いいね、なんていう曲?

RINA:「音に抱かれて」……なんて言ったらいいかな、Music Embrace Us……?

D:へえ、いいね。ところでこのアルバム一枚もらえるかな?

RINA:もちろんです。

D:ありがとう。好きだなこの曲。……このコードがいいね。間違いないコード感だ。ときどき自分の作った曲で、自分であんまり良くないって思うものもあるんだ。ハハハ。でもこれはいいね。

RINA:またまた(笑)

D:ブギー、ファンク、ディスコ、ハウス、ヒップホップいろんな要素があるね。

RINA:ありがとうございます。いろんなジャンルの音楽をチェックしてるんですよね?レコードで?

D:そうだよ、ロック、ソウル、ニューウェイヴ……あらゆる音楽だよ。ファンクだけじゃなくてね。プリファブスプラウトにもハマってる。知ってる?

RINA:知っていますよ。

D:え、ホントに知ってるの? 彼らの音楽こそ俺のお気に入りだよ!

RINA:幅広さがわかりますね!
ところで、今回のアルバムはどの曲も好きですが、なかでも「Surveilance Escape」がとくにすきです。

D:ありがとう。すべて自分のベッドルームで録音したんだよ。

RINA:あのアルバムは一発録りですか?

D:いや、たしかに普段一発録りもよくやっているんだけど、実はこのアルバムの録音には4年かかったんだ。でも全ての音をベッドルームで録音したよ。ベッドルーム・スタジオさ。

RINA:今回の収録曲は全部ベッドルーム・スタジオで録音したんですか?

D:そうだよ。

RINA:わたしもそうですよ!

D:クールだね、それがある意味で最善の方法だと考えてるよ。でも次回はスタジオに入りたいと思ってる。グランド・ピアノやストリングス、そういうものを録音したいからね。

RINA:ピアノもご自分で弾くんですね?

D:うん、生の感触を入れたいんだ。ライヴ感のある作品さ。だけどその前にアンビエントアルバムも出したいと思ってる、インターネットで公開するような形でね。いま進行中だよ。……このアルバム・ジャケットの足はきみの足? なかには顔写真もあるの?

RINA:はい、あります。

D:いいね、あとでまたゆっくりチェックさせてもらうよ。

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自分のスタイルを追い求めて自分を信じて、こだわりから手を放さなかったんだ

DâM-FunK ”We Continue” from『Invite The Light』

RINA:数年前にJzBratでライヴをされていましたね、あれが日本で最初のライヴでしたか?

D:〈ストーンズ・スロウ〉のパーティだとしたら、そうだよ。

RINA:そのときわたしも観に行ったんですが、初めてあなたのライヴを観たとき、あなたのスタイルに新しさを感じました。そしてそれにとても勇気づけられたんです。そこから、わたしも自分が影響を受けたこういった音楽の要素を自分の作曲のなかに活かす方法をじっくり考えるようになったんです。

D:それはうれしいね。そしてそれはうまくいっていると思うよ。その調子でがんばって良い曲を作ってほしいね。

RINA:ありがとうございます。あなたはモダン・ファンクのシーンの開拓者として大きな存在で、同時にとてもユニークな存在でもあると思うんです。アメリカにはおそらく良いプレイヤーはたくさんいると思うんですが、そんななかで自分が他のプレイヤーたちと異なっていたのはどんな部分だと感じていますか?

D:俺は本当にやりたいことだけをやってきた。自分のスタイルを追い求めて自分を信じて、こだわりから手を放さなかったんだ。いろんなスタイルに手を出さずに、なんでも屋みたいにならないようにね。ひたすら自分に正直でいたことで、サヴァイヴしてこれたんだと思う。

RINA:普段はいろんな音楽を聴くんですよね。それでも自分で作るものはファンクにこだわってきた。

D:そう、なぜならこどもの頃からそういった音楽に助けられてきたからさ。プリンス、ジョージ・クリントン、エムトゥーメイ、チェンジ、スレイヴからルースエンズ……そういった音楽に助けられてきたし、良い思い出が沢山あるんだ。いろんな音楽がすきだけど、そのなかでもファンクは俺の血液みたいなものなんだよ。

RINA:わたしにとっても好きなアーティストたちばかりです。とくに影響を受けたといえるのは? プリンスですか?

D:そうだね、ただし1989年まで。それ以降はそうでもないね。サルソウル、プレリュード、影響を受けたレーベルもたくさんあるね。

RINA:では音楽に限らなければ?

D:人生に影響を与えているもの? 夕陽、うつくしい夕陽を眺めることだよ。

RINA:ロマンティックですね!

D:それ以外では年代ものの車で近所をドライヴすること、ファッションそしてインターネットだよ。

RINA:インターネットといえば、あなたのインスタグラムをフォローしていますが、ポジティヴなフレーズやメッセージを写真とあわせて発信していますね。ほぼ毎日されているので、どんな考えでそうしているのか聞いてみたかったんです。

D:そうだね、それはできるだけやりたいことなんだ。俺は他人にしてもらって良かったことを、自分もしていきたいと思ってる。スマートフォンを眺めてたくさんの情報に触れるとき、せっかくなら誰かをインスパイアするようなことばを、諦めるなっていうようなメッセージを発していきたい。

RINA:そういうことに対して強い信念があるのを感じます。

D:俺たちはただの人間だろう、自分が発するメッセージが誰かをひどく傷つけたり人生を壊してしまうことさえある、そんなことをするかわりに、ポジティヴな影響を与えたいんだ。そしてその良いエネルギーがきっとまた自分に返ってくる。もちろん俺だってパーフェクトじゃないし、馬鹿なこともするさ。だけどお互いに影響を与えあう時、良いエネルギーこそが必要とされてると俺は感じてるんだよ。

RINA:その通りですね、そしてそれはあなたの音楽の中にもあらわれていると思います。

D:ありがとう。そうだといいね。

RINA:最後に、短いことばで自分のことをあらわすとしたら?

D:ファンクスタだね。それと同時に良い人生を送りたいと思ってるひとりの人間さ。

RINA:今日はお話しできてよかったです、ありがとうございました。


interview with JUZU a.k.a. MOOCHY - ele-king

 新しい文化の交差点にぼくたちはいた。どんなことでも可能だった。睡眠など問題外。渋谷は世界の中心だった。ぼくたちは自分たちのやっていることに自信を持ちたかった。だが、はじまったばかりでは、どこにそれを実証する手立てはない。メディアもないから、自分たちで作るしかなかった。書く人もいないから自分たちで書くしかなかった。書くことは自分の混乱を整理するための作業だ。集中力なきものにモノは書けない。たとえ間近に爆音が鳴っていようとも、集中するのだ。

 狂気の時代の重要人物のひとり。わかるだろう、革ジャンに大型バイクという、典型的なロッカーズ・スタイルの若者がジャングルをかける……となれば、若さゆえの暴走である。しかもこやつときたら身長180は超えているし、体格もがっちりしている。前にも書いたように、初めてムーチーと会ったのは、渋谷のクラブの閉店後の明け方だった。96年? たしかそのくらいだ。閉店後の店の前の通りで、名前も知らない連中と喋っていた。しばらくすると、その晩のDJだったムーチーも店から出てきた。で、お互い挨拶してひとしきり喋った後、ヤツは大型バイクに乗って消えた。まだ20歳ぐらいだったな。
 それ以来、ムーチーは後ろを振り返らずに走っている。ムーチーからJUZUへと名前も変わり、JUZU a.k.a. MOOCHYとなった。


JUZU a.k.a. MOOCHY
COUNTERPOINT X

CROSSPOINT

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JUZU a.k.a. MOOCHY
COUNTERPOINT Y

CROSSPOINT

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WorldDeep HouseDowntempoDub

 JUZU a.k.a. MOOCHYの新しいアルバム──通算4枚目となるソロ・アルバムは、2枚同時発売の大作である。それぞれ『COUNTERPOINT X』と『COUNTERPOINT Y』という。集大成と呼ぶに相応しい2枚だ。それは、いろんな文化のフュージョン(結合体)であり、2015年の初頭に出たヴァクラのアルバムとも共通したユニバーサルな感覚がある。古代と現代を往復しながら、ジョー・クラウゼルの〈スピリチュアル・ライフ〉のように、トライバルで、ときに瞑想的。スピリチュアルで、ときにポリティカル(反原発のステッカーを貼って逮捕なんてこともあった)。だが、基本はオプティミスティックなエスノ・ハウス。
 
 まあ好きなようにやってくれといった感じである。ムーチーは、90年代にぼくが追っかけたDJのひとりだ。彼は、ほかの何人かの肝の据わったDJがそうであるように、いまも彼自身の道をひたむきに突き進んでいる。この時代、ある意味リスキーな生き方だろう。渋谷は浪費文化の中心となって、若者が住める場所でなくなって久しい。ムーチーは一時期福岡に移住したり、あるいはまた東京に舞い戻ってきたりと、やはり何人かのDJがそうであるように、漂流の人生を歩んでいる。いろいろあったのだろうけれど、それらの経験が音楽に反映され、いまも前向きさを失わずに走っていることが、ぼくには嬉しい。


自分にとってのワールド・ミュージックとは、先祖から伝わるもので、もしくはその楽器や演奏法に、現在の西欧楽器中心的な考えとは違う発想で演奏されている音楽をワールド・ミュージックとして思っています。

2枚組で、『COUNTERPOINT X』、『COUNTERPOINT Y』というタイトルで出した理由を教えて下さい。

Juzu a.k.a. Moochy(以下、JAKAM):2枚組、厳密には2枚同時発売だけど、そうなった理由は今年1月から東洋化成というアジア唯一のレコード・プレス会社とタッグを組んで毎月1月11日、2月11日、3月11日……と、それを9ヶ月続けてリリースした流れがあって。アナログ9枚に収録された18曲をリリースする上で、曲を短くして1枚に収めるより、ある程度原曲に近い形でCDというフォーマットでみんなに聴いてもらいたいという考えから、2枚になりました。また、「COUNTERPOINT EP」というタイトルでシングル・レコードを出していたのも、『COUNTERPOINT』というタイトルでのアルバムをリリースする計画が5年以上前からあったから。逆説的ですけどね……。

しかし、スケールの大きなアルバムだね。

JAKAM:まあ(笑)。

制作には何年かかったんですか?

JAKAM:前作『MOVEMENTS』が仕上がるときには、すでに『COUNTERPOINT』というタイトルが思い浮かんでいましたね。なので、ある意味、5年以上前からはじまっているってことになる。具体的に言うと、その『MOVEMENTS』というアルバムに収録されていた“AL ATTLAL”──アラビア語で「廃墟」という意味ですが──という曲があって、それが今作に繋がるガイダンス(予兆)でしたよ。

廃墟?

JAKAM:そう、この曲は、アルジェリアの女性ヴィジュアル・アーティストが名古屋のトリエンナーレにて展示する作品のBGMを作るということで、DJ /トラックメーカーを探していて、自分が選ばれたことからはじまってるんです。そのBGMには、エジプトの、アラブの大女性歌手で、ウーム・クルスームの“AL ATTLAL”という人の曲の一部を使って、それをリミックス(解体/再構築)してほしい、という要望だったんです。ちなみに、その部屋にはアラビア語で「愛」と描いてありましたね。

ウーム・クル……?

JAKAM:ウーム・クルスーム。自分も長くレコードやCDなど様々な音源を聴いてきたつもりだったけど、ウーム・クルスームという人をまったく知らず……、驚愕でしたね。音楽的にも、人生というかメンタル的にも衝撃を受け、俄然アラブ音楽、中東の音楽に惹かれていったのは間違いない!
 で、その流れから西アフリカセネガルから日本に来て20年以上のパーカッショニスト、ラティールシー、そしてアラブ・ヴァイオリン奏者、及川景子と繋がっていったのは、今回のアルバムに多大な影響をおよぼしています。
 この流れがあって、2011年2月、単独でセナガルに乗り込み、ラティールの協力のもとセネガルでのレコーディングをはじめるんです。で、その経由地点であったトルコ、イスタンブールでBABA ZULAの前座DJをしたこともあって、先日来日も果たし、今回のアルバムにも演奏が収録されているYAKAZA ENSEMBLEのメンバーとも繋がる。かなり大きな影響がある時期でしたね。あと……このツアーから戻って来て1週間後に3.11が起きたんですけどね。

もうちょっと具体的に、そのウーム・クルスームのどんなところに衝撃を受けたんですか?

JAKAM:まず、彼女のYoutubeと音源が送られて来て、見て聴いて思ったのは、そのドープなヴァイブとその華やかさ、美しさですね。観客の熱狂ぶりも真剣に音楽を聴いているからこその盛り上がりで、いかにこの音楽が高度で、なおかつ大衆的かが伝わった。年配のおじさんたちの盛り上がり方がハンパないす(笑)。
 その後、及川景子さんと「アラブ音楽講座」をやることになり、いろいろと教えてもらい、情報もつかみ、また、現地で、とんでもないレベルの演奏家たちと触れ合うことになりますが、この映像は「アラブ音楽の深淵な響きを聴いた!」という最初の衝撃です。
 ちなみに個人的にはアラブという場所がたまたま? 古い文化がもの凄く多く残っている地域で、「そこに漂う古代の香り」、というのが厳密には自分にとってのアラブ文化の魅力ですね。またイスラームとは無関係ではないので、その漂う精神性、というのも感じていたのかもしれない。ちなみにウーム・クルスームは幼少からコーランを美しく詠む少女として有名だったというキャリアもあります。

なるほど。しかし、バイク乗ってジャングルかけてた20年前といまとでは、自分のなかの何が変わったと思う?

JAKAM:その頃は本当にろくでもない奴だったから(笑)。いまは少しは……まあ親にもなり……かろうじて(笑)、で、未来の心配をするようになったことが変わったことかもしれないですね。あの頃はかっこつけていたのかもしれないけど、若く死んで上等! みたいなノリだったと思いますよ。自分ひとりのことしか考えていなかったので、恐怖はあまりなかったんです。未来に関しても、自分が死んだ後の未来まで考えるようになったのは大きな違いなのかなとも思います。
 音楽的な好奇心はいまと変わらない気はしますけど……ちなみに、当時もジャングルだけはなく、様々なシチュエーションで様々な音楽をかけていましたし、聴きまくっていましたよ。週5回DJとかもよくあることでしたので(笑)。

前の取材のときもそんな話をしているんだけど、あらためて、ムーチーがワールド・ミュージックに興味をもった経緯について教えて下さい。最初は何がきっかけだったんですか?

JAKAM:今回の制作をする上でも、前作『MOVEMENTS』に収録された“R.O.K.”という曲でも使われた三味線の音は、ある意味逆説的にはワールド・ミュージックの前兆だったと思いますね。ただ、ワールド・ミュージックという言葉は、単純に海外の、世界の音楽ということじゃないでしょう。それでは、ジェイ・Zもスティーヴィー・ワンダーもFAR EAST MOVEMENTもワールド・ミュージックになってしまうし。現代の言い方でどう言われるかわからないけど、あらためてそのワールド・ミュージックという定義は再定義する必要があると感じていますね。
 個人的意見だけど、自分にとってのワールド・ミュージックとは、先祖から伝わるもので、もしくはその楽器や演奏法に、現在の西欧楽器中心的な考えとは違う発想で演奏されている音楽をワールド・ミュージックとして思っています。まあ、コンゴでデスメタルをやっているバンドはワールド・ミュージックとは言いがたいし(笑)。メキシコのヒップホップをワールド・ミュージックともあまり言わないでしょ。第三世界でやっていれば──この表現もBRICSとか登場している時代には陳腐ですが──ワールド・ミュージックとも言えない時代になっていますよね。
 自分はあらゆる場所の、あらゆる時代の音楽に興味はありますが、とくに古代からある音、単純にいえば、そこらじゃもう聴けなくなった音に深い関心があるんですよ。そういう意味で、自分の祖母が実家で自分の姉妹や親戚と集まって4人で花札をやって三味線を弾いて歌っていた光景や音は自分のなかでのワールド・ミュージックということになるんですよね。
 またちなみにその祖母は血は繋がっていませんが、多大な影響をおよぼした他人でもあり、2年前に亡くなりましたが、いまも先祖と思い、感謝しています。その三味線も遺品として頂きました(笑)。

今回のような、多様な文化のとの混合にどのような可能性を見ているのでしょうか?

JAKAM:客観的というより主観的に、自分個人の欲求として「誰も聴いたことがないのに懐かしい音楽」を感じたい、作りたい、作ることに関わりたいと思ってますけど。余談だけど、今回のアルバムにも使わせてもらい、ヴァイナル「COUNTERPOINT EP.1」にも作品を提供してくれた鈴木ヒラク君とうちの自宅スタジオで以前話したときに、彼が面白いことを言ってたな。彼は「誰も観たことのない、人間が描いたとは思えないような絵を描きたい」と言っていたんだけど、巡り巡るとその発想はお互い行き着くところは近いのかもしれないね、と話していたんですよ。アートとは何なのか、とまではここで言及できるわけではないけれど、誰もが面倒だったり、危険だったりする様な領域まで肉体的にも精神的にも追い込まないと、それ相応の報酬は受け取れないのかなとも思いますね(笑)。
 なので、可能性があるとかないとかいうよりは、これは欲求です。情熱です(笑)。そこには打算はないです。

ある意味で、言ってしまえば民族音楽をミックスボードに繋いでミキシングしていくような、いまのムーチーのスタイルを形成するにいたった、もっとも大きなきっかけは何だったんでしょうか?

JAKAM:スタイルというと広義だと思うけど……、音楽活動的にもまずは友人関係があってできるもので、その人間には相当恵まれていると思う。自分自身はガサツでその関係をすぐ壊しそうになりますが(笑)。ともかく、人の繋がりで音楽というフィールドができ上がりますし、それを意識したかしないか自分でも定かではないけど、JUZU(数珠)やNXS(連鎖)など連なるものに意識はあった。答えにはなっていないけど、そういう考えや想いのなかで意識的に生きるようになったのは、21、22歳くらいだったかな……。
 当時は学生を辞めたばかりで、音楽である程度稼げるようにはなっていたけど、まだギターアンプのローンもほとんど支払っていない状態で(笑)。でも、やっていたバンドが解散して、DJが忙しくなって、レコード会社の人や業界の人ともいろいろ会ったり、ただ楽しむためにやっていたことが仕事になりはじめてきて、バンドではなくひとりで金を稼いで、自分の評価があくまで個人に向けられたとき、孤独も感じました。
 そういうこともあって、また人と一緒に音楽をやりたいと思って、その当時、新宿にあったリキッドルームの山根さんが「(DJではなく)バンド/ライヴでやってほしい」とオファーがあったか、勝手にやらせてもらったのかも定かではありませんが(笑)、たしか、90年代半ばのマッド・プロフェッサーの来日のときでしたね。その頃くらいから積極的に民族音楽系の楽器を扱うミュージシャンたちと触れ合うようになったんです。民族音楽は好きで聴きまくっていましたし、DJでもかけまくっていましたが、実際に音楽を作っていくという起源はそこかもしれない。初めて思い返しました(笑)! ありがとうございます(笑)。

けっこう、じゃあ、もう、本当に初期からだったんだね。

JAKAM:そうっすね。

クラブ・ミュージックというより、音楽とともに生きたいという想いは募るばかりでございます(笑)。それはクラブでもいいですし、家でも野外でもいいですし、国内でも海外でも、時間や空間を超えて、永遠に繋がる瞬間に出くわしたいですね。スピ系として(笑)。

ジョー・クラウゼルの〈スピリチュアル・ライフ〉と比較されるのは嫌?

JAKAM:嫌ではないですよ! 先日ニューヨークのブルックリンで、9.11にホッタテLIVEを敢行したんですけど、数少ないお客さんとしてジョーも来てくれて、レコード買っていってくれました(笑)。兄貴というよりニューヨークの優しいお兄ちゃんという感じです(笑)。ジャンルで聴いているわけじゃないし、ハウス好きの人ほど〈スピリチュアル・ライフ〉を聴き込んではいませんが、彼の音楽と出会う前からトライバルでプリミティヴ、原始的なものに惹かれていたので、共感もリスペクトもしています。でも、影響は受けていないような気がする……。まあ、他にもいろんな音楽を聴き過ぎて、自分でもごまかされているだけかもしれないだけで、影響は受けているのかもしれませんね(笑)。

台湾、韓国、中国など、日本から比較的距離の近い外国へのアプローチに関してはどのように考えていますか?

JAKAM:まさしくおっしゃる通り、このエリアに次作は行って、民族楽器やオリジナルなユニークな演奏者やアーティストと出会って、「誰も聴いたことがないのに懐かしい音楽」を作ってみたいと数年前から思っていましたね。前作『MOVEMENTS』のなかの“時の河”という曲で、最後にテロップででる「ASIA MUST UNITE」という言葉は自分の言葉です。この曲ではベトナムで録音された民族楽器がフィーチャーされていますが、
そのテーマは今作にも確実にありますし、より濃いものを作ってみたいです。ちなみにボブ・マーリーの「AFRICA MUST UNITE」から文字の並びは影響受けています(笑)。

アジアって、でも広いからね。DJを辞めようと思ったことはない?

JAKAM:DJになりたくてなったわけではなく、音楽が好きで、レコードを人並み以上に買っていた流れで地元の先輩からDJを誘われ、味をしめて(笑)。自らパーティをやって、仲間たちとクラブを作り、それがいつの間にかお金をもらえるようになって……。いまでも任務としては常にベストを尽くしDJしてきているけど、好きな音楽をみんなで共有したいという極自然なことが発端なので、仕事という概念でもなく、辞めるというのは人生を辞めるに等しいかもしれませんね。

子供が生まれて何か変わったことはある?

JAKAM:まあ、いままで話しように、多いに変わりました。音楽的な志向には全く影響されていませんけど。むしろ洗脳しようと常に企んでいます(笑)。が、ファレルやEDMにまだ太刀打ち出来ていないようです(笑)。中2の長男は、30G以上のEDM系? そのmp3データを最近だいぶ減らしたと言っていますので……相当掘っているらしいですね。なので、10代前半の子、いまはYoutube世代なので全世界NWO的に(笑)、まあ一緒な気がしますが、聴く最新音楽をチェックさせてもらうのは、子供がいなかったらちゃんと聴けるチャンスがなかったかもしれないので、良かったですよ。

30G以上のEDM系って……うわ、すごいね(笑)。正直言って、俺は子供が生まれて夜遊びしなくなったのね。夜遊びは金かかるし、妻子が起きるころに酒臭いカラダで朝帰りは心情的にできないし……、あと、はっきり言って、中年になると朝まで踊るほどの体力がなくなる。俺、毎朝7時前には起きている人間だから(笑)。で、ナイトライフは永遠の楽しみではなく、人生のある時期に限られた楽しみだと思ったんだよね。じゃあ、ハウスやテクノを聴かないかと言えばそんなことなくて、いまでも大好きだし、家で聴いているんですよ。ムーチーはDJだからそんなことないけど、クラブ・ミュージックとはどういう風に付き合っているの?

JAKAM:まず自分が出演するか、知り合いの店でしかあまり呑まないので、酒に金はあまり使っていないです。野田さんガブ呑みしそうだから(笑)。まあ、その意見に同感するところもあるのですが、個人的に札幌のPrecious Hall経由でNYのデヴィッド・マンギューソーのLOFTに関わっているので、70過ぎまではダンス出来る体力を絶対保持したいと思っています(笑)。好きな音楽をみんなで共有して楽しむ、というのは無愛想に見えて(笑)、本当に好きなんです。LOFTで気づいたというか、感じたのは50年以上前の音楽でも良いサウンドシステムで鳴らせば、永遠の響きがあるのだと体感しました。自分が死んだ後でも、そのレコードがその時代の人を踊らせたり、感動させれることは、本当に素敵なことだと思いますよ。
 クラブ・ミュージックというより、音楽とともに生きたいという想いは募るばかりでございます(笑)。それはクラブでも良いですし、家でも野外でも良いですし、国内でも海外でも、時間や空間を超えて、永遠に繋がる瞬間に出くわしたいですね。スピ系として(笑)。

スピ系って、はははは。じゃあ、今後の予定について教えて下さい。

JAKAM:今年の年末には2001年に起動し、2012年にパワーアップして還って来た(笑)。ONENESS CAMPの室内版ONENESS MEETING@UNITが2015年12月27日の日曜日にあり、そこでは先述したラティールや及川景子を交え、今回のアルバムにも収録された楽曲を中心にライヴをします。もちろんただ曲をなぞるだけではなく、マカームというか、その場で産まれるグルーブやメロディーも体感してもらえると思うので是非足を運んでもらえたら幸いです。
 作品的には自分が持っている2つのレーベルのうちのひとつ、〈CROSSPOINT〉と双璧を成しながらも……地味なレーベルですが(笑)、もうひとつの〈Proception〉からも自分のソロも含め、先ほどのワールド・ミュージック的な考えとは違う音楽や作品を出していきたいと思います。ちなみに〈Proception〉は造語で「Process of perception(知覚の進行)」を繋げた語になります。アジアをテーマにした作品も出来るだけ早く取りかかれたらとも思ってますよ。

!!!!!!Release Party!!!!
リリースパーティー
MOVEMENTS ONENESS MEETING

@代官山UNIT東京
2015年12月27日日曜日
https://onenesscamp.org/




Life Force Radio Observatory - ele-king

2015 Chart
(selected by Ginji, MaNA, Cossato, pAradice, INNA)

Season's Greeting and Best Wishes for the New Year!

Upcoming Party
2016/1/23
Life Force Radio Observatory @ Saloon
Live:
YPY (goat/bonanzas/birdfriend/nous)
Cossato
DJ:
pAradice/MaNA/INNA/Ginji
Sound Design:
ASADA
Visual Lighting:
mixer
22:00-
with flyer¥1500 / door¥2000
https://lifeforce.jp
https://soundcloud.com/lifeforce


MARY (MOTHER) - ele-king

MY WINTER CLASSICS・長年経っても響く音

絢爛たる手塚治虫“トリビュート”展 - ele-king

 水木しげるが93歳まで生きたと思うと、手塚治虫の享年60歳はやはり若過ぎた。こんなことは言ってもしょうがないんだろうけれど、地下鉄サリン事件や同時多発テロを目の当たりにしたら、手塚治虫はどんな作品を描いたんだろうといったようなことをつい考えてしまう。なんだかんだいって魅力的なアウトローが描けた作家なので、どんな主人公を想定するかだけでも興味があるというか。

 吉祥寺リベストギャラリー「創」で17日から「手塚治虫文化祭~キチムシ '15」が開催されている(~23日まで)。手塚治虫の人気キャラを使ってマンガ家の皆さんが好き勝手な創作物を生み出し、展示・即売するというもの。オープニングからギューギューになるほど人が詰め掛けたそうで、僕が行った夕方ごろもまだ人が多く、誰の作品が出るかわからないガチャガチャはすでに売り切れ状態だった。場所はついこの間までバウシアターがあった先を左に曲がったところ。
詳しくは→https://www.chatterbox.tips/#!kichimushi/xh9pi

 最初に目に飛び込んできたのは西野直樹によるヒョウタンツギのTシャツ。なかなか凝ったデザインで種類もいくつかあった。その隣が上條淳士による「奇子とメルモ」のTシャツ。エッチの総取りみたいなコンセプトだけど、仕上がりはシンプルでこれもいい感じ。いちばん奥にもTシャツが吊るされていたので寄ってみると江口寿史である。1点は江口タッチの「ばるばら」で、まー、なるほど。もう1点は「太平洋Xポイント」って……誰もわからないでしょう~。ここから読み取れるのは江口寿史が元気だということだな。よかった、よかった。島本和彦と一本木蛮はシールドされていたので確認できませんでしたが、それぞれ「マグマ大使」と「ピノコ」の二次創作マンガかな? 女子高生のアトム子ちゃんが吉祥寺をあちこち案内している連作もどこかで見た絵だなーと思ったものの、これだけ作者名が記してない。ギャラリーの人に訊いてみたら青木俊直でした。なんで名前を隠すのか!

 基本的には同ギャラリーで個展をやったことのある作家が中心だとのことでしたが、謎の版画家・百世も作品を並べていました(あの人の娘さんですが、シークレットです。う~、言いたい)。鉄腕アトムやブラックジャックがちょっと可愛くなり過ぎでポストカード化しているほか、やはり、あの人の娘さんですよ、オカリナとか楽器のミニチュアまでありました(受注生産だそうです)。ほかに、いしかわじゅん、キタイシンイチロウ(DEVILROBOTS)、きはらようすけ、桐木憲一、Storm Machine Graphics、寺田克也、TOUMA、古屋兎丸、山田雨月、横田守と続きます。場内には「りぼんの騎士」のコスプレさんも歩いてました。値段はついていなかった。

 主催の手塚るみ子を掴まえて、なんかコメントでももらおうと思ったのですが、次から次へと取材が入っていてぜんぜん相手にしてもらえませんでした。唯一、訊けたのはele-kingで「おしっことうんこ」とか書いてる伊達伯欣は漢方の薬を間違って出したので出し直すとか言ってたのに、「先生は今日、ライヴでつかまらないです」と言われたとか。そんなスゴいゴシップはブレイディみかこでも掴んでないじゃないですか。ぶははは(©坂本麻里子)。これで、じつは伊達伯欣が医師免許を持っていなかったということになれば魅力的なアウトローの誕生なんだけど、どうもあいつはそこはちゃっかりやってそうだからなー。やはり手塚治虫の早世は痛いとしかいえない。
 ちなみに戸川純が呑んでいた漢方の薬には手塚キャラが印刷されていましたね。さて、この話はどことどこをつなげて終わりにすればいいんだろう。「みんな見に来てね」かな。みんな見に来てね。

◆開催日時
2015年12月17日(木)~23日(水・祝) 12時~18時(最終日は17時まで)
◆開催会場  
吉祥寺リベストギャラリー創  武蔵野市吉祥寺東町1-1-19  https://www.libestgallery.jp
◆出展者   
青木俊直・いしかわじゅん・一本木蛮・江口寿史・上條淳士・キタイシンイチロ ウ(DEVILROBOTS)・きはらようすけ・桐木憲一・島本和 彦・Storm Machine Graphics・寺田克也・TOUMA・西野直樹・古屋兎丸・百世・山田雨月・横田守
◆出展品   
それぞれ出展者が思いいれのある手塚作品をモチーフに、オリジナルに創作したトリビュート作品やコラボレーション商品。イラストやその複製原画をはじめ、ポストカード、Tシャツ、フィギュア、コミック冊子、その他雑貨など。どれも会期中のみ販売の限定品。(一部受注販売)
◆主催    
アシッドキューティプランニング 手塚るみ子
◆協力    
手塚プロダクション / CHATTERBOX inc / 株式会社タックデザイン
◆特設サイト 
https://www.chatterbox.tips/#!kichimushi/xh9pi
◆お問合わせ
リベストギャラリー創 0422-22-6615 


interview with Keiichi Suzuki - ele-king

 1976年の結成から、2011年に無期限の活動休止を宣言するまで、35年間の長きにわたって、日本のロック史上に前人未到のフライト・レコード(飛行記録)を伸ばしつづけてきた稀有なバンド、ムーンライダーズ。2000年代後半から2010年代前半にかけて、相対性理論、cero、カメラ=万年筆、スカート、アーバンギャルドなど、ムーンライダーズからの影響を感じる新世代の台頭がめざましいなか、2013年12月17日に、前身となるはちみつぱい以来のオリジナル・メンバー、ドラマーのかしぶち哲郎が63歳で逝去し、バンドの歴史にひとつのピリオドがうたれた(※1年後にリリースされた『かしぶち哲郎トリビュート・アルバム~ハバロフスクを訪ねて』に長男で同じくドラマーの橿渕太久磨が参加、15年12月20日に開催される鈴木慶一45周年記念ライヴにもドラマーとしての参加が予定されている)。残る5人のメンバーは個々の活動を展開しているが、なかでも鈴木慶一は、曽我部恵一をプロデューサーに迎えて、08年から11年にかけて発表したコンセプチュアルなソロ・アルバム三部作がいずれも高い評価を受ける一方、高橋幸宏とのザ・ビートニクス、KERA とのNo Lie-Sense、二十代から六十代まで世代を超えてメンバーを集め新たに結成したControversial Sparkといったユニットやバンドでも立て続けに新作をリリース、そのほか映画や舞台の音楽監督等々、とても還暦を過ぎたとは思えない縦横無尽の疾走に目を見張らされる。


鈴木慶一
Records and Memories

Pヴァイン

Pops

Tower HMV Amazon iTunes


鈴木慶一
謀らずも朝夕45年

Pヴァイン

Pops

Tower HMV Amazon

 そんな充実ぶりに拍車をかけるように、今年でミュージシャン活動45周年を迎えた鈴木慶一の軌跡をたどるCD3枚組のアンソロジーとアーティスト・ブック、そして91年の『SUZUKI白書』以来24年ぶりとなる完全セルフ・プロデュースによる最新ソロ・アルバムが同時にリリースされるという報せが届いた。

 2曲のインストを含む全13曲の新作は、『Records and Memories』というタイトルが象徴するように、彼が生きてきた半生の「記録」と「記憶」の断片が渾然一体となって絡み合い、響き合う劇的なアルバムだ。豊富な人生経験から滲み出るタフなメッセージや箴言にうたれながら、聴き込めば聴き込むほどに、これまで見えなかったことが見えてくるような、不思議な覚醒におそわれる。

 「嫌われてるか 嫌ってるのか わかった時が かつて 一度もないのかい/そんな事なら 別れるべきで 恋人でいるような場所はそこにはない/おおおおお 憎んでみたらどうだ それが出来るなら きっと 愛し 愛されて いるはずさ/人の命は短くて 憎み 憎まれ 愛し 愛され 手を握り 手を離され 抱きしめて ふりほどき 大事に時を 流してくさ」(“Livingとは Lovingとは”)

 高橋幸宏と共作したほろ苦い名曲“LEFT BANK(左岸)”と同様に、鈴木慶一の“Livingとは Lovingとは”は、聴く者の状況によっては「人生の一曲」になりうる。少なくとも、この歌に心を楽にしてもらった者が、ここにひとりいることはたしかなのだから。

■鈴木慶一 すずき・けいいち
1951年8月28日 東京生まれ。
1970年、あがた森魚と出会い本格的に音楽活動を開始。以来、様々なセッションに参加し1971年には"はちみつぱい"を結成、独自の活動を展開するも、アルバム『センチメンタル通り』をリリース後、解散。“はちみつぱい”を母体にムーンライダーズを結成し1976年にアルバム『火の玉ボーイ』でデビューした。ムーンライダーズでの活動の傍ら高橋幸宏とのユニット“ビートニクス”でもアルバムをリリース。また膨大なCM音楽の作編曲、演歌からアイドルまで幅広い楽曲提供、プロデュース、またゲーム音楽などを作曲し日本の音楽界に大きな影響を与えてきた。2012年、ソロアルバム『ヘイト船長とラヴ航海士』が第50回日本レコード大賞優秀アルバム賞を受賞。映画音楽では、北野武監督の『座頭市』で日本アカデミー賞最優秀音楽賞、シッチェス・カタロニア国際映画祭で最優秀音楽賞を受賞した。
2015年、ミュージシャン生活45周年の節目にソロアルバム『Records and Memories』をPヴァインよりリリース。

2011年にムーンライダーズが活動を休止したことによって、あれと違うものを作ろうという「あれ」がなくなっちゃうわけですよ。すべて過去のものになった。これでいわゆる“アフター・ムーンライダーズ”の動きがはじまる。

この度、完全セルフ・プロデュースによるニュー・アルバム『Records and Memories』とミュージシャン活動45周年を記念したCD3枚組のアンソロジー『謀らずも朝夕45年 Keiichi Suzuki chronicle 1970-2015』、そして来年2016年にはこれまでのキャリアを俯瞰した書籍も刊行されますね。

鈴木:書籍については、インタヴューを受けて話をしました。『謀らずも朝夕45年』の方の楽曲は3人で選曲しています。ひとりだとこういう場合はどうにも量が多すぎるからね。それからアンソロジストの目がないと、そういうものはなかなかできないと。本もそういう感じですよね。

最新のソロ・アルバムと併せて、45年間を振り返るレトロスペクティヴも音と活字の両方でやるという、その3つがワンセットということですね。それらについてうかがっていければと思います。まず最初に、45周年おめでとうございます。“45周年”といえば、今年8月に松本隆さんが作詞活動45周年を記念する『風街レジェンド2015』というイヴェントを開催されたりして、1970年前後の日本のロック創世記からその一員として活動をはじめた開拓者の方々が、大きなアニヴァーサリーの周期に差しかかったということだと思うのですが。

鈴木:45周年って妙な区切りではあるんですけど。でも歳を取ると5年間でなにが起きるかわからないので、「いま」が重要なんだよね。待っていられないんだ。だから5年区切りなんじゃないんですかね。

同じことを松本さんもたしかおっしゃっていましたよね。50周年はできるかどうかわからないから、と。

鈴木:40周年ができても、50周年のときは何が起きるかわからないからね。それがリアルな問題としてバーンとあるから考えちゃいますよね。結果的に45周年になっちゃいましたけど、根底にあるのは今度出るソロ・アルバムなんですよ。ソロ・アルバムを久々に作っていて、そのリリースがわりとずるずる延びて、考えてみれば「今年は45周年だな」ということになった。それがあって、こういう本もくっついているということですね。

曽我部(恵一)くんにプロデュースを任せた近年の3部作『ヘイト船長とラヴ航海士』(08年)、『シーシック・セイラーズ登場!』(09年)、『ヘイト船長回顧録』(11年)がまだ記憶に新しいのですが、あれは慶一さんのなかでは完全なるソロ作品というより、あくまでユニットの産物ですか?

鈴木:あれはユニットに近いですけど、(今回のソロで)大きいのはムーンライダーズの活動を休止して以降の作品ということ。あのときはムーンライダーズもやっていましたし、バンドの一員として活動しながら、ソロ・アルバムを作っていたので、ムーンライダーズとは違うものを作ろうという意識がありました。
 でも2011年にムーンライダーズが活動を休止したことによって、あれと違うものを作ろうという「あれ」がなくなっちゃうわけですよ。すべて過去のものになった。記録としては残っているけど。そこではじまるのが、KERAとのユニット、No Lie-Senseと、自分が作ったバンドのControversial Spark(メンバーは鈴木慶一、近藤研二、矢部浩志、岩崎なおみ、konore)。これでいわゆる“アフター・ムーンライダーズ”の動きがはじまる。今回のソロ・アルバムもそのなかのひとつなんですよね。

それは、慶一さんにとっては、新しい自由を獲得してそれを発揮するという気分なのか、それとも、ムーンライダーズという、ソロをやるときの基準がなくなったから、何をしてもいいなかで、いまソロ・アルバムを作る意味みたいなものを熟考されているうちに発売が遅れたのか、どちらなのでしょう?

鈴木:ソロ・アルバムが遅れたのは、いったん作ったものを反故にして、また新しいものを作ったから。2013年の終わりぐらいから作りはじめているんです。その間にとても身近なひとが亡くなったりしてね。悲しいことが起きると、私の場合はなぜか音楽を作る方向へいくんですよ。とにかく音楽を作るしかない。それと2012年に、すごく時間と手間ひまがかかる仕事を立てつづけに依頼されて、それに6ヶ月以上かかった。それは映画とミュージカルだけどね。蜷川幸雄さんの舞台(騒音歌舞伎『ボクの四谷怪談』/脚本・作詞=橋本治、演出=蜷川幸雄、音楽=鈴木慶一/2012年9月~10月上演)と北野武さんの映画(『アウトレイジ ビヨンド』/2012年10月劇場公開)。作曲する時間と労力のほとんどをそのふたつに費やしていたわけ。

悲しいことが起きると、私の場合はなぜか音楽を作る方向へいくんですよ。とにかく音楽を作るしかない。

 2012年の終わりに、来年は自分の作品の制作をはじめたいな、と思った。それで2013年にまずはじめたのが、Controversial Spark。で、その年にかしぶち(哲郎)くんの具合がよくないということを聞いてかなりショックで、1曲先に作ったのがこのなかではいちばん古い曲ですね。2013年の終わりにその歌詞を作った。それが“Untitled Songs”のパート1。2014年の頭にはその曲をライヴでやったりしていたね。それからアルバムを作ろうと思ってインスト中心に十何曲作るんですけど、私はひとりで独走しないんで、いろんなひとに聴いてもらっていたんだけど、とりあえずそれは置いておこうということになった。
 そういう結論に達して、またまっさらな状態からはじめる。それが2014年の終わりぐらいかな。一回白紙にもどして新たに作った曲を録音しはじめたのは今年に入ってからですよ。そのときに何曲かはできていました。このソロ・アルバムの半分弱くらいはレコーディングに入る前に自分で作っておいたものがあり、60%くらいはゴンドウ君のスタジオで突然できたものもあれば、駅に降り立ったときにできた最新のものもある。ムーンライダーズの活動を休止し、誰かが亡くなり、ということに対する自分なりのアンサーって感じですよね。

“Untitled Songs”を核としてこのアルバムは作られたのかな、と最初に聴いたときに思いました。

鈴木:それはスタートの問題であって、いったん作り出せば他の出来事も起きてくるので。誠に失礼かもしれないけれども、今年に入ってから武川(雅寛/はちみつぱい~ムーンライダーズのオリジナル・メンバー。ヴァイオリン、トランペットなどを担当。あがた森魚、加藤登紀子、南こうせつをはじめ多数のレコーディングやツアーに参加。ソロ・アルバムも4作発表している)くんが入院したニュースを聴いたときに、パッと曲ができたりね。それが“LivingとはLovingとは”だったりする。歌詞の内容はその出来事と違いますけどね。周りにも自分にも何が起きるかわからないときには、どんどんものを作るしかないんじゃないのかな。

世の中の出来事はむろんのこと、身近な出来事に対する本能的なリアクションが、慶一さんの場合、音楽というか。

鈴木:私にとって音楽を作ることは極めて初期衝動的な行為ですね。たとえば依頼された映画やミュージカルの音楽を作っていても、それとは関係ない自分の曲を作りはじめちゃう。でも忘れちゃうから、また依頼された仕事に戻っていく。そういうハイブリッドな状況が、ここ十年くらい続いていますね。

「垂れ流すようにものを作り発表していきたい」とかつて言っていたとすれば、その通りになったね。

ここ10年くらいの慶一さんの音楽活動は、かなり充実していらっしゃったと思うのですが、ご自身が活性化していたのでしょうか?

鈴木:その活性化が何なんだろうとも思うんだけど。それはどこか劣化なんだね(笑)。劣化しているので、体力も気にせず作曲しつづけてしまうとかさ。

今回取材させていただく前に、かつて慶一さんが出された本をいくつか読み返してみたんですが、パンタさんの『PANTA RHEI ~万物流転~』という対談集(91年1月/れんが書房新社)に慶一さんとの対談が収録されていて、慶一さんはそのなかで「行き着く果ては個人的民族音楽」ということをおっしゃっていました。世界のエスニックな民族音楽は、その土地の演奏者が自己批評しないで、ただあるがままにやっているだけだと。つまり自分のなかから勝手に出てくるものを、自分でセーブしたりチェックしたりしないで、全部垂れ流し状態で出せたら、それは素晴らしいものなんじゃないか。最後はその境地に行き着けたらいいね、と。

鈴木:「垂れ流すように」というところには行き着いたかもしれない。あがた(森魚)くんと「頭が呆けてきて前に作った曲と同じ曲をつくるかもしれないけど、そんなときが来たらいいんじゃないの」とも話していたけど、そこまでは至っていないですけどね(笑)。「垂れ流すようにものを作り発表していきたい」とかつて言っていたとすれば、その通りになったね。

あるときから歌詞にそんなに悩まなくなった、と以前インタヴューでおっしゃっているのを拝見したのですが、今作の詞もあまり悩んでいる感じがない。

鈴木:いや、ちょっと悩んだよね(笑)。明日歌を入れるために今日歌詞を作るという具合に、毎日歌詞を作っていたんだよ。次の日は13時スタートなんだけど、それができなくて15時にしてください、ってだんだん不規則になっちゃった。スケジュール的に忙しかったし、私が怠けていたわけではないと思う(笑)。それに、急遽、違う仕事が入ってきたりしたこともあって、ちょっと苦労したね。松尾清憲さんに歌詞を依頼されたりして、そういうときは角度を変えて、自分の作品づくりを措いておいて、そっちを先にやっちゃうんだよ。そうするとパッとできる。

ひとの作品の方が書きやすいということはありますか?

鈴木:ひとの場合はイメージができるので。たとえばある女性アーティストに対して歌詞を書くとする。そのひとに会っていろいろ話を聞いたりして、彼女をイメージして歌詞を作るということはできる。けど、自分はイメージできないからね。つまり、完全に自分はこういうひとだという確信はない。誰もがそうでしょう。どこかに「知らない自分があるんだろうなという疑惑があるわけね。

しかも、セルフ・プロデュースということは自分で判断をするしかない。たとえば曽我部恵一というプロデューサーを立てたときは、彼のジャッジが入るわけですよね。

鈴木:そうそう。しかも、彼は私の詞をカットアップすることもあったからね。「これ、1番いらないんじゃないですか」とか(笑)。

そういうご自身のジャッジメントに関しては、初の公式ソロ・アルバムとされている91年の『SUZUKI白書』と今作とはどのような相違がありますか?

鈴木:“『SUZUKI白書』から24年ぶり”と謳っていますが、実は完全にセルフ・プロデュースしたといえるのはこのアルバムが初めてかもしれない。『SUZUKI白書』の半分くらいはイギリス人にプロデュースを頼んでいるからね(※鈴木慶一氏が愛好するプログレ/ニュー・ウェイヴ/テクノ/アンビエントなど60~90年代の英国音楽の各分野から選んだトニー・マーティン、デヴィッド・モーション、マシュー・フィッシャー、デヴィッド・ベッドフォード、アンディ・ファルコナー、アレックス・パタースンに、楽曲ごとにプロデュースと編曲を依頼)。東アジアで収録した分は私がやりましたけど、それを引っさげて渡英して、こういうものをつくっているんだ、これをもとにちがうものをつくってくださいとお願いしているわけだから。歌詞はぜんぶ自分で書いていますけど。
 で、『火の玉ボーイ』(※実質的なソロデビュー作だが名義は“鈴木慶一とムーンライダース”/76年)までさかのぼると、あれだってほかのひとに、自分が書いた曲をもとにちがうものをつくってほしいと頼んでいる。私としてはスタジオ・アルバムはぜんぶ自分のソロ・アルバムのつもりでつくっているとはいえ、数々の人々の手助けがあるわけで、とくにムーンライダーズは大きい。アレンジ面でも助けてくれたしね。でも、今回みたいに全部の曲をほとんど自分で演奏して……っていうことはこれまでにないかもね。

結局はバンド体質なんだもん。だから集団でものをつくっていくのが好きなんだ。

今作はいろいろな意味で「初」と呼んでいい完全なソロ・アルバムなんですね。

鈴木:そのぶんの不安感はぜったいあるね。ただ、その前にユニットでの活動はいっぱいやっているんだけど──ザ・ビートニクスとか、No Lie-Senseとか。それはすごくやりやすいんですよ。ひとり他者がいると、「これってどうだろうな……?」っていうときのジャッジをしてくれるから。二人のユニットってほんとに便利だよね。一人だと、自分の中で切り裂かないといけないもん。「果たしてこれがいいんだろうか?」っていうような部分を、たとえば権藤(知彦)くんなんかは言ってくれるんだよね。
 でも権藤くんの立場は、レコーディングすることとプログラミングをすることで、そっちについては、私はなかなか批評するというレベルにまでいかない。やったことはあるけどね。コンソールの前にいて、録音して、ノイズがないかチェックしたり、データを直したりとか。それはけっこうちがう視線になっちゃうから。今回はかなりの部分をソロでやっているから、そこのジャッジをしてくれるのは(周囲の)みなさんということになるかな。

やはり、周りの人たちに訊かれるわけですか? 「どう思う?」って。

鈴木:もちろん。結局はバンド体質なんだもん。だから集団でものをつくっていくのが好きなんだ。で、ここでの集団は、スタジオでは私とゴンドウくんだけど、(アルバムに)参加しているひとはたくさんいるわけだから、その方々にもその都度聴いてもらう。ディレクターの柴崎(祐二)さんからもレポートがドカンとくる。それに私が書き加えて倍返しもする(笑)。

ジャッジしてくれる相手が必要なんですね?

鈴木:必要です。そうじゃないひともいるでしょう? そこまで自分は天才じゃないんでね……。ひとりで全部やると、どうも最終的な判断がわからなくなってくる。

誰かと何かを作るのがお好きなんでしょうね。

鈴木:日常もそうですよ。観るべきライヴとか映画がたくさんあるけど、自分でそれをカバーしきれないから、知り合いやマネージャーなど、いろいろな方々の話を聞きつつ、何を観るか決めたりする。ひとりじゃあね、実は怠け者で(笑)。それでワンステップ踏み出せなくなったらどうしようと思ってるけど、いまのところ大丈夫だから、まぁいっか(笑)。

インプットも活発にされているんですね。

鈴木:いろいろ行きますよ、映画なんかでも。ときどき「めんどくさいな」って思うので、そこで「よしっ!」って感じで行かないといけない。体調が悪ければ行かないだろうけど、いまのところそっちも大丈夫なんで。

慶一さんはいわゆる“田舎指向”とかはないですね? お知り合いのなかには東京から地方へ移住する方もきっといらっしゃいますよね。

鈴木:考えたことはあるけれどもね。

それは3.11のあと?

鈴木:いや、もっと前ですよ。20世紀のうちかな。いい場所があったんです。博多に高倉健さんが住んでいらした場所があって、連れて行ってもらったことがあるんです。けれども、移住はまったく実現はしなかった。要するに、朝7時までやっているバーとかがないとダメなんだね(笑)。

酒がお好きというよりも、集える場が必要なんでしょうか?

鈴木:今回の歌詞には、バーテンダーの発言をメモしたものがあるしね。歌詞を作っているときって、歌詞のことしか考えてないんだよ。曲を作るときは手の動きなんですよ。音が鳴ったときに何かできあがっていく。5秒でできあがることもあって、それをとりあえずデータとして記憶していくという。曲ではそれが可能なんだけど、文字に関しては、私は読書家ではないので、そんなに入力されていないんですよ(笑)。だから歌詞を作るときは耳をそばだてて、いろんな話をちょろちょろ聞きます。それを自分の携帯からMacに送って、歌詞メロ・フォルダに全部入れるんだよね。それを見ながら書く。そんな日々になるんだよ。その作業が終わっちゃうと、また言葉から離れる。

歌詞を作っているときって、歌詞のことしか考えてないんだよ。曲を作るときは手の動きなんですよ。音が鳴ったときに何かできあがっていく。

ご自分のことを読書家ではないとおっしゃいますが、ぼくは今作の“無垢と莫漣、チンケとお洒落”の「莫漣」っていう言葉がわからなかったんです(笑)。こういう難解な言葉はどこでインプットされたんですか?

鈴木:検索です。21世紀に入ってからは検索による作詞ばかりだね。本もチラッとめくったりしますよ。目をつぶって本を開く感じなの(笑)。かつてはずっとそんなことばかりしていた。ムーンライダーズの初期のころもそう。本を積んでバッと開いては作る。それもある種のカットアップ手法かもしれない。でも「本を開いたとき何かが閃く偶然」はどんどん少なくなって、いまは検索ばかりですよ。「莫漣はたまたま「無垢」を検索して、その反意語を調べていて見つけたんです。全部を対義語で作っていくなかで、無垢を歌詞にしたかったんだけど、その反意語に莫漣があった。「そういや昔、莫漣女っていたなぁ」とか思ってね。

「あばずれ」とか「すれっからし」とか、世間ずれしてずるがしこい女性の呼び名みたいですね(※詳しくは平山亜佐子氏の著書『明治 大正 昭和 不良少女伝―‐莫漣女と少女ギャング団』/09年/河出書房新社を参照のこと)。

鈴木:フェミニズム的にはちょっとやばいんですけどね。チンケだってそうですよね。

チンケって最近いわないですよね。そういう死語の発掘もよくされるんですか?

鈴木:うん。あと刑務所用語とか。

隠語ってやつですね(笑)。

鈴木:要するに、ほとんど表面にでてこない言葉とか、そういったものを使うことによって聞き手の方々が混乱するであろうと──それでいろんなイメージをもってくれればいいと思うわけで。今回の歌詞は結果的に抽象的だと思うんですよ。しかし、わりと男女(の関係)とかそのへんのことをやってみようかなと。あからさまにそれが出ているわけではないけどさ。まぁ、1曲めから“男は黙って…”だからね。

サッポロビールかい、という。“男は黙ってサッポロビール”というコマーシャルのコピーがすぐに出てくるのって、ギリギリ僕の世代までですよ(笑)。いまとなっては黒澤明の映画でも観ていないかぎり、(サッポロビールのコマーシャルに出演していた)三船敏郎すら知らないひとが増えているのではないかと心配になります(笑)。そういえば、今作の歌詞は数字にも着目して書かれていますね。「7と3で割って」とか「未熟の実が五分出来で」とか「ワルツは六拍子だと思い込んでいたら」とか。

鈴木:KERAの歌詞には数字が出てくることが多いですね。ビートニクスの4作め(『LAST TRAIN TO EXITOWN』/11年)の作詞は、ビートニクの研究からはじめて、それを歌詞にしていった。架空の町を作って、そこの住人はみんなグロテスクな人たちで、最後に若者が列車に乗って町を出て行くという、非常にアメリカ文学的な(シャーウッド・アンダソンの『ワインズバーグ・オハイオ』みたいな)感じなのね。ビートニクスの1作め(『EXITENTIALISM 出口主義』/81年)は勘違いしちゃって、完全にヨーロッパっぽいものになってしまったんですけど、それをちゃんとしたものにしようという意図があった。KERAとのユニット(No Lie-Sense)では、1作め(『First Suicide Note』/13年)はスーダラな無意味なものを目指した。“大通りはメインストリート”なんて当たり前じゃない(笑)。2作めも(1作めの)発売日に作りはじめているので、私の今回のソロの制作と重なっていたりする。No Lie-Senseも制作している時期は点在してるのね。今回のソロ・アルバムもその隙間を塗って制作している。それで今度のNo Lie-Senseのテーマは1964年なの。要するに高度成長期をテーマに歌詞を当てて書いている。けっこうとんでもない歌詞ができているんだけど、ケラとは数字の競い合いになるのね。その影響も今作にかなり入り込んできていると思うんですよ。

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音楽的な状況も、それを境に、自分のなかでは「変わったぞ」という感覚がある。64年は初めてエレキ・ブームがくる前の年だね。そこでこんな音があるんだとビックリするわけだよ。同じ年にビートルズがアメリカに上陸した。それで67年はヒッピー・ムーヴメント

現在、毎週水曜の21時から、慶一さんがTBSラジオの『Sound Avenue 905』のDJを担当されていて、ぼくも楽しく聴かせていただいているんですけど、67年と64年を特集されていましたね。

鈴木:64年と67年がなんで重要かというと、私的なことで、私が中学に入学したのが64年。高校に入学したのが67年。それで環境がガラッと変わるので、非常にいろんなことを覚えている。音楽的な状況も、それを境に、自分のなかでは「変わったぞ」という感覚がある。64年は初めてエレキ・ブームがくる前の年だね。そこでこんな音があるんだとビックリするわけだよ。同じ年にビートルズがアメリカに上陸した。それで67年はヒッピー・ムーヴメント。そのふたつをすごく覚えているので、そのふたつを取り扱った。

最初は歌ものよりもエレキのインストゥルメンタルに反応されていたと聞いたことがあります。

鈴木:そうです。それは単純に中学1年のときだから。女性はビートルズにハマるわけだよ。すると男性は「女性が夢中になっているものと違うものを探そうかな」となる(笑)。それで、そんなにルックスもよろしくなくて、歳も召したベンチャーズのインストゥルメンタルものに走るわけだよ。

でもベンチャーズから洋楽にハマるひとって、当時のリアルタイムのリスナーにはすごく多いですよね。山下達郎さんもベンチャーズから入って、好きな曲の作曲者に着目してどんどん深みにはまって行かれたようです。

鈴木:あれがなぜ画期的だったかというと、ギターをもちながら演奏する。しかも数人で。それを初めて目にするわけ。ビートルズはそれに加えて歌も歌うと。コンボ編成の電化されたギターの音を聴くっていう体験は、初めてだった。

最初に買ったレコードはシングル盤、あるいはコンパクト盤でしょうか?

鈴木:最初に自分で買ったのは、ベンチャーズの「パイプライン」。

A面よりB面の曲がお好きだったとか。

鈴木:そうそう、“ロンリー・シー”ね。もちろんA面もいいんですけど。やはり波の音をギターで表現したのは新発明だね。エレキギターの新発明はいっぱいあります。ザ・バーズの12弦ギターも新発明だと思ったな。エレキをフォークギターのように弾くというね。

64年から67年の間は3年しか経っていないけれど、すごい変化ですよね。

鈴木:さらにいうと、その3年後の70年には、私は音楽をはじめているわけです。ムーンライダーズで『火の玉ボーイ』を出したのは76年で、その3年後の79年には(バンドの音楽性が)ニューウェイヴになっているわけです。3年で物事は変わると。

1年ごとの時代の体感速度は、やはり60年代がいちばん早かったのではないかと思えてならないのですが。

鈴木:そう思うけど、それはリスナーとしての感性の問題であって、自分でやりはじめてからのスピードの速さは、いまがいちばんかもしれないね。

それは機材の進化の速さがあったからですか?

鈴木:それもあり、21世紀になってからかもしれないね。

20世紀と21世紀の感覚の違いについて、最近よく考えるのですが、20世紀の真ん中から濃いカルチャーを摂取されていた慶一さんが感じる、20世紀と21世紀のいちばんの違いとは何でしょう?

鈴木:いちばんの違いは情報量かなぁ。いまは情報をゲットすることは簡単だけど、量も多いし、嘘もあると。60年代のころは情報を得るのが大変だったもんね。音楽雑誌を読んで、いいグループ名のバンドがいい音楽を作っていそうだな、と思って、グループ名で買う。当たり前だけどハズレもある。あとはFEN(米軍放送)を聴いていても、ずっと英語だからシンガーもバンド名もよくわからない。そういうときは「これかなぁ」という勘も必要だったね。そういう勘はいまだにあるけどね。

いまは、みんなラジオを新しい音楽を発見するためのソースとして使わなくなっていますが……。

鈴木:かつてはラジオだけです。雑誌も「ティーンビート」と「ミュージックレビュー」くらいしかないので、あとはラジオだけです。そこで生まれたラジオ愛があるからやっているのが、いまの番組ですけどね。

かつてはラジオだけです。雑誌も「ティーンビート」と「ミュージックレビュー」くらいしかないので、あとはラジオだけです。そこで生まれたラジオ愛があるからやっているのが、いまの番組ですけどね。

佐野元春さん、鈴木慶一さん、小西康陽さんという3人のレギュラーが、それぞれ独自のスタイルと選曲で、やりたいようにやっていて最高だなと思います。

鈴木:野球のオフシーズンの放送だけど、TBSのあの時間ってすごいと思う。でもね、感激するよ。かつてAMを聴いていて「こんな曲があるんだ!」って思っていた10代の自分が大人になって、今度は自分の好きな曲をかけているんだから。糸居五郎さんのマネをしてしゃべっていたりするので、放送されたものの同録音源を自分で聴くと感激ですよ。自分はこういうことをやることになったのかと思うと感慨深いね。

テレビの音楽番組の司会はされていましたけど、民放の中波ラジオというのは初めてですか?

鈴木:初めてですね。FMはあったりするけど、JFNとか、ミュージックバードとか、(音楽が)ステレオでかかるところばかりだった。今後はTBSもステレオ化していくんだろうけど、一応チューニングを合わせると全国的に誰でも聴けるところで音楽を流せるっていうのはねぇ……非常にうれしいですよ。

反響もかなりあるでしょう?

鈴木:選曲がすごく大変なんだけどね。

適当に選曲しているのではなくて、特集をされていますものね。

鈴木:特集を組まなきゃいいんだけどね(笑)。全体の流れを考えて作っていかなきゃいけないから、やっぱり選曲に8時間はかかるよ。

64年とか67年の音楽って、いまや放送で接する機会がほとんどないので、若いリスナーにはきっと新しい発見があると思います。90年代の前半くらいまでは、60年代って意外に近く感じられたのに、いまはなぜこんなにも60年代が遠ざかっているように感じるのか、友だちと話していたら、身近なところにロックがないからでしょうと。ロックがカルチャーの入口になっているうちは60年代にアクセスしやすかった。ところがロック自体も変わってきているし、時代を牽引する力を失ってしまうと、過去のカルチャーにアクセスするための入口として機能しなくなってきたきらいがある。

鈴木:ただ、最新のロックと呼ばれているような音楽は変容しているけど、そのぶん面白かったりするんだよ。64年、67年と区切ったらその年のものしかかけられないから、それはそれで特定の世界を生み出すとは思うけどさ。でも、あの番組は意外と50代、60代が聞いていないということを知ったんだけど、これでいいかなと。

聴いている層はもっと若いんですか?

鈴木:20代、30代が多くてうれしいですよ。ラジオって、私には面白いけど、じゃあ聴くかっていわれると、そんなに聴いてはいないんだよ。80年代まではよく聴いていたけどね。そこで曲をチェックして影響を受けるっっていうことは何度かあったよね。いまはradikoとか聴くかな。とにかく音楽を聴きたいわけで、話を聞きたいわけではないんだよね。音楽をたくさんかける番組がだんだんなくなってきたのかもしれないね。ラジオで音楽がかかるというのが、私が10代のころは当たり前だったので、そう思っちゃうんだよね。

ぼくもラジオがなかったら音楽を好きになっていなかったかもしれないです。

鈴木:まったくその通りだね。湯川れい子さんのおかげでございます。ブリティッシュということばを知ったのが63、4年。湯川さんが「ブリティッシュ」って言ってたんだよな。俺、プリティッシュだと思っていたから意味がぜんぜんわかんなかったんだよね(笑)。

湯川さんが「ブリティッシュ」って言ってたんだよな。俺、プリティッシュだと思っていたから意味がぜんぜんわかんなかったんだよね(笑)。


鈴木慶一
Records and Memories

Pヴァイン

Pops

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鈴木慶一
謀らずも朝夕45年

Pヴァイン

Pops

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ブリティッシュといえば、3枚組のアンソロジー『謀らずも朝夕45年』を聴きながら、いかに慶一さんが日本ではあまり知られていなかった英国産モダン・ポップやニューウェイヴなどをリアルタイムで絶妙に消化して──もちろんイギリスにかぎりませんが──独自の音楽を作っていたか、あらためて感嘆しました。一方で「なんであの曲が入っていないんだ」と思ったりして、過去のアルバムをたくさん聴き返してみたり、すごく充実した時間を過ごさせていただいたんです。

鈴木:ありがとうございます。あれはアーカイヴィスツによる選出だからね。年代がバラバラの数人で選んでいる。だから、自分も「こんな曲あったなぁ」と発見があったりしますよ。

ムーンライダーズって、アルバム1曲めと2曲めには必ずいい曲をもってきますよね。あと、最後の曲も名曲率が高いと思うんです。今回DISC 1の“ジェラシー”“(『イスタンブール・マンボ』/77年)、“スイマー”“(『ヌーベル・バーグ』/78年)、“ヴィデオ・ボーイ”(『モダーン・ミュージック』/79年)と、ムーンライダーズの2作めから4作めまでのアルバム1曲めが3曲連続でかかるところは聴いていて思わずアガりますね。この並びは過去のベスト盤でもなかったパターンですよね。でも、なぜ『マニラ・マニエラ』からは“花咲く乙女よ穴を掘れ”なのかな、とか気になって。当時ムーンライダーズは「売れようとしないバンド」とか、ひとによってはいろいろな見方があったと思うんですけど、売れることをまったく考えていなかったかというと、そんなことはないんじゃないかなと。キャッチーな曲もたくさんあるし。

鈴木:いや、売れようとは休止するまで1回も思ったことはないけどね(笑)。

レコード会社に対しては、毎回アルバムを「これでどうだ!」みたいな感じで作っているような気がしました。

鈴木:「売れる」ということばを私はあんまり使わないからね。ただ、売れるものを作ったら、そこが到達点だと思って35年間みんなやってきたんだと思う。それでチャンスを逃したのが正解だったのか、それとも自分がズレていたりとかで、だんだん私はオルタナなんだなっていうことになってくるわけだよね。べつにオルタナでもヒットする場合もあるだろうし。その欲望は(ムーンライダーズが活動を休止する)2011年までは持ってたと思う。

このアンソロジーを聴いて、ご自身でも発見があったとおっしゃいましたが、たとえば?

鈴木:21世紀のアルバムから選ばれている曲。そのへんが最近のことなので、よく覚えていなかったりするんだよね。だから、その曲をこの前の11月のライヴで取り上げたりした。“本当におしまいの話”(『Tokyo7』/09年)とかね。そういう曲あったなぁと。

たしかに『Tokyo 7』はムーンライダーズ史のなかでどう位置づけていいのかよくわからないというか。そのタイトルを見たときに、シカゴ・セヴン(※カウンター・カルチャーのピークとなった68年、“イッピー”と呼ばれるアメリカの反体制運動の闘士たちがシカゴで検挙され、裁判にかけられた。アビー・ホフマン、ジェリー・ルービンなど7人の被告を総称する呼び名が”シカゴ・セヴン“。さらにブラック・パンサーのボビー・シールを加えて“シカゴ・エイト”と呼ぶこともある)を思い出しました。

鈴木:そこからきているんです。「TOKYO 7」ってムーンライダーズのメーリングリストの名前なんですよ。メンバー6人プラス、もうひとりが入って7人っていうことにしていた。

“本当におしまいの話”って、タイトルが強烈ですね。

鈴木:あれは親父が亡くなったころだったなぁ。そういうのもあるんじゃない?

運命で片付けてはいけないが、結局はそういうもんなんだよね。1951年という20世紀の真ん中に生まれて、60年代をリアルタイムで体感し、ニューウェイヴも体感し、21世紀になるときにちょうど50歳になり、とかね。

『火の玉ボーイとコモンマン 東京・音楽・家族 1951-1990』(89年/新宿書房)という慶一さんがご家族と対談している本を読み返すと、お父さんの鈴木昭生氏が新劇の俳優をされていて、羽田のご実家に劇団文化座のお仲間がたくさん出入りするなかで、ある種の雑居状態の環境で育ったことが、慶一さんに大きな影響をおよぼしたのかな、とあらためて感じました。

鈴木:もともと集団に属していたんですよ。あと、じいさんとばあさんを入れて9人。バンド思考になっていくのはそれも影響しているんだろうね。でも親父からどんな影響を受けたかははっきりしてない。その周辺の方々に遊んでもらっていて、そのひとたちの言う冗談が面白かった。その影響はあるかもしれないね。

“東京ディープサウス”、羽田という工場地帯の土地柄も大きかった、とおっしゃっていますね。

鈴木:運命で片付けてはいけないが、結局はそういうもんなんだよね。1951年という20世紀の真ん中に生まれて、60年代をリアルタイムで体感し、ニューウェイヴも体感し、21世紀になるときにちょうど50歳になり、とかね。

無理矢理結びつける気はないのですが、『Records and Memories』、レコード(記録)とメモリー(記憶)という今作のタイトルは、かなり示唆的というか、現在の慶一さんの心境や創作態度を反映しているような気がします。

鈴木:最初からそうしようと思ってたの。曲を作り出して、白紙に戻して作り替えても、アルバムのタイトルはずーっと『Records and Memories』だった。じゃあ、結局、なんでもありではないかと。いまは禁じ手というものはない状態かな。あとムーンライダーズが休止しているのも大きい。それとは違うものを作るためのControversial Sparkと同じようにユニットで、No Lie-Senseだったり、ビートニクスをやっている。曽我部恵一くんといっしょにやっていた時期は、まだムーンライダーズをやっていたから、今作の特徴はやっぱりそれがないってことだよね。
 こういっちゃうと譬えが大きいけど、ポール・マッカートニーの気持ちがわかるんですよ。『ヤァ!ブロード・ストリート』(84年)なんか最高だと思ったんだけどね。ビートルズを解散しウィングスを作り、ウィングスを解散しソロになり、来日もしてビートルズの曲もやっているし。ウィングスのときはビートルズの曲をあんまりやらないでしょう? いまはもう生きているビートルズのメンバーはふたりしかいないんだし、実際に歌うのはひとりしかいないんだし、全部背負う感じでジョン・レノンの曲もやると。その気持ちがいますごくわかるね。その気持ちはこのアルバムに反映されていないかもしれないけど、極論をいえば、ムーンライダーズが存続していて2015年にも活動していたとする。そうしたら私は(今作に入っている)こういう曲を提出していただろうなと。

こういっちゃうと譬えが大きいけど、ポール・マッカートニーの気持ちがわかるんですよ。

そういうふうに、ムーンライダーズをソロを作るときの基準にされていたんですか?

鈴木:それはあとからわかったことだね。作っているときは自由でありかつ不満な状態で音楽と向き合っている。できあがったものを聴いてみると、ムーンライダーズをずっとやっていたらこういう曲も入っていたかもな、と思う。もちろんそれだけじゃないですけどね。私のなかのいろんな記憶なり、記録を自由に詰め込んだ状態なので、自分色が強すぎて、聴くと寝ちゃうんです(笑)。

覚醒するんじゃなくて寝ちゃうんですか(笑)。

鈴木:そこに意外性が発見できるのは、バンドだったりユニットだったり、他者とやった場合だよね。あと自分でプロデュースした場合も意外性が発見できないね。

自分のなかにあるものだけで作っていると。

鈴木:それは私自身しか感じないことだから意味がないことかもしれないけど、そういう濃厚さはあると思うんだ。

(後編は来週公開。男女観から映画談議まで、そして曲ごとに掘り下げられていく「レコード」と「メモリー」……。同分量でお届けいたします!)

GOKU GREEN - ele-king

 イーグルスが1976年にリリースしたロック・スタンダード“ホテル・カリフォルニア”はいわくつきの1曲だ。その幻惑的なサウンドもさることながら、問題はストーリーテリング風の歌詞にある。主人公はロスの砂漠のハイウェイでコリタスの匂いに誘われて美しいホテルにチェックインするが、そこでしばらく過ごすうち、ドラッグとセックスに溺れて退廃的な暮らしを送る滞在客たちに嫌気がさし、ついにホテルを立ち去ろうとする。が、いつのまにか出られなくなっている……。「好きなときにチェックアウトできても、けして抜け出すことはできない」。そんな謎の殺し文句で曲は終わる。
 それをオルタモントの悲劇以降のヒッピーイズムの敗北を歌っているのだという人間もいるし、アメリカはもとより西洋の物質文明全体の没落を表現しているのだという人間もいる。最近ではあのフランク・オーシャンのデビュー・ミクステ『NOSTALGIA, ULTRA』の“AMERICAN WEDDING”がそのカヴァーというかリメイクだった。なんにせよ、ベトナム戦争以降、斜陽を迎えた帝国アメリカの頽落をイメージさせる曲なのは間違いない。北米大陸西海岸とは、アメリカのフロンティア・スピリットにとっての永遠の約束の地であると同時に、その退廃と狂気を象徴する場所なのだ。

 GOKU GREENの新たなアルバムのタイトルは『HOTEL MALIFORNIA』。「MALIFORNIA」はウィードとカリフォルニアをかけ合わせた造語で、カタカナ表記すれば「マリフォーニャ」。おそらく架空の地名か国名だ。「ニュー・ヒッピー」を自称する彼が、“ホテル・カリフォルニア”について囁かれる都市伝説を知ったうえでこのタイトルをつけたのかはわからない。ただ、タイトルとしては完璧にハマっている。
 ジュヴナイル的な少年の面影はすっかり消えた。いまは太平洋の両岸を行き来する20歳の天才は、成熟を軽く飛び越えて、もはや退廃の域にまで達してしまっている。成長のストーリーというよりは、快楽に溺れる日々の断片的なスナップショット。サウンドはときにハードかつアグレッシヴだ。傑作EP『ACID & REEFER』を特徴づけていたPRO ERA以降の90’Sリバイバルのビートとともに、トラップやチルウェイヴ的なアプローチが目立つ。ウィードに加えてアシッドのテイスト。ナチュラルなだけじゃなく、どこかケミカルなトリップ感だ。アルバムまるごとが、まるで永遠に続く一晩の夢のように鳴っている。

 プレイボタンを押してLiL’ OGIプロデュースの“あいつは知らないけど”のイントロが勢いよく鳴り出した瞬間、アルバムの空気はストレートに伝わってくる。前のめりにリードするベースと跳ねるジャジーなピアノのリフレイン。ゆったりと鼻歌を歌うような甘い歌声が、危険な遊びの続行を宣言する。DOGMAを迎えた“THE SAME MOFOS”も、テーマは女とウィードと洋服、そして金。導入から完全にビートに同期していたエレピが、「高いクルマ美味いクサにデカいhouse/高い服を脱いで女の子とbounce」というロクでもないラインとともにキラキラと砕ける一瞬に、真夜中の解放感が宿る。“ヤング・ストーナー”や“マイレベル”ではYOUNG THUG以降の奇声コーラス、“REAL NINJAS”ではオリエンタル・フレイヴァなど、最近のUSシーンのトレンドも鮮やかな手つきで次々とトライされる。
 退廃的なムードがぐっと深まるのは中盤。“STRANGERS IN PARADISE”は、たぶんミュージカルの古典『キスメット』の劇中歌からそのタイトルを引用しているけれど、愛する者がいなければたとえ楽園にいてもよそ者なのだ、という原曲の純愛的なテーマは確信犯で裏切られ、ドラッグとカジュアルなセックスに溺れるドロリとした快楽が、むしろポジティヴに迫ってくる。直後の“今夜は来ない”も、夜の底に落ちていくような墜落感のベースが鳴りっぱなしの、スペーシーなトリップ・ソング。“NEVER SOBER GANGIN”なんて曲もある通り、とにかく酩酊感が半端じゃない。ペン型のヴェポライザーはひっきりなしにクッシュの煙を噴き続け、ボングで弾ける泡音は鳴り止まない。ドレスアップした女たちが影絵のように行き交い、赤いパッケージのピルが知らぬ間にポケットに滑りこむ。

 知り合ったばかりの相手とジョイント巻いてファックしてたらもう朝の6時、みたいなユースのリアリティは、ゲットー・ハリウッドが製作した“FACE IT”のミュージック・ヴィデオによく表れている。これは1995年のラリー・クラーク監督作『KIDS』をMxAxDリミックスしたものだ。コデイン色に染められてチョップドされた20年前のニューヨークのティーネイジャーたちの群像劇は、セックスとドラッグに明け暮れる無軌道な青春が、時代も都市も超えた普遍的な物語であることを伝えてくる。
 『KIDS』にはブランド立ち上げ直後のSUPREMEのクルーやクロエ・セヴェニーが出演していて、当時19歳のハーモニー・コリンが脚本を書いていた。20年後のいま、SUPREMEは文字通りのワールド・フェイマスとなり、クロエも女優として大成、ハーモニーはカルト的な人気を誇る映画監督になった。けれど、主演の一人だったジャスティン・ピアースは謎の自殺を遂げ、同じくカリスマ的なスケーターだったハロルド・ハンターもオーヴァードーズで死んだ。あの映画に濃い死の影がつきまとっていたように、青春の衝動にはそれなりの代償がともなう、ということだ。
 永遠に続くかのようなパーティや青春にも、必ず終わりは来る。GOKU GREENはそのことに自覚的だ。アルバム後半、“HIBISCUS”で描かれるどっぷりとした孤独感や、”歩き出せ”のブルーな倦怠を吹っ切るような前向きな決意を聴けばわかる。I-DeAプロデュースのラスト・ナンバー“CHILDISH ~ I’LL FEEL SORRY FOR MY G THANG”までのレイドバックした終盤は、忍びよる現実の影を感じつつ、まだ夢から覚めないでいる自分の姿をなかば自嘲的に歌っている。そして、アートワークの最後を飾る「OVERSEEN BY $HO SATO」の文字。その短い追悼クレジットは、あえて夢の終わりを子供っぽく拒否するエンディングに降りそそぐ、いつかの雨の理由を教えてくれる。

 パーティの終わりの虚しさやセックスの後の寂しさ。それを知ることを成熟と呼び、知ってなお快楽に溺れることを、退廃と呼ぶ。だから退廃とは、快楽の追求それ自体ではなく、精神のあり方だ。過剰なセックスやドラッグの乱用は、フィジカルな中毒症状とは別なレベルで、人間のメンタリティを決定的に変えてしまう。快楽を拒否することはできても、一度知った退廃から逃れるのは難しい。『KIDS』の監督のラリー・クラークは元々フォトグラファーで、オクラホマ州タルサ郊外の田舎町で覚せい剤中毒の仲間たちの写真を撮ってデビューした人物だ。1971年にたった三千部だけ自費出版された彼の最初の写真集『TULSA』の扉には、こんな言葉が置いてある。「一度針が刺さったら、それはけして抜けない(ONCE THE NEEDLE GOES IN, IT NEVER COMES OUT)」。ちょっとだけ、“ホテル・カリフォルニア”の殺し文句に似ている。

 ちなみにイーグルスが“ホテル・カリフォルニア”を発表した1976年、日本では村上龍が『限りなく透明に近いブルー』で芥川賞を受賞して華々しくデビューし、日本版のヒッピーイズムの終わりを乾いた散文で描き切っている。学生運動とベトナム戦争の裏側で繰り広げられていた、日本のドロップアウターによるヘロインの乱用と米軍基地の黒人兵たちとのオージー・セックス。いまはエスタブリッシュメントっぽいイメージが板についた村上龍も、当初は「クリトリスにバターを」という原題だったその草稿を書きながら、これは発禁処分をくらうかもしれない、と考えていたそうだ。その退廃的な青春の終わりは、タイトル通り、夜明け前の一瞬、透き通るようなブルーに染まる空の色に喩えられていた。

 デビュー当時の村上龍しかり、ラリー・クラークしかり、若い芸術家の大きな役割のひとつは、秘密の暴露だ。新たなアートによるアンダーグラウンドな現実の告発が、古びたモラルをダイナミックに上書きし、社会の風景を変えていく。けれど、現代というのは秘密が成立しにくい時代でもある。ドラッグの使用や奔放なセックスはすでにありふれたものだし、高性能カメラを内蔵したスマートフォンを誰もが持ち歩き、SNSやブログではみんな露出狂みたいに自分語りを披露している。写真も映像も音楽も文章も、もはや表現はべつに芸術家の特権じゃない。人が人になにかを伝えたがっているのは昔と変わらなくても、いまはそれを手軽にアウトプットできる。秘密は秘密になる前にすべて暴かれて、情報の残骸だけがタイムラインの彼方に流れ去っていく。
 同時に、世界のフラット化は憧憬の場所を奪ってしまった。日本だってずっと昔は東京がロマンティックな憧れの対象だったわけだし、それがアメリカやヨーロッパだった時代もあった。最近ならアフリカ、南米、アジア。だけど、どこに旅に出ようが、どんな快楽を経験しようが、そのトリップが終われば退屈な日常が待っていることを、みんなもう知っている。未知の場所への旅も、薬物の使用や性的な冒険も、それらはただ現実の倦怠や痛みから逃れるために消費される、チープな余興に過ぎない。かつてヒッピーたちが夢見たオルタナティヴな世界はついに実現しなかった。革命の理想とユートピアの夢に裏切られて、それでも人は「ここではないどこか」への想いを捨てきれない。

 どこでもない架空のホテルの名を冠したこのアルバムの、すべて赤裸々に曝けだしてまったく悪びれない態度というのは、やはりすぐれて現代的な感覚なのだ。スキャンダラスというのでもない。まるでInstagramを平然と流れていく危険なパーティの写真のように、あくまでドライでクールにスナップショットされる、退廃と倦怠の記録。往年のヒッピーたちが革命の挫折として迎えた退廃は、現代のニュー・ヒッピーにとっての原風景だ。あらかじめ愛と平和を拒絶した世界に生まれついた彼らは、いくら現実に手ひどく痛めつけられようと、楽しげにタブーを犯して刹那を生きる。

 『HOTEL MALIFORNIA』は平成生まれのニュー・ヒッピーが案内する、アンモラルな夢のホテルへの観光ガイドだ。かつて故郷旭川でまだ見ぬカリフォルニアの美しい夢想を描いたGOKU GREENは、そのたぐいまれな想像力で、今度はこの世に実在しない退廃のプライベート・リゾートを築きあげた。地上の楽園は存在しない。青春の刹那は永遠には続かない。そんなありふれた、だがとても深い絶望が、この退廃の夢を紡いでいる。ストロベリー・ピンクの煙の雲に、透明なブルーのボンベイ・サファイアの海、女が脱ぎ捨てた赤いハイヒール、それにカナビスの葉とナイフ。スイートの滞在期間は無期限だけど、あんまりハマると抜け出せなくなる。

 いまじゃ国家がテロリストとの戦争を宣言する時代だ。海の向こうで戦争が始まる……どころか、この社会もその火元になりかねない、そんな現実感のない緊張が日常に溶けこんでいく。どこかで爆弾が炸裂する。いつか大地震が起こる。わけもわからず死んでしまう前に、最高にトリップしてセックスしよう。それはとてもリアルで、切実な本音に思える。社会がどうとか知らない。吹けば飛ぶようなチャチな快楽もいらない。どうせうるさくて憂鬱な現実しか待ってないのなら、ここでずっと夢を見てればいい。たとえそれが退廃と隣り合わせでも、昔と違って、誰もが望んでこの危険な場所に来る。夢が終わればひとりきりで、そばには誰もいない。それでもきっと、いまはこの夢から覚めたくない。


interview with YOLZ IN THE SKY - ele-king


YOLZ IN THE SKY
HOTEL

Bayon Production/felicity

IDMJunkPost-Punk

Amazon

 ヨルズ・イン・ザ・スカイ……この、一度聴いたら忘れらないバンド名から、人はどんな音を想像するのだろうか。なんとなく広々したイメージを掻き立てるかもしれない。あるいは、“ヨル”、“ソラ”という言葉から、なんとなくロマンティックなものを重ねるかもしれない。しかし、残念。ヨルズ・イン・ザ・スカイは密室的で、アンチ・ロマン的。
 ヨルズ・イン・ザ・スカイ・ウィズ・クレイジー・ダイヤモンドは、柴田健太郎(G)と萩原孝信(Vo)を中心に大阪で結成されている。最初のアルバムは2007年で、その頃は騒々しいギターとハイトーンのヴォーカルのハードなロックをやっている。それが長い歳月をかけながら変化を遂げて、最新作『ホテル』では、アシッド・ハウス・ロックとでも呼ぶべき、微妙にシュールな世界を繰り広げている。
 ベースとドラムが居なくなり、トラックは柴田がひとりで作ることになった。すると……ストラヴィンスキーを愛するこの青年のどこかの回路が1987年のシカゴのDJピエールに通じてしまったのだろう。それはロックの予定調和もハウスの快楽主義も拒否した、世にも奇妙な音楽となっていま存在する。
 地図を描いてみよう。いま、日本には、アンチ・ロック的雑食性としてのポストパンク……とも呼べそうな徒が散在している。広義では、オウガ・ユー・アスホールもゴートもにせんねんもんだいもその部類に入るだろう。メインストリーム(なんてないという意見もある。が、まあ、ここでは敢えて)への対抗勢力になり得ていないのは、良くも悪くも彼らがバラバラにそれぞれやっているし、残念ながらリスナーも重なっていないからだ。もったいない。徒党を組めばいいのにとまでは言わないが、ぼくたちは注視してみよう。いま、1979年のUKのような局面が日本に生まれつつあることは事実であり、それは、売れようが売れまいが、とにかく、自分たちの鳴らしたい音を貫き通している連中がいるということでもある。
 ヨルズ・イン・ザ・スカイはそうしたポストパンクな時代のなかのひとつのバンドではあるが、彼らのジャンクな感覚は、実に独特な空間を創出している。昔、バットホール・サーファーズがザ・ジャックオフィサーズ名義でサイケデリックなエレクトロニクスに挑戦したものだが、もちろんそれとも違う……いったい彼らは……何者……なのか……ああ、たしかに悪ふざけもできない世のなかなんて、冗談じゃないよね。マイノリティとは、屈辱でも蔑称でもない。楽しみ方だ。柴田健太郎に話を訊いた。

【バンドのバイオ】
2003年結成。Less Than TVから1stアルバムをリリース後、Fuji Rock、SXSWなどに出没。2009年にはfelicityより2ndアルバム『IONIZATION』を2012年には3rdアルバム『DESINTEGRATION』をリリース。その後もライヴ活動を中心に、多種の音楽性を吸収しながら進化を続ける。たった2人よって作り出される音世界は自由自在、無機質なビート、ロック、テクノ、ミニマル、現代音楽、クラシックなどをブラックホールのように吸収に作り出される自由に踊るための音楽。
https://yolzinthesky.net/

Q:ますますヨルズ・イン・ザ・スカイのアイデンティティがわからなくなってきました。

A:ぼく自身もわからないんですよ。

印象的なバンド名なので、名前は知っていたんです。ぼくみたいに名前は知っているけど聴いたことがないって人は多いと思いますよ。

柴田健太郎(以下、柴田):バンド名を決めるときに、ずっと続けるつもりはまったくなかったんです。とりあえずバンドをやろうという感じでした。だいぶ前なのでこの名前をつけた理由は忘れましたけど、やりはじめたのは大学の3回生のときやから、13、4年前ですかね。

今日は、ヨルズ・イン・ザ・スカイがどういうバンドなのかをしっかり紹介したいと思っているので、よろしくお願いします。まずは、柴田さんが音楽をはじめる、あるいは音楽を続けているモチベーションはどこにあるんですか?

柴田:音楽にしか興味がなかった。他のことをやっていても、結局は音楽に繋がっているような生活スタイルだったというか。音楽をやりたい、というよりも、音楽をやっていました。

このいかにも大阪にいそうな雑食性というか……。

柴田:それは言われたことないな。大阪っぽくないと言われます。そう言われるのは初めてといってもいいくらい、珍しい。

大阪って、独創的なものを生む土壌があるじゃないですか。いろんなものが混ざって、名付けようのないものになってしまった、みたいな。やっぱり東京にはスタイルがありますからね。

柴田:そういう意味では大阪かもしれないですね。やっぱりひとと被ったらいかんみたいな文化がありますからね。ちっちゃいときからそうですね。ひとのマネをしてたらダサい、みたいな。

しかし、いったいどんな人たちが聴いているんでしょうね。基本、ライヴハウスで活動されていたんですよね?

柴田:基本はそうです。

どんなお客さんを相手にしていたんですか?

柴田:あんまり見てないからわからないですね。

音楽をやるときに、自分たちのパッションが掻き立てられるのはどんなところですか?

柴田:自分のなかで新しいものができて、それが積み重なっていくところですかね。

どんな音楽を聴いていたんですか。

柴田:一貫して好きなのが、ストラヴィンスキーの『春の祭典』です。クラシックや現代音楽をよく聴きます。バレー音楽が好きで観に行ったりしてましたよ。

しかし、実際は、どちらかというとジャンクな音楽をやっていますよね。

柴田:どちらかといえばジャンクな音楽はあんまり好きじゃないんですけどね。いうたら、関西でできた音楽もそんなに好きじゃないんですよ。

じゃあ関西人と言われるのは心外ですか?

柴田:そんなことないですよ。まず、あんまり関西人っていわれないですからね。

曲の発想はどんなところから?

柴田:現代音楽の作曲方法で使われる、図形や数列から作曲するやり方に興味があるんですよね。そのすべてがよいとは思わないし、ぼくはけっして詳しいわけじゃないんですけど。

感覚で作るよりも、理屈で作っているんですか?

柴田:いまはそっちの方が多いですね。昔は感覚だけだったんですよ。でもやっていくうちに、決められたうえでやっていく方へシフト・チェンジしていっていますけどね。

ますますヨルズ・イン・ザ・スカイのアイデンティティがわからなくなってきました。

柴田:ぼく自身もわからないんですよ。

現代音楽からの影響は新作のなかに反映されているんですか?

柴田:新作にはまったく反映されていないです。新作は、どちらかといえば感覚的な面も少なからずあって。いや正確に言うと、感覚で良いと思った素材を緻密に作り上げ構築していくというか。その昔、パソコンのデータが消えてしまったときに、それを復元させるソフトを使ったんですよ。そうしたら音楽データがぶつ切りになっていたり、変に復元されていたんですよね。それを思い出して、データを一度消して、また復元させて、意図的にデータをバラバラにしたんです。それでこれは使えるなと思って今回のアルバムで音源として使ったりしました。ギターの音とかでも勝手にバラバラになっているのは、僕もどういう仕組みでそうなっているかはわからないんですけどね。全体ではないんですが、そういう素材を組み立てていったりしました。勝手に離散フーリエして音を分解したみたいな感じになってるのが面白いと思いました。

それをたまたま今回のアルバムでおこなったと。

柴田:そうですね。いま現在は理詰めでやっているんですが、このアルバムに関してはその一歩手前です。

ファースト・アルバムは何年なんですか?

柴田:えーと。ファーストはLESS THAN TVから2007年にリリースされてます。 セカンドが2009年で当時はハードコアやクラウトロックも感じさせるバンドでした。

たしかにヴォーカルにはハードコアの名残があるのかな。

柴田:最初はヴォーカルがいなかったんです。あるとき曲を聴かせたら「俺、コレ歌える」と。ぼくは普通に歌うかと思ったんですよ。それに、普段のあいつはまさかなことをするようなヤツでもないんですよ。そしてたら、まさかの裏声で歌うという。それを聴いて「あ、これはいっしょにやろう」となりました(笑)。

3枚目のアルバムではデザインに『メタル・ボックス』を模していますが、パンクについてはどうなんでしょう?

柴田:初期のパンクも聴いていましたし、好きでした。でもポストパンクの方が雰囲気は好きだったというのもあって、そういう影響が音楽には入っているんですよ。

柴田さんからすると、ポストパンクの魅力って何ですか?

柴田:空気感。熱いんだけれども同時になんか冷たい感じもするんです。それが音の処理とかに出ているんだと思うんですけれども、殺伐とした無機質なイメージがぼくのなかでは強いというか。テクノとはまた違いますよね。テクノも無機質ですが、ポストパンクの場合はひとが関わっているにもかかわらず無機質なのがいいというか。

聴いていてPILがよかったんですか?

柴田:他にどんなのがいましたっけ(笑)?

ディス・ヒートとか、スロッピング・グリッスルとか、たくさんいますよ。

柴田:あー、そのふたつはけっこう近いですね。

当時は、ポストパンクないしはニューウェイヴという、ひとつのムーヴメントとしての括りがあったんです。そのなかにスリッツもポップ・グループもニュー・オーダーも全部入っていたわけです。そのポストパンクの船にたくさんのアーティストが乗っていた時代だった。でも2000年代には大きな船はなくて、みんな小さなボートに乗っている。このひとはインディ・ロック、このひとはポストロック、このひとはディスコとかね。こういう状況で、ポストパンク的なアプローチをするっていうのは空しくないですか? 

柴田:ポストパンクは6、7年前に聴いていたけれど、いま意識しているわけではないですからね。あんまりジャンルを意識しないんですよ。

ジャンルにこだわることによって、未知なるリスナーとの出会いがあると思うんです。例えばテクノにこだわっていれば、どんなに無名な人間でもテクノ好きのところへたどり着ける。あるいは、ポストパンクやニューウェイヴという大きな船があって、ぼくはその船が好きだったからスリッツもスロッピング・グリッスルも聴けた。でもいまそういう聴き方はない。だからヨルズ・イン・ザ・スカイを見ると、「いやぁ、よくやってるなぁ」って思うんです。

柴田:たしかにライヴもやりにくいですからね。

自分たちでムーヴメントを作ってやろうという気持ちにはならないの?

柴田:そういう気持ちにはならないですね。ホンマにひとりよがりというか。周りのことはあんまり考えていない。ひとといっしょに何かをやってよくなりたいとかも思わないですね。そこで誘われて興味をもって何かをやりたくなることはあるんですけれども、自分自身ではただ単に曲を作ったり、こんなライヴができたらいいなとか、そういう発想しかない。

そういう意味では時代に挑戦しているのかな?

柴田:全然意識はないんですけどね。

アップル・ミュージックはだって「あなたの好きなジャンルは?」って最初に質問してくるじゃん。ヨルズ・イン・ザ・スカイは、テクノでもないし、パンクでもない。いまの音楽市場のニーズ分けに当てはまらないことをやっているわけじゃないですか。

柴田:いま言われて、「あっ、そうやな」と思いました。

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Q:友だちがほしいなとは思わないんですか?

A:まったく思わないですね。喋りかけてくれたら話すんですけど。

話題を変えましょう。柴田さんが音楽で一番気持ちよくなくところって、どんなところなんですか?

柴田:やっぱり自分がやりたい理想があって、それができたときがベストですかね。

機材は何を使われているんですか?

柴田:昔はいろんな機材を買っていろいろ試していましたね。

最初の楽器は何だったんですか?

柴田:ギターですね。

そこからエレクトロニクスへいったんですね。転換期は何だったんですか?

柴田:転換期はまさにこのアルバム(『DESINTEGRATION』)を作ったあとです。最初はギターだったんですが、ぼくの世代ってギターの機材にこだわって、ヴィンテージとかを集めてるやつってそこまでいなかったんですよ。だからそこで真新しさを求めることもできたわけです。でもいまってそうじゃない。これはぼくが勝手に思っているんですけど、ギターという表現方法に行き詰まっているからみんな機材の方向に目が向いているように見えるんです。新しく出てくる機材も変なものが増えていったので、ぼく自身はそこに興味がなくなっていったんですよ。ギターやアナログ機材でニュアンスを表現するよさもあるんですけど、数字でピッタリ表現するんだったらパソコンとかで自分で作るしかなくなってしまうんです。

パソコンを使いだしたのはいつからなんですか?

柴田:ちょうどこのあと(『DESINTEGRATION』リリース後)ですね。

じゃあ新作がその変化のあとなんですね。音的には完全にそうですもんね。

柴田:そうなんですよ。機材に関しては自分でプログラミングしてやってます。C言語から作っていったりとか。ひとが作った機材よりも、自分でこうしたいという方向に興味が移っていったんです。

プログラミングは誰かに習っていたんですか?

柴田:独学ですね。自然のなりゆきで勉強も進んだというか。トラックは基本的にぼくが作ってます。

エレクトロニクス・ミュージックをやっていて、C言語というのはまだ少数派でしょうね。

柴田:大変なのはたしかですよ。ノイローゼになるかもしれないです。でもギターはけっこう好きで、まだその可能性を模索しています。今回もビート以外は基本的にギターで作っているんですよ。

ゴート(goat)とは繋がりはないんですか?

柴田:喋ったことはあります。

オウガ・ユー・アスホールとの接点はないんですか?

柴田:対バンをしたことはありますけど、接点というところまではないです。

日本のバンドで共感しているひとたちはいますか?

柴田:あんまりつるまないので、音楽友だちがいないんですよ。

友だちがほしいなとは思わないんですか?

柴田:まったく思わないですね。喋りかけてくれたら話すんですけど。

相当なへそ曲がりですね。その感じが音にも出ているというか。

柴田:そうかもしれないですね。

ヨルズ・イン・ザ・スカイはどこにカタルシスを感じているんですか?

柴田:考えたこともないな……。基本的に飽き性なんですよ。自分で面白いと思ったことにしか興味がいかないんです。これをやったら受けるちゃうか、みたいなことは一切考えないですね。世間的に流行っている作り方があったとしたら、それは絶対にやらないです。

じゃあいまも世の中なんて気にしないで今日もストラヴィンスキーを。

柴田:単純に好きですからね。もちろんそれだけじゃないですけど。

どういうひとがファンなのか気になりますね。

柴田:ハードコアっぽいアルバム出したときのファンは、今回みたいな音を求めてはいないですよね。もちろんずっと好きでいてくれるひともいるんですけど、聴くひとも移り変わっているので、そこでどなっているかはまったくわからないです。

PCを取り入れてギター・サウンドを押し広げたりとか、今回のアルバムを作る上での重要なポイントがいくつか出ました。それに加えて、さっきも言ったように、ぼくはダンス・ミュージックっぽくなっていると感じたんですが……

柴田:ちょっとずつそうなっている感じはあります。それは何かを軸に作っているからかもしれないですね。やっぱりギターなので、基本はドラムありきで考えるんです。最初はスタジオへ行ってあわせるとか。その名残でドラムが主体のノリで作っていることが影響しているのかもしれないですね。とくにダンス・ミュージックを意識しているわけではないんですよ。

過去の作品も抽象的なデザインで、曲のタイトルもアブストラクトなものが多いといいます。新作も……何で『ホテル』というタイトルなんですか?

柴田:よくホテルに泊まっているからです。

ほぉ、ラブホテルに。

柴田:いや……。

ホテルの清潔感というか、無菌室的な感じでしょう? そういうのはサウンドにも出ていますけど。

柴田:ラブホテルばかりに行っているわけじゃないです。

柴田さんのなかには自分のサウンドに対して映像的なものがあるんですか?

柴田:映像はないんですけど、イメージはあります。無菌室的な感じとおしゃっていましたが、音楽の博士が誰とも喋らずにやっているようなイメージがありましたけどね(笑)。

昔の作品だと歌詞カードがついていますけど、メッセージみたいなものをヴォーカリストの萩原さんはもっていらっしゃるんですか?

柴田:あんまりもっていないみたいですよ。

歌詞に関してはおまかせなんですか?

柴田:ぼく、歌詞を知らないんですよ。ぼくが曲を作ったらそれを相手に丸投げするんです。それでヴォーカルが歌詞と歌をつけてくれる。

シュールな世界ですよね。ヴィジュアルにしても、シュールレアリズムですよ。ジャケのインナーには爆弾があって電球がある。これはいったいなんだろう……で、ここに共通を見出せっていわれてもね(苦笑)。

柴田:そこに数式はないですね。最近は音楽の「楽」が「学」になっているんです。ずっとこういう音ばっかりを考えていますからね。ノイローゼになりそうになる。

メンバーのなかで、柴田さんの作業が一番多いんですよね?

柴田:そうですね。ずっと部屋に閉じこもってます。人とも喋らないですからね。

精神のバランスを失いながらやるんですね。

柴田:それはあんまりないですね。どっちかっていうといつも躁状態なんですよ。うつにはまったくならないんです。

サウンドがうつじゃないから。

柴田:悩みごともないんです。今日の飯どうしようかとか、小さい悩みはありますよ。

大きな悩みを抱えている音楽には思えないです。

柴田:だからメッセージを発したくもないというか。

ぼくなんか悩みだらけですけど……。しかし困ったなぁ。読者にヨルズ・イン・ザ・スカイを紹介したくていろんな質問を投げているんですけど、ますますわけがわからなくなってきました。

柴田:すいません。

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Q:大きな悩みを抱えている音楽には思えないです。

A:だからメッセージを発したくもないというか。

目標にしている音楽ってありますか? 理想というかね。

柴田:理想ですかぁ……。

「(理想は)ヨルズ・イン・ザ・スカイに決まってるだろ!」とかって答えないんですか?

柴田:それいいっすね。

志しているところがきっと高いんですね。目標意識というか、自分が作りたいものというか。ぼくはは計り知れないな。ぼくはエレクトロニック系のミュージシャンにインタヴューすることが多いんですが、そういうひとって大体ひとりでやってるんですよね。だからひとりで音をコントロールできる。でもヨルズ・イン・ザ・スカイはバンドじゃないですか? ヴォーカリストもいるし、そこが他とは違いますよね。

柴田:ちょっと気持ち悪い話なんですけど、ヴォーカルは一番の親友なんですよ。

愛し合っているんですね。

柴田:そうなんですよ……っていってみたりして。一番の親友であるところはすごくデカい気がしますね。いっしょに音楽をやりたいっていうところが一番デカい。ひとりだと寂しくなるみたいな。

大阪はどちらにお住まいなんですか?

柴田:天王寺に近いところに住んでます。ヴォーカルの萩原は点々としていて、いまは京都にいます。

大阪の方が住みやすいですか?

柴田:比べたことはないんですけど、住みやすいですね。まぁ、どこでもいいんですけどね。思い入れが強いわけでもないし、大阪を好き嫌いっていう基準で見たことっもないです。

地元でもライヴをやるんですか?

柴田:イベントに誘われたら出るくらいですね。あんまり自分らでやることはないです。4人のときは企画をやったりしていましたけどね。

その当時はどんなイベントをやっていたんですか?

柴田:もう辞めたメンバーがいろいろやってくれていたので、何ともいえませんね……。

マネージャー・タイプの方だったんですね。

柴田:そうですね。経理とかもやっていました。残ったメンバーは何もしません。

ヴォーカルの方も柴田さんと同じようにあんまり音楽を聴かないんですか?

柴田:聴かないですね。まずふたりで音楽の話をしないですね。

どんな話をするんですか?

柴田:どんな話だろう……。

「空がきれいだ」とか?

柴田:まぁ、たわいもない話ですね。家族間で喋るような脳みそをまったく使わない話です。

今回のアルバムでいろんな実験をやっていると思いますが、とくにこだわったところがあれば教えて下さい。

柴田:ギターにはやっぱりこだわっています。ギターってフレットが決まっているじゃないですか? それで弦が6本あって、チューニングがあって……。だから普通に弾いても面白くないんですよ。響きも結局は同じになってくるから、妙なコード進行をしても真新しさは感じられなくて……。そこから数学的に分解していくことを考えて、出る音の組み合わせを増やしていくというか。それはコンピュータでやるしかないんです。伝わりにくいかもしれないんですが、自分でリズムマシーンみたいなものを作って、そこにギターの音を当てはめているんです。それをランダムに鳴らして音を抽出したりもしていました。ずっとランダムなままでも流れができないから、そこでプログラムをしてランダムの範囲を指定したりとか。そうすると結果的に違った響きになるんです。

正直にいって、これまでのアルバムのなかで一番好きです。でも最初の質問に戻ると、この音楽はいったい誰が聴くんだろうとも思いました(笑)。

柴田:そうですよね(笑)。自分の世界を作っていただけですからね。

さて、何か言い残したことはありますか?

柴田:何かあるかな……。

「とにかくこの内ジャケットの謎を解け」とか? 

柴田:うーん。

マスタリングはPOLEなんですね。

柴田:大阪のレコ屋のナミノハナ・レコーズの方に教えてもらったんです。ちなみに、アルバムのタイトルはラブホテルとは関係ありません。

外国人から見るとラブホテルってすごいんですよ。海外にはないものだから、町中にこんなものがあるのかって驚くんです。ヨルズ・イン・ザ・スカイも、ワシントン・ホテルというよりも、そのいかがわしさから言えば、ラブホテルの方が近くないですか?

柴田:なるほど(笑)。

前のアルバムから3年ぶりだから、すごく時間がかかっているんですよね。

柴田:やっぱりドラムが抜けたことが大きかったかもしれないですね。作品の目的に到達するためのプロセスよりも、時間を縦軸で考えるようになったといいますか。決められたことだったら排除してもいいんじゃないかというか。それでいまの瞬間でできることを重要視するようになりました。メンバーが3人から2人に減ってから、そこも考えるようになりましたよね。バンドでやりつつもコンピュータも導入して、面白いことができないか模索してましたね。それで時間がかかりました。

この先はどんな活動をしていくんですか?

柴田:ぼんやりしかないんですけど、先に何かを作って時間差で出して、いまやっていることが次の小節に出てくるというか……。本当にぼんやりなんですけどね。押したら何か音がでるタップゲームみたいなものがあるじゃないですか? それをギターでやってみようかとか、違ったアプローチを考えてますね。

よくわからないですが……。

柴田:それでどうなるかわかんないけどね。普通にギターをジャーンと鳴らすことには興味がないですね。どんどん人気がなくなっていくでしょう。誰が聴くねんっていうか(笑)。


2015年1月31日(日)京都・METRO
僕の京都を壊して~YOLZ IN THE SKY『HOTEL』RELEASE PARTY
OPEN 18:00 / START 18:30
前売 ¥2,500 / 当日 ¥3,000 +1D
LIVE : YOLZ IN THE SKY / group_inou / FLUID
チケット : ぴあ(P:284-164) / ローソン(L:57371) / e+
info:METRO https://www.metro.ne.jp/

2015年2月4日(木) TSUTAYA O-nest 03-3462-4420
YOLZ IN THE SKY『HOTEL』RELEASE PARTY
18:30OPEN 19:00START
前売¥2,800 ドリンク代別途 当日¥3,300 ドリンク代別途
LIVE:YOLZ IN THE SKY / skillkills / 快速東京
チケット 11月14日発売開始
ぴあ(281-981) / ローソン(74125) / e+ / O-nest店頭
info:TSUTAYA O-nest 03-3462-4420



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