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JUZU A.K.A. MOOCHY
Live Mixed @Sound-Channel Osaka On 20090926
PROCEPTION / JPN / 2010/2/22
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JUZU A.K.A. MOOCHY
Live Mixed @Sound-Channel Osaka On 20090926
PROCEPTION / JPN / 2010/2/22
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00年代を予見した音楽としてレイディオヘッドやゴッドスピード・ユーが取り沙汰される時、それは気分的なものを差すことが多い。アラブ・ストラップであれ、フィッシュマンズであれ、90年代末にメランコリックなムードが充満していたことはレイヴ・カルチャーへの反動としても理解できるし、同時多発テロ以降の閉塞感を見通したというのなら、そういう言い方も決して無理ではないだろう。ゴッドスピード・ユーには、しかも、ドローン的な表現との橋渡しになるという音楽的なポテンシャルも少なからずあった。サン O)))やナジャといったドゥームからアルヴァーやヴェルヴェット・カクーンといったブラック・メタルにもその陰は落ち、アンチコン=ヒップ・ホップやブレイクコア=ワールズ・エンド・ガールフレンドがその磁場に引きずり込まれていったことも印象的なモーメントだったといえる。
予見的な可能性という意味では、しかし、99年も終わろうかという頃にリリースされた『マジック・サウンド・オブ・フェノバーグ』よりも音楽的なポテンシャルの高さを示したアルバムは当時はほかになかった。クリスチャン・フェネス、ジム・オルーク、ピーター・レーバーグという、その後の10年間にわたって存在感をアッピールし続けた3人が抽象的なイメージと具体的なサンプリングをぶつけ合い、勃興期のレイヴ・カルチャーとはまったく異なる混沌がそこには叩きつけられていた(チックス・オン・スピードによる奇怪なアートワークも強烈だった)。それは早くもエレクトロニカの鬼っ子的な表現であり、結果的には実験音楽の復興にも寄与する導線ともなった。あるいはブラック・ダイスというフィルターを経てオーヴァーグラウンドとの接点を探るものとなり、ピーター・レーバーグがサン O)))のスティ-ヴン・オモリーと組む(=KTL)ことでドゥームとのクロスオーヴァーも達成している。ソースはあらゆる方向にぶちまけられたのである。
KTLが来日した際、レーバーグに話を聞いていると、ふと、彼が「フェノバーグの3枚目が出るよ」と教えてくれた。3年前のことである。なんだよ、ウソだったのかなと思っている頃にようやく『イン・ステレオ』が店頭に並び、輸入盤はすぐに売り切れた。02年にリリースされたセカンド『リターン・オブ・フェノバーグ』(これもチックス・オン・スピードによるアートワークが秀逸)がシャープさを増していたのに対し、3作目は自らがつくりだした混沌を増幅させるようなものではなく、ヨーロッパ的な洗練に磨きがかかっているような印象が強い。唯一のアメリカ人であるジム・オルークが『ザ・ヴィジター』でポスト・クラシカルの決定打といえる方向性にシフトしたことも関係があるのだろう(アメリカのシーンが衰退しているわけではない)。かつては弾け飛ぶように、あるいは、突き刺さるようにアウトプットされていた電子音はここでは何かを撫で回すようにねっとりとした感触に取って代わられ、安直なアンビエント・ドローンへの迎合どころか、部分的にはジョン・ハッセルやラズロ・ホルトバギを思わせるドローン・ジャズとも接合しかねない。なるほどこれはミュージック・コンクレートとクラブ・ミュージックの快楽性を止揚させた成果といえるだろう。そう、クラブ・ミュージックのチープさを批判し、高度な音楽性を訴える者はここまでやるべきではなかったか。
帰ってきた......ドラムンベースの帝王が......初期のシーンから一貫して変わらないその凶暴性と言う名の鎧を身に着けたまま......あの頃から何も変わっていない。変わったのは、ゴールディー以外のものすべてだ。これが本物のカリスマの姿である。
ドラムンベースのカリスマ"ゴールディー" x ダブステップのパイオニア"ハイジャック"、本国UKでもお目にかかれない共演にUNITフロアは興奮の坩堝と化したスペクタクルなDJショーの幕開けである!!
振り返れば1996年、伝説の新宿リキッドルームからはじまったDBS。本場UKのリアル・グルーヴをそのまま体感できる数々の伝説的一夜を実現させ、いまなお、ベースライン・ミュージックの"真実"を伝えている老舗パーティ! 今年でなんと13年目に突入した名実ともに日本のドラムンベース界を代表するトップ・イヴェントであるのは言うまでもない。
さて、2008年5月17日以来の来日となったゴールディーだが、昨年、待望のアルバム『Memoirs Of An Afterlife』をラフィージ・クルー(RUFIGE KRU)名義で発表。メタルヘッズ全開のベースラインが唸るダーク・コアな作品から現在のトレンドであるディープでアトモスフェリックなフィロソフィック・チューンなど......健在ぶりを知らしめるだけでなく、その存在価値、音楽的才能をさらに押し上げる歴史的傑作となったのは記憶に新しい。
インターナショナルに活動する 日本のダブステッパー、ゴス・トラッド |
オリジナル・ダブステッパーのひとり、ハイジャック |
オープニングを務めたのは日本のダブステップ・シーンにおける先駆者"ゴス・トラッド"。DJセットの今回でもタイトかつテッキーなセットでフロアをロック。あらためて世界で活躍する日本のダブステップ界のパイオニアである彼の力を知らしめた。そして1時を回ってハイジャックの登場だが......saloonでプレイしていた筆者と時間帯が被ってしまい、残念ながら生で見れなかった......何人かに取材したところ、賛否両論。「ダブを惜しげもなくプレイしていて素晴らしかった」、「PCDJで残念」、「ダブステップ創世の息吹を感じた」等々......。いろいろ感想はあるようだが、彼のエクスクルーシヴ・ミックスをオンエアしたインターネット・ラジオ・ステーションTCY RADIO TOKYO"Stepp Aside!!!"でも聴くことのできる彼のプレイ――ダブの数々や最新リリース・チューンを躍動感溢れるそのミックス・テクニックによって披露し、フロアをロックしたことは間違いない。もうひとつ言えることは、彼がシーンのパイオニアのひとりとして、ダブステップの創造力、躍動力、高揚力を日本に運んでくれたことであり、本場UK最高の"熱"を伝えてくれたことである。現在最高点に近い盛り上がりを見せている本場UKだが、日本ではまだまだ熱しきれているとは言い切れないのが現状で、だからこそハイジャックのようなパイオニアが日本でいまプレイすることは重要である。是非この先も日本のパーティ・ピープルに驚きと発見をもたらして欲しいものだ。
ちなみに、ハイジャックの裏でもろに被ったsaloon@TETSUJI
TANAKAでありましたが、たくさんのオーディエンスに来て頂いて大熱狂!!! 陰様でフロアが満員になり、大盛り上がりでした。その時間帯saloonに来て頂いた方、踊ってくれた方、ありがとうございました! 次は4月17日、今度はUNITメインフロアで会いしましょう。
いまかいまかとオーディエンスが待ち望んでたゴールディーだが、ハイジャックの途中からなんとマイクを持ち、自らMCでナビゲート。われんばかりの歓声が飛び交ったのは言うまでもないが、とにかくこのカリスマは煽り続けたのである。そして、ゴールディとハイジャックが交代するその光景は、新旧各シーンのパイオニア同士がジャンルの境界を跨ぎ、行き来するまさにUKダンス・ミュージックの象徴"ハイブリッド"の生の姿であり、DBSが呼び込んだ貴重な偶発的かつ必然的姿であった。
マイクを持って叫ぶドラムンベースの王様! |
UKアンダーグラウンドの両雄! |
こうして、ゴールディーのプレイが大熱狂のなかはじまった。彼自身やメタルヘッズのダークコアな作品、ディープ・ミニマルな選曲構成を中心にプレイ......歓声とベースラインがリフレインしている......この光景、この姿、この形こそリアル・アンダーグラウンド・ミュージック"ドラムンベース"本来の状態なのだ。そう感じた矢先、ゴールディーがあるひとつの強力な武器を持ち出した。その場においては異質とも取れる曲は......何か......発した瞬間、ジャングリストたちの秘めた熱狂性とその現在のトレンドで覆っていたカレントリーな空間を瞬時にスイッチ......DBSでは稀な光景である。生粋のパフォーマーとしても名高いゴールディーが最高潮に煽りだし、サイドに付いたドラムンベースMC日本代表カーズとともに縦ノリに変化したオーディエンスと渾然一体となり、その勢いはまたく止まらない。その武器とは、ニルヴァーナ"スメルズ・ライク・ティーン・スピリット"のオリジナルだった!
時代淘汰されることなく歩み続けたロック・ミュージックとエレクトロニクスの発展により90年代に時代を捉えたドラムンベース。すべてを呑み込む許容性があるこのジャンルに不適切、不適合は存在しないと改めて実感させらてた。本当にフレキシブルで独自の進化を歩んだからこそこうして多くの人たちを魅了しているのだ。ダブステップもこれとまったく同じ道を辿っているのは、周知の通りである。すでに本国UKではドラムンベースを"越えてしまった"感があるこのダンス・ミュージックの新たな"核"が必ずやこの先も我々をユートピアに誘うだろう。世界中の隅々で......。
それからゴールディーは、後半に差し掛かった辺りから選曲を懐かしのドラムンベース・クラシックスにシフト。LTJブケム、アートコア・マスターピース"Horizons"をスピン。オールド・ファンの心を掴んだだけでなく歴史の生き承認としても歩んできたゴールディーの懐の深さも垣間みれた瞬間だった。ふと時計を見たら5時を回っている。大幅な延長プレイにみんな大満足だった。まったくプレミアムな空間に包まれたのである。そして2010ジャパン・ツアー最後の曲は、これまたメタルヘッズ・クラシックス、名盤中の名盤、ラフィージ・クルー"Beachdrifter"。こうして感動的かつ叙情的な閉幕となった。
ドラムンベースの限りない底力とダブステップのさらなる躍進、今回もまたそれを感じた最高のパーティだった。ベースライン・ミュージックを二分するこれらジャンルに向けて賞賛の意を表したい。DBSの持っている"力"にあらためて尊敬の念を表し、これからも筆者は歩んで行くだろう......ベースラインが消えない限り。
次回パーティ・リポートは筆者も出演の4/17DBSを予定しております。乞うご期待!
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BILLY LOVE (THEO PARRISH feat. BILL BEAVER)
MELLOGHETTOMENTAL
SOUND SIGNATURE / US / 3月2日
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LOWER EAST SIDE PIPES
MINI DEMO SAMPLER
SACRED RHYTHM/US / 3月9日
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TRISHES
DIDN'T I ? / MAKE A SMILE FOR ME
THE LOUD MINORITY/AUS / 3月9日
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もう随分と前にリリースされたこのデリック・メイの13年ぶりのミックスCD。すでにele-kingでもデリック本人のインタヴュー記事が掲載されているし、推薦文書いてるのが野田編集長であるからして、もう大半の人が購入して聴いていることと思う。だったら、なんでいまになってレヴューを? ということだが、その推薦人に「たまにはケンゴのデリック・メイ論を読んでみたいじゃないか」などと言われてしまったからだ。いやぁ、論などというほど立派なものをもちあわせてるわけじゃないんだけど。そう、でもそれで思い出したのは、1993年5月、ロンドンで体験したデリックのDJのことだった。
あのころ、UKではレイヴがどんどん巨大化してきちんとスポンサーが付いたり許可を取って開催されるものが増えて、なかでもシカゴ・ハウスからジャングル、そして当時急激に注目されはじめてたジャーマン・トランスまでとにかく全部集めたというようなラインナップでいちばん人気だったのが〈Universe -Tribal Gathering〉だった(〈Rising High〉が公式コンピやテーマ曲出したりしてた)。その金曜には郊外で2.5万人を集めたそのレイヴがあり、僕はチケット買えなくてそっちは行けなかったんだけど、翌日の晩にブリクストンのVOXって巨大なハコでやったテクノの伝説的パーティ〈LOST〉も、UKに集結したトップDJたちを集めたという感じで普段より豪華だった。そこにヘッドライナーとして名前を連ねていたのが、デリック・メイだった。
当時の僕はといえば、もうハードコアやジャングルからトランスに夢中になりかけていたころで、正直言ってデトロイト・テクノとかもう古いっしょ的な生意気な若者にありがちな勘違いをしていた。が、その晩のデリックはデトロイトがどうとかテクノの歴史がこうだとかそういうことはもういっさい粉砕して、異国の体育館みたいな誰ひとり知り合いもいない真っ暗で汗と埃の臭いのするだだっぴろいフロアでひとり寂しく踊る僕の頭上に天使を舞い降りさせた。いや、実際には天使は隅のほうでうろうろしてた黒人のカラフルなウエストポーチの中から飛び出してきたのかもしれないけど、いずれにしてもそのときのデリックは本当に神がかっていた。
デリック・メイの選曲が一概にテクノではない、いやむしろハウスと言ったほうがしっくりくるというのは、実際に彼のプレイを聴いたことある人なら誰でも思うだろうし、これまで彼が世に出したたった1枚のミックス盤『Mix-Up vol.5』を覚えていれば納得するはずだ。このときもデリックは古いアシッド・ハウスからアムスあたりで掘ってきた最新のトラックまで、ファンキーでセクシーでアグレッシヴなグルーヴを紡いだ。なにより驚かされたのは、次々に曲を繰り出して、バックスピンやせわしないフェーダーさばきなど手数多く出音をいじって彼流のリズムをDJプレイに与えていく、あのスタイルだった。もちろん、それは彼ひとりで作りあげたスタイルではないのだが、日本でデリックがプレイして以降それを見たDJたちがこぞって同じようなトリックを自分のプレイでも取り入れていったことは疑いない。ある程度「デリック・メイっていうすごいやつが来る!」っていう事前情報があってもそれだけ衝撃的だったのだから、そのときの僕のやられ具合を想像してみて欲しい。リル・ルイスの"French Kiss"という、ブレークで喘ぎ声だけになってスローなビートがだんだんスピードアップしていって元の激しい4つ打ちのビートに戻るという曲がある(デリックの十八番でもある)。このときデリックは、あれみたいなことを手動でやっていた。でかいブレークを作って、しばらく無音にして、そのあとレコードを手でゆっくりゆっくり回転させはじめた。しかも、逆回転で。片方の手でテンポが128くらいになるまでレコードを回し続け、もう片方のターンテーブルから正回転の、ずぶといキックの音が重なってきたときの絶叫に近いフロアの盛り上がりは、一生忘れられないだろう。
......ほんと、このときの話は新書一冊分くらい書けるんだけど、またそれは別の機会に。今回のミックスCD、アナログ盤を使って昔ながらの手法と技法で録音された25曲は、いかにもデリックというスタイルと音をしている。彼がここ数年東京では一番頻繁にプレイしている代官山のAIRとのコラボレーションという形をとっているからか、ダイナミックで多少の失敗はものともしないライヴ感溢れるミックスだ。おもしろいなと思ったのは、かなりボトムの強調されたキックが目立つ曲が多くて、いまどきの線の細いミニマルやクリックを聴き慣れた耳にはちょっと驚くほど重いビートが襲ってくることだ。ベン・クロックとかベン・シムズとかキラー・プロダクションズあたりに象徴的だが、デリックがそういう音をジャジーな旋律がいかにもな曲と並行してチョイスしているのは意外にすら思った。一方で純粋にデトロイトの曲となると、恐らく冒頭のアンソニー・シェイカーたった1曲だけなのだから。
実際のところ、今回のCDが「作品」として後世に残るようなモノでないことは誰の目にも明らかだとは思うが、逆にそれがデリックの「俺はまだまだこんなところで終わるつもりはないぜ、DJ活動の総決算を作るのはずっと先」っていう宣言にも感じられて頼もしい。理想を追い、あれやこれやと考えすぎて結局形にならない、ということをこれまでずっと繰り返してきた気がするデリック・メイ。それは、彼が自己を含めて客観視できるプロデューサー的視点を持っているから起きた不幸とも言えるだろうし、彼が非常に優秀なリスナーであるゆえに自作のペースや質が理想に追いつかなかった結果生じたとも言える。しかし、リスナーとしての貪欲さとかセンスというのは、DJとしては決して失ってはならないもので、それはデリック同様、かつてダンス・ミュージックの歴史に永遠に刻まれる革命を起こしたトッド・テリーやベルトラムといった連中が、自分の曲ばかりをかけるという罠にはまってそこから抜け出せなくなってしまったことからも見て取れる。そういう意味で、デリック・メイは間違いなくいまでも現役トップのDJのひとりだろうし、ハコでのライヴ録音をそのまま切り取ったようなこの盤にしても、精緻に作り込まれたミックスでは失われがちな律動や空気感みたいなものをしっかりと備えている。デジタルVSアナログというのは、本来利便性や技法の問題なはずなのに、結局いつも精神論やオカルト的なところに話が落ち着いてしまうのがどうも納得いかないが、その土俵に敢えてのるなら、やはりプロにはできるだけアナログ盤を使ってほしいなと思う。そして、デリックには、とにかくセクシーでかっこよくあるためにヴァイナルを使い続ける責務があるし、無条件にそれを擁護する権利もあると、このCDを聴いて再確認した。
ダブステップのレーベルとして知られる〈ホットフラッシュ〉を運営するスキューバにとっての最大の影響がオウテカの『インキュナブラ』と『アンバー』だそうだ。たしかに初期のこの2枚にあるものと言えばダンス・カルチャー(レイヴ・カルチャー、いや、セカンド・サマー・オブ・ラヴと言ってもいい)からの影響......というかその時代の甘い夢のような感覚だ。『インキュナブラ』には明らかにアシッド・ハウスの脳天気なトリップ感が漂っているし、いまとなっては「あのオウテカでさえもこの時代は......」といったところだろう。その1年後の、ダンスの俗的な熱狂から離れて、そしてIDMというサブジャンルを開拓したと言われる『アンバー』にいたっては満場一致で初期のマースターピースである。
『アンバー』が面白いのは、"Nil"のようなぞくっとするほど美しいアンビエントがある一方で、おそらく彼らのもうひとつのルーツであると思われるインダストリアル・サウンドをよりアシッディに変換した"Foil"のような曲があることだ。そういう意味で引き裂かれているのだが、"Foil"をアルバムの1曲目に持ってきたように、それに続く『トライ・レペテー』以降のオウテカは"Foil"の路線、要するにアシッド・ハウス的な夢からどんどん醒めて、彼らのインダストリアルな感性を急進的に磨いてきたそのときどきの結実だと言えるだろう。
まあ、それでもまだ『トライ・レペテー』には甘い記憶がある。が、シロー・ザ・グッドマンやコーマが影響を受けたという『キアスティック・スライド』にしても、あるいは『LP5』にしても......、いやいやそれを言ったら『コーンフィールド』以降にいたっては......、まあとにかくオウテカのリズム・トラックからはなかばサディスティックなまでのインダストリアルな感性が聴こえてくる。アレックス・ルタフォードが自身のLSDトリップをヒントに作ったという『ガンツ・グラフ』の映像、あるいはオウテカの作品を飾る一連の素晴らしいデザイン――例えばフランク・ロイド・ライトの建築を引用した「エンヴェイン」、フェティッシュな人工美をデザインした『コーンフィールド』や『ドラフト7.30』等々のアートワークからもそれは充分にうかがい知ることができる。こうした人工美への病的とも思えるこだわりこそ彼らがマントロニクスの音楽から聴き取ったものなのだろう。同じエレクトロ・ヒップホップをルーツに持ちながらもそこがプラッドらとは大きな違いである。そしてあたかも音楽表現における精神主義に逆らうように、工業都市マンチェスターからやってきたふたりの頑固者は自分らの美学を曲げることなく、しかもリスナーの耳を離さなかったのである。
が、そんな理解のあるリスナーからも、さすがに『アンティルテッド』(2005年)に対しては「冷たすぎる」という拒否反応があった、と彼らは言う。冷たさはオウテカの魅力のひとつではあるが、彼らはやり過ぎたのかもしれない......先日『SNOOZER』誌で取材したときにロブ・ブラウンが語ったのは、『アンティルテッド』ほどファンの好き嫌いを分けた作品はなかったということだった。ブラウンは、しかし『クオリスタス』(2008年)によってそれを覆したと言うが、本当にそれができたのは本作『オーヴァーステップス』である。
『オーヴァーステップス』はディテールにおいてより複雑である――とふたりが話すように、このアルバムは面白いように彼らの複雑性を楽しめる。いわゆる"non music"と呼ばれるものの最新型であろう。これを聴いたあとでは『LP5』や『ep7』がポップに思えるほどだ。
僕がオウテカのアートワークのなかでもっとも気に入っているのは『アンバー』だ。彼らの作品中で唯一、自然の景色をジャケットにあしらっているアートワークだが、しかしそれは......砂丘なのだ。デザインを手掛けたデザイナーズ・リパブリックのセンスを褒めるべきなのだろうけれど、あの写真の、自然が自然ではないような際どさを醸し出している図像はオウテカの音楽とたしかに重なる。そうした絶妙な不確定さが『オーヴァーステップス』にはある。音像の細部に変化があり、つかみどころがなく、下手したら無人島に置き去りにされたような悪夢を味わうかもしれないけれど、それでもこの作品はいままで以上に耳を楽しませる。また、嬉しいのは、このところ続いていた過剰な激しさの代わりに穏やかで美しい瞬間が聴けることだ。『アンバー』の頃のような美を聴くことさえできる。アートワークも素晴らしい。
話を冒頭に戻そう。オウテカの徹底的に無機質なアンビエンスはダブステップの"ダークの芸術"にも通じる。スキューバは、「しかしいまのオウテカは聴けたものじゃない」と話しているけれど、『オーヴァーステップス』を聴いたら考えを変えて、納得するかもしれない。『アンバー』が15年かけて凄みを増し、何か別のモノに化けてしまったということに。
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"ボーイズ・オン・ザ・ラン"のPVが話題になっている......いや、すでに数週間前の話だが。とにかく、それなりに話題になっていた。ご覧くださればその理由もおわかりになるはず。あの『SNOOZER』もまったくスルーした"ボーイズ・オン・ザ・ラン"のPV、その合評をどうぞー。
観て一驚を喫したのは、そこに映し出されていたのが、
このとき振り落とされた男性たちであったことです。文:橋元優歩
GOING STEADY時代のファンが多いというだけのことかもしれませんが、驚いたのは、あの女性ジャケのシングルを実際に被写体のような女性が買いにくることです。いまはなき御茶ノ水の某店舗、パンクとインディ・ロックだけを置いた薄暗いフロアにて、ファースト・アルバム2枚同時リリースから2年半を経て、銀杏BOYZのシングル「あいどんわなだい」が店頭に並んだとき、鋲打ちジャケットの男性や若いサラリーマン等々の後ろから、正月でもないのに着物を着た可愛らしい女性がちょこちょこと入ってきて「みねたくんのシーディーください」(!)と言ったことは、非常に印象深かったです。その週は女性客がいつになく多く、もちろんたいていは「みねたくんのシーディー」のお客さん。そしてたいていが可愛らしい。ちょっと待ってください、あなたがたは、スカートをめくられ("日本人")、体操服を盗まれ("Skool Kill")、1000回妄想("トラッシュ")されているのですよ!? しかし「みねたくん」ならよいのです。
曲中では、女性=「あの子」はいつも手が届かないひとつの究極の存在として表象されるし、そのために結局は転校してしまう("あの娘に1ミリでもちょっかいかけたら殺す")けれど、実際にはモテてしまう「みねたくん」。彼が同世代の男性に課したハードルはとても高い。
PEACEとPISSを心に放て スカートをめくれ/凶暴的な僕の純情 キュートな焦操/
(中略)/球場を埋め尽くす十万人の怒号と野次/グラウンドに投げ込まれるゴミの嵐にも負けず/九回の裏50点差の逆転を狙う/素っ裸の九番打者に僕はなりたい――"日本人"
デビュー・アルバム『君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命』収録曲ですが、2005年に、この主題はあまりにハードです。地下鉄サリン事件から数えても10年も経っている。九回裏での50点差......九回裏ってものが、10年前に終わってしまっている。これを言えるならヒーローだ。それなら女性もついてくる。また、ついてくるからこそそう言える。しかし、この主題を真に受けるなら、ほとんどの者がそこからこぼれ落ちるだろう......。
銀杏BOYZ ボーイズ・オン・ザ・ラン 初恋妄℃学園/ UK.PROJECT |
久しぶりのリリースとなる本シングルのPV「ボーイズ・オン・ザ・ラン」を観て一驚を喫したのは、そこに映し出されていたのが、このとき振り落とされた男性たちであったことです。一種のドキュメンタリー・ムーヴィーの形をとっていて、「将来の夢」とおぼしき事柄を書いたフリップを持った男性が次々と現れ、簡単なインタヴューを受ける。それが延々と続く。セーラー服や、彼らの3枚のシングルのジャケットを飾る、あのあどけない表情をした女性の登場を予期していると、完全に肩すかしを食らいます。それどころか女性はひとりも出てこない。戦争オタクを皮切りに、アイドル、ガンダムなど各種オタク、「脱ニート」や「リア充」を掲げるライトな生活者、正社員志望のロスジェネ既婚者から5000万円を女性に貢いでしまった中年男性、親の介護で消耗しきっている青年等々矢継ぎ早に映し出され、そのいっぽうで「世界一周」や「ストパーかけたい」というささやかな願望も語られる。ごく普通の若い人もいるけれど、頭の薄い人や話し方が宿命的にイタい人など、ある一定の線は充分に意識されている印象を受ける。ひどく滑舌の悪い中年男性の夢は「21世紀のリーダー」だ。
素っ裸の九番打者どころの話ではないです。過剰な流動性を生み出す成熟社会にあって、また、生きていくのに必要なだけのストーリーを調達するのに以前ほどには素朴でいられないポスト・モダン状況にあって、多くの人が舵を切り損ねている。あるいはオタク化するなど急ハンドルを切っている。
「みねたくん」の言葉は今度は彼らに届くのでしょうか。もういちど彼らを挑発することができるのでしょうか。率い、目指され、より説得力のある男性モデルを立ち上げることができるのでしょうか。映像は画面転換の速度を増し、曲はバーストし、とくに結論は導き出されない。ただ、最後に写った男性の言葉は、とても印象的に使われていました。「まあ、なるまで......闘います。闘ってもダメだったら、まあ勝つまで、諦めない、まあ死ぬまで、まあ天国に行っても、諦めません。」
彼は何になるのか? なりたいのか? 正社員に、です。「ほぼ見込みがないかも」という自信のなさをありありと表情に伺わせながら、「まあ」を多用して諦めないことの照れを隠しながら、ただ「諦めない」というキャラだけは自分に設定しておこう、と。もう切なくて観れたものではないです。天国に行ってから正社員になってもまったく意味がないのですから。
前シングルからさらに2年のインターバルを置き、自らのテーマの洗い直しをおこなったかに見える本作は、だから以前までは曲の対象からはずされていた種類の女性に対しても届き得るものになっているのではないでしょうか。おひとりさま、腐女子、カツマー、さらには森ガール等々の類型は、上に出てくる男性たちと対称形を成している。それは流動的な社会を生きる上で、ひとつの拠り所として切実に選択された態度です。
サア タマシイヲ ツカマエルンダ――"若者たち"
つかまえあぐねている人びとに、もう以前のようには煽らない。そこにはそれ相応の背景や事情があるから。でもやっぱり、さあ、魂を、つかまえるんだ。複雑な社会であることはわかっているけど、やっぱりやらなければいけない、「もう一丁」!――"ボーイズ・オン・ザ・ラン"
"ボーイズ・オン・ザ・ラン"は、それを以前のように直接言わないことで、より普遍的な表現を勝ち得た力作であり、PVとしては破格の喚起力を持った問題作である。もちろん、社会問題が絡む以上は若干の既視感は否定できない、が、実際にいまを生きている男性の顔を正面から撮りまくるというのは、方法的にも非常に有効であると思う。人が素でカメラに向かうと、いろいろなものが写り込むから。
文:橋元優歩
何がそんなに腹立たしかったのか。それは、制作側の銀杏BOYZの、「イケてる/イケてない」という判断基準のベタさ加減だ。「勝ち/負け」にたいする想像力の貧困さと言い換えてもいい。文:二木 信
銀杏BOYZ ボーイズ・オン・ザ・ラン 初恋妄℃学園/ UK.PROJECT |
"ボーイズ・オン・ザ・ラン"のPVが巷で話題になっていると聞いて、youtubeで見てみた。いまさらこの映像に鼓舞され、熱狂する若者がいると思うと悲しくなった。愕然とし、無力感に襲われ、そして、「もういい加減にしてくれよ」とひとりごちた。銀杏BOYZが関わっているとだけ教えられた僕はその時点で映画も観ていないし、原作の漫画も読んでいなかった。銀杏BOYZを聴いたこともなかった。それでも、けっこう期待していたのだ。好き嫌いはあるとしても、若者から熱烈な支持を得ているロック・バンドが関わっているのだ。何かこうヴィヴィッドなものを見せてくるのだろうと。それなのに......僕は映像を見た後、しばらくして腹が立ってきて、悪態をつく衝動を抑えることができなかった。
"ボーイズ~"は、たしかに現代の日本社会のある側面を捉えている。映像は、街頭に立つ男たちと彼らが画用紙に書いた「夢」を次々に映し出す。場所はおそらく、渋谷、原宿、秋葉原だろう。「世界征服」「平和」「21世紀のリーダー」「脱ニート」「童貞を捨てる」「北川景子とベロチュー」「アイドル万才」「公務員」。男たちはカメラに向かって、意気揚々と夢を語り、現実の厳しさを訴え、ふざけた調子で踊り、怒りを吐き出す。衰弱した様子の中年の男は、精神科に入院する母親の介護から解放されたいといまにも泣き出しそうな表情で訴える。また、排外主義者の若い男は、外国人地方参政権に反対だという主張を捲くし立てる。登場するのは、だいたいが冴えない日本人の男たちだ。彼らの多くは、切実であり、切迫している。感情を揺さぶられる場面がないわけではない。
では、何がそんなに腹立たしかったのか。それは、制作側の銀杏BOYZの、「イケてる/イケてない」という判断基準のベタさ加減だ。「勝ち/負け」にたいする想像力の貧困さと言い換えてもいい。制作側は、意図的に「イケてない」男たちを選んでいる。そして、顔や風貌が冴えない男たちの振る舞いをどこか滑稽に撮影している。その偽悪的な撮影手法の裏には彼らなりの倒錯した愛があるのだろう。ただ、"ボーイズ~"が人を腹立たせ、不快にさせるのは、この場合転倒を図るべき新自由主義政策以降の社会における既存の「勝ち/負け」の基準を結果的に補強してしまっているからだ。世のなかには、経済的に恵まれていて、それなりに社会的地位があって、容姿が良くても不幸な男はいるし、その逆もまた然りである。顔や風貌が冴えなくて、貧乏で、ちょっと狂気じみている男たちだけが「負け組」で、「モテない」とは限らない。「勝ち/負け」というのはそんな単純なものではない。結局、多様性を打ち出しているようで、映像で提示されている「負け」はステレオタイプなものばかりなのだ。それは、単純に表現として退屈だ。
自分だけが被害者だと思う人間は最大の加害者になる、というようなことを書いた橋本治の言葉を思い出す。不幸なのは自分たちだけではない。中二病的な自己憐憫で心を慰撫し、小さい自意識に固執して、「モテる/モテない」などという他人の尺度ばかりが気になるというのは本当に恥ずかしいし、イタい。時に醜悪でさえある。翻弄されるぐらいならば、そういうゲームからさっさと退場するべきだし、その方法を考えるべきだ。
そもそも映像は、ゼロ年代を通じて可視化した社会的弱者のあり方をなぞっているに過ぎない。別の言い方をすれば、雨宮処凛や湯浅誠らが組織した、プレカリアート運動や反貧困系の運動以降の青春パンクと言うことができる。「フリーター」「ニート」「派遣」「格差社会」「ワーキング・プア」「ファシズム」「モテ/非モテ」「オタク」。新聞、週刊誌、テレビからネットまで、ありとあらゆるメディアが散々取り上げてきたキーワードだ。さすがにそれらを前提にして、男たちの自分語りの映像を見せられても白けてしまう。早い話が、"ボーイズ~"は、手垢のついた記号を引っ張り出して、捻りもなしに「イケてない」男たちに当て嵌めているのだ。12分近くにもおよぶPVの中盤以降、連帯を促すようにかき鳴らされるメロディアスなギター・サウンドの演出の陳腐なこと! 男たちのカタルシスだけで社会が変革できるのであれば苦労はない。銀杏BOYZというのは、いまだ社会化/可視化されることのない、こんがらがった言葉や感情を表現して時代の先を行くバンドだと思っていたが、"ボーイズ~"のPVは、完璧に時代から一歩も二歩も立ち遅れてしまっている。
そう、花沢健吾の原作漫画『ボーイズ・オン・ザ・ラン』のクライマックスがあんなにも素晴らしいのに。いわゆる非モテの主人公、田西敏行が鼻水を垂らし性に翻弄されながら駆けずり回る前半から、複数の物語が絡み合いながら、「家族=共同体」再編というメッセージが練り上げられていく後半へのドラスティックな展開は感動的だ。荒れた父子家庭で父親に無視され、学校では凄惨ないじめにあい、ボクシング・ジムに入り浸る小学生の男の子「シューマイ先輩」、荒くれ者の元ボクサーの夫を持つ、耳の聞こえないボクシング・トレーナーの女「ハナ」、そして田西が、時に傷つけ合い、時に助け合いながら絆を深めていく。ある時、ハナの夫にボコボコにされた田西は、「結局......非力な人間は負け続けなければならないのか?」というシューマイ先輩の問いに、「自分ざえ認めぎゃ、まだ負けじゃないっずっ!!」とぐしゃぐしゃな顔で答える。最終的に3人は、それぞれの「負け」を噛み締め、お互いを認め、前を向き、家族=共同体として生きようとする。社会の片隅で生きる女と子供と男が寄り添いながら、ともに堂々と胸を張って歩きはじめるのだ。とても美しいし、夢があるし、素敵な物語だ。そして、いまの時代に、説得力を持ち得る物語だ。
PVには、その、原作の重要なメッセージがまったく反映されていない。PVの最後は、「一日も早く正社員になりたい」という夢を持つ男が、「まあ、(正社員に)なるまで闘います。闘ってもダメだったら、勝つまで諦めない。死ぬまで、天国に行っても諦めません」と、自身の労働問題をなかばテンパり気味に語るシーンで締めくくられる。それは、前述した田西の発言に対応している。労働問題、重要である。競争も熾烈だ。現実は厳しい。ただし、少なくとも僕は、被害者意識に呪縛された男たちだけの共同性より、女と子供と男が入り乱れた予測不能な共同性の方に圧倒的に可能性を感じる。
文:二木 信
酷く複雑な気持ちになるのは、その映像の露悪性と、音楽の露善性の強烈なギャップだ。銀杏は彼らを思いっきり突き放すと同時に、同じ強さで抱きしめる。文:磯部 凉
「セックスのことを24時間考えている」。所謂"童貞"ブームの代表格だったマンガ家・古泉智浩が、童貞を失った後の世界を描いた単行本『ピンクニップル』(08年)の、自身による後書きには、そんなタイトルが付けられている。何故、考え続けなければならないのだろうか? それは、決して満たされることがないからだ。ひたすら虚しいセックスを繰り返す同作の主人公同様、私達は言わば餓鬼道に堕ちた罪人である。
00年代前半は、サブ・カルチャーにおいて、性愛の問題が重要な位置を占めた時代だった。もちろん、性愛の問題は常にあるものなのだけれど、キーワードを並べていくと、90年代後半に特徴的だったのが、援助交際が物議を醸した"コギャル"や、青山正明が先導した"鬼畜系"等、アンチ・モラリズム的な傾向だとしたら、00年代前半に特徴的だったのは"ケータイ小説"や"セカイ系"、"童貞"など、反動としてのよりモラリズム的な傾向である。また、ふたつのタームのあいだにあるのは断絶ではなく、あくまで変化であって、最初に挙げた"コギャル"が、その後の"ケータイ小説"へと形を変えたのだと考えられる。例えば、社会学者の宮台真司は、当初、援助交際を性愛のセルフ・コントロールとして高く評価していたのを、その後、当事者である女子高生の多くが精神のバランスを崩して行ったのを受け、彼女たちを守るシステムを構築するために保守主義へと転向していったが、速水健朗『ケータイ小説的ーー"再ヤンキー化"時代の少女たち』(08年)で指摘されていたように、純愛モノの仮面を被った"ケータイ小説"の裏に隠れているのはデートDVという醜い現実であり、その物語世界は、現実世界の性愛関係で受けた傷を治すための、ある種のヒーリングとして機能しているのだ。ありもしないふたりだけのセカイを夢想するのも、過ぎ去った童貞時代を美化するのも、また然り。00年代も中頃になると、なかには、最初から傷付かないために現実の性愛関係自体を回避するという極端な思考まで登場した。ライト・ノベル作家の本田透が発表したエッセイ『電波男』(05年)がそうで、リアルな女性に見切りを付け、ヴァーチャルな女性との恋愛を楽しもうという提案がなかば本気で試され、支持を得ていたのは記憶に新しい。
さらに言えば、性愛の問題とは、イコール、コミュニケーションの問題である。どんな人間もひとりで生きていくことはできない。いや、肉体的には生きていくことはできるだろう。ただ、人間は家族や友人、恋人といった他人とコミュニケーションを取り、彼らから承認を得ることによって、初めて生きていく意味を得るのだ。本来、セックスは、その承認を得る行為のひとつであるはずだ。セックスの機会自体は、ポスト・モダン化が進むなかで、多種多様な性的コンプレックスが解放され、増えたかもしれない。しかし、日本では、コミュニケーションの総体としての社会が80年代のバブル景気以降、一気に形骸化してしまった。つまり、セックスとコミュニケーションが切り離され、セックスだけがデフレ化してしまったのだ。90年代後半のアンチ・モラリズムとは、若者たちがそんな社会に対して発した、ある種の警戒だった。それでも、当時はまだそのストレスを消費によって発散させてくれる経済的な余裕があったため、露悪的な表現で済んだのが、00年を越えて不況が現実化し、しかも、政府が対策として新自由主義を打ち出し、格差が拡大するーーさらにコミュニケーションが枯渇するという焦りが拡大すると、若者のあいだで防御としての露善的な表現が浮上しはじめる。警戒から防御へ、反応のレヴェルが上がったのだ。
ポップ・ミュージックで言えば、強くモラルを訴えていた、当時の青春パンクや日本語ラップがそうで、その際、シーンや国家といった架空の共同体を通して、社会性の復権を計るという点ではネット右翼も同じである。そして、露悪的な表現よりも、露善的な表現のほうが、善というあってないような価値観に無条件で寄り掛かっているために、質が悪いし、深刻なのだ。00年代後半、露善的な表現はさらにその純粋さを過剰化していった。まぁ、桜ソングや応援歌ラップみたいなものがTVや街頭のスピーカーから垂れ流されている分には、チャンネルを変えたり、ヘッドフォンをして他の曲を聴けば済むだけの話なのだけれど、それまで、あくまでヴァーチャルな世界のなかに留まっていたネット右翼が"在特会"のように、リアルな世界に溢れ出て来た時は、ナチスが台頭して来た頃のドイツを連想し、ゾッとしたものだ。ナチスこそはまさに、愛国と経済再建をモットーに掲げ、その意に沿わないノイズを徹底的に排除していった、露善的な団体ではなかったか。
ところで、銀杏BOYZ(=峯田和伸と、イコールで結んでしまってもいいだろう)の『君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命』と『DOOR』という2枚のアルバム(共に05年)を特徴付けているのは、言わば露悪的な表現と露善的な表現のミックスである。例えば、『君と僕~』のちょうど折り返し地点である6曲目"なんて悪意に満ちた平和なんだろう"は、当時の日本のサブ・カルチャーにはっきりとあった、戦争反対というメッセージを通して皆がひとつになろうとするようなムードに冷や水を浴びせる、つまり、戦争反対もまた、戦争と同じ全体主義ではないのかという"戦争反対・反対"ソングだが、続く7曲目"もしも君が泣くならば"は一転、「もしも君が死ぬならば僕も死ぬ」と熱唱する、何処となく軍歌的な響きのあるシング・アロング・ナンバーで、そこでアルバムは露悪的な前半から、露善的な後半へと突入していく。そして、その二律背反的な二部構成は、どっち付かずや分裂症的というよりは、『DOOR』もほぼ同様の構造を持っていることからも、かなり意図的に制作されていることを思わせる。一方、前身のGOING STEADYが残した2枚のアルバムはストレートに露善的であり、要するに、バンドが銀杏に発展し、新たな要素として付け加えられたものこそ、露悪的な表現だったのである("なんて~"は新曲だが、"もしも~"はゴイステ時代から歌われている曲だ)。考えるに、銀杏がここでやりたかったのは、当初の青春パンクが持っていたヒーリング的な側面を機能させつつも、その表現が陥りがちな純粋性の強調の果ての、ノイズの排除に向かわないために、露悪性を導入することだったのではないだろうか。その試みは、最近で言うと神聖かまってちゃんのようなバンドにも引き継がれているし、興味深い事に、SEEDAの『花と雨』(06年)のリリースがきっかけで日本語ラップ内に起こったハスラー・ラップ・ブームともリンクしている。ドラッグやセックス、ヴァイオレンスについて歌った露悪的な楽曲と、家族や友人、恋人への愛を歌った露善的な楽曲という、一見、チグハグな組み合わせこそがハスラー・ラップ・アルバムの肝だからだ。
ただし、もっと細かく言えば、峯田の変化は、『君と僕~』と『DOOR』ではなく、GOING STEADYが2枚のアルバムを経てリリースしたシングル『童貞ソー・ヤング』(02年)からはじまっている。古泉智浩がジャケットのイラストを手掛けた、その名もズバリ、"童貞"ブームを象徴するような、前述したロジックで言うならモラリズム/露善的なタイトルのこの楽曲で、峯田は「一発やるまで死ねるか!!!」と叫んだ後、「一発やったら死ねるか!!? 一発やったら終わりか!!?」と続けている。つまり、ここで歌われているのは、童貞的な純粋さに逃げ込むのではなく、むしろ、童貞を捨てた後にはじまる現実こそを生きていけ、というメッセージなのだ。中学生時代に担任教師から性的虐待を受けたことが原因で、異性と話しただけで嘔吐してしまう程の性的コンプレックスを抱いていた峯田にとって、性愛はもっとも重要なオブセッションであり続けているが、同曲は極めて重要なターニング・ポイントとなった。自身の性的コンプレックスに初めて向き合うことで、他人とのコミュニケーション、延いては社会を相対化することに成功したのだ。セカイ系から世界系へ。この成長は、この時期においては、かなり真っ当だったと言えるのではないか。
やがて、00年代も後半に差し掛かると、所謂"童貞"モノのなかにも、『童貞ソー・ヤング』の後に続くように、ポスト"童貞"をテーマにした作品が現れはじめる。松江哲明の映画『童貞をプロデュース。』(07年)は童貞を拗らせた教え子(=かつての自分)に業を煮やした監督が彼らを現実に立ち向かわせるドキュメンタリーだったし、花沢健吾のマンガ『ボーイズ・オン・ザ・ラン』(05年~08年)は、前作『ルサンチマン』(04年~05年)におけるヴァーチャル世界=童貞のディストピア(『電波男』の表紙にも引用されている)が崩壊するラストから地続きに、リアルな恋愛の地獄をしっかりと描いた作品だった。それでも、マンガ版『ボーイズ~』の読後感は悪くない。銀杏の『僕と君~』『DOOR』が、"アンチ・モラリズム/露悪→モラリズム/露善"という流れを持っているため、あくまでポジティヴな印象が残るのと同じ物語構造を採用しているからだ。そこを甘いと感じる人もいるだろうが、これはこれで悪くない。何故なら、もともと現実の性愛関係に疲れて、妄想の性愛関係に逃げ込むような人間に、いきなり、徹頭徹尾厳しい現実を突きつけたからといって、拒否反応を起こしてしまうだけだからだ。リハビリとしてはこれぐらいで調度良い塩梅なのだ。
しかし、さらに社会の状況が悪化していくにあたって、いつまでもそのようなロマンチシズムに留まっていられないのもたしかで、例えば、この1月に公開された映画版『ボーイズ~』は見事、そんな時代に対応した傑作である。00年代演劇において、チェルフィッチュの岡田利規と並んで露悪的なアプローチでもって性愛の問題に取り組み、だからこそ露善的なアプローチが幅を利かせるエンターテイメントの世界ではいまいちポピュラリティを得ることができなかったポツドールの三浦大輔は、この初の大舞台となる映画第3作で、ここぞとばかりに、原作では掴みに過ぎない露悪的な面を強調し、後味の悪さを残すことにひたすら賭けている。全10巻に及ぶマンガの第一部まででストーリーを終えるのは、映画の尺の関係で仕方がないとして、原作では主人公を承認してくれる役割のヒロインをバッサリとカットしてしまったのは見事だった。その選択によって、映画版は、原作版のロマンチシズムと引き換えに、新たなリアリズムを得ることに成功しているのではないだろうか。
銀杏BOYZ ボーイズ・オン・ザ・ラン 初恋妄℃学園/ UK.PROJECT |
そして、映画版『ボーイズ~』で主演を務め、銀杏として同名の主題歌を手掛けた峯田は、自身が監督した12分にも及ぶPVにおいて、映画版にタメを張る才能を発揮している。それは、まるで『君と僕~』と『DOOR』の全29曲を混ぜ合わせてひとつにしたような作品であり、この世界そのものように混沌としている。映像は、松本人志の『働くおっさん人形』(03年)を思わせる露悪的なインタヴュー形式で、ネット右翼からヤンキー、童貞からホストまで、極端なタイプの若者達に夢ーーそれはさまざまな形の承認欲求であるーーを語らせ、現代日本若者像のステレオタイプを浮かび上がらせていく。そして、そのバックには銀杏のシングルとしては初めてと言っていいくらい、ストレートに露善的な、如何にも青春パンクといった歌詞と曲調の楽曲版『ボーイズ~』が鳴り響く。画面に映る"ボーイズ"たちこそは、まさに、銀杏のファン像であり、そして、銀杏が承認してあげたいと考えている若者たちなのだろう。しかし、本PVを観ていて酷く複雑な気持ちになるのは、その映像の露悪性と、音楽の露善性の強烈なギャップだ。銀杏は彼らを思いっきり突き放すと同時に、同じ強さで抱きしめる。これは、J-POPでも日本語ラップでも、ファンを囲い込み、ノイズを排除し、現実を切り離してしまうような、日本のポップ・ミュージックにありがちな態度とは真逆のやり方である。私はつい先日、twitterでこのPVを紹介し、さまざまな人のあいだで賛否両論の議論が巻き起こり、広がっていくのを目の当たりにした。また、同じ問題を巡って、アンチ銀杏を表明している田中宗一郎の「何故、自分がこのバンドを嫌いなのか明確になった」というコメントをネットを通して読み、同じくアンチ銀杏だったはずの野田努の「峯田和伸には江戸アケミ的なところがあると思った」という発言を直に聞いた。その過程で私は、彼らが00年代の日本においてもっとも重要なロック・バンドであることを再認識したのだった。いま、こんなにも議論を呼ぶバンドが、日本に他にいるだろうか。
そして、この猥雑とした映像に辛うじて整合性を与えているのが、ラストにほんの一瞬だけ映るライヴ・シーンである。血と汗と涎まみれになって演奏を終えたメンバーたちは、それでも満足できないのか、まず、ギターのチン中村が天井に上がっていく垂れ幕に飛びついてぶら下がり、あわやというところで手を離し、落ちて来る。それをきっかけにベースの我孫子真哉が、続いて峯田が、次々とフロアに飛び込んでいく。と、突然、映像は真っ暗になる。そこに、Youtubeをぼんやり覗き込んでいた自分の顔が写り、人は我に変えるだろう。いま、画面のなかで喋っていた醜い奴らと自分は同じなのだと。それは、現代日本の優れた演劇やコンテンポラリー・ダンスが、かつてのように肉体の可能性を模索するのではなく、むしろ、肉体の限界性を表現することで、現代を描写するのと同じヴェクトルを持っている。当たり前の話、人間は飛ぶことはできないし、ロックは世界を変えることはできないのだ。銀杏には『僕たちは世界を変えることができない』というDVDがある。そのタイトルは決してシニシズムではなく、むしろリアリズムである。願わくば、この批評性を楽曲だけでも表現して欲しいと思うが、モダンなロックンロール・バンドとしては、自身の肉体や人生までも含めたありとあらゆるメディアを通じて、メッセージを発信していくのは、私はありだと思う。最近のPVでは、南アフリカはケープタウンのホワイト・トラッシュたちによるクワイト・ユニット、ダイ・アントワードの「ゼフ・サイド」と並ぶ衝撃だった。これら、地理的に遠く離れているだけでなく、音楽性もかけ離れた2本の作品に、唯一の共通性が見出せるとしたら、それは、自分たちを取り囲む状況に対する批評性ではないだろうか。そう、批評こそは、地獄に丸腰のまま落とされた私たちにとっての、唯一の武器なのである。
文:磯部 凉
ヴァンパイア・ウィークエンドと音で渡り合えるバンドが日本にいることをご存じか。そう、ヨッシー・リトル・ノイズ・ウィーヴァー(YLNW)である。彼らの3枚目のアルバム『Volcano』は、カリブ海の音楽とミュータント・ディスコのブレンドで、エゴ・ラッピンとザ・ゴシップ・オブ・ジャックスによるあの素晴らしい『EGO-WRAPPIN'AND THE GOSSIP OF JAXX』に続くかのようにポスト・パンクのダンス・サウンドを演奏する。
実際のところ、YLNWは大雑把に言って日本のレゲエ・シーンから生まれている。中心にいるのは元デタミネーションズ/元ブッシュ・オブ・ゴーストという経歴を持つキーボーディストYossyとトロンボーン奏者のicchieで、またメンバーには菅沼雄太(エゴ・ラッピン他)やThe K(元ドライ&ヘヴィー)もいる。2005年のデビュー・アルバム『Precious Feel』はキングストンの海辺で録音されたエレクトロニカであり、隙を見てはカンの『フロー・モーション』に接近する。2007年の『Woven』はジャッキー・ミットゥーがフォー・テットと一緒にスタジオで作ったミュータント・レゲエである。そうした過去の美しい2枚の抒情主義と打って変わって、3年ぶりの『Volcano』は、リスナーの身体をより大きく、波のように動かせる。
"スーパー・ラビット"はトーキング・ヘッズがジャマイカ旅行したような曲だ。あかぬけたリズムとディレイの効いたスカのトロンボーン、そして滑らかなエレピのコンビネーションが甘い夢を紡いでいく。"ピース"はプラスティックスのカヴァーで、今回のアルバムにおけるベスト・トラックのひとつ。4/4ビートとジャジーな鍵盤とスカの香気が心地よいミニマル・ポップである。タイトなヒップホップ・ビートを取り入れた"ウォッシング・マシン・ブルース"やドリーミーな"ドラム・ソング"は過去2枚と連なるバンドの抒情性がよく出ている曲で、"ヴォルケーノ"は日差しを浴びたミュータント・ディスコ、"ペイル・オレンジ"はラテンの陶酔に包まれた温かいスロー・ダンスだ。
こうした彼らの音楽は、とにかくキュートだし、耳障りの良さゆえにその背後にある挑戦が見過ごされがちだが、彼らの目的はジャマイカとディスコを並列させることでもはなく、ワールド・ミュージックのレトリックでもない。それは絶えず変化しながら新しいミュータント・サウンドを創造することに違いない。
ここ数年続いている欧米のポスト・パンク・リヴァイヴァルとはまるで共振することのない日本の音楽シーンだが、興味深いことにレゲエ系のシーンではそれが起きている、起きていくかもしれない――そう思わせるYLNWの新作で、バンドはこの路線を継続しながら、初期のエレクトロニカ・スタイルをあらためて加味すべきである。何故なら、YLNWの輝きはこの1枚に限ったことではないのだ。