たしかに、目を閉じて、音楽が純粋に音響的な現象であるかのように認識することもできるが、コンサートの最中には、人は音楽を見るし、音楽を目で読む。音楽は身振りでもあるのだ。 ──カールハインツ・シュトックハウゼン(*1)
容易には判別のつかない状況
たとえばチェロを抱え持ち、弓を弦に押し当てている男がいるとする。わたしたちはおそらく、彼が演奏をしていると認識するはずである。だがなぜ、演奏をしていると言うことができるのだろうか。楽器という音楽を奏でるための道具を手にしているからだろうか。たしかに抱えているのが木箱であるなら演奏しているようには見えないかもしれない。だがもしかしたら彼もまた演奏しておらず、単にチェロを抱えているだけなのかもしれない。それに木箱を抱えていたとしても必ずしも演奏していないとは言い切れない。20世紀の様々な前衛と実験を振り返るまでもなく、たとえば日用品や廃物などの非楽器であっても、演奏する道具として用いることができるからである。ならば行為の結果として組織化された音響が聴こえてくれば演奏していると言い得るだろうか。しかしなにも手に持たずに椅子に座り、なにも音を出さなくとも演奏と言い得る場合もある──音と沈黙を等価な構成要素として認めるのであるならば。おそらくわたしたちは、チェロを抱えるその男のみならず、あらゆる人間の行為に関して、彼/彼女が演奏行為をしているのか否か、手がかりになる別の情報を抜きにして決定的な判断を下すことはできないだろう。だが演奏行為か否か容易には判別のつかないような状況においてこそ、見えてくる光景や聞こえてくる音響があるのだと言うこともできるのではないだろうか。少なくともそのような状況は、演奏行為をわたしたちが見知った音楽なるものにそのまま当て嵌めてしまうことに対して、いちど立ち止まって考えてみるきっかけを設けてくれる。
平易かつ実践的な道徳を説いた石門心学の拠点のひとつとして、18世紀の京都に明倫舎という施設が建立された。1869年にその跡地に小学校が開校し、戦前には大幅な改築が施されることで現在にも残る校舎が完成するものの、120年以上の歴史を経た1993年に閉校。そしてその校舎をもとに2000年に京都芸術センターが開館した。同センターが主催する音楽にスポットライトを当てた事業のひとつに、2013年から開始した「KAC Performing Arts Program / Music」がある。講堂や教室など、廃校となった建造物の空間を活かすことによって、いわゆる音楽のための設備が整えられたコンサート・ホールとは異なる音の体験を目的に、若手作曲家のシリーズからユニークなコンセプトの公演まで、これまで様々なイベントがおこなわれてきた。その2018年度のプログラムとして、2019年2月22日から24日までの三日間、京都を拠点に活動するチェロ奏者の中川裕貴を中心とした企画『ここでひくことについて』が開催された。同イベント全体を貫くテーマは「演奏行為」である。ふつう演奏とは音楽を現実に鳴り響かせるための行為として認識されている。だが演奏行為が立ち上げるのは本当に音楽だけなのか。演奏行為によって可能になる出来事をつぶさに眺めていくならば、それは音楽と呼ばれるものとは異なるなにか別の可能性を秘めているのではないか。こうした問いを問いながら中川は、「『演奏』という行為を通じて、私たちの周りに存在する身体、イメージ、距離、意識、接触について考える」(*2)試みとして『ここでひくことについて』を企画したという。
1986年に三重県で生まれた中川は、10代の終わり頃より演奏活動をはじめ、京都市立芸術大学大学院では音響心理学および聴覚について学んでいた。2009年頃にチェロと出会うもののいわゆるクラシカルな道には進まず、「音の鳴る箱」としてのチェロを叩いたり擦ったりするなかで独自の非正統的な演奏法を開拓していった。中川は敬愛するチェロ奏者として米国の即興演奏家トム・コラ、および前衛音楽からクラブ・ミュージックまでジャンル横断的に活躍した同じく米国のアーサー・ラッセルを特に挙げている。中川もまた即興演奏家として活動するとともに、言葉と音の関係性を中心にしたバンド「swimm」、さらに劇団「烏丸ストロークロック」の舞台音楽を手がけるなど、ジャンルの垣根を超えて幅広く活躍してきている。2013年からはメイン・プロジェクトと言ってよいグループ「中川裕貴、バンド」を始動。「音楽を演奏しながら、音楽を通して観客に伝わるものについて思考する」(*3)というテーマのもとライヴを重ね、2017年にはファースト・アルバム『音楽と、軌道を外れた』をリリース、さらに同年末には京都芸術センターが主催する公募事業のひとつ「Co-program」の一環として初の単独コンサート『対蹠地』を実施している。唯一無二の個性を発揮するチェロ奏者であるとともに、単なる自己表現ではなく、受け手の知覚と認識のプロセスを取り込んだ批評的な制作スタンスを併せ持つという類稀な才能が評価されたのだろう、京都芸術センターにおける中川を中心とした二度目の大規模な試みとして『ここでひくことについて』が開催されることになったのである。
本公演には三つのプログラムが用意されている。「PLAY through ICONO/MUSICO/CLASH」と題されたプログラムAでは、小さな体育館のようなフリースペースで、造形作品や照明を効果的に織り交ぜた、中川裕貴によるソロ・パフォーマンスが披露された。プログラムBは「Not saying "We (band)"」と題されており、五人のメンバーからなる「中川裕貴、バンド」による、音楽を中心に舞台空間を全面的に使用した公演がおこなわれた。そしてプログラムC「“You are not here” is no use there」には特定の舞台はなく、京都芸術センターのいたるところで勃発する出来事を、ポータブル・ラジオとイヤホンを渡された観客が自由に歩き回りながら体験していくというイベントがおこなわれた。三日間にわたって開催された本公演は、初日がC→A→B、中日がB→C→A、最終日がC→B→Aという順番でおこなわれており、三つのプログラムを通して聴くのであれば、これらの順番はそれぞれに決定的と言ってよい体験の相異をもたらしたことだろう。だがここではあえてA→B→Cという実在することのなかったプログラムの順序に沿って記述していく。それは各日の相異よりも三日間を通したイベントのトータルな意義に着目するからであるとともに、ある意味では企画の趣旨には反するのかもしれないが、ここでは音楽としての演奏行為がいかにして成立しているのかという問いを念頭に置きながら、演奏行為に関わる批評的な視座を得ようと試みるためでもある。
- *1 ジャン=イヴ・ボスール『現代音楽を読み解く88のキーワード』(栗原詩子訳、音楽之友社、2008年)191頁。
- *2 KAC Performing Arts Program 2018 / Music #1 中川裕貴『ここでひくことについて』パンフレットより。
- *3 「INTERVIEW WITH NAKAGAWA YUKI Vol.1 1/2」(『&ART』2015年)https://www.andart.jp/artist/nakagawa_yuki/interview/150505/。
分断された視聴覚と演奏行為──プログラムA「PLAY through ICONO/MUSICO/CLASH」
プログラムAは中川裕貴によるソロ・パフォーマンスであるものの、パフォーマンスの鍵として舞台美術を担当したカミイケタクヤによる巨大な船のような造形作品──正確には船ではなく地球をかたちづくった作品であり、左右にゆらゆらと揺れることから「地球シーソー」と呼ばれていた──や、照明担当の魚森理恵による巧みな光の操作があり、実質的には協働制作によってこうした複数の要素がミクストメディア的に組み合わされた舞台公演だったと言える。とはいえ名目上はソロ公演であるため、中川の演奏行為をここでは辿っていく。パフォーマンスはまず、暗闇のなか造形物の奥で中川が演奏開始のアナウンスをするところからはじまった。アナウンスにはジョージ・クブラー、九鬼周造、そしてブリュノ・ラトゥールという三人それぞれの文献からの引用が織り込まれていた。なかでも「聖像衝突」を論じたラトゥールのテクストは一部が言い換えられていた──「この演奏会は衝突を論じるのであり、破壊を論じるのではない」というように(*4)。ラトゥールによれば「破壊行為が何を意味するのかが分かっており、それが一つの破壊計画として明確に現れ、その動機が何であるかが分かっている場合」が聖像破壊であるのに対して、「補足的な手掛かりなしでは破壊的なのか構築的なのか知ることのできない行為によって動揺している場合」が聖像衝突であるという(*5)。すなわち演奏によって既存の音楽秩序を単に破壊するのではなく、破壊的なのか構築的なのか容易には判別のつかないような行為の意味の揺らぎへと向かうこと。引用文の言い換えはこの「衝突」をこれから披露することの宣言として受け取れるだろう。
アナウンスが終わるとマイクから手を離し、スティーヴ・ライヒの「振り子の音楽」のように天井からぶら下げられたマイクがぶらりぶらりと往復する。中川はチェロを持ってゆっくりと歩きながら即興的に演奏しはじめる。そして会場中央にある椅子に座すとチェロを膝の上に横向きに置き、エンドピンを出したり閉まったり回したり、弦の上をさっと摩ったりボディを指で軽やかに叩いたりするなど、楽器の調整をするかのような仕草を見せていく。そうした行為にともなう響きはしかし完全にランダムではなく、一定のパターンがかたちづくられることによって驚くほど音楽的に聴こえてくる。だが同時に奇妙な違和感を覚えるようなサウンドでもあった。この奇妙さはいったいなんだろうかと考えていると、ごく自然な流れで中川がチェロから手を離していた。しかし音は先ほどまでと変わらずに響き続けている。行為にともなう響きはリアルタイムで録音され、いつの間にか楽曲のように構築されてスピーカーから再生されていたのである。その後ブリッジ付近を細かく弓奏することによる季節外れの蝉時雨のような高周波のノイズになり、音量の大きさも相俟って耳元で音が蠢くような感覚にさせられる。徐々に音量は下がり、チェロをゆっくりとしかしリズミカルに弾きはじめる。だがこれもまた、演奏する手を止めても音が鳴り続けている。弾いていると見せかけて気づいたら弾いていない。いつの間にかその場で録音されたサウンドが再生されている。わたしたちは彼の演奏行為を目撃しながら、まさにいま鳴っている響きを彼がいま・ここで発したものとして聴いていたにもかかわらず。
プログラムA「PLAY through ICONO/MUSICO/CLASH」(撮影:大島拓也)
その後チェロをカホンのように叩くことによって、ドラムンベースのように、あるいはタブラによる打楽のようにビートの効いた演奏を披露し、さらにそのサウンドはエフェクター類を介して残響が強調されることによって、深海に沈み込むようなドローンへと変化していく。手元にある紐を中川が引っ張ると、頭上に置かれていた壊れたチェロ──これは中川が以前使用していた、初めて手にしたチェロだという──が落下し、そしてそこにくくりつけられたもうひとつの紐が「地球シーソー」を動かすことで照明とコンプレッサーが作動する。唸るようなコンプレッサーが切れるとチェロを置き、弓を空振りしながら「地球シーソー」の裏側へ。そしてもういちど紐を引っ張ることでシーソーをもとの傾きに戻してからあらためて椅子に座し、ヘッドホンを被って黙々とチェロを弾きはじめる。かさこそと静かな弦の音が会場内に響き、しばらくすると「曲ができました」と述べ、多重録音されたチェロが喚き叫ぶような楽曲がスピーカーから再生される。録音のプロセスを開示したとも、音からは切り離された演奏行為を披露してみせたとも言えるだろうか。シーソーを再度傾かせると聖骸布を模した大きな布がばさりと広がり、その裏に隠れるようにして中川は演奏しはじめる。複数の光源から照らされることによって、演奏する中川の影が様々にかたちを変えながら聖骸布に分身のように浮かび上がっていく。烈しさを増したサウンドは会場内で乱反射するかのように響きわたる。演奏を終えるとまたもやシーソーが動いて暗転し、小さなプレートにぼんやりと「No Playing」という蓄光シートによる文字が光りだす──同じプレートには先ほどまで「Now Playing」と表示されていたのだった。
演奏する身振りと聴こえてくる音響は必ずしも一致しているわけではない。この当たり前と言えば当たり前の事実を、しかし普段のわたしたちはほとんど問題にすることなく演奏を聴いている。眼の前で演奏行為がおこなわれ、そして音が聴こえてくるのであるならば、その音は当の演奏行為によって生み出された響きだというふうにまずは認識する。だが中川は巧妙なまでに演奏行為と音を切り離して提示する。いま・ここで見えている光景が必ずしも音と地続きではないことをなんども知らしめる。それはしかしいわゆる当て振りとは決定的に異なっている。当て振りが音に合わせて身体を動かし、いま・ここで出来事が生起していることを仮構するのに対して、中川はむしろいま・ここで生起する諸々の出来事が結びつくことの無根拠さを暴き立てているからだ。むろん演奏行為と音響が必然的に結びついていることもあるだろう。だが演奏行為を見て音響を聴く受け手にとっては、自らの経験において視聴覚を恣意的に統合するしかないのである。だからこそ聖骸布に映る影もまた、単なる影像ではなく演奏行為の分身としてわたしたちの視界に入ってくる。わたしたちは中川による演奏行為の分身としての影のかたちを目で追い、同じように演奏行為の分身としてスピーカーから流れる響きを耳で追う。もしかしたら「地球シーソー」もまた分身かもしれない。演奏行為を目撃することは、ふつう、このように根源的には分断状態にあるはずの受け手の視聴覚を統合するための契機となる。それによって音楽が成立してきたと言ってもいい。しかし中川は演奏行為によってむしろ仮構された統合状態を分断しようとする。受け手が視覚と聴覚を結びつけることの無根拠性を演奏行為それ自体によって明らかにするのである。
- *4 もとのテクストは「この展覧会は聖像衝突を論じるのであり、聖像破壊を論じるのではない」(ブリュノ・ラトゥール『近代の〈物神事実〉崇拝について──ならびに「聖像衝突」』(荒金直人訳、以文社、2017年))。なお、他の引用は「原型が無ければ複製はあり得ない」(ジョージ・クブラー『時のかたち』(中谷礼仁・田中伸幸訳、鹿島出版会、2018年))、「スリルというのも『スルリ』と関係があるに相違ない。私はかつて偶然性の誕生を『離接肢(選択肢)の1つが現実性へするりと滑っていく推移のスピード』と言うようにス音の連続であらわしてみたこともある」(九鬼周造「音と匂──偶然性の音と可能性の匂」(『九鬼周造随筆集』菅野昭正編、岩波書店、1991年))だった。
- *5 ブリュノ・ラトゥール『近代の〈物神事実〉崇拝について──ならびに「聖像衝突」』152~153頁。
コンサートという形式と演奏行為──プログラムB「“You are not here” is no use there」
プログラムBの「中川裕貴、バンド(以下:、バンド)」によるコンサートは、合成音声によるアナウンスから幕を開けた。「転換中はコンサート・プログラムなどを見てください。よろしいでしょうか」という台詞が繰り返され、奇妙なイントネーションと声質も相俟って否応なく印象に残る。しばらくすると中川、ピアノの菊池有里子、ヴァイオリンの横山祥子が登場し、きわめて様式的に演奏がはじめられた。一曲めは激しい変拍子のリフが繰り返され、その後点描的な即興セッションも織り交ぜながら展開が次々に変わっていく「A traffic accident resulting in death, I took different trains, in random order」。アルバム『音楽と、軌道を外れた』にも収録されていた通称「事故(自己)」という楽曲で、あらたなヴァージョンにアレンジされている。演奏が終わると三人の奏者は一礼し、丁寧な足取りでステージを後にする。すると二人の「黒子」が出てきて舞台の転換がはじまった。ほとんどの観客は冒頭のアナウンスに従って楽曲の解説が記されたパンフレットへと目を落としている。「黒子」たちはステージ中央にマイクを立てたりコードをまとめたりなどしている。転換にしてはいくらか長く、やけにぶっきらぼうに機材を動かしているようにも見える。次第にその様子が明らかにおかしいことがわかってくる。立てたはずのマイクを片づけ、置いたはずの椅子を別の場所に移動させる。会場内で動き回る二人は、転換をしているようで実はなにもしていないのではないか。その予断は「黒子」の二人がステージ上の楽器類をはじめの状態に戻し、あらためて中川、菊池、横山の三人が入場してくるころには確信へと変わっていた。
実は「黒子」の二人は「、バンド」のメンバーである出村弘美と穐月萌だったのである。もともとは俳優であり、ノン・ミュージシャンとして「、バンド」に参加していた彼女らは、転換をおこなうそぶりを見せながら、ステージ上でパフォーマンスをおこなっていたのだ。この二人が舞台後方の緞帳を開けると、煌びやかな銀色のカーテンが出現する。その煌びやかさに呼応するように「セクシーポーズー!」というかけ声の録音が再生される。水族館でおこなわれたアシカとセイウチのショーをフィールド録音した音源を流す「異なる遊戯と訓練の終わりの前にⅠ」という楽曲だ。チェロとヴァイオリンの二人がじりじりと弦を擦る不協和な音を出し、楽しげな海獣ショーの録音の再生が途絶えるとその鬱々としたノイズが前面に出てくる。そのうちに菊池が朗らかなピアノ・フレーズを弾きはじめた。だが唐突に演奏がなんども打ち切られ、海獣の雄叫びが再生されるとともにその鳴き声を模したかのような響きを三人が出す。音が引き起こす聴き手の感情の変化を聴き手自らに自覚させるかのように矢継ぎ早に変化するサウンド。続いて演奏されたのは「私たちとさえ言うことのできない私たちについてⅢ」という楽曲だった。こんどはヴァイオリンの横山が朗らかなメロディを奏でていく。そして彼女が一曲を演奏するあいだにピアノの菊池が三曲を、チェロの中川が五曲を演奏するというコンセプトの楽曲なのだが、この日はパフォーマーの出村と穐月が銀のカーテンを少しずつくるくると巻き上げていくなどの行為がさらに重なり、次第にステージ奥の窓がある空間が露わになっていった。
プログラムB「“You are not here” is no use there」(撮影:大島拓也)
四曲めに披露された「ひとり、ふたり、或いは三つ目のために」は、クリスチャン・ウォルフの「For 1, 2 or 3 People」からインスピレーションを得た曲だという。出村と穐月がそれぞれエレキベースとエレキギターを抱えて座り、二人の前で教師のように立つ中川が演奏開始の指示を出す。不慣れにも見える手つきで弦を弾き、あるいは単音が静かにぽつりぽつりと鳴らされていくものの、これがあたかも演劇のように舞台上で繰り広げられているために飽きることがない。しばらくするとステージ奥からピアニカとヴァイオリンの音が聴こえてきた。同じ楽曲を菊池と横山がひっそりと演奏しているようだ。音遊びのように楽しげなセッションで、演奏する姿ははっきりとは見えないものの、出村と穐月のデュオに比べると多分に音楽的なやり取りに聴こえてくる。最後の楽曲は「106 Kerri Chandler Chords featuring 異なる遊戯と訓練の終わりの前にⅡ」。die Reihe 名義でも活動するジャック・キャラハンが、ディープハウスのDJとして知られるケリー・チャンドラーが制作したすべての楽曲に共通する106種類のコードを抽出した作品を、この日のためにリアレンジしたものだそうだ。チェロ、ピアノ、ヴァイオリンという編成による106種類の持続する音響が徐々に音量を増していくとともに張り裂けるように鳴り響く、ノイジーだが美しいサウンドだった。そしてそこに伴奏するように「、バンド」によるグルーヴ感溢れる演奏の録音が再生され、さらにステージ後方では装飾が施された小型ロボット掃除機のようなものが動き回っていた。
「、バンド」の三人によるそれぞれの楽曲の演奏はどれもクオリティが高く、それだけでも公演としては十分に成立していたと言うことができるものの、楽曲と楽曲のあいだ、あるいは楽曲と同時並行的に別のパフォーマンスがあったということがやはりこのプログラムの特長を際立たせている。わたしたちはふつう、コンサートにおいて、ステージ上で披露される楽曲の演奏のことを音楽作品として捉えている。演奏と演奏のあいだは音楽の外部にある時間であり、ステージの外でおこなわれる行為は作品とは異なるものだと認識している。だが本当はそのときもまた、わたしたちはなにかを見ており、なにかを聞いているはずなのである。この事実が省みられることがないのはひとえに、わたしたちが音楽をコンサートという形式において聴いているからに他ならない。演奏者がステージに上がったら客席が静まり返り、あるいは歓声を上げ、演奏者が呼びかけたら応答し、演奏を終えたら拍手を捧げる。次の演奏がはじまるまでは作品外の時間として自由に過ごす。むろんジャンルによってその形式は異なるものの、形式において音楽を経験するという点では変わりない。さらに言うなら形式を抜きにして音楽そのものを経験することはないのである。そして「、バンド」による公演ではまさにこの形式それ自体が音楽として上演されていた。演奏、転換、演奏という流れや、ステージの内外を行き来することが、コンサートという形式の制度的なるものを演劇的な時間/空間として俎上に載せる。わたしたちはコンサートにおいて単に組織化された音響を享受しているのではなく、記憶と知覚が関連したトータルな出来事を体験しているのであり、このとき音楽を成立させるところの演奏行為とは出来事を産出するすべての──ロボット掃除機さえ含んだ(!)──行為者の振る舞いを指すことにさえなるだろう。
[[SplitPage]]選択する聴取体験と演奏行為──プログラムC「“You are not here” is no use there」
プログラムC ではまず、FMラジオとイヤホン、それにイベントがいつ・どこでおこなわれるのかが記された用紙を渡され、来場者たちは芸術センター二階の大広間に集められた。試しにラジオを聴いてみると爽やかな小鳥の声が聴こえてくる。しばらくすると出村弘美が登場し、イベントの開始をアナウンスするとともに、囁くような小声で語りかけてきた。リアルタイムでマイクを通してラジオへと音声を流し、観客が持っている機器が正常に作動するかどうかの確認をおこなっているようだ。その後、同じ階にある講堂へと移動すると、なにか物音のようなものがラジオから聴こえてきた。講堂正面の緞帳の奥でパフォーマンスがおこなわれているのか、それとも録音が流されているだけなのかはわからない。すると講堂に置かれたピアノに菊池有里子が座り、演奏がはじまった。取り上げる楽曲はフランツ・シューベルトの「四つの即興曲」の第二曲、変ホ長調。だがこれはその練習だという。たしかに弾き間違いや弾き直しを繰り返しながら、やけにぎこちなく演奏が続けられていく。しかし練習と本番の違いを、ステージにおける演奏行為からわたしたち受け手が判別することは実は容易ではない。たしかに即興曲とはいえ作曲作品である以上、「正しい演奏」があるように見える。だが弾き間違いや弾き直しを交えて演奏することが作曲作品のひとつの解釈ではないと、なぜ言うことができるのだろうか。むしろこの公演においては相応しい解釈の在り方だとさえ言えるのではないか。そしてその間もイヤホンからは、テニスやゴルフなどのスポーツに興じているらしきフィールド録音が流れ続けていた。
その後、文様作家であり怪談蒐集家の Apsu Shusei が創作し、中川が編集を加えた怪談が、建物の外にある二宮金次郎像の周辺で読み上げられるようだ。移動してみると建物の内部から窓越しにぼうっとこちらを覗いている人物がいた。虚ろな表情の出村弘美だった。手元のラジオからは彼女が朗読する怪談が流れはじめる。怪談の内容は次のようなものだった。田舎町の山奥にある洞穴に、「けいじさま」と名づけられた像があるという。それは鳥籠のような、あるいは人間の頭のようなかたちをしており、ある日、些細なことから家を飛び出した子供の「私」は、町を彷徨い歩くなか「けいじさま」に呼びかけられてしまう……。たしかに怖ろしい怪談ではあったものの、それ以上に、なんども反復されるこの「けいじさま」という言葉が妙に印象に残った。朗読が続けられるなか、講堂内では中川によるレコードを再生するというパフォーマンスがおこなわれていた。フィットネスのためのリズミカルな音楽で、怪談とは真反対で能天気にも聴こえる曲調が諧謔的に響く。同時に講堂では照明が点いたり消えたりするなど、「照明テスト」もおこなわれていた。続いて最初の大広間にて、横山翔子がアコーディオンを抱えて前説を交えながら、「上海帰りのリル」や「憧れのハワイ航路」など数曲の弾き語りをおこなった。この間もイヤホンからは、車両が行き交う街中の響きや汽笛が飛び交う漁港の響きなどのフィールド録音が流され続けていた。なおプログラムCではさらに、プログラムAの会場であったフリースペースにおいて、本公演の美術を担当したカミイケタクヤが、終始その造形作品を「調整する」という行為を継続しておこなっていたことも付記しておく。
プログラムC「“You are not here” is no use there」(撮影:大島拓也)
そして最後は講堂を舞台に、出村とチェロを抱えた中川の二人によるライヴがおこなわれた。「最後に一曲演奏します」と中川が言った後、ジョン・ケージの「4分33秒」を演奏することが宣言される。周知のように「無音」の、つまりは演奏行為だけがある楽曲である。プログラムAおよびBを通して演奏行為とそれを取り巻く認識や形式を問いかけてきただけあって、いったいどのように趣向の凝らされた「4分33秒」が披露されるのだろうかと少し勘繰ったものの、演奏はきわめて正統的におこなわれた。出村がストップウォッチを用いて時間を測りながら、楽器を持った中川はじっと身構えてなにも音を出さずにいる。だがこのとき怪談における「けいじさま」が想起されるとともに、怪談を聴く手段であったポータブル・ラジオから音が流れ続けていることを思い起こした。急いでイヤホンを耳につけてみると、中川がかつて演奏した録音やフィールド録音が流されていた。目の前には演奏行為だけがある。他方でラジオからは音だけが流れている。この二つの時間を重ね合わせることによって、中川による演奏が音をともなって仮構される。しかしラジオの音はかつて演奏行為があったことの痕跡でもある。発音することのない演奏行為と、音を残して過ぎ去った演奏行為の、どちらがいま音楽を生み出している演奏行為だと言えるだろうか。むろん現実には無音などなく、つねになにかが、それも意図されざる響きが聴こえてくるということが「4分33秒」の要点でもあった。しかし想像を広げてみるならば、いまや様々な意図のもとに録音された過去の響きが現実のどこかで鳴り続けているのであり、これに「無音」の演奏行為を前にした聴き手が耳を傾けていてもなお、「4分33秒」はその体裁を保ち続けていることになるのだろうか。
プログラムAおよびBを通して、わたしたちは演奏行為というものが、決して作り手の行為それ自体によって完結するものではなく、たとえば受け手による認識のプロセスによって視聴覚の統合がなされることもあれば、受け手が慣れ親しんできた形式のうちにあらわれもするということを経験してきたのだった。つまり演奏行為の成立条件のひとつとして受け手の存在が欠くべからざるものとしてあったのだが、プログラムCでは露骨なまでに受け手の行為が演奏行為の現出に関わっている。ここでは同時多発的にイベントが起きるというものの、実際にはメインになるイベントは限られており、結果としてほとんどの聴衆はあたかもパレードのように──ラジオとイヤホンを用いて散策するスタイルは、大阪で米子匡司らが主催してきた「PARADE」というイベントがもとになっており、同じ機材のシステムも借り受けているという──おおよそ同じ経路を移動していった。それはこのプログラムがイベントの同時多発性よりも受け手が聴くことを選択する行為に主眼があったということでもある。わたしたちはイヤホンを耳に入れることで別の時間/空間における響きを経験する。あるいはイヤホンを外すことでいま・ここで生起する響きを経験する。この二種類の時間と空間を、一人ひとりの聴き手が選択することによって、個々別々の経験を織り成していく。そのとき眼の前で繰り広げられている演奏行為は、たとえ練習であっても、レコードの再生であっても、前説を交えた弾き語りであっても、「無音」の上演であっても、あるいは身震いするような怪談であっても、聴き手の選択によって自由に遮られ、すぐさま断ち切られてしまうような無力なものでしかない。だがこのように無力だからこそ、演奏行為が聴き手のうちに音楽として立ちあらわれるときの強度は計り知れないのだとは言えないか。
[[SplitPage]]音楽の成立条件を問うこと──幽霊的な演奏行為を通して
分断された視聴覚、コンサートという形式、そして選択する聴取体験。これら三つの公演を貫いていたのは、単なる組織化された音響ではなく、作り手の身振りや行為、空間や物体、受け手の記憶や知覚作用など、音を取り巻く音ならざる要素によって音楽と言うべき出来事が成り立っていたということである。なかでも演奏行為によって出来事が生み出され、あるいは出来事が演奏行為として立ちあらわれることは、『ここでひくことについて』の核となるテーマでもあった。このように音楽における行為を前景化する試み──それもミクストメディア、音楽的演劇、遊歩音楽会とも言い換えられるような実践からは、かつて1950年代から60年代にかけて盛んにおこなわれたシアター・ピースを思い起こすことができる。行為や身振りなどを音楽の要素として取り入れたシアター・ピースは、庄野進によれば二つの流れに分けて捉えることができる(*6)。ひとつはジョン・ケージらに代表されるアメリカを中心とした流れであり、音をともなう行為によっていま・ここで生起する偶然性を、作り手が意図し得ない出来事の総体としてあるがままに現出するという非構成的な傾向である。もうひとつはマウリシオ・カーゲルやディーター・シュネーベルらに代表されるドイツを中心とした流れであり、身振りや言葉といった演劇的な要素を音楽の素材として作曲していくという構成的な傾向である。この二つの流れは様相を異にするもののいずれも非物語的であり非再現的であるという点で共通しており、この意味でそれまでのオペラやミュージカルをはじめとした音楽劇とは一線を画していたと庄野は言う。そのため「劇場は模倣され、再現されたものを伝達し、理解する場ではなく、そこに居合わせる人々とともに、その場で起こる出来事を共有し、しかも日常生活へとそれを持ち帰り、常に我々の生の意味を確認し、再活性化するための『コミュニオン』の場」(*7)となっていったのである。
しかしこうしたシアター・ピースにおける基本的な性格として見落としてはならないのは、どちらの流れにおいても第一に演奏家の身体を「再発見」したという意義があったことである。その裏には演奏行為が置かれ続けてきた立場を見なければならない(*8)。西洋音楽の歴史においては長らく、演奏行為とはまずもって解釈行為のことだった。創造の源泉となるのは記譜された作曲作品であり、その作品のイデアルな芸術性を受け手に届けるために、作品を解釈し、現実の鳴り響きとして具体化することが演奏家の役目だった。このとき演奏行為は作曲作品の芸術性をできるだけ損なうことなく受け手に伝達することが重要であり、アルノルト・シェーンベルクが語ったとされる「演奏家はおよそ不要な存在なのだ。十分に楽譜が読めない気の毒な聴き手に楽曲をわからせるため、演奏してみせる場合を除いて」(*9)という言葉のように、ときには透明であることさえ望まれるような音楽の付帯的な存在でしかなかった。それはたとえヴィルトゥオーゾのように演奏家自身の創造性に光が当てられることがあったとしても、あくまでもまずは作曲作品があり、その解釈において生み出されるヴァリエーションとしてしか輝くことができなかった。だが音楽の現場にいるのは演奏家であり、音を発するのもまた演奏家である。そしてどれほど理想的な解釈であろうとも、作曲作品のイデアそのものに到達することはできない。むしろ音響が生起する場所を考えるならば、作曲作品こそが音楽における付帯的な要素とさえ言えないか。ここから演奏家というものの重要性があらためて立ち上がる。音楽が生まれる現場には演奏家の身体があるという当たり前と言えば当たり前の事実に気づくことになる。
このように見出された演奏家の身体を、しかしシアター・ピースのようにあらためて作曲家の創造性を伝達するための媒介物とするのではなく、演奏行為それ自体が創造の源泉であり、むしろそれのみが音楽を成り立たせているのだと捉えるとき、期せずしてヨーロッパにおける自由即興の文脈へと近接していくことになる。自由即興もまた、作曲家を中心とした西洋近代主義的なヒエラルキーに対して、貶められてきた演奏家の役割を取り戻すという批評性があったのである。すなわち演奏行為について思考と実践を徹底的に積み重ねるならば、なかば必然的に即興性をめぐる問題へと関わっていく(*10)。むろん『ここでひくことについて』は三つのプログラムが三日間をかけてそれぞれ三回反復されており、そのためのリハーサルもおこなわれている。その意味ではどの公演も即興性とは相容れない再現性を持っているように見える。だが同時にこれら三つの公演は、記号の領域へと抽出し、別の場所で別の人物によって再現できる性格のものでもない。京都芸術センターという特有の空間があり、そして中川裕貴および「、バンド」という集団の個々の身体と密接に結びつきながら、はじめて実現し得る出来事なのである。その意味ではいま・ここにある個々の身体を離れては再現不可能な出来事であり、だからこそそれぞれの受け手にとってもまた再現不可能な経験がもたらされている。それは作曲作品において尊ばれる同一性よりも、即興性がその原理において触れるところの非同一性を湛えている。あたかも演劇が同一の舞台公演を反復しながらも、ひとつとしてまったく同じ出来事にはなり得ないように。
演劇ではステージ上の人々がここにはいない人物を演じ、ここには存在しないはずの物語を立ち上げる。それに対して演奏行為はステージ上の人々がまさに当の本人であることによって、ここにしか響くことのない音楽を立ち上げる。だが本公演を通して経験してきた出来事は、どれもここで起きることが不確かなものであり、目に見えるものと耳に聞こえるものが、いま・ここで繰り広げられている演奏行為とは別様に体験されるということだった。わたしたちは視覚と聴覚が結びつくことの無根拠さを経験し、音楽を享受することを規定している形式性を経験し、そして異なる時間/空間へと聴覚的に旅することによって演奏行為の無力さを経験してきた。それらはシアター・ピースにも似ているものの、それは単にいま・ここにある身体的な行為を前景化しているからというよりも、むしろいま・ここにはないものを現出するという意味で演劇的なのである。三度反復される演奏行為は同一のものの再現ではなく、いま・ここへと徹底的に縛られた即興性が原理的に非再現的であるようにして、しかしながらいま・ここには存在しないはずのものの根源的な非同一性としてその都度現出する。そして受け手であるわたしたちはこの幽霊のように見えないものと聞こえないものに立ち会うことになる。このとき演奏行為は音楽を鳴り響きとして現実化するための手段ではなく、わたしたちがなにを音楽として捉え、どのように享受し、あるいはいかにして接することができるのかということの、いわば音楽の成立条件を経験のうちに明らかにするものとしてある。そうであるがゆえに『ここでひくことについて』における演奏行為は音楽へと捧げられていたと言ってもいい。それはこれまでの音楽秩序を破壊していたのでも、あらたな音楽秩序を構築していたのでもない。そうではなくむしろ、その成立条件に触れることで明かされる音楽秩序なるものの不安定な揺らぎを、破壊的か構築的か容易には判別のつかないような行為によって、すなわち幽霊的な演奏行為の「衝突」を発生させることから、来たるべき音楽の姿として呼び寄せていたのではないだろうか。
- *6 庄野進「新しい劇場音楽」(『音楽のテアトロン』庄野進・高野紀子編、勁草書房、1994年)。
- *7 同前書、51頁。
- *8 もうひとつの背景として、松平頼暁が「アクションなしのサウンド」と述べたように、録音音楽さらには電子音楽といった、行為を必要としない音楽が一般化してきたことも挙げられる。なお、松平はシアター・ピースを「従来の演奏行為の延長としてのアクション」と「インターメディアまたはマルチメディア的な手法で、サウンド以外のメディアとしてアクションが加わるもの」という二種類のアプローチに区分けし、前者の例としてケージらを、後者の例としてカーゲルらを挙げている(『音楽=振動する建築』青土社、1982年)。
- *9 大久保賢『演奏行為論』(春秋社、2018年)13頁。
- *10 反対に即興性に関する思考と実践を徹底的に積み重ねることは必ずしも演奏行為をめぐる問題に突き当たるわけではない。たとえば Sachiko M がサンプラーそれ自体に内蔵されているサイン波を発する動作、あるいは梅田哲也が動くオブジェクトを会場に設置していく振る舞いなどは、即興的なパフォーマンスとは呼べるものの演奏行為および身体性とは異質な側面があるということには留意しておかなければならない。