「K A R Y Y N」と一致するもの

RIP Holger Czukay - ele-king

野田努

 昨日ネットのニュースを散見したところ、どうやら9月5日、ホルガー・シューカイがケルンの自宅で死んでいるのをアパートの隣人によって発見されたそうだ。79歳だった。
 シューカイは、クラウトロックにおけるもっとも重要なバンドのひとつ、カンの主要メンバーであり、パンク以降のロック・ミュージックおよびエレクトロニック・ミュージックに多大な影響を与えた人物である。
 ぼくに限らず、カンをいまでも好きな人は世界中にいるし、サルバドール・ダリに似たホルガー・シューカイを心から尊敬している人もたくさんいる。彼は前衛であり、同時にポップだった。戦争を記憶している世代であり、それがゆえの国境の無さ/アイデンティティの刷新力が、非西欧音楽への好奇心にも繋がり、1960年代末の時点ですでに作品にも残している。できないこと(can't)をやってのけ(can)、実験的でありながら商業的にもヒットしたし、知的であり、ダリのようにユーモアも忘れなかった。

 1938年ポーランドのダンツィヒ生まれのシューカイは幼い頃からピアノを習っていた。ほどなくして第二次大戦の戦場となったその地から疎開し、西ドイツに移住しても、彼の音楽への好奇心と探求心は変わらず、それはラジオの受信機の修理にまで及んだという話は有名である。
 シューカイは、1963年からおよそ3年、カールハインツ・シュトックハウゼンのもとで学んでいる(カンの拠点となったケルンは、50年代に、それこそ“少年の歌”や“コンタクテ”が演奏されることになるケルン電子音楽スタジオが建てられている)。
 2005年の『remix』の取材において、彼はこう言っている。
 「私はいつもラジオでシュトックハウゼンを耳にしていたんだが、ある日ライヴを見に行った。そこで彼が聴衆に向かって自分の作曲した作品について説明していると、突然ひとりの客が立ち上がり、『シュトックハウゼンさん、あなたのやっていることはすべて衝撃的すぎます。あなたはこうやって人びとにショックを与えることで金儲けをしようとしているのではないのですか?』と言った。すると彼は『これだけははっきりと申し上げておきましょう。私がお金のために音楽をやることは絶対にありません。なぜなら、私には金持ちの妻がいるからです』と答えた。それを聞いて私は『素晴らしい! この人についていこう!』と心に決め、さらに金持ちの妻をさがすことにしたのだ」
 慣れ親しんだ音楽にばかり惑溺するリスナーを許さなかったアドルノとも似たシュトックハウゼンには堅苦しい印象を持っていたぼくは、シューカイのこうした余裕あるユーモラスな発言に笑った。だいたい同じことの繰り返しを否定したシュトックハウゼンに逆らうかのように、1968年に結成されたカンは、繰り返しを強調したのだった。

 バンドを組んだときのシューカイは、スイスのジュネーヴ周辺で音楽の教師をしていた。クラシック、現代音楽(そしてミュジーク・コンクレートや電子音楽)、あるいはいくらかジャズを知っていたシューカイだったが、ロックに関しては、もはや若者とは呼べない30を前にして初めて知った。イルミンはクラシックの指揮者で、ヤキはプロのジャズ・ドラマーだったわけだが、ビートルズよりも年上の良い大人たちが、いままで学んできたことをまっさらにしてロック・バンドをやる。ただし、音楽を作るのではなく、音楽の作り方から作ること──それがカンだった。
 また、こうも言えるだろう。クラフトワークがエレクトロやミニマルの原型を作ったと言えるなら、カンはジャングルの原型を作っている。

 シューカイはカンのメンバーのなかではもっとも精力的なソロ作品を発表している。数々のアルバムのなかで1枚選べと言われたら最初のソロ・アルバム『Movies』だろう。(『On The Way To The Peak Of Normal 』や『Rome Remains Rome』も捨てがたいが)『Movies』に収録された4曲は必聴である。

 さらにシューカイは、ジャー・ウォーブルやデイヴィッド・シルヴィアンとの共作、Phewの最初のアルバムへの参加でも知られている。2015年にはカンの『The Lost Tapes』とも似た、まったく聴き応えのある未発表音源集『Eleven Years Innerspace』も発表している。

 ふたたび2005年の『remix』からの引用になるが、シュトックハウゼンは生前こんなことを発言したという。「私の教え子は誰も成功しなかったが、ひとりだけ例外がいた。ホルガー・シューカイだ。彼だけが私の真似をしなかった」
 シューカイは、自分の音楽のなかにいろいろなものを取り込んだ。それこそ68年のパリの暴動から短波放送から流れるベトナムの民謡、旧ソ連の音楽……、あるいは、ラジオ、カセットテープ、電話までもが彼の楽器だった。彼は自らを「ミューシャンではない」と言い切った。そうではなく、「ユニザーサルなディレッタントなのだ」と。ぼくもこういうことが言えるようになりたいものだ。
 TVのCMで使われたことで日本でもヒットした“ペルシアン・ラヴ”を聴いていると、いったいこれはどこの国のいったいなんという音楽だろうかと思った。そしてなんて美しいのだろうと思う。昨晩はこの曲を聴いた人が多かったことだろう。ぼくも家に帰って、ビール500mlを空けて、まっさきにこれを聴いた。

 「私たちが音楽を演奏させたのではない。音楽が私たちを演奏させたのだ」──ホルガー・シューカイ

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松村正人

 90年代はじめ、当時住んでいた仙台の夏のあまりの夏らしくなさ――私は夏はアスファルトに陽炎がたつくらいじゃないと夏じゃないと思っている、島の人間なので――にいてもたってもおられず、メールスのジャズ祭に行ったきり向こうに住みついてしまった叔母をたよって渡独したのは二十歳になったばかりのころ。ドイツといってもチューリッヒ近郊の叔母の家にいつまでも厄介になっているわけにもいかず、ドイツの東のほうから東欧に向かい、西におりかえし英国に向かう途中ケルンにたちよったのはここがホルガー・シューカイの町だからである。ところが駅前で数名にシューカイの自宅の場所をたずねたがラチがあかない。だれだそれ、というのがたいがいで、ひとのよさそうなオバさんはもうしわけなさそうにしているし、私よりすこし年嵩の青年はドイツならおまえ、スコーピオンズだろと「ロック・ライク・ハリケーン」を眼前で歌われる始末。スコーピオンズはファーストはコニー・プランクのプロデュースだから嫌いじゃないですが、そのコニー・プランクの仲間のカンというバンドのひとなのです、といっても伝わらない。当時の私はダモさんくらい髪が長かったのであるいは向こうが気づいてくれるかとも思ったが甘かった。宿なしらしき老婆には、どこから来たと問われ、ヤーパンだと答えたら、日本のせいで戦争に敗けたと狂ったようになじられ、駅から離れた人気のない路地の坊主頭の若者の集団にも訪ねてみたが要領をえない。いま考えるとあいつらネオナチだったろうね。

 私は大聖堂もみずに失意のうちにケルンを去り、四半世紀(!)前のこととて記憶は遠いが、たしかベルギーのどっかから黒人の乗船率が異様に高いフェリーで、野田さんがほめていたマッシヴ・アタックの町ブリストルに渡ったはずだが、ことほどさようにカンは当時の私にとってなにがしかのものだったのである。
 それはいまでも変わっていない。おそらく死ぬまで変わらないどころか、前々々世や来々々世とかいう戯言を私は信じないが、そのようなものがあったとしてもそうだろう。

 カンのなかの音楽の鮮度は保たれている。流動的だが凝結し個人のものであれ歴史に属するものであれ、あらゆる時間を横切り大気をくぐりぬけ耳朶を打つ。ときにプログレッシヴ・ロックやサイケデリック・ロック、のちにユーロ・ロック、いまはクラウト・ロックにひとは彼らを分類するが、ポピュラー・ミュージックと民族(民俗)音楽と即興音楽と電子音楽をカットアップしモンタージュするカンはつまるところカンなのだ。その先頭に立っていたのはホルガー・シューカイそのひとにほかならない。たわわな口髭といくらか生え際が後退したホルガー・シューカイのイメージは近影でこそ痩せ細っていたものの、68年の結成時からほとんど変わらない。シュトックハウゼンの元に学んだこの男はデビュー当時すでに三十路だった。分別のある大人だったが音楽は野蛮だった。同門のイルミン・シュミット(Key)とドラムのヤキ・リーベツァイトはシューカイと同年配でギターのミヒャエル・カローリは10歳下、そこにヴォーカルとして黒人のマルコム・ムーニーが加わり、だれもが知る最初のカンができあがる。69年のファースト『モンスター・ムーヴィー』の白眉は「Yoo Doo Right」だが、空間に燎火のように延焼するカンのスタイルはすでに完成している。ヤキの非西欧的な律動とミヒャエルの音色とフレージング、イルミンのサウンドは波のようである、おのおのが特異なパーツをシューカイの反復するベースが粘っこく接着する。このトラックはセッションの抜粋を編集したもので、ホルガー・シューカイといったとき、世評ではのちにヤキやミヒャエルなどに較べ、ソロ作につながる編集(プロデューサー)的観点を功績として強調するきらいがあるが、演奏家としての比類なさにも目を向けなければならない。八分音符を弾きつづける、オクターブをくりかえす――ただそれだけのフレーズがサイケデリックな空間をつくりディスコの暗喩となり、ループするフレーズの一部を欠落させダブ化させる、単純な法則だがきわめて呪術的でありそれがなければ、『タゴマゴ』や『フューチャー・デイズ』といった傑作もなりたたなかっただろう。私はくりかえすが、カンとはつまるところその総体である磁場の謂いなのだ。ダモ鈴木在籍時(私は『タゴマゴ』が初カンだが、いまでも「Oh Yeah」が日本語歌詞なるパートを聴くと、そのヴィジョンが幻出する)はむろん、後期のジャンル音楽の擬態と変調はそれまでの求心力が希薄なぶん異質さが浮遊している。その後のシューカイのソロはバンドの集団性を離れ、いかに方法をポップに純化するかを試みた階梯であり、ワールド・ミュージックとクラブ・ミュージックの折衷があたりまえな現在の若い耳により親しみやすいだろう。

 カンに失敗は存在しない。以前取材したさいイルミン・シュミットはそのようなことをいっていたが(『アウト・オブ・リーチ』はどうなんだという意見もあるでしょうが)、カンがカンであるかぎりそれは真実であり、おそらくそのような姿勢だけが都市のなかに未開の地を拓く。
 幾多の作品をのこしホルガー・シューカイは世を去った。ヤキ・リーベツァイトを喪った年にシューカイも逝った。享年79歳。地元紙によれば、ケルン近郊のヴァイラースヴィストにある以前は映画館だったカンのオリジナルのスタジオで亡くなっているところを発見されたという。25年前、私がたどりつけなかった場所だった。(了)

Com Truise - ele-king

 これは2017年なりの機械/反復の美学であり、記憶のむこうにあるユートピアを希求する音楽でもある。ユートピアとは「80年代」のことだ。今や「80年代」は現実でも近過去でもない。過去という虚構である。マシニックでロボティック。クラフトワークでエレクトロ。80年代中期の細野晴臣。90年代的ではなく80年代のマシン・ファンクなビート。強く優雅なシーケンス・フレーズ。甘く切ないフュージョンなメロディ。ボトムを強烈に刺激するシンセ・ベース。
 つまりエレクトロニカというよりテクノポップ。いやテクノポップというよりミッド・エイティーズ的なエレクトロか。それともエレクトロというよりチップチューンか。いずれにせよ80年代的中期的な音像とムードを10年代的なメリハリ感のあるサウンドで再現し、見事に同時代の音楽として組み上げているわけである。そう、「ブレードランナー」的な都市のネオンサインを、インターネット以降のデジタリズムで再現したとでもいうべきか。これぞシーケンスとシンセ・ベースとドラムマシンによる2017年型のマシン・ミュージックだ。

 コム・トゥルーズは、NY出身・LAを活動拠点とするセス・ヘイリーによるレトロ/フューチャーなシンセティック・ミュージック・プロジェクトである。この『イテレーション』は、2011年にリリースしたファースト・アルバム『Galactic Melt』以来、実に6年ぶりのセカンド・アルバムだ(2012年の『イン・ディケイ』は未発表曲集なのでオリジナル・アルバムにはカウントされていない)。リリースはデビュー以来のお馴染みの〈ゴーストリー・インターナショナル〉から。
 過去にはダフト・パンクにリミックスを提供しており、2017年は、あのクラークとツアーを回っていた(ふたりのスプリット・シングルもリリースしている)。そのうえコム・トゥルーズ=セス・ヘイリーはグラフィック・デザイナーでもあり、アルバムのアートワークも自身で手掛けているほどの才人である(それにしても最近の〈ゴーストリー・インターナショナル〉のリリース作品は、音楽性とアートワークの両方から2010年代後半的な電子音楽のポップ・アートを見事に実現しているように思う)。作風は、先にも書いたように80年代的なレトロ/フューチャーなトラックで、あのティコ以降の〈ゴーストリー・インターナショナル〉を代表するアーティストといえる。
 じじつ本作『イテレーション』は、ポップで聴きやすい音楽性で、80年代のゲーム・ミュージックや70年代後半のTVのCM、80年代の企業広報BGM的な電子音楽を思わせる。つまりは良い意味で「B級」的なポップ感がある。このアップデートされた77年代~80年代中期風の電子音楽をずっと聴いていると、80年代という過去に対する諦念とも憧れとも違う何か、いわばユートピア的な夢想を感じてしまう。これは今の30代以下の世代に共通する全世界的な傾向かもしれない。1970年の「大阪万博」というより、1985年の「つくば科学万博」だ。
 今、70年代後半から80年代のポップ音楽を掘ることが世界的に30代以降の若い世代のなかで浸透している。諸外国では日本のポップ・ミュージックやアンビエントが良く掘られてもいる。少し前に紹介したヴィジブル・クロークスも80年代の日本の音楽を掘っていたし、吉村弘の1982 年発表のアンビエント作品『Music For Nine Post Cards』が再発される時代でもあるのだ(最近、話題になった某TV番組で、大貫妙子の『サンシャワー』を探し求めてLAから日本にやってきた彼もまた同じだろう。ちなみに彼=スティーヴン・デルガド(Steven Delgado)はアーティストでもあり、Chubs The Magnanimous名義でブレイクビーツを巧みに用いた素敵なアルバムをデータでリリースしていた。『宇宙刑事シャイダー』を用いたアートワークの80年代特撮感覚と、80年代的音楽性へのサンプリング/ブレイクビーツ的センスの融合でなかなか良い。それにしても彼はもうすぐ日本でリイシューされる細野晴臣がスーパーバイザーを務めた元祖テクノポップ・アイドル(?)真鍋ちえみ『不思議・少女』(1982)を知っているのだろうか。いや、多分、知っているだろう)、そのような感覚を共有しているのではないだろうか。
 諦念とも憧れとも違うミッド80年代への夢想、もしくはユートピア的願望。過去が理想郷として表れてくること。本アルバムが意味する「イテレーション=反復」も音楽それ自体の反復という意味だけではないだろう。いわば亡霊のように再帰する80年代音楽全般への反復=希求という感覚とでもいうべきではないか。
 アルバム冒頭を飾る“…オブ・ユア・フェイク・ディメンション”のシーケンスが80年代的な夢想へとわれわれを誘う。硬い音色のジャストなビートとベースとの絡みが強い中毒性を生んでもいる。また、2曲め“エフェメロン”の終わり近くで古いテープのように音がどんどん歪んでいくサウンドもミッド80年代という過去を表現しているといえる。そして不安な記憶をえぐるような焦燥と緊張感に満ちた5曲め“メモリー”、その不安からの解消のごときメロディック・ファンクな6曲め“プロパゲーション”、ミディアム・テンポのなか電子音とスライスされた声が重なる7曲め“ヴァキューム”、テクノ化したテリー・ライリーか80年代の久石譲を思わせるシンセ・リフとファットなビートの8曲め“ターナリー”、夢の中を浮遊するようムードの10曲め“Syrthio”など、アルバムは「今は1985年か?」と思ってしまうようなシンセティック・サウンドを存分に展開するのだが、私には、それらが単なるノスタルジアにはどうしても思えない。そもそも1986年生まれのセス・ヘイリーにとって、ミッド80年代はもの心つく前の時代のはずで、記憶の中にうっすらと残っている程度の「過去」のはず。

 幼少期のおぼろげな記憶ゆえに、過去(80年代)をユートピア(既知と未知の弁証法的理想郷?)とする感覚が、本作には確かにある。だからこそアルバム・ラスト曲の“イテレーション”が、やや1990年代初頭の質感を僅かに感じさせるのではないか。「80年代の終わり」からの反復? 「反復」という名の曲で、『反復』というアルバムを終わらせる意味は、それなりに意味深である。
 80年代の終わり/現実の始まり。それはつまり幼少期の終わり。このポップなサウンドの裏側には、どこか現代社会への不安と希望が混じり合った感覚があるように思えてならない。

Broken Social Scene - ele-king

 今年の5月にアリアナ・グランデのコンサート会場で起きた痛ましい爆発事件の翌日、同じ市内のマンチェスターでライブを行ったブロークン・ソーシャル・シーンは、ゲストにマンチェスターのレジェンドことジョニー・マーを迎えて代表曲“Anthems for a Seventeen Year Old Girl”を一緒に演奏した。その日のステージでバンドの中心人物のケヴィン・ドリューは客席に向かってこう話した。
 「もっとも大事なことは、僕らがこうしてみなで一緒にいるってことなんだ」

 トータスのジョン・マッケンタイアをプロデューサーに迎えて制作した2010年の『Forgiveness Rock Record』を最後に活動を休止していたカナダ出身のブロークン・ソーシャル・シーンが再び集まったのは2015年。その年の11月にパリのコンサート会場などで起きた銃乱射事件がきっかけだったという。そこで仲間たちは再び集まる。別々の活動に散らばっていたメンバーはみな、空白の時間と同じ数だけ歳をとっているし、各々がソロとしても活動できる経験と才能を持ち合わせている。いまや誰もがひとりで音楽を作って簡単に発信できるような世のなかで、同じパートを担当する人間が何人もいるスーパーバンドなどは、もはや時代錯誤かもしれない。それでも彼らは集まった。かつてのように、一緒に音楽を奏でるために。

 ストロークスの『Angles』を手掛けたジョー・チッカレリをプロデューサーに起用した7年ぶりのアルバム『Hug of Thunder』。雷にハグされたような衝撃の後に生まれた作品。そのつど人数が変わるバンドは、今回18人のメンバーがクレジットに名を連ねている。先に公開されていた曲の素晴らしさにまず歓喜し、これはブロークン・ソーシャル・シーンの過去の名盤に並ぶクオリティになるだろうと確信を持っていた。今作から新たに参加したアリエル・エングルが3曲でリード・ヴォーカルを担っているのだが、同メンバーのファイストにも似たハスキー且つ儚さがプラスされたような歌声が、バンドの名だたる女性ヴォーカリストたちに引けを取らないような魅力を醸し出し、楽曲に淡い色彩を美しく落とす。もちろんケヴィンやブレンダン・カニング、ファイストやエミリー・ヘインズやリサ・ロブシンガーなどお馴染みのメンバーも曲ごとに代わる代わる歌っているし、歌詞カードを覗くと“Skyline"のところに元ジェリー・フィッシュの名前も見つかったり(まあヴォコーダーで参加なのでよくわからないけれど)、相変わらずドラマチックなホーンの音色といい、大所帯バンドの醍醐味を改めて確認できる。ファイストが歌うタイトル曲は、同時期に出したソロ・アルバムの尖ったギター・ロックとはまた違う浮遊感のあるサウンドで印象的。出はじめの頃はポスト・ロックなどとも括られ、じょじょにエクスペリメンタル・ミュージックの要素を深めてきた音楽は、ときにたくさんの輝きがぶつかり合って得体のしれないパワーを発揮していたこともあったけれど、今作は少しシンプルでより誠実なサウンドに変化を遂げている。バラバラの個性はそのまま残しながら、内側に暖かく強いエネルギーを放つ。何かを隠して白く塗り潰された壁の前で共に並んで自由に絵を描くみたいに。

 ブロークン・ソーシャル・シーンの音楽を聴いていると、自分がそのクリエイティヴなものに混じって一緒に何かを作り上げているような気分にすらなる。そして“Halfway Home”で、演奏する男性たちの真んなかで女性たちが向かい合いながら

 And yon'll forget
 Call out for a change
 But not believe in anything!
 (そして君は忘れるだろう
  変化を求めて叫べ
  だけどなにも信じるな)

 と何度も何度も繰り返し腕を掲げて歌う凛々しい姿を見ると、たまらず胸が熱くなる。何だってできるような気がする。


Mumdance - ele-king

 インスト・グライムの奇才、マムダンス――彼は本当にこの国で過小評価されている。2015年に〈Tectonic〉から放たれたロゴスとの共作『Proto』、その衝撃はどれくらい多くの人びとに伝わっているだろうか。ほかにも〈Tectonic〉や自身のレーベル〈Different Circles〉からコンスタントにEPを発表し続け、来る9月8日にはピンチとの共作EP 「Control / Strobe Light」のリリースも控えているマムダンスが、ついに単独での来日を果たす。9月17日(日)、会場はCONTACT。当日は2時間のロング・セットとなる模様。この日はとにかくCONTACTまで足を運んで、UKベース・ミュージックの尖鋭に触れておこう。

ハードコア・スピリッツを根底に置く才人の登場

これまでにコラボレーションしたアーティストを数えれば切りがないといえるほど、多種多様なアーティストと共同作業をこなしてきたMumdanceがContact初登壇。その記念すべき夜には、ドメスティックな出演者たちからジャンル特定不能といえようアーティストも集結し、バラエティ豊かなビート、空間に広がるアンビエンスと様々な音が散りばめられた空間を演出してくれるだろう。
デビュー当初Mumdanceがセルフリリースしていた『DIFFERENT CIRCLES THE MIXTAPE』を聴いたときのような斬新さ、特異さを十二分に感じられる夜となるはずだ。

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9/17(日・祝前)
Mumdance
Open 10PM
Before 11PM ¥1000, Under 23 ¥2000,
GH S members ¥2500, w/f ¥3000, Door ¥3500
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Studio:
Mumdance (Different Circles | Tectonic | XL Recordings | Rinse FM | UK)
DJ Fulltono
100mado (Back To Chill | Lo Dubs | Murder Channel)
Albino Sound -Live
DAIGO (D.A.N.)

VJ: SO IN THE HOUSE

Contact:
asyl cahier (LSI Dream)
Prettybwoy (POLAAR | SVBKVLT)
Nao (rural | addictedloop)
Sunda
Romy Mats (解体新書 | procope)
K_yam (Remedy)


■Mumdance
ブライトン出身のMumdanceはハードコア、ジャングルの影響下、15才頃から〈S.O.U.R〉レーベルが運営するレコード店で働き始め、2階のスタジオでプロダクションの知識を得る。やがてD&Bのパーティ運営、『Vice』誌のイベント担当を経てグライムMCのJammerと知り合い、制作を開始。ブートレグがDiploの耳に止まり、彼のレーベル、〈Mad Decent〉と契約、数曲のリミックスを手掛け、10年に「The Mum Decent EP」を発表。また実質的1stアルバムとなる『DIFFERENT CIRCLES THE MIXTAPE』で《Kerplunk! 》と称される特異な音楽性を明示する。その後Rinse FMで聴いたトラックを契機にLogosと知り合い、コラボレーションを始め、13年に〈Keysound〉から「Genesis EP」、〈Tectonic〉から「Legion / Proto」をリリース、そして2ndアルバム『TWISTS & TURNS』を自主発表、新機軸を打ち出す。14年には〈Tectonic〉からPinchとの共作「Turbo Mitzi / Whiplash」、ミックスCD『PINCH B2B MUMDANCE』、グライムMC、Novelistをフィーチャーした「Take Time」〈Rinse〉でダブステップ/グライム~ベース・シーンに台頭、またRBMAに選出され、同年東京でのアカデミーに参加したほか、Logosとのレーベル、〈Different Circles〉を立ち上げ、ミュジーク・コンクレート、ニューエイジなどの影響を反映した「ウェイトレス」と自称する無重力感覚のサウンドを創造する。15年には名門〈XL〉からNovelistとの共作「1 Sec EP」、自身の3rdアルバムとなるMumdance & Logos名義の『PROTO』、Pinchとの共作「Big Slug / Lucid Dreaming」のリリースを始め、ミックスCD『FABRICLIVE 80』を手掛け、Rinse FMのレギュラーを務める。その後もLogosと精力的な活動を続け、17年に入り『WEIGHTLESS VOL,2』、「Perc & Truss Remixes」、「FFS / BMT」といった注目作を連発している。90’sハードコア・スピリッツを根底にグライム、ドローン、エクスペリメンタル等を自在に遊泳するMumdanceは現在最も注目すべきアーティストのひとりである。

《Mumdance レギュラーラジオ最新アーカイヴ》
https://soundcloud.com/rinsefm/mumdance290817

パターソン - ele-king

 私はパターソンに足を運んだことはないが、ニューヨーク州の隣のニュージャージー州の北部、パサイク郡の郡庁所在地であるかの地は、それがオールロケであってもなくても、画面に映りこんだ街並みから空想するに、都市の喧騒に遠い、いくらかとりのこされた、緑の多い住みよい街のようである。郊外に向かう電車の窓に映る景色がごみごみした都心を抜けた途端にひらけるあの感じ、あるいは金沢とか仙台とか札幌とか、涼しげな土地を連想してしまうのはおそらく、街の情報以上に映像にとらえられた光と空気のせいである。光の差す位置は低く事物の陰影は深い。デジタルでありながら、その色彩感覚はきわめて写真的、ことに70年代のニューカラーを髣髴したのはイメージがエグルストンやショアに似ているからではなく、この世界における映像イマージュの階層が変質したなかにあってこの映画の映像の位置関係がニューカラーが写真史にもたらしたそれに近似するからである。フィルムに色を感光する行為はモノクローム基調の写真史の飛躍のひとつだったが、初期のニューカラーの写真には表現と技術の不安定さからくる、色彩を得ることと同時に喪失することのゆらぎがあった。色はあらかじめ褪せることを含意し、イメージはそれが過去のものであるという形式がもたらす事実以上に圧倒的に非在だった――と思わず間章っぽくなってしまうほど、3DやCGやVRやARやMRがはびこるイマージュによる象徴界で、ジム・ジャームッシュの80年の『パーマネント・バケーション』から数えて12作目の劇映画『パターソン』のフレーム内の色彩と陰影と構図は端正であり、つまるところそれは古典的である。

Photo by MARY CYBULSKI ©2016 Inkjet Inc. All Rights Reserved.

 筋書きはいたってシンプル。ジャームッシュはパターソンを舞台に、街とおなじ名前の主人公パターソン(アダム・ドライヴァー)とその妻(ゴルシフテ・ファラハニ)、そこに暮らすひとたちの一週間を淡々ときりとっていく。撮影監督はフレデリック・エルムズ――ジャームッシュ作品では『ナイト・オン・ザ・プラネット』(1991年)をかわきりに、2003年の『コーヒー&シガレッツ』を担当した人物だが、古くはリンチの『イレイザー・ヘッド』(1976年)を撮っていた。彼との直近の仕事は2005年の『ブロークン・フラワーズ』といえば、『パターソン』のトーンをご理解いただけるだろうか。あの作品のビル・マーレーはジャームッシュ作品では比較的クセのないほうだったが『パターソン』でのアダム・ドライヴァーはそれに輪をかけて淡泊である。午前6時には目をさまし朝食をとり仕事にでかけていく。あとにする自宅は、私はアメリカの住宅事情に詳しくないが、おそらく子どものいない若夫婦と犬一匹が暮らすには広すぎず狭すぎない、典型的な物件である。職場までは徒歩でゆく。職場についたパターソンは出発前のバスの運転席でノートになにやら文字を書きつける、そこに同僚がやってきて手は止まる、バスは発車しパターソンの市街を横切っていく、フロントガラスに映る市街地の風景は構図のなかの消失点に吸いこまれるかのよう。古い街なみ。その街にまつわる話を、乗客がする声が運転席のパターソンの耳にとどく。ある日のそれはひとを殺したボクサーの話でありべつの日にはドーナツ屋のいかした女のこともある、パターソンに住んでいたアナキストについて話す学生たちが乗り合わせることもあるだろう。仕事が終わった食後には愛犬マーヴィンの散歩の途中でなじみのバーによることもある。そこで交わす会話は音楽ネタとユーモアをちりばめたいかにもジャームッシュらしいものだが、80~90年代諸作とくらべると、かつて編集がもたらしたオフビートな感覚が役者の演技の間に置き換わっており、いくぶんゆったりと、とてもまろやかである。彼らとの出来事ともいえない出来事がパターソンを触発するともなく触発する、月曜から次の月曜までくりかえす日々にふれられることでパターソンは詩人になる。

Photo by MARY CYBULSKI ©2016 Inkjet Inc. All Rights Reserved.

 うかつな私は書きもらしましたが主人公パターソンはバスの運転手であるとともに詩人でもある。すてきというしかないこの設定が『パターソン』の奥行きである。私は詩については門外漢だが、詩が最初の一行のイメージにはじまりついでイメージをイメージへ橋渡すものなら、『パターソン』の構造そのものが詩である。ところがそれは詩的といったときに、私をふくめ多くのひとが思うような感傷とは無縁であり、作中にコインランドリーのラッパー役でワンシーンだけ登場するメソッド・マンが、詩人としてのパターソンのモデルになったウィリアム・カルロス・ウィリアムズの詩作哲学を借りてつぶやくように、「事物からはじまる観念」なのであり、マッチ箱や靴箱などとわかちがたい、現実に潜ったイメージの群れのようなものを、かつて詩を学んだジャームッシュは映画という、やはりイメージの連なりである形式のなかでたどり直している。むろん映画は詩であるという命題は蕪雑にすぎるが、きりとる視点によっては現実は映画になり文学になり音楽になる、つまりアートになる――などというそっくりかえった言い方をしなくとも、私たちのおくる日々には一日たりともおなじ日はない、とジャームッシュは『パターソン』で種々のイメージをいつくしむようにとらえていく。ときにそれはパターソンの名勝であるグレイトフォールズの水のイメージのもたらす広大無辺さであり、ポール・ローレンス・ダンバーやフランク・オハラやエミリー・ディッキンスン、パターソン生まれのアレン・ギンズバーグやウィリアム・カルロス・ウィリアムズといった米国の詩人の命脈である。それらは符牒となり作品全体に交響していくのだが、そこには桂冠詩人の厳かさや壮麗さに遠い、自由(律)の(オフ)ビート感覚がある。一節ひいてみよう。

「冷蔵庫のスモモを食べた
たぶん君の朝食用だね
許してくれ
おいしかった
甘くて
よく冷えてたよ」
(ウィリアム・カルロス・ウィリアムズ「言っておくよ」)

 作中後半でパターソンは妻ローラに彼女が好きだというこの詩を朗読する。うかつな私は詩にうといので詩と散文のちがいも定義できないが、このような唯物観は、広津和郎の散文性とはいわぬまでも、たとえば谷川俊太郎の「コカコーラ・レッスン」とか田村隆一の諸作とか、ある種の韻文が散文にひらかれるさいにはらむ質朴な力感と余白を思わせるだけでなく、『ダウン・バイ・ロー』でのホイットマン、『デッドマン』でのウィリアム・ブレイクら、ジャームッシュがこれまでの作品で言及してきた詩人の諸作と響き合い、ことばとイメージがアメリカのみならず世界に波及しやがて覆い尽くすジャームッシュのヴィジョンの根拠にもなっている。むろんブルースマンとロッカーとラッパーの列席も欠かせない。その意味でノーベル財団は40年はおくれている。と書きながらいまふと思ったのだが、上述のW・C・ウィリアムズの詩の一節に出てくるスモモ(plums)は『ミステリー・トレイン』(1989年)で永瀬正敏と工藤夕貴のカップルが持参し、ホテルのフロントにいたスクリーミン・ジェイ・ホーキンスが丸呑みしたスモモの暗喩なのではないか。この詩を読んだ翌日、あることで失意の底に沈んだパターソンはグレーとフォールズの前で日本人の詩人(永瀬)と束の間の出会いをはたす。この「浄化」を思わせる場面、なんなら「癒し」といってもいいこのシーンでしかしジャームッシュは感情を昂ぶらせない、それを押しつけないのはこの映画を彼自身「解毒剤」とみなすからだろう。なんにとっての? スペクタクルとしての映画がはびこる昨今の状況にとっての。むろんこの一文の映画はあらゆる文言と置換可能であり、おそらく現在のアメリカの政治/状況とも無縁ではない。タッチは禁欲的で円熟も感じさせる。ロン・パジェットの手になる作中の三編の詩も見事である。音楽はジャームッシュがその一員であるSQÜRLが担当している。アンビエントを思わせつつもパターソンの思考に同期したようなゆるやかな起伏をもつサウンドトラックは当初「著名なエレクトロニック・ミュージシャンのアーティストのトラックを集めて、映画音楽にする予定だった」というのだが、私はそれがOPNではなかったかと邪推している。というのも―― (以下『ギミー・デンジャー』評につづく



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Throbbing Gristle - ele-king

 問答無用のインダストリアル帝王、コンセプチュアルなエクスペリメンタル集団……そうか、もうそんなに経つんですね。スロッビング・グリッスルがファースト・アルバム『The Second Annual Report』をリリースしてから40年。それを記念し、〈Mute〉からかれらの全カタログがリイシューされることが発表されました。まずは11月3日にそのファースト・アルバムと、かれらの代表作である『20 Jazz Funk Greats』(“Hot on the Heels of Love”は必聴です)、そしてベスト盤の『The Taste of TG』の3タイトルが発売されます。ボーナス・ディスクには当時の貴重なライヴ音源が付属、さらに日本盤はHQCD仕様となっております。これを機にスロッビング・グリッスルの偉大なる遺産に触れておきましょう。


スロッビング・グリッスル、デビュー作発売40周年を記念し全カタログをリリース!
リイシュー・シリーズ第1弾として、デビュー作と、歴史に燦然と輝く金字塔
『20 ジャズ・ファンク・グレーツ』、そしてベスト盤の計3作を11/3にリリース!
日本盤はHQCD(高音質CD)仕様。収録曲音源公開。

インダストリアル・ミュージックのオリジネーターであり、今なお現在の音楽シーンのみならず、カルチャー /アート・シーンにまで絶大な影響を与え続けているスロッビング・グリッスル。彼らのデビュー・アルバム『ザ・セカンド・アニュアル・レポート』の発売40周年を記念して、〈MUTE〉より全カタログがリリースされることとなった。

そのリイシュー・シリーズ第1弾として、新たなる音楽の可能性を切り開いた衝撃のデビュー・アルバム『ザ・セカンド・アニュアル・レポート』、彼らの代表作としてだけでなく『ピッチフォーク』で10点満点を獲得するなど歴史的名盤『20 ジャズ・ファンク・グレーツ』、そしてベスト盤『ザ・テイスト・オヴ・TG』の計3タイトルが11月3日(金)にリリースされる。なお日本盤のみHQCD(高音質CD)仕様でのリリースとなる。また、彼らの代表曲“United”が公開された。この曲は1978年に7インチ・シングルとしてリリースされ、今回リイシューされる『20 ジャズ・ファンク・グレーツ』と『ザ・テイスト・オヴ・TG』に収録される。


■“United”試聴リンク
https://youtu.be/5XpqCxJZdGs

全カタログは以下のスケジュールでリリースされ、また未発表曲などが収録されるボックス・セットも来年中にはリリースの予定となっている。

[2018年1月26日]
『D.o.A. The Third And Final Report』
『Heathen Earth』
『Part Two: Endless Not』

[2018年4月27日]
『Mission Of Dead Souls』
『Greatest Hits』
『Journey Through A Body』
『In The Shadow Of The Sun』


■商品概要(11月3日発売/3タイトル)

『ザ・セカンド・アニュアル・レポート』(2CD)

「産業社会に生きる人々の為の産業音楽」という風刺を効かせたキャッチコピーと共に、インダストリアル・ミュージックというジャンルを作り出し、新たなる音楽の可能性を切り開いた衝撃のデビュー・アルバム。1977年11月発売。アルバム発売40周年。
CD-1は、スタジオ&ライヴ音源、そして前身のパフォーマンス・アート集団クーム・トランスミッション時代の映像作品のサウンドトラックの全9曲を収録。
CD-2は、当時のライヴ音源6曲、シングル「United」とそのカップリング曲の全8曲を収録。

・アーティスト:スロッビング・グリッスル / Throbbing Gristle
・タイトル: ザ・セカンド・アニュアル・レポート / The Second Annual Report (2CD)
・発売日:2017年11月3日(金) *オリジナル発売:1977年
・価格:2,650円(税抜)
・品番:TRCP-218~219
・JAN:4571260587199
・紙ジャケット仕様
・HQCD(高音質CD)仕様(日本盤のみ)
・解説付
・Tracklist:https://bit.ly/2wJhDfO
[amazon] https://amzn.asia/1jXuNhD
[Spotify] https://spoti.fi/2vnmZZH


『20 ジャズ・ファンク・グレーツ』(2CD)

1979年発売の3rdアルバム。燦然と輝く歴史的名盤。
インダストリアルの代表作としてのみならず、その後のエレクトロニック・ミュージックへ与えた影響は計り知れない。ジャケット写真の撮影場所は、自殺名所で有名なイギリスのビーチー・ヘッド。
CD-1は全曲スタジオ録音。CD-2は当時の貴重なライヴ音源9曲を収録。

・アーティスト:スロッビング・グリッスル / Throbbing Gristle
・タイトル: 20 ジャズ・ファンク・グレーツ / 20 Jazz Funk Greats (2CD)
・発売日:2017年11月3日(金) *オリジナル発売:1979年
・価格: 2,650円(税抜)
・品番:TRCP-220~221
・JAN:4571260587205
・紙ジャケット仕様
・HQCD(高音質CD)仕様(日本盤のみ)
・解説付
・Tracklist:https://bit.ly/2x5qw38
[amazon] https://amzn.asia/1A1zYlw
[Spotify] https://spoti.fi/2vnmZZH


『ザ・テイスト・オヴ・TG』(1CD)

ビギナーからマニアまで納得のベスト盤。全15曲収録。2004年作品。
リイシューにあたり、“Almost Kiss”(アルバム『Part Two: Endless Not』収録曲/2007年)を追加収録。

・アーティスト:スロッビング・グリッスル / Throbbing Gristle
・タイトル:ザ・テイスト・オヴ・TG / The Taste of TG: A Beginner's Guide To The Music Of Throbbing Gristle (1CD)
・発売日:2017年11月3日(金) *オリジナル発売:2004年
・価格:2,300円(税抜)
・品番:TRCP-222
・JAN:4571260587212
・紙ジャケット仕様
・HQCD(高音質CD)仕様(日本盤のみ)
・解説付
・Tracklist:https://bit.ly/2vrXQSd
[amazon] https://amzn.asia/2uwdQZH
[Apple Music / iTunes] https://apple.co/2g3paPU
[Spotify] https://spoti.fi/2vnmZZH


■スロッビング・グリッスル(Throbbing Gristle)

クリス・カーター(Chris Carter)
ピーター・クリストファーソン(Peter 'Sleazy' Christopherson / 2010年11月逝去)
コージー・ファニ・トゥッティ(Cosey Fanni Tutti)
ジェネシス・P・オリッジ(Genesis Breyer P-Orridge)

インダストリアル・ミュージックのオリジネーターであり、今なお現在の音楽シーンに絶大な影響を与え続けている伝説のバンド。バンド名は直訳すると「脈打つ軟骨」、男性器の隠語。1969年から1970年代のロンドンのアンダーグラウンドにおいて伝説となったパフォーミング・アート集団、クーム・トランスミッション(Coum Transmission)を母体とし、1975年にバンドを結成。彼らのライヴは、クーム・トランスミッションから発展したパフォーミング・アートが特徴で、イギリスのタブロイド紙でも取り上げられるほど過激なパフォーマンスを繰り広げた。1977年、衝撃のデビュー作『ザ・セカンド・アニュアル・レポート』を発売。その後彼らの代表作『20 ジャズ・ファンク・グレーツ』(3rdアルバム/1979年)を発売するなど精力的に活動をしていたが1981年に一度解散。その後、各メンバーはサイキックTVやクリス&コージーとして活動するも、2004年に再結成し2010年10月まで活動を続けた。同年11月、ピーター・クリストファーソン逝去。彼はアート集団ヒプノシスのデザイナーとしても活動し、ピンク・フロイド『炎~あなたがここにいてほしい』、ピーター・ガブリエルの初期3作など歴史に残る作品を手がけた。またセックス・ピストルズ初の宣伝用アーティスト写真の撮影、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンなど数多くのプロモーション・ビデオを制作し、自身の音楽制作のみならず革新的な作品を数多く生み出した。

www.throbbing-gristle.com
www.mute.com

ECD - ele-king

 だってまだ始まったばっか21世紀 “LUCKY MAN”

 『21世紀のECD』を聴くと、いろんなECDを思い出す。記憶がまざまざとよみがえる。イラク反戦のサウンド・デモでサックスを吹くECD、君津の〈RAW LIFE〉のステージ裏で円陣を組んで大声を張り上げるMSCをほほえみながらみつめるECD、こぎれいな視聴覚室でのライヴ中にターンテーブルの上で暴れるillicit tsuboiの横で壊れかけの鍵盤のサンプラーを叩くECD、駅前に集まった群衆との“言うこと聞くよな奴らじゃないぞ”のコール&レスポンスの渦の中心にいるECD、あるいは公道を走るトラックの上でラップしダンスするアディダスのセットアップ姿のECDやライヴハウスで酒をかっくらい大騒ぎする人びとのそばでぽつねんとたたずむECD、抗議のシュプレヒコールを誰よりも大きな声で発するECDやいまはなき青山のMIXで歪むほどの出音でDJするECD……、これらはまったく個人的な記憶であり、すこし昔の話も多くなってしまい恐縮だが、まぎれもなくすべて21世紀に起きたことだ。

 『21世紀のECD』の話をしよう。この作品は2000年代以降のECDの楽曲(客演曲含む)をみずから編集した2枚組のベスト盤である。ディスク1は00年代、ディスク2は10年代という構成で、基本的に楽曲は時系列に並べられている。ラッパーたちとの共作も多く収められているし、未発表曲やこの作品だけで聴けるエクスクルーシヴやリミックスもある。ディスク1とディスク2の冒頭にラジオのジングルのようなサウンド・コラージュが配されているのだが(ディスク2の“LUCKY MAN”の冒頭でもその一部が聴ける)、それがまた示唆的だ。

 「21 Century Show!!」という歌詞が叫ばれるある曲からラン・DMCのブレイクへと展開する、つまりプログレ(ロック)とオールドスクール・ヒップホップの古典がコラージュされた数十秒で、ECDがどこからやって来たのかを端的に伝えようとしている。「ADDITIONAL ELEMENTS BY ILLICIT TSUBOI」というクレジットがあるから、illicit tsuboiの仕事だろうか。曲間によってはDJミックスのように曲と曲がつながっている箇所もある。選曲はみずからおこなったそうだが、長年の相棒であるDJ/プロデューサーのillicit tsuboiが制作に深くかかわっていると考えて間違いない。

 ECDは本当にさまざまなタイプの曲を作ってきた。その創作意欲だけでも並外れている。欲望に抑制を効かせるようなラップとワンループが不穏なムードをかもし出す“Freeze Dry”、TR-808がうなりを上げるエレクトロ・ファンク “MIZO”、イラク戦争を受けて戦場を日常生活に引きつけようとする“東京を戦場に”、当時吹きはじめたサックスをフィーチャーした“CD”、ECD流のアシッド・ハウス“A.C.I.D”などがあり、ハードコア・パンク・バンド、U.G.MANとの共作“セシオン”もある。自身がライナーノーツでも触れているように、とくに00年代のECDはヒップホップの型式から解き放たれ、オルタナティヴに向かい、その表現を拡張していく。ただそのことを実験的とか革新的とかアヴァンギャルドとか、そういうありていの言葉で説明するのもどこかはばかられる。なぜだろうか。

 何度か通して聴きそんな考えを巡らしているなか、ひさびさにECDの著書『いるべき場所』のページをめくってみた。すると、ある一節が目に止まった。それはこんな一文だ。「『ロッキング・オン』の思想にかぶれ、マニアックな音楽にのめり込み、ロック喫茶に出入りしたりするようになっても、それでラジオのヒット・チャートでかかるような曲を軽蔑するようなことはなかった」。ハッとした。ECDの音楽がユニークであり続ける、そのルーツの一端が記されている、そう思ったからだ。

 1960年生まれのECDは小さいころからアニメ音楽や歌謡曲に親しみ、10代に入るとフォークやロックやプログレ、さらにレゲエやソウル・ミュージックにもその触手をのばし、そしてパンクとヒップホップに出会い、われわれの知るラッパー、ECDへと生成していく。もちろん90年代にも多くの作品を残しているし、言うまでもなくいまも語り継がれる日本語ラップ史における重要イベント、〈さんピンCAMP〉を主導した人物である。それ以前、80年前後の吉祥寺マイナーでの経験もある。

 そのあたりの個人史、音楽遍歴については『いるべき場所』に詳しいが、『21世紀のECD』もまたこれまでの音楽人生の現時点での総括として聴ける。というよりも、ECDのルーツとは何かを考えさせられる作品だ。もっと言うと、ECDの個人史にとどまらず、日本のヒップホップやラップのルーツについて考える契機にもなる。例えば、“BORN TO スルー”と“天国ロック”はいま聴いても興味深く、とくにロックンロールとアシッド・ハウスとラップが混然一体となった後者は素晴らしくユーモラスだ。思わずECDの和モノのミックス・シリーズ『PRIVATE LESSON』まで引っ張り出して再生してしまった。ECDの曲のなかには、そこでセレクトされているような歌謡曲やいまで言う“和モノ・レアグルーヴ”といったジャンルの音楽への欲求を強く刺激してくるものも多い。そのことも『21世紀のECD』を聴くなかで、僕なりに再発見したことだった。

 そもそも、キング・クリムゾンやイギー・ポップやデヴィッド・ボウイ、あるいはラン・DMCやエリック・B&ラキム、じゃがたらや町田町蔵、はたまた松本隆や阿久悠などをリアルタイムで体験してきて、実際の音や歌詞にもそういった表現からの直接的、あるいは間接的な影響を感じさせるラッパーなんてECD以外にはいない。ECDを聴くことは、そのままこの国の音楽文化の豊饒さに触れる経験であるようにも思える。すこし大仰な言い方になってしまうけれど、ジャズからはじまる戦後の日本の大衆音楽とアンダーグラウンド・カルチャーと輸入文化(洋楽)をこんなかたちで血肉化して表現できているのは、間違いなくECDが“ヒップホップの人”だからである。

 それでも“ヒップホップの人”になりきれない。それもまたECDではないかと思う。ヒップホップ・ファッションの定番や流行との距離感を歌う“憧れのニューエラ”(12inch versionを収録)にしても、“トニー・モンタナ”(未発表のKM Remix)やギャングスタ・ラップの独自解釈あるいは戯画化である“ラップごっこはこれでおしまい”(soakubeatsのビート)にしても、そこにはヒップホップ、トラップ(ECD流にいえば“南部産音楽”)にたいしてケジメや落とし前をつけていく姿、別の言い方をすれば、最新の流行やモードに価値観や感性を揺さぶられ、そのたびに新たなスタイルを模索してきたベテラン・ラッパーが自分なりの回答を出していく真摯な姿がある。この2枚組のベスト盤は、いちばん最後は時系列を無視して、2010年に発表した“ECDECADE”という曲でしめくくられる。その曲順にした意図は明確だ。聴いてみてほしい。僕は中平卓馬の言葉を思い出した。ECD、いまだ現在進行形である。

日々を生きるということは、つまり日々自らを新たなる自己として表現し、実現し続けてゆくということなのではあるまいか。すくなくとも、表現とは、予め捕えられたなにがしかの観念なり、イメージなりを図解して見せることではない。表現するということ、それは日々みずからを創造するということである。 中平卓馬『なぜ、植物図鑑か』より

Hatsune Miku 10th Anniversary - ele-king

 エイフェックス・ツイン――この数ヶ月のあいだ、何度その名を耳にしたことだろう。たしかに、旧譜のリイシューもあった。コルグとのコラボもあった。フジへの出演も話題となった。しかし、仮にそれらすべての出来事がなかったとしても、この夏は何度もエイフェックス・ツインの名を聞くことになっていただろう。というのも、この本のために取材を申し込んだ方がたの多くが、まるで打ち合わせでもしていたかのように、揃ってエイフェックスの名を口にしたからである(ちなみにその次に多く挙がったのは、石野卓球とスクエアプッシャーの名だった)。エイフェックスと初音ミク――さて、これはいったいどういうことだろう?
 かつてエイフェックスは、何よりもまずそのサウンドの強度(荒削りなテクスチャー、ぶっ飛んだアシッド、美しいメロディ、レイヴ以降のアンビエント感覚、ドリルンベース、プリペアド・ピアノ、等々)をもって多くのリスナーに驚きと衝撃を与えた。そのことに間違いはない。けれど、彼の功績はそれ以外にもある。まるでダンスフロアから逃走しているかのように見えるその佇まい――そのイメージの影響力の大きさを無視することはできないだろう。もちろん、彼の生み出したトラックがフロアから完全に切り離されていたわけではない。だが、かつての「ゲームボーイ世代」や「ベッドルーム・ボアズ」といった蔑称が物語っているように、彼はいまで言う「引きこもり」や「ぼっち」的なるものの表象を引き受けていたように思う。
 リチャード・Dが自身のベッドルームに大量の機材を持ち込んで、おそらくはニヤニヤと不気味な笑みを浮かべながら、たったひとりでそれらを徹底的にいじくり倒すことによって証明してみせたのは、連れなんかいなくても優れた音楽を生み出すことは可能である、ということだ――なんて言ってしまうと、いや、リチャード・D本人はトム・ジェンキンソンやマイク・パラディナスやルーク・ヴァイバートといった連中とつるんでいるじゃないか、という反論が飛んできそうだが、重要なのは彼の実生活ではない(と言うと今度はルフェーヴルやシチュアシオニストたちからお叱りを受けそうだが)。「ぼっちでいいじゃん」「連帯なんかくそくらえ」というイメージを、その圧倒的なサウンドの強度をもって世界中に散布したこと、それもまたエイフェックス・ツインの成し遂げた偉勲のひとつだろう。じっさい、彼のトラックからダンスそれ自体への欲動を聴き取ることはできても、クラブで顔なじみとじゃれあったり騒いだりしている人びとの風景を思い浮かべることはできない。たとえ社交性を欠いていたとしても、たとえ学校や職場で口をきく相手が皆無だったとしても、人びとの度肝を抜いて誰かを感動させる音楽を作ることはできる――要するに彼は、世界中の「ぼっち」たちに勇気と希望を与えたのである。
 それと同じことを、それとは違う形で実現してみせたのが初音ミクだった。ミクが取り払ったのは、「ウェーイ」というノリや「社交的じゃないと音楽はできない」という壁だった。その意味で初音ミクは、エイフェックス・ツインのまっとうな後継者である。だから、今回取材に応じてくれた多くのクリエイターたちの口から揃って彼の名が発せられたのも、けっして偶然ではないのだ。
 つまり初音ミクは、「異端」としてと同時に「正統」としてもエレクトロニック・ミュージックの系譜に連なる存在‐現象‐出来事だったのである。じっさい、この本に収められた佐々木渉のロング・インタヴューを読めばわかるように、あるいは彼と大友良英が旧知の間柄であったという事実からもうかがえるように、初音ミクの背後にはどっしりとエレクトロニック・ミュージックやアヴァンギャルドの文脈が横たわっている。しかし、なぜか(とあえて言うが)ミクやボーカロイドの音楽は当初、そことは異なる場所で大きな盛り上がりを見せることになった。おそらくその大きな理由のひとつに、ミクたちに付与されたキャラクターがあるのだろう。たしかに、10年前ほどではないとはいえ、いまでもミクのイラストを目にしただけで敬遠してしまう「音楽ファン」が多数存在するだろうことは想像に難くない。いまなおミクに対する偏見や先入観は「音楽ファン」たちのあいだに根強く残っている――少なくとも僕の目にはそんなふうに映っていた。
 だから、繋ぎたかった。ちょっとしたボタンの掛け違いで疎遠になってしまったふたつの世界を、改めて接続し直したかった。ルート(route)は違ってもルート(root)は同じはずだと、そう確信していたから。でもそれはたぶん、佐藤大の言葉を借りて言えば「映像端子に音声端子をぶち込む」ようなことなのだ。ぶっ壊れてしまうかもしれない。爆発してしまうかもしれない。じっさい、この本の制作を進めているあいだも、「そんなことは不可能だ」という厳しい意見を頂戴した。でも、だけど、やっぱり、だからこそ、繋ぎたかった。橋を架けたかった。だって、もし僕たちが何かを為さねばならないのだとしたら、その為すべき唯一のこととは、けっして為しえぬことであるはずだから。僕たちは、あらかじめ不可能だとわかっていることをこそ遂行すべきだと思うから。
 そんなわけで、学校や会社のような過酷な「戦場」でたったひとりサヴァイヴを続けているあなたに宛てて、あるいは、どこかの薄暗い一室でモニターと向き合いながら鬱屈した日々を送っているあなたに宛てて、そして、膨大な量のレコードに囲まれながらコアでエッジイな楽曲を流しつつ「アニメっぽいものは勘弁」と食わず嫌いを決め込んでいるあなたに宛てて、この本を送り出す。この本には、そんなあなたにとってこそ大きな意味を持つ何かが潜んでいる、と、そう信じている。

 最後に。あまりに慌ただしくて編集後記を書くことができなかったため、この場を借りてお礼を申し上げておきたい。初音ミク10周年で超絶多忙のなか取材に応じてくださり、全体のコンセプトや内容のバランスを勘案してくださり、また多くの方がたを紹介してくださった佐々木渉さん。さまざまなクリエイターや楽曲、その背景などを教授してくださり、構成を練り上げ、多数のレヴューを執筆し、いろんな取材の場でサポートしてくださったしまさん。べつの案件を抱えながら多くの取材をこなしてくださり、またそのキャリアに支えられた頼もしい観点からいくつかの興味深い原稿を執筆してくださった上林将司さん。この3人のうち誰が欠けてもこの本は完成しなかった。3人の尽力に心よりお礼を申し上げる。そして、この本には映像や音声以外の端子もたくさん仕込んであるのだけれど、それらを見事にデザインに落とし込んでくださった鈴木聖さんにも記して感謝を申し上げたい。(小林拓音)


contents

------------ Chapter 1
Hatsune Miku 10th Anniversary 初音ミク10周年

佐々木渉 ロング・インタヴュー ▶初音ミクの過去・現在・未来
大友良英 × 佐々木渉 対談 ▶初音ミクが変えたもの――20年ぶりの再会
佐々木渉 × しじま 対談
▶手塚治虫×冨田勲×初音ミク――狂気のコラボ作品がリリース!
伊藤博之 インタヴュー ▶クリプトン・フューチャー・メディア代表が思い描くクリエイティヴのあり方

------------ Chapter 2
Expansion and Deepening of Vocaloid Music ボーカロイド音楽の深化と拡張

■how to sing like human
[dialogue] Mitchie M × 佐々木渉 ▶もしもボカロが使えたなら
[interview] ピノキオピー ▶「ボカロでしょ?」という壁をぶっ壊す
[catalog] 人間のように歌わせる技術
[column] 上林将司 ▶ヴォーカル・シンセサイザーの変遷
■electronica
[dialogue] ATOLS × きくお / ばぶちゃん × 廻転楕円体 ▶電ドラ四天王、降臨!
[interview] Super Magic Hats ▶ヒューマンなものを作りたい
[dialogue] 曽根原僚介 × Yuma Saito ▶追悼 椎名もた(ぽわぽわP)――『生きる』は死ぬために作ったんじゃない
[catalog] エレクトロニカ
[comment] Laurel Halo
[critique] 仲山ひふみ ▶ミクトロニカから遠く離れて
[comment] Oneohtrix Point Never
■future bass
[column] しま ▶Future Bassとボーカロイド
[dialogue] 遠山啓一 × 米澤慎太朗 ▶物産展やろうぜ!――フューチャー・ベースの隆盛を経て
■rap / hip hop
[dialogue] 松傘 × でんの子P ▶ボカロにしかできないことを
[catalog] ラップ/ヒップホップ
[comment] Big Boi (Outkast)
[critique] 吉田雅史 ▶ジルとミクの出会うところ
■alternative / rock
[interview] DECO*27 ▶メロディをメロディにしていく作業
[critique] さやわか ▶ボカロの本丸としてのVOCAROCK
[catalog] オルタナティヴ/ロック
■classical
[critique] 八木皓平 ▶「模倣」と「解体」~冨田勲と初音ミクについて~
[critique] デンシノオト ▶〈光〉のオペラ/『THE END』論
■various styles
[catalog] 様々な歌唱のあり方
[catalog] R&B、レゲエ、ジューク/フットワーク、ジャズ、etc.

------------ Chapter 3
Various Views Surrounding Hatsune Miku 初音ミクをめぐるあれこれ

上林将司 ▶「初音ミク」というMMORPGを始めて10年経った話
かんな ▶MikuMikuDanceの文化と歴史
佐藤大 ▶映像端子に音声端子をぶち込むように
辻村伸雄、片山博文 ▶歌う惑星――初音ミクのビッグ・ヒストリー的意味
HAPAX ▶初メテノ音、未ダ来ラズ――絶対的な孤独への道標

 ライアーズがニュー・アルバム『TFCF(Theme From Crying Fountain)』をリリースした。アーロン、ジュリアンが抜け、アンガス一人になった今作は、抑圧ヴァージョンだが、明らかにライアーズである。何作もライアーズを聴き続けているが、ライアーズはいつも違って、いつも同じなのだ。あまりにも独特で、いまだにファンを惹きつけている。

 初期2000年代のアート・パンク/ノイズ・パンクから、そしてグリッジー、そしてダンサブルな変態エレクトロ・ポップを経ての今作は、ある意味ライアーズ史において一番おとなしい。とはいってもライアーズなので、1、2曲聴いただけでは全体の物語はつかめない。まずはライアーズのお得意の、急き立てられるダーク・エレクトロあるいはフォーキーなサイドが耳に入る。

 8月最終月曜日の夜に、グリーンポイントのブルックリン・ナイト・バザーで、『TFCF』のリスニング・パーティがあった。アルバムのカヴァー・アートのテーマを踏襲して、会場は赤白の風船とウエディング・ケーキ、白鳥の花瓶などが飾られていた。アンガス自らがフロントで、ウエディングドレスとベールを着てのDJをはじめる。

 アンガスのセットはハイパーな折衷主義で、キンクス、クリス・クロス、ファクトリー・フロア、グレゴリアン・チャンターズ・エニグマ、ジョン・ホプキンズなどをプレイ。自分の曲もかけていたが、DJ中は真剣な顔で画面に向かい、ニコリともせず、そして10時ぴったりに最後の曲を終えると、何も言わず会場を去った。
 お客さんは、フロアで踊っている人もいたが、ほとんどがウエディングドレス姿のアンガスを、ウエディング・ケーキのお裾分けを食べながら凝視しているという、なんとも奇妙な光景だった。招かれざるウエディング・パーティに足を踏み込んだ感じで、その居心地の悪さがじつにライアーズらしい、と笑ってしまった。会場には、今回のツアー・バッキング・バンドであるバンバラのメンバーや音楽ブログのエディターなどが勢ぞろいしていたが、みんなこの奇妙な状況を面白がった。いかにもいまの時代らしいね、と。

 ライアーズは、数週間前(ヨーロッパツアーの前)にアルファヴィルという小さな会場でシークレット・ショーをしたばかり(その時は満員!)。この後は、アメリカを周り、ブルックリンには9/21に帰ってくる。会場のワルシャワは、以前アンガスが怪我をして、座りながらショーをした事も記憶にあるが、ライアーズにはお馴染みの会場である。新メンバーでどういったショーを見せてくれるか、いまから楽しみである。

寺尾紗穂 - ele-king

 たとえば出稼ぎにやってきた外国人労働者を描いた“アジアの汗”、愛や他人への無知や無力を歌い上げ、それが原発作業員の労働環境へと接続される“私は知らない”。寺尾紗穂は、こうした世界に黙殺される小さな声に耳を傾け続けている人だ。彼女はそれをビッグ・イシューのサポートによるフェス「りんりんふぇす」の主催や、ノンフィクション・エッセイの執筆など、多角的に、かつ継続して行ってきた。

 特にここ数年の寺尾は音楽と並行して精力的に執筆活動をこなしており、近年の著作は3冊。2015年には原発作業員への聞き取り調査をもとに構成された『原発労働者』と、長い歳月をかけて南洋をめぐりながら戦争の痕跡を書き留めた『南洋と私』の2冊。そして今年の8月には、パラオを訪れ、日本の植民地下だった1920年代のこの島国の当時を知る老人たちに話を聞きながら探っていく『あのころのパラオをさがして』を上梓した。連載をまとめたものもあるとはいえ、かなりのハイペースだ。そしてどれもいわゆるアーティストが自身の感性を頼りに書いたようなタイプの本ではなく、「シンガー・ソングライター」という肩書きからは切り離されて存在している。寺尾自身がそういった肩書きを特に標榜していないので、こうした観点がそもそも野暮かもしれないが、それでも「自分はどういう人なのか」を決めず、ひとつを選ばない寺尾のスタンスは、その活動を考える上で重要な視点になるのではないかと思う。

 前作『楕円の夢』もそうだった。第二次世界大戦中・戦後に活躍した評論家、花田清輝の『楕円幻想』にインスパイアされてできたというこの作品で、彼女は楕円というモチーフを「1や「真実」を否定するもの」と話している

 円には中心がひとつしかないが、楕円には中心となる焦点がふたつある。花田は他を無視してひとつの中心だけを見て円を描くのではなく、ふたつの点を焦点に楕円を描くことが、矛盾しながらも調和した社会に必要だと暗示した。寺尾はその「楕円」を多様性の象徴としてアルバムのテーマに据え、路上生活者をメンバーに擁する舞踏グループ「ソケリッサ!」のMV起用やツアーでの共演を行い、その存在を表舞台に引っ張り上げた。

 昨年発表された『わたしの好きなわらべうた』も、各地のわらべうたをリアレンジして、忘れ去られようとしているわらべうたの中に残る人びとの暮らしの跡をすくい上げようとしたものだった。これもまた過去のものを過去のものと決めつけず、そこに息づく手触りの確かさを信じた試みだったといえる。

 一方で、こうした活動は彼女を通好みの存在にしてしまっている側面もあるかもしれない。たとえば前作“楕円の夢”のMVを見て、ごく普通のおじさんが街中でゆらゆらと舞踏を踊る姿に、戸惑いを覚えた人もいるだろう。コンセプチュアルな『わたしの好きなわらべうた』に、食指が動かなかった人もいるかもしれない。熱心な原発や外国人労働者についての活動も、聞く人に選択を迫る。その真面目な姿勢は、近年の彼女を絶賛する声を増やす一方で、間口を狭くしてしまっていた。

 活動初期の彼女にはこうした社会派ともとれる表現は少なく、時にエキセントリックながら情熱的な恋愛模様を歌い上げるシンガー・ソングライターだった。もっと個人的で、内省的に歌を歌ってきた人だ。しかしながらその個人的な考えが社会的なメッセージ性を身にまとった時にこそ、寺尾の歌はより強く輝いた。“アジアの汗”や“私は知らない”が聴く人の胸を打つのは、寺尾が何かを告発するようにではなく、ただ自分にはこう見えている、というような純粋さで歌うからだ。その視点に異物感を覚える時、私たちは自分たちの暮らしがどれだけいびつに歪められているかを思い知る。しかし近年の彼女の活動は、そうした純粋な視点が見えにくくなっていたところがあった。それは寺尾自身が変わったというよりは、扱われ方の問題でもあると思うのだけど。

 その寺尾が2年ぶりに発表したオリジナル・アルバムのタイトルは『たよりないもののために』。いかにものように思えるタイトルだが、今作には直接的に労働者や路上生活者など「小さな声」の主は登場しない。その代わり、これまで以上に普遍的な強度を持ったポップ・ソングが、寺尾らしい凜とした佇まいで並んでいる。

 様々なミュージシャンと共演して楽曲を深化させる方法はこれまで通り。蓮沼執太やゴンドウトモヒコ、柴田聡子、マヒトゥ・ザ・ピーポーなどが名を連ね、アルバムに彩りを添えている。中でも変化を感じるのはオープニングを飾るナンバー“幼い二人”だ。これまでの寺尾の作品では、自身の音楽性を印象づけるようにピアノと歌が前面に出ている曲がオープニングに選ばれていたが、この曲はあだち麗三郎のドラムと伊賀航のベースが刻む素朴なリズムで幕を開ける。さらに、寺尾がピアノではなくエレクトリック・ピアノのウーリッツァーを弾いているのも特徴。エレクトリック・ピアノは前作『楕円の夢』でも何曲か使われているが、オープニングに配置されたことで、これまで寺尾のアルバムを聴いてきた人は新鮮に感じたのではないだろうか。新たに公開されたMVでは新バンド・冬にわかれてを寺尾と結成したことがアナウンスされたあだち麗三郎、伊賀航との3人での演奏がフィーチャーされており、洗練された映像からは寺尾の新たな一面を見ることができる。他にも疾走感のあるポップ・ソング“雲は夏”や、尾崎翠の歌詞に曲をつけた郷愁を誘うメロディの“新秋名果”など、ピアノと歌というアイデンティティを大切にしつつ、様々なアプローチが試みられている。賑やかというのではないが、明るく、生命力に満ちた1枚になっている。それは大森克己が手がけた鮮やかな草花のジャケットが示す通りだ。

 しかし、寺尾は小さな声に耳を傾けるのをやめたわけではない。タイトル・トラックの切実さはやはりどこか、そうした存在を想起させる。今作で社会的な事柄は具体的に描かれてはいないが、それは意図的というより、必ず登場させようと意気込んでいるわけではないということなのだろう。このことからは、路上の生活にも都市の恋愛にも同じように情熱を傾ける彼女の姿勢が浮かび上がる。その結果、『たよりないもののために』は聴き手に開かれた作品になった。

 たよりないもののために
 人は何度も夢を見る
 ぼろぼろになりながら
 美しいものを生む
“たよりないもののために”

 今作の英題は「For the Innocent」。“たよりないもの”の訳語に“イノセント”を持ってきたところに寺尾の現代社会へのスタンスがあらわれているが、とても多様性のある表現だと思う。たよりなくて、イノセントなもの。それは信念だったり、誰かの未来だったり、まったく別の何かであったりするだろう。前作のモチーフになった「楕円」よりさらに曖昧で、しかし誰もが何かを思い浮かべるもの。

 “たよりないもの”は、誰の日常にも息づいている。私にも、あなたにも、路上生活者のおじさんにも。ゆるやかに束ねられて気づく普遍。寺尾が放つ美しい最大公約数の言葉は、多様な生に向けられる眼差しを塗り変えていく。

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