「K A R Y Y N」と一致するもの

BRIAN ENO AMBIENT KYOTO - ele-king

 アンビエントの巨匠として知られるブライアン・イーノは、ヴィジュアル・アーティストでもある。
 ニューヨーク時代の1979年、トーキング・ヘッズとのレコーディング中にヴィデオカメラを入手した彼は、その後『中世マンハッタンの誤った記憶』『木曜の午後』といったヴィデオ作品を残している。しかし固定された表現に満足しないイーノは以降、サウンド面でもヴィジュアル面でも「ジェネレイティヴ(自動生成)」な表現を探求することのできるインスタレーションにも大いに力を注いでいくことになる。
 かくして『静かなクラブ』『未来は香水のようになるだろう』『凧物語』『スピーカーの花々』『7700万の絵画』などなど、かれこれ30年以上にわたり世界各地でさまざまなインスタレーションが展示されてきた。日本でも1983年のラフォーレ赤坂をはじめ、2006年のラフォーレ原宿など、これまで五度展覧会が開催されている。
 そして2022年。日本でのひさしぶりの展覧会が決定した。会場は京都中央信用金庫旧厚生センター。会期は6月3日から8月21日。空間全体を用い、その場だけの音と光の変化を体験することができるのはインスタレーションならではの魅力。今回は彼のアート活動の中核をなす『77 Million Paintings』と、日本初公開となる『The Ship』のインスタレーションが展示される。とくに後者を体験できるのは非常に嬉しい。
 ブライアン・イーノのアートの神髄に触れることができるこの絶好の機会、逃す手はない。

ヴィジュアル・アートに革命をもたらした
ブライアン・イーノによる音と光の展覧会
BRIAN ENO AMBIENT KYOTO
開催決定

会場:京都中央信用金庫 旧厚生センター
会期:2022年6月3日(金)~8月21日(日)

ありきたりな日常を手放し、別の世界に身を委ねることで、 自分の想像力を自由に発揮することができるのです ━━ブライアン・イーノ

ヴィジュアル・アートに革命をもたらした英国出身のアーティスト、ブライアン・イーノが、コロナ禍において初となる大規模な展覧会「BRIAN ENO AMBIENT KYOTO」を開催します。

会場は、築90年の歴史ある建築物「京都中央信用金庫旧厚生センター」を、建物丸ごとイーノのアートで彩ります。

本展では、ブライアン・イーノによる音と光のインスタレーションを中心に展開します。

音と光がシンクロしながら途絶えることなく変化し続け、その空間のその時に、観客の誰もが違う体験をすることができる、音と光による参加型の空間芸術です。

芸術家としての活動のみならず、アンビエント・ミュージックの創始者であり、環境問題にも早くから取り組んできたイーノが、世界的文化都市の地で、どのようなメッセージを発するのか。ぜひご注目ください。

【開催概要】
タイトル:BRIAN ENO AMBIENT KYOTO(ブライアン・イーノ・アンビエント・キョウト)
会場:京都中央信用金庫 旧厚生センター
住所:京都市下京区中居町七条通烏丸西入113
会期:2022年6月3日(金)~8月21日(日)
開館時間:11:00~21:00 入場は閉館の30分前まで
チケット:
[前売り]
平日 / 一般 ¥1,800 専・大学生 ¥1,300 中高生 ¥800
土日祝 / 一般 ¥2,000 専・大学生 ¥1,500 中高生 ¥1,000
前売り購入サイト:https://www.ambientkyoto/tickets
[当日券]
各200円増 小学生以下無料

主催:AMBIENT KYOTO実行委員会(TOW、京都新聞)
企画・制作:TOW、Traffic
協力:α-station FM KYOTO、京都METRO、CCCアートラボ
後援:京都府、京都市, ブリティッシュ・カウンシル、FM COCOLO
機材協賛:Genelec Japan、Bose、Magnux、静科
特別協力:Beatink、京都中央信用金庫
公式ホームページ:
https://ambientkyoto.com
Twitter. https://twitter.com/ambientkyoto
Instagram. https://www.instagram.com/ambientkyoto
Facebook. https://www.facebook.com/ambientkyoto

Maya Shenfeld - ele-king

 〈Thrill Jockey〉が興味深い電子音楽家/作曲家のアルバムをリリースした。ベルリン在住のマヤ・シェンフェルトの『In Free Fall』である。
 マヤ・シェンフェルトは現代音楽の作曲家で、クラシックのギター奏者でもあるのだがパンク・バンドでギターを演奏するなど、多岐にわたる音楽活動をおこなっているようだ。現代音楽の領域ではモダンな電子音楽を追求しており、インスタレーションや作曲作品などを通して、電子音合成と有機的な音を越境させるような音楽を生み出している。
 本作『In Free Fall』は、マヤ・シェンフェルトのデビュー・アルバムであり、最初の集大成であり、電子音楽方面での作曲方法が追求されているアルバムである。このアルバムには実験的な電子音楽、オーセンティックでミニマルなシンセ・サウンド、映画音楽的なトランペットとシンセのアンサンブル、電子音響ドローンなど、いくつもの手法が駆使されている。しかしサウンドが乱雑になったり、無意味にカオティックになったりすることはない。端正だが緊張感もあり、どこか風が吹くような自由さもある。私にはこのバランスの良さが『In Free Fall』の魅力のように思える。

 『In Free Fall』には全7曲が収録されている。1曲め “Cataphora” は Kelly O'Donohue のトランペットと電子音のアンサンブルによる曲だ。折り重なる音は洗練されており、まるで映画音楽のような流麗な展開を聴かせる。同時に音と音のレイヤーには和声を超えるような構造にもなっており、音楽と実験の領域を無化する楽曲となっている。この曲における電子音と有機的な音の交錯は、まさに本作の方法論や表現を象徴するものである。ちなみにどうやらカテリーナ・バルビエリとのレジデンスの間に書かれた曲のようだ。
 シンセ・ウェイヴ的なシーケンス・サウンドで始まる2曲め “Body, Electric” でも後半になるとクラシカルなアンサンブルへと変化する。続く3曲め “Voyager” ではエモーショナルなシンセサイザー・サウンドが全面的に展開され聴き手を電子音の深い海に誘うサウンドスケープを生成していく。どこか映画『ブレードランナー』のヴァンゲリスを思わせる曲だ。
 この2曲を経て、エンプティ・セットのジェームズ・ギンズバーグをプロデューサー/コラボレーターに迎えた4曲め “Mountain Larkspur” に至る。レコードではA面のラスト曲となるこの曲は、わずか2分50秒のほどのトラックではあるもののアルバムを代表する1曲といっても過言ではない。ベタニエンユース合唱団の幽玄な合唱は、ベルリンにある1902年の廃プールでリハーサル・収録した録音したものだという。その録音にギンズバーグとシェンフェルトが電子的な加工を施し仕上げた。いわばアルバムA面のエンディング的曲であり、アルバム前半を総括する幽玄なトラックともいえる。
 続く5曲め “Silver” は硬質なサウンドによるドローン作品であり、その透明な質感の音響がとにかく美しい。この曲も2分50秒ほどのトラックだが、粒子のように美しいミニマルなドローンの中に込められた音の変化や情報量が凄まじく、深く聴き込んでいくと時間を超越するような感覚を覚えるほどだ。どこかビー・ジェー・ニルセンのドローンを思い出しもする。この曲はレコードではB面1曲目に当たるので、アルバム後半のはじまりを告げるトラックともいえよう。
 そして6曲め “Sadder Than Water” は、3曲め “Voyager” と対になるようなシンセ・アンサンブル的な楽曲だ。7分20秒というアルバム最長の曲だが、静かなエモーションが巧みな曲構成に誘導されるように、隅々にまでうごめいていて、まったく飽きることのない仕上がりである。
 アルバム最終曲 “Anaphora” は、アルバム冒頭の “Cataphora” と対になっているような曲だ。“Cataphora” で実践された管楽器的なアンサンブルの追求とでもいうべきか。この曲で『In Free Fall』は、まさに「Anaphora=首句反復」の名のごとく反復し、円環を描くようにアルバムは終わる。むろん円環といっても閉じているわけではない。その静謐な中に点描のように置かれる音たちは、まるで上昇するように世界にむかって開かれているのだ。

 アルバムを通して聴くと、まさに電子音楽の新古典主義とでも形容したくなるほどの出来栄えであった。全曲で36分というミニマムな収録時間であっても、形式にとらわれず、しかし形式を軽くみることもなく、自由に、開放的に音楽の実験と作曲を試みている、そんな印象を持ったのだ。長く聴ける普遍的な電子音楽作品ではないかと思う。

Black Jazz Records - ele-king

 70年代スピリチュアル・ジャズを代表する3大レーベルのひとつ、オークランドの〈Black Jazz〉。かつてジャイルス・ピーターソンやMUROがミックスし、セオ・パリッシュがコンピを編んだことでも知られるこのレーベルのラインナップには、ずらりと名作が並んでいる。このたび、それら20枚すべてを収納したボックスセットが販売されることになった。専用ボックスには全アルバムのアートワークやシリアルナンバーが掲載されるとのこと。これはとんでもないアイテムだ。

3大スピリチュアル・ジャズ・レーベルの一つ、“Black Jazz Records”のLP BOXをVINYL GOES AROUNDにて限定販売。

〈Strata East〉や〈Tribe Records〉と並び、70年代を代表する3大スピリチュアル・ジャズ・レーベルの一つ、〈Black Jazz Records〉。

レーベルはオークランドを拠点とし、1971年から1975年にかけて20枚のアルバムをリリースしました。この珠玉の名作を最新リマスター音源で復刻。
VINYL GOES AROUNDのサイトで全てのLPをボックスセットで販売いたします。

ボックスは20枚全てのLPが収納できるサイズで作られており、裏面には全アルバムのジャケットが掲載、シリアルナンバーも記載します。また過去に制作したポスターのデッドストックも封入。15セットの限定販売となります。

[THE STORY OF BLACK JAZZ RECRODS 予約ページ]
https://vga.p-vine.jp/exclusive/

[商品情報]
アーティスト:V.A.
タイトル:The Story of Black Jazz Records
価格:¥79,200(税込)(税抜:¥72,000)
フォーマット:LP×20枚
★シリアルナンバー付き
★15セット限定販売
※期間限定受注(~2022年3月28日まで)
※限定品につき無くなり次第終了となりますのでご了承ください。
※商品の発送は 2022年5月中旬ごろを予定しています。

[収録タイトル]
・GENE RUSSELL『New Direction』(PLP-7146)
・WALTER BISHOP JR.『Coral Keys』(PLP-6997)
・DOUG CARN『Infant Eyes』(PLP-7169)
・RUDOLPH JOHNSON『Spring Rain』(PLP-7133)
・CALVIN KEYS『Shawn-Neeq』(PLP-7132)
・CHESTER THOMPSON『Powerhouse』(PLP-7155)
・HENRY FRANKLIN『The Skipper』(PLP-7137)
・DOUG CARN Feat. THE VOICE OF JEAN CARN『Spirit Of The New Land』(PLP-6996)
・THE AWAKENING『Hear, Sense And Feel』(PLP-6998)
・GENE RUSSELL『Talk To My Lady』(PLP-7136)
・RUDOLPH JOHNSON『The Second Coming』(PLP-7761)
・KELLEE PATTERSON『Maiden Voyage』(PLP-6775)
・WALTER BISHOP Jr.『Keeper Of My Soul』(PLP-7760)
・THE AWAKENING『Mirage』(PLP-7200)
・DOUG CARN Feat. THE VOICE OF JEAN CARN『Revelation』(PLP-7170)
・HENRY FRANKLIN『The Skipper At Home』(PLP-7199)
・CALVIN KEYS『Proceed With Caution!』(PLP-7781)
・ROLAND HAYNES『2nd Wave』(PLP-6780)
・CLEVELAND EATON『Plenty Good Eaton』(PLP-6787)
・DOUG CARN『Adams Apple』(PLP-7782)

Sista Rap Bible - ele-king

 新たな切り口でヒップホップの歴史を追う書籍が刊行されている。その名も『シスタ・ラップ・バイブル──ヒップホップを作った100人の女性』。男性優位で語られることの多いヒップホップ史において、ロクサーヌ・シャンテからソルトン・ペパ、クイーン・ラティファなどなど、じつはヒップホップは女性たちが作ってきたものでもあったことに光を当てる1冊だ。カラーのイラストをふんだんに利用したぜいたくな本に仕上がっている。著者はNYのライター、クローヴァー・ホープ。訳者は『ヒップホップ・ジェネレーション』の翻訳などで知られる押野素子。初心者も上級者もチェックしておきましょう。

ヒップホップは、優れた女性ラッパーたちが作ったものでもあった──
これまで語られることのなかったその歴史をクールなイラストと共に紹介する2020年代のヒップホップ・バイブル!

C’mon girls,
さあ、男たちに見せつけてやろう!
熱いパーティ・ショウでナンバーワンになる方法
let’s go show the guys that we know
how to become Number One in a hot party show
(PUSH IT by SALT-N-PEPA)

男性優位で語られるヒップホップ・シーン。
しかしその歴史は優れた女性ラッパーが
作ったものでもあった──。

女性ラッパーの活躍をイラストとセットで紹介し、
これまでは語れることのなかった歴史を描いた、
斬新で新しいヒップホップの教科書が登場!

■シーン黎明期に暗躍した女性ラッパーの闘争から、先駆者ロクサーヌ・シャンティの活躍、そして彼女に続くソルト・ン・ペパ、クイーン・ラティファ、リル・キム、ローリン・ヒル、そしてニッキー・ミナージュやカーディ・B、リゾといった現在の女王までをイラストとともにわかりやすく紹介!
■ローカル・シーンを支えた女性ラッパーやワンヒット・ワンダー(一発屋)までをくまなく網羅。
■何から聴いたらいいか迷う初心者にも、最新の潮流を掴みたい上級者にもマストな一冊。
■ブラック・ライヴズ・マター以降の新しいフェミニズムを知るための教科書としても最適!

シスタ・ラップ・バイブル
──ヒップホップを作った100人の女性

クローヴァー・ホープ(著)
押野素子(訳)

単行本/B5変形/240頁
ISBN:978-4-309-25676-4
Cコード:0073
2022.02.28発売
定価3,289円(本体2,990円)

【目次】
▼女子にしては上出来/Introduction: Nice for a Girl
▼女性ラッパー第1号は?/The First Women
MCシャーロック/MC Sha-Rock
ワンダ・ディー/Wanda Dee
▼ラップ・クルーのファースト・レディたち/First Ladies of Rap Crews
メルセデス・レディーズ/Mercedes Ladies
デビー・ハリー/Debbie Harry
▼白人ラップの系図/White Rap Family Tree
リサ・リー/Lisa Lee
ザ・シークエンス/The Sequence
スウィート・ティー/Sweet Tee
ロクサーヌ・シャンテ/Roxanne Shanté
レディ・B/Lady B
スパーキー・D/Sparky D
ソルト・ン・ぺパ/Salt-N-Pepa
MCライト/MC Lyte
アントワネット/Antoinette
クイーン・ラティファ/Queen Latifah
J.J.ファッド/J.J. Fad
ラトリム/L’Trimm
▼マイアミ・ベースの女性たち/The Women of Miami Bass
オークタウンズ・357/Oaktown’s 357
ミア・X/Mia X
▼女性デュオとグループ/Women in Duos & Groups
ニッキー・D/Nikki D
ビッチズ・ウィズ・プロブレムズ/Bytches With Problems
N-タイス/N-Tyce
ヨーヨー/Yo-Yo
ボス/Boss
ヘザー・B./Heather B.
レディ・オブ・レイジ/Lady of Rage
ザ・コンシャス・ドーターズ/The Conscious Daughters
ダ・ブラット/Da Brat
▼レフト・アイのライムを振り返る/A Journey Through Left Eye’s Rhymes
シルクE・ファイン/Sylk-E. Fyne
バハマディア/Bahamadia
リル・キム/Lil’ Kim
▼名前にレディがつくラッパー/The “Lady” Rappers
フォクシー・ブラウン/Foxy Brown
ノンシャラント/Nonchalant
ミッシー・エリオット/Missy Elliott
アンジー・マルティネス/Angie Martinez
チャーリー・ボルティモア/Charli Baltimore
メデューサ/Medusa
イヴ/Eve
ソレイ/Solé
レディ・ラック/Lady Luck
ローリン・ヒル/Lauryn Hill
ヴィータ/Vita
キア/Khia
トリーナ/Trina
ラ・チャット/La Chat
アミル/Amil
ショーナ/Shawnna
レミー・マー/Remy Ma
ニッキー・ミナージュ/Nicki Minaj
アジーリア・バンクス/Azealia Banks
カーディ・B/Cardi B
▼女性ラッパーの未来/the future

著者

クローヴァー・ホープ
ブルックリンを拠点とするライター/編集者。Vogue、Elle、The New York Times、XXL、Village等で執筆し、現在はJazebelに勤務、NYUでライティングを教える。

押野素子(オシノ モトコ)
翻訳家。ハワード大ジャーナリズム学部卒業。ワシントンD.C.在住。訳書に『フライデー・ブラック』『私の名前を知って』『MARCH』『ヒップホップ・ジェネレーション』ほか。

John Cage, Apartment House - ele-king

 実験音楽や即興を中心とする英国のレーベル、〈アナザー・ティンバー〉が2021年8月にリリースした4枚組ボックス・セット。当時75歳のジョン・ケージが1987年から亡くなるまでの1992年に取り組んだ最晩年の楽曲群『Number Pieces』全43曲のうち、“Four”から“Fourteen”までを英国の現代音楽アンサンブル・グループ、アパートメント・ハウス (Apartment House)が演奏している。このボックスセットに収められているどの曲も基本的に音の引きのばしでできているので、なんとなく聴いている分にはとりとめのない印象だ。実際、どのトラックを再生しても、そこから聴こえてくるのはなんらかの楽器の音が放つ、ただまっすぐな響きとその重なり合いのみである。これらの曲を「ドローンのような」と表することもできないわけではないが、現代音楽の精鋭たちが奏でるこの一様なテクスチュアには思いのほか深い意味が込められているらしい。

 ケージの『Number Pieces』はそれぞれの曲のタイトル、つまり数字がその曲を演奏する人数を表している。例えば“Five”は5人で演奏する曲だ。“Five2”の場合は“Five”シリーズの2番目の曲を意味し、同じく5人で演奏する。しかし、編成については曲ごとに若干の違いがある。“Five”は演奏楽器が指定されておらず、5人の奏者であればどんな楽器で演奏してもよいし、声でも演奏できる。このボックスセットで“Five”はディスク1の1曲目に収録されており、ヴィオラ、アコーディオン、コントラバス、ファゴット、バス・クラリネットによるアンサンブルが演奏している。対して“Five2”(ディスク1、2曲目)には風変わりな5重奏−コールアングレ、クラリネット2人、バス・クラリネット、ティンパニ−が指定されている。個々の楽曲の編成についてケージは意図を明確にしていないが、おそらく彼はあまり慣習的ではない編成が生み出す新鮮な音の響きを期待していたのだろう。
 『Number Pieces』シリーズにとって、数 (number)は曲のタイトルだけでなく曲の構成や演奏方法にも深く関わる重要な要素だ。1981年頃にタイム・ブラケットという作曲技法を考案したケージは、この技法を『Number Pieces』シリーズに用いた。タイム・ブラケットは時間の長さを括弧などで囲って区切ることを意味する。例えば60分にもおよぶディスク4の2曲目“Eight”のトランペットのパートには、F#の音の両端に8’05” – 8’35”と8’25” – 8’55”のタイム・ブラケットが書かれている(Illustration 1参照)。この場合、左端のタイム・ブラケット、8’05” – 8’35”に従い、曲が始まってから8分5秒~35秒までの間にF#の音を演奏する。そして、そのF#は右端のタイム・ブラケット、8’25” – 8’55”に従って8分25秒から55秒の間に終わらせる。演奏者はストップウォッチを見ながらタイム・ブラケット内でのタイミングを計る。基本的な決まりはこれだけである。タイム・ブラケットの範囲内であれば、その音を長くのばしてもよいし、逆に短めに鳴らして終わることも可能だ。音の強弱や抑揚といった音色にかかわる要素も特定の指示がない限り演奏者に委ねられている。演奏する人数が多ければ多いほど、つまり“Five”よりも“Six”や“Seven”の方が多層的な音の響きを生み出す。その様子をケージが愛したきのこに例えるならば、演奏者が多いほど音の胞子も広範囲に散らばり、絶えず色々な音が鳴り響いている状況が展開される。アパートメント・ハウスのメンバーの人数の都合から、このボックスセットに収録されているのは“Fourteen”が最大人数の楽曲だ。他の『Number Pieces』シリーズの楽曲を見てみると、オーケストラのための“108”(1991)という大きな編成もある。
 タイム・ブラケット自体のルールは単純だが、より多様な音響を引き出すためにケージは演奏指示をいくつか記している。ディスク1の5曲目“Five3”とディスク3の5曲目“Ten”は、通常の調律よりも狭く分割された微分音で演奏するよう指示されている。こうすることで曲全体が十二平均律とは違った響きを生み出す。アパートメント・ハウスの演奏者たちはこの指示にしっかりと応じており、普段のチューニングとは違った響きを聴かせてくれる。
 トランペット、シロフォン×2、ヴァイオリン×2、チューバ、ヴィオラ、チェロ、ファゴット、オーボエ、クラリネット、フルート、トロンボーンの13人の奏者で演奏されるディスク3の5曲目“Thirteen”も特徴的な曲だ。基本的にタイム・ブラケットが指示するのは単音のひきのばし(ピアノ等の鍵盤楽器の場合は和音も含まれる)だが、“Thirteen”ではタイム・ブラケットのひとつのシステムに複数の音符が記されている(Illustration 4参照)。このような箇所では記された全ての音を順番に演奏しなければならず、音が1つの音から次の音へと移っていく。静止した印象を与える他の曲と違い、“Thirteen”には音の動きやゆらぎをはっきりと感じ取ることができる。
 タイム・ブラケットをはじめとして、単純な仕組みやルールが柔軟に作用して思いがけず豊かな音の響きや効果を生み出すケージの晩年の記譜法は「耐震構造(earthquake proof)」に喩えられている。『Number Pieces』の場合、タイム・ブラケットが強固な基盤や土台として機能し、その内部で可変的な音の世界が繰り広げられる。
 『Number Piece』シリーズでケージは「アナーキーなハーモニー」という概念を打ち出し、実践した。西洋音楽におけるハーモニー(和声)は、調性システムの上に成り立ち、それぞれのコード(和音)が特定の役割や機能を持つと考える。トニック(主和音)とドミナント(属和音)という名称からわかるように、機能和声といわれる和声体系のなかでは、和音と和音との関係は階層関係や主従関係にある。このような関係性のなかで和音を配置してひとつの流れを作ることを和声法という。ケージはこの慣習的な和声の考え方に対して若い頃から反発していた。まだ20代だった彼に和声法を教えていたアルノルト・シェーンベルクは、ケージには和声の感覚がなく、このまま彼が作曲を続ければ、やがて大きな壁に直面するだろうと指摘した。これを受けてケージは壁に頭を打ち付けた。この有名なエピソードは伝統的な和声、さらにいえば伝統的な音楽の慣習や規則に対するケージの態度を象徴している。以来、長きにわたってケージの音楽に和声の要素は希薄だったが、晩年にさしかかった彼は独自の和声概念「アナーキーなハーモニー(anarchic harmony)」にたどり着く。
 「アナーキーなハーモニー」の「アナーキー」は辞書通りに、中心や階層関係のない無政府状態や無秩序を意味する。「ハーモニー」は音楽用語としての和声や音の響きと、事物が混ざり合って調和した状態のふたつの意味を持つ。『Number Pieces』のそれぞれの曲がタイム・ブラケットの範囲の中で様々な音を奏でる。高い音、低い音、金管楽器の音、打楽器の音、短い音、長い音、微かな音、力強い音など、様々な音がタイム・ブラケットという共通の場に集う。そこには機能和声に見られる階層構造も主従関係もなく、ただ音が鳴り響く。このような音の重なり合いをケージは「アナーキーなハーモニー」と呼んだ。アナーキーなハーモニーが提示するのは音楽に限ったことではなく、ケージは理想的な社会のあり方をこのハーモニーを介して追求しようとした。1988年に行われた講演で、ケージは音楽の演奏が望ましい社会の姿を描く可能性について語っている。

 音楽が他の芸術と違うのは、音楽がしばしば他者を必要とすることだ。音楽の演奏は公共や社会的な場である。したがって、なんらかの曲を演奏することは社会のメタファーになりうるし、私たちが望む社会の姿を演奏に反映させることもできる。現在、私たちはよい世界に生きているとは言えないが、私たちが生きたいと願っている世界を投影した曲を作ることができるだろう。これは文字通りの意味ではなくて喩え話だ。楽曲を、あなたたちが生きてみたい社会の表象と見なすことだってできるはずだ。
(John Cage, I-VI, Cambridge: Harvard University Press, 1990, pp. 177-178.)

 音楽を公共的な芸術と考えていたケージにとって、誰かと誰かが共に音を奏でる行為は社会的な行為に他ならない。指揮者とオーケストラとの関係のように、慣習的なクラシック音楽の制度も社会のあり方を反映しているが、ケージが目指したのは中心点のないアナーキーな社会だった。『Number Pieces』では、演奏者はタイム・ブラケットの基本的なルールを守っていれば、音を鳴らすタイミングや音の長さを自分で決めることができる。もちろん、他の演奏者と無理に足並みを揃える必要もない。誰かと音のタイミングを合わせたい場合は、隣の人とアイコンタクトを取ることができる。社会には単独行動が好きな人もいれば、誰かと一緒に行動したい人もいる。アナーキーな社会ではどちらも受け入れられる。自分と違った考えや方法を排除せず、異質な要素の混ざり合いがすばらしい効果を生むことを期待する。曲が演奏されているほんの束の間かもしれないが、アナーキーなハーモニーによって、私たちはケージが目指した社会の姿を疑似体験しているのである。このように考えながら再び演奏を聴いてみると、次々と現れては消えていく数々の音がとても興味深い現象として聴こえてくる。
 プロデューサーのサイモン・レイネルは、アパートメント・ハウスのメンバーと編成や演奏方法などを協議しながら録音を進めていったとライナーノーツに書いている。このボックセットはCovid-19による様々な制限のさなか、2020年8月から2021年5月の間に録音が行われた。演奏者たちが顔を合わせることができず、やむをえず別々に録音し、ミックスの過程でそれぞれの演奏を一体化させた曲も数曲含まれている(それがどの曲なのか明かされていないが)。この類の音楽は、曲の特性や演奏技術だけでなく、その音楽が提示する問題意識を演奏者と聴き手がどれほど共有できるかも大事だ。アパートメント・ハウスが聴かせる音の響きに私たちは何を聴き取り、想像するだろうか。

interview with Francesco Tristano - ele-king

バッハは生涯一度もドイツから出たことがなくてね。110パーセント、ドイツ人ってひとで。ところが彼は世界じゅうの音楽を知っていた。イタリア音楽にも、イギリス音楽にも非常に興味を抱いていた。あの頃からもう、音楽は国境を越えていた、ということ。

 デリック・メイカール・クレイグとのコラボで知られるピアニスト、フランチェスコ・トリスターノ。2017年にはグレン・グールド生誕85周年を祝うコンサートに坂本龍一アルヴァ・ノトフェネスらとともに出演(翌年ライヴ盤としてリリース)、エレクトロニック・ミュージックとの接点を有する稀有なクラシック音楽家だ。その大きな特徴は感情を揺さぶるメロディと、クラブ・ミュージックのような躍動感あふれる鍵盤叩き・指使いにある。
 新作のテーマは古楽。ざっくり言えばバロック以前、中世やルネサンスの西洋音楽を指す用語だ。しかし解釈は一様ではなく、バロックを含めるケースもあるらしい。今回トリスターノがとりあげているのはピーター・フィリップス(1560頃~1628)、ジョン・ブル(1562頃~1628)、オーランド・ギボンズ(1583~1625)、ジローラモ・フレスコバルディ(1583~1643)といった、ちょうどルネサンスからバロックへの移行期(16世紀終わり頃から17世紀初頭)に活躍した作曲家たちである。フレスコバルディ以外はブリテン島の出身だが、当時の西洋ハイ・カルチャーの中心のひとつはフランドル(現在のオランダ、ベルギー、フランスにまたがる地域)だったため、ギボンズ以外はみな当地と深い縁を持っている(イギリス版チェンバロにあたるヴァージナルの音楽を手がけている点も共通)。
 まあなんにせよ、一般的な西洋クラシック音楽のイメージを特徴づけている狭義の調性(ハ長調とかニ短調とか)がはじまったのはバロックからなので、いわばその黎明期に活躍したひとたちと言えよう。その後クラシック音楽は長い調性の時代を経て無調へと至り、さらにはテープの切り貼りや極小単位の反復(調性の復活)、偶然性の導入など数々の前衛的試み・実験を繰り広げてきた。それら20世紀後半の「前進」を経て、いま古楽に向き合うことはなにを意味するのか?
 情感豊かな自身のオリジナル曲のあいまに、古楽や古楽を独自にアレンジした曲を織り交ぜつつ、他方でエフェクトも多用した『On Early Music』は、もしかしたらその答えのひとつなのかもしれない。今日的な引用精神? 失われた過去の復権? いやいや、パンデミックで移動が困難になった現代、鍵はどうやら「越境」にあったようだ。

原曲はヴィヴァルディだけれども、バッハはそうだとすら言わなかった。過去の時代がコピーレフトだったとしたら、現在の我々はコピーライトの時代を生きている。何もかも守られているし、ぼくたちはさらなる境界線を引いているわけ──知的財産権、ソフトウェアの知的所有権等々、いまやなんだってそうだ。で、ぼくはそれには反対でね。

お住まいはいまもバルセロナですか?

フランチェスコ・トリスターノ(以下FT):バルセロナとルクセンブルクを往復する状態だね。だから正直、いまの自分がどこに暮らしているのか、我ながらよくわからなくなってる(苦笑)。それに、ぼくは頭のなかでは常にどこか他のところにいるしね……。というわけで、いま取材を受けているのはルクセンブルクからとはいえ、ご覧の通り(と、ZOOM画面の背景に使われていた世界地図を振り返って)全世界が背後に広がっているわけで、ぼくはいたるところにいるし、と同時にどこにもいないんだ(笑)。

ルクセンブルク、あるいはスペインのコロナはどのような状況なのでしょうか? 人びとは自由に動け、買い物などは普通にできるのか、音楽イベントは開催されているのか、ロックダウンはあるのか、など教えてください。

FT:ああ、現時点で移動/外出規制はないね。バルセロナ、ルクセンブルク両国で規制はないけれども、唯一、いまも起きるのは──ぼくの子どもたちはまだ学童でね──学校で感染者が出たら、生徒は一定期間自主隔離することになる。感染例の数次第だけれども、2週間前に我が家も10日間、自宅で過ごした。学校で感染者が出たからね。でもまあ、ぼくたちもこの状況に慣れつつある──というか(苦笑)、世界のいまの働き方/動き方、そこにもうすっかり慣れっこになっているし。ただ、今回は欧州内での移動はそれほど規制が厳しくないから、そこはいい点だね、自由に動ける。

坂本(以下、□):音楽イベント、コンサート/リサイタルの開催状況はいかがでしょう? お客を入れて演奏はできるんですか?

FT:ああ、その土地次第で可能だよ。国ごとに状況は異なるわけだし、というかおなじ国でも、各地方によってちがう。たとえばドイツで言えば、エッセンといったドイツ北部は問題なしでも、バヴァリア(=バイエルン)地方のドイツ南部はたしか25パーセントしか観客を入れないといった具合だし、本当にどこにいるかに依る。スペインとルクセンブルクのカルチャーへの対応はこれまで非常によかったね、というのもスペインは、クラシック音楽とエレクトロニック音楽、そのどちらの会場も最初に再開許可した国のひとつだったから。たしか現時点では、エレクトロニック・ミュージックのイベントに関してはまだ規制があって、クラブやフェスの運営はむずかしいけれども、そちらもじきにノーマルな状態に戻るだろう、そう思っている。

今回の新作のきっかけになったのは日の出の時間帯の独特の「エネルギー」とのことですが、早朝ランニングはいまも続けているのでしょうか?

FT:(笑)ああ、もちろん! 日の出の「マジック・アワー」はランニングに最適な時間帯だ。たとえば今日は──いまはルクセンブルクにいるから、いつもと気候がちがってね。かなり冷えるし、雨も多い。でも、今朝は朝5時に家を出たから、あたりはまだ真っ暗な頃合いで、小さなフラッシュライトを携帯して林の中を走った。で、非常にエキサイティングな瞬間に出くわしてね──というのもたまに野生動物を見かけるんだ、シカだの、コウモリだの……。

(笑)いいですね!

FT:でも、今朝出くわしたもっとも美しいアート、それは鳥たちのさえずりを耳にしたことだった。いまは日の出の時刻も少し早まったとはいえ、少し前まで、本当にまだ朝が暗くてね、というのもルクセンブルクはかなり北、北緯49度に位置するから(訳註:北海道よりやや緯度が高い)。っていうか、きみ(通訳)はロンドンにいるから、それ以上に北だよね……。ともあれ、こちらは冬は朝8時頃まで明るくならないんだ、最近は8時より少し前に明るくなるようになったけれども。というわけで、いまの時期に早朝ランニングに出かけると、完全に真っ暗なんだ。日の出を目指して普段ぼくが走っているバルセロナに較べると、はるかに暗い。ところが今朝は、鳥たちのさえずりが聞こえたし、あれは素晴らしかった。ファンタスティックだった。

ロンドンでも、「夜明けのさえずり(dawn chorus)」は聞こえます。黒ツグミ、スズメ等々、きれいな歌ですよね。私も大好きです。

FT:うんうん。

ネオ・クラシカルは単純に間違い、用語として誤りだから。ネオ・クラシカルは20世紀の非常に明確な一時期を指すものであって、ストラヴィンスキー、プーランク、プロコフィエフといった作曲家たちが、クラシック期、すなわちハイドンやモーツァルトの時代にインスパイアされて音楽を書いた時期を意味する。

素人から見ると、クラシック音楽といえばイタリアか、バッハ以降はドイツ/オーストリアが中心に見えます。今回取り上げられているのは、ジローラモ・フレスコバルディを除けばみなイギリスの作曲家です。当時の「辺境」とまで言うと語弊があるかもしれませんが、16世紀頃のあまり知られていないイギリスの古楽にフォーカスした理由は?

FT:なるほど。まあ、ご指摘の通りだよ。クラシック音楽について語るとき、我々には大抵、イギリスの作曲家たちのレパートリーは思い浮かばない。けれども、イギリスのレパートリー/イギリス人コンポーザーというのは、非常に重要な存在なんだ。あの、後期ルネサンスの時代には、音楽世界の中心はイギリス、そしてベルギーとオランダにあったし、あれらのエリアから実に多くのクリエイティヴィティが発信されていた。あの当時、マスターに修行入りし学ぶべく、たくさんの人びとが目指した地もあそこだった。で、ときが流れ、現在ぼくたちはああした音楽とはあまり繫がっていない。というのも、さっききみが言ったように、クラシック音楽界にはドイツ、そしてイタリアに、フランスのものも多いと思うけれど、こうしたイギリスや欧州の北部──いわゆる Low Lands(訳註:低地。Low Countries とも呼ばれるネーデルラント地域の意。現在のベネルクス三国に当たるエリア)、オランダやベルギー産のものはあまり多くない。ああ、たぶん、そこにフランス北部も足していいかもしれない。ところが、これらの音楽は今回の作品に本当に大きな存在であり、ぼくがフォーカスをすべて当てた対象だったし、だからもちろんアルバムにフィーチャーされることになるだろう、と。ただ、ぼくにとってイタリア音楽は避けて通ることができなくてね。もちろんぼくはイタリア系だし、子どもの頃はイタリア人の祖母と暮らしていたし。ああ、それに、イギリス人作曲家の何人かも、イタリア名を名乗ったことがあったんだよ。イタリア人であることは当時それだけめちゃクールだったし、あるいは少なくとも「イタリア風の名前」であるのはかっこいいとされた。

(笑)

FT:いや、だからなんだよ! 本当の話で、たとえばピーター・フィリップスは、「ペトロ・フィリッピ(Petro Philippi)」を自称したしね。実際、ぼくが彼のスコアに出くわしたときも、「へえ、ペトロ・フィリッピっていうのか。イタリア人らしいな、どんな音楽だろう?」と思って少しリサーチしてみたところ、「このひと、イギリス人じゃないか!」と。

(笑)

FT:本名はピーター・フィリップスだった、と(笑)。そんなわけで、その点を指摘するのは本当に興味ぶかいことだと思う──ということは、当時の音楽的なクリエイティヴィティの中心地で生まれ、これらの素晴らしい音楽(いわゆるヴァージナル音楽)を書いていた彼らですら、「イタリアはイケてる。いちばんかっこいい」と考えていた、ということだからね。だからなんだ、このアルバムの文脈にイギリス人作曲家だけではなく、イタリア音楽も少し含めるのは面白いだろう、と思ったのは。いつも思うからね、ある意味ぼくたちはみんなイタリア人というか、イタリア系はみんなの中にちょっと混じっている、と(笑)。たとえばアルゼンチンに行くと、イタリア系が多いから(訳註:人種のるつぼであるアルゼンチンの人口は植民地時代の名残りでスペイン/イタリア系が多く、その6割近くに何らかの形でイタリア系が混じっているとされる)。

オーランド・ギボンズの曲は、『Glenn Gould Gathering』(2018)でも演奏していましたね。今回もそのときとおなじ曲を演奏しています。グールドもギボンズを好んでいたようですが、あなたがギボンズに惹かれる理由は?

FT:これらのピース、古楽は本当に、音楽全般に関して言って、自分にとっての初恋の相手のひとつだったからね。出会いは小さかった子ども時代にまでさかのぼるし、古楽(early music)・早朝の日の出(early sunrise)・幼少期(early childhood)と、実際、しっかり繫がっているんだ。で、これらのオーランド・ギボンズの作品をぼくはずーっと演奏してきたし、文字通り、ニューヨークに移った1998年頃、当時16歳だったけれども、あの頃からもうプレイしてきたくらいだった。いま言われた通り、たしかに坂本龍一の「Glenn Gould Gathering」(訳註:坂本龍一キュレーションによるグレン・グールド生誕85周年記念イベント)でも演奏して、あのコンサートはライヴ・アルバムとして発表されることになった。けれども、ぼくはずっと、自分自身のスタジオ・ヴァージョンを録音したい、そう思ってきたんだ。というのも、あれは本当に、非常に長い間ぼくのそばに付き添ってきた作品だし、ただ、これまできちんとしたスタジオ録音をする機会がなかった。ライヴで演奏したことはあるし、その実況録音は発表されているけれども、スタジオ録音ではない。プロダクションという意味で、今回はまったく別物なんだ。

私は未聴なのですが、あなたはフレスコバルディも2007年のアルバムで取り上げていたようですね。バッハは彼の「音楽の華(Fiori musicali / Musical Flowers)」で対位法を学んだそうですが、フレスコバルディの成し遂げたこととはなんだったのでしょうか?

FT:それはとても興味ぶかい質問だね。というのも、フレスコバルディは──フレスコバルディは何よりまず、ぼくの最愛のコンポーザーのひとりである、と。彼のことは本当に、もっとも驚かされる、もっとも素晴らしい作曲家だと思っているし、作品の今日性と興味深さを維持するための、実に驚異的なトリックをいくつも知っていたひとだった。で、そこには連続性があるんだ。というのも──そういえば、バッハは、生涯一度もドイツから出たことがなくてね。それくらい骨の髄までドイツ人、と。

(笑)

FT:(笑)。110パーセント、ドイツ人ってひとで、生涯ドイツで暮らした。ところが、彼は世界じゅうの音楽を知っていた。イタリア音楽にも、イギリス音楽にも非常に興味を抱いていたし、だから彼は “イタリア協奏曲” やジーグ(を含む “イギリス組曲” など)といった、ドイツ原産ではないさまざまな舞曲を作ったわけ。で、バッハはとりわけフローベルガー(ヨハン・ヤーコプ・フローベルガー/Johann Jakob Froberger)の音楽に興味があってね。フローベルガーは作曲家で、ぼくの知る限り音楽的な神童で、フレスコバルディの門下生だった。だからこの、鍵盤楽器向けにどう作曲すればいいか、というスタイル面での連続性が存在するんだ。そのスタイルはときにスティルス・ファンタスティクス(訳註:stylus fantasticus。初期バロック音楽のスタイルのひとつ)とも形容されるけれども、実にクレイジーで装飾的なキーボード奏法というかな。鍵盤楽器は鍵盤を押しさえすればすごい速弾きができるし、達人奏法をやれる、と。あれは間違いなく、ぼくがフレスコバルディ経由でフローベルガーからヒントを得たところだったし、それより後の世代で言えばJ・S・バッハからもヒントを得た。こうしたことは本当に重要なんだ、音楽に国境はないと気づかせてくれるから。生涯母国から出たことのなかったバッハにも国境はなかったんだ、彼はイタリア風のスタイルで作曲していたんだしね。だからあの頃からもう、音楽は国境を越えていた、ということ。これは興味ぶかいことで──というのも、言うまでもなく日本には現在入国規制があって(訳註:取材時の2月上旬)、アーティスト本人は行くことができない。けれども、アートは渡っていけるし、音楽も自由に旅ができる。音楽は日本のひとたちにもシェアしてもらえるわけだし、この点はワンダフルだ。ぼく自身はいま、日本に行くことは許されない。けれども、ぼくの音楽が、願わくは日本の人びとのソウルに触れてくれればいいな、と。音楽はボーダーという概念を持たないし、ぼくたちにも国境/境界線はない。音楽は常に、国と国の間にまたがる境界線、それを越えて広がっていくものだから。

おっしゃる通りです。それは、音楽のジャンルにしてもおなじことかと思います。クラシック音楽、モダンなポップやロック音楽、ヒップホップにジャズ……いろいろとありますが、どれも要は、大きなひとつの「音楽」と呼ばれるものなわけで。

FT:その通り! うんうん。だからたぶん、国境であれなんであれ、固定したボーダーはない、ということ。ぼくのように、非常にコンテンポラリーな響きの古楽のレコードだって作れるわけだし──だから、関係ないっていうこと。

(笑)ですね。そんなあなたはある意味、密輸業者のいい例かもしれません。

FT:ハハハッ!

(笑)色んな音楽を密輸入/出するひと、というか。

FT:(笑)なるほど、密輸品ね。うん、それはいい。

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古楽はしばしば、本当に古めかしい、非常に難解で奇妙な、一種のオタク音楽として扱われる。ぼくにとって課題はその逆なんだ。いかにして古楽を若い人びとにとってセクシーなものにできるだろう? ということ。

ジョン・ブルもオーランド・ギボンズもおもに、パイプオルガンを用いる教会音楽か、あるいはイギリス版チェンバロであるヴァージナルを用いた世俗的な音楽(ヴァージナル音楽)の作曲家でした。今回、当時は存在しなかったピアノで演奏しており、またエレクトロニックな処理も為されています。もし、時代考証に基づいて当時の演奏形態を再現することを重視する古楽演奏家からクレームが来たら、なんと答えますか?

FT:ああ、もちろん。そうした「純粋主義者」がいることも、ある意味大切だとぼくは思っている。彼らは伝統を守っているからだし……まあ、それが音楽のピュアさを維持しているかどうか、そこは自分にはわからないけれども……。

「ピュアさ」がそもそも存在しないわけですしね。

FT:だから、そもそもあの当時の録音音源は残っていないんだし。時代考証を重視する純粋主義者たちがレコーディングした作品にしたって、果たしてそれがどこまで「当時」のままなのか、忠実なのかは、知りようがないわけで……。ほんと、ぼくたちにはわからないからね。ここで話しているのはいまから何百年も前の音楽のことだし、音源も動画も残っちゃいないから。でも、そうした批評に自分がどう答えるか? と言えば──ぼくは反応しない。クレームや批評には応対しない。ぼくは誰かに対して「思い知らせてやる」って思いや、あるいは自分の正当性を求めて音楽をやっているわけじゃないから。というか、向こうに興味があるならお互いのアイディアを論じ合うことだってできるし、そうやってどの要素が彼らを動揺させるのか、突き止めることだってできる。自分がレパートリーを不当に扱っているとは思わないし、というかその逆で、自分はレパートリーに奉仕していると思う。だから、バッハにしても──彼は他のコンポーザーの音楽を元に、それらの彼自身のヴァージョンをやったことがあった。たとえば彼のピアノ協奏曲のいくつかは、原曲はヴィヴァルディだけれども、それを異なる楽器向けに編曲したものだしね(訳註:ヴァイオリンとチェロのコンチェルトをピアノ/オルガン向けにアレンジ)。けれどもバッハはそうだとすら言わなかったし、「ヴィヴァルディから借りてきた主題」とすら明かさずに、単に “協奏曲第2番/作:ヨハン・セバスチャン・バッハ” としか書かなかった。いまや、ぼくたちはこうしたことからずいぶん隔たった地点にいるし、過去の時代がコピーレフトだったとしたら、現在の我々はコピーライトの時代を生きている(訳註:コピーレフトは、著作権は守りつつ、その二次利用や改作等を制限しないという考え方。コンピュータ・プログラムのソースコードから派生した発想)。何もかも守られているし、ぼくたちはさらなる境界線を引いているわけ──知的財産権、ソフトウェアの知的所有権等々、いまやなんだってそうだ。で、ぼくはそれには反対でね。さっきも話したように、音楽は境界線知らずだと思うし……もちろん、存命中のアーティストの音楽をサンプリング音源として無断使用する、それは問題だ。そこは明解にすべきだと思う。事実、ぼく自身、その点は非常にクリアにしているし──たとえぼくの利用する、あるいは借りてくる音楽の作家、彼らはとっくの昔に、何世紀も前に亡くなっていても。そうであっても、ぼくは “フランチェスコ・トリスターノのガリヤルド” ではなく、“ジョン・ブルのニ調のガリヤルドによって” と呼ぶ。ぼくはたしかにその音楽を用いているけれども、と同時にぼくはそこに揚力を与え、アップデートしてもいる。そうやって、古いものに文脈を作り出しているんだ。それはとても大事なことだと思う……これはレパートリーの別の活用法だ、ということであって、ぼくにはすぐに物事を「ダメだ」と決めつけるような批判的なところは一切ない。だから人びとに対しても、了見が狭いノリで批判しないことを期待する。それは、ぼくが音楽に対して自由に接しているからだし、もちろん、音楽は自由。音楽は、いったん楽譜に残されてしまえば、「どういう響きになるか?」なんて気にしないからね。というか、これらの作曲家たちは、自分の書いた作品が500年後も演奏されているなんて、考えすらしなかっただろうな。そんなわけで、うん、ぼくは今回取り上げた音楽で非常に自由にやらせてもらったし──もちろん、人びとにぼくの考え方に同意してもらうよう、彼らに強制するのは無理な話だし、中にはこの作品に多くの批判点を見出すひともいくらか出てくるのかもしれないよ? だけど、それはオーケイ、構わないんだ。自分の音楽の作り方は正しい、と証明する必要はぼくにはないと思っているし、そうした批判にわざわざ答えなくていいと思う。

新作のテーマはタイトルどおり古楽ですが、ご自身作曲の5曲は、現代的な情緒を表現しているように感じ、古楽的ではないように聞こえました(とくに8曲め “リトルネッロ” と14曲め “第2チャッコーナ”)。むしろ、ご自身の曲のあいまに、思い出のように古楽が挟まれている、という印象です。このような構成にしたのはなぜ?

FT:なるほど。今回のアルバムの取り組みで、ぼくは三つの異なる音楽制作の手順を踏んだ。ひとつは、古楽を相手に、書かれたままの100パーセントの形で演奏し、何も足さず何も引かず、忠実に演奏する、というもの。ふたつめは、古楽作品を用いて、そこから別の何かをリクリエイトする──ただし、原材料におなじものを使って。それに当たるのが “クリストバル・デ・モラレスの「死の悲しみが私を取り囲み」によって” や、“ジョン・ブルのニ調のガリヤルドによって”、“ジローラモ・フレスコバルディの4つのクーラントによって” になるし、これらの楽曲では異なるスタジオ技術を使い、様々な要素も足し引きし、もっとこう、「リミックスした」というのに近いと思う。三つめは、ぼく自身のコンポジション。そのすべてで古楽からインスピレーションを受けているし、中には非常に明確な「これ」という場合もある──ごく短い、ちょっとした要素だけれどね、ベース・ラインや、とある和音面のカデンス、あるいはリズムということだってある。たとえばチャッコーナは、音楽を回転させていくリズムのことだ。というわけで、これら三つの手順が『On Early Music』のトラック・リストを構成しているわけだけれども、聴いたひとの何人かからこんなことを言われたんだ──「何がすごいって、どれがきみの曲で、どれが古楽で、どれが新しい響きを持つものの昔の音楽なのか、わからなくなるところだ」ってね。すべて混じり合っていて、混乱してしまう、と。で、ぼくは言ったんだ、「それこそまさに重要なところ。このアルバムのポイントがそれなんだ」と。境界ははっきりしていない、というのかな? だって、境界線は存在しないから。これは一部に新しい音楽、ぼくの音楽も含まれる、古楽のアルバムだ。けれども本当のところ、これはぼくの音楽であって、ぼくの音楽の作り方。だから今回の音楽では、古楽を演奏するのであれ、古い音楽にインスパイアされた音楽を自分で新たに書くのであれ、古楽をベースにそれをリミックスする/自己流のコンテンポラリーなヴァージョンを作るのであれ、非常に自由にやったね。

ご自身のピアノにエレクトロニクスを合わせるとき、もっとも注意を払っていること、または苦労していることはなんですか?

FT:そうだなぁ……そんなにむずかしくはないんだよ。だから、ぼくにとってはそれらもすべて原材料みたいなものだし、その意味では料理をするのに近い。

(笑)

FT:たとえばぼくがキッチンに立つと、色んな食材を使って料理する。オリーヴ・オイルも使うし、ニンニク、塩……とさまざまな材料を用いて、実に多彩な結果が生まれてくる。音楽を作るときもそれとおなじなんだ、ぼくの手元には材料──もちろんニンニクやオイルじゃないけれども──リズム、メロディ、サウンドの音色、ハーモニー等があるし、それらの材料をちがうやり方で混ぜることで色々な成果が生じる、と。音楽の美しさがそれだね。で、その質問に関して言えば、たとえばこのアルバムではすべてのサウンドが、ひとつ残らずピアノでクリエイトされている。シンセサイザーもドラム・マシンも使っていないし、ほかの楽器は一切使わずピアノのみ。けれどもいったんピアノのサウンドを録ったところで、ぼくがスタジオを用いて何をするかと言えば、それらのサウンドに手を加え、別の形に変えることができるようになる。これもまた、ぼくたちは境界をぼやかしているということ、アコースティック・ピアノとは何か? エレクトロニックなスタジオ技術とは? というふたつの境目を曖昧にしているってことなんだ。ぼくの好きなのがそれなんだ、そうやって自分のサウンドをクリエイトするのが大好きだし、過去10年以上にわたりやってきたこともそれだ。だから、それらのテクニックを行き来しながら作業をしているとき、何かがここで終わり、そして別の何かがはじまる……という境目はあまり明瞭ではないんだ。

クラシック音楽とエレクトロニック・ミュージックを融合した音楽を指すときに、しばしば「モダン・クラシカル」ということばが用いられます。この語がはらむ矛盾について、どう思いますか?

FT:まあ……いいんじゃない(苦笑)? 素晴らしい形容ではないけれども、ただ、「ネオ・クラシカル」と呼ばれるよりはいいと思う。というのも、ネオ・クラシカルは単純に間違い、用語として誤りだから。ネオ・クラシカルは20世紀の非常に明確な一時期を指すものであって、ストラヴィンスキー、プーランク、プロコフィエフといった作曲家たちが、クラシック期、すなわちハイドンやモーツァルトの時代にインスパイアされて音楽を書いた時期を意味する。とはいえ、彼らは和音やオーケストレーションを過去から変え、それがネオ・クラシカル=新古典主義になった。本来の意味はそれだし、だからあのタームだけだな、ぼくが「それはちがう」と感じるのは。それに、「クロスオーヴァー」もあんまり好きではない。というのも、あれもまたはっきりした意味のある用語だし、あれはたしか60年代後期~70年代初期にかけて……いや、50年代後期からだったかな? ともかく、ジャズ・ミュージシャンの名声が高まり、彼らが初めてクラシック音楽のコンサート・ホールで演奏するのを許されたときのことを意味する。多くはアフリカン・アメリカンのミュージシャンだった彼らが、装いも変え、白人聴衆を相手にクラシック音楽の会場で演奏するようになり、カーネギー・ホールでジャズが演奏されるようになったのもここからだった。クロスオーヴァー(横断)が指すのは、そのことだ。だから、その本来の意味とは較べようがないと思うね、そこにはもともと、非常に異なる社会的なニュアンス・文脈がふくまれていたわけで。で、モダン・クラシカルという言葉は、たしかに矛盾している。けれども、この世の中に矛盾することはいくらだってあるわけだし。ぼくたちも日々、数限りない矛盾と関わっているんだし、そう考えれば、モダン・クラシカルはぼくとしても許せる矛盾だし、と。それに「ニュー・クラシカル」もありだし、「コンテンポラリー・クラシカル」だって大丈夫。っていうか、たぶんコンテンポラリー・クラシカルがぼくのいちばん好きなタームだろうな、というのもあれは、コンテンポラリーな音楽でありつつ、アコースティックなサウンドを思い起こさせる何かの備わった音楽、という意味になるから。だけど、ほんと──ごく正直なところを言わせてもらうと、ぼくはこれらの言葉を、まったく気にしちゃいないんだ。

(笑)

FT:これらのいろんなレッテルはね。さっきも話したように、音楽は自由を意味するし、だからぼくたちにレッテルは不要。ミュージシャンとしてのぼくたちには、必要ない。まあ、もしかしたら、レコード・レーベル、あるいは音楽雑誌にとっては、受け手の注意を何かに向けて喚起するためにレッテルを貼る必要があるのかもしれないよね? ただ、我々コンポーザー、パフォーマー、音楽家にしてみれば、レッテルは要らないんだ。

ぼくたちは音楽的に何もかもが起きた後の、汎エヴリシング的な時代に生きている──ストリーミングのアプリを持っていれば900年ぶん近いレパートリーを聴くことができるし、しかもワン・クリックで済む。それはグレイトな点だけれども、同時に危険な点でもある。というのも、ぼくたちはフォーカスを失ってしまうから。

クラシック音楽の歴史は前進の歴史でした。20世紀後半にはテープを用いた音楽、偶然性の音楽など、さまざまな「前衛」と「実験」がありました。それらを経た後の現代において、古楽に取り組むことはどのような意味を持ちますか?

FT:たぶん、その理由のひとつは、古楽はしばしば、本当に古めかしい、非常に難解で奇妙な、一種のオタク音楽として扱われるからじゃないかと。要するに、マニアックな古楽ファンのために演奏されるマニアックな音楽、というか。けれどもぼくにとっては、課題はその逆なんだ。いかにして古楽を若い人びとにとってセクシーなものにできるだろう? どうやったらアクセスしやすく、かつ、彼らにとって魅力的な音楽にできるだろう? ということであって。そうすることで、彼らにも「わぁ、知ってすらいなかった、こんな音楽の世界がまるごとひとつあるとは!」と気づいてもらいたい。きみの言うように、ぼくたちは音楽的に何もかもが起きた後の、汎エヴリシング的な時代に生きているよね──ストリーミングのアプリを持っていれば600年ぶんのレパートリー、いや、グレゴリオ聖歌からはじまる900年ぶん近いレパートリーを聴くことができるし、しかもワン・クリックで済むわけだから。しかも、きみが携帯電話のアプリでスピーカーから音楽を流している一方で、兄弟、あるいは母親も家の中でおなじことをやっていて、でも、彼らは別の時代の別の音楽を聴いている。そうやってふたつの音楽が混ざり合うわけで、いまはミックス・エヴリシングな、何もかもが一斉に起きている時代だ、と。で、それは今日(こんにち)のグレイトな点だけれども、と同時に、ある意味危険な点でもある。というのも、ぼくたちはフォーカスを失ってしまうから。なんだってワン・クリックで聴くことができるとなれば、ぼくたちのアテンション・スパンだって15秒とか、30秒に縮まってしまうだろう。で、今回やったレコーディング作業でぼくが気に入っている点のひとつは、それがかなり特定されていたところでね。ぼくのとてもオープンな、あるいはフリーで不特定な、と呼んでもらってもいいけれども、そういう音楽の作り方においては、あれはかなり厳密だった。というのも、本当に自分の注意力・関心のすべてをあれらのレパートリー群、500年も前に生まれたものに対して注いだわけだから……。けれども、あの音楽を作ったのは2021年であって、こうして2022年に発表することになったわけで、うん、そこにはきっとコンテンポラリーな魅力があるはずだよ。

2年ほど前のインタヴューで「ふだんテクノやエレクトロニック・ミュージックを聴いているひとにおすすめの、最近のクラシカルの音楽家を教えてください」と質問したところ、ブルース・ブルベイカー(Bruce Brubaker)を推薦してくださいました。今日もまたおなじ質問をしたとしたら、答えもおなじになりますか?

FT:(笑)音楽を作っている友人はたくさんおすすめできるよ! 音楽における自由に関するぼくの視点を共有している友人たち、特にクラシック音楽界の人びとを──まあ、他にいい形容がないからそう呼ぶけどね、「クラシック音楽界」って、なんのことやら(苦笑)。そうだな、ちょっと考えさせてくれる? ここ最近、自分がよく聴いている音源のひとつと言えば……待って、携帯をチェックしてみるよ(と、端末を引っ張り出し画面をスクロールする)……ストリーミングのアプリを起動しようとしてるんだけど、少々時間がかかっていて……。

テクノやエレクトロニック・ミュージック好きなひとにおすすめのクラシック作曲家、ではどうでしょう?

FT:(携帯画面を眺めながら)オーケイ! そうだね、最近ぼくが聴いているのは……あ、ちなみにひとつだけ指摘すると、ブルース・ブルベイカーはコンポーザーではなく、彼はピアニストだよ。

失礼しました。

FT:彼は他のアーティストの音楽を演奏するミュージシャンで、たとえばフィリップ・グラス、先日85歳になったばかりのはずだけど、彼の作品なんかを取り上げている。さてと……いま、ぼくはガーション・キングスレイの音楽に非常に興味があるんだ。

そうなんですか! それは意外な……。

FT:キングスレイは世界的にとても有名な、ほとんど誰でも知っている音楽を書いたけれども、それが彼の作品だとは誰も知らない、という。とても興味ぶかいよ、この “ポップコーン” という曲は本当に有名だし、何度も繰り返し、色んな形で使われてきた。80年代にセガのヴィデオ・ゲームで使われ、テレビ番組の主題歌になったり。で、基本的に彼は世界初のシンセサイザー・オーケストラを作り出したひとなんだ、最初のシンセ・バンドをね。だから、書いたのはクラシック音楽だったのに、それをシンセサイザーで演奏したからクラシックに聞こえなかった。で、“ポップコーン” の原曲音源、1968年にレコーディングされたと思うけど、あれはまるでつい昨日作られたもののように響く。本当にタイムレスな音楽だし、「音楽は時間を超越する」の実に素晴らしい例じゃないかと思うよ、いちいち「これはクラシック音楽」、「非クラシック音楽」、「新たなクラシック音楽」云々のレッテルを貼る必要がない、というか。音楽にはこの、「時間の枠組み/国境/スタイル面での境界線を守らない」資質が備わっているということだし、うん、ここ最近のぼくはカーション・キングスレイの音楽にかなりハマっているね。それに、彼もクラシック音楽の主題を使っていろいろやったことがあってね。ベートーヴェンの “エリーゼのために” のヴァージョンや、いくつかバッハも取り上げたり。すごくファンキィなものがあるから、ガーション・キングスレイの音楽はおすすめだ。

質問は以上です、今日は本当にありがとうございました。

FT:こちらこそ。

あながたコンサートのために日本に行ける日が、なるべく早く来るのを祈っていますので。

FT:うん、ぼくもだよ、そうなればいいね!

audiot909 feat. あっこゴリラ - ele-king

 かねてより、南アフリカでは様々なダンス・ミュージックのフォーマットが生まれてきたが、その系譜に連なる最新型がアマピアノ。それはハウスでありながら4つ打ちではない。同じ南アのクワイトやバカルディを援用しつつ、BPM110前後のスロー・テンポ、ムーディーなメロディ、なにより独特なログドラムと呼ばれるベースを構成要素とする。

 いま、アマピアノは発信地である南アフリカのみならず、ナイジェリア、UK、そして日本とその音を世界中に拡散させている。

 すでにUKでは、アマピアノがFunkyamaなるタームとして独自に進化。これはアマピアノよりもBPMが速くUK産のダンス・ミュージックとも共振した音を有する。Funkyamaについては元海賊ラジオのRinse FMもその熱気を伝えているし、UKのスクラッチャDVAは同じ南アのゴム(Gqom)を取り入れたことでよく知られるが、最近ではアマピアノへの視線も送っている。彼はすでにBBC Radio1やRA Podcastに出演し、『The Wire』の表紙も飾った。

 こと日本では、〈TYO GQOM〉クルーがアマピアノのパーティをオーガナイズ。また、2021年には南アのアマピアノ・プロデューサーであるテノ・アフリカの来日が実現している。そして、かねてよりアマピアノの普及に挑戦しているaudiot909(オーディオットナインオーナイン)が、このたびラッパーのあっこゴリラを招聘した「RAT-TAT-TAT」をリリースする。アマピアノに初めて日本語が乗った、ジャパニーズ・アマピアノの3曲入りシングルだ。ぜひチェックを。

2月28日(月)0時より各種サブスクリプションサービスより配信開始

「RAT-TAT-TAT」
Tracks:audiot909
Lyrics:あっこゴリラ
Mixing:Track1,3 - So Kobayashi &audiot909
Track2 - audiot909
Mastering:So Kobayashi
Artwork:Hiro "BINGO" Watanabe
Label:audiot909

配信URL
hhttps://linkco.re/EyU6NCfu

talking about Black Country, New Road - ele-king

 昨年話題になったブラック・ミディも、そしてブラック・カントリー、ニュー・ロード(以下、BC,NR)も、望まれて出てきたバンドというよりも、自分たちから勝手に出てきてしまったバンドだ。いったいどうして現代のUKの若い世代からこんなバンドが出てきたのかは、正直なところ、いまだによくわかっていないけれど、とにかく突然変異が起きたと。で、そのひとつ、BC,NRという7人編成のバンドのセカンド・アルバム『Ants From Up There』について語ろう。なぜなら、これをひとことで言えば、圧倒的なアンサンブルを有した感動的なアルバムで、アイザック・ウッドの歌詞は注目に値するからだ。

野田:今日はディストピアで暮らしている木津君相手だし、ビールを飲みながら話すよ。で、ブラック・カントリー、ニュー・ロード(以下、BC,NR)なんだけど、年末の紙エレキングで取材するってことで、昨年の10月に『Ants From Up There』の音は聴かせてもらっていたのね。あの号では、俺は絶対にロレイン・ジェイムズに取材したいって思っていたから、BC,NRの音をすぐ聴いたわけじゃなかったんだけど、しばらくして聴いたらびっくりしたというか、すごく好きになってしまって。ビートインクの担当者の白川さんに「自分が取材したかった」って、10月19日にメールしたくらいだよ。

木津:そうなんですか(笑)? ただ、あのタイミングで新譜が出るっていうのもまだわかっていなかったので。けっこうサプライズでしたよね。去年にアルバムが出たばかりでまだ短い期間しか経ってなかったので。しかも音楽性はけっこう変わっていたのもおおきかった。そもそも、野田さんはいまのUKからアイルランドのバンド・ブームに盛り上がってる印象なんですが、去年のBC,NRのファースト・アルバム『For The First Time』についてはどういう印象をお持ちですか?

野田:えーと、まずその「バンド・ブームに盛り上がってる」って話だけど、UKのインディ・シーンを追っているわけじゃないし、シーン自体はずっとあったわけで。それが、ここ数年で突出したバンドが出てきて、シーンが脚光を浴びていると。ただ、実際にシーンとしてどこまで盛り上がっているのか、俺にはわからない。UKの音楽業界はこの手のトレンドを作るのに長けているし。それに、サウスロンドンっていう括りとかさ、ある意味どうでもいいって言えばいい。
 ちょっと話が逸れるけど、昨年末に〈ラフトレード〉のジェフ・トラヴィスのインタヴューを載せたけど、彼はすごく重要なことを言ったよね。いまの南ロンドンには若い黒人たちがやっているジャズのシーンもあるんだって。俺なりに意訳すれば、南ロンドンは白い音楽だけがすべてじゃないぞってことだよね。その街にはジャズもあれば、ハウスもあるし、ダブステップだって、ラップだってあるだろう。UKドリルの初期型だってここから生まれてる。こう見えても俺は、90年代に雑誌をはじめたときからページをめくって白人と日本人ばかりにならないことをずっと心がけてきているんだよ。まずはそれを踏まえたうえで、今日はインディ・ロックについて話しましょう。
 で、BC,NRなんだけど、最初に言ったように、昨年末とにかく新譜を聴いて感動してさ、編集部の小林君にも「こりゃ、すげーアルバムだぞ」って言ったり、白川さんにも「こんな良いバンドだとは気がつかなかった。ちゃんと聴いていなかった自分を反省してます」ってメールしてるんだけど、あらためてファーストを聴いて、ファーストがどうこうっていうより、わずか1年かそこらでここまで進化したんだってことに驚いたかな。

木津:ふうん。

野田:バンドというものが生き物であって、わずかな時間でも進化しうるんだっていう。フィッシュマンズが『ORANGE』から『空中キャンプ』へと、あるいはプライマル・スクリームが『Screamadelica』へと変化したように。バンドって、たまにすごい速さで、リスナーが追いつけないような速さで進化することがあるよね。BC,NRは完全にそうで、ファーストからこれはちょっと想像できないよ。

木津:ファーストはまだ参照元がわかりやすく見える感じでしたよね。いわゆるポスト・ハードコアといわれるもの、マス・ロック的なものであったり。あとはユダヤの伝統音楽であるクレズマーとか。それが、アンサンブルの構成が完全に緻密かつ複雑になりましたよね。その辺りはかなり変わったところだと思います。

野田:冒頭がまずスティーヴ・ライヒだし(笑)。ライヒの“Different Train”みたいだ。勘違いしないで欲しいんだけど、ライヒを引用すれば良いってもんじゃないよ。ただ、ロックというスタイルはいろんなものをミックスできる排他性のないアートフォームなんだっていうことが重要で、こういう雑食性はすごくUKっぽいと思う。ヴァン・ダー・グラフ・ジェネレーターというプログレッシヴ・ロックのバンドがいて、最初に聴いたときはちょっと似てると思った。ドラマチックな歌い方もピーター・ハミル(VDGGのヴォーカル)っぽい。VDGGはプログレに括られるバンドなんだけど、マーク・E・スミスやジョン・ライドからも好かれたかなり珍しいバンドで(以下、しばしVDGGの話)。BC,NRは、VDGGほど複雑な拍子記号があるわけじゃないけどね。でも、管弦楽器を効果的に使ったアンサンブルには近いものがあるし、曲のなかに物語性があって、メリハリが効いていて展開も多いじゃない? 俺が普段聴いている音楽はどこから聴いてもいいような、反復性が高いものばかりなんで、BC,NRみたいなのは新鮮だったっていうのもあるのかもね。

木津:なるほど、たしかに展開の多さはポイントですね。僕は素直に初期のアーケイド・ファイアを連想しました。

野田:本人たちも言ってるよね。

木津:そうですね。いちばんいいときのアーケイド・ファイアですよ。シアトリカルになったのはおおきいと思っている。大人数でドラマティックな音のスケールを展開していくという。恐れなくなった感じがするんですよね。ファーストのころはわりとミニマルな反復で展開するのにこだわっていたところ、メロディと展開っていうのを大きく解放したことで、かなりドラマティックになった。そこはすごくいいときのアーケイド・ファイアを思わせますよね。

野田:アーケイド・ファイアよりも複雑じゃない?

木津:そうなんですけど、いい意味でのエモーショナルさというか。楽曲の壮大さが、大人数でやることの意味と直結している。

野田:アレンジが懲りまくってるよね。ときを同じくして、アメリカのビッグ・シーフもすごくいいアルバムを出したけど、木津くんの好みからいったらBC,NRよりもビッグ・シーフじゃない?

木津:まあ、ビッグ・シーフは今回のアルバムがちょっと抜きんでているので。でも、BC,NRも今回のアルバムは前作よりも断然好きです。よりフォーキーになったというか。ファーストも面白いと思いましたけど、いま聴くとちょっとぎこちない感じがあります。今回はフォーキーになったことで、管弦楽器がより生き生きしたと思うんですよ。

野田:アコースティックなテイストが打ち出されているよね。そうした牧歌的な側面と同時に激しい側面もあって、激しさの面でいうと、やっぱアイザック・ウッドの存在だよね。なんて言うか、いまどき珍しい、自意識の葛藤?

木津:そうですね、BC,NRは彼の存在が本当にデカい。

野田:ちゃんとオリジナルの歌詞がブックレットに載っているくらいだから、言葉にも重点を置いているのはたしかだね。

木津:実際、とくに海外のメディアからは歌詞も注目されてるんですよね。だからバンドの重要な部分だったと思うんですけど、残念ながらアイザック・ウッドは脱退を表明しています。だからもう、まったく別のバンドになりますよね。

野田:アイザック・ウッドは、言うなれば、「人生の意味に飢えている」タイプだよね。

木津:メンタル・ヘルスの問題でもありますよ。BC,NRは彼の自意識や懊悩を大人数のアンサンブル――それを僕はつい「仲間」って言いたくなるんですけど――が受け止めて、見守っている感じが僕は好きなので。だから、そのバランスがどう変わっていくのかちょっと想像できない。

野田:でもやっぱ、言葉が上手い人だと思う。たとえば「ビリー・アイリッシュ風の女の子がベルリンに行く」という言葉が何回か出てくる。東京で暮らす若者ではない俺にはなかなか感情移入できないフレーズなんだけれど、でもこれって象徴的な意味にも解釈できるよね。ビリー・アイリッシュもベルリンもイングランドではないっていう。自意識だけの問題でもなく、彼を取り巻く状況への苛立ちも確実にあるよね。1曲目の“Chaos Space Marine”という、個人的にいちばん好きな曲なんだけど、そこに出てくる「間違っていたすべてのことを考える(I think of all that went wrong)」ってフレーズも、印象的な言葉だよ。俺の年齢でそれをやったら洒落にならないんだけど、これはおそらくこの曲の最初のフレーズにかかっているんだろうね。「イングランドが僕のものであっても、僕はそれをすべて捨てなければならない(And though England is mine/I must leave it all behind)」。まったく素晴らしい言葉だな。

木津:うんうん。

野田:去年評価されたドライ・クリーニングの、淡白さをもって社会を冷淡に風刺するというアプローチとは対極にあるんじゃない?

木津:ドライ・クリーニングとBC,NRってすごく対極的なバンドである一方で、どっちもいまの時代をすごく見つめようとしてるなと。ドライ・クリーニングの象徴的な言葉で、「全部やるけど、何も感じない」って出てくるじゃないですか。現代って体験やモノがあふれている。ドライ・クリーニングはそれに対して何も感じないと言うけど、BC,NRむしろ感じすぎている。現代のあらゆる事象に振り回されていて、とくにファーストはそれがすごく出ていた。固有名詞の出方が尋常じゃないですよね。

野田:ああ、そうだね。それとBC,NRには、アルチュール・ランボーとかゲーテの『若きウェルテの悩み』とか、若者の特権とも言える内面の激しさっていうか、そっちの感じもあるよね。たとえば“Good Will Hunting”って曲の歌詞では、「もしも僕らが燃える宇宙船に乗っていたら、脱出船には友だちとの幼少期のフィルム写真があって、自分はそこにいるべきではない」ってあるんだよね。聴いていて、「いや、君もその脱出船に乗ってくれよ」って思うよ。

木津:たしかに……。ただ、ファースト・アルバムですごく象徴的なのは、「自分の好きなものを選び取る重荷」って表現だと思うんですね。過去があふれすぎているストリーミング時代、ひいてはインターネット時代の話で、あらゆるものがあふれかえって、しかもそれがスーパー・フラットになってることの息苦しさ。アイザック・ウッドからはそこをかなり表現していると感じます。そんな状況へのアンビヴァレントな混乱が痛々しくもあり、生々しくもあり。だから「ここから脱出できない」感じはわかる。
 野田さんはUKの音楽に関して雑食性という言葉をよく使っていて、それが良さなんだと言ってますよね。僕もその通りだと思いますが、一方で現代において雑食性というのは難しいとも思ってます。いまはストリーミング時代になり、みんなが過去のあらゆる音楽にアクセスできるようになると文脈が剥ぎ取られてしまって、いわゆるメインストリームでもジャンル・ミックスが当たりまえなトレンドがずっと続いている。そのなかでオルタナティヴな雑食性を表現するのってすごく難しいと思うんです。野田さんは、そういう意味でブラック・ミディやBC,NRの雑食性の面白さってどの辺にあると思いますか?

野田:UKの雑食性の面白さは、いろんなものに開かれてるってことだよ。それはもう、UKの音楽のずっと優れているところだと思う。俺がエレクトロニック・ミュージックが好きなのは、そこも大きい。ベース・ミュージックがそうだけど、たとえばUKゴムみたいなのは、いまの流行かもしれないけど、この音楽にはまだ更新の余地があるってことでもあって。ロックは歴史がある分、すでにいろんなことをやってきているから難しいよね。たとえばアート・ロックっていうか、60年代末から1970年前半のプログレ期のUKのロック・バンドは旧来のロックの語法に囚われず、ジャズやクラシックや実験音楽やエレクトロニクスなど、ロック以外のいろんなものを取り込んでいってその表現を拡張していったわけだよね。雑食性っていうか……、折衷主義って言ったほうが正確かもしれないね。ただ、こうしたプログレ的な折衷主義って、ポスト・パンクのそれがダブやレゲエやジャズだったりするのとは違って、ともすれば装飾的で、西洋主義的で、ファンタジー・ロックっていうか、たとえばスリーフォード・モッズが生きている現実からはまったく乖離してしまうんだけど、BC,NRはそうじゃない。サウンドだって削ぎ落とされてもいる。BC,NRで感心するのは、バンドが7人編成と大所帯なんだけど、音数がすごく整理されているっていうか、ちゃんと抑制されているところ。ブラック・ミディなんかあれだけ情報量と戯れながら、ものすごい躍動感があるでしょ。踊れる感じがあるよね。あ、でもBC,NRにあんまそういうのは感じないかな。ダンス・ミュージックからは遠いな(笑)。

木津:いや、でも彼らには舞踏音楽のクレズマーの要素があるじゃないですか。いわゆるロックとは別の文脈でのダンスを志している感じがあって、僕がストリーミングで観たライヴは、曲によってはけっこう身体を動かしたくなる感じもありましたよ。

野田:そうだね、クラブ音楽だけがダンスじゃないからね。話を戻すと、ブラック・ミディやBC,NRなんかがやろうとしていることは、折衷主義における参照性の幅を極限まで引き伸ばそうっていうことなんじゃないのかな。それはそれでアリだと思うよ。でもさ、ストリーミング時代でいろんな音楽にアクセスできることは、音楽ライターにも言えるよね。俺らが若い頃は、たとえばクラウトロックなんかを聴くには、何年もかけて毎週毎週レコード店に通っていなければ無理だったけど、いまはなんの苦労もなく聴けて。ブラジル音楽にしてもフリー・ジャズにしても。

木津:いや、本当にそうですよ。で、僕はそのことに罪悪感もあるんですよ。過去への敬意がなくなっていくんじゃないかって。それで言うと、このまえ、BC,NRは限定でカヴァーEPを出したんです。A面がアバでB面がMGMTとアデルのカヴァーです。僕はその脈絡のなさにためらってしまいました。

野田:いや、アバはいま来てるからな。本当に好きなんじゃない? でもさ、もうしょうがないでしょ。もうそうなってしまってるんだから。こういう環境が前提で生まれていくものだし、そこからはじまる何かだってあるってことに期待しようよ。

木津:うんうん。ただ、それは彼らなりの現代への批評的な態度なんじゃないかとも思う。ジャケットはCD-Rを持ってる写真なんですけど、それってつまり音楽が「コピー」されることへの皮肉でもありますよね。つまりBC,NRに関して言えば、純粋に全部良いって言うよりも、スーパー・フラットになっている状況がいいのか? という問題意識も若干あるような気がします。とくにアイザック・ウッドはそのことを考えてたと思う。

野田:だいたいアイザック・ウッドはこのあと何をやるんだろう、それはそれで興味をそそられるし。

木津:本当にそうですよね。

野田:BC,NRに文句があるとしたら、バックの演奏があまりにもうますぎるってことだね(笑)。ポスト・パンクってアマチュアリズムだからこれをポスト・パンクと言わないでほしい!

木津:わはは。まあブラック・ミディもBC,NRも、さすがにもうポスト・パンクとは誰も呼べないでしょう。ブラック・ミディもメンバーにメンタル・ヘルスの問題があって休んだりしているので、そういう感じはいまのバンドは変わってるのかなって思います。昔のバンドは追い込まれても無理やり繕ったりしていたけど。アイザック・ウッドも休んで苦しみとはまた違う表現が出てくる可能性はあるので、それは楽しみですね。

野田:アイザック・ウッドってインタヴューではどういう人なの?

木津:基本的には真面目な若者だと思うんですけど、僕が読んだものではちょっと無軌道なところもあったかもしれない。質問の意図をちょっとずらすような答えかたをしたり、そういう感じはありましたね。いずれにせよ、ファーストとセカンドがBC,NRにとって重要なアルバムになると思います。アイザック・ウッドが抜けたら、エモーションがちょっと暴走している感じはもう出てこないのかなと。これからバンドがどう変わろうとも。

野田:ヴォーカリストいれるのかな?

木津:どうなんでしょうねえ。ツアーはキャンセルになっちゃったみたいなんで、まだ方針が固まっていないのかも。あと彼らはファーストのころから、歌詞の内容や思想などをバンド内ではそれほどシェアしないと言ってました。

野田:だからコミュニティ(共同体)っていうんじゃなく個人の集まりなんだよ。それで良いと思うし、俺はBC,NRのバンドの普段着な感じも好感が持てた。いまから20年ぐらい前にもUKではインディ・ロック・ブームがあったんだけど、あのときはまだ古典的なロックンローラーを反復している感があった。そこへいくとZ世代のバンドは古典的なロックンロール気質から100万光年離れてる。それにちょっと泥臭いところもあるよね?

木津:ファーストのときにね、野田さんがブルース・スプリングスティーンの引用があると教えてくれたんですよね。

野田:そうそう、「だから木津君は気にいるんじゃない?」って。すごく適当だな(笑)。

木津:(笑)でも、そこは面白いポイントだなと。というのも、あまりにも固有名詞がランダムに出てくるし、サウンド的にも雑食的と言いつつランダム性もあるから、ちょっとナンセンスなものなのかなとも僕は思ってたんです。でもそこでブルース・スプリングスティーンの”Born to Run”を引用するのは、ある種の泥臭さのあらわれですよね。そこを発見してから、僕はBC,NRが好きになりましよ。我ながらチョロいですけど(笑)。

野田:それから俺はね、アルバムで時折見せる牧歌的な感じも好きだよ(笑)。ビッグ・シーフだって、俺あのジャケット好きだもん。動物たちが焚き火しているイラストの、ほのぼのしているやつ。それに対してBC,NRはさ、これは日本語タイトルをつけてほしかったけど、「Ants From Up There」って。『上空からのアリたち』だよ。ちょっとニヒルじゃない?

木津:たしかに。“Concorde”という曲名なんかも象徴的な言葉ですよね。昔、めちゃくちゃな速さを求めて開発されて、でも結局ものすごい費用がかかってうまくいかずに終わってしまった飛行機ですから。それもある種、もう未来が良くならないとわかっている世代の気持ちかなとは思ったりしましたね。前の世代が残した負債をどう処理していくかっていう……。

野田:未来が良くならない可能性が高いのは日本だよ。イギリスのZ世代はもっと希望を持ってるんじゃない? 絶望したり苦痛を感じるのは希望を持っているからだと思うよ。だってBC,NRの『Ants From Up There』は、素晴らしくアップリフティングなアルバムじゃないですか。

木津:そうですね。とくにアルバムの終わりのカタルシスはすごい。ラストの“Basketball Shoes”って昔からバンドの持ち曲でどんどん内容が変わっていったものなんですよ。だから、バンドにとっても思い入れのある曲だと思うんですけど、そのエモーションの爆発で第1期のBC,NRは終わったわけで……。ある特別な瞬間を共有できたことの喜びがある。だからそういう意味でも僕にとってBC,NRはすごくロマンティックなバンドで、そこにはたしかに、暗い未来にも立ち向かっていくエネルギーを感じますよ。

Alabaster DePlume - ele-king

 ロンドンには、トータル・リフレッシュメント・センターという、多くのジャズの才能たちを育ててきたライヴハウスがある。サンズ・オブ・ケメットザ・コメット・イズ・カミングがスタジオとして用いてきた場所でもある。
 サックス奏者アラバスター・デプルームも、そこに育てられたひとりだ。味わい深いサックスの音とポエトリー・リーディングを組みあわせる独自の表現は、聴く者にさまざまな情感を呼び起こさせる。そんな彼の新作『ゴールド』では、まさにサンズ・オブ・ケメットのトム・スキナーやザ・コメット・イズ・カミング作品の参加経験者が力を貸している。チェックしておきたい1枚。

エキゾチックかつ、魔法のようにノスタルジックで個性的なサウンドに注目が集まる、ロンドンを拠点に活動するコンポーザー、サックス奏者 Alabaster DePlume(アラバスター・デプルーム)。聴く者の背中を押す、愛と創造性あふれる NEW ALBUM『GOLD』を、ボーナストラックを加えて日本限定盤ハイレゾMQA対応仕様のCDでリリース!!

主な参加ミュージシャン:
Falle Nioke (西アフリカ出身のシンガー/パーカッショニスト) – voice, percussion
Sarathy Korwar (インド系ジャズ・ドラマー/パーカッショニスト) – drums, tabla
Tom Herbert (Polar Bear、Toshio Matsuura Group) – double bass
Tom Skinner (Sons of Kemet、トム・ヨークの The Smile にも参加) – drums
Danalogue (The Comet Is Coming) – voice and synths
Rozi Plain (ロンドン拠点のシンガーソングライター) – guitar
Matthew Bourne (エイヴベリー出身のジャズ・ピアニスト/作曲家) – piano

アラバスター・デプルームは、サックスを吹くパフォーマーであり詩人だ。この美しいアルバムは、人々が集い、音を出すという創造性と自発性を称揚する。UKジャズの中心地で、デプルームを育てたコミュニティでもあるトータル・リフレッシュメント・センターで2週間に渡って毎日異なるミュージシャンを招いて録音された。その穏やかなヴァイブ、“響きの良いメロディ” とトーンが聴き手を包み込む。(原 雅明 rings プロデューサー)

アルバムからの先行曲 “Don't Forget You're Precious (Official Video)” のMVが公開されました!
https://www.youtube.com/watch?v=rXE2WceZCsQ

MOJOmagazine にて、NEW ALBUM『GOLD』がピックアップされました!! 星4つのレビューを獲得!!

アーティスト:Alabaster DePlume (アラバスター・デプルーム)
タイトル:GOLD (ゴールド)
発売日:2022/4/20
価格:2,600円+税
レーベル:rings / International Anthem
品番:RINC85
フォーマット:CD(MQA-CD/ボーナストラック収録)

* MQA-CDとは?
通常のCDプレーヤーで再生できるCDでありながら、MQAフォーマット対応機器で再生することにより、元となっているマスター・クオリティの音源により近い音をお楽しみいただけるCDです。

Official HP : https://www.ringstokyo.com/alabasterdeplumegold

Pan Daijing - ele-king

 今年1月、注目すべきエクスペリメンタル・ミュージックのアルバムがベルリンの〈PAN〉からリリースされた。
 中国出身で現在はベルリンを拠点とするサウンド・アーティスト、パン・ダイジンの新作『Tissues』である。このアルバムは圧倒的ですらあった。人間というものの実存を問いつめるようなエクスペリメンタル・ミュージックとでも称すべきか。これぞダイジンが希求したオペラ=総合芸術ではないか。声とノイズを用いたノイズ・オペラ。そこには人の実存への極限的な思考がある。

 パン・ダイジンはこれまで〈PAN〉からアルバムを二作リリースしてきた。2017年の『Lack』と2021年の『Jade』の二作である。二作とも鮮烈なアルバムだが、こと『Jade』は冷徹な音響によるインダストリアル・アンビエント・ノイズと声が全編にわたって混じり合うように展開し、「ノイズ・オペラ」とでも形容したいほどの強烈な作品である。むろん『Lack』もまた「精神のオペラ」と自ら称していたようにオペラを希求し実現したアルバムだ。
 私はこれら二作品をエクスペリメンタル・ミュージックから生まれた「新しいオペラ」と考える。ダイジンは正式な音楽教育を受けているわけではない。だがオペラを作りたいと渇望し、「新しいオペラ」を作り上げた。オペラとは総合芸術である。つまりパン・ダイジンは総合作品としての音響音楽を希求している。
 2019年10月にロンドンの国立近代美術館「テート・モダン」で上演された実験的な演劇『Tissues』もまたパン・ダイジンが追求しきた声とノイズによる「新しいオペラ」の結晶といえよう(https://www.youtube.com/watch?v=PF2aGaRA-40)。
 この上演では13人のダンサー、オペラ歌手、俳優らと共に、構成、演出、デザイン、脚本を手がけたダンジンも演じていたという。地下空間の混乱のようにカオスな音響空間が生まれ、この世界の「恐怖」と直面する人間の感情が、言葉、声、ノイズによって表現されていったらしい。
 ここで気になるのは、2019年にリリースされた『Jade』との関係だ。上演と発表時期が重なっているからである。『Jade』は、2017年に『Lack』をリリースして以降の3年のあいだに制作された。ということは2019年テート・モダンで上演された『Tissues』と重なっている。となれば『Jade』と『Tissues』は、ノイズと声のオペラという意味でもコインの裏表のようなアルバムではないか。
 『Jade』では個の内面に沈み込むようなノイズ・オペラを展開し、『Tissues』では上演という形式のなか複数の演者たちとコラボレーションし、肉体と世界が拮抗するようなノイズ・オペラを生成する。この二作は対照的だ。個の内面と他者との関係性の差異とでもいうべきか。

 アルバム『Tissues』は、その上演を1時間ほどに抜粋・編集した音響作品である(いや音響劇とでもいうべきか)。
 全体の構成は4つのブロックに分けられている。音響版においては、当然ながら彼らは映像/イメージを剥ぎ取られ、それぞれが気配と声だけの存在になってしまう。われわれは音のむこうにある気配と声とノイズを聴取することになる。
 アルバム『Tissues』においては「声の存在」がノイズと共に大きな意味を果たしている。複数の「声」が交錯し、ときには反発し、やがて混じり合っていく。そうして個の存在を使い捨てにするような残酷な世界のありようが浮き彫りになるのだ。
 涙を拭うために使い捨てられる「テッシュ」と、人間を残酷に使い捨てる「世界」の「残酷さ」の問題を重ね合わせること。本作の狙いはそこだ。ここからパン・ダイジンたち自身の実存と「世界」に対する抵抗の意志がより浮き彫りになる。音響だけになった演者たちは肉体を剥ぎ取られていくことで、世界の残酷さを体現するだろう。そしてそこに無慈悲な世界の象徴のようにノイズが声に、個に、神経に、聴覚に、肉体に侵食をしようとする。
 アルバム『Tissues』は、この無慈悲な世界に、個の抗いと個の存在を突きつけ、同時に深い喪失感をも結晶させていく、その過程のような音響作品だ。闘争の音響劇である。そしてダイジンがこれまで追求してきた「世界に疎外され続ける肉体の存在」と「時間と孤独」に対する思索の結晶のようなアルバムともいえる。『Lack』と『Jade』を経てついに実現したパン・ダイジンの「新しいオペラ」が完成した。ノイズ/インダストリアル・アンビエントの完成形、それが『Tissues』だ。

 最後に記しておきたいことがある。『Tissues』は、エンプティセットのジェームズ・ギンズバーグによって録音され、ラシャド・ベッカーによってマスタリングされた。いわば10年代「尖端音楽」の覇者たちがパン・ダイジンをサポートしているという事実は重要だ。それだけでも彼女の才能がどれほど重要なものかわかるのだから。

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